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太田述正コラム#1734(2007.4.15)
<宗教を信じるメリット?(その5)>(2007.10.12公開)

4 私の見解

 (1)日本の社会科学者への期待

 そこで、私の見解ということになるのですが、私はもとより、専門家ではないので、日本の社会科学者に、ぜひ宗教を信じるメリットの最終的な解明を成し遂げて欲しいと思っています。
 なぜなら、日本の社会科学者しか、それはできないと考えるからです。
 現在社会科学が最も進んでいるのは米国ですが、米国におけるこの種研究には限界があるからです。
 どうしてか?
 ここで重複を厭わず、もう一度いかに米国が宗教的に異常な国であるかを再確認しておきましょう。
 2005年の世論調査によれば、米国の10人に6人は悪魔と地獄の存在を信じており、10人に7人は天使・天国・奇跡・死後の生活の存在、を信じていますし、2006年の調査によれば、米国の92%の人が唯一神の存在を信じています。
 つまり、米国はいわゆるアブラハム系宗教の信者が圧倒的に多い国であり、しかもすこぶるつきの「敬虔な」アブラハム系宗教の信者が多い国である、という点で、世界でも稀な異常な国であるということです。(強いて言えば、サウディアラビアが米国に似ているかもしれません。)
 そしてこの関連でと申し上げてよいと思いますが、上記の2005年の世論調査によれば、米国の成人の54%は進化論が誤りだと思っており、1994年の46%より比率が上昇しています。
 つまり、このところ、「敬虔」な信者の割合が増えつつあるという意味でも、米国は世界の潮流に反する異常な国なのです。
 こんな米国で、宗教・副産物説であれ、宗教・適応説であれ、社会科学者達が、進化論の立場から、宗教のメリットを解明し、宗教の神秘のベールをはがそうとしていることには敬服せざるをえません。
 しかし、あえて申し上げますが、宗教・副産物説のリーダーであるアトランが、ミシガン大学という比較的有名な大学の教授ではあっても臨時教員(Adjunct professor)に過ぎず(注7)、また、宗教・適応説のリーダーであるウィルソンが余り耳にしないビンガムトン(Binghamton)なる大学の教授に過ぎないことが大変気になります。
 これは、米国で、この種の研究が市民権を得られないことを示唆していないでしょうか。

 (注7)ただし、パリの研究所の所長を兼務している。

 また、同じアングロサクソンとは言っても、米国と違って世俗的な国である英国の社会科学者は、世界では宗教を信じる人が大部分であることから、世界中を敵に回しかねないこの種の研究は敬して遠ざけているのではないでしょうか。
 だからこそ、私は、世界で最も世俗的な国であり、しかもアブラハム系の宗教の信者が極めて少ない国であり、かつ、アングロサクソンなるグローバルスタンダード文明に属さないことから英国の社会科学者のような配慮が必ずしも必要でないところの、日本の社会科学者に期待するのです。
 もっとも、その前に、まず日本の社会科学全体の水準を引き上げる必要があります。

 (2)私の見解
 
 このシリーズを読んでこられた方には想像がつくでしょうが、私自身は、宗教・適応説より宗教・副産物説の方に軍配を上げたいと思っています。
 ただし、それはアトラン自身のウィルソン批判のように、宗教・副産物説が、宗教とイデオロギーを区別せずに論じていて、宗教固有のメリットを説明できていないからではありません。
 そもそも私は、アトランのように、マリアが母であると同時に処女であるとか神は人間の姿をしているけれど身体を持たない、といった非常識な物語を人間に信じさせる宗教と、政治的・経済的・科学的に一見説得力のある理論を人間に提供するところのイデオロギーとを截然と区別する考え方をとらないのです。
 確かに、総じて言えばイデオロギーの方が宗教より逸り廃れが激しいといった違いはあるけれど、私は、「非常識」に立脚する宗教も、ある時代のある場所における「常識」に立脚するイデオロギーも、どちらも人間の思考や行動を制約したり歪めたりするドグマであるという点で同類だと思っているのです。

