太田述正コラム#2127(2007.10.16)
<日本帝国の敗戦まで(その1)>

1 始めに

 英国の著名なジャーナリストにして歴史家であるヘースティングス(Max Hastings。1945年〜)の『復讐の女神--日本のための戦い 1944〜45(Nemesis: The Battle for Japan, 1944-45)』をご紹介しましょう。
 (以下、特に断っていない限り、この本の書評である
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,2189851,00.html
(10月13日アクセス)、
http://thescotsman.scotsman.com/critique.cfm?id=1634822007
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/history/article2583903.ece
http://www.waterstones.com/waterstonesweb/displayProductDetails.do?sku=5780974
http://www.spectator.co.uk/the-magazine/books/223341/the-worst-of-friends.thtml
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2007/09/29/bohas129.xml
(いずれも10月18日アクセス)、及びこの本からの抜粋である
http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/columnists/columnists.html?in_page_id=1772&in_article_id=482589&in_author_id=464
http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/columnists/columnists.html?in_page_id=1772&in_article_id=481881&in_author_id=464
(どちらも10月16日アクセス)による。)

 この本は、第一次世界大戦及び第二次世界大戦で侵略を行い敗北して占領された諸国の中で日本においてのみ反政府活動がなかったのはなぜか、どうして日本がすぐに占領者であった米国の忠実な、ただし時としてグズな同盟国になったのか、どうしてドイツが戦後犠牲者に(選別的にせよ)補償を行ったというのに日本は過去と向き合うことすらしないのか、に答えようとしたものである、というのですが、残念ながら、この本の部分的抜粋や、書評からは、著者がいかなる回答を示しているのか、その全貌が必ずしも明らかではありません。
 そこで、将来この本を読む機会があった時に、もう一度この本を取り上げることにし、まずは、現時点で分かる範囲でこの本の内容の一端をご紹介をすることにしました。
 
2 1944年から日本帝国の敗戦まで

 1944年には6月6日に欧州で米軍を中心とする総兵力152,500人でノルマンディー上陸作戦が開始されたが、その5日後に太平洋で米軍だけの総兵力130,000人によるマリアナ諸島上陸作戦が開始された(注1)。

 (注1)この日付と兵力は、6月15日に兵力71,000人で開始されたマリアナ諸島サイパン島上陸作戦と符合しない(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
。10月16日アクセス)。どなたかご教示いただきたい。

