カテゴリ: 文学批評

太田述正コラム#4792(2011.6.6)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その8)>(2011.8.27公開)

 「伊藤が<韓国>併合を口にしたことはない。公にはむしろ「合併するの必要なし。合併は甚だ厄介なり」(1907年7月29日・・・)と慎重論を唱え続けた。
 伊藤が翻意して併合を認めたのは、1909年・・・4月である。桂<太郎>首相<と>小村寿太郎外相は・・・伊藤に併合の直談判を行うことに決し、4月10日、・・・上京中の彼のもとを訪問した。・・・
 <当時、>間島はじめ満州問題の一括解決を護持して譲らなかった中国政府に対して日本は譲歩し、満州問題を切り離して朝鮮半島の確保に踏み切ったのである。・・・。韓国併合は、満州権益の一時的断念とセットで決定されたのだった。
 伊藤が韓国併合に同意したのは、おそらくそのような背景があってのことだろう。・・・
 では、併合後の伊藤は韓国統治をどのように構想していたのだろうか。・・・

 韓国八道より各10人の議員を選出し衆議院を組織すること
 韓国文武両班の中より50人の元老を互撰を以て撰出し上院を組織すること
 韓国政府大臣は韓人を以組織し責任内閣とす(ママ)為すへきこと
 政府は副王の配下に属す・・・

 国家としての韓国を解消させたとしても、そこには独立の植民地議会を設け、最大限の自治を保障するという考えを伊藤は抱いていたのである。・・・
 筆者には、右の構想のなかには韓国民の文明度が高まり、自治能力が備わって議会政治が根づいた暁には、韓国再独立の道が開かれ真の日韓同盟が築かれるとの伊藤の夢が託されているように思えてならない。」(339〜343)

→ここでの瀧井の結論に全面的に同意です。
 なお、検証が必要ではあるものの、1909年の時点で、このような開明的な将来構想を植民地について抱いていた政府首脳(伊藤の場合は植民地総督を兼ねる)は、欧米列強においては、フィリピンの最終的独立を最初から視野に入れていた米国のケース
http://en.wikipedia.org/wiki/Philippine%E2%80%93American_War
以外には、恐らく皆無だったのではないでしょうか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Indian_independence_movement :英領インドの例)
 ここでも、私は、植民地を文明化すれば当然いずれは地方自治が確立し、その先に独立があっても決しておかしくはないという発想は、日本の維新政府首脳達が、対外政策に乗り出すにあたって、当初からごく自然に共有していたに違いない、と申し上げておきたいと思います。(太田)

 (5)伊藤博文と憲政改革

 「1900年・・・9月<に>伊藤は立憲政友会の初代総裁の座に就いた<が、>これに先駆けて、彼はもうひとつ別の組織で総裁職に就いている。それは、1899年8月に宮中に設置された帝室制度調査局である。伊藤はここでも初代総裁として君臨した。・・・
 だが、・・・<伊藤による>立憲政友会の創設に伴い、・・・宮中で<の>職に<ある>ことは憚られたので・・・総裁の職を辞<した。>・・・
 同局が再び活性化するのは、1903年・・・7月、伊藤が政友会総裁を辞してからである。・・・
 調査局は皇室典範増補が公布された<1907年>2月11日をもって廃止されるが、・・・<この>年、・・・帝国憲法を最高法規とする「政務法」の系統と、皇室典範を最高法規とする「宮務法」の系統という、二元的な憲法秩序が出現した・・・のである。・・・
 <これには、それまでは、>皇室典範が国民に向けて公布されていなかったことに象徴されるように、・・御簾の内に隠匿されていた<ところの>宮中<が、>府中と並ぶ統治機構として法制上肯定<され、>・・・皇室を国家の機関として位置づけることが国制上の原則とな<った>・・・という意味合い<が>あったのである。・・・
 <すなわち、>そうすることによって、天皇および皇室の統治者性を形式化し、もって政治的に無責任化することが期され<たわけだ>。」(207、209〜211、222)

→この時をもって、憲法解釈学説の動向(注5)いかんにかかわらず、天皇機関説が帝国憲法の公定解釈として確立した、と言ってよいのかもしれません。(太田)

 (注5)「東京帝大教授の一木喜徳郎は、統治権は法人たる国家に帰属するとした国家法人説に基づき、天皇は国家の諸機関のうち最高の地位を占めるものと規定する天皇機関説を唱え、天皇の神格的超越性を否定した。もっとも、<この学説は、>国家の最高機関である天皇の権限を尊重するものであり、日清戦争後、政党勢力との妥協を図りつつあった官僚勢力から重用された。
 日露戦争後、天皇機関説は一木の弟子である東京帝大教授の美濃部達吉によって、議会の役割を高める方向で発展された。すなわち、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。美濃部の説は政党政治に理論的基礎を与えた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC

 「<また、>帝室制度調査局・・・は、・・・<それまで、>勅令の各省専任の行政事務に属する者は主任の各省大臣之に副署すへし<とされていたところ、>・・・すべての勅令・法律に内閣総理大臣の副署を求め、首相の権限を大きく強化する・・・公式令<を>・・・立案<し、これが制定された。>・・・
 合わせて既存の内閣官制も改正された。・・・内閣総理大臣による閣令制定権と警視総監・地方長官などに対する指揮監督権が明文化される。かくして・・・内閣総理大臣に強力な国政の統制権限が・・・付与されることとなった。」(212、227) 
 「<このような内閣総理大臣の権限強化>に危惧を抱いた山県有朋らの画策により、・・・<公式令にいわば対抗して、>従前の帷幄上奏の慣行を追認した軍令第一号(「軍令に関する件」)が制定され<た。>・・・<その結果、>1907年の憲法改革は典憲の二元体制のみならず、それに軍部も加えた三元体制<が>導出<され>たということになろう。・・・
 <しかし、もう少し詳しく見てみる必要がある。>
 内閣官制<の>第7条<は、>事の軍機軍令に係り奏上するものは天皇の旨に依り之を内閣に下付せらるるの件を除く外陸軍大臣海軍大臣より内閣総理大臣に報告すへし<と規定していた。>
 <つまり、>「軍機軍令」に関わる事項については、原則として内閣は通さず、事後的に軍部大臣より首相に報告すればよいということになっていた。
 <そこで、公式令との関係が問題になり、2007年>9月2日、韓国統監として赴任先の韓国より一時帰国した伊藤と山県が、・・・会談した。<結局、>統帥事項と行政の区画を判然とさせるために法令としての軍令<を制定することを山県が伊藤に>認めさせた。
 かくして、9月11日、軍令第一号たる「軍令ニ関スル件」が裁可成立した。・・・
 これをもって、帷幄上奏して発令される統帥事項には軍令の名が与えられ、そのうち公布(公示)される勅令は陸海軍大臣の副署のみで足りることとされた。公式令の成立以来、泰山鳴動したものの、結果としては・・・軍部がその法的地位を守り固めるかたちとなって決着した・・・のだった・・・。
 <しかし、果たして伊藤は山県に一方的に屈したのだろうか。>
 軍令の成立後、それまで陸軍大臣の単独輔弼で決せられていた勅令のうち少なからぬものが、軍令ではなく公式令に基づく勅令で、すなわち総理大臣との連署で改正されている・・・。軍令自体の数も抑制されていると言ってよ・・・<い。>
 このように考えてみると、・・・伊藤が軍令を認めたのは確かに妥協だったろうが、憲法改革の成果を今後さらに拡充させていくことで帷幄上奏をより一層制約し、軍行政の立憲化を漸進的に推し進めていくとの手応えは得たのだと考えられる。そして、そのための実践の場、それが韓国だった。・・・
 1905年12月21日・・・伊藤自ら起草した統監府および理事庁官制<が>公布された。・・
 <その>第4条<は、>統監は韓国の安寧秩序を保持する為必要と認むるときは韓国守備軍の司令官に対し兵力の使用を命することを得<と規定されていた。>・・・
 <これに対し、陸軍から反対の声が起こったが、伊藤は天皇を動かし、>1906年1月14日、明治天皇は陸相の寺内正毅、参謀総長の大山巌に手ずから勅語を授け、統監に韓国守備軍を使用する権限を付与するので、国防用兵の計画との間に齟齬が生じないよう命じた。・・・かくして、明治憲法下で唯一、文官が軍隊の指揮権を持ち得る官職ができたのである。その作成者たる伊藤は自らその地位に就き、3月2日、漢城に着任した。」(212、229、235〜236、295〜297、329〜330)

→瀧井が、日本及び韓国の文明化を伊藤が推進したと指摘したことは高く評価されるべきですが、伊藤を持ち上げすぎた点には憾みが残ります。
 それはともかくとして、統帥権に対する伊藤の取り組みを論じたこの箇所は、この本の白眉であると言えるでしょう。
 一つだけ物足らなさを感じるとすれば、統帥権と一対をなすところの、外交権(コラム#4592、4604、4765)について、同様の問題は生じなかったのか、生じなかったとして、どうして生じなかったかに、一切触れられていない点です。
 いずれにせよ、軍隊の運用に対する(非軍人たる)首相の容喙を排する、という点に絞って統帥権の独立(統帥大権)をとらえた場合、それは、一概に不合理とは言えないのではないかと私が考えていることは、以前申し上げたところです。
 チャーチル英首相による日本の対英米開戦直前の東南アジアにおける英軍作戦計画への介入がどんな結果をもたらしたかを想起されれば、私の言わんとするところがお分かりいただけることでしょう。(太田)

3 終わりに
 
 「自分の此の地に<韓国統監として>来任せるは韓国を世界の文明国たらしめんと欲するが故なり」・・・<と宣言した>伊藤<の夢>・・・は、1909年・・・10月26日、ハルビンでの銃声とともに・・・葬られた」(16、343)わけですが、北朝鮮についてはともかくとして、かつての韓国ならぬ現在の韓国は、文字通り文明化し、(属国化した日本の停滞をしり目に、)自由民主主義の成熟度においては、報道の自由の面等、部分的に日本を凌駕するに至っており、また、経済面においても、失われた20年を空費した日本を急追しつつあります。
 そのような日本を見た伊藤はどんなに悲しみ、また、そのような韓国を見た伊藤はどんなに喜ぶことでしょうか。

(完)

太田述正コラム#4790(2011.6.5)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その7)>(2011.8.26公開)

 「それでは、伊藤は文明国の具体的内実をどのように韓国側に説明していたのか。伊藤の弁明は、民本主義<(≒民主主義(太田))>、法治主義<(≒法の支配=自由主義)>、漸進主義の三つの要素からなっていると言える。
 まず第一に民本主義である。・・・
 1907年4月9日<に>・・・「政府は人民を愛することを第一の目的として官吏を愛する工夫を止めさるへからす」<と述べている。>・・・
 次に伊藤が主張するのは・・・法治主義である。
 1906年・・・3月25日<に>・・・「彼の貪官(たんかん)汚吏の為常に生命財産の危険を免れすとせは国民は一日も其の産業に安んし其の富力の増殖に勉めさるは必然の勢なり」<と述べている。>・・・
 伊藤によれば、以上のような施政のあり方は、「世界の状態」なのであり、それに違反する政策を採ることはできない<のだ。>(・・・1906年11月16日・・・)・・・
 <かかる>韓国統治の哲学・・・の実践のために彼が採った方法が漸進主義に他ならない。・・・すなわち、・・・「初より大計画を立て損失を招くか如きは不可」として、「当初は小計画を立て漸次に之を発達せしむる」(・・・1906年3月13日・・・)ことを説いているのである。」(302〜304)

→伊藤は、韓国において、自由民主主義を漸進的に定着させようと考えていたわけです。(太田)

 「教育改革<については、>・・・1906年3月13日・・・「徴兵を実施するには[中略]教育を普及して学問上の素養を作らさるへからず」・・・、「教育を施せは児童は自ら何故に国民は租税を負担すへきかの理由を了解す」・・<と述べているところ、>このように、伊藤は統治の客体としての国民を創造するために教育を利用しようとしたとまずは指摘することができる。・・・
 <しかし、他方で、>彼<にとって、>国民<と>は、率先して国家の貢納を負うのみならず、自らの血税の使途について目を光らせている公共性の担い手だった。・・・
 1908年12月8日・・・伊藤<が、韓国に関しても>、「自分の見る所にては各地方の人民も旧の如く官吏に対して叩頭平身惟(こ)れ従ふか如き風を脱せんとす」としたうえで、「是れ即ち所謂民権の発達なり」と述べ・・・その結果として、「官吏の悪事を為すものも漸次減少せるか如し」と<していることからも、これを読み取ることができる。>・・・。」(305〜306)

→伊藤にとって、日本のみならず韓国においても定着させるべきものは、決して狭義の民本主義、すなわち牧民主義(注4)の域にとどまらず、国民による政治である民主主義を目指すものであったことが、ここからはっきりうかがえますね。(太田)

 (注4)「張養浩という元代の人が、地方官に任命され赴任して実際に統治する際の心得を牧民忠告という本の形でまとめ・・・た<ものが>、朝鮮で出版された本の形で日本に伝わ<っ>た。・・・寛永大飢饉・・・の克服にあたって「民は国之本也」という考え方を打ち出した幕閣を構成する譜代大名が、まず牧民忠告に注目し<たところ、>・・・江戸時代も後期になると・・・代官やその手代層が、これらの書物の読者として期待されるようにな<る>。・・・さらには、庄屋の中にも村内をまとめる役目を担っているという意識からこれらの書物を読むような人が<現れ>た・・・。<そして、>注釈書によっては・・・大昔の人間は平等だったのに・・・文明化してから身分の差別が生じたと<か>、・・・宰相も村役人も平等・・・など<と>、平等思想を打ち出しているものがあった・・・。」
http://somali-present.blogspot.com/2008/10/blog-post.html
 牧民主義の日本化の過程で、それが民主主義的なものへと変貌を遂げたことは、日本文明には、維新以前から民主主義への親和性があったことを示すものだ。だからこそ、維新の劈頭において、民主主義を志向した五箇条のご誓文が制定されたことに始まり、伊藤による帝国憲法の起草、成立を経て、日本にイギリス流の民主主義が急速に定着するに至った、ということだ。

 「まず資金の問題であるが、伊藤は韓国社会から教育関連費を徴収してそれを改革の財源とする方策を明示的に否定した。・・・日本政府からの・・・産業振興<のための>・・・無償借款<の枠内>で<やろうとしたのである。・・・<その結果、>教育改革は限られた財源で出発せざるを得なかった・・・。・・・
 <次に>教師<だが、伊藤は>・・・普通教育の教師として渡韓した新任日本人に対して、韓国語の習得を求めるほか、韓国の・・・民情や旧慣に配慮することに事あるごとに言及していた。・・・
 <ただし、韓国語はともかくとして、>伊藤がそれを統治の前提として維持し温存していこうと考えていたわけではない。むしろ、それらは長い目で見れば、文明によって暗消されるべきものだったと言える。」(312〜315)

→そもそも植民地の産業振興を宗主国が持ち出しでやろうとしたこと自体が欧米の植民地統治ではあまり例を見ない人間主義的植民地統治であったわけですが、教育改革(教育振興)を宗主国が持ち出しでやろうとしたことは、とりわけ画期的なことであったと言えるでしょう。(コラム#4720参照)(太田)

 「<この関連で、>伊藤は、プライベートでは、漢学的素養を愛する文人気質の持ち主だった<が、>・・・儒教・・・の「廃棄」を促している。「眼を開きて文明の式に隋ひ国利民福を興さんとする今日に於ては、斯かる有害無益の旧慣は速に之を廃棄する方、寧ろ韓国の為に忠なる所以にあらずや」、と’・・・1906年7月3日)・・・。・・・
 <また、>ナショナリズムのような過熱化した国民感情に対して、伊藤の視線は冷ややかなものにならざるを得ない。彼は韓国で次のように呼びかけている。
 今日の急務は韓人をして先(まず)衣食に窮するなからしめ、而(しか)る後其の能力を進むるの教育を施ささるへからず。徒に独立を唱へ愛国を叫ふも、遊食惰眠せは国家の為めに何の利する所もなし。(・・・1908年6月17日・・・)」(307〜308)

→韓国の文明化の障害になったのが、古からの儒教と新たに興ったナショナリズムという、いずれも非合理な代物であったということです。
 ちなみに、維新期の日本には、儒教は原型をとどめないほど日本化していて、それが障害になることはありませんでしたし、ナショナリズムについても、維新期の政府首脳達は同じ日本人であったことから、それが障害になることはありえなかったわけです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4788(2011.6.4)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その6)>(2011.8.25公開)

 (4)伊藤博文と日本の対外政策

 「<1906>年3月に<伊藤は>初代韓国統監に就任し、精力的に韓国の保護国化を推進してい<っ>た・・・。<ところが、この年の7月に勃発したハーグ密使事件・・・<(>韓国皇帝高宗<が>・・・ハーグ平和会議に密使を派遣して日本の韓国統治の不当性を国際社会に訴えようとした<)>・・・<により、高宗は>退位を余儀なくされる。この結果、第三次日韓協約が締結され、これによって法令制定や重要な行政処分の承認権、官吏の任免権など統監による幅広い内政の指導監督権限が認められた。翌月には韓国軍隊も解散され、日本は実質的に韓国を併合した・・・。・・・
 伊藤の統監政治は、これまで韓国植民地化の一齣としてのみ取り扱われてきた。それは韓国併合を地ならしするものでしかないとの消極的な評価である。」(287〜289)

→少し言い方を変えて繰り返しますが、日本のこれまでの政治学者や歴史学者は、石頭的マゾヒストばかりであったと言われても仕方ないでしょうね。(太田)

 「伊藤の盟友井上馨は、1894年10月から約半年間韓国に滞在して同国の内政指導に従事した(第二次甲午改革)。しかし、稲生上が1895年6月に帰国した折に、高宗によって改革を否定する詔勅が下され、井上の改革は挫折を余儀なくされた。・・・
 1899年2月14日、伊藤は・・・韓国で日本語教育の普及に努めていた大日本海外教育会に招かれてスピーチをした。・・・
 ・・・<(韓国や)清国のように>文明的の学問に幼稚なるものに宛て東洋の率先者たる我国が誘導する時は、自ら助勢するの利あるを以てなり。畢竟這般(しゃはん)の事柄は双方の幸福を増す所以にして、又徳義上我国の義務に属するものなるを覚悟せざるべからず。<と。>・・・
 1904年・・・3月、日露開戦からほどなくのこの時期、伊藤は韓国を訪れた。・・・18日と20日、伊藤は皇帝高宗と対面した。・・・
 高宗に対して・・・<彼が>陳奏した・・・主なる点は以下の通りである。一、東洋平和の維持のために欧米諸国を範として文明を増進し、自立を図ること、二、異なる人種や宗教を排斥して、欧米文明に敵対したりしないこと、三、国家の存立のため、自国の風俗習慣のうち害となるものには改良や廃棄の策を講じること、四、以上は日本がこの30余年間とってきた主義であり、清韓2国もそれに倣って欧米文明と調和して自強の道を歩むべきこと、五、欧米文明の形を借りて侵略を図るロシアはこれを排除すべきこと、六、近来の交通機関の発達に伴って国際的な意思疎通が活発となり、その結果「有無を交換し、人生の為めに必要なる物資を増殖し、逐次に其富強の実を挙げ、以て其自立を図り、[中略]国家生存の道を競争の間に求むる」のが文明というものであり、これを暴力で阻害しようとする野蛮を許してはならないこと・・・。
 1904年8月の第一次日韓協約は、日本政府の推薦する日本人財務顧問と外国人外交顧問の雇用を定めたもので、これによって大蔵省主税局長の目賀田種太郎と外務省雇のアメリカ人スティーブンスがそれぞれ顧問に採用された。・・・
 1905年・・・9月のポーツマス講和会議でロシア<が>・・・日本<による>韓国の保護国化・・・を認めた・・・。・・・
 ・・・1905年11月に締結される日韓協約(第二次日韓協約)では、「専ら外交に関する事項を管理する為め」(第三条)日本人の統監を置いた。しかし、当初から日本の韓国保護政策には内政の掌握も意図されていたのである。・・・
 1906年7月3日<に、伊藤は、>・・・「自分の此の地に来任せるは韓国を世界の文明国たらしめんと欲するか故なり」<と述べている。>」(290〜293、298〜299)

