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太田述正コラム#2099(2007.10.2)
<ミャンマー動く(特別編)(続々)>

1 始めに

 ミャンマー情勢が緊迫化して以来、2005年に上梓された米国人女性のラルキン(EMMA LARKIN。仮名)の’Finding George Orwell in Burma’のことが気になっています。
 どういうことか、ご説明しましょう。

2 オーウェルとミャンマー

 ラルキンは、ミャンマーの人々みんなが知っているというジョークを紹介しています。
 オーウェル(George Orwell。1903〜50年)はミャンマーに関する三部作、『ビルマの日々(Burmese Days)』(1934年)、『動物農場(Animal Farm)』(1945年)、そして『1984年』(1949年)を書いた、というのです。
 一番目は独立前のミャンマーを描いた小説であり、二番目と三番目は独立後のミャンマーを予見したかのような小説だ、というわけです。
 『1984年』は現在のミャンマーでは発禁になっているのですが、ラルキンは、「ミャンマーでは誰もこの本を読む必要がない。なぜならわれわれは日常的に1984年の世界の中に住んでいるのだから」という声や、『動物農場』はまことにミャンマー的な本だ・・。なぜなら豚や犬が統治している国の話だからだ」という声を記しています。
 
 オーウェルはイートン校を卒業するとすぐミャンマーに渡り、英統治機構の警察官として5年間を現地で過ごした後、1927年に帰国し、以後文筆生活に入ります。
 しかし、オーウェルは決してミャンマーのことを忘れず、ミャンマーを題材にして、小説(処女作)『ビルマの日々』や、彼の最も有名な随筆集である『像を撃つ(Shooting an Elephant)』等を書いたほか、結核に罹って死の床にあった時に、『喫煙室物語(A Smoking Room Story)』の梗概を残しています。

 これらの著作の中で、オーウェルは、英国の植民地統治の過酷さを描く一方で、ミャンマーの人々の絶望的なまでの素朴さと計算ずくの反道徳性についても容赦なく描いています。
 オーウェルがいた頃のミャンマーは、英領インド帝国内で最も暴力的で、盗賊団の跳梁、乱暴狼藉、そして殺人が日常茶飯事の地域でしたが、それは同時に豊かな地域でもありました。
 面白いのは、当時のミャンマーの英国人達・・英領インド帝国の英国人達と言い換えてもよろしい・・は、誰しもこのような過酷な植民地統治において彼らが果たしていた役割を恥じ、自己嫌悪感を抱いていたというのです。オーウェルもまたその例外ではありませんでした。
 しかし、そのオーウェルが「東洋人の連中には向かっ腹が立つ」と言っては、平気で召使いやクーリー達を杖で殴っていたというのですから呆れますね。

 ですから、オーウェルはミャンマーで抑圧された人々への愛に目覚め、爾後その執筆活動を通じて抑圧的体制への警鐘を鳴らし続けた、というラルキンの主張に疑問を投げかけ、スペイン内戦やナチスの台頭がオーウェルに与えた影響の方が大きいとする書評子もいるのです。

 とまれ、豊かであったはずのミャンマーが、今では世界でも最たる後進国の一つになってしまっています。
 ラルキンは、「英国はわれわれの血を吸ったが、ミャンマーの将軍達はわれわれの骨までしゃぶっている」という声を記しています。
 いずれにせよ、ミャンマーを60年以上統治した英国が、ミャンマーの現在についての責任を免れることはできないでしょう。
 ラルキンは、英国はミャンマー社会における伝統的な権威の源泉をすべて破壊してしまったため、英国人が去った時にミャンマーには混沌が訪れ、この真空状態を軍部が充たしたのである、と指摘しています。
 しかし、英領インド帝国の大部分を継承したインドではそうはならなかったところを見ると、これは説明になっていません。
 私自身は、ミャンマー軍を創建した日本もまた、一定の責任は免れないのではないか、と考えています。

