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太田述正コラム#1695(2007.3.18)
<日本人のアングロサクソン論(続)(その2)>(2007.10.3公開)

 (3)イギリスに対仏劣等感があった?

 さて、皆さんが混乱するのが目に見えていますが、渡部氏がこの本を執筆した当時参照した可能性がある英国の標準歴史書の The Oxford Illustrated Historry of Britain, Oxford University Press, 1984 は、1066年以降13世紀末まで、「教育程度の高いイギリス人は、母国語である英語を身につけていたほか、少しばかりのラテン語の知識と身につけており、しかも流ちょうなフランス語を話した」と、あえてアングロ・ノルマン語をフランス語とぼかして記述しています(PP107)。
 そうしないと話が長くなる、という配慮もあるのでしょう。
 しかし、渡部氏の場合、「フランス語」が一時期イギリスの公用語になったということが、後で「イギリスの対フランス、対大陸への劣等感」(116頁)を語り、しかもその「劣等感を消した男」としてウォルポール(Robert Walpole。1676〜1745年)を持ち上げる(116頁以下)ための伏線の一つとなっているからこそ、私は、重箱の隅をつつくようだと言われることを覚悟で問題提起をしたのです。

 そもそも、イギリスに全般的な対仏劣等感があったという話は寡聞にして私は知りません。
 確かに、上記標準歴史書自身、「ノルマン・コンケスト(The Norman Conquest)以降、イギリスは、エルサレム王国がそうであったように、海外におけるフランス、Outremerの一つとなったと言っても過言ではない。13世紀初頭までは政治的にはフランスの植民地(ただし、フランス王室の植民地ではない)となったし、それ以降も文化的植民地であり続けた」(PP107〜108)と記しており、特に地中海世界から、多くはフランスから入ってきたロマネスク様式やゴシック様式がイギリスの教会建築に決定的な影響を与えた、としています(PP107)。
 しかし私に言わせれば、これは波風を立てることを回避するための、イギリス流の韜晦なのです。
 私は、以上申し上げたぼかした記述や韜晦ができるのは、イギリス人がフランスに対して確固たる優越感を抱き続けてきたからこそであると確信しています。
 11世紀末から13世紀初頭のイギリス人が、支配者たるノルマン人に対して鬱屈した感情を抱いていたことは間違いないとしても、イギリス人は過去何度もバイキングの侵攻・移住・支配を経験してきており、ノルマン人に対してもどちらかと言えば身内意識を持っていたと考えられる上、ノルマン人自身、形の上で臣従していたフランス王室に対し、さほどの忠誠心があったとは思えず、いわんや劣等感を抱いていたとは思えません。ですから、被治者たるイギリス人だってフランス王室に象徴されるフランスなるものに劣等感を抱いていたとは到底考えられないのです。
 もとより当時のイギリス人は、建築、美術、ファッション、料理、音楽等、宮廷文化に淵源を持つところの、広義の芸術(art)の分野ではフランス、ひいては欧州大陸に対して劣等感を抱いていたでしょうが、それは現代においても全く変わっていません。
 他方、ずっと以前に(コラム#54で)ご説明したように、アングロサクソン時代からイギリスは、経済的に欧州地域と比べて抜きん出た豊かさを誇ってきましたし、政治的には欧州地域には全く見られないところの、コモンローと議会主権(注4)に裏打ちされた自由を享受してきました(コラム#90、#1334)。

 (注4)1066年、イギリス国王のエドワードが死ぬと、イギリス議会(Witan)は全くエドワードと血縁関係のない実力者ハロルド(Harold 2。1020?〜1066年)を国王に選出した。これに対し、ノルマンディー公ウィリアムが、自分こそエドワードから後継者に指名されていたと異議を唱えたわけだ。(標準歴史書PP102)

 しかも、イギリス人は自分達は軍事的にも卓越していると思ってきました。
 英仏百年戦争の際、イギリス軍が、クレシー(1346年)、ポワティエ(1356年)やアジンクール(1415年)の戦いで、3倍から6倍の仏軍と戦い、相手に20倍から100倍の損害(戦死者と捕虜の計)を与えたことは特に有名ですが、フランス人の方でも、14世紀の文人フロワサールが、「イギリス人は、戦さに強い国王か武器や戦さを好む国王でなければ崇敬し、お追従しようとはしなかった。彼らの地イギリスは、平時よりも戦時の方が富に満ち溢れたものだし、イギリス人は(富をもたらしてくれる)戦闘と殺りくに無上の快感を覚える」と語っているところです(拙著『防衛庁再生宣言』日本評論社 203〜204頁)。
 ですから、現在のイギリス人がフランスに対して優越感を抱いている(注5)ように、11世紀末から13世紀初頭のイギリス人だって、フランスに対して優越感を抱いていたに違いないのです。

 (注5)例えば、一昨年11月、TVディレクターとおぼしき英国人が、英デイリーメール紙に掲載されたコラムで、「どうしてフランス人は恥ずかしげもなく感情的に、毎年革命記念日にシャンゼリゼを仏陸軍に気取って行進させるような形で、フランスとかフランスの栄光とかを表明せざるをえないのだろうか。それは彼等は、二級の国々に対してこそ、軍事的勝利をおさめたことはあったかもしれないが、この1,000年間にわたって、大リーグであるイギリスにまみえる都度、粉砕され続けてきたからだ。・・<しかも、>われわれが今フランスと呼ぶ地域の過半は中世の大部分の期間、誰あろう、イギリスによって、立派に統治されていたことを付け加えておかなければならない」と記している。(
http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/news/news.html?in_article_id=369777&in_page_id=1770
。3月17日アクセス)

(続く)

太田述正コラム#2070(2007.9.18)
<米国の対イラン攻撃はない(続)(その1)>

<KS>

 仏在住の者ですが、日本はやれ安倍退陣だ、やれ福田総理だ、等と相変わらず緊張感がなく、がっくりしています。
 仏外相が昨日、イラン攻撃も最悪ありうると発言していました。
 このところ不気味に沈黙を守っている米国ではなく、仏がこのような発言をしたことはかなり危険な兆候だと私は見ています。
 日本の石油需要の8割以上を依存している中東湾岸地域で仮にイラン空爆が実施された時のリスク、またそのようなリスクに対し日本は国としてどのように対応するか、日本の政治家や官僚が果たして考えているのでしょうか?非常に気になるところです。

<太田>

1 イランをめぐる情勢

 フランスのクーシュナー(Bernard Kouchner)外相が16日ご指摘のような発言をしたことは事実です。その際、外相は、フランスのトタール(Total)やルノーのような大企業にイランと契約を締結しないように働きかけていることも明らかにしました。(
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/6997935.stm
。9月17日アクセス)
 しかも同外相は翌17日、国連安保理は(ロシアや中共の反対により)より厳しい対イラン経済制裁措置をとることは恐らくないであろうから、フランスは英国やオランダらとともに、米国が既にとっている措置と同様の追加的対イラン経済制裁措置を独自にとることを考慮していると言明しました(
http://www.nytimes.com/2007/09/17/world/middleeast/17cnd-iran.html?_r=1&hp=&oref=slogin&pagewanted=print
。9月18日アクセス)。
 そもそも先月、フランスのサルコジ大統領が、イラン問題は現時点における「最大の危機」であって、世界は「イランの<核>爆弾かイランに爆弾を落とすか、という究極の選択」を迫られている、と述べて物議を醸したばかりです。

 また、17日には、英国の政府筋が、フランスの外相が「述べたのは当たり前のことだ」と言明したことで、ますますきな臭さが漂ってきました。

 (以上、
http://www.guardian.co.uk/international/story/0,,2171395,00.html
(9月18日アクセス)による。)

 フランスや英国よりもともとイランに対してより強硬な米国では、対イラン慎重派のライス国務長官から、対イラン強硬派のチェイニー副大統領に対外政策の実権が再び移りつつあるとされています(
http://observer.guardian.co.uk/world/story/0,,2170382,00.html
。9月17日アクセス)。

 IAEAのエルバラダイ(Mohamed ElBaradei)事務局長は、先月イラン政府との間で、IAEAとしてイランがこれまで核物資を平和目的以外に転用したことがないことが確認できたとした上で、ウラン濃縮中止に言及しないまま、IAEAが提示したいくつかの疑問にイランが回答する、という了解に達したところです。
 ところが米国だけではなく、このところフランスの首相や外相のほか英国の政府筋によってIAEAのハシゴをはずすような発言が行わ始めたことにエルバラダイは危機感を強め、17日、対イラン攻撃などもってのほかであり、そんなことをすればイラクで一般住民70万人が死んだ二の舞になる、と警告しました(ガーディアン及びオブザーバー上掲)。

 またイラン外務省の報道官は17日、フランスの外相をたしなめる発言を行いました(
http://www.cnn.com/2007/WORLD/europe/09/17/france.iran/index.html
。9月18日アクセス)。

2 私の判断

 (1)私の判断

 このように昨今、フランスや英国まで、対イラン戦を口にしているわけですが、フランスや英国が対イラク攻撃を行うことは将来ともおよそ考えにくい上、米国もまた、ブッシュ大統領が在任中に対イラン攻撃を決行するようなことはない、と私は考えています。
 米国がイランを攻撃しないであろう理由は、以前(コラム#1676、1680で)も述べたところですが、現在でもこの判断を改める必要があるとは思いません。
 ただし、その時にも述べたように、イスラエルが単独で、この一両年中にも対イラン攻撃・・ただし核施設に目標をしぼった攻撃・・を決行する可能性は排除できません。
 9月6日にイスラエルがシリアの、恐らくは核施設を攻撃し、破壊したことからも、このことはお分かりいただけると思います。なおこれは、イランへの警告であると同時に対イラン攻撃の予行演習であったと考えられています。(
http://observer.guardian.co.uk/world/story/0,,2170188,00.html
。9月16日アクセス)

 それにしても、先月末、ブッシュ大統領が、今年米軍がイランの工作員によってイラクの過激派に提供されたイラン製の240ミリロケット弾を発見・押収した、と述べた(
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/6968186.stm
。9月17日アクセス)り、アフガニスタン駐留NATO軍が、イランからタリバンに渡されようとしていたところの、(路傍爆弾に用いられる)徹甲成型弾等を9月6日に押収したと発表する(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/09/15/AR2007091500803_pf.html。9月16日アクセス)等、イランが米国の敵に対する支援を活発に行っている可能性が取り沙汰されているというのに、なにゆえ私が米国による対イラン攻撃はないと考えているかを、この際改めてご説明しておきたいと思います。

