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太田述正コラム#2048(2007.9.7)
<過去・現在・未来(続々)>

<消印所沢>
 
 皆様は太田ブログ/メルマガを他の同種のブログ/メルマガと比べて,どの位置にあるとお考えでしょう?
 「○○○というブログよりは質的に上」とか「■■■というメルマガと同じくらいの質」といったものを,具体的に想定して考えると,メルマガ加入者増加へのヒントにもなるかと愚考する次第です.
 政治系のブログやメルマガの例を出して,皆様で検討してみるというのはどうでしょうか?
 それによって比較対象がはっきりし,今後どうすべきかも見えてくるのではないかと愚考いたします.

<バグってハニー>

 私はほぼ太田コラム一本ですねえ。太田コラムは大衆啓蒙をかねて、太田先生の知的欲求を満たすために書かれているというのが私の見立てですが、太田先生の興味・関心と私のとが重なり合う部分が多いので熱心に読むようになりました。つまり、国際情勢・安全保障以外に日米関係、世界の歴史、キリスト教、科学などですね。国際情勢・政治系のメルマガでこれほど広範なトピックを扱うのは他にないんじゃないでしょうかねえ。
 私は新聞社のサイトはチェックしてません。毎日のニュースのチェックは太田先生にお任せですね。それで太田コラムを読んで気になる記事があれば原文に当たるようにしています。自分でチェックするのは、日本語だとInfoseekとかGooの短い記事、英語だとAOLのAP電とか気が向いたら読んでお終いです。日本の戦争・紛争関連の報道はミスリーディングがひどすぎるので、太田コラムとのクロスチェックが必須だと感じています。

 毎日読むブログは佐藤守氏とKojii.netの週間連載のバックナンバーですね。太田コラムを読んで背広組みの、佐藤氏のブログを読んで制服組の頭の中が分かった気になっています(たぶんお二人ともとうてい典型とはいえないのでしょうが)。Kojii.netさんは自分と政治的主張が非常に近いので、私の頭はおかしくないんだ、ということを確認するために読んでいます。

 他との比較で、太田コラムは硬すぎるというのはありますね。ガクジュツロンブンみたいな感じ。佐藤氏は深刻な問題を軽口を叩きながら論じるので、大衆受けしているのと違いますかねえ。

<太田>

 バグってハニーさんがMixiに投稿した、「守屋前次官は・・なんて噂を見かけました。」を、うっかりしてボカシを入れずにそのままコラム#2043に収録してしまいました。
 万一名誉毀損裁判になった場合、ハニーさんのアイデンティティーは明かさないこととし、私が全責任を負うつもりですが、改めて、私が敗訴した裁判(ブログの「東村山女性市議転落死事件」カテゴリー参照)の不条理性、就中裁判官のネット音痴ぶりが思い出されます。

<バグってハニー>

 すいません、つまらないことでご心配おかけして。私も軽率でした。リンクだけにしとけばよかったですかね。それさえ名誉毀損に問われるのですかねえ。
 というか、この判決のせいでものすごくやりづらいですよねえ。たとえ事実ではなくても、事実だと信じるに足る相当の理由がある場合は名誉毀損には問われないんですよね。あと、表現の自由は公益に根ざしている限り尊重されるはずですよね。
 税金の使い道がどうなっているのか、お上を自由に批判できないんだったらそれこそファシズムですよねえ。

<太田>

 マザー・テレサの悩み(コラム#2044)について、その後も延々と同じトーンの論考・記事が続いています。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/09/04/AR2007090401625_pf.html
http://www.nytimes.com/2007/09/05/opinion/05wed4.html?pagewanted=print
。9月5日アクセス

 それだけに、コルカタ在住のインド人がもっともな嫌みを言っていることにはニヤリとせざるをえません。
 マザー・テレサとその後継者達のために、不当にコルカタのイメージが貶められている、と。
http://www.nytimes.com/2007/09/05/opinion/05banerji.html?pagewanted=print  
。9月5日アクセス