→瀧井は、わざわざ「伊藤の盟友」井上馨という書き方までして、伊藤の「知の政治家」としての偉大性をプレイアップしようとしていますが、実のところ、以下説明するところの当時の日本の人間主義的対外政策もまた、維新政府首脳達の間でのコンセンサスだったのであり、たまたま伊藤が、そのうちの対韓政策において重要な役割を果たした、ということに過ぎないことが、井上馨の登場からお分かりいただけるのではないでしょうか。
 さて、伊藤が高宗に教え諭したところの韓国改革の方向は、要するにイギリスを模範とせよということであって、文明化・・資本主義化と(この段階では相手の理解度を慮って明確に触れられていないが)自由民主主義化(後述)、そして対ロシア安全保障政策の遂行であったわけです。
 また、「我国が誘導する時は、自ら助勢するの利あるを以てなり。畢竟這般(しゃはん)の事柄は双方の幸福を増す所以」というくだりから、人間主義的対外政策が、というか、人間主義が、利他的ではあっても必ずしも利他主義的ではない(コラム#4739)からこそ、維新政府首脳達はかかる対外政策を採用し、追求した、ということが分かります。(太田)

 「1906年・・・10月、新渡戸稲造が訪韓した折・・・伊藤<に会ったが、>・・・開口一番、伊藤は「朝鮮に内地人を移すといふ議論が大分あるやうだが、我輩はこれに反対しておるのぢや」と述べた。「然(しか)し朝鮮人だけでこの国を開くことが、果して出来ませうか」と新渡戸が反論したところ、伊藤は次のように返したという。
 君朝鮮人はえらいよ、この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本より遥(はるか)以上であつた時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営出来ない理由はない。才能においては決してお互に劣ることはないのだ。然るに今日の有様になつたのは、人民が悪いのぢやなくて、政治が悪かったのだ。国さへ治まれば、人民は量に於ても質に於ても不足はない。」(300〜301)

→伊藤が人間主義者であるとともに、人種主義的偏見から完全に自由であったことがうかがえる箇所です。
 また、瀧井が、「この証言によれば、伊藤はなるべく韓国人の潜在的自治能力を開発し、彼らが自ら自国を経営していけることを理想としていた」と総括したのは正しいのであって、ここからも伊藤が民主主義の韓国への普及もまた追求していた、ということが読み取れるというものです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4782(2011.6.1)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その5)>(2011.8.22公開)

 「1900年・・・9月、伊藤博文を初代総裁として立憲政友会が結成された。それは、わが国初の政権運営能力を持った責任政党の誕生として特筆される。・・・
 明治憲法制定時の発言を引き合いに出して、伊藤は政党内閣を否定する超然主義者だったと断定されるのが一般的である。そのような理解に立てば、立憲政友会の創設は、伊藤にとって本意ではなく、「已むを得ざる結果」と結論づけられることになる。・・・
 明治憲法の真の起草者が<伊藤ではなくて>井上毅とされるように、専門家の間では政友会の真の設計者は星亨であり伊藤巳代治であると考えられているのである。」(151〜152)

→これまでの日本の政治学者や歴史学者は、一体何をやっていたのだ、と思ってしまいます。(太田)

 「筋力と腕力」とは、政党抗争が過熱化していた当時の合言葉と言えた。「金力」とは政党による地方への利益誘導である。その先鞭をつけたのが星である<(拙著『防衛庁再生宣言』192〜193頁)>ことは、しばしば指摘される。・・・
 他方で、政争の高揚は腕力<(暴力)>の横行をもたらしていた。・・・
 伊藤の遊説はこのような政治的文脈のなかで敢行されたものだった。しかしそれは同時に、そのなかに埋没することをひたすら拒否する意志でもって遂行されたものでもあった。」(157〜158)

→爾後、伊藤らの尽力により、権力をめぐっての「金力と腕力」の行使は抑制されるようになったものの、戦後、吉田ドクトリンの下、中央政治の矮小化により、再び「金力」が跋扈するようになったことを我々は知っています。(太田)

 「興味深いことに、この時期彼は政党政治との距離感を重ねて表明していた。例えば次のように。「私は特に政党内閣を希望するものでもなく、又政党政治を妨げるものでもない」・・・。
 この何とも煮え切らない言い回しの背後には、既存の政党政治を是正しようとの政治的意志があった。換言すれば、彼は立憲政治と政党政治を峻別し、前者によって後者を相対化しようとしていたのである。・・・
 <伊藤に言わせれば、>議会制度の国民の参政権は、欽定憲法によって天皇から下賜されたものである。「天子が下民に向かつて綸言汗の如く布かれたものであるから、此れは万古不易、決して動くべからざるもの」であり、つまり「憲法を以て与へられた所の此権利は決して奪はるると云ふことはない」とされる・・・。
 欽定憲法ということからは通常、天皇が単独で憲法を国民に授与したものであり、国民の権利を抑制し、天皇の強大な政治的体験を留保したものとのイメージが導かれる。けれども伊藤にあっては、欽定憲法による国民の政治参加の権利と機会の保障という側面が大書され、しかもいったん下された権利は主権者ですら「妄りに之を奪はぬ」ものとされるところに憲法の真価が求められているのである。」(160〜161)

→伊藤は、国王に抗して国民の権利を保障するという役割も果たしているところのイギリスのコモンロー(判例法体系)の基本を、自分は、オーストリア憲法を参照しつつ、帝国憲法に書き込んだ、という認識であったのではないでしょうか。(太田)

 「憲法政治の主眼たる目的は[中略]一国を統治遊(あそば)す所の 天皇と国を成す所の元素たるべき人民とが合い調和して睦しくしやうと云ふのが目的である。・・・
 このように、宥和と統合こそ伊藤の立憲国家観が帰着するところであった。それは何も天皇と国民の間のことに限られない。・・・政府と議会との調和も呼びかけられる。のみならず、・・・彼は政争の中止と国民協働による「国家事業の進歩」を呼びかけているのである。・・・
 英吉利(イギリス)の憲法政治はなぜ斯(かく)の如く能く往(ゆき)て、外の所は能く往かんかと云つて聞いて見ると、取も直さず英吉利人は譲歩の心が強い。外は譲歩の心が少ない。譲歩の心の少ない者は、憲法政治には不適当な人民である。」(162〜164)

→ここは、伊藤が、コモンローがイギリスにおいて国民の宥和と統合をもたらしている要因の一つである、という認識の下、同様の宥和と統合の日本国民の間での達成を憲法政治が促進することを期待し、憲法政治にこのような認識の下で積極的に関わることを国民に求めた、と解することができるのではないでしょうか。(太田)

 既存の政党のあり方に批判的だった伊藤は、自ら政党を組織することを決意するが、現実の結党過程において・・・大隈や福沢とのつながりの深く、進歩党シンパの岩崎<弥之助の>邪魔<等により、>・・・自らの構想する実業家層の動員に挫折し、結局は・・・憲政党」(旧自由党)の星亨・・・と伊藤巳代治・・・の手腕に依拠せざるを得<ず、>・・・既成政党の枠組みのなかで政友会は建立されざるを得なかった。」(172、174、176)

→伊藤は、維新政府首脳達の英国模範コンセンサスを、漸進的かつ次々に日本で実施に移そうとしたわけですが、抵抗勢力を克服するのは、その都度、容易なことではなかったわけです。(太田)

 「伊藤は、新党の規約を伊東<巳代治>に内示している・・・。
 その哲学を三つにまとめれば、・・・第一に党と内閣・政府との峻別、第二に中央政治と地方自治の区別、そして第三に党内における総裁の強い指揮権、以上の三点である。・・・
 <第一については、>伊藤<は>イギリスの保守思想家エドマンド・バークの「代議士は国民全体の利害の奉仕者」との言葉を愛好していた・・・。
 第二は、・・・伊藤は闘争を原理とする政党政治は中央政界に限局され、地方においては協同を原理とする自治が行われるべき<であると考えていた。>・・・
 最後<の第三については、>・・・彼がしばしば引き合いに出していたのが、グラッドストーンと並び称される19世紀イギリスの議会政治家ディズレーリである。
 ヂスレリー[中略]は斯う言ふて居る、「英国の宰相は自己の党派に対して忠実ならざるべからず、党人は其首領に対して絶対的に忠実ならざる事を得ぬ」<と。>」(179〜180、182、184)

→第一と第三については説明を要しませんが、第二についても、伊藤は、「イギリスの地方自治体では首長の公選は<基本的に>実施されてい<ない>。・・・市議会の議長(多数党派から選出)が市の代表とされ、議会<各党派>が<協同的に>行政執行責任を負うかたわら、<執行のプロを選任し、>自らその執行を監視する役目を果たしてい<る>。」
http://www.asahi-net.or.jp/~pv8m-smz/archieve/siraki_uk_report1.html
というイギリスの地方自治のあり方が念頭にあったと考えられます。
 すなわち、伊藤は、政治に関しても、イギリスを模範とし、その政治の主流のあり方を、基本的にそっくりそのまま、ただし漸進的に日本に移植しようとした、ということであり、これは維新政府首脳達のコンセンサスを踏まえたものであった、と我々は受け止めるべきなのです。
 なお、伊藤が、なぜ立憲政「党」ではなく立憲政「友会」にしたかという話も面白いのですが、割愛しました。

(続く)

太田述正コラム#4778(2011.5.30)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その4)>(2011.8.20公開)

 「1892年・・・1月という早い時期に<伊藤>は、議会の政府党を基盤にして政党を結成しようとしている。だが、このときは天皇の理解が得られず、失敗した。また、1898年の第3次<伊藤>内閣時にも彼は政党結成へと乗り出そうとしているが、山県有朋の反対に遭い、実を結ぶことなく終わった。
 このとき、伊藤新党問題をめぐって6月24日に開かれた御前会議で、伊藤に対して山県は「閣下の政党組織は遂に政党内閣の端を啓くに至らん、而して政党内閣制は我が国体に反し、欽定憲法の精神に悖り、民主政治に堕するものにあらずや」と論難した。伊藤は「政党内閣の可否を論ずるは抑々(そもそも)枝葉末節のみ、要は皇国の進運に資するや否やを顧みるに在り」と応酬した・・・が、大方の賛同を得られないことを認めるや、直ちに天皇に首相の辞任と次期首班として大隈と板垣の政党指導者を奏上し、下野した。」(119〜120)
 「<日本にこうして>政党内閣が出現<した>のは、議会制度が開設されて8年後のことだった。1898年・・・6月、大隈重信を首班として、第一次大隈内閣が組閣された。・・・隈板内閣と称されるこの内閣では、大隈率いる進歩党と板垣を戴く自由党との野党大連合により結成された憲政党を基盤として、外相と陸相海相を除いた全閣僚が憲政党から抜擢された(板垣は副首相格として内相に就任)。」(118)

→外相は首相の大隈が兼務したので、瀧井の「外相と」という記述は間違いです。
 ちなみに、政党内閣と言っても、「首班が議会(衆議院)に議席を持たないという意味ではやや条件を欠く」という見方もできます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E9%9A%88%E5%86%85%E9%96%A3
 いずれにせよ、日本の最初の政党内閣は、伊藤の画策によってもたらされたものであったわけです。
 なお、山県有朋は、日本における議院内閣制の漸進的実現に反対であったわけですから、英国模範論とでも言うべきコンセンサスが成立していた維新政府首脳達の中においては、例外的な存在であったと言うべきでしょう。(太田)

 「1899年・・・4月9日、伊藤は・・・半年に及ぶ遊説<を始めた。>・・・
 そもそも、1899年・・・とは、憲法発布10周年の年にあたる。・・・
 <伊藤はこう語る。>
 憲法と云ふものに就いては、先輩の遺志を継いで而して、今上皇帝の勅命の下に私は欧羅巴に遣はされ、之を取調べて帰って来て、其草案を奉り、欽定憲法と相成って発布致されたものであるから、此憲法と共に生死するの無限の責任を負ふて居ると考へる。故に此憲法に就いては、如何なる学者が来やうが如何なる政党が出ようが、其屈すべからざる所に於ては私は屈せざる積りである。」(120、127、128〜129)

→「先輩の遺志を継い<だ>」というくだりですが、私には、憲法の中身の骨子についても「先輩の<コンセンサス的>遺志を継い<だ>」のである、と伊藤が言っているように感じられます。(太田)

 「<伊藤は、また、こうも語る。>
 富に頼らなければ人民の文化も進められぬ。愛国心の発達も是れよりしなければならぬのである。国を護ると云ふけれども、赤土を護つた所で何の役にも立たぬ。・・・
 その際、伊藤の脳裏にあったのは、日本は文明国たらねばならないという意識であった。・・・
 では、・・・文明国とはどのようなものと・・・伊藤・・は観念<し>ていたのか。・・・
 文明の政治なるものは即ち人民の智能を発達し、而して一定秩序の範囲に於て人民の当(ま)さに享取すべき権利を得て、而して其れを統合した所のものが文明的の国家でなければならぬ。
 知的水準が高く、権利の保障された人民によって構成される国家、それが文明国だという。・・・
 <また、>国民の意思、国民の観念なるものは、議会と云へる一の機関に依つて之を発表すると云ふのが、憲法政治の一つの要素でありまする故に、憲法政治は文明の政治と云ふ言葉の代表となつても宜しい位のことである。
 <つまり、>文明国、議会制、憲法--これらは三位一体のものとして伊藤のなかで把握されていた。そのうち起点をなすのが憲法である。」(132〜133、136)

→私であれば、伊藤は、維新政府首脳達の中の典型的な存在として、資本主義、及び自由民主主義、並びに、資本主義と自由民主主義に係る規範の英国における到達点を取りこんだ帝国憲法解釈とを、日本で実現すべき三位一体的なものと考えていた、と記したいところです。(太田)

 「伊藤は、国家に納税する国民が、国家の統治をチェックし方向付けるという意味で国民国家を考えていたのである。もとより、その国民には一定の要件があった。それは一つには財力、そして第二に知力である。この二つの力が国力の基盤だと伊藤は説く。・・・ <知力を涵養するものは教育だが、>伊藤にとって、教育とは・・・実学<でなければならなかった。>実学とは具体的に何なのか。・・・第一に挙げられるのが、非政治性ということなのである。<すなわち、伊藤は、>「政談の徒」を「暗消」することを提唱していた。・・・
 実学の第二の意義は、・・・イギリスの経験主義<的なものであった。>・・・
 <伊藤は、>ラクダ・・・の生活・・・を研究するに、フランス人は動物園へ行き、ドイツ人は書物を求めるが、イギリス人は実際にラクダの生息する地へ赴くとして、その実地主義的姿勢<を>持ち上げ・・・ている。
 実学の第三の側面は、実用性である。
 <伊藤は、>学問は「手段に過ぎぬ」と言い切<っ>ている。それは人が世に出て行くための「階梯」なのだ、と。」
(140、142〜143、145〜147)

→瀧井は、伊藤は「一見・・・学問を実利主義的に貶めた物言いだが」必ずしもそうではない、と伊藤を弁護しています(147〜148)が、私は、やはり伊藤は学問を貶めていると考えます。
 学問を実学としか見ることができないという点も、恐らくは維新政府首脳達のコンセンサスであったのでしょう。
 それは、東大を始めとする国立大学が実学の府として発足し、発展を続けたことを見れば明らかでしょう。
 この点に関しては、伊藤を始めとする維新政府首脳達の英国理解は全くもって不十分であったと言わざるをえません。
 その結果、日本の国公立大学は、法人化された現在に至ってもなお、真の学問の府たりえていないのですから、伊藤らの罪は重い、ということです。
 (日本の私立大学においても事情は同じであり、その責任は慶應を実学の府にした福沢諭吉が負うべきであるとする議論はここでは繰り返しません。)(太田)

(続く)

太田述正コラム#4776(2011.5.29)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その3)>(2011.8.19公開)

 「伊藤はまずドイツを目指した。前年の政変の結果、政府のドイツ化路線が定まっていたことを受けて、彼はとりもなおさずドイツ帝国の首都ベルリンを訪れ、そこでベルリン大学の公法学教授ルドルフ・フォン・グナイスト・・・<と>彼の弟子アルバート・モッセ・・・に教示を乞うた。・・・
 <次いで、>ウィーンを訪れ・・・ウィーン大学の国家学教授ローレンツ・フォン・シュタイン<に教示を乞うた。>・・・
 伊藤が求めていたのは、憲法に書かれるべき具体的条文の理解ではなく、立憲国家の全体像と憲法施行後の国家運営の指針だったのである。その問題意識にとっては、シュタインの国家学の方が親和的だった。
 ・・・ベルリンで伊藤がしばしば聞かされた議会制度に対する敵対的な発言<も彼には違和感があった>。伊藤はグナイストと初めて面談した後、日本へ向けての手紙で、グナイストの説は「頗る専制論」だと書いている。伊藤によれば、グナイストは「縦令国会を設立するも、兵権、会計権等に喙(くちばし)を容(いれ)させる様にては、忽ち禍乱の媒囮(ばいか)たるに不過(すぎず)、最初は甚微弱の者と作るを上策とす云々」と述べたらしい。・・・
 同じような見解は、ドイツ皇帝によっても<伊藤に>表明されていた。・・・
 <他方、>シュタインによれば、Verfassung(議会制度)は国民の政治参加の原理とシステムとして不可欠だが、それは利害関心によって左右される安定性を欠いた政治しか行えない。これに対して議会制度を補完して国家の公共的利益を実現するシステムとしてVerwaltung(行政)が必要とされる。そのように説くシュタインの国家理論に、伊藤は感服した。」(60〜64)

→このあたりの瀧井の解釈はいささかダッチロール気味で分かりにくいのですが、私自身の解釈は次のようなものです。
 伊藤は、前述のように、(憲法のない)英国の政体たる、国王を主権者とする議院内閣制に漸進的に接近していくことを可能にするような日本の憲法の起草を行う、との維新政府首脳達の間でのコンセンサスを受け、議会を持つ立憲君主制の先進2大国たるドイツとオーストリアの憲法を参考にする方針で臨んでいたところ、上記のようなこともあって、ドイツの憲法を参考にするわけにはいかないと早期に見切りをつけ・・これについては、コラム#3915も参照のこと・・、オーストリアの憲法を参考にすることにしたのです。
 なお、当時のオーストリアは、正式名称がオーストリア・ハンガリー帝国であり、その政体は、皇帝(兼ハンガリー王)が基本的に外交と軍事についての最終的権限を持ち、
http://en.wikipedia.org/wiki/Austria-Hungary
ハンガリーと帝国の残余(オーストリア)がそれ以外のすべてについて権限を持つという複雑なものでしたが、これらを規定した(事実上の)憲法に、ハンガリーとオーストリアにおける司法の独立と人権保障が謳われていました。
http://www.britannica.com/EBchecked/topic/44386/Austria-Hungary
 明治憲法が、その骨格においてこのオーストリアの憲法に極めて似通ったものになったのは、当然でしょう。(太田)

 「明治憲法・・・発布後、伊藤<が>・・・行っ<た>・・・講演<で>最も有名なものが、1889年・・・2月15日の府県会議長たちに宛てた演説である。・・・
 伊藤によれば、「憲法を設け議会を開かんとするに当り党派の起るは人類群衆の上に於て免るべからざるの数なり」とされる。<すなわち、>伊藤は憲法施行後の政党政治化をそれ自体としては不可避のことと見なしている。その根底には、憲法政治とは利害政治であるとの彼の観察がある。・・・
 <しかし、「>遽(すみやか)に議会政府即ち政党を以て内閣を組織せんと望むがごとき最も至険の事たるを免れず、蓋し党派の利を説く者少からずと雖も既に一国の基軸定り政治をして公議の府に拠らしむるには充分の力を養成するを要す。若し此必要を欠て容易に国家の根本の揺撼(ようかん)するが如きことあらば将来の不利果して如何ぞや。<」>
 ここからうかがえるのは、・・・現時点で政党が一国の基軸を定め、公議の府の担い手となるには時期尚早であるといって戒めているが、<伊藤は>議会政府それ自体を排斥しているわけではない・・・と考えられるのである。」(85、89、91)