(続く)

太田述正コラム#9682005.11.25

<フランスにおける暴動(その15)>

 では、ホロコーストに積極的に加担したことをこれだけ恥じたはずの戦後フランスで、ユダヤ人差別は払拭されたのでしょうか。

 全くそんなことはありません。

 現在の在フランスのユダヤ人人口は約60万人と推定されていますが、最近では、毎年約2,000人のユダヤ人がイスラエルへ「脱出」しており、その数は次第に増えつつあります。

 昨年7月には、イスラエルのシャロン首相が、フランスのユダヤ人は、「最もひどいユダヤ人差別(the wildest anti-semitism)」を逃れるために、フランスから緊急に脱出する必要がある、と述べ、フランスの朝野はこれに激しく反発しました。

 ところが、シャロンがそう述べた相手である米国のユダヤ人達は、全くその通りだ、とみんながうなずいたのです。

 現在のフランスのユダヤ人差別には三種類のものがあります。

 第一は、カトリシズムに由来する伝統的かつ牢固なユダヤ人差別です。(これは、英米では全く見られない類のユダヤ人差別です。)

 第二は、最近の左翼インテリ(Rive Gauche penseurs)の親パレスティナ・反イスラエル感情に由来するユダヤ人差別です。(これは、英米でも目にすることができます。)

 そして第三は、フランスの500万?600万人のイスラム系移民の間に見られるユダヤ人差別です。これは、貧困層を代表するイスラム系移民による、富裕層を代表するユダヤ人に対する反感に由来するものです。(これはやはり、イスラム系移民が比較的豊かである米国ではもとより、イスラム系移民が貧困層を代表している英国でも、全く見られない類のユダヤ人差別です。)

 2003年から2004年にかけて飛躍的増大した、ユダヤ人に対する暴言・暴行やユダ人関連施設の損壊には上記三種類のユダヤ人差別の全てがかかわっているけれども、イスラム系移民によるものが最も多いのではないかと考えられています。

 もっとも、皆さんご存じのように、その「共和国原理」に基づき、フランスにはユダヤ人に関する統計もイスラム系移民に関する統計も存在しないため、以上申し上げたことはフランスで誰もが囁きあっていることではあっても、公式にはあくまでも推測に過ぎません。

 そんなことはさておき、フランスにはこのように依然として深刻なユダヤ人差別が存在しているけれど、それ以上に、以前にも指摘したように、深刻なイスラム系移民差別が存在していること、にもかかわらずこの差別をフランス政府やフランス社会が直視せず、従って何の対策も、いわんや何のアファーマティブアクションもとられてこなかった(注29)こと、そのことがイスラム系移民の間に憤懣を充満させ、それがユダヤ人差別の激化の形でまず顕在化しているところ、その憤懣がやがてはフランスの国家・社会そのものに向けて爆発するであろうことは、昨年時点では既に国際的常識だったのです。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.guardian.co.uk/elsewhere/journalist/story/0,7792,1272129,00.html2004年7月31日アクセス)、及び(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1331347,00.html20041021日アクセス)による。)

 (注29)フランスで、飲酒の弊害がこれまで全く問題にされてこなかったのも、差別の存在を認めてこなかったことと同じく、全ては個人の責任とする「共和国原理」のせいかもしれない。先般、フランスには飲酒過多が500万人、アルコール依存症が200万人いて、10人に1人が飲酒が原因の病持ちであり、毎年飲酒が直接的な原因で23,000人、そして飲酒が間接的な原因で22,000人も死亡しているにもかかわらず、政府は何の対策もとっていない。(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1650396,00.html1125日アクセス)

10 今度こそエピローグ

 本シリーズにおいて、英米のプレス、就中英国のプレスの論調に従って、フランスにおけるイスラム系住民等に対する差別をあげつらってきたことに反発のある方もあろうかと思います。

 英国にも差別はあるはずだし暴動もあったはずだ。将来暴動が起きない保証もあるまい、という声が聞こえてきます。

 私の考えは以下のとおりです。

英国のフランスとの違いは、ロンドンの南の郊外のブリクストン(Brixton)で1981年に暴動が起きた時のことを振り返ってみると浮き彫りになってきます。

ブリクストンでの暴動は、今回のフランスにおける暴動と全く同様の原因・・警察によるハラスメント・貧困・失業・・で起こったのですが、7日間で、300名の負傷者が出て、83の建物と23の車が損壊されだけで終わり、この暴動が英国の他の地域には波及することもなかった、という具合に様々な意味で、今回のフランスにおける暴動よりもはるかに規模の小さいものでした。

なお、暴動の主体は、黒人移民の若者達でした。

英国はこの暴動を契機に、明確に多文化主義を打ち出し、アファーマティブアクションを含む様々な差別解消施策を講じ、現在では、下院に沢山の非白人の議員を擁し、ロンドン警視庁の30,000余の警官のうち非白人は7%を占めるに至っています。

(ただしその後、1985年にはブリクストンで再び小暴動が起きたし、2001年には、イギリス北部のいくつかの都市でアジア系と白人の若者達の間で小競り合いが起きている。)

(以上、http://www.nytimes.com/2005/11/20/weekinreview/20cowell.html1120日アクセス) による。)

つまり、英国は、小さい規模の暴動が起きただけで、すみやかに、抜本的な差別対策を講じるだけの柔軟性を持っているという点で、フランスとは決定的に違うのです。

もちろん、将来のことは分かりませんが、私は、1981年のブリクストンでの暴動のような規模の暴動すら、見通しうる将来にかけて、英国では起きないだろうと思っています。

 そもそも、英国は、もともと多文化主義的な国であり、欧米における反差別のチャンピオンなのです(コラム#379?381)。

 英国は、欧米諸国の中で最も早く、ユダヤ人差別を克服(コラム#478?480)し、奴隷制を廃止(コラム#225591592594601608)しました。

 私は、英国におけるこの多文化主義的・反差別的伝統は、アングロサクソンなる民族の成立の経緯にまで遡る筋金入りのものだ、と考えているのです(コラム#379)。

 その英国が、欧米諸国の中で最も植民地統治に巧みであり、しかるが故に、世界最大の帝国を築くことができたのは、当然だと言うべきでしょう。

 しかし、その英国の植民地統治も日本の植民地統治には及ばず、餓死や虐殺を伴うものであった(例えば、コラム#609610)こと、しかも、計算の仕方によっては1000年にわたって統治したアイルランドを英国はついに統合することに失敗したこと、かつまた故会田雄次をして、著書「アーロン収容所」で英国人の黄色人種差別を糾弾させたこと、はどうしてなのでしょうか。

 それらについてはまた、別の機会に。

太田述正コラム#9672005.11.25

<フランスにおける暴動(その14)>

9 エピローグに代えて:フランスのユダヤ人差別

 フランスにおける今回の暴動は、市民の完全な平等というタテマエの下における深刻なイスラム系移民差別がもたらしたものでしたが、フランスにはより深刻な前科があります。

 ユダヤ人迫害という前科です。

 作家エミール・ゾラ(Emil Zola)によるユダヤ人差別糾弾で有名なドレフュス事件を思い出すまでもなく、もともとフランスにはユダヤ人差別の歴史がありました。

 このため、先の大戦前、フランス在住のユダヤ人とフランス人の間にはほとんど交流はありませんでした(注28)。

 (注28)あのニール・ファーガソンは、戦間期までには西欧でユダヤ人社会は非ユダヤ人社会と完全に統合されていた(?!)にもかかわらず、ホロコーストが起こったとし、だから異質の少数派が多数派と完全に統合された・・少数派に対する差別が完全になくなったように見えた・・としても、安心することはできない、と主張している(http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-ferguson21nov21,0,2648368,print.column?coll=la-news-comment-opinions1122日アクセス)が、史実を知らない歴史家は、歴史家の名に値しない。

 1940年にフランスはナチスドイツに敗れ、フランスの三分の二はドイツの占領下に置かれ、南部の三分の一にドイツへの協力を義務づけられたヴィシー政権が成立します。

 さて、ご存じのように、ナチスはユダヤ人迫害を始めるわけですが、1944年にナチスがフランスから撤退するまでの間に、ナチス占領下のフランスでは77,000人のユダヤ人がフランス外に移送され(強制収容所に送られた)たのに対し、ヴィシー政権下のフランスでは、81,000人のユダヤ人(24,5000人は元からフランスに在住していたユダヤ人、56,500人は外国から避難してきていたユダヤ人)が移送されています。

 これだけでも、ヴィシー政権の方が、より「熱心」にユダヤ人迫害を行ったことが分かります。

 実際、ヴィシー政権の方が、ユダヤ人の定義を広く取りました。おまけにドイツやナチス占領下のフランスでは、キリスト教徒を配偶者とするユダヤ人は移送されなかったというのに、ヴィシー政権では移送したのでした。

 もっとも、当時フランスにいたユダヤ人の約四分の三は逃げ延びることができています。

これは、ナチスの他の占領地や勢力圏では見られない高いユダヤ人生存率であることは確かです。

しかしこれは、必ずしも当時のフランス人のユダヤ人差別意識が低かったことを示すものではなく、ドイツに対する反感が、一般のフランス人をして積極的なドイツへの協力を控えさせたために過ぎません。また、スペインというユダヤ人にとっての聖域がフランスに隣接していたことも幸いしました。

 いずれにせよ、連合国の一員としてフランスを「解放」したドゴール政権以降、フランスの歴代政権は、ヴィシー政権関係者を裏切り者として断罪し続けてきたにもかかわらず、卑怯にも、このようなヴィシー政権のユダヤ人迫害の事実は隠し通してきたのです。

 フランス政府及び社会が、戦時中のユダヤ人迫害の事実を認めたのは、実に1995年になってからです。

 (以上、http://histclo.hispeed.com/essay/war/ww2/hol/holc-fra.html1124日アクセス)による。)

 しかし、まだまだフランス政府は隠している、ということが昨年明らかになりました。

 1944年にフランスが「解放」された時点で、フランス内に約300あった収容所はすべて閉鎖されたと考えられていたのですが、トゥールーズ(Toulouse)の南25マイルにあった収容所だけは閉鎖されず、(米英等の)連合国や中立国の数百名もの市民が、数を減じつつも引き続き戦後の1949年まで収容されていたことが判明したのです。

 どうやらこれらの収容者達は、ユダヤ人の収容所への収容と移送の目撃者であることから、「解放」前後に一箇所の収容所に集められ、「解放」後も密かにドイツに移送され、移送できずに上記収容所に残された人々は、これまた密かに「消されて」行ったようなのです。

