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太田述正コラム#9272005.10.31

<シェークスピアをめぐって(その3)>

 (本篇は、コラム#917の続きです。)

 この説は、アスキス(Clare Asquith)(注8)という女性が、今年上梓する予定の”Shadowplay: The Hidden Beliefs and Coded Politics of William Shakespeare, PublicAffairs”で唱えているものです。

 (注8)アスキスは、冷戦時代に英国の外交官の夫の赴任先のソ連のモスクワやキエフに住み、劇場で体制批判の意が込められた隠語を俳優が用いることを経験したり、ソ連の作曲家のショスタコービッチ(Dmitri Dmitrievich Shostakovich1906?75年)が作品の中で政治的和音(code)を用いていることを知って、この説がひらめいたのだという。

     ショスタコービッチの政治的和音については、 http://www.absoluteastronomy.com/encyclopedia/d/ds/dsch3.htm、及びhttp://www.absoluteastronomy.com/encyclopedia/d/dm/dmitri_shostakovich.htm(どちらも1030日アクセス)参照。

何ともうさんくさい感じのする説なのですが、出版前の8月末時点で、ニューヨークタイムスが紹介(http://www.nytimes.com/2005/08/30/books/30shak.html?pagewanted=print前掲)し、英オブザーバー紙が書評で取り上げた(http://observer.guardian.co.uk/uk_news/story/0,6903,1557964,00.html前掲)、ともなれば、無視するわけにはいきません。

 ほんの少しだけ、彼女がどんなことを言っているかをご紹介しましょう。

 英国教会が成立し、カトリックが禁止されてから70年経過した頃からシェークスピアは活躍を始めたが、この間、隠れカトリック教徒達は、余儀なく隠語を使ってやりとりをするようになっていたが、シェークスピアはその作品の中で、これを発展させた(注9)。

 (注9)ちなみに、アスキスは、シェークスピアの博識の理由についても、彼が密かにオックスフォード大学の中のカトリックに理解のある学舎(school)で学んだ、という新説を立てている。もちろん、当時の英国の大学にはカトリック教徒は入学できなかった。

 

シェークスピアがhighとかfair、あるいはRed roseと言っているときはカトリックを意味しており、lowとかdarkと言っているときはプロテスタントを意味している。また、tempeststorm(どちらも「嵐」)は、プロテスタント宗教改革を指しており、カトリック教徒の視点でこれがもたらした世界の恐るべき激動を表現している。

 シェークスピア独自の隠喩としては、次のようなものがある。

 彼が作品の中でしばしば用いた、Turtle doveヤマバト)、Nightingale(ナイチンゲール)、Five(五)(注10)という言葉は、弾圧されているカトリック教会ないし教徒の隠喩だ。

 (注10)ヤマバトは伝統的に、イエスの使徒達を表す。ナイチンゲールはギリシャ神話でアテネの王女フィロメーラ(Philomela)が変えられてしまう姿(http://www.pantheon.org/articles/p/philomela.html1030日アクセス)。五はキリストが十字架にかけられた時に負った傷の数。

また、恋愛をテーマにした作品を多数書いたのは、カトリックの真の信仰の重要性を示唆しようと試みたものだ。恋愛に陥る女性をしばしばsunburned(日焼けしている)とかtanned(日焼けして黒くなっている)と形容したのは、彼女たちがより神に近く、真のカトリック教徒であることを示唆している。

更に、「からさわぎ(Much Ado About Nothing)」の第一幕で、7月6日という日付に言及がなされているが、この日はヘンリー8世が英国教会の長であると認めることを拒絶した重臣トマス・モア(Sir Thomas More1478?1535年)(注11)が処刑された日であり、モアは隠れカトリック教徒の模範とされた人物だ。この日はしかも、ヘンリー8世の息子のエドワード6世が亡くなった日でもあり、隠れカトリック教徒はエドワードがこの日に亡くなったことを天罰だとみなしたものだ。

 (注11)言わずと知れた「ユートピア」の著者、下院議員を経て、平民としては初めてLord Chancellor(国璽尚書)に任ぜられた。死後、ローマ法王により、聖人に列せられた。

太田述正コラム#9172005.10.21

<シェークスピアをめぐって(その2)>

2 シェークスピアの作品の隠れたモチーフ

 (1)謎の人、シェークスピア

 シェークスピアはシェークスピアだ、という立場に立つとしても、彼にまつわる様々な謎をどう説明するか、という難問が残ります。

(以下、http://books.guardian.co.uk/reviews/classics/0,6121,1323024,00.html20041010日アクセス)、http://www.csmonitor.com/2004/1019/p15s02-bogn.html20041019日アクセス)、http://observer.guardian.co.uk/uk_news/story/0,6903,1557964,00.html(8月28日アクセス)、http://www.nytimes.com/2005/08/30/books/30shak.html?pagewanted=print(8月30日アクセス)による。)