→ここは、伊藤が議会政府(議院内閣制)を排斥していなかったことなど自明ではないか、と言いたくなります。
 瀧井は、伊藤が議会政府(議院内閣制)を漸進的に実現することを目指していたことが読み取れる、と書くべきでした。(太田)

 「1889年2月27日付の・・・伊藤が皇族や・・・華族に対して、<行った憲法についての>演説<も取り上げたい。>・・・
 「人民を暗愚にして置いては国力を増進することに於て妨げが有るゆえに、人民の智徳並び進ましめて学問の土台を上げて国力を増進する基としなければなら<ない。>」」(93、97)

→このあたりの瀧井の解釈も回りくどいので、私の解釈を申し上げれば、伊藤は、ここで、日本国民の智徳の向上に応じて漸進的に議会政府を確立させて行くべきである、と主張しているのです。(太田)

 「伊藤は後年、憲法制定の頃を回顧して次のように語っている。
 ・・・国内の議論は・・・一方に於ては前代の遺老にして、尚(なお)天皇神権の思想を懐き苟(いやしく)も天皇の大権を制限せんとするが如きは其罪叛逆に等しと信ずる者あり。他方に於ては彼(か)のマンチェスター派<(注3)>の論議が全盛の時代に於いて教育を受け、極端なる自由思想を懐抱せる有力なる多数の少壮者あり、政府の官僚が彼の反動時代に於ける独逸学者の学説に耳を傾くるに反し、民間の政治家は未だ実際政治の責任を解せずして、徒(いたずら)にモンテスキウ、ルーソー等仏蘭西学者の痛快の学説、奇警の言論に心酔して揚々たるものあり。
 ・・・伊藤は当時の思想地図を、一、天皇神権の国学派、二、マンチェスター学派的自由主義者、三、官僚を中心とするドイツ学派、四、フランス啓蒙主義を掲げる民権運動家の4つに色分けしている。
 <では、伊藤自身は?>
 憲法の円滑なる運用に必要なる識量、例へば言論の自由を愛し、議事の公開を愛し、若(もし)くは自家に反対の意見を寛容するの精神の如きは、更に幾多の経験を積み然る後始めて之を得べき也。」(105〜106)

 (注3)急進的なリベラリズムないしリバータリアニズムを指している、と思えばよい。
http://cruel.org/econthought/schools/manchester.html

→これも考えてみれば当然のことですが、伊藤は、(日本国民一般がそれを身に着けるのは漸進的にしかできないだろうと指摘しつつ、)一貫して、英国の主流の物の考え方が最もよいと思ってきたということです。
 そして、維新政府首脳達の間で、英国を模範とするとのコンセンサスが成立していた以上、伊藤がそのような考えであったことは不思議でも何でもないのであって、瀧井のように、こういった点をとらえて伊藤を「知の政治家」として「再評価」してもらっても困るというものです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4774(2011.5.28)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その2)>(2011.8.18公開)

 「1868年・・・、大政奉還後の徳川慶喜の巻き返しを伝え聞くなか、伊藤は木戸孝允に・・・次のように書き送って・・いる。
 米国独立の時に当(あたり)ては、我日本の形勢と違ひ、自国の人民は更に兵権もなきものすら、人心の一致より、かかる強敵を打ひしぎ、各自国を保つの忠情凝固して、今日の盛大を為すに至る。然況(しかればいわんや)我国数千歳連綿たる 天子を戴きながら、其大恩を忘却して、阿諛を事とし、機会を失ひ候様至らせしは、実に無人心(じんしきなき)者と奉存候。」(20)

→英国から18世紀に武力独立し、富国となって(南北戦争後、再び)母国を経済力において急追し始めていた米国に、伊藤は、英国留学時以来、いや、恐らくは米国のペリーの日本来航以来、ずっと注目してきた、ということでしょうね。(太田)

 「[1870<年、>]当時大蔵少輔であった伊藤は、財政幣制の調査のため<に>[渡米]を願い出て認められ、[11月芳川顕正、福地源一郎、吉田二郎、木梨平之進らとともに、]同国へ派遣された。[(〜71年5月9日帰朝)]」(21、ただし、[]内は376)

→伊藤は、その米国を自分の眼で見てやろう、という気持ちだったのでしょう。(太田)

 「1871年・・・8月、アメリカから帰国後の伊藤は、・・・意見書<を>著している。 ・・・<その>なかで・・・いつの日か「開化の進歩大に拡充し」た暁には、国民の代表者を集めて議院を開き、国の会計を過去にわたってまで審議させなければならず、そのためにいまのうちから政府の公金出納の記録をきちんと残しておくことが肝要と主張している・・・。・・・
 国民国家の理念と漸進主義という点において、この時期の伊藤はアメリカをモデルとして自ら国家構想を育んでいたのである。」(26〜27)

→「我国<が>数千歳連綿たる 天子を戴<く国>」であることに大いなる意義を見出す伊藤(上出)が、君主制を擲った米国をモデルとした国家構想などを育むわけがありません。
 また、米国は、そもそも革命によって君主制を擲った国であり、(一時的に擲ったけれど、すぐに君主制を復古させ、)君主制を維持してきたその母国たる英国こそ漸進主義の国であって、米国はむしろ急進的な国と言うべきです。
 私は、伊藤は、一貫して、英国をモデルとして国家構想を育んだ人間であると考えています。(太田)

 「1871年から73年にかけての岩倉遣外使節団に・・・伊藤は副使として加わり、再度アメリカをはじめ西洋諸国を訪れることになる。・・・
 1873年・・・1月2日付の大隈重信・副島種臣宛の書簡・・・で、伊藤は「仏国も共和治体未一定(ちたいいまだいつていせず)、大統領一人之力にて今日の無事を維持仕居候様被窺(うかがわれ)申候。孛(はい)相ビスマルクも各省卿と議論不合(あわず)して孛の宰相を辞せり」と伝えている。・・・伊藤はヨーロッパにおいて、その政治体制の不安定さに留意しているのである。・・・大統領と言う職位もビスマルクという政治的カリスマも、決して盤石の地位を築いているわけではない<と>・・・。ここで改めて伊藤は、制度の重大さに思い至ったのではなかろうか。実際、伊藤は3月にドイツに入るや、政体の調査に従事している。」(28、37、39〜40)

→瀧井は、英国(と米国)の政治体制についての伊藤の感想を紹介していませんが、少なくとも、英国(と米国)の政治体制について、伊藤が問題点をあげてはいなさそうであることも、伊藤の国家構想がいかなるものであったかが想像できるというものです。
 そもそも、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら総勢107名からなる岩倉使節団は、「主目的は友好親善、および欧米先進国の文物視察と調査であったが、各国を訪れた際に条約改正を打診する副次的使命を担っていた<が、>アメリカには約8ヶ月もの長期滞在となってしま」うも、「その後、大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を訪問した。ヨーロッパでの訪問国は、イギリス(4ヶ月)・フランス(2ヶ月)・ベルギー・オランダ・ドイツ(3週間)・ロシア(2週間)・デンマーク・スウェーデン・イタリア・オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)・スイスの12カ国」を訪問した(・・そして、アジア各国(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)への訪問<を>行<いつつ>、・・・当初予定から大幅に遅れ、出発から1年10ヶ月後<の>・・・1873年・・・9月・・・に、<日本>に帰着した・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E4%BD%BF%E7%AF%80%E5%9B%A3
ところ、この滞在日数を見ただけでも、彼らがいかに英国を重視していたかを示して余りあるものがあります。
 なお、米国での滞在日数が長いのは、最初の訪問先の米国でただちに条約改正交渉に入るべきである、との伊藤のフライング的提案により、伊藤と大久保が全権委任状を取得するため一旦帰国して米国に戻ってくるまでに4か月を空費したからです。(31〜33)
 実質滞在期間をとったとしても、米国は英国と同じ4か月ではないか、と言われる方もいるでしょうが、米国はひどい惨禍をもたらしたところの、内戦(南北戦争)が終わってからまだそれほど時間が経っておらず、経済面に関してこそ、視察や調査を行うには値したでしょうが、米国の政治体制を、伊藤を含めた、当時の日本政府の指導層が高く評価していたとは、私には到底思えないのです。(太田)

 (3)伊藤博文と日本の立憲国家化

 「<1873年>11月19日、参議一同は閣議を開き、政体取調の担当者として伊藤と寺島宗則を選任した・・・。政体取調とは、立憲制導入のための調査に他ならない。・・・
 政体取調の任務とは、木戸と大久保の漸進主義の信念をベースにして、そこから具体的な制度設計を練り上げるという課題に他ならなかった。」(48)

→ここで、先取り的に申し上げておきますが、後に、1882年から1883年にかけて、伊藤はドイツとオーストリアを主とし、英国を従とする憲法調査に日本から赴きます。(59〜66)
 米国もフランスも、彼の行先には入っていません。
 これは要するに、米国やフランスの大統領制(を君主制に置き換えたもの)ではなく、英国の立憲君主制/議院内閣制の政体を模した政体を規定するところの、日本の憲法を起草する、というコンセンサスが当時の日本政府の指導層の中で早くから確立していたところ、英国は憲法を持たないので、次善の策として、その議会制があまり機能していない点では憾みがあったものの立憲君主制中の最先進国ではあったドイツとオーストリア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E8%AD%B0%E4%BC%9A_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%B8%9D%E5%9B%BD)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%EF%BC%9D%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%B8%9D%E5%9B%BD
に赴いた、ということだと私は思うのです。
 しかし、伊藤の任務は、そもそも、英国の政体を模した憲法を起草することなので、調査の締めくくりに、念のために英国も訪れた、といったところでしょう。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4772(2011.5.27)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その1)>(2011.8.17公開)

1 始めに

 今度は、宮里さん提供の、瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書 2010年4月)をてがかりにして、伊藤博文という人物に迫ってみたいと思います。
 ちなみに、瀧井は、1967年生まれ、90年京大法卒、94年法学博士、国際日本文化研究センター准教授、という経歴の人物です。(この本の奥付より。)
 読んでも全く情報が増えませんが、一応彼のウィキペディアもあります。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E4%BA%95%E4%B8%80%E5%8D%9A

2 伊藤博文

 (1)序

 この本のあとがきをまず読み、次いで103頁まで読み進んだ時点での感想ですが、サントリー学芸賞をとったにしては、何とも説得力のない議論が展開されている本だなあ、というものです。
 恐らく、この本全体がそうなのでしょう。
 それがどういうことかは、このシリーズを読み進められるにつれて、おいおいご理解いただけるはずです。

 その瀧井は、日本でのこれまでの伊藤博文像を、坂野潤治、司馬遼太郎らを引用しつつ、以下のように要約しています。

 「西南戦争後の大久保利通政権の確立に際しては大久保に扈従してその開発独裁路線のお先棒を担ぎ、大久保没後、立憲運動が昂進するや井上毅の唱える超然内閣主義のプロイセン型欽定憲法路線に同調して憲法制定者の名を恣にする。さらに議会開設後は不倶戴天の敵であったはずの民権派の自由党と提携し、ついには同党を土台として立憲政友会を創設して政党政治家へと身を翻す。このような時流に応じてのカメレオンぶり・・政治家としての一貫性の欠如・・・」(vi)

 瀧井が、このような、あまりにも粗雑なこれまでの伊藤論を叩きたくなった気持ちは分からないでもありませんが、もう少しやりようがあったのではないか、ということです。

 (2)伊藤博文の助走期間

 「伊藤は・・・1862年(文久二)12月には、高杉晋作らによる品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き打ちに参加、その数日後には、国学者塙次郎(忠宝。塙保己一の息子)が廃帝の故事を調査中との誤伝を信じて、山尾庸三とともにこれを斬殺している<(注1)>。この点を指して、伊藤は歴代の総理大臣のなかで、戦場以外で殺人を犯したことのある唯一の人物(酔って妻に乱暴し、死に至らしめたと噂される黒田清隆を除けば)と言われる。
 松陰没後の伊藤は、このように立派なテロリストであ<った。>」(5)

 (注1)「1862年・・・老中安藤信正の命で、前田夏蔭と共に寛永以前の幕府の外国人を待遇の式典を調査するも、誤って孝明帝を廃位せしめるために「廃帝の典故」について調査しているとの巷説が伝えられ、勤皇浪士達を刺激してしまった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E5%BF%A0%E5%AE%9D

→若いころに過激派であったことは、必ずしも悪いことではありますまい。(太田)

 「松陰が伊藤のことを「周旋家」と評したことはよく知られている。・・・この他の松陰の伊藤への言及としては、「・・・好んで吾に従ひて遊ぶ。才劣り学おさな<(漢字だが読み下した)>きも、質直にして華なし。僕頗る之を愛す」・・・という一節が残されている。・・・<つまり、>勉強熱心で快活だが、才覚には劣った愚直<者ということだ。>・・・松陰は伊藤のことを交渉能力に長けた能吏になるかもしれないとは思ったであろうが、国家の経綸を差配する地位に立つ器とはおよそ考えていなかったに違いない。・・・
 伊藤は過激な精神主義者松陰よりも、冷静に日本の行く末を熟慮し、そのための政略を重んじた長井・・・雅楽<(注2)>・・・のほうに共感を示している・・・。」(6〜7)

 (注2)「<長州藩主の>世子・・・の後見人<を経て>、長州藩の直目付となる。開国論者であり、・・・1861年・・・に公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩論となされた。その後、朝廷や幕府にこれを入説して歓迎され、11月には藩主敬親と共に江戸に入り老中久世広周、安藤信正と会見。翌月に正式に同策を建白して公武の周旋を依頼された。しかし、当時藩内であった尊皇攘夷派とは対立関係にあ<った>。・・・1863年・・・、雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹<させられる>・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E9%9B%85%E6%A5%BD

→「吉田松陰・・・は、久坂玄瑞、高杉晋作、前原一誠、山県有朋」(5)らを育てた名教育者であり、恐らく吉田の伊藤評は正しいのでしょう。私なら、「遊びが大好きで、頭はそれほど良くなく勉強もできないが、性格が素直で浮ついたところがなく、みんなに愛され<るので、>・・・仲介交渉役に向いている」といった具合に現代語訳するでしょうね。
 「頭はそれほど良くなく勉強もできない」と言っても、長州藩内の俊秀の中での比較であり、学者にはなれなかったでしょうが、政治家にはうってつけな評価ではないでしょうか。
 なお、伊藤の吉田、長井評は、後付けでしょうね。(太田)

 「1863年<5月、>・・・長州藩・・・から・・・若者が国禁を犯してイギリスへと派遣された。それは、・・・井上馨、・・・そして伊藤<を含む>5人である。・・・
 <9月に着いてから半年後の1864年3月、>井上馨と伊藤博文・・・が、ある日、『タイムズ」紙上に長州藩による外国船砲撃や薩英戦争の記事を見て大いに驚き、藩の攘夷政策の無益であることを説得するために急ぎ帰国の途に就いた・・・。
 伊藤のイギリス留学<の意義であるが、>伊藤と井上は国難の只中に洋行帰りという箔をつけて帰朝し<たところ、>・・・四国艦隊による下関砲台の占拠という惨敗は、二人の持つ新しい知見の必要性を否が応にも高める結果となった。・・・
 もうひとつは・・・英語能力の習得である。・・・
 <この英語力を伴った伊藤の外国人とのコミュニケーション能力は、>外国船隊による長州藩攻撃の講和交渉において、藩と欧米人との間の交渉役を一手に引き受け<るという形で、さっそく発揮された。>」(8〜12)

→瀧井が書いていない重要なことは、彼らが全員英国に派遣されたのはなぜか、です。
 米国は南北戦争(1861〜65年)中であったから最初から対象外であったでしょうが、仮に平時であったとしても、米国には派遣されなかったはずです。
 英国は当時世界覇権国であり、最先進国でもあったことから、伊藤らは、最も学ぶべきところがある国である英国に派遣されたということです。
 習得すべき語学についても、それは、当然英語でなければならなかったわけです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4770(2011.5.26)
<『東京に暮す』を読む(その4)>(2011.8.16公開)

 「日本では、外国と違って、金持ちと貧乏人の間にあまり差がないことが多いのですが、生活スタイルもそうです。日本の金持ちは競馬、狩猟、ヨット、猛獣狩をしないし、広大な屋敷などにお金を使うこともなく質素に暮らしています。もちろん貧乏人よりは贅沢な暮しをしていますが、買うものや、することの違いは質というより量です。・・・日本人の生活水準は、金銭上は低くても、もっと収入が高い人々の特権を含んでいます。」(196)
 日本の上流階級の母親は自分で子どもの面倒を見ます。イギリスでは<上流階級の>母親は子どもの詳しい予定表は作りますが、実際の面倒は見ません。」(245)

→ここも、日本には階級がなく(=中産階級の層が厚く)、従って共産主義革命が起きるわけがないことの裏付け的観察ですね。(太田)

 「日本人の長所の一つに、非常に強い階級意識を持つと同時に非常に強い仲間意識を持っているということがあります。
 主人と使用人は非常にはっきりとした主従関係にあります。お互いに義務を果たさなくてはなりません。・・・<しかし、>使用人たちは、主人の家のことは自分たちのことと思っています。・・・女中<の場合、>・・・主人の人生と彼女たちの人生が重なっているのです。」(227)

→使用人だって女中だって雇われている家の運営に参画している、いや、少なくとも参画しているという意識を持っている、ということにサンソム夫人は慧眼にも気づいていたわけです。
 これは戦略情報の共有と下剋上が(私の言う、)日本型政治経済体制下の企業経営の特徴であることに通じるものがあります。(太田)

 「日本人とイギリス人の共通点はスポーツ好きということです。・・・私はイギリスと日本以外の国で、素敵な淑女や頑健な紳士が、相手が見ていない隙に、非常に打ちにくいラフの中から打ちやすい位置へゴルフボールを移すのを一度ならず目撃しました。日本人やイギリス人が絶対にいんちきをしないとはいいませんが、両国民ともスポーツをするときは真剣で、このようないんちきはめったに見られません。
 日本人とイギリス人の基本的な類似点は派手よりは地味を好むこと、静かで落ち着いた態度を好むということです。・・・
 イギリス人<はまた、>・・・謙虚さを好み、理想とします。従って自慢とか、謙虚さの無い知識のひけらかしを嫌い、そういう人たちを信用しません。
 この傾向は日本人になるともっと強くなります。・・・日本人は非常に謙虚な国民で、慎み深い振舞いや言葉遣いがすっかり身についています。彼らも他の国民のように誇り高いのですが、自慢することを嫌います。日本人としての誇りを持ち、かつ外国人から学ぼうという謙虚な姿勢のために、日本は今日の世界のなかで重要な位置を占めるようになったのです。」(201〜202)
 「イギリスも日本も安定していてしかも適応力がある国です。・・・古いものと新しいものをかなり上手に共存させることができるという点で両国はとてもよく似ています。」(204)
 「田舎を愛する心と、自然の一部を柵で囲い、自然の中にもう一つ自然を作るということは、両国民の生来の特徴のようです。・・・
 両国は<また、>非常に古い歴史を持つ国で<す。>」(213)

→私がかねてから、日本文明とアングロサクソン文明とは諸文明の中で最も親和性のある両文明である、と指摘していることと軌を一にしていますね。
 どうしてそうなったかについては、まだ私はきちんと検討をしていませんが、両者とも、専制的だけど高度な大文明を海の向こうに眺望する、豊かな島国であること、が関わっていることは間違いないでしょう。(太田)

 「イギリスでは・・・美的センスを培うことはなされていません<が、日本ではなされています。>」(206)

→イギリスと比較して、日本が優れている点も、素直に指摘するサンソム夫人、尊敬に値します。(太田)

 「赤ん坊が生まれてきて一番幸せな国は日本です。日本人は子どもをとても大切にしますから、子どもを虐待したり、子どもに対して罪を犯すということはめったにありません。・・・子どもはみんなから可愛がられ、あやされ、誉められます。イギリスの赤ん坊は、まだ幼いうちから、他の家族同様に、自分の立場をわきまえなくてはなりません。決められた自国にベッドに入るのが嫌で泣きわめいても、・・・<誰も相手などしてくれません。>・・・
 不思議なことに、日本の子どもは甘やかされても駄目になりません。イギリスの子どものように泣きわめいたりしません。日本ではいつも誰かが食べ物をあげたり、相手をしたり、揺って寝かせてくれるので、子どもの方も泣きわめく必要がないというのは事実ですが、子ども自身とても大人しいのです。・・・個人主義が進んだ西洋の人々は、感情的になりやすいという犠牲を払っているのかもしれません。日本人は、私たちよりも静かで和やかな雰囲気の中でのんびり暮らしています。従って子どもも当然のことながら穏やかです。」(243〜245)