 (以上、http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1318972,00.html200410月5日アクセス)による。)

太田述正コラム#9632005.11.23

<フランスにおける暴動(その13)>

 その一つが、皮及び皮製品輸入規制です。

 日本政府は、農産品の輸入規制を堅持する一方で、工業製品の輸入規制は撤廃させようとしてきました。しかし、木製品や水産製品とともに、皮及び皮製品については、工業製品だというのに例外的に輸入規制を堅持してきたのです。

 その理由は、部落民の生業を保護するためです(注25)。

(以上、http://www.atimes.com/atimes/Japan/GK09Dh01.html11月9日アクセス)による。)

 (注25)とはいえ、日本政府は国際的圧力を受けて、次第に皮及び皮製品についても輸入規制を緩和してきた結果、この10年間に日本の革靴の輸入は80%も増加し、日本での生産は40%も減っており、部落関係者は不満の声を挙げている。

 (5)回顧と展望

 以上駆け足で見てきたことからお分かりいただけると思いますが、戦後在日と部落民に「よる」差別に翻弄されてきたことが、日本人にとってトラウマとなっており、移民受入問題を冷静に議論することが困難になっているのです。

 とりわけ、人口比的には、1%にも満たない在日(注26)・・近代日本が初めて受け入れた移民・・に「よる」差別体験は大きいと考えられ、英国や西欧諸国のように10%にもなるような移民を抱えたら、日本は彼らにかき回されて無茶苦茶になる、と多くの日本人は思い込んでいるのではないでしょうか。

 

 (注26)終戦時には196万人まで在日は増えたが、1950年までに140万人が朝鮮半島に帰国し、56万人が残った。その後1959年から67年まで、朝鮮総連(目的は金王朝へのゴマスリ)と日本政府(目的は厄介者払い)が協力して行った北朝鮮への帰「国」運動により、9万人以上が帰「国」し、また、戦後60年間に27万人以上が日本に帰化した。しかし、人口増や日本人との結婚もあり、現在の在日人口はなお約60万人を数える。(http://www.sir.or.jp/contribution/01.html1122日アクセス)

     ちなみに、部落民は、1993年の数字で90万人弱だが、実数は300万人とも言われている(http://blhrri.org/nyumon/yougo/nyumon_yougo_01.htm前掲)。

 しかし、在日と部落民に「よる」差別に翻弄されてきたのは、敗戦によっても日本人の心暖かさは失われなかった一方で、敗戦によって日本人が自信喪失に陥ったからにほかなりません。

 日本人が、不条理なことには毅然と対処する気概を取り戻しさえすれば(注27)、新たに移民を受け入れても二度と翻弄されるようなことはあり得ないないでしょう。

 (注27)日本人が毅然と対処しなかったことが在日と部落民を堕落させたとさえ言える。日本人が気概を取り戻すためにも、米国の保護国的状況からの脱却・・吉田ドクトリンの克服・・が強く望まれる。

 そもそも、人口減少に直面している日本は、可及的速やかに移民受入をタブー視することをやめ、今後移民の受入を計画的に実施していく必要があります。

 国際移民機関(International Organization for MigrationIOM)によれば、例えば英国では、1999年から2000年にかけて、移民が支払った税金が、移民への政府支出を40億米ドルも上回っています。これに加え、移民による出身国へ仕送り額は、しばしば公的開発援助額を上回っています。しかも移民は、受け入れ国の人々の職を奪っているのではなく、低熟練・高リスクと高熟練・高収入という両極端の職域で働いています。だからこそ、移民は世界的にどんどん増えているのです。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4117300.stm。6月23日アクセス)

 何と中共まで、下掲のように、移民を受け入れなければ日本の将来はないと指摘しています。

「現在、世界における国力競争というのは、人材資源の競争だ。国際的な人材市場において、日本が米国と対等に争うのは難しい。なぜなら、欧米の人材は日本社会に魅力を感じないからだ。しかし、アジアにおける特殊な地理的位置や世界第2の経済大国としての実力をもってすれば、アジアの人材を日本社会に呼び込む事は可能だ。国際人材市場における競争の中で、アジアの人材を本当に日本社会に呼び寄せる事ができれば、日本は強国としての地位を今後も維持できるだろう。さもなくば、日本の将来は楽観できない。」(http://j.peopledaily.com.cn/2004/03/26/jp20040326_37981.html。2004年3月29日アクセス)

太田述正コラム#9622005.11.22

<フランスにおける暴動(その12)>

 (4)在日「差別」の現在と課題

 このところ日本では、中高年における韓流ブーム(コラム#401)と若者における嫌韓意識の高まり(コラム#942)の並存、という興味深い状況が見られます。

 前者は、かつての日本人の在日を含む朝鮮半島の人々に対する、上述したような心暖かい心情の復活であり、後者は、北朝鮮による拉致問題の進展のなさや、ノ・ムヒョン政権による日本の歴史認識問題・・首相の靖国神社参拝問題と教科書問題・・の執拗な提起に対する反発が、インターネットの世界で伏流となってくすぶり続けてきた在日「差別」感情と化学反応を起こして顕在化したもの(注21)である、と私は見ています。

 (注21歴史認識問題は韓国側に非があるとする山野車輪著「マンガ嫌韓流」(晋遊舎)が30万部を超えるベストセラーとなっていることがその端的な現れだ。ちなみに、中国は「売春大国」(?!)などと書いた「マンガ中国入門」(飛鳥新社)も売れている。http://www.nytimes.com/2005/11/19/international/asia/19comics.html?pagewanted=print1120日アクセス)

 日本人のこの在日に対する差別意識の解消を図るためには、その原因をつくっている韓国・北朝鮮・在日の側が変わる必要があります。

 しかし、日本政府にもできることは多々あります。

 第一に日本人の拉致問題について、それだけを取り上げるのではなく、北朝鮮における人権侵害問題全般に取り組むことを通じて、韓国の北朝鮮に対する人権問題での及び腰の姿勢(注22)を改めさせ、もってこの問題での日米韓連携の確立を図り、北朝鮮を追いつめることです。

 (注22)ノ・ムヒョン政権は、韓国における過去の軍事政権の人権侵害と戦ってきたことを誇りとする人々の政権であるというのに、北朝鮮の、はるかに悪質な人権侵害には目をつぶっており、今年も国連における北朝鮮人権侵害批判決議に賛成せずに棄権した。その一方で、ミャンマーの軍事政権の人権侵害を批判する国連決議には賛成票を投じている。この論理矛盾ないし偽善性は、追及されるべきだろう。(http://english.chosun.com/w21data/html/news/200511/200511180030.html1119日アクセス)、http://english.chosun.com/w21data/html/news/200511/200511210026.html1122日アクセス)

 第二に歴史問題について、日本と朝鮮半島だけを対象にするのではなく、日本の台湾統治と朝鮮半島統治の比較、そして、東アジアにおける欧米諸国による植民地統治である米国のフィリピン統治との比較、更には、(日本による朝鮮半島統治と同様の)隣接地域の植民地統治であるイギリスのアイルランド統治との比較、に幅を広げること(注23)を韓国政府側に提案することです。

 (注23)植民地獲得方法と植民地統治実績を見れば、フィリピン統治とアイルランド統治は、台湾統治や朝鮮半島統治に比べて、はるかに暴力的であり、拙劣だった。

 日本政府は、単独ででもかかる研究を助成すべきでしょう。(助成対象を、日本の学者だけに限定する必要はありません。)

 第三に日本政府は、在日による日本人差別について、その歴史と現状を調査し、情報を開示すべきでしょう。その結果、在日あるいは朝鮮半島出身またはその子孫で日本国籍をとった人々、もしくは韓国の人々の間から、自然に遺憾の声が出てくれば、一番良いと思います。

 (5)部落差別はどうなったのか

 1922年に結成された水平社は、部落差別解消に大きな役割を果たしましたが、差別解消に成功しませんでした。

 戦後、1955年に部落解放同盟が結成され、アファーマティブアクションを含む様々な差別解消施策の実施を政府に強く求めました。

 その結果、1969年に同和対策事業特別措置法が成立し、目的を達成したとして(三回の延長を経て)同法が終了した1992年まで、政府によって鋭意差別解消施策が講じられました。

 (以上、http://www6.plala.or.jp/kokosei/hr/buraku.html前掲による。)

 その間に、部落差別は基本的に解消したのです。

 部落差別の歴史(根)が浅かったからこそ、部落民側と政府の努力によって、このような急速な差別解消が実現した、ということです。

 しかし、特措法による差別解消施策が余りにも長く続けられたため、それが利権(同和利権)化し、様々な弊害が起きた(注24)だけでなく、1980年代からは、部落民を語って金銭を強要する者(エセ同和)まで出現して現在に至っています。

 (注24)同和利権のもたらした弊害についてはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E5%92%8C%E5%88%A9%E6%A8%A9%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B81119日アクセス)を、エセ同和についてはhttp://blhrri.org/nyumon/yougo/nyumon_yougo_10.htm1121日アクセス)を参照のこと。

これは、在日による日本人差別に倣って言えば、部落民(エセ同和を含む)による一般納税者の差別である、と言ってもいいでしょう。

 現在形で書いたのには理由があります。

 部落民による一般納税者の差別は、特措法が終了した現在でもなお、形を変えて続いているからです。

太田述正コラム#9612005.11.22

<フランスにおける暴動(その11)>

  イ 戦後初めて差別感情が生まれた

 状況を一変させたのが、先の大戦における日本の敗戦です。

 日本が朝鮮半島を植民地統治したことは、支配された側にとっては悲劇であり、日本をうらむことは当然かもしれません。

 しかし、客観的に見て朝鮮半島の近代化が日本の支配下で大いに進捗したことはまぎれもない事実である(注19)だけでなく、日本国内においては既に見てきたように、そして恐らく半島においてもまた、個々の日本人はおおむね心暖かく朝鮮の人々に接してきた(注20)と考えられます。

 (19)この植民地近代化論は、米英においては、ハーバード大学教授のカーター・J・エッカート 等が唱える通説だが、韓国では絶対少数説であり、ソウル大学教授の李栄薫や評論家・作家の金完燮等が迫害に耐えつつ、頑張っている(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3_%28%E6%9C%9D%E9%AE%AE%291121日アクセス)

