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太田述正コラム#1992(2007.8.10)
<再びマハトマ・ガンジーについて>(2008.2.11公開)

1 始めに

 マハトマ・ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi。1869〜1948年)を私が全く評価していないことは、以前から私のコラムを読んでこられた方々はご存じだと思います(コラム#26、176、1250、1251、1467、1898)。
 屋上屋を架すようですが、再びガンジーを採り上げることにしました。

2 ガンジーの暗殺者から見たガンジー

 1948年1月30日の夜、ガンジーはデリーで歩行中に銃殺されました。
 暗殺者はヒンズー教徒のゴッゼ(Nathuram Godse)という男でしたが、彼は逃げようとするどころか、大声で「警察」と呼ばわったといいます。
 裁判所でこの男は、ガンジーが、イスラム教徒に宥和的であったことと、自己の利益と軍事力が何よりも重要であるはずの政治の領域に宗教とか「精神の純粋性」とか個人的良心といった非合理的な代物を持ち込んだことを非難しました。
 実は、ゴッゼのこのような考え方は、当時のインド亜大陸の大方の人々の考え方でもあったのです(コラム#778参照)。
 (以上、特に断っていない限り
http://books.guardian.co.uk/departments/biography/story/0,,2114877,00.html
(6月30日アクセス)による。)

3 悪しき家庭人ガンジー
 
 (1)妻にとってのガンジー

 ガンジーは妻カスツルバ(Kasturba Gandhi。1869〜1944年)とお互いに13歳の時に結婚しますが、1888年にはガンジーが英国に留学したため、既に生まれていた長男ハリラル(後述)とインドに取り残されます。
 (二人の間には、更に3人男の子ができる。)
 彼女は、1893年から南アフリカで弁護士業をやっていたガンジーに、今度は1897年に一方的に現地に呼び寄せられます。
 やがて二人はインドに戻るのですが、ガンジーは清貧を旨とするようになり、カスツルバもそれに右に倣えさせられます。
 1906年以降は、ガンジーは禁欲生活を彼女に強います。
 もっとも、ガンジーの回りにはいつも女性達がおり、彼女達と「全く肉体的接触なしに」同衾し風呂に入ることを修行と称する変わった禁欲生活をガンジーは送りました。
 ガンジーは、あの詩聖タゴール(Rabindranath Tagore)の姪と「精神的」婚姻生活を送ったりもします。
 このような境遇をじっと耐え忍ぶ人生をカスツルバは送ったわけです。

 (2)長男にとってのガンジー

 晩年のガンジーは、自分の人生において最も残念なことは、二人の人物を説得できなかったことだ、と述べたことがあります。
 この二人とは、敵となったかつての友人のジンナー(Mohammed Ali Jinnah。1876〜1948年。パキスタン建国の父)とガンジーの長男のハリラル(Harilal Gandhi。1888〜1948年)です。

 ハリラルは、小さい時に父親がいない母子家庭状態で育てられ、ガンジーと暮らすようになってからは、南アフリカで売れっ子の弁護士の子供としてはぶりの良い生活を送ったかと思ったら、インドに戻って今度はガンジーが勝手に始めた清貧にして禁欲的な生活を送らせられる羽目になる、という具合に2男以下とは全く違った可哀想な経験を重ねるのです。
 この間、ハリラルにとって特にショックだったのは、南ア時代に、奨学事業を始めたインド人篤志家からハリラルを英国留学させてあげようと言われたのを、ガンジーが、ハリラルよりも英国留学させるにふさわしい子供がほかにいるはずだ、と断ってしまったことです。
 ネポティズムを排するガンジーの主義主張のために、ハリラルは、父親に倣って英国に留学して弁護士になるという夢を絶たれてしまい、生涯ガンジーを恨み続けることになるのです。
 こうしてハリラルは、ガンジーが国産品奨励運動をやっているというのに、海外衣服の輸入業を行ったりしてガンジーに反抗するのですが、運も悪く、何の事業をやっても成功しません。
 父子関係は、ハリラルが、最初の妻を病死で失った後、ガンジーの禁欲主義に反して再婚したことで決定的に悪化します。
 結局ハリラルは酒と女と軽犯罪で身を持ち崩すことになります。
 ガンジーが暗殺された数ヶ月後、ハリラルは何とイスラム教に改宗し、名前をアブドラ(Abdullah)に変えます。
 そしてまもなく、行き倒れ状態でムンバイ(Mumbai)の路上で発見されたハリラルは、病院に運ばれ、医師から父親の名前を聞かれて「バプ(Bapu)」というガンジーの愛称を口にします。
 医師は、ガンジーは確かにインド建国の父だが、お前の実の父親は誰なのだと問い直したといいます。
 こうしてハリラルは生涯を閉じるのです。

 (以上、
http://www.guardian.co.uk/india/story/0,,2140440,00.html
(8月3日アクセス)、
http://www.guardian.co.uk/india/story/0,,2145946,00.html
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1609478,00.html?iid=chix-sphere(いずれも8月10日アクセス)による。)

4 終わりに

 偉い人物の家族は大変だけど、聖人の家族ともなると、大変なんてものではない、ということなのかもしれません。
 身につまされる方が読者の中にいらっしゃるかもしれませんね。

 なお、今年、Gandhi, My Fatherという、ガンジーとハリラルの関係を描いた映画(ヒンディー語版と英語版あり)が封切られ、また、ガンジーの4男の子供、つまりガンジーの孫のラジャモハン(Rajmohan Gandhi)の、悪しき家庭人ガンジーを描いた'Gandhi, My Father is out now. Gandhi: The Man, His People and the Empire'が出版されたことを付言しておきます。

太田述正コラム#2245(2007.12.19)
<日記に久保・諸冨両名が登場する日>(2008.1.16公開)

1 始めに

 私の日記の2000年8月21日には、久保卓也元防衛事務次官(故人)と諸冨増夫元防衛施設庁長官の2人の話が登場するので、該当部分をご披露しましょう。
 久保さんは警察庁キャリアであり、警察庁と防衛庁の間を行ったり来たりしながら、防衛局長を経て防衛事務次官を勤められました。
 他方、諸冨さんは私より7期先輩の防衛庁キャリアであり、調達実施本部長時代の不祥事で有罪判決を受けた人物であり、防衛施設庁長官時代には私の呆れた上司であった御仁です。

2 日記の記述

 ・・・
 久保論文解説脱稿。(下掲)
 昨年、昔の資料を整理していた時に、長い間探していたこの論文(手書き原稿の青焼きコピー)が出てきた。この論文は、1976年の7月に防衛事務次官を辞め、防衛庁顧問として防衛研修所(現在の防衛研究所。以下「防研」という。)に一室を与えられていた久保さんが、防研が大蔵省からカネをもらって行ったPPBS(Planning Programming Budgeting System=米国国防省等で実施されていた予算編成システム)の再検証研究の一環として、防研の委嘱を受けて一専門家としての立場で、翌年にかけて執筆したものである。
 1976年の6月に米国スタンフォード大学のビジネススクール(及び政治学科)での二年間の留学を終えて帰国し、内局人事第一課に配置されていた当時27歳の私は、防研からの要請で上記再検証研究チームの一員に加わっていた。
 その年の秋、防研の久保さんの部屋で、私はたった一人で久保さんと向き合っていた。怖い物知らずであった当時の私は、委嘱した執筆作業の進捗状況を問いただし、必要に応じて注文をつけるつもりでこの面談に臨んだのだが、いつしか、時の経つのも忘れて久保さんの話に耳を傾けていた。この論文にもにじみ出ているが、久保さんは最新の米国の経営学の理論に次々に言及しつつ、自分の主張を展開された。実に、二年間経営学の勉強をしてきたばかりの私が圧倒されるほどの該博かつ詳細な知識だった。
 この論文を読み返したところ、そのおりの濃密な至福のひとときの記憶が鮮やかによみがえってきた。それにしても、四半世紀も前に執筆されたにもかかわらず、いささかも論旨が古びていないことには驚かされる。私は、この論文を自分一人のものにしておくのは惜しいと思い、このような形で公開することにした。
 この論文は、単に久保さんがPPBSに対する所見を述べたものではない。1976年に閣議決定され、1995年に改定された防衛計画の大綱の根底にある「基盤的防衛力構想」・・つまりは現在の日本の防衛構想・・がいかなる考え方の下で生み出されたかを明らかにした、瞠目すべき論文なのである。
 久保さんは、「本来安全保障政策が明確化、具体化されていない所に、防衛政策の具体的目標は立て難い。そうであれば実は防衛に関する業務と予算の目的的、効率的管理についての大前提を欠くことになる。」と言っている。すなわち、防衛庁は構造的かつ深刻なモラル・ハザードの下にある。このモラル・ハザードの下で、なおかつ自衛隊の士気を維持し、不祥事の発生を回避するにはどうしたらよいかという経営学的課題に答えることこそが、基盤的防衛力構想の最大の狙いであったことを私は久保さんからこの耳でじかに聞いたのだが、そのことは、この論文のこのくだりからもはっきり読みとることができる。
 私は、この久保さんの本来の考え方に沿って、防衛計画の大綱(旧)の説明ぶりを抜本的に改めることを、編纂を担当した昭和52年(1982年)防衛白書で試みようとした。ところが、自ら素案を執筆して周到な根回しを行い、担当課であった防衛課(当時)はもとより、統幕及び各幕の同意もとりつけた上で、参事官会議に臨んだにもかかわらず、会議の席上での内局上層部の予期せぬ反対により、この試みは挫折してしまった。このことは、いまだに残念でならない。
 結局、久保さんの本来の考え方は、正しく認識されないまま現在に至っているのだが、それにもかかわらず、久保さんの生み出した基盤的防衛力構想は、防衛庁における士気の維持と不祥事の防止に大きな役割を果たしてきた。その理由もこの論文が解き明かしてくれている。
 問題は、久保さんのように、経営学的視点から防衛行政に携わる人間がその後育っていないことである。遺憾ながら四半世紀を経た現在においても、依然、この論文が書かれた当時と同じ巨大なモラル・ハザードの下に防衛庁はあり、さすがに久保さんの遺産の神通力も薄れてきたのではないか。調達実施本部の事案を始めとする昨今の防衛庁における不祥事の連鎖は、そのことを物語っているように私には思えてならない。果たしてこれは杞憂であろうか。

                          仙台防衛施設局長
                          太田述正

夕食:宿舎にて。
夜:留守中、施設庁総務課長の米岡から、諸冨救難資金への献金を呼びかける関、三井両名の名前の「お願い」をを同封し、「よろしくお取り計らい願います」と記した手紙が届いていた。それにしても、関、三井両名の「お願い」中の「今回の事案は真に残念なことであり、彼に対する判決は、組織の長たる者に科せられた当然の責任を示すものであると私どもも厳粛に受け止めております。しかし同時に、彼がこれまでの長い公務員生活の間、国家のため防衛のため真摯に尽くしてきたことは皆様御案内の通りであります。彼自身は国家に損害を与えるとは思ってもおらず、意図せざる結果となってしまったことを心から反省しております。そのような彼が不遇のどん底にある姿を見るにつけ、私どもは気の毒でなりません。」とは何事か。これでは防衛庁当局による諸冨事案判決に対する真っ向からの挑戦ではないか。
 ・・・

3 解題

 諸冨さんに触れた部分については特段解題は必要ないでしょう。
 (関、三井両名は諸冨さんと同期の防衛庁キャリアOBです。)
 久保論文解説は、久保論文とともに、「防衛学研究」(防衛大学防衛学研究会)2000年11月号に掲載されました。
 この久保さんは、田代さん(コラム#2183)とともに、留学にあたって私がスタンフォード大学に提出した推薦状をお願いした人です。
 1970年代頃までは、大蔵省出身の田代さんのような人格者や警察庁出身の久保さんのような理論家が防衛事務次官になったものであり、業者による接待や官官接待こそ花盛りではあったけれど、防衛庁は退廃や腐敗とは無縁でした。
 防衛庁キャリアの私の先輩にも、ごく少数ではあるけれど、傑出した人物がいました。しかしその反面、諸冨さんのような人も少なくありませんでした。
 その後、防衛庁以外の省庁のキャリアの劣化も進んだ(注)けれど、防衛庁採用のキャリアの劣化はそれに輪をかけて進んで現在に至っています。