<バグってハニー>

 不当にコルカタのイメージを貶めているのはマザーじゃなくて、ステレオタイプなコルカタ像を押し付けてきたメディアじゃないですか。NYタイムズはエキゾチックな日本観を一方的に押し付けてきた張本人であって(太田コラム「徒然なるままに」シリーズ中のコラム#1017、1018参照)、お前が言うな、って感じですけど。
 ところで、

>奇跡など存在するわけがない(コラム#2044)

 に関連する、面白い記事を見つけましたよ。↓
http://findarticles.com/p/articles/mi_qn4156/is_20060122/ai_n16015894

 「退行する米国」シリーズ(コラム#2017から毎日、2041まで。ただし未完)で取り上げたナオミ・ウルフもマザーと同じでイエス・キリストに会ったことがあるそうです。セラピーを受けている最中にこの神秘的体験をしたそうです。

 「ウルフはこの心改まる体験を通して彼女の使命であるフェミニズムに対する献身が強められたと力説した。曰く、「私たちは誰だって世界を修復する手伝いをするために存在しているのだと私は信じています。」

 なるほど。米国はファシスト国家に成り下がりつつあるという彼女のコラムは「世界を修復する手伝いをする」という神の使命感によって書かれたのかもしれないですね。

 もう一つ、だいぶ前ですけど、NYタイムズが過去にも従軍慰安婦問題に対していかに偏った報道をしてきたかというのが話題になりましたよね。そのとき「笑われる日本人(Japan Made in U.S.A)」という本が話題になった のを覚えていますか?その本から従軍慰安婦問題が米国のメディアでどのように報道されてきたかを比較した米国の学者によるコラムをお送りするのでぜひ読んでみてください。内容的にはやや拡散しているような感じを受けましたが。

 同書はやや古いのですが(1998年発行)、非常によくできていると感じました。NYタイムズが描く日本像があまりにも偏っていることに危機感を抱いた在米日本人有志(ジパング、Zipangu)によって編集されたものなのですが、いままで日本人は寡黙すぎた、ということで情報発信も重視して全編、日本語と英語の両方で書かれています。問題のあるNYタイムズ記事をあげつらうだけでなく、主に記事を書いたダニエル・クリストフ(当時の日本特派員、どうやらこいつががんだったみたいです)に対するインタビューや、日米のジャーナリスト(筑紫哲也など)と学者(上野千鶴子、つる見芳浩など)が書いたコラムを通して、なぜこのようなステレオタイプが罷り通るのか、その背景も考察されていて、読み応えがありました。

<太田>

 ノースウェスタン大学の日本史の教師であるローラ・ハイン(Laura Hein)による、ご推奨の論考をさっそく読んでみました。

 「『ニューヨーク・タイムズ』は従軍慰安婦の悲壮な話・・をアメリカ国内の人々や出来事と結びつけること<を>しなかった。<また、>日本が従軍慰安婦に対する公的賠償に積極的でないのは、日本の抑圧的な文化のせいだとしたのは、ほとんど『ニューヨーク・タイムズ』のみだった。・・ 『ニューヨーク・タイムズ』の報道は他紙に比べて微妙なニュアンスを欠いている。同紙に載る戦争の記憶についての多くの記事が、一枚岩的な「アジア」による日本批判を描く。他紙が例えば、・・日本との貿易を発展させたい韓国やフィリピンなどアジア諸国の政府と、自分たちへの直接賠償を求める韓国やフィリピンの元従軍慰安婦たち・・の相違を報道しているのとは違っている。なぜ同紙がこういう報道の仕方をするのかは定かではない。多分単に傲慢なのだろう。もうひとつ考えられる理由は、今日本に派遣されている記者たち(クリストフとウーダン)が最初中国に駐在していたため、中国体験から出てきた多くの疑問を念頭におきながら、日本を扱っているのかもしれないということだ。」