3 ミャンマーの人々に残された尊厳

 『1984年』の主人公は、当局に対する反抗として、役にも立たないささやかな贅沢品であるところの、美しく磨かれた文鎮を購入します。
 ラルキンは、極貧のミャンマーの人々が、紅茶にクリームと砂糖を入れて英国風に飲むことでかろうじて人間の尊厳を維持している、と記しています。
 ここで、次の挿話を思い出しました。
 軟禁中アウンサン・スーチーに何年か前に、面会した英国人は、彼女のお付きに事前に何をおみやげに持って行ったらよいかを聞いたところ、消耗品(supplies)と読み物がよいと言われ、アムネスティーの年鑑やネルソンマンデラの回顧録がいいかなと思ったところ、ヴォーグかマリクレールの最近号の何冊かと顔面クリーム何箱かをご希望であると知り、なるほどと思ったというのです。
 軟禁されていても、平常心と人間の尊厳の維持に努めているのだな、と。
 しかし、ミャンマーの人々が尊厳を維持する手段が英国やフランスのものばかり、というところに痛ましい思いを禁じ得ないのは私だけでしょうか。

 (以上、
http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3647/is_200508/ai_n14901574/print
http://72.3.142.32/reviews/05/rev05908.html
http://sleepinginthemountains.blogspot.com/2006/02/book-review-finding-george-orwell-in_01.html
(いずれも10月2日アクセス)による。また、アウンサン・スーチー女史の挿話は
http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/7015465.stm
(9月28日アクセス)による。)
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 コラム#2100(2007.10.2)「朝鮮戦争をめぐって(その6)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
 ・・
 ・・孫文は、1920年にソ連の支援を仰ぐこととし、ソ連の指示に従って、国民党をソ連共産党と瓜二つの形態にし、爾後国民党はこの形態を台湾に逃げ込んでからも1990年代まで維持することになります。
 また、やはりソ連の指示に従って、創設されてから日が浅かった中国共産党(以後「共産党」と呼ぶ)とも協力関係を結び(第一次国共合作:1924〜27)、共産党員は党員のまま国民党員になります。
 この頃孫文が盛んに唱えていたのが「連ソ容共」です。
 この国民党が1924年に採用したのが孫文の、民族主義・・民権主義・・民生主義・・からなる三民主義・・です。
 民族主義は危険なナショナリズムの旗を掲げたということですし、民権主義とはその実、一党独裁下の民主集中制を意味していましたし、民生主義に至っては、孫文自身、中身をつめずに終わってしまっています。
 この時点では国民党は、ファシスト的要素と共産主義的要素が未分化な民主主義独裁政党であったと言えるでしょう。
 ・・
 1925年に孫文が病死すると・・1926年<に>・・北伐・・を開始します。
 ・・1927年、この北伐の過程で蒋介石は上海で、そこに党本部を置いていた共産党に対し血の弾圧を行<い>・・ます。
 ここに国民党は、共産主義的要素が排除されたファシスト政党となり、軍閥との内戦に加えて、共産主義政党・・たる共産党とも内戦を行いつつ支那統一を目指すこととなり、それに第三勢力たる日本がからむ形で支那の歴史が進行していくことになるのです。
 蒋介石の国民党がファシスト政党であった証拠として、国民党は亡くなった孫文を神格化し、一党独裁制/民主集中制を引き続き堅持するとともに、資本家に対する優遇政策をとり、かつ1928年から始まったドイツとの軍事協力を、1933年のナチスのドイツ権力掌握以降も、1938年にナチスドイツ側から解消されるまで継続したことが挙げられます・・。 ・・
 しかし蒋介石は、結党の経緯もあって容共勢力を抱えていた国民党からこれらの勢力のを完全にパージすることに成功せず、このこともあって共産党との対決姿勢に一貫性を欠き、1936年の西安事件(・・コラム#178、187、234、256)を契機として第二次国共合作(1937〜45年)が成立したために共産党を壊滅させる機会は永久に失われ、日本の敗戦後の国共内戦に敗れ、台湾に逃走することになるのです。
 私が国民党を容共ファシスト政党と呼ぶゆえんがお分かりいただけたでしょうか。
 この国民党は極めて腐敗したファシスト政党でもあったことを付言しておきます・・。
 ・・
 それでは、どうして国民党政権との戦争が日本の自衛戦争であったのでしょうか。

(続く)

太田述正コラム#2093(2007.9.29)
<ミャンマー動く(特別編)>

1 始めに

 少し、コーヒーブレイクと行きましょう。

2 ミャンマー最後の国王即位のいきさつ

 1878年にミャンマーのミンドンミン(Mindon Min)王(注1)が瀕死の状態に陥った時、王妃は彼女の義理の息子であるまだ少年のティボー(Thibaw)王子を82人の王位承継資格者を退けて王位に就けようとしました。