 (注)防衛庁以外の省庁のキャリアの劣化だが、例えば平沢勝栄氏は、守屋が防衛課長をしていた頃の1994〜96年頃、警察庁から防衛庁に出向して防衛局担当の官房審議官をしていたが、当時彼の部下であった守屋を始めとする防衛庁キャリアの退廃・腐敗ぶりに気付いていた様子は全くない。
 これは、平沢氏が(ちょうど社会保険庁における長官等の厚生省キャリアと同じく)お客さんとして防衛庁の審議官室のイスに座っていただけで、碌に仕事をしていなかったことを物語っている。

 だからこそ私は、防衛省再生の第一歩として、防衛省(庁)キャリアの「追放」と、防衛省内部部局を他省庁キャリアと幹部自衛官(、それに防衛省採用のノンキャリ等)で構成することを提唱しているのです。
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太田述正コラム#2303(2008.1.16)
<ガンジー・チャーチル・ホロコースト(その2)>

→非公開

太田述正コラム#1863(2007.7.12)
<スターリンと毛沢東の伝記(続)(その3)>(2008.1.12公開)

 <スターリンのエピソード1>
 ここで、毛に比べていかにスターリンが「正常」であったかを、スターリンの二番目の妻との別離の時のエピソードをもとにお示ししましょう。
 (スターリンの伝記の方の頁は、SPP・・とPPの前にSをつけて表すことにする。)

 ちなみに、スターリンは25歳くらいの時の1903年に最初の妻を亡くすのですが、葬儀の時に、「私が他人に対していささかなりとも抱いていた温かい気持ちは彼女とともに死に絶えてしまった」と言って嘆き悲しんだと伝えられています(注1)(
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Stalin
。7月12日アクセス)。

 (注1)この妻との間にできたスターリンの長男ヤコフ(Yakov)は、第二次世界大戦の時にドイツ軍の捕虜になり、ドイツが、ソ連の捕虜になっていたパウルス(Friedrich Paulus)元帥との交換を求めてきた際、スターリンは、「尉官と元帥とを交換できるか」と言って断ったという。

 さて、スターリンが既にソ連の最高権力者になっていた54歳くらいの時の1932年に、二番目の妻ナディア(Nadya=Nadezhda Alliluyeva。1901〜32年。スターリンと結婚したのは1919年)がピストル自殺するという事件が起こります。
 毛沢東の実質的な最初の妻であった楊開慧が、毛沢東の「山賊」的共産主義活動に批判的であったことと好一対なのですが、ナディアもスターリンがウクライナ大飢饉(Ukrainian Famine)を意図的にもたらした(注2)ことに批判的でした。

 (注2)スターリンは1929年に農業集団化政策を開始し、その結果ソ連の農業生産性は大幅に落ち込んだが、そこへ1932年にスターリンは、ソ連の穀倉地帯であるウクライナの穀物供出量を44%も増加させた。このため、翌1933年にかけて、600万人から1,000万人の死者がウクライナで出た。スターリンの隠された狙いは、ウクライナのナショナリズムを根絶やしにすることであり、ウクライナ共産党幹部を含むウクライナのインテリはほとんど死に絶えた。(
http://www.ibiblio.org/expo/soviet.exhibit/famine.html
。7月12日アクセス。ただし、1,000万という数字はSPP85より)。

 彼女は、「あなたは拷問者です。あなたは自分の息子、妻、そしてロシアの人々全員を拷問にかけているのです。」とスターリンをなじります(SPP87)。
 しかし、彼女は鬱病にかかっていたのであり、この発言の前段は被害妄想でした。
 実際には、彼女とスターリンは互いに深く愛し合っていたのです。
 また、スターリンは2人の間にできた子供達、とりわけ娘に深い愛情を注いでいました(SPP162の次の写真の頁の解説)(注3)。

 (注3)2人の間には、スターリンにとっては次男のヴァシーリー(Vasily。1921〜62年)と長女スヴェトラーナ(Svetlana。1926年〜)がいた。ヴァシーリーは第二次世界大戦中空軍で活躍し、スヴェトラーナは1967年に米国に亡命したことで知られている。(ウィキペディア上掲等)

 ところがこの鬱病は、医師団が彼女にカフェインを処方するという過ちをしでかした上、まさに農業集団化政策の総指揮をとっていて神経がピリピリしていたスターリンの影響でどんどん悪化し、彼女は手元にあったピストルで発作的に自殺をしてしまった、というのが本当のところのようです。
 (以上、SPP99による。)

 ナディアの死にスターリンは打ちのめされます。
 自殺をほのめかすスターリンを周りの人々は懸命になって思いとどまらせます。葬儀の際には、スターリンの目からは涙がとどまるところなく流れ落ちました。棺の釘打ちの直前、スターリンはかがみ込み、ナディアの首を持ち上げて激しく接吻をし、列席者の涙をさそいました。
 スターリンは腑抜けのようになってしまい、ソ連共産党の書記長(General Secretary of the Central Committee of the Communist Party of the Soviet Union)を辞任しようとしますが、もちろんそうさせてはもらえません。
 立ち直ってからも、スターリンは、死ぬまでナディアの大きな写真を近くに飾り続け、ナディアのことを知っている人物が訪れると本来の用件はそっちのけで、ナディアの話にのめり込みました。
 もちろん、スターリンは二度と結婚はしませんでした。
 (以上、SPP105〜111による。)
<エピソード1終わり>

太田述正コラム#1859(2007.7.10)
<スターリンと毛沢東の伝記(続)(その2)>(2008.1.10公開)

 毛沢東の実質的に最初の妻とは、楊開慧(Yang Kaihui。1901-1930)であり、彼女は、1920年に毛沢東と結婚し、毛岸英(Anying)、毛岸青(Anqing)らをもうけるのですが、1927年に毛と別離生活に入り、1930年に処刑されます(
http://www.iisg.nl/~landsberger/ykh.html等。7月10日アクセス)。
 彼女の処刑に至る経緯は次のとおりです。
 別離後、毛が率いる共産党の一派は、火付け、殺人、誘拐、掠奪を常とする盗賊とみなされるようになっていました。彼女は、毛がいつつかまって処刑されるか気が気でない生活を子供達とさびしく送ります(PP83)。
 彼女は毛とは違って、虐げられた人々への同情心から共産党に入党をしていましたが、こんな毛のやり方に批判を募らせ、共産主義にも幻滅します。
 彼女は、「ああ、殺人、殺人、殺人、ということばかりが聞こえてくる。どうして人間<(=毛)>はこうも悪(ワル)なのか。どうしてこうも残酷なのか。・・私には理解できない。・・私には<共産主義に代わって>信ずるもの(faith)が必要だ。」と記しています。
 しかし、彼女は、こんな毛、しかも彼女を裏切って重婚までしていた毛に対する強い愛情を抱き続けました(PP86)。
 1930年、毛は、よりにもよって彼女の住んでいた地域に攻撃をしかけます。
 しかし、毛は、彼女や自分達の子供達に何の顧慮も払いませんでした。逃げるよう言うでなし、救おうともしなかったのです。(PP86)
 この地域を支配していた国民党系の軍閥は、彼女と岸英(8歳)を毛の妻子であるというだけの理由で逮捕します(
http://en.wikipedia.org/wiki/Yang_Kaihui
。7月10日アクセス)。
 この軍閥は、彼女に、毛との離婚と毛への批判を宣言すれば命は助けてやると言ったのですが、彼女が拒否したため、岸英が見ている前で彼女に拷問を加えた上で(ここはウィキペディア上掲による)、11月14日、彼女を銃殺刑に処します。
 さすがの毛も、この時ばかりは嘆き悲しんだといいます。
 しかも、晩年になるほど、毛は彼女のことを思い出すようになったともいいます。
 (以上、PP80)
 毛にも人間性のかけらは残っていたと見えます。
 
3 毛沢東が共産党のリーダーになれたわけ

 こんな毛沢東が、どうして共産党のリーダーになれたのでしょうか。
 ソ連の命ずることに忠実に従う犬であったが故に、ソ連のお眼鏡にかなったためです。
 そもそも、中国共産党は、ボルシェビキ(ソ連)がつくったのであり、当時の中国共産党は、ソ連の資金で運営され、あらゆる決定はソ連が行っていました。
 1920年1月にソ連が中央シベリアを確保し、支那への往来ができるようになると、ソ連はエージェント(Grigori Voitinsky)を上海に送り込み、5月に陳独秀(Chen Tuhsiu。1879〜1942年)に中国共産党を設立させます。
 この時の8名の創設メンバーの中に毛は入っていません。
 毛は陳独秀の取り巻きの一人ではありましたが、まだ共産主義者ですらなかったのです。
 このため、毛は後に歴史を改竄し、自分が最高幹部の一人となった翌年の1921年7月に中国共産党が創設されたことにしたのです。
 (以上PP19による。)
 この1921年7月は、ソ連が新たに2名のエージェント(ソ連の軍事諜報員のニコルスキー(Nikolsky)とオランダ共産党員のマーリン(Maring))を送り込んできた月です。彼らは公式に中国共産党を発足させるために、第一回共産党大会を開催させます(PP25)。
 1921年10月から1922年6月までの9ヶ月間の中国共産党運営経費の94%はソ連からのカネで賄われています(PP27)。
 毛にも潤沢な資金が流れてきて、この頃から毛は豪奢な生活を送るようになり、それは生涯変わりませんでした。
 ソ連が中国共産党を設立した目的は、ソ連が奪取した外モンゴルの「独立」を認めない当時北京政府を打倒することでした。
 しかし、設立されたばかりの中国共産党は力不足であったため、ソ連は中国国民党に接近し、リーダーの孫文(Sun Yatsen。1866〜1925年)に外モンゴルの「独立」を認めさせ、引き続き国民党を意のままに動かすため、中国共産党員達に国民党への加入を促します。
 当然、共産党の中からは強い反発が起きます。
 しかし、この指示に忠実に従ったほとんど唯一の共産党幹部が毛だったのです。
 1923年、国民党と共産党を指導するためにソ連はボロディン(Mikhail Borodin。1884〜1951年)を送り込んできます。
 ボロディンは国民党を共産党のような組織に作り替え、1924年、最初の党大会を開かせ、毛を始めとする多数の共産党員を送り込みます。そして、国民党にもソ連の資金を潤沢に投入し、国民党軍を錬成し、士官学校を設立します。
 毛は例によってボロディンに取り入ることには成功するのですが、共産主義理論に大した関心を示さず、しかも、教宣活動を全くといってよいほど行わず、他の共産党員と同志的な対等な関係を築こうとするどころか、常に独裁者然としていた毛への反発が強まり、毛は、1924年から25年にかけて、党中央を逐われてしまいます。
 この時のことも、毛は中共の公式史から抹殺しています。
 (以上、PP31〜34による。)
 その毛を救ったのが、国民党幹部であった、そして日華事変の時に親日政府を樹立することになる、あの汪兆銘(Wang Chungwei。1883〜1944年)であったのは、歴史の皮肉以外のなにものでもありません(PP37)。

(続く)

太田述正コラム#1857(2007.7.9)
<スターリンと毛沢東の伝記(続)(その1)>(2008.1.9公開)

1 始めに

 スターリンの伝記と毛沢東の伝記を少しずつ読み進めているのですが、後者の方が読みやすく面白い感じがしています。
 後者が、英語が母国語でない支那人の女性とその夫の英国人との合作だけに、癖のない分かりやすい英語で書かれている、ということもあるのですが、何と言っても、スターリンに比べて毛沢東の方がはるかに興味深い人物だからです。
 というのは、スターリンはかろうじて規格内の正常な人間であるものの、毛沢東は徹頭徹尾規格外の異常な人間だからです。
 このことは、毛が実質的な最初の妻を非業の死に追いやるところまで読んだだけではっきり分かります。

2 異常人格毛沢東

 毛は通常の意味でのリーダーとしての資質がなく、学生時代には人望は全くありませんでした(15頁)。
 もちろん、毛は頭は悪くありませんでしたが、労働を卑しみ、また全く語学の才能がありませんでした。毛は湖南方言で押し通し、ついに北京官話すら身につけられなかったほどです。
 だから、当時の支那の有為の青年は、第一次世界大戦後の労働力不足のフランスでは労働しながら勉強できるというのでフランスに行ったり、また、革命後の社会主義国ロシアに行って勉強したりすることが大流行だったのに、毛はフランスはもとより、ロシアにも行かなかったのです。
 (以上、PP15)
 このあたりまでは、そうめずらしくもないでしょう。

