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太田述正コラム#2051(2007.9.8)
<誰がイラク軍を解散させたのか>(2007.10.7公開)

1 始めに

 対イラク戦争「勝利」の後、米国がイラク軍を解散させてしまったことが、その後イラクの状況が泥沼化した原因の最たるものであることは、今や定説になりつつあります(例えば、コラム#2039参照)。
 では米国の誰がこの重大な意思決定を行ったのでしょうか。
 それが今だに判然としない、という呆れた話を今回はしたいと思います。

2 誰がイラク軍を解散させたのか

 2003年5月16日にイラク軍を解散する命令を直接下したのが、当時イラクを統治していたところの、実質的には米国隷下にあったCPA(Coalition Provisional Authority)の長のブレマー(L. Paul Bremer)であったことに争いはありません。
 その結果、25万人のイラクの若者達が、武器を携えたまま仕事を奪われて失業者として抛り出されることとなったのです。
 
 ところが、ブッシュ大統領が、「イラク軍は解散させないことになっていたのにどうしてブレマーが解散させてしまったのか分からない。当時のことは思い出せないが、何でそんなことになったんだ、と当時言ったものだ。」と述べたと先だって報じられたので一騒ぎになりました。
 これに対してブレマーは、イラク軍解散の件等を記した書簡をブッシュに送り、ブッシュから了解したとの書簡を受け取っていたことを明らかにした上で、自分はラムズフェルト国防長官(当時)の指示に従っただけである、この件については米国防省とホワイトハウスの関係者はみんな了解していた、サダム・フセイン政府の抑圧機関の一掃という意味でイラク軍の解散は行うべきであった、イラク軍の兵士達は逃散していたし基地は掠奪にあって使い物にならない状況であったことからイラク軍は当時既に事実上解散してしまっていたと言える、と弁明しました。

 コラムニストのカプラン(Fred Kaplan)は、ブレマーが昨年上梓した回顧録の中で、イラク軍解散の指示書をフェイス国防次官(Douglas Feith)から手交されたと記していること、またジャーナリストのウッドワード(Bob Woodward)が上梓した本(State of Denial: Bush at War, Part 3)の中で、ラムズフェルトが、この指示は別の所から来た、と言っている旨記されていることを指摘した上で、恐らくこの指示を発した張本人はチェイニー(Dick Cheney)副大統領であろうとし、それはイラクからの亡命者であったチャラビ(Ahmad Chalabi)の入れ知恵に基づく指示であったのでは、と推測しています。

 カプランによれば、対イラク戦が始まる1週間前の2003年3月10日、ブッシュ・チェイニー・ライス・パウエル・テネット(CIA長官)・統合参謀本部議長等臨席の下で米国家安全保障会議が開催され、戦後、イラクのバース党員を審査し、最大限5%程度と目されるところの好ましからざる人物を排除するという方針が全員一致で決定され、次いで3月12日、再び国家安全保障会議が開催され、フセインの精鋭部隊であるとともに護衛役であるところのイラクの共和国防衛隊(Republican Guard)(コラム#77)は解散させるが正規軍の兵士達は、忠誠心を確認の上、軍に復帰させるという方針がやはり全員一致で決定されたというのです。
 ところが、この二つの決定がどちらも、恐らくチェイニーの指示により、ブッシュのあずかり知らないところで覆され、5月12日にイラクに着任した直後、ブレマーは13日に全バース党員排除命令を、そして14日にはイラク軍解散命令を発したというのです。
 パウエル国務長官も統合参謀本部議長も統合参謀本部副議長(後に議長)のペース(Peter Pace)も、統合参謀本部構成員たる陸海空参謀長も、も全く蚊帳の外でした。
 そしてこれは、上記国家安全保障会議決定に従い、イラクで逃散したイラク兵士の部隊への呼集作業に既に着手していた米軍人達にとっても全く寝耳の水のことだったのです。
 (以上、
http://www.latimes.com/features/books/la-na-bush3sep03,0,6931007,print.story?coll=la-books-headlines
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/09/02/AR2007090201297_pf.html
(どちらも9月4日アクセス)、及び
http://www.nytimes.com/2007/09/06/opinion/06bremer.html?pagewanted=print  
(9月7日アクセス)を参照しつつ、基本的に
http://www.slate.com/id/2173554/  
(9月8日アクセス)によった。)