 (注20)在日には、日本列島に居住している日本人として、選挙権・被選挙権が与えられていたことは覚えておいてよい(http://www.jinken-net.com/old/tisiki/kiso/zai/go_0403.html1121日アクセス)。

しかも、在日は、徴用(これは強制連行とは言えない)で日本に連れてこられたごくわずかの人々を除けば、自分の意思で、よりよい生活を求めて日本列島に渡ってきた人々です。

 にもかかわらず、敗戦に打ちのめされた日本人に対して、在日は次のように牙を剥いて襲いかかったのです。

 「彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人<の>ように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。米でも衣料でも砂糖でも“モノ”が不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに“モノ”を動かした。・・金持が続々と生まれていった。完全な無警察状態・・である。」(鄭前掲31頁)、「経済的領域における朝鮮人の・・<このような>活動は、日本経済再興への努力をたびたび阻害した。」(同29頁)、「<しかも、かかる>朝鮮人の犯罪性<や>・・略奪行為<は>、大部分、下層民の日常生活にとつてきわめて重要な地域において行なわれた<。>」(同30頁)、「かつて居留民団の団長をし、本国の国会議員にもなった権逸氏<は>、・・回顧録・・のなかで「今でもその時のことを思い出すと、全身から汗が流れる思いがする」と書いている<。>」(同32頁)、その結果、「この時代の日本人には、「朝鮮人と共産主義・・火焔ビン・・やみ・・犯罪」を結びつけて考える心の習慣ができあが<り、この>日本人の在日に対する「悪者」や「無法者」のイメージや印象は、強度や頻度を弱めながらも、60年代や70年代の調査にも現れているのである。」(同33頁)。

 このように、戦後の占領期における在日による、(いわば)日本人差別によって、日本人は、初めて在日に差別感情を抱くに至ったところ、この差別感情は、戦後60年を経た現在、いまだに日本人の潜在意識の中に生き残っているのです。

  ウ 在日による日本人差別の継続

 しかし、日本人は在日(これ以降は、朝鮮半島出身者またはその子孫で日本永住者だが日本国籍を取得していない者を指す)を差別するどころか、腫れ物に触るような態度で接し続け、在日による日本人差別は、事実上継続します。

 例えば、1954年には生活保護受給対象が外国人(その大部分は在日)に拡大され、やがて在日が生活保護の半分を占めるようになってもこれを受忍し、在日が3割方占めているとも言われる暴力団は「温存」され、このこととも関連して在日の犯罪率が異常に高いことも見て見ぬふりがされ、北朝鮮による日本人拉致という重大犯罪すらつい最近まで放置され、北朝鮮産の覚醒剤が日本での流通量の半分を占めているというのに抜本的取り組みが回避されてきました(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B31121日アクセス)。また、金王朝讃美教育を行うところの、単なる各種学校たる朝鮮学校に対し、各地方自治体は、色々な名目で事実上補助金を支給してきました(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A11121日アクセス)。

それどころではありません。

80年代以後、日本のマス・メディアが第二次世界大戦中の日本の国家犯罪を語り、在日の犠牲写生を語る過程で在日は無垢化されるとともに、「被害者」や「犠牲者」の神話が<確立し>」(鄭前掲33頁)、在日による日本人差別が名実ともに正当化され、現在に至っているのです。

太田述正コラム#9602005.11.21

<フランスにおける暴動(その10)>

 (3)在日「差別」の起源

  ア 戦前には「差別」すらなかった

在日朝鮮人(在日)「差別」の起源は、部落差別より更に後であり、1910年に日韓併合がなされた以降、半島から日本列島へ朝鮮の人々が渡ってくるようになってからです。

 さて、米国のように、建国当時こそアングロサクソンが多かったけれど、その後、様々な国や地域から次々に移民がやってきたような所でも、新しい国や地域からの移民は、ことごとく「差別」の対象になりました。異なった文化を背負い、英語がしゃべれず、ダーティージョッブに就き、がむしゃらに働く人々が差別や「差別」の対象になるのは、ごく自然なことです。

 ただし、米国では支那人や日本人等のアジア人とユダヤ人(青年)だけは、「差別」ならぬ歴とした差別の対象になりました(注15)。

 (注15)米国におけるアジア人差別については、コラム#254参照。アイビーリーグの大学のユダヤ人入学差別については、別の機会に論じたい。

 (時間が経過するとともに、これら新移民は、移民先の社会にとけ込み、「差別」や差別は姿を消していく、という経過をたどるのが普通です。)

 朝鮮半島出身者については、これにプラスして日本の植民地出身者であった、という事情が加わりました。ですから、彼らに対し、当時の日本人が、優越意識をもって臨んだ可能性は排除できません。

 しかし、果たして戦前の日本に在日に対する差別や「差別」はあったのでしょうか。

 戦前(戦中を含む)来日した在日一世達の証言を孫引き紹介している、鄭大均「在日・強制連行の神話」(注16)(文春新書2004年。64?109頁)を見る限り、「危ない仕事を朝鮮人に多くさせていた。たくさんの人が、事故やまた人為的に殺されていた。」といういささか眉唾物の証言(101)のほか、具体性があるのは「賃金の格差は・・日本人に対して3分の2から2分の1」という(、他のすべての証言と食い違う)証言(注17(101)くらいであるのに対し、差別はなかった(103頁)とか日本人に親切にされた(104?107頁)という、しかも具体性のある証言が多いことに驚かされます。

  (16) タイトルから分かるように、この本を読めば、朝鮮の人々の日本への「強制連行」なるものなど全くなかったことが良く分かる。

 (注17)もっとも、半島ののんびりしていた農村からやってきた在日女性が、紡績工場で働く日本人女工の働きぶりにびっくりした、という証言(107頁)等から想像すると、在日中の能力・意欲が乏しい者、あるいは日本語ができない者、に対しては日本人と同等の賃金は支払われなかった、ということはあったに違いない。

 

ついでながら、在日が日本人にではなく、同じ在日にひどい目にあった、という証言が散見されます(102頁)。これは、いわゆる慰安婦問題で、半島人の女衒にひどい目にあった半島人の慰安婦が、日本人や日本政府を逆恨みするケースが少なくない(典拠省略)ことを思い出させます。

とまれ、これでは戦前の日本では在日差別どころか、在日「差別」すらなかった、と言わざるをえません(注18)。

(注18)それなら1923年(大正12年)の関東大震災の時の朝鮮人虐殺は何なのだ、という反論が予想される。

実際に起こったことは、大震災後の流言飛語に基づき、自警団等が、(当局発表で)在日死亡231人・重軽傷43人、支那人死亡3人、在日と誤解された日本人死亡59人・重軽傷43人を惹き起こしたもの。(もっとも、完全な流言飛語というわけではなく、大震災後、在日は殺人2名、放火3件、強盗6件、強姦3件を犯している。)

しかしこれは、未曾有の大災害後の異常心理が生起させた突発的な不幸な事件なのであって、これをもって当時、在日「差別」ないし差別があった証左である、とは言えない。(大震災の起こった年の在日人口は、8万人余であったところ、虐殺事件があったというのに、翌1924年には12万人余へと急激に増加している(鄭大均上掲143頁)ことは興味深い。)

(以上、特に断っていない限りhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD1112日アクセス)による。)

太田述正コラム#9592005.11.21

<フランスにおける暴動(その9)>

 (このほど、第2回目の「まぐまぐBooksアワード」(メールマガジン人気投票)にエントリーしました。12月7日?12月21日に投票が行われますので、昨年8月に行われた第1回目に引き続き、今回も皆さんに投票をお願いしたいと思います。前回は、皆さんの絶大なるご協力のおかげで12位になりましたが、残念ながら無償出版対象の5つのうちの1つには選ばれませんでした。直前になったら改めてご連絡します。)

8 日本における「差別」を考える

 (1)初めに

 今回のフランスにおける移民暴動をフォローしていて改めて痛感したのは、日本における「差別」事情のユニークさです。

 最初に結論を書いてしまいましょう。

日本における代表的な「差別」である部落「差別」と朝鮮人(在日)「差別」は、米国における黒人差別や黄色人差別、あるいはフランス等西欧諸国におけるユダヤ人差別やイスラム教徒に対する差別に比べて、相対的に、歴史(根)が浅く、差別の態様と程度も甚だしくない、という点で様相をかなり異にします。

私は、日本は、英国と並んで世界で最も差別の少ない国の一つだ、と思います。

しかも最近では、部落民あるいは在日に「対する」差別が問題というより、部落民にあっては1960年代末以降、そして在日にあっては戦後、部落民や在日に「よる」それ以外の人々に対する差別が問題となっている、という、まことにもって奇妙な状況が日本では見られます。

これは英国を含め、世界で他にあまり例を見ないことです。

だから、日本の「差別」に関しては、差別にカギ括弧を付けた次第です。

以下、部落「差別」と在日「差別」について、それぞれ見て行くことにしましょう。

 (2)部落「差別」の起源

  ア 部落「差別」問題の分かりにくさ

部落解放運動にたずさわっている人が、「部落民なんていう存在や、部落という特別の空間なんて、実は存在していないにもかかわらず、人々の心の中に、さもそれがあるかのように存在している、それが部落問題なのです。」と言っている(http://www6.plala.or.jp/kokosei/hr/buraku.html1119日アクセス)ことは象徴的です。

 この人は、だから部落「差別」を解消するのは容易ではない、と言いたいわけですが、むしろ、いかに部落「差別」が大した問題ではないかが分かろうというものです。

  イ 江戸時代

 江戸時代の「士農工商」についての私の見方は以前(コラム#842で)記したところですが、「士農工商」以外に、部落民の前身である穢多・非人のほか、公家僧侶神官医師等、「士農工商」に属さない多数の身分が存在していました。

 最近の説では、「士」「農」「工」「商」間に上下関係ありとしたのは当時の儒者のイデオロギーに過ぎず、一般の人々は必ずしもそうは考えていなかったとされています。

 同じことが、「士農工商」と穢多・非人との間にも言えるとする説、すなわち、生死をつかさどる職業(僧侶・神官・医師・処刑人など)・「士」直属の職能集団(処刑人を含む下級警察官僚・武具皮革職人など)・大地を加工する石切など、のように人間社会以外の異界と向き合う職業の者は、「士農工商」と便宜上区別されただけだとする説(注12)、も最近有力であり、私はこの説に与しています。

 