 (注1)18世紀中葉にアラウンパヤー(Alaungpaya)王によってビルマが再統一され、コンバウン王朝が始まるが、ミンドンミン王は10代目、ティボー王は11代目にしてミャンマー最後の国王。ミンドンミンは在位が1853〜78年であり、開明的な国王であり、前代の国王の時に1852年の第2次英緬戦争で奪われた沿岸地方の回復に努めるもそれを果たせなかった。彼は1857年に新都マンダレーをつくった。(
http://www.myanmars.net/myanmar-history/king-mindon.htm
。9月29日アクセス)

 まず彼女は、宮廷で働いていたフランス人の機織り職人にベルベット生地を織らせました。
 2月15日の夜、義理の息子の強力な競争相手の所を刺客が襲い、ベルベット製の袋に彼らを詰め込んで殴って死に至らしめました。
 これは、貴族の血を流すことはタブーだったので、ベルベットに彼らの血を吸収させるとともに、彼らの叫び声が聞こえなくするためでした。
 こうしてティボーはめでたく王位に就いた(ただし、正式即位は1881年)のです(注2)。

 (以上、特に断っていない限り
http://www.guardian.co.uk/burma/story/0,,2179847,00.html
(9月28日アクセス。以下同じ)による。)

 (注2)在位1878〜85年。1885年の第3次英緬戦争で敗れ、1886年にミャンマーは英国の植民地となり、ティボーは王妃らと共にインドのヤダナルギリ(Yadanargiri)に移送され、そこで1916年に58歳で生涯を閉じる。

 大部分が仏教徒であり、穏和な印象のあるミャンマー人の残虐性が窺える逸話ですね。

3 サヤサンの叛乱

 1930〜32年のサヤサン(Saya San)の叛乱は、英領時代のミャンマー最大の叛乱です。
 この叛乱にも僧侶達が大きな役割を果たしました。
 叛乱者達は刀と槍だけで戦ったのですが、英軍兵力約10,000人が投入されてようやく鎮圧されます。
 この間、捕らえられて処刑された叛乱指導者の僧侶サヤサン(Saya SanまたはSayar San)を含め、ミャンマー人約10,000人が死亡しました。

 (以上、
http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/II28Ae03.html
http://www.myanmars.net/myanmar-history/sayasan.htm
による。)

 一見この叛乱は、日本統治下の朝鮮半島で1919年に起こり、朝鮮人7,509人が死亡した三・一事件と対比されるべきもののように思われるかもしれませんが、植民地化からわずか9年目に起こった三・一事件とは異なり、44年目も経ってから起こったサヤサンの叛乱は、英国によるミャンマー統治がいかに過酷なものであったかを示すものであると私は考えます。
 というのは、サヤサンの叛乱の原因には反英的要素や仏教的要素もあるものの、主たる原因は経済的なものであったからです。
 ミャンマーは英領インド帝国と一体化させられており、インド人が流入し、インド人高利貸しによってミャンマーの農民達は財産を奪われ、しかも植民地当局による重税に苦しんでいました。
 そこへ、経済不況によって米の価格が暴落し、農民達は深刻な生活苦に陥り、叛乱を起こしたのです。

 (以上、ミャンマーネット上掲、及び
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95
による。)
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 コラム#2094(2007.9.29)「朝鮮戦争をめぐって(その3)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
 ・・
3 朝鮮戦争とは何だったのか

 (1)米国の東アジア戦略大転換の契機

 朝鮮戦争は、日本の再軍備を認めない戦略から、日本を米国の東アジア防衛の拠点とする戦略への大転換を米国にもたらしました。
 この米国の戦略転換の転轍手となったのは昭和天皇であり、以下のような経過をたどります。

 <中略>

 この際、付け加えておきましょう。
 当時の吉田茂首相は、米国の本格的再軍備命令に抵抗し、警察予備隊の創設でお茶を濁した上、7月末の参議院外務委員会において、「私は<米国に>軍事基地は貸したくないと考えております」とまで発言します。
 これらが吉田による米国に対する意趣返しであることに天皇が気付いていたのか気付いていなかったのかは定かではありませんが、いずれにせよ危機意識を募らせた天皇は、同年8月、日本との講和問題の責任者であるダレスに対し、「基地問題をめぐる最近の<参議院における>誤った論争も、日本の側からの自発的なオファによって避けることができたであろう」に、との吉田を批判する「文書メッセージ」を直接送っています。
 とまれ、昭和天皇の描いた日本再軍備プラス双務的日米安保構想は、こうして吉田茂によって軍隊もどきの自衛隊プラス片務的日米安保へと矮小化されてしまい、日本は米国の保護国に成り下がってしまったわけです。
 ・・

