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太田述正コラム#5298(2012.2.13)
<ロジャー・ウィリアムズ(その6)>(2012.5.29公開)

 こんな米国では、宗教がらみの問題が政争の主要争点になるのはめずらしいことではありません。

 現在、侃侃諤々の議論が行われているのが、一、宗教機関による避妊、断種、事後避妊薬の経費負担、二、ある財団による家族計画への資金援助中止、三、連邦下級審によるところの、同性婚を禁止したカリフォルニア州法に対する違憲審決、の是非です。(注13)
http://campaignstops.blogs.nytimes.com/2012/02/07/the-persistence-of-the-culture-war/?ref=opinion
(2月9日アクセス)

 (注13)一、
http://www.nytimes.com/2012/01/21/health/policy/administration-rules-insurers-must-cover-contraceptives.html?_r=2&pagewanted=print
(2月9日アクセス)
http://swampland.time.com/2012/02/10/mired-in-the-sticky-politics-of-health-and-faith-obama-shifts-on-contraception/?iid=sl-main-lede
(2月11日アクセス)
ニ、
http://www.nytimes.com/2012/02/04/health/policy/komen-breast-cancer-group-reverses-decision-that-cut-off-planned-parenthood.html?pagewanted=print
(2月9日アクセス。以下同じ)
三。
http://www.nytimes.com/2012/02/08/us/marriage-ban-violates-constitution-court-rules.html

 一に強く反対しているのは、米国のカトリック教会ですし、二はキリスト教原理主義勢力/共和党の働きかけに屈する形でなされたものですし、三の州法の採択の背景にあるのも、恐らくは、キリスト教原理主義勢力の同性愛に対する嫌悪感であろうと思われます。
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<脚注:キリスト教と避妊>

 最後に、4で言及したところの、一と二に係る、避妊に対するキリスト教の態度の歴史を振り返ってみることにしましょう。

 「・・・キリスト教の教えにおいて、避妊に反対する最初の直接的な意見表明を行ったのは、アレクサンドリアの聖クレメンス(Clement)<(注14)>だった。

 (注14)Titus Flavius Clemens。150?〜215?年。生誕地についてはアテネ説とアレクサンドリア説がある。アレクサンドリア・キリスト教教義学校(Catechetical School of Alexandria)で教鞭をとり、校長も務めたキリスト教神学者。古典ギリシャ哲学・文学に造詣が深いキリスト教への改宗者であり、とりわけプラトンとストア派の影響を強く受けている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Clement_of_Alexandria
 アレクサンドリア教義学校は、4福音書の1つの著者とされる聖マルコ創立と伝えられる。校名とは違って神学を中心とする大学という趣があった。1893年にキリスト教コプト派の施設として再建され、現在に至っている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Catechetical_School_of_Alexandria
 「ストア派・・・は、ヘレニズム時代に成立した哲学ないしその学派である。・・・禁欲的な思想と態度によって知られる。ヘレニズム時代以降の古代ギリシア・ローマの時代においてはアカデメイア学派、逍遥学派、エピクロス派と並んで四大学派とされていた。ストア派なる名は、ゼノンがアテナイの彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で教授していたことにちなむ。とくに古代ローマの共和制末期からキリスト教を認める前までの帝政期における影響は非常に大きく、・・・重要なストア主義者として名を残しているのは、奴隷エピクテトス、「哲人皇帝」として有名なローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス、大臣セネカである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE

 彼は、191年に、「聖なる慣例(devine institutiion)は人が繁殖することを旨としているからして、精液(seed)を、無駄に射精してはならず、破壊してはならず、浪費してはならぬ」と記した。
 クレメンスは、聖書の様々な一節をこの評決の根拠とした。
 その一つが、創世記の中の「産めよ増やせよ地に充てよ(Be fruitful and multiply.)」だ。
 彼は、オナン(Onan)<(注15)>の話も引用する。オナンは、自分の精液を地面にぶちまけたために死でもって罰せられた。

 (注15)「ユダとカナン人シュアとの間に産まれた2番目の息子・・・。オナンの兄エルが神に処刑されたので、父ユダはオナンに兄エルの妻タマルと結婚するよう命じた。しかし、オナンはタマルによって設ける子が自分の相続人とならない事を知っていたので、性交の際、故意に精液を地に流した<(=膣外射精した)>。この事は神の意に反する事であったので、オナンは神により処刑された・・・。オナンはオナニーの語源ともなっている・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%B3

 現代の学者達は、聖クレメンスの受胎調節への反対を、その考え方がキリスト教神学に強い影響を与えたところの、ギリシャ哲学者達の一派であるストア派(Stoics)由来であるとする。
 ストア派の専門的見解は、快楽のためのセックス等の放縦は人を不幸に導く、というものだった。
 聖アウグスティヌス(Augustine)<(注16)(コラム#471、1020、1169、1761、3618、3663、3908、5061、5100)>、。は、彼の5世紀の書簡群の中で、あらゆる形態の避妊法を激しく非難した時、ストア派の思想を利用した。

 (注16)アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus。354〜430年)。現在のアルジェリアに生まれ、そのヒッポ(Hippo)で没す。「古代キリスト教世界のラテン語圏において最大の影響力をもつ理論家。・・・<息子をもうけた女性との>同棲は15年に及んだといわれる。当時を回想して「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と『告白』で述べている。・・・387年に<この>息子・・・とともに洗礼を受け、キリスト教徒となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9

 彼の見解では、セックスは不妊の結婚したカップルにとってさえ罪だった。
 というのは、彼らは子供をつくることができないからだ。・・・
 避妊に対する法王による最初の公式表明は1930年に至るまでなされなかった。
 プロテスタント諸派の受胎調節に対する態度は、英国教会を嚆矢とし、次第に甘いものになっていったのに対し、カトリック教会は、パウロ6世の1968年の「humanae vitae(=Of Human Life=人の生について)」<(注17)>において、受胎調節を行うことへの反対を再確認した。・・・」
http://www.slate.com/articles/news_and_politics/explainer/2012/02/obama_birth_control_battle_when_did_catholics_ban_contraception_.html
(2月12日アクセス)

 (注17)副題が「生誕の規制について(On the Regulation of Birthencyclical)」のencyclical(法王が全司教へ送る回勅)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Humanae_Vitae
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(完)

太田述正コラム#5296(2012.2.12)
<ロジャー・ウィリアムズ(その5)>(2012.5.28公開)

<脚注:17世紀北米英領植民地におけるインディアン>

 1636年、1月にマサチューセッツ湾植民地当局に逮捕されようとしたウィリアムズはナラガンセット族によって助けられ、彼は、同族の指導者達から土地利用権を取得する。
 しかし、排他的に土地を利用するイギリス人と、そうではないところの、インディアンとの間で、土地利用権の観念の食い違いが露呈したことから、同年中にウィリアムズはこの土地を買収する運びとなった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Narragansett_(tribe)
http://en.wikipedia.org/wiki/Roger_Williams_(theologian) 前掲
 翌1637年にペクアット族(Pequot)とコネチカット植民地とマサチューセッツ湾植民地のイギリス人達との間で戦争が勃発した(=ペクアット戦争)。
 この時、ウィリアムズが、ナラガンセット族に中立を保つよう要請したところ、同族はイギリス人側に加わってペクアット族と戦った。
 この戦争に敗れたペクアット族は、奴隷として、大部分はイギリス人達に味方して戦った、モヒカン族(Mohegan)等のインディアン達に与えられたが、一部はバミューダ諸島に送られ、残りはイギリス人宅で召使いにさせられた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pequot
http://en.wikipedia.org/wiki/Roger_Williams_(theologian) 前掲
 また、ワンパノーグ族(Wampanoag)は、1616〜19年に恐らくイギリス人によって持ち込まれた疫病で大量に死亡者が出たこともあって、キリスト教への改宗者もかなり出、両両あいまって、その後のイギリス人によるマサチューセッツ湾植民地の創設のきっかけを与えたところ、やがてイギリス人との関係が悪化し、1675〜76年に両者の間でフィリップ王の戦争(=King Philip's War)が起き、同族の人口の40%が死に、生き残った男性の大部分は西インド諸島に奴隷として売られ、女性と子供はイギリス人植民地で奴隷にされた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Wampanoag_(tribe)
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4 補論:米国の現在の宗教状況

 米国の建国の父達に碌な人物はいないと前に記したことがありますが、同じことは北米イギリス植民地の始祖達についても言えるのであって、一見そうでなさそうなロジャー・ウィリアムズもまた、その例外ではなかったわけです。
 こういうご先祖様達が米国の歴史の始まりを担った以上、米国が、とりわけ宗教面で極めて異常な社会であり続けて現在に至っていることは、少しも不思議なことではありません。
 
 「・・・<米下院議員中、>無神論者であることを公言しているのはピート・スターク(Pete Stark)一人だけであるところ、彼は、1973年以来、カリフォルニア州のオークランドという超リベラルな地域から当選し続けているというのに、彼が、至上の存在を信じていないと認めたのは、実に2007年になってからだった。
 そんな彼でさえ、無教義のユニタリアン(Unitarian)教会の会員であり、自分自身を無神論者というより、「非神論者(non-theist)」とするとともに、本件に関してインタビューを受けることを拒否している。
 これに対し、ホモ議員であることを公にしている者は、少なくとも6名もいる。・・・
 昨年のギャラップ調査によれば、ユダヤ教徒たる大統領候補者には投票しない米国人は9%だが、モルモン教徒の候補者を支持しない者は22%おり、ゲイやレスビアンの候補者に投票しない者は32%いる、のに対し、無神論者を大統領としては支援しない者は49%もいる。<(注11)>・・・

 (注11)以上は、コラム#1724で言及した話と大幅にだぶっているが、再度掲げた。

 「生活の極めて多くの部分が教会を巡って行われる」とジョンソンは、彼女のテキサスでの経験について語る。
 彼女の地元のレインズ(Rains)郡(人口9,139人)には教会が31あり、そのうち17がバプティスト(Baptist)の教会だ。
 もしあなたがそのうちの一つに所属していなければ、あなたはコミュニティーの一員ではないのであって、<教会に代わる>世俗的な代替手段はないのだ。…
 欧州とは異なり、福祉国家ではない米国ではボランティア活動が生活においてより中心的役割を担っているところ、教会は、ボランティア活動の主要ハブでもある。・・・
 「人々は仏教徒やモルモン教徒が好きではないかもしれないが、少なくとも、彼らにとっては、これら教徒がより上位の力を信じているということが自分達の諸信仰を裏付けてくれる(confirm)。しかし、無神論者のような人物は、自分達の諸信仰の顔にまさに泥を塗るのだ」とジョンソンは語る。・・・
 データはこの挿話を裏付ける。
 今や有名になったところの、ミネソタ大学が行った研究の結論は、米国人は無神論者をイスラム教徒、最近の移民、ゲイとレスビアンその他の少数派集団よりも、「米国社会についての自分達の見解の共有度」が低いと序列づけた。
 そして、48%近くが、「自分の子供がこの集団の一員と結婚することを望んだら反対する」と述べた。
 (これは、次に不人気であったイスラム教徒が33.5%であったのと比較して、はるかに多い。)・・・
 また、米国人の53%は、道徳的であるためには神を信じる必要があると語っているのだ。・・・
 <更に、>2008年の米国宗教意識調査(American Religious Identification Survey 2008)では、米国人の約12%は無神論者ないしは神不可知論者(agnostic)であると推測されているというのに、わずか0.7%しか自らを無神論者であると申告しなかったし、わずか2.3%しか神など存在しないと述べた者はいなかった。
 しかし、調査した人々は、非常に低い水準から出発しているとはいえ、無神論は増大しつつある、という点で合意している。・・・
 <更にまた、>皮肉にも「4人の騎手(Four Horsemen)」<(注12)(コラム#5284)>と名付けられたところの、サム・ハリス、ダニエル・ドネット、リチャード・ドーキンス、そして故クリストファー・ヒッチェンスの著書は、全てニューヨ−クタイムス調べのベストセラーとなり、何十万冊も売れている。・・・」(G)

 (注12)聖書の黙示録で、神が悪の支配を破壊する宇宙の大改革(Apocalypse)の幕開けに、征服(Conquest)、戦争(War)、飢饉(Famine)、と死(Death)をそれぞれ象徴する4人の騎手が現れる、との記述がある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Four_Horsemen_of_the_Apocalypse

 つまり、現在、米国人のうち、非宗教的な人は一定程度いるし、その割合は増大しているけれど、彼らは容易にカミングアウトできない状況にある、ということであり、まさに、米国は、依然として、ロジャー・ウィリアムズの呪縛の下に置かれている、ということが分かります。

 「・・・<米国の>軍事文化は宗教的イデオロギーと象徴主義に満ちている、とグリフィス(Griffith)は語る。
 例えば、彼は、伝統的な旗を折りたたむ儀式に言及し、何度も神への信仰に言及がなされる、とする。・・・
 彼はまた、軍に属する者が誰でもその公式軍事記録類に「無神論者」として記載してもらえるようにするための活動をしている。
 「私の記録類を無神論者に代えてもらうのに一年半かかった。
 私が彼らに自分が無神論者だと伝えた時、彼らは「無宗教(no religious preference)」と記載したと彼は語る。
 「私は、彼らにそれは受け容れ難いと伝えた。私は無宗教ではなく「無神論」なのだ、と。」
 これらの記録類は重要なのだと彼は語る。
 というのは、戦争で負傷した兵士達に臨終の宗教サービスが提供されるからだ。
 「私は、彼らに私が無神論者であり、私のために、祈祷をすること、臨終の儀典をやること、いかなるものであれ愚かな儀式を行うこと、は無用であることを知っておいてもらいたいのだ」と。・・・」(F)

 前にも記したことがありますが、「4人の騎手」のような著名な人々であれ、グリフィスのようなそれほど名前の知られていない人であれ、戦闘的無神論者というのは、一種の原理主義的宗教なのであり、「4人の騎手」・・この中にはドーキンスのようなイギリス人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B9
もおれば、故ヒッチェンスのようなイギリス生まれで米国で活躍した人
http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Hitchens
もいる・・の本が爆発的に売れる米国という国は異常なのであり、グリフィスの活動を、英国のBBCがわざわざとりあげたのも、英軍の中で起こることなどまず考えられない異常な活動だからだと私は思うのです。

(続く)

太田述正コラム#5294(2012.2.11)
<ロジャー・ウィリアムズ(その4)>(2012.5.27公開)

 こういったこみいった事情から、ウィリアムズは、聖書に書かれていること全てについて誤りのない解釈をすることなど、どんな人間でも不可能であると判断した。
 よって、彼は、一人の人間が特定の宗教的信条を他人に強制することは「身の毛のよだつこと(monstrous)」であると考えた。
 彼は、また、政府の息のかかった(sponsored)祈祷は、役人が神に関わることについて判断を下すことを前提としており、そんなことは神を冒涜するものであることにも気づいた。
 更にまた、彼は、人が宗教と政治を一緒くたにすると、<宗教もまた>政治になってしまうことを知っていた。
 だから、教会の純粋性を守るためには、ジェファーソンの150年前に、「教会の庭と世界の荒野との間の分離の壁」が必要であるとした。
 <ところが、>マサチューセッツ植民地にはこのような壁が存在せず、宗教的同調性(conformity)を強い、それに反対したウィリアムズを追放した。
 <そこで、>「魂の自由」を求め、彼はプロヴィデンス入植地を創設し、絶対的な宗教の自由を与えるところの、完全に世俗的な政府を樹立したわけだ。
 南北アメリカ大陸の他のすべての植民地の統治協約(governing compact)は、イギリス、フランス、スペイン、あるいはポルトガルのいかんを問わず、当該植民地はキリスト教を推進するために樹立されたと主張していた。
 ところが、プロヴィデンスの統治協約には神への言及がなかった。
 それは、神の祝福さえ求めなかったのだ。
 次いで、ウィリアムズは、宗教の自由と政治的自由とを結び付けた。
 諸政府の権威は神に由来すると当時は普遍的に信じられていた。
 ウィンスロップでさえ、マサチューセッツ植民地の総督に選出された後、「諸君によって選ばれたとはいえ、我々の権威は神から来ている」と投票者達に言ったものだ。
 ウィリアムはこれに異を唱えた。
 国家は世俗的であると考え、彼は、諸政府は、その権威を市民達から得ており、人々が彼らに信頼を寄せている以上の力も期間も与えられていない、と宣言した。
 この声明は、今でこそ自明に聞こえるかもしれないが、当時においては革命的だった。・・・
 <ずっと後に、>米国憲法が採択されてから8年後になって、米上院はある条約を全員一致で承認する際に、このことを確認した。
 <承認の文言>はこう述べていた。
 「米国政府は、いかなる意味においてもキリスト教に立脚して(founded on)いない」と。・・・」(E)

 「・・・<注意すべきは、>ウィリアムズは世俗国家を成立させようとしたのではなく、与えられた自由に対処できるだけ十分精神的に成熟しているところの、自律的諸個人によって構成されているコミュニティを成立させようとした<ことだ>。・・・」(D)

 「・・・<すなわち、>諸個人の宗教の自由が極めて重要であると見なされていたというまさにその理由で、<ウィリアムズを始めとする>多くの人々は、米国政府がその市民達の諸信仰を決定するいかなる役割も追わないことを確保しようという決意を固めていたということなのだ。・・・」(G)

3 終わりに

 最後の二つの引用文を読んで気付かれた方もおられると思いますが、ウィリアムズは、近代人では決してありませんでした。
 彼は、キリスト教を諸宗教中の白眉とみなすとともに、キリスト教の神に帰依することを世俗的なことよりもはるかに重視し、キリスト教の聖書の自分なりの解釈を通じて到達したキリスト教教義を自分の信条とし、その信条に対する他者の容喙から自分を守るために、宗教と政治の分離なる宗教の自由を追求したところの、反動派に超の付く人物・・今はやりの言葉で言えば宗教原理主義者・・であった、と言わざるをえません。

 これに対して、ウィンスロップの考え方は、(これまで何度か述べたことがありますが、)カトリシズム同様に宗政一致を当然視し、その上で、カトリック教会を細分化して、各国や各地域ごとに、少しずつ教義の違うミニ・カトリック教会もどきを輩出させたところの、欧州の宗教改革の担い手たるプロテスタント達の考え方の域を一歩も出ていないという意味で、カトリシズムを当然視していたジュニペロ・セラといい勝負であり、ウィンスロップとジュニペロ・セラの両者とも守旧派以外の何物でもない、と言うべきでしょう。
 結局、このシリーズでこれまで登場した主要人物中、近代人的であるのは、ラス・カサスだけである、というのが私の見解です。
 なぜ単に近代人であるとしないかですが、それは、彼が死ぬまでカトリックの僧職の身分のままであり続けたからです。

 インディアンにキリスト教を押し付けようとしなかった点や、奴隷制導入に反対した(下述)点をとらえて、ウィリアムズを評価するのもいかがなものかと思います。

 「1641年に<当時まだプロヴィデンスが形の上では属していた>マサチューセッツ湾植民地が奴隷制を合法とする、イギリス諸植民地中の最初の諸法を制定したが、この諸法は、植民地連合(United Colonies)が1643年に創設された時に、プリマスとコネチカット植民地に普及した。
 ロジャー・ウィリアムズ・・・は奴隷制に反対し、1652年に奴隷制がロード・アイランドに導入されることを防止しようとして法が制定された。
 不幸なことに、同植民地の領域が再編された時、一連の・・・町がこの法を受け容れるのを拒否したために、この法は空文化した。<(注10)>

 (注10)ウィリアムズが死去したのは1683年だが、「<ロード・アイランド>植民地の領域が再編された時」が分からなかったので、その時点でまだ彼が存命であったかどうかは確認できなかった。
 なお、「この法<が>空文化した」のは17世紀末であったことは確認できた。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Rhode_Island
また、下掲の「<これら一連の町の一つの>ニューポート」の<>内が正しいかどうかの確認もできなかった。

 その後の100年間、ロードアイランド植民地・・・の中心は<これら一連の町の一つの>ニューポート(Newport)であったので、反奴隷制法は無視された。
 実際、ニューポートは、1700年にアフリカ奴隷貿易に参入し、爾後米独立革命までの間、北米における奴隷貿易の中心であり続けた。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Roger_Williams_(theologian) 前掲

 ウィリアムズが、宗教は世俗的なことよりも重要であると考え、かつ、(個々人によって教義に微妙な違いはあれど、)キリスト教は諸宗教中の白眉であるとみなしていたにもかかわらず、キリスト教に帰依しない迷える子羊たるインディアン達を放置できたのは、そして、(上述のように)奴隷制への反対に徹しえなかったのは、非白人に対する差別意識があったからこそである、と私は忖度しているからです。
 独立後に制定された米国憲法の宗教の自由条項は、このウィリアムズの考え方を法典化したものです。(A)
 (確かに、ウィリアムズは、インディアンから土地を一方的に取り上げることはしなかった・・私は、彼にとって、迫害されていた自らの弱い立場に鑑み、インディアンとの紛争を何がなんでも回避することが至上命題であったからに過ぎない、と踏んでいます・・けれど、)独立後の米国が、インディアンから土地を一方的に取り上げ続け、黒人奴隷制度に固執し続けるという、人種主義国家となったのは、その原点たるウィリアムズの考え方の論理的帰結であった、ということになるのではないでしょうか。

(続く)

太田述正コラム#5292(2012.2.10)
<ロジャー・ウィリアムズ(その3)>(2012.5.26公開)

 (5)ウィリアムズの思想

 「・・・バリーは、<ウィリアムズの>これらの信条が、当時いかに物議をかもすものであったかを示すとともに、このようにして、ウィリアムズが良心の自由の初期における主唱者の一人であったという標準的イメージを強固なものにする。
 しかし、バリーは、この論争がイギリスの文脈の中で行われたことを強調する余り、キリスト教徒たる欧州人について言えることはインディアン等その他の人々についても言えるという、ウィリアムズの、更に大胆な固執を蔑にしてしまっている。
 ニューイングランドのインディアンの<言語の>辞書兼文化人類学書である、彼の著作の『アメリカの言語に係る鍵(Key Into the Language of America)』(1643年)の中で、ウィリアムズは、自分の原住民たるホスト役で、かつ、隣人であった人々を「野蛮人」と呼んだが、彼らは、<イギリス人の>みんなと同様、敬意を抱くに値するところの、良心と権利を持っていると主張した。
 彼は、インディアンに向かって説教こそしたけれど、彼らを強制的に改宗させることは、偽った信仰であって、神への冒涜である、と考えた。
 アメリカには原住民が必要とし、あるいは知ってさえいるものよりも、もっと多くの土地がある、というほとんど普遍的に<イギリス人の間で>抱かれていた仮定に対して、彼は、原住民は、「これは酋長(Prince)のものだとか人々のものだとか、自分達の土地の境界についてはとても厳格できちょうめん」である、と指摘した。
 この点は、<彼が提起したところの、>キリスト教徒の間での宗教の自由の教義よりもっと物議をかもした。
 1500年代半ばに、カトリック神学者のバルトロメ・デ・ラス・カサス(Bartolome de Las Casas)<(注7)>は、<ウィリアムズと>同じようなことを述べている。

 (注7)1484〜1566年。「スペイン出身のカトリック司祭、・・・メキシコ・チャパス教区の司教<を歴任>。当時スペインが国家をあげて植民・征服事業をすすめていた「新大陸」(中南米)における数々の不正行為と先住民(インディアン、インディオ)に対する残虐行為を告発、同地におけるスペイン支配の不当性を訴えつづけた。主著に『インディアス史』、『インディアス文明誌』などがあり、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』でも有名。」1502年に中米への武力入植に参加、その後本国に戻って叙階を受け、1514年には強制的なキリスト教布教とインディアン奴隷の上に成り立っていたエンコミエンダ制(大土地所有制)を糾弾した。この時点では黒人奴隷の導入をやむなしと考えていたが、この考えも晩年自己批判している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B9

 インディアンに対するスペイン人による残虐行為を並べ立てた上で、ラス・カサスは彼らを自分達が諸権利を持つ土地の住民であるとして擁護し、キリスト教信仰が欠如していることをもって彼らに対する虐待を正当化することはできない、と述べた。
 <しかし、>その通りだと確信した者はほとんどいなかった。
 18世紀のカトリック宣教師のジュニペロ・セラ(Junipero Serra)<(注8)>神父のことを考えてみよう。
 
 (注8)1713〜84年。スペインのマジョルカ島出身のフランシスコ会修道士として、当時スペイン領であった現在のカリフォルニアに宣教基地の連鎖を設置した。彼は、1988年に列福された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jun%C3%ADpero_Serra
 サンフランシスコの南部から南北に走る一般道のJunipero Serra Boulevardやその延長線上にあり、サンフランシスコ郊外とサンノゼを、途中、スタンフォード大学の門前市であるパロアルトを通過して結ぶところの、高速道Junipero Serra Freeway(=Interstate 280 (California))に、彼はその名を残している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Junipero_Serra_Boulevard
http://en.wikipedia.org/wiki/Interstate_280_(California)

 彼は、スペイン人はカリフォルニアで土地を取り上げる権利があり、教会はインディアンをキリスト教徒の入植地において、必要に応じて力でもって再編する義務があることを当然視していた。
 プロヴィデンスから3,000マイル離れ、北カリフォルニアの<カリフォルニア>州高速道路280号(Interstate 280)のパーキング・エリアの一つに、実物大より大きなセラの像が太平洋に面して立っている。
 その背中は、はるか遠方にあるウィリアムズの像とは顔を背けあっており、それはあたかも、セラがウィリアムズの新世界<たるアメリカ>の諸社会がそうあらねばならないとしたところの急進的な事例に反対しているかのようだ。
 米国は、セラ的部分とウィリアムズ的部分からなる。
 教会と国家との間の「分離の垣根または壁」は米国憲法によって確認されたけれど、インディアンの権利は確認されなかったのだから・・。」(B)

 「・・・ウィリアムズの庇護者(mentor)は、イギリスの偉大な法学者のエドワード・コークであったが、彼は、「家は城なり」と判決を下し、人が自由である不可侵の避難所に係る大領主達の諸自由を最下層のイギリス庶民にまで拡大した。
 コークは、人身保護礼状(habeas corpus)を恣意的投獄防止のために使った初めての人物でもある。
 また、大法官のトマス・イーガートン(Thomas Egerton)<(注9)>が、「Rex est lex loquens=国王は物言う法なり」と語り、君主は「国家の理由に基づき、いかなる法も停止」できることに同意したところ、コークは、これに反し、法は国王を拘束すると宣旨した。

 (注9)Thomas Egerton, 1st Viscount Brackley。1540〜1617年。イギリスの貴族、裁判官、政治家。オックスフォード大、リンカーン・イン卒。国璽尚書(Lord Keeper)と大法官(Lord Chancellor)を21年間務めた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Egerton,_1st_Viscount_Brackley

 コークは、その自由に関する見解ゆえに、告発なくして投獄されたが、同じ見解がウィリアムズの血管の中を流れていた。
 ウィリアムズにとって、<自由>同様に重要だったのは聖書だった。
 「カエサルのものはカエサルに」という新約聖書の文言を超えて、彼は聖書の相互に矛盾する文章や異なった聖書の翻訳の辻褄合わせが困難であることを認識していた。
 彼の眼前には、政治的目的に仕えたところの新しい翻訳の事例があった。
 ジェームス1世は、既存の英訳聖書が気に入らなかった。
 というのは、彼の見解では、それは権威への従順を十分教えなかったからだ。
 ジェームス欽定訳聖書はこれを是正できるだろうというわけだ。
 
(続く)

太田述正コラム#5290(2012.2.9)
<ロジャー・ウィリアムズ(その2)>(2012.5.25公開)

 (3)プリマス及びマサチューセッツ植民地時代

 「・・・ウィリアムズは、プリマス(Plymouth)植民地の入植地群を(時に強制されて)回り、自分の信条を純化し、説教した。
 その結果、彼の同僚たるピューリタン達は、1635年に、「彼の身の上に何が起こるかを知りながら」彼をイギリスに送り返す準備をした。
 ウィリアムズは森に逃げ込み、<インディアンの>ナラガンセット(Narragansett)族から土地を買い、・・植民する土地のために、ピューリタンが原住民にカネを支払うというのは、<彼の>もう一つのとんでもない信条というやつだった。・・イギリスによって主張されていた領土の外にプロヴィデンス植民地を創設した。
 やがて、プロヴィデンス植民地はイギリス国王によって特許状(charter)が与えられた。
 その政体は、植民者達自身の投票によって諸決定が行われるところの、民主主義的なものだった。・・・」(A)

 「ウィリアムズ一家は、プリマス植民地に、次いでマサチューセッツ植民地に入植したが、彼らは、後者でも、植民地当局の宸襟を悩ませた。
 1636年冬に、役人達が彼を逮捕すべく彼の家に到着した時、既に彼はそこを去っていた。・・・」(B)

 「・・・法学者のエドワード・コークは、ウィリアムズの若き日の庇護者だった。
 詩人のジョン・ミルトン(John Milton)<(注5)(コラム#1008)>は、その後の友人だった。

 (注5)1608〜74年。イギリスの詩人で論客にして共和国時代の官僚。ケンブリッジ大学士・修士。叙事詩『失楽園(Paradise Lost)』で有名。政治論文『アレオパジティカ(Areopagitica)』 で言論と報道の自由を情熱的に擁護した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3

 彼の批判者達でさえ、彼が魅力的な人物であると思った。
 プリマスの総督は、彼のことを「私の知っている中で最も気持ちの良い(sweetest)人物」であると形容した。
 <上述したように、>ウィリアムズが<二度にわたって>逮捕状が出たのに逃亡できたことはイミシンだ。
 これは、彼に同情した人が彼に情報を与えたからであることは明白だ。
 それでも、ウィリアムズは他人の感情を害する言動を繰り返した。
 「私は安全に眠ることを望んでいない」と、彼はマサチューセッツ植民地総督のジョン・ウィンスロップに警告を発していた。
 というのも、彼は、自分自身、いわゆるピューリタン達よりもよりピュアである存在であることを完全に自覚していたからだ。
 彼は、植民地の民間当局は、十戒中の、宗教に係る「第一の石板(The First Table)」<(注6)>に関することを規制することはできない、と述べた。

 (注6)旧約聖書の出エジプト記20章3節から17節、申命記5章7節から21節に書かれており、エジプト出発の後にモーセが神からシナイ山で十戒を授かったところ、十戒は、二枚の石板(table)に書かれているとされる。
 カトリックとルター派は、唯一神、神の名をみだりに唱えることの禁止、安息日の遵守、の三つが第一の石板に書かれていたとし、正教会とプロテスタントは、唯一神、偶像崇拝の禁止、神の名をみだりに唱えることの禁止、安息日の遵守、の四つが第一の石板に書かれていたとする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92
http://christiananswers.net/dictionary/commandmentstheten.html

 植民地当局は、姦淫したとして誰かを起訴することはできるが、偶像をつくったり崇拝したりしたとして誰かを起訴することはできない、というのだ。
 次いで、ウィリアムズは、マサチューセッツ植民地への忠誠の宣誓を行うことを拒否した。
 世俗的(worldly)諸目的のために神の名にかけて誓うなどということは、それが何であれ、腐敗以外の何物でもない、というのがその理由だった。・・・」(B)

 (4)プロヴィデンス植民地時代

 「・・・ウィリアムズは、雪と厳しい寒さの中を、陸路、出発した。
 「今でもその時のことを肌で感じる」と彼はずっと後になって懐旧している。
 彼が生き延びられたのは助けがあったからだ。
 「ワタリガラス達が荒野の中で私に給餌してくれた」と彼は、自分を鳥が運んできた食片群で命を支えたところの、聖書中の預言者達に準えた。
 もっとも、彼の「ワタリガラス達」はインディアンだった。
 彼らの支援のおかげで、彼は湾の北部側に着き、そこの原住民達の名前をとってその地をナラガンセット(Narragansett)と名付けた。
 現地で、ウィリアムズは、原住民の持ち主達から土地を購入し、迫害からの逃走に対して彼や他のキリスト教徒達に与えられた聖なる支援を称えるために、彼がプロヴィデンスと呼んだ入植地を樹立した。・・・」(B)
 
 「・・・マサチューセッツ植民地の当局は、ウィリアムズ逮捕に失敗したことに非常に腹を立てていたので、彼らは彼の新しい入植地を抹殺しようとした。
 そこで、彼は、イギリスに戻り、自分自身の・・「教会の園と世界の荒野とを分離する垣根ないし壁」を伴うという・・条件で彼の植民地を守るための特許状を得ようとした。 各種刊行物の中で、彼は、個人の良心は、迫害されることはもとより、支配(governed)されることがあってはならないし、<そんなことはそもそも>不可能である、と主張した。
 もし神が罪の究極の処罰者であると言うのなら、人間が彼の権威を行使しようとすることは不敬である、と。
 そして、それは「イエス・キリストのために人の喉を切り裂くなどということは、…イエスの本性に直接背くものだ」と。・・・」(B)

(続く)

太田述正コラム#5288(2012.2.8)
<ロジャー・ウィリアムズ(その1)>(2012.5.24公開)

1 始めに

 ジョン・M・バリー(John M. Barry)の新著、 'Roger Williams and the Creation of the American Soul Church, State, and the Birth of Liberty' の中身のさわりを、その書評に拠ってご紹介するとともに、米国の現在の宗教状況に触れ、その上で私のコメントを付そうと思います。

[この本の書評]
A:http://www.latimes.com/entertainment/news/la-ca-john-barry-20120122,0,2906687.story
(1月23日アクセス)
B:http://www.nytimes.com/2012/01/01/books/review/roger-williams-and-the-creation-of-the-american-soul-church-state-and-the-birth-of-liberty-by-john-m-barry-book-review.html?pagewanted=all
(1月30日アクセス。以下同じ)
C:https://www.kirkusreviews.com/book-reviews/john-m-barry/roger-williams-creation-american-soul/#review
D:http://www.washingtonpost.com/entertainment/books/roger-williams-and-the-creation-of-the-american-soul-by-john-m-barry/2012/01/23/gIQAhjmqnQ_print.html
(2月4日アクセス)
E:http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-barry-religion-20120205,0,6820483,print.story
(2月7日アクセス)
[米国の宗教状況に関する記事]
F:http://www.bbc.co.uk/news/magazine-16859421
(2月6日アクセス)
G:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/d2239780-4d4e-11e1-8741-00144feabdc0.html#axzz1lNr670I7
(2月5日アクセス)

 ちなみに、バリーは、米国の作家で歴史家であり、1927年のミシシッピ大洪水や1918年のインフルエンザ大流行を取り上げた本で有名です。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_M._Barry

2 ロジャー・ウィリアムズ

 (1)序

 1月には、保守的なキリスト教徒達と共和党の大統領候補達が、「エリート達」が「宗教に対する戦争」をしかけていると非難する一方、ロード・アイランド州の連邦裁判所は、16歳のジェシカ・アルクィスト(Jessica Ahlquist)に一つの信条を押し付けているとして、ある公立学校から壁面の祈祷文を除去するよう命じた。
 この判決は、米国憲法修正第1条<(注1)>の意思だけでなく、公然と宗教の自由を提供するためにロード・アイランド<植民地>を創設し、かかる祈祷に強制的に晒すことを「精神的強姦」と呼んだ人物であるロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)<(注2)(コラム#485、2077)>の意思にも合致していることから、特にぴったりくるものだった。・・・」(E)

 (注1)権利の章典に係る修正第1条:連邦議会は、国教を樹立する法律を制定してはならず、また、自由な宗教活動を禁止し・・・てはならない。(Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof…)(A)
 (注2)1603?〜83年。ロンドンに生まれ、ロード・アイランドのプロヴィデンスに死す。イギリス人のプロテスタント神学者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Roger_Williams_(theologian)

 「・・・<この本は、>17世紀の叛乱者でその考えがアメリカ大陸にロード・アイランド植民地へと導いたところの、ロジャー・ウィリアムズ・・・の伝記<だ。>・・・
 バリーは、ウィリアムズに対して、法学者のエドワード・コーク(Edward Coke)<(コラム#519、4066、4298)>や科学哲学者のフランシス・ベーコン(Francis Bacon)<(コラム#46、1334、1467、1489、4066、4201、4298、4892、4961)>等が与えた知的影響を詳細に描写する。
 マサチューセッツ<植民地>では、ウィリアムズは、尊敬を勝ち得たと同時に、この植民地総督のジョン・ウィンスロップ(John Winthrop)<(注3)(コラム#372、1767、2077、3656、4048)>と衝突した。・・・」(C)

 (注3)1587/88〜1649年。イギリス人の金持ちのピューリタン法律家で、ニューイングランドにおける、プリマス植民地に次ぐ主要移民地であった、マサチューセッツ湾植民地を創設した指導的人物の一人。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Winthrop

 (2)イギリス時代

 「・・・イギリスに生まれたウィリアムズは、ロンドンのチャーターハウス学校(Charterhouse School)<(注4)>とケンブリッジ大学ペンブローク校(Pembroke College)で教育を受けた。・・・