 (注12)そもそも、「士」が内職で「工」となっていた事例と同様に、穢多・非人にも「農工商」に携わっていた者が多くいた。例えば、「士」に直属する皮革加工業は穢多・非人が独占的「工」となることとされていた地域が多かった。また、地域によっては藍染や織機の部品製作は穢多・非人が独占的「工」となることとされていたことも知られている。更に、穢多・非人の実態が「農」であった地域も知られている。

 ところが、江戸中期以降、社会の貨幣経済化に伴い、「士」が相対的に没落して行きます。そこで、「士」は没落を食い止めるために、「農工商」への統制を強化し、その結果生じた「農工商」の不満を逸らす目的で、穢多・非人「差別」が始められます。

  ウ 明治時代

 この「差別」が差別に転化したのが、明治時代でした。

 明治政府によって警察官などになれるのは当初「士」のみとされ、下層警察官僚であった穢多・非人が疎外されたこと、「士」(特に上層の「士」)が特権階級たる華族とされたのに対し、「士」に直属し権力支配の末端層として機能してきた穢多・非人がなんら権限を付与されず放り出されることによってそれまでの「士」による支配の恨みを一身に集めたこと、などがその原因でした。

 つまり、部落差別が生まれたのは、それほど昔ではない明治時代であり、明治政府の、必ずしも悪意によるとは言えない政策が、結果として生み出したものである、ということです(注13)。

 (注13)明治政府は、日本を近代化するに当たって、(英国になかった憲法・継受困難なコモンロー法体系・英国が強くないと考えられた陸軍、等を除き、)全面的に英国をモデルにしており、英国の国教会に倣って神社神道から国家神道をつくり出し、英国の貴族制と上院に倣って華族制と貴族院を設けた。このいじましいまでの努力が結果として、キリスト教徒等への「差別」や、部落差別をもたらしたことになる(太田。http://www6.plala.or.jp/kokosei/hr/buraku.html上掲にヒントを得た)。

 差別の具体的な内容は、個人にあっては就職や結婚における差別であり、集落にあってはインフラの整備の遅れでした(注14)。

 (以上、特に断っていない限りhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E8%90%BD%E5%95%8F%E9%A1%8C1119日アクセス)による。)

 (注14)島崎藤村の「破戒」(1906年)は、部落差別問題をテーマにした小説として名高い(http://www.tabiken.com/history/doc/O/O218R100.HTM1119日アクセス)。

太田述正コラム#9582005.11.20

<フランスにおける暴動(その8)>

7 どうしてフランスで暴動が起こったのか・・補足

 (1)初めに

 今回フランスで移民の暴動が起こった原因については、私は一貫してフランスの共和国原理・・多文化主義の完全否定・・にある、と申し上げてきたわけですが、補足的にその他の原因についても挙げておくことにしましょう。

 (2)過度に中央集権的なフランス警察

 補足的原因の第一は、既に言及してきたフランス警察の特異性です。

 警察が、今回の暴動を通じて、銃弾を撃ちかけられはしたけれど、一発の弾も撃たないという抑制された対応をしたこと、しかも、非移民一人の死亡者だけしか出さなかったことは称賛されるべきでしょう。

 しかし、フランスの警察が、米国のように(FBIなる国家警察もあるけれど、)一つ一つの市にそれぞれある地方警察が並立している形ではなくて、他の西欧諸国同様、国家警察一本であることはさておき、その運用が過度に中央集権的であるのは問題である、という指摘がなされています。

例えば人事ですが、全国で採用された警官は、自分の出身と違う場所・・通常まずパリ地区・・に配属されるので、その場所に土地勘もなければ愛着もないのが普通です。

また、フランス警察は、警察情報を国の手で一元的に管理しているので情報の精度は高いし、警察資源を一元的に管理しているので、捜査にも群衆規制にも長けています。しかし、情報が末端の警官によって共有されることはないし、日常的な警邏面において極めて弱く、従って犯罪予防面に遺漏がある、とされています。

 ですから、移民の目には、警察は地域の一員ではなく、自分達に無理解な国家を代表する存在に映るわけです。

 こうして、移民地域において、移民を呼び止め身分証明書の提示を求めるくらいしか地域対策手段を持たないところの地域に不案内の若者たる警官達と、低賃金にあえぎ、あるいは失業しているけれど地域を熟知している移民の若者達が、あたかもマフィアのように対峙する、という構図が出来するのです。

 これでは、暴動が起きても不思議はないだけでなく、こういう移民の若者達が、TVを見、インターネットや携帯電話で連絡をとりながら放火等をして歩いたわけですから、フランス警察の力では容易にその暴動を収束させることができなかったのも道理です。

http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-cops13nov13,0,1852647,print.story?coll=la-home-world1114日アクセス)、及びhttp://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/19/20032808271120日アクセス)による。)

 (3)人口増加

 補足的原因の第二は、フランスの人口増加です。

 ドイツやスペインの出生率はどんどん減って今や1.3なのに、フランスの出生率は1.9を維持しています。

 これは、フランスでは、一世代につき20万人から30万人が追加的に労働市場に入ってきていることを意味します(注10)。

 (注10移民の流入がほぼ止まっており、かつ出生率が2を超えていないのに、労働人口が増加してきている、というのはいささか解せないが、社会党の元首相のロカール(Michel Rocard)が言っていることをそのまま記した。

 だから、失業率が高止まりになり、その高失業率が、とりわけ移民の青年達を直撃しているのです(注11)。

(以上、http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/18/20032806751119日アクセス)による。)

(注11)ロカールは、社会主義者らしく、西欧に共通する問題ではあるが、GDPこそ伸びてきているものの、この30年以上にわたって、経営者資本主義から資本家資本主義へ、国家による規制から規制緩和へ、社会福祉の削減へ、という動きによって、貧富の差が拡大したことも、移民を直撃している、と指摘している。

 (4)教師の権威失墜

 補足的原因のその三は、フランスの教師の権威失墜です。

 これは、米国のNew Republic誌に載った、ちょっと面白い説なのですが、1960年代にフランス(や世界の先進国)で起こった学生蜂起によって、フランスの教育機関が荒廃し、教師の権威が失墜したため、教師が、かつてのようにフランス的価値を学生達にインドクトリネートする意欲を失ってしまったことが、ここに来て効いてきている、というのです。

(以上、http://www.slate.com/id/2130363/1119日アクセス)による。)

太田述正コラム#9562005.11.19

<フランスにおける暴動(その7)>

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<ちょっと一休み>

 フランスにおける暴動シリーズを書き始めて以来(、購読者数は、殆ど動かないまま、)ブログへのアクセス数(、そして恐らく、私のホームページの時事コラム欄へのアクセス数)は顕著に増えて現在に至っています。しかも、明らかにこのシリーズへのアクセスが中心です。これはフランスの話だからなのでしょうか、それとも差別の話だからなのでしょうか。

 もう一つ、改めて気がついたのは、私のコラムの読者の中にフランス在住の方が沢山おられ、しかも、従前から活発に私のホームページの掲示板に投稿されてきた方の中にフランス在住者が多い、ということです。米国在住者の読者の方がはるかに多いはずなのに、投稿数はフランス在住者の方が圧倒的に多い気がします。

これは、一体どうしてなのでしょうね。

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 イスラム教がイスラム世界の停滞と、移民先でのイスラム教徒達の貧困と失業もたらしていることについては、以前に(コラム#24で)申し上げたところであり、移民の受け入れ国としては、アファーマティブアクションを通じて、イスラム教徒達の憤懣の爆発である暴動を防ぐくらいしか手はありません。

 今回の暴動のおかげでフランス政府は、(イスラム教徒たる)移民を、問題を抱えているグループとして明確に認識し、把握した上で、このグループに係るアファーマティブアクションをとる、というしごく当たり前の対イスラム教徒対策・・フランス以外の西欧諸国や英国が既にとっている対策・・を遅ればせながらとることになったわけです。

 しかし、これだけでは、イスラム教徒たる移民の貧困と失業そのものを解消することはできません。解消するためには、彼らのイスラム教を世俗化・近代化する(か、彼らをキリスト教徒に改宗させる(?!))しかありませんが、ケマリズム下のトルコならいざ知らず、受け入れ国政府がそんなことを試みることは僭越であり、不可能です。長い時間をかけて、イスラム教徒たる移民が、そのような方向に自然に変化して行ってくれることを期待するほかないのです。

 いずれにせよ、銘記すべきことが二点あります。

その第一は、今回のフランスでの暴動は、(イスラム教がもたらした)貧困と失業への憤懣の爆発なのであって、イスラム教とキリスト教との文明の衝突、換言すればイスラム教徒を支配するキリスト教徒に対するインティファーダ(注8)でもテロ活動でもない、ということです。

 (注8)インティファーダとは、もともとは、ユダヤ教徒(イスラエル人)によって占領され、支配されているイスラム教徒(パレステイナ人)の、イスラエル国家に対する蜂起のこと。

 ですから、今回のフランスでの暴動は、先般の英国における同時多発テロ(コラム#792803804)とは、暴力行使の方法もたまたま全く違うけれども、そもそも質的に全く異なったものだ、ということです。

 具体的に申し上げると、フランスでイスラム過激派の影響が強い地域は、全く今回の暴動には関わっていませんし、そもそも、暴動に加わった移民の若者達は、第三世代の「西欧化」した連中が中心であって、毎日決められた時間に礼拝をするより、軽いヤクやラップ音楽の方に関心のある者が多いのです(注9)。

(以上、http://observer.guardian.co.uk/comment/story/0,6903,1641413,00.html1114日アクセス)による。)

 (注9)なお、厳密に言うと、今回の暴動に加わった移民の若者達の中には、イスラム教徒ではない黒人も含まれている。彼らを突き動かしたところの貧困と失業は、イスラム教がもたらしたものではなく、暴動を起こした1960年代の米国の黒人を突き動かしたところの貧困と失業と基本的に同じ原因がもたらしたものだ。ここでは、これだけにとどめておく。

 その第二は、当たり前のことですが、イスラム教が常に停滞と、移民先における貧困と失業をもたらすわけではない、ということです。

 相対的に世俗化し、近代化したイスラム教国であるトルコやマレーシアは、少なくともイスラム教世界的停滞からは抜け出していますし、米国のイスラム教徒は、貧困と失業どころか、その中位(メディアン)家庭所得は米国の平均家庭所得を上回っています。

後者については、米国のイスラム教徒の半分以上が大卒以上なので、当然と言えば当然なのです。これは西欧諸国が単純労働者を移民として受け入れる政策をとったのに対し、米国の移民法は金持ち・高能力者・高学歴者を優遇しており、高等教育を受けに来たイスラム教徒の多くが帰国せずに米国にとどまり、帰化してきた、という経緯があるからです。