 (2)東アジア25年戦争の最終章

 私は、朝鮮戦争(1950〜51年)は、1925年の中国国民党の北伐開始によって始まった東アジア戦争の最終章である、とらえています。
 ・・私は、東アジアにおける自由民主主義と全体主義との戦いという視点に立って25年戦争ととらえているのです。
 その主要アクターは、自由民主主義の日本と米国、共産主義(スターリン主義)のソ連(ロシア)と中国共産党、そして容共ファシストの中国国民党、です。

(続く)

太田述正コラム#1677(2007.3.1)
<英国のインド統治がもたらしたもの(その2)>(2007.9.21公開)

 ムガール帝国のアウラングゼブ皇帝の1707年の死後、英東インド会社はたんまり賄賂を支払ったおかげで、ベンガル、ハイデラバード、グジャラートで無関税貿易権を与えられました。
 1757年にプレッシーの戦いでフランスのインド勢力を打ち破った東インド会社は、ベンガルで、更に税収と域内経済を掌握することとなります。
 この東インド会社の搾取と自然災害によって、ベンガルで1770年に大飢饉が起きるのですが、その際、同会社が減税どころか増税を行い、穀物の放出どころか強制買いだめを行ったため、前述したように120万人もの死者が出たのです。
 やがて、東インド会社は、イギリスの大土地所有制に倣って、支配下の地域に大土地所有制(ザミンダール(zamindar)制)を導入し、大土地所有者を東インド会社の藩塀としました。この過程で、2000万人にのぼる小土地所有者達が所有権を奪われ、路頭に迷うことになったのです。
 19世紀に入ると、東インド会社は、イギリスの産業「革命」が生み出した大量生産された綿織物をベンガル等に売り込むべく、インド産の綿製品や絹製品には70〜80%の関税をかける一方で、英国産の綿製品には2〜4%の関税しかかけず、この結果、ベンガルを中心としたインドの綿織物産業は壊滅します。
 1830年代には、東インド会社は、アジア貿易独占権を英国議会によって剥奪されます。
 これによる損失を回復すべく、同会社は、支那へのお茶の輸出を倍増させるとともに、支那からの輸入品の代価を禁制品であったアヘンの支那への密輸出によって確保しようとしました。そこで同会社は、インドでのアヘン栽培を独占すべく、西部のマラータ同盟の支配地やシンドへと支配地を広げて行きました。
 その結果、1840〜42年に支那でアヘン戦争が起こり、勝利を収めた英国が、香港を獲得する運びになることはご承知のとおりです。
 英国の哲学者にして経済学者であったジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill。1806〜73年)は30年以上にわたって東インド会社の幹部を務めましたましたが、東アジア会社について、「野蛮人の教育と正しい統治にはうってつけだ」と言い放っています。
 また、1854年にある英国人は、「インドでは<東インド会社は、>公共事業を殆ど行っていない。・・これまでの<同社の>モットーは、「何もするな、何も起こらないようにせよ、誰にも何もやらせるな」だ。それに東インド会社は人々が飢饉で死のうと道路や水がなくても全く気にしない」と記しています。
 更に、1858年に英下院である議員は、「マンチェスターという一つの<英国の>都市が住民のための水道に費やす金額が、東インド会社がその広大な領地において1834年から1848年の14年間に費やしたあらゆる種類の公共事業経費の総額よりも多い」と演説しています。
 インド大反乱(昔はセポイの乱と呼ばれた)が起こったことで、1858年に東インド会社はインド支配権を返上し、以後インド亜大陸は英国政府が直接統治するところとなりますが、それまでのインド統治の過酷な実態はほとんど変わりませんでした。
 こうして、19世紀後半にインドのGDPは50%も減り、インド独立までの190年間の経済成長率はゼロということになってしまったのです。
 (以上、アジアタイムス前掲、及びhttp://india_resource.tripod.com/colonial.html前掲による。)

