カテゴリ: インド政治

太田述正コラム#2030(2007.8.29)
<セポイの反乱(特別編)>(2008.2.29公開)

1始めに

 本篇は、「セポイの反乱」シリーズ(コラム#1769、1847)の特別編であり、この後もシリーズは続きます。


2 セポイの反乱の規模等についての新説

 英国の植民地であった国々の英領時代の歴史は、英国の歴史学者や英国の歴史学者によって教育された当該国の人間によって書かれてきましたが、英領インド亜大陸の歴史を初めてインドで歴史学を学んだ人間によってセポイの反乱の歴史が描かれた、と英国とインドで話題になっているのが、ムンバイの歴史家ミスラ(Amaresh Misra)の'War of Civilisations: India AD 1857'です。

 これまでセポイの反乱(Indian Mutiny=Indian Revolt=the first war of Indian independence)で殺されたインド人の数は約10万人とされてきたのですが、ミスラは、1857年からの10年間で、ほとんど1,000万人にのぼるホロコーストあるいはジェノサイドが行われた、と主張しています。"

 この事実が今まで知られていなかったのは、英国インド当局が事実隠蔽に努めたからだ、というのです。
 例えば、英当局の倉庫群で200万通も手紙が送達されずに保管されたところ、これについて英当局の人間達は、「われわれの女性や子供を殺したヒンズー教徒とイスラム教徒の奴らにわれわれの青年達が加えたであろう報復について」言及した手紙であるからだ、と書き記しているというのです。

 インド人の死者の数でミスラが拠った典拠は三つあります。
 一つ目はイスラムの戦士(mujahideen)の戦死録であり、二つ目はヒンズーの戦士(warrior)の戦死録であり、三つ目は英当局の労働力簿です。
 最後のものによれば、インドの広範囲の地域において、労働者数が五分の一から三分の一も減少しており、その理由をある英当局の人間が、「このひどいみじめな日々において、英国の力が遺憾なく誇示された結果、数百万人が死んだ」と書き残しているというのです。

 これに対し、英国とインドの歴史学者達から反論が投げかけられています。
 一つは、労働者数の減少は、死亡によるもののほか、海外等への逃散・逃亡によるものもあるはずという反論であり、二つは、飢饉による餓死者もいたはずであり、その数字は除外すべきであるという反論であり、三つは、全般的に過大な積算が行われており、せいぜい死者は数十万と見るべきだという反論です。
 しかし、三番目のアバウトな反論など反論になっていませんし、餓死だって、基本的に英当局の責任であるし、逃散・逃亡だってこの時期のものは殆どはやむにやまれぬ、しかも決死の行為であったに違いなく、これらの数が入っているのか否かなど些末な議論のように思います。

 ミスラはまた、戦いは北インドだけで行われたと言われてきたのに対し、南部のタミル・ナドゥ、ヒマラヤ山脈の辺、そしてビルマ国境近くという具合にインド亜大陸の広範囲で行われたと主張しています。
 戦いは1858年に終わったのではなく、10年にわたって続いた、というのもミスラの新しい主張です。

 もう一つ。
 シーク教徒は全面的に英当局の味方をしたとされてきた点についても、ミスラは、シーク教徒の東インド会社部隊の多くも叛乱に加わったと主張しています。

 最も大事なことは、以上からも分かるように、セポイの反乱までのインドには、イスラム教徒とヒンズー教徒(、更にはシーク教)との間に、しかも地域を超えて、反英感情の形をとったところの共通の民族感情的なものが存在していた、ということです。
 つまり、イスラム教徒とヒンズー教徒との反目は、その後の英国の直接統治下に英国の政策によって生じたと考えざるをえないのです。
 反乱が山を越えた時点で捕らえられ、ビルマに流刑となってそこで逝去した最後のムガール帝国皇帝の遺骸をインドに帰還させることに、RSS(Rashtriya Swayamsevak Sangh。政党であるBJPと協力関係にあるヒンズー至上主義団体)が、同皇帝がイスラム教徒であり、かつイスラム・ヒンズー混淆的宗教意識を持っていたことから反対しており、いまだ実現していないのはなげかわしいことです。

 (以上、事実関係は
http://www.guardian.co.uk/india/story/0,,2155324,00.html
(8月25日アクセス)、及び
http://in.rediff.com/news/2007/may/10guest.htm
http://www.larouchepac.com/news/2007/08/24/history-what-every-ugly-american-must-know-about-civilized-b.html
(8月29日アクセス)による。

3 終わりに

 19世紀にインド亜大陸で、英国によって1,000万人にもなろうかという民族浄化が行われた、という事実は極めて重いものがあります。
 英国による植民地統治の過酷さがこれだけ明らかになってくると、一層日本による植民地統治の相対的寛大さが目立ってきますね。

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太田述正コラム#2008(2007.8.18)
<インドと民主主義(その2)>(2008.2.20公開)

 インドで民主主義が機能しているだなんてご冗談を、と言われそうなくらい、インドには暴力沙汰や紛争がつきものであることは事実です。

 そもそも、インドとパキスタンが分離して独立した際にも、最低18万人、一節では100万人もの人々が命を失いましたし、1984年のインディラ・ガンジー(Indira Gandhi)首相暗殺に引き続くシーク教徒の叛乱、1992年と1993年の(インド金融・映画中枢)ムンバイでの都市暴動・・257人の死者が出た連続爆破事件の引き金にもなった・・や2002年のヒンズー過激派によるグジャラート州での大量殺戮事件が起こっています。
 このほか、インド東北部での分離主義ゲリラとの消耗戦等、日本ではほとんど報道されない暴力沙汰や紛争だらけの国がインドなのです。 

 それでも、これらの暴力沙汰や紛争がどんどん拡大して収拾がつかなくなる、ということはないのであって、インドで民主主義がまがりなりにも機能していることもまた厳然たる事実です。
 一体それはどうしてなのでしょうか。

 オブザーバー紙の無署名書評子は、ヒンディー語の映画であるところのいわゆるボリウッド(Bollywood)映画 とクリケットの二つを挙げています。
 ボリウッド映画は世界一の本数を誇っており、ヒンディー語以外のインド亜大陸の諸言語に吹き替えられ、インド国内だけでなく、インド亜大陸諸国、更には広く中近東や東南アジアで圧倒的な人気ですし、宗主国の英国が移植したクリケットは、集団スポーツとしてインドが秀でている唯一のものであって絶大な人気をインドで博しています。
 書評子は、この二つこそ、そしてこの二つだけがインドの都市中産階級と人口の70%が住んでいる農村部の貧困層を結びつけていると指摘するのです。

 (以上、
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,2146931,00.html
(8月12日アクセス)による。)

 私はそうは思いません。
 私は以前(コラム#1992で)、ガンジーを暗殺した男が、「ガンジーが、イスラム教徒に宥和的であったことと、自己の利益と軍事力が何よりも重要であるはずの政治の領域に宗教とか「精神の純粋性」とか個人的良心といった非合理的な代物を持ち込んだことを非難し」たこと、「このような考え方は、当時のインド亜大陸の大方の人々の考え方でもあった」と記したところです。
 一体こんな現実主義的かつマキャベリスティックな政治観をインド亜大陸の人々はどうやって身につけたのでしょうか。
 恐らく3,000年近く前に実際にあった王位をめぐる戦争を題材とし、2,000以上前に集大成されたと言われる世界最長の叙事詩マハーバラータ(Mahabharata)・・もともとはサンスクリットで語られ、記された・・にインド亜大陸の人々はみんな演劇等を通じて親しんでいるのですが、実は、マハーバラータの世界こそ、彼らの 現実主義的かつマキャベリスティックな政治観の源泉なのです(注3)。

 (注3)ガンジーの非暴力主義(ahimsa)は、何10年も戦争が続き、偽計・裏切り・殺人が繰り返され、1800万人もの人々が戦死するマハーバラータの世界を熟知した上で、それを全面否定したものだ。

 つまり、インド亜大陸の人々の大部分は、マハーバラータやラーマヤナ(Ramayana)の世界を共有している人々なのです。
 更に言えば、彼らは、これらの叙事詩が語られ、記録された言語であるサンスクリット等を共有している人々でもあるのです。
 すなわち、現在のインドの言語は無数に枝分かれしているけれど、マクロ的に見ると、(ヒンディー語とウルドゥー語の原語である)ヒンドゥスターニー語などの北インドの諸言語と南インドのドラヴィダ語族の二つに分かれているところ、サンスクリット、及びサンスクリットと同じ頃に流布していたプラークリットの2言語は、北インドの諸言語の原語であると同時に、ドラヴィダ語族には(ペルシャ語とアラビア語からの借用語の多い)北インドの諸言語よりはるかに大きく単語面で影響を与えているのです。
 (以上、
http://books.guardian.co.uk/departments/generalfiction/story/0,,2150138,00.html
(8月17日アクセス)、及び
http://en.wikipedia.org/wiki/Mahabharata
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88
(8月18日アクセス)による。)

 これに加えて、最南端部を除くインド、パキスタン、バングラデシュ、及びアフガニスタンははムガール帝国の版図であり、インド、パキスタン、バングラデシュは、英インド帝国領であった、という共通の近世史、近現代史を共有しています。
 そして、以上のいずれにおいても、インドはその中核であり続けました。

 このようにインドは、その多元性と多様性にもかかわらず、一民族からなる民族国家(nation state)としての側面をも有しているのです(
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,2148957,00.html
(8月15日アクセスから示唆を得た)。
 だからこそ、インドで民主主義が一応機能しているのだ、と私は考えるに至っているのです。

(完)

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太田述正コラム#2006(2007.8.17)
<インドと民主主義(その1)>(2008.2.19公開)

1 始めに

 グレイ(John Gray)の、多民族からなる民主主義的国家でうまくいっている所の大部分は君主制を採用している、という指摘(コラム#1887、1994)にもかかわらず、どうして君主制でない多民族国家インドで民主主義が機能しているのでしょうか。
 これは結構難問なのです。
 この難問と格闘した結果をとりあえずご報告しておきます。

2 難問

 (1)多民族国家インド

 南アジア諸国の中で、インド一国だけが異質であることにお気づきでしょうか。

 ネパールはヒンズー王国であり、ブータンは仏教王国であり、パキスタンはイスラム教を国教とする共和国であり、バングラデシュはイスラム教徒でベンガル語を用いるベンガル人の共和国であり、スリランカは憲法で仏教とシンハリ語(Sinhala)を特別扱いしている共和国である、という具合にそれぞれ特定の宗教の色彩で染められているのに対し、インドは世俗的(secular)で多元的な(pluralistic)共和国だからです。
 ところで、この中で単一民族国家と言えるのはバングラデシュくらいなもの(ただし後述参照)ですが、それ以外の南インドの諸国は、多かれ少なかれ、文化を共有するところの単一民族の国に対するあこがれを抱いています。
 しかし、インドはこのようなあこがれが存在しない希有な国なのです。
 
 インドには、100万人以上が用いている言語だけで35もあります(注1)。

 (注1)インドでも建国当時は、約4割の国民が用いるヒンディー語を共通語にしようという考えはあった。
 しかし、それは見果てぬ夢に終わりそうだ。
 インドが1996年に独立49周年を祝った時、ガウダ(HD Deve Gowda)首相は、ヒンディー語が全くできなかったけれど、慣例と政治的配慮からヒンディー語で記念演説を行ったものの、自分の言語であるカンナダ(Kannada)語の文字で音訳したヒンディー語を棒読みした。

 人種的にも、例えばパンジャブ人やベンガル人は、それぞれパキスタンとバングラデシュにも多数住んでいます。

 宗教だってインドには神道以外の全世界の宗教がすべてそろっています。
 確かにインドではヒンズー教徒が81%を占めていますが、ヒンズー教徒と言えども、言語がバラバラであるだけでなく、属しているカーストもまたバラバラであり、住んでいる地域ごとに生活習慣等も全く違いうので、ヒンズー教徒なら単一のアイデンティティーを持っている、というわけではないのです(注2)。

 (注2)ヒンズー教徒に単一アイデンティティーを注入することによって恒久政権を樹立しようとしたのがBJP(Bharatiya Janata Party)だが、同党は一旦は政権を掌握したものの、ヒンズー教徒を結束させることには結局成功せず、政権を失った。

 地理的にも、インド亜大陸には自然境界的なものがあるところ、1947年に人工的に国境線が亜大陸内部に引かれたために、インドは地理的に不自然な代物になってしまいました。
 また、不自然ではあるものの、とにもかくにも現在のインド国境でもってインド人を定義する、というわけにもいきません。祖父または祖母の1人でも英領インド帝国で生まれておれば、無条件でインド国籍がとれるからです。

 この結果、2004年5月のようなこと・・ヒンズー教徒が8割を占めるインドで、カトリック信徒のイタリア生まれのソニア・ガンジー(Sonia Gandhi)がシーク教徒のマンモハン・シン(Manmohan Singh) を首相に指名し、イスラム教徒のアブドル・カラム(Abdul Kalam)がシンを首相に任命する・・が頻繁に起こりうるのです。

 (以上、
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,2148957,00.html
(8月15日アクセス)、及び
http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/6943598.stm
(8月16日アクセス)による。)

(続く)

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太田述正コラム#1992(2007.8.10)
<再びマハトマ・ガンジーについて>(2008.2.11公開)

1 始めに

 マハトマ・ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi。1869〜1948年)を私が全く評価していないことは、以前から私のコラムを読んでこられた方々はご存じだと思います(コラム#26、176、1250、1251、1467、1898)。
 屋上屋を架すようですが、再びガンジーを採り上げることにしました。

2 ガンジーの暗殺者から見たガンジー

 1948年1月30日の夜、ガンジーはデリーで歩行中に銃殺されました。
 暗殺者はヒンズー教徒のゴッゼ(Nathuram Godse)という男でしたが、彼は逃げようとするどころか、大声で「警察」と呼ばわったといいます。
 裁判所でこの男は、ガンジーが、イスラム教徒に宥和的であったことと、自己の利益と軍事力が何よりも重要であるはずの政治の領域に宗教とか「精神の純粋性」とか個人的良心といった非合理的な代物を持ち込んだことを非難しました。
 実は、ゴッゼのこのような考え方は、当時のインド亜大陸の大方の人々の考え方でもあったのです(コラム#778参照)。
 (以上、特に断っていない限り
http://books.guardian.co.uk/departments/biography/story/0,,2114877,00.html
(6月30日アクセス)による。)

3 悪しき家庭人ガンジー
 
 (1)妻にとってのガンジー

 ガンジーは妻カスツルバ(Kasturba Gandhi。1869〜1944年)とお互いに13歳の時に結婚しますが、1888年にはガンジーが英国に留学したため、既に生まれていた長男ハリラル(後述)とインドに取り残されます。
 (二人の間には、更に3人男の子ができる。)
 彼女は、1893年から南アフリカで弁護士業をやっていたガンジーに、今度は1897年に一方的に現地に呼び寄せられます。
 やがて二人はインドに戻るのですが、ガンジーは清貧を旨とするようになり、カスツルバもそれに右に倣えさせられます。
 1906年以降は、ガンジーは禁欲生活を彼女に強います。
 もっとも、ガンジーの回りにはいつも女性達がおり、彼女達と「全く肉体的接触なしに」同衾し風呂に入ることを修行と称する変わった禁欲生活をガンジーは送りました。
 ガンジーは、あの詩聖タゴール(Rabindranath Tagore)の姪と「精神的」婚姻生活を送ったりもします。
 このような境遇をじっと耐え忍ぶ人生をカスツルバは送ったわけです。

 (2)長男にとってのガンジー

 晩年のガンジーは、自分の人生において最も残念なことは、二人の人物を説得できなかったことだ、と述べたことがあります。
 この二人とは、敵となったかつての友人のジンナー(Mohammed Ali Jinnah。1876〜1948年。パキスタン建国の父)とガンジーの長男のハリラル(Harilal Gandhi。1888〜1948年)です。

 ハリラルは、小さい時に父親がいない母子家庭状態で育てられ、ガンジーと暮らすようになってからは、南アフリカで売れっ子の弁護士の子供としてはぶりの良い生活を送ったかと思ったら、インドに戻って今度はガンジーが勝手に始めた清貧にして禁欲的な生活を送らせられる羽目になる、という具合に2男以下とは全く違った可哀想な経験を重ねるのです。
 この間、ハリラルにとって特にショックだったのは、南ア時代に、奨学事業を始めたインド人篤志家からハリラルを英国留学させてあげようと言われたのを、ガンジーが、ハリラルよりも英国留学させるにふさわしい子供がほかにいるはずだ、と断ってしまったことです。
 ネポティズムを排するガンジーの主義主張のために、ハリラルは、父親に倣って英国に留学して弁護士になるという夢を絶たれてしまい、生涯ガンジーを恨み続けることになるのです。
 こうしてハリラルは、ガンジーが国産品奨励運動をやっているというのに、海外衣服の輸入業を行ったりしてガンジーに反抗するのですが、運も悪く、何の事業をやっても成功しません。
 父子関係は、ハリラルが、最初の妻を病死で失った後、ガンジーの禁欲主義に反して再婚したことで決定的に悪化します。
 結局ハリラルは酒と女と軽犯罪で身を持ち崩すことになります。
 ガンジーが暗殺された数ヶ月後、ハリラルは何とイスラム教に改宗し、名前をアブドラ(Abdullah)に変えます。
 そしてまもなく、行き倒れ状態でムンバイ(Mumbai)の路上で発見されたハリラルは、病院に運ばれ、医師から父親の名前を聞かれて「バプ(Bapu)」というガンジーの愛称を口にします。
 医師は、ガンジーは確かにインド建国の父だが、お前の実の父親は誰なのだと問い直したといいます。
 こうしてハリラルは生涯を閉じるのです。

 (以上、
http://www.guardian.co.uk/india/story/0,,2140440,00.html
(8月3日アクセス)、
http://www.guardian.co.uk/india/story/0,,2145946,00.html
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1609478,00.html?iid=chix-sphere(いずれも8月10日アクセス)による。)

4 終わりに

 偉い人物の家族は大変だけど、聖人の家族ともなると、大変なんてものではない、ということなのかもしれません。
 身につまされる方が読者の中にいらっしゃるかもしれませんね。

 なお、今年、Gandhi, My Fatherという、ガンジーとハリラルの関係を描いた映画(ヒンディー語版と英語版あり)が封切られ、また、ガンジーの4男の子供、つまりガンジーの孫のラジャモハン(Rajmohan Gandhi)の、悪しき家庭人ガンジーを描いた'Gandhi, My Father is out now. Gandhi: The Man, His People and the Empire'が出版されたことを付言しておきます。

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太田述正コラム#1847(2007.7.2)
<セポイの反乱(その2)>(2008.1.1公開)

 (本篇は、コラム#1769の続きです。)

 どうしてセポイの反乱(1857〜59年)が起こったかを理解するためには、時計の針をプラッシーの戦い(Battle of Plassey。1757年)まで、ちょうど1世紀巻き戻す必要があります。
 