 (注4)1611年にロンドンに創設され、1872年位サレー州(Surrey)のゴダルミング(Godalming)近くの田舎に移転。最も美しい学校の一つ。
http://www.charterhouse.org.uk/CharterhouseHistory
 ところが、主要卒業生リストにロジャー・ウィリアムズが出てこない。
 ちなみに、歴史家のマックス・ヘースティングス(Max Hastings)(コラム#590、1533、2127、3334、3509、4872)、作曲家のヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)(コラム#4885、5285)、法学者のウィリアム・ブラックストーン(William Blackstone)(コラム#90、503)、作家のウィリアム・サッカレー(William Makepeace Thackeray)(コラム#1777)らの名前が出ている。
http://www.ranker.com/list/notable-charterhouse-school-alumni-and-students/reference

 イギリスの公的信条<(英国教)>との見解の相違が、現在ピルグリムとかピューリタンとして知られている人々が、イギリスを去って1620年にプリマス、1630年にマサチューセッツ湾の各植民地に移民した理由だ。
 ウィリアムズは、同様に、[魂の自由(soul liberty)の観念の抱懐<という>]急進的な信条を公言し、逮捕される危険性が出てきた時、彼と彼の妻は、1630年末にニューイングランドへと逃亡した。
 彼らが去らねばならない必要性がいかに一刻を争うものであったかは、彼らが大西洋を冬に渡ったことが示している。
 大洋交通は、通常冬は余りに危険であると考えられていたというのに・・。・・・」(B)(ただし、[]内はAによる。)

(続く)

太田述正コラム#5208(2011.12.31)
<等身大のジョージ・ケナン>(2012.4.17公開)

1 始めに

 ジョン・ルイス・ガッディス(John Lewis Gaddis)の新著 'George F. Kennan: An American Life' (コラム#5193)の詳しい書評が出た
http://www.csmonitor.com/Books/Book-Reviews/2011/1229/George-F.-Kennan-An-American-Life
(12月30日アクセス)ので、そこからうかがうことができる、等身大のジョージ・ケナン像を紹介し、私のコメントを付そうと思います。

2 等身大のジョージ・ケナン

 (1)典型的米国人たるケナン

 ケナンは米国人離れしたリアリストとして神格化されてきたきらいがありますが、ケナン本人は、人種主義者であったという点一つとっても、いたって典型的な米国人であったことを、我々は押さえておく必要があります。

 「・・・ケナンの見解は、今日の視点から見れば、反ユダヤ主義とされてもやむをえないものだった。・・・」

 当然、ケナンは、黒人はもちろん、日本人を含む有色人種への差別意識についても米国人一般と共有していた、と思ってよいでしょう。

 (2)米国への嫌悪感・・総論

 しかし、戦前から戦中にかけて、米国が、赤露のおぞましさについて無知蒙昧であったため、赤露について最も正しい認識を持ち、最も正しい戦略を実施していたところの有色人種国たる日本を、言いがかりをつけてその背後から襲い、その結果、まんまと赤露に東アジアと中東欧を献上してしまったことについて、赤露の専門家たるケナンが、日本や東アジア、更には中東欧の人々に対する罪悪感に苛まれたであろうことは想像に難くありません。

 その彼は、戦後、日本の戦前の対赤露政策を黙って剽窃し、米国政府に売り込むことによって、米国の日本化された対赤露戦略の構築に成功するわけです。
 日本化された対赤露政策とは、対赤露抑止政策と赤露近接諸国への(まずはガバナンスの確立、次いで自由民主主義化、とセットになった)経済支援政策です。
 (日本によるその植民地や保護国の経営が財政的持ち出しの形で行われたことを想起してください。)
 対赤露抑止政策については、これまで何度も触れているところですが、後者についても忘れてはなりますまい。

 すなわち、「・・・ケナン<は>第二次世界大戦後の「マーシャル・プラン」の設計者(architect)の一人としての役割<も果たした。>・・・」のです。

 さて、東アジアや中東欧の人々に赤露の下で塗炭の苦しみを味わわせることとなった愚行を演じた挙句、有色人種国たる日本より約3分の1世紀も遅れて、その対赤露戦略をコピーする羽目になった米国に対し、ケナンが嫌悪感を抱いたのは当然でしょう。
 しかし、その嫌悪感をストレートに表明するわけにもいかないことから、ケナンは、以下のように若干屈折した形でその思いを総論的に表明した、というのが私の見立てです。

 「「・・・私は、我が国の政治(political life)の荒っぽさと混乱(tumble)が大嫌いだ(hate)。…私は民主主義が大嫌いだ。私は新聞が大嫌いだ。…私は「民衆(peepul)」が大嫌いだ。私ははっきり反米(un-American)になった。」
 このように、彼は、放逸な資本主義がどんな風に地域社会を掘り崩し環境を劣化させたか、そして、いかに政治が私的利益の圧力に屈したか、を軽蔑した。
 これが、彼の、民主主義的諸制度の健全さと耐久性に対する「衝撃的なほどの信頼の欠如」によって一層募らされていた。・・・」

 (3)米国への嫌悪感・・各論

 このようなケナンの米国への嫌悪感を、彼は、各論的に、次のような形で、間歇的に(、ただし、やはり屈折的に、)噴出させることになります。

 「1965年にリンドン・ジョンソンの<(ケネディ暗殺後の短期間の大統領就任を経ての)>4年任期の大統領職が始まった頃、米国のベトナムへの関与は深化しつつあったが、ケナンのそれに対する不安な思いは募りつつあった。
 ケネディ大統領の時代には、ケナンは、東南アジアにおける共産主義の浸透に係るいわゆる「ドミノ理論」を支持していた。
 しかし、1965年3月には、彼は「我が国の人々が東南アジアでやっていることに対する」苦悶の念を表明していた。
 「彼ら[ジョンソン政権]は正気を失っているように自分には思える」と。
 友人・・・への手紙の中で、ケナンは米国の愚行について、より暗澹たる見方を示した。
 とりわけ、<同政権は>中ソ間の不協和音に付け入ることの重要性を顧慮していないとし、米国政府が「東南アジアに係る<政策の>選択<を誤っている>だけでなく、共産世界全般に係る我々のアプローチにおいて、ほとんどあらゆる柔軟性」を失ってしまっているのではないかとの恐れを抱いている、と<(注)>。・・・

 (注)高坂正堯は、1979年に次のように書いている。「吉田さんの先見性ということでよく例に挙げられる<、彼の>中ソ対立の予言・・・は、吉田さんがイデオロギーなどというものをもともとそれほど信用していないから可能だったんでしょうね。・・・
 しかも、吉田さんは中ソ対立だけでなく「ソ連はああいうハードな共産主義だが、長い間ルーズな政治体制に慣れてきた中国はもっとルーズな共産主義になるだろう」ということも言っていますね。その予見は一時、まったく逆になったように見えましたが、最近の中国の大きな変化を見ますと、ちょっと長い目で見ればやはり的中していたのではないかという気がします。
 そして首相を辞めた後ですが「だから西側陣営は中国を国際社会の中に引き入れなければいけない」ということを、テレビ・インタビューでドゴールにも言っていますね。」
http://ameblo.jp/3291038150/entry-10869702508.html
 イデオロギーの過度の重視に基づきドミノ理論を硬直的に信奉していたジョンソンの愚かさは、「イデオロギーなどというものを・・・それほど信用していな」かった結果、まぐれ当たりで、中ソ対立を「予見」したり中共の改革・解放政策を予見したりした吉田の愚かさ、といい勝負であると言ってよかろう。

 <また、>ジミー・カーターが大統領に当選する直前の1976年9月、ケナンは、議論を引き起こすこととなる、33頁にもなるインタビューを、米エンカウンター(Encounter)誌上で行った。・・・
 まず、彼は、産業化、都市化、商業主義化、世俗化、そして環境劣化によって、米国は、「悲劇的である、或いは規模において巨大である、としか言いようのない失敗に陥るべく運命づけられている」と語った。
 そして、これらの諸問題により、米国の外交政策は規模縮小化が避けられないであろうとし、あたかも彼は自分自身を孤立主義者であるかのように人の目に映らせた。
 エンカウンター誌は、「そんなこと<(=米国外交の規模縮小化)>をしたら、欧州の諸同盟国をソ連の手に委ねてしまうことになりはしないか」と問い返した。
 ケナンは、これに対し、米国の庇護の下で余りにも自堕落になってしまったこれら諸国は、そういう羽目に陥っても致し方ないのではないか、と答えた。
 まことに注目すべきことに、ケナンは、核戦争の環境的かつ人口的帰結と比較すれば、ソ連による西欧の支配など「取るに足らない大災厄」に過ぎない、と主張した。
 次いでケナンは、核戦争から復興する方策などないのだから、米国は、必要であれば、一方的に核兵器を廃棄することを追求すべきだ、と意表を突く示唆を行った。・・・」

 (4)東アジアや中東欧、就中日本に対する贖罪

 そんなケナンが、いわば米国の罪を一身に背負ったつもりになって、東アジア諸国や中東欧諸国、就中日本に対する贖罪意識に基づく言動を行ったとしても、決して不思議ではありますまい。
 以下のようなケナンの言動は、そのようなものとして、我々は理解すべきではないでしょうか。

 「1948年に、ケナンは、日本は、彼の<赤露>封じ込め戦略の東アジア版(component)の「碇(anchor)」である、と主張した。
 しかし、これを実現するにあたっての主要な障害の一つは、日本の連合国最高司令官のダグラス・マッカーサー大将だった。
 <このケナンの伝記の著者である>ガッディスは、面白そうに、マッカーサーの「将軍のごとき引き籠り姿勢(remoteness)」が、行きつ戻りつしつつ(alternately)、彼の、欧州及びソ連に対する関心の欠如や無知、及び、米国政府に全般的に委ねる(defer)姿勢、を一層際立たせることとなった、と記している。
 ケナンは、マッカーサーについて、彼が、「日本の社会を…共産主義者による乗っ取りに対して脆弱にする目的で企画されたところの」諸政策を<日本で>確立することによって、<東アジアにおける赤露封じ込め戦略の>「成功に対する一つの主要な障害」になっている、と見なしていた。
 ケナンはかねてより、「<マッカーサー>大将は鎖でつなぐことが必要な(tethering)普遍主義者(universalist)である」と見ていたところ、マッカーサー体制の秘密主義に接したケナンは、これに加えて、まるで「疑い深い外国政府」と交渉しているかのような感覚を覚えたものだ。
 ケナンは、<日本の>占領を掌る国際機関である極東委員会・・都合が悪いことにそれにはソ連が入っていた・・の権限を廃止できないまでも縮小し、マッカーサーに「取りし切らせる(remain in charge)」ことを示唆することによって、<逆説的に>マッカーサー<の力>を削ぐ(diffuse)ことに成功した。
 やがて、ケナンによって推奨されたところの、(マッカーサーの権威が<この方向転換の>多くを支えることとなる)「逆コース(Reverse Course)」として知られる、<欧州に対する>マーシャルプランに類似した<日本における>一連の諸改革<が実行に移された。>・・・」

 ケナンは、マッカーサーを、赤露が影響力を行使できた極東委員会の力を削ぐことで赤露の影響下から解放するとともに、GHQ内の赤露シンパを抑え込むためにマッカーサーの権威を利用することで、占領下の日本をして、封じ込め戦略たる日本の戦前の赤露抑止戦略へと逆コースをとらせることに成功した、ということです。
 なお、マッカーサーが、このケナンの戦略、つまりは日本の戦前の赤露抑止戦略の正しさを真に理解するには、朝鮮戦争の勃発を待たなければならなかった、と私は見ています。

3 終わりに

 私のこういう見方も踏まえた、本格的なジョージ・ケナン論を書いてくれる、日本の学者が一日も早く現れることを、私は願っています。

太田述正コラム#4936(2011.8.17)
<孫文の正体(その2)>(2011.11.7公開)

 (注4)「孫文は1922年5月8日に「北伐」を発動したが、・・・これに反対する・・・反乱に遭遇し、・・・からくも総統府を脱出した孫文は、・・・ついに万策尽き、・・・上海への撤退を決せざるを得なかったのである。・・・<当時、>孫文は、・・・今後の中国外交が目指すべき方向について<以下のように>語った。・・・
------------------------------------------------
 今日の中国の外交についていえば、ソヴィエト・ロシアほど国土が隣接し、関係が密接な国はない。国際的な地位についていえば、ソヴィエトとわが国の利害は一致しており、いささかも侵略を危惧する必要はない。・・・
  ------------------------------------------------
 <1923年>6月19日、コミンテルンのマーリング(Maring・・・)と会談した孫文は、・・・<マーリングによれば、>以下のように述べたのである。
------------------------------------------------
 ・・・「ソヴィエト・ロシアの[ボルシェヴィキ的]諸原則とドイツの技術」が<私>の大きな希望である。・・・
------------------------------------------------
 孫文<の>・・・「連ソ」構想の一端が表明されたのは、・・・1923年1月26日の上海における「孫文=ヨッフェ宣言」であるが、その後2月21日には孫文の権力掌握により第三次広東政府が組織され、6月には広州で中国共産党第3回全国代表大会が開かれて国民党との合作が決定された。さらに10月以降、ボリシェヴィズムの組織原則に基づく国民党の改組が共産党員を含めて展開されていく。・・・
 注目されるのは、1923年秋に・・・<孫文の命で>ソ連を訪問していた蒋介石の言動であろう。たとえば1923年11月26日、蒋介石はコミンテルン執行委員会(EKKI)で・・・次のように・・・述べていたのである。
------------------------------------------------
 ・・・国民党は・・・全世界で資本主義の影響力と闘うため、・・・ロシア、ドイツ(もちろん<共産主義(太田)>革命成功後のドイツ)および中国(革命<(=国民党による中国統一)(太田)>成功後の中国)の同盟を提案する。・・・<この同盟ができれば、>我々は全世界で資本主義体制を廃絶することができる。コミンテルンの同志はドイツ革命を支援して可及的速やかに勝利に導くべきである、と我々は考える。同時に我々は、コミンテルンが、東アジア、とりわけ中国革命に特別の関心を寄せるよう期待する。
------------------------------------------------
 さらに2日後の11月28日、蒋介石はトロツキー・・・と会談<(前出)し、・・・「解放中国はロシアとドイツからなる社会主義ソヴィエト共和国のメンバーとなるだろう」・・・<と>述べている・・・。
 こうした考えは、もちろん・・・孫文のものでもあった。」(17〜18、20、23〜25頁)
 (注5)「蒋介石がコミンテルン執行委員会で発言したちょうど同じ日(1923年11月26日)、孫文は犬養毅宛に書簡を認め、次のように述べていたのである。
------------------------------------------------
 ・・・ヨーロッパにおいては、・・・ロシアとドイツが被抑圧者の中核となり、イギリスとフランスが横暴者の中核となり、アジアにおいては、インドと中国が被抑圧者の中核となり、横暴者の中枢は同じくイギリスとフランスであります。ところで、アメリカはあるいは横暴者の仲間となるか、あるいは中立を守るかのいずれかでありますが、被抑圧者の友人には決してならないことだけは断言できるのであります。ただ日本だけが未知数であります。被抑圧者の友となるか、それとも被抑圧者の敵となるかについては、私は、先生の志が山本[権兵衛]内閣において実行されうるか否かによって、判断致します。
------------------------------------------------
 すなわちここでは「連ソ」「連独」の論理と<後の>「大アジア主義」の論理が架橋されていたのだといえよう。・・・
 1924年11月28日、孫文は・・・神戸でいわゆる「大アジア主義」演説を行った。そこで孫文は、アジア民族の大連合には王道を主張するソヴィエト・ロシアも参加しうると主張し、「連ソ」路線に忠実な発言を行った。さらに、明らかにドイツを念頭に置きつつ、「圧迫を受けている民族はアジアにだけあるのではなく、ヨーロッパの中にもあるのです」と述べ・・・たのである。・・・さらに、これまた犬養宛書簡とまったく同様の論理で、・・・「[日本が]西方覇道の手先となるのか、それとも東方王道の干城となるのか、それはあなたがた日本国民が慎重にお選びになればよいことであります」・・・<という>呼びかけがなされた・・・。」(25、28〜29頁)
 筆者は、「日本は・・・これを拒否した」について、典拠を示していないが、自明であろう。
 (注6)「日ソ国交回復(1925年1月20日)後、・・・鈴木貞一(当時北京公使館付武官補佐官)<によれば、彼に対し>・・・ソ連側から「日本とドイツとロシアとこの三国で支那で革命運動を展開してアングロサクソンの勢力を駆逐する運動を一つやらないか」と<いう>提案<があっ>たという。・・・次に、ドイツ内部でも、・・・大戦後のドイツで・・・ドイツ国防軍・・・の再建を担ったゼークト将軍<は、>・・・ソヴィエト・ロシアとの秘密の軍事協力関係を推進したのである。さらに1933年1月30日にナチスが権力を握り、独ソ関係が悪化すると、ゼークトは・・・蒋介石政権のもとで1934年にドイツ軍事顧問団長に就任することになる。まさしくゼークトこそはドイツにおける中独ソ提携路線の象徴であった。・・・
 <また、>グレーゴア・シュトラッサーは1925年10月22日、ナチ党機関紙・・・で次のように主張していた。ドイツの外交上の敵は英仏であり、したがって「さしあたっては[独ソ]両国の利害およびすべての抑圧された国家の利害は一致している」。・・・
 最後に、日本においても、・・・第一次世界大戦前、アメリカ合衆国が・・・強大化する趨勢を前にして、後藤<新平>が「新旧大陸対峙論」のもとに日露中三国の提携を構想していた・・・。<そして、>1923年・・・後藤<は、対アメリカ対峙に加え>・・・労農政府を利導して、露領における我が経済的発展の好機を掌握し、彼我共栄の途を開くこと・・・露支の接近に先んじて、支那の妄動を制<すること>・・・<という>認識<に基づき、>・・・ヨッフェ・・・を日本に招き、日ソ国交樹立のために会談を行った・・・。
 一方後藤は、こうした日ソ(中)提携論に加え、・・・1927年・・・には、社交を旨とした旧来の「日独協会」に代えて、積極的な文化交流をめざす「日独文化協会」を設立し、初代会長に就任していたのである。」(32〜36頁)

3 コメント

 実際のところ、この論文中に私にとって目新しい話は基本的にないのであって、この論文の最大の意義は、孫文の中国国民党が、紛れもない容共政党、より端的に言えば共産党のフロントであった、とされてきたところ、そのことを、発掘された史料をもとに証明した点にあります。
 もとより、孫文が「ソ連ないしモンゴルに国民革命軍の根拠地を建設し、そこから北京政府打倒の軍事行動を起こす」計画(筆者はこれを「西北計画」と称する)を唱えていたという話や、それに関連して、孫文が事実上外モンゴルの独立・・というか、当時の実態としてはソ連への割譲・・を事実上認めたという話は目新しかったですし、蒋介石<(1887〜1975年)>自身、共産主義者に成りきっていたとしか思えない記述にはいささか驚きました。

 蒋介石の息子の蒋経国<(1910〜88年)>については、「父・蒋介石と対立し、中国共産党に入党する。同年10月には・・・、ソビエト連邦のモスクワ中山大学に留学し、・・・ソビエト共産党にも正式に入党する・・・。父・蒋介石が<1927年に>起こした上海クーデターによって中国国民党と中国共産党が敵対関係に入ると、ヨシフ・スターリンより事実上の人質にされ・・・た。1937年・・・、西安事件を機にソ連より帰国、父である蒋介石と和解し、翌年中国国民党に入党する。」とされています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E7%B5%8C%E5%9B%BD
が、少なくとも「父・蒋介石と対立」という点は、疑ってかかる必要がありそうです。
 また、蒋介石の共産主義者からファシストへの転向の原因と経緯を究明する必要もありそうです。
 (一番簡単な説明は、蒋介石は上海クーデターを起こす直前に宋美齢と・・正式の結婚としては3度目、事実婚を含めれば4度目の・・結婚をしており、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3
この逆玉の輿結婚にあたって大財閥の宋一族から共産党との絶縁を促された、というものですが、魚心あれば水心だったのではないか、という感は否めません。)

 いずれにせよ、転向しなかった孫文、転向した蒋介石という違いこそあれど、最初から共産党に入った人々を含め、当時の支那の指導者ないし指導者予備軍の人々の大部分が、共産主義ないしファシズム、すなわち、私の言うところの、民主主義独裁に心酔したことについては、民主主義独裁が、欧州における、キリスト教的終末論/千年王国思想の変形物であることからすれば、支那の終末論/千年王国的伝統(「終末論・太平天国・白蓮教」シリーズ(コラム#4898以下)参照)抜きに説明することは困難である、と思います。

 (蛇足ながら、筆者の、「中独ソ<及び日本>の連合構想」が、当時、「中国」のみならず、「ソ連・・・ドイツ・・・日本」においても存在した、との主張は、面白いけれど、かなり根拠薄弱なのではないでしょうか。)

(完)

太田述正コラム#4934(2011.8.16)
<孫文の正体(その1)>(2011.11.6公開)

1 始めに

 XXXXさんが送ってくれたばかりの資料、なかなか面白いので、さっそく紹介することにしました。
 最初にとりあげるのは、田嶋信雄「孫文の中独ソ三国連合」構想と日本 1917〜1924年--「連ソ」路線および「大アジア主義」再考--」(服部龍二・土田哲夫・後藤春美『戦間期の東アジア国際政治』(中央大学政策文化総合研究所研究叢書6 中央大学出版会 2007年)の第一章)です。
 
 「中国における改革開放政策の進展と国際関係における冷戦体制の終焉は、中独(ソ)関係史研究の史料状況をも劇的に改善し、いままで用いられてこなかった多くの史料へのアクセスが可能となった。」(6頁)と書いてあるだけで、期待感が膨らんだ次第です。
 実際、典拠文献として、日本語、英語、ドイツ語、ロシア語、漢語のものがあげられています。
 筆者がこれらをすべて読みこなす能力があるとすれば、大変なものです。
 ちなみに、田嶋信雄(1953年〜)は、「東京都生まれ。北海道大学法学部卒業、<ドイツの>トリーア<(Trier)>大学およびボン大学留学を経て、・・・北海道大学法学部助手などを経て、現在、成城大学法学部教授」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B6%8B%E4%BF%A1%E9%9B%84
という人物です。

 XXXXさん提供の資料のこれまでの紹介は、どちらかと言うと、資料に出てくる一次史料に着目して、それら一次史料を踏まえて、資料(本や論文)の筆者が提示する説には余りとらわれず、私自身の説を打ち出す、というものでした。
 しかし、この論文に関しては、筆者は信頼するに足ると判断したので、彼の結論、すなわち、彼の説の紹介を軸とし、それに私のコメントを付す、という、やや、従来とは違う紹介の仕方をしようと思います。

2 田嶋信雄説の骨子

 37〜38頁に、結論として、こう書いてあります。

 一、孫文は、第一次世界大戦への<中国の>参戦問題<(注1)>以来、首尾一貫して対独接近政策を追求した。孫文の<言動>は状況的で<あり、>・・・時と所に応じて<変化した。>・・・しかしながら、孫文のドイツに対する態度は、・・・一貫しており、ドイツの工業・軍事・科学技術・学問などへの高い評価に基づく援助を期待していた。・・・
 二、孫文の親独政策は親ソ政策と結びつき、「中独ソ三国連合」構想として展開された<(注2)>。・・・しかもそこには、・・・独ソの支援を受け、ソヴィエト領ないしモンゴルを起点とした「北伐」を実行するという地政学的な考慮<(注3)>も働いていた。
 三、孫文の「連ソ」路線<(注4)は、未完の「中独ソ三国連合」の一部として実現された。・・・
 四、孫文の「大アジア主義」は、中独ソ三国を中核とする被抑圧民族の連帯を目指した。・・・<すなわち、>ユーラシア<主義>的な次元を有していた・・・。孫文は日本にこの反帝国主義的・・・<反>英米アングロサクソン二大国的・・・構想への参加を求めたが、日本は・・・これを拒否した<(注5)>・・・。
 五、中独ソ<及び日本>の連合構想は、中国にも、ソ連にも、ドイツにも、日本にも存在した。<(注6)>

 (注1)「<北京政府国務総理の>段祺瑞<(コラム#4502、4520、4528、4724)>は、<1917年>8月14日、・・・ドイツに対する宣戦布告に踏み切った・・・。この対独宣戦布告は中国の分裂を加速する一因となった。8月27日、反段祺瑞派の国会議員130余名は広東で非常国会を開催し、9月10日には孫文を大元帥とする広東軍政府が組織されたのである。これ以降中国で・・・二重権力状況<が>・・・続くことにな<った。>・・・ただし、3日後の9月13日、孫文と広東政府は、国際情勢および段祺瑞政権からの圧力が強まる中でドイツに対し形式上の宣戦布告を行わざるを得なかった。」(12頁)
 (注2)「1917年11月、ロシアでレーニン・・・の率いるボリシェヴィキ革命が成功し、国際情勢は根本的に変動することとなった。翌18年3月3日にはブレスト=リトフスクで独露講和条約が締結され、ドイツとソヴィエト・ロシアの間での講和が成立すとともに、ヨーロッパの東部地域はほぼドイツの支配下に置かれることとなった。反イギリス・親ドイツ戦略をとる孫文にとっては絶好の機会が到来したのである。1918年・・・12月1日に・・・「孫の親しい友人」であり「南方派におけるドイツの信頼しうる情報提供者」でもあった曹亜伯・・・はベルリン・・・<の>ドイツ外務省を訪れ、・・・「孫文の建議」を提出した・・・。<それは、>中国(広東政府)、ドイツおよびソヴィエト・ロシア三国の同盟関係の形成の提案<だった。>・・・
 この間、1918年11月9日にはドイツでも革命が起こり、同月11日にドイツは連合国との間で休戦協定を締結するのやむなきに至っていた。ソヴィエト・ロシアを通じたドイツ軍の「東漸」と中独ソ三国の連合形成にかけた孫文の期待は、ここにひとたび潰え去ったのである。」(9、
 (注3)「1921年11月<の時点で、>・・・ソビエト・ロシア・・・首脳は、モンゴルは地勢上、戦争となれば必ず帝国主義国<(日本(太田))>に占領され、反ソ軍事基地とされるであろう<ことから、>・・・外モンゴルの中国からの独立を<確保しなければならないとの考えを>・・・外モンゴルのスフバートルを長とする代表団<に伝えている。>・・・
 <他方、>孫文<は>1922年末に<駐中国ソヴィエト代表の>ヨッフェ<(コラム#228、4498)>に・・・中国外蒙地域に全中国統一の軍事基地を建設すること・・・<を>提案し<てい>た。・・・<しかし、>ソ連は外モンゴルはすでに中国から独立した別個の国であり、中国領土ではないと考えており、国民党の外モンゴル干渉を許すはずはなかった。トロツキーは蒋介石にこう明言した。「国民党はモンゴルではなく、自国の領土で軍事行動を始めなければならない」。・・・
 <孫文は、結局、このソビエト<(ママ。以下同じ)>の要求を呑む。>
 1923年初めから24年秋・・・、コミンテルン<は、>孫文・国民党を「全力で支持」し、これを「唯一の盟友」とした・・・。・・・ここで無視できない重要な要因は、ヨッフェ等のソビエト代表との数次の会談において、孫文は外モンゴル及び中東鉄道問題におけるソビエトの基本的観点を明確に支持していたことであ<る。(ちなみに、>この両問題こそがソ連政府と中国北京政府の国交正常化交渉における主要な障害であった<)>・・・。」(中央大学人文科学研究所編『研究叢書21 民国前期中国と東アジアの変動』(中央大学出版部 1999年 の第4章)156〜160頁)

(続く)

太田述正コラム#4665(2011.4.4)
<再びガンディーについて(その5)>(2011.6.25公開)

 (4)失格政治家

 「1914年にガンディーはインドに戻り、自治を目指しての闘争に自分自身を投じた。
 しばしば英国当局によって投獄されつつ、彼は、市民的不服従運動(campaign)を率いたが、その絶頂は1930年の塩の行進運動(movement)だった。
 それは、レリヴェルド氏が記すところによれば、「英インド統治(Raj)を震撼させ」、ガンディーが海辺に赴き塩をつくるという単純な行動によって英国の課した税金を無視した時、90,000人が逮捕されるに至った。」(D)

 「彼の生涯をかけた自治(スワラジ(Swaraj))運動にもかかわらず、ガンディーが市民不服従運動がうまく行きかけるたびに決まって放擲したようなことがなければ、自治はもっと早く実現していたことだろう。
 3億人のインド人がその0.1%の数の英国人によって統治されていたのであるから、インドが政治的に団結していたならば、インド亜大陸における英インド統治を終わらせることなど容易であったはずだ。
 しかし、インドの9,000万人のイスラム教徒達の指導者たる(ガンディーが「マニアック」であると呼んだところの)ムハマッド・アリ・ジンナーを苛つかせ挫折感を抱かせるガンディーの奇っ怪なる能力は、早期独立のいかなる希望も打ち砕くものだった。
 彼は、同様、この国の5,500万人の(触ることで上位諸階級を汚すと思われていたところの)不可触賤民を代弁したB.R.アンベードカルを疎外した。
 アンベードカルは、ガンディーを「邪(devious)で信用できない(untrustworthy)」と宣言した。
 1900年から1922年の間、ガンディーは、少なくとも3回、運動の継続を中断したことがあり、投獄された15,000人を超える彼の支持者達は見捨てられた形になった。」(A)
 
 「「一人でもユダヤ人が立ち上がってヒットラーの布令に対して屈することを拒否すれば、ヒットラーの心を融かす」に十分なのかもしれない、とチェコ人達やユダヤ人達に、ナチスに対して非暴力主義をを採用するよう彼が助言した、というのが本当かどうか確たることは分からない。
 (非暴力主義は、ガンディーの見解によれば、日本の侵略者達に対するところの支那人においても機能したことは間違いないはずだった。)
 アドルフ・ヒットラー宛の手紙を「我が友」で始めたガンディーは、利己主義的にも次の様に<ヒットラーに>尋ねた。
 「戦争的手法を意図的に拒絶することでかなりの成功を収めた者<である私>のアッピールに耳を傾けていただけないか」と。
 彼は、パレスティナのユダヤ人達に、「アラブ人達の善意に委ね、アラブ人達の世論が熟するまで」ユダヤ人国家をつくるのを待つ」ように助言した。」(A)

 (5)胡散臭い書評

 ところで、「非暴力主義は、ガンディーの見解によれば、日本の侵略者達に対するところの支那人においても機能したことは間違いないはずだった」のくだりは、このレリヴェルドの本にそう書いてあったというよりは、英国人歴史家たる書評子のアンドリュー・ロバーツ(Andrew Roberts)(H)の勝手な忖度なのではないか、と私は勘ぐっています。
 この際、彼による書評で胡散臭い部分をもう少しご紹介しておきましょう。

 「1942年8月、日本軍がインドの玄関口にあって、既にビルマの大部分を奪取していた折、ガンディーは、<英国の>戦争努力を邪魔することを企図した運動を開始して英国をして「インドを去(Quit India)」らしめんとした。
 ジェノサイドを旨とする東京一派(regime)が北東インドを奪取するようなことあらば・・英国の部隊がそれを押しとどめることがなかったならば、ほとんど間違いなくそうなっていたことだろう・・その結果はインド民衆にとって大災厄であったろう。
 フィリピン人総数の17%を下回らない数が日本の占領下で命を絶たれたが、インド人には少しはましな運命が待っていたと考える理由はない。
 幸いなことに、英国の<インド>副王のウォヴェル卿(Lord Wavell)は、単純明快にも、ガンディー及び彼に従った者達60,000人を投獄し、日本軍との戦いという仕事を続けた。 
 <また、>ガンディーは、大英帝国と<ドイツの>第三帝国とは「完全な相似形(an exact parallel)」であると主張したが、英国は、日本軍の勢いが減殺する1944年までの21ヶ月間、ガンディーを贅沢にもアガ・カーン(Aga Khan)の宮殿に投獄し続けたところ、ヒットラーは、自分ならガンディーと彼に従った者達を射殺したと言明している。
 (ガンディーとムッソリーニは、二人が1931年12月に会った時に意気投合している。
 偉大なる人物(Great Soul)が、首領(ドゥーチェ(Duce))の「貧者への奉仕、超都市化への反対、資本と労働の間の調整努力、自国民に対する情熱的な愛」を賞賛したからだ。)
 ガンディーが南アにいた21年間(1893〜1914年)、彼はボーア戦争にも1906年のズールー戦争にも反対しなかった。
 <それどころか、>彼は、いずれのケースにおいても、患者運搬車大隊を募っ<て英国側を支援し>たし、第一次世界大戦中にインドに戻ると、自らを英国の「<志願兵>募集機関長(recruiting agent-in-chief)」に任じた。
 そのくせ、<第二次世界大戦においては、>彼はファシズムに対する戦争に反対することに良心の呵責は覚えなかったのだ。」(A)

 「フィリピン人総数の17%を下回らない数が日本の占領下で命を絶たれたが、インド人には少しはましな運命が待っていたと考える理由はない」中、その前段については、フィリピン人を焚きつけて日本軍へのゲリラ戦を戦わせ、また、フィリピン奪還作戦を敢行して多数のフィリピン人住民を巻き込んだ米国の責任を無視した暴論ですし、その後段については、英国当局が先の大戦中にベンガル大飢饉で100万人単位の餓死者を出したくせによくもまあそんなことが言えたものです。
 そもそも、「ジェノサイドを旨とする東京一派」というくだりには開いた口が塞がりません。

 ちなみに、ロバーツ(1963年〜)は、ケンブリッジ大学で歴史学の博士号を取得していながら、企業財務の専門家としてのキャリアから出発したという変わり種の保守派で、現在、英米のマスコミで売れっ子の歴史家ですが、彼の書いた本が事実の誤りが多いと批判されたことがある上、アパルトヘイト懐旧団体の招きで講演をしたり、インドのアムリッツアーにおける虐殺やボーア戦争時のアフリカーナ強制収容所について、批判的でないと彼は指弾されたことがあります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Andrew_Roberts_(historian)

3 終わりに

 以前に(コラム#176、で)ガンディーをとりあげた時、彼を「マハトマ・ガンジーという、平均的イギリス人の偏見を身につけつつも、同時に個性が強い色黒のイギリス人もどきの人物」と形容したことがあります。
 そして、「「個性」と「個性」がぶつかりあって打ち消し合うイギリス本国とは異なり、ガンジーの特異な反産業主義的「思想」は、これがインド亜大陸の英国からの解放をもたらしたとの誤った認識とあいまって、これとぶつかりあい打ち消し合う「思想」がないまま、インド亜大陸の原住民達・・とりわけ後のインドの原住民達・・に「普及」し、一種の自然発生的な国家イデオロギーと化してしまうのです。これが、独立後のインドに大きな悲劇をもたらします。その悲劇とは、世界最大の民主主義国インドの貧困と停滞です。」と記しました。
 今でも、この考えに変わりはありません。
 こんなガンディーが、インドの一部でいまだに聖人視されているだけでなく、ガンディーの非暴力主義が戦後の米国における市民権運動や、更には現在のアラブ革命にまで影響を与えていることは、歴史の女神のいたずらも度が過ぎる、と言いたくなります。
 結局のところ、非暴力主義が意味を持つのは、・・肝腎の英国支配下のインド亜大陸ではガンディーらが殺されこそしなかったけれど、非暴力主義は政治的には何の役割も果たさなかったわけですが・・戦後の米国のような自由民主主義国や、自由民主主義理念が一定程度普及するに至っていた現在のチュニジアやエジプトだけにおいてなのです。

 そんなガンディーはいかなる日本観を抱いていたのでしょうか。

 「日本軍が米英と開戦した後に進撃を続けた時期には日本軍の受け入れを模索する姿勢を見せていた・・・ガンディーは<、その後、>・・・1942年7月26日に・・・「すべての日本人に」・・・と題する以下の公開文書を発表した。

 私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。あなたがた日本人はアジア人のアジアという崇高な希望を持っていました。しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした。しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。ただ、剣にのみ耳を貸す民族と聞いています。それが大きな誤解でありますように。 あなたがたの友 ガンディーより。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC

 「平均的イギリス人の偏見を身につけ」ていたガンディーが、上記のような「平均的イギリス人」的な日本に対する「偏見」を吐露したことに、何の不思議もありません。

 最後は、私がその毒舌の迫力だけは買うロバーツのガンディー評で締めくくりましょう。

 「ガンディーは、性的瘋癲人(weirdo)であり、政治的無能者であり、狂信的なる流行追っかけ人(faddist)であって、自分の取り巻きの人々に対してしばしば徹底的に残酷だった」(A)

(完)

太田述正コラム#4663(2011.4.3)
<再びガンディーについて(その4)>(2011.6.24公開)