3 終わりに

 1913年にアジア人として初めてノーベル文学賞を受賞したベンガルの詩聖タゴール(Rabindranath Tagore。1861〜1941年)は、1936年に英国人の友人に宛てた手紙の中で、「100年間の英国による統治の後の、恒常的な食糧と水の欠乏、衛生と医療の欠如、通信手段の不存在、教育の貧困、わが村々に充満する絶望・・」を指摘しつつ、それは、団結して抵抗することができなかったインドの人々の自業自得であるとし、欧米の人々の中で英国人が最も非欧米人との接し方において尊敬に値する、なぜなら英国人は悪いことはそれが英国人によってなされた場合でも悪いと言うからだ、と述べ、インドが英国人によって統治されたことはせめてもの幸せであったとしています。
 米国人もよい方だけれど、黒人差別や、地位に応じた差別を行う点で英国人には及ばないというのです。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/fromthearchive/story/0,,1885545,00.html
(10月3日アクセス)による。)
 タゴールは日本を訪問したことがあるのに、この英国による植民地統治に比べて、格段に優れていた日本による植民地統治に気付かなかったのでしょうか。
 また、韓国の有識者は、どうして英国のインド統治や米国のフィリピン統治と日本の朝鮮半島統治を比較しようとしないのでしょうか。

(完)

太田述正コラム#1673(2007.2.25)
<英国のインド統治がもたらしたもの(その1)>(2007.9.20公開)

1 始めに

 このところ、支那とインドが高度経済成長を続けており、21世紀はアジアの世紀になると言われています。
 しかし、1700年の時点を振り返ってみれば、支那とインドは併せて世界のGDPの47%を占めていたと推計される一方で、西欧(含むブリテン諸島)の推計値は26%に過ぎなかったのです。
 1870年には支那とインドを併せたGDPの世界のGDPに占めるシェアは29%にまで落ち込み、その一方で西欧(含む英国)シェアは42%へと上昇した(
http://www.atimes.com/atimes/Global_Economy/IA27Dj01.html
。1月27日アクセス)ものの、現在の支那とインドの高度経済成長は、単に両地域、ひいてはアジアが本来の状態へと復帰しつつあるだけのことであると考えるべきでしょう。
 それでは、この間の支那とインドのGDPシェアの異常な落ち込みはどうして生じたのでしょうか。
 元凶は西欧列強のアジアの植民地化であったのではないか、という疑いを誰でも抱くことでしょう。
 アジアの植民地化の中心となったのは英国です。
 そこで、英国のインド統治の実績を見てこの容疑を裏付けてみましょう。

2 英国のインド統治の実績

 (1)客観的事実
 
 英国統治下のインド亜大陸において、1911年には原住民の識字率は6%に過ぎなかったところ、それが1931年には8%、1947年には11%に上がっただけでした。ところが独立後には、わずか50年でインドの識字率はその5倍に高まっています。また、1935年の段階で、わずかに1万人に4人しか大学以上の高等教育機関に進学していませんでした。
 1757年には、英東インド会社が報告書の中でベンガル地方のムルシダバード(Murshidabad)について、「この都市はロンドンのように広くて人口が多くて豊かだ」と記したというのに、1911年にはボンベイの全住民の69%が一部屋暮らしを余儀なくされるようになっていました。(同じ時期のロンドンでは6%。)1931年には74%にまでこの比率が高まっています。インド亜大陸の他の大都市も皆同じようなものでした。第二次世界大戦直後にはボンベイの全住民の13%は外で寝起きをすることを強いられていました。
 農業人口は1891年には61%だったのが、1921年にはむしろ73%に増えていました。この点でもインド亜大陸では歴史が逆行したのです。
 1938年の国際労働機関(ILO)の報告書によれば、インド人の平均寿命は1921年にわずか25歳であったところ、それが1931年には23歳に短縮しています。また、Mike Davis, Late Victorian Holocausts(コラム#397)によれば、インド人の平均寿命は1872年と1921年の間に20%短縮しました。
 1770のベンガル大飢饉の時には、東アジア会社統治下のベンガル地方の人口の六分の一にあたる120万人が死亡しましたし、この会社統治下のインド全体で19世紀前半には7回の飢饉が起こり、150万人が死亡し、英国の直接統治となった19世紀後半には24回の飢饉が起こり、公式数字ベースでも2,000万人以上が死亡しています。また、Davis上掲によれば、英国がインド亜大陸全体を支配した120年間に31回も大飢饉が起こっているところ、それ以前の2,000年間に大飢饉は17回しか起こっていないとしています。
 以上は、インド亜大陸の人口が爆発的に増えたせいでは決してありません。
 1870年から1910年にかけてインド亜大陸の人口は19%増えましたが、この間、宗主国のイギリス(英国ではない!)の人口の伸びは実にその3倍の58%であり、欧州のそれは45%だったのですから・・。
 (以上、アジアタイムス前掲、
http://india_resource.tripod.com/colonial.html
http://en.wikipedia.org/wiki/British_East_India_Company
(どちらも2月25日アクセス)による。)