 ムガール帝国の絶頂期はアウラングゼーブ(Aurangzeb)第6代皇帝(1618〜1707年。在位1658〜1707年)の時代でした。
 彼の治世下の1691年にムガール帝国の領土は最も大きくなりますが、その度重なる遠征によって財政は悪化します。また、第3代のアクバル大帝(Akbar the Great。在位1556 〜1605年)以来のイスラム教以外にも寛容な政策を一変させ、1679年にイスラム法(シャリア)に則り、ジズヤ(非イスラム教徒に課せられた人頭税)を復活させるなど、ヒンズー教徒等に厳しい弾圧を行ったため、各地で反乱が激化し、帝国は次第に分裂の方向に向かって行ったのです。
 (以上、
http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/Mughals/mughals.html  
(6月30日アクセス)、及び
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%83%96
(7月2日アクセス)による。)

 今年の7月23日は、プラッシーの戦い250周年であり、100年前に英国が戦勝記念に建てた碑のすぐ前に、この戦いで英国人クライブ(Robert Clive。1725〜74年)の率いる英東インド会社(注1)軍に敗れたシラジ(Siraj Ud Daulah。1733〜57年)ベンガル太守(Nawab of Bengal)の胸像が建てられ、式典が挙行されました。
 英国の戦勝記念碑はこの際撤去すべきだという議論も出たものの、結局残すことにした、というのがインドの面白いところです。

 (注1)イギリスで1600年創立。1608年ムガール皇帝から、会社が拠点としていた港町のスラット(Surat)に工場を建設することを認められ、1717年には皇帝からベンガルにおける関税を免除される。

 さて、プラッシーの戦いです。
 東インド会社がカルカッタに勝手に要塞(Fort William)をつくったとしてシラジがこの要塞の破壊を要求し、東インド会社が拒否したために、シラジは1756年にこの要塞を含め、カルカッタを占領します。
 その時、146名の英国人がこの要塞のわずか24フィートx18フィートの部屋に詰め込まれて窒息し、23名しか生き延びなかった、といういわゆるカルカッタの黒い穴(The Black Hole of Calcutta)事件が起きます(注2)。

 (注2)拘束された英国人はせいぜい69名だったし、そもそも146名がこんなに狭い部屋に入れるわけがない、等、この話は眉唾だという説も有力だ。なお、シラジにはこの事件の直接的責任はなさそうだ。

 東インド会社軍を率いたクライブは、カルカッタ郊外のプラッシーで650名の英国兵を含む3,000名の兵を率いて、フランスが支援するシラジの68,000名の大軍を打ち破り、すぐにカルカッタを取り戻すのです。

 新しく任命されたベンガル太守は東インド会社に対する融和政策をとり、次第に会社の傀儡となっていきます。
 1764年10月、ムガール帝国勢力をブクサールで打ち破ったことで東インド会社のインド支配は本格化し、1765年には同会社はベンガル、オリッサ、ビハールでの租税徴収権を皇帝から授与され、爾後これを次第に拡大していきます。英国は1773年に初代のインド総督(Governor-General of India)にヘースティングス(Warren Hastings。1732〜1818年)を任命します。やがて1807年にはムガール皇帝は東インド会社の単なる年金受領者になり、次第にインド亜大陸全体が英国の植民地と化していくのです。
 つまり、プラッシーの戦いは、英国をしてインド亜大陸における競争者フランスを排斥せしめ、英国によるインド亜大陸単独支配を可能ならしめ、ひいてはインド亜大陸を中心とする大英帝国の形成を可能ならしめ、150年以上にわたって英国を世界の覇権国としての地位に立たしめることとなった、世界史の分水嶺たる戦いであったのです。

 なお、クライブのこの戦いでの勝利は、ベンガル太守の座を狙っていた者を内応させ、また多くの兵士達を賄賂で戦わずして降伏させたり寝返らせたりすることによってもたらされたものでした。
 ネール(Jawaharlal Nehru)は、著書の『インドの発見』(1946年)の中で、クライブはこの戦いに「大逆とインチキによって」勝利したとし、英国のインド支配は、「このような芳しからぬ形で始まったがゆえに、その影を爾来ずっと引きずることになった」と記しています。

 (以上、
http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/6242346.stm
http://www.bbc.co.uk/shropshire/content/articles/2005/03/29/robert_clive_feature.shtml
http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/British/Hastings.html
http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/British/EAco.html
http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/British/Blackh.html
http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/British/Plassey.html
http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/British/Siraj.html
(以上、6月30日アクセス)、及び
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
(7月2日アクセス)による。)

(続く)

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www.ohtan.net
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太田述正コラム#1769(2007.5.15)
<セポイの反乱(その1)>(2007.11.18公開)

1 始めに

 セポイの反乱をとりあげた、英国人歴史家・紀行作家・ジャーナリストであるダリンプル(William Dalrymple。1965年〜)の' The Last Mughal: The Fall of a Dynasty, Delhi 1857’は、昨年来、評判です。
 さっそくその概要の紹介を兼ねてセポイの反乱の真相に迫ってみましょう。

 (以下、特に断っていない限り、
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,2076320,00.html  
(5月10日アクセス)*、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-op-dalrymple13may13,0,6376935,print.story?coll=la-opinion-rightrail
(5月14日アクセス)*
http://www.newstatesman.com/200610160035
(5月15日アクセス。以下同じ)*、
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,1928333,00.html
http://www.hindustantimes.com/StoryPage/Print.aspx?Id=7ec3a2e5-2187-4e29-a9bb-45e55e04796e
http://www.nytimes.com/2007/04/22/books/review/Harshaw.t.html?ei=5070&en=ecbae86b782f8e5d&ex=1179374400&pagewanted=print
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,1944872,00.html
による。*はダリンプル自身が執筆しているもの。)

2 ダリンプルいわく

 (1)ムガール帝国最後の皇帝

 バハドル・シャー・ザファール(Bahadur Shah Zafar2。Zafarはペンネームでウルドゥー語で「勝利」の意味。1775〜1862年。皇帝:1838〜58年)がムガール帝国最後の皇帝となったのは、セポイの反乱(Indian Rebellion of 1857=First War of Indian Independence )のためだ。
 彼が生まれた頃は、英国はまだインド亜大陸沿岸部しか手中には収めていなかったが、彼が60歳台半ばで帝位を継いだ頃には、もはやムガール帝国の頽勢を食い止めることは不可能な状況になっていた。
 しかし、彼は、デリー(Delhi)で宮廷文化の華を咲かせた。
 彼は歴代のムガール皇帝の中で、最も才能があり、かつ寛容な好人物だった。
 宮廷付きの医師がキリスト教に改宗しても、彼は、廷臣達の反対を押し切ってそのままこの医師を宮廷に留めた。
 彼は、練達の書家にしてイスラム神秘主義(Sufism)について深い学識があり、素晴らしい造園家だった。また、5つの言語を話し、うち2つの言語を用いた神秘詩の秀でた作家でもあり、彼の下でインド史上最も偉大な文芸ルネッサンスが起こった。
 1857年の5月のある朝、300人のセポイ(sepoy(ベンガル語)。英東インド会社軍のインド人兵)がデリーに侵攻し、白人の男女、子供を手当たり次第に殺し始め、82歳になっていた彼にお墨付きを求めた。
 ザファールは英国人が嫌いだったが、反乱も性には合わなかった。当時の世界第一の軍事大国に、秩序がなく将校もいない貧民あがりのセポイ達が勝てるわけがないと思っていた。しかし、脅迫され、宮殿の一部も占拠されるに至って、仕方なく彼はセポイ達にお墨付きを与えたが、その一方で彼は52人の白人達を宮殿にかくまった。
 セポイの連中が彼の庭園を汚すと、彼はセポイ達との接見を拒否することで不快感を表明した。
 そして、セポイ達が上記52人を発見すると、ザファールは、涙を流し、女性や子供の命は救うように懇願した。しかし、結局全員が殺されるのをザファールは座視することになる。
 結局、139,000人いた東インド会社軍のセポイのうち、7,796人を除いて全員が反乱に加わり、やがてインド亜大陸の各地で民衆がこの反乱に呼応して立ち上がった。
 9月になると、今度は英軍がデリーを攻撃、占領し、住民中女性だけは助けられたが、男性は老人も子供も無差別に殺戮された。
 ムガール皇室の人々は、英軍に抵抗したわけではなかったが、ザファールの子孫のうち16人が裸にされた上で殺された。
 ザファールは裁判にかけられ、イスラム教徒達による陰謀の頭目となったとしてビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)への流刑を宣告される。セポイの大部分はヒンズー教徒だったことからして、この判決がいかにインチキなものであるかが分かる。
 ラングーンでザファールが亡くなった時には、現地英国当局は、埋葬場所に墓標を立てることさえ禁じた。

 (2)セポイの反乱の背景と原因

 一体どうしてこの反乱が起こったのでしょうか。

(続く)

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太田述正コラム#1677(2007.3.1)
<英国のインド統治がもたらしたもの(その2)>(2007.9.21公開)

 ムガール帝国のアウラングゼブ皇帝の1707年の死後、英東インド会社はたんまり賄賂を支払ったおかげで、ベンガル、ハイデラバード、グジャラートで無関税貿易権を与えられました。
 1757年にプレッシーの戦いでフランスのインド勢力を打ち破った東インド会社は、ベンガルで、更に税収と域内経済を掌握することとなります。
 この東インド会社の搾取と自然災害によって、ベンガルで1770年に大飢饉が起きるのですが、その際、同会社が減税どころか増税を行い、穀物の放出どころか強制買いだめを行ったため、前述したように120万人もの死者が出たのです。
 やがて、東インド会社は、イギリスの大土地所有制に倣って、支配下の地域に大土地所有制(ザミンダール(zamindar)制)を導入し、大土地所有者を東インド会社の藩塀としました。この過程で、2000万人にのぼる小土地所有者達が所有権を奪われ、路頭に迷うことになったのです。
 19世紀に入ると、東インド会社は、イギリスの産業「革命」が生み出した大量生産された綿織物をベンガル等に売り込むべく、インド産の綿製品や絹製品には70〜80%の関税をかける一方で、英国産の綿製品には2〜4%の関税しかかけず、この結果、ベンガルを中心としたインドの綿織物産業は壊滅します。
 1830年代には、東インド会社は、アジア貿易独占権を英国議会によって剥奪されます。
 これによる損失を回復すべく、同会社は、支那へのお茶の輸出を倍増させるとともに、支那からの輸入品の代価を禁制品であったアヘンの支那への密輸出によって確保しようとしました。そこで同会社は、インドでのアヘン栽培を独占すべく、西部のマラータ同盟の支配地やシンドへと支配地を広げて行きました。
 その結果、1840〜42年に支那でアヘン戦争が起こり、勝利を収めた英国が、香港を獲得する運びになることはご承知のとおりです。
 英国の哲学者にして経済学者であったジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill。1806〜73年)は30年以上にわたって東インド会社の幹部を務めましたましたが、東アジア会社について、「野蛮人の教育と正しい統治にはうってつけだ」と言い放っています。
 また、1854年にある英国人は、「インドでは<東インド会社は、>公共事業を殆ど行っていない。・・これまでの<同社の>モットーは、「何もするな、何も起こらないようにせよ、誰にも何もやらせるな」だ。それに東インド会社は人々が飢饉で死のうと道路や水がなくても全く気にしない」と記しています。
 更に、1858年に英下院である議員は、「マンチェスターという一つの<英国の>都市が住民のための水道に費やす金額が、東インド会社がその広大な領地において1834年から1848年の14年間に費やしたあらゆる種類の公共事業経費の総額よりも多い」と演説しています。
 インド大反乱(昔はセポイの乱と呼ばれた)が起こったことで、1858年に東インド会社はインド支配権を返上し、以後インド亜大陸は英国政府が直接統治するところとなりますが、それまでのインド統治の過酷な実態はほとんど変わりませんでした。
 こうして、19世紀後半にインドのGDPは50%も減り、インド独立までの190年間の経済成長率はゼロということになってしまったのです。
 (以上、アジアタイムス前掲、及びhttp://india_resource.tripod.com/colonial.html前掲による。)

3 終わりに

 1913年にアジア人として初めてノーベル文学賞を受賞したベンガルの詩聖タゴール(Rabindranath Tagore。1861〜1941年)は、1936年に英国人の友人に宛てた手紙の中で、「100年間の英国による統治の後の、恒常的な食糧と水の欠乏、衛生と医療の欠如、通信手段の不存在、教育の貧困、わが村々に充満する絶望・・」を指摘しつつ、それは、団結して抵抗することができなかったインドの人々の自業自得であるとし、欧米の人々の中で英国人が最も非欧米人との接し方において尊敬に値する、なぜなら英国人は悪いことはそれが英国人によってなされた場合でも悪いと言うからだ、と述べ、インドが英国人によって統治されたことはせめてもの幸せであったとしています。
 米国人もよい方だけれど、黒人差別や、地位に応じた差別を行う点で英国人には及ばないというのです。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/fromthearchive/story/0,,1885545,00.html
(10月3日アクセス)による。)
 タゴールは日本を訪問したことがあるのに、この英国による植民地統治に比べて、格段に優れていた日本による植民地統治に気付かなかったのでしょうか。
 また、韓国の有識者は、どうして英国のインド統治や米国のフィリピン統治と日本の朝鮮半島統治を比較しようとしないのでしょうか。

(完)

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太田述正コラム#1673(2007.2.25)
<英国のインド統治がもたらしたもの(その1)>(2007.9.20公開)

1 始めに

 このところ、支那とインドが高度経済成長を続けており、21世紀はアジアの世紀になると言われています。
 しかし、1700年の時点を振り返ってみれば、支那とインドは併せて世界のGDPの47%を占めていたと推計される一方で、西欧(含むブリテン諸島)の推計値は26%に過ぎなかったのです。
 1870年には支那とインドを併せたGDPの世界のGDPに占めるシェアは29%にまで落ち込み、その一方で西欧(含む英国)シェアは42%へと上昇した(
http://www.atimes.com/atimes/Global_Economy/IA27Dj01.html
。1月27日アクセス)ものの、現在の支那とインドの高度経済成長は、単に両地域、ひいてはアジアが本来の状態へと復帰しつつあるだけのことであると考えるべきでしょう。
 それでは、この間の支那とインドのGDPシェアの異常な落ち込みはどうして生じたのでしょうか。
 元凶は西欧列強のアジアの植民地化であったのではないか、という疑いを誰でも抱くことでしょう。
 アジアの植民地化の中心となったのは英国です。
 そこで、英国のインド統治の実績を見てこの容疑を裏付けてみましょう。

2 英国のインド統治の実績

 (1)客観的事実
 
 英国統治下のインド亜大陸において、1911年には原住民の識字率は6%に過ぎなかったところ、それが1931年には8%、1947年には11%に上がっただけでした。ところが独立後には、わずか50年でインドの識字率はその5倍に高まっています。また、1935年の段階で、わずかに1万人に4人しか大学以上の高等教育機関に進学していませんでした。
 1757年には、英東インド会社が報告書の中でベンガル地方のムルシダバード(Murshidabad)について、「この都市はロンドンのように広くて人口が多くて豊かだ」と記したというのに、1911年にはボンベイの全住民の69%が一部屋暮らしを余儀なくされるようになっていました。(同じ時期のロンドンでは6%。)1931年には74%にまでこの比率が高まっています。インド亜大陸の他の大都市も皆同じようなものでした。第二次世界大戦直後にはボンベイの全住民の13%は外で寝起きをすることを強いられていました。
 農業人口は1891年には61%だったのが、1921年にはむしろ73%に増えていました。この点でもインド亜大陸では歴史が逆行したのです。
 1938年の国際労働機関(ILO)の報告書によれば、インド人の平均寿命は1921年にわずか25歳であったところ、それが1931年には23歳に短縮しています。また、Mike Davis, Late Victorian Holocausts(コラム#397)によれば、インド人の平均寿命は1872年と1921年の間に20%短縮しました。
 1770のベンガル大飢饉の時には、東アジア会社統治下のベンガル地方の人口の六分の一にあたる120万人が死亡しましたし、この会社統治下のインド全体で19世紀前半には7回の飢饉が起こり、150万人が死亡し、英国の直接統治となった19世紀後半には24回の飢饉が起こり、公式数字ベースでも2,000万人以上が死亡しています。また、Davis上掲によれば、英国がインド亜大陸全体を支配した120年間に31回も大飢饉が起こっているところ、それ以前の2,000年間に大飢饉は17回しか起こっていないとしています。
 以上は、インド亜大陸の人口が爆発的に増えたせいでは決してありません。
 1870年から1910年にかけてインド亜大陸の人口は19%増えましたが、この間、宗主国のイギリス(英国ではない!)の人口の伸びは実にその3倍の58%であり、欧州のそれは45%だったのですから・・。
 (以上、アジアタイムス前掲、
http://india_resource.tripod.com/colonial.html
http://en.wikipedia.org/wiki/British_East_India_Company
(どちらも2月25日アクセス)による。)

 (2)英国がやったこと

 英国は一体インド亜大陸で何をやったのでしょうか。
 それには、まず、英東インド会社がインド亜大陸で何をやったかを振り返らなくてはなりません。

(続く)

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太田述正コラム#12522006.5.23

<英米すら日本に「誤った理解」を抱いている(その4)>

 3 ワシントンポスト論考

 次は、ワシントンポスト論考です。

 正しくはこれは、世銀のエコノミストを経て現在ニューヨーク大学の経済学教授であるイースタリー(William Easterly)の著書、THE WHITE MAN'S BURDEN  Why the West's Efforts to Aid the Rest Have Done So Much Ill and So Little Good’に対する、ワシントンポスト紙のコラムニストのイグナチウス(David Ignatius)による書評です。

 私が問題にしているのは、紹介されているイースタリーの著書の主たる内容ではありません。

 それ以外の一見非本質的な箇所です。

 まずひっかかるのがこの著書のタイトルです。

 発展途上国に供与される経済援助の問題点を摘出しているこの著書で、経済援助を与える側がどうして白人(WHITE MAN)だけなのか、です。

 ご承知のとおり、日本のODAはしばらく前まで世界第一位でしたし、現在でも世界第二位であり、経済援助を論ずるにあたって日本を無視するわけにはいきません。しかし、その日本人は白人ではありません。(かつての南アのように、イースタリーが日本人を名誉白人扱いにしてくれているとは思えません。)

 あるいは、日本は米国の保護国だから、日本を別立てで考える必要はない、ということなのでしょうか。それなら、そう断るべきですが、どうやらお断りの記述はなさそうです。

 それとも、日本の経済援助政策は「白人国」のそれとは異なっていて、問題がない、ということなのでしょうか。しかし、この書評で紹介されている、イースタリー言うところの「白人国」の援助政策の概要に照らせば、私の乏しい知識によっても、日本の経済援助政策が「白人国」のそれと大きく異なっているとは思えません。

結局、イースタリーは、20世紀前半に日本を苦しめた当時の米国人の人種差別意識を現在まで持ち越している米国人であって、非「白人国」たる日本を意図的に除外し無視した、と考えざるをえません。

この私の解釈が当たらずといえども遠からずであることは、この書評の以下のくだりが雄弁に物語っています。

「イースタリーの見解は、経済の分野であれ政治の分野であれ、外から押しつけられたことは大方失敗する、というものだ。彼に言わせれば、東アジアにおいて、ここ何十年(decades)にわたって経済的成功物語が起きたのは、日本・支那・台湾・南朝鮮・タイだが、これらがすべて、西側諸国(West)によって植民地化されなかった(never successfully colonized国であることは偶然ではない。これら諸国は、自らの文化・ルール・規律を進化発展させ、急速な経済成長のための固有の(indigenous基盤を構築したのだ。この地域において遅れをとっているのは、植民地化されたただ一つの国であるフィリピンだ。」