 まず、いくらシェークスピアの博識が不思議でも何でもなかったとしても、知識を確認したり増やしたりするために本を読む必要があったはずですが、シェークスピアの遺言書の中に、蔵書への言及は全くありません。そもそも、シェークスピアは本を買ったり借りたりした形跡すらないのです。

 そこでシェークスピアは、ロンドンの本屋をハシゴして本を読みあさり、記憶するかノートに大事なところを書き写していたのではないか、と推測する学者もいます。

 彼の11歳の息子ハムネット(Hamnet)が亡くなった時に、シェークスピアが全く動揺した様子が見られない(注5)ことも不可解です。

 (注5)もっとも、その4?5年後に書かれた「ハムレット」こそ、息子への鎮魂作である、とする学者もいる。蛇足ながら、遺言で妻に「二番目によいベッド」しか残さなかったことは、夫婦仲が冷え切っていたからだとすれば、不可解とは言えまい(太田)。

 

 より大きな謎は、シェークスピアがどうしてあれほど秘密めかした一生を送ったかです。

 何と、シェークスピアの筆跡で書かれた手紙が一つも残されていませんし、彼の作品は、存命中にはほとんど出版されていないのです。

また、あれほどの名作を数多く残したというのに、彼がカネを儲けたという形跡が全くないのです。それに、当時、劇の戯曲の出版の際には、戯曲ごとに異なったパトロンへの献呈の辞をつけてご祝儀をもらうのが通例だったというのに、シェークスピアの戯曲には、全く献呈の辞がつけられていません。シェークスピアは極めてカネに細かい人物だったにもかかわらず・・・。

 更に、彼の作品の大部分は、死後7年目にしてようやく出版されるのですが、その印税が遺族に渡っていないばかりか、シェークスピアの子孫は、シェークスピアの文学的業績について、一切語ることがありませんでした。

 それはシェークスピアが隠れカトリック教徒だったからだ、という説が1850年代から唱えられています。

最近、改めてこの説が話題になっています。

 隠れカトリック教徒説の根拠の第一は、シェークスピアの故郷のワーリックシャー(Warwickshire)が隠れカトリック教徒の巣窟であり、父親(注6)を始めとして彼の近親者にも隠れカトリックが沢山いた(コラム#183)ほか、彼の通った中等学校にも何人も隠れカトリック教徒(イエズス会信徒)の教師がいて、その事実が露見して逃亡したり惨殺された人が出ていることです。

 (注6)ストラットフォードの執行吏や市長を勤め、カトリック教徒を取り締まらなければならない立場であったにもかかわらず、隠れカトリック教徒達をかくまった。もっとも、シェークスピアの父は隠れカトリック教徒ではなく、風向きが変わった時に備えて保険をかけていただけだ、という説もある。

 

根拠の第二は、シェークスピアが1580年と81年に何をしていたのか記録が残っていない一方で、同じ時期に、極めてよく似た名前のWilliam Shakeshafteという男がランカシャー(Lancashire)地方の隠れカトリック教徒の邸で家庭教師をしていたという記録があることです。

 その頃、近くに住んでいたのでシェークスピアが会った可能性があるキャンピオン(Edmund Campion)は、隠れカトリック教徒不穏分子であることが露見して1581年に殉教し、後にローマ法王によって聖人に列せられていますし、シェークスピアが1587年にロンドンに初めて上京した時には、串刺しにされた隠れカトリック教徒達の首をロンドン橋上で目にしたはずです。

 なるほど、こういうことであれば、シェークスピアが仮に隠れカトリック教徒であったならば、秘密めかした生活を送らざるをえなかったはずです(注7)。

 (注7)イギリスのカトリシズムとの戦いの歴史については、コラム#172181183を参照のこと。

 

しかし、それならそれで新たな疑問が湧いてきます。

 シェークスピアの作品は、当時のイギリスの多数派の物の考え方で貫かれていて、全くカトリック臭がしないのはなぜか、という疑問です。

 (2)カトリシズムへのオマージュとしてのシェークスピア作品?