 改めて、リベラルの旗手であるニューヨークタイムスが民主党の議員達のいびつな日本観、就中慰安婦観を形成した、という感を深くしますね。

 私が物足らない思いがしたのは、ハインが、日本政府が戦時中に軍の慰安施設を設置・運営した(正確には「設置・運営に関与した」)ことと、韓国人も従軍慰安婦をかり集めるのに協力したことを紹介しているところ、彼女がこのどちらも悪いことであることを当然視しているように見受けられる点です。
 私自身は、このどちらも悪いことだとは全く思っていません。
 つまり、彼女は、日本だけが、そして日本人だけが悪いことをしたとするニューヨークタイムスを批判しているけれど、彼女だって、米国も日本も、そして日本人も韓国人も、同じような悪いことをしたと主張しているわけであって、厳しい言い方をすれば、目くそ鼻くそを笑う類の議論をしているとしか私には思えないのです。
 しかし、ニューヨークタイムスの記者達にはハインの批判が理解できるであろうけれど、ハインには私の批判が理解できないような気がします。
 こういう論考を読むと、日米が理解し合うのは不可能ではないか、と暗澹たる気分になります。

太田述正コラム#2044(2007.9.5)
<マザー・テレサの悩み>

<太田>

 マザー・テレサが、一貫して神の存在に確信が持てず、悩み続けていた、というショッキングな事実が明らかになりました(
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1655415,00.html。8月25日アクセス)。

 ガンジー(コラム#176、1992)といい、マザー・テレサ(コラム#175)と言い、聖人は敬して遠ざけた方が良さそうですね。
 
 蛇足ながら、今次安倍コルカタ(カルカッタ)訪問時に、昭恵夫人がMissionaries of Charityを訪問しています(
http://www.newkerala.com/july.php?action=fullnews&id=55726
)。

<バグってハニー>

 マザー・テレサの記事、全部読みました。すごくよかったです。
 「一貫して神の存在に確信が持てず、悩み続けていた」というのは聖人になるため(Canonize)の必要条件なんですよ。
 マザーも結果的に人を騙していたことになりますが、その結果誰かが実害を被ったわけでもないし、その理由も「イエスではなく自分に注目が集まるのを避けるため」という風に利己的ではないので、許されるのではないでしょうか。
 彼女がコルカタの貧しい人々を救ったという事実はなんら目減りしないと思います。

<太田>

 いやはや、
http://www.csmonitor.com/2007/0830/p08s01-comv.htm  
(8月30日アクセス)、
http://www.nytimes.com/2007/08/29/opinion/29martin.html?pagewanted=print  
(8月30日アクセス)、
http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/susan_brooks_thistlethwaite/2007/08/looking_for_god_in_calcutta_1.html  
(8月31日アクセス)、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-ed-teresa1sep01,0,6144579,print.story?coll=la-opinion-leftrail  
(9月2日アクセス)

とことごとく、そういう理解なのですよね。
 だから、私はキリスト教が苦手なのです。
 たった一つ、私にも良く分かる論考(
http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/sam_harris/2007/08/the_sacrifice_of_reason.html  
。9月3日アクセス)がありました。
 この論考の最後の部分をご紹介しておきます。

 「テレサの抱いていた疑いは、教会の眼から見れば、神の恩寵の更なる証明と解釈されてテレサの偉大さを増進させるものに他ならなかった。考えても見よ。専門家が抱いた疑いですら教義の正しさを裏付けるのだとしたら、一体どうやったら教義が誤っていることを証明することができようか。」

 いずれにせよ、もう一度コラム#175で紹介したヒッチェンスのマザー・テレサ論を読み返してくださいね。

<バグってハニー>

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」(ヨハネ15:18、新共同訳)

 神の存在に疑問を抱くことと否定することは全く違うんですよ。タイム誌の記事にあるジョセフ・ニューナー神父(Rev. Joseph Neuner)の言葉を借りれば、神の存在が否定できないからこそ、マザーはここまで苦しむことはなったわけです。
 前の投稿時には私はまだコラム#175を読んでなかったですけど、バチカンはヒッチェンスの批判にはちゃんと耳を傾けているのでご安心ください。かつての列福/列聖の審査の際には悪魔の代弁者(Devil's advocate)
http://en.wikipedia.org/wiki/Devil's_advocate
と呼ばれる、候補者に辛らつな批判を自由奔放に加える役回りがあり、それによって候補者に穴を見つけて資格のないものが列福/列聖されないようにしていたのですが、ヨハネ・パウロ二世前法王がこの制度を廃したために、代わりにヒッチェンスにお呼びがかかったそうです。
http://www.secularhumanism.org/index.php?section=library&page=hitchens_24_2