つまりイースタリーは、先行したスペインや英仏等に続いて、19世紀末に独・伊・日・米がほぼ横一線に植民地獲得に向けてスタートを切ったにもかかわらず、日本だけを除外し無視した上、東アジアにおいて、日本だけには「ここ何十年」以前から「経済的成功物語」が起きていたことにも目をつぶって、日本をあえて日本以外の東アジアの国(いずれも非「白人国」)と一くくりにしています。

その結果、台湾と(南)朝鮮が日本によって植民地化された事実が消えてしまう、というとんでもないことが起こっているわけです。

もっとも、そのおかげで、経済や政治の制度を日本によって「外から押しつけられた」台湾と(南)朝鮮に「経済的成功物語」が起きたのに、米国によって「外から押しつけられた」フィリピンには起きなかった、という、米国人イースタリーにとって不愉快千万な事実から、彼は目を背けることができたことにもなります(注11)。

(注11)もとより、イースタリーには、米国が失敗したのは、それ以前にフィリピンがスペインによって植民地化されていたためだ、という逃げ口上が可能であったはずだが、そうなると西側諸国ないし「白人国」を一くくりにはできない、ということになって、今度は、この著書のタイトルが成り立たなくなってしまう。

 こんなタイトルの、あるいはこんな記述のある著書を上梓したイースタリーも問題なら、書評でこういった部分への批判を全く行わなかったイグナチウスも問題であり、こんな欠陥著書のこんな欠陥書評をそのまま掲載したワシントンポストの編集当局はもっと問題です。

 これは事実の悪質な歪曲であり、既出のガーディアン記事で見られた歪曲・意図的省略よりはるかにたちが悪いと言わざるを得ません。米国の超一流紙がこのザマなのですから、呆れて言葉もありません。

 日本人の読者の皆さん。怒りを取り戻してください。

 こんな「12歳の少年」並の米国の保護国に甘んじるのは止めましょう。

 米国を人とならせるためにも、日本の独立を急ぎましょう。

 最後に、ボースの言葉を原文のまま掲げておきます。熟読玩味していただければ幸いです。

"To my countrymen I say, forget not that the greatest curse for man is to remain a slave. Forget not that the grossest crime is to compromise with injustice and wrong. Remember the eternal law - you must give life, if you want to get it. And remember that the highest virtue is to battle against inequity, no matter what the cost may be." http://shoebox.heindorffhus.dk/frame-IndiaBose.htm。5月22日アクセス)

(完)

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太田述正コラム#12512006.5.23

<英米すら日本に「誤った理解」を抱いている(その3)>

 その反対に、インド独立に大して寄与しなかったガンジーは持ち上げられることになります。

 つい最近も、英BBCのワシントン特派員(前南アジア特派員)が、米ケネディ政権の高官達で公民権運動を支援した人々にインド滞在経験があるガンジー心酔者(Gandhiphile)が多い、という論説を上梓しています。

この特派員が例として挙げているのが、当時の国務副長官(Deputy Secretary of Stateのボールス(Chester Bowles)、 駐インド大使のガルブレイス(J K Galbraith)、ケネディの初期の公民権問題顧問のウォフォード(Harris Wofford)・・1950年代初めにインドから米国に帰国し、キング(Martin Luther King,Jr.)牧師にガンジーの「哲学」を教えた・・です(注9)。

(注9)公民権運動が結実するのは、このケネディ政権の陣容を基本的に継承した次のジョンソン政権の時だが、こういう話を聞けば聞くほど、公民権運動は、「良識ある」白人が上から奏でた笛に「先覚的な」一部の黒人が踊った壮大なやらせであった、という感を深くするのだが、どんなものだろうか。

当然と言うべきか、この特派員は、「非暴力活動というガンジーの哲学は、英国のインドからの追放をもたらしたところの、高度に成功した戦略だった」という「誤った理解」を披露しています。

(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4989356.stm(5月23日アクセス)による。)

 ガンジーは、植民地住民でありながら、かなり個性の強い(という点でも典型的な)典型的イギリス人になりきろうとした人間にほかならず、彼の「哲学」にさして新しいものはない、と以前に(コラム#176で)私は指摘したことがあります。

 ここでガンジーの「哲学」がもたらした悲劇を一つだけ挙げておけば、ボースが追求した「武力独立・インド亜大陸の一体性維持」路線(http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html上掲)とは違って、ガンジーの「哲学」に染まった国民会議派は独自の軍事力を全く持っていなかったがために、独立直前のインド亜大陸は、英国の分割統治の「陰謀」に由来するイスラム教分離主義者の策動を押し止めることができず、インドとパキスタンに分裂した形で独立の日を迎えることになってしまったことが挙げられます。

 その結果、独立時を含めて、インド亜大陸において、イスラム勢力とそれ以外の勢力の間で何度も戦乱が起こり、何百万にも及ぶ人的犠牲を生み出すことになったほか、独立以来パキスタンは、(バングラデシュをもぎとられた現在においてなお、)インド亜大陸において、英米の走狗として、インド牽制の任に当たらせられているのです。

 

 このように見てくると、まことに欠点の多い人間であった東条英機ではあるものの(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F。5月22日アクセス)

、彼にも評価されるべき点があることを痛感させられます。

ビルマの第15軍司令官であった牟田口廉也中将は、東条の腹心の部下の一人であり(ウィキペディア上掲)、彼がインパール作戦をあえて立案したのは、インド独立にコミットしていた東条の心中を忖度したものであった可能性がある上、当初、ビルマ方面軍、南方軍、大本営などの上級司令部全てがその実施に難色を示したにもかかわらず、同作戦が最終的に認可された背景には、東条の強い意向があった可能性が大です(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6(5月22日アクセス)を参考にした)。

1947年のインド・パキスタンの独立・・英帝国の崩壊の始まり・・を心から喜んでいたはずの東条は、1948年の暮れにA級戦犯として死刑を執行されるにあたって、次のような遺書を残しています。

「英米諸国人に告げる  今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。」(ウィキペディア上掲)

 その言やよし、と私は思います。

「事実を列挙していく時間」がなかった東条(注10)に代わって事実を列挙するのは後世のわれわれの使命でしょう。

(注10)「東条」は本来「東條」でなければならないが、新字体を用いた。

本コラム・シリーズを読まれた読者の中から、有志が輩出することを願って止みません。

(続く)

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太田述正コラム#1250(2006.5.22)

<英米すら日本に「誤った理解」を抱いている(その2)>

 ここで一言申し上げておきます。

「インパール作戦(ウ号作戦)とは、1944年(昭和19年)3月から開始された日本陸軍によるインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のこと。補給線を軽視した杜撰な作戦により、歴史的敗北を喫し日本陸軍瓦解の発端となった。 無能な司令官による、無茶な作戦の代名詞としてしばしば引用される。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6。5月22日アクセス)というのがインパール作戦についての一般的評価ですが、このこと自体は間違いではありません。

しかし、これは木を見て森を見ない議論の典型です。

なぜなら、インパール作戦なかりせば、先の大戦への日本の参戦は、米国の不条理な挑発に答えた単なる独立自存のための参戦で、日本は敗れることによって独立を失ったわけですから、不名誉だけが残ったことでしょう。

ですが、インパール作戦があったからこそ、インドは独立し、英帝国の中心的植民地が独立したことで、英帝国は崩壊したわけです。結果論としてではあれ、日本はインパール作戦によって、アジアアフリカの欧米植民地主義からの解放をもたらす、という世界史的名誉を授けられたのです。

 その根拠は、インド独立時の英首相であったアトリーの、あるインド人の質問への答えにあります(下掲。http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html前掲)。

問:1947年までにはガンジーの<非暴力主義反英>活動はすっかり尻つぼみとなっていたというのに、どうして英国は慌ただしくインドを去る必要があったのか?

アトリー:いくつかあるが、最大の理由は、ボースの軍事活動により、英印軍のインド人兵士達の英国に対する忠誠心が崩壊したからだ。

問:英国がインドから去る決定を行うに当たって、ガンジーの影響はどれくらいあったのか。

アトリー:(一音節ずつゆっくりと)minimal(=ほぼゼロだ。)
 
 私がかねてより世界最高と太鼓判を押してきたガーディアンが、しかも日本の最高の理解者である英国のガーディアンが、どうしてこの種記事になると歪曲や意図的省略をしでかしてしまうのか、このあたりで謎解きをしましょう。
 何度か記したところですが、英国人にとって、先の大戦後、大英帝国が瓦解したことはトラウマとなっています。もう少し具体的に言うと、大英帝国の瓦解それ自体がトラウマである上、先の大戦後、しかも直後に大英帝国が瓦解したということは、先の大戦が英国流の植民地の維持(帝国の維持)それ自体の是非を問うたものであって、かかる意味での先の大戦に英国は敗れたのではないか、という疑心暗鬼がトラウマとなっており、二重のトラウマに英国人は苛まれているのです。
 先の大戦が英国流の帝国の維持それ自体の是非を問うたものであり、英国はこの大戦に敗れたのだとすれば、勝ったのは誰なのでしょうか。
 言うまでもなくそれは、香港及びマレー半島を席巻し、その上インパール作戦を決行した日本(注7)と、このインパール作戦を共に戦ったボースのインド国民軍です。

 (注7)では、同じく日本軍に席巻された仏領インドシナやオランダ領インドネシア、更には米領フィリピンの先の大戦後の独立を英国人はどう考えているのか。英国は、仏蘭米の植民地政策は拙劣極まると見ており、仏蘭米の帝国の喪失は遅きに失したという突き放した見方をしているように私は思う。(そのものズバリの典拠にはまだ遭遇していない。)
     ちなみに、ボースのインド臨時政府が発足した時、この政府を承認したのは、日本・ビルマ・クロアチア・ドイツ・フィリピン・中華民国南京政府・満州国・イタリア・タイの9カ「国」政府だったが、フランスのヴィシー政府は承認を拒否した(http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html上掲)。ナチスドイツの傀儡政府でさえ拒否するほど、フランスの帝国維持への執念は凄まじかった、ということだろう。

 この深刻な事実から眼を逸らすべく、英国人はことあるごとに、先の大戦を単純に、ホロコーストを引き起こした人類の敵であるナチスドイツ及び
その一味、と正義の味方であるアングロサクソンとの戦いとして、無理矢理総括しようとするのです。 だから、ガーディアンでさえ、日本もボースも、ナチスドイツの一味となった悪党にしたいのだし、させないではおけないのです(注8)。

 (注8)以上の私の見方が形成されたのは、英国防省の大学校に留学していた1988年の秋、同期の一部同僚とともにインド亜大陸の一ヶ月間の研修旅行に言った時、カルカッタでボースの話が出た時に、英国人の同僚(陸軍准将)が私に吐き捨てるように、「ナチの共謀者(collaborator)め」と言った瞬間に遡る。
(続く)

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太田述正コラム#12492006.5.22

<英米すら日本に「誤った理解」を抱いている(その1)>

1 始めに

 アングロサクソン、就中英国は、日本の最大の理解者ですし、米国は日本の外交・安全保障を担っている日本の宗主国であって、英国に次ぐ日本の理解者です。

 それでも私は、時々英米の主要メディアの日本「理解」に目を剥くことがあります。

 今までも折に触れて、彼らの「誤った理解」を批判してきたつもりですが、今回は、ガーディアン掲載記事(http://www.guardian.co.uk/india/story/0,,1777155,00.html。5月19日アクセス)とワシントンポスト掲載論考(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/05/18/AR2006051801085_pf.html。5月21日アクセス)を俎上に乗せ、その「誤った理解」を批判したいと思います。

2 ガーディアン記事

 ガーディアン記事の方は、チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose1897??1945年)が、終戦直後の1945年8月に台湾で航空事故死してなどいない、という何度も繰り返されてきたヨタ話がメインであるところ、この記事の中で、「誤り」が散見されます。

 まず、ボースについて、「第二次世界大戦において、日本及びドイツと協力して英国に敵対したインド国民軍、の指導者である」(注1)と紹介している部分は微妙だけれど「誤った理解」です。

 (注1Subhas Chandra Bose, leader of the Indian National Army which collaborated with the Japanese and Germans against the British in the second world war の関係代名詞がwho(ボース)ではなくwhich(インド国民軍)となっている。

インド国民軍が実際に戦闘を行った唯一の本格的作戦であるところの、日本軍主導のインパール作戦(Imphal Campaign1944年3月??)は、インド国民軍が日本軍(のみ)に協力し、共同作戦を実施したものであり、当たり前のことながら、当時ボースが行った戦意高揚演説中にドイツに言及したものなどないからです。

 しかも、インド国民軍自体、日本軍が装備を全面的に供与してつくられたものであり、ドイツ軍の関与はゼロでした(注2)(注3)。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.yorozubp.com/netaji/academy/170imphal-j.htm(5月21日アクセス)による。)

(注2)ボースはドイツ滞在中に現地でドイツ軍の協力の下にインド人部隊(Indian Legion)をつくったが、インパール作戦開始直前に、インド臨時政府Provisional Government of Azad Hind (Free India))首班として、欧州に残してきたこの部隊をインド国民軍に編入している(http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html。5月22日アクセス)。しかし、これは象徴的行為に過ぎない。

(注3)ちなみに、日本軍によるシンガポール落城の時の英印軍捕虜(インド人)のほか、東南アジア在住のインド人や印僑がインド国民軍に志願したし、ボース自身、印僑やインド人達からも軍資金を募っており、インド国民軍は決して日本の傀儡軍隊ではなかった。

またガーディアン記事が、ボースが日本と協力するに至った経緯について、「ボースはカルカッタで自宅軟禁状態に置かれていた1941年、カブール経由でベルリンにおもむき、ヒットラーと会った。総統はボースにアジアで進撃中の日本の軍隊の助けを求めよと助言し、ドイツの潜水艦に乗せるという形で東京への道行きをお膳立てした。」としている部分にも「誤った理解」に基づく歪曲と意図的省略があります。

ヒットラーは確かにボースに会った時(実際には日本の参戦前)にそう言ったようですが、それは口先だけで、日本が開戦し、実際に東南アジアで日本軍の快進撃が始まってからも、ボースのアジア行きを拒み続けたからです。ボースのアジア行きは、ボース自身が在ベルリンの大島日本大使や山本駐在武官に働きかけて、日本政府を動かし、ようやく1943年2月から5月にかけて実現に漕ぎつけたものだった、というのが真相だからです(注4)。(http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html前掲)

(注41942年ないし1943年の段階で、仮にボースの協力を得た形で日本軍がインパール作戦を実施していたとすれば、成功した可能性が高い、と考えられている。

なお細かい点ですが、ボースは、マダガスカル沖でドイツの潜水艦から日本の潜水艦に乗り移ってスマトラまで行き、そこから日本の飛行機で東京に到着しています。http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/asia-indo.htm。5月21日アクセス)

更に、ガーディアン記事中の「学者達は、ボースは日本やナチスドイツが抱いていた人種的優越性の議論に対しては見解を異にしていたと指摘している。学者達の大部分は、ボースはプラグマティストであって、敵の敵は味方だとみなしていただけのことだ、と考えている。」というくだりは、かなり露骨な「誤った理解」です。

なぜなら第一に、ナチスドイツはアーリア人(実質的にはドイツ人)の人種的優越性を唱えていたかも知れないけれど、当時の日本は日本人の人種的優越性を唱えるどころか、人種差別の撤廃を唱えていたからです(注5)。

(注5194311月、東京における(日満支印比泰ビルマ七カ国首脳による)大東亜会議で採択された大東亜宣言に、「人種差別を撤廃」とある(コラム#221)。

また、アングロサクソンはアングロサクソン文明を頂点とする階層的世界観を抱いているが、少なくとも本家のイギリスでは人種差別意識はほとんど見られない(コラム#7681043)。これになぞらえて言えば、当時の日本も、日本文明を頂点とする階層的世界観を抱いていたが、人種差別意識は見られなかった。しかし両者が似ているのはそこまでであり、英国(イギリス)と当時の日本の植民地統治は決定的に異なっていた。英国が植民地ないし植民地の住民を一段低いものと見、同化政策をとらなかったのに対し、当時の日本は、植民地ないし植民地の住民を内地ないし内地の住民同様、日本文明の恩沢に浴す平等の存在と見、(正確に言えば、平等の存在と見るよう努め、)同化政策をとった。(この点は以前にも記したことがあると思うが、コラムのナンバーを思い出せない。)だからこそ、英国の植民地では経済的収奪が行われ、住民が餓死することがめずらしくなかったのに、日本の植民地では餓死など起こったことがないし、英国の植民地では住民の教育は疎かにされたが日本は植民地で住民の教育に力を入れた。なお、同化政策と言うとフランスのそれを思い出す人もいるだろうが、日本による同化政策は、植民地の住民の文化・言語を尊重する点でフランスとは異なる。しかも、フランスには紛う方なき人種差別意識がある。(コラムナンバーは省略)

 そして第二に、ボースは日本に対しては、単なるリップサービスとは思えない敬意と親近感を抱いていたフシがあるからです(注6

(注6)東京にやってきたボースと会った東条英機首相は、1943年6月に異例にも帝国議会にボースを招待し、「われわれはインドがいまだに英国の仮借ない圧政の下にあることに怒りを禁じ得なないのであって、インドの独立闘争に満腔の同情を寄せるものだ。われわれはインド独立の大義に対し、可能なあらゆる支援を行う決意だ。われわれはインドが独立を勝ち取り、自由と繁栄を享受する日が遠くないことを信じている。」と演説した(http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html前掲)。ボースは同月、日本国民に対し、「日本の皆さん、今から四十年前に一東洋民族である日本が、強大國のロシアと戦い大敗させました。このニュースがインドへ伝わると昂奮の波が全土を覆い、旅順攻略や日本海海戦の話題で持ちきりで、インドの子供達は東郷元帥や乃木大将を尊敬しました。(中略)日本はこの度、インドの仇敵イギリスに宣戦布告しました。日本は私達インド人に対して独立の為の絶好の機会を与えてくれました。」というメッセージを送っている(http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/asia-indo.htm上掲)。

    また、194310月にボースを首班とするインド臨時政府は、英米に対し宣戦布告したが、米国に対する宣戦は、同政府の閣僚の中から出た反対論を押し切ってボースが断行したものだ。ドイツに滞在中のボースは、直接的にインドを解放する戦い以外にインド人部隊を関与させないという約束をドイツからとりつけるのにこだわったものだが、その時の態度とは明らかに違っている。(http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html前掲)

ボースにとっては、ドイツは敵の敵にすぎなかったけれど、日本は味方だったのだ、と私は思う。

(続く)

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太田述正コラム#8942005.10.7

<大英帝国論をめぐって(その4)>

  

(本篇は、10月5日に上梓しました。)

 (3)英国によるインドの搾取

 19世紀以降、英国は米国及び英国人が多数移住したカナダ・豪州・ニュージーランド・南アフリカに多額の投資を続けてきました。

 しかし、この間の英国の対米貿易収支は大幅な赤字でした。

 それでは、上記の投資の原資を英国はどこから得ていたのでしょうか。

 その答えはインドです。

 まず、第一次世界大戦までは、インドの対米貿易収支は大幅な黒字を続けました。(この間、インドの対英本国貿易収支はおおむね赤字でした。)これで、大英帝国としては、対米貿易収支はトントンにすることができたわけです。しかし、これだけではまだ、投資の原資を得るところまでは行きません。英国はインドを様々な形で搾取することによって投資の原資を得ていたのです。