 (2)英国がやったこと

 英国は一体インド亜大陸で何をやったのでしょうか。
 それには、まず、英東インド会社がインド亜大陸で何をやったかを振り返らなくてはなりません。

(続く)

太田述正コラム#2066(2007.9.16)
<海自艦艇インド洋派遣問題(その2)>

 実は、メルケル首相の本当の発言は、かなりニュアンスが違うのです。
 彼女は、「もし日本が国際社会でより大きな役割を果たそうと思っているのなら、より大きな責任を果たさなければならない」と言ったのです(
http://www.taipeitimes.com/News/world/archives/2007/08/31/2003376595
。9月1日アクセス)。
 これは、海上自衛隊による給油等の補給活動という軽易な貢献に加えて、アフガニスタン本土における陸上自衛隊ないし航空自衛隊による貢献を求めた、と受け止めるのが自然です。
 小沢氏も、そう受け止めたからこそ、わざわざ、アフガニスタン国際治安支援部隊(ISAF。コラム#561、1899、1991)は国連の決議に明確に基づいているとは言えないので、日本はISAFには参加しない旨を言明した(台北タイムス上掲)(注2)に違いないのです。
 
 (注2)ISAFが国連安保理決議1386という明確な根拠に基づいていることからすれば、これはあってはならない発言であるし、そもそも、先月行われたシェーファー米駐日大使との会談の際の、「国連安保理決議1386に基づく・・ISAF・・への参加は可能だ」との小沢氏自身の発言(コラム#1899)と矛盾する。テロ特措法の延長反対という一点を除き、小沢氏は自衛隊の対テロ戦への貢献問題で、その都度思いつき的に発言しているとしか思えない。ちなみに、ドイツはNATO率いるISAFに3,000名の兵力とトルネード戦闘機6機を提供している(台北タイムス上掲)。

 ドイツも海自補給艦から給油を受けています(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E6%B4%8B%E6%B4%BE%E9%81%A3
。9月16日アクセス)が、ドイツ海軍、ひいてはメルケル首相は、海自艦艇のインド洋派遣の隠された目的を知らないのでしょう。

 (4)対イラク戦参加艦艇への給油等?

 海自艦艇による給油等の補給活動について、米第5艦隊(注3)のホームページで、イラク戦争の作戦名である「OIF(イラク自由作戦)」の表題のもとに、「日本政府は8662万9675ガロン 以上、7600万ドル相当以上の燃料の貢献をしてきた」などと書かれ、末尾にアフガニスタン戦争を意味する「不朽の自由作戦(OEF)」の開始以来 とただし書きはあるものの、全体としてはイラク戦争に参加する艦船に給油したとも読める書き方をしていたことが、日本で政治問題化しかけたため、米国防総省はその記述を削除するとともに、釈明を行いました(
http://www.asahi.com/politics/update/0911/TKY200709110518.html
(9月12日アクセス)、
http://www.asahi.com/politics/update/0914/TKY200709140391.html
(9月15日アクセス)、
http://alcyone.seesaa.net/article/53612856.html
(9月16日アクセス))。

 (注3)実は、1980年代に私が日米共同演習に関わる仕事を当時の防衛庁でやっていた頃は、米海軍にとって第5艦隊とは、海上自衛隊の通称だった。「なるほど、だから5が欠番だったのか、それなら1、4は何だ。1は英海軍だろうが、4はどこだ?」と頭を悩ましたものだ。

 しかし、こんなことが政治問題化するなんて噴飯ものです。
 「(1)何をやっているのか」に記したことからもお分かりのように、インド洋でパキスタン沖に展開している米艦等の行っている業務は、アフガニスタンにもイラクにも共通する、いわば汎用性のある業務ばかりであり、特定の艦艇がアフガニスタン用に業務をしているのかイラク用に業務をしているのか、本来その艦艇に聞いたって分からないはずだからです。
 それに、この海域に所在する米艦は、すべて米第5艦隊、及びその上級司令部である米中央軍の指揮を受けており、中央軍司令官または第5艦隊司令官の命があれば、ただちに業務を変更したり、パキスタン沖海域を離れて別の海域、例えばペルシャ湾、に赴かなければならないのであり、そんなことを日本が詮索できる立場ではないことを考えればなおさらです。
 実際、そんなことなど日本政府自身、と言って悪ければ海上自衛隊自身、全く気にしていない証拠に、海自補給艦は、米英の補給艦にも給油をしてきたところです(ウィキペディア上掲)。米英の補給艦がいかなる国のいかなる艦艇にその燃料を給油しようと自由であることは言うまでもありません。