 しかし、次はどうでしょうか。
 「道徳性は他人との関係において定義されるべきではない。・・私のような人物にとっては、自分の心を最大限満足させることこそ最も価値の高い道徳律なのだ。もちろんこの世にはヒトやモノがある。しかしこれらはすべて私のためだけに存在しているのだ。」(PP13)
 死んだ後名声を残すなんてことは「私にとっては何の意味もない。・・私のような人物は後世のための何かを残すという発想はないのだ。」(PP13)
 これらは、毛自身の言葉です。
 毛は究極のエゴイストであると思いませんか。
 そんな毛は、死に至る病にかかった母親に向かって、きれいだった時の記憶をとどめておきたいので、もう来ないと言い残し、言ったとおり、それっきり母親が亡くなるまで会いには来ませんでしたし、そんな毛はもちろん、父親が亡くなる時も会いには来ず、亡くなっても哀しげな顔一つ見せませんでした。(PP17〜18)
 毛には親の決めた縁談がありましたが、それには見向きもせず、恩師の娘と実質的に第一回目の結婚をします(PP22〜24)が、やがて共産主義運動に身を投じた毛と彼女は別居を余儀なくされ、それを良いことに、後に毛の次の妻となる女性と浮気を始めるのです(PP57)。 

 (続く)
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<太田>
 情報屋台の掲示板への私の投稿を転載しておきます。

       藤田正美氏の「戦争終結と原爆と核廃絶」について

1 始めに

 藤田正美氏が「戦争終結と原爆と核廃絶」(
http://johoyatai.com/?page=yatai&yid=63&yaid=507
)で「1945年の核爆弾についてわれわれはもっと議論しておかなければならないと思う。」と指摘されていますが、同感です。
 とりあえず、藤田氏の論調に対し、二点ほどコメントさせていただきました。

2 コメント

 (1)補足

>原爆投下は「しょうがない」と発言した久間章生防衛大臣・・は、長崎出身なのにずいぶん不用意な発言をしたものだと思う。

について補足させていただきます。

 「<米>カリフォルニア大学サンタバーバラ校の・・ハセガワ・・教授は、<2005年に上梓した著書において、>・・「原爆投下は日本の降伏をもたらし、百万人の米兵の命を救った」という神話・・を完膚無きまでに打ち砕<きました。>
 ハセガワは、日本が降伏したのは、原爆投下(8月6日広島、8月9日長崎)のためではなく、ソ連の参戦(8月8日)のためであることを証明したのです。
 すなわち、原爆による被害は、広島でも東京大空襲並みであり、焼夷弾によるものであれ原爆によるものであり、戦略爆撃が続くことには日本の政府も軍部も耐えてきたのであり、原爆投下以降も耐えていくつもりだったのに対し、日本の政府も軍部も、ソ連軍によって日本本土が席巻されたり占領されたりすることは絶対に回避しなければならないと考え、降伏を決意したというのです。」(太田述正コラム#819)

 つまり、原爆投下は、単に一般市民を殺戮し、苦しめただけで、政治的にも軍事的にも何の意味もない愚行であったからこそ、強く非難されるべきなのです。


 (2)疑義の提起

>もし犠牲者の多さや民間人が多数殺されたことがその理由なら、1945年3月10日の東京大空襲についてなぜアメリカを非難しないのか。東京大空襲では 10万人が犠牲になったとされている。そしてもしアメリカの無差別爆撃を非難するなら、1938年に日本軍が行った歴史上類を見ない重慶爆撃をどう反省するというのか(重慶爆撃こそ都市に対する無差別爆撃の事実上の始まりとされている)。

 これについては、若干疑義があります。
 まずは以下をお読み下さい。

 「<イタリア人ドゥーエが提唱した>戦略爆撃の目的は、敵の政治的に重要な<拠点>、軍事的生産拠点、交通のネック<等を>撃滅し、敵の戦争遂行能力を喪失させることである・・。
 <日本による>重慶爆撃は、日中戦争・第二次世界大戦と続くこの時期の世界戦争の中で、1937年の<ドイツによる>ゲルニカ爆撃に続く最初期の都市空襲(戦略爆撃)である。・・<重慶爆撃の>爆撃目標は「戦略施設」であり、・・現地部隊への指示では、「敵の最高統帥、最高政治機関の捕捉撃滅に勤めよ」とあり、アメリカ、イギリスなど第三国の施設への被害は避けるようにと厳命されていた。しかしながら重慶は霧がちで、曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、目的施設以外に被害が発生する可能性を承知で爆撃が実施された。・・<また、ゲルニカ爆撃では、>市が立っている市街地を爆撃し、さらに、低空に下りて銃撃(爆撃機がである)を加えたりしている<等>、 ・・明らかに<一般市民を>狙っ<た部分があ>った。
 ・・蒋介石は、重慶爆撃・・の悲惨さを非人道的な無差別爆撃として強調、宣伝することにより、・・外交的にアメリカを日本と中国の戦争に巻き込むことを画策し、・・アメリカの経済制裁に始まって、それに対する資源獲得の為の米軍勢力の払拭の為の日米戦争という形で 見事に成功させた・・。
 <第二次世界大戦においては、>戦争の初期<の>ヨーロッパ戦線では、・・一般市民を殺戮し<てドイツ国民の戦意を喪失させ>・・ようとするイギリス軍と、・・軍事施設と生産施設を・・攻撃するアメリカ軍とは別の理論により<戦略>爆撃が行われていた。・・<しかし、後にアメリカ軍は、>太平洋戦線では、日本相手にB-29爆撃機を用いて、<一般市民を殺戮して日本国民の戦意を喪失させようして、>大規模に都市ごと焼き払う戦法<を>採用<した。>」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%85%B6%E7%88%86%E6%92%83
(7月9日アクセス)。ただし、ゲルニカ爆撃については、
http://en.wikipedia.org/wiki/Bombing_of_Guernica
(7月9日アクセス)により、補正した。)

 つまり、当時でも国際法違反となるところの、一般市民の殺戮を主たる目的とする戦略爆撃を世界で初めて実施したのは、スペイン内戦時のドイツでも日華事変時の日本でもなく、第二次世界大戦時の英国であり米国である、ということです。
 また、原爆投下は、当時でも化学兵器の使用が国際法違反であったことを踏まえれば、原爆が化学兵器以上の後遺症を爆撃生存者に残す残虐な兵器である以上、国際法違反と解すべきなのです。 
 従って、広島と長崎への原爆投下は二重の意味で国際法違反なのであり、だからこそ、ハンブルグ大空襲や東京大空襲等以上に強く非難されてしかるべきなのです。

太田述正コラム#2202(2007.11.28)
<田村秀昭氏への初見参>(2008.1.5公開)

 (本篇は当分の間、公開しません。)

1 始めに

 仙台防衛施設局長時代の日記からの「復刻」の第2弾です。
 といっても、今回は、赴任直前の1999年7月16日の記述からのご紹介です。
 私の田村秀昭氏への初見参の時のやりとりが出ています。
 田村氏については、既にコラム#2169と2174でとりあげたところですが、これはまだ田村氏の不祥事の噂を私が承知していなかった頃の、私と田村氏とのやりとりです。それに私のコメントをつけました。
 
2 田村氏とのやりとり

1500−:
 自由党田村参議院議員(T)に<私の編纂した防衛>白書の説明。T:「ピアノの太田(O)さんだな。」から始まり、雑談に終始。

→ほとんど初対面だったが、敵も然る者、防衛省キャリアの主だったところの個人情報の収集には努めていたということが分かる。(太田)

 T:「検察は、テポドンが飛んできた時に防衛庁のガサ入れを行ったが、検察は国の防衛を閑却していると白書に書いたか。」
 O:「・・・。」

→調達実施本部事件でのガサ入れの話。安全保障とか国家機密だとかを持ち出して検察等を牽制しようとするのは防衛省関係者がよくやる手だ。なお、この事件の責任をとって額賀防衛庁長官は辞任する。因果はめぐるってやつだ。(太田)

 T:「また、予算制度を今のままにしておいて調達制度の改革を論じるのはおかしい。」
 O:「その通りだが、いかなる制度の下でも、技量は維持・向上させなければならない。調本が、組織としても職員についても、原価計算能力の維持・向上を怠ったことが問題。予算が不足気味で貸し借りが生じざるを得ない世界ではあるが、いくら借りがあり、いくら返すのか、きちんと把握しておく必要あり。ところが、それが分からない世界になってしまっていたのでは。」

→予算は使い切らなければならない、ということことそ元凶だと田村氏は言っているように思われる。
 私の答えは、オブラートに包みつつも、防衛省に原価計算能力がないことを指摘したもの。(太田)

 T:「元検事の佐藤議員と話したのだが、工数をごまかすと言うのは詐欺だそうだ。従って防衛庁は詐欺罪で企業を告発しなければならなかった。ところが、告発せよと言ったのは畠山次官だけだったと言う。防衛庁には畠山以外にはまともな人間がいなかったと言うことだ。」
 O:「・・・。」

→今読み返すとイミシン。不祥事の帝王(?)らしきブラックジョークと受け止めるべきでしょう。

 T:「「不祥事」の結果、このような厳しい態度を防衛産業に対してとり続ければ、防衛産業が成り立たなくなるのではないか。」
 O:「諸外国では國を超えた防衛産業の合従連衡が行われ、合理化が進められている。もともと日本はそのかやの外だったが、ますますそうなりつつあることは事実。」

→田村氏の正体見たり。
 私はあえて空とぼけた話で答えている。

 T:「CIWS事案での金田海将の処分を体を張って止める人が幕にも内局にもいなくなったことも問題。あれで辞めさせられるのでは、全員辞めなければならない。」
 O:「・・・。」

→CIWS(近接対空機関砲)事案の説明は長くなるので省略するが、田村氏は空自出身であるところ、陸海空の垣根を越えた自衛官幹部同士の連帯意識がお分かりいただけると思う。(太田)

 T:「200発丁度撃つことを競うなどということは、平時の発想。全然実戦的ではない。防衛庁を何故国防省にしなければならないかというと、総理府の平時の発想の役人が危険だから訓練は辞めろと言いかねないからだ。内局の役人はさすがにそんなことは言わないだろう。」
 O:「あえて、ずれたことを言うが、試験不正にせよ、CIWS事案にせよ、海上自衛隊の仕事熱心さが現れている。不祥事ベースで比較すれば、陸、空に比べて海の規律は相対的に良く維持されているという見方もできるのではないか。そして、陸海空を通じて、民間に比べれば、はるかにまじめに仕事をしていると思う。」

→国防省にすることは、当時で言えば、総理府用の資料を余分に作る必要がなくなる、ということくらいしかメリットはない。つまり、総理府は実質的には何の権限も持っていない。田村氏の勉強不足が露呈している箇所。
 私は、やはり空とぼけた話で答えている。陸をダシにはしているが、要は私の発言は、田村氏の出身母体である航空自衛隊が不祥事の巣であることを婉曲に指摘したもの。(太田)

 T:「その通りだ。緊急援助隊に行っても、自由恋愛はなかったようだしね。ところで、日米防衛関係をどうみているか。」
 O:「最悪の状況だと思う。」

→ここは私は実にストレートに答えている。
 それに対して田村氏が何も言わなかったところを見ると、彼もそう思っていたのだろう。その点では元自衛官たる田村氏は、並の防衛省キャリアよりは鋭い。(太田)

 O:「不審船事案だって、今まで同じ様なことはいくらでもあったのに、今回は、米大使館から通報があったので大事になっただけのこと。米国が、北朝鮮に対する日本の対応を歯がゆく思っており、不審船事案を仕掛けてきたわけだ。」
 T:「なるほど。」

→ここは、私が深刻な発言を重ねて行い、田村氏が意表をつかれた、というところか。(太田)

 T:「いずれにせよ、役人こそ日本の選良。これは、日本の歴史を通じて変わらない。現在の政治家連中が本当に国家をリードするようになったら、日本も終わりだ。それだけに、役人には頑張ってもらわなければならない。」

→これは防衛省キャリア、就中私に対する元自衛官たる田村氏によるゴマスリとも考えられるが、政治家評については、(田村氏自身も含め(?!))田村氏の言うとおりだし、役人の方がまだ政治家よりはマシだという点も全く同感だ。

3 終わりに

 これから田村氏の不祥事が暴かれていくことを期待しているのですが、どうなりますか。
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<太田>(2008.1.5)