 まず、どうして私が、宗教・副産物説の方の方がもっともらしいと思っているかをご説明した上で、宗教、とりわけアブラハム系宗教の「危険性」について私見を申し述べることにします。

 (以下、特に断っていない限り、世界の主要宗教については、
http://www.adherents.com/Religions_By_Adherents.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Major_religious_groups
(どちらも4月15日アクセス)による。また、アブラハム系宗教と欧州文明のイデオロギーの「同根性」と「危険性」については、
http://www.csmonitor.com/2006/1121/p09s01-coop.html
(2006年11月21日アクセス)、及び
http://www.mises.org/journals/rae/pdf/rae4_1_5.pdf
http://en.wikipedia.org/wiki/Eschatology
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E6%9C%AB%E8%AB%96
(2007年4月15日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#1730(2007.4.12)
<宗教を信じるメリット?(その4)>(2007.10.11公開)

 宗教・適応説の代表格は、米国の生物学者・社会学者・人類学者・宗教学者のウィルソン(David Sloan Wilson)です。
 (以下、追加的に、
http://www.amazon.com/gp/product/product-description/0226901351/ref=dp_proddesc_0/104-8066334-0411969?ie=UTF8&n=283155&s=books
http://www.randomhouse.com/catalog/display.pperl?isbn=9780385340212&view=excerpt
http://www.csulb.edu/~kmacd/books-dswrev.html
http://theoccidentalquarterly.com/vol3no2/rf-wilsona.html
(いずれも4月11日アクセス)も参照した。)

 ウィルソンは、淘汰(natural selection)はもっぱら個体レベルで生じるのであって、集団の間で生じる淘汰など無視してもよい、という米国の学者の間の常識に真っ向から挑戦している学者です。
 つまり彼は、淘汰は個体レベルのみならず、個体が寄せ集まった集団レベルでも起きるとし、人間の場合、宗教やイデオロギーは、人間集団が、一つの単位ないし有機体として、環境に生物学的かつ文化的に進化的に適応できるようにするために不可欠なものである、と主張するのです。
 実際、様々な文明の核心的性格は宗教やイデオロギーによって与えられてきた、というわけです。

 考えてみると、これは1世紀前の、社会進化論を唱え、宗教は社会の絆であると主張した、英国のスペンサー(Herbert Spencer 。1820〜1903年)や、宗教は人間集団が調和がとれよく調整された単位として機能するために生まれたと主張した、フランス生まれのユダヤ人にして社会学の創始者であるデュルケム(Emile Durkheim。1858〜1917年)、更には(これは私見ですが、)宗教を人間集団(文明)の方向性を決定づけるもの(転轍器)であると主張したヴェーバー(Max Weber。1864〜1920年)らの考え方への復帰です。

 ウィルソンら宗教・適応説をとる人々は、宗教やイデオロギーは、個人レベルでは、人間を、快適な気持ちにし、死についての思いに苛まれることから解放し、未来のことにより意識を集中させ、前向きに自分達の生活に取り組ませるとし、おかげで、宗教的(ないしイデオロギー的。以下同じ)な人間は、食物を発見し蓄えることがより上手になり、道徳的で従順であってきちんとした生活を送ることから、よりよい配偶者も得られる、と指摘します。
 彼らはまた、集団レベルでも、宗教的な集団は、団結力が強い上、集団のために自らを犠牲にする個人をより沢山抱えており、資源を分かち合うことや戦争を準備することにより巧みであるから、非宗教的な集団に比べて有利である、と指摘します。
 このような宗教的な集団のメンバーである個人は、非宗教的な集団のメンバーである個人に比べて、自分のエゴを自由に追求できないばかりか、集団のために犠牲になることすら求められることがあるという意味では大きなコストを甘受しなければならないところ、メンバーを平均すれば、そんなコストを支払ってもおつりがくる大きいメリットが得られる、というわけです。
 (もっとも、宗教的な集団が宗教的なメンバーばかりで構成されていると、ひどい誤帰因や誤解(コラム#1727)が原因で集団が一気に滅びてしまう危険性が高いことから、滅亡を免れた宗教的な集団は、非宗教的なメンバーを相当の割合で抱える集団であるらしい。)