 (3)ガンディーの差別意識

   ア 人種

 「ガンディーは、すぐに<南アの>ナタール(Natal)州のインド人ビジネス・エリート達のスポークスマンとなり、全面的なアパルトヘイトへと向かって急速に進化しつつあったところの差別的法制体系に反対するためのロビイング活動に従事した。
 後の彼の主張とは異なり、ガンディーは、ただちに債務労働者達(indentured laborers)・・彼等は主として低いカーストの南インド人たる下層階級であって奴隷に近い条件の下で鉱山やプランテーションで働かされるために連れられてきた・・の権利擁護を行ったわけではない。
 彼は後年におけるような、堅固な反帝国主義者にもまだなってはいなかった。
 英植民地当局から譲歩を獲得する目的で、彼は、ボーア戦争に従軍するインド人患者運搬車大隊を組織したし、1906年には不名誉な挿話であるけれど、(やはり患者運搬車軍団の指導者として)ズールー族の蜂起を弾圧するのを手助けした。
 ガンディーの南ア時代を通じ、多数派たる黒人と共通の大義に立とうとする試みについてのいかなる兆しも見られなかった。
 ズールー族の受刑者達と一緒に収監されたガンディーは、無意識のうちに「くろんぼ(Kaffir)どもは、概して文明化されておらず、受刑者達は一層そうである」と報告している。
 「連中は手に負えず、不潔でほとんど動物のように生きている」と。」(D)

 「ガンディーの非暴力主義は、彼を米国の市民権運動にとっての偶像に仕立て上げたが、レリヴェルド氏は、彼が、南アの黒人に対して、どれほど容赦なく人種主義的であったかを示す。
 南アに住み着いたインド人達の権利ための運動の一つに際して、ガンディーは、「我々は、それから、くろんぼ達のために用意された刑務所に歩きで連れて行かれた」と不満を述べた。
 「我々は、自分達が白人と一緒の仕分けにならなかったことが理解できなかったが、原住民達と同じレベルに置かれたことは、耐え難いことのように思えた・・・」と。
 南アのナタール州の州議会への公開書簡において、ガンディーは、どのように「インド人達が、根っからのくろんぼ達の立ち位置へと引き下ろされているか」について記した。 「くろんぼ達の生業は狩猟であり、妻を買うために必要な数の牛を集めるのが彼等の唯一の大志であり、<妻を買った>後は怠惰と裸体のうちに人生を送る」と。
 <また、>「我々インド人は、人種の純粋性について、白人たるアフリカーナの思い入れと同じくらいの思い入れがある」と彼は記した。
 恐らく、そうだからこそ、公的にはイスラム教徒とヒンドゥー教徒の団結を推進しつつも、彼は、自分の息子のマニラル(Manilal)がイスラム教徒のファティマ・グール(Fatima Gool)と結婚するのを認めることを拒絶したのだろう。」(A)

  イ カースト

 「ガンディーは、不可触賤民のために立ち上がる気持ちはあったが、1924年から25年にかけて、彼等がヒンドゥー教寺院で礼拝をする権利を要求していた、という決定的な時には、何もしなかった。
 彼は、ヒンドゥー教徒の高いカーストの人々を遠ざけやしないか、と心配したのだ。
 「君はゴスペルを牛に教えようというのかね」と彼は1936年に彼のところを訪れたキリスト教伝道使節団に訪ねた。
 「不可触賤民の幾ばくかは、その理解能力において牛よりひどいのだよ」と。
 ハンストは、「脅迫の最悪形態であって、非暴力なる根本原則に背馳するものである」としながら、ガンディーは、1932年に不可触賤民が将来のインド国会において割り当て議席を得ることを妨げるために、彼の最初の大断食を決行した。
 彼に言わせれば、それは「政治的問題ではなく宗教的問題」だったから議論の余地はないのだった。
 彼は別の時に、「不可触賤民<(=カースト外のヒンドゥー教徒)>制を廃止したとしても、それは、カースト内のヒンドゥー教徒が元不可触賤民達と食事を共にしなければならないことを意味しない」と語ったことがある。
 1930年代の、何万人もの人々からなる大群衆を集めた彼の反不可触賤民制集会において、不可触賤民達自身はカースト内のヒンドゥー教徒達から遠く離れた柵内に留め置かれた。」(A)

 「仮にインドが自由になるに値する存在であるとすれば、不可触賤民[制]はなくならなければならない」とガンディーは説教した。
 しかし、彼の集会の多くで、不可触賤民は別途収容柵内に隔離された。
 それは、彼等がカースト内のヒンドゥー教徒達によって出しゃばりすぎであると見られることを恐れたか、あるいは、地方の集会主催者達が、反不可触賤民制集会において不可触賤民制を顕示することの矛盾に気づかなかったか、そのどちらかだ。」(F)

 「ガンディーは、その一生の間に4つの大きな運動・・ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の団結、英国製繊維製品輸入反対、不可触賤民制廃止、インド亜大陸からの英国人の立ち退き・・を行ったけれど、最後のものだけが成功した。
 しかも、その理由は、単に、反帝国主義者たるクレメント・アトリー(Clement Attlee)によって率いられたところの、破産したに等しかった英国人達が、彼等を衰弱させた世界大戦が終わり、何が何でもインドから去りたかったからに過ぎなかった。」(A)

 「ガンディーは、彼の軌跡において多くの敵・・彼がイスラム教徒に対して過度に同情的であると思った正統派ヒンドゥー教徒達、彼の宗教的団結への呼びかけをヒンドゥー教徒達の陰謀の一環と見たイスラム教徒達、彼を山師であると考えた英国人達、彼を反動と思った過激派の不可触賤民達・・をつくった。。
 しかし、敵対者達の中で最も容赦がなかったのは、いまだに欧米ではほとんど知られていないところの、才気煥発にして気短な不可触賤民指導者たるブームラーオ・ラームジー・アンベードカル(Bhimrao Ramji Ambedkar)<(注3)>だった。
 彼は、不可触賤民制を払拭しようとするマハトマ<・ガンディー>の非暴力主義的努力を、せいぜいのところ、<ガンディーの>余興に過ぎないと見た。
 彼は、ガンディーが創り出したところの、自分達についての「ハリジャン(Harijans)」ないしは「神の子供達」という言葉にさえ、恩人ぶっているとして反対した。
 彼は、サンスクリットの「押しつぶされた」、「壊された」から来る「ダリット(Dalits)」という言葉の方を好んだ。」(B)

 (注3)1891〜1956年。コロンビア大学、LSEに留学した法学者。インドの憲法を起草。仏教に改宗。
http://en.wikipedia.org/wiki/B._R._Ambedkar
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%AB

(続く)

太田述正コラム#4661(2011.4.2)
<再びガンディーについて(その3)>(2011.6.23公開)

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<追補>

 本日、新たに出た二篇の記事で補足しておきましょう。

 「ガンディーのひ孫のトゥシャール・ガンディー(Tushar Gandhi)は、本を発禁にすることには反対であるとし、「マハトマが性的にフツーだろうがゲイだろうが両刀遣いだろうが」知ったことではない、と述べた。
 「いずれにしたって、彼がインド解放を指導した人物であることは変わらない」と。
 作家のナミタ・ゴクハレ(Namita Gokhale)は、発禁には悲しくなったと述べた。
 「観念を、あるいは思想を発禁にすることなんて不可能ゆえ、本が発禁になるたびに私は悲しくなる」と彼女は述べた。
 「インドにおける観念に係る民主主義的空間の存在は恩沢であり、本を発禁にすることは最も無意味な営みであると思う」と。」
http://www.bbc.co.uk/news/world-south-asia-12930427
(4月2日アクセス)

 「<マハラシュトラ州での発禁よりも>いささかもっと驚くべきは、グジャラート州でのこの本を発禁にするとの決定だ。
 同州は、ガンディーの出身地であり、彼のアシュラムの地であり、彼の歴史的な塩の行進の地でもあるとともに、伝統的なインドの価値の擁護者をきどってきたところの、ヒンドゥー教のナショナリスト政党たるBJPによって、この10年間統治されてきた所でもある。
 しかし、<同州の>ナレンドラ・モディによる首相として10年近くの統治を、ガンディーの徳の時代と見ることは困難だ。
 グジャラート州は、現在、二つのことで最も良く知られている。
 それは、2002年における身の毛もよだつ反イスラム教徒暴力と、ガンディーの共同体的調和や禁欲主義の理念<に沿っている>とは全くもって言えないところの、爾後の同州のビジネスに優しい企業天国への変身だ。
 (その一つの有力な例は次の通りだ。モンブランはガンディーの肖像が彫り込まれた25,000ドルの万年筆をつくったことで申し開きをしなければならなくなったという有名な話があるが、このブランドの製品は、グジャラート州のビジネス・エリートの間でステータス・シンボルとして必需品になっている。だものだから、モンブランは、グジャラート州の最大の都市であるアハメダバードで、大繁盛のブティックを開いている。)
 国民会議派は、形の上ではインドの世俗主義の擁護者だが、本件で若干の政治的得点を稼ぐことができた、とインディアン・エクスプレス紙は報じた。
 「法務省筋は、ガンディーに対して不敬を示す行動またはしぐさを、国旗ないし憲法に対する攻撃と同等の攻撃とみなすような、1971年国家的名誉侮辱防止法の修正を、同省が示唆するよう求められた」と述べた。
 <もっとも、>法務大臣のヴィーラッパ・モイリー(Veerappa Moily)は、ほとんど瞬時にそれを撤回したが・・。・・・
 インドは、他の自由民主主義国とは異なった哲学を抱いている。
 同国は、表現の自由を支持しているが、個々人が攻撃を行う権利よりも国家的調和の方を、より重視しているのだ。」
http://globalspin.blogs.time.com/2011/04/01/gandhi-lelyveld-and-the-great-indian-tamasha/
(4月2日アクセス)
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 (2)ガンディーの人となり

 「たゆまぬ自己宣伝家であったガンディーは、重版が確実に出るように、自分の聖人伝的伝記の初版を全部買い切って人々に送った。」(A)

 「レリヴェルド氏は、保守的な商人カースト出身で大切に育てられた若きグジャラート人のヒンドゥー教徒たる弁護士が、マハトマ、すなわち、一部政治家で一部聖人であるところの人物・・彼は、政治的独立のためのみならず、インドの村々に立脚した社会的・精神的変貌を希求して古のヒンドゥー禁欲主義を再生させた・・へと変貌したかを詳細に明らかにする。」(D)

 「ガンディーは、民族解放運動に、その後積極的に関わった多くのインド人達と同様、変わった観念を抱いている人々を惹き付けたところの、ヒンドゥー教と欧米のスピリテュアリズム(Spiritualism)の混淆物たる神智学(Theosophy)<(注2)>なる信条の辺境的環境(fringe milieu)に引き込まれた。
 神知学の会合は、インド人と欧州人が対等の立場で親しく会うことができる数少ない場所の一つだった。
 1894年には、ガンディーは、自己宣伝的小冊子シリーズの新聞広告の中で、自分自身を「深遠なるキリスト教同盟とロンドン菜食主義者協会の使い(Agent for the Esoteric Christian Union and the London Vegetarian Society)」と名乗るところまで行った。
 そして、神智学徒たる友人を通して、彼はトルストイを発見する。
 トルストイの普遍的友愛主義的(brotherhood)と過激な非暴力的信条は、ガンディーに深甚なる影響を与えることになる。」(D)

 (注2)「19世紀に<ロシア生まれの米国人の>ブラヴァツキー夫人を中心として<ニューヨークで>設立された神智学協会に端を発する神秘主義、密教、秘教的な思想哲学体系である。全ての宗教、思想、哲学、科学、芸術などの根底にある1つの普遍的な真理を追求することを目指している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%99%BA%E5%AD%A6
 「神智学は、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたことが知られている。例えば、ロシアの作曲家スクリャービンも傾倒したし、イェイツやカンディンスキーにも影響を与えた。」「ロシア首相をつとめたセルゲイ・ヴィッテ伯爵は<ブラヴァツキー夫人(1831〜91年)の>従兄弟」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%A4%AB%E4%BA%BA

(続く)

太田述正コラム#4659(2011.4.1)
<再びガンディーについて(その2)>(2011.6.22公開)

<コラム#4657への追加>

H:http://www.nytimes.com/2011/04/01/books/gandhi-biography-by-joseph-lelyveld-roils-india.html?hpw
(4月1日アクセス)

------------------------------------------------------------------------------

 --批判--

 「この本はまだインドでは発売されていない。」(E)

 「グジャラート州首相のナレンドラ・モディ(Narendra Modi)は、ジョセフ・レリヴェルドによってなされたマハトマ・ガンディーについての叙述は軽蔑されるべきだ」と自分のブログに書いた。
 「いかなる事情があろうと、こんなことが許されて良いはずがない」と。」(G)
 「<3月30日、>グジャラート州議会は全会一致で<この本>を発禁にした。」(E)
 「「ガンディー師は尊敬されている指導者であり、この国の父として知られている。彼はインド解放運動を率いた。州政府は当州においてこの本が出版されないようにする措置をとることになろう」とマハラシュトラ州の産業相は、<30日、>州上院(Legislative Council)で述べた。
 ・・・「自分の宣伝と本を売らんかなのためにインドの偉大な指導者達のイメージを汚すことが流行になってきている」とマハラシュトラ州の与党の国民会議派のスポークスマンのサンジェイ・ダット(Sanjay Dutt)は語った。
 「中央政府は、国の父のイメージを汚す者は、誰であれ、厳しく処罰する法律を援用すべきだ」と。」(G)

 「ムンバイ・ミラー紙は、<3月29日、>一面に・・・「ある本がドイツ人の男がガンジーの秘密の恋人だった主張」という見出しの記事を掲げた。
 ガンディーのカレンバッハとの手紙のやりとりのいくつかを精査の上、ガンディーの性志向について書いたことがある、精神分析家のスディール・カカール(Sudhir Kakar)は、ガンディーとカレンバッハが恋人同士であったとは思わない、と語った。
 「それは極めた誤った解釈だ」と。
 ガンディーの偉大な目標は、非暴力、性的禁欲と真実だった、と彼は語った。
 「ヒンドゥーの考え方は、性志向は散逸しがちな根源的エネルギーを保有しているというものだ」とカカールは語った。
 「仮にそれが昇華、制御できれば、それはあなたに精神的な力を与えることができる。ガンディーは、自分の政治的な力は、性的禁欲から、すなわち彼の精神的な力から来ている、と感じていた」と。
 彼は、ガンディーは、女性の仲間達へのものも含め、しばしばその手紙を強い愛の言葉で埋め尽くしたけれど、だからといって肉体的親密性へとそれが導いたわけではない、と述べた。
 「彼は自分の感じたままを伝えていたのだが、それはプラトニックなものだった。それらは行動に移されたわけではない。そんなことは、彼にとっては耐え難いことだったはずだ」と。」(E)

 --反批判--

 「作家で、表現の自由のために戦っているところの、インド・ペンクラブ事務局長のランジット・ホスコート(Ranjit Hoskote)は、この本を発禁にする動きに対し、地域メディアはレリヴェルドの意図とガンディーのカレンバッハとの関係のどちらも誤解している、と非難した。
 「第三者によるルポとコメントを引用すること以上に悪しき事例はない」と彼は述べる。
 「自分が読んでもいない本をどうして発禁にできるのだ」と。
 彼は、ガンディーのカレンバッハとの手紙のやりとりは、既に何十年も図書館で読むことができる状態にあったと述べた。
 「そこには何も秘密なんてない。そこには何も醜聞なんてない」と彼は述べた。」(E)
 「ガンディーの孫のラジモハン(Rajmohan)でさえこれに同調する。
 彼は、ガンディーの性的生活に関する示唆を一笑に付し、発禁を求める声を拒否し、それは「あらゆる見地から間違っているし、ガンディーが言論の自由を追求したことに鑑みれば、その倍間違っている」と形容した。
 「我々はレリヴェルドの本など気にする必要はない」と彼はヒンドゥスタン・タイムスに書いた。」(G)
 
 --批判の背景--

 「<上出の>グジャラート州は特に保守的な所であり、例えば、アルコール飲料を販売することはできないし、この州はヒンドゥーのナショナリスト政党によって統治されている。・・・
 <ちなみに、>2009年にニューデリーの高等裁判所は、英領当時からのホモ禁止法を違憲であるとしたが、これはゲイの権利の分水嶺と見られている。
 にもかかわらず、インドのゲイの大部分はカミングアウトを躊躇し続けている。・・・
 <この本を巡る>この論議は、インドの高度に制限的な言論の自由の権利を浮き彫りにする。
 インドの役人達は、よく、本、映画、絵画等の作品を発禁にしたり検閲したりする。
 インドの法の下では、いかなる市民も作品を発禁にして欲しいと請願することができ、活動家や政治的指導者達は、よく、その権利を行使する。・・・
 <インドの>憲法は、不快であると解釈できる言論に対し「合理的制限」を課すことを認めている。
 1988年に、インドは多くのイスラム教国ともども、インド出身のサルマン・ラシュディの小説、『悪魔の詩』を発禁にした。
 また、昨年には、地域政党であるシヴ・セナ(Shiv Sena)が、<上出の>マハラシュトラ州(Maharashtra)における支配的な倫理集団を誹謗しているとして、ムンバイ大学をして、ロヒントン・ミストリー(Rohinton Mistry)の高い評価を受けているところの、『かくも長き旅路(Such a Long Journey)』<(注1)>をそのカリキュラムから落とさせた。」(H)

 (注1)ミストリーは、1952年ボンベイ(ムンバイ)生まれのパルシー教徒(Parsi)・・ゾロアスター教を起源とする一神教宗派の信徒・・であり、現地の大学を出てしばらくしてからカナダ住まいとなり、現在に至る。彼が1991年に上梓した2作目の小説(カナダ総督賞受賞)がこれ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rohinton_Mistry
http://ejje.weblio.jp/content/Parsi

 --著者によるコメント--

 「<件の二人の間で交わされた>手紙群は、競売でインドの国立文書館が入手したものであり、研究者なら手にすることができる。
 それらは、カレンバッハ氏の子孫達によって売られたものだ。
 <なお、>ガンディーは、カレンバッハ氏の彼宛の手紙群を早い時期に焼却している・・・。・・・
 口づてで交わされたところの、南アフリカのこぢんまりとしたコミュニティーにおける<この話の>結論は、往々にしてかなり露骨なものだった。
 当時も、あるいはその後においても、ガンディーが妻のもとを去って一人の男と生活を共にしたことは、秘密でも何でもない。
 <私は、この本の中で二人の関係について結論を下してはいないが、>プラトニックな愛の概念なんて眉唾物だと思われていた時代においては、二人の関係と手紙類から適宜詳細な事実を選びとれば、一つの結論が示唆されるように見えることは否定しがたい。」(H)

(続く)

太田述正コラム#4657(2011.3.31)
<再びガンディーについて(その1)>(2011.6.21公開)

1 始めに

 マハトマ・ガンディー(本名:Mohandas Karamchand Gandhi。1869〜1948年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Mohandas_Karamchand_Gandhi
についての本がまた出ました。
 ジョセフ・レリヴェルドによる 'Great Soul: Mahatma Gandhi And His Struggle With India' です。
 インド国内でこの本をめぐって論争が起きており、また、現在進行形のアラブ革命にあたって、非暴力が叫ばれ、しばしばガンディーへの言及がなされていることもあり、この際、改めてガンジーについて考えてみるのも一興かと思った次第です。

A:http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703529004576160371482469358.html?mod=WSJ_Opinion_LEFTTopOpinion
(3月26日アクセス)
B:http://www.nytimes.com/2011/03/27/books/review/book-review-great-soul-mahatma-gandhi-and-his-struggle-with-india-by-joseph-lelyveld.html?hpw=&pagewanted=print
(3月27日アクセス)
C:http://www.taipeitimes.com/News/world/archives/2011/03/30/2003499487
(3月30日アクセス)
D:http://www.nytimes.com/2011/03/30/books/in-great-soul-joseph-lelyveld-re-examines-gandhi.html?hpw=&pagewanted=print
(3月30日アクセス)
E:http://www.guardian.co.uk/world/2011/mar/30/gujarat-bans-gandhi-book-gay-claims
(3月31日アクセス)
F:http://www.csmonitor.com/Books/Book-Reviews/2011/0330/Great-Soul-Mahatma-Gandhi-and-His-Struggle-With-India
(3月31日アクセス)
G:http://www.csmonitor.com/Books/chapter-and-verse/2011/0330/Gandhi-biography-discussing-his-sexuality-is-banned-in-some-Indian-states
(3月31日アクセス)
H:http://www.nytimes.com/2011/04/01/books/gandhi-biography-by-joseph-lelyveld-roils-india.html?hpw
(4月1日アクセス)

 ところで、レリヴェルト(Joseph Lelyveld。1937年〜)は、NYタイムスの記者として南アフリカとインドの特派員等を経て、同紙の編集主幹(executive editor)を1997年から2004年まで務めた、ピューリッツァー賞受賞者です。
 ガンディーが、たまたま同じ順序で、両地域に住んだことから、ガンディーに強い関心を抱いたことがきっかけで、レリヴェルトはこの本を書いたのです。(F)

2 マハトマ・ガンディー

 (1)ホモ論争

 「ガンディーは、・・・東プロイセン出身で南アフリカに住んでいたユダヤ系建築家でボディビル家のヘルマン・カレンバッハ(Hermann Kallenbach)(F、A)・・・と、ヨハネスブルグ・・・のカレンバッハの家(D)・・・で、1914年に彼がインドに戻るまでの1907年から約2年間、・・・妻を置き去りにして(A)・・・生活を共にした。」(C)
 「カレンバッハは、ガンディーに土地1,100エーカーを贈与し、それは1910年に彼等の共同トルストイ農場になった。」(D)

 「・・・「あなたの(唯一の)写真が私の寝室の暖炉の上に置いてある」と彼はカレンバッハに書いた。「この暖炉は寝台の足下にある」と。
 何らかの理由で、彼に、綿布とワセリンはカレンバッハを「常に思い起こさせた」が、レリヴェルドは、それらについては、ガンディーが自ら使用した浣腸剤と関係があるのかもしれないけれど、その他の、より寛大ならざる説明が可能なのかも知れない、と思いを巡らす。
 ガンディーは、カレンバッハに、「いかにあなたが私の肉体を完全に手に入れしまったか。これは徹底的な隷属だ」と書き送っている。
 ガンディーは、自分自身に「上の家(Upper House)」、カレンバッハに「下の家(Lower House)」という渾名をつけ、下の家に対し、「いかなる女性をも邪心を抱いて見つめない」ことを約束させている。
 その上で、この二人は、「更なる愛、そして更に更なる愛…この世にいまだ存在したことがないような愛」を誓った。
 彼等は、ガンディーが1914年にインドに戻った時に別れた。戦争中はドイツ国籍者はインドを訪れることが許されなかったからだ。しかし、ガンディーは、彼を取り戻す夢を諦めることは決してなかった。1933年に、ガンディーは、「あなたは常に私の心の中で眼前にいる」と書き送っている。
 結婚した収容者すら禁欲を誓わなければならないところの、アシュラム<(=ヒンズー教徒のための信者向けの宿泊施設の場所
http://ejje.weblio.jp/content/ashram
)>において、後に、ガンディーは、「私は男女間の性交ほど醜いものを想像することができない」と言った<というのに、彼はかつてホモ行為に耽ったわけだ。>」(A)

 「英国のデイリー・メール紙は、見出しに「ガンディーは「妻を置き去りにして男性の愛人と生活を共にした」と新しい本は主張する」と掲げ、同じくディリー・テレグラフ紙は、書評で、ガンディーは「南アフリカの黒人達に対して人種差別観念を抱いていた」と記した。
 これに対し、レリヴェルドは、・・・<自分のこの著書が、>諸新聞によって著しくねじ曲げられている、と語った。」(C)

 ところが、これらの書評が出るや、インドで、レリヴェルドに対して囂々たる非難の声がわき上がったのです。

(続く)

太田述正コラム#4458(2010.12.25)
<パーマーストン(その2)>(2011.3.30公開)

 (2)未成年時代・陸相時代

 「・・・7歳の時にパーマーストンは欧州旅行に連れて行かれ、すぐにフランス語とイタリア語に流暢になった。
 彼はハロー校では勤勉だった。
 ここで銘記しておく価値があるのは、イートン校に比べると生み出した首相の数は少なく、ピール、パーマーストン、ボールドウィンとチャーチルだが、それはすべて最上級の首相であったことだ。・・・」(C)

→チャーチルについては、断じてノーと言わなければなりません。
 英国人の、しかも歴史家の多くが、この重要な点で現実から目を背けていることは、英国が零落してしまったことが、いかに英国人のインテリにとってトラウマになっているかを示して余りあるものがあります。(太田)

 「・・・小ウィリアム・ピットの初期からの支持者として、彼はすぐに議会に入り、間もなく陸相のポストを与えられ、5人の首相の下で陸相を続けた。
 彼は間違いなく嘱望されている男だったが、ブラウンはパーマーストンのリヴァプール(<Charles Jenkinson, 1st earl of >Liverpool<。1727〜1808年。政界の黒幕的下院議員
http://www.britannica.com/EBchecked/topic/344662/Charles-Jenkinson-1st-Earl-of-Liverpool-Baron-Hawkesbury-of-Hawkesbury (太田)
>)やウェリントン(Wellington<。1769〜1852年。首相:1828〜30年、1834年>)<(コラム#128、729、2138、2974、3561、3757)>といった強力な人物達との接し方において自信なげな部分があることを見出す。
 後に喧嘩好きとして有名で、そのことで非難された男にしては、これは奇妙な気後れぶりだった。
 初期の頃には、彼は低姿勢を貫き、閣議においても、彼の省の管轄に関わるもの以外については避けて通った。・・・」(D)

 「・・・外相になる前に、パーマーストンは陸相を20年間勤め、陸軍の財政を担当した。
 陸軍省でも外務省でも、彼は吏員達をこき使い、喫煙を禁じ、公文書を書き換えさせた・・彼は悪筆を生涯批判し続けた・・ことで、彼らから憎まれた。
 彼自身の仕事量は大変なものだった。
 彼は、しばしば自分自身について「ガレー船の奴隷」という言葉を使った。
 一日に余りにも多くのものを詰め込もうとして、人々を彼の控えの間に待たせつつ、彼はいつまでも遅くまで残業をした。
 おかげで、<この控えの間で、>ネルソン(Nelson)<(コラム#3055)>はウェリントンとただ一度きりの邂逅を果たしたものだ。・・・」(C)

 (3)外相時代・首相時代

 「・・・パーマーストンは1830年から1855年の間の多くを<外相として>英国の外交を執り行うことに費やした。
 そして、1855年から在職のまま亡くなった1865年10月18日まで、首相として、同じことに大部分を費やした。・・・
 彼が人々の記憶を鼓吹したとすれば、それは、戦闘的な「自由主義的介入主義者」としてだった。
 彼は、当時、恐らく地上最大の大国であった英国をして、そのなすべきことは、英国以外の世界を英国が適切であると見たような形に、かつ英国の国益に合致するような形に、秩序付けることを確保することである、と決定させた男なのだ。
 これは、当時は議論のあるところだった。
 今ではこれを不快に思う人もいるが、第3代ソールベリ侯爵(<Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil,> 3rd Marquess of Salisbury<。保守党。上院議員として首相を勤めた最後の人物。1830〜1903年。首相:1885〜86年、86〜92年、95〜1902年
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Gascoyne-Cecil,_3rd_Marquess_of_Salisbury (太田)
>)が、外相、そして首相として、19世紀の最後の4分の1において追求したところの、「名誉ある孤立(splendid isolation)」なる、<パーマーストン亡き>後の政策は、<このパーマーストンが決定させたものが>刺激を与えた結果もたらされたものなのだ。・・・
 外相時代のパーマーストンは、「いじめっ子にして悪人にして臆病者」である、とみなされていた。
 これは、彼が著しく長い時間仕事をし、「<役所でゆったりとした>紳士の時間<を過ごすの>」を当然視していた彼の役人達に同じことを求めたからかもしれない。
 彼は、そのいじめっ子流儀を、外国の大国に対応する際に取り入れ、英国臣民を害すものを脅すとともに、行く先々で「私はローマ市民である(civis Romanus sum)」とローマ人が言えたように、英国の人々が遍く敬意を抱かれるという原則を打ち立てようとした。・・・」(B)

 「・・・彼の大原則の1つは、文明化された諸国家は、憲法を制定しなければならず、その統治者達はその憲法を遵守しなければならない、というものだった。

→その英国は成文憲法を持っていなかった、というより憲法を持っていなかったのですから、これほど、英国以外の世界を小バカにした「大原則」もないでしょうね。(太田)

 彼は、この大原則に、半世紀を超える間、絶対的な一貫性をもって従った。
 彼は、砲艦外交を、憲法などというものを関知しないところの、ギリシャ(注)と支那(注)に対してのみ実施した。

→支那とは、言うまでもなく、アヘン戦争(1840〜42年)を指していますが、「大原則」が非人道的かつ理不尽な英国の利益を押し通すために援用されたことになります。(太田)

 (注)1847年に、ギリシャ在住の英領ジブラルタル出身のユダヤ人ドン・パシフィコ(Don Pacifico)の家がギリシャ人群衆によって襲撃された時に、英国の軍艦数隻を首都アテネの外港に派遣し、ギリシャ政府に要求を飲ませた事件を指す。
http://www.historyhome.co.uk/polspeech/foreign.htm

 彼は、おおむね、平和のために尽くし、それに成功した。
 彼は、政界に初めて入った時から、<差別されていた英国の>カトリック教徒の解放に心を寄せた。
 <また、>彼は、常に奴隷制に反対し、奴隷貿易の廃絶に全力を傾けた。
 <恐らく彼の娘であったところの、>ミニーがアシュレイ(Ashley、後にシャフツベリー(Shaftesbury))卿と結婚すると、パーマーストンは、工場諸法、児童労働、そして労働時間といった多くの社会問題について、彼の助言に従った。
 内相の時は、彼は下水道改革、喫煙抑制、そして貧者のための住宅の改善に指導性を発揮した。・・・」(C)

 「・・・パーマーストンは晩成型だった。
 彼は、70歳になるまで首相にならなかった。
 そして、政治において極端を嫌う真の自由主義者として立ち現れた。
 彼にとっては、安定性が何よりも重要となった。
 そしてブラウンは、パーマーストンが1860年に行った演説を好意的に引用する。
 その中で、彼は、世論の支持を得ずして大きな変化を行うことはできない、と主張した。・・・」(D)

3 終わりに

 パーマーストンは、若い頃から、女誑しとしてさんざん危ない目に遭う経験を重ね、恐らくは「七十にして心の欲する所に従って、矩を超えず」(論語)
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~nicksoku/tsuredure/rongo1.htm
の境地に達した時に、満を持したかのように宰相となり、憲法などなくとも、「心の欲する所に従って、矩を超え」ぬ国で基本的に一貫してあり続けて来ていたところの、英国を率いたことになります。
 我々も、そして我々の日本国も、パーマーストンや当時の英国を目標としたいものです。
 とはいえ、さほど肩に力を入れることではありません。
 現に、首相時代のパーマーストンや、従って当時の英国だって、アヘン戦争等、矩を超える悪行を時に犯したのですからね。
 おおむね矩を超えなければよし、と割り切ればよいのですよ。

(完) 

太田述正コラム#4456(2010.12.24)
<パーマーストン(その1)>(2011.3.29公開)

1 始めに

 デーヴィッド・ブラウン(David Brown)が、19世紀の英国の大政治家であるパーマーストンの伝記、 'Palmerston: A Biography' を上梓したので、書評類をもとに、そのさわりをご紹介しましょう。

A:http://www.ft.com/cms/s/2/1a852136-07cf-11e0-8138-00144feabdc0.html#axzz18Qib9ocy
(12月18日アクセス)
B:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/8176388/Palmerston-A-Biography-by-David-Brown-review.html
(12月20日アクセス。以下同じ)
C:http://www.spectator.co.uk/print/books/6343653/a-race-against-time.thtml
D:http://www.scottishreviewofbooks.org/index.php?option=com_content&view=article&id=382:reviews&catid=37:volume-6-issue-4-2010&Itemid=86
(以上が書評)
E:http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_John_Temple,_3rd_Viscount_Palmerston

 なお、ブラウンは、英国のストラスクライド(Strathclyde)大学の上級講師であり、グラスゴー在住です。
http://yalepress.yale.edu/yupbooks/book.asp?isbn=9780300118988

2 パーマーストン

 (1)概観

 「より良くはパーマーストン(Palmerston<。1784〜1865年>)卿として知られているところの、ヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple)は19世紀の前半<の英国>を支配した。
 陸相を19年、外相を全部で15年、内相を3年、そして首相を2回、合計9年勤めたパーマーストンは、英国史中の巨人であり続けている。
 彼は、<当時の>英国人の意識を余りにも支配したので、正しい称号で言及されることはほとんどなかった。
 好色な若い成人であった彼は、広くキューピッド(Cupid)卿として知られていた。
 彼が恋愛沙汰で自ら招いた累次の難儀は、とりわけ、ヴィクトリア女王の侍女のブランド(Brand)夫人が、彼がウィンザー城で彼女の寝室に出現した際に拒んだということがあった後、伝説的かつ悪名高いものとなった。
 後に、喧嘩っ早いナショナリストで好戦的(gun-powder)外交家として、彼は軽石(Pumicestone)卿としてより知られるようになった。・・・
 最終的に、老年期において、彼は、政界(Westminster)のほとんど最も愛すべき貴顕(grandee)として、「パム(Pam)」と<呼ばれるように>なった。
 長い間の情婦であったカウパー(Cowper)夫人<(1834年と1835〜41年の英首相メルボルン卿
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Lamb,_2nd_Viscount_Melbourne (太田)
の妹。1787〜1869年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Emily_Lamb_(Lady_Cowper) (太田)
>と結婚<(それぞれ、55歳、52歳で(ウィキペディア上掲))>した時、パーマーストンのとんがった部分は滑らかにされ、自分の反対者達を冷笑するのに代えて彼は自分の魅力で相手を誑し込むようになった。
 彼は、「民衆の愛しい人」として、英国の偉大さの象徴となったのだ。・・・
 「自由主義的、憲法的な国々は、いつもパーマーストンによって好まれた」とブラウンは記す。
 それは、第一にこれらの国々が自分のホイッグ的選好にぴったりだったからだし、第二に、これらの国々が、通常、「安定した外交上のパートナー」であったからだ。・・・」(A)

 「・・・彼の長い一生は、絶え間なき政治活動によって輻輳した。
 彼は、1807年に、議会に議席をまだ持っていなかったのに、23歳で海軍省理事会(Board of Admiralty)の一員になった。
 <その後、>彼は、1〜2度の短い中断はあったものの、死ぬまで、合計59年間にわたって下院議員を勤め、うち50年を閣僚として、すなわち、外相として17年、内相として3年、首相として10年勤め、彼のもともとの良き指導者であったピット(Pitt<。1759〜1806年。首相:1783〜1801年、1804〜06年
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Pitt_the_Younger (太田)
>)<(コラム#459、594、2138、3561、4293)>とキャニング(<George> Canning<。1770〜1827年。首相:1827年
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Canning (太田)
>)のように、首相在職のまま死去した。・・・
 しかし、彼の政界と行政府(Whitehall)の外での中心的活動はセックスだった。
 彼より若い同時代人たるヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)と同じく、彼は、それに成功した場合、日記に韜晦的言及を記した。
 彼の符丁は気候であり、例えば、「晴れた日だ。L.」といった具合だ。
 彼には嫡出子はいなかったが、カウパー夫人の娘のミニー(Minnie)は恐らく彼の子供だったのだろう。
 彼は、彼女を溺愛し、「私の太陽の光」と呼んだ。
 亭主のカウパーが亡くなると、彼は寡婦となった夫人のエミリーと結婚し、それからずっと幸せに暮らした。
 ブラウンは、もっと多くの頁を彼女に割くべきだった。
 彼女は、見えないところで重要な役割を果たした。
 彼女は、パーマーストンに素晴らしい助言をしたし、彼女のケンブリッジ屋敷でのパーティーは、招待されていようがいまいが、見苦しくさえなければ、出席自由であった若い男性達の間で人気があった。・・・
 <ちなみに、>パーマーストンは、イスラム教は「悪心(evil spirit)によってキリスト教をパロディー化したもの」と思っていた。
 彼は、イスラム教徒は、「この世で犯罪的暴力沙汰を犯して、かつあの世での悪徳的放縦の享受という報酬が約束される」と語っている。・・・」(C)
 
(続く)

太田述正コラム#4366(2010.11.9)
<重光葵の世界観(その3)>(2011.2.20公開)

 「重光が中ソ大使時代・・・で最もこだわっているものの一つは、1937年11月・・・に締結された日独伊防共協定の存在である。・・・この協定の「防共」の側面には特段の異論がなかった・・・<が、>これによって対露関係は悪化し、対支、対英米関係においても「大なる犠牲を払はしめられ」たからであ<る>・・・。

→独伊よりも「赤露」の方がはるかに危険であるというそもそも論を展開しつつ、日本のソ連(ロシア)との関係が悪化するのは当然であるけれども日本の支那との関係が悪化するのはおかしいと思わないか、それは支那が容共に傾いているからだ、ということも一つの説得材料として、日本の外務省は対英国や対米国説得工作に全力を挙げるべきだったのに、重光自身、そのような努力を行った形跡が見られません。(太田)

 更に、1937年7月に<始まった>日中戦争・・・が重光にとっての第二の阻害要因となった。中国を「東亜の安定」という国策の協力者にしようとしていたのに、「支那事変は実際に於いて支那を敵としてしまった」のであり、・・・戦争の進行につれて、・・・「日本の敵が赤露であること」以上に、英米仏も「動もすると敵側に立ち兼ねましき形勢となったこと」を・・・重光は認識する・・・。そして、遂に「事実日本人と提携する有識支那人と共同した「新支那」を建設」し、「東亜の新秩序を樹立する外はない」と結論するのである・・・。