(以上、米国のイスラム教徒事情については、http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/GK15Aa01.html1115日アクセス)による。)

太田述正コラム#9552005.11.19

<フランスにおける暴動(その6)>

 これは、私の見解を申し上げているのではなく、フランスの非移民の人々のホンネを代弁しているつもりです。

 暴動が鎮静化しつつある現在、このホンネの一端がフランスで噴出してきました。

 口火を切ったのは、ラルシェ(Larcher)雇用相であり、移民(注7)の間で見られるところのイスラム教に由来する一夫多妻制が今回の暴動の原因の一つだ、と述べたのでした。

 (注7)遅ればせながら、フランスにおける移民についての推計値を披露しておく。

      移民イコールおおむねイスラム教徒であって、合計約500万人。1,600のモスクがあり、パリ・リール・リヨン・マルセイユ等の大都市に多く固まって居住。うち、アルジェリア出身が35%、モロッコ出身が約25%、チュニジア出身が約10%であり、以上が北アフリカ出身者。残りがマリ・セネガル等のサハラ以南アフリカ出身者、ということになる。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4430244.stm1117日アクセス)

次に登場したのは、シラク大統領率いるUMP党の議会内指導者であるアコイェ(Bernard Accoyer)議員であり、同趣旨のことを述べました。

 その次は、(私が昔ソ連の少数民族問題についての彼女の著作を読みふけったことがある、)著名な歴史家でアカデミー・フランセーズ事務局長のダンコース(Carrere d'Encausse)女史であり、移民の子供達が学校に行かずに通りでぶらぶらしているのは、一夫多妻制のために家に4人の奥さんと25人の子供がいたりして誰も面倒を見てくれず、居場所もないからだ、と語ったのです。

 既に何度もこのシリーズに登場したサルコジ内相ですら、その文化、その一夫多妻制、その社会的出自からして、北アフリカやサハラ以南のアフリカ出身の移民は、(サルコジ自身がハンガリーからの「移民」の子だが、)スェーデンやデンマークやハンガリー出身の「移民」の子供より多くの問題を抱えている、とストレートに暴動に結びつけない形で語り、この議論に一枚加わりました。

 ちなみに、フランスにおける一夫多妻制の家庭は、1万から3万にのぼると推定されています。フランスでは前から一夫多妻制は違法なのですが、1993年までは、第二妻以下へのビザが与えられており、自由にフランスにいる夫のもとへやってくることができたといいます。なお、それ以降も不法に入国する第二妻以下が後を絶たないようです。また現在でも、第二妻以下及びその子供達であっても、社会福祉の対象になっています。

(以上、http://news.ft.com/cms/s/d6f1fe0a-5615-11da-b04f-00000e25118c.html1117日アクセス)、及びhttp://www.nytimes.com/2005/11/17/international/europe/17cnd-france.html?pagewanted=print。(1118日アクセス)による。ちなみに、この二つの記事を読み比べて欲しい。FTに比べていかにNYタイムスの記事が杜撰か一目瞭然だ。)

 しかし、一夫多妻制の家庭の数からみて、この問題を、今回の暴動の主要原因の一つとしてあげつらうことは、どう考えても腑に落ちないと思うのは、私だけではないでしょう。

 そうです。一夫多妻制を問題にしている人々は、一夫多妻制を認めているイスラム教そのものを問題視しているのだけれど、さすがにこのホンネのホンネを口にすることがはばかられて、口にしていない、と解しうるのではないでしょうか。

 全く同じことが、今回の暴動に対するアラブ・イスラム世界の論調の一部に見られる、移民側にも問題ありとの指摘(下掲)からも言えそうです。

クウェートのアフマド・アルラビ前教育相<は、>・・(フランスの)アラブ系社会の内部は無秩序状態。今回の事件はそれを証明した。指導力を発揮する者が誰もおらず、事態を沈められる権威はどこにもない」とアラブ系社会が市民社会として成熟していない状況を痛打する。前教育相は、フランスのアラブ系住民が世論形成できるよう組織化を進め仏社会で役割を果たす努力をすべきだと提言。そのためには、「アラブ系住民が仏国民らしく振る舞い、仏社会にとって不可欠な存在であることを証明しなければならない」と勧告している。さらに、・・サウジアラビア<の>・・コラムニストのアリ・サアード・ムーサ氏は、・・「仏政府だけを非難するのは間違っている。アラブ人は他者と文化的に衝突し、自分たちの共同体に逃げ込んでしまうから、相手もそうなってしまう」「今日、アラブは世界文化の軌道から外れて、独りだけで回転している」とアラブ系移民の閉鎖性を批判、その閉鎖性が今回の暴動で噴出する格好となったとの見解を表明している。」(http://www.sankei.co.jp/news/051117/kok016.htm1117日アクセス)

 この二人のアラブ人有識者の移民批判は、読んでお分かりのように、同時に自己批判であり、しかも、それこそ口が裂けても言えない隠されているホンネは、イスラム教批判だ、と私は解しています。

 イスラム教そのものに問題があることは、西欧の移民(このシリーズでは、非白人移民という限定的な意味でこの言葉を用いてきた)の大部分はイスラム教徒であるところ、西欧では、これまで暴動らしい暴動が起こったことがない国でも、フランス同様、移民の若者の失業率は、おしなべて非移民の若者の失業率の約2倍であることからだけでも推察できようというものです(注8)(FT上掲)。

(注8)ちなみに奇しくも、米国の黒人の若者の失業率も白人の若者の失業率の約2倍だ(FT上掲)。

太田述正コラム#9532005.11.18

<フランスにおける暴動(その5)>

6 残された最大の問題

 (1)予想されていた暴動の発生

 振り返ってみれば、フランスで移民の青年達による暴動が起こり、その結果として、フランス政府が、差別解消に向けてアファーマティブアクションを含む抜本的諸対策を打ち出すことになる、などということは、前から予想されていたことでした。

 デトロイト出身の黒人で、今年5月までワシントンポストのパリ特派員をしていたリッチバーグ(Keith Richburg)がそう指摘しています。

 彼は1年以上も前に、ウェッブ上で、フランスでの移民暴動勃発は必至、と書いたといいます。(内容が内容だけにワシントンポストそのものには、掲載されなかったということでしょう。)

 彼は、1960年代の米国の、デトロイト等における黒人差別状況、そこで吹き荒れた黒人暴動、そしてその後ジョンソン政権が打ち出した黒人差別に向けてのアファーマティブアクションを含む抜本的対策、の経験に照らし、フランスでの移民差別の状況が、当時の米国と瓜二つなので、そう書いたのだそうです。

 ところが、傲岸不遜なフランスのエリート達は、米国で黒人暴動は起こっても、フランスで移民暴動は起こらない、と思いこんでいたわけです。

(以上、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/11/11/AR2005111102277_pf.html1117日アクセス)による。)

(2)マルセイユに追いつこうとしているフランス

 ところで、米国やフランスではこの種暴動が起こっても、フランス以外の西欧諸国や英国ではどうして起こらなかった・・より正確に言えば、こんな大きな暴動は起こらなかった・・のでしょうか。

 私は、将来とも起きない可能性が高いと思っています。

 その理由は、マルセイユ(Marseille)が物語っています。

人口80万人でその四分の一は(北アフリカ・サハラ以南アフリカ系の)移民であるマルセイユでは今回、たった一回、35台の車が燃やされただけで、後は何も起こりませんでした。

ほかの都市と同じように、荒廃した移民街があり、高圧的な警察が移民を取り締まっているというのに・・。

なぜか?

移民が貧乏で失業率が高いために移民街が荒廃することも、また、国家警察たる警察が高圧的に移民を取り締まることも、マルセイユ限りではどうしようもないけれど、その他の点が、フランスの他の都市とは大きく異なっているからです。

まず、マルセイユが、北アフリカ・サハラ以南アフリカ系の移民こそ四分の一ですが、それ以外の「移民」が溢れている都市であることです。フランスの他の都市同様、北アフリカ・サハラ以南アフリカ系の移民の歴史は50年しかありませんが、マルセイユの移民の歴史は100年以上に及び、イタリア人・ギリシャ人・アルメニア人・スペイン人・ユダヤ人・植民地引き揚げのフランス人、そして支那人が住んでいるのです。だから、ここでは、「フランス」と(北アフリカ・サハラ以南アフリカ系の)移民の対峙はなく、必ずしも絶対多数ではない「フランス」人が、様々な「移民」と同格の形で共存している、ということです(注5)。

(注5)このあたりの雰囲気は、小学生時代に、ナセルの「民族浄化」政策がとられる前のカイロの、しかも外国人居住区に住んでいた私にはよく分かる。要するに、マルセイユは、地中海地方に多数見られる、多人種・多民族都市の一つだ、ということだ。

もう一つは、マルセイユが、フランスどころか古代ローマよりも古い、2,600年以上の歴史を誇る都市であることです。ですから、マルセイユには、パリなにするものぞ、という気概があり、パリのいわゆる共和国原理・・市民はみな平等であって、移民なるものは存在しない、という考え方・・を認めていない、ということです(注6)。北アフリカ・サハラ以南アフリカ系移民であろうが、その他の「移民」であろうが、移民としてのアイデンティティーを持ち続け、それをみんなが互いに認め合うことは当然だ、というわけです。つまり、巧まずしてマルセイユは、英国の多文化主義を実践してきた都市なのです。

(以上、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/11/15/AR2005111501418_pf.html1117日アクセス)による。)

(注6)マルセイユは、ローマ帝国領時代にも、反ローマ的であったことで知られ、歴代のローマ皇帝は、うるさい執政官(consul)を一種の流刑としてマルセイユ駐在ローマ総督に任命したという。

 フランスは、マルセイユに追いつくべく、全力を挙げることでしょう。

 (3)残された最大の問題

残された最大の問題は、フランスの一般大衆が公然と、そしてフランスのエリートが内心、移民に対して抱いている差別感情には根拠がある、ということです。

換言すれば、移民の貧困と失業には根本的原因があるのであって、米国で1960年代以降にとられてきたアファーマティブアクションを含む抜本的な差別対策が、黒人の貧困と失業の根本的原因を解消できなかったように、(マルセイユを含む)フランスでも移民の貧困と失業の根本的原因は解消できないだろうということです。