 田村氏は1月4日逝去されました。
 謹んで哀悼の意を表します。

太田述正コラム#1850(2007.7.4)
<スターリンと毛沢東の伝記>(2008.1.4公開)

1 2冊の洋書

 既に私の以前のコラム(#1775と#744〜746)でご紹介済みの洋書2冊が届きました。
 とにかく、会費として海外の読者からいただいているアマゾン・ギフト券を使わないでいると、1年で無効になってしまうので、どの本にするか随分考えたあげく、2004年に出たA:MontefioreのStalin: The Court of the Red Tsarと、2005年に出たB:Jung ChangとJon HallidayによるMao: The Unknown Storyを注文したのです。
 今年出た、同じMontefioreによるYoung Stalin(コラム#1775)にしなかったのは、まだハードカバー版しかなく、高いからです。
 Mao: The Unknown Storyは既に邦訳(ユン・チアン, J・ハリデー『マオ−−誰も知らなかった毛沢東』上下 講談社)が出ていますが、ペーパーバック版の洋書の方が安いので洋書にしました。一つだけ残念なのは、当然のことですが、人名や地名の漢字表記が分からないことです。
 本当は、古本(とはいってもほとんど汚れていないものも多い)にしたいところなのですが、それだとアマゾン・ギフト券が使えないのでやむをえません。

2 その見た目

 中身については、読んでからおいおいご報告させていただくことにして、今回はこの2冊の見た目についてです。

 まず、頁数が大変なものです。
 Aは785頁、Bは801頁もあります。
 Aの場合、これはいわば第2巻であって、後に刊行される第1巻のYoung Stalinが控えていることを考えると驚異としか言いようがありません。

 また、注の類も充実しています。
 Aは、随所に脚注が付されているほか、巻末には、典拠注が83頁、参照文献が13頁、索引が29頁ついています。
 Bは、やはり随所に脚注が付されているほか、巻末には、協力者リストが3頁、インタビュー相手が14頁、参照資料館が2頁、巻末注が86頁、参照文献が51頁、索引が25頁ついています。
 どちらにも地図や写真の類も多数掲載されています(注1)(注2)(注3)。

 (注1)その分は、上記頁数に入っていない。
 (注2)スターリンと毛沢東が一緒に写っている写真がAにもBにも1枚ずつ載っているほか、Bにはスターリンの死を毛沢東らが悼む写真が2枚載っている。スターリンと毛沢東の関係を示しているかのようだ。
     また、Aにはスターリンが家族・・特に娘のスベトラーナ(Svetlana)・・と一緒に写っている写真が沢山出てくるが、Bには、毛沢東が家族と一緒に写っている写真は一枚もない。これは、毛沢東の家族愛の希薄さを示しているかのようだ。
     ちなみに、表紙に掲げられている写真は、Aのスターリンは多数の人々と一緒に写っているものだが、Bの毛沢東は一人だけが写っているものだ。
 (注3)Aにはスターリンの系図が載っているが、Bには毛沢東の系図は載っていない。一族の面倒などみなかった支那離れした毛沢東を示しているかのようだ。

 どの点から見ても、日本人の書く歴史や伝記は、逆立ちしてもAやBにかなわないものばかりです。
 結局、見た目だけでも、中身だって相当濃いだろうな、と思わせる迫力をAやBは持っています。

 言わずとしれた、スターリン(1879〜1953年)はソ連の、毛沢東(1893〜1976年)は中共の独裁者であり、どちらも何千万人単位で国民を死に追いやった暴君ですが、見た目だけでもこれだけ迫力のある伝記を、それぞれ死後51年、29年経っても出してもらえるのですから、もって瞑すべきでしょう。

(続く)

太田述正コラム#2278(2008.1.3)
<ブット暗殺(その7)>

 極めつきはブットの遺言です。
 この遺言はブットがパキスタンに帰国する直前に書いたものですが、彼女が暗殺されたために開封されたところ、PPPの後継総裁によりにもよって夫のあのザルダリを指名するという内容でした(
http://www.cnn.com/2007/WORLD/asiapcf/12/30/bhutto.husband.ap/index.html
。12月31日アクセス)。
 これはまさに、PPPの私物化以外の何物でもないばかりか、PPPの分裂や総選挙での敗北をもたらすことが必至(
http://www.guardian.co.uk/pakistan/Story/0,,2233631,00.html
。12月31日アクセス)の愚かな指名でした。
 さすがにザルダリすら、この遺言を忠実に執行することなく、2人の間の息子のビラワル(Bilawal)(注4)を総裁に据え、自分はビラワルの後見役としてPPPの実権を掌握することにしました。

 (注4)ビラワルには二人の妹、BakhtwarとAseefaがいる。この兄妹3人はザルダリと一緒にドバイに住んでいた(
http://www.nytimes.com/2007/12/28/world/asia/28bhutto.html?hp=&pagewanted=print。前掲)。

 ビラワルはオックスフォードにこの秋入学したての19歳であり、25歳にならなければパキスタンの被選挙権は与えられません。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1699006,00.html
(12月30日アクセス)による。)

 いずれにせよ、息子が継いだことだってPPPの私物化には違いありません。
 しかし、これでとにかくPPPは当面分裂の可能性がなくなり、しかも同情票を集めて次期総選挙・・1月8日実施予定が2月18日まで延期された・・で勝利する展望が開けました(http://www.nytimes.com/2007/12/29/world/asia/29pakistan.html?_r=1&hp=&oref=slogin&pagewanted=print
(12月29日アクセス)、及び
http://www.nytimes.com/2008/01/02/world/asia/02pakistan.html?pagewanted=print。(1月2日アクセス))。

 ここでもう一度私の問題提起を繰り返しましょう。
 一体どうしてブット「暗殺・・の結果はパキスタンにとって必ずしもマイナスではない」のでしょうか。

 パキスタンで力を持っているのは、軍部と封建的大地主達とイスラム教勢力(穏健派と過激派がある)の三つです。
 封建的大地主達は産業家達とおおむねオーバーラップしています。
 ブット家のPPPは南部のシンド地方を中心とする封建的大地主達を支持基盤としており、シャリフ率いるパキスタン・ムスリム連盟は首都周辺のパンジャブ地方を中心とする産業家達を支持基盤としており、穏健派のイスラム教勢力とも近しい関係にあります。
 (以上、
http://thelede.blogs.nytimes.com/2007/12/27/benazir-bhutto-and-the-politics-of-chaos/
(前掲)等による。)
 軍部や官僚機構にはパンジャブ地方出身者が多いとされています(
http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,,2233476,00.html
。12月31日アクセス)。そして、軍部出身者が官僚機構の要所を占めているし、軍部自身が国家の息のかかった営利的事業に大々的に手を染めています(典拠省略)。


 この軍部とPPPとムスリム連盟は互いに抗争しつつも癒着しているのですが、その中でPPPはパキスタンの最も遅れた部分を代表している政党であり、大地主達が自分達の間から立候補者を出し、小作人達がこれら候補に投票させられているというのが実態です。
 このような状況の下、ムシャラフの統治下での高度経済成長の結果、パキスタンの中産階級が育ってきているのですが、彼らはいまだ政治的影響力を発揮できずにいるのです。
 では、一体ブットは何をしようとしていたのでしょうか?
 「パキスタンの大衆のため」、そして「民主主義のため」に身命を賭するというのがブットの口癖でしたが、それは口先だけのことであり、彼女の眼中にあったのは、ブット家の嫡子としての使命感に基づき何が何でもブット「王朝」を復活すること、ただそれだけだったのです(
http://www.guardian.co.uk/pakistan/Story/0,,2233104,00.html
。前掲)。
 そのため、ブットは唯一の超大国である米国を自分の味方につけようと手練手管を尽くします。
 彼女は、米国の官僚達や議員達やジャーナリスト達の間を根回しして回るためのアポイント取り付けのため、2007年の最初の6ヶ月間だけで広告代理店のバートン・マーステラー(Burson-Marsteller)社に実に25万米ドル近くの巨額のカネを支払っています(
http://www.nytimes.com/2007/12/30/weekinreview/30bumiller.html?hp=&pagewanted=print
。12月30日アクセス)。
 このブットの根回しはついにブッシュ政権を動かし、ブッシュ政権は、ブットを熟知しているが故にいやがるムシャラフに対し、ブットと手を組むように強力に働きかけるに至るのです。
 ムシャラフは、この話に完全にコミットはしなかったけれど、ブットの帰国は認めることにします。
 しかし、この動きを見たシャリフがパキスタンに強行帰国した時、ムシャラフはシャリフをサウディアラビアに強制退去させましたが、その時、ブットは一言も声をあげませんでした。事実上「民主主義の敵」であるムシャラフと示し合わせて、自分の政敵シャリフを葬り去ろうとしたと言われても仕方がないでしょう。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,2233334,00.html
(前掲)による。)

 こんなブットに比べればムシャラフの方が数等倍マシです。
 だから、米国がムシャラフにブットと手を組ませようとしたのはナンセンスでした。
 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/12/28/world/asia/28policy.html?hp=&pagewanted=print
(12月28日アクセス)による。)
 パキスタンはロシアと人口がほぼ同じでどちらも核保有国であり、またどちらもむつかしい国内事情や国際事情を抱えている国ですが、米国はプーチンなら許容できるけれどムシャラフは許容できないなんて首尾一貫しないこと甚だしいと言うべきでしょう(
http://www.guardian.co.uk/pakistan/Story/0,,2233589,00.html
。12月31日アクセス)。

 要するに、パキスタンはブットなんて必要としていないのです。
 そんなブットが暗殺されたのですから、それが「パキスタンにとって必ずしもマイナスではない」のは当然だ、という気に皆さんも段々なってきたのではありませんか。

(続く)
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太田述正コラム#2279(2008.1.3)
<スコットランドの近現代への貢献(その1)>

→非公開

太田述正コラム#2275(2008.1.2)
<ブット暗殺(その6)>

(脚注)ブットの首相時代の功績

 ブットの首相時代の功績に触れためずらしい記事をたった一つだけ見つけたので、要約してご紹介しておく。

 ブットは首相時代に、(イスラム法に由来する)女性に対する差別的な法制を是正しようとは全くしなかった。
 しかし、彼女の政党PPPの幹部に何人かの女性を登用したことは事実だ。
 またブットは、5万人の女性の職員を雇って田舎の女性に基礎的な健康管理・家族計画教育を提供する試みを始め、上級裁判所に初めての女性判事を任命し、(女性特有の犯罪被害者向けの)女性だけの警察署を設置したし、女性だけに資金を貸し付けるパキスタン女性銀行を創設した。(
http://www.csmonitor.com/2008/0102/p05s02-wogn.htm
。1月2日アクセス)
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 ブットは代々封建的大地主の家に、オックスフォードを卒業して弁護士となり、政治家となった父ブットの最初の子供としてパキスタン南部に生まれます。
 イギリス人女性家庭教師の訓育を受け、カラチのミッション系の英語の学校を経て、彼女はハーバード大学を卒業し、その後今度はオックスフォードを1976年に卒業し、政治学士号を二つ獲得します。
 オックスフォードでは伝統あるディベートクラブであるOxford Unionの会長を女性として史上初めて務めたことは以前にも(コラム#1883で)触れましたが、これは会長選に二度挑んで敗れ、三度目に初めて当選したものです。
 彼女は当時、アイスクリームに目が無く、英国等の国王達の伝記や恋愛小説を読みふけったり、ハロッド等をぶらついたり、冬にはスイスでスキーをするという完全に欧米化した生活を送りましたが、このような生活を彼女はその後も続けるのです。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/pakistan/Story/0,,2232882,00.html
(12月29日アクセス)、及び
http://www.nytimes.com/2007/12/28/world/asia/28bhutto.html?hp=&pagewanted=print(前掲)による。)

 当然彼女はネイティブ並の英語を話しましたが、パキスタンの公式言語であるウルドゥー語は文法が間違いだらけの形でしかしゃべれませんでしたし、彼女の故郷のパキスタン南部の言葉であるシンディ語に至ってはそれはひどいものでした(
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,2233334,00.html
。前掲)。