→繰り返しになりますが、蒋介石政権(支那)が「防共」戦略をとっている日本の敵になることを選んだ以上は、日本は戦わざるを得なかったところ、英米仏がかかる政権への支持・支援を続けるのはおかしい、と、とりわけ英国や米国に対し、それぞれの世論を含め、訴えなければならなかったというのに、そのような努力を、重光も外務省も行った形跡が見られません。(太田)

 しかし、駐英大使期の末期には、第三の、そして決定的と言える対外戦略が登場する。三国同盟(1940年9月締結)と日ソ中立条約(1941年4月締結)、その背後にある日独伊ソ四国協商構想がそれである。」(XLVII〜XLIX頁)

→英米が、不合理な、とりわけ英国が、自分の国益に相反する、極めて不合理な日本敵視政策を改めない以上、それに対抗するためには、緊急避難的に日本の生存を確保する算段を講じなければならなかったのであって、対英(だけ)開戦を、望むらくは前年の1940年中に、さもなくばせめて1941年の初期に敢行すべきであったところ、その機会を、主として(重光を含む)外務省の反対によって日本は逸してしまったわけです。そうである以上は、三国同盟のような、「赤露」なる敵の敵であるところの、本来日本とは相容れない独伊と手を結ぶことも、また、日独伊ソ四国協商構想のようないわば奇手を追求することも、それぞれ次善の策、次々善の策として、頭から排除すべきではなかった、と言うべきでしょう。(太田)

 「ドイツが結局ソ連と戦わずにフランスそしてイギリスとの戦争を選択したことは、重光によれば、「資本主義を国際的に破壊するためには資本国を相互に衝突せしめ自ら漁夫の利を収むること」を目指したソ連外交の勝利を意味した。こうして、世界はいずれ赤化され、「社会主義」の時代に突入するかもしれない・・・。・・・「近衛新体制」運動が進む日本政治も、・・・重光のいう「新社会主義」の方向に進むべきだとされることになる・・・。

→実際には、当時の日本では日本型経済体制が概成しつつあったところ、この体制は、日本の顔をした資本主義的戦時体制であって、「社会主義」でも重光の言う(必ずしも意味が明らかではないところの)「新社会主義」でもありませんでした。このあたりの重光のぐらつきは、前述したように、「「赤露」を包囲する多国間システムを束ねる共通の価値観を重光が提示していなかった、というか、提示できていなかった」ためでしょう。(太田)

 しかし、他方で重光の戦略の大枠は驚くほど変わっていない。重光は日本の欧州戦争不介入を絶対視する。日本の使命はあくまで極東に勢力圏を確保することにあるからである。・・・中国民族との提携を確立すべきであって・・・、世界を幾つかの勢力圏に分割する方針もまた不変である。・・・
 <しかし、>世界は共同してソ連の勢力圏構想を封じ込めるはずだったが、ソ連の赤化地域は・・・拡張しており、更に日本の担当地域は・・・イギリスの利害が及ぶ東南アジアにまで拡大しようとしている。また、イギリスは対独戦争の関係から再びソ連との提携を模索しはじめており、アメリカとともに日本を潜在的な敵と見ている。・・・日本もまた反英感情に溢れて、イギリスとの戦争(英米が合体政策に進んでいるのであるからそれは対英米戦争を意味する)に直進しているかのようである。・・・国内における親独派(枢軸派)の台頭とともに、日中戦争を解決できぬまま南進を開始し、ドイツ・イタリアとの軍事同盟を結び、そしてソ連とも提携して英米に対峙しようという戦略が、・・・ドイツの快進撃に触発されて勢いを増していった。」(L〜LI頁)

→結局、重光もまた、その他大勢同様、日本政府全体の動きに追随して行った、ということです。(太田)

 「重光は、<駐英大使当時、>イギリス政府との現実の外交交渉にも尽力する。ビルマルート封鎖交渉など<だ。>・・・<また、>1941年3月の松岡訪欧時に<上記戦略を推進していた>松岡とヨーロッパで会見しようとした・・・。・・・重光・松岡会談に際し、チャーチルが直筆で松岡へのメッセージを書き、それを松岡に会う重光に託そうとしたのである。これは結局、松岡の翻意によって挫折するのであるが、重光はあたかもイギリスと一体となって、日本の翻意を促しているかのようであった。
 しかし、重光は、松岡との会見の挫折によって、日英間の妥協成立の可能性を断念した。・・・こうして、重光が日本への帰国の途につくのは、1941年6月16日のことであった。その直後に独ソが開戦・・・する。重光はそのことをチャーチルに示唆された・・・。
→当時の英国のチャーチル政権は、「提携」していたソ連、ドイツの両国間にくさびを打ち込むとともに、ソ連と日本とを「提携」させないようにした上で、日本を対米開戦に追い込んで米国を対ドイツ戦に引きずり込むことを企んでいたわけであり、この企てと真っ向から背馳する松岡の構想を潰えさせることに全力を挙げていて、その手駒として重光が使われた、ということが分かります。結局、松岡による同年4月の日ソ中立条約締結により、この英国の企ては一旦挫折するのですが、同年6月のヒットラーの無謀な対ソ開戦によって、英国は救われることになるわけです。(太田)

 ・・・重光は帰国して日本国内から日本の外交を建て直すことに一縷の望みをかけていた節もある。その望みは、イギリス側の一部にも共有されていた。イギリス側では、松岡に代わり、重光が外相となって、日本が対英米協調に回帰するという望みすら抱かれていたのである。・・・
 また、ロンドンから離任後の重光は、いわゆる「日米交渉」に従来考えられている以上に深く関わっている。重光はアメリカ経由で帰国<し、>・・・8月1日にワシントンに到着すると、・・・J・K・ドラウト神父やハリファックス注米<英国>大使とも懇談し、イギリスに会談の仲介を依頼している。」(LII〜LIII頁)

→独ソ戦が始まり、チャーチル政権が、日本を対米開戦へと追い詰めることに全力を挙げていたことに重光は全く気付いていた気配がうかがえません。重光は、駐英大使であったにもかかわらず、英国について、とりわけチャーチルについて、全く理解することができていなかった無能な人物であった、と言わざるをえません。まさにそのような無能な人物であったからこそ、このように、重光は、英国によって、今度は、日米交渉に一縷の望みがあるかのような錯覚を日本に与え続けるために利用された、つまりはピエロ役を演じさせられた、というわけです。(太田)

3 終わりに

 松岡洋右は、外相として、三国同盟を締結するとともに、日独伊ソ四国協商構想を踏まえた日ソ中立条約を締結した責任者であり、戦後は、日本の戦前・戦中の軍人以外の指導者の中では、最も貶められてきた人物です。
 しかし、クレイギーは、彼の報告書の中で、この松岡に、東條英機に対すると同様、温かい眼差しを注いでいました。(コラム#3964)
 他方、重光についてですが、クレイギーが「数度に亘り<帰国してからの>重光と会談し、あるinformantとの会談として、重光との会談の内容を詳細に本国に伝えている。」(LIII頁)(例えば、クレイギーの報告書229頁(「報告者」や「頁」が何を意味するかは、コラム#3956参照)。)と武田知己が記しているところ、何故、報告書に登場するinformantを重光と断定できるのか、武田はその根拠を明らかにしていないけれど仮にそれが本当に重光であるとすると、重光は、結果的に英国のためのスパイとしてクレイギーに利用されており、クレイギーはそんな重光を軽侮していたものの、あえて武士の情けでその実名を明らかにしなかったのではないか、と勘ぐりたくなります。
 クレイギーが重光を軽侮していたとのこの私の勘ぐりがあたっていることを間接的に裏付けるように見えるのが、武田が紹介するところの、クレイギーによる、1941年7月28日の日本の南部仏印進駐直後の彼の重光(実名で登場)との会談の報告電報における、あたかも重光を日本の軍部のピエロであるかのように描く辛辣な重光評(LIV頁)です。
 付言すれば、重光は、(この点で吉田茂とは大違いですが、)この「外交意見書集」にその多くが収録されているところの、大量の外交意見書を当時書いただけでなく、英国で、(駐ソ連大使時代のものを含め、)それらを日本大使館に残してくるという愚行を犯しており、結局、それは英国政府の手にわたっています。(XVII)
 また、このような機微にわたる大量の(いわば私文書たる)外交意見書を書くこと自体が愚行であるのは、現に、彼の駐ソ大使時代、大使館員がこの外交意見書を清書する際に複写をとるために用いた複数のカーボン用紙のうちの1枚をソ連のスパイに抜き取られ続け、その大部分がソ連当局の手にわたっていた(XIX頁)ことからもお分かりいただけることでしょう。
 情報管理が甘い当時の日本の官僚は重光だけではなかったでしょうし、現在の日本の官僚だって甘いわけですが、重光は大甘だったという誹りを受けても致し方ありますまい。 吉田茂のダメさかげんは、私がかねてより口を酸っぱくして唱えてきたところですが、彼と同じ外務省育ちの重光葵もまた、吉田とは違った意味でダメ人間であった、ということになりそうです。

 それはそれとして、重光の世界観を知れば知るほど、彼が、いかに、当時の日本の指導層の大部分同様、また、日本国民の過半同様、ロシア/共産主義の脅威に対処することを日本の安全保障上の最大の課題と考えていたかが分かります。
 私の言う横井小楠コンセンサスが、どれほど当時の日本人の物の考え方を規定していたか、ということでしょう。

(完)

太田述正コラム#4350(2010.11.1)
<重光葵の世界観(その2)>(2011.2.19公開)

 「重光は、一体どのような対外戦略を構想したのだろうか。
 重光の言葉を用いれば、それは「赤露包囲政策」というべき戦略である・・・。重光は「日本の現在必要な事は東亜の安定を確保すること」であり、「其目的の為に満州国を建設」したが、「其満州国は赤露に依つて包囲されて」おり、「赤露は外蒙古を占領し、内蒙古を越えて支那の攪乱に努力して居る」と言う。「一体東亜の安定を害するものは今日何処であるかと云ふと、赤露の軍備であり政策であり思想」であって、「この危険を如何にして除くかと云ふことが外交上の大問題」だと重光は言う。ここでは、日本の国益である「東亜の安定」に対する最大の脅威は、ソ連共産主義と考えられている。
 しかし、その政策は「自己の侵されんとする安全を防護すると云ふ意味」をもつのであつて、対ソ戦争を想定するものでは全くない。」(XXXIX頁)

 ここで重光が語っていることは、前段は当時の日本人の大部分が抱き、指導層においてはコンセンサスであったところの「赤露」、すなわちロシア/共産主義との対峙戦略であり、後段は、この対峙の方法論としての、陸軍の統制派と共通するところの「赤露」抑止政策です。

 「このような重光の戦略が奏功すれば、どのような国際関係が描かれるであろうか。まずヨーロッパでは英(仏)独(伊)のある種の提携・・・。他方、極東では、日中間の緊密な提携・・・。勿論、南北アメリカ大陸ではアメリカの勢力圏が確保されている。そして、こうした地域ごとの勢力圏が確定されることを前提に、互いが様々な方法でユーラシア大陸の西と南に領土を拡大しようとするソ連を封じ込め・・・る。その結果、ユーラシア大陸、欧州大陸、そして南北アメリカ大陸をそれぞれ跨いで、ソ連を包囲する緩やかな多国間システムが出来上がる・・・。
 つまり、1930年代の重光は「ソ連脅威論」に基づく「冷戦」的な国際秩序観を先取りしているだけではなく、日本がそのような秩序形成の主導的立場に立つべきとする積極的な対外戦略をもっていたのである。」(XL頁)

 ここは重光の構想力と先見の明を褒めるべきでしょう。
 問題は、「赤露」を包囲する多国間システムを束ねる共通の価値観を重光が提示していなかった、というか、提示できていなかったところにあったのではないでしょうか。
 自由民主主義という言葉は使いづらかったでしょうから、これを日本国内的に無難な言葉に言い換えることを考えるべきだったのです。

 「重光の戦略思考には、・・・批判的に議論すべき点も指摘できる。
 その一つは、重光のソ連観であろう。そもそもソ連は、重光戦略の中で最も関心を払うべき対照である。重光のソ連観は、第一に成長しつつある大国というものである。重光は「赤露は今後遠からずして世界の大なる構成分子となる。否今日既にそうであるけれども、一般にその認識が欠げ<(ママ)>て居る丈である」(特にアメリカの認識不足を重光は指摘している)と鋭い観察を残しているが・・・、同時に重光のソ連イメージは、一貫して積極的に世界を混乱させる「陰謀家」「攪乱者」としてのそれである。それはソ連を第一の仮想敵と想定することから必然的に生じる結果でもあろうが、この点については利用可能となったソ連関係の文書や近年長足の進展を見せるインテリジェンス研究などとの比較検討が必要だろう。」(XLI頁)

 ここは、武田のにぶさを指摘せざるをえません。
 武田は、重光が「赤露」を強力な仮想敵と想定したから「赤露」を悪としたと言っていますが、そうではなく、悪でかつ相当強力な存在であるからこそ、重光は「赤露」を仮想敵と想定したのです。

 「N・チェンバレン首相は独伊との妥協(いわゆる「宥和政策」)を目指していたが、イーデン外相は国際聯盟派であり、親ソ親中派であって、チェンバレンと対立している。重光は外交意見書で一貫してイーデン外交への強い警戒心を持っているが、実際に38年2月にイーデンがチェンバレンと衝突して辞職し、ハリファックスが外相に就任した後・・・、チェンバレンは、仏ソ及びチェコとの同盟という「英国の関知せざる他国の政策に依りて、英国が当然戦争に加入する義務は之を負担し得ず」とし、また「国際聯盟は今日其用をなさず」として、「保守党伝来の模範的な」外交に復帰したと見ている・・・。
 ・・・重光が考える本来のイギリス外交なるものは、第一に、ソ連に対する強い警戒心を背景に持つことを特徴とする。・・・粛正運動<(パージ)>下のソ連政治が国際的な批判を受けることで(またイーデンが辞職することで)、38年に入りそれが再び自覚されるようになつたと重光は見ている(その意味でこの段階での英ソ提携の可能性は極めて低いと予想される)。・・・
 イギリスも結局はその巨大な帝国の維持を「不確実性の時代」の国策としているのであって(自国の国益に敏感な重光は、外交意見書で他国の国益も繰り返し定義している)、重光はそれが彼の言う「模範的」な保守党外交の第二の特徴であるとする。つまり、チェンバレン・ハリファックスの外交は、イギリス帝国の結合を堅持し、軍備を整え、フランスと結んでドイツ西進の際の本国及び植民地の防衛を図るが、東欧からは手を引いて、中欧方面ではドイツの進出に対し、勢力均衡を意識した仲裁的態度を維持しようとするとされる。言い換えれば、たとえ独ソ戦争が勃発するとしてもそれはかえって英国の利益であるから放任し、西方への戦乱の波及を考慮してフランスと共に防衛をあつくし、また、独伊には妥協を持ちかけて勢力均衡を保ちつつ、必要な場合は仲裁者として彼等の優位に立つという態度であり、極めて現実的な外交であるとされる・・・。」(XLIV〜XLV頁)

 このような当時の英国の国益についての認識は秀逸。
 ただ、重光が、英国の、その歴史に根ざす欧州での強国出現への過大な警戒心を考慮に入れていなかったようであることは画竜点睛を欠くと言うべきでしょう。
 結局チェンバレン的グローバリズムはイーデン/チャーチル的リージョナリズムに敗北することになります。

 「そして、・・・重光は極東における日英妥協の可能性を引き出そうとしている・・・。・・・また、この傾向は、重光以外にも、1930年代前半から日英関係に携わる者に共通してみられるものであり、研究史上にも、1930年代における対独宥和ならぬ対日宥和の可能性が論じられてきた。」(XLV〜XLVI頁)

 上記のような重光の英国国益認識からすれば、このように考えたのは当然です。
 しかし、残念ながら、重光の英国理解は不十分であり、それに輪をかけて米国理解は不十分であったのであり、英国(更には米国)に対日宥和策をとらせようというのであれば、強力な対英、そして何よりも対米工作が必要だったのです。 

 「また、重光は、アメリカについて、その外交の本来の形は「モンロー主義」すなわち「孤立主義」であるとし、ルーズベルト政権成立後(1933年)になって「全く本来の姿に帰った」と認識している・・・。だから、ルーズベルトが地政学的に遠いヨーロッパに関する経済会議にさえ参加することは「殆ど信ずることが出来ぬ」と考えていた・・・。しかし、日中戦争が起きると(1937年7月)、アメリカの態度は一変する。駐英大使時代の最大の懸案の一つであった天津租界事件(1939年4月〜8月)が起きると、アメリカはイギリスを援助する目的を持って日米通商航海条約破棄を通告してくる(同年7月)。重光のアメリカ外交批判は激しい・・・。しかし、重光がアメリカの政策の矛盾や、その極度に厳格で且つ「力」を背景とした「正義感」を批判する一方で、外交意見書ではこのアメリカ外交への対処法が欠落している。重光のような伝統的な「妥協」の外交手法に親しむ外交イメージからは、アメリカ外交におけるいわゆる「法律家的・道徳的アプローチ」(ジョージ・ケナン)は極めて異質のものと認識される他ないのかもしれない。」(XLVI頁)

 米国の「孤立主義」≒モンロー宣言ととらえれば。それは、人種主義的帝国主義の米国がアメリカ大陸を自分の勢力圏として固めるにあたって欧州諸大国(英国を含む)からの干渉を拒否するとの宣言に過ぎなかったことを、明らかに重光は理解していません。
 従って、英国の商業的帝国主義がグローバルに展開されたように、米国の人種主義的帝国主義もまた、アメリカ大陸が米国の勢力圏として固まれば、引き続き東アジアを含むところの世界へと必然的に展開されて行く、ということを、重光は認識できていなかったのでしょう。
 米国の「法律家的・道徳的アプローチ」は、利権が乏しい東アジア等へ人種的帝国主義を展開するにあたって、「孤立主義」に代わって米国が掲げた口実以上でも以下でもなかったのです。

 「重光の独裁政治批判も見逃せない点の一つである。重光は駐ソ大使時代の外交意見書で、しばしばスターリニズムとナチズムとの比較を展開している。・・・重光はヒトラー支配下のドイツを持論である「能率国家」論の面から高く評価する一方で、逆にドイツの統制経済に対して極めて厳しい見方をしている。それはスターリン独裁下のソ連についても同様であった。それらの批判が、日中戦争以降、経済統制を強める日本への批判ともなっていることは行間から明らかである。「能率国家」なるものも、全体主義や独裁をも無条件に支持していたことを意味するのではなく、活発な経済活動や国内政治の明朗さを確保することがその前提となっているのである。」(XLVII〜XLVIII頁)

 上述したように、「「赤露」を包囲する多国間システムを束ねる共通の価値観を重光が提示していなかった、というか、提示できていなかった」ために、そのスターリニズムとナチズム批判が歯切れが悪く分かりにくくなってしまっています。

(続く)

太田述正コラム#4348(2010.10.31)
<重光葵の世界観(その1)>(2011.2.18公開)

1 始めに

 「XXXX」さんから提供を受けた戦前の日本の歴史に係る各種資料のうち、「重光葵<(1887〜1957年)>の『外交意見書集』第1巻は、その細かい字で363頁という分厚さに恐れをなしています。」と以前(コラム#4302で)記したところですが、とりあえず、『外交意見書集』の編者による解説をご紹介するとともに、この解説に対する私のコメントをご披露することにしました。

2 重光葵の人と思想

 「重光葵は、1887年・・・に生まれた。・・・外務省に入省し・・・、第一次世界大戦をドイツ・イギリスで経験し、アメリカ西海岸で総領事を務めた後、パリ講和会議の随員となった。・・・1925年・・・北京大使館勤務を開始する。1931年・・・には特命全権駐華公使とな<る>・・・<同年>4月29日・・・朝鮮独立運動の志士が放った爆弾が重光を襲<い、彼は>・・・右足切断の大手術を受け<た。>・・・1933年に・・・外務次官、そして1936年11月から41年7月まで、駐ソ・駐英大使を歴任<した。>・・・<(注1)」(XV〜XVI頁)

 (注1)その後は、小磯内閣と東條内閣で外務大臣(1943年4月20日〜45年4月7日)、東久邇宮内閣で大東亜大臣(1945年8月17日〜8月25日)・外務大臣(1945年8月17日〜9月15日)、極東裁判でA級戦犯として起訴され禁固7年の判決を受ける(4年7ヶ月服役の後仮釈放)、衆議院議員(1952年10月2日〜57年1月26日)、鳩山内閣外務大臣(1954年12月10日〜56年12月23日)、という経歴だ。なお、彼は、1945年9月2日に戦艦ミズーリ号上で日本の全権として日本の降伏文書に署名している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E5%85%89%E8%91%B5

 このような戦前のみならず、戦後においても活躍したという経歴において、彼を、吉田茂(1878〜1967年)と並ぶ、当時の日本の外務官僚のうち、まともな方の代表格とみなしてもあながち間違いではない、と言えるのではないでしょうか。
 (吉田と違って重光はA級戦犯になっているが、これはGHQの意向に反してソ連がごり押しをしたのに米民主党政権が屈したものであり、重光の判決はA級戦犯中最も軽いものだった。(ウィキペディア上掲))
 このほか、重光は、彼に比べてやや世代が若いが、商工省(通産省)の岸信介(1896〜87年)や(戦後の活躍ぶりがいささか見劣りするが)大蔵省(財務省)の賀屋興宣(1889〜1977年)と比較対照されるべき存在でもあると言えそうです。

 そして、同じ外務官僚の吉田と違って、重光は、浩瀚な、いわば同時代史と言ってもよいところの、大量の外交意見書を残しており、当時のかかる外務官僚の世界観を詳細に知ることができます。
 それでは、この外交意見書が重光の『外交意見書集』(現代史料出版 2010年1月)として出版されるににあたって、その監修をした武田知己による、同書冒頭の解説のさわりの紹介を続けましょう。

 「「親英米派」と「枢軸派」(反英米派・親独派)などと分類し、前者を評価し、後者を批判する見慣れた分類方法・・・は、当時の日本外交の大状況を見事に表している。しかし、このような図式の中での重光の位置づけは、なかなか困難である。」(XXX頁)
 
 武田はこう解説していますが、私は、それが「当時の日本外交の大状況を見事に表してい」ないどころか、当時の日本において、ロシア/共産主義との対峙という(外交を含む)国家戦略上の広汎なコンセンサスが存在していた以上、そんな戦術上の対立図式など取るに足らない話である、と考えています。
 そうであるとすれば、重光のみならず、当時の日本の指導層の誰であれ、その者を「親英米派」と「枢軸派」のどちらかに位置づけることなど不可能に近いし、意味もない、ということになるわけです。

 「30年代の重光は、既に崩壊の過程にあったいわゆる「ワシントン体制」に対して極めて批判的である。・・・第一にこれが「事実よりも理想に走ったもの」であって「日本に於いても国内に此の理想政策を受け入れる丈けの用意が精神的にも又政策的にも出来て居なかった」こと、第二に中国が「「ボルセヴィキー」との提携に依って余りに極端に走つて」、「日本の東亜に於ける地位を排撃する事態に迄展開した」こと、第三に「大戦中に大陸に進出した日本の勢力に掣肘を加へ様というのが英米等第三国の重要な目的」であり、「東亜の主人公の地位を日本にも又は支那にも譲ろうとしたのではな」かったことである<と>・・・。」(XXXVIII頁)

 この第二、第三はよいのですが、第一については、米国による日英離間政策の結果として生まれた「ワシントン体制」を重光自身が「理想」視し過ぎていて、私としては、著しく違和感があります。
 重光は、彼が外交官になった頃には、米国が既に潜在的な世界覇権国であったというのに、しかも米国勤務経験もあるというのに、その米国が(私の言うところの)人種主義的帝国主義国であるという認識を抱いていなかったのではないか、という感じを受けます。

(続く)

太田述正コラム#4346(2010.10.30)
<ガリレオ(その4)>(2011.2.17公開)

 (4)エピローグ

 「・・・有罪の判決を受けてからでさえ、ガリレオは知的リスクを冒し続けた。
 外国のプロテスタント達によって出版されるべく、彼のいくつかの草稿がイタリアから密輸出された。
 彼の書簡のやりとりを守るために入念な用心がなされた。
 手紙類は手で運ばれるか、偽りの覆いををつけて送られるか、外交行李で伝達された。
 時々、手紙類が抜き取られることを恐れ、彼は自分の考えと反対のことを言ったりした。
 しかし、彼の書簡類の意味するところを理解するのは全くと言ってよいほどむつかしくはなかった。
 彼の友人のフルゲンツィオ・ミアンツィオ(Fulgenzio Micanzio<。1570〜1654年。ヴェネティアの神学者・法衣(canonical)
http://brunelleschi.imss.fi.it/itineraries/biography/FulgenzioMicanzio.html (太田)
>)は、自分とガリレオのドイツの出版社が、ガリレオからその『天文対話』が外国で再版されることを欲しないと言っている(あるいは言っているように見える)手紙を受け取った後、「我々は君の手紙を読んだ時に大きな声を出して笑った」とガリレオに書き送った。
 我々がガリレオのものを読むためには、我々は教会当局をだますけれど彼の友人達はだまさないよう仕組まれた何層ものこの種の欺騙を透過して読むすべを習得しなければならない。
 今日では、我々は、ガリレオの裁判は誤解に基づくものであって、キリスト教と衝突することになった最初の偉大な科学者はダーウィンであると考えがちだ。
 結局のところ、カトリック教会は、コペルニクス的天文学を受容し、他の世界にも生命体が存在するかも知れないという観念すら受容するに至った<ではないかというわけだ>。
 <しかし、>このような見解は、ガリレオの重要性を大いに過小評価するものだ。
 ダーウィンは、我々<人間>が神聖なる計画の産物ではないことを証明したかもしれない。
 <これに対し、>ガリレオの貢献は、たとえそんな計画があったとしても、それは我々<人間>についての計画ではなかったことを示したところにあるのだ。・・・
 ホッブスは、カトリック教会は、『天文対話』を「ルターとカルヴィンについてのあらゆる本よりも彼等の宗教に害を与えた本・・<それに書かれている地球中心説への>反対論は彼等の宗教と自然理性との間に位置付けられる<ものであるからだ>・・」として非難した、と言った。
 ガリレオは、ホッブスが彼を読んだように、我々によって再度読まれなければならない。・・・」(G)

 「・・・カトリック教会は、コペルニクス主義を教えることを1820年まで許さなかったし、『天文対話』は1834年まで禁書のリストに残った。・・・」(A)

 「・・・コペルニクスを禁止したのはカトリック教会にとって大変な過ちだった。
 当時においては、<それは>そんな大した話ではなかった。というのも、地球が実際に動くなどということはありそうもなかったからだ。
 だから、そもそも、そんなことを宗教的な議論の対象にすべきではなかったのだ。
 中世の間、哲学者達は、それが神学とかかずりあわない限りにおいて、自由に哲学をやることができるという<暗黙の>取り決めが<神学者達との間で>なされていた。
 他方、神学者達は、科学が信仰の核心部分(essentials)に触れない限り、科学を制限することは控えた。
 <また、たとえ>衝突が生じた場合でも、聖書は比喩的なものとして解釈することができた。
 結局のところ、旧約聖書は地球は平らであると示唆していたところ、キリスト教徒の大部分はそんなことを信じたことなどなかったのだ。・・・
 聖書は、我々にいかに天(heaven)に行く(go)かを教えるが、天体(heavens)がいかに動く(go)かを教えてはいない、とガリレオは、彼からトスカナ大公夫人のクリスティーナ(Christina)宛の手紙に書いた。・・・
 19世紀においてさえ、科学ではなく、旧約聖書中の史実の誤りの発見が信仰の危機をもたらしたものだ。・・・
 今日においては、科学者のうち、宗教を信じている者はほんの少数だし、著名な科学者であればあるほど、その<宗教への>疑問はより大きいことを証拠は示唆している。
 しかし、近代科学は、キリスト教徒とまさに同じくらい無神論者も当惑させる。
 1世紀前は、アリストテレスがいつもそう言っていたように、宇宙は始まりがないというのがの科学的正統派だった。
 叔父さんのようなケンブリッジの物理学者のフレッド・ホイル(Fred Hoyle<。1915〜2001年。イギリスの天文学者・数学者。星における元素合成理論への貢献で有名
http://en.wikipedia.org/wiki/Fred_Hoyle (太田)
>)にとっては、これはほとんど信仰の約款のごときことだった。
 イエズス会員のジョルジュ・ラメートル(Georges Lemaitre<。1894〜1966年。ベルギーのカトリック僧侶・天文学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Georges_Lema%C3%AEtre (太田)
>)が彼に対して時間と空間はある特異点に起源を有すると示唆した時、ホイルはそのような理論は「ビッグ・バン」を仮定する(postulate)ものであるとけなした。
 後に、ルメートルと、たまたま、キリスト教教理が正しかったことが分かった。
 宇宙は永遠ではなかったのだ。・・・」(E)

3 終わりに

 ホッブスの言にかかわらず、ガリレオがコペルニクスよりも評価されるべき存在であるとは到底思えません。
 カトリック教会が気まぐれでガリレオを弾圧したことによって、結果的にガリレオを有名にしてしまった、という従来の通説が正しいのではないでしょうか。
 私に言わせれば、ガリレオの弾圧事件は、(当然演繹的である)神学を奉戴するカトリック教会がその神学の適用を誤り、他方、ギリシャ以来の演繹的科学を奉戴するガリレオが演繹過程で誤りを犯した結果、両者が衝突したという、すこぶるつきに非生産的な悲喜劇であったのです。
 結局のところ、ガリレオは近代科学の父ではありませんでしたし、そもそも、欧州文明の中からは近代科学はついに生まれることはなかったのです。
 近代科学、すなわち経験科学を生み出したのはイギリスなのです。

(完)

太田述正コラム#4344(2010.10.29)
<ガリレオ(その3)>(2011.2.16公開)

 (3)異端審問

 「・・・宗教改革に直面したカトリック教会は、次第に異議申し立てに対して非寛容になって行った。
 1616年に、ガリレオは、自分が書いた手紙が法王庁(Holy Office)の異端審問所の注意をひいた後、<弁明するために>ローマに赴いた。
 その手紙の中で、ガリレオは、聖書は神の言葉ではあるが、人間の能力(capacities)の程度に合わせられていると主張した。
 自然は、しかしながら、「動かし得ないものであり(inexorable)不変である(immutable)」。よって、特定の論議になると、その件に関して聖書に何と書いてあるかよりも、自然についての直接的知識の方が常に優先しなければならない。そして、これらの論議のうちの一つに対する解答は、地球は太陽の周りを動くのであってその逆ではないということだ。と。・・・
 <結局、>ガリレオは、コペルニクス主義を抱き、教え、あるいは擁護することを禁ずる公式の警告を受けた。
 話をややこしくしたのは、同じ頃の1616年3月、法王庁はコペルニクス主義が真実であるとする本を禁止したことだ。・・・」(C)

 「・・・<結果的に>一番大きな役割を演じることになったのは、法王庁で法王に次ぐ実力者であったロベール・ベラルミン(Robert Bellarmine<。1542〜1621年。イタリアのイエズス会士
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Bellarmine (太田)
>)枢機卿だった。
 ベラルミンは、地球が動いているというのは、彼が好んだところの聖書の文字通り解釈に反すると決定し、1616年にこの説を禁止したのだ。
 このため、ガリレオは、もはやおおっぴらにはコペルニクスを支持できなくなり、この禁止を無視したことが、やがて彼を1633年に裁判に引き出すことになったのだ。・・・」(E)

 「・・・<話を先に進めすぎたが、1616年に上記禁令が発出された後、>・・・事態は驚くべき展開を見せた。・・・」(C)

 「・・・1623年8月、ガリレオの長きにわたる友人のマッフェオ・バルベリーニ(Maffeo Barberini)が法王に選出され、ウルバン8世(Urban VIII<。1568〜1644年。法王:1623〜44年
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Urban_VIII (太田)
>)と名乗ったのだ。・・・ この成り行きに勇気づけられ、ガリレオは、<自著の>『贋金鑑識官(The Assayer)』<(1623年)>をこの法王に献呈した上で、コペルニクス主義の件について再考を促すためにローマを目指した。
 最初の兆候は期待を抱かせるものだった。
 ヘイルブロンが記すように、「ウルバンは法王としてガリレオを遇し、彼に6回もの私的な謁見を許し、2個の記念章を授与し、…別れるにあたって、雑多な贈り物を贈った。」
 この二人がどれだけコペルニクス主義についてきちんと議論したのか定かではないが、ウートンは、一定の条件が定められたであろうと示唆する。
 すなわち、この問題を再考するにあたっては、賛成論と反対論の双方を提示すること、かつ、かかる科学的論議を行うに際して人間の知識には限界があることを認めることだ。
 しかし、ガリレオは、やがて彼の次の本である『天文対話』を出版した時、これらの条件を無視した。
 『天文対話』は、三人の人物同士の会話の形で書かれたものだが、ウルバンの見解は、この三人のうち最も頭が悪く説得力がないシンプリチオ(Simplicio)の口を通して語られていた。
 法王はかんかんに怒り、この本は没収され<る。>・・・」(A)

 「・・・<要するに、>知的大志と虚栄心がガリレオをして、彼の『天文対話』の中で彼への反対者達と対決するために全てを賭けることにさせたのだ、とウートンは主張する。

→ガリレオは軽率で浅はかな人間であった、ということです。(太田)

 1633年に・・・病んだ68歳の(B)・・・ガリレオは<法王庁の>異端審問所に喚問されたが、『天文対話』の中でコペルニクス主義について議論はしたけれどそれを擁護はしていないとするとともに、そもそも議論すらしてはならないと1616年の禁止令(injunction)に記されていたなどとは全く承知していない、と言い張った。
 <ところが、>この時点で、検事役が切り札を出した。
 ガリレオが初期の本の中で全質変化(transubstantiation) <(聖餐(せいさん)のパンとぶどう酒とをキリストの肉と血とに変化させること
http://ejje.weblio.jp/content/transubstantiation (太田)
)>を否定しているという報告書だ。
 これは、それが仮に証明されたら、ガリレオは、カトリックではなくプロテスタントであるということを含意するという<重大な>嫌疑を意味した。・・・」
 (以上、特に断っていない限り(C)による)

 「・・・ガリレオは自分が熱烈なカトリックであると抗弁した。
 <その上で、彼は、>コペルニクス主義は聖書と矛盾していない・・このことを法王庁はようやく1820年に認めた・・のであるから、カトリック教会は、自分(ガリレオ)がこの主義が異端であると思ったことで自分を責めることはできない、と<抗弁した>。
 <なお、>ウートンは、ガリレオは若い頃から唯物論的自由思想家であったと主張するが、<仮にそうであったとしても、>それは非正統的な類のカトリシズムと必ずしも矛盾するわけではない。
 法王庁当局にとっては、この論議は、<嫌疑をかけられた>人物が、コペルニクスの理論を便宜的な(convenient)数学モデルと考えるのか、それとも文字通りの真実の声明と考えるのかどうかにかかっていた。
 しかし、ガリレオは、地球が潮を動かしていることを示す決定的証拠があると信じていたのだ。
 月の重力について何も知らないまま、彼は潮は地球が太陽の軌道を動く(orbitの)際の地球の変転(turning)によって起きると考えた。
 ヘイルブロンは、この「致命的かつ誤謬の理論」はガリレオがパオロ・サルピ(Paolo Sarpi<。1552〜1623年。ヴェネティアの教会法の学者・歴史家・科学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Paolo_Sarpi (太田)
>)から借用したのではないかと説明する。・・・」(B)

→これはひどい。ガリレオは、望遠鏡を実用化した以外は、コペルニクスの説を復唱しただけの人だったということなのかもしれませんね。(太田)

 「・・・拷問するぞと脅かされたガリレオは、<ついに自分の説を>撤回した。・・・」(B)

 「・・・<しかし、>1633年6月、・・・<結局、>ガリレオは裁判にかけられ、異端として有罪を宣告された。
 <そして、>今や発禁となったこの本の1冊がガリレオの面前で燃やされた。
 その少し後で、彼はフィレンツェ近くの彼の家に戻ることを許される。
 その場所で、彼はその生涯の残りの8年間、軟禁状態に置かれることになる。・・・」(A)

 「・・・<こうして、>ガリレオは1642年に異端審問所の囚人として死んだ。
 <そして、ようやく>1992年になって、カトリック教会は、この世俗的聖人に対する取り扱いについて謝罪をすることになる。・・・」(C)

→コペルニクスの説に対する法王庁の姿勢がころころ変わったことも責められるべきでしょうね。
 そもそも、宗教が科学にくちばしを挟むなどということは、あってはならないのはもちろんです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4342(2010.10.28)
<ガリレオ(その2)>(2011.2.15公開)