→このことも、サンソム夫人、よく気が付きましたね。
 子供は、言葉やしぐさを始め、あらゆることを周囲の大人達から学びます。
 日本の場合、子供は、自分の気持ちを察して可愛がり、あやし、誉めてくれた大人達のマネをして、自分も他人の気持ちを察して、その人のために利他的な言動を行うようになるのです。
 このようにして人間主義は日本において、縄文時代の昔から、連綿と受け継がれてきたわけです。
 むしろ不思議なのは、厳しい育て方をされる結果、欧州の子供達が利己的な個人主義者へと成長し、不安定な社会が形成されるというのに、どうしてイギリスの子供達は利他的な個人主義者へと成長し、安定した社会が形成されるかです。
 私は、かねてより、イギリス社会の凝集性(安定性)はその大昔から受け継がれてきた、コモンローの存在によって担保されていると指摘してきたところ、比較的最近、これに加えて、イギリス人の間における同情(sympathy)心の遍在性も指摘するようになっているわけですが、この同情心が、どのような場でどのようにイギリス人に注入されるのかを、今後究明する必要がありそうです。

(完)

太田述正コラム#4768(2011.5.25)
<『東京に暮す』を読む(その3)>(2011.8.15公開)

 「乗客・・・らは列に並んで自分の番を待つということをしないので、切符売り場や改札口では勝手に割り込んできます。彼らの頭には、目的地に早く着くことしかないのです。」(102)

→ここは、サンソム夫人、例外を一般化するという誤りを犯しています。
 人間主義者たる大方の日本人は、今回の大震災の時にも、世界中の人々を驚かせたように、物資が調達できる場において・・いつかは必ず調達できるよう、他人ないし社会が取り計らってくれるであろうことを信じて・・整然と行列をつくるのが本来の姿(コラム#4762)なのです。
 さて、夫人が観察したのは、通勤時の可能性が高いと思われるところ、そのような時間帯においては、電車の本数の割に通勤客の数が圧倒的に多く・・このような事情は昭和期末まで続いたように思う・・、しかも、日本人は決められた勤務開始時間・・正しくは、自分自身が決めたそれより若干早い出勤時間・・を必ず守ろうとします。
 その結果、乗り遅れないように、例外的に「勝手」な「割り込」みが横行することにならざるをえない、ということなのです。(太田)

 「日本人は、自分と家の両方を守ろうとします。家族の階層のどこに位置しようと、すなわち一番下の若者であろうと、最高位のすぐ下の熟年の長老であろうと、家長本人であろうと、自分自身の態度と行動の他に、共同生活体の他のメンバーの態度と行動も考慮しなくてはなりません。・・・彼は日本人であり、・・・職業が何であるかだけでなく、ある家族の一員なのであり、その家族の一員としての義務を果たさなくてはならないのです。
 このような環境では当然自己を抑制するようになります。」(117、119)

→前に申し上げたことの部分的に繰り返しになりますが、戦前の日本には家制度があったので、何かと言うと家という場が引き合いに出されるところ、サンソム夫人自身が日本国という場や職業集団という場に言及しているように、個々の日本人は、様々な種類、様々なレベルのいくつもの場に同時に所属しており、それぞれの場、すなわちそれぞれの人間(じんかん)のネットワークの中で、生き、生かされている、ということなのであり、このことを、「自己の抑制」とか「義務」という言葉を使って説明することは控えた方がいいのです。(太田)

 「日本人は美しいものを見逃しません。日本人は美を賞でる心を持って生まれてきたようです。」(93)
 「日本人の礼儀正しさは、優雅な話し方やマナーのよさばかりでなく、他人との交際において利己的にならないということだからです。外国人だったら自分のことを色々と話しますが、日本人は自分のつまらない話をしては相手に悪いと考え、どんなに悲しい時でもそれには一切触れず、一般的な世間話しかしません。」(146)
 「日本人には私たちにはない落ち着きがあります。人生が彼らの中や傍を流れていきます。彼らはあせって人生を迎え入れたり、人生の舵を取るようなことはしません。流れが運んでくるものを受け取るだけです。流れてくるものが富や高い地位であっても、驚いたことに彼らは何気なく利用するだけです。その後も依然として地味な生活を好みますし、他の国民のように気取ることもないので、たとえ運が傾いたとしても私たちのようにショックを受けることはありません。高官や金持ちの質素な暮しと、身分の低い者の暮しは大して違いません。どちらも優雅で無欲です。」(148)
 「美しく愛すべき国土を持つ日本人・・・は、自然を非常に大切にする心が、アジア人の優しい心を一層強くしているといえます。日本人は自然を愛するだけでなく、私たちとは違って、今でも自然の中に生きています。だからといって日本人の中に旺盛な精神の持ち主があまりいないというわけではありません。ここ半世紀の間に彼らがやり遂げたことの一片でも知る人は、その逆が正しいことを知っています。
 日本人はいつでも辛抱強く、しかも楽しそうにその時々の状況を受け容れています。」(155)
 「家族の者<は>厭な顔一つせず、老人が最後まで無事に暮らせるように面倒を見ます。・・・日本では、西洋でよくあるように老人や老婆が財布ばかりか、財力がもたらす権力にしがみついて離れないというような浅ましい姿はほとんどみられません。そのことで若者はもちろん助かるし、実は老人だって大いに助かっているのです。」(158)
 「日本人は、・・・私たちと違って人生にいろいろと期待を持つわけではなく、所有欲もはるかに少ないということがあります。・・・
 概してお高くとまることがないという日本人のもう一つの特徴<があります。>・・・古い伝統をもち、とても育ちのよい日本人にとっては、威厳というのは自然に出てくるものなのです。特別な訓練を受けなくても、彼らの眼は率直で鋭く、気取った外国人の愚行などはすぐに見抜いてしまうのです。」(164〜165)

→もちろん、ここには若干の誇張や単純化、そして理想化はあるでしょう。
 とまれ、サンソム夫人のような鋭い観察者から見ると、日本人は、(彼女自身は全くそのような総括の仕方はしていませんが、)釈迦の説いた人のあり方を文字通り実践している人々と言ってよい存在であったわけです。
 仏教というのは、何の夾雑物もない狩猟採集時代の(私の言葉で言うところの)人間主義的な生き方を奨め、かかる生き方が再びできるようになるための方法を教える世界宗教である、という趣旨のことを以前(コラム#4707で)申し上げたことを思い出してください。(太田) 

(続く)

太田述正コラム#4766(2011.5.24)
<『東京に暮す』を読む(その2)>(2011.8.14公開)

 「私たち<外国人>が怒れば怒るほど、日本人はわかっていないのにわかったふりをし、できもしないのにあれこれと約束をして、何とか私たちの機嫌を取ろうとします。それは和解のためであり、和解が成立しないと彼らは話し合うことができないのです。日本人のように相手の気分に左右される国民はいません。
 それはおそらく、いやほぼ確実に気候のせいです。日本にいると日本を覆っている湿った空気のせいで頭の上に何ポンドかよけいな重さをのせているような気がするのです。」(60〜61)

→サンソム夫人の観察は確かですが、この理由付けはダメですねえ。本当の理由は人間主義だからなのですが・・。(太田)

 「日本人がお客を大いにもてなす理由はいくつか考えられますが、その第一は日本人が親切で寛大な国民だということです。・・・
 日本人のもてなしは嘲笑的でもなければ偽善的でもありません。もっとも、自分たちの見事な戦術が初めて来日した外国人に及ぼす効果は十分に意識しています。・・・日本人が自分たちの国を誇り、もともと尊大な外国人に自慢したいと思うのも当然です。
 ところが、日本人が客を歓待する最大の理由は、自分たちも楽しもうという単純でおめでたいものなのです。」(63、65〜66)

→ここの理由付けは・・私に言わせれば中間的理由付けですが・・間違っていません。
 彼女は、私が言うところの、人間主義の非利他主義性(コラム#4739)に、人間主義そのものは知らずして気づいていたわけです。(太田)

 「日本人は国民の幸福のためには個人の権利を放棄しなくてはならないと考えます。それで個人の自由を大切にする私たち西洋人が、日本人と同じように国民の幸福を望んでいることが理解できないのです。」(68)

→前段については、人間主義の非利他主義性を「権利」という言葉を用いては表現できないというだけのことですし、後段については、イギリス人自身が説明を怠っていることに問題があるのです。(その代わり、スコットランド人のヒュームやスミスがそれをやっている(コラム#4736等)わけですが・・。)

 「私は・・・近く結婚することになってい<た>・・・お嬢さんが幸せになられるようお祈りしますと申し上げました。すると欧米の事情に通じているその女性たちは笑って答えました。「私どもはそうは考えません。彼女の個人的な幸福はどうでもよいのです。結婚して子供を産むことが彼女の義務であり、その義務を果たすことによって彼女は幸せになるのです」と・・・。
 <このように、>お嫁さんがいかに優れた知性と芸術的才能の持ち主であろうと、激動の日本社会に対してどんなに強い関心を持っていようと、彼女にとっては家庭生活の厳格な規則が最優先します。昔からの慣例通り、お嫁さんが御主人の両親と同居する場合には、お嫁さんは両親の援護の下に結婚生活を始めることになります。イギリス人だったら自分の娘には決してこうはさせません。娘が自由を失ってしまうからです。」(69)

→この日本人の女性たちが、なまじ「欧米の事情に通じている」ため、「義務」などという言葉を使うから・・そしてまた、サンソム夫人は夫人で「自由」などという概念で物事を考えるから・・彼女たちとサンソム夫人との間で話が噛み合わないのです。
 人間主義に即して説明すれば、人間の幸せとは人間(じんかん=人間関係)において成立する、ということなのです。
 例として、「子供を産むこと」だけを取り上げたのも誤解を呼んだはずです。
 この本の中にも出てくる(72)ように、当時の家制度を前提にした場合でも、子供ができなければ養子を迎え、その養子との人間(じんかん)で幸せを成立させればいいわけですし、そもそも、御主人との人間(じんかん)で幸せを成立させたっていいわけです。(太田)

 「<日本の>商品の中でひときわ鮮やかで美しいものは絹や綿の女性や子どもの着物です。それに日傘です。・・・お金持ちだけが美しいものを楽しんでいるわけではないことがすぐにわかります。・・・<そんな>非常に美しくて大胆な着物を、田舎の女中の娘があかぎれの手で触っているのを見るのは面白いものです。この娘にその一番豪華で一番高価な着物が買えるはずはないのですが、娘と社交界の婦人との間に好みの違いはありませんし、娘にも美しいものをめでる権利があります。お客を平等に扱うという点では日本に勝る国はないでしょう。急き立てる人もいませんから、娘は何時間でも好きなだけ着物に触ったりじっと眺めていることができます。それに日本人は評判の買い物好きですから、この娘だって時にはとても素敵で高価な商品を買うことでしょう。」(91)

→日本には共産主義革命など起こりえないとするサンソム夫人の別の箇所(92〜93。コラム#4753)の指摘につながる記述ですが、日本に階級(イギリスの場合は階層と言った方が本来はよい。なぜなら、欧州における階級はイギリスの階級と違って階級間移動がほとんど見られないからだ)が、いかなる意味においても存在しない・・イギリスの場合ですら、労働者階級と中産階級以上とでは、話している言葉からして全然違う(「民主党と私の選挙」5/5
http://www.ohtan.net/video/kouen20110122.html
・・ことが良く分かりますね。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4764(2011.5.23)
<『東京に暮す』を読む(その1)>(2011.8.13公開)

1 始めに

 オフ会の翌日から2日連続でヤボ用に巻き込まれ、相当疲れたこともあり、予定を変えて、しばらくの間、軽く、TAさん提供の、キャサリン・サンソム『東京に暮す 1928〜1936』岩波文庫(Katharine Sansom 'Living in Tokyo')から、私の印象に残った箇所をご紹介し、コメントを付すというシリーズを立ち上げることにしました。
 私は、実は、この本を翻訳した大久保美春・・1987年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。比較文学比較文化専攻
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E2%80%95%E5%BB%BA%E7%AF%89%E3%81%AF%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%8D%A7%E3%81%92%E7%89%A9-%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A9%95%E4%BC%9D%E9%81%B8-%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D-%E7%BE%8E%E6%98%A5/dp/4623052524
・・による巻末の解説(1994年8月)から読み始めたのですが、以下のくだりで、思わず失笑してしまいました。

 「夫人が日本にやってきた1928年から離日する39年の間の日本の政治・経済・社会情勢は変化する一方であった。27年の金融恐慌ののち29年にはアメリカに発した世界恐慌の影響で日本の不景気は一層深刻化し、300万人もの失業者が町にあふれた。農村でもコメや繭の値段が下がって生活が苦しくなり、娘の身売りも増えた。31年には満州の侵略が始めり、33年、日本は国際連盟を脱退した。32年には五・一五事件、36年には二・二六事件がおき、軍部の力が強まっていった。
 ところが本書にはそういった暗い政治・経済・社会情勢への言及はほとんどない。本書に描かれた日本の庶民は穏やかでおおらかで幸せであり、陽気で明るい。日本の社会が灰色からますます暗くなっていく中、夫人の描く日本は・・・華やかな社会であ<り、>・・・夢のある社会である。」(263〜264)

 太田コラムの読者にとっては常識だと思いますが、大久保の戦前の日本を暗黒視する紋切り型の見方とサンソム夫人のそれとは180度異なっているのであって、夫人が言うところの、戦前の日本は、「庶民<が>穏やかでおおらかで幸せであり、陽気で明る<く、>・・・華やか<で>・・・夢のある社会であ」ったという見方の方が正しいのです。
 いずれにせよ、大久保は、自分の抱く戦前日本観の方が正しいと思っていたのなら、生活費稼ぎのために翻訳だけするのならともかく、そんな駄本の解説を書くことをそもそも引き受けるべきではありませんでしたし、夫人の戦前日本観の方が正しいと思っていたのなら、それと矛盾するような自分の戦前日本観を解説の中で披露するのは(昔風の表現で言えば、)精神分裂症であると言われても致し方ありますまい。

2 引用とコメント

 戦前の日本じゃ時間が今よりゆっくり流れていたんだなあと気づかせてくれる記述等も面白いのですが、戦前も今も変わらぬ、私の言うところの人間主義(その系として日本型政治経済体制がある)に直接間接関わる記述を中心にご紹介することにしましょう。

 「日本の魅力の一つは使用人です。私たちがどんな困難にぶつかろうが、どんな悩みが持ち上がろうが、いつも使用人が傍にいて、何とか役に立ちたいと願い、家族の一員であることに喜びを感じてくれます。いつでも主人を慰め元気づけてくれます。」(15)
 「日本には古くから人に尽くすという優れた伝統がある・・・。」(25)
 「女性<は>母のようにやさしく献身的で<す。>」(45)

→まさに人間主義ここにありって感じですね。(太田)

 「なんといっても日本人の最大の特徴は自然と交わり、自然を芸術的に味わうことです。・・・<家が質素であることもあり、>自然の状態に敏感であることが美を感じる心と密接に結びついています。・・・
 農民の仕事はとても大変なのに彼らは自然と格闘しているようには見えません。彼らは、むしろ、成長しては滅びることを繰り返して永遠に再生し続ける自然界の一員であり、そしてまた、この循環のあらゆる過程を美しいものとして味わうことができる優れた感受性を持っている人たちなのです。」(43)

→自然も日本人は擬人化し、この擬人化された自然と人間主義的につきあう毎日を送るわけです。(太田)

 「仕事と遊びとを一緒にしてしまうという日本人の才能」(50)
 「日本では買うつもりもないのに商品をよく眺めて手で触ったりすることが平気で行なわれますが、本屋も例外ではありません。」(57)

→人間主義社会たる日本においては、組織における人間関係も市場における売り手と買い手の間の関係も、単なる機能的な関係ではなく、全人的な関係であることから、こういうことになる、ということです。

(続く)

太田述正コラム#3317(2009.6.5)
<言語の起源>(2009.10.14公開)

1 始めに

 このところ、連日のように芸術起源論をとりあげてきましたが、文学や音楽の起源と無縁ではないと思われる、言語の起源を論じた最近の2冊の本を今回はとりあげたいと思います。

2 言語の起源

 (1)序

 「多くの動物は単純なメッセージによるコミュニケーションができるが、抽象的概念に係る考えを交換する能力を伴うところの言語によるコミュニケーション・システムを発達させたのは人間だけだ。・・・
 <悩ましいのは、>人間の言語によるコミュニケーション能力<の進化>は化石の記録の研究によって追跡することができず、言語の進化は造形物の発見と他の動物との近似性を通じて間接的に考察することしかできないということだ。・・・」
http://www.dailytexanonline.com/author-offers-fresh-perspective-on-evolution-of-language-1.1629276
(6月5日アクセス)

 (2)狩猟起源説

 ハワイ大学マノア(Manoa)校の言語学の名誉教授のデレク・ビッカートン(Derek Bickerton)は、'Adam's Tongue: How humans made language, how language made humans' で狩猟起源説を唱えています。
 「ビッカートンは、人間の言語が動物のコミュニケーションから直接進化したというアプローチを単細胞的な考え方であると切り捨てる。・・・
 ビッカートンは、人間の言語は約200万年前に狩猟戦略への進化的適応として発達した、と主唱する。・・・
 <すなわち、彼>は、屍肉を漁ることが人間の言語に巨大な分岐をもたらしたと言うのだ。
 例えば、マンモスの肉を回収することの論理的困難さは大変なものがある。
 たくさんの人間が作業をしなければならない。皮を切り裂き、肉を確保し、更に大事なことだが、捕食者達を追い払わなければならないのだ。
 どうやったらたくさんの人間をまさにその場所に集めることができるだろうか。
 複雑な理論を一言に要約すれば、言語だというわけだ。・・・」
http://www.dailytexanonline.com/author-offers-fresh-perspective-on-evolution-of-language-1.1629276
http://www.newscientist.com/article/mg20126986.400-review-adams-tongue-by-derek-bickerton-and-finding-our-tongues-by-dean-falk.html
(どちらも6月5日アクセス)

 (3)母子関係起源説

 フロリダ州立大学タラハシー(Tallahassee)校の人類学教授のディーン・フォーク(Dean Falk。女性)は、'FINDING OUR TONGUES: Mothers, Infants, and the Origins of Language'で母子関係起源説を唱えています。

 「・・・ディーン・フォークは、人間の幼児が泣くという事実をずっと深く熟慮してきた。
 この手がかりから、彼女はPTBD(Putting the Baby Down=赤ん坊を下に降ろす)なる言語起源説を構築した。
 誰もヒト科(hominid)が約<500万〜>700万年前に直立歩行を始め、それからの500万年にわたってこの新しい技を徐々に洗練させていったのはなぜかを明確には知らない。
 しかし、その原因が何であったにせよ、その結果は運命的なものだった。
 人間の身体構造は変貌を遂げた。
 骨盤は狭くなり、それによって女性の産道も狭くなった。
 しかし、我々の祖先達は、歩行することを学ぶのと時を同じくして、考えることをも学んでいた。
 我々は脳で考えることから、脳の容量が成長した。
 しかし、より小さくなった産道の下でより脳が大きくなったことは問題だった。
 そこで進化的な解決が行われたのだ。
 すなわち、人間の赤ん坊達はより十全に発達しない状態で生まれるようになった。従って、他の霊長類(primate)に比べてより頼りない状態で生まれるようになったわけだ。
 これが新たな問題を生んだ。
 すなわち、他の霊長類の赤ん坊達とは異なり、人間の乳児達は食物を漁っている母親達にしがみつくことができないため、彼らを下に降ろす必要が生じたのだが、これは母親達にとっては悪夢だった。
 結果、このような解決方法がとられた。
 解決方法は、母親言葉(motherese)または赤ん坊口(baby talk)であり、これが言語になって行ったのだ。・・・」
http://www.boston.com/ae/books/articles/2009/05/24/how_storytelling_and_cooking_helped_humans_evolve/
(6月4日アクセス)