アファーマティブアクション等の結果、米国で高等教育を受ける黒人が増えたり、警官中の黒人の割合が増えたり、TVのキャスターに黒人が増えたりしたことと同様、フランスでも、「黒人」を「移民」に読み替えれば、全く同じことが実現することでしょうが、平均的な黒人の境遇が改善されなかったのと同様、フランスでも平均的な移民の境遇は改善されないであろう、ということです。

太田述正コラム#9522005.11.17

<フランスにおける暴動(その4)>

5 米英の論調は正しかった

 本件に関するNYタイムス、ワシントンポスト、そして(ファイナンシャルタイムスと)ガーディアンの論調を見ただけで、それぞれの持ち味とクオリティーの高さ、特にガーディアンのクォリティーの高さ(注3)を実感されたのではないでしょうか。

 (注3)ガーディアンも英国の新聞である以上、自国贔屓から自由ではないのではないか、本件に関する記事を読んで、英国の移民・少数民族対策を身贔屓している印象を受けたという読者がおられるかもしれない。しかし、ガーディアンは社論として王制廃止を掲げているような新聞で、権力に対して批判的な「左翼」新聞だ。英国の核兵器保持にも、イラク戦争参戦にも一貫して反対している。(以上、典拠は省略。)だから、自国贔屓などするわけがない、と言わせていただこう。

 

フランス在住経験のある読者と現在フランス在住の読者のお二人が、掲示板上に熱烈なるフランス非差別社会論を寄せられましたが、どうやら勝負はついたようです。米英、就中英国のプレスの論調は正しかったのです。

 なぜなら第一に、シラク大統領が、14日に、フランスにおける差別の存在を認め、抜本的対策の必要性を認めたからです。

 シラクは、北アフリカ及びサハラ以南のアフリカからやってきた労働者階級の移民家族の子供達や孫達・・薄汚れた無法地帯の地域に沈潜し、社会から拒絶された若者達・・が「アイデンティティー・クライシス」に苛まれていることを認め、「出自がどうであれ、彼らはみんな共和国の娘達であり息子達である」として、「敬意を抱くことなくして、また、原因が何であれ、人種主義・侮辱・虐待の増加を放置するならば、更に、差別という社会的害悪と戦わなければ、われわれは何も堅固なものを建設することはできない」と述べたのです。

その上でシラクは、5万人の若者に職業訓練を施し、雇用を提供する機関を2007年までにつくる等の対策(注4)を講じる、と約束しました。そして、政府だけでできることには限りがあるとして、「メディアはフランスの現在の現実をよりよく反映させなければならない。・・私は各政党の党首にもそれぞれ応分の責任の担うべきだと言いたい。国会議員は、フランスの多様性を反映した構成でなければならないのだ。」と呼びかけたのです。

(以上、http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-chirac15nov15,0,2313715,print.story?coll=la-home-headlines1116日アクセス)による。)

(注4)このほか、移民地域に設立された会社に対する税の減免、再就職した失業者に対する一時金及び1年間に及ぶ毎年の補助、5,000人の教員や教員助手の追加的投入、10,000人への奨学金の授与、地域を離れて勉強に専念した人々への10校の全寮制学校の設置が約束された。

英国の黒人コラムニストのヤンギ(Gary Younge)は、上記シラク演説の直後、大要次のようなコラムをガーディアンに上梓しました。

暴動を起こした青年達を非難するのは簡単だ。

確かに彼らは、警官隊に向かって銃を撃ち、全く罪のない人を一人殺し、店舗を壊し、無数の車を燃やした。(もっとも、フランスでは大晦日に毎年平均して400台の車が燃やされることを考えれば、それほどべらぼうなことが行われた、というわけではない。)

しかし、暴動を起こしたのは、彼らが、(人種や民族に係るデータを集めることは法律違反であり共和国の原則に反するが故に)統計上不可視であり、政治的に代表されていない(フランスにはただ一人も非白人の国会議員もいない)ことに鑑み、彼らの苦境をどうしても知ってもらいたかったからだ。そして彼らはこのねらいをみごとに達成し、ついに政府は差別の存在を認め、対策の必要性を認めたわけだ。

もとより暴動は良いことではないが、非暴力的手段を尽くした上で、あるいは非暴力的手段が閉ざされている場合に、弱者に残された最後の手段が暴動なのであり、フランスの移民の青年達は、まさにこの手段を行使し、しかも勝利したのだ。

(以上、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1641907,00.html1115日アクセス)による。)

米英、就中英国のプレスの論調が正しかった理由の第二は、英国における少数民族統合政策(すなわち差別対策)が成功しており、少数民族がどんどん白人社会にとけ込みつつあることが、11月に公表されたマンチェスター大学の調査報告書で改めて明らかになったからですhttp://www.guardian.co.uk/race/story/0,11374,1642915,00.html1116日アクセス)

つまり、どう見ても現状では、フランスの差別状況の方が英国よりも深刻であると言わざるをえないのです。

 ただし、暴動は収束に向かっているし、フランス政府も改心したことから、万事めでたし、ということには残念ながらなりそうもありません。

 フランスの一般大衆の間では、暴動に怒り、嫌気がさし、反移民的・右翼的ムードが高まっている(http://www.csmonitor.com/2005/1116/p06s01-woeu.html1116日アクセス)からです。

 今後見通しうる将来にわたって、フランスは、この理性(エリート)と感情(大衆)のねじれ現象に苦しめられることになりそうです。

太田述正コラム#9472005.11.14

<フランスにおける暴動(その3)>

4 英国のプレスの論調

 やはりここで、英国のプレスの論調にも触れておく必要がありそうです。

 まず、ファイナンシャルタイムスから。

 

 フランスの移民が最も活躍しているのはスポーツの世界だ。

 1998年のサッカーのワールドカップと2000年の欧州選手権でフランスは優勝したが、2000年の時のナショナル・チームを見ると、両親か祖父母がグアダループ・マルチニク・アルジェリア・アルゼンチン・セネガル・ポーランド・ポルトガル・ガーナ出身の選手の中に、若干の白人が混じっている、という構成だった。そして、アルジェリア系のジダン(Zidane)は国民的英雄になった。

 フランスはついに統合された多民族国家になった、とシラク大統領以下は胸を張ったものだ。

 しかし、すぐにそうではないことが明らかになった。

 1999年と2000年に実施された世論調査では、むしろ反移民感情が高まっているという結果が出た。

 そして、2001年にサッカーでフランスとアルジェリアが対戦した時のことだ。

 フランスのアルジェリア系の青年達は、フランス国家斉唱の際に口笛を吹き、やがてグランドになだれ込んで試合を中止させてしまったのだ。

 更に、翌2002年には、大統領選挙で、移民排斥を叫ぶル・ペンが二位になったときた。

(以上、http://news.ft.com/cms/s/f2e042ee-5321-11da-8d05-0000779e2340.html1113日アクセス)による。)

 以下は、ガーディアン(オブザーバーを含む)からです。

 今次暴動は、移民が移民街に押し込められ、失業率が40%近くに達し、その一方で社会的プログラムへの予算が20%も削減されてきたことが背景にある。

しかも、雇用主や警察は移民を差別的に扱ってきた。

とりわけ、警察が移民にしょっちゅう身分証明書の提示を求めたり、移民を手荒に扱ったりしてきたことへの憤懣がたまってきていたところへ、二人の移民の青年が感電死し、それに警察が関与していたといううわさが流れたことがきっかけとなってパリ近郊で暴動が発生し、フランス政府関係者、就中サルコジ内相の移民を侮辱するような発言が火に油を注いだ結果、それが拡大した。

 アムネスティー・インターナショナルが、本年4月、移民に身分証明書を提示させる際に手荒な扱いをしても、警察がお咎めなしなのは問題だと指摘したばかりだった。

 だからフランスの場合、移民問題そのものへの取り組みが必要なことはもちろんだが、警察改革を行い、その移民に対する姿勢を改めさせることも不可欠だ。

(以上、http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/11/20032797231112日アクセス)に転載されたガーディアンの911日付のフリーランド(Jonathan Freedland)のコラム)、及びhttp://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635906,00.html(自身も移民であるフランスの移民問題専門家の意見)、並びにhttp://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635483,00.html(フランスの青少年犯罪問題専門家の意見)(どちらも1113日アクセス)による。)

 なお、サルコジ内相の一連の発言は決して許されるものではないが、彼が、移民に対するアファーマティブアクションやモスクへの国家補助の必要性をかねてから指摘しているところの、フランスにおいてはめずらしい政治家であることも事実だ(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1607367,00.html1113日アクセス)。

 ここで、よりマクロ的視点から、フランスの移民問題に光を当ててみよう。

第一に、英国と比較した場合、フランスが移民・少数民族問題に取り組む理念に問題がある。

 フランスでは、移民に対し、移民としてのアイデンディティーを捨てて、非移民と同じになることを要求する。

ちなみに米国では、移民に対しては、移民)としてのアイデンティティーと米国人としてのアイデンティティーという二重のアイデンティティーを持つことを認めてきた(例えば、「日系」「米人」)。しかし、インディアンのように元から米国に住んでいたり、黒人のように強制的に米国に連れてこられた人々に対しては、この一般的理念が通用しないのが悩ましいところだ。

 他方英国では、移民に移民としてのアイデンティティーをそのまま保持することを認めている。

 (以上、http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/11/2003279723前掲、及びhttp://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1640824,00.html(英国の少数民族出身の大学教師の意見)による。)

 英国ではこれを多文化主義(multiculturalism)と呼んでいる。

 これは英国で、1980年代の少数民族地区の暴動を一つの契機にして形成された理念であって、フランスと違って、各々の少数民族のそれぞれ異なった文化を認め、それらを法律でもって守る、というものだ。

 もろん、白人と各々の少数民族がばらばらに並存をしていて良い訳ではないが、何を持って紐帯とするかは、依然模索中だ。

 こういうわけで、英国における多文化主義は完全なものではなく、いまだ発展途上の段階にある。

 しかし、移民・少数民族問題に取り組む理念としては、この多文化主義は、現時点では最善のものであり、ひょっとしたら、未来永劫、最善のものかもしれない。

(以上、http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/11/2003279723前掲による。)

 (注2)英国のこの理念がフランスや米国のそれに比べて優れている、とは言えないとする意見も英国にはもちろんある(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1640824,00.html前掲)。

 第二に、英国と比較した場合、フランスが移民・少数民族問題に取り組む姿勢に問題がある。

 フランスは米国と同様に、憲法の平等原則を振りかざして移民問題に対処するという、上からのアプローチをしてきたところに根本的な問題がある。この問題には、英国のように、下からのアプローチをすることが肝要なのだ。そうしなければ、移民の抱える貧困・社会的隔離・失業、といった問題を解決できるはずがない。 (以上、http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635528,00.html1113日アクセス)による。)