3 以上のほかに理解して欲しいこと

 (1)アフガニスタンこそ対テロ戦争の中心

 米軍は行きがかり上イラクに依然重点を志向していますが、対テロ戦争の中心は一貫してアフガニスタン及びその周辺です。
 これに関連して重要なことは、今や、米国はアルカーイダ等のイスラム過激派の主たる攻撃対象ではなくなっていることです。
 なぜなら、英国や西欧諸国のイスラム教徒の方が、米国のイスラム教徒に比べて人口比が大きいし、より疎外されていて、イスラム過激派へのシンパが多いため、英国や西欧諸国における方が、テロ活動等を実行しやすいからです。
 このイスラム過激派の最大の拠点は、パキスタンとアフガニスタンの国境地帯であり、そのアフガニスタン情勢は、タリバンの反転攻勢によって悪化しつつあります。
 だからこそ、ドイツ等の西欧諸国は、イラクには派兵しなかったり、イラクからは撤兵しつつも、アフガニスタンにはむしろ兵力を増派してきている、という経緯があるのです。

 (以上、
http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,,2167942,00.html
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-klein13sep13,0,1378807,print.story?coll=la-opinion-rightrail
(どちらも9月14日アクセス)による。)

 ですから日本が、新たな自衛隊による貢献抜きで、海自艦艇をインド洋から引き揚げるならば、それは米国を怒らせるだけでなく、それ以上に英国や西欧諸国を怒らせることになるのです。

 (2)インド洋における海自プレゼンスの意義

 今年4月中旬に房総沖で米日印3か国による初めての海軍演習が実施されましたが、今月初頭には、米日豪印4か国が初めて合同でインド洋で海軍演習を行いました。(シンガポールも参加しました。)
 この演習には、合わせて26隻の艦船が参加し、米国とインドは空母を派遣し、日本からは、護衛艦2隻と哨戒機2機が参加しました。
 これは、民主主義国家である上記4か国による軍事提携関係(Quadrilateral Initiative)樹立を踏まえて行われたものです。
 先月の安倍首相や小池防衛相(当時)、更には米太平洋軍司令官のキーティング(Timothy Keating)海軍大将の訪印や、7月のオーストラリア国防相の訪印、先月のオーストラリア海軍司令官の訪印は、すべてこの海軍演習の実施をめがけての政治的デモンストレーションであったと理解すべきなのです。
 この演習の直接的名目は、シーレーンの安全確保のための参加各国の防衛面での関係強化ですが、真のねらいが、情報開示が不十分なまま軍事力を増強しつつあるところの非民主主義国家たる中共への牽制にあったことは公然の秘密です。

 (以上、
http://blogs.yahoo.co.jp/huckebein0914/48615417.html
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1189224676/l50x
(どちらも9月16日アクセス)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/6968412.stm
(9月4日アクセス)、
http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2007/09/09/2003377972
(9月10日アクセス)による。)

 以上から容易に想像できることは、日本が恒常的にインド洋において海自艦艇のプレゼンスを図ることが期待されていることです。
 給油などというイチジクの葉は取り去って、海自艦艇が補給艦を伴いつつ、インド洋で堂々と情報収集・監視活動ができるようになるのはいつのことなのでしょうか。

 (3)特措法システムそのものがナンセンス

 このほか、日本及びその周辺以外における自衛隊の行動の態様や期間を法律でしばるという特措法システムそのものがナンセンスであり、そんなことをしている限りは、自衛隊はいざという時、何の役にも立たない、という根本的な問題があるのですが、この話の詳細は、別の機会に譲りましょう。

(完)