 「・・・デーヴィッド・ウートンの<本>においては、ガリレオは、<ジョン・ヘイルブロンの本に比べて>よりはるかに急進的人物として描かれている。
 ここ数世紀の学者達の通説に反し、ウートンは、ガリレオがカトリックではなく、キリスト教徒ですらなく、神は宇宙を創造し、爾来宇宙を放置してきたかもしれないと信じる理神論者(deist)の類であると主張する。・・・
 <ただし、そのためには、>ウートンは、それに反するすべての証拠を効果的に包み隠す必要がある。
 いずれにせよ、ガリレオは、さして信心深く(devout)なかったようには見える。・・・
 ガリレオは哲学者であって科学者ではなかった。
 彼は、問題を第一原理から<演繹的に>解こうとしたし、実験は自分の解答を証明するためにのみ用いた。
 これとは対照的に、近代科学は、実験が、それを正しいことを証明することはできないけれども誤りであることを証明することはできるところの仮説を取り扱う。
 ガリレオによる<自然の>観察が、宇宙に異なった秩序を与えたことは確かだ。
 しかし、彼は人類の頭の中から神を追い出すことの手助けもした<と言える>のだろうか。
 証拠はそうでないことを示唆している。
 ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler<1571〜1630年。ドイツの数学者・天文学者・占星術者
http://en.wikipedia.org/wiki/Johannes_Kepler (太田)
>)の、楕円形の軌道に基づいたびっくりするほど正確な天文表(Astronomical tables) <(注2)>は、地球は動くこと、かつまた、科学は聖なる務めであること、を効果的に証明した。

 (注2)「天文表とは、数年分の『理科年表』の「暦部」と「天文部」を合わせたような天文データ・ブックで、おもに諸惑星の位置推算表からなり、主として占星術における出生天宮図の作成のために利用された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E8%A1%A8 (太田)
 
 そのケプラーの書き殴ったメモには<ケプラーの頭の中から>自然に出てきた祈祷が含まれていたし、彼は、自分の業績について常に神に感謝を捧げた。
 ロバート・ボイル(Robert Boyle<。1627〜91年。アイルランドのイギリス貴族の息子。自然哲学者・化学者・物理学者・発明家・神学者。ボイルの法則で有名
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Boyle (太田)
>)とアイザック・ニュートン(Isaac Newton<。1643〜1727年。イギリスの物理学者・数学者・天文学者・自然哲学者・錬金術師・神学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Isaac_Newton (太田)
>)は、どちらも科学に比して宗教の方により関心があった。
 そして、両者とも、信仰と理性との間に矛盾はないことを確信していた。・・・」(E)

 「・・・1633年に至るまでにガリレオが書いて出版したものは、すべて教会の検閲官の承認を得たものだった。
 また、彼の書いたすべての手紙は、とりわけ1633年より後のものは、異端審問官に読まれることを承知の上で書かれたものだった。
 全般的に注目すべきは、彼が何を言ったかではなく、何を言わなかったかだ。
 彼が書いた全てのものの中で、彼は、イエス、罪、購い、死んだ後の生活に言及したことが一度もない。
 <なお、>彼は、ルクレティウス(<Titus >Lucretius< Carus。BC99〜BC55年。古代ローマの詩人・哲学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Lucretius (太田)
>)<の『事物の本性について(On the Nature of Things(Universe))』(注3)>を2冊持っていたが、ルクレティウスに自身の書き物の中で言及したことはない。

 (注3)「エピクロスの宇宙論を詩の形式で解説<し、>・・・唯物論的自然哲学と無神論を説い<ている>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9 (太田)

 そして、我々は、これまで誰もが看過してきた、決定的な一片の証拠を持っている。
 1639年にガリレオの長年の緊密な協力者であったベネディクト派の僧侶でローマ大学の数学教授であったベネデット・カステリ(Benedetto Castelli<。1578〜1643年。イタリアの数学者でベネディクト会(Order of Saint Benedict)会員。ガリレオの弟子にして友人
http://en.wikipedia.org/wiki/Benedetto_Castelli
http://ejje.weblio.jp/content/Order+of+Saint+Benedict (太田)
>)という男が、ガリレオに、今や老いて目が見えなくなっていたガリレオがついにキリスト教を信じるようになったという素晴らしい知らせに接してこれを喜ぶ手紙を送っている。
 カステリの手紙は、その生涯最後の3年間におけるガリレオの信条について幾ばくかの疑問を我々に残すかもしれないが、結果として疑いの余地のないことは、カステリがその時点まで35年間にわたって知っていたガリレオが、キリスト教徒であったことがなかったという点だ。・・・」(G)

 (3)ガリレオの研究業績

 「・・・1532年にコペルニクス(<Nicolaus >Copernicus<。1473〜1543年。ポーランド=リトアニア同君連合王国のポーランド王領プロイセンのトルン(Thorn)生まれのドイツ系ポーランド人。天文学者・僧侶
http://en.wikipedia.org/wiki/Nicolaus_Copernicus 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9(太田)
>)の太陽を中心とする太陽系<という説>が法王庁で観衆に講義されたということはほとんど知られていない。
 その後に到来する嵐のことを考えると、当時の法王のレオ10世(Leo X<。1475〜1521年。法王:1513〜21年。フィレンツェ生まれでフィレンツェ共和国の支配者ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici)の次男。僧侶出身でない最後の法王
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Leo_X (太田)
>)が、その講義の後、その本を完成すべく頑張っていた、このポーランド人僧侶<たるコペルニクス>に対して激励の書簡を送ったなどということは、ほとんど信じがたいことだ。
 彼の『天体の回転について(On the Revolutions of the Heavenly Spheres)』 が1543年に出版された時、コペルニクスはその最初に刷り上がった本を死の数時間前に手にしたという。
 彼の太陽中心説が仮説として提示されている限りにおいては、法王庁はコペルニクス主義に関心を持たなかった。
 ところが、一人の男がそのすべてを変えてしまった。
 1564年2月に生まれたガリレオ・ガリレイは、最初医者になろうとして、父親の不興を買ったところの数学者志望に切り替えた。
 伝説によれば、彼はピサの斜塔からボールを落として落下体の運動を探査し、すべての物体は同じ速度で落下することを発見し、アリストテレス以来誰もが信じてきたことを論駁した、とされているが、これは疑わしい。
 1609年に、ガリレオは、オランダの眼鏡職人が望遠鏡を発明したことを知り、自分でそれをすぐにつくった。
 数ヶ月以内に、彼はそれをオモチャから科学的発見のための道具へと変貌させ、銀河は空を横切る筋ではなくて多数の星であること、そして、月は山や谷を持っていることを見出したし、金星の満ち欠けや太陽黒点も観察した。
 「ガリレオにとっては、百聞は一見にしかずだった」と歴史学者のデーヴィッド・ウートンは言う。
 しかし、このよく調査された知的伝記の中で、彼は、ガリレオはその木星の何個もの月の発見が全ての天体が地球の周りを回っているわけではないことを証明するずっと以前から、コペルニクス主義者であったと説得力ある主張を行っている。
 1610年3月、ガリレオは彼の諸発見を、適切なタイトルがつけられたところの『星界の報告(The Starry Messenger)』の中に収めて出版した。
 それは、1週間以内に全部で550部も売れ、まもなく46歳のガリレオは、欧州で最も名高い自然哲学者となった。・・・」(C)

 「・・・初期には力学と運動に手を出し、彼の評判はすぐに確立されたが、『星界の報告』に収録された彼の望遠鏡天文学、及びコペルニクスの太陽中心説の論駁しがたい明らかな経験論的証明は、ガリレオの科学的評判とその個人的運命の両方を決定した。
 ガリレオの、後の『天文対話(Dialogue <Concerning the Two Chief World Systems> )』(1632年)は、彼のコペルニクス主義信条を再確認するもののように見え、ついに異端審問所をして彼を注視せしめるに至らしめた。
 また、彼の『新科学対話(Discourses <and Mathematical Demonstrations Relating to Two New Sciences>)』(1638年)は、「新科学」の要約を提供するものだった。・・・」(D)

 「・・・1610年3月13日、パドヴァ大学の余り知られていない教授・・・ガリレオ・ガリレイ・・・が発明されたばかりの望遠鏡で行った天体の観察を内容とする短いパンフレット・・・『星界の報告』を出版した。
 その同じ日に、駐ヴェネツィア・イギリス大使は、外交行李にそれを一部入れ、その著者は「非常に有名になるかひどい笑い者になるかという危険を」冒しているという一文を添え<て本国に送っ>た。・・・」(E)
 
 「・・・この前後の頃には、「事実(fact)」という概念は真の意味では存在していなかったのだが、この言葉をガリレオがはっきり使用した。(同様、彼が「科学」した点についても同じことが言える。)・・・」(F)

(続く)

太田述正コラム#4340(2010.10.27)
<ガリレオ(その1)>(2011.2.14公開)

1 始めに

 ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei。1564〜1642年。イタリアの物理学者、天文学者、哲学者)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4
の伝記が、それぞれ米国と英国・・2人の著者の国籍とは逆・・で出版されました。
 デーヴィッド・ウートン(David Wootton)の 'Galileo: Watcher of the Skies' と、ジョン・ヘイルブロン(John Heilbron)の 'Galileo' です。
 ガリレオについて考えることは、カトリシズムと欧州科学、すなわち欧州文明について考えることであることから、さっそく両著の書評類を用いて、改めて欧州文明とは何かを確認してみようと思い立ちました。

A:http://www.ft.com/cms/s/2/47d74a42-d7e1-11df-b044-00144feabdc0.html
(10月16日アクセス。両著の書評(以下同じ))
B:http://news.scotsman.com/arts/Book-Reviews-Galileo-Watcher-of.6583751.jp
(10月26日アクセス(以下同じ))
C:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/8046404/Galileo-by-David-Wootton-review.html
D:http://www.literaryreview.co.uk/brotton_10_10.html
E:http://www.standpointmag.co.uk/node/3414/full
F:http://www.popularscience.co.uk/reviews/rev572.htm
(ウートンの本だけの書評)
G:http://newhumanist.org.uk/2384/stargazer
(著者による解説)

 なお、ウートンは、英国人たる英ヨーク大学歴史学教授であり、
http://www.guardian.co.uk/education/2008/apr/29/academicexperts.highereducation
ヘイルブロンは、米国人たる米カリフォルニア大学バークレー校の歴史学教授兼英オックスフォード大学シニア・リサーチ・フェローです。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_L._Heilbron
 両者とも科学史が専門ですが、ウートンは生粋の歴史学者であるのに対し、ヘイルブロンは物理学出身です。(B)

2 ガリレオ

 (1)序

 「・・・ウートンは、ガリレオは最初の近代科学者であって、「ガリレオの大志は新しいアルキメデス(Archimedes<。BC287?〜212?年。シチリア島のシラクサに生まれたギリシャ人。数学者として最も知られているが、物理学者・エンジニア・発明家・天文学者でもあった
http://en.wikipedia.org/wiki/Archimedes (太田)
>)の一人になることだったが、ほとんど偶然、自然について学ぶ新しい方法である実験的手法に遭遇し、その結果、我々が現在科学と呼ぶものを発明した。」<(注1)>ことを思い起こさせてくれる。・・・」(A)

 (注1)一般に、ガリレオは、「フランシス・ベーコンとともに科学的手法の開拓者」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4 上掲
とされている。(太田)

 「・・・<ただし、>ウートンは、ガリレオを数学者どころか、近代的な意味での科学者と見ることさえ時代錯誤的であるとする。
 ・・・ウートンは、明示的ないし黙示的に残存しているあらゆる証言に影を落としているところの、異端審問官による影響からして、ガリレオについて彼が生きている間に書かれた事実上全てのものは、懐疑的に読まれなければならない、と主張しつつ、断片的、不確実、かつ究極的にはアクセス不能であるという、過去というものの持つ属性を強調する。・・・」(D)

 (2)ガリレオという人物

 「・・・ガリレオは、1564年にフィレンツェ<の位置していたトスカーナ大公国>のピサ(Pisa)に生まれ、僧侶職や医師に一時的な関心を示した後、数学にのめり込み、まずピサ大学で、次いでパドヴァ(Padua)大学で教鞭を執った。・・・」(D)

 「・・・ガリレオは一度も結婚しなかったが、・・・ヴェネティア人の情婦がいた。
 ヘイルブロンは、彼女が売春婦か、せいぜい「誠実なる高級売春婦(honest courtesan)」(モンテーニュが「包括的業務(the entire business)」と呼んだものと同じくらいの代金を会話だけでも請求したところの、より高い階級<の売春婦>)であったのではないかと想像をめぐらす。
 はっきりしているのは、ガリレオが1610年にフィレンツェに引っ越した時に、<彼女>を伴わなかったことだ。
 彼の娘達は、ある修道院に入れられた。
 娘の一人の、聖人のような・・・は、後年、ガリレオの最大の心情面での支えとなった。・・・」(B)

 「・・・ヘイルブロンは、彼の本の最初の方の各章において見事に、ガリレオの(父親から受け継いだ)音楽的能力と自身によるダンテ(Dante)の詩についての批判的考察からして、彼が幾何学に負けず劣らず芸術においても楕円や曖昧さを許すことができなかったことが彼の運動と天文学についての初期の仕事に影響を与えた、と主張する。・・・
 ウートンは、アーサー・ケストラー<(コラム#3832、3934、3836、3953)>が、1959年の本、『夢遊病者達(The Sleepwalkers)』の中で、ガリレオは自分の科学的業績を大げさに話したために自分自身の失墜を招いたと主張したのは正しかったとする。
 ウートンの本は、三つの中心的議論から成っている。
 <第一に、>ガリレオは、多くの人々が主張しているような偉大な実験科学者などではなく、不承不承の経験論者であったということだ。

→要するに、ウートンは、ガリレオは近代科学の父などではない、と言っているわけです。(太田)

 <第二に、>彼のコペルニクス主義信条は、1597年に遡るのであって、一般に信じられているところよりもはるかに以前からのものであることだ。
 <第三に、>ここは一番異論が出ると考えられるウートンの議論だろうが、ガリレオは実は非宗教的な人物であったということだ。ただし、その証拠は薄弱なので、侃々諤々の論議が起きることだろう。・・・」(D)

→近代イタリアは、(近代ドイツより単純であるところの、)カトリシズムと無神論とのせめぎあいの世界であったということでしょう。私は、ガリレオが無神論者であったというのは、大いにありうる話だと思いますね。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4314(2010.10.14)
<メアリー・チューダー(その2)>(2011.1.29公開)

 (3)すんでのところでカトリック教国に完全復帰するところだったイギリス

 「・・・メアリー女王は、イギリスを再カトリック化し、300人近い異端者達を火刑に処し、彼女が敬慕していたけれど彼女をフランスとの破滅的戦争へと導いたところのスペインのフィリップ2世を夫に選んだ。・・・
 メアリー・チューダーと彼女の王族たる従兄弟のレジナルド・ポール(Reginald Pole<。1500〜58年。カトリックとしての最後のカンタベリー大司教。滞在していた欧州からヘンリー8世を批判したため、彼の母親や兄が処刑されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Reginald_Pole (太田)
>)は、カトリックの宗教教育を改善し、司祭たり得る資格要件を高め、神学校の水準を引き揚げた。
 これら及びその他のメアリーによる<カトリックの>革新は、イタリア、フランス、スペインその他の欧州大陸のカトリックによる反宗教改革においてしっかりと根を下ろした。・・・」(D)

 「・・・彼女の宗教的信条に関しては、それが揺るぐことはなかった。
 ホワイトロックが示すように、それが個人的なものであれ政治的なものであれ、彼女のキャリアの中で、宗教との関連なしに理解できるものは皆無だ。・・・
 イギリス人貴族たる神学者で枢機卿のレジナルド・ポールは、法王庁からイギリスにおける<カトリックへの>再改宗を監督するために<イギリスに>派遣された。
 ポールは、若い頃に、「人文主義者的」関心を持ち、ルター派もどきの諸信条さえ持った、アバンギャルドの知識人的であったことから、彼が新しいカトリックの信仰(convictions)を抱く勇気を欠くに至り古いカトリック的慣行(practice)に先祖返りしてしまったものとして、彼のキャリアの最後の頃はしばしば描かれてきた。・・・

 ・・・<ホワイトロックは、このように、メアリーの宗教政策に理解を示すが、>・・・イーモン・ダフィー(Eamon Duffy)が 'FIRES OF FAITH: CATHOLIC ENGLAND UNDER MARY TUDOR' ・・・の中で、ポールが完全に承認していたと教えてくれているところの、)火刑についてはどうなのか?
 苦悶を増すためにタールやピッチを頭に載せられて生きながら焼かれた女性達や10代の男の子達や、ガーンシー(Guernsey)で妊娠した女性が焼かれて死ぬ途中で出産した(その赤ん坊が観衆の一人によって助けられたが執政長官(sheriff)によって炎の中に投げ返された)話を読んで、時代の標準がそうであったからといって、果たして我々は本当にそんなことが正当化できるだろうか。・・・
 外国の大使達の諸報告書は、ホワイトロックの引用によれば、この政策は一般の人々からからは嫌われていたことを示唆している。
 カトリック神学は、頑固な異端に対する処刑を正当化していたかもしれないが、メアリーは公開処刑を彼女が呼んだところの「例示と恐怖」のために欲したのだ。
 そんなことをしても、人々に対して、本当に改宗するというよりは、改宗したとウソをつくようにさせるだけだったはずだ。・・・
 16世紀の国の中には、異なった宗派(confession)の「平和的共存」を認める例がたくさんあった。
 ポーランド、リトワニア、トランシルヴァニア、スイスの一部(アッペンツェル(Appenzell)とグリソン(Grisons))、フランスのユグノーの町々、そして、(ウルム(Ulm)とアウグスブルグ(Augsburg)等の)神聖ローマ帝国の諸都市がそうだ。・・・」(E)

 「・・・ホワイトロックは、エピローグの中で、「メアリーは女性としては失敗したが女王としては勝利した」としぶしぶ認める。
 彼女は、自分で選んだ夫、彼女の従兄弟の神聖ローマ皇帝のカール5世の息子であるフェリペを狂おしいほど愛していた。
 しかし、この二人の間に子供はできず、彼女の異母妹のエリザベスは、メアリーがローマとの統合を果たしたというのに、それを反故にしてしまった。
 フェリペの方にしてみれば、彼は、彼女と純粋に政治的ないくつかの理由のために結婚したのであって、メアリー女王が死の床にあった時に彼女を訪問しようとさえしなかった。・・・」(C)

 「・・・ダッフィー<(上掲)>・・・の本は、<ホワイトロックのこの本>とは違って、メアリー女王の宗教と彼女のイギリスを再カトリック化しようとした努力に焦点をあてているが、ダッフィーは、メアリーがもう20年長く生きていたならば、この試みは成功していたはずだと主張する。」(C)

3 終わりに

 残念ながら、いくらホワイトロックが頑張ったところで、メアリーは、逆立ちしても、異母妹のエリザベスはもとより、自分の母親のキャサリンにもかなわないでしょう。
 キャサリン(1485〜1536年)は、聡明この上ない女性であり、最初の結婚相手のイギリス皇太子、アーサーの死とアーサーの弟のヘンリー(8世)との再婚の間の1507年に、彼女は、自分の父親によって駐英スペイン大使に任命されています。
 これは、地理的意味での欧州における最初の女性大使でした。
 また、キャサリンは、世界一の美女と称された人物でもあります。
 彼女の肖像画↓をご覧になれば、なるほどな、と思われることでしょう。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Michel_Sittow_002.jpg
 だからでしょう、キャサリンの伝記は多く、今年1冊出ていますし、来年にも1冊出る予定です。
 (以上、特に断っていない限り、
http://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_of_Aragon
による。)
 いつか、キャサリンもこのコラムでとりあげたいものです。
 
(完)

太田述正コラム#4312(2010.10.13)
<メアリー・チューダー(その1)>(2011.1.28公開)

1 始めに

 映画評論でさんざんエリザベス1世の話をしたばかりですが、エリザベスの物語の前座を務める悪役たる異母姉と相場が決まっている、メアリー・チューダーのことが気になってきませんか。
 時あたかも、アンナ・ホワイトロック(Anna Whitelock)が 'Mary Tudor: Princess, Bastard, Queen' が、昨年英国で(B)、そして今年米国で出版され、書評がいくつか揃ってきたので、それら等に拠って、メアリーについて考えて見ましょう。

A:http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/10/01/AR2010100103878_pf.html
(この本と他の2冊の本の書評。10月4日アクセス)
B:http://januarymagazine.blogspot.com/2010/09/biography-mary-tudor-princess-bastard.html
(この本の書評。10月12日アクセス。以下同じ)
C:http://www.lunch.com/Reviews/d/anna_whitelock_mary_tudor_princess_bastard_queen-1623155.html
D:http://www.epinions.com/review/Anna_Whitelock_Mary_Tudor_Princess_Bastard_Queen_epi/content_525727403652
E:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/5504442/Mary-Tudor-Englands-First-Queen-by-Anna-Whitelock-and-Fires-of-Faith-Catholic-England-under-Mary-Tudor-by-Eamon-Duffy-review.html
(この本ともう一つの本の書評)
F:http://www.huffingtonpost.com/anna-whitelock/theres-something-about-ma_2_b_705296.html
(著者による解説)

 なお、ホワイトロックは、2004年にケンブリッジから歴史学で博士号を取得している女性です。(B)

2 メアリー・チューダーとは何者だったのか

 (1)通説的メアリー観

 エリザベス期のプロパガンダと、ケート・ブランシェット主演の映画『エリザベス』やヘレナ・ボンナム・カーター(Helena Bonham Carter)主演の映画『レディー・ジェーン<・グレイ>』<(1986年の英国映画
http://en.wikipedia.org/wiki/Lady_Jane_(film) (太田)
)>といった、長年にわたる無数の物語において繰り返されてきたこと<が人々の頭に入ってしまっている。>・・・」(A)、

 「・・・多くの人々はメアリーについて、血腥いメアリー(Bloody Mary)としてだけ知っているし、多くは彼女とスコットランド人の女王メアリー(Mary Queen of Scots)とを混同しており、彼女がイギリスの最初の国王たる女性であったと認識している人ははるかに少ない。・・・」(F)

 (2)メアリーありてこそエリザベスあり

 「・・・試金石か護符かはともかく、二つのことがメアリーを支えた。
 一つは、彼女の尊厳を常に守るであろう(と彼女が感じた)スペイン王室の一員であるという感覚であり、もう一つは、彼女の永久の精神を維持せしめるであろうところの彼女のカトリック信仰だった。
 前者はスペインの現実主義外交に翻弄されることによって相当の打撃を彼女に与えたが、やがて彼女の従兄弟たるスペイン王フィリップとの結婚によって癒された。・・・」(E)

 「・・・イギリスはそれまで一度も女性によって統治されたことがなかった。
 フランスのように、サリカ法(Salic Law<。女性が王位や封を継承することを禁じる規定を持つ。英仏百年戦争の原因となる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Salic_law (太田)
>)によってそれが禁じられていたわけではなかったが・・。・・・
 メアリーの母親の母親のイザベラ(Isabella)は、クリストファー・コロンブスの支援者であり資金提供者だったが、初めてカスティーリャ(Castile)王国の君主となった女性だった。
 イザベラは、自分の娘達全員を、(実際娘の「気違い」ジョアナ(Joana "the mad")がそうなったように)カスティーリャやその他の国を統治する日が来るかもしれないということを予期しつつ育て上げた。
 自分自身が十分な教育を受けていなかったことを悔やみ、イザベラは自分の娘達全員にラテン語とフランス語だけでなくイベリア半島の諸言語の会話を学ばせた。
 そして、これが<ヘンリー8世のお后でイザベラの娘である>キャサリン女王が<自分の娘の>メアリー王妃を、はっきりした世継ぎのいなかったヘンリー8世の死後、イギリスをいつでも統治できるよう、人文主義学者として育て上げた方法だった。

→そのおかげで、エリザベスに対しても、母親のアン・ブーリンがキャサリンと張り合って、メアリー以上の教育を受けさせた、ということでしょう。(太田)

 これに関連する第二の点は、メアリーの伝記作家達によって余り明確には記されたことがない点だ。
 メアリーの敵達は、彼女が「イギリス人というよりはスペイン人だ」と批判した。
 しかし、彼女の祖母のイザベラ及び彼女の母親のキャサリンを通じ、メアリー・チューダー王妃は、彼女の父方の祖父である国王ヘンリー7世に伍するくらい国王たるイギリス人の祖先を持っているのだ。
 ゴーント(ゲント)のジョン(John of Gaunt(Ghent)< 1st Duke of Lancaster, 5th Earl of Leicester, 2nd Earl of Derby, Duke of Aquitaine。>1340〜99年。エドワード3世の息子にしてヘンリー4世の父親
http://en.wikipedia.org/wiki/John_of_Gaunt,_1st_Duke_of_Lancaster (太田)
の子孫として、メアリーの拡大家系図は、イギリスの<プランタジネット朝の>ランカスター系の国王達であるヘンリー4世、ヘンリー5世、そして(女性を通じ)ヘンリー6世、エドワード4世、リチャード3世、そして彼女の祖父であるヘンリー7世その人に至るイギリス王室一族の名前で満ち溢れている。
 欧州のすべての王室員と貴族は、家系図を極めて重視した。
 そして、メアリーは、アラゴンとカスティーリャの国王の孫(infanta)であるとともにイギリスのプランタジネット朝の王室員だった。・・・」(D)

→エリザベスよりもメアリーの方がイギリス王室の血がより濃かったとは面白い。(太田)

 「・・・彼女の弟のエドワード6世が1553年に亡くなった時、メアリーが君主になる可能性は小さかった。
 政府のあらゆる既存権力は彼女の王位継承に反対し、彼女を逮捕しようとした。
 しかし、彼女が逮捕を回避し、自分の居所を要塞化すると、その後、短時日のうちに、カトリックとプロテスタントを問わず、指導的貴族達が彼女のもとに結集した。
 イギリスにおける最初の正規の統治者として、<即位した>メアリー・チューダーは次々に先例を打ち立てた。
 これらの先例が、彼女の異母妹であるエリザベス1世が、メアリーの死後、全く反対なしに後を襲うことを可能にした。
 アン女王、ヴィクトリア女王、そしてエリザベス2世女王は、メアリー・チューダーに大いに感謝せずばなるまい、とアンナ・ホワイトロックは<この本の中で>主張する。・・・」(C)

→言われてみれば、確かにそのとおりですね。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4308(2010.10.11)
<ジョージ・ワシントン(その3)>(2011.1.25公開)

 (3)そんなワシントンはこうやって英雄になった

 「・・・彼が金持ちの未亡人のマーサ・ダンドリッジ・カスティス(Martha Dandridge Custis)と結婚した<ことは彼を大いに助けた。>・・・」(D)

 「・・・政治家としての本能でもって、ワシントンは、異なった人々に対しては異なった声で語りかけた。他のバージニアのプランテーション経営者達に演説する時は、冷たく固い実務的な声で語り、革命の同志達を相手にする時は、彼は利他主義者へと花開いた。・・・」(A)

 「・・・真のワシントンは、戦術的能力がほとんど欠如した将軍だったが、洞察力ある戦略的眼力に満ちた政治家だった。こういう意味で、(イギリス人たる、あるいは反革命的な)批評家の眼からは、ワシントンは、<実物より>はるかに巨大な人物として立ち現れてくるのだ。・・・」(B)

 「・・・戦争が終わった時に司令官職から降りたことほど、当然のことだが、彼に尊敬をもたらしたものはない。
 彼が、容易に掌握できたところの権力を辞任によって擲<って、彼が米国王的な存在にならなかった>たことが共和国を救ったのだ。
 彼は、憲法制定会議(Constitutional Convention)を主宰するために1787年に公的生活に復帰するが、ここで彼は概ね儀式的な、しかし、にもかからわず枢要なる役割を演じた。
 ワシントンは、儀式的であること(ceremony)と尊大であること(pomposity)との違いをわきまえており、そのうちの一方<(前者)>に徹し続けた。
 彼は大統領選挙人の全員一致の票を得て大統領に選出された。・・・
 ワシントンは大変良い大統領であり、かつ幸せな大統領だった。
 自分の行政府の内と外における次第に募る派閥主義の横行、とりわけハミルトンとジェファーソンとの間の諍いとジェファーソン主義者達の反対運動の出現にひどく心を悩ませたため、彼は大統領をしぶしぶながらもう一期務めた。・・・
 ワシントンは、アダムスのような感情丸出しの意地悪ではなかったし、ジェファーソンのような矛盾の飾り箪笥のような人物でもなかった。
 <他方、>彼は、フランクリンのように愉快な人物(funny)ではなかったし、マディソンのように包容力ある人物(capacious)でもなかった。・・・」(C)

 「・・・ワシントンの「国を率いる曰く言い難い(uncanny)能力」<は、>「誤ることなき判断、純正なる人格、清廉さ、断固たる愛国主義、たゆまぬ義務感と市民的精神といった「例外的な諸徳」を彼が備えていた<ところにあった。>・・・」(E)

 「・・・ジョージ・ワシントンは、<米国にとって>不可欠な建国の父だった。
 彼は、4度続けて大陸軍の司令官に全員一致で選出された。
 <そして、>憲法制定会議の議長を努め、連続2期米大統領を務めた。・・・
 彼は、上流郷紳(gentry)の家に生まれたわけではなく、大学にも通わなかったけれど、自分だけで人となった男では必ずしもない。
 彼は色んな意味で良心的かつ自学自習的だったが、時ならぬ彼の父親と半兄弟の死、そして自身のマーサ・カーティスとの結婚が、彼をバージニアのプランテーション社会の最上級階層へと押し出して行ったのだ。・・・」(E)

 「・・・あなたは、自分自身のイメージを管理することが新しい現象ではないことを<この本を読んで>発見するだろう。
 ワシントンは、このことについてのこの上もない達人だった。
 ワシントンは、他人が自分のことをどう思っているかについて強迫観念を持っており、自分の死後の評判についてさえ、注意深く準備をした。・・・
 白馬に乗った自分がどんなに映えるかを意識し、彼は、ある時、友人に「完全に白いのがいい」と指定して馬を買うように頼んだ。…
 …一点の汚れなき軍馬にかくもこだわったワシントンは、厩務員達に、夜、白いペンキを塗り、衣で包み、新しい藁に上に寝かしつけよと命じた。
 朝になると、固まった白いペンキがきらりと光ったが、この白さは、馬の蹄に施された黒い光沢液によって更に引き立てられた。
 彼を司令官らしく見せるため、馬の口の中は水ですすがれ、歯は磨かれた。・・・」(F)

 「・・・他の建国の父達は自分達の知性を顕示することを誇りとしたが、ワシントンの戦略はその正反対だった。
 彼を知らない人ほど、より、彼が何事も達成しうると思い込んだ」とチャーナウは記す。
 「不透明さが、彼が自分の権力を高め出来事に影響を及ぼす手段だった」と。
 他の建国の父達全員・・ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムスその他・・は、書き物または公会場において、議論に勝ち点数を上げることで光り輝いた。
 ワシントンは、それとは対照的に、コンセンサスを形成すること、<他の人々の間の>議論を俯瞰する高みから操作すること、星座を自分のものにしてその中の北極星たること、に専念した。・・・
 ジェファーソンとアダムスは啓蒙主義の諸観念を代表していたが、ワシントンは、自分自身を公衆の意思の地味な保管人(humble depository)であるかのように演出したのだ。・・・」(G)

(続く)

太田述正コラム#4306(2010.10.10)
<ジョージ・ワシントン(その2)>(2011.1.24公開)

 (2)ダメ人間だったが運は良かったワシントン

 「・・・ワシントンの人格と彼の母親の彼に対する扱いとの関係ははっきりしている。
 彼女は、冷たく、きわめて厳しく、かつ性急に判断を下しがちな人物であり、彼は常に彼女を満足させることはできなかった。
 彼女は、彼が何をなしとげても、それを褒めることはなかった。
 彼女は、節約家で、要求水準が高く、やかましやで粗探しをする人物だった。
 <その結果、>彼は、成長して批判を過度に気にする人物となり、生涯、人から認められることを求め続けた。
 しかも、彼は常に怒りを抑制するのに四苦八苦し続けた。・・・」(F)

 「・・・ワシントンの人格と本能を最も良く叙述する形容詞は、まことに皮肉なことに「イギリス人」だ。
 彼は、色が白く簡単に日に焼けた。
 彼は、自分の衣類その他大部分の商品をロンドンの商人達から購入した。
 彼は、イエス・キリストの神性を肯定したことはついになかったが、自分の地域の英国教会の諸教会を積極的に支援した。
 彼は、マウント・ヴァーノン(Mount Vernon)・・一人のイギリス人提督の名前をとったものだ・・<の自分の家>を古典的なイギリス的建築諸原理に従って再建した。
 彼は、冷淡(phlegmatic)であって、馴れ馴れしくされることを嫌った。
 彼は、ヴァレー・フォージ(Valley Forge)<(注1)>の暗き日々に、何と<イギリスの「国技」である>クリケットをした。

 (注1)「独立戦争中の1777年から1778年にかけての冬、大陸軍が宿営地としたペンシルベニア州にある場所」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B8 (太田)

 チャーナウは、<そんな>ワシントンが英国と袂を分かったのは、英国当局がワシントンに英正規軍の軍人資格を与えるのを愚かにも拒否したためだという。
 チャーナウ氏は、「彼の母国への敵意は、<母国への>愛が阻害されたためだ」と記す。
 (彼は、それには貪欲さえからんでいたのではないかと示唆する。というのは、英国は、1770年代央においてワシントンが儲けていたところの、極めて危ういオハイオでの土地投機を止めさせようとしていたからだ。)・・・
 <独立戦争において、ワシントンは何度も敗北したが、>次にワシントンが敗北したところの、ブランディーワイン(Brandywine)とジャーマンタウン(Germantown)<の戦い>では、米植民地人150人が殺され、520人が負傷し、400人が捕虜になったが、これに対して英軍側の損害は、70人の死亡、450人の負傷、15人の捕虜<だけ>だった。
 しかし、ワシントンは、どちらの戦いについても、大陸会議(Congress)に対して<自分達が>勝利に近づいているかのように報告することによって、彼の栄誉を称える勲章を手にした。
 <また、>マンモス・コート・ハウス(Monmouth Court House)の戦いは、戦死者の数で言えば、せいぜい引き分けといったところだったし、英軍はその夜、追撃されることなく撤退を行うことができた。
 その次に行われた、ワシントンの最後の戦いは、ヨークタウン(Yorktown)におけるものだ。
 彼は、そこに、ニューヨークを再奪取する誤った試みの後・・彼は、後に、そうしたのは敵をあざむくためだったと主張したが、チャーナウ氏はそれを「ウソ」であると断じている・・・、しかも、<フランスの>ド・グラッス(de Grasse)提督の28隻の戦列艦(ships-of-the-line)<注2)> 及びフランスの歩兵並びに砲兵が、半島先端に<英軍の>コーンウォリス(Cornwallis)率いる9000人もの英陸軍を封じ込めてからはるか後にそこに到着したのだ。

 (注2)欧米で17世紀から19世紀中頃までの間に建造された戦艦。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ship_of_the_line (太田)

 チャーナウ氏は、「ヨークタウンでの勝利は、海上での優位によって支援されたフランス軍の巧みな包囲によるものだ」と記す。
 だから、コーンウォリスが、1781年10月19日に降伏した時、自分の剣がワシントンにではなく、フランス軍に渡されるように命じたのは少しも驚くべきことではない。
 一方、ワシントンは、捕虜になった王党派<(=英軍側で戦った植民地人達(太田)>がニューヨークに船で送り返されることは認めたが、再捕獲された奴隷達・・その中には、彼自身が所有していた300人の奴隷のうちの2人が含まれていた・・は、それぞれのプランテーションに送り返された。・・・」(B)

 「・・・考えられないほどのフランスによる援助なかりせば、米国の歴史は異なっていたかもしれない。・・・」(E)

 「・・・ワシントンは、頭の回転の速い方でも飲み込みの早い方でもなく、自発性の才を欠き、臨機応変にうまい方法を考え出すことが不得手だった」と彼は記す。
 彼は、せいぜい、「独創性というよりは鋭い判断力」を持っていただけだと。・・・」(B)

 「・・・ワシントンは余り教育を受けていなかった。
 彼は哲学者ではなかった。
 そして、「立派な(sterling)機知の時代であったというのに、ワシントンがユーモアで知られたということは全くなかった」と。・・・」(A)

 「・・・<しかし、ワシントンの>同時代人達は、彼に深いうらみをもっていたライバル達でさえ、彼が神の摂理によって、あるいは単に運によって嘉されているように見えたという見解だった。
 さもなくば、かくも多数の弾丸が彼の周りを飛び交ったというのに、どうしてただの一つも彼の身体にあたらなかったのかを説明することができないし、<彼の蒙った>フレンチ・インディアン戦争と独立戦争で破滅的な軍事的大災厄の連鎖の中から、彼の評判が地に堕ちるどころか、むしろ評判が高まって立ち現れたことだって説明できない、というわけだ。・・・」(E)

(続く)

太田述正コラム#4302(2010.10.8)
<ジョージ・ワシントン(その1)>(2011.1.23公開)