3 感想

 満州事変から先の大戦終戦に至る時代の日本・・無責任体制と下克上の日本・・を思い出させるようなブッシュ政権の体たらくですね。
 退行する米国シリーズの特別編としてお読みいただいても結構です。

太田述正コラム#1660(2007.2.15)
<丸山真男小論(その2)>(2007.9.17公開)

3 私の丸山批判

 (1)丸山の存在の大きさ

 丸山真男は、私の東大法学部在籍当時、まだ法学部教授をしていましたが、病気がちであったために直接謦咳に接することは出来ませんでした。(私が卒業した1971年に丸山は退官しています。)
 しかし、丸山に強い影響を受けた政治学者としてウィキペディアが挙げている、京極純一(政治学:教養学部時代)、篠原一(政治学:法学部時代(以下同じ))、福田歓一(政治思想史*)、坂本義和(国際政治)、三谷太一郎(政治外交史*)各教授には、いずれも講義か売店で購入した講義録(*)でお世話になりました。
 丸山は、このように戦後の東大の政治学に大きな影響を与えただけではありません。亡くなった現在なお、日本の政治学界全体や言論界等における丸山の崇拝者、信奉者は数限りないのであって、彼は、まさに戦後日本を代表する知識人であると言えるでしょう。
 (以上、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7
(2月1日アクセス)による。)
 しかし丸山の場合、吉田茂とは違って、戦後史に及ぼした功罪中に「罪」はあっても「功」はなかったと言えそうです。
 しかも、丸山の存在が大きかっただけに、彼の「罪」もまた大きい、ということになりそうです。

 (2)丸山批判
  ア 原理的反軍・反戦論者丸山
 慧眼な読者は、まずもって、丸山が、欧州の戦後の反再軍備論的世論を持ち上げ、それに従わない仏独両政府を批判する一方で、日本の戦前の排外主義的世論に眉を顰め、それに従った当時の日本政府を貶めていることに、論理的一貫性がないと思われたことでしょう。
 要するに、丸山は原理主義的な反軍・反戦論者なのであって、それだけで政治学者としては疑問符がつくところですが、その上丸山は、民主主義政体における世論と政府の関係について、政治学的な客観的かつ具体的な考察を加えることなく、戦後の仏独両政府は反軍・反戦論の世論に逆らったので批判し、戦前の日本政府は、軍国主義的世論に従ったので批判するという具合に、すべてを自分自身の主観的価値基準のみに照らして裁断を下す、という政治学者としてあるまじき人物なのです。
 (客観的かつ具体的な考察とは、先の戦争によって疲弊しきっていて再軍備に消極的な仏独世論、しかし、そうは言ってもソ連の脅威に対して備えなければならない仏独両政府、その仏独両政府が、再軍備に消極的な世論に藉口して米国にできるだけ防衛負担を押しつけ、自らの防衛負担の軽減を図ろうとしている、といった考察です。)

  イ 極東裁判での被告証言を読み誤っている丸山
 また丸山が、ニュルンベルグ裁判や極東裁判のような、裁判の形をとったところの、戦争の勝者の敗者に対する言葉による公開リンチの場において、ドイツ人や日本人はいかなる言動をとるものなのか、といった背景分析を抜きにして、ナチ最高幹部達と日本の指導者達の証言ぶりを取り上げて比較対照し、後者を貶めているのにも呆れてしまいます。
 さすがに、丸山もこのような批判を気にしてか、「問題は、私が抽出したような行動様式の特質が、もつぱら極東裁判の被告に立たされたために特殊な一回的現象として出て来たものかどうかという点にかかつている。私はむしろこの裁判の強烈なフラッシュを浴びて、平素はあまりに普遍化しているために注目を惹かない日常的な行動様式の政治的機能が浮彫のように照し出されたと解釈するのである。」(『現代政治の思想と行動』巻末の注 506頁)と弁明していますが、そうではなく、「日常的な行動様式・・・が浮彫のように照し出された」部分もあれば、そうでない部分もある、というのが正しいのではないでしょうか。
 そうでない部分の方からいけば、極東裁判の(A級戦犯たる)被告達は、例外が全くないとは言いませんが、彼らは、基本的に極東裁判の正当性を認めておらず、かつ天皇の責任を回避することに努めていたことから(典拠省略)、ウソを交えた歯切れの悪い証言に終始せざるをえなかったと思われるのであって、ナチの最高幹部達の証言の「明快さ」と比較して日本の指導者達の証言ぶりを貶すことはナンセンスであると言うべきでしょう。
 