 キリスト教を例にとれば、ローマ帝国の伝統的な考え方とは相反し、キリスト教は、大家族、夫婦間の貞節、熱心な子育てを奨励し、堕胎、嬰児殺し、生殖と無関係の性行動を禁止しました。そのおかげでキリスト教徒の女性の出生率は異教徒の女性のそれを上回り、ついにはキリスト教徒は、ローマ帝国において多数派を形成するようになり、やがてキリスト教はローマ帝国の国教になった、というのです。

 宗教やイデオロギーの中には、個人のエゴの追求を合理化するものもありますし、宗教やイデオロギーは一般に権威への従順さを個人に植えつけるため、往々にして専制をもたらします。
 このことから、宗教・適応説をとる人々は、宗教やイデオロギーは集団を非常に強固なものにすることがある一方で非常に危険なものでもあると指摘します。
集団を非常に強固なものにした典型的な例としては、初期キリスト教の信徒集団や強制収容所列島という趣のあったソ連が挙げられます。
 また、危険なものであるというのは、個人の利益にひどく反する規範・・例えば奴隷を容認する規範・・を個人に植え付けたり、集団の環境への適応を長期的には阻害するような規範を集団に植えつけたりする宗教やイデオロギーがあるからです。

(続く)

太田述正コラム#1728(2007.4.11)
<宗教を信じるメリット?(その3)>(2007.10.9公開)

 (3)宗教が成立するプロセス

 こういう実験があります。
 一郎が箱Aにビー玉を入れたところ、花子が一郎に黙ってそのビー玉を箱Bに入れなおしたとします。
 乳児や自閉症の子供は、一郎はビー玉を取り出そうとする時、箱Bを開けるだろうと指摘します。しかし、年長の幼児は、心理読解/誘導ができるようになっているので、何も知らない一郎は箱Aを開けるに違いないと正しく指摘します。
 
 次にこういう実験があります。
 幼児に、お菓子の写真が貼り付けてある箱を見せて中に何が入っていると思うかと聞きます。
 すると、彼らは、お菓子だと答えます。
 ところが、この箱を開けると中には小石が入っています。
 その上で2番目、3番目の質問をします。
 お母さんなら何が入っていると言うだろうかね。また、神様だったらどうだろうか、と。
 3〜4歳の幼児は、母親は無謬であって、かつ自分達は正解を知っているのだから、母親も正解をお見通しで、入っているのは小石だと言うだろうと答えるのです。
 それに対し、5〜6歳の子供の多くは、母親も他の人間同様間違った認識を持つことがありうることを知っているので、母親は中に入っているのはお菓子だと言うだろうと答えます。
 まさに、彼らは心理読解/誘導ができるようになっているのです。
 その彼らは、神様だったらどうだろうか、と聞かれると、神様はだまされることはないので、中に入っているのは小石だと言い当てる、と答えるのです。(当然、3〜4歳の幼児も同様に答えます。)
 ここから、心理読解/誘導能力の副産物としての宗教感覚が5〜6歳の子供の多くには既に備わっていることが分ります。

 ただし、これがいかなる宗教感覚かは、文化によって違ってきます。身につける言語が違ってくるのと同様、一つの神か沢山の神か、魂は天国に行くのか輪廻するのか、といった違いが生じるわけです。