 「・・・おんぶヒモのような用具が出現するまでは、頼りない乳児達は、食物と水を漁る当時の母親達を苦境に陥れた。
 その任務を遂行するため、我々の祖先たる母親達は、時に彼女達の赤ん坊達を下に降ろさなければならなかった。
 しかし、肉体的接触が中断することは、現在同様、乳児達にとっては苦痛だったに違いない。
 だから、母親達が彼女達の乳児達を安心させたり静かにさせたりするために独特の声を発するようになった可能性は極めて高い。
 これらの声がもっと複雑な、子守歌や、しばしば母親言葉と呼ばれるところの、赤ん坊口の起源なのだ。
 これは今日、・・・すべての人間文化で見られることだが、チンパンジーの間では完全に欠如している。
 母親言葉は、乳児達が彼らの母語のリズムと文法を、単純な単語、徹底的な繰り返し、誇張された母音、高い調子とゆっくりとした速度、で学ぶことを助ける。
 母親達による、安心させるための声から最初の話しかけ(speech)までの道のりは長かったに違いないが、これらの、歴史以前における母親達と乳児達の間の相互作用が話し言葉の出現への道を切り開いた可能性は極めて高いのだ。・・・」
http://www.nytimes.com/2006/05/14/opinion/14falk.htm?pagewanted=print
(6月5日アクセス)

 「・・・ある実験は、母親達はペットに話しかける時と赤ん坊に(赤ん坊口で)話しかける時とは、無意識的に区別していることさえ示した。・・・」
http://www.newscientist.com/article/mg20126986.400-review-adams-tongue-by-derek-bickerton-and-finding-our-tongues-by-dean-falk.html上掲


3 終わりに

 さあ、あなたはどちらの説がよりもっともらしいと思いますか。
 それとも、どちらもイマイチでしょうか。
 それにしても、人間科学も、人間たる諸属性の起源の解明については、まだまだこれからだという感を深くしますね。

太田述正コラム#3313(2009.6.3)
<芸術論(続)(その2)>(2009.10.12公開)

 ボイド本人は次のように言っています。

 「・・・進化論的な考え方は、最近では生物から人間世界へ、そして<人間世界にあっては、>最初は社会科学から始まり、最近では人文科学と芸術へと拡大されてきた。・・・
 少なくとも7万年前からの<人間の>重要な儀典(ritual)と、初期の諸文明の記録という証拠において見られる死への恐怖と不死への願望から判断する限り、死への関心が明確な人間文化の出現以来、<人間の心中に>大きくわだかまってきた<ことが分かる>。・・・ 
 自然淘汰が性<の雄と雌への>分化を遺伝的多様化増進の手段としてきたように、自然淘汰は、芸術を行動的多様化増進の手段として進化させてきた。・・・
 我々の<発達した>脳が我々が<捕食サイクルの最高の頂点に君臨する>超捕食動物になることを可能にしたことによって、我々がその環境において支配的地位を占め、我々が覚醒している時間より少ない時間で必要な食料を獲得することができるようになった時、我々は、自由時間という「問題」を、他の<捕食サイクルの>頂点に位置する捕食動物、すなわちライオン、虎、または熊のように、エネルギーを節約するために眠って過ごす形でつぶすようなことはなかったのだ。・・・
 眠っている間にさえ、我々の巨大な脳は<どのみち>我々のエネルギーの大きな割合を消費しており、かつまた、それが他の種<の動物>や他の人間達に対する我々の優位を最もよく与えてくれることから、我々は、安全でヒマな時において、脳をできるだけ休ませるのではなく、<活用し、>発達させることで効用を得てきたのだ。
 芸術は、知覚的遊びとして、潜在的に有意なパターン化された情報への我々の欲求に訴え、我々の関心を自己報酬的な形で惹き付け、そのことによって、我々にとって最も重要な情報に係る我々の脳の処理力の強化を促してきた。・・・
 ほとんどの社会において、芸術は集団的かつ活発<な営み>だったが、現代の諸都市においてさえ、舞踊と歌は依然としてそのような営みであり続けている。
 <しかし、>芸術が集団的(communal)以上に個人的である傾向のある所では、他人の興味をかき立てるような才能のある者達は、関心、感謝、そして地位を確保させてくれるところの技を発達させる強い追加的誘因を持った。・・・
 <とはいえ、>芸術が個人的なものとなり専門的なものとなった所でも、それは<同時に>高度に社会的なものであり続けた。
 芸術は、我々の個人的な知覚選好(cognitive preferences)を活性化させるだけでなく、それを我々の社会性を通じて調整し拡大させる。
 最初から、母親等は幼児達と、高度に調和しかつ相互的な多様相的な社会的遊びを行う。
 我々は、本能的に、小さい子供達にとって学習が楽しいものとなるよう、芸術が喚起するところの知覚的選好に訴えることによって、遊びを芸術化する。
 人生の間中、(演者になることで)能動的に、あるいは(観衆になることで)多かれ少なかれ受動的に、集団的な形での芸術的諸活動に参加することで、我々は芸術による感情的充足を増大させ続ける。・・・
 仮に芸術が「非自然的」変異(variation)であるとすれば、科学は「非自然的」淘汰(selection)だ。
 芸術は、しばしば地方的文化によって変容を加えられつつ、我々の種としての選好と我々の直感的理解に訴え続ける。
 他方、科学は、我々の種としての選好と我々の直感的理解はもちろん、それが地方的文化によって変容されたものでさえ、拒絶する。
 科学は、アイディアを人間の選好によってではなく、人間のために設計(design)されたわけではないところの、一筋縄ではいかない世界によって検証する。
 その検証の手法は、論理、観察、そして実験によるのであって、自明のように見え、伝統によって繰り返し明白に再確認されたアイディアでさえ、我々に対し、それらを拒絶せよと促す。・・・
 芸術家と観衆もまた、それぞれ淘汰されるとはいえ、芸術は主として変異のプロセスであることから、科学において生じるような、よりよい設計(design)が徐々にため込まれて(racheted)集積するといったことは生じない。
 だから、数千年前の芸術だって、ホメロスやノク(Nok)の彫刻家達のように、現在生み出される芸術作品の大部分より、創造性の事例として、様々な意味でより優越しているということがありうる。
 というのは、簡単な話、ホメロスやノクの匠達は彼らの時代からそう大きくは変化していないところの、彼らが深く理解しているところの、<人間の>選好に訴えることができたからだ。 
 宗教は、芸術と科学の両方の要素を取り入れている。・・・
 科学が、この世界の代替的、自然主義的(naturalistic)説明を提供し始めるに至って、初めて宗教と芸術は、<科学と>大きく分岐し始めた。・・・」
http://www.theamericanscholar.org/purpose-driven-life/

 最後に、再び書評からです。

 「ボイドいわく、芸術は遊びの一形態なり、と。
 これは面白い考えだ。
 近年、遊びを研究している生物学者達は、それが知的動物が、適応目的で、精神的・肉体的な技を脅威のない環境において培うためのもの、と見るようになった。
 これは、フィクションが知覚、協力、及び創造性を養うとのボイドの主張と完全に合致する。
 一点だけボイドの考え方に弱点があるとすれば、遊びはもっぱら相互的(interactive)な営みであるのに対し、物語ることは、どちらかというと観客に向けた<一方的な>営みであるというところだろう。
 ただし、ボイドは、物語においては作者と聴衆の両方が必要であることを認め、それぞれが進化において異なった役割を果たしたと分析する。
 費用・便益アプローチをとりつつ、彼は、時間とエネルギーの点で物語を創造するプロセスは高く付くかもしれないけれど、それはパターンが大好きである我々の脳に訴えることで本質的に報酬を与えてくれるものであると主張する。
 物語は、脳を再形成し、問題解決における想像的アプローチを促進し、物語る人物の社会的地位を増進させる。
 他方、聴衆は、自分達の時間という代価を支払わなければならないけれど、見返りに社会と他の個人達の脳に関するより深い洞察力を獲得する。
 しかし、この知覚的交換は、関心を抱いていなければ行うことは不可能だ。・・・
 <だからこそ、>驚きが必要不可欠なのだ。
 それは、フィクションは、予期しないことに関心を払うという選好を進化させた我々に訴えるものでなければならないことを意味する。
 またそれは、我々の感情をかき立てるとともに、ファンタジー・・読者達を「ここ」と「今」から超えたものへと誘う能力、及び、彼らの内心に深く潜むパターンに惹かれる気持ちに訴える力・・という要素も備えていなければならないのだ。・・・」
http://www.newscientist.com/article/mg20227091.900-review-how-storytelling-shaped-humanity.html

3 終わりに

 ここまでご紹介してきた、ダットンの芸術<起源>論もボイドの芸術<起源>論も、いずれも演繹的であって、そこに限界があるわけですが、二人のうちではボイドの方が、アングロサクソンの目利き評論家達にはうけが良いようです。
 それは、ヴィクトリア朝的性禁忌に彼らの潜在意識がなおしばられているからではないか、と私は勘ぐっています。
 もう一つは、ボイドは、フィクション(文学)しか論じていないために、コミュニケーションの手段としての論理性を持つところの言語なるものを用いて創作されるという、フィクションの特殊性に引きずられて、芸術全般の本質に十分目を向けることができていないのではないか、という気もするのです。
 とにかく、芸術の学問的研究は遅れています。
 日本で、芸術の研究者が質量両面でもっと増えることを願って止みません。

(完)

太田述正コラム#3311(2009.6.2)
<芸術論(続)(その1)>(2009.10.11公開)

1 始めに

 ダットンの芸術論をまずご説明したのは、6日のオフ会の際の私の「講演」の時に援用するにふさわしいからであり、私自身、ダットンの説が正しいと思っているわけでは必ずしもありません。
 そこで、今度はニュージーランドのオークランド大学の英語学教授のブライアン・ボイド(Brian Boyd)が 'On the Origin of Stories: Evolution, Cognition, and Fiction' を出版したばかりであるところ、彼の説のさわりをご紹介しましょう。
 正直言って、この本の書評や、ボイド自身による解説を読んでも、今一つ腑に落ちないところがありますが・・。

2 ボイドの芸術論

 「・・・ボイドは・・・<ダットンの>性的淘汰という仮説に対し、動物は、通常、性的見せびらかし目的ではなく協力目的で歌うものである、と反駁する。
 彼の・・・理論は、芸術は知覚的遊び(play)であるという観念から始まる。
 人間や他の知的な種は、子供達のやるバランスと調整の技を駆使するところの戦争ごっこのような身体的遊びに長い期間ふける。
 これは、彼ら自身が大人になったときに直面するであろう様々な状況に対処する訓練をやっているのだ。
 芸術は、母親達と子供達の歌から始まり、我々の脳を訓練してくれる。
 知覚(cognition)は、第一に、かつもっぱら、パターン認識であり、芸術は凝集した(concentrated)パターンなのだ。
 しかし、人間はすこぶるつきに社会的な動物・・これこそ我々の進化的成功の源泉・・でもあり、少人数の人間集団の生活は、類人猿の研究が示唆する(とともに日常的な経験がそれを裏付ける)ように、社会的知覚・・アイコンタクト、関心の共有、地位の階統性についての自覚、他人が感じているであろうことに対する感受性、意図すること、発見すること、信じること・・に向けて恒常的に努力することを求められる。
 ここに物語ることが登場する。・・・
 フィクションは、ボイドに言わせれば、社会的生存という枢要なる営みに向けて我々の脳を訓練する方法なのだ。
 <フィクションには>他の効用もある。
 フィクションは、我々の経験の幅を広げ、共感することを教え、向社会的感情を発達させ、我々に代替的な様々な可能性を想像することを促すことによって我々の創造力を高める。
 これらはすべてとても魅力的なことだ。・・・
 しかし、理論がもっともらしいからと言って、それがただちに正しいということにはならない。
 物語ることは、文字無くしては、記録が残されていないため、ボイドの理論付けは類推と演繹だけに依拠しているからだ。
 類人猿はこうする、子供達はああする、現代の狩猟採集者達は他のことをする、だから原始人類はこうしたに違いない、と。
 あるいは、フィクションはこれらの諸機能に役立つ、よってフィクションは常にそうだったに違いない、と。
 この種の思考方法は、巧みかもしれないが、科学とは言えない。
 それに、機能的変遷という枢要なる現象を見過ごしている。
 特定の目的のために出現したものが、やがて様々な他の目的のためのものになるかもしれないのだ。
 第一、物語ることが始まったのが1万年前なのか、4万年前なのか、それとも10万年前だったのかが分からないだけでなく、フィクションを物語ることがいつ始まったかだって分からないのだ。
 フィクション性の問題は、この分野の研究において最も議論されてきたことの一つだ。
 古の狩猟採集者達が事実に立脚した物語を語ったであろうことは想像に難くない。・・・
 しかし、一体どうして誰かが、この種の真実の価値を持たない物語を語ろうなどと欲したのだろうか。
 とりわけ、一体我々はいつからそんなことを始めたのだろうか。
 この問いは、我々にはフィクションのように見えるいくつかの物語が、そのもともとの聴衆にはそうは見えなかったかもしれないということを思い起こすとき、一層悩ましいものとなる。
 ホメロスは、自分がフィクションを創造しているとは思っていなかったのだ。
 ルネッサンスの間に小説は再登場するのだけれど、欧州の文化がフィクション性・・事実に立脚していなくても真実であるものがありうるという観念であるところ・・の考え方に慣れるまでには、実に数世紀を要したのだ。
 ボイドは確かに一つの理論を生み出したわけだが、それは、理論という言葉の常識的な意味においてにすぎない。
 すなわち、すばらしいアイディアだがそれを支える証拠が大してない、という・・。」
http://www.thenation.com/doc/20090608/deresiewicz/print
(5月30日アクセス。第一シリーズで登場)

 「芸術は、人間独特の適応(adaptation)なのだ、とボイドは主張する。・・・
 聴衆の関心を惹き付けることこそ、ボイドは、あらゆる物語る人々が直面する根本的な問題である、と強調する。・・・」
http://philosophysother.blogspot.com/2009/05/pub-boyd-brian-on-origin-of-stories.html
(6月2日アクセス。以下同じ)

(続く)

太田述正コラム#3309(2009.6.1)
<芸術論(その3)>(2009.10.10公開)

 「<ダットンの第一の説明は、>「イリアス」から<米国の大人気TV番組であった>「ザ・ソプラノズ(The Sopranos)」に至るフィクション物語は、「低コスト、低リスクの疑似体験」を人々に提供するというものだ。・・・
 彼の第二の説明は、ニューメキシコ大学の進化心理学者であるジェフリー・ミラー(Geoffrey Miller)の学問成果に大いに拠っているのだが、性的淘汰論だ。
 ミラーのように、彼は芸術を、雄の孔雀の尾の知的バージョンたる誘惑の道具と見ている。
 詩を例にとれば、ダットンにとっては、それは潜在的な番の相手に見せびらかすことがその意義の大部分なのだ。
 (彼は「シラノ・ド・ベルジュラック」を詩的求愛の事例として挙げる。もっとも彼は、シラノがお目当ての女性を落とすことができなかったことを書き忘れている。シラノの流暢な遺伝子は子孫によって受け継がれることがなかったわけだ。)・・・
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/01/08/AR2009010802865_pf.html上掲

 「・・・人間にとって、言語能力は生まれつきのものだ。子供が初めて学ぶ特定の言語は文化的なものだが・・。
 同じように生まれつきのもののように見えるのが、子供達の「ごっこ」能力、つまり、現実(お茶はいつも下に注がれるのであって上には注がれない)に幻想(見えない急須と茶碗)が混ざった世界をでっちあげるとともに、この世界を律するルールを<現実世界とは>別個で自己完結的なものと<認識>する能力だ。
 大部分の子供達にとって、(2歳くらいから始まるところの)やはり生まれつきのものが、他人が自分自身と似通った内面生活を持っているということを認識すると同時に、それが自分自身のものとは異なったユニークなものであるということを認識する能力だ。
 だからこそ、恐らくは最も古い芸術の形態は物語ることなのだろう。
 たき火の周りで語られた物語として始まったものが、やがて、より精緻な口伝伝説物語となり、(「イリアス」や「オデュッセイア」のような)書かれた物語、そして演劇、小説、映画、更には物語に立脚したビデオゲームへと発展して行ったのだ。
 ここで重要なことは、これらの(史実の、または部分的に史実の、もしくは純粋なフィクションの)物語が我々の生存を助けたことだ。・・・
 仮に、我々がかつて物語の中で一度聞いたことがあるのと似た状況に遭遇した場合、我々はその状況に成功裏に対処して生き残ることによって「物語る遺伝子」を子孫に受け継がせる可能性がずっと大きくなるだろう。
 また、物語は、様々な種類の人々とその人々の脳がどんな風に働くかの事例も提供してくれる。
 これは、我々が社会状況の中で他の人々とつきあう上で助けになる。
 想像的に物語ることは、人間の知性に組み込まれている生存本能の一つなのだ。
 ところで、現実の人間の言語は、これらの物語や日常的コミュニケーションに必要なものよりもはるかに精緻にできている。
 人間は1千語より少ない言葉でやっていけるというのに、どうして人間の語彙はどの言語でも何万語に及んでいるのだろうか。
 我々の言語は、かくも多くの語彙を持っているため、それが何を意味するのかを教えてくれる本と同義語を教えてくれる本とを必要とするくらいだ。
 これは、雄の孔雀の尾の彩り鮮やかな羽と同じく、天然資源の無駄遣いではないのか。
 この両者を比較することが手がかりを与えてくれる。
 すなわち、ダットンは、かかる言語の浪費(extravagance)は、ダーウィンによる進化の分析の<一方である自然(生存=生き残り)淘汰と並ぶ>もう片一方である性的淘汰の現れであると主張する。
 人間は、番の相手を、部分的には肉体的外見(それはおおむね健康状態の指標だ)に依拠し、また、部分的には知力にも依拠して選択するが、知力の良い指標は、言語に関する能力なのだ。
 ダーウィンは、'The Descent of Man'の中で、人間の脳は性的装飾品であり、言語は脳の彩り鮮やかな羽を見せびらかすためのものである、と喝破した。・・・
 詩と歌の第一番目の主題は、現在においても常に愛であり続けているところから、詩と歌が求愛から生まれたことは明白だ。
 こうして、「肉体的に最強の者ではなく最も利口で機知に富んで賢明な者が生き残る」ことになったのだ。・・・」
http://www.charlespetzold.com/blog/2009/01/Reading-Denis-Dutton-The-Art-Instinct.html

3 終わりに

 ダーウィンの言う自然(生存=生き残り)淘汰も結局は、やはりダーウィンの言うところの、性的淘汰によって、理想的な番の相手を確保して自分の遺伝子をできるだけ多くの子孫に受け継がせて行くためのものであることを考えれば、ダーウィンは、性的淘汰一元論に立っていた、という解釈もできるのかもしれません。
 そうなると、ダットンの芸術論についても、現代芸術を除く芸術は、ことごとく性的淘汰で自分を優位に立たしめるための雄の孔雀の尾的なもの、すなわち手段である、という形に単純化できるのかもしれません。
 しかし、仮にそうだとしても、それでは一体全体現代芸術とは何なのだ、という難問が残ります。
 この難問を解くにはどうしたらよいのか、私の仮説を、6日のオフ会の際にお示しするので、出席者の皆さんから、忌憚のないご意見を承りたいと思っています。

(完)

太田述正コラム#3307(2009.5.31)
<芸術論(その2)>(2009.10.9公開)

