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太田述正コラム#2147(2007.10.26)
<民主党の最大の弱点>

1 始めに

 コラム#57は2002年に、民主党の機関誌「DJ民主」に掲載された拙稿を転載したものであり、コラム#58は、その直後に民主党のシンクタンク「シンクネット・センター21」の機関誌「研究レポート」に掲載された拙稿を転載したものです。               
 今回は、この二つの論考をめぐる裏話をご披露しましょう。
 民主党の最大の弱点がお分かりになると思います。

2 論考が掲載されるまで

 私が2001年7月に行われた参議院議員選挙で落選してから、しばらく私と民主党との関係が切れた(注1)のですが、私の身の振り方と、安全保障問題に弱い民主党の二つを心配して、民主党の事務局にいた私の友人が私と民主党との間を取り持とうと動いてくれました。

 (注1)関係が切れたのは、選挙中の民主党の私に対する背信行為が原因だが、これについてもいずれお話しする機会があろう。

 この友人はまず、私を講師にして民主党の議員達を相手に安全保障問題の勉強会を10回くらい開催するプランをひねり出し、民主党の関係議員に根回しをしてくれたのですが、彼の立ち会いの下でその議員と会ったものの、しばらくしてお断りの返事が来ました。理由は告げられませんでした。
 次にこの友人は、民主党のシンクタンクの機関誌に私の論考を載せようと努力してくれました。
 しかし、このシンクタンクの宇沢弘文理事長の、「<雑誌>「選択」に載った有事法制論考(注2)のような過激な考えの持ち主に、シンクネット21で全く安全保障論議をしていない現時点で書いてもらうわけにはいかない」という判断で話はつぶれました。

 (注2)コラム#21に転載。

 これを聞いた時には、このシンクタンクが発足間もないとはいえ、「全く安全保障論議をしていない」ことへの驚き、私の考えを承知の上で党公認で国政選挙に立候補させたくせにその私の考えを「過激」呼ばわりされたことへのとまどい、議論するためにつくったはずのシンクタンクで議論を提起することに難色を示されたことへの信じがたい思い、等が交錯したものです。
 これにめげず、友人は、今度は民主党の機関誌に私の論考を載せようと努力してくれました。
 その頃、この友人と私との間で以下のようなやりとりがありました。

<友人>
 ・・
、・・前にもちょっとお話しした党の討論誌『DJ民主』(注3) ・・への寄稿の件、可能ならばお願いできませんか。編集部の要望等(私の意見も混じっています)は以下のとおりです。

 (注3)DJは、Discussion Journalのイニシャル。当時の編集長は鈴木寛民主党東京選出参議院議員だった。(太田)

テーマ:インド洋での自衛隊活動の実情と問題点(一例)

 ※貴兄としては、もっと包括的に安保問題を論じたい希望があるかもしれませんが、(私としては)数多い研究者や評論家との違いをアピールするためにも、リアルな情報や防衛庁・自衛隊の実態(法的枠組み等も含めて)を踏まえて、テロ対策特措法に基づく自衛隊活動の実情を示すなかから、日本の安全保障をめぐる制度・法体系の問題点などを浮き彫りにする――というようなやり方で、論じてもらったほうがいいのではと思っています。
 ちなみに、もちろん読んでおられると思いますが、朝日が6月16日朝刊で派遣自衛艦をめぐる「戦術指揮統制」問題を報じました。このビビッドな問題にも触れていただいたら、関心をもたれるのではないかと愚考いたします。

字 数:4,000〜4,500字
締 切:7月10日くらい

 以上、ご検討のうえ、できれば早期に意向をご連絡ください。・・

<太田>
 ・・
 ・・DJ民主・・への寄稿の件ですが、異存があろうはずはありません。
 しかし、前回のようなことになるおそれは本当にないのでしょうね。
 というのは、ご示唆いただいたようなテーマですと、知り合いの<防衛庁関係者>・・から・・意見聴取<をする必要があり>・・ますが、そんな話を進めたところで、またダメになったというようなことになると、私にとっては致命傷になりかねないからです。
 (前回のテーマのように、私の蓄積だけで書ける内容ではありませんので・・・。)

 ・・<それにしても、>防衛庁不祥事がこれだけ話題になっている(注5)というのに、貴兄以外の民主党関係者は全く私にコンタクトしようとされていない。
 私には、民主党という党はもとより、民主党関係者の方々の情報収集意欲(=知的興味)の欠如が到底理解できないのです・・

 (注5)コラム#51参照。

 この友人は、党の機関誌に太田の論考が載ることになったのだから、とシンクタンクにもう一度私の論考を載せるようにねじ込んでくれました。
 そして、ついにシンクタンクも首を縦に振ったのです。