 ところで、どんなものが宗教意識を高揚させるのでしょうか。
 奇妙な代物をいくつも見せて、どれに一番宗教性を感じるかを聞いた実験があります。
 その結果、人間は、あまりに現実離れしたもの、たとえば、言葉をしゃべったり登ったりする亀とか、悲鳴を上げたり花を咲かせたおはじきより、くすくす笑う海藻とか、すすり泣く樫の木とか、話す馬の方により宗教性を感じることが分りました。
 だからこそ、人間そっくりだけどすべてをご存じである神様とか、精神だけあって身体のない神様、が神様らしいということになるわけです。

 ただし、当然ながら、この、ちょっとだけ現実離れしている、ということだけでは不十分なのであって、それに感情的要素がつけ加わらないと宗教にはなりません。
 そのための仕掛けが儀式です。
 人間は、仕事をしながら歌ったり体を揺ったりするといった、創造的かつリズミカルな営み、すなわち儀式、に自発的に従事することで協力性を高める唯一の動物です。儀式こそ宗教を宗教たらしめるのです。
 その儀式が、死に関連したものであると、効果が最も大きいとされています。
 キリスト教にとって、イエスの受難の絵や彫刻(Stations of the Cross)を前にした儀式が持つ意味の大きさがここにあります(注6)。

 (注6)ただし、カトリック教会と英国教会とルター派に限る。一般に、キリストへの死刑の宣告からキリストの磔を経て埋葬までの14場面が描かれたり彫刻にされたりする。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Stations_of_the_Cross
。4月11日アクセス)

 (4)宗教・適応説

 ここで、補足的に宗教・適応説、つまりは宗教が少なくともかつて人間が環境に適応するのに役立ったとする説についてもご説明しておきましょう。

(続く)

太田述正コラム#1727(2007.4.10)
<宗教を信じるメリット?(その2)>(2007.10.8公開)

3 宗教を信じるメリット

 (以下、特に断っていない限り
http://www.nytimes.com/2007/03/04/magazine/04evolution.t.html?ref=magazine&pagew。anted=print
(3月5日アクセス)、及び、
http://www.citeulike.org/user/crispinb/article/1003486
http://www.acampbell.ukfsn.org/bookreviews/r/atran.html
http://barrysolow.vox.com/library/post/in-gods-we-trust-the-evolutionary-landscape-of-religion.html
http://barrysolow.vox.com/library/post/in-gods-we-trust-part-ii-the-supernatural-quasipropositions-and-ritual.html
(いずれも4月8日アクセス)による。)

 (1)始めに

 宗教は、人間社会のあらゆるところで目にすることができます(注2)が、それが身体的・精神的に多大の負荷を人間にかける(注3)にもかかわらず、それを信じることで、メリットがあるのかどうか、必ずしも明らかではありません。

 (注2)宗教、すなわち、神または神々、後世、祈りや儀式の人間の運命変更効果、を信じる営みは、古今東西の人間社会のほぼすべてで見いだされる。
 (注3)儀式に費やされる時間と資源、タブーを遵守するために捧げられる心理的エネルギー、そして加入儀礼に往々にして伴う痛み、等。

 それどころか、宗教を信じることは、時として、実世界についての誤帰因(misattribution)や誤解(misunderstanding)といったデメリットすら伴います。
 どうしてそんな宗教を人間は信じるのか大変不思議です。
 この謎を解明するための、脳科学者達による、前頭葉に宗教中枢があるのではないかという研究は何も生み出しませんでした。
 他方、進化論学者達による研究は着実に進展しており、この謎が解明されるのもそう遠くはなさそうです。
 進化論学者達が一致していることは、宗教が、人間の歴史の初期において、人間の脳によって生み出された、ということです。
 しかし、そこから先はまだ意見が分かれています。

 人間にとって、宗教は、少なくともかつては環境への適応上メリットがあった(注4)という説を唱える学者(adaptationists)と、宗教は、一度も直接的なメリットがあったことはないのであって、それは脳の進化の副産物(注5)に過ぎないという説を唱える学者(byproduct theoristsないしはspandrel(注6) theorists)とがいるのです。