 英国は、40年も前に、欧州諸国に先駆けて本格的な差別禁止諸法を制定し、かつ、一世代も前に、地方人種平等評議会のネットワークを立ち上げ、今では数百名の常勤の職員と何万人にものぼる、無償のボランティア要員を擁しており、問題が顕在化しないよう、事前に予防することにおおむね成功してきた。

(しかし、フランスの現況は論外として、米国のように、100人の上院議員中黒人が1人しかいない、という状態よりはマシだが、英国の下院議員646名中少数民族出身者が15人しかいないというのではまだまだ少ない。人口比から言えば、議員が60人いてもおかしくない。)

(以上、http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635431,00.html1113日アクセス)による。)

 第三に、英国と比較した場合、フランスが全般的におかしくなってきている、という根本的問題も見逃せない。

 つまり、今次暴動は、今年5月のEU憲法批准否決、それに引き続く2012年オリンピックのパリ開催失敗、の延長線上に位置づけることもできるのだ。

 このように見てくると、現在のEU加盟国に関しては、1970年代や80年代には労使紛争が最大の社会問題であり、そのために政権が倒れたりすることもあったところ、このままでは、21世紀における最大の社会問題は、英国一国を除いて、移民問題ということになりかねない(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635431,00.html前掲)。

太田述正コラム#9452005.11.13

<フランスにおける暴動(その2)>

 (本件での、フランス在住の読者と私との間のやりとりを、HPの掲示板上でご覧下さい。)

3 ワシントンポスト

 私が、ニューヨークタイムスより高く評価しているワシントンポストは、どうでしょうか。

同紙は、9日付でコラムニストのアップルボーム(Anne Applebaum)の過激なコラム(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/11/08/AR2005110801109_pf.html1110日アクセス)を掲載しました。

 その概要は次のとおりです。

 故ミッテラン仏大統領は、ロサンゼルスの黒人暴動のようなことは絶対にパリでは起きないと宣ったものだ。「フランスは世界で最も社会的保護水準が高い国だからだ」とさ。

 また、フランスの高級紙のル・モンドは、「カトリーナによる惨禍は、ブッシュの体制に原因があることを示している。長年月にわたって忘れ去られていた問題が前面へと戻ってきた。貧困・国の<施策の>不在・人種差別、という問題が・・。」とこの8月に同紙一面で書いてくれたものだ。その記事の下には、ブッシュが死体が多数浮いている状況をTVで見て、「これはどこの国だ。(そして自国の将軍達に向かって、)遠くの国なのかね。何とかしてやらなくっちゃ」と言っているマンガが載っていた。

 このマンガのブッシュをシラクに代え、各地で放火の火の手があがっているTV画面に代えた上で、全く同じセリフをシラクに言わせてみたいものだ。

 いずれにせよ、それから先が米国とフランスとでは、まるで違う。

 まず、ブッシュは、2日後には、TVで対応策を発表したが、シラクがそうしたのは11日も経ってからだった。

 次に、米国民はカトリーナ災害に対して、20億ドルの義捐金を寄付したが、フランスではサルコジ(Nicolas Sarkozy)内相が、暴動に参加している人々を「クズ(scum)」と呼び、火に油を注いだにもかかわらず、彼の人気は全く衰えなかった。

 <ここで、ニューヨークタイムスの記事と同様、黒人は米国人であることが当然視されているが、移民はフランス人とみなされていない、という話が記された後(太田)、>米国では黒人や黒人街の存在は誰の目にも見えているが、フランスの移民は目に見えない。非移民は、移民街があたかも存在しないかのようにふるまっているし、移民は、スポーツの世界を唯一の例外として、フランスの政治、文化の世界等に全く登場しない。2002年の大統領選挙はシラクと極右のル・ペン(Jean-Marie Le Pen)との間で戦われたが、その最大の争点は、移民問題だった。しかし、選挙が終わってからのTVのトークショーには、ただ一人の移民(黒人や北アフリカ人)も登場しなかった。

 フランスに移民差別があるのは厳然たる事実なのだ。

 それなのに、フランス政府は、移民がフランス的イスラムの旗を掲げることすら許さないし、移民の就職や仕事の面での差別を解消する施策を講じようともしてこなかった。

 こんなことでは、今後、フランスからイスラム過激派テロリストが輩出する、という可能性も排除できない。そうなると、米国も大迷惑だ。

 だから、米国として、フランスに寛大な気持ちをもって、差別問題への取り組み方を伝授してやる必要がある。

 それにはまず、ル・モンドの論説の「米国」と書いてあるところを線で消して「フランス」に差し替え、コピーをとって、フランス国民に大量に郵送するところから始めたらどうか。

 10日付のワシントンポストの記事http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/11/09/AR2005110902074_pf.html1111日アクセス)は、今回の移民の暴動は、フランス特有の問題であって、同じく多数の移民を抱えている西欧(含む英国)の他の国には波及しない、と指摘しました。

 実際、フランスでの暴動が始まってから、ブリュッセルとベルリンで若干車が燃やされたりはしましたが、これは単なる物真似犯罪であり、フランス以外では、暴動は全く発生していません。

この記事によれば、その理由は以下のとおりです。

一、フランスにおける移民の分離(segregation)・失業・社会的疎外状況は、西欧諸国の中で最もひどい。

二、フランス以外の国、特にドイツでは、移民の面倒をみたり、移民に非暴力を教えるクラブや組織のネットワークが発達している。

三、フランス以外の国、特にドイツでは、二世以降の移民がスラムや分離された環境から抜け出て、就職することが、フランスにおけるほど困難ではない。

四、フランスだけに、抗議を暴力に転化するという長い伝統がある。移民は、フランスの農民や組合員がやってきたことに倣っているに過ぎない。

太田述正コラム#9442005.11.12

<フランスにおける暴動(その1)>

 (10月(11日)?11月(10日)のHPへの訪問者数は、23677人でした。先月は24681人であり、前々月は25735人(最高記録)だったので、二ヶ月連続しての減少です。太田ブログ(http://ohtan.txt-nifty.com/column/)への月間アクセス数も、2544にとどまり、前月の2662より減少しました。今月は前月より一日多いことを考えると、残念な結果に終わった、と言わざるをえません。一方、メーリングリスト登録者数は、前回より29名増え、1385名に達しました。累計訪問者数は、524,776人です。)

1 始めに

先月末からフランスで、イスラム教徒たる移民並びにその子孫(以下、「移民」という)の若者達の暴動が起こり、さすがに沈静化に向かいつつも、いまだに続いています。

国内で黒人問題を抱え、つい2ヶ月前にも、被災したニューオーリンズの黒人達による掠奪があったばかりの米国では、人ごととは思えないということでしょうか、さまざまな論評がなされています。

そのうちのいくつかをご紹介します。

その上で、最後に日本の朝鮮人「差別」問題に触れるつもりです。

2 ニューヨークタイムス

 最初に、ニューヨークタイムスのパリ特派員とおぼしきCRAIG S. SMITHの論評です。

 その概要を以下に掲げます。

 米国の黒人問題は、何世紀にもわたる背景があるが、フランスの移民問題はせいぜい三世代の時間的背景しかない。おかげで、米国の黒人街に多く見られるスラムは、フランスの移民街では見られない(注1)。

 (注1)米国で黒人は人口の11%を占めている(http://www.asahi-net.or.jp/~yq3t-hruc/flag_JA.html#America)のに対し、フランスでイスラム教徒たる移民は人口の8%を占めている。

他方、米国では差別解消のために、アファーマティブアクションを含めたさまざまな対策がとられてきたところ、フランスでは、差別解消のための対策がこれまで殆どとられてこなかった。

 だからフランスでも適切な対策がとられるようになれば、問題は容易に解決する、ということには、遺憾ながら必ずしもならない。

 というのは、米国の黒人問題は、エスニシティーの問題だけだが、フランスの移民問題は、これに(イスラム教という)宗教の問題がからんでいるからだ。

 しかし幸いなことに、今回の暴動に関して言えば、それは宗教戦争といったものでは全くなく、差別の結果、社会的・政治的に疎外されている移民の若者達による通過儀礼的な鬱憤晴らしの域にとどまっている。

 もう少し、米国での黒人と、フランスでの移民の境遇を比較してみよう。

 フランスの移民が受けている教育は、国が取り仕切っているだけに、地方税収入によって左右されるところの、米国の黒人が受けている教育より充実している。また、フランスの福祉は米国よりもはるかに充実している。

フランスでは、たとえ就業者がいても、四人家族が国家補助があるアパートに住んでいる場合、月3?400米ドルしか家賃を払う必要がないし、あれやこれやで月1,200米ドルもの補助金が与えられる。就業者がいない場合は、推して知るべしだ。それに誰でも医療費と教育費は無償だ。

にもかかわらず、フランスの移民の差別状況は深刻だ。

 まず、就職や仕事にいおける差別的取り扱いが禁じられている米国と違って、フランスでは、移民ははっきり差別されている。

 また、米国では、黒人であれ非黒人であれ、黒人が米国人であることはみんな当然視しているというのに、フランスでは、(フランス国籍を取得していて、しかも移民してきてから三代目にもなっていても、)移民は、非移民からは、アフリカ人やアラブ人とみなされ、移民自身は、アフリカ人やアラブ人でもなければ、フランス人でもないというアイデンティティークライシスに陥っている(陥らされている)。

 (以上、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/2005/11/06/weekinreview/06smith.html?pagewanted=print11月6日アクセス)による。)

 一体、どうしてそんなことになったのだろうか。

 一つには、フランスでは、平等のタテマエが強調されるあまり、エスニシティーや宗教の存在について、国は関知しないものとされてきたことだ。関知しないのだから、エスニシティーや宗教に係る公式の統計がフランスにはない。

 統計がない以上、実態として存在する差別の現況を把握する手段がない。いわんや、差別の解消を図る施策も講じられない、ということになる。

 そして二つには、過酷な植民地統治を行ったという負の遺産をフランスが引きずっていることだ。

 例えば、アルジェリア独立戦争にフランスは敗れた。だから、(先祖が)アルジェリア出身だ、と聞いただけで、フランスの非移民は、不快な気持ちをその移民に抱くというわけだ。

(以上、http://www.nytimes.com/2005/11/11/international/europe/11france.html?pagewanted=print1111日アクセス)による。)

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