 一つには、インドの官僚機構と軍隊はインドからの税収によってまかなわれていたということです。インドは官僚機構も軍隊も、インドだけのために用いられたわけではなく、大英帝国全体のために用いられました。官僚機構は、英本国の中東や中央アジア政策を代行しました(典拠失念)し、軍隊は、第一次世界大戦の時も、先の大戦の時も、あらゆる前線で大英帝国のために戦争に従事させられました。つまり、英国は本国の行政経費と軍事費の一部をインドに肩代わりしてもらっていた勘定になります。その肩代わりしてもらって浮いた分が、投資の原資になった、ということです。

 二つには、英本国政府がインドの官僚機構等に貸与した資金に対する利子収入(支払いにはインドでの税収が充てられた)も投資の原資になりました。

 三つには、上記のインドの貿易に係る商社・銀行・船会社・保険会社のほとんどは英国の企業であって、インドの貿易総額の40%にも相当する収益を上げ、これも投資の原資になりました。

 四つには、インドで享有していた特権(注8)に基づきインド人を排することで、英国人や英国の企業(一部欧州人や欧州の企業)がプランテーション・鉄道・鉱業に投資をして高い収益を上げ、その収益をインドに再投資して更に高い収益を上げる、ということを繰り返したところ、これも投資の原資になったのです(注9)。

 (注8)鉄道を例にとろう。インドの官僚機構がインド人に鉄道敷設の許可を出すわけがなかった。いざ鉄道が敷設されると、その鉄道会社の本社は英本国に置かれ、取締役には全員英国人(一部欧州人)が就き、幹部の募集は英本国で行われて英国人(一部欧州人)が雇用され、機関車やレールは英本国で製造され、寝台車でさえ長い間英本国か豪州等で製造された。この会社のインド人株主が若干いたとしても、その発言権は全く認められなかった。それだけではない。貨物運賃は、インドの国際港と消費地の間では安く、それ以外では高く設定されたし、輸入商品に比べてインド産品の運賃は高く設定された。

1846年の穀物法(1815年制定)廃止と1849年の航海法(1651年制定)の廃止により、英国は自由貿易時代を迎えるわけだが、インド等では、このように英国人や英国企業(一部欧州人や欧州企業)が特権を享有しており、市場はねじまげられていた。

 (9) 一?四は、英国人が多数移住していない大英帝国海外領土(例えばエジプト・・ただし保護国)にも当てはまるし、二?四は、大英帝国の半植民地の支那や(ブラジルやアルゼンチンを始めとする)多くの中南米諸国にも当てはまる。

 このように、インド等原住民の多いところでは収奪の限りをつくし、収奪で得た原資を英国人が多数移住した米国やカナダ・豪州・ニュージーランド・南アフリカに投資する、というのが大英帝国の完成時の基本構造なのです。

インド等がつい最近まで経済的に低迷を続け、何度も大飢饉で天文学的な犠牲者を出し(注10)、その一方で、(南アフリカはさておくとして、)米国はもとより、カナダ等現在英本国の君主を元首とする国々が発展し、繁栄を謳歌するに至ったのは、まさにそのためだったのです。

(以上、http://www.epw.org.in/showArticles.php?root=2002&leaf=06&filename=4555&filetype=html(10月4日アクセス)、及びhttp://www.atimes.com/atimes/Front_Page/GJ04Aa01.html前掲、による。)

 (注10)先の大戦中の1943年にも、インドでは400万人の餓死者が出ている(コラム#27)。

(続く)

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太田述正コラム#8932005.10.6

<大英帝国論をめぐって(その3)>

2 大英帝国を「完成」させたインド

 (1)始めに

 英国のインド亜大陸(以下、「インド」という)との関わりは、1600年に東インド会社が設立される以前に遡る年季の入ったものです。

 東インド会社は、アジアにおける英国貿易の独占権を与えられていました。

 18世紀に入るとインドのムガール(MogulまたはMughal)帝国は衰退し始め、19世紀に入ると名存実亡状況になり、インドは多数の国や植民地が分立する状況になりますが、だからといってインド全体が無秩序と混乱の世界になったというわけではなく、インド全体として見れば経済が衰退したわけでもありませんでした。

ムガール帝国は、1858年にセポイの乱を契機に完全に滅亡し、東インド会社も1874年に廃止され、インドは英国が直接統治するところとなります。

(以上、http://www.bbc.co.uk/history/state/empire/east_india_01.shtml10月1日アクセス)による。)

 (2)英国人官僚及び軍人の献身

 ア インド帝国官僚

英国人たるインド帝国官僚(Indian Civil Service=ICS)の献身的な仕事ぶりについては、以前(コラム#27で)ご紹介したことがあるので繰り返しませんが、その時、インド帝国官僚は、「環境が環境だけに長寿を全うできる者も少なかったと言われています」と記した点について、まずは訂正をしておきましょう。

ナイチンゲール(Florence Nightingale)が1870年に言ったように、ボンベイはロンドンより、カルカッタはマンチェスターやリバプールより衛生的だったからです。

ここでは、英国人のインド帝国官僚あがりの人物が、英国からの独立を掲げたインド国民会議(National Congress)を創設したことに注意を喚起しておきたいと思います(注5)。

 (5)国民会議を創設したのはAllan Octavian Hume国民会議の初代議長はAnnie Besantという英国人女性だったし、英国人William Wedderburn1989年と1910年の二度にわたって国民会議の議長を務めた。(http://www.aicc.org.in/british_friends_of_india.htm10月5日アクセス)

  イ 英国人たる軍人

 英国人は、インド人兵士からなる部隊の幹部となったほか、英国人だけで構成される連隊(複数)にも勤務しました。(この英国人だけで構成される連隊は、英国人幹部を殺してインド兵が叛乱を起こしたセポイの乱のようなことが再び起こったときにこれを鎮圧するためのものでした。)

 数億のインド人がインドに住んでいたというのに、インド帝国官僚は最高でも1,300人を超えたことがありませんでした(コラム#27)し、インドに派遣された英国人たる軍人も3,000人を超えることはありませんでした。そしてこの軍人達は、インド風の衣類をまとい、インドの各種言語を話し、インド人兵士達の習慣と文化を熟知していることを誇りとする人々でした。

彼らの中から、アラブ世界におけるアラビアのロレンス(T E Lawrence ("of Arabia"))にひけをとらない、インド世界における軍人兼学者が輩出したのも、大英帝国がその他の帝国主義諸国とひと味違っていたところです(注6)。

(以上、特に断っていない限りhttp://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1581839,00.html10月1日アクセス)、及びhttp://www.atimes.com/atimes/Front_Page/GJ04Aa01.html10月4日アクセス)による。)

(注6)例えば、バートン(Sir Richard Burton 1821-1890)は、オックスフォードを退学させられた後、東インド会社の軍隊に勤務し、25の言語と15の方言を身につけ、南アジア・アフリカ・中東・米国西部を探索した。彼のサンスクリットやアラビア語古典(千夜一夜物語等)の翻訳(その邦訳書を含む)は現在でもなお売れている。

しかし、インド帝国官僚や英国人たる軍人の努力によってインドが安定し、しかもインド帝国官僚がかくもインドを愛し、献身的に仕事をしたというのに、インドの経済はさして活況を呈さず、しかも1870年代と1890年代にインドが飢饉で天文学的な犠牲者を出した(注7)のは、一体どうしてなのでしょうか。

(以上、http://www.bbc.co.uk/history/state/empire/indian_rebellion_01.shtml以下(10月1日アクセス)、及びhttp://users.erols.com/mwhite28/wars19c.htm10月5日アクセス)による。)

(注71876?79年と1896?1900年のエルニーニョ現象によって引き起こされた世界飢饉の際のインドでの餓死者の推定値は、それぞれ610万?1,030万人と610万?1,900万人にのぼる。

(続く)

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太田述正コラム#7812005.7.7

<インドとは何か(その4)>

  ウ 目を覆う健康水準

 インドの基礎医療は(これまたケララ州等一部を除いて)全く機能していません。

 ずる休みのために基礎医療センター(primary health centresに医者がいないことがめずらしくありませんし、たまたまいたとしても、碌に検査もせずに民間の医者に行け、と言われるだけです。その民間の医者の所に行ってみると、センターで会ったご本人が待っている、ということがめずらしくありません。センターの医者として州政府等から報酬をもらった上に、民間の医者としてもカネを稼ぐわけです。しかも民間の医者には法外な治療費を要求する者が少なくないだけでなく、藪医者が多い、というわけで、貧しい人は病気になったら、なけなしのカネをふんだくられ、治してはもらえないことがざらです。

 この問題の背景にも、インドの自由・民主主義制度の下で、強者が予算を基礎医療よりも高度医療に投入してきた、という現実があります。

 また、医療以前の話ですが、子供達に栄養失調が多いという問題があります。

 サハラ以南のアフリカでさえ、栄養失調の子供の比率は20?40%なのに、インドでは40?60%にも達し、インド周辺のいくつかの国と並んで、インドは世界で最も栄養失調の子供の割合が多い国です。

 幸い、ノーベル賞の賞金を全て投じたセンによる運動が、集票にもつながるとの期待からインドの政治家達を動かし、遅ればせながら学校給食が多くの州で二年ほど前から開始されました。

子供達の栄養失調が減る、給食目当てで学校からドロップアウトする生徒が減る、腹が満たされるために生徒が授業に集中できることになる、教師が給食調理室を管理することから教師への出席率向上圧力が強まり出席率が向上する、給食を共にすることによってカースト間の一体感が醸成される、といった様々な良い効果を学校給食がもたらすことが期待されています。

(以上、http://india.eu.org/2209.html(7月3日アクセス)による。)

  エ 産業インフラの貧弱さ

 私は、1990年代初頭の非社会主義経済化政策によってインドの経済が高度成長を始めた、と申し上げてきましたが、1980年代の10年間と1990年1月から2003年4月までの13年余の成長率を比較すると、年率5.62%から5.71%へとわずか0.9%の伸びにとどまっています(注7)。この成長率の変化の内訳を見てみると、工業部門成長率(7.547%から5.92%)も農業部門成長率(3.43%から2.7%)も減速しており、改革後に大幅に成長率がアップしたのは、サービス産業部門だけであり、10%の成長率を記録しています。

 (7)これに対し、中共の改革前(1949?1977)と改革後(1978?2003年)の経済成長率を比較すると、6%から9%へと「顕著な」伸びを示している。

 一体どうしてそんなことになったのでしょうか。

 その背景には、インドが自由・民主主義制度の下で、現金による所得移転を求める一般大衆の欲求に屈し、灌漑・道路・鉄道・電力といった産業インフラへの投資を怠ってきた、という現実があります(注8)。

 (注8)中共の産業インフラへの手厚い投資は良く知られているところだ。

 しかも改革以降、状況は一層悪化しています。

 インドの粗固定資本形成(Gross Fixed Capital Formation GFCF)の伸びは1980-81年から1990-91年の間は年6.9%であったのに、1990-91年から2001-02年の間では5.33%に減っているのです。これは、財政赤字が膨らんできているために、産業インフラに予算を投入する余地が次第に減少してきているからです。

 その結果、公共工事が途中で停止される事例が鰻登りに増えています。そもそも。カネがあっても、インドではこれまた自由・民主主義制度の下、州等の自治体の首長が替わると、自分の支援者に報いるために、既存のプロジェクトを中止し、新規プロジェクトを始める、という悪しき伝統があるだけに、公共工事をめぐるカネの無駄遣いは天文学的規模にのぼっています(注9)。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.atimes.com/atimes/South_Asia/FI23Df05.html2004年9月23日アクセス)による。)

(注91988年に私がインドを二度目に訪問した際、ニューデリー首都圏(現在人口1400万人)に地下鉄がまだなかったのは知っていたが、今年7月初めにようやく、実質的に初めての地下鉄が日本のODAに経費を6割方依存し、かつ日本の技術でニューデリーで部分開通したところに、インドの産業インフラ整備の遅れが良く表れている。ちなみにインドでは、これまでは、現在人口1200万人のコルカタ(カルカッタ)圏にしか地下鉄はなかった。また、このコルカタの地下鉄一本の建設に20年もかかっている。(http://www.asahi.com/international/asiamachi/TKY200505250246.html及びhttp://www.sankei.co.jp/news/050702/kok094.htm(どちらも7月6日アクセス))

(続く)

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太田述正コラム#7802005.7.6

<インドとは何か(その3)>

3 インドの現状

 (1)始めに

 センが、独立後の自由・民主主義国家インドでは、英領インド帝国時代と違って餓死は根絶されたけれど、英領インド時代に引き続き、基礎教育は無視されつづけてきた、と指摘していることを、以前(コラム#211で)ご紹介しました。また、ヴァルマが言うところのインド人の自由・民主主義観のおぞましさについては、ご紹介したばかりです。

 その結果。現在のインドがいかなる状況にあるかを押さえておきましょう。

 制度としての自由・民主主義が機能していることが、必ずしも主権者たる国民一般に幸せをもたらさないという事実を、インドはわれわれにつきつけています。

 (2)インドの現状

  ア 政治の腐敗

 この点は、以前(コラム#286で)述べたところに譲ります。

  イ 教育の荒廃

 この点も以前(コラム#286で)触れたことがありますが、この際、更に踏み込んでご紹介することにしましょう。

昨年、米ハーバード大学が実施した調査によれば、インドの公立小学校の教師の欠勤率は25%に達しています。先進国である米国の1993年から94年にかけての数字は5?6%ですし、発展途上国でもお隣のバングラデシュは16%、ザンビアは17%であり、数字が得られる国でインドよりひどいの27%のはウガンダくらいです。

教師は有給休暇の権利は時期にお構いなしにすべて行使した上に、更にヤミ休暇をとっており、学校はその事実を記録に残しませんし、酔っぱらって授業をしたり、生徒の名前を全く覚えようともしない教師などざらです。しかし、どんな教師でも首になることはありませんし、異動もほとんどありません。選挙の時の教員組合の集票力と投票所(となる学校)を管理するのが教師であることから、政治家は教師に対しては腫れ物に触る態度です。

 大部分の校舎で碌に掃除がなされないため、汚水が所々にたまり、小便の臭いが立ちこめ、壁はどす黒く汚れています。学級編成は一クラス50人を超え、薄汚れた子供達であふれていて、二シフト授業もめずらしくありません。ろくな教材もありません。ですから、教師も子供達も学校がつらいし勉強に熱も入りません。

 ですから、少しでもカネのある親は子供を、田舎でも次第に増えつつある私立の学校に入れようとします。

 以上の当然の帰結は以下のとおりです。

ユネスコの最新の報告書によれば、インドは実に世界の文盲人口の34%を占めています。ちなみに、インドより人口の多い中共は11%しか占めていません(注6)。

 (以上、http://www.csmonitor.com/2004/1220/p01s03-wosc.html20041220日アクセス)による。)

 (注6)インドでは2001年現在、文盲率が34.62 %。もっとも、独立した直後の1951年には識字率が18.33%に過ぎなかったことを思えば、50年間でそれが65.38%まで上昇したのだから、前進はしてきているhttp://www.atimes.com/atimes/South_Asia/FD24Df04.html。4月24日アクセス)。問題は文盲の解消に、時間がかかりすぎていることだ。

     もっとも、インドでは地域差が大きい。一番識字率が高い、インド最南端のケララ(Kerala)州では、識字率が91%だ。ケララ州の一人当たり所得は265米ドルに過ぎず、インドで最も貧しい州の一つだが、19世紀前半以来のこの地域の支配者やキリスト教宣教師(ケララ州にはキリスト教徒が多い)による教育重視の伝統と、独立後の農地改革の成功によって、社会の最底辺の人々も子供達に教育を受けさせる経費を捻出できるようになったこと、現在でもケララ州の教育予算は予算全体の37%も占めていること、等が高い識字率をもたらした。ケララ州の貧しさや失業率の高さは解消できていないが、ケララ州の人々は他州や中東や米国に出稼ぎに行ったり移住したりして活躍している。http://www.csmonitor.com/2005/0517/p12s01-legn.html。5月17日アクセス)

 また、6歳から14歳までの2億人の子供達のうち、5,900万人が学校に行っていません。そのうち3,500万人が女子です。

 ちなみに、2000?2001年の小学一年生から二年生にかけてのドロップアウト率は40.67%です。1990?1991年は42.6%でしたから、ほんのちょっとしか改善されていません。

 (以上、アジアタイムス上掲による。)

(続く)

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太田述正コラム#7782005.7.5

<インドとは何か(その2)>

 (3)英植民地統治

 このような議論と寛容の伝統があったところに、英国の植民地になったことで英国の自由・民主主義の影響を受け、また、英国統治下の修練を経て、今日のインドのおおむね機能する自由・民主主義・・BJPによるヒンズー原理主義的偏向を克服したインド、そして現在のような、イスラム教徒の大統領・シーク教徒の首相・キリスト教徒の与党第一党党首、を擁するインド・・がある、と言えよう。

他方、このような伝統のない旧英領植民地の国々では、必ずしも自由・民主主義が花開かないのだ。

3 もう一つのインド

 (1)センの限界

 センの議論は、いかにも優等生の経済学者らしいな、と思うのは私だけでしょうか。

 経済学とは、アングロサクソン・ウェイ・オブ・ライフたる資本主義のメカニズムを研究する学問です。個人主義を所与の前提とする学問だと言っても良いでしょう。

アングロサクソンたる経済人の理念型であるところの、自分の効用関数とリスク選好度に従って経済行動を行うという合理的人間を、センが政治の世界に投影した、いわばアングロサクソンたる政治人が、議論と寛容を旨とする合理的人間なのではないでしょうか。

その上でセンが、インド人が議論と寛容を好んだ史実をインド史に求めてみると、そこにアショカ王やアクバル大帝らが立ち現れた、ということなのでしょう。

センは、(恐らく無意識的にアングロサクソンに媚び、)いかにもアングロサクソン受けしそうな議論を展開しているのです。

センの議論に問題ありとすれば、アショカ王やアクバル大帝が例外的な人間であるとは言い切れないとしても、少なくとも彼らはそれぞれの時代におけるインドの最高権力者であり、社会の上澄み中の上澄みである点です。センは、その他大勢の一般のインド人がどんな人々なのか、とらえていない可能性があるのです。

実際、一般のインド人に焦点をあてると、全く異なったもう一つのインドの姿が見えて来ます。

そのような視点に立ってヴァルマ(Pavan K Varma)が、著書のBeing Indian, Penguin Books India, 2004 で展開するインド人論を、部分的に私の言葉に置き換えつつ、ご紹介しましょう。

(以下、http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/FF12Df03.html2004年6月12日アクセス)による。)

(2)もう一つのインド

インド人自身や外国人がこれまで抱いてきたインド人のイメージは、民主的・寛容・平和的・精神主義的といったところだろう。

しかし、実際のインド人は、上下関係に極めて鋭敏であり、強者を敬い、強者に取り入って権力やカネのお裾分けにあずかろうとする一方で、弱者・・貧しい者や虐げられた者・・は侮蔑しつつあごでこき使い、決して同情したり助けたりはしない。またインド人にとって、インド的精神主義なるものは、ごく限られた一部の例外を除き、権力とカネを追求するにあたって聖なるものの力を借りるための装いに過ぎないし、道徳などというものは実社会では何の役にも立たないものとして顧みられない。そしてインド人は、勝利が確実であると見きわめさえつけば、弱い時に掲げていた平和主義の看板など弊履のごとく捨て去って暴力に訴えることを躊躇しない。