 しかし、以上はブットの外見に過ぎませんでした。
 実際のブットは骨の髄までパキスタンの封建貴族的な人間だったのです。

 その証拠に1987年に彼女は、母親が選んだ、建設会社とポロのチームのオーナーであり、ブット家同様の南部の大金持ちの大土地所有の家の息子であるザルダリ(Asif Ali Zardari)と見合い結婚します。
 これは、ブットがザルダリに初めて会ったのが結婚の1週間ほど前という典型的な南アジア流の見合い結婚でした。
 唯一ブットが欧米流を発揮したのは、持参金(dowry)を家族に支払わせなかったことくらいです。
 もう一つの例証は、彼女が首相時代の1994年のインタビューで、自分の子供達にも政治家になってもらいたいかと聞かれた時に、ブットが、自分のことは棚に上げて、危険すぎるので政治家にはなってもらいたくないとした上で、息子には弁護士になって欲しいし、娘にはソシアル・ワーカーになって欲しいと男女差別丸出しの答えをしたことです(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/12/27/AR2007122702001_pf.html
。12月28日アクセス)。
 こんなブット夫妻が妻の首相時代にやったことと言えば、ひたすら不正蓄財に励むことでした。
 ザルダリにはミスター・10パーセントというあだ名がパキスタンの人々からつけられます。あらゆる政府調達の上前を10%はねたと噂されたからです。
 これに連座する形でブットにも腐敗の疑いがかけられ、彼女は2度にわたって首相の座を逐われることになるのです。
 ブットが2度目の首相の座を逐われてから、ザルダリの方は殺人(後述)と腐敗の容疑で、ムシャラフによって釈放されるまでパキスタンの拘置所で8年間過ごすことになりますし、ブットの方に対しては、スイスの裁判所がマネー・ロンダリングの罪で執行猶予付きの懲役六ヶ月の判決を下しています。
 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/12/28/world/asia/28bhutto.html?hp=&pagewanted=print
(前掲)、及び
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/12/27/AR2007122702001_pf.html
(12月28日アクセス)による。)

 この間、ブット一家に次々に怪事件が起こります。
 まず、ブットの若い方の弟シャーナワズ(Shahnawaz)が1985年にブット家のフランス・カンヌのマンションで毒死します。
 フランスの捜査当局は、ブット父の巨額の遺産相続をめぐる家族内の争いが背景にあるとふんだのですが、結局立件には至りませんでした。
 ブットの上の方の弟ムルタザ(Murtaza)はシャーナワズとともにハク将軍を打倒するテログループを組織した人物です。1980年代にはシリアに亡命しており、パキスタンには1994年に戻るのですが、帰国するやPPPの終身総裁に自らを任じていたブットとの間でPPPの指導権争いを演じ(注3)、かつまたブット父の首相時代にスイスの銀行に貯め込んだカネをめぐってもブットと一悶着を起こしたところ、1998年に彼のカラチのブット家の前で警官隊との対峙の末銃撃され死亡します。

 (注3)ブットのイラン出身の母親ニスラット(Nisrat)は、ムルタザの側に立ち、娘ブットの政府は情け容赦がないとし、独裁者の時代よりもひどいと公言した(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/12/27/AR2007122702001_pf.html
(前掲)。

 ムルタザがシリア時代に結婚したレバノン出身の彼の妻ギンバ(Ghinva)と娘ファティマ(Fatima)はザルダリが暗殺の黒幕であると非難し、これをニスラットが支持し、「自分の乳房で<ブットという>毒蛇を育てたとは知る由もなかった」と嘆く、という騒ぎになります。
 (以上、特に断っていないかぎり
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-wilentz28dec28,0,7386357,print.story?coll=la-home-commentary
(12月28日アクセス)、
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,2233334,00.html。12月30日アクセス
(前掲)、及び
http://www.nytimes.com/2007/12/28/world/asia/28bhutto.html?hp=&pagewanted=prin
(前掲)による。)

(続く)
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<太田>

 太田コラムの現状について ご報告申し上げます。
 2008年1月1日の朝の時点で、有料読者は208名、名誉有料読者が7名、まぐまぐ(無料)読者が2531名、計2746名です。
 他方、カンパについては、58名の方から計42万円が寄せられています。
 なお、カンパをいただいていて会費未納入の有料読者8名については、カンパ計4万円分を会費に繰り入れ、継続購読扱いにさせていただきました。
 上記カンパはこの分を差し引いた数字です。

 改めて皆様のご支援、ご愛読に感謝申し上げます。
 会費を支払ったのに有料コラムが配信されなくなった方はご連絡下さい。
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太田述正コラム#2276(2008.1.2)
<ヨーロッパ史序論習作紹介>

→非公開

太田述正コラム#2272(2008.1.1)
<ブット暗殺(その5)>

<バグってハニー>

 おめでとうございます。
 ちょっと気になる記事があったのでリンクだけ貼っときます。
パキスタン、瀬戸際に ひび割れた国はどう揺れる――フィナンシャル・タイムズ
2007年12月29日(土)20:36
http://news.goo.ne.jp/article/ft/world/ft-20071227-01.html

「自爆テロ犯の脅しに屈するために生きてきたのではない」ブット元首相寄稿――フィナンシャル・タイムズ
2007年12月29日(土)21:35
http://news.goo.ne.jp/article/ft/world/ft-20071226-01.html

Apres Bhutto: Part 3
by Anatol Lieven
12.28.2007
http://www.nationalinterest.org/Article.aspx?id=16562

 このリーベンというのはFTの元記者だそうです。楽観的な太田先生と違って、記事はいずれも悲観的です。選挙を控えている国で最大野党の党首が暗殺されるというのはどう考えても悪いニュースに聞こえますが。
 それでは、本年がみなさまにとって明るい一年となりますように。

<太田>

 ブットの書いたものは読む気がしません(本日以降のコラム本文をお読みになればその理由をお分かりいただけます)が、ジョー・ジョンソンとアナトール・リーベンのそれぞれのコラムは読ませていただきました。
 私は、「この暗殺は必然であったし、その結果はパキスタンにとって必ずしもマイナスではない、と私は見ています。」(コラム#2262)とこのシリーズの最初に申し上げたところですが、これを楽観論と受け止められるとちょっと違うのであって、上記の二人の言っていることと私の考えは基本的に同じです。

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 次に、「暗殺・・の結果はパキスタンにとって必ずしもマイナスではない」(コラム#2262)と私が見ている理由をご説明しましょう。

 最初に、首相時代のブットの実績です。
 ブットは1988年に首相になります。
 イスラム世界で最初に選挙で選ばれた一国の最高指導者です(注1)。

 (注1)首相になる直前の1986年のインタビューで、「あなたがハク(Zia-ul-Haq)将軍の後釜になれば、イスラム世界で最初の女性たる一国の最高指導者ということになりますね」と聞かれたブットは、「その通りです」と答えた後、13世紀にラジヤ(Raziyya)女王がデリー・スルタン国(Delhi sultanate)を統治したことがあるわね」と訂正した。ちなみに、女王とほとんど同時代人の歴史家は、「この女王は王にふさわしい賢明・公平・寛大といったあらゆる資質を兼ね備えていたが、男達にしてみれば、女性である以上、これらの徳は何の意味もないものと考えられた。結局彼女は男達によって殺害された」と記している。(
http://www.guardian.co.uk/pakistan/Story/0,,2233104,00.html
12月29日アクセス)

 しかしブットは、90年には腐敗していて無能であるとして軍部(の意向を受けた大統領)によって馘首されます。
 1993年にブットは再び首相になりますが、同じ理由で1996年に馘首されるのです。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.nytimes.com/2007/12/28/world/asia/28bhutto.html?hp=&pagewanted=print
(12月28日アクセス)による。)
 
 しかも任期中に、彼女はタリバンの生誕と勢力拡大を支援するパキスタン軍の諜報機関の謀略を積極的に支持したとされたと噂されています。彼女は、タリバンにアフガニスタンで権力を掌握させることによって、インドとのインド亜大陸の覇権をめぐる抗争を有利に進めようとしたのではないかというのです。(
http://www.guardian.co.uk/pakistan/Story/0,,2232714,00.html
(12月28日アクセス)、及び
http://www.slate.com/id/2181079/
(1月1日アクセス))

 ところが、彼女はそんなことを軍部がやっていたことは知らされていなかったし、軍部は核兵器の開発状況についても全く教えてくれなかった、そもそもパキスタン軍部が核兵器を開発中であることを1989年に米CIAのブリーフィングで初めて知ったくらいだなどとシラを切り通したのです(注2)(NYタイムス上掲)。

 (注2)2005年のインタビューでブットは首相であった当時、カーン(A. Q. Khan)博士が核技術をリビアや北朝鮮等に売却していることを知らなかったと言っているが、カーンの仲間の証言によれば、ブットは北朝鮮を1990年代に訪問した際、将来パキスタン製の核弾頭を搭載するために北朝鮮のミサイルの設計図を持ち帰っている。

 ある米国の歴史学者は、彼女を「南アジア史上最も無能な指導者の一人」であると酷評しています(ガーディアン上掲)し、イギリスの歴史学者のダリンプル(コラム#1769)は、ブット時代のパキスタン政府に対し、アムネスティー・インターナショナルは、政府に捕らわれた者に係る不審死・殺害・拷問の多さで世界最悪の三本指に入ると非難し、透明性インターナショナル(Transparency Internation)は当時世界で最も腐敗していた三つの国のうちの一つと形容したと指摘しています(
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,2233334,00.html
。12月30日アクセス)。
 
 かくも腐敗した無能な統治を行ったブットであったわけですが、一体彼女はどのような人物だったのでしょうか。

(続く)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
太田述正コラム#2273(2008.1.1)
<社会新報新年号について>

→非公開

太田述正コラム#2270(2007.12.31)
<ブット暗殺(その4)>

<鎌倉人>

 Mawdoudi(マウドゥーディー)については、大阪外語大の山根先生が詳しいらしいです。
 先生は、ウルドゥー語の専門家でパキスタンに詳しく、論文も書かれています。
 マウドゥーディーについてネットで調べると、1940年代から活躍したイスラムの思想家で、著作が140冊もあり、パキスタンへ留学した学生が、マウドゥーディーの著書を買って母国へ帰るらしいです。
 パキスタンの生みの親のような存在らしいです。
 (パキスタンが生んだ思想家ではなく、パキスタンを生んだ思想家)
 西側で知られていないのは、パキスタンの独立に際しては政治的には表舞台に立たなかったからではないでしょうか?
 思想的にはイスラム原理主義を貫いているようで、その思想がパキスタンをインドと分離する背景にあるようです。

<遠江人>

 Mawdoudiが何語かは分かりませんが、英語では"Maududi"ですね。
Abul Ala Maududi - Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Sayyid_Abul_Ala_Maududi

 Maududiについては、太田述正コラム#389(2004.6.23)で既に触れられていますね。

 「 イ Jamaat-e-Islami の創設者であるパキスタンのマウドゥディ(Sayyid Abul A'la Maududi。1903〜1979年。http://www.jamaat.org/overview/founder.html(6月23日アクセス))も、同世代人であるエジプトのアルバンナ(コラム#387)と同趣旨の主張を行ったが、彼もアルカーイダやアフガニスタンにおけるタリバンの形成に大きな影響を与えている。」

<太田>

 どうもありがとうございます。
 そんな名前の人物を以前紹介したことがあると自分のコラムに検索をかけて「発見」できなかったのに、「発見」していただいてありがとうございました。
 また、グーグルでMawdoudiで検索をかけた時、フランス語サイトばかりが出てきたのを見て、ひょっとして名前の綴り方が2種類あるのではないかと疑問を持ちつつ、その疑問にこの掲示板で言及するのを忘れていました。
 それにしてもkoyukiさん、「イスラム世界の三大思想家の一人」には興味があります。少なくとも後の二人を教えていただけませんか。

<koyuki>

 あとの二人はエジプトのSayyid Qotb、イランのKhomeiniだとジルは、Jihadの中で言っています。
あなたは子供のときにカイロにいらしたそうですが、そのときに Freres musulmans(日本語でなんと訳しているのか知りません。「ムスリムの兄弟たち」という意味です)の噂なりともお聞きになったことはないのですか。とても不思議です。
 Mawdoudiは西側で知られていますよ。マイケル・ジャクソンほどじゃありませんけどね。太田さんが正しく翻訳しなかったのに、その翻訳を鵜呑みにするのはお止めなさい。太田さん、だから翻訳というのは怖いんですよ。