1 始めに

 明日の講演会の演題が「日本人の日本近現代史認識の歪み」(明日公開コラムとして配信予定)ですし、現在、私の日本近現代史認識をテーマにした次著の編集作業が有志の皆さんによって行われていることもあり、どうして、このところ、直接日本の近現代史にかかわるコラムを書こうとしていないのか、疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。
 確かに、「XXXX」さんから何度も史料の分厚いコピーをいただいているので、書く材料には不足してはいません。
 ぶっちゃけ、同じようなテーマでばかりコラムを書いていると飽きてしまう、ということもあるのですが、次著との関係でも、クレイギーの英国大使としての日本在勤期間の回顧録は、何が何でも読み、コラムにしなければならないと思いつつも、読むことさえ滞りがちなのです。
 というのは、この回顧録・・'Behind the Japanese Mask'・・は、終戦の年1945年の年末の12月に脱稿されており、恐らくは翌年出版されたのでしょうが、この回顧録が日本で今まで余り話題に上らなかった、ということは、クレイギーが、帰国の翌年の1942年に書き、比較的最近まで公開されなかった部内用報告書とはトーンがかなり異なっていたのではないか、とかねてから勘ぐっていたところ、案の定、この回顧録、極東裁判史観とまではいかなくても、戦前の日本に関する悪玉、善玉論に拠った記述ぶりになっていました。
 そうなると、報告書の方は、ただ単純に、興味深いところを抄訳をつくってコラムにすればよかったわけですが、回顧録の方は、行間を読みながら、ケレイギーのホンネが忖度できる箇所を慎重に選んだ上でその翻訳を行い、それにいちいち解説をつけながらコラムにする必要がある。
 というわけで、なかなか本格的に取り組む気にならないまま日にちが経っている、という次第です。
 このほかにも、色々提供を受けているのですが、例えば、重光葵の『外交意見書集』第1巻は、その細かい字で363頁という分厚さに恐れをなしています。
 また、その他の史料も、カタカナ表記であったり、文語体のものが多く、敬遠気味です。

 繰り言めいた能書きはこれくらいにして、今回取り上げるのは、ロン・チャーナウ(Ron Chernow)の 'WASHINGTON A Life' です。
 何と言っても、ワシントンは、米独立戦争の指導者であり、初代の大統領ですから、米国を形作った人として、その浩瀚な伝記が出版された以上、取り上げないわけにはいかないでしょう。
 当然のことながら、米国で、既に下掲のように多数の書評が出ているので、これら書評に拠りつつ、この本の概要をご紹介したいと思います。

A:http://www.nytimes.com/2010/09/28/books/28book.html?_r=1&hpw=&pagewanted=print(9月28日アクセス)
B:http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703882404575520061512222160.html?mod=WSJ_Opinion_LEFTTopOpinion
(10月3日アクセス)
C:http://www.newyorker.com/arts/critics/atlarge/2010/09/27/100927crat_atlarge_lepore?printable=true#ixzz11fcy5UKG
(10月7日アクセス。以下同じ)
D:http://www.nytimes.com/2010/10/03/books/review/Cayton-t.html?pagewanted=print
E:http://www.bookpage.com/books-10013698-Washington%3A-A-Life-
F:http://rhapsodyinbooks.wordpress.com/2010/10/05/tlc-book-tour-review-of-washington-a-life-by-ron-chernow/
G:http://www.latimes.com/entertainment/news/la-ca-ron-chernow-20101010,0,6980356,print.story
(10月8日アクセス。以下同じ)

 なお、チャーナウは、1949年生まれでエール、ケンブリッジ両大学で英文学を専攻、いずれも優等で卒業している米国の伝記作家であり、これまで、モルガン家4代※、ワーバーグ(Warburg)家※、及びロックフェラー、ハミルトン※の伝記をものしており、※付の伝記は、それぞれ権威ある賞を授与されています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ron_Chernow

2 ジョージ・ワシントン

 (1)あの有名なエピソード

 「・・・若きジョージが桜の木を切り、「お父さん、僕、ウソをつくことはできない。僕がウソをつくことができないのは知ってるよね。僕は斧でそれを切ったんだ」というエピソードは、<最初にワシントンの伝記を書いた>ウィームス(Weems)に由来するものであり、一般に彼の創作であると考えられてきた。
 (<このエピソードは>いいなぞなぞになる。もし「僕はウソをつくことはできない」がウソだったら、何が本当か?)
 しかし、ウィームスは、このエピソードは、<ワシントンの遠い親戚である>一人の年老いた女性から私に対して20年前に伝えられたと言っている。これは本当かもしれない。・・・」(C)

(続く)
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太田述正コラム#4514(2011.1.22)
<2011.1.22オフ会次第(その1)>

→非公開

太田述正コラム#4272(2010.9.23)
<ピゴット少将かく語りき(その2)>(2011.1.10公開)

 「1927年(昭和2年)3月、南京に暴動が起り、日・英・米三国の領事館は国府軍・・・によって暴行を受けた。・・・
 <この時、>日本が協力を拒否したこと<は>・・・重大な誤りだった。・・・
 それより数ヶ月前<当時、>・・・日本の参謀本部が仮想敵国としていたのは、ソ連と中国の二国だけだった--ソ連は、すぐそばの大陸において利害が衝突し、しかも、日本とは根本的に相反する政治組織をもつ国として、また中国は、混沌として、嫉妬深く、非友好的で、当てにならない国として。」(298〜299頁)

 「<この時、>イギリス政府は、もし日本が同数の兵力を派遣するなら、イギリスの1個旅団を日本の師団長の指揮下に置くことを申し出たのである。
 日本の<駐英>陸軍武官二宮将軍は、<英>陸軍省のハリソン極東課長の部屋に、日本が名目だけの兵力さえ派遣できない旨を告げに来たとき、ほんとうに泣いたとハリソンがいった。日本は、南京政府にあらゆる機会を与えたがっていたこと、もし実際に危機が到来したら、日本は急速に派兵できる(1900年(明治33年)の義和団事変当時のように)というのが、一般に信じられていた派兵拒否の理由だった。したがって、日本は、危機を未然に防止しようというイギリスの勧誘が、実際的な形式による旧同盟精神の復活を意味したにもかかわらず、これを断ったのである。
 しかし、もう一つ拒否の理由があった。それは同盟を廃棄したことにたいする憤懣の気持ちが、まだくすぶっていたことである。後年、両国関係が次第に悪化していったとき、多くの日本人は、日本が1926年(昭和元年)--27年(昭和2年)に、イギリスと行動を共にしなかったことを、公然とくやんでいた。首相近衛公自身も、1940年(昭和15年)8月24日附の『ステイティスト』の特別日本附録に寄せた声明の中で、次のように述べている。

 …不幸にして、南京事件(1927年・昭和2年)の前夜に行われたイギリスからの日英協力の提案は、日本によって拒否された…

 もし、日本がイギリスの提案を受諾していたなら、極東ばかりでなく世界の歴史は変っていたろう。」(300〜301頁)

→日英同盟が米国の介入で廃棄されていたことが、戦略的利害・・ソ連の封じ込めと中国の安定化・・の一致にもかかわらず、ボタンの掛け違いを引き起こしたというわけです。(太田)

 「<1931年に>満州の空にとどろいた遠雷<(=満州事変)は、>・・・テンパーレーが自著の標題に用いた表現を借りると、ヨーロッパの井戸端会議所--すなわち国際連盟本部にまっこうからのしかかってきた・・・。
 もし当時、日英同盟条約が厳存していたならば、日英間の見解の相違は調整されたであろう。しかし、当時として、もはやそうしたことは望み得べくもなく、日本の世論はその全部でないにしても、イギリスこそ国際連盟を反日にみちびいた元凶であるとみなしていた。・・・
 大体、イギリス人は極東の事態について、これまであまり強い関心を示したことはないのだが、極東の事態の発展にはたしかに狼狽した。
 イギリスの権益というよりも、むしろ国際連盟に煽られたかたちで、日本を非難攻撃する人々もいた。日本の新聞や国民は、一部の狂信的な連中の発するかん高い罵詈讒謗の叫びを、穏健なイギリス国民の本音だと勘違いした。・・・
 しかし当時としては、日本がイギリスにたいして、そう感じるのももっともな点があった。たとえば、1932年(昭和7年)ロンドン・タイムズに掲載された、セシル卿その他の署名つきの書簡は、連盟がアメリカと共同して、日本が中国全体を武力征覇するのを防止するために日本にたいし外交的、経済的圧力を加えることを要求した。・・・」(327〜328頁)

 「1932年(昭和7年)8月22日、・・・ウィリアム・ロバートソン元帥・・<の日英>同盟にかんする・・・見解<を聞く機会があった。元帥いわく、>・・・「わたしは常に現実に直面する覚悟を忘れなかった。イギリス帝国の百年の大計をたてるに当っては、なにより根本的な要素は日本との友好であると感じた」・・・
 <また、>グレイ卿<(Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon。1862〜1933年。英外相:1905〜16年
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Grey,_1st_Viscount_Grey_of_Fallodon (太田)
)に関してだが、>・・6年後<の1911年に>、日英同盟の第2回目の更新が考慮されていたとき、グレイは・・・カナダ総督だった従兄弟のグレイ伯爵に書翰を送り、

 もしわれわれが日英同盟を破棄すれば、われわれはもはや有事の際、日本海軍の援助に頼ることはできない。同時にわれわれは、日本がわれわれに敵対するような盟約に加入する可能性にたいし、準備をせざるを得ない。

と述べ、同書翰は次の文章で結んである。

 わたくしは日本がアメリカに面する太平洋水域で、武力に訴える危険は万々ないものと信じている。かかる行動は日本の国策に反し、また日本の実力では不可能である。しかしながら、われわれは満州およびその他の日本が関心を寄せている地域で、検事のような態度で日本に対することには同意しない。」(337〜338頁)

→英国の軍人は愚直に日本を信じていたけれど、英国の政治家は必ずしもそうではなかった、そして自己実現的な不吉なことを言う者がいた、ということですね。(太田)

 「日本が国際連盟を脱退した後、日英両国間の緊張は眼に見えて緩和された。いわゆる警世家や狂信的な一部のイギリス人は沈黙し、1934年(昭和9年)から翌年にかけて、両国の関係は相当に改善された。これには幾多の理由があったが、その主なものは、イギリスの民衆が深い関心を抱き得ない、そして抱こうともしない事態をめぐって、両国間に真の衝突がかつて一度も起ったことがないという日英共通の安心感であった。「満州問題は実際にわれわれイギリス人と関係があるか」という質問にたいし、一般民衆は「ない」と答えた。」(338〜339頁)

→ピゴットは気付かなかったかあるいは気付かないふりをしていたのでしょうが、これは、英国の力の衰えに伴い、英領香港や中国における英国の利権の存在にもかかわらず、英国民が東アジアのことまで関心を持つ余裕がなくなってしまったということだと私は思います。(太田)

 「<1936年、>奉天・・市にはイギリス総領事館があったが、といってイギリス政府は満州国を承認していたわけではなかった。同時に、満州国をつくり上げた日本が、日本を代表する総領事館をおいていた。よいことには、日英総領事はきわめて仲がよかった。」(391頁)
 「天津には陸軍大学の学友<の>・・・准将が、イギリス駐屯軍の司令官として駐在していた。ここでは、イギリス軍と日本軍隊との間に、若干の社交的往来があることを知って満足した。」(397頁)

→このように、イギリスがなまじ支那(満州を含む)に利権を有していたことが、後述するように、日英関係を悪化させる原因になっていきます。(太田)

 「<1938年、>中国駐在のあるアメリカの官吏が、休暇をとって・・・生まれて初めて・・・日本を訪問した。かれは・・・「わたしは在華日本人から逃れ去るために日本へやってきた。日本にいる日本人と、中国にいる日本人とは相違がある」と表した。この表現は疑うべからざる一部の真理を含んでいる。ほとんどすべての外国人が、在華日本人には手を焼いていた。日本政府が日本人の中国入国にかんする規則を一層厳重にし、さらに一部の「望ましからざる」人物の送還さえ考慮していたことも、その後さるたしかな筋から耳にした。」(398頁)

→もっとも同じことが在華英国人についても言えそうです(後述)。日英双方とも、あぶれ者的な連中が、地の果て的な混乱、混沌のただ中にあった当時の中国に流れてきていた、ということでしょうか。(太田)

 「<英>国王エドワード8世の退位<に伴う>・・・1937年(昭和12年)5月12日の・・・ジョージ6世・・・国王戴冠式・・・が日英国交の頂点であった。その後、ひきつづき両国の関係は歩一歩崩れていった。7月早々、北京附近で夜間演習実施中の日本部隊と中国部隊の間に起った衝突は、いつ果てるとも知れない戦乱をひき起した。・・・「日華事変」<だ。>・・・日本・・・のスポークスマンは・・・ソ連との衝突を想定して、日本がその対ソ構想と計画に全力を集中しているとき、その本すじから離れて、わき道にその勢力を注ぐことは考えられぬことではないかと・・・論じた。1936年(昭和11年)および1937年(昭和12年)のはじめ、日本部隊に配属されていたイギリス将校達の証言では、日本将校達の食後の放談はもっぱら対ソ戦争の予想に限られ、対華戦争にはほとんど触れなかった事実が確認されている。
 日華事変・・・が日英国交に及ぼした影響はおしなべて悪かった。イギリスの駐華大使ヒュー・ナッチブル・ヒューゲッセンが上海近郊の危険地帯を自動車で走っていたとき、日本<海>軍の飛行機からの機銃掃射で負傷した
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/390.html (太田)
ため、事情は一層悪化した。駐日新大使サー・ロバート・クレイギーは9月3日着任した。ヒューゲッセン問題が首尾よく解決したのは、主としてクレイギー大使の慎重かつ老練な処置と、かれと日本の軍部筋、とくに海軍次官山本五十六提督との友誼によるものであった。」(405、406、409頁)

→帝国陸軍がもっぱらソ連のことを考えていたことがここでも良く分かりますね。
 それにしても、当時、英陸軍将校が中国の日本軍部隊に隊付で大勢いたとは今となっては不思議な気がします。
 なお、ヒューゲッセンの話、さぞや当時は大事件だったのでしょうね。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4270(2010.9.22)
<ピゴット少将かく語りき(その1)>(2011.1.9公開)

1 始めに

 XXXXさん提供のピゴット(Francis Stewart Gilderoy Piggott。1936〜39年:駐日陸軍武官)少将の『断たれたきずな(Broken Thread)』(旧版) 時事新報社 1951年(原著1949年)の抜き刷りから、興味を覚えた箇所をご紹介しましょう。(旧字は現代表記に改めた。)

2 ピゴット少将かく語りき

 「第一次大戦において、日英同盟条約にたいするわれわれの信頼は、正当だったことが実証された。条約破棄が文字通り十指を以って数えられる時代において、日本がその義務を忠実に履行した1914-18年(大正3-7年)当時を回顧するのは愉快である。1914年(大正3年)、日本はわれわれの敵に宣戦を布告し、青島のドイツ海軍根拠地を占領し、イギリスの軍輸送船隊を護衛し、1917年(大正6年)、地中海の対潜水艦作戦に協力するため駆逐艦を派遣し、そして1918年(大正7年)には、シベリアに陸軍の大部隊を派遣した。・・・

→ピゴットならぬハンキー(後出)が、シベリア出兵についても、(もともと対ロシア同盟という色彩の強かった)日英同盟の発動ととらえているのは、考えて見れば当たり前ですが、余り誰も指摘していない点ですね。(太田)

 アメリカは日英同盟の破棄を事実上、・・・ワシントン海軍軍縮会議・・・の前提条件としていたが、これは日英両国の主席代表たちには頗る不愉快なことだった・・・。
 日英同盟破棄の結果生まれた四国条約について、・・・日本代表団の事務総長<の>・・・佐分利氏は悲しそうに、しかし、予言者的にこう言った--「他の諸国が割りこんで来るだろう。ブドウ酒は水で薄められれば薄められるほど効能が少くなる。」ちょうどその通りのことが起った。そして日英両国は次第に離れて行った。」モーリス・ハンキー卿による序文)(5〜6頁)

→米国は、日英同盟を破棄させた上で、日英両帝国を個別撃破し、米国を名実ともの世界覇権国にしようと考え、第二次世界大戦への参戦を通じてこの野望を達成した、ということになるわけです。(太田)

 「日本語を習い、日本陸軍の生活をともにしたイギリス及びインドの陸軍士官の数は(150名以上)中国を除けば他のどの国の数よりも多かった。」(10頁)

→これは、私にとって初耳ですが、語学将校と称し、日本の連隊等の隊付となったようであるところ、日本の陸軍や地域社会において知人・友人網を形成するのが目的であった思われ、さすが英国と感心しますね。(太田)

 「H・W・エルソンの『アメリカ合衆国の歴史』(History of the United States of America)の中に・・・

 しかし、<ワシントン>海軍軍縮条約調印前に、もう一つの、きわめて重要な問題が処理されねばならなかった…約20年間、日英両国は同盟関係にあったから、アメリカとしては、この同盟が破棄される前に、海軍兵力を縮小したとしたら、馬鹿げたことだったろう。なぜなら、この両国はいつ何時、太平洋で共同してアメリカに立ち向ったかも知れないからだ。
<とある。>

 この最後の部分は、到底起り得ないこととして批判されてもいいだろう。なぜなら、1911年(明治44年)に改訂された日英同盟条約は、そのような可能性を排除するように作成されたからである。それにもかかわらず、アメリカに満足の行くような解決ができるまで、会議は少しも進展できないように見えた。」(191〜192頁)

 「<この会議での>イギリスの目的は、意見の相違を調和させ、協調的な協力をもたらすことだったが、いちばん大きな困難は、イギリスは、アメリカの友であり、日本の同盟国であるのに、日米両国間の感情が友好の逆だったことである。日露戦争当時「イギリスは同盟国で、アメリカは最良の友」というスローガンが東京で流行したとき以来、すでに多くの歳月が流れ、いまや、「アメリカは仮想敵国なり」という方がもっと正確なくらいだった。」(199頁)

→今にして思えば、英国の認識は甘かったと言わざるを得ません。米国は日本を第二の仮想敵国、英国を第一の仮想敵国としていたからです。日本は前者を察知したのに、英国は後者を察知できなかったというわけです。英国は、これを察知しなければならなかったし、米国の日英同盟破棄要求は拒絶し通さなければならなかったのです。(太田)

 「<この会議の際、>バルフォア氏は、1902年(明治35年)最初の日英同盟が交渉されたとき、台閣に列していたし、1905年(明治38年)政府の首班として、その強化の当事者だったので、これを終焉させる役を負うことになった運命の皮肉を悲しんだ。「まるで、わが児を殺すような気持ちだ」と、かれは述懐した。・・・
 わたくしはバルフォア氏に、自分の考えでは、日本は同盟を永久の婚姻とみなしていたので、戦後こんなに早く、それを正当化する日本側の不信行為がないのに同盟を解消することは--事実これは離婚である--日本にたいし、とりかえしのつかない大きな侮辱を与えることになろうといった。のみならず、これは、日本人が最悪の罪とする忘恩と解されるだろう<と伝えた>。要するに、わたくしは、終極においてどんな影響があるのかを非常に心配し<てい>た<わけだ>。」(201〜202頁)

→日本の友人達の言としてわれわれは心打たれますが、彼等が、日本のことの方をどちらかと言うと心配している点に、英国の傲慢さを感じると同時に、自分達自身の今後のことをもっと心配してしかるべきだったのです。(太田)

 「会議は散会し<たが、>・・・ある日本の代表は、洞察力と同情とをもって、問題を簡潔につぎの言葉で批評した。「われわれは、旧友の葬式に列席したような気がした。しかし、こういうことに附き物の悲哀のあとに、弔問者たちは、死んだ人の多くの徳を想起し、そして、かれの想い出をつねに新たにしようと努力することによって、「慰められるかもしれない。」<と。>」(205頁)

→日英同盟の葬儀が、日英両帝国の葬儀を予告するものであったことまでは、さすがにこの日本人も予想していなかったのではないでしょうか。(太田)

 「チャットフィールド卿は、当時に言及して、第一次大戦後、「日本は、われわれの信頼した同盟国であり友人だった」と書いている(『戦後の国防(Defence After the War)1頁)。また同卿は、同盟の廃棄によって「それが、いかに政治的に賢明だったとはいえ、われわれは、英帝国の戦略的地域を最も危険な程度までに弱化した。われわれは、立派な友を強大な仮想帝国と化した…」と書いている)『それは再び起るかも知れない』88頁)。・・・

→翻訳のせいなのかもしれませんが、これでどうして「政治的に賢明だった」ことになるのでしょうか。(太田)

 14年間にわたって、日本政府の顧問をしていたアメリカ人、フレデリック・ムーアも、『日本の指導者と共に』(With Japan's Leaders)と題する著書の34頁と40頁で、率直に次のような意見を述べている。

 イギリスに強要して、日本との同盟を廃棄させたことは、アメリカの外交政策の過ちだった、と私は痛感した。日英同盟はアメリカを脅威するはずがなかった。脅威となったという非難は真実でなかった、とわたくしは思った…日英同盟の廃棄は、日本人に衝撃を与えた…これが、日本を独自の行動に向かわせたはじめだった・・・もし同盟の継続が許されたなら、日本において文官および海軍の影響力が十分陸軍をおさえて、中国へ向わせることを阻止できただろうとさえ、わたくしは思っている。さらに、このような影響力によって、日本が枢軸と結びつくことを十分阻止し得ただろう、とわたくしは信じている。」(206〜207頁)

→知日派の英国人達と同じことを言っているようで、この知日派の米国人は、全く違った考え・・謬見と言ってよい・・を抱いていると指摘せざるを得ません。当時の日本の文官・海軍と陸軍との間で日本の戦略面で見解の相違があったわけではありませんし、むしろ、ソ連の脅威に対抗するために中国へ向かう日本の戦略を、引き続き、英国とともに米国は支援すべきだったからです。戦後形成された日本の戦前史に係る世界的通説・・・謬説と言ってよい・・の萌芽をこんなところにおいても見出すことができます。(太田)

 「サー・チャールズ・エリオットは、1926年(昭和元年)のはじめ<駐日英国>大使をやめた<が、>・・・かれの死後発行された『日本の仏教』(Japanese Buddhism)には、サー・ハロルド・パーレットの書いた序文がのっているが、次の抜粋はとくに適切なるものである。

 ・・・少くとも一つの自治領における一般的感情、アメリカの反感、ジュネーヴの国際連盟を通じて働いていた新しい国際主義など・・・の勢力が・・・ついに・・・勝ち、1921年(大正10年)の冬、ワシントンにおいて、同盟は廃棄された。・・・」(280〜281頁)

→米国は、第一次世界大戦後、国際連盟をつくり・・結局自らは加盟しなかったが・・、その一方で独裁体制に対抗する自由民主主義同盟であった日英同盟を廃棄させたことがもたらした惨劇の「反省」に立って、第二次世界大戦後、国際連盟を改組したと言ってよい国際連合をつくるも、それと同時に、自由民主主義同盟をNATOや日米安保を始め、世界で設けることになります。
 このように考えれば、日英同盟は、NATO等の前駆者であったと言えるのではないでしょうか。
 とまれ、日英同盟を廃棄させた米国は、厳しく指弾されてしかるべきです。(太田)

 「<大正天皇が崩御した時の、英国>上院で<の>・・・追悼・・動議が、インド事務相バーケンヘッド卿によって提出され<た。その時の彼の演説は以下の通り。>・・・

 ・・・<第一次>世界大戦が勃発したとき、わがイギリスは日本の同盟国だったが、忠実な同盟の義務にかんする日本人の観念は他の追随を許さなかった。戦争中、われわれが依頼したことで、日本がしてくれなかったことはなかった。日本がやったことで、立派になしとげなかったことはなかった。・・・わが海軍力をわが近海に集結しておくことが必要だったが、これは同時に、われわれが保護することがまったく困難な水域に敵の巡洋艦が存在することから生ずるきわめて大きな脅威を、全世界に跨がるわが通商に与えた。この時に当って、われわれの大海軍同盟国は、われわれを見捨てなかった。日本は、忠実さに劣らない有能さをもって任務を遂行した。開戦直後の6ヶ月間に、インド部隊が戦争の中央舞台へ運ばれたが、われわがこの間、平静に物を考えることのできたのは、日本から受けた援助によるところが少なくなかった。」(294〜296頁)

→日英同盟は、事実上、ユーラシア大陸を2分し、東における脅威には日本が対処し、西における脅威には英国が対処する、という形で運用されるようになっていた、ということです。
 そんな日英同盟の廃棄を受け容れてしまった英国は、日本を脅威に転化してしまったということであり、同盟廃棄の時点で既に帝国瓦解の秒読みが始まったのであり、その秒読みを飛躍的に速めたのが、足下のドイツの再度の脅威化でした。
 英国としては、大英帝国の瓦解を少しでも先延ばししつつ、このドイツの脅威に対抗しようとすれば、日英同盟を事実上復活させる以外に方法はなかったのに、英国はそれをやらなかったばかりか、チャーチルに至っては、本来、(日本とともに対処すべき)最大の脅威であったはずのソ連を事実上の同盟国に、そして、もともと大英帝国を瓦解させる機会をうかがっていた米国を同盟国にしました。
 その結果、大英帝国は過早に瓦解するに至ったわけです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4150(2010.7.24)
<もう一人の戦犯ルース(その3)>(2010.11.28公開)

 (6)戦犯

 「・・・タイムの伝統であるマン・オブ・ザ・イヤーの表紙は、ルースの男の子供じみた、「彼の周回軌道へと引き寄せ」、「彼自身の形成しつつあった諸信条を抱懐するよう」説得するために探し求めたところの、偉大な男性達・・ウィンストン・チャーチル、ジョン・F・ケネディ、ドワイト・アイゼンハワーら・・への彼の熱狂を反映していた。
 ・・・支那の国民党の運動は、ルースにとって最も入れ込んだ大義の一つだった。
 その証拠に、支那ロビーのために彼は何度となく運動をしたものだし、タイムの表紙を優雅な蒋介石で11回も飾らせたものだ。
 <それでいて、>不屈の反共主義者にして共和党の指導者であったルースは、組合や市民権を支援し、かつ資本主義に対して懐疑的な見方をしていた。
 彼は、深く宗教的な人間である一方で、自分の信仰に疑問符を抱くとともに、飽くことなく不倫を繰り返しすらした。
 国民党の支那なる大義を担ぎつつ、ルースの日本人に対する嫌悪は彼の諸雑誌の中で表明されていたが、これは、少なくとも間接的に第二次世界大戦中に<米国人達が>日系米国人を悪漢視するのに貢献した。・・・
 彼の「米国の世紀」論考に関しては、ルースは、かわりばんこに戦争屋と囃されたり偉大なる思想家と囃されたりした。・・・」(E)

 「彼は、フランクリン・ローズベルトとハリー・トルーマンが猛烈に嫌いであり、彼の諸雑誌をこの二人を悪漢化するために用いた。
 そして彼は、腐敗しかつ非効果的な支那の「大元帥」たる蒋介石を理想化し、彼の諸出版物を蒋の見込みのない大義を担ぐために用いた。・・・」(F)

 「・・・しかしまた、彼は、人種平等、女性の諸権利や国際法を好み、自分のスタッフに左翼がいることに寛容であり、彼の誌面をアーチボルド・マクレイシュ(Archibald MacLeish)、ウィリアム・フォークナー、アーネスト・ヘミングウェイ、そしてウィンストン・チャーチル・・その回顧録の出版をルースは委託された・・のような自由な精神の持ち主達に開放した。・・・
 <しかし、その後、>「米国の世紀」は、イラク戦争と世界金融危機によってとどめを刺されてしまった。
 今日ではすべての人々が<米国ではなく>支那について語るようになった。・・・」(A)
 
 「・・・ルースは、彼のでっかいマイクロホンを使って、ベトナムでの冒険の失敗へのたゆみなき情熱に至る頃まで、彼が尊敬している指導者達を担ぎ、中産階級的米国の一般的に高揚的な肖像を描き、世界に米国が軍事介入するという大義を推進した。・・・
 その一方で、彼の諸出版物は、権力への心酔でもって特徴付けられる。
 ブリンクレーは、長い間にわたって、ムッソリーニを「しばしば憧憬と区別がつかないほどの」魅惑的存在として扱ったし、大部分は共和党に対してエンジン全開の依怙贔屓を行った。
 <また、>ルースは、彼の諸雑誌に対し、自分の好きな政治家達を担ぐように促した。
 彼は、ウェンデル・ウィルキー(Wendell Willkie<。1892〜1944年。1940年の大統領選の共和党候補者
http://en.wikipedia.org/wiki/Wendell_Willkie (太田)
>)の選挙演説を執筆したし、アイゼンハワーを尊敬し、ウィンストン・チャーチルの回顧録の抜粋に対し大枚のカネを支払ったし、ケネディーの宮廷(Camelot)にちょっとばかし目を眩ませた。
 ルースは、中国国民党の専制君主たる蒋介石に余りにものめり込んでいたため、彼自身の懐疑的な特派員の筆を曲げさせたし、中国共産党の高まりつつあった力を過小評価した。
 <共産党が支那を席巻した後には、>彼は、米国が必要があれば核兵器を用いてでも支那を「解放」すべきであると訴えた。
 ルースはローズベルトを軽蔑していた。
 それは、一つにはローズベルトが彼におべっかを使わなかったからだが、大部分は、彼がローズベルトが世界の事柄について余りにも受動的であると見たからであり、彼はタイムを使ってこの大統領と決闘を行った。・・・
 ルースの長続きした大義は、第二次世界大戦によって鍛え上げられ、彼の共産主義への嫌悪によって油を注がれたものだが、それは、彼の米国の世界での役割についての行動主義者的かつ家父長制的見解、及び、彼が孤立主義者的で宥和主義者的であると見た者達への軽蔑に軸足を乗せていた。・・・
 彼のローズベルトに対する憎しみは、さしてローズベルトの政治的人気を落とすことにはつながらなかったし、その政策を変更させることにもならなかった。
 米国が支那を解放しなければならないとの彼の信条も無に帰した。
 ルースが「米国の世紀」を書いた時には、地上で最も強力な国になるべく米国が欧州の陰から立ち現れたという事実は、既に、社会通念となっていたし明白な真実ともなっていた。
 「彼の諸雑誌は、大部分、中産階級の世界の反映であって、その形成者となったことはそれほどなかった」とブリンクレーは結論づける。
 「ルースが最も影響力を発揮したのは、1940年代初期においてとりわけ顕著にも、米国の大衆の広汎な部分の間で既に出現しつつあった諸観念を担いだ点においてだった」と。
 ルースはそれほど保守的でもなかった。
 彼は、福祉国家となることを含め、政府権力の増大を支持した。
 彼は、市民権の闘士となったし、女性の自由の問題について、彼の仲間達ほど排他主義的ではなかった。
 <また、>彼は労働組合を好んだ。
 <更に、彼は、>熱狂的な反共主義者だったけれど、ジョセフ・マッカーシーのやり過ぎについては侮蔑的だった。・・・」(B)

3 終わりに

 ヘンリー・ルースは、コラム#4092で米帝国主義マークIIの構築者の一人としてとりあげたことがあるほか、コラム#2934、3074、4112でも登場しています。
 また、彼の2番目の妻のクレアの方も、ロアルド・ダールとのからみでコラム#2840で既に登場しています。
 ですから、彼を正面からとりあげたのが、むしろ遅きに失したと言うべきかもしれません。
 書評子達がどうして、そのものズバリのことを指摘しないのか、歯がゆい限りですが、このシリーズを通して明らかなように、ルースは、紛れもなく、パール・バック同様、原理主義的キリスト教と人種主義的帝国主義によって歪んだ世界観に突き動かされ、それぞれが紡ぎ出したノンフィクションとフィクションの世界を通じて、米国世論を親支那・反日本へと洗脳し、日米戦争へと駆り立てて日本帝国を壊滅させ、その結果、民主主義独裁勢力の世界的跳梁をもたらしてしまったところの、悪辣なる戦犯の一人なのです。

(完)

太田述正コラム#4148(2010.7.23)
<もう一人の戦犯ルース(その2)>(2010.11.27公開)

 (4)雑誌帝国の形成

 「・・・<ルースは、ハッデンの急死後、ハッデンが保有していたタイム社の株も実質的に手中に収め、紛れもない、タイム社のオーナー兼経営者になるわけだが、>彼は完全な編集統制権を誰にも譲ろうとしなかった。・・・
 彼が一貫して、編集長(Editor-in-Chief)という肩書きを手放さなかったのだ。・・・
 フォーチュンは、大不況が始まった1930年に出現した。・・・
 それに次いだのは1936年末のライフだ。
 この写真誌は、新聞売り場において驚くべき成功を収めた。
 「1937年の終わりには、発行部数は150万部に達した。これは米国(恐らくは世界)における、これに次ぐ雑誌のその初年の発行部数の3倍を超える数字だった。」・・・
 ルースの帝国は、やがて「タイムの行進(The March of Time)」という・・・ラジオ番組を始め、それから映画館でのニュース映画の配信を始め、最終的には1954年に、売れ行きの伸びはゆっくりだったけれどついには驚くべき成功を収めたところの、スポーツ・イラストレーテッドを始めた。
 この帝国は、タイム社(Time, Incorporated)と呼ばれた。
 この名前の会社はもう存在してはいない。
 ルースの死の23年後の1990年に、この会社はワーナー・ブラザーズと合併し、それ以来、タイム・ワーナーとして知られるようになった。
 この合併企業は、苦しい時もあったけれど、現在では、「米国の3大メディア企業の1つ」となった。
 これは「強力で成功を収めている会社だが、この会社の元になった雑誌部門は21世紀のデジタル世界において急速に弱体化しつつある。」
 30年代、40年代、及び50年代においては、タイムは、それが大嫌いな人間にとってさえ必読だったが、現在では待合室で読む雑誌になってしまったように見える。
 フォーチュンの発行部数はまだ結構大きいが、もっぱらその「フォーチュン500」のランキングによって知られているように見える。
 そして、スポーツ・イラストレーテッドは、今でも広く読まれているが、かつてそうであったような、ちょっとした文学の域にしばしば到達するような極上のジャーナリズムとしてもはや注目されてはいない。・・・」(F)

 (5)米帝国主義のイデオローグ

 「・・・メディア界の大立て者のヘンリー・ルースは、1941年<初め>に「米国の世紀(The American Century)」という論考をライフ誌に載せた。・・・」(E)
 「<ちなみに、>この言葉は、その数年前にH.G.ウェルズ(Wells<。1866〜1946年。イギリスのSF作家
http://en.wikipedia.org/wiki/H._G._Wells (太田)
>)によってつくられたものだ。・・・」(D)

 「・・・この・・・論考は、米国の自己イメージを定義し、何十年にもわたるその外交政策の方向付けを行った。
 ルースは、自分達米国人について、「我々は、欧米文明のすべての偉大な原則、就中正義、真理への愛、慈善の観念、の相続者だ。今や、かかる諸観念を世界中に普及させる発電所たるべき、・・・そして、獣の水準から賛美歌作者が言うところの天使よりほんのちょっと低い水準へと人類の生き様(life)を引き上げるという神秘的な仕事を行うべき(F)・・・我々の時がやってきたのだ」と記した。・・・」(A)

 「・・・彼が、恵み深き(benign)国際主義を信奉していたのか、それとも利己主義的帝国主義を信奉していたのかは定かでない。
 彼の直截的目標は、米国を軍事介入させて英国をナチスドイツによって敗北することから救うことだったが、それを超えたところの国家的偉大さの観念が彼の修辞の雲の中から立ち現れることは決してなかった。・・・」(D)

 「・・・彼は、情熱的に愛国主義的な人物であり、彼の米国に対する気持ちが形成されたのは、彼が若い頃に米国から離れていたことに負うところが大きい。
 彼は米国を愛し、理想視した。・・・
 この論考の中で、彼は、この大きなビジョンは、「米国の諸理想に対する情熱的献身…、自由への愛、機会均等についての感覚、自助の伝統、そして独立、そしてまた協働」を必然的に伴う・・・」と主張した。・・・」(F)

(続く)

太田述正コラム#4146(2010.7.22)
<もう一人の戦犯ルース(その1)>(2010.11.23公開)

1 始めに

 いささか鬼面人を驚かすタイトルをつけましたが、パール・バックと並ぶ対日戦犯という趣旨でつけました。
 ヘンリー・ルース(Henry Luce)のことです。
 アラン・ブリンクレー(Alan Brinkley)の 'The Publisher: Henry Luce and His American Century' の書評をもとに書くことにしました。

A:http://www.ft.com/cms/s/2/3a036676-906a-11df-ad26-00144feab49a.html
(7月20日アクセス)
B:http://www.nytimes.com/2010/04/25/books/review/Keller-t.html?pagewanted=print
(7月22日アクセス。以下同じ)
C:http://www.theglobeandmail.com/books/review-the-publisher-henry-luce-and-his-american-century-by-alan-brinkley/article1560408/
D:http://www.dallasnews.com/sharedcontent/dws/ent/books/stories/DN-bk_luce_0502gd.ART.State.Bulldog.74b19.html
E:http://www.powells.com/review/2010_06_10.html
F:http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/04/16/AR2010041602801_pf.html
G:http://www.nytimes.com/2010/04/20/books/20book.html?pagewanted=print

 ちなみに、ブリンクレーは、コロンビア大学の歴史学の教授です。(D)