  ウ 法の支配や民主主義の何たるかが分かっていない丸山
 逆に、「日常的な行動様式・・・が浮彫のように照し出された」部分こそ、日本の指導者達に共通していたところの民主主義と法の支配へのコミットメントです。
 私に言わせれば、「下克上」こそ民主主義の核心であり、「権限への逃避」こそ法の支配の核心なのです。
 まさに、「下克上」と「権限への逃避」があったからこそ、大正期に確立した日本の自由・民主主義は、日本の敗戦の1945年まで基本的に維持されえたのであり、「下克上」と「権限への逃避」がなかったドイツは自由・民主主義が根付いていなかったということであり、だからこそドイツはファシズムに屈し、ヒットラーによる独裁を許してしまったのです。
 (おかげで、日本は支那等において、どちらかと言えば下からの自然発生的な、数百、数千、ないしは1〜2万(?)の虐殺事件は引き起こしたが、ドイツにおけるような、上からの命令に基づく何十万何百万単位のホロコーストに相当するような虐殺事件は引き起こしませんでした(?!)。)
 結論的に申し上げれば、丸山が「日本的ファシズムは矮小」だったと言うのは、むしろ丸山の政治学者としての矮小さを示すものなのであって、当時の日本は、ファシズムとは全く無縁の民主主義的国家であった、ということです。
 日本の悲劇は、民主主義が確立したばかりの時に戦争をしかけられたところにあります。
 古典ギリシャ時代のアテネが、(奴隷制と並立していたものの)民主主義が確立したばかりの時に戦争をしかけられ、衆愚政治に陥り、無謀な戦線拡大をしたためにペロポネソス戦争に敗れ、スパルタの軍門に下った(コラム#908〜912)(注1)(注2)ように、日本も衆愚政治に陥り、無謀な戦線拡大をして先の大戦に敗れ、米国の軍門に下ったのです。

 (注1)ソクラテス(紀元前469?〜同399年)は、ペロポネソス戦争(紀元前431〜同404年)におけるアテネの敗戦直後に、大衆の偏見に基づき若者を惑わすとして「下克上」的に訴追され、「権限への逃避」をした裁判員らによって死刑宣告を受け、逃げることができたのに、慫慂と毒をあおいで死んだ(プラトン『パイドン』岩波文庫)。
 (注2)アングロサクソン文明が反民主主義的であること(コラム#91)を想起されたい。

 ですから、丸山による(戦争当時の)日本の指導者達のバッシングは著しくバランスを失している、と私は思います。
 衆愚政治下の古典ギリシャのアテネにおいて、ペリクレスら、古典ギリシャ史における最も有能でスケールの大きい指導者群を見出せるように、衆愚政治下の戦前の日本にだって、日本史全体に照らしても傑出して有能でスケールの大きい岸信介や石原莞爾らの指導者達(拙著『防衛庁再生宣言』日本評論社 233頁〜)がいた事実から、どうして丸山は目をそらすのでしょうか。

(続く)

太田述正コラム#1658(2007.2.13)
<丸山真男小論(その1)>(2007.9.17公開)