<太田>

>あなたは子供のときにカイロにいらしたそうですが、そのときに Freres musulmans(日本語でなんと訳しているのか知りません。「ムスリムの兄弟たち」という意味です)の噂なりともお聞きになったことはないのですか。とても不思議です。

 聞いたどころではありません。
 いずれにせよ、ここにも、英語・フランス語表記の問題と日本語表記の問題があります。
 英語表記でMuslim Brotherhood・・フランス語表記では Freres musulmansなのでしょうね。ただし、Freresにaccentをつけなければならないところ、日本語や英語環境ではつけられないのはお気の毒です・・を私は、イスラム同朋会(コラム#1087)、モスレム同朋会(コラム#1406、1411)、ムスリム同胞団(コラム#97、387、388)と三通りに日本語表記してしまっています。

 ついでに申し上げると、Sayyid Qotbは、英語表記でもフランス語表記でも、一番よく用いられている表記はSayyid Qutbではありませんか。私は、サイード・クトゥブと日本語表記しています(コラム#387、388、389)。

>Mawdoudiは西側で知られていますよ。

 MawdoudiとMaududiが同一人物だと気付かなかったことは失礼しましたが、いずれにせよ、グーグルで、Mawdoudi(フランス語表記)の検索結果は約 1,260 件しかなく、他方、Mawdudi(英語表記1)の検索結果が約 55,700 件、Maududi(英語表記2)の検索結果 約 111,000 件あります。
 かく申す私太田述正でさえ、太田述正(日本語表記)の検索結果が約58.800件、Nobumasa Ohta(アルファベット表記)の検索結果が約 2,160 件も本日現在あるのですから、Mawdoudiなんて全く知られていないと言って良いでしょうし、Mawdudi、MaududiにMawdoudiを加えたって私の日本語表記の検索結果の3倍にも達しないのだから、日本の人口の7〜8倍、英語圏やフランス語圏等を含めれば10数倍にもなろうかという「西側」世界では吹けば飛ぶような存在でしょう。(もちろんスペイン語、ドイツ語、イタリア語等の表記もあるのかもしれませんがね・・。)
 
><awdoudiの>後の二人はエジプトのSayyid Qotb、イランのKhomeini

 いやーうっかりしていました。
 あなたはMawdoudiは「イスラミスム三大思想家の一人」とおっしゃっていたのですよね。
 これを私が「イスラム世界の三大思想家の一人」と言い換えたのは不適切でした。
 こういう所を突かなきゃkoyukiさんらしくないなあ。
 MawdoudiならぬMaududiがIslamism(イスラミズム)を代表する人物であると言われたら頷かざるをえません。
 もっとも、イスラミズムを代表する人物としては、あなたが列挙した三人のほかにアフガーニ(Jamal al-Din al-Afghani)を加えるのが通例(
http://en.wikipedia.org/wiki/Islamism
)のようですが・・。

>太田さんが正しく翻訳しなかった

 私は、

Pourtant, des les annees 30, un theoricien apparaet dans l’Inde alors britannique. Il s’appelle Mawdoudi, ecrit en ourdou ou en anglais et est peu connu en Occident, mais son influence sera considerable sur les musulmans du sous-continent indien (n’oublions pas que l’Inde est, a partir du 16e siecle, le pays musulman le plus peuple du monde !).
http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p20010920/dossier/a48856-les_khmers_rouges_de_l%E2%80%99islam.html
(accentは省略した。)

のMawdoudi'est peu connu en Occident'のくだりを、Mawdoudiが「西側世界では知られていない」と受け止めたのですが、間違っていますかねえ。
 全く使っていないので私のフランス語がさびついている可能性はありますが・・。

(続く)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<新規名誉有料読者>

 お返事(コラム#2267)ありがとうございます。つたないですが、あと少し。

>市場経済を否定するバクーニン流アナキズムでは、社会構成員の勤労意欲を維
>持することが困難です。

 これはある程度はその通りだと思います。しかし、これもユートピア思想以外の何物でもないのでしょうが、そもそも、社会構成員の旺盛な勤労意欲というのは本当に必要なのだろうか?と私は考えています。
 ただし、バクーニンのいわゆる集産主義はほとんど疑いなくそこにヒエラルキー、ひいては権力が生まれてしまうはずだ、という理由から私もあまり賛成しません。
 あまり深いところまで理解できているわけではないのですが、経済的な方針という意味では、プルードンのほうが理解できます。さらにいえば、私が今一番共感しているのは、シルビオ ゲゼルの「自然的経済秩序」です。
http://www3.plala.or.jp/mig/gesell/nwo-jp.html
 最近ぼちぼち聞かれるようになってきた地域通貨というのは、シルビオ ゲゼルの論を下敷きにしているようです。

>将来世界政府ができれば、国際的社会秩序を維持する必要はなくなるものの、
>国内的社会秩序を維持する必要は残るので、将来ともプルードン流アナキズムの
>実現可能性はないでしょう。

 確かに国際的社会秩序を考慮する必要がなくなるのはこのときまでないのかもしれません。国内的社会秩序にとってやっかいなのは、いわゆるテロのようなものの実行力が、残酷なまでに大きくなってしまったことでしょうか。江戸時代とは違い、例えばオウムはその気になればもっとずっと大勢の人間の命を奪ってしまうこともできたでしょう。私はそれ以外であれば社会に内包できると感じています。笠井潔は「国家民営化論」にて、警察を全廃すべきであると論じています。
 これがこのまま答えだとは私も思わないのですが、無権力(/無国家)は無秩序である、というのはちょっと理解できません。

 (笠井潔はタイトル通り、国防も国家がやらなくていいといっていますが、これはいくら何でも危ういという気がします。その理由は相手が大きすぎる、という一点のみです)
> 私は、「近代」という言葉を産業「革命」以後の社会という程度の意味で使っ
>ていますが、近代の枠をとっぱらって考えてみると、縄文時代、平安時代、昭和
>時代と並んで江戸時代は私の言う縄文モードの時代であり、これらはすべてあな
>たのおっしゃるような意味でアナーキーな時代だったのではないでしょうか。
> (日本型政治経済体制は、産業革命後の社会を江戸時代を念頭に置いて再編成
>したもの、という捉え方もできると思います。)
> これらの時代を貫くキーワードは、「平和と小さな権力」であると私は思って
>いるのですがいかがでしょうか。
> (それ以外の時代は、弥生モードの時代であり、これらの時代を貫くキーワー
>ドは、「戦乱と大きな権力」であると私は思っているわけです。)

 こんな視点を持ったことは一度もありませんでした。昭和時代に関していうと、正直違和感がありますが、私が昭和時代に対して持っているイメージは、たかだか数十年前だから江戸時代よりは現在に近いだろう、という感じです。
 (一定方向に連続している、という観点では進歩史観に近い見方ですが。。)
 昭和がどのような時代だったのか、もう少し勉強したいと思います。

<太田>

>社会構成員の旺盛な勤労意欲というのは本当に必要なのだろうか?

 ロボットが発達してあらゆる「勤労」を人間に代わってやってくれるような時代が来れば、社会の構成員の大部分に関しては必要なくなるでしょうが、そのような時代が来たとすると、依然として「旺盛な勤労意欲」を持ち続ける一部の人達が残りの大部分の人達を支配する社会に堕してしまう懼れがありますし、さりとて「社会の構成員すべてが「旺盛な勤労意欲」をなくしてしまったらその社会は滅びてしまうと思いますよ。

>私が今一番共感しているのは、シルビオ ゲゼルの「自然的経済秩序」です。

 時間ができた時に、じっくり読ませてもらいます。

>私が昭和時代に対して持っているイメージは、たかだか数十年前だから江戸時代よりは現在に近いだろう、という感じです。

 昭和時代と言っても、私は最初の20年ではなく、戦後の44年を念頭に置いています。念のため。
 江戸時代は、ある種超モダンな時代だと思いますよ。
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太田述正コラム#2271(2007.12.31)
<映画二本:ベオウルフとリンカーン(その2)>

→非公開

太田述正コラム#2268(2007.12.30)
<ブット暗殺(その3)>

<鎌倉人>

http://www.jaas.or.jp/pdf/49-1/5-18.pdf
 これの参考文献リストを見ると、マウドゥーディーに関する論文もありました。

<太田>

 ご教示、ありがとうございます。
 しかし、Maudowdiについては、ちょっと触れているだけですね。

<koyuki>

 こまりますねえ、太田さん。(コラム#2265で)ご提示くださったNouvel Opsは、フランス語の普通の書き方で現在形で書いているのですよ。まずフランス語をきちんと読めるようにしてください。
 Maudowdiがイスラミスム三大思想家だといっているのはGilles KEPELです。世界的に有名な中東(イスラム)政治・社会学者です。まさか太田さんほど博識なかたがご存じないはずはありますまい。
 あなたのアングロサクソン崇拝は噴飯ものですが、現在少々忙しくて、それにきちんと対応している時間がありません。来年の春以降になれば、あるいはその気になるかもしれません。

<太田>

 思わせぶりな物言いがお好きな方ですなあ。

>Mawdoudiについては、西側世界ではほとんど知られていない・・・
とりわけ、アングロサクソン世界では全く知られていない、無視されているということですね。

という私のとりあえずの判断が間違っているならきちんと理由をあげて説明していただきたいものです。

 そもそも、MawdoudiもGilles KEPELも私は知りませんが、お気に障りますか?

>アングロサクソン崇拝

 私のはアングロサクソン崇拝というより、アングロサクソン・西欧対置論ですが、ついに本格的な批判者が現れたかと心躍ります。
 できるだけ早くご高説をうけたまわりたいものです。
 その際は、思わせぶりな物言いは止めてすぐ本論に入ってくださいね。

<ホッシュジエンの国内ニュース>

 パキスタンでは、暗殺されたブット元首相の支持者らが激しいデモを行うなど、29日も混乱が続いている。
 パキスタン最大の都市・カラチでは29日、政府への抗議デモが行われているほか、暴徒化した一部の群衆が車両を焼き打ちにするなど、混乱が広がっている。
 一方、パキスタン政府が「暗殺に関与した」としたイスラム武装勢力のベイトラ・メスード司令官は29日、声明を発表し、「我々は女性を攻撃しない」と、事件への関与を強く否定した。
 パキスタン政府は親米だから対立政党の代表をアルカイダが暗殺する理由はないだろう。
 ブットの父も親米でしたが米はムシャラフを支持。
 アルカイダがブットを暗殺する理由はないですね。(・A・ )

07.12.30 日テレ「メスード氏、ブット氏暗殺への関与を否定」
http://www.ntv.co.jp/news/100315.html

<太田>

>ブットの父も親米でした

 違います。(米国も含め)反西側的言辞を弄し続けた人物です(
http://www.nytimes.com/2007/12/30/weekinreview/30bumiller.html?hp=&pagewanted=print
。12月30日アクセス)。
 ちなみに、ブット女史の後首相になり、国外退去処分を経てブット女史の後パキスタンに戻ったシャリフ(Nawaz Sharif。1949年〜 。パキスタン・ムスリム連盟=Pakistani Muslim League党首)も同様です(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/12/29/AR2007122901490_pf.html
。12月30日アクセス)。

>アルカイダがブットを暗殺する理由はないですね

 これも違います。
 ブット女史は(ブット父やシャリフとは違って)根っからの親米派であり、極めて欧米化した人物である上、民主化を追求するとともに世俗主義を掲げている人物でもあり、しかもその人物が女性ときているのですから、それだけでもイスラム原理主義者やそのシンパが目の敵にするのは当然です(
http://www.guardian.co.uk/pakistan/Story/0,,2233038,00.html
。12月29日アクセス)。
 しかも、ブット女史は、パキスタン中で最も激しくイスラム原理主義勢力批判を行っており、彼女が首相になって実権を掌握すれば、米国の意向を受けてこれまでより積極的な対イスラム原理主義勢力軍事作戦を展開すると目されていたのですからなおさらです(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/12/29/AR2007122901185.html
。12月30日アクセス)。
 だからといって、イスラム原理主義勢力が今回のブット暗殺の下手人であると断定できるわけではありません。
 ブットが1990年代に核関連物資を「輸出」したカーン博士に対する欧米の諜報機関による尋問を認めるべきであると主張しているところ、そうなれば自分達の「悪事」が暴かれてしまうことを懼れる軍部関係者が暗殺の黒幕である可能性だってあるからです(
http://observer.guardian.co.uk/focus/story/0,,2233290,00.html
。12月30日アクセス)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(続く)
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太田述正コラム#2269(2007.12.30)
<映画二本:ベオウルフとリンカーン>