 「・・・ダットンの出発点となったアイディアは、1990年代から姿を現し始めた進化心理学(evolutionary psychology)から来ている。
 人間の行動のいくばくかは、我々が石器時代の環境において成功し繁殖する<ために必要なこと>・・・が遺伝子に組み込まれている、という事実によって説明できるといった話を聞いたことがあるとすれば、それが進化心理学の最も粗っぽくかつ俗っぽい説明だ。・・・
 ・・・<進化心理学にイチャモンをつけることはそうむつかしくはない。>
 人間心理のいくばくかの起源は石器時代より古いかもしれないし、1990年代に考えられていたよりも進化は早く進みうると考えられるようにもなった。実際、我々の頭の中の配線は引き続き発展を遂げつつあるのかもしれないのだ。・・・
 ・・・世界中で8歳の子供達が好む風景画は、遠い祖先がそこで繁栄した生活を送った平らでサバンナのような光景だ<(後出)>。
 また、アーサー・ルービンシュタインについて、「彼が演奏会の時本当に好んだのは、舞台の近くに座っている可愛い人を見つめながら、彼が彼女だけのために演奏していると想像することだった」と認めたと書かれたものを読むと、潜在的な番の相手に印象づけることが我々のご先祖様の間に芸術的技術を広げるという役割を演じたというダットンの理論を興味深く思い出さざるを得ない。・・・
 <つまり、ダットンは、いわば>ダーウィン的美学<を唱えているわけだ。>・・・
 <ちなみに、ダットンは、>どうして音と色の芸術はあっても臭いの芸術がないか<についても説明している。>・・・」
http://www.nytimes.com/2009/02/01/books/review/Gottlieb-t.html?_r=1&pagewanted=print

 「・・・1993年にヴィタリー・コマール(Vitaly Komar)とアレキサンダー・メラミッド(Alexander Melamid)という二人のロシア人芸術家は、10カ国で、好みに関する統計学的に非の打ち所がない調査を行った。
 彼らは、アイスランドから支那に至る人々が、芸術について似通った意見を持っているという結論を下した。
 すなわち彼らは、どこの誰でも、水が多かれ少なかれ伴うところの、青を基調とする風景を好む、と言明したのだ。
 メラミッドは、これは、青の風景が人間の遺伝子に刻印されていることを意味する、ということを示唆した。
 彼は、これは我々全員が密かに記憶している極楽なのかもしれない、と思いを巡らせた。
 恐らく、「我々は青の光景からやってきたため我々はそれを欲しているのだ」と。
 ・・・更新世(Pleistocene era)において、我々のような人間へと進化した者達は、サバンナと森林地帯において、アフリカの青い空の下で生活していた(と広く信じられている)。
 このタンパク質が豊富な地域は良い狩猟地だった。
 この風景の中で棲息した者達は、「生存上の優位」に立っていた。
 彼らは繁栄し、子供達を持ち、彼らの遺伝子を次々に受け渡して行った。
 このプロセスは、我々がほとんど想像もつかないほどの時間・・約160万年ないしは8万世代の間・・続いた。・・・
 例えば、普遍的に見られるところの、物語ること(storytelling)に係る強迫観念だ。
 すべての文化(これには、狩猟採集生活を今でも送っているごく少数の人々の文化を含む)において、物語(narrative)は不可欠な要素となっている。
 それは、楽しみの源泉であるとともに、情報を伝達する手段でもある。
 この性向と才能を持った者達は、更新世において特別なる「生存上の優位」に立ったのだ。・・・
 チャールス・ダーウィンによる、音楽の音とリズムは我々の祖先の求愛の一環であったとの示唆もこれあり 恐らく、音楽的な音は、言語の発明を促したのだろう。
 ダットンは、このような理論をもっともらしいと考え、音楽と舞踊は、「共感、協力、そして社会的連帯」を構築したことを示唆する。
 彼は、音楽、舞踊、物語ること、及びその他の芸術の形態は、「狩猟採集集団の社会的健康の強化のために特に進化した」と想像を巡らす。・・・」
http://www.nationalpost.com/story-printer.html?id=1e575d03-385b-4190-a32d-5b2949bd830c
 
 「・・・世界中の人々は、不気味なまでに、美しいものを創造する衝動にかられている。
 これらの美的な作品は完全に無用なもの・・W.H.オーデン(Auden)が指摘したように、これらは「何も起こらせる」ことがない・・であり、にもかかわらず、我々は空調完備の博物館に礼拝の対象のようにこれらを飾り、<アンディー・ウォーホルの>スープ缶のシルクスクリーンに数百万ドルも支払う。
 フランスの<アルタミラ等の>洞窟の壁の何頭かの馬が人間の強迫観念へと発展を遂げたのだ。・・・
 我々が最も美しいと感じる風景は、単にそこから我々が進化を遂げたところの風景なのだ。
 仮に我々が前景に短い草が生えている絵画を好むとすれば、それは、肉食の類人猿<たる人間>にとって決定的に重要な事柄であるところの、平方マイルあたりタンパク質をより多く含む生態系であるからなのだ。・・・
 ダットンは、現代芸術家達に最も厳しい批判を浴びせる。
 連中は、「絵画における純粋抽象、音楽における無調、ランダムな語順の詩、<ジェームス・ジョイスの>フィネガンス・ウェイク(Finnegans Wake)、そして」マルセル・デュション(Marcel Duchamp)で有名になった逆さ小便器のような「レディーメード(readymades)」をもたらしたと。
 このような不快な芸術作品は、ダットンに言わせると、「文化に対する無規則的(blank-slate)見解」から着想を得ており、我々の心は、どんなものであっても前向きに鑑賞できるようになる、という前提に立っているのだ。
 こうして、現代芸術家達は難解であることに喜びを見いだすに至り、彼らは、我々がジョージ・ワシントンのような有名な人物を配した草一杯の風景を本当は欲しているというのに、抽象的な作品を我々に与えてきた、というわけだ。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/01/08/AR2009010802865_pf.html

→この現代芸術に関するダットンの主張には、私は全く同意できません。
 まさにこのことが、私の6月6日のオフ会での「講演」のテーマなのです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#3305(2009.5.30)
<芸術論(その1)>(2009.10.8公開)

1 始めに

 このところ、このコラムで、音楽、美術、演劇・映画、文学をとりあげることが多くなっていますが、こういった一連の芸術とは、一体何なのでしょうか。
 文科系の学問は、社会科学と人文科学(humanities)から成っており、芸術に係る学問は人文科学の一環として昔から存在します
 しかし、残念ながら、芸術に係る学問は遅れています。
 分かっていないことだらけなのです。
 現在、芸術の解明を目指して様々な取り組みがなされていますが、その中から、デニス・ダットン(Denis Dutton)の 'The Art Instinct: Beauty, Pleasure, and Human Evolution' をご紹介したいと思います。
 例によって書評を活用しました。
 ちなみに、ダットンは、カリフォルニア出身で、ニュージーランドのクライストチャーチにあるカンタベリー大学の哲学の教授です。 

2 芸術論 

 「ダットンは、・・・フィクション・・・、音楽、舞踊、及び視覚芸術(natural selection)を自然淘汰というより性的(sexual)観点からとらえる。
 自然淘汰にあっては、環境がいかなる生物が生殖するまでの間生き延びることができるかを決定する。
 一方、性的淘汰にあっては、生物自身が・・大部分の場合はその種における雌が・・誰と生殖するかを決定する。
 性的淘汰は、ダーウィンが提示した、雄の孔雀の尾・・余計で適応阻害的とさえ見える解剖学的特徴・・といった悩ましい現象への解答だった。
 ダーウィンの思考過程は次のようなものだった。
 雄の孔雀が大きな尾を持っているのは、雌の孔雀がそれが好きだからだ。なぜ好きかと言うと、それが手頃な「健康状態のテスト」になっているからだ。健康な尾は、健康な雄の孔雀・・子孫に良い遺伝子を引き継ぐであろう雄の孔雀・・を意味する。
 ダットンに言わせると、これが最初に音楽、絵画や舞踊が生まれた理由なのだ。
 すなわち、それらは、女性に対し、健康状態を見せびらかして求愛するために生まれたのだ。
 このことは、大衆歌謡において、愛をテーマにしたものが圧倒的に多いことから、現在においてもあてはまることが分かる、とダットンは言う。」
http://www.thenation.com/doc/20090608/deresiewicz/print 
(5月30日アクセス。以下同じ)

 「<つまり、>ダットンのねらいは、芸術が、故ジェイ・グールド(Jay Gould)等が主張したような、適応における副産物、つまり、我々の肥大した脳による不必要な活動、などではないことを示すところにある。・・・
 ダットンは、芸術は、他の適応(adaptation)同様、我々の祖先に生存と生殖に関し優位を与えたと述べる。
 生存上の優位として、彼は、物語ることが情報を伝達すると同時に我々の人間行動に関する感覚を拡大すると記す。
 フィクションは、・・・「感情生活のための精神的地図」を提供してくれる、とダットンは言うのだ。
 「<フィクションを>読むことは、現実世界からの私的逃避ないし引きこもりであると見られてしまう場合があるが、良い作品は、実際の経験に比べて、より広く、かつより深く世界理解を拡大してくれる」と。
 しかし、芸術は常に智慧の貯水池以上のものだ。
 生存<のため>というのは不適切な説明だ。というのは、やっかいな雄の孔雀の尾のように、芸術は常に、余りに非効率的でかつ無駄がある<営みだ>からだ。
 すなわち、「芸術は脳の力、肉体的努力、時間、そして貴重な資源を浪費する。
 他方、自然淘汰は、経済的で質素(abstemious)だ。」
 フロイド同様、ダーウィンは、我々が何を行うかを説明するにあたって、性が中心的位置を与えられなければならないと考えた。
 我々の大部分は、ダーウィン主義は完全にランダムで無目的なもの・・「獣的な物理的生存<至上主義>」である・・と考えるよう教えられたため、ダットンが、彼の言う「自己飼い慣らし(self-domestication)」<なる観念>を導入したことは衝撃的だ。
 それは、「他の動物についてはいざ知らず、人類について言えば、性的淘汰<なる観念>は、進化的目的論(evolutionary teleology)の再生・・意図的な知的設計(design)の進化過程への再導入・・を意味するからだ。
 ただし、その設計者は、神ではなく個々の人間それ自身なのだ。
 芸術は、この過程に係る適応なのだ。なぜなら、芸術は、我々の健康状態、つまり、我々の番(つが)うことに係る適格性を示すものだからだ。・・・」
http://blogs.newsobserver.com/bookclub/book-review-the-art-instinct-by-denis-dutton

(続く)

太田述正コラム#3038(2009.1.16)
<ヴィクトリア時代の小説の効用>(2009.7.15公開)

1 始めに

 イギリスは個人主義社会だが、人間(じんかん)主義的側面もある、というのが私のかねてからの主張ですが、要すれば、人間(じんかん)主義がヴィクトリア時代に生まれた、という指摘が、ガーディアンの科学欄と文学欄でなされたところ、それぞれの記事が、それぞれ投稿でケチョンケチョンにけなされています。
 
2 記事

 「・・・<最新の>進化心理学者達の研究によれば、<ブラム・ストーカー作「吸血鬼ドラキュラ」に登場する>ドラキュラ伯爵の嫌悪すべき行為、<ジョージ・エリオット作>「ミドルマーチ(Middlemarch)」に登場するドロシア(Dorothea)の私心のなさ(selflessness)、<ジェーン・オースティン作>「高慢と偏見」に登場するダーシー(Darcy)氏の個人的変貌が、社会秩序の維持に資するとともに、利他的(altruistic)遺伝子がヴィクトリア時代の社会に普及するのを促進した。
 彼らの研究結果は、19世紀以来の英国の小説は、ヴィクトリア時代の社会の価値観を反映しているだけでなく、この価値観を形成したことを示唆している。
 この時期の典型的小説は、平等な社会の徳を述べ立て、個々人が権力や支配を追求するより協力的で愛想が良くあるべきこと(affability)を奨励した。
 例えば、ジョージ・エリオットの「ミドルマーチ」では、ドロシアは富に背を向けて貧者を助けるし、ブラム・ストーカーの夜の恐怖、ドラキュラ伯爵は、貴族支配のひどさを体現している。・・・
 研究者達は、これらの主人公達が、狩猟採集社会の協力的属性を反映する集団に分類されることを発見した。狩猟採集社会においては、個々人の権力と富の追求は地域社会の全体善のために抑制される。
 研究者達は・・・、この種の道徳的文学は、社会全体における公正性と利他主義を支え、かつ醸成すると主張する。「これらの規範を吹き込むことによって、人類は「ただ乗り」や「インチキ」を統制することに成功し、恐らくは社会集団の中で真に利他的な遺伝子が存続することを可能にしているのだ」と。・・・
 何人かの主人公達は、良い性向と悪い性向とを併せ持っていると判断される。例えば、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」のヒースクリフ(Heathcliff)やジェーン・オースティンのダーシー氏がそうだ。
 彼らが指し示す葛藤は、かかる協力的社会秩序を維持することの困難さ(strains)を反映している・・・。
 ストーカーのドラキュラとジョージ・エリオットの<小説に登場する>主人公達は更に黒白がはっきりしている。
 「ドラキュラは貴族であり貴族性の最も暴虐的な姿を体現している。彼は単に威張りくさっている(asserting prestige)だけではない。彼は実際に人々に襲いかかり、彼らの生き血を吸うのだ」と・・・。」
http://www.guardian.co.uk/science/2009/jan/14/victorian-novels-evolution-altruism
(1月16日アクセス。以下同じ。)

 「・・・<ヴィクトリア時代の社会に生きた人々は、>義務感、節度、貞節、ただ飯を食わない、己の分を尽くす、公正に行動する<、といった道徳観を身につけるに至ったわけだが、>こういう話を聞くと、我々は、マルクス主義者達が言うところの「欺瞞的意識」、つまりは幻想ではないかと思ってしまう。
 しかし、これらの諸幻想が結合することによって、ヴィクトリア時代の人々は、未来は投資に価するとの国民的信頼感を醸成するに至ったのだ。
 歴史学者のジョージ・キトスン・クラーク・・彼自身1900年<というヴィクトリア時代の最後の>生まれ・・・は、この時代のダイナミズムのよってきたるゆえんを、英国の下層階級を世俗的宗教性で満たしたところの、福音的キリスト教の復興であったとしている。これが、自己犠牲を喜んで払う性向をもたらしたというのだ。
 ヴィクトリア時代の人々は、社会として、(比較にならないくらい豊かになったけれどカネ遣いがはるかに享楽的になった)我々よりも、その富を惜しげもなくインフラに投資した。・・・
 ・・・ヴィクトリア時代の人々の幻想こそが英国に進化的優位を与えたのだ。
 ・・・ドロシア・ブルーク(Dorothea Brooke)、ヒースクリフ、そして<オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」の>ドリアン・グレイらの主人公達を多変量解析すると、より大きな善のための結集(cohesion)、集団的努力、そして自己否定、を醸成するところの互いに関連し合うイデオロギー的諸信条が析出されてくる。・・・」
http://www.guardian.co.uk/books/booksblog/2009/jan/14/literature-evolutionary-advantage-university-missouri

3 コメント

 それぞれの記事へのコメントは以下で読むことができます。
http://www.guardian.co.uk/science/2009/jan/14/victorian-novels-evolution-altruism?commentpage=1
http://www.guardian.co.uk/science/2009/jan/14/victorian-novels-evolution-altruism?commentpage=2
http://www.guardian.co.uk/books/booksblog/2009/jan/14/literature-evolutionary-advantage-university-missouri

 簡単に申し上げれば、そんなアホな、たかが小説が時代をつくるわけがあるかい、といった類の投稿ばかりですし、中には、これらの記事が拠った研究を記者達が読み違えている、という投稿まであります。
 どうして批判的な投稿ばかりか、ということについては機会があれば改めて考えて見たいと思いますが、私自身は、この二つの記事を大変興味深く受け止めました。
 少なくとも、イギリスには人間主義的側面もあるという私のかねてからの主張がヴィクトリア時代の英国の主要小説によっても裏付けられる、と言えそうだからです。
 我が意を得たりと思ったのは、最初の記事の中で、人間主義が狩猟採集社会の属性である、という指摘がなされていることです。
 人類史上最も高度に発達した狩猟採集社会たる縄文時代を1000年間にわたって経験した日本が、筋金入りの人間社会というユニークな社会になったのは当然だ、ということになるからです。 

太田述正コラム#2878(2008.10.28)
<人間は戦争が大好きだ(その2)>(2008.12.11公開)

 結局のところ、戦争は人間の営みの中で必ずしも最悪のものではないし、戦争を戦う人々は、必ずしもそれ以外の人々より未開であるというわけでもない。多くの戦争は防衛的であって、外交によって動かされぬところの獲物を求める国々によって無辜の民が蹂躙されるのを救うために戦われる。また、2000万人以上の命を奪ったスターリンの大粛清(Great Terror)、5000万人を超える命を奪った毛沢東の大躍進や文化大革命等、推定1100万人を粛々と抹殺したヒットラーの死の工場群、は公式の戦場外におけるキリング・フィールドであったことを想起せよ。

 ところで、このところ、戦争の文化が衰弱する傾向が散見される。
 この傾向を先取りしていたと言えるのかもしれないのが、シオニズムが彼らに力を与えるまで、あたかも風がない日の旗のように弱々しく腰をかがめていたユダヤ人・ディアスポラ(パレスチナの外で離散して暮らすユダヤ人のこと(太田))だ。
 このような中性化した(epicene)男性が欧米で増えている。
 とりわけ憂慮されるのは、戦闘的なフェミニスト達だ。
 彼女たちは、軍隊内における両性の平等を要求する一方で、部隊を嘲り、兵士達の死さえも望むことで社会の防衛を掘り崩している。
 肉体的に男性よりも弱いため、女性兵士は効果的戦闘を困難にし彼女達の男性の仲間達が殺人という深刻な任務を遂行する足をひっぱる。
 フェミニズムに感染すれば、軍事的文化はトランプのカードでできた家のように間違いなく瓦解してしまい、戦闘を行って勝利を収める能力を喪失することになろう。
 例えば、米軍への大人数の女性の無理矢理の導入がそうだ。
 仮に次期米政権が陸上戦闘の分野を女性に開放し、かつホモの入隊を要求するようなことがあれば、<米国における>戦争の文化への影響は巨大なものとなろう。戦闘を行う類の男性は、しばしば、軍隊に彼らの男性性を証明するために入るものだ。彼らはその証明を、女性とホモが大勢いる軍隊では行うことができない。

3 書評子達によるクレヴェルド批判

 この本に対する評価はおおむね高いのですが、最後のくだりについては、批判が投げかけられています。
 「中性化した・・・男性が欧米で増えている」については、一定の欧州諸国にはあてはまるかもしれないが、米軍が、1980年代初期からほとんど絶え間なく中東等で戦闘作戦に従事してきたことから、米国にはあてはまらない、との批判がある書評子から投げかけられています。
 「ユダヤ人・ディアスポラ」が中性化した、という点についても、ある書評子は、何千ものユダヤ系米国人とともにノルマンディからベルリンまで戦い抜き、朝鮮戦争でも戦った自分の父親がとんでもない、と言うだろうと指摘しています。
 また、「女性兵士は効果的戦闘を困難にし・・・」については、ある書評子が、自分が会った米空母トルーマンに搭乗している2歳の子供の母親であるF-18航空隊司令・・同隊のパイロットのうち5人は女性・・が同意するとは思わないと批判しています。

 私も、これらの批判におおむね同感です。
 なお、戦後日本の男性が中性化していることを以前(コラム#276で)指摘したところです。

4 終わりに

 このシリーズを執筆していると、私の『防衛庁再生宣言』のテーマの一つが私の脳裏に鮮明によみがえってきました。
 私は、この本の174〜175頁で、「我々は・・・、強兵から富国へというベクトルが存在することを忘れがちである。・・・陸軍省<の>・・・「国防の本義と其強化の提唱」中の「たたかいは創造の父、文化の母である」・・・<と>の主張・・・は決して誤りであるとは言えない。・・・戦争がある度に、各国の生産力は飛躍的に増大した・・・ばかりではなく、民主主義の進展もまた、戦争と切っても切り離せない関係がある・・・。<また、>強兵を整備、維持すること自体が富国をもたらす側面がある・・・」と記したところです。
 クレヴェルトが主張しているように、「戦争は・・・人間の本質(nature)と文化の根源的な一部なのだ。・・・<戦争は、>それゆえそれに従事している人々に事実上一種の満足感をもたらす」のであれば、それは当然「創造の父、文化の母」であるはずです。
 「戦争を放棄する、戦力は保持しない」と定める憲法(第9条)を持つ戦後日本は、人間性の本質を無視し、創造と文化の源を捨て去ったと言ってもあながち過言ではないのかもしれませんね。

(完)

太田述正コラム#2876(2008.10.27)
<人間は戦争が大好きだ(その1)>(2008.12.10公開)