 (注4)脂肪を蓄える性向は、食物が豊富な現代ではむしろ困ったことだが、かつては、度重なる飢饉にもかかわらず、生命を維持するために不可欠だった。
 (注5)たとえば、酸素を運ぶ赤血球の生誕は、生物の適応上メリットがあったが、血液の赤い色は、赤血球の生誕という生物の進化の副産物にほかならず、そのこと自体に何のメリットもない。
 (注6)たとえば、階段の下にできる意図せざる副産物たる空間が、spandrelだ。そのままでは非機能的な空間だが、そこに押入れを設ければ、機能的な空間に変わる。

 (2)宗教・副産物説

 それではまず、後者の学者たちの説を、その代表格であるところの、米国の認知心理学者兼社会人類学者兼進化生物学者兼哲学者であるアトラン(Scott Atran)の説を基軸としてご説明しましょう。
 アトランは、宗教は、人間の黒幕探知(Agent detection)、因果的思考(causal reasoning)、及び心理読解/誘導(Folkpsychology=theory of mind=intentional stance=social cognition)、という三つの脳の働きの副産物である、と主張しています。

 黒幕探知というのは、木の葉の音がした時に、それが危険な生物が葉に触れた音である可能性があると推論する脳の働きを指します。その副産物として、事象の背後に神ないし神々の存在を推論してしまうということが起きるわけです。

 因果的思考というのは、全く規則性のない出来事が複数生起した場合であっても、それらの出来事の間に時間的継起と因果律を推論する脳の働きを指します。この脳の働きの副産物として、人間は、病気から恢復した場合、単に運がよかったと片付けるのではなく、奇跡が起こった、あるいは祈りのおかげで恢復したと推論しがちです(注5)。

 (注5)日本人以外の慰安婦の中に、(そんな事実はなかった可能性が高いのに)自らの不幸が日本の官憲の強制連行によってもたらされたと思いこむ人が現れたり、(事実はまだはっきりしていないが、)非常時の異常心理による自発的集団自決という悲劇が日本軍の命令で生じたと思い込む沖縄の人が現れたりするのも、同様ではなかろうか。(太田)

 心理読解/誘導とは、他人の行為に先立ってその他人がやろうとしていることを読み取るとともに、その他人の考えを自分にとって有利な方向へと誘導しようとする脳の働きを指します。自閉症の人はこの働きが損われていることが知られています。
 心理読解/誘導の環境適応上のメリットは明らかであり、この能力を用いることで、われわれはご先祖様の頃から、迅速かつ効率的に良い他人と悪い他人とを区別することができてきたのです。
 この心理読解/誘導の副産物は、自分自身や他人が身体とは区別されるところの精神を持っているという観念です。この観念の更なる副産物が、精神と身体は切り離すことができるという観念であり、ここまでくれば、身体と無関係の精神(魂)、そして物質界を超越した神の観念の生誕まではほんの一歩です。

(続く)

太田述正コラム#1724(2007.4.8)
<宗教を信じるメリット?(その1)>(2007.10.6公開)

1 始めに

 動物と人間を画然とわけるメルクマールと考えられてきたことには、次々と疑問符がつきつけられてきています。
 類人猿も人間と共通する倫理感覚を持っていることについては既にご説明したところです(コラム#1701)。
 また、火を使うことこそできなくても道具を使う動物もいるし、しゃべったり書いたりすることこそできなくても初歩的言語能力を身につけることができる類人猿もいます(典拠省略)。
 しかし、人間にはあって動物には絶対にないものがあります。
 それは宗教です。
 一体、人間が宗教を信じるメリットはどこにあるのでしょうか。
 いまだ完全には解けていないこの難問に迫ってみましょう。
 