2 もう一人の戦犯ルース

 (1)序

 ヘンリー・ロビンソン・ルース(Henry Robinson Luce。1898〜1967年)は、タイム(1923)、ライフ(1936)、フォーチュン、スポーツ・イラストレーテッド、ピープル等の雑誌を世に送り出した人物です。(C、D)

 (2)青少年時代

 「・・・彼は、支那において、長老派の宣教師の息子として生まれ、入信者を勝ち取る熱意、ただし彼の場合は世俗的にだが、を抱き続けた。・・・」(D)

→パール・バックとの類似性を感じませんか?(太田)

 「・・・彼の父親は、・・・エールで教育を受けた、開化した(enlightened)人物であり、自分の任務は、自分の宗派に支那人を入信させることだけではなく、彼等が自発的にキリスト教の引力に引かれるようにすべく、彼等を欧米の教育と繁栄の水準に引き上げることである、と考えていた。
 この少年が父親から受け継いだものは、偉大さへの大志・・宣教師的自己意識・・と自分にその資格がないのではないかという深い恐怖心だった。・・・」(B)

 「・・・彼は、・・・14歳の(G)・・・少年になって初めて米国にやってきた。・・・」(A)

 「・・・<有名な全寮制私立中等学校である>ホッチキス(Hotchkiss)
http://en.wikipedia.org/wiki/Hotchkiss_School (太田)
とエール大学の学生当時、ルースは学業成績に秀でていたが、金持ちの家の出身ではないことを痛ましいほど自覚していた。
 生まれつき特権を持っている人々に対する彼の怒りに満ちた羨望は、彼と彼の諸雑誌の、満足的かつ包摂的中産階級的理想へと彼を啓発した。・・・」(B)

 (3)パートナー

 「・・・<ホッチキス>とエールで、彼はブライトン・ハッデン(Briton Hadden<。1898〜1929年。31歳で急病死
http://en.wikipedia.org/wiki/Briton_Hadden (太田)
>)とともに<ギリシャ・ローマ>古典を学んだ。そこからタイム誌のホメロス的スタイルが出てくる。
 彼とハッデンは、共同でわずか24歳の時に<タイムという>新しい雑誌を創刊し、それは速やかに成功を収めることになる。・・・」(A)

 「・・・彼等は、ともにスカル・アンド・ボーンズ(Skull and Bones)<(コラム#305、4011)>・・エールの撞着語法的によく知られた秘密結社・・の会員になっている。・・・」(G)

 「ルースとハッデンは、今では主流メディア(mainstream media)と呼ばれるところの、扇情主義的なタブロイド紙と大まじめな新聞類に対する軽蔑の念を共有していた。
 彼等は、これらを退屈で慢心している(bloated)とみなしていた。・・・
 しかし、ハッデン以外で、この本の中でルースにとって最も重要な支え的人物として描かれるのは、クレア・ブース・ルース(Clare Boothe Luce)(注1)だ。
 彼女は、このメディアの大立て者の2番目の妻にして、戯作者、下院議員、駐イタリア大使にして 精神異常の(certifiable)大バカ者(fruitcake)だった。・・・」(B)

 (注1)1903〜87年。彼女の母親は高級コールガール的な生活をしていた時がある。本人も大した教育を受けていない。20歳の時に最初の結婚をして一女・・スタンフォード大学4年生の時に交通事故で死亡・・をもうけるも6年弱で離婚し、1935年にルースとバツ一同士の再婚をする。二人の間に子供はいない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Clare_Boothe_Luce (太田)

 「・・・彼は、最初の妻を離婚してグラマーなクレア・ブース(注2)を選び、二人はブリンクレーが形容するところの地獄での結婚生活を始めたのだ。
 ブリンクレーは、彼等が「どちらも甚だ自己中心的で例外的な大志抱懐者であり、お互い同士、一定程度、自分の野望を追求するための手段と見ていた」と語る。
 これぞ、双方を惨めにする完璧な公式とも言えた。・・・」(D)

 (注2)グラマー(?)なクレアの写真・・2行4列のと4行1列のをご覧あれ。
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4SUNA_jaJP315JP315&q=Clare+Boothe+Luce&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=RDhITKCWGILZcZWRpbMM&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CEMQsAQwAw (太田)

(続く)

太田述正コラム#3463(2009.8.15)
<アーサー・ランサムの半生(その2)>(2009.12.31)

 「・・・ランサムは、最初にデイリーニュース、次いでガーディアン<・・当時はマンチェスター・ガーディアン・・>のロシア特派員のポストをうまく獲得した。・・・
 1924年までにはもう一つの変化が生じた。
 彼は、イギリス人の妻と離婚し、<前出の>ロシア人の女性とウィンダーミア(Windermere)の小屋で一緒に暮らすようになった。
 それから彼はジャーナリズムとの関係を店じまいし、1930年に、一連の児童書の皮切りとなる『ツバメ号とアマゾン号』を出版した。・・・
 <成人後の>三つのフェーズのすべてを通じ、ランサムのナイーブで真面目でメランコリーで浅薄な性格という本質的諸特性が通奏低音のように奏でられている。」(C)

 「恐らくは驚くべきことではないが、英国の諜報員達が、英外務省に、ランサムは完全にボルシェヴィキに取り込まれていると警告を発するまでに長くはかからなかった。
 しかし、1918年の夏、MI6は、彼をストックホルムで雇い入れた。・・・
 ・・・彼は、ある時、スウェーデンに、300万ルーブル入りのボルシェヴィキの外交公嚢(diplomatic bag)、彼自身のエフゲニアのための英国の旅券、及びラデクによって与えられた一件書類を持って到着したことがある。(ロシアを出発した時はボルシェヴィキの制服を着ていたが、スウェーデンに到着した時は、英国の服をこれみよがしに着ていた。)
 その一年後には、その時にはガーディアンのために働いていたわけだが、エフゲニアと再びロシアを後にし、今度は、ボルシェヴィキの海外での目的のために約200万ルーブル相当のダイヤモンドと真珠を持ってエストニアに到着した。
 「そう、彼は二重スパイだった」とチェンバースは言う。
 「彼は英国政府によって給与を与えられ、同政府に報告を提出し、その一方で彼は英外交政策に関し、チェカに助言を与えた。・・・
 ・・・1919にこの作家は、<ロンドンの>キングスクロス駅で列車を降りたところで逮捕され、筋金入りの反共の特別班(Special Branch)班長のバシル<・「スパイキャッチャー」・>トムソン卿(Sir Basil <“Spycatcher”>Thomson)によって尋問された。
 トムソンが聞いたことは、キミの政治的傾向は具体的にはどういうものかね(What exactly are your politics?)だった。
 ランサムは、「釣りだ」と答えた。
 それからというもの、この二人の男は、ほとんどあらゆる点で意気投合した。
 エフゲニアとともに1924年に英国に帰国すると、ランサムはガーディアンのためにいくつか仕事をしたけれど、結局は同紙からのベルリン特派員になって欲しいとの申し出を謝絶した。
 彼は湖沼地帯の小屋に住み込み、『ツバメ号とアマゾン号』が1929年に出版された。・・・」(A)

 「・・・この素晴らしい伝記の終わり近くで、一人のロシア人の男が、その口調をそのまま写せば、青春のただ中に「面白い外国の原住民の生活を調査」するというのは典型的なイギリス人のすることなのだろうか」という問いを投げかけている。
 アーサー・ランサムは確かにそれを行ったように見える。・・・」(B)

 「・・・もしあなたがイギリスの監獄を探し歩けば、19世紀と20世紀に古典的な児童文学をものした連中ほどアブナイ一群の変人奇人・・その大部分は男性・・を見いだすことはなかっただろう。
 チャールス・ドッドスン(別名ルイス・キャロル(Lewis Carroll<。1832〜98年。『アリスの不思議な冒険』の作者たるイギリス人>))は、10歳の女の子に入れ込んでいた独身の一匹狼だった。
 もう一人、中年の情緒的発達障害のJ.M.バリー(J. M. Barrie<。1860〜1937年。スコットランド生まれ>)は、彼が写真を撮り、着せ、脱がせ、彼自身が創作した海賊ごっこを一緒にすることになる、<ロンドンの>ケンジントン公園で出会った5人の男の子に入れ込んだことで『ピーター・パン』を書くことになった。
 ケネス・グレアム(Kenneth Grahame<。1859〜1932年。スコットランド生まれ。金銭的理由でオックスフォード進学を断念>)が『たのしい川べ(The Wind in the Willows)』を書いたのは、一つには彼がイギリス銀行の書記長(Secretary)であった時のキチガイによる<3発の1発も当たらなかった>グラハム狙撃後の<銀行を退職した上での>精神療法のためであり、もう一つは彼の病弱で、後に<オックスフォード大学生の時20歳を目前にして>自殺することになる息子を喜ばせるためだった。・・・
 ・・・<こうして見てくると、>要は、チャールス・ディケンズからジョン・F・ケネディに至るまで、暗い側面を持つ有名な人物達こそ、最も優れた本や映画をつくることができる、というなのだろうか。・・・」(D)

3 終わりに

 イギリス(イギリスで活躍した者を含む)が著名な児童文学家やファンタジー作家を輩出していることは興味深いことです。
 もっとも、これは、イギリスが著名な文学者を輩出していることの一環なのかもしれません。
 結局のところそれは、イギリスが根っからの個人主義社会であって、だからこそ、角がとれないままの奇人変人がうようよしているため、文学の題材がそんじょそこらにごろごろころがっているからであると私は思います。
 それに加えて、アーサー・ランサムのように、若い頃に「面白い外国の原住民の生活を調査」する機会まであれば、鬼に金棒だ、ということなのでしょうね。
 イギリスって本当に面白いって思いません?


(完)

太田述正コラム#3461(2009.8.14)
<アーサー・ランサムの半生(その1)>(2009.12.30公開)

1 始めに

 「ロアルド・ダールの半生」シリーズ(コラム#2838、2840)を覚えておられるでしょうか。有名な童話作家の、ちょっと信じられないような前半生をご紹介したわけですが、ダールが生きたのは1916〜90年であったところ、今度は、少し前の世代に属する・・生きたのは1884〜1967年・・やはり有名な童話作家のアーサー・ランサム(Arthur Ransome)の、これまたちょっと信じられないような前半生をご紹介したいと思います。
 手がかりにするのは、このたび上梓された、ロランド・チェンバース(Roland Chambers)の'The Last Englishman: the Double Life of Arthur Ransome’の以下の書評です。

A:http://www.guardian.co.uk/books/2009/aug/13/arthur-ransome-double-agent
(8月13日アクセス)
B:http://www.ft.com/cms/s/2/000956d8-82e2-11de-ab4a-00144feabdc0.html
(8月13日アクセス)
C:http://www.express.co.uk/posts/view/118767/The-Last-Englishman-The-Double-Life-of-Arthur-Ransome
(8月14日アクセス)
D:http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/columnists/richard_morrison/article6738918.ece?print=yes&randnum=1151003209000
(8月14日アクセス)

 なお、著者のチェンバースは、イギリス人ですが、奥さんがエール大学で文学を教えているため、ロンドンとエール大学のある米コネティカット州を往復する生活を送っています。
http://www.faber.co.uk/author/roland-chambers/
(8月14日アクセス)

2 アーサー・ランサムの半生

 「この本の題名はこれまで何度も使われているが、今回のランサムの<についての本の>ケースで言えば、およそ何の意味もない。
 副題ですら間違っている。
 というのは、彼の成人後の人生は2つではなく3つの明確に異なったフェーズから成り立っているからだ。・・・」(C)

 「・・・<童話の>『ツバメ号とアマゾン号(Swallows and Amazons)』を書いた男<であるランサム>は、トロツキーの個人的秘書<・・・エフゲニア・シェレピナ(Evgenia Shelepina)・・・>と長い結婚を送ったし、ボルシェヴィキの情宣部門の長であったカール・ラデク(Karl Radek<。1885〜1939年。ユダヤ人。ソ連の諜報機関である、チェカ(下出)の後進のNKVDによって暗殺される>)とアパートで共同生活をし、大変親しい間柄であったレーニンの世界に思いをはせ、また、ある時点において、余りにも危険であると考えられたため、反逆罪による起訴を念頭に置いてロンドン訪問時に彼は逮捕された。
 彼は、<できたばかりであった英諜報機関の>MI6からエージェントのS76として給与をもらっていた。
 要は、二人のアーサー・ランサムがいたと言っても過言ではあるまい。
 この二人の折り合いを付けることが容易ではないことは決して驚くべきことではない。
 そもそも二番目のランサムは一番目のランサムをほとんど抹殺してしまった。
 それはあたかも、快活なる無垢と古の世界の様々な徳なるユートピア敵世界を描出しているフィクション作品の作家が、現実の人生においては、国家安全保障にとって重大な危険であると考えられたなどと想像したくないだろうと思ってのことだったかのようだ。
 一番目のランサムは、ロシア革命の無批判的な擁護者であり、情熱を込めてボルシェヴィキ寄りのパンフレットや記事を書き、粛清など存在しないとし、民主主義の抑圧を正当化し、裁判抜きの処刑も必要であると認めさえした。
 彼は、チェカ(Cheka)・・ボルシェヴィキの秘密警察で<NKVD、ひいては>KGBの前身・・に協力し、レーニンは、彼を英国の政策に関する一義的諜報源と見ていた。
 それと同時に、彼の忠誠度について深刻な疑義があったにもかかわらず、<ロシア>革命の指導者達の多くと公然たる親しい人物として、彼は英諜報機関の給与をもらっていた。
 彼は少なくともスパイであり、恐らくは二重スパイだった。
 もう一つの、二番目のランサムは、パイプを燻らす、ラグビーで教育された文学的諸生活、民話集成、魚釣り随想、そして最後のものが出版されるまでに100万部以上売れ、それからも現在に至るまで何100万部も売れた12の一連の子供のための本の著者だった。
 <彼は、>いわば、1930年代の<(ハリーポッターシリーズの著者)>JK・ローリングだったのだ。
 ランサムは1884年に生まれた。
 彼の父親は将来リーズ(Leeds)大学となる大学の歴史と近代文学の教授だったが、無惨にも結核の一種でアーサーがまだ13歳の時に亡くなった。
 学業成績がふるわなかったこともあり、ランサムは生涯父親の名前を汚したという気持ちを抱き続けた。
 もっとも彼は、父親からイギリスの田舎、特に湖沼地帯のコニストン(Coniston)周辺のいくつかの丘、に対する深い愛情を受け継いだ。
 この場所で、ランサムは、家族とともに毎年休日を過ごすのだが、後に随分経ってから、彼はこの場所から、『ツバメ号とアマゾン号』のセッティングを、ほんのちょっとの変更を加えた形で、拝借することになる。
 作家になる決意を固めたランサムは、ヨークシャー単科大学での化学の勉強を一年間で止め、ロンドンの出版社での助手の仕事に就き、様々なジャンルの雑誌に記事を書き、自由奔放な傾向に身を委ね、最終的に彼の最初の出版契約を勝ち取る。
 ほとんどあらゆるまともな知人たる女性に手当たり次第に求婚を試みた彼は、・・・大失敗に終わる結婚を1909年にする。
 その4年後の1913年に、彼が書いたオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)の伝記<で自分をその男色相手とされたこと等>がお気に召さなかったアルフレッド・ダグラス(Alfred Douglas)卿から訴えられた、世間を賑わせた名誉毀損訴訟に勝訴しつつも、ランサムは、英国を去ってロシアに逃亡した。・・・
 その次の年に、第一次世界大戦が勃発し、ランサムは、たまたまロシアにいたために、急進的な英デイリー・ニュース紙のサンクト・ペテルブルグ駐在特派員になった。
 彼は、トロツキーにインタビューした英国の最初のジャーナリストの一人であり、1917年までには、いまだかつてない最大の政治的激動の始まりを報じるためにロシアに残ったところの、選ばれた一群の記者の一人となった。
 いまだに自由奔放であったランサムは、<ロシアの>2月革命とその続きである10月革命を歓迎した。
 彼は、ロシア革命の原則と業績をヨイショする情熱的な記事を何本も書いた。
 これは、現在進行形の民主主義であり、皇帝の下での冷酷無惨な生活に対する人々の自然発生的叛乱であるとの彼自身の気持ちの表明だったのだ。
 そして、ひとたびボルシェヴィキが権力を奪取するや、彼等の決意と道徳的確信は、彼等<ボルシェヴィキ>が、その無慈悲さが極めて明白になった時点においてさえ、ロシアが無政府状態へと落ちていくのを防ぐことができる唯一の人々である、と彼に確信させたのだ。・・・」(A)

(続く)

太田述正コラム#3636(2009.11.9)
<アイン・ランドの人と思想(その3)>(2009.12.15公開)

 (4)米国等において永久に生き続けるランド

 「・・・ランドは、1982年に亡くなった・・・」(F)「<が、>ランドの本は・・・それからも大量に売れ続けた。
 そして、米国の左旋回・・2006年の民主党による米議会の多数確保とその2年後のバラク・オバマの大統領選出・・は、彼女を政治的論議の中心へと連れ戻した。
 保守主義的抗議者達は、「ジョン・ゴールト(John Galt)は誰だ」と書かれたポスターを掲げる。
 ジョン・ゴールトとは、ランドの<創り出した>英雄達の一人だ。
 保守的な議論好き達は、オバマ氏は、いくつかの銀行、及びGMのような産業的巨獣の救済に乗り出すことで、ランドが警告を発したところの、集団主義的逆ユートピアへと<米国を>先導しつつある、と示唆している。
 <ランドの小説である、>'The Fountainhead'と'Atlas Shrugged'の売れ行きが更に好調になった。
 'Atlas Shrugged'に立脚した映画が制作されつつあるという噂も飛んでいる。・・・」(B)

 「・・・アイン・ランドは、<上記の二つの>毎年ベストセラーになってきた小説の著者として最も良く知られている。
 この二つの小説は、米国で合計で1,200万部以上売れた。
 これらの本は、三世代にわたって読者達を惹き付け、リバタリアン運動の基礎を形成し、レーガン時代とそれ以降のホワイトハウスの経済諸政策に影響を与えた。
 <彼女は、>自由放任資本主義と個人的諸権利の情熱的な擁護者だった。・・・」(D)

 「・・・<ランド同様、ロシア出身のユダヤ系の>アラン・グリーンスパン<(コラム#751、1145、2069、2075、2559)>は、彼女の最も強力なカルト的追従者達の一人であり、フォード政権に彼が参加した時の宣誓式に、彼女をホワイトハウスの大統領執務室に招待したほどだ。
 皆さんは、彼がランドの哲学を1990年代を通じてどのように実行して行ったかご存じだろう。・・・
 <ランドの哲学の>諸理念とその衝動が、人間の最も低次元な諸本能に注入されることによって、米国の二大政党のうちの一つ<(共和党)>を捕らえたのだ。・・・」(A)

 「・・・'Atlas Shrugged’は52年前に出版されたが、オバマの時代にあって、ランドの怒りのメッセージは、いまだかつてないほど反響を生んでいる。・・・
 1990年代初頭の・・・世論調査では、米国人達は、‘Atlas Shrugged'を、聖書に次いで二番目に彼等の人生に大きな影響を与えた本であると答えた。
 ランド特有の知的貢献、すなわち、彼女が、かくも人気を得、かくも米国的なのは、エリート主義を大衆に売り込むことに成功した、そのやり口にある。
 それは、かくも多くの人々、とりわけ若い人々に、彼等が具体的な形においてはいかなる意味でも傑出していなくても天才になれる、ということを確信させたことにあるのだ。
 と言うよりも、ランドの教えに熱情的に入れ込むことによって、彼等は自分達自身を傑出させることができた、と言ってよいのかもしれない。・・・
 ランドはドルを形取ったバッジを身につけて彼女の資本主義への愛を宣伝したけれど、ヘラーは、この作者がドルそれ自体には本当の意味で愛着など感じていなかったことをはっきりさせている。・・・
 根本的には、彼女の個人主義は、アダム・スミスよりもニーチェに負うところがはるかに大きかったのだ。・・・」(C)

 「・・・彼女が'Atlas Shrugged'において示した、企業家達や革新者達に自由を与えない限りは社会は繁栄しない、という洞察は、先見の明があることが証明された。
 仮にジョン・ゴールトが欧米で再び脅威の下に置かれているとしても、彼は中共とインドのビジネスにおいて復帰を果たしているのだ。・・・」(B)

3 終わりに

 しごく単純化して申し上げれば、アイン・ランドのようなリバタリアン・・それが自称であるか他称であるかはともかく・・の市場原理主義(ないし裸の個人主義)が、米国の過半の人々の心をとらえ、レーガンやサッチャーらを通じて一時アングロサクソン世界における政治の公的イデオロギーとなり、世界に大きな影響・・例えば、ロシアにおいては国家破綻寸前の状況をもたらし、日本においては小泉旋風を巻き起こした・・ということになりそうですね。
 しかし、英国においては、メッキされた市場原理主義がすぐに剥がれ落ちたのに対し、米国においては、市場原理主義こそ国是であってニューディール時代は逸脱期であるという認識が強く、いまだに過半の米国人がこれを信奉しているのであり、オバマ政権下における医療皆保険制導入がかくも抵抗にあっているところをみると、改めてその感を深くします。
 市場原理主義も、欧州文明由来の政治的宗教の一つであり、他の政治的宗教ともども、そして、(米国において市場原理主義と一対をなしている裸の個人主義を支えているところの)キリスト教原理主義ともども、排撃されなければならない、と私は考えています。
 既に累次申し上げているように、人間主義を掲げ、あらゆる宗教原理主義及び政治的宗教と戦うことは、日本の世界史的使命である、と私は信じているのです。
 
(完)

太田述正コラム#3634(2009.11.8)
<アイン・ランドの人と思想(その2)>(2009.12.14公開)

 (3)ランドの思想

 「・・・自由放任資本主義と個人的諸権利の擁護者として、米国に向けて1926年に<ロシアを>去ったランドは、彼女の反集団主義哲学である客観主義(Objectivism)<(コラム#2069)>を創建した。
 これは、利他主義への不信とともに、自由市場資本主義と私利の追求を道徳的善とする哲学だ。・・・」(F)

 「・・・彼女は、彼女の読者達たる「大衆」は「虱」であり「寄生虫」で全く生きるに値しないという根拠の下、民主主義に反対した。
 にもかかわらず、彼女は米国において最も人気のある作家の一人であり続けている。
 既に鬼籍に入っているというのに、彼女の本は年間80万冊も売れ続けているのだ。・・・
 ・・・彼女の主張は、政府は「悪」であって利己的であることがその「唯一の徳」であるというものだ・・・
 彼女はハリウッドを目指し、そこで彼女は、共産主義と対蹠的であると彼女が思ったところの一連の思想・・彼女の哲学を表現した諸物語・・を紡ぎ出し始めた。
 彼女は、この世界は、生産的であるところのごく少数のスーパーマンと、レーニン主義者達のごとき連中が資源として利用しようとしたところの「裸で性格がゆがんだ、何も考えていない人間のくずである奴」とに分かれている、と発表した。
 後者は、「足の下で踏みつけられるべき泥であり燃やされるべき燃料」なのだ。・・・ これが<彼女の>一種の政治的PTSD<の症状の発症>であることを見て取ることは容易だ。
 ランドは、ボルシェヴィキのついたウソであるところの、彼等が人民を代表しているとの主張を信じたので、彼女はボルシェヴィキに窃盗と殺人で反撃することを欲したのだ。
 汚い皮肉と言うべきか、彼女はボルシェヴィキの戦術をそっくりそのままマネしたのだ。
 彼女は、最初の小説、'We the Living' (1936)を書き始めた。
 その初期の草稿において、中心的登場人物である、ランド自身の粗っぽい分身が、ボルシェヴィキに向かってこう言う。
 「私は君達の諸理念が大嫌いだ。だけど君達のやり口は尊敬している。もし人が自分の権利を追求しようと思ったら、その人は何百万ものバカ者どもが納得するまで待つべきではないのであって、彼等に単にそれを強いればいいのだ」と。・・・
 <ランドにとっては、>スーパーマンのエゴを満足させるものは何でも善であり、エゴの満足を妨げようとするものは悪なのだ。・・・
 「人が互いにできる唯一の善、そして彼等の正しい関係に関する唯一の声明は、ほっといてくれ! だ。」・・・
 「・・・彼女は、米国の超金持ち達が累進税に対するストを決行することを夢想した。・・・
 彼女の伝えたかったことは、自由に考えよ、そうすることがあなたが私に対して完全に同意することに導く限りにおいては、だ。・・・
 ・・・人間関係で価値があるのは、ドルの交換に立脚したものだけだ。・・・
 ランドは、少女時代にボルシェヴィキによって破壊されたところ、彼女に彼等が残した足跡が彼女から消えることはなかった。
 彼女は、自分の哲学は、ボルシェヴィズムの正反対だと信じていたが、現実にはそれは瓜二つだった。
 彼女もソヴィエト主義者達も、どちらも、絶対的理性を持っている少数の革命的エリートが権力を掌握してそのビジョンを従順な低能者たる大衆に押しつけなければならない、ということを強く主張した。
 唯一の違いは、レーニンが踏みつけなければならない寄生虫と考えたのは金持ちだったのに対し、ランドは貧乏人だと考えた点だ。・・・
 <米国のような、>全般的にほとんど全員が、誤って、自力で自分自身を造ったと信じ込んでいる国では、自分自身を大事にしなかった人々に対し、侮蔑の念を抱きがちだ。
 ランドは更に深いところまで飲み口をつける。
 米国の建国の神話は、理性と意思の力だけを用いて、無から民族が造り出されたというものだ。
 ランドは、この神話を個々の米国人に適用する。
 あなたは自分自身を造ったのだ。あなたは、出世し支配的地位を得るためには、誰も必要としないし自分の理性以外に何も必要としない、と。
 あなたは自分の体と自分の頭だけで米国になれるのだ。・・・
 これが矯正されるべき問題ではなく、道徳的に称賛に値することであると信じる米国人公衆が相当程度存在する、ということを知っておくことは、息苦しくなるかもしれないけれど、有益だ。・・・」(A)

 「・・・多くの欠陥にもかかわらず、社会主義はある分野では資本主義より明らかに優れている。神話を造り出す点において・・。
 資本主義者達は、社会主義の殉教の英雄達が醸し出す情感的魅力に決して伍しえない。
 しかし、アイン・ランドは、この法則に対する著名なる例外だ。
 彼女は、<米国の>知的エスタブリッシュメントから容赦ない取り扱いを受けてきた。
 文芸評論家達は、彼女のボール紙でできたような登場人物達やタブロイド紙のような文体を嘆いた。
 政治理論家達は、彼女を底の浅い思想家であって、そんなものには青年達しか魅了されない、とこき下ろす。
 しかし、このような侮蔑は、彼女が大衆を魅了するのを全く妨げることはできなかった。
 ランドは、大恐慌の後、資本主義世界全体を覆った集団主義的潮流に対する最も非妥協的な批判者だった。
 彼女にとっては、政府は認可された盗賊以外のなにものでもなく、利他主義は権力掌握のための言い訳に過ぎなかった。
 知識人と官僚は、権力者に抗する人々のチャンピオンであるかのようなポーズをとるかもしれない。
 しかし、現実には、彼等は、嫉みと貪欲の有害な混合物によって動機づけられた帝国建設者なのだ。
 ランドの英雄達は、異なった種族に属した。
 <彼女の英雄達たる>ビジネスマン達と企業家達は、未来を自分自身の体で感じ取り、それを現実のものにするまで決して休むことがない。・・・
 <どうしてランドはこのような思想を形成したのか。>
 第一は、彼女のロシア系ユダヤ人としての生い立ちだ。
 彼女は、アリサ・ローゼンバウムとして生まれ、革命とその後起こったことの直接の証人だ。
 このことが、彼女をワシントンとハリウッドにおける共産主義シンパ達に対する侮蔑で満たし、彼女にニューディールと計画経済の類似性を嗅ぎ取らせた。
 第二は、彼女のビジョンにおける絶対主義だ。
 ほとんどおしなべて敵対的な<米国の>エリート達に対決されつつ、彼女は、本来同盟関係を結んでもおかしくないフリードリッヒ・ハイエク<(コラム#1865、2770、2773、2774、3541)>に対し、彼の著書である『隷属への道』を「彼が国家に限定的な役割があるかもしれないことを認めているがゆえに毒である」とこきおろし、戦いをいどんだ。・・・
 ・・・彼女は、白い帽子をかぶった資本家達を善、黒い帽子をかぶった集団主義者達を悪、とハリウッド的な二分法で両者を扱った。・・・」(B)

 「・・・彼女の資本主義への肩入れと制限的政府の擁護は、どちらも彼女の若かりし頃の、共産主義の下での苦渋の経験から発しており、それは彼女の最も長期にわたるメッセージとなり、大学生達と知識人達、ビジネスの世界の人々と共和党の活動家達、リバタリアン達と保守主義者達という雑多な観衆を惹き付けた。・・・
 「バーンズは、ランドを、ニューディール以前からの、そしてやがて、ロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーといった人物達によって最高潮に達したところの、再活性化した制限的政府運動の豊かな知的、文化的伝統の中に位置づける。
 バーンズは、バックレー(<William Frank >Buckley<, Jr.。1925〜2008年。両親とも米国人だが、メキシコで第一言語たるスペイン語、フランスで第二言語はフランス語を身につけ、英語は第三言語だった。>)
http://en.wikipedia.org/wiki/William_F._Buckley,_Jr. (太田)
のような冷戦保守主義者達がランドの理性主義を拒否したけれど、彼等がやがて彼女の1960年代における大学生達の間の人気によっていかに裨益したかを、とりわけ鋭く分析する
 彼等の共通の敵であるソ連が崩壊して以降、保守主義者達とリバタリアン達は、ランドとバックレーが何十年も以前に互いに闘った時と全く同じ諸論点で角突き合わせているのを発見した。
 この諸論点とは、世俗社会における宗教の正しい役割から、国家を通常と異った生活様式を制限するために用いることの是非、そして軍事行動を行いうる正当な諸事情に至るまでの諸問題にわたっている。」・・・
 「バーンズの本の一つの長所は、彼女が、他の自由主義者たる学者達とは違って、リバタリアン達と保守主義者達とを分かつ緒論点、及び様々な異った種類のリバタリアニズムの違い、について極めて良く理解していることだ。・・・」(H)

(続く)

太田述正コラム#3632(2009.11.7)
<アイン・ランドの人と思想(その1)>(2009.12.13公開)

1 始めに

 アイン・ランド(AYN RAND)って誰だ、と思われた方が大部分だと思います。
 しかし、2002年に彼女について紹介している日本の方がいます
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Ayn%20Rand%20Literature.htm
し、日本には彼女のファンサイトまであるんですよ。
http://www.aynrand2001japan.com/index1.html

 最近、彼女についての本が2冊、米国と英国でほとんど時を同じくして上梓されたこともあり、その人と思想について、いつものように書評をもとに、ご紹介することにしました。
 そのことにより、bastardアングロサクソンたる米国のbastard性解明が一層進捗するのではないでしょうか。

 上梓された2冊の本とは、 
a:Anne Heller;Ayn Rand and the World She Made と b:Jennifer Burns;Goddess of the Market です。

A:http://www.slate.com/id/2233966/
(11月3日アクセス。以下同じ)
B:http://www.economist.com/books/displaystory.cfm?story_id=14698215
(以上、ab両著の書評)
C:http://www.nytimes.com/2009/11/01/books/review/Kirsch-t.html?_r=1&ref=review
(11月1日アクセス)
D:http://www.goodreads.com/book/show/3561809.Ayn_Rand_and_the_World_She_Made
(11月3日アクセス。以下同じ)
E:http://www.nypost.com/p/news/opinion/books/ayn_rand_and_the_world_she_made_kaOq1eqjJOFKD7rtpGoSmM
F:http://blogcritics.org/books/article/the-early-word-new-books-for92/
G:http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2009/11/01/RVSR1AART9.DTL&type=printable
(以上、aの書評)
H:http://www.us.oup.com/us/catalog/general/subject/HistoryAmerican/Since1945/~~/dmlldz11c2EmY2k9OTc4MDE5NTMyNDg3Nw==
(以上、bの書評)

2 アイン・ランドの人と思想

 (1)女としてのランド

 ランドは、哲学者でしたが、それ以上に脚本家であり小説家でした。
 そこで、小説仕立てで話を始めましょう。

  「・・・<その時、>ランド<には既に>穏やかで静かなフランク・オコーナー(Frank O’Connor)という夫<がいたが、>・・・」(E)「・・・彼女は、<自分より25歳も年下の>ナサン・ブルメンソール(Nathan Blumenthal)という19歳の<UCLAの>一年生からファンレターをもらうと、彼を自宅に招いた。
 ランドの本には手練れの性的に他人を支配するような英雄達が一杯登場するのだが、彼女はすぐにこの当惑した男の子と恋に落ちた。
 そして、彼女は、この子は自分が待ち望んでいた「知的承継人」であると決め込んだ。・・・
 ブルメンソールは、名前をナサニエル・ブランデン(Nathaniel Branden)・・・<Branden は>ben Rand(ヘブライ語でランドの息子の意味)のつづり換え語(anagram)だ(E)・・・に改め、ニューヨークに引っ越ししたが、ランドは<夫を引き連れて>彼の後を追った。
 そして彼女は、彼女の被保護者との愛の生活に飛び込んだ。
 その一方で彼にそのガールフレンドと結婚するよう促した。
 こうしてランドは、ブランデンと<週2回、>寝るようになった。
 それぞれの配偶者に自分達がやっていることを常に完全に知らしめることにこだわりつつ・・。
 ・・・そのすべては、ブランデンが若い女優と恋に落ちたことで終わった。
 彼は、・・・1968年に(H)・・・ランドの周りから永久に追放されたのだ。・・・」(C)

 「・・・要するに、ランドは自分の独断的見解(dogma)によって破滅したのだ。
 彼女は、・・・ブランデンと10年にも及ぶ情事を続けた。
 彼は、<ランド・>カルトのナンバー2・・・となったが、彼は、<UCLAで一緒だった>23歳の女性と恋に落ちてしまったのだ。
 ・・・ランドの哲学は、「セックスは決して肉体的なものではないのであって、それは常に共有する諸価値についての深い認識・・相手が最高の人間的業績を体現しているという感覚・・によって鼓吹されるのである、と教えていた。」
 だから、ブランデンが彼女との性的関係を拒否したということは、彼女の諸理念、哲学、そして彼女の全人格(person)が拒否されたことを意味したのだ。
 彼女は叫んだ。
 「あんたが私を拒否するだって? よくもまあそんなことができたものね。あんたにとって最高の価値である私に対して・・」と。・・・」(A)

 「・・・利他主義を拒否したナルシストであったもかかわらず、ブランデンに対しては結局のところセックスにおいて利他主義を求めたわけであり、これは自己矛盾だった。・・・」(E)

 「・・・彼女は自分の生涯を集団主義との闘いに捧げた。
 しかし、<この挿話が物語っているように、>彼女は自分に付き従う人々が彼女に異を唱えることを許さなかった。
 彼女は、自分の側近達を冗談半分に「集団(collective)」と呼んでいたほどだ。・・・」(B)

 (2)生い立ち

 「・・・彼女は、もともとの名前をアリサ・ローゼンバウム(Alisa <Zinovievna >Rosenbaum)と言ったが、<ロシアで、ロシア革命以前の>皇帝時代の寒い冬に・・・ユダヤ人の中産階級の一家に(F)(G)・・・生まれた。>
 それは、1905年の失敗した革命によって彼女の生地のサンクト・ペテルブルグが震撼した直後のことだった。
 彼女の父親は自学自習の薬剤師であり、母親は貴族的な文学・芸術の愛好家であり、この母親は、自分の三人の娘達を厭わしく思っていた。・・・
 この頃、中世以来、最悪の反ユダヤ人暴力が<ロシアで>起きつつあり、この一家は、群衆によって殺されるのではないかと怯えた。
 しかし、最初にこの家族を襲ったのはボルシェヴィキだった。
 1917年の2度の革命の後、父親が経営していた薬剤店は「人民の名の下に」没収された。
 召使い達や乳母達に取り巻かれて育ったアリサには、共産主義者達は、ついには、恐ろしい盗賊群たる大衆の顔に見えてきた。
 わずか2年間で500万人が飢えで死んだ国で、ローゼンバウム一家は飢えた。
 父親は別の商売を始めようとしたが、それも暫く経って没収され・・・てしまう。
 ・・・ローゼンバウム家は、・・・アリサを米国の親戚達を頼って脱出させるべく取りはからった。
 <1926年、>21歳の誕生日の直前、彼女は祖国と家族に永久に暇を告げて米国に渡った。・・・」(A)

 「・・・<米国で>名前を<アイン・ランドに>変えた彼女は、<こうして、>ソ連共産主義からニューディールに至る、彼女が「集団主義」としてこき下ろしたところの、あらゆる類のものに対する容赦なき敵となったのだ。・・・」(C)

(続く)

太田述正コラム#3417(2009.7.25)
<ソクラテスの死(その2)>(2009.12.5公開)