 思い起こせば、イエス自身はマザーよりももっと手ひどい批判をその活動中に受けていました。最後は十字架にかけられたぐらいですから。カトリックには「反対を受けるしるし(Sign of contradiction、ルカ2:34、新共同訳)」という概念があるそうです。前法王は同名の著書の中で反対を受けるしるしこそがキリストとその教会を特徴付ける定義でもあると述べています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sign_of_contradiction

 ヒッチェンスは米ショウタイム(Showtime)のペンとテラー(Penn and Teller)というコメディアンによる、タイトルからして書くのが憚れる、Fワードを連発するテレビ番組に出演してカトリックを激怒させたのですが、
http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Hitchens#Television_appearances
このような辛辣な批判を受けることはマザーに「反対を受けるしるし」がある証拠だとするカトリックのライターもいます。
http://www.catholicherald.com/shaw/shaw05/shaw0901.htm

 つまり、マザーが神の存在に疑念を抱くことだけでなく、マザーを批判するヒッチェンスの存在もキリストとマザーの神性をますますゆるぎないものへとしているわけです。

 まあ、私は単なるリベラルなものぐさプロテスタントなので、カトリックの肩を持つ必要はないのですが、ヒッチェンスの批判はマザーに特異的というよりもカトリックに一般的な批判だと思いますね。献金の使途が不明瞭だといっても自分のための華美な服や飲み食いに使ってないことは明らかですからね。税金と違って払うほうもそこまでの厳格さは期待してないと思います。教会に限らず献金・募金・カンパというのはてそんなものでしょう。太田先生がマザーに対面したときに騙されて金巻き上げられた、というわけでもないんでしょ。

<太田>

>悪魔の代弁者(Devil's advocate)
http://en.wikipedia.org/wiki/Devil's_advocate
と呼ばれる、・・役回りがあり、それによって候補者に穴を見つけて資格のないものが列福/列聖されないようにしていた・・

 ご冗談を。
 奇跡など存在するわけがない、という前提に立てば、「奇跡を起こした」→「福者と認定(列福)する」→「その上で聖者と認定(列聖)」する、というインチキ「判決」先にありきで、対審構造を擬制し、弁護士たる「神の代弁者」と検事たる「悪魔の代弁者」との間で弁論を戦わせる、という茶番が1587年から1983年まで行われていた、ということでしょう。
 判決先にありきで、しかも多くの場合陪審員抜きで、対審構造を擬製して行われるところの、やたら時間がかかる茶番、というのが、アングロサクソンが(欧州)大陸法系の国々・・日本もそうです・・の裁判に対して抱いているイメージですが、まさにかつての列福手続きは、その通りのものだったな、と思います。
 福者ひいては聖者の大盤振る舞いをしたかったヨハネ・パウロ二世が、茶番を廃してしまった、というのはよく理解できます。
 それにしても、骨の髄まで無神論者のヒッチェンスは、それが茶番であることを百も承知で、タダでローマ旅行をするために(?)「悪魔の代弁者」役を務めたようで、まことにちゃっかりしていると言うべきでしょうか。

 蛇足ながら、バグってハニーさんがMixiに投稿した、「守屋前次官は・・なんて噂を見かけました。」を、うっかりしてボカシを入れずにそのまま前回のコラム(#2043)に収録してしまいました。
 万一名誉毀損裁判になった場合、ハニーさんのアイデンティティーは明かさないこととし、私が全責任を負うつもりですが、改めて、私が敗訴した裁判(ブログの「東村山女性市議転落死事件」カテゴリー参照)の不条理性、就中裁判官のネット音痴ぶりが思い出されます。

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