2 異界たる米韓

 一般的にあまり信心深くない日本人から見ると、米国や韓国は時に異界に見えることがあります。
 米カリフォルニア州北部のフレモント選出のスターク(Pete Stark)民主党連邦下院議員(1973年選出)は、3月12日、世俗主義の団体である米国世俗者連盟(the Secular Coalition for America)の要請に応え、「自分は神(a supreme being)の存在を信じていない」と宣言しました。
 彼は、無神論者・・反宗教的ニュアンスがあるatheistや、神不可知論者であるagnosticとは区別するために、最近米国ではnontheistという言葉が推奨され始めている・・であることを公に認めた最初の米連邦議会議員である(注1)とともに、無神論者であることを公に認めたところの、これまでで米国で選挙で選出された最も位の高い公務員である、ということになります。

 (注1)米連邦議会の議員の数は上下両院合わせて535名だ。

 本年2月に米国で実施された世論調査によれば、大統領にふさわしい候補者が、カトリック教徒であれば95%、ユダヤ教徒であれば92%、モルモン教徒であれば72%が投票すると答えたのに対し、無神論者であれば投票すると答えたのは45%しかおらず、投票しないと答えたのは53%にのぼりました。
 53%という数字は、同性愛者には投票しないと答えた43%、72歳の人物には投票しないと答えた42%、三度目の結婚をしている人物には投票しないと答えた30%、モルモン教徒には投票しないと答えた24%、女性には投票しないと答えた11%よりも多いのです。
 これは、2002年に米国で実施された世論調査で、宗教の信者であることが善人になるための必要条件であると47%の人が答えていることを考えれば、不思議ではありません。
 ちなみに、ある研究によれば、米国人のうち無神論者の人は3%しかいませんし、ある世論調査によれば、「無宗教、無信仰、無神論者、または神不可知論者」と答えたのは11%だけですし、別の世論調査によれば、無信仰であると答えたのは9%だけです。(ただし、12%が良くわからないと答えています。)
 このような中で、スターク議員が無神論者であることを認めることができたのは、彼がたまたま、米国では異例なほど世俗的な選挙区選出であるためです。
 他の連邦議会議員達の中にも必ず無神論者はいるはずですが、スターク議員に倣ってそのことを認める議員が出てこないのは当然ですね。
 (以上、
http://www.latimes.com/news/nationworld/politics/la-na-atheist13mar13,0,6065304.story?track=mostviewed-homepage
(3月14日アクセス)、及び
http://www.latimes.com/news/opinion/la-ed-stark15mar15,0,3687277.story?coll=la-opinion-leftrail
(3月16日アクセス)による。) 

 「韓流スター、チェ・ジウが海外宣教活動を行う。――――――チェ・ジウの関係者は<2006年10月>29日、チェ・ジウが30・31日に東京・淀橋教会と大阪・NHKホールで2日間かけて行われる韓国の宣教専門衛星放送、CGN TVの日本支局開局イベントに出席することを明らかにした。CGN TVはオンヌリ教会が運営しており、熱心なクリスチャンとして知られるチェ・ジウは現在、この教会に通っている。チェ・ジウは「ラブ・ソナタ」というテーマのイベントで、信仰告白をする予定だ。」という朝鮮日報日本語電子版の記事(
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/10/30/20061030000013.html
。10月31日アクセス)を読んだ時は驚きました。
 議員同様人気商売である俳優が、信心深くない人が多くて、韓国に比べればキリスト教徒がいないにも等しい日本で、キリスト教の特定のセクトの宣教に一役買うというのですから。
 おそらく、韓国ではこんなことは少しもめずらしいことではないのでしょうね。

 信心深くないという点では典型的な日本人である私から見ると、米国や韓国は異界であるとしか言いようがありません。
 一体全体、米国や韓国の多数派や日本の少数派が、何のメリットがあって宗教を信じているのだろうか、という疑問を解明したくなるのは、私だけではありますまい。

(続く)

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