太田述正コラム#2013(2007.8.21)
<米印原子力協力と日本>

1 始めに

 「2006年12月18日にブッシュ大統領が署名して成立した米印平和原子力協力法<(Hyde Act)>・・は、NPTに加盟していない国への核<技術や核燃料の>・・輸出を禁止した国内法においてインドを特別扱いすることを認めるものである。
 その代わり、インドは、<今後核実験を行わないこととし、また、民生用原子炉について、IAEAの査察を受けることとしている。>
 日本も含む45ヶ国からなる原子力供給国グループ(NSG<=Nuclear Suppliers Group>)は、NPT未加盟国への原子力関連輸出を認めていないため、この規則の改定が必要となる。NSGは、コンセンサスでものごとを決めるので一国でも反対すれ ば改訂はできない。・・
 米国の国内法もNSGも、1974年にインドが行った核実験を契機に出来たものである。インドは、「平和利用目的」で入手したカナダ製の原子炉・・で米国製の重水を使ってプルトニウムを生産し、これを材料として核実験を行った。米国は、このような「平和利用」技術の軍事用転用が生じるのを防ぐために作った法律と、自らが主導して設立したNSGの規則を対中国の戦略的構想の下で変えようとしている。・・
 <日本には、>米印両政府や国内の産業界などからNSGで米印原子力協力を支持するようにとの圧力がかかっている。」

 (以上、
http://kakujoho.net/us/us_ind3.html
(8月20日アクセス)、及び
http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/6955652.stm
(8月21日アクセス)による。)

 以上を踏まえ、「核兵器を持ちNPT(核拡散防止協定)にも加盟していないインド。核兵器廃絶という立場に立つ日本ですから本来は米印原子力協力にも反対しなければなりません。もちろんインドが核兵器を放棄し、今後一切軍事用の核開発をしないと約束するなら話は別でしょうが、そんなことはありえないでしょう。・・」という投稿が情報屋台の掲示板になされたので、これに答える形で私も投稿しました。
 以下は、その投稿です。

2 私の投稿

 日本は米国の保護国であり、米国の核抑止力に依存する立場ですから、米国の主要核政策に背馳するような政策を日本が貫き通せるわけがありません。
 そう言ってしまうと身も蓋もありませんが、本件を考えるにあたっては、少なくとも以下のような諸事情を勘案すべきでしょう。

 1974年にインドは「平和目的」で核実験を行いましたが、1998年5月に一連の核実験を行い、核保有を宣言したのは成立間もない、ヒンズー教政党たるBJP(Bharatiya Janata Party) 政権でした(
http://www.ucpress.edu/books/pages/8386/8386.ch01.html
。8月21日アクセス)。
 2004年にシン(Manmohan Singh)氏を首相とする現在の国民会議派中心の連立政権が成立した(コラム#354、355)のですが、この政権が推進している米印平和原子力協力に対し、最大野党の右派のBJPと現連合政権に閣外協力している左派の4つの共産党が反対しています。
 BJPの反対理由は、インドが今後核実験を行えなくなり(注)、しかも民生用原子炉に対しIAEAの査察を受けることは、インドの核安保政策のフリーハンドを失わせるというものです。

 (注)米国の米印平和原子力協力法は、インドが核実験を行ったらこの法律は自動的に失効すると規定している。また、その場合、米国はこの協力法に基づいてインドに供与された核技術と核燃料を返還するよう求める権利を留保している。

 共産諸党は、米国の経済的政治的覇権への反対を党是としており、とりわけ米国によってインドのイラクやイラン政策に制約が課されることを懼れています。
 連立政権としては、BJPの反対は仕方がないとしても、共産諸党が閣外協力を止めると政権運営が成り立たなくなるので悩ましいところです。

 (以上、特に断っていない限り、BBC前掲及び
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/08/19/AR2007081900882_pf.html
(8月21日アクセス)による。)

 以上ご説明したように、米印原子力協力は、インドの核開発に制限を課する側面があることから、必ずしも核廃絶を推進してきた日本の立場と抵触するわけではありません。
 しかも、インドが世界第2の人口大国であり、かつ近年その経済が活況を呈していることから、同国との友好関係を増進させることは日本の国益にも合致します。
 また、(訪印しようとしている)安倍首相にとって、その価値観外交の観点からも、インドの世界最大の民主主義を擁護すべきところ、宗教原理主義的なBJPやアナクロの共産諸党の攻勢に晒されている現中道主義的連立政権の足を引っ張らない配慮が必要でしょう。
 それに何と言っても、インドは、共産党の支配下にある隣国中国と好むと好まざるとにかかわらず対峙している日本にとって、地政学的観点から生来的同盟国であることを忘れてはならないでしょう。
 ですから私は、日本としては、NSGで米印原子力協力に賛成することとし、その上でNPTへの加入等、核開発に係るより一層の制限を受け容れるようにインドに働きかけて行くことが得策であると思うのです。

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