→非公開

太田述正コラム#2265(2007.12.29)
<ブット暗殺(その2)>

<koyuki>

 パキスタンは、イスラミスム三大思想家の一人Mawdoudiを生んだ国です。アフガニスタンのタリバンも、彼の思想から生まれたのです。
 太田さん、無職でお暇なんでしょうから、もう少しお勉強してください。

<太田> 

 グーグルでMawdoudiを検索かけてみたら、最初の2頁はフランス語のサイトばかり出てきました。
http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p20010920/dossier/a48856-les_khmers_rouges_de_l%E2%80%99islam.html
に、「タリバンも、彼の思想から生まれた」的な記述が出てきましたが、Mawdoudiについては、西側世界ではほとんど知られていない、とも記述されています。
 とりわけ、アングロサクソン世界では全く知られていない、無視されているということですね。
 それにしても、「イスラミスム三大思想家の一人」の典拠をお示しいただきたいものです。
 英独仏以外の言語の典拠であれば、恐縮ですが、ズバリの部分を訳してお示しいただけるとありがたいですね。

 無学の太田より。

<遠江人>

http://www.asahi.com/international/update/1228/TKY200712270418.html
 上記サイトの記事ですが、パキスタンの今年7月からの流れが簡潔に書かれていて、とりあえずおおまかな状況が把握できると思うので、よかったらどうぞ。

http://www.gettyimages.com/Search/Search.aspx?EventId=78622741#
 2chの某スレからの転載ですが、上記の画像サイト(?)で事件直後の現場や民衆の様子を写した画像を見ることができます。(衝撃的な画像も含まれます)

<鎌倉人>

 パキスタンの内政が不安定になると、テロ組織制圧のために、英米が軍事介入せざるをえない事態になるのではないでしょうか?
 その時、海上自衛隊は、パキスタン海軍への給油だけではなく、第一次世界大戦の際に、地中海へ派遣された駆逐艦隊のようになるのではないでしょうか?

<ホッシュジエンの国内ニュース>

 パキスタンのブット元首相が暗殺された事件で、パキスタン政府は28日、暗殺には「国際テロ組織アルカイダ」が関与した証拠があると発表した上で、暗殺直前の映像を公開しました。
 いつものようにアルカイダ登場だ。暗殺の瞬間映像もちゃんと用意されている。
 どうやらブット元首相暗殺で一番得をするのはアメリカのようですね。(・A・ )

07.12.29 TBS「ブット元首相暗殺、アルカイダ関与か」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 最初にブット元首相の暗殺は必然だったということについてです。
 
 ニューヨークタイムスの元ニューデリー支局長(現国際経済担当記者)のワイズマン(Steven R. Weisman)は、ブットは大混乱を惹き起こすことで政権奪取を図ったと推測しています。
 ブットが帰国したのは、支持者達を立ち上がらせ、大混乱を引き起こし、暴力沙汰を頻発させ、その挙げ句軍部を介入させ、ムシャラフ大統領を軍部に打倒させて、軍部が自分を恐らくは軍人の将軍とともに政権の座につけてくれることを狙ったからだというのです。
 もちろん彼女は来るべき総選挙で勝利したいと思ってはいただろうが、たとえ選挙に勝利したとて、ムシャラフは自分に実権を引き渡さないだろうと思っていたに違いないというのです。
 このワイズマンの推測には根拠があります。
 ブットは前に一度同じことをやって成功したことがあるからです。
 牢獄から出て2年間海外で過ごした後、1986年にブットは帰国し、ラホールでパキスタン史上恐らく最大規模の大群衆を集めて大混乱を惹起することに成功し、当時のハク(Mohammed Zia ul-Haq。1924〜88年)大統領と軍部との間に楔を打ち込むことに成功しました。(ハクはその2年後の1988年、謎の飛行機事故で死亡します。)
 この時、ワイズマンはパーティーの席上でのブットととの立ち話で、ブットから、1977年の総選挙で彼女の父親のブット(Zulfiqar Ali Bhutto。1928〜79年。大統領を経て首相)首相率いるパキスタン人民党(Pakistan People's Party =PPP)は大勝利を収めたけれど、反PPP政治勢力が総決起して大混乱を引き起こしたためハク将軍率いる軍部のクーデターを招き、父ブットは失脚しその2年後には絞首刑に処せられた、という経験を踏まえて、危険だけれど今度は自分が群衆を扇動して同じことをやろうとした、そうしなければ権力奪取は絶対にできない、という打ち明け話を引き出しているのです。
 (以上、
http://thelede.blogs.nytimes.com/2007/12/27/benazir-bhutto-and-the-politics-of-chaos/
(12月28日アクセス)による。)

 ブットの期待(!)通り、彼女がパキスタンに帰国した直後の10月19日に彼女を狙った爆弾テロ事件が起こり、パキスタン史上最も多数の138人もの死者が出ました。 
 この前後から、ブットに迫る危険を察知した米ブッシュ政権はブットに対して危険情報を継続的に提供するようになっていました。
 その1週間後の10月26日、ブットは、自分の身に何かあったらそれはムシャラフの責任だと記したメールを米国在留のブットのスポークスマンに送り、自分が死んだら公開してほしいという希望を添えて米マスコミに転送させています。
 更に12月に入ってから、アルカーイダのナンバー2であるザワヒリ(Ayman al-Zawahri)がビデオで、ブットの帰国を非難するとともに来月8日に予定されている総選挙のすべての候補者への攻撃を呼びかけました。
 にもかかわらず、12月27日、演説が終わった後、ブットが群衆に囲まれた中で、防弾ガラス付きの自動車のルーフトップから身を乗り出すという無謀なことをやったのです。

 (以上、
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-security29dec29,0,1081227,print.story
http://www.guardian.co.uk/pakistan/Story/0,,2233038,00.html
(どちらも12月29日アクセス)による。)

 何発かの銃声と爆発音が響いたのはその瞬間でした。
 結局、ブットの命を張った2度目の賭は大失敗に終わったわけですが、暗殺は起こるべくして起きたのであって、彼女の死は自業自得であると言うべきでしょう。

(続く)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

太田述正コラム#2266(2007.12.29)
<昔の文明論コラム2篇>

→非公開

太田述正コラム#2262(2007.12.28)
<ブット暗殺(その1)>

<鎌倉人>

パキスタンの元首相、ブット氏が暗殺されました。パキスタンの政情は日本で殆ど報道されていないのですが、かなり危うい情勢なのでしょうか?
 海上自衛隊派遣にも影響があるでしょうか?

<遠江人>

時事ドットコム:ブット元首相、暗殺される=集会で自爆テロ−総選挙控え治安悪化・パキスタン
http://www.jiji.com/jc/c?g=int&k=2007122700955
「ラワルピンディでは同日、シャリフ元首相率いる野党の集会でも発砲があり、4人が殺害された。総選挙を前に治安が急速に悪化している。」

 風雲急を告げるパキスタン情勢です。新著の準備等でお忙しい中と思いますが、可能であれば久しぶりに太田さんの国際情勢分析を拝見できればと思います。

<鎌倉人>

パキスタンの元首相、ブット氏が暗殺されました。パキスタンの政情は日本で殆ど報道されていないのですが、かなり危うい情勢なのでしょうか?
 海上自衛隊派遣にも影響があるでしょうか?

<一読者A>

内戦になったらどうなるんでしょうか?
 やっぱり核兵器の奪い合いや下手すると相手陣営に対してその支持者もろとも使ったりするんでしょうかね?

<なりけん>

 初めてのトピ立て失礼します。
 衝撃的なニュースが流れてきました。
ブットー元首相暗殺
http://uk.news.yahoo.com/rtrs/20071227/tpl-uk-pakistan-wrap-47c7853_1.html
http://edition.cnn.com/CNN/Programs/anderson.cooper.360/blog/2007/12/bhutto-assassination-could-hurt-us-in.html

 イスラム最大の国・米軍協力・反米感情・政情不安・宗教内対立・宗教間対立・核武装・タリバンとの関係・コモンウェルス・軍政・米国による民主化・・・。
 パキスタンの政情不安はもはや誰にも止められない臨界点を越えてしまったような気がします。
 アメリカの自称テロとの戦いでの最重要国であることは間違いありませんが、パキスタン人の反米感情はもう抑えがきかない段階に達していると思います。
 太田さんはムシャラフを高く評価しているようですが、このまま総選挙に突入すればムシャラフの大敗北は必至だと思います。
 さて、これからどうなってしまうのでしょう。
 あともう一つ、日本にいるとパキスタンの情勢は全くと言っていいほど入ってきません。
 テロとの戦いが国益の最重要課題だと公言する政府がいるにも関わらず、それに関わる情報はほとんど一切国民に伝わりません。
 給油が何リットル、そんな話しか国民には入ってこない、英語の読めない大多数の日本人は情報弱者と言ってもいいかもしれません。
 日本のメディアは世界の関心事などどうでもいいのか?と首を傾げたくなります。
 政治もメディアも国際貢献を繰り返す割に、国際社会の情報や価値観の共有を図ろうとしない。
 このちぐはぐさは一体何が原因なんでしょうか?

<Yoshu>

日本の政府の言う、国際貢献は国益になることにしか関係しないのだと思う。そして、大半の私も含めて国民やマスコミは自分達もしくは日本の周りの国際情勢に関係することにしか、頭が動かないのだろう。島国と言うのも関係あると思う。パキスタン情勢は、もっと詳細を知りたい。ただ、暴力では何も解決にはいたらないし、混乱が酷くなるだけ。それで、過激派達に何の得になるのだろうか。

<ブーン>

情報が入ると困るからでしょ。
湾岸戦争あたりから、自分で調べてみるのがおすすめ。
宗教が違うから、考え方も違う。
彼らにとって命よりも大切なものがあるってことでしょ。
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1 始めに

 1988年に英国防省の大学校の斑に分かれての研修旅行でインド亜大陸を訪れてからというもの、私はパキスタンがいつ空中分解するか、はらはらしながら見守ってきました。
 戦後1947年に、英領インド帝国がインドとパキスタンに分かれて独立したわけですが、どう考えてもイスラム国家を標榜するパキスタンには宗派を超越した世俗民主国家理念を掲げるインドに比べて正統性が薄弱だからです。
 パキスタンの分離独立を推進したジンナー(Muhammad Ali Jinnah。1876〜1948年) のカラチに1960年にできた巨大な廟(Mazar-e-Quaid) に相当するものはインドにはありません。
 正統性の欠如を補おうとして、インドのネルー(ネール。Jawaharlal Nehru。1889〜1964年)に比べてはるかに矮小なジンナーを無理矢理神格化している、と私には思えてなりませんでした。
 だからこそ、インドは一体性を維持できているというのにパキスタンは1971年に内戦を経てパキスタン本体とバングラデシュに分離し、今なお北西部の部族地域(Federally Administered Tribal Areas)や西南部のバロチスタン(Balochistan)州で活発な分離主義的な動きが見られます。
 そのパキスタンの一体性をかろうじて維持してきたのが、軍部であり、その軍部が煽り立ててきたインドとの敵対関係です。
 こうしてパキスタンはインドに対抗して1898年に核武装までするに至って現在に至っています。
 しかし、東西冷戦が終わると、東側陣営と結びついたインドと西側陣営と結びついたパキスタンの敵対関係も、否応なしに緊張緩和に向かいます。
 その一方で、イスラム原理主義という脅威にパキスタンは国の内外から晒されるようになります。
 このような状況下でパキスタンの一体性を維持をどう図るか。
 ここに、1999年から8年間続いてきたムシャラフ(Pervez Musharraf。1943年〜)軍事「独裁」政権の存立根拠があるわけです。

2 ブット暗殺の必然性と意義

 (1)結論

 以上は前置きですが、それでは、12月27日のブット(Benazir Bhutto。1953〜2007年) 元首相の暗殺をどう見るべきなのでしょうか。
 最初に結論を申し上げれば、この暗殺は必然であったし、その結果はパキスタンにとって必ずしもマイナスではない、と私は見ています。

 (2)その理由

(続く)
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太田述正コラム#2263(2007.12.28)
<KBS京都ラジオへの出演決まる>

→非公開

太田述正コラム#2194(2007.11.24)
<額賀さん大好き(続x3)(その1)>(2007.12.28公開)

 (本篇は、言及・引用・転載を厳禁します。)