3 論考が掲載されてから

 こうして上記2篇の論考が掲載されたわけですが、改めて呆れるのは、それ以来、誰の一つのコメントも質問も寄せられていないことです。
 また、それっきり論考の再注文も来ませんでしたし、私にお呼びがかかることもありませんでした。
 防衛省幹部であった人物から、ホンネの安全保障論議を聞き、議論することに、民主党所属議員達は、何の興味も関心も示さなかったということです。
 防衛省の腐敗と退廃に憤り、自民党系の政治家達の志の低さと腐敗に憤っていた私が民主党から選挙に出たのは、民主党は腐敗しておらず、しかも幸か不幸か安全保障政策がなかったからです。
 (自民党には安全保障政策はあったけれど、それは吉田ドクトリンというトンデモ安全保障政策でした。)
 その私は、民主党としては安全保障政策がなくても、個々の議員の中には安全保障に強い関心を持っている人がいるだろうと密かに期待していたのですが、期待はものの見事に裏切られてしまったわけです。

4 終わりに

 一見政権の座が手に届くところまで来た民主党ですが、これまで安全保障問題の勉強を怠ってきたツケが噴出してきています。
 安全保障政策が、この期に及んでもまだなかったため、小沢党首の、中学生の思いつき程度の憲法解釈論に党全体が振り回されてしまっている始末ですし、給油転用問題という、恥ずかしくて耳を塞ぎたくなるような論議に血道を上げているという体たらくです。
 給油転用問題について言えば、小沢自由党との合併前でしたが、民主党はテロ特措法に賛成しています。つまり、鳩山さんも菅さんも賛成したわけです。
 しかし、彼らが現在転用問題をあげつらっていることからすると、海自補給艦から給油された米艦艇が、いわゆる対テロ業務にだけ従事し続ける保証などありえない、という最低限の軍事常識さえ彼らが持っていなかったということにならざるをえませんが、ちょっとひどすぎるのではないでしょうか。
 例えば、イラン軍(革命防衛隊を含む)が中東地域の米軍に攻撃をしかけてきたため、給油された米艦艇がイランの基地やイラン海軍の艦艇に対して反撃を行う、というシナリオは、(まだ対イラク戦が起こっていなかった)当時でも描けたはずですが、米艦艇に反撃してはならないなどと日本が文句を言える筋合いではないことは明らかでしょう。
 文句は言わないが、イランに反撃した以上、それ以降は給油しない?
 米補給艦が近くにおらず、日本の補給艦が近くにいた場合に給油しなければ、その瞬間に日米安保体制は、ジ・エンドでしょうね。
 民主党よ。
 安全保障政策がない上、安全保障政策に関心すらないことは今更いかんともしがたいとして、それならせめて安全保障問題で政府自民党と対決するなどという身の丈を越えた大それたことは止めましょう。
 悪いことは言わないから、小沢おろしをやった上で、実質的な給油継続路線に転換し、お茶をにごしなさい。

太田述正コラム#1651(2007.2.7)
<吉田茂小論>(2007.9.16公開)

1 始めに

 防大1期生の平間洋一氏が防大教授兼図書館長の時に私は同大学校の総務部長を勤めていたので、掲示板上で同氏の吉田茂邸訪問記がサイト(
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/hirama/yh_ronbun_sengoshi_yoshidahoumon.htm
。2月7日アクセス)に掲げられているという話を聞いて、なつかしくなり、同サイトにアクセスしてみました。
 その結果、この際、吉田茂についての小論を上梓すべきであると感じました。

2 平間氏に会った当時の吉田茂

 吉田茂(1878〜1967年)があらゆる機会に語った以下のような持論が、1957年2月に平間氏らが吉田邸を訪問した時にも吉田の口から語られています(注1)。

 (注1)吉田は、1954年12月に(五度目、かつ最後の)首相職を辞任したが、当時、引き続き衆議院議員ではあった(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82

 「国防は国の基本である。 しかし、 今の日本はアメリカとの安全保障の下に経済復興を図るのが第一で、 アメリカが守ってやるというのだから守って貰えばよいではないか。また、 憲兵に追われ投獄され取調べを受けたが、 かれらのものの解らないのにはどうにもならなかった。 だから僕は陸軍が嫌いだ。 昔のようにものの解らない片輪な人間を作ってはならない。 そのためには東大出身者は固くて分からず屋が多いので駄目だ。」
 「君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されたり、 歓迎されることなく自衛隊<生活>を終わるかも知れない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。 御苦労なことだと思う。 しかし、自衛隊が国民から歓迎され、 ちややほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。 言葉を変えれば君達が日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。 堪えて貰いたい。 一生御苦労なことだと思うが、 国家のために忍び堪え頑張って貰いたい。自衛隊の将来は君達の双肩にかかっている。 しっかり頼むよ」

2 最晩年のもう一人の吉田茂

 以上の吉田の言を、1963年に上梓された吉田の著書『世界と日本』(番長書房)における、以下の記述(拙著『防衛庁再生宣言』43〜44頁)(注2)と付き合わせて見てください。