 そこへ今年、シェークスピアは、その表見的にはカトリック臭が全くしない戯曲や詩に、実は暗号でカトリシズムへのオマージュを込めている、という説が登場したのです。

太田述正コラム#9162005.10.20

<シェークスピアをめぐって(その1)>

1 シェークスピアの正体

 今回は、ちょっと息抜きをしましょう。

私は、以前(コラム#88で)「シェークスピアの詩人、劇作家としての才能の偉大さには瞳目すべきものがあるとしても、その他の点では、シェークスピアはチューダー朝のイギリスにいくらでもいた、フツーの人だったと考えられるのです。例えば、シェークスピアの恐るべき博識ぶりについては、「こうした知識は、当時は広範な公衆の知識だった。特にロンドンではそうだった」(アンドレ・モロア『英国史』)のであって、基礎的な教育しか受けたことがなく、ストラットフォードとロンドンしか知らない一介の俳優だった彼が、博識であっても何の不思議もないのです。」と記したところです。

(以下、特に断っていない限りhttp://www.sankei.co.jp/news/051006/bun005.htmhttp://www.timesonline.co.uk/article/0,,2-1811620,00.htmlhttp://stromata.typepad.com/stromata_blog/2005/09/a_new_shakespea.html(以上いずれも10月6日アクセス)、及びhttp://www.cnn.com/2005/SHOWBIZ/books/10/19/shakespeare.ebate.ap/index.html1020日アクセス)による。)

 しかし、生地ストラットフォードの中等学校(grammer school)しか出ていない、一介の中産階級の人間にあんな作品が書けるだろうか、とこの通説に首をかしげ、シェークスピア作品の真の作者は別にいる、とする説が昔から手を変え品を変えて出現してきました(注1)。

 (注1)クリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe)説、フランシス・ベーコン(Francis Bacon)説Edward de Vere, 17th Earl of Oxford説等がある。日本で正体探しが盛んに行われてきたところの、寛政6年(1794年)に突然現れて10ヶ月間に約140点の浮世絵の作品を残して忽然と姿を隠した東洲斎写楽(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B4%B2%E6%96%8E%E5%86%99%E6%A5%BD)のことを思い出す。

 

最新の説を一つご紹介しましょう。

 この説は、真の作者はサー・ヘンリー・ネヴィル(Sir Henry Neville1562??1615年)であるとするものです。

 ネヴィルは、廷臣であり、その生涯の大部分の期間下院議員を勤め、駐フランス大使を勤め、イギリス有数の家系に属し、祖先の親戚にシェークスピア(William Shakespeare1564?1616年。ネヴィルと殆ど同じ生没年であることに注意)の作品に登場する何人もの国王がいる、シェークスピアの遠戚の、激しい反カトリシズムで知られた人物です。

 この説によれば、ネヴィルの先祖、例えば「ヘンリー6世・第二部」に登場するRichard Nevil, the Earl of Warwick は、子孫にしか書けない正確さで描写されているし、「リチャード2世」に登場する、やはり先祖であるJohn of Gauntを含め、先祖はみんな好意的に描かれている、というのです。

 また、ネヴィルの残した1602年のノートには、「ヘンリー8世」が書かれるより11年も早い時点で、ヘンリー8世(1491?1547年)とその第二のお后のアン・ブーリン(Anne Boleyn)と1533年の結婚式(注2)の模様が記されているというのです。更に、ロンドンの第二バージニア会社(商社)の取締役として、ネヴィルは、その2年後に書かれた「テンペスト」の素材となった1609年のバミューダ沖での難破事故について記した秘扱いの手紙を読むことができる立場だったというのです。

 (注2)このヘンリー8世の再婚問題をきっかけとして、英国はカトリック教会から離脱し、国教会がつくられた(コラム#61504)。

 

そして、シェークスピアは宮廷での経験がなく、また欧州に行ったことが一度もなかったというのに、彼の書いたとされるものは、作者が、宮廷生活やエリザベス1世(1533?1603年。在位1558?1603年)時代の政治・経済の枢機やイタリア・フランスのことに、これらの国の言葉を含めて、造詣が深いことを示しているところ、ネヴィルは、欧州に行く度となく赴いており、「劇」の中で出てくる様々な都市や場所を訪問していて語学も堪能だったというのです。

 かつまたネヴィルは、1601年から1603年にかけて、エリザベス女王廃位の陰謀(注3)に関与した廉でロンドン塔に投獄されており、このことが「劇」が史劇や喜劇から悲劇に変わるきっかけになった(注4)と考えると平仄が合うけれど、シェークスピアにはそんな転機はなかった、というのです。

 (注3)エリザベスの愛人の一人であったエセックス(Essex)伯爵が1601年に起こした大逆事件(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B91%E4%B8%961020日アクセス)。

 (注4最初の悲劇である「ハムレット」が書かれたのは1601年から1602年にかけてのことだ。

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