インド人がこのようにまことに現実主義的でたくましい人々であったおかげで、インド人は、イスラム教徒やキリスト教徒によって征服されても、そのインド的アイデンティティーを失わずに済んだ。

そして、インド人が権力亡者であったおかげで、インドには、自由・民主主義の精神抜きで、英国からの借り物の自由・民主主義が「定着」した。

インド人にとっては、自由・民主主義は強者にとって都合の良い制度以外のなにものでもない。自由・民主主義は、強者に最小限のリスクで権力を追求することを可能ならしめるし、一旦権力を掌握すれば、その強者による支配を正当化してくれるからだ。

更に、インド人がカネの亡者であったおかげで、インドは、1991年に借り物の社会主義の衣を脱ぎ捨ててから、高度経済成長を始めたのだ。

弱者は侮蔑の対象であり弱者を助ける気などないから、弱者のための義務教育は顧みられず、強者のための(英国による統治の遺産としての英語による)高等教育ばかりに国のカネが注ぎ込まれる。その結果は、文盲の大衆の海に浮かぶITエリートの島、というインドのいびつな現在の姿だ。

いずれにせよ、以上のインド人像こそ圧倒的多数のインド人像なのであって、しばしば喧伝されるインドの「言語・文化・宗教・職業・信念・慣習の多様性」(セン)なるものは幻想に過ぎない。そもそもインド人の日常生活・衣服・食物・芸術・娯楽を見よ。何と均一的であることか。

そのインド人を更に均一にしたのが英国による統治であり、インドにクリケットという熱狂的な共通の娯楽と、共通の英国ひいては欧米に対する拭いがたいコンプレックスや欧米を模倣する習性を植え付けた(注5)。

(注5)このように見てくると、ガンジーの清貧主義や平和主義、ネールの社会主義がいかに、非インド的な代物であったかが良く分かる。(もっとも、センもガンジーは典型的インド人とは考えていないようだ。(太田))

インド独立後は、全国ネットのラジオ・TVやインド映画・インドポピュラー音楽等によってインドの均一性は一層促進されて現在に至っている。

(続く)

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太田述正コラム#7772005.7.4

<インドとは何か(その1)>

 (コラム#776を若干拡充して私のHPに再掲載してあります。)

1 始めに

 インドはヒンズー教原理主義化しつつあったところ、昨年の総選挙で国民会議派を中心とする政権が復活することによって、手放しで楽観はできないものの、本来の世俗主義の路線に戻ったように見える、ということを以前(コラム#354355で)申し上げました。

 中共と並ぶ巨大な人口を擁する発展途上国たるインドにおいて、自由・民主主義がこのようにおおむね機能し続けて来たのは、一体どうしてなのでしょうか。

 それなのに、インドが経済発展の面において現在中共の後塵を拝しているのは、なぜなのでしょうか。

 どこまで、このような根本的な疑問を解明できるか分かりませんが、とにかく解明に向けて第一歩を踏み出すことにしました。

2 議論と寛容の伝統

 (1)センの指摘

 アマルティア・セン(注1)が、新著The Argumentative Indian: Writings on Indian History, Culture and Identity, Allen Lane を上梓し、インドの自由・民主主義は、インドに議論と寛容の伝統があったからこそ機能してきた、と指摘しています。

 (注1)センについては、コラム#210315参照。その後センは、英ケンブリッジ大学教授から米ハーバード大学教授に転じている。

 センの言っていることを、適宜補足しながらご紹介することにしましょう。

 (以下、特に断っていない限りhttp://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1519820,00.html(書評)、http://www.scimd.org/phpBB2/viewtopic.php?t=817&(センの講演録)、及びhttp://www.asianreviewofbooks.com/arb/article.php?article=557(書評)(いずれも7月3日アクセス)による。)

 (2)議論と寛容の伝統

 インドには、議論・公の場での討論・知的多元主義・寛大さ、つまり議論と寛容の伝統がある。

 1,000年にわたってインドの中心的な宗教であった仏教も、その後インドの中心的な宗教となったヒンズー教も、包容的な宗教であり、排他的ではなかった。

 このようなインドの伝統を体現している代表的な国際的著名人として、20世紀前半からは1913年のノーベル文学賞受賞者タゴール(Rabindranath Tagore1861?1941)、20世紀後半からはカンヌ・ヴェニス・ベルリンの各映画祭で数々の賞を受賞した映画監督のサタジット・レイ(Satyajit Ray1921?92年)を挙げたい。二人とも、欧米の人々が抱くインドの神秘的な聖者、というイメージからはほど遠い、実際的・世俗的・合理的思考をする人物だ。

 インドは昔から人口大国だっただけでなく、インドに住んでいた人々の言語・文化・宗教・職業・信念・慣習の多様性においても世界有数の大国だった。

 インドの人々はとにかく議論好きだ。

 11世紀の初めにインドを訪問し、史上初めてのインドの歴史書を著した、イラン系のイスラム教徒のアルベルーニ(Abu Rihan Muhammad bin AhmadAlberuniは通称。973?1048年)(http://www.infinityfoundation.com/mandala/h_es/h_es_kumar-v_alber.htm及びhttp://www.varnam.org/blog/archives/2005/06/alberuni_the_fa_1.html(7月3日アクセス)は、インドの数学や天文学の水準には敬意を表しつつも、何にも知らないことについてまで滔々とまくし立てるインド人の議論好きにはあきれている。

 サンスクリットで書かれた物語であるラーマヤナ(Ramayana)やマハーバラータ(Mahabharata)の長さはすさまじい。マハーバラータだけでホメロス(Homer)のイリアス(Iliad)とオデユッセイア(Odyssey)を合わせた分量の7倍はある。このラーマヤナやマハーバラータの中は議論や討論で充ち満ちている。バガバットギータBhagavad Gitaはマハーバラータの中の長い一節だが、全編が一つの議論から成っている。

 仏教でも様々な見解の持ち主が一堂に会して法論を闘わすことがしばしば行われた。

 紀元前3世紀のマウリヤ朝(Mauryan dynastyの三代目のアショカ(Ashoka)王は、宗教・宗派間の寛容を説いた(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E9%9B%86。7月3日アクセス)。彼は仏教の三番目の仏典結集(けつじゅう。大法論会)を主催し、その時、討論の心得を提示し、仏教各宗派が互いに敬意を持ち、議論にあたっては自己抑制を忘れないこと等を求めた。

 1590年代にはムガール帝国のアクバル(Akbar)大帝が、宗教に関する寛容と信仰の自由を説き、ヒンズー教徒・イスラム教徒・キリスト教徒・パルシー教徒(2)ジャイナ教(注3)徒・ユダヤ教徒・無神論者、の間の討論会を盛んに開催した。この頃の欧州では、火炙りの刑を伴う異端審問がまだ行われていたことを思い起こして欲しい。

 (注27、8世紀にイスラム教徒の迫害を受けてペルシアからインドに逃れたゾロアスター教徒の子孫(MSN英和辞書)。

 (注3仏教と同じ頃にインドで生まれた宗教。アヒンサー(不殺生)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られる。仏教と違ってインド以外の地にはほとんど広まらなかった。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99。7月3日アクセス)

しかも、議論に大昔から女性が加わっていたこと、また、かねてからカースト制度を根底から批判する議論がなされてきたこと等、インドには人間を平等視する確固たる伝統が存在する(注4)。

 

(注4)紀元前4世紀後半にアレクサンドロス大王がインドに攻め込んだ時、ジャイナ教の高僧達に「なぜ新しい征服者たる自分に敬意を示さないのか」と問うたところ、「アレクサンドロス王よ、いかなる人間も自分が立っている地面しか所有してはいない。あなたも我々と同じ一介の人間に過ぎない。しかし、あなたはいつも無意味に忙しく立ち回り、自分の故郷からかくも遠くまで旅をしてきた。何と自分にも他人にも迷惑なことよ。・・あなたは遠からず死を迎える。そしてあなたは、自分を埋葬するために必要な土地だけを所有することになるのだ。」と答えた。アレクサンドロスは、デイオゲネス(Diogenes of Sinope。樽に住んでいたと言い伝えられるギリシャの犬儒学派の哲学者。アレクサンドロスが「私が何かあなたにしてあげられることは」と聞いたところ、「私にあたる日の光を遮る場所に立たないでくれ」と答えたとされる(http://www.iep.utm.edu/d/diogsino.htm。7月3日アクセス)。)に示したのと同じ敬意を彼らに払いつつ、アーリア人からかくも平等主義的な話を聞かされるとは、と語った。もとより、アレクサンドロスはその後も自分の言動をいささかも変えはしなかった。

(続く)

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太田述正コラム#0667(2005.3.22)
<新悪の枢軸:インド篇(その6)>

 (コラムの購読者数が、11日時点の1204名から更に減って1200名になっており、危機的状況が続いています。来月10日に私のホームページ開設四周年がやってきますが、その時点で、購読者数、ホームページへの月間訪問者数、その他を総合的に勘案し、皆さんのご意見も伺いながら、その後のホームページやコラムのあり方を、改廃も含めて抜本的に見直したい、と思っています。)

1 始めに

 インドについては、「新悪の枢軸:インド篇」シリーズ(コラム#244??288)、「シバジ騒動」シリーズ(コラム#301??303、317、318)、「インドの政変」シリーズ(コラム#354、355)、とつごう三回取り上げてきていますが、すべて未完です。今回、最初のシリーズをとりあえず完結させることにしました。

2 米ビザ発給拒否

 昨年5月にインドで、ヒンズー教原理主義政党であるBJP(Bharatiya Janata Party)が総選挙で敗れて下野し、世俗主義を掲げる国民会議派が政権に復帰したにもかかわらず、米国政府のインドのヒンズー原理主義化に対する警戒感が少しも変わっていないことが明らかになったのが、グジャラート州(Gujarat state)の首相(chief minister)であるモディ(Narendra Modi)氏に対するビザ発給拒否です。
 これは、在米インド人との交流目的で渡米すべく外交ビザ発給を申請したモディ氏に対し、米国政府が、要件に合致しないとして外交ビザの発給を拒否しただけでなく、モディ氏に既に与えられていた一般ビザについても、米移民・国籍法(U.S. Immigration and Nationality Act)の条項(注9)を援用して取り消した(注10)ものです。

 (注9)section 214 (b):"any government official who was responsible for or directly carried out at any time, particularly severe violations of religious freedom, ineligible for a visa"
 (注10)具体的には、2002年のグジャラート州での、大部分がイスラム教徒であるところの1,000名以上(一説には2,000名以上)の人々が虐殺された事件(コラム#285)の際に、州首相であったモディ氏が、虐殺阻止のための措置をとらず事態を拱手傍観した責任を問うた。3月上旬にライス国務長官宛てに米下院議員21名が連名でモディ氏の米入国拒否を求める書簡を送り、3月中旬には二人の米下院議員がモディ氏を非難する決議案を下院に上程したことも、米国政府の決定に影響を与えた、と考えられている。
     ちなみにこの事件について、グジャラート州政府は、ヒンズー教徒の巡礼列車にイスラム教徒が放火してヒンズー教徒59名が焼死したことに怒ったヒンズー教徒がイスラム教徒を襲って起きたと主張してきたところ、州政府は、列車「放火」の被疑者は多数拘束したというのに、イスラム教徒虐殺の被疑者は一人も拘束していない。本年1月、インド中央政府の調査団団長は、巡礼列車が燃えたのは中の乗客が料理をしていた火が燃え広がった可能性が高いことを示唆した(http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4180885.stm。1月18日アクセス)。つまりイスラム教徒は、この事件で終始一貫して被害者だった、ということになる。

 この米国政府の措置に怒ったヒンズー教徒の暴徒がグジャラート州内のペプシコーラの倉庫を襲って放火したり、ムンバイ等の米総領事館にデモをかけたりする騒ぎになっています。
 また、モディ氏が所属するBJPはもとよりですが、インドの中央政府も、米国政府の措置に遺憾の意を表し、再考を促しています。
 (以上、特に断っていない限りhttp://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A50269-2005Mar19?language=printerhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4360259.stm(どちらも3月21日アクセス)、及びhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4368501.stmhttp://www.atimes.com/atimes/South_Asia/GC22Df01.html(どちらも3月22日アクセス)による。)
 これでは米国から見て、国民会議派の新政府もヒンズー原理主義のBJPと同じ穴の狢だ、ということになりかねません。
 というより米国は、そのように新政府が反応する可能性は百も承知でビザ発給を拒否した、ということなのでしょう。

3 進行しているヒンズー原理主義化

 昨年の総選挙での敗戦直後から、BJP内では、BJPの指導者であり首相であったバジパイ(Atal Bihari Vajpayee)氏が、BJPのヒンズー原理主義を水で薄め、経済中心主義をとったことが敗北した原因だとする声が高まりました。
 しかもこの総選挙で、BJPは全般的にはふるわなかったものの、ケララ(Kerala)州やカルナタカ(Karnataka)州で議席を獲得し、初めてインド全体に足掛かりを持つ政党になったことも忘れてはなりません。
(以上、http://www.csmonitor.com/2004/0517/p07s01-wosc.html(2004年5月17日アクセス)による。)
 そしてグジャラート州のように、BJPが政権を握っている州では、生徒にヒンズー至上主義が叩き込まれるとともに、ヒットラーの業績を称える(一方でホロコーストへの言及が全くない)教科書が用いられている(アジアタイムス前掲及びCSモニター上掲)(注11)、という憂うべき状況です。

 (注11)もともと、BJPの母体である、ヒンズー至上主義団体のRSS(Rashtriya Swayamsevak Sangh。国家志願軍)には民族浄化を叫んだナチスを礼賛した「前科」がある(コラム#285)。

 米国ならずとも、インドのヒンズー原理主義化の動向には目が離せませんね。

(完)

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太田述正コラム#0355(2004.5.20)
<インドの政変(その2)>

 (前回のコラムの冒頭部分等での事実の誤りを訂正してホームページに再掲載してあります。)

当選者数に目を奪われず、得票率を見れば、このことは明らかです。
 まず、BJPが23.75%から21.48%へ2.27%得票率を減らしたことは事実ですが、国民会議派も28.3%から26.21%へ2.09%得票率を減らしています。
 また、BJPを中心とする与党連合の当選者総数は185名であり、国民会議派を中心とする野党連合の当選者総数217名を下回ったことは事実ですが、前者の総得票率は34.83%だったのに対し、後者の総得票率は34.59%であり、BJP連合が国民会議派連合を上回っています。
ここから分かるのは、今回の選挙ではBJPも国民会議派もどちらも有権者から厳しい評価を受けたこと、そして、実はBJP連合は国民会議派連合に勝利していたこと、にもかかわらず国民会議派連合がBJP連合を議席数で上回ったのは幸運であったこと、です。
 それでは、国民会議派政権に閣外協力することになった共産党左派(CPM=Communist Party of India (Marxist))を中心とする連合の当選者数61名という「躍進」(http://www.cpim.org/。5月19日アクセス)ぶりはどう考えたらいいのでしょうか。
 確かにこの61名中53名を占めるCPMとCPI(Comunist Party of India)の議席増だけで15名にのぼっていますが、得票率で見ると、6.88%から6.98%へとわずか0.1%の増加に過ぎません。ここにも幸運が働いているように見受けられます。(もっとも、BJP連合や国民会議派連合とは異なり、CPMやCPIは全選挙区で候補者を擁立したわけではないことに注意。)
(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3721217.stm(5月18日アクセス)に示唆を得た。しかし、この論説もまだ不徹底だと思う。なお、数字はhttp://www.indian-elections.com/resultsupdate/前掲による。)

3 影響

そこで、前回にご紹介した分析は前部忘れていただくこととして、この選挙結果の影響をどう考えればいいのでしょうか。
この選挙結果を受け、ムンバイ(ボンベイ)の証券取引所では、創設以来129年の歴史で最大幅の株価暴落があり(注5)、ルピーも公社債も下落しました(http://www.guardian.co.uk/india/story/0,12559,1218823,00.html。5月18日アクセス)。

 (注5)しかし、ソニア・ガンジー国民会議派党首が、首相には就任しない旨を表明してから株価はかなり戻している。これは、帰化外国人が首相に就任することに難色を示す声がBJP内等にあったことから、混乱要因が一つ減ったことを歓迎した動きと言える(http://www.guardian.co.uk/india/story/0,12559,1219605,00.html。5月19日アクセス)。

これは、これまでBJP連合政権が推進してきた経済の対内的対外的開放政策が転換されるのではないかという懸念、またこのこととも関連し、共産党連合の影響力が増大したことへの憂慮が原因です。
しかし、前者の懸念について言えば、前回触れたように、BJP連合政権の経済政策は、1992年に国民会議派のマンモハン・シン(Manmohan Singh。次期首相に目されている)蔵相が始めた経済政策を踏襲してきただけだと言ってもよく、次期国民会議派連合政権は、国有企業の民営化について、優良企業で雇用への影響が懸念される場合は差し控える、といったところでBJP連合政権と違いが出てくる可能性はあるものの、経済政策の基本が変化することはありえません(http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3725357.stm。5月19日アクセス)。
後者の憂慮についてはどうでしょうか。
確かに共産党連合の盟主CPMは、国有企業の民営化に慎重であり、経営者の労働者解雇権等の強化に反対しており、農業関税の引き揚げを主張しており、ストを禁じる一連の最高裁判決の無効を叫んでいます(http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3721945.stm。5月18日アクセス)。
しかしCPMは、西ベンガル州では1977年から、トリプラ州では2003年から州議会で多数を占め、それぞれの州を統治しており(http://www.cpim.org/前掲)、この西ベンガル州でのCPMの実績を見ると、歴代の指導者が清廉であり、農地改革を断行したあたりまではともかく、その後外資の積極的導入に努力してきたほか、ソフトウェア産業についてはストを禁止するという柔軟ぶりです(http://www.guardian.co.uk/india/story/0,12559,1217304,00.html(5月15日アクセス)及びhttp://www.nytimes.com/2004/05/16/international/asia/16beng.html(5月16日アクセス))。
つまり、CPMは共産主義を唱えてはいますが、現在の実態は社会民主主義政党であり、共産党連合が次期国民会議派連合政権の経済政策の足を引っ張る懼れもまずない、と言っていいでしょう。

(続く)

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太田述正コラム#0354(2004.5.19)
<インドの政変(その1)>

1 インド総選挙の結果

先般のインドの総選挙では、事前のあらゆる世論調査や評論家の予想を覆してBJPを中心とする与党連合が敗北し、国民会議派(Indian National Congress)を中心とする野党連合が勝利を収めました。
これにより、独立以来の57年間のうち45年間インドを統治してきたジャワハルラル・ネール(Jawaharlal Nehru)とインディラ・ガンジー(Indira Gandhi)の党、国民会議派が1996年以来、8年ぶりに政権の座につくことになりました(http://www.nytimes.com/2004/05/14/international/asia/14INDI.html及びhttp://news.ft.com/servlet/ContentServer?pagename=FT.com/StoryFT/FullStory&c=StoryFT&cid=1083180488394&p=1012571727102。5月14日アクセス)(注1)。