 (注2)吉田は、1963年10月、次期総選挙に出馬せず引退する旨を表明している(ウィキペディア上掲)。

 「再軍備の問題については、<これが、>経済的にも、社会的にも、思想的にも不可能なことである<ことから、>私の内閣在職中一度も考えたことがない。・・・しかし、・・・その後の事態にかんがみるに、私は日本防衛の現状に対して、多くの疑問を抱くようになった。当時の私の考え方は、日本の防衛は主として同盟国アメリカの武力に任せ、日本自体はもっぱら戦争で失われた国力を回復し、低下した民生の向上に力を注ぐべしとするにあった。然るに今日では日本をめぐる内外の諸条件は、当時と比べて甚だしく異なるものとなっている。経済の点においては、既に他国の援助に期待する域を脱し、進んで更新諸国への協力をなしうる状態に達している。防衛の面においていつまでも他国の力に頼る段階は、もう過ぎようとしているのではないか。・・・立派な独立国、しかも経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するに至った独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存の改まらないことは、いわば国家として片輪の状態にあるといってよい。国際外交の面においても、決して尊重される所以ではないのである。・・・今日、一流先進国として列国に伍し且つ尊重されるためには、自国の経済力を以って、後進諸国民の生活水準の向上に寄与する半面、危険なる侵略勢力の加害から、人類の自由を守る努力に貢献するのでなければならぬ。そうした意味においては、今日までの日本の如く、国際連合の一員としてその恵沢を期待しながら、国際連合の平和維持の機構に対しては、手を藉そうとしないなどは、身勝手の沙汰、いわゆる虫のよい行き方とせねばなるまい。決して国際社会に重きをなす所以ではないのである。上述のような憲法の建前、国軍の在り方に関しては、私自身の責任を決して回避するものではない。憲法審議の責任者でもあり、その後の国政運営の当事者でもあった私としては、責任を回避するよりは、むしろ責任を痛感するものである。」

3 吉田茂の評価

 吉田茂は、1946年5月に初めて首相に就任する際、「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」と側近に語っています(ウィキペディア上掲)。
 私は、この発言を、大東亜戦争敗戦の意趣返しのため、戦前の日本に代わって、東アジアにおけるソ連等共産主義勢力への防波堤の役割を米国に全面的に負わせるべく首相に就任するという吉田の決意表明であると思っています。
 だからこそ、吉田は、占領軍が「押しつけた」第9条入りの日本国憲法を堅持し、「戦力なき軍隊」(自衛隊に関する吉田自身の議会答弁。ウィキペディア上掲)の保持しか肯んじなかったのだし、1952年のサンフランシスコ講話条約締結にあたって日米安保条約の締結にあれほど執念を燃やした(ウィキペディア上掲)のだ、と私は考えているのです。
 このことは、自衛隊員が日陰者ないし税金泥棒視されることにつながったわけですが、そんなことは、戦時中に憲兵隊に逮捕され、40日間の拘置所暮らしを強いられて旧軍に含むところのあった吉田(上掲の吉田自身の言及びウィキペディア上掲)にとっては、むしろ小気味よいことだったのではないかとさえ私は勘ぐっているのです。
 ですから私には、吉田の「君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されたり、 歓迎されることなく自衛隊<生活>を終わるかも知れない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。 御苦労なことだと思う」以下の言は、かかる立場に防大出身の自衛隊幹部達を追いやってしまったことについての、吉田のかすかな自責の念に由来する白々しい弁明としか受け止められないのです。
 すなわち、吉田は、米国と旧軍に対する二つの私憤(注3)の意趣返しのため、憲法第9条の堅持と「戦力なき軍隊」の保持という、政治家としてあるまじき政策に固執することによって、結果として、講話条約によって主権を完全に回復するはずであった日本を米国の保護国にしてしまった責任者なのです。

 (注3)吉田の米国に対する怒りは、本来決して私憤ではなく、私自身も共有するところの公憤だが、吉田が、あのような方法で公憤を晴らそうとした瞬間に、それは私憤に堕してしまったと私は思う。吉田は、朝鮮戦争の勃発で尻に火がつき正気に戻った米国に、占領軍を通じて日本の憲法改正を命じさせ、かつ米国の軍事・経済援助を最大限引き出す形で日本の再軍備を実現するとともに、朝鮮戦争への参戦は断固拒否する、という方法で米国に対する怒りを晴らすべきだったのだ。

 ただし、吉田の偉大さは、やや遅きに失したとはいえ、この自分の犯した過ちを全面的に認め、自らを厳しく断罪したところにあります(注4)。

 (注4)吉田のもう一つの偉大さは、首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび自分の選挙区の高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴したことだ(ウィキペディア上掲)。

 上掲の「上述のような憲法の建前、国軍の在り方に関しては、私自身の責任を決して回避するものではない。憲法審議の責任者でもあり、その後の国政運営の当事者でもあった私としては、責任を回避するよりは、むしろ責任を痛感するものである。」という吉田の最晩年の言をどうか噛みしめてください。
 しかし、この吉田の最晩年の言に吉田が引き立てたところの吉田の後継者達は耳を貸さず、吉田自身が誤りを認めた吉田の現役政治家時代の政策が吉田ドクトリンとして吉田の後継者達によって墨守されることとなり、現在に至っているわけです。

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