1 始めに

 イスラエルの軍事史家で軍事理論家であるクレヴェルド(Martin van Creveld。1946年〜)が最近上梓した、『戦争の文化(The Culture of War)』のさわりをご紹介しましょう。

 (以下、この本の書評である
http://www.latimes.com/features/books/la-ca-martin-creveld26-2008oct26,0,2253771,print.story
(10月25日アクセス)、及び
http://www.nysun.com/arts/why-we-fight-martin-van-crevelds-the-culture/86443/
http://www.d-n-i.net/dni/2008/09/24/on-war-275-van-creveld-writes-another-big-book/
(いずれも10月26日アクセス)による。)

2 戦争の文化

 クラゼヴィッツの「戦争は他の手段による政治の継続である」という主張は誤りだ。・・・
 戦争は国家の諸利益に奉仕するために存在するのではない。むしろそれは、人間の本質(nature)と文化の根源的な一部なのだ。・・・<戦争は、>それゆえそれに従事している人々に事実上一種の満足感をもたらす。
 さもなくば、どうして人々、特に男達は互いを殺し合うことを楽しむのだろうか、そしてどうして傍観者達が戦争を眺めたり考えたりすることに魅了されるのだろうか。「戦争」、とりわけ戦闘は、他のあらゆるものを霞ませるほど、われわれ人類が従事するものの中で最も愉快で、最も刺激的な活動の一つなのだ。非常にしばしば、その愉快さと刺激は純粋な喜びをもたらす。・・・恐らくはあらゆる喜びのうち最大の喜びを。・・・
 いかなる人間文化も戦争を除外視しては考えることはできない。戦争・・・は・・・文化を形成し、文化は今度は、合理的な軍事的効果の計算をはるかに超越した強力さで戦争を遂行せしめる。・・・
 それが大衆文化であれ、高級文化であれ、文化と戦争との紐帯は、歴史の、決して変わることがない定数であり、大黒柱なのだ。・・・
 ギルガメシュの叙事詩からオデュッセイアまで、そしてイリアスと聖書において、戦争と文化は常に関係づけられている。戦争と文化は、戦闘の死ぬほどのスリルと性的快感というドラマによって溶接されている。シェークスピアの戯曲がとりわけ軍事的であるように、戦争は文学に浸透しているだけでなく、最も初期の絵文字からベトナム帰還兵記念碑に至るまで、芸術にも浸透している。
 同様に、戦争は音楽の進化や建築、そして他人の命を奪うことへの禁忌を殺人への聖なる処方箋へと変容させた儀典、にぬぐいがたい足跡を残した。われわれが遊ぶゲームすら、それがチェスであろうとサッカーであろうと、最近の次々に新バージョンが出るビデオゲーム「ドゥーム」であろうと、それらは等しく戦争の副産物なのだ。戦争は、文化のアンチテーゼなどではなく、むしろ「壮麗なる相手方」なのだ。・・・
 人間が戦争に対する興味をなくしたとか戦争そのものがもはや歴史の屑籠に投げ捨てられつつあるなどと主張することは、真実をねじまげること甚だしい。1946年から2002年の間に226の戦争が戦われたし、最近の40年だけでも避難民の数は4倍に増えた。実際、先進国間の戦争の数は減ったけれど、これは平和主義の産物ではなく、核によるホロコーストへの恐怖の産物に過ぎないのであり、発展途上国間の紛争の数が減っていないことを忘れてはならない。・・・民主主義国家は互いに戦争をしないというのもウソだ。1776年と1812年の英米間の戦争や、民主的に選ばれた南部連合と北部連邦との間の米国の南北戦争を思い出して欲しい。・・・

 ここで問題になるのは2点だ。
 第1点は、軍事文化を実際の戦争から乖離させてしまうことの帰結であり、第2点は軍事制度を戦争の文化から切り離そうとすることの帰結だ。
 <まず、第1点だが、>7年戦争が終わった1763年の後、プロイセンの陸軍はあらゆることを様式化してしまい、複雑でほとんど役立たない訓練ばかりをやるようになってしまった。・・・
 その結果、プロイセン陸軍は脆弱になり、1806年にナポレオンと相まみえた時に、粉砕されてしまうことになる。
 第2点の例としては現在のドイツ軍があげられる。・・・
 最初のうちは1933〜45年の間だけが悪魔払いの対象となった。ところが、1968年以降は、暗闇を広げる傾向が次第に募り、やがて昔までが対象にされるようになった。パンツァー戦車部隊の指揮官たるハインツ・グーデリアン(Heinz Guderian。1888〜1954年)だけでなく、はたまた砂漠の狐たるエルヴィン・ロンメル(ロメル=Erwin Rommel。1891〜44年)だけではなく、ハンス・フォン・ゼークト(Hans von Seekt。1866〜1936年)、パウル・フォン・ヒンデンブルグ(Paul von Hindenburg。1847〜1934年)、エーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorff。1865〜1937年)、アルフレッド・フォン・シュリーフェン(Alfred von Schieffen。1883〜1913年)、そしてヘルムート・フォン・モルトケ(Helmut von Moltke。1800〜91年)までもが消え去ってしまった。彼らは、国家に奉仕した英雄達から、「軍国主義者」、「反動」、「帝国主義者」、「ならず者」へと貶められたのだ。今日の宿営(casern)においては、彼らの名前や肖像画を見いだすことはできなくなってしまった。・・・
 おぞましい<ドイツの>歴史的背景を踏まえれば、これらすべては完全に理解はできる。しかしその一方で、軍隊というものは、その構成員が彼らの国家のために戦い、死ぬのであれば、戦争の文化を持っていなければならないことは争いがたい事実なのだ。・・・

(続く)

太田述正コラム#2848(2008.10.13)
<ル・クレジオのノーベル文学賞受賞(その2)>(2008.11.28公開)

3 米国の主要メディアの反応

 ロサンゼルスタイムスは、公平に世界中に目を開いているとするエングダールの言うことを額面通り受け止めるべきだとする評論家の意見を紹介しています。エングダールらが今後アフリカ、インド、支那といった巨大な地域から受賞者を発掘するかどうかを見守っていくべきだというのです。
 一度エングダールに批判的な言辞を弄したオーゲンブローム(コラム#2828)も、ル・クレジオの受賞が決まってからは、「米国内での騒ぎは不幸だった。ノーベル文学賞を矮小化するからだ。ノーベル賞委員会なかりせば、われわれはイムレ・ケルテッツやエルフリーデ・イエリネクを読んだだろうか。これらの作家をわれわれに紹介してくれた同委員会に誉れあれ!」とエングダールらへの賛辞を口にするに至りました。
 この記事は続けて、米国の読者や評論家が同賞が米国人に授与されるべきであるとするのは、いささか傲慢であるのみならず、われらの文化的覇権意識の表明以外の何物でもない、と記しています。
 そして、今年同賞候補者と目された米国人であるところのフィリップ・ロスとジョイス・キャロル・オーツはどちらも落第だとまで記しています。
 すなわち、ロスは委員会が嫌うところの、授与に向けての自らの運動を積極的に行ったし、オーツは率直に言って同賞のレベルに達していない、というのです。
 さすがに言い過ぎたと思ったのか、この記事は、最後の方で、しかしながら同委員会が公平無私である保証はないとし、2005年に同委員会がイエリネクを同委員会が選んだ時、委員のクヌート・アーンルンド(Knut Ahnlund)が、イエリネクの作品は、「めめしく(whining)、楽しくもない公的ポルノ」であって、「あらゆる進歩的潮流に対し修復不可能な損害を与えただけでなく、芸術としての文学に対する一般的見方を混乱させてきた」として抗議の委員辞任を行ったことは記憶に新しい、と記しています。

 (以上、
http://www.latimes.com/features/books/la-et-ulin10-2008oct10,0,1591472,print.story
(10月11日アクセス)による。)

 また、ワシントンポストは、ノーベル賞委員会こそ島国根性(insular)であるとする米国内での見方は間違っていたと記しています。
 そして、エングダールのストックホルムでの受賞者発表の記者会見の際の次のような発言を引いています。
 「今日、偉大な作家をその国籍で定位置を示す(locate)することはどんどん困難になってきている。彼らはしばしば亡命先で作品を書く。・・・そして彼らは自分の生まれた文化から他の文化に身を移すことによって刺激を受ける。・・・<ル・クレジオは、>旅行者であり、世界市民であり、遊牧民だ。・・・彼は、厳密に文化的観点から見ればフランスの作家とは言えない。彼は異なったフェーズを経て発展してきた作家であって、・・・彼は多様性を持つ偉大な作家であり、他の諸文明、他の思考形態、欧米以外における生活形態を彼の作品の中にとりこんでいる。」
 そして、ル・クレジオ自身、パリでの受賞会見の際の、彼自身の多様な背景を強調した発言を引いています。
 「私はフランスから出発したが、私の父親はモーリシャス生まれの英国市民だった。だから私は自分自身を、現在の欧州における大勢の人々同様、混淆的存在と見ている。」
 その上でこの記事は、エングダールの「米国は孤立し過ぎており、島国根性が過ぎている。彼らは外国の小説を余り翻訳しないし、文学についての大議論に真の意味で参加しようとしない。」との発言はその通りだとしています。
 そして、フランスのガリマール書房の幹部の言、「誰も米国文学の質が低いとか面白くないなどと言う人はいない。<しかし、米国以外の世界の作品の大部分を無視することで>英米の人々は文学についての議論に参加していない。」を引いています。
 この記事は、ル・クレジオ自身の、「われわれは、考え方とイメージの混沌の爆弾の洗礼を受けるというやっかいな時代を生きている。文学の役割は恐らくこの混沌のこだまを伝えるところにある。」という言葉で終わっています。

 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/09/AR2008100900243_pf.html
(10月12日アクセス)による。ただし、一部
http://www.nytimes.com/2008/10/10/books/10nobel.html?_r=1&oref=slogin&ref=world&pagewanted=print
前掲で補足した。)

 ガリマール書房の幹部が米国の話の中にさりげなく英国を引きずり込んでいるところ・・「英」米の人々・・はいかにもフランス人らしいですね。

4 終わりに

 こうして今年のノーベル文学賞論争は、米国側がほぼ全面的に白旗を揚げる形で終わりました。

 最後に、ガーディアンのうがった見方をご披露してこのシリーズを終えたいと思います。
 「今年のノーベル賞受賞者は米国人以外ばかりだったことが印象に残る。一番端的には、エイズ・ウィルスを発見したLuc Montagnier と Francoise Barre-Sinoussiへのノーベル医学・生理学賞の授与だ。その隠れた意味は、米国のウィルス学者のRobert Galloが最初の発見者であるとされてきたのは誤りだった、ということだ。」(
http://www.guardian.co.uk/books/booksblog/2008/oct/09/nobel.le.clezio
前掲)
 確かに経済学賞こそ、9年連続で米国人(ニューヨークタイムスのコラムニストとしても活躍しているプリンストン大学のポール・クルーグマン教授(55歳))に授与された(
http://sankei.jp.msn.com/world/america/081013/amr0810132101001-n1.htm
。10月13日アクセス)ものの、物理学賞は日本人2人と日系米国人1人、化学賞は日本人1人、米国生まれの支那系米国人1人、「純粋」米国人1人でしたし、平和賞もフィンランド人のアハティサーリ前大統領でしたから、今年は米国にとってはノーベル賞厄年かもしれませんね。

 ここでトリビアを一つ。
 化学賞受賞者の一人、カリフォルニア大学サンディエゴ校教授のロジャー・チェン(Roger Yonchien Tsien=錢永健。1952年〜) は、支那の五代十国(Five Dynasties and Ten Kingdoms)時代(907〜960年)の呉越(Wuyue)国(都は杭州。907〜978年)の錢謬(Qian Liu =Tsien Liu) 国王の34代目の子孫です(
http://en.wikipedia.org/wiki/Roger_Tsien
。10月13日アクセス)。

(完)

太田述正コラム#2842(2008.10.11)
<ル・クレジオのノーベル文学賞受賞(その1)>(2008.11.25公開)

1 始めに

 ノーベル文学賞にフランスと(インド洋上の)モーリシャスの国籍を持つ、小説家にして児童文学者にして随筆家のジャンマリ・ギュスターブ・ル・クレジオ(68歳。1940年〜)が選ばれました。
 スウェーデン・アカデミーは「新しい出発、詩的な冒険、そして官能的な悦楽の作家。支配的な文明を越えた、またその文明の下積みの人間性を追究した」と授賞理由を説明しましたが、英米の主要メディアを元に、この受賞について少し詳しくご説明したいと思います。

 (以上及び以下は、
http://www.asahi.com/culture/update/1009/TKY200810090270.html
(10月9日アクセス)、
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-nobel10-2008oct10,0,6464161,print.story
http://latimesblogs.latimes.com/jacketcopy/2008/10/french-author-j.html
http://topics.nytimes.com/top/reference/timestopics/people/l/jeanmarie_gustave_le_clzio/index.html
http://www.nytimes.com/2008/10/10/books/10nobel.html?_r=1&oref=slogin&ref=world&pagewanted=print
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/09/AR2008100900243_pf.html
http://www.guardian.co.uk/books/2008/oct/09/nobel.prize.gustave.clezio
http://www.guardian.co.uk/books/booksblog/2008/oct/09/nobel.le.clezio
http://www.guardian.co.uk/books/2008/oct/10/nobelprize-france
(いずれも10月10日アクセス)による。)

2 ル・クレジオについて

 ル・クレジオは南仏のニースで英国籍の父親とフランス国籍の母親の間に生まれました。
 彼は祖先が18世紀にフランスのブルターニュ地方からモーリシャスに逃げるように移住した家系であり、父親もモーリシャスの出身であったことから、モーリシャスがル・クレジオにとって心の古里でした。
 彼の少年時代、医者であった父親は一人アフリカでの生活を続けていましたが、ル・クレジオは7歳の時、母親らとともに父親がいたナイジェリアに赴き、そこで2年間過ごします。
 彼は、英国のブリストル大学で英語英文学を学び、卒業後ニースの文学学院(Institut d’Etudes Litteraires)を経て、エイ・アン・プロバンス(Aix-en-Provence)大学で修士号を取得し、ペルピニャン(Perpignan)大学でメキシコ初期史に関する博士論文を書きます。
 また、英国のロバート・ルイス・スティヴンソン(Robert Louis Stevenson)やジョセフ・コンラッド(Joseph Conrad)等による孤独な冒険譚から文学的影響を受け、フランス軍に勤務してタイとメキシコの大学で教鞭を執ったことがあるほか、米国ニューメキシコ州のアルブカーキ(Albuquerque)やマサチューセッツ州のボストンでも教鞭を執りました。
 マヤ文明の聖なるテキストの翻訳を出版したこともあります。
 彼の最初の結婚は離婚で終わり、1975年にモロッコ人の女性と再婚し2人の女の子をもうけ、現在はアルブカーキを拠点に、ニースとモーリシャスを往き来して暮らしていますが、ブルターニュにも自宅があります。

 彼は1963年、23歳の時に、軍隊か病院のような隔離的環境から逃げ出した、精神を病んだ若者の目に映る世界を詩的に描いて、カミュの「異邦人」を彷彿とさせると評された長編「調書(The Interrogation)」で、フランスの主要な文学賞のひとつルノード賞(Prix Renaudot)を受賞し、衝撃の文壇デビューを飾ります。
 この時、顔が似ているというので、マスコミは彼に、「フランス文学のスティーブ・マックイーン(Steve McQueen)というあだ名をつけたといいます。
 この「調書」に続く1965年の短編集「発熱」、1966年の長編「大洪水」の3作で、ル・クレジオは神話的な象徴性を帯びた独特の小説世界を確立します。
 以後、異文化圏への旅に啓示を受けて書いた長編「逃亡の書」や、パナマでの現地の人々との共同生活に題材を求めたエッセー「悪魔祓い」などを精力的に執筆し、これら一連の作品に、子どもや女性、貧困に苦しむ外国人など疎外された存在に対する共感を託しました。
 その後の主な作品として、歴史的時間とは何かを問う長編である1980年の、サハラ砂漠の原住民の女性の眼から植民地主義を批判的に見た「砂漠(Desert)」(フランス・アカデミーから最初のポール・モラン大賞(Grand Prix Paul Morand)を授与される)、そして2007年に出版された、映画史を扱ったBallacinerなどがあり、著書の合計は40冊を超えます。

3 ル・クレジオの受賞

 (1)ガーディアンの皮肉

 英国のガーディアンは、(米国では例によってほとんど知られていないところの)ル・クレジオの受賞を報じるニューヨークタイムスが、

PARIS: Amid debate over purported bias against American writers, the Swedish Academy on Thursday awarded the 2008 Nobel prize for literature to Jean-Marie Gustave Le Clezio, a French novelist, children's author and essayist regarded by some French readers as one of the country's 20 greatest living writers.

と、わざわざストックホルムではなくパリ発として記事を始め、毒のある「フランスの読者の≪一部≫から・・」という言い回しで、「俺たち米国は賞を盗まれた」というニュアンスを出した、と米国を皮肉っています。
 (これは、
http://topics.nytimes.com/top/reference/timestopics/people/l/jeanmarie_gustave_le_clzio/index.html
のことだと思われますが、私の見る限り、'PARIS'から始まってはいません。電子版は違っているということかもしれませんが・・。)

 返す刀で、ガーディアンは別の記事で、ル・クレジオの受賞により、「フランスはその文化的衰亡による鬱症状から解放された」と今度はフランスを皮肉っています。
 確かに、文学をとってみても、支那生まれのフランス国籍のGao Xingjianの2000年の受賞を除けば、フランスからは20年以上にわたってノーベル文学賞受賞者が出ておらず、アルベール・カミュ、ポール・サルトル、アンドレ・ジードらの受賞者をフランスが輩出した黄金時代は遠い昔の話になってしまっていたのですからね。
 実際、この受賞について、フランスのフィロン(Francois Fillon)首相は、「フランス文学にとっての名誉であり、大喝采でもっていわゆるフランス文化の衰亡の理論が否定された」と述べているのですから、語るに落ちたというところです。
 (もっとも、サルコジ大統領はもう少し含蓄のある発言をしています。 
 「ジャンマリ・ル・クレジオは世界の市民であり、すべての大陸と文化の子供でもある。彼は偉大なる旅行者であり、彼はフランスの影響・・グローバル化した世界におけるその文化と諸価値・・を体現している。」と。)

 何度となく繰り返して恐縮ですが、英国の欧州文明及び米国のできそこないのアングロサクソン文明に対する優越感がいかほどのものか、お分かりいただけるでしょうか。
 大体からして、ル・クレジオ自身、既にご紹介したように、父親は英国人だし、当然のことながら英語とフランス語のバイリンガルだし、英国の大学を卒業し、しかも英文学の影響を最も受けいるのですから、引き続きノーベル文学賞受賞者を輩出している英国人が米国やフランスに優越感を抱くのももっともです。
 
 (2)その他

 ル・クレジオは2001年に、「欧米の文化は一枚岩になりすぎた。それは都市と技術的側面に可能な最大の力点を置くがために、例えば宗教性とか感覚といった、その他の表現形式の発展を妨げてしまっている。合理主義の名の下で人間の全ての不可知な部分が闇に追いやられてしまっている。このことを自覚したことが、私をして他の諸文明への関心へ誘ったのだ。」と述べています。
 受賞の知らせを受けたル・クレジオは、「<文学は、>図式的な答えなどないところの現在の世界についての問いを投げかけるとても良い手段だ。小説家は哲学者ではないし、語学の技術者でもない。彼は書く人であり、自分自身に問いを投げかける人なのだ。メッセージを送るとすれば、われわれは自分自身に問いを投げかけなければならない、ということだ。」と語りました。
 12月に行われる彼の受賞講演は政治的色彩を帯びたものになるだろうと予想されています。
 クレオール(Creole。フランス語と現地語の混淆語)の作家達の作品の出版に力を入れてきたル・クレジオは、欧州の大都会のエリートでない若い作家達を世に出すためのキャンペーンを講演で行うだろうというのです。
 彼は、戦争反対を唱えるとともに、発展途上国における女性の権利増進、子供による売春禁止も推進してきました。

(続く)

太田述正コラム#2830(2008.10.4)
<ノーベル賞がとれない米国の小説家(続)(その1)>(2008.11.21公開)