 (注1)国民会議派が他の党と連合を組んで選挙を戦ったのは初めて。

 当選者数を見ると、前回の1999年の総選挙ではBJPは180議席だったのに、今回は42議席減らして138議席、与党連合で見ても275議席が90議席減って185議席になってしまったのに対し、国民会議派は114議席が31議席増えて145議席となり、野党連合で見ると151議席から66議席増えて217議席になったのですから、BJPの地滑り的敗北、国民会議派の地滑り的勝利です(http://www.indian-elections.com/resultsupdate/。5月18日アクセス)(注2)。

 (注2)全議席数は543だが、うち4議席は投票時に不正行為が行われた疑惑があることから、まだ結果が確定していない。

2 分析

 そこで、大あわてで英米のマスコミはBJPの敗因分析をもっともらしく行っています。
 第一に指摘されているのは、BJPが(India Shining というコピーを用いて)宣伝これ努めた、このところの情報産業の隆盛に象徴されているインドの高度成長の恵沢が、貧困地帯である農村地帯や都市スラムにまでは十分及んでおらず、有権者の大部分を占める貧民の総スカンを食らった(注3)というのです。

 (注3)インドの10億5,000万人のうち、自転車も買えない「牛車生活」の人々(多くは文盲)が8割、スクーターやテレビのある「二輪車生活」をしている人々が15%であり、先進国並の、飛行機に乗り、レストランで食事をできる「ビジネスクラス」の人々は2%(それでも2,500万人もいる)に過ぎないhttp://news.ft.com/servlet/ContentServer?pagename=FT.com/StoryFT/FullStory&c=StoryFT&cid=1083180492974&p=1012571727102。5月14日アクセス)。
失業率も8%に達している。ただし、高度成長の結果、人々の期待水準が上昇していることも忘れてはなるまい。(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A28116-2004May14?language=printer。5月15日アクセス)

 しかも、米国などとは逆に、インドでは所得の低い人の方が投票率が高いため、この傾向が一層増幅された結果が出たというわけです。
 第二は、第一とも関連していますが、腐敗している政治家全般(コラム#286)に対する不信感から、インドの総選挙(及び同時期に実施される州議会選挙)ではいつも現役議員が大量に落選させられるところ、今回は落選率が一層高まった結果、議席数の多かったBJP連合(次のコラム参照)が割を食ったというのです。
 第三は、ヒンズー主義とアナクロニズムを象徴するBJPに代わって、世俗主義と近代性を象徴する国民会議派が選択されたというのです。
 ヒンズー、イスラム両教徒の衝突が頻繁に起こり、グジャラート州では1000名ものイスラム教徒が虐殺された(コラム#285)ことに人々は嫌気がさしていた、というわけです。
 特に有権者の14%を占め、その圧倒的多数が貧者であるイスラム教徒は、BJPの最近の「変身」(コラム#285)を信じず、BJPの有力対立候補にまとめて票を入れたと言われています。
 第四は、まさにこのBJPの最近の「変身」ぶりに、従来のBJP支持層のうちの過激派がそっぽを向いたというのです。
 第五は、このところのインドの高度成長は社会主義的経済からの転換の賜であるところ、この政策転換が行われたのは1992年、国民会議派政権によってであることを人々は良く知っている(注4)というのです。

 (注4)もっとも、現在のインドの貧困は、過去半世紀の大部分の期間インドを統治してきた国民会議派の責任であることも人々は良く知っている(http://www.nytimes.com/2004/05/15/international/asia/15indi.html。5月15日アクセス)。

 第六は、選挙戦術の話ですが、BJPの連合戦略に比べて、初めて連合戦略をとった国民会議派の連合の組み方が一枚上手だったというのです(http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/FE14Df05.html。5月14日アクセス)。
 (以上、特に断っていない限り、ファイナンシャルタイムス上掲のほか、(http://www.nytimes.com/2004/05/14/international/asia/14INDI.html(5月14日アクセス)による。)

 しかし私に言わせれば、以上の分析はことごとく誤りです。

(続く)

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太田述正コラム#0315(2004.4.10)
<新悪の枢軸:インド篇(その6)>

 (本篇は、形式的にはコラム#288の続きですが、実質的にはコラム#286の続きです。)

4 民主主義はインドの長所か

 (1)アマルティア・センの指摘
 統一後の中国は一党独裁制、他方独立後のインドは民主主義を採択したため、中国では飢饉(注1)が発生したがインドでは飢饉(注2)がなくなった、と指摘したのがノーベル経済学賞を非欧米人で初めて受賞したインド人アマルティア・センです(注3)。

 (注1)例えば、いわゆる大躍進政策が引き起こした1959??61年の大飢饉では、1000??4000万人の餓死者が出たと言われている(http://news.bbc.co.uk/1/shared/spl/hi/asia_pac/02/china_party_congress/china_ruling_party/key_people_events/html/great_leap_forward.stm。4月10日アクセス)
 (注2)例えば、独立前の第二次世界大戦中の1943年のベンガル大飢饉では、300万人の餓死者が出た。その原因は不作ではなく、食糧価格の高騰と農民の賃金の下落だった。こういったケースでは政府(当時は植民地政府)が公共事業を行い、貧しい農民に現金収入を与えることで飢饉を回避できたはずだ、とセンは言う。
 (注3)センが、ノーベル経済学賞を授与されたのは、この指摘とは全く関係のない、彼の厚生経済学上の業績に対してであったことに注意。センの指摘の詳細については、著書「貧困の克服―アジア発展の鍵は何か」(集英社新書2002年)参照。

 センに言わせると、民主主義の下では政府は、選挙で野党と競い合わなければならず、かつ世論の批判に晒されていることから、飢饉等の災害を回避する方策を講じる強いインセンティブを持つ、というのです。
 しかしセンは、肝心のインドで、「飢饉」が今でも見られるではないか、という批判を受けています。
 インドの10億の人々中約3億5000万人もが飢餓状態にあり、インドの子供達の半数は栄養失調状態であって、栄養失調に係る死者が年間400万人近くにも上っている、というのです。
 インド政府が余剰穀物を5000万トンも抱えているにもかかわらず・・。
 センは、民主主義の下では何万、何10万人規模で餓死者が出るような本来の意味での飢饉はなくなるけれど、栄養失調まで根絶できるとは限らない、と防戦に大わらわです。
 確かに、インドでは栄養失調に係る死こそ日常茶飯事ですが、本来の意味での飢饉は起こっていません。
 ではどうして栄養失調が根絶できないのでしょうか?
 インド政府が山のような穀物備蓄を抱えているのは、農業ロビーが穀物を高い価格で政府に買い上げさせてきたからですが、このため穀物価格が高止まり状態となっています。政府は、貧しい人々のために全国に配給所を設けているものの、配給網が弱体であることと腐敗が蔓延していることもあって、栄養失調の根絶までには至っていないのです。しかも、世銀等の批判を受けて、インド政府が貧しい家庭向けの食糧補助金制度を廃止したため、状況が更に悪化した、ということのようです。
 センに対するより根本的な批判はこうです。
インドの民主主義は栄養失調といった食糧問題だけでなく、文盲率の高さといった教育問題、幼児死亡率の高さといった医療問題、等の問題の解決にも成功していません(注4)。センには、民主主義が良い政府をもたらす場合もあれば、独立後のインドや現在のエチオピアのように悪い政府をもたらす場合もあることが分かっていないし、独裁制の下にあっても、現在の中共のように、飢饉はおろか、栄養失調をも根絶できる場合があることが分かっていない、というものです。

(注4)インドの医療費はGDPの1%以下と、世界最低の部類に属する。(米国では6%近い。)インドでは人口3000??5000人ごとに診療所が設けられているが、診療所の半分近くは無人状態であり、農村地帯では大部分の住民がガリガリに痩せて貧血症にかかっており、10人のうち3人は1??2km歩くことも井戸から水を汲み上げることもできないという健康状態にある(http://www.nytimes.com/2004/03/25/international/asia/25INDI.html。3月25日アクセス)。

(以上、特に断っていない限り、http://www.nytimes.com/2003/03/01/arts/01HUNG.html(3月1日アクセス)による。)

(2)良い政府と市場経済化こそ鍵
 中共の例からも明らかなように、飢餓(飢饉や栄養失調)の克服の鍵は民主主義化などではなく、良い政府を樹立し、市場経済化を推進することだと言えそうです。
 インドでも1990年代に入って市場経済化が進みましたが、BJP政権の人気取り政策ともあいまって、インドの栄養失調問題にも最近ようやく好転の兆しが出てきました。
 BJP政権は、自らが推進した規制緩和に伴い、農民が端境期に容易にローンを組めるようになり、農産品を扱う商品取引所が三つも生まれ、更に、農民が政府を介さずに農産品を直接売ることができるようになったことや、農村の道路網の整備に力を入れてきたおかげだ、とPRに努めています。
 もっとも野党の国民会議派等にかかると、好転の兆しが出てきたのは、三年続いた不作の後に昨年、良いモンスーンによって豊作になっただけのことだ、ということになります。
 そもそも、1960年代のいわゆる緑の革命によって、棚ぼた的にインドは食糧を十分自給自足できるようになっているのであって、飢餓克服のために残された課題は、穀物買い上げ等のための農業補助金を大幅に削減すること等規制緩和の徹底、及び農地改革を実施することで7割ものインド農家が3エーカー以下の農地しか持っていない状況、並びに大規模な灌漑施設建設を行うことでインドの可耕地の4割しか灌漑されていないという状況、を抜本的に改めること、でしょう。
(以上、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A18966-2004Mar23.html(3月24日アクセス)による。)
しかし、これまでインドについて申し上げてきたことを踏まえれば、期待するだけ野暮という気がしませんか。

(完)

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太田述正コラム#0288(2004.3.14)
<新悪の枢軸:インド篇(その5)>

茶飲み話2:クリケット

 イギリスが世界の旧植民地に残した遺産として、もっとも顕著なものの一つがクリケット競技です。
このたび、殆ど15年ぶりにパキスタンで本格的なインド・パキスタン対抗クリケット戦ツアーが5週間にわたって行われることになり、昨日パキスタンのカラチで、その最初の試合が実施されました。それだけでも画期的なことだったのですが、印パが分かれて独立してからというもの、未だかつてこれほど平穏な対抗クリケット戦が行われたことがなかったということが話題になっています。かつての対抗戦と言えば、双方のサポーターがエキサイトし、会場の内外で流血の惨事となることの方が普通だったというのに・・。
今回、インドからも200名の熱烈なクリケットファンが武装した護衛に守られてやってきましたが、彼らが夜こっそりカラチの街を散策しても全く何事も起こりませんでした。このインド人観客の中には故ラジブ・ガンジー・インド首相の長女のプリヤンカ・ガンジーさんも含まれていました。試合当日、驚くべきことに、インド国旗を体に巻きつけたり、インドチームのユニホームを着込んだりしたパキスタン人観客が現れました。インドチームのお気に入りの選手に声援を送るパキスタン人観客もいました。彼らは、今までなら周りの観客から袋叩きに会うところですが、やはり何事も起こりませんでした。試合はインドが勝ちました。
  (以上、http://sport.guardian.co.uk/cricket/theobserver/story/0,10541,1169187,00.html(3月14日アクセス)による。)

 2001年の12月13日に起こった、テロリストによるインド国会襲撃事件を契機に、どちらも核保有国である印パ両国がそれぞれ兵力の総動員をかけ、一触即発の状況になって以来、両国の緊張緩和のプロセスは遅々として進みませんでした(コラム#9、10、14)。
2002年10月に至って、ようやく両国は動員解除の姿勢を見せ始め(コラム#68-2)、2003年11月にカシミールでの砲撃の交換が互に停止されたあたりから本格的な緊張緩和が始まり、今年の1月には印パ両国の首脳が(カシミール問題を含む)平和交渉の開始に同意し(ガーディアン/オブザーバー前掲)、全く新しい両国関係が幕を開けたのです。
 しかし、クリケットの試合の様子を見る限り、両国政府間よりずっと以前に、両国の国民の間では友好感情が醸成されていたようです。
  
 それはこういうことではないでしょうか。
英国のカレッジでの同僚研修生だったパキスタン人(後にパキスタン空軍のトップになります)は、(イスラム教徒は酒を飲んではいけないはずですが、)めっぽうお酒が好きでしたし、今回のクリケット試合にパキスタン人で男女のペアで仲良く観戦に来ている人が多く、しかも女性にチェーンスモーカーが多いのをインド人観客が目にして、インドと同じじゃないか、とびっくりしたといいます((ガーディアン/オブザーバー前掲)。
そもそも、イスラムはインドに到来後、ヒンズー化したのであり(コラム#287)、インド亜大陸では、アラブ世界やイランのそれとは違って、イスラム教はよく言えばおおらか、悪く言えばルーズな宗教に変じてしまったのです。(東南アジアと事情が似ています。)
 そういうわけで、ムガール帝国時代においても、両教徒の間で先鋭的な対立関係があったわけではありませんでした。ところが、ムガール帝国に代わってインド亜大陸を統治した英国が、統治の永続化を目論み、両教徒間の反目を煽ったのです(コラム#14)。これがもたらしたのが、印パ分裂、相互殺戮の形での独立と3度におよぶ印パ戦争やカシミール紛争です。しかし、印パ両国民は、この英国によるインド亜大陸 統治の後遺症を、21世紀になってようやく克服しつつあるのではないでしょうか。

 そうなると、BJP/RSSの扇動によるところが大きいとは言え、このところのインド国内での反イスラム感情の高まりは、一体どう説明したらいいのでしょうか(注)。
 
(注)インドとパキスタンとバングラデシュのイスラム人口はほぼ同じであり、パキスタン1億4000万強、インド1億4000万弱、バングラデシュ1億2000万(The Military Balance, IISS, PP288,289)。

 インド亜大陸の懐は深く、その解明は、一筋縄ではいきそうもありませんね。

(続く)

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太田述正コラム#0287(2004.3.13)
<新悪の枢軸:インド篇(その4)>

 ここでちょっと休憩をしましょう。

茶飲み話1:インドの思い出

 (1)暑さ
 読者の中に、インドを訪れたことのある方はおられるでしょうか。
 私は1976年の6月末と1988年の9月から10月にかけての二回、インドを訪れています。
 一回目は二年間の米国留学を終え、日本に帰国する時に欧州経由で立ち寄り、ニューデリーで二泊したのですが、とにかく暑かったことを覚えています。
 空港について、プールのあるホテルを予約し、タクシーでホテルに着きました。(予約したホテルと違うホテルに強引に連れて行かれて面食らってしまいました。タクシーの運転手はこのホテルのフロントと示し合わせていたに違いありません。)
 喜びいさんで水着に着替えて、ホテルの屋外の目の前のプールに入ろうとガラス戸を開けたのはいいのですが、一歩外に出たとたん、猛烈な暑さに目がくらみ、立ちすくんでしまい、結局プールまで歩いて行く気力が失せてしまいました。
 翌日、同じホテルに宿泊していた新婚旅行中の英国人夫婦と一緒に一台のタクシーを借り切ってニューデリー観光に出かけたのですが、タクシーにクーラーが入っていないので、暑くてたまりません。
 こんな所によく人間が住んでいるものだ・・「生もまた苦である」という釈尊の言葉(http://www.j-theravada.net/howa/howa1.html。3月12日アクセス)の本来の意味が分かった(?!)、というのが私の率直な感想でした。
 二回目の1988年の訪問の時も、9月の後半だというのに、6月末の前回ほどではないとはいえ、やたら暑いことには変わりがありませんでした。
 工場見学に行った際に、空調などない作業工程を案内されてから、案内してくれた人に、「インド北部の内陸部では酷暑の季節が長く続くが、作業効率は落ちないのか」とたずねたところ、「落ちるに決っているさ」という答えが返ってきました。
 インド系の米国人は、米国の人種別所得統計によれば、一番所得が高いといいます(典拠失念)。むろん、インドから移民してきた人々はインドに残った人々に比べれば、進取の気性に富み、リスクを恐れない人々ではあるわけですが、本国のすさまじい貧しさとの間にギャップがありすぎます。
 その原因は、案外このインドの暑さにあるのではないか。インドの暑さが思考をマヒさせ、気力を萎えさせてしまうからではないか、という気がしています。
 インドは西ないし西北方面から幾たびとなく侵略者や征服者を迎えましたが、インドから外に向って侵略者や征服者を送り出したことが殆どありません。
 このこともインドの暑さで説明できる、と思いたくなってしまいます。

 (2)タージ・マハール
 1988年のインド訪問の際には、官庁、軍事基地、工場、農場訪問のほか、各地の「名所」を見学しました。
しかし、英国の国防省のカレッジの研修団の一員として行ったので、見学先の「名所」はもっぱら英国の観点から選ばれていました。
 ですから、ムガール帝国(イスラム)関係、大英帝国関係、そしてキリスト教関係(ザビエルの遺体を「展示」しているゴアのカトリック寺院やマザーテレサのカルカッタのホスピス(コラム#175参照))は見学しても、仏教関係はもとより、ヒンズー関係の見学もありませんでした。博物館訪問もゼロでした。(インド3週間、パキスタン1週間の全日程でしたが、パキスタンでは一箇所だけ博物館訪問がありました。ペシャワールの博物館です。これは仏教美術の展示で有名な博物館ですが、ご当地ガンダーラのいにしえの仏教美術はヘレニズム美術と言ってもよく、これまた「インド亜大陸」のいにしえの美術とは言いがたいおもむきがしました。)
 つまりは、いにしえのインドないし「本来の」インドは完全に無視されていたと言ってもいいでしょう。(BJPないしRSSから猛烈な抗議が来ても不思議でないような見学先リストだったわけです。)
 あまりにも見学先が偏っているような気がしたので、私は、ニューデリーでの自由時間に同僚研修生達に呼びかけて、有志で博物館とヒンズー教寺院見学を行ったり、カルカッタでも一人で博物館見学をしたりしました。しかし結論的に申し上げると、感興を呼ぶようなものは全くと言っていいほどありませんでした。
 何と言っても感動したのはタージ・マハールです。
 世界の数ある名所の中で、写真やTVで見たときよりもはるかに実物を見て感動したのはタージ・マハールくらいです。(例えば写真やTVでは、周辺に他の建造物が全くないため、タージ・マハールの巨大さが実感できません。)
 このインド建築の白眉は、イスラムの主導権の下にイスラムとヒンズーが融合して生まれた奇跡である、とその時痛感しました。
 この一点だけからも、私は心底、BJPないしRSSのヒンズー原理主義的主張はナンセンスだ、と思うのです。

(続く)

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太田述正コラム#0286(2004.3.12)
<新悪の枢軸:インド篇(その3)>

 そうではない、と思った方がよさそうです。
 ポイントは、BJPがまだインドの中央政治で地歩を固めきっていないところにあります。
 1999年の総選挙でBJPは引き続き第一党の地位を保ち、「勝利」しましたが、得た議席数は、総議席537中182議席に過ぎませんでした。
 BJPは極右政党から社会主義政党まで20以上の政党をかき集めて政権を維持していますが、この連立政権は議席数こそ合計で296を数えるものの、選挙の時の得票率で言うと、与党各党を全部合算しても42%にしかなりません。BJP政権は二重の意味で少数政権にほかならないのです。
(以上、http://www.indiamap.com/elections/、及びhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3382299.stm(いずれも3月12日アクセス)による。)
 ですから、BJPは当面は猫をかぶった状態でひたすら権力を維持し、その勢力の伸張を図る作戦なのかもしれないのです。権力を握り続けてさえおれば、教育省を通したヒンズー原理主義教育によって次第に国民の意識を変えていくことができ、いつかはインドをBJPの思い描くヒンズー国家に変貌させることができるからです。