 「・・・アテネの法によれば、すべての裁判は、個人的苦情の形で開始される。
 国家(ポリス)が告発するわけではないのだ。
 だから、ソクラテスを起訴した、メレトゥス(Meletus)、ライコン(Lykon)、そしてアナイトゥス(Anytus)の3人の男の一部または全員と、ソクラテスは個人的関係があった可能性が大いにある。・・・
 最終的な評決では、有罪280人、無罪220人だった。
 この有罪評決の後、ソクラテスは自らの刑罰を提案する機会が与えられた。
 半分冗談めかして、彼は公のカネで自分は残りの生涯ずっと食事を与えられるべきだと述べた。
 <その結果、>360人の評議員(dikast(e)s)が死刑に一票を投じた。
 上記ソクラテスの示唆を不快に思い、彼が無罪だと思った者のうち80人が処刑に賛成するに至ったわけだ。
 (不正義の年代記において、しばしばソクラテスと比べられるイエスは、その4世紀後に、自分に対する非難者に沈黙で答える、という良い感覚を持っていた。)・・・
 わずか4年間でその人口の4分の1以上を疾病で失ったことや、虐殺その他の戦時の様々な暴虐なる出来事は、アテネにおける徳に係る感覚を毀損した。
 若者の間で不満が高まり、貪欲な若い貴族達の一群はアテネがスパルタに破れたのは多数支配<(=民主制)>の非効果性が証明されたということだ、と主張した。
 彼等の多くはソクラテスの下で学んだということが知られていた。
 ソクラテス自身は、何が何でも民主制がよいとする人々と、虚栄心の強い貴族達のどちらについても一様に批判的だった。
 彼は、ポリスの仕事はその市民達の知識を引き上げるべく導くことであって、これを実施するためには、権力は賢人達に付託されなければならない、と信じていた。
 ウォーターフィールドは、ソクラテスが、このような哲学者的国王達を見つけ出して彼等を訓練することが自分の任務だと思っていた一方で、彼等の多くが哲学を身に纏うことで自分達の野心を覆い隠すことができて幸いだと考えていたことは疑いがない、と主張する。
 ソクラテスが愛で(かつ恐らくは肉体的関係なき恋愛関係にあっ)た生徒たるアルキビアデスという名前の貴族による傲慢なシシリー島攻撃こそ、アテネのスパルタに対する敗北に何よりも貢献した。<(コラム#908、1010)>
 戦時の累次に渡る裏切りに対し、紀元前406年にアルキビアデスがアテネから永久追放となったことは、ソクラテスの政治的立場に悪しき影響があったことは間違いない。
 <ペロポネソス>戦争の終戦後、 <アテネなる>都市国家を運営するため、スパルタが30人からなる寡頭制を導入した時、ソクラテスは、またもやアブナイお友達を持っていることが露見した。
 大部分の民主制支持者達は逃亡するか、アテネから追放されたのに、ソクラテスはそこにとどまり、ウォーターフォードによれば、30人の僭主達(Thirty Tyrants)として知られるようになった、支配者たるエリート達による厚意を一般的に言って享受したのだ。
 紀元前403年に民主制支持者達が権力を再掌握した時、彼等はやらなければならないことがあった。
 ウォーターフォードの、見え隠れしているところの、しかし紛れもない結論は、結局のところ、ソクラテスは因果応報を甘受した、というものだ。・・・
 ただし、この本の様々な結論は、当然のことながら、推測にほかならない。
 そもそも、ソクラテスが本当に賢人による統治が現実的な代物であると信じていたかどうかは議論の余地があるのであって、多くの学者達は、実際にはソクラテスは、民主制が現実の政府の形としては最善であると考えていた、と主張しているところだ。・・・」
http://features.csmonitor.com/books/2009/07/20/why-socrates-died/
(7月21日アクセス)

 「・・・ソクラテスの裁判と処刑の歴史的重要性はどれだけ過大評価しても足りない。
 プラトンは、彼の恩師の死の跡を追って、そしてこの死の故に、現在我々が哲学として知っているところのものを、多かれ少なかれ創造したのだ。
 エミリー・ウィルソン(Emily Wilson)は、その素晴らしい本である『ソクラテスの死(The Death of Socrates)』の中で、「我々の歴史において、その死が同程度に重要であるのはイエスの死だけだ」と記した。
 このウィルソンの作品は、死後にソクラテスがたどった、殉教者、悪漢、そして聖者といった様々な軌跡を主として追ったものだが、それとは対照的に、ウォーターフィールドの本・・この2冊の本は対として読まれるべきだ・・は、どうして彼が殺されたか、その理由を探索したものだ。
 この理由だが、一見それは定かではないように見える。
 一体全体、ソクラテスが誰にどんな危害を加えたというのか。
 良く知られているように、彼は何も書き残していない哲学者だ。
 彼は、教えてもカネを受け取ることを拒否した。
 政治にも積極的には関わらなかった。
 彼のやったことと言えば、アテネ中を歩き回って人々に話しかけることだった。
 アテネの急進的民主制の崇拝者達にとっては、ソクラテスの処刑という問題はトラウマとなっている。
 自由な言論を掲げていた社会において、明らかに無実の70歳の人間を非難するなどということがどうしてまかり通ったのか。
 彼に対する嫌疑は、アテネの神々を認めなかったこと、新しい神々を導入したこと、そしてアテネの若い男達を腐敗させたことだ。
 しかし、一体これらすべてはどういうことなのだろうか。
 新しい神々を導入したと言う嫌疑はとりわけ奇異だ。
 確かに、ソクラテスは彼の守護霊(ダエモン=daemon=daimonion)・・彼の頭の中で小さい声で彼の行動の道案内をした・・について語ったが、それが死刑に価するようには到底思えない。
 また、ソクラテスは、プラトンとクセノフォン(クセノポン=Xenophon<。BC430?〜354年>)の著作に描かれている限りにおいては、通常の宗教的儀典を完全に遵守していた。
 (彼の遺言は、プラトンによれば、雄鳥をアスクレピウスの神(Asclepius)・・・に捧げて欲しいというものだった。)
 結局、若者達を腐敗させたという嫌疑だけが残される。・・・
 ウォーターフィールドによれば、ソクラテスが非難された最大の理由は、彼がアルキビアデスのようなとかく議論のある若い世代の人間と交友があったことだというのだ。
 著者は、著者が生き生きとした筆致で記すところの、アテネを紀元前411年から404年までの間飲み込んだ暴虐的な寡頭制の累次の革命なる反民主制的な傾向に、恐らくはソクラテスが好意を示したであろうことを巧みに描いている。
 クリティアスは、この2度目のクーデターを行った者のうち最も血なまぐさい人物だったが、ソクラテスの生徒だった。
 399年に、この哲学者<たるソクラテス>は何とかしなければならない人物となっていた。
 <彼は、>回復された民主制の顔に残っていた古傷だったのだ。
 だからこそ、ウォーターフィールドに言わせれば、彼は死ななければならなかったのだ。
 では、アスクレピウスに捧げられた雄鳥は<何を意味しているのだろうか>?
 ウォーターフィールドの興味深い理論は、これはソクラテスが自分自身を、犠牲の山羊、すなわち、傷ついた<アテネなる>都市国家の傷を癒すための犠牲、として提供したことを物語っているとする。・・・」
http://www.guardian.co.uk/books/2009/feb/28/why-socrates-died-robin-waterfield
(7月22日アクセス)

 「・・・ソクラテスの裁判の時には既に<アルキビアデスは>、彼の愛人たる女性の嫉妬深い保護者、または30人<の僭主達>の命によって殺されていたが、彼の等身大以上の人格は、依然・・・影を落としていた。・・・
 ソクラテスの友人達は、彼に隠れる場所を見つけるから逃亡するように促した。
 しかし、<アテネなる>ポリスの諸法に忠誠を示し、彼は、痙攣や激しい嘔吐を伴わないところの、穏和な毒薬であるヘムロックを飲<んで処刑される>ことの方を好んだ。・・・
 <ソクラテスが自らを準えた>ファルマコス(pharumakos)、すなわち犠牲の山羊・・・は、もちろんのことながら、英語の「ファーマシー(=pharmacy=薬学)」の語源であり、ソクラテスの謎に満ちた最終的な指示であったところの、自分のためにアスクレピウスに雄鳥を捧げよ、というのは、癒しの神への訴えだったのだ。・・・」
http://www.theglobeandmail.com/books/why-socrates-died-dispelling-the-myths-by-robin-waterfield/article1179582/
(7月22日アクセス)

3 終わりに

 高校2年の時の倫理社会の授業でプラトンの『饗宴』(邦訳)と『パイドン』(英訳)を読まされたことが、私のギリシャ哲学との初めての出会いでした(コラム#814)が、大学1年の時の社会学の授業でマックス・ヴェーバーに出会ったことによって、私は、欧州大陸の人々の考え方を、「ギリシャ哲学は演繹主義・全体主義志向であるところ、欧州大陸の思想はギリシャ哲学を援用しつつ、演繹主義的・全体主義的にアングロサクソンの生き様を超克しようとするものである」という風にとらえるようになったのです。
 欧州の人々は、ソクラテスの死を契機にプラトンが創造した哲学を忠実に継受したのに対し、アングロサクソンは、民主主義がソクラテスの死をもたらした、という教訓をもっぱら継受した、と言ってよいでしょう。
 哲学がソクラテスの死を契機に生まれたのであるとすれば、さしずめ、私の世界観は、哲学との出会いを最大の契機として形成された、ということになりそうです。

(完)

太田述正コラム#3415(2009.7.24)
<ソクラテスの死(その1)>(2009.12.4公開)

1 始めに

 ソクラテス(Socrates<。BC469?〜399年>)の死については、コラムの中で何度も言及してきたところです。(#48、271、908、1660、2766。なお、#2461も参照のこと。)
 どうしてアテネ市民達はソクラテスを死刑に処したのでしょうか。
 このたび、英国の著述家のロビン・ウォーターフィールド(Robin Waterfield。1952年〜)が'Why Socrates Died: Dispelling the Myths'を上梓し、英国においてかなりの話題になっています。
 書評をもとに、さっそくその内容の紹介に入りたいと思います。

2 ソクラテスの死

 「・・・紀元前5世紀末、アテネは、スパルタとの間の長い消耗戦争<(ペロポネソス戦争(コラム#908〜912))>を戦った末にそれに敗北した。
 その間、チフスが流行して総人口の少なくとも25%が死亡した。
 それから、寡頭制勢力による暴虐的クーデターが2回あった。
 最初のは紀元前411年であり、2度目のは紀元前404年だった。
 民主主義が最終的に回復したのは紀元前403年から402年にかけてだったが、アテネ社会は変貌を遂げてしまっていた。
 ウォーターフィールドは、この時代の<アテネの>公共生活を支配した様々な野心的かつ無節操な人物達を見事に叙述している。
 そのうちの一人がアルキビアデス(Alcibiades<。BC450?〜404年>)だった。
 彼は、その容貌
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Bust_Alcibiades_Musei_Capitolini_MC1160.jpg (太田)、<所有していた>馬達、富、そして大酒飲みぶりで有名だ。
 彼は、アテネの著名な将軍だったが、スパルタに寝返り、それからペルシャに寝返り、最終的にアテネの民主制を紀元前411年に覆した。
 もう一人は、30人の僭主達の一人として紀元前404年に<アテネの>権力を掌握したクリチアス(Critias<。BC460〜403年>)だ。
 彼が権力の座にいる間に何百人ものアテネ市民達が<毒薬の>ヘムロックを飲む死刑に処せられ、更に多くの市民達が追放になった。
 ソクラテスは、何年かにわたってアルキビアデスと断続的かつ揺れ動く恋愛関係にあり、他方でクリティアスにも教師となったことがある。
 ウォーターフィールドは、ソクラテスは、当時の最も暴力的かつ非道な反民主主義者達とのエロティックな、そして師弟としての関係のために死んだ、と主張する。
 紀元前399年までにはクリティアスもアルキビアデスもどちらも殺されていた。
 しかし、ウォーターフォードによれば、ソクラテスがまだ残っていたというわけだ。・・・
 ・・・これはその後のアテネで流布した見方でもある。
 しかし、どうしてソクラテスが死んだかを理解するためには、他の要因も考察することが不可欠だ。
 それにはソクラテス自身の行動も含まれる。
 プラトン(Plato<。BC428/427〜348/347年>)は、ソクラテスが彼自身の死を招き寄せたことを示唆しているが、それには疑いもなく真実の一端が含まれている。
 技術的に言うと、ソクラテスの裁判は「査定裁判(assessed trials)」の範疇に属する。
 このような裁判においては、<アテネは>ポリスとして、罪状に様々な異なった程度がありうることを認めている。
 もしも被告が有罪となった場合、検察官は刑罰を提案するが、被告は減軽した刑罰を反対提案することができ、その上で二回目の投票が行われる。
 ところが、ソクラテスはこの手続き全体をからかいの対象にしたのだ。<(後で詳述する。(太田)>・・・」
http://www.timeshighereducation.co.uk/story.asp?sectioncode=26&storycode=406864
(7月22日アクセス。以下同じ)

 「・・・<アテネの法廷は、>500人(または典拠をどう解釈するかによっては501人)の市民判事達が・・・くじ引きで選ばれた・・・。・・・
 <この>」
 ・・・紀元前399年<にソクラテスを裁いた法廷もそうだった。>・・・」
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article5943883.ece?print=yes&randnum=1248248193046

 「・・・<アテネの>裁判制度は、我々にとってお馴染みであるところの、証拠に基づくというよりは、個人的意見に基づいて行われるものだった。
 だから、ソクラテスの裁判は、アテネの政治や社会的ムードによって大きく左右された。
 ソクラテスの過去の政治的コネや彼の評判の悪い知人達は、ソクラテスがいかなる罪状で告発されたかということと同じ程度に裁判の結果に影響を及ぼしたのだ。・・・」
http://blogbusinessworld.blogspot.com/2009/06/why-socrates-died-by-robin-waterfield.htm

(続く)

太田述正コラム#3541(2009.9.23)
<よみがえるケインズ(その4)>(2009.10.25公開)

5 ケインズ経済学の「復活」

 「・・・ケインズ<の>・・・経済に関する考え方は、人道主義的(humane)かつ道徳的側面(dimension)を持っていたので、全球的な金融危機のただ中で再び復権しつつある。・・・」(B)

 「・・・<ケインズより後の経済学者達は、>四半世紀で最悪の不況という今回の不況について警告することに嘆かわしくも失敗した。
 英国の女王は、数ヶ月前に、「どうして誰もこうなることが分からなかったの?」と公然と首をかしげたけれど、こう思ったのは彼女だけでは全くない。・・・
 ケインズならこのような金融の嵐が近づいていることを感づいただろうか。
 ・・・然り・・・。
 リスクと不確実性とを区別する能力が低いという点で、ケインズ自身が見守っていた1920年代<の経済>と同様の<現在の経済の>弱点を、彼なら探知していたであろうからだ。・・・」(D)

 「・・・合理的期待理論は、効率的市場仮説といった副産物を生み出した。
 これは、市場がすべてのリスクを計算でき価格付けができることを示唆するものだが、そうは問屋がおろさなかった。・・・
 実体経済における様々な出来事が大部分の経済学者達にとって関心の対象でなくなって久しい。
 ポール・クルーグマン(Paul Krugman<。1953年〜。ユダヤ系。2008年にノーベル経済学賞受賞>)<(コラム#1145、2075、2095)>やジョセフ・スティーグリッツ(Joseph Stiglitz<。1943年〜。ユダヤ系。2001年にノーベル経済学賞受賞>)<(コラム#2854)>(注4)のような何人かを例外として、今次危機に関する鋭い記述は、金融ジャーナリスト達や経済史家達によってもっぱらなされているところだ。・・・

 (注4)世銀の首席エコノミスト歴あり。「自由市場原理主義」批判やIMF、世銀批判で知られる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Stiglitz

 現代経済において、金融の役割が増大するにつれ、経済はより不安定になるようである以上、国の主要な役割は、より大きな安定を生み出すことによって信頼を構築する方法を発見することだ。・・・
 ケインズの時代の経済学者達の多く、とりわけヨーゼフ・シュンペーター(Joseph Schumpeter<。1883〜1950年。チェコ生まれ。1932年から米国在住>)とフリードリッヒ・ハイエク(Friedrich Hayek<。1899〜1992年。オーストリア生まれ。1938年から英国籍。晩年はドイツで過ごす。1974年にノーベル経済学賞受賞。サッチャーは彼に心酔>)は、ケインズを究極的なプラグマティストであって、常に実際的関心(practical concerns)のために理論を犠牲にする用意がある人物であると見ていた。
 しかし、実際的関心に現実に没頭している者・・・からすると、ケインズはまだまだ抽象的過ぎるのであって、彼の実際的諸現実に関する判断は、しばしば信頼できないものとみなされた。
 実践(practice)への傾倒にもかかわらず、それでもなおケインズは、政策がその上に立脚すべき諸原理の合理的な一式を提供したいと希望した。
 彼は、その目標に他の誰よりも接近したが、最終的には彼は<目標に到達することに>失敗した。・・・」(F)

6 終わりに

 スキデルスキーの新しい古典派経済学に対する批判を読んでいて、これは、1974〜76年にスタンフォード大学に留学していた当時、私が米国流経済学に感じた違和感と相通じるものがあると思いました。

 「・・・1974年にスタンフォード大学のビジネススクールに入ってみると、米国では経済学が、ビジネススクールのほかの教科はもちろん、あらゆる社会科学の王座にある、ということを「発見」しました。
 それは一つには、経済学が社会科学の中で最も厳密な形で、つまり数理的な形で理論を構築することに成功していたからですが、もう一つは・・これが重要なのですが・・経済学が、米国の社会科学全体に共通する人間観・社会観、より端的に言えば、イデオロギー、を提示していたからです。
 そのイデオロギーとは、裸の個人主義であり、個人が一人一人異なる効用関数とリスク選好度をひっさげて、自分の欲望の充足のために相互に取引(transaction)を行い、かかる無数の取引の結果として予定調和的な市場・・社会・・が成立する、というものであり、これは人間が社会的存在であることを無視した異常なイデオロギーである、というのが私の感想でした。・・・」(コラム#1211)

 とまれ、ケインズ主義経済学は、ケインズより後の様々な経済学よりむしろ優れていたと言えるけれど、完成していたと見ることはできない、つまり、経済学はまだまだ発展途上段階にある、というのがスキデルスキーの結論のようですね。
 考えてみれば、それは当たり前です。
 人間自体、まだまだ解明されていない部分が無数に残っている以上は、人間の経済行動が完全に解明できるわけがないからです。

 それにつけても、日本の経済学者はいつまで経っても全く冴えませんね。
 2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英教授のように、海外に一度も行ったことがなく、英語もしゃべれなくて、なお一流の学者と言われるような人物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E5%B7%9D%E6%95%8F%E8%8B%B1
が日本の経済学界に現れない限りダメかもしれませんぞ。
 横のものを翻訳して縦にするのではなく、ケインズがそうであったように、現実に目の前で展開されているところの、人々の経済行動の解明に取り組もうとする実務家兼経済学者が、日本で輩出する日が来ることを切に祈っています。

(完)

太田述正コラム#3539(2009.9.22)
<よみがえるケインズ(その3)>(2009.10.24公開)

4 ケインズ経済学の「超克」

 「・・・<ケインズの経済>モデルは、インフレと失業が同時にやってきてケインズ主義の諸手段が我々を救うことができなかったため、1970年代に次第に消え失せた。
 サッチャーとレーガンの革命が政治世界を乗っ取るとともに、自由市場モデルが再び経済学を乗っ取った。
 ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)(スキデルスキーは彼のことを「シカゴの地の精(gnome)」と呼んだ)は新時代の預言者となり、ケインズは経済学者達と公衆の多くからのけものにされた・・つい最近まで・・。
 強欲な銀行家達や不手際な規制者達は今日の激動の贖罪の山羊となったが、スキデルスキーは同意しない。
 「金銭的無節操や無能より、知的失敗の方がもっと重要のように見える」と彼は記す。
 「レーガン--サッチャー時代のの「軽いタッチの規制」哲学は、市場は自分自身を規制することができるという観念に根ざしている。」
 要するに、<特定の経済学派の>考え方は影響を及ぼす(matter)し、その考え方に執着すること(adherence to)はもっと影響を及ぼすのだ。・・・」(C)

 「・・・20年くらいにわたって、主流の経済学は市場は連続的に「精算する(clear)」と教え続けた。
 ここでの基本的な考え方は、賃金と価格が完全に伸縮的(flexible)であれば、資源は完全に活用されるというものだった。
 このシステムにいかなる衝撃が生じても、新しい状況への賃金と価格の瞬時の調整が結果として起きるというのだ。
 もちろん、このシステム全体としての対応度の高さ(responsiveness)は、経済的エージェント達が未来について完全情報を持っていることが前提だった。
 こんな前提は明らかにばかげている。
 にもかかわらず、大部分の主流の経済学者達は、経済的アクター達が彼等の理論に十分現実性を帯びさせうるに足りる情報を持っている、と信じたのだ。
 この、いわゆる「効率的市場理論(efficient market theory)」は、昨秋の金融恐慌によって空高く吹き飛ばされていてしかるべきだ。
 しかし、果たしてそうなったかどうかは疑わしい限りだ。
 70年も前に、ジョン・メイナード・ケインズは、それが誤りであると指摘しているというのに。・・・
 第二次世界大戦後の30年間余りは、ケインズ主義経済学が・・経済において完全雇用と持続的経済成長を維持しようとするところのケインズ主義政策が、少な
くとも政府の通常の道具箱の中に置かれていたという意味で、鶏舎を支配した。
 しかし、その後、経済学が市場経済は本来的に自己矯正的で政府の介入が市場を悪くふるまわせるという考え方に回帰するとともに、ケインズ主義経済学は投げ捨てられた。
 レーガンとサッチャーの自由市場時代の夜明けだ。・・・
 ニクソン大統領の1971年<(=私が社会人になった年!(太田))>の「今や我々はみんなケインズ主義者だ」からロバート・ルーカス(Robert Lucas)の2009年の「思うに我々は皆、自分の一人だけの時はケインズ主義者だ」に至る軌跡<を振り返ってみよ。>・・・」(E)

 「・・・スキデルスキーは、<ケインズ主義経済学に取って代わった>新しい古典派経済学(New Classical economics)(注3)の暗黙裏の諸前提は「狂っている(mad)」と見なしている。・・・」(A)
 「・・・「最近の支配的な新しい古典派経済学によって生じた害悪は語り尽くせない。
 歴史上、これほど優れた頭脳を持った人々がかくも奇妙な考え方に取り憑かれたことは希だ」・・・」(B)

-------------------------------------------------------------------------------
 (注3)「・・・スキデルスキーの誤解を解く形で・・・Mark Thoma・・・がマクロ経済モデルの現状を説明している・・・
 スキデルスキーは「新しい古典派経済学」が現在の主流であるかのようなことをしばしば言うが、実際にはそれはもはやマクロ経済学での人気を失っている。
 「新しい古典派経済学」は以下の4つの仮定を柱としている。
一 合理的期待 <(rational expectations hypothesis):人々があらゆる情報を効率よく利用して合理的な期待形成を行えば、それは平均的には正しいものとなり、誤った事態は生じないという仮説。1970年代末,アメリカの経済学者ルーカス(R.Lucas),サージェント(T.J.Sargent)などによって主張された。
人々が利用可能な情報を効率的・合理的に利用すると,その予想は客観的確率に等しくなるという考えから,政府が裁量的経済政策を行ったとしても,企業も個人もその結果を正しく予想し行動するところから,その政策は無に帰すとした。
マネタリストが,ケインズ的金融,財政政策は長期的には成功しないとしたのに対し,合理的期待仮説は短期的にも成立しないとした。(太田)>
二 自然率仮説<(=自然失業率仮説=Natural Rate of unemployment Hypothesis):マネタリストのフリードマン(Milton Friedman)によって主張
されたところの、労働市場の需給均衡下で摩擦的失業率である自然失業率よりも低い失業率をめざす有効需要拡大政策は、長期的には高インフレ率を残すだけで、失業率低下を達成しえないという仮説。(太田)>
三 連続的な市場の清算
四 不完全情報
・・・
 新しい古典派モデルは、・・・マクロ経済学のミクロ経済学による基礎付けという潮流、およびマクロモデルに合理的エージェントを取り入れることに貢献した。・・・
 伝統的ケインジアン<(=ケインズ主義)>モデルの欠点が1970年代の問題につながったと広く信じられた結果、新しい古典派がそれに取って代わった。しかし、ケインジアン側も、ニューケインジアンモデルを発展させて対応した。そこではミクロ経済学的な最適化行動との関係付け、合理的期待の枠組みの採用が行なわれたが、重要だったのは摩擦を取り入れたことだった。
 新しい古典派での摩擦とは情報が不完全であることだが、ニューケインジアンにおける摩擦とは、価格や賃金が・・・遅れて動くことである。・・・
 ・・・ニューケインジアンモデルが今はマクロ経済学モデルの主流と言って良いのではないか。
 価格の柔軟性や市場の連続的な清算を前提にしている、と経済学を攻撃しているスキデルスキーは、リアル・ビジネス・サイクル理論だけを念頭に置いているように思われるので、主流派経済学への批判としては的外れ。
 また、完全情報を前提にしている、という攻撃もおかしい。 ・・・」
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20090728/thoma_on_macro_model (太田)
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 「現代金融理論の本質的原理は、多様化された資産のポートフォリオを保持すると市場リスクを除去することができるというものだ。
 ところが、実際には、各種ローンの中から市場化された証券群を作り出してそれらを投資家に売るという証券化(securitisation)によって、不良債務の伝染病を作り出し、実体経済を感染させてしまったのだ。
 しかし、現代理論の諸基礎は、スキデルスキーには我慢できないほど信憑性を持ち続けている。・・・
 ケインズは、まともな(sound)銀行家を、「失敗した(ruined)時、誰も彼を非難できないような在来的(conventional)で正統派的(orthodox)な形で失敗する者」と定義した。
 銀行が自分でも理解していないリスクをとり、純粋に自分の地位や富の増大・強化のために買収を行った、というのが現在の金融危機の物語の全てだ。・・・」(H)

 難解な経済学用語が頻出して申し訳ありませんが、注3を斜め読みされるとお分かりになるように、経済(学)史の第一人者と一流の経済学者の間ですら、最近の経済学に係る事実認識において食い違いがある以上、我々のような経済学のアマチュアが余り細かいところにこだわることもありますまい。
 最近の経済学は、空理空論化してしまい、実体経済を理解したり、適切な経済政策の指針となったりすることが、ケインズ主義経済学よりもできなくなってしまったらしい、という程度の理解で十分でしょう。

(続く)

太田述正コラム#3537(2009.9.21)
<よみがえるケインズ(その2)>(2009.10.23公開)

3 ケインズの経済学

 「ケインズ以前の経済学における支配的なものの見方は次のとおりだった・・・。
 「その作用と反作用が平衡ないし均衡状態を維持するところの独立した原子的粒子群(人間達)からなる世界」<なのであるからして、>やっかいな政府さえほっておいてくれれば、合理的私利(rational self-interest)と自由競争が経済を平衡へと導き、成長と雇用を促進する<、というものの見方だ>。
 これは、すばらしいように思えた。しかしそれは、大不況までの間の話だった。・・・
 今となって思えば、ケインズの<下掲のような>革命的諸洞察はごく当たり前なものに思える。
 第一に、自由市場経済は必ずしも成長と完全雇用をもたらすわけではない。
 財・サービスに対する需要が減退したならば、価格が変更するのではなく生産が減少する、つまりは景気が後退することによって平衡が回復する。
 だから、ケインズは、政府は租税政策と支出政策とを用いて需要を喚起し景気下降を防ぐために介入しなければならないと言ったのだ。
 第二に、市場は、自己矯正的ではないのであって、常に不確実性(uncertainty)に直面する、とケインズは主張した。
 今日の<経済の>ひどい様を理解するためには、<ケインズが指摘したように、>完全な「不確実性」と「管理可能な(manageable)リスク」とを区別することが枢要である、とスキデルスキーは記す。
 <ウォールス街は「不確実性」の評価ができなかったというのだ。>・・・」
(C)

 「・・・<ケインズはこう言った。>
 「不確実な」知識に言及することで、私は、確実に知っていることと単に可能性があること(probable)とを区別せよ、と言いたいのではない。
 欧州で<再び>戦争が起きるか、20年先に銅の価格や利子率がどうなるか、または、発明が陳腐化するか、もしくは、1970年の社会システムにおいて私有財産所有者達の立場がどうなるか、といったことは「不確実な」知識であると言いたいのだ。
 これらの事柄に関しては計算可能な確率を導き出すいかなる科学的根拠もない。我々は要するに知らないのだ」と。
 「我々は要するに知らないのだ」は、長きにわたった好況の間、経済学者や投資銀行家達からほとんど聞こえてこなかった言葉だ。
 その反対であるという証拠が多々あるにもかかわらず、彼等はそれを知っているふりをするために、驚くべきことにいまだに、高額の給与をもらってい
る。・・・」(D)

 「市場経済は本来的に不確実なのだ。なぜなら、それは現在の消費に加えて、将来のための投資がからむからだ。
 将来の不確実性が経済的不安定性を生み出す。
 なぜなら、我々の期待が我々がいかにふるまうかに影響を与えるからだ。
 経済学者達がもっと不確実性に注意を向けておれば、諸政府はこの金融恐慌に対してもっとよく準備ができていたかもしれない。・・・」(H)
 
 「<ケインズの経済学を一言で言えば、>市場経済は基本的に不確実なもの<であり、>政府は危機において介入しなければならない<、というものだ。>・・・」(B)

4 ケインズの経済学の「受容」

 「・・・ケインズは1946年に死んだが、第二次世界大戦後のほぼ30年間、各国政府が経済管理者としての彼等の役割を当然視したという意味で、彼の理論はもてはやされた。
 しかし、スキデルスキーは、当然視されたといっても、それは確信からというよりも便宜的な理由からに過ぎなかったことに注意を喚起する。
 実業界の指導者達は、ケインズ主義を社会主義的煽動に対する防壁として受容した。
 保守主義者達は、減税の主張のために受容した。
 そして自由主義者達は、一層の公共支出のための理屈付けとして受容した。
 彼等が本当にそれを信じていたかどうかはともかくとして、彼等それぞれにとってケインズ主義は役に立ったわけだ。・・・」(C)

 「・・・1950年代と1960年代におけるファイナンシャルタイムスの著名なるコラムニストのハロルド・ウィンコット(Harold Wincott<。1906〜69年>)は、英国の経済学者のジョン・メイナード・ケインズ・・・の諸教義は、彼が生きていた間、誤って適用されてきたので、これら諸教義は、本当に必要とされるかもしれない時には不信任されていることだろう、と記したことがある。
 ウィンコットは正しかった。
 実際問題として、1950年代と1960年代における英国及び欧州諸国の何カ国かの経済政策は、<ケインズばりの>極めて慎重なものだったが、それは単に通貨の固定交換レートへの誤った執着がしからしめたものだった。
 かかる政策枠組における根本的欠陥にこれらの政府が気づくには、長い時間がかかった。
 例えば、1957〜63年の英国首相のハロルド・マクミラン(Harold Macmillan<。1894〜1986年>)<(コラム#610、1790)>は、インフレ<防止>は国際収支の平衡の観点からのみ重視すべきだと信じていた。
 だから、多くの政界及び実業界の指導者達は、貸し渋りや支出しぶりによってもたらされた不況の真の脅威に直面した時、途方に暮れるばかりだった。
 だから、こういう脅威と戦おうとするにあたって全般的「減額(cuts)」を行うことの無意味さを見て取れた人々が、大きな景気後退にあたって政府支出による刺激を推奨したことで知られる経済学者<たるケインズ>の記憶を呼び覚ましたいと思ったことは不可避だった。・・・−」(A)

(続く)

太田述正コラム#3535(2009.9.20)
<よみがえるケインズ(その1)>(2009.10.22公開)

1 始めに

 世界金融不況を契機に、経済学者ケインズに改めて注目が集まっています。
 英ワリック(Warwick)大学名誉教授で経済史家で浩瀚なケインズの伝記の著者として名高いロバート・スキデルスキー(Robert Skidelsky。1939年)の出たばかりの本、 'KEYNES The Return of the Master' の書評をもとに、そのあたりの話をご紹介しましょう。
 (なお、ケンブリッジ大学経済学教授のピーター・クラーク(Peter Clarke)が ' Keynes: the 20th Century's Most Influential Economist' という本を出したことから、この両著をあわせて対象にした書評も少なくありません。)

A:http://www.ft.com/cms/s/2/6a053a56-8de2-11de-93df-00144feabdc0.html
(8月31日アクセス。両著の書評)
B:http://www.nytimes.com/2009/09/18/books/18book.html?hpw=&pagewanted=print
(9月18日アクセス。書評)
C:http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/09/18/AR2009091801142_pf.html
(9月19日アクセス。書評)
D:http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/keynes-the-return-of-the-master-by-robert-skidelskybr-keynes-by-peter-clarke-1781177.html
(9月20日アクセス。両著の書評)
E:http://www.nytimes.com/2009/09/18/books/excerpt-keynes.html?pagewanted=print
(9月20日アクセス。スキデルスキーの本からの抜粋)
F:http://www.newstatesman.com/books/2009/09/keynes-economics-economy-crash
(同上。両著の書評)
G:http://living.scotsman.com/books/Book-review-Keynes-The-Return.5619830.jp
(9月20日アクセス。書評)
H:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article6829064.ece?print=yes&randnum=1253432242906
(同上)

2 ケインズという人物

 「ジョン・メイナード・ケインズ(1883〜1946年)は、・・・恐るべき人物
だった。
 彼は背が高く、濃い色の背広とホンブルク帽(注1)という非の打ち所のない
身だしなみであり、イートンとケンブリッジの産物であり、イギリス銀行総裁
だった。

 (注1)つばがややそり上がり中央がくぼんだフェルト帽。ドイツのザール(Saar)地方のHomburgで最初につくられた。(太田)
http://ejje.weblio.jp/content/homburg

 彼と話すと人は萎縮した。
 哲学者のバートランド・ラッセル<(コラム#3106、3533)>は、「私が彼と議論をした時、私は自分の心臓を自分の両手の上に乗っけているように感じた」
と言った。
 逆説的だが、ケインズは、詩人のごとき繊細な心も持っていた。
 彼は、<文学グループである>ブルームズベリー(Bloomsbury)グループ(注2)の一員でありヴァージニア・ウルフ<(コラム#472、 475、1786、1790、2365)>のファンだった。

 (注2)20世紀前半にロンドンのブルームズベリー地区付近で生活し、仕事をし、勉強をした友人達や親戚達からなるイギリス人の集団。彼等の業績は、文学、美学、評論、経済学、及びフェミニズム、平和主義、そしてセクシャリティーに対する当時のイギリス人の姿勢、に深い影響を及ぼした。その最もよく知られたメンバーは、ヴァージニア・ウルフ、ジョン・メイナード・ケインズ、E.M.フォースター(E. M. Forster)(コラム#84、484)とリットン・ストレイチー(Lytton Strachey)だ。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/Bloomsbury_Group

 彼は、近代美術と稀覯本の収集家だった。
 彼は、ロシア人のバレリーナと結婚した。
 彼は先覚的環境保護主義者であり、一度聞くと決して忘れないことを言っている。
 すなわち、彼は1933年に、「これらは配当を支払わないため、我々は太陽と星々を遮断することが可能だ」と警告した。・・・」(B)

 「・・・1936年にジョン・メイナード・ケインズは、「経済学者達や政治哲学者達の考えは、彼等が正しい時も間違っている時も、一般に理解されているよりももっと強力だ。実際、世界はおおむねこれらの考えによって支配されている」
と記した。
 「実務家達は、知的影響など全く受けていないと信じているが、通常何らかの故人たる経済学者の奴隷なのだ。」と。・・・」(C)

→これは、余りにも人口に膾炙しているケインズの言葉ですね。

 「・・・<ケインズは、>社会主義者でも国有化主義者でも積極的規制主義者でもなかった。
 「彼は、資本主義を褒めそやしもくさしもしなかった。」
 彼は、予算は均衡されることが正常だと信じており、赤字予算の使徒ではなかった。
 彼は重税・高支出の狂信者でもなければ、需要不足が失業をもたらすと信じていたわけでもなかった。
 彼はインフレ主義者ではなかった。
 そして、貿易に関しては自由主義者だったが、彼は保護主義に全面的に反対ではなかった。・・・」(G)

 「・・・彼は、金融機関は、株主に対すると同様、公共の利益に対する義務を負っている、という珍しくかつ斬新な考えを抱いていた。
 彼は、他の全てを犠牲にしたカネの追求について憂慮していた。
 「金儲けとブリッジ」の生活を送ることに何の倫理的価値があるのか、と彼は問いかけた。
 ・・・「彼の結論は、カネの追求・・彼が「金銭愛」と呼んだもの・・は、それが「良い生活」へと導く限りにおいてのみ正当化されるのであり、その良い生活とは、人々を富裕にすることではなく、彼等を良い存在たらしめる生活である、というものだった。
 経済的営為(striving)の唯一の正当化されうる目的は、世界を倫理的により良いものにすることだというわけだ。」
 ケインズの利他主義は、時々、カスター将軍<(コラム#3473)>の最後の瞬間のような響きがする。・・・」(B)

→ケインズもまた、人間(じんかん)主義者だったのです。

(続く)

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