1 始めに

 「昭和日本のイデオロギー」シリーズを書くために、大学時代に読んだ丸山真男の本を読み返していて、吉田茂に引き続いて丸山についても、その日本の戦後史に対する功罪を記した私の寸評をご紹介すべきであると思うに至りました。
 手がかりにするのは、丸山の論文集『現代政治の思想と行動』(未来社1964年)に収録されている、「軍国支配者の精神形態」(1949年)と「「現実」主義の陥穽」(1952年)です。
 まず、丸山がいかなる主張をしているかをご紹介し、その上で私の批判を加えましょう。

2 丸山の主張

 (1)日本的ファシズムは矮小だった

  ア 始めに
 ナチ最高幹部は学歴がなく、権力を掌握するまではほとんど高い地位を占めていなかった。しかも、「異常者」が多かった。日本の戦争指導者は学歴が高く、出世した人ばかりで、「異常者」はほとんど皆無だった。(「軍国支配者の精神形態」94頁)
 にもかかわらず、日本の指導者達は、以下のように、ナチスの最高幹部達に比べて、非計画的であり、非論理的であり、責任回避的であった。すなわち、日本的ファシズムは、ドイツのファシズム(ナチズム)に比べて矮小であった。

  イ 計画的v.非計画的
 ナチスの最高幹部達は計画的に戦争を遂行したが、「<日本支配層は、>戦争を欲したにも拘らず戦争を避けようとし、戦争を避けようとしたにも拘らず戦争の道を敢て選んだのが事の実相であった。政治権力のあらゆる非計画性と非組織性にも拘らずそれはまぎれもなく戦争へと方向づけられていた。いな、敢て逆説的表現を用いるならば、まさにそうした非計画性こそが「共同謀議」を推進せしめて行つたのである。ここに日本の「体制」の最も深い病理が存する。東京裁判の厖大な記録はわれわれにこの逆説的真理をあますところなく物語ってくれる。」(同91〜92頁)

  ウ 論理的v.非論理的
 「<ナチス最高幹部達は>は罪の意識に真向から挑戦することによってそれに打ち克とうとするのに対して、<日本支配層>は自己の行動に絶えず倫理の霧吹きを吹きかけることによつてそれを回避しようとする。」(9頁)、<すなわち、ナチ最高幹部達に見られるのは、>ヨーロッパの伝統的精神に自覚的に挑戦するニヒリストの明快さであり、「悪」に敢て居坐ろうとする無法者の啖呵である。これに比べれば東京裁判の被告や多くの証人の答弁は一様にうなぎのようにぬらくらし、霞のように曖昧である。検察官や裁判長の問いに真正面から答えずにこれをそらし、或は神経質に問の真意を予測して先まわりした返答をする。」(103頁)

  エ 責任非回避的v.責任回避的
 「日本支配層を特色づけるこのような矮小性を最も露骨に世界に示したのは戦犯者たちの異口同音の戦争責任否定であつた。」(102頁)
 その責任否定の論理は、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」からなる。