 (2)選良ならぬ選悪による政治
もっとも、仮に今年の総選挙で、或いは次の総選挙で国民会議派または国民会議派を中心とする連立政権がBJPから政権を奪取したとしても、インドの将来への懸念が払拭されるわけではありません。
インドの民主主義が、とことん腐敗しているからであり、そんなインドが今や核保有国であるからです。
腐敗と言っても、どこかの国の政治の「腐敗」の度合いとは桁が違います。
1996年の調査では、四人の閣僚を含む39名の国会議員が、殺人、強姦、誘拐等の刑事事件の被疑者でした。また、前回の総選挙の時の候補者のうち500名を調べたところ、72名が刑事事件の被疑者でした。
州議会選挙ともなれば、状況はもっとひどく、おおむね候補者の20%が闇の世界の住人です。なぜ犯罪者が政治にかかわるかと言えば、彼らは政党にカネを出し、その見返りに司法当局からの追及を免れようとするからです。しかも、彼らの当選率は決して悪くありません。脅迫によって票集めをするから、ということもありますが、何よりも、選挙民は政治家と官僚はみんな腐敗した犯罪者であると考えており、プロの犯罪者に対する拒否反応など、全くと言っていいほど持ち合わせていないからです。
(以上、http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/FB28Df04.html(2月28日アクセス)による。)
映画俳優出身の政治家がやたら多いのもインドの特徴です(http://adaniel.tripod.com/parties.htm。3月12日アクセス)。
そもそも、大部分の選挙民は、候補者の個人的資質などどうでもよく、もっぱら宗教やカーストのしがらみで投票すると言われています(アジアタイムス前掲)。

(3)ネグレクトされっぱなしの初等教育
インドで宗教原理主義政党が政権を掌握したり、政治が腐敗し切ったりしているのは、インド国民の教育水準が低いためだと言ってもいいでしょうが、教育水準向上への取り組みは依然極めて不十分です。
これは、英国の植民地だった当時から引きずっている問題なのですが、BJP政権も、あいもかわらず、高等教育には力を入れても、初等教育はネグレクトする政策を続けています。
国連による2000年から2001年にかけての調査によれば、インドの初等教育においては、貧困のために5年次までに児童の半分が脱落しており、初等教育修了率は53%と東アジア及び南アジアの中で最低です。
(以上、http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/FC02Df03.html(3月2日アクセス)による。)
また、社会の男女差別構造を反映し、2001年の女子の就学率は男子児童の78%にすぎません(http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3357957.stm。2月15日アクセス)(注8)。

(注8)ちなみに、バングラデシュは103%でパキスタンは61%であり、元は一つの国であった
イスラム国でも随分違うことが分かる。(ついでに、5歳までの子供1000人当たりの死亡
率は、1990年にはインド123人、バングラデシュ144人、パキスタンは128人だったが、
2001年にはインド93人、バングラデシュ77人、パキスタンは109人となっている。)

(続く)

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太田述正コラム#0285(2004.3.11)
<新悪の枢軸:インド篇(その2)>

 (前号に書き忘れましたが、ホームページの掲示板でもお知らせしたように、私のホームページへの訪問者数が2月11日??3月10日は14,581人と、前の月に比べて一挙に5,000人以上増加しました。(なお、累計でも101,062人と、10万人を突破しました。)また、メーリングリストへの登録者数は、531名となっています。この輪を一層広げていただければ幸いです。)

3 インドの懸念材料

 しかし思うに、米国務省の懸念の根はもっと深そうです。

 (1)ヒンズー原理主義
 話は、インドでRSS(国家志願軍)なる団体が1924年に設立された時に遡ります。
 この団体は、ヒンズー教に則った国家の建設と防衛を掲げ、欧米の軍事団体やボーイスカウト団体、更にはファシスト団体にヒントを得て設立、運営されました。
 RSSの二代目の指導者Madhev Golwalkarは、1939年に、ドイツ民族と文化の純化を追求するナチスを賞賛し、これにインドも見習わなければならない、とする檄文を発表しています。
 1948年に、インドにおける世俗主義の象徴たるマハトマ・ガンジー(コラム#176参照)を暗殺したのは、このRSSの一会員です。このため、インド政府は翌1949までRSSの活動を禁止します。
 RSSは、二度と政治活動はしないとの誓約の下に活動再開を許されますが、このRSSによって1951年に設立されたのがJana Sangh political partyという政党であり、その後継が、インドの現在の政権政党であるBharatiya Janata Party (BJP)です。RSSとBJPの関係は、日本の創価学会と公明党との関係とほぼ同じだと考えればよく、BJPの幹部の大部分は現在200万人の会員数を誇るRSSの会員でもあります。
 (以上、http://www.searchlightmagazine.com/stories/012003_story02.htm(3月11日アクセス)及びhttp://www.time.com/time/asia/magazine/article/0,13673,501040126-579038,00.html(1月24日アクセス)による。)

 BJPはかつて、アヨディヤ(Ayodhya)のモスク(注4)を壊してその跡にヒンズー教寺院を建築することを選挙公約に掲げていましたが、1992年にはRSS会員達がこのモスクを勝手に取り壊す事件が起きてしまいました。

 (注4)このモスクは、ヒンズー教の主要神の一つであるラム(Ram)の聖なる生誕地に建てられた、とヒンズー主義者達は主張している。

 これ以降、ヒンズー教徒とイスラム教徒の反目感情が高まり、2002年にはグジャラート州で、ヒンズー教徒とイスラム教徒の衝突事件(注5)が起こり、1000名以上の死者(大部分がイスラム教徒)が出るという大惨事になったのですが、BJPが支配するグジャラート州政府当局は、イスラム教徒側を守るための適切な対応を怠り、みすみす事態の悪化を招きました。

 (注5)RSS会員達が乗った列車をイスラム教徒が襲って放火して58名の死者が出た(http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3478687.stm。2月13日アクセス)ことに怒ったヒンズー教徒がイスラム教徒を襲って何日間にもわたって虐殺を続けた事件。

 また、中央政府のBJP党員たる教育相は、ヒンズー教的修正史観によるインド史教育(注6)や天文学等の「ヒンズー科学」研究を推進しています(パキスタンリンク上掲及びhttp://www.cceia.org/page.php/prmID/170(3月11日アクセス))。

 (注6)(信ずる宗教を問わず、)すべてのインド国民に対し、ヒンズー文化とインド文化は同義であること、ヒンズー教とは何か、ヒンズー文化とは何か、インド史においてヒンズー教が果たした役割、更には、ヒンズー教反対勢力としてのイスラム教とパキスタン、について教育しなければならないとする。

 このようなBJPのこれまでの軌跡を見る限り、BJPはインドの古来よりの多様性(diversity)の文化(2月13日アクセスBBC前掲)(注7)ないしは折衷主義(eclecticism)の文化を破壊し、ヒンズー中心のインドを作り出すという、ヒンズー原理主義政党であり、RSSの政治部そのものだ、と断じざるをえません。

 (注7)アヨディヤのモスクのあった場所はヒンズー教の聖地でもあったが、ラジャスタン州のアシンド(Asind)におけるように、ヒンズー教寺院の横の壁がモスクとして使われていたケースもあった。ところが後者でも、最近のイスラム教徒との反目によりヒンズー教徒によって壁が取り壊されてしまった。しかし、同じラジャスタン州の中で、アシンドから車で二時間ほどしか離れていないアジュメル(Ajmer)にある、イスラム教の聖人を祭る社(やしろ)のように、現在もなお、イスラム、ヒンズー、シーク、キリスト、パルシー、ジャイナのそれぞれの教徒達が一緒に礼拝をしている所もある。インドの多様性、折衷主義はまだ死滅してはいない。

 そのBJPが、今年の総選挙をひかえ、イメチェン作戦に大童です。
 BJP党首のバジパイ首相が今年の2月、パキスタンとの和解、経済の一層の成長を通じた(イスラム教徒を含む)貧困の撲滅を掲げて、インドの1億3千万人のイスラム教徒にBJPを支持するように訴えたのです。
 時あたかも、国民会議派のイスラム教徒の一人の議員がBJPへの入党を表明し、インドの人々をびっくりさせました。
 その結果、イスラム教徒の有権者の中から、国民会議派からBJPに支持政党を切り替える人が結構多数現れています。
(以上、全般的にはhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3485410.stm(2月26日アクセス)、http://www.pakistanlink.com/Editorial/03082002.html(1月23日アクセス)及びタイム誌前掲による。)

 ついにBJPは、国民会議派のような世俗主義政党に脱皮したのでしょうか。

(続く)

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太田述正コラム#0284(2004.3.10)
<新悪の枢軸:インド篇(その1)>

1 インドの可能性

 インドは、冷戦の終焉を契機に、初代首相のネールが採択したイギリス直輸入のフェビアン流社会主義の体制(注1)から、(政権政党が国民会議派からヒンズー教政党であるBJPに変わったこともあって、)自由・開放体制へと大きく舵を切りました。

 (注1)ネールについては、改めてコラムで取り上げたい。

 おかげで、インドでは次第に経済成長率が加速してきました。インドは1993年以来、年6%の経済成長率を達成し、2003年の経済成長率も7%を超えると見込まれています。
 このような背景の下で、2億5千万から3億人とも言われるインドの中産階級に、高度消費社会が訪れつつあります。例えば、インドの最初のショッピングモールはやっと1999年に一箇所目ができ、2000年にはもう一箇所増えただけでしたが、その後急速に増え、今年の終わりには約150箇所に達すると見込まれています。また、遅ればせながらインドの子供達の間でも爆発的なポケモンブームが巻き起こっています。
インド人の多くは英語ができるので、米国等のコールセンターがインドに次々に設置される等、インドは中国等が真似のできない比較優位性を持つほか、インドの高等教育は充実しており、IT等の技術者を毎年大量に生み出しています。これに加えてインドは民主主義国であり、この点でも中国やイスラム諸国(の大部分)のような非民主主義国に比べて政府や社会により透明性があります。
こういったことから、これまでのところは中国に遅れをとった(注2)けれど、インド経済の本格的「離陸」は近いと見る人が少なくありません。
(以上、http://www.nytimes.com/2003/10/20/international/asia/20INDI.html(2003年10月20日アクセス)、http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3357957.stm(2月15日アクセス)、及びhttp://www.atimes.com/atimes/South_Asia/FB25Df01.html(ポケモン。2月25日アクセス)、http://www.cbsnews.com/stories/2003/12/23/60minutes/main590004.shtmlCBSNEWS.COM(コールセンター。但し、1月11日付記事 'Out Of India')による。)

 (注2)中国の人口は13億人、GDPは1兆3,000億ドル、一人当たりGDPは970ドル。これに対し、
インドの人口は10億4,000万人、GDPは5050億ドル、一人当たりGDPは486ドル。計数は2002
年。(The Military Balance 2003/2004,IISS, PP288,298)

2 インドを「敵視」する米国務省

米国防総省は、このような認識に立ち、インドのかつてのソ連(ロシア)寄りの外交・軍事姿勢(注3)が改められたこともあり、中国の牽制及び対テロ戦を念頭に置いて、核保有国であるインドに積極的に武器の売込みを図る等、インドと密接な軍事提携関係を確立しようとしています。

(注3)インドの三軍の武器のソ連(ロシア)依存率(ライセンス生産しているものを含む)は、依然70-85%にもなる(http://www.saag.org/papers5/paper450.html。3月11日アクセス)。

ところが、この動きに対して強い懸念を抱いているのが米国務省であり、この国務省のスタンスを米議会の議員の過半が支持しています。
インドは核拡散防止への取り組みが弱いし、カシミール問題等を抱える紛争当事国である、というのが表向きの理由です。そして国務省は、ことあるごとに武器輸出認可権という伝家の宝刀を抜いては国防総省を牽制しているようです。
(以上、http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/FA22Df04.html(1月22日アクセス)による。)
パウエル米国務長官が、昨年暮れに、インドをロシア、中国及び北朝鮮と並んで潜在敵国視したかのような論考を発表した(コラム#224)のは、米国務省の事務方、ひいては米議会の意向を代弁してアドバルーンをあげた、と解することができそうです。

(続く)

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太田述正コラム#0176(2003.10.24)
<マハトマ・ガンジー>

 (前回のコラム#175に注3を加え、かつミスプリ等を直したものをホームページ(http://www.ohtan.net)の時事コラム欄に再掲載してあります。ご参照ください。ただし、E-Magazineからコラムの配信を受けている方は、E-Magazine側の理由で旧コラムが届いていなかったため、修正後のコラムがお手元に届いています。)

 マザーテレサは18歳の時にインドにわたり、そこで生涯を終えた帰化インド人ですが、現代インドのもう一人の「聖人」といえば、マハトマ・ガンジー(1869-1948年)をおいてないでしょう。(ガンジーのエピソードをコラム#26で紹介したことがあります。)
 20年間(1893-1912年)にわたって弁護士として滞在した当時の英領南アフリカで、ガンジーは英領インドから南アフリカにわたった人々(イスラム教徒の商人が多かった)に対する白人による差別と戦い、多大の成果をあげました。そしてインド亜大陸に戻ってからは、インド亜大陸の英国支配からの解放運動を、南アフリカ時代に培った非暴力主義的手段によって行い、英国を追いつめていきました。

 ところが奇妙なことに、ガンジーについてのどの伝記(最も簡にして要を得ているのはhttp://www.mkgandhi.org/bio5000/bio5index.htm。年代等はこの伝記によった)を読んでも、その長期にわたった南ア時代の記述の中に、現地で人口の圧倒的多数を占めていたはずの黒人が登場しません。
 そもそも、ガンジーの南アフリカ時代の写真には一人も黒人が写っていないといいます。明らかにガンジーは黒人を避けていたのです。
 なぜか?
南アで牢獄に入れられた時のことについて、ガンジーは「同囚の黒人達は、動物とさして違わない。彼らは常に言い争い、喧嘩をしている。」と書き記していますし、1896年のボンベイでの集会で、彼は「ヨーロッパ人達は、南アの粗野なくろんぼ(raw kaffir)・・狩りを渡世とし、唯一の夢と言えば牛を何頭か手に入れて花嫁を買うことで、それさえ果たせば後は怠惰に裸で一生を送る・・並のレベルにまでインドの人々を引き下げることを意図している。」と述べています。
そうです。ガンジーは黒人(=アフリカの原住民)に対する偏見に凝り固まった人間だったのです。ガンジーが後に、この若かりし頃の偏見を恥じて自己批判をした、という形跡はありません。
 (以上、http://www.guardian.co.uk/southafrica/story/0,13262,1065018,00.html(10月17日アクセス)による。)
 私は、当時のガンジーが大英帝国の一臣民としての自覚を持ち、当時の平均的イギリス人・・おしなべて黒人に対する差別意識を持つ・・の視点から黒人を見ていただけだと思います。
 (英領インド帝国では、英領香港植民地同様、原住民に参政権こそありませんでしたが、「基本的に」イギリス人とともに原住民は法の下の平等を享受していました。ですから、ガンジーが自分を含むインド亜大陸原住民を、イギリス人と同等の存在だと「錯覚」していたのももっともです。)
 ガンジーが大英帝国の一臣民としての自覚を持っていたことは、南ア時代にボーア戦争やズールー族の反乱に際して、英国政府サイドを積極的に支援したことが雄弁に物語っています(前掲のガンジー伝記)。

 そもそもガンジーの「思想」は、ことごとくイギリス人・・それも反産業主義的偏向を持った特異な人々(イギリスの反産業主義については、コラム#81参照)・・の影響を受けて形成されたパッチワークです。
 彼がロンドンで弁護士教育を受けていた時(1888-93年)には、菜食主義はソールトの著書に、キリスト教は友人に、インドの古典バガバッド・ギータと仏教はそれぞれエドウィン・アーノルドの英訳本と著書に、そしてイスラム教はカーライルの著書に学びました。
とりわけ重要なのは、バガバッド・ギータ(の英訳本)がガンジーの禁欲主義と非所有主義を形成し、1904年に読んだラスキンの著書がガンジーの肉体労働至上主義と平等主義を形成した(前掲のガンジー伝記)、ということです。
 ここに、マハトマ・ガンジーという、平均的イギリス人の偏見を身につけつつも、同時に個性が強い色黒のイギリス人もどきの人物が誕生したのです。

「個性が強い」人ばかりなのが個人主義社会たるイギリスの真骨頂であり、彼がイギリス人であれば何の問題もなかったでしょう。
しかし、「個性」と「個性」がぶつかりあって打ち消し合うイギリス本国とは異なり、ガンジーの特異な反産業主義的「思想」は、これがインド亜大陸の英国からの解放をもたらしたとの誤った認識とあいまって、これとぶつかりあい打ち消し合う「思想」がないまま、インド亜大陸の原住民達・・とりわけ後のインドの原住民達・・に「普及」し、一種の自然発生的な国家イデオロギーと化してしまうのです。
これが、独立後のインドに大きな悲劇をもたらします。
 その悲劇とは、世界最大の民主主義国インドの貧困と停滞です。

 ジョージ・オーウェルが、ガンジーを批判したエッセーの中で、「すべての聖人は、無罪の証明がなされるまでは、有罪の推定を受けるべきだ」と喝破した(http://slate.msn.com/id/2090083/。10月21日アクセス)のは、(残念ながら私はこのエッセーは読んでいませんが、)さすがだなと思いませんか。

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太田述正コラム#0175(2003.10.23)
<マザー・テレサ>

(コラム#173に二つの注を付け加えてホームページ(http:/www.ohtan.net)の時事コラム欄に再掲載してあります。ご参照ください。)

1 始めに

米国のメディアでは法王ヨハネ・パウロ二世(の就任25周年)に対して中立的な論調が多い、とコラム#172で述べたところですが、マザーテレサ(注1)(のbeatification=列福=福者位授与)に対しては、米国の著名なコラムニスト、クリストファー・ヒッチェンスが過激な批判を展開しています。

(注1)1910年に現在のマケドニア領内のスコピエでアルバニア人の両親のもとに生まれる。18歳の時にインドにわたり、1979年ノーベル平和賞を受賞。1997年死去。インドで国葬が執り行われた。(マザー(mother)とは本来女子修道院長という意味だが、称号と考えればよい。ちなみにシスター(sister)は女子修道士。(太田))(http://www.vatican.va/news_services/liturgy/saints/ns_lit_doc_20031019_madre-teresa_en.html。10月22日アクセス)