 
 米国の対日戦争にかける決意のほどが分かろうというものだ。
 このマリアナ諸島攻防戦は、1942年のミッドウェー海戦に次ぐ、対日戦争の転換点となった。
 1944年後半までにドイツでは先の大戦全体で生じることになる死者数の半分の300万人が既に死んでいたが、日本の死者はほとんどがこの時期以降に生じたものだ。
 この時点では、対日戦の当事国は、どの国も幻想を抱いていた。
 英国は日本に勝利すれば、インドの支配を継続できるし、ビルマとマラヤも再支配することができると思っていたし、米国は支那を日本の占領から解放すれば支那を自由な社会へと変貌させることができると思っていた。
 しかし何と言っても日本の幻想は一番ひどかった。まだ勝利できると信じ込んでいたのだから。
 世界の三分の一の広さがある太平洋・アジア地域に米国は125万人の兵力を投入し、英国は40万人近くの英軍と200万人以上の英印軍を投入した。
 そして米国は103,000人の兵士を失い、英連邦は、30,000人以上の英国人、インド人、オーストリア人等の兵士を失った。
 米軍の対日戦における死傷率は欧州におけるそれの3.5倍に達した。
 とにかく、日本の兵士達の戦いぶりは凄まじかった。
 日本人達は、1941年の開戦時、ドイツ人達が1939年に開戦した時よりはるかに熱狂的だった。アジアにおいて領土を拡大し、それに反対するいかなる者にも立ち向かうとの考えは、大半の日本人達の支持を得ていた。
 これに対し、連合国側はバラバラだった。
 米国人達は、自分達達自身破壊しようと決意していたところの英帝国を、英国人達は取り戻したいだけがために戦っていると軽蔑していた。まさに当たらずといえども遠からずだが・・。
 また、米海軍は、英海軍を太平洋における戦いに加えないように努めた。
 米陸軍は、英国によるビルマ戦役は、援蒋ルートを確保することにより、中国国民党軍を助け、同軍が支那本土を日本軍から解放し、米軍が日本本土に侵攻するする根拠地を得る、という意義しか認めていなかった。
 東南アジア地域の米陸軍司令官であったスティルウエル(Joseph Warren Stilwell 。1883〜1946年)とその次のウェデマイヤー(Albert Coady Wedemeyer。1897〜1989年)は、どちらも英軍の同僚達への嫌悪と支那人への侮蔑を隠そうとしなかった。
 また、米国は蒋介石が偉大な民主主義的指導者であって戦後の四つの世界の警察官役の一つたりうるとという幻想を抱いていたのに対し、英国は蒋介石を、自分の利益だけを考えている、暴虐で腐敗した軍閥であると見ていた。
 オーストラリアは、自分達を棄てた英国と自分達を蔑ろにする米国に憤りを覚えており、英米両国との協力を最小限にとどめた。
 米軍内のいがみあいもひどいものだった。
 海軍は日本に海上封鎖だけで勝利できると信じていたし、陸軍航空部隊は日本に空爆だけで勝利できると信じており、それが空軍を陸軍から独立させる契機になると期待していた。
 誇大妄想狂のマッカーサーは全く独自に、フィリピン解放という自らの誓約の実現と個人的栄光の追求に血道を上げていた。
 米参謀本部は、米国の富と生産力のおかげで、全く優先順位をつけることなく、これらすべての希望を充足させてやることができた。
 この間、スリム(William Joseph Slim。1891〜1970年)は、辺境のビルマで日本に対する勝利とはほとんど関係のない、シンガポールでの降伏という英国の屈辱を晴らすための戦いを続けていた。もっとも、この戦いも米航空部隊の支援があったからこそ遂行できたのだ。

(続く)
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 有料版のコラム#2128(2007.10.16)「日本帝国の敗戦まで(ペリリュー島攻防戦)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
 コラム全文を読みたい方はこちらへ↓
http://www.ohtan.net/melmaga/

・・ヘースティングスの本の中から、ペリリュー島攻防戦を描いた部分を抜き出してご紹介し、それを若干補足しましょう。
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 1944年9月15日に開始された米軍のマリアナ諸島ペリリュー・・島上陸作戦は、日本本土に至る飛び石作戦の最初のものだ。
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 ・・数日で終了すると考えられた戦いは、珊瑚礁にトンネルを縦横無尽に掘って陣地とした日本軍を相手に6週間も続き、組織的抵抗が終わった後も日本兵の散発的抵抗が続いた。
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 この小さい島を占領するまでの間に米軍は小銃で弾を1,500万発、迫撃砲弾を15万発も撃ち、手榴弾を118.262個も投げた。日本兵1人を殺すのに1,500発の火砲の弾を使った。そして米軍兵士1,950人が死んだ・・。
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 このペリリュー島上陸作戦のパターンはその後何度となく繰り返されることになった。
 それは、日本軍が動くと米軍に一方的に殺戮されるが、日本軍が陣地内にとどまっている限り、掃討するのは著しく困難、というものだ。
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 戦後、日本人が中心になって再建されたペリリュー神社の境内に建てられた碑に、「諸国から訪れる旅人たちよこの島を守る為に日本軍兵士が いかに勇敢な愛国心を持って戦い玉砕したかをつたえられよ。・・米太平洋艦隊司令長官C.ニミッツ」と掘り込まれています。
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 名越自身が指摘しているというのですが、この詩文は、古典ギリシアの・・テルモビレーの戦い・・の・・碑の詩文を彷彿とさせます。
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 ペリリュー島攻防戦は、後の硫黄島攻防戦等とともに、まさにこのテルモピレーの戦いに勝るとも劣らない、敗者の戦いの金字塔であると言えるでしょう。

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