 まず、「既成事実への屈服」について説明しよう。
 日本支配層にあっては、「既に現実が形成せられたということがそれを結局において是認する根拠となる」(106頁)。また、「自ら現実を作り出すのに寄与しながら、現実が作り出されると、今度は逆に周囲や大衆の世論によりかかろうとする」(107頁)。
 「重大国策に関して自己の信ずるオピニオンに忠実であることではなくして、むしろそれを「私情」として殺して周囲に従う方を選び又それをモラルとするような「精神」」(108頁)が見られる。
 彼らにあっては、「「現実」というものは常に作り出されつつあるもの或は作り出され行くものと考えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにはつきりいえばどこからか起って来たものと考えられている。「現実的」に行動するということは、だから、過去への緊縛のなかに生きているということになる。」(109頁)
 「日本の最高権力の掌握者たちが実は彼等の下僚のロボットであり、その下僚はまた出先の軍部やこれと結んだ右翼浪人やゴロツキにひきまわされて、こうした匿名の勢力の作った「既成事実」に喘ぎ喘ぎ追随して行かざるをえなかった」(111頁)。
 「軍部を中核とする反民主主義的権威主義的イデオロギーの総進軍がはじまるのとまさに平行して軍内部に「下克上」と呼ばれる逆説的な減少が激化して行った」(111頁)。
 「しかもこのような軍の縦の指導性の喪失が逆に横の関係においては自己の主張を貫く手段として利用された。・・・「それでは部内がおさまらないから」とか「それでは軍の統制を保証しえないから」と」(112頁)。
 「軍部はしばしば右翼や報道機関を使ってこうした・・・在郷軍人その他の地方的指導・・・層に排外主義や狂熱敵天皇主義をあおりながら、かくして燃えひろがった「世論」によつて逆に拘束され、事態をずるずると危機にまで押し進めて行かざるをえなかつた」(113頁)
 「国民がおさまらないという論理はさらに飛躍して「英霊」がおさまらぬというところまで来てしまつた。過去への緊縛はここに至つて極まつた」(113頁)。
 「日本の・・・「抑圧委譲の原理」・・・日常生活における上位者からの抑圧を下位者に順位委譲して行くことによつて全体の精神的なバランスが保持されているような体系・・・<と>「下克上」的現象・・・<の>両者は矛盾<し>ない。・・・「下克上」は・・・抑圧委譲の病理現象である。下克上とは畢竟匿名の無責任な力の非合理的爆発であり、それは下からの力が公然と組織化されない社会においてのみ起る。それはいわば倒錯的なデモクラシーである。本当にデモクラチックな権力は公然と制度的に下から選出されているというプライドを持ちうる限りにおいて、かえつて強力な政治的指導性を発揮する。これに対してもつぱら上からの権威によつて統治されている社会は統治者が矮小化した場合には、むしろ兢々として部下の、あるいはその他被治層の動向に神経をつかい、下位者のうちの無法者あるいは無責任は街頭人の意向に実質的にひきずられる結果となるのである。抑圧委譲原理の行われている世界ではヒエラルヒーの最下位に位置する民衆の不満はもはや委譲すべき場所がないから必然に外に向けられる。非民主主義国の民衆が狂熱的な排外主義のとりこになり易いゆえんである。」(113〜114頁)

 次に、「権限への逃避」について説明する。
 日本支配層は、「訴追されている事項が官制上の形式的権限の範囲には属さない」(116頁)と申し開きする。
 しかも、日本支配層の頂点において、「政治力の多元性を最後的に統合すべき・・・天皇は、疑似立憲制が末期的様相を呈するほど立憲君主の「権限」を固くまもつて、終戦の土壇場まで殆ど主体的に「聖断」を下さなかった。」(125頁)、
 明治時代において、「破たんが危機的な状況を現出せず、むしろ最近の時代とは比較にならぬほどの政治的指導と統合が行われていたのは、明治天皇の持つカリスマとこれを補佐する藩閥官僚の特殊な人的結合と比較的豊かな「政治家」的資質に負うところが少なくない。」(127頁)

(2)憲法第9条礼讃

 日本国憲法が制定されたのは、「決して四海波静かなるユートピアの世界においてではなく、米ソの抗争がむろん今日ほど激烈でないにしても、少くもそれが世界的規模において繰り拡げられることが十分予見される情勢の下においてだつたのです。こうした情勢にも拘らず敢て非武装国家として新しいスタートを切つたところにこそ新憲法の劃期的意味があつたと少くも私は記憶し理解しています。」(「「現実」主義の陥穽」185頁)
 「日本の新聞だけ見ていると、いわゆる「力による平和」という考え方そのものは西欧諸国ではすでに自明の原理とされ、ただ問題は再軍備の具体的=技術的な方法だけにあるような印象を受けますが、これなども各国の政府の動向だけが主として報道されることによるもので、民衆の動きはまたちがつた「現実」を示しているようです。西独の民衆の圧倒的多数が再軍備に反対していることは流石にちょいちょい大新聞にも報道されていますが、フランスでも大体、国民の50パーセント以上が政府の政策とくに再軍備政策に反対し、25パーセントは不満を持つているがどうしていいか分らずに混迷しており、残りの25パーセントだけが明白にアメリカに加担しているという報告があります・・・。イギリスでも・・・」(同175〜176頁)

(続く)

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