ヨハネ・パウロ二世がソ連の「占領」下にあったポーランド出身の法王として、ポーランド等の「解放」に尽力したことに対し、ソ連を降伏させ、解体に追い込んだレーガン大統領への英サッチャー首相等と並ぶ「協力者」として評価する人が米国内に多いことや、米国のカトリック勢力が英国に比べて強大(例えばケネディ大統領はカトリックでした)であることから、米国のメディアには法王やカトリックに対する遠慮があると思われるのですが、アングロサクソンたる米国人のヒッチェンスが抱いている反カトリック感情が、マザーテレサレベルのカトリック教徒批判に藉口して噴出したということなのでしょうか。(マザーテレサ批判は、彼女を性急に福者に列し、更には聖者に列しようとしている現法王に対する批判に直結します。)あるいはまた、チャリティー大国の市民としての自負から、マザーテレサばりの「チャリティー」のうさんくささにはどうしても一言もの申したくなったということなのでしょうか。

1988年に英国の国防省の大学校に留学していた私は、この大学校の一ヶ月にわたる秋の海外研修旅行に参加します。同期生総数約80名中我々10名はインドとパキスタンを訪問することになったのですが、この旅行の最終目的地はインドのカルカッタ(最近、名前がコルカッタ(Kolkatta)に変わったが、便宜上昔の呼称を使う)でした。
当時のカルカッタはすさまじいところでした。路上生活者が町中にあふれており、カルカッタ全体がスラムに見え、宿泊した五つ星の高級ホテルの部屋の中まで生ゴミの饐えたにおいがたちこめていました。
そのカルカッタで、マザーテレサの「ホスピス」を訪問し、マザーテレサご本人と懇談をする機会がありました。小柄な世界の有名人と握手ができてただただ感激したものです。
当時私は39歳でしたが、何とまあナイーブだったことでしょう。

2 マザーテレサ批判

それではヒッチェンスのマザーテレサ糾弾ぶりを、本人が執筆したコラム(http://slate.msn.com/id/2090083/(10月21日アクセス))を要約してご紹介しましょう。

第一にマザーテレサは、堕胎と避妊を批判するにとどまらず、堕胎と避妊は世界平和に対する最大の脅威だと主張した。
第二に彼女は、離婚を批判するにとどまらず、離婚と再婚の禁止を憲法に規定すべきだという過激な主張をした。アイルランドは、この主張に従って憲法改正を試みたが、1996年の国民投票の結果、僅差で実現に至らなかった。(ちなみに、アイルランドでは堕胎は憲法で禁止されている(太田)。)
第三に、以上の主張の論理的帰結として、彼女は世界の女性の解放、ひいては世界の人々の貧困からの解放を妨げた。そもそも、貧困に由来する苦しみは神からの恩寵だというのが彼女の持論であり、彼女は断じて貧者の友などではなく、貧困の友だったのだ。
第四に、以上の主張を貧者には一律に押しつける一方で、富者には例外を認めた。つまり彼女は富者の友だったのだ。例えば、ダイアナ妃の離婚を彼女は非難するどころか嘉したし、ハイチの暴虐な独裁者であるデュバリエから多額の寄付をもらうや、彼の統治を褒め称えたものだ。
第五に、彼女は自分に甘く他人に厳しかった。彼女は病に伏す路上生活者を、補修を碌にしない廃屋のような自分の「ホスピス」に連れてきては何の治療も施さずにその死をみとることだけに徹したものだが、自分自身が病気になるとすぐにカリフォルニアの病院に駆け込んだ。また、世界中からデュバリエからのような汚れたカネも含め、山のような寄付を集めつつ、一度もその使途を公開することなく、いつしか世界の123カ国に彼女の創設したMissionaries of Charity等の慈善団体の施設を610カ所(4000人近くの人々が働く。以上の数字等は前掲のバチカンのサイトによる)も開設(注2)し、慎み深さや謙譲さとはおよそ縁遠い彼女の本性を暴露した。

(注2)もっとも、Missionaries of Charityが、ハンセン氏病患者や孤児の面倒もみていること(http://edition.cnn.com/2003/WORLD/europe/10/17/vatican.teresa/index.html。10月17日アクセス)、及びMissionaries of Charityで働いている女性達の中にはカトリック信徒だけでなく、他のキリスト教信徒や他の宗教の信徒もいること(http://www.nytimes.com/2003/10/20/international/asia/20CALC.html。10月20日アクセス)は忘れてはなるまい。

先だって行われたこのマザーテレサの列福式(於バチカン)には、30万人の群衆のほか、(彼女の「出身」をめぐって争っている(太田))マケドニアとアルバニアのそれぞれの大統領、そしてフランスの首相が列席しました(http://www.guardian.co.uk/pope/story/0,12272,1066691,00.html。10月20日アクセス)(注3)。

(注3)フランス大統領夫人もフランス首相夫妻と一緒にこの列福式に列席したが、彼らは40人余りのお供を引き連れて仏空軍機二機でローマに乗り込み、無料で泊まれるフランス政府施設ではなく高級ホテルに宿泊し、ホテル代だけで10万ユーロ(約1300万円)も散財した、しかもフランス人でもない人物の列福式に列席すること自体がフランスが堅持する政教分離の原則に反する、との批判を浴びたhttp://www.asahi.com/international/update/1023/003.html。10月23日アクセス)。

 人間を評価することのむつかしさを考えさせられますね。

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太田述正コラム#0068-2(2002.10.19)
<印パの緊張緩和>

 10月16日にインドが、パキスタンとの国境に終結させていた75万人に及び陸軍兵力の一部を撤退させると発表したところ、その翌日にパキスタンもこのインドの動きに対応する措置をとると発表しました。
 両国間の緊張が今年5月に最高潮に達した後、インドは海軍をアラビア海の前線から退け、しばらくたってから、パキスタンの航空機のインド領空飛行禁止も解除していましたが、今回、ようやく本格的な緊張緩和への動きが出てきたわけです。(http://newssearch.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/2335599.stm。10月18日ア
クセス)
 双方とも、最前線の兵士の志気が維持できなくなってきており、また、経費の負担にも耐えられなくなってきていたのですが、直接のきっかけになったのは、インドではカシミール州議会の選挙が行われ、また、パキスタンでは総選挙が行われ、それぞれ、印パの政権にとってまあまあ満足の行く結果に終わったことでしょう(http://newssearch.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/2336963.stm。10月18日アクセス)。(前者では、カシミール自治派が躍進し、過激派の選挙ボイコット戦術の限界が露呈しましたし、後者では、ムシャラフ大統領の与党が過半数はとれませんでしたが第一党となり、またイスラム諸派が予想外に健闘したとは言っても、イスラム法の厳格な適用など考えていない旨の声明を選挙後に出したこと等から、必ずしも過激派ではないことが明らかになったからです(http://newssearch.bbc.co.uk/2/hi/business/2334535.stm。10月18日アクセス)。)
 
 もっとも、本コラムを前から読んでおられる読者は、私が今年の初め(コラム#9参照)の時点で、印パが本気で事を構える気などないと断言したことを覚えておられると思います。
 つまりは、今回の動きは、それぞれの国内消費向けのポーズだけの大動員を、事実上両国が示し合わせて部分的に解除する時期がようやくやってきたということに過ぎません。
 しかし、大動員は、核保有国たる両国の間での偶発戦争勃発の危険性を伴っていただけに、これがいいニュースであることは確かです。

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太田述正コラム#0014
印パのにらみあい(その3)

 そもそも、なにゆえ、我々は印パの動向に重大な関心を寄せるべきなのでしょうか。
 その第一の理由は、印パ両国とも親日国であるからです。
 私はかつて、「・・<1988年に>インドを訪問したとき、戦争中日本の指導、協力のもとにインド独立を目指して戦ったインド国民軍やその最高指揮官だったチャンドラ・ボースが高い評価を受けていることを知って深い感銘を覚えた。ニューデリーのレッドフォート(17世紀に建造された城砦)の音と光のショーのクライマックスは、大戦後そこで開かれた旧インド国民軍将校の反逆罪裁判(独立を希求するインド人民の激高の前に、全員無罪となる)であったし、カルカッタのビクトリア(女王)記念館内のインド独立革命の志士達を顕彰する部屋の主役は、(地元出身ということもあるが、)ガンジーやネールではなく、チャンドラ・ボースだった。・・」(自衛隊向けの週刊新聞「朝雲」平成4.8.2 掲載)と書いたことがあります。インド人やパキスタン人は、印パの独立、就中第二次世界大戦が終わってからわずか二年という時点での早期の独立は、決してガンジー、ネールばりの非暴力主義的運動だけでは成就しなかったと考えているのではないでしょうか。
 だからこそ、インドもパキスタンも日本に敬意と親近感を持っているのです。

 第二の理由は、英国からの分離独立後の半世紀にわたる印パの対立について、日本にも一半の責任があるからです。
 第二次世界大戦が勃発し、ナチスドイツと本国で戦う一方で、アジアでの日本軍や上記のインド国民軍の進撃に直面し、恐れおののいた英国は、ガンジーやネールを指導者とする国民会議派が独立の約束なくして宗主国英国への戦争協力なしとの方針を堅持していたことに業をにやし、積極的にヒンドゥー教徒とイスラム教徒の反目をあおりたて、ヒンドゥー教徒中心の国民会議派の勢力を削ごうと画策しました。その結果、1940年の時点までは、国民会議派同様、インドの分離独立に反対していたイスラム教徒のムスリム同盟の指導者ジンナーが、やむなく分離独立賛成に転じたという経緯があります。
http://newssearch.bbc.co.uk/hi/english/world/south_asia/newsid_1751000/1751044.stm
 この結果、余りにも準備不足のまま、印パの分離独立がなしとげられ、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間等で相互殺戮が起こって100万名もの犠牲者が出、しかも藩主がヒンドゥー教徒で人口の多くはイスラム教徒であったカシミールで印パどちらに帰属するか紛争が生じ、爾後印パ両国は厳しく対立し、三度も戦火を交えて現在に至っているのです。

 第三の理由は、印パ両国(その後バングラデシュがパキスタンから分離独立した)が、東シナ海を介して中国・・法の支配も民主主義も未成熟・・と対峙する日本から見て対蹠的な位置にある、中国と国境を接する大国だからです。
 インドやパキスタンが中国の勢力圏に入ったり、インドが中国と軍事紛争を起こしたりすることは、間接的に日本にも大きなマイナスの影響を及ぼすので、回避する必要があります。印パ間の軍事紛争も同様です。中国が南アジアでもキャスティングボードを握りかねないからです。
 インド海軍は、外洋海軍への脱皮を図りつつあり、そのインドは日本の生命線たる中東等とのシーレーンの途中に鎮座する大国であることも忘れてはならないでしょう。

 第四の理由は、印パ及びバングラデシュを合算すれば、既に中国の人口12億を上回っていますが、近い将来はインド一カ国だけで中国の人口を上回る見込みだという点に関連します。そのインドは現時点では中国に遅れをとってはいますが、高度成長をとげつつあります。しかも、インドには法の支配と民主主義が定着しており、インド経済の将来は中国よりもはるかに可能性があると私は見ています。(私の中国論については、いずれご披露するつもりです。)
 欧米より近いところにこのように国のあり方が共通で、経済的ポテンシャルのある国があるのですから、日本はもっと本腰を入れてインドに接近する必要があると思うのです。

(備考)前々回のコラム(#12)で、冒頭の行の「地元山形県の現地」を削除してください。また、前回のコラム(#13)中の「ベビー・シッター」は「ホーム・ヘルパー」に置き換えてください。

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太田述正コラム#0010
印パのにらみあい(その2) 

 ところで、私自身は、当初から印パが本格的な軍事衝突に至る可能性は殆どないと見ていました。その理由は沢山ありますが、その最大の理由の一つがパキスタンのムシャラフ大統領の存在です。

 ムシャラフは1943年にデリーに生まれます。彼が両親とともにパキスタンのカラチに移住するのは、印パがイギリスから独立すると同時に分かれた1949年ですから、彼は印パ両国が同じイギリス領インドであった時代の記憶がある最後の世代に属します。私は、かねてより、彼が、インドとの旧同胞意識に立って和解を行いうるのは自分しかないという使命感を抱いていると推察しています。
 それに加えて父はパキスタン政府の外交官、母は国際労働機関(ILO)勤務という国際色豊かな家庭に育ち、また、6歳頃から13歳頃までの7年間を父の赴任先であったトルコ(イスラム教国だが徹底的な世俗主義の国)で過ごしたことから、彼は、欧米的な国際常識を身につけており、腐敗やイスラム原理主義、あるいは排外的ナショナリズムに対し厳しい見方をしていると考えられます。
 彼のこの国際常識は、彼の准将時代の旧宗主国たるイギリスの国防大学校(Royal College of Defence Studies)への一年間の留学で磨きをかけられます。(私も1988年に同じ大学校に留学しており、ムシャラフとは同窓生ということになります。私の同期生のアッバース・ハタクは後にパキスタンの空軍参謀総長になりました。現在は退役していますが・・。)
 そして、当然のことながら、彼が軍人であることを忘れてはなりません。パキスタン軍とインド軍は、旧イギリス領インド軍のうり二つの後継組織であり、イギリス流の近代主義・合理主義の権化です。特にパキスタンでは、軍に優秀な人材が集まり、国政全般ににらみをきかせてきた伝統があります。ムシャラフは、このパキスタン軍によって育まれた軍エリートなのです。
 (以上の事実関係は、 http://www.pak.gov.pk/public/chief/ce_profile.htm による。)

 この背景を頭の中に入れた上で、ムシャラフの最近の言動を追ってみましょう。
 まず、1999年のカシミールのカーギル紛争でパキスタン軍が休戦ラインを越えて作戦を展開し、印パ間で全面戦争の危険が生じた時に、彼が陸軍参謀総長兼統合参謀会議議長であったことをどう考えるかです。これは、腐敗しきったシャリフ政権に既に見切りをつけていたムシャラフが、カシミール解放を錦の御旗とするパキスタン国民内、とりわけ軍部内での彼の信望を盤石なものとすべく、不本意ながらシャリフ首相の命令に従って軍を運用したものと解すべきでしょう。米国等の圧力にシャリフがひるみ、なすところなくパキスタンが兵を引いた後、軍部内の不穏な動きに先手をとってシャリフがムシャラフ解任を試みたとき、満を持していたムシャラフは、逆にクーデターを起こしてシャリフ政権を葬り去ります。
 権力を握ったムシャラフは、近代トルコの祖、ケマル・アタチュルクを褒め称える発言を繰り返し、イスラム原理主義に傾斜しつつあったパキスタンの軌道修正を図る意志を暗に明らかにします。もっとも、かかる発言を続けることの危険性を察知した彼は、しばらくするとこの種発言を差し控えます。
 昨年9月の同時多発テロの生起はムシャラフに千載一遇の機会を与えました。彼は、本来穏健な国家を人質に取る手口のテロリストの活動を激しく非難します。これは直接的にはアフガニスタンとオサマ・ビン・ラディン一派のことを言っているのですが、暗にパキスタンとの関係でパキスタン内外でのテロリストの活動を非難したものです。
 そして、12月のインド国会襲撃事件では、これを聞いて激怒したと伝えられています。
(権力奪取直後、同時多発テロ発生時、そしてインド国会襲撃事件時のムシャラフ発言はhttp://www.guardian.co.uk/kashmir/Story/0,2763,626986,00.html による。)

 百戦錬磨のインドのバジパイ首相は、以上のようなことは百も承知でしょう。
 そこで、同首相は、SAARCの機会を利用し、積極的にムシャラフ大統領に歩み寄り、「激励」したのだと私は見ているのです。(続く)

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時事コラム

2002年1月9日 
太田述正コラム#0009
印パのにらみあい(その1) 

昨年の12月13日に起こった、テロリストによるインド国会襲撃事件を契機に、印パ両国が一触即発の状況になっています。ところが、日本の政府やマスコミの関心は今ひとつです。
 印パ両国の抱える最大の問題はカシミール問題であり、この古くて新しい問題をめぐって核兵器を保有する印パ両国が総動員をかけて国境地帯に兵力を集中しているというのに、昨年9月の同時多発テロとその後のアフガン情勢に係る政府の対応ぶりやマスコミ報道のフィーバーぶり・・印パはアフガニスタンのすぐ隣です・・と比べて落差が大きすぎるのではないでしょうか。
 これは、同時多発テロ事案は米国がらみの事案であるのに対し、印パ事案は一見そうではないということによるわけで、米国の「保護国」である日本の政府やマスコミの態度としては当然のことなのかもしれませんが、私のように、日本の「自立」を目指す立場からすると、歯がゆい限りです。
 その中で、高く評価されるのが読売新聞のトクダネです。
「インドとパキスタンの両国首脳が4日、ネパール国王主催の晩餐(ばんさん)会の前に接触、非公式に会談していたことが分かった。ネパール政府筋が本紙に明らかにした。印パ両政府はこの事実を確認していないが、緊張緩和に向けた一歩となる可能性もある。  ネパール政府筋の目撃談によると、両首脳の接触は4日夜、カトマンズの王宮内で開催された晩餐会前のお茶会の席であった。南アジア地域協力連合(SAARC)首脳会議に出席する7か国の首脳夫妻が晩餐会場とは別の一室で雑談していたところ、インドのバジパイ首相がパキスタンのムシャラフ大統領に歩み寄った。大統領の左腕に触れて人の輪を離れ、柱の影に連れていった。2人だけの会話は数分間続いたとみられる。会話の内容は不明だが、同政府筋によると、両首脳に笑顔はなかったものの、深刻な雰囲気でもなく、「年長のバジパイ首相がムシャラフ大統領をリードする感じ」だったという。・・」
http://www.yomiuri.co.jp/05/20020105i202.htm。)
 という記事が配信されたのが日本時間で5日の10時45分。同じ頃の英米のメディアが、SAARC席上での両国首脳の会談の実現はなかろうと報道していた中での快挙です。事実だとすれば、印パ両国の本格的な軍事衝突の可能性はなくなったと見てよいことになります。
 興味深いのは、その後の他メディアの対応ぶりです。日本の朝日や日経がこの記事を無視しましたのは分かるような気がしますが、ニューヨークタイムズ、ワシントンポスト、CNN、ガーディアン、ファイナンシャルタイムズ、BBCなど、印パ問題に重大な関心を寄せていた英米の主要メディアがすべて黙殺し、両首脳の会談は行われないだろうとの報道を続けたのです。読売がこの記事を英文でも配信していたかどうかはつまびらかにしませんが、日本のメディアが世界の中でいかに無視されているかがよく分かります。
 不安にかられた読売は、その日の深夜の午前1時38分、いささか自信なげな記事で後追い報道をします。「・・パキスタン側からは、両首脳が極秘会談したとの情報も流れるなど、水面下では対立の激化の回避に向けた動きが続いている模様だ。」
http://www.yomiuri.co.jp/05/20020105i414.htm
 この時点でも、読売以外の前期各メディアは黙殺を続けていました。
 読売の記事の信憑性が裏付けられたのは、6日の日が明けてからです。読売以外の前記各メディアが、印パ両政府サイド等から裏付け取材してようやく記事にしました。英米のメディアにあっては、日本時間の5日と英米時間の6日の一日の遅れは見かけ以上のものがあることにご注意ください。
 ただ、これらの記事の殆どは、インド側の言い分を(意図的に?)うのみにして、両首脳会談を儀礼的なものにすぎないと片づけてしまっています。読売の最初の報道からうかがわれるのは、その反対です。こうなると、この点でも読売の方を信用せざるを得ないでしょう。
 読売という日本の一つのメディアができることであれば、日本の他のメディアだって、そして政府だって努力すればできるはずです。そして、このように的確な情報さえつかむことができれば、適切な印パ外交も展開できるはずなのです。

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