1 始めに

 表記をめぐって、スウェーデンのエングダール・・スウェーデン語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語の達人だそうです・・への反論は一層激しさを増してきました。
 そこで、更にこれらの反論をご紹介することにしました。

2 エングダールへの反論

 (1)米スレート誌掲載の反論

 米国の文学評論家のカーシュ(Adam Kirsch)は、米スレート誌上で次のような反論を展開しています。

 エングダールが米国人作家は粗野(raw)で後れていて(backward)、パリやベルリンでの最新の状況について行っていない、と非難するのは、米独立戦争の頃のステレオタイプ的な見方を事実上繰り返しているのにほかならない。200年近く前にイギリスの才人シドニー・スミス(Sydney Smith)が、エジンバラ・レビューに「地球のどこに住んでいようと、米国人の書いた本など読む者がいるものか」と言ったことはよく知られている。しかし、皮肉なことに、エングダールは今日の米国人の狭い了見(provincialism)をけなすけれど、ノーベル文学賞の歴史を振り返ってみると、米国文学でノーベル賞委員会が最も評価してきたのはまさにその「後れ」だったのだ。
 これまで同委員会がどんな米国人作家に受賞させてきたか見てみよう。
 1938年に受賞したパール・バックと1962年に受賞したジョン・スタインベックを見よ。どちらも民俗作家(folk writer)と言ってもよいくらいだ。どこにでもいる人間の悪戦苦闘をドラマ化するという素朴なリアリズムのスタイルを用いたという意味で・・。だからこそ、この二人にとってそれぞれ最も有名な作品であるところの、『大地』と『怒りの葡萄』は、中学校の必読書リストの中にぴったりおさまる。米国人として最初に賞を1930年に受賞したシンクレア・ルイス(Sinclair Lewis)は、米国人の了見の狭さに立脚しているところの、とり立てて血湧き肉躍るところのない下品な(broad)寓話を書いたものだ。
 これらの作家達は、欧州向けに、欧州の人々が米国において見いだそうとしたイメージ・・まじめで、粗野で、反知性的・・をそっくりそのまま返してくれたわけだ。
 もっとも、第二次世界大戦後の短い期間、ノーベル賞委員会は米国がもうちょっと洗練された(sophisticated)作家達を生み出していることを認めたことがある。大西洋の両岸のどちらも、1949年にウィリアム・フォークナーが、あるいは1954年にアーネスト・ヘミングウェーが受賞することに異議は唱えなかった。
 ところが、ベロー(<Saul> Bellow)が<1976年に>受賞してからの32年間ときたら、その間の受賞者は、米国における批評家達の間で好評が確立しているとは言い難いトニ・モリソンただ一人しかないのだ。
 ノーベル文学賞者リストだけを見ると、過去30年間は、米国の文化と言語が世界を征服した時代ではなく、米国文化の枯渇期であったと誤解してしまうかもしれない。
 しかしそれはもちろん、スウェーデン人の側に問題があることを意味している。連中は米国を欧州の辺境だと見なしており、T.S. エリオットのような詩人は米国を去って英国に定住して<欧州において>有名にならない限りノーベル賞の授与対象にしないのだ。
 要するにかつて連中は、<高みに立って>米国文学の頭を時折なでたことはある。しかし、今や立場が逆転してしまっており、文化的、経済的、そして政治的に米国に依存しているのは欧州の方なのだ。そうなると欧州のプライドは米国文学があたかも存在していないかのように装うことによってしか維持できないのだ。・・・
 過去10年ちょっとのノーベル賞受賞者リストを一瞥すれば、エングダール言うところの欧州の優位なるものが嘘であることは明らかとなる。
 オーストリア人達やイタリア人達ですら、エルフリーデ・イエリネクやダリオ・フォ(Dario Fo)が賞に値するとは思っていない。ハロルド・ピンターが受賞したのだって彼の重要な作品が生まれてから約40年も経ってからだった。
 これらの作家達が過去30年間の米国人達の最高の者よりも才能があり実績も上げているなんて話はばかげている。
 ノーベル賞委員会の好みの特徴は、その隠そうともしない反米主義だ。<英国人の>ピンターは2005年の受賞記念講演の機会を使って、「米国の犯した諸々の犯罪は体系的、継続的、悪徳的、にして無情である」と語り、更に「ブッシュとブレアは国際刑事裁判所に引き立てられるべきだ」と述べた。<同じく英国人で>昨年受賞したドリス・レッシング(Doris Lessing)は、インタビューを受けた際に、9.11同時多発テロについて、「(米国人が)考えるほどひどくも異常でもない」と述べ、更に「彼らはとても純真(naive)な人々だわね。いや純真であることを装っていると言うべきか」と付け加えた。
 もちろん、ピンターとレッシングを、そしてホセ・サラマゴとギュンター・グラスを選んだ時に、スウェーデンのアカデミーがこんな考えを抱いていたなんて考えたくもない。しかし、エングダールのあの米国文学に対する批判が悪意を持ってなされていることを証明するには一人の名前に言及すれば足りる。それはフィリップ・ロスだ。エングダールは米国人達を「文学についての大議論に真の意味で参加しようとしない」と非難した(コラム#2826)。しかし、ロスほど国際主義的(cosmopolitan)な米国人作家はいない。ペンギン社の「もう一つの欧州出身の作家達」シリーズで、・・・<ら>東欧の多くの偉大な作家達を米国に紹介し、2001に上梓した彼のノンフィクション・・・にはミラン・クンデラ(Milan Kundera)<ら>・・・のインタビューが収録されている。彼自身のフィクションにおいても、ロスは・・・並のポストモダン的冒険を冒しているし、長らく米国文学の強みであった精細なるリアリズムにも目配りをしている。少なくともロスがノーベル賞を授与されるまでは、スウェーデン人達からのいかなる侮辱にも米国人は注意を払う理由はない。

 (以上、
http://www.slate.com/id/2201447/
(10月4日アクセス)による。)

 いかがですか。
 一見整然とした反論の裏にちらつくのは、自分達の欧州と比較した非洗練ぶりとイギリスと比較した非リベラルぶりに対する強いコンプレックスであることにお気づきになられましたか?
 実はイギリス人達は、米国の非リベラルぶり(カネ・軍事力フェチシズム)をにがにがしく眺める一方で、欧州の洗練ぶり(合理論/演繹論)についても何の実用性もない貴族趣味、と軽蔑しているのです。
 イギリス、米国、欧州という三者のかくも微妙な関係は、なかなか読者の皆さんにはご理解いただけないかもしれませんね。

 では、更に反論に耳を傾けてみましょう。

(続く)

太田述正コラム#2828(2008.10.3)
<ノーベル賞がとれない米国の小説家>(2008.11.20公開)

1 始めに

 昨日、コラム#2826で、表記に関する記事をご紹介したところですが、さっそく米国を中心にこれに反発する声があがっています。
 これらをご紹介しましょう。

 (以下、
http://features.csmonitor.com/books/2008/10/02/are-us-writers-unworthy-of-the-nobel-prize/#more-751
http://www.guardian.co.uk/books/2008/oct/02/nobelprize.usa
http://www.nationalbook.org/augenbraum_list.html
http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/news/nobel-judge-theres-nothing-great-about-the-american-novel-948575.html
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/northamerica/usa/3120602/Nobel-literature-prize-judge-American-authors-insular-and-ignorant.html
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/oct/02/nobelprize.philiproth
 (いずれも10月3日アクセス)による。)

2 反発する声

 米ニューヨーカー誌の編集者であるレムニック(David Remnick)は「アカデミーの常任事務局長というといかにも知恵の固まりのように思うかもしれないが、連中は、過去において、プルースト、ジョイス、そしてナボコフにノーベル文学賞を授与し損ねたくせに、高見に立った物言いなどできる立場ではあるまい」と述べました。

 米全国書籍財団(US National Book Foundation)のオーゲンブローム(Harold Augenbraum)は、エングダールに読書リストを送ることを考えているとし、「こんなコメントをするところを見ると、エングダール氏は主流以外の米国文学をほとんど読んだことがなく、現代における文学とされるものが何であるかについてきわめて狭い見方しかしていないと考えざるをえない。・・・米国文学の活力は、一世代に一人出現しストックホルムの委員会によって認められるところの天才に由来するのではなく、文学的伝統への新しい声、新しい経験、芸術への新しいアプローチのひっきりなしの参入に由来するのだ」と述べました。

 実際、ノーベル委員会は天才を結構見落としてきたという声があがっています。
 米国人の受賞者の中ではTS エリオット(TS Eliot)とアーネスト・ヘミングウェー(Ernest Hemingway)の評判は持続していますが、シンクレア・ルイスとパール・バック(Pearl S Buck)の人気は凋落している、というわけです。
 他方、ジョイス・キャロル・オーツ(Joyce Carol Oates)とフィリップ・ロス(Philip Roth)は万年候補ですが、いまだに賞を授与されていません。ジョン・アップダイク(John Updike)はついに受賞しないまま1993年に亡くなってしまいました。

 ワシントンポストの書評欄担当でピューリッツァー賞受賞者であるところの、ダーダ(Michael Dirda)は、米国人は翻訳本をほとんど読まないことは認めつつも、「とにかく彼の態度は、きわめて多様な米国という国に対するせせこましい理解に発しているという印象がある」と述べました。

 また、ある「フランスの出版界の重鎮」は、エングダールは「部分的には正しいが根本的に間違っている」とし、「米国の出版社は外国語から翻訳された本にほとんど見向きもしないことは恥ずべきだし、それは良くない結果をもたらしている。・・・しかし、米国の現代文学のすべてが地方的(parochial)ないし無知であるとは言えない。すばらしい現代米国作家だっている」と語りました。

 ちなみに、1901年の一回目以来、合計で104名の作家がノーベル文学賞を授与されましたが、そのうち10名が米国の作家であり、1930年のシンクレア・ルイス(Sinclair Lewis)から始まって1993年のトニ・モリソン(Toni Morrison)に至ります。
 私の見るところ、そんなに悪い成績ではありません。

 エングダールは、スウェーデンの文学批評家で、フランス文学、就中フランスの「構造主義」的文学批判の手法に立脚している人物ですが、昨日、自分をインタビューした記者は誤解している、と弁明しました。
 ノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベル(Alfred Nobel)は、「候補者の国籍にはいかなる考慮も払ってはならない」という原則を設けた、というのです。
 だから、自分が米国文学にいかなる見解を抱いていようと、それは賞の選考に全く影響を及ぼさない、というのです。

 しかし、エングダールも選考委員であって一票を行使するだけでなく、彼は選考委員会の常任事務局長として委員会のスポークスマンを務めるのですから、彼の意向が賞の選考に影響を及ぼさないことはない、というのが常識でしょう。
 事実、The Bluest Eye や Song of Solomon や Beloved の著者であるトニ・モリソンは、現在のところノーベル文学賞をとった最後の米国人であるわけですが、それは1993年のことであり、エングダールが常任事務局長になる前のことです。
 しかも、大江健三郎が1994年に賞をとってからというもの、受賞者が欧州色を帯びたこともまた間違いありません。

 ここで見るに見かねて、という感じでイギリス人が米国人の助っ人として、一見声を上げたかに見えます。
 長らくロンドンのUCL(University College London)の英文学の教授を務めたスーザーランド(John Sutherland)です。

 「時々、米国人受賞者の選考は、文学とはかけ離れた要素によってはっきりゆがめられてきた。『大地(The Good Earth)』の著者であるパール・バックが1938年に受賞したのは日本の支那侵略へのかすかなる抗議の意思表示としてだった。また、ジョン・スタインベック(John Steinbeck)が『怒りの葡萄(The Grapes of Wrath)』でではなく、1962年に、な1942年に出版された全く陳腐な小説である『月は沈みぬ(The Moon is Down)』でだったが、これは占領者たるナチス(もちろん第二次世界大戦の時のことであり、「中立国」スウェーデンは米国人を殺すための戦車をつくるためにドイツに鉄鋼を供給していた)に対するスカンディナビア諸国の勇敢なレジスタンスを言祝ぐ内容のゆえだった。また、トニ・モリソンは確かに受賞にふさわしい女性ではあったけれど、選ばれた理由は間違いなく、拭い去ることのできない米国白人の黒人に対する人種差別への(愛すべき)批判者だからだった。・・・
 エングダールは一点だけ正鵠を射ている。米国が「十分翻訳をしていない」ことに批判的なところだ。しかし、それは帝国の属性と言える。ローマ人は青いケツをしたアングロサクソンのたわごとを翻訳する労をとろうとなどしただろうか。
 英国は、かつての帝国としては、米国とは異なったところの、そして私の見解では、抜群に成功したところの道を歩んできた。それでもわれわれはユネスコの文学翻訳指標において依然としてきわめて低い。(言うまでもなく、スウェーデンの指標はものすごーく高い。)しかし、われわれは国際文学を素晴らしい方法・・ポスト植民地主義・・によって吸収してきた。われわれ(つまりはかつての帝国領域、そして英語という言語)は最も偉大なカリブ海地方の作家(VS ナイポール)、最も偉大なインド亜大陸の作家(サルマン・ラシュディ(Salman Rushdie))、最も偉大なアフリカの小説家(チヌア・アチェベ(Chinua Achebe))、最も偉大な南アフリカの作家(ナディン・ゴーディマー(Nadine Gordimer)、最も偉大なスコットランドの作家(アラスデア・グレイ(Alasdair Gray))、最も偉大なアイルランドの作家(シーマス・ヒーニー(Alasdair Gray))を有している。彼らは「翻訳」されたわけではないが、「移植」されたのだ。そうである以上、翻訳する必要など一体あるだろうか。・・・」

 何と言うことはない。
 結局、スーザーランドは米国をくさして英国を持ち上げているわけです。
 彼の言の最後のところは、エングダールの言っていること、すなわち、欧州は文学的亡命者達を惹き付ける。なぜなら、欧州は「文学の独立を尊重し」安全な避難所を提供しているからだ、と似通っています。
 エングダールは、「他国にルーツを持つ大勢の著者達が欧州で活動している。これは欧州が、殴られて死に至らしめられるようなことなく、一人で放っておかれて書くことができる唯一の場所だからだ。これに対し、アジアとアフリカのかなりの部分では著者であることは危険を伴う。」と指摘しているのです。

3 終わりに

 エングダールもスーザーランドも、どうして安全な避難所を求める世界の人々が米国にも流入しているにもかかわらず、しかもその中には高い才能を持った人々がごまんと居るにもかかわらず、高い文学的才能を持った人々は余り米国に流入していないのか、について何も語っていません。
 やはり、そのような人々は、直感的に米国が文学的に余り豊穣な場所ではないことを感じているのではないでしょうか。
 やはり、私がコラム#2826で記したように、米国の歴史の浅さと面積が広大なことからくる人間関係の希薄さ、がネックになっているように私には思えてなりません。
 皆さんはいかが、お考えでしょうか。

太田述正コラム#2826(2008.10.2)
<二つの記事をめぐって>(2008.11.19公開)

1 始めに

 本日読んでおもしろかった記事を二つご紹介します。
 本来なら、それぞれを掘り下げて、二つのコラムに仕立てるところですが、軽く流すことにしました。

2 ノーベル賞がとれない米国の小説家

 (1)記事

 「スウェーデンのアカデミーの常任事務局長のエングダール(Horace Engdahl)はAP通信に対し、米国の作家達は「米国の大衆文化の趨勢に敏感すぎ」、彼らの作品の質が低くなってしまっていると述べた。エングダールは、「米国は孤立し過ぎており、島国根性が過ぎている。彼らは外国の小説を余り翻訳しないし、文学についての大議論に真の意味で参加しようとしない。このような無知が制約となっている。」とも述べた。更に彼は、「すべての偉大な文化には強力な文学が存在することは言うまでもないが、米国ではなく、欧州こそが、依然として文学の世界の中心であるという事実から逃れることはできない。」とも述べた。実際米国人でノーベル文学賞をとったのは1993年のトニ・モリソン(Toni Morrison)が最後だ。
 エングダールは、スカンディナビア文学の教授であり文学批評家でもあるが、ノーベル文学賞の受賞者を決める18人のアカデミー会員からなる秘密めかした委員会の常任事務局長を1997年からやっている。一年間にわたって、アカデミーは200人の候補者を5人にまで絞り込むがその名前は公表されない。受賞者は過半数の票を得なければならない。・・・
 過去10年間を見ると、ノーベル文学賞受賞者のほとんどが欧州のにおいがするのであって、トルコのオルハン・パムク(Orhan Pamuk)(コラム#1450)、英国のハロルド・ピンター(Harold Pinter)とVS ナイポール(VS Naipaul)(コラム#2646)、オーストリアのエルフリード・イエリネク(Elfriede Jelinek)、ポルトガルのホセ・サラマゴ(Jose Saramago)、ハンガリーのイムレ・ケルテッツ(Imre Kertesz)、フランスのガオ・シンジャン(Gao Xingjian)、ドイツのギュンター・グラス(Gunter Grass)(コラム#423)が賞をとった。このほか、2003年に南アフリカのJM コエツィー(Coetzee)が受賞している。・・・」(
http://www.guardian.co.uk/books/2008/oct/01/us.literature.insular.nobel
。10月2日アクセス)

 (2)コメント

 ヘミングウェー、フォークナー、スタインベック等々、と米国のノーベル文学賞受賞者はたくさんいるように思いますが、人口比的には、(地理的意味での)欧州の受賞者の方が圧倒的に多いことは確かですね。
 第二次世界大戦後は、文学賞や平和賞以外のノーベル賞受賞者の数において、米国が世界の中で他を圧倒していることを考えると不思議です。
 これは、欧州に比べて米国は歴史が短いことから人々に歴史的陰影が乏しく、かつ面積が広大であることから人間関係の濃密さに欠ける、ということが原因なのかもしれません。
 
3 自分自身を客観視できないわれわれ

 (1)記事

 「われわれは自分自身を客観的に見ることは困難だ。・・・
 一般的に言って、気前の良さ、友好的であること、ユーモアのセンスといった「良い」性向に関してはほとんどの人は自分が平均を超えていると思っている。他方、俗物的とか不誠実さといった「悪い」性向に関してはほとんどの人が平均を下回っている・・自分はそれほど俗物的でも不誠実でもない・・と思っている。
 こういうわけで、われわれのほとんどは、自分はほかの人々に比べて、より偏見がなく、より人種差別的でなく、より協調的であり、より広告によって影響されることが少ない、と信じ込んでいる。
 しかし、他人の偏見や先入観を発見するのには長けていても、われわれは自分自身のそういったものに対しては盲目であることが通例だ。
 このおめでたい幻想は自分達のお仲間にまで広げられる。人々は自分達と同じ民族集団は他の民族集団よりも笑い上戸であると思っている・・。自分達と同じ政党を支持していると思われる人々を写真の中から選ばせると、彼らは、自分たちが反対している政党の支持者達と思われる人々を選ばせた場合と比べると、より見栄えの良い人々を選ぶ。つまり、一般的に言って、人々は「仲間」に対してはより好意的な見方をする傾向があるのに対し、よそ者と認識した場合は、違いを誇張するし、仲間に対してはより気前悪く接するものなのだ。・・・
 ダニエル・デフォー(Daniel Defoe)の小説の同名<の主人公であるところの、>18世紀の架空の存在たるヒロインのモル・フランダース(Moll Flanders)は、自負心がありすぎると危険であることに気付く。すなわち、自分を美人だと思い込んでいる女性は誘惑され易いと言うのだ。「もし若い女性がひとたび自分を見栄えがよいと思い込むと、彼女は、男からあなたを愛していると言われるとそれをすべて本当のことだとして疑うことを知らない。というのは、彼女は自分が魅力的だからこそ彼をとりこにしたと信じているからだ。その結果どういうことになるかは想像に難くない。・・・」(
http://judson.blogs.nytimes.com/2008/09/30/wanted-intelligent-aliens-for-a-research-project/index.html?ref=opinion
。10月2日アクセス)

 (2)コメント

 自分を美人で魅力的だと思い込んでいる女性の皆さん。
 本当に美人で魅力的な女性なんて、この世の中にほとんどいやしないのですよ。
 だから、自分は決して美人でも魅力的でもないと思っていた方がいいのです。
 男にだまされないためにも、そして自分の内面を磨くためにも。

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