1 始めに

 前回の補足をしておきましょう。

2 誰が一番悪いか

 リストに載っている人々の中で誰が一番悪いのでしょうか。
 施設部案件の中で登場する政治家の中で4名もが事実の一部を認めていることからすれば、建設部案件(建築・土木事業)に比べて施設部案件(土地買い上げ)に関与した人々は後ろめたさが当時希薄であったことが推測できます。
 それは当然であり、談合構造が、世論の反談合意識の高まりや公共事業費の圧縮に伴い、急速に崩れつつあった中で、建築・土木事業について口利きをすることに当時政治家が強い後ろめたさを感じていたであろうことは容易に想像がつくからです。
 だからこそ、施設部案件とは異なり、建設部案件に関与した政治家は、防衛庁(当時)と強い関係のある人だけなのです。
 リストをご覧いただくとお分かりになると思いますが、建設部案件で口利きがあると、防衛施設庁(当時)は、業者が資格要件を欠いているというケース以外は、自動的に指名していることがうかがえます。
 (落札、つまり受注まで施設庁が面倒を見ていないこともうかがえます。それもそのはずであり、施設庁が、業者が受注するところまで(官製談合によって)面倒を見るのは天下りを受け容れている業者に対してだけであり、政治家が口利きをしてやる業者には通常中小業者が多く、天下りを受け入れておらず、施設庁にとって、OBを天下りなどさせたくない業者であることから、このような業者に受注までさせてやるメリットなど皆無だからです。ちなみに、官製談合が行われていたことは、当時、私は全く知りませんでした。)
 口利きに対して施設庁が自動的に指名することで応えているという事実について、在任中に防衛庁キャリアからそのことを教えられたと思われる額賀・加藤・玉澤の各元防衛庁長官か、自衛官歴がある有力政治家なるがゆえに防衛庁キャリア等防衛庁関係者からそのことを教えられたと思われる中谷衆議院議員や村井宮城県議会議員、くらいしか建設部案件で口利きをした政治家がいないのはそのためでしょう。

 だからといって、施設部案件に関与した政治家が完全に清廉潔白だ、ということにはなりません。
 政治家が政治資金等を提供してくれる特定の個人のために口利きをすることは、役所に対し、当該個人のための特別扱いを求めるためのものであることが少なくないからです。
 現に、施設部案件に関する取材を試みた記者の中で、暴力団風の人間に岸壁に呼び出され、生命の危険を感じたということを私に話してくれた人がいます。

 いずれにせよ、現時点に立って振り返ってみれば、一番糾弾されるべきは、防衛省キャリアたる相澤・大越・上野・依田の4人でしょう。(依田氏は、警察庁キャリアだが、防衛庁で事務次官まで勤め上げたので、防衛省キャリアにカウントしてもおかしくないでしょう。)
 その中でも、口利き当時に現役の防衛庁官僚であった大越氏と、自民党参議院議員として防衛庁の総括政務次官であった依田氏のお二人の責任が最も重い、と言うべきでしょう。
 彼らこそ、職務権限もあると言えそうであり、仮に時効にかかっていなければ、何らかの形で立件されたって不思議ではない人物達であるからです。
 その上、この2人を含む4人のような人々こそ、額賀・加藤・玉澤、更には中谷・村井各氏らに、建設部案件の口利きのうまみを吹き込んだ人々だからです。
 
3 丹呉技術審議官と酒井仙台局建設部長

 当時の防衛施設庁本庁の丹呉技術審議官(現在はOB)と酒井仙台防衛施設局建設部長(現在は仙台防衛施設局長/東北防衛局長)がなぜこれまでしゃべらないのか、また今後しゃべる可能性があるのかを探ってみましょう。

(続く)

太田述正コラム#2192(2007.11.23)
<額賀さん大好き(続々)>(2007.12.27公開)

 (本篇は、言及・引用・転載を厳禁します。)

1 始めに

 額賀さんの宴会同席疑惑に対する民主党の追及が今一つ手ぬるいので、少し援護射撃をしましょう。
 なお、有料会員の中には何人もジャーナリストの方がおられますが、かねてから申し上げているように、社内で非公開コラムを配布することはお控え下さい。その代わり、非公開コラムの内容をそれぞれの方が取材に活用されるのはご自由です。
 いずれにせよ、当然のことながら、私が既に公開コラム等で公開していない個人名を記事の中で用いられる時は、慎重を期していただきたいと存じます。

2 例のリスト

 例のリスト・・ただし伏せ字なしのもの・・は次のとおりです。
 ちなみに、私が既に積極的に名前を公開した方は、額賀、加藤のお二方だけです。

(斡旋利得議員等リスト・・参考)<後略>
額賀福士郎(衆議院議員(自民)。元防衛庁長官。当時内閣官房副長官。99.4.23。00.3.2(官房長経由)):南陽市。土木。指○(10年度まで営業回数0。11年度に53)*
大越康弘(当時防衛研究所長。99.10.05):港区。舗装。契○
相澤(元仙台防衛施設局長。99.11.01):仙台市。建築。指○
村井(宮城県議(自民)。99.11.22):仙台市。土木。指○
上野さん(元調達実施本部長。99.11.22):北区。通信。指○
加藤紘一(衆議院議員(自民)・元防衛庁長官。99.11.26):鶴岡市。管。指○
依田智治(参議院議員(自民)・元防衛事務次官。当時防衛総括政務次官。99.12.7):秋田市。電気。指○。*
玉澤徳一郎(当時衆議院議員(自民)・元防衛庁長官。00.2.23):盛岡市。建築。契○
中谷元(衆議院議員(自民)・防衛大出身00.6.5):山形市。建築。×(営業回数0)

 (注)*は、指摘して追加させたもの。

伊藤公介(衆議院議員(自民)。99.12):三沢飛行場第2種区域における北多摩建設興業(株)所有の土地(宅地等3筆約3000平米)の買収。H13概算要求。
浜田靖一(衆議院議員(自民)。99.11.10)・浜田幸一(当時元衆議院議員(自民)。00.3):三沢飛行場第3種区域における宮古喜三郎所有の土地(農地等3筆約5300平米)の買収。H13概算要求。
大島理森(衆議院議員(自民)。00.3)・田名部匡省(参議院議員(無所属の会)。00.6):三沢飛行場第2種区域における佐藤和幸所有の建物等(共同住宅3棟(11戸)、宅地等5筆約3600平米)の移転。H14以降。

 (注)<前略>施設部から説明を受けたものだが、ここに一緒に掲げた。

 夕刊フジには、私の作成した、4名(大越、相澤、村井、上野各氏)以外は実名を記した資料が渡っていると思われますが、以下のような記事を発見しました。

 「・・リストには、額賀氏のほか、自民党の加藤紘一元幹事長(68)▽中谷元元防衛庁長官(50)▽元防衛事務次官の依田智治元参院議員(75)▽大島理森国 対委員長(61)▽伊藤公介元国土庁長官(66)▽浜田幸一元衆院議員(79)▽浜田靖一衆院議員(52)▽民主党の田名部匡省元農水相(72)▽無所属 の玉沢徳一郎元防衛庁長官(69)ら9人の実名が記載されていた。リストには、元防衛官僚、県議ら計14人が含まれていた。
 額賀氏は20日午前の閣議後会見で、口利き疑惑について「全くそういうことはない。(〇〇組社長とは)面識がある程度で、弁護士を通じて確認したが、本人も『ない』と言っている。(太田氏の告発を報じた朝日新聞は)まったく信頼に足るものではない。憤りを感じるというよりも、新聞はもっと公平に取材を し、裏付けを取って書いていただきたい」と否定した。」(
http://www.zakzak.co.jp/top/2007_11/t2007112033_all.htm
。11月23日アクセス)
 「・・夕刊フジは、リストに列記された国会議員ら=写真右下=を直撃したが、多くは事実関係を否定した。
 発注工事絡みで、太田氏は自民党の加藤紘一元幹事長(68)について「議員は直接タッチしてないと思うが秘書が口利きをやっていたのは常識だ」と言い 切った。その加藤氏は「全く知らない。僕は防衛庁長官を長くやった方だが、守屋氏ともかかわり合いがないし、こういうことは一貫してダメだと言ってきた」 と反論し、秘書の口利きについても否定した。
 加藤氏の秘書経験がある中谷元元防衛庁長官(50)も「指摘されたような事実は一切ない」と事務所を通じて回答。元防衛事務次官の依田智治元参院議員 (75)については、家族が「朝早くからゴルフに出かけており、確認できない。本人は防衛省をめぐる問題とは『関係ない』と話していた」と話した。
 リストによると、無所属の玉沢徳一郎元防衛庁長官(69)が口利きをしたとされる案件は契約までこぎつけているが、玉沢氏は事務所を通じて「建築業者が パーティーなどに出席することぐらいはあったと思うが、建築業者のために口利きをし落札受注させた事実は一切ない」と否定してみせた。
 一方、用地買収に絡み口利きをしたとしてリストに上がっている浜田靖一元防衛庁副長官(52)は、「口利きではない。地元の陳情をうけて、秘書が照会をしただけ。通常の議員活動の一貫だ。時期は覚えていない」と否定した。
 防衛政務次官を経験している父親の浜田幸一元衆院議員(79)について・・も「三沢基地の防音に関して講演した際、観衆のいる前で支援団体から陳情が上がった。その地域だけが、防音措置がなされないといった不利な扱いを受けないように、しっかり調査するよう1回電話しただけだ」と述べ、「口利き」ではないと強調した。
 このほか、民主党の田名部匡省元農水相(72)に関しては・・田名部氏の事務所は「詳細な時期は覚えていないが、地元の後援会関係者から、飛行場の騒音に関する陳情を受け、秘書が防衛庁(当時)の政府委員室に対策の進捗状況を確認したことはある」と説明した。
 一方、大島理森国対委員長(61)の事務所は「担当者が席を外しているので、コメントはできない」とした。
 伊藤公介元国土庁長官(66)は事実関係を否定した。」
http://www.zakzak.co.jp/top/2007_11/t2007112034_all.html

 つまり、施設部関係の4名は事実の一部を認めているけれど、建設部関係ではこれまでのところ全員が全面否定しているわけです。

3 残された4名

 残された4名ですが、上野さんは、防衛省キャリアの1期生、大越さんは防衛省キャリアで昭和42年採用、相澤は防衛省キャリアで私と同期の昭和46年採用で、口利き当時は大越さんは現役、上野、相澤両名はOBでした。
 大越さんと上野さんは、直接私に電話をかけてきて口利きをされました。
 その日記の記述は次のとおりです。

(1999.10.1 金)
1000:大越防衛研究所長から電話あり。会津高校の2年先輩の業者の紹介。

(1999.11.8 月)
・・・
1530:元調達実施本部長の上野隆史氏から電話。金曜に私を訪問する池野氏は、勉強会(江口元装備局長主催)仲間なのでよろしくとのこと。そんな話しか来ないやるせなさよ。
(1999.11.12 金)
・・・
1530:池野通建(株)社長池野正孝(上野さんの紹介。勉強会は大越さんも入っているが、江口さんは会員ではない由)、同社顧問松野博、同社東北支店支店長平沢稔、同支店調査役高山隆夫(元仙台局勤務)各氏の挨拶を受ける。ビール券1ダース分いただく。
 (ついでに、依田さんも、直接私に電話をかけてきて口利きをされたと思っていたのですが、どうやらそれは記憶違いで、日記には、

(1999.12.7 火)
・・・
1310:千代田電気工業(株。秋田)代表取締役小野地謙治、同社工事技術部部長代理安田典男両氏の挨拶を受ける(依田防衛政務次官佐々木氏の紹介)。平成2年の加茂の工事以来手がけていない。光ファイバーや道路融雪装置がウリとのこと。菓子折一箱いただく。(総務課へ)

という記述しかありません。
 別途依田さんから私以外の誰かに口利きがあったのか、それともこの日私が依田さんから口利きを受けたということになっているのか、今となっては判然としません。)

 最後の一名は大物です。
 なぜなら、村井さん(当時宮城県自民党県議会議員)は現在、浅野さんの後の宮城県知事になっているからです。
 
4 終わりに

 今後各社が取材攻勢をかければ、以上の4名やまだ正式に回答をしていない依田さんのうちから、事実の一部くらいは認める人が出てくるのではないか、と私は期待しています。
 村井さんもよく存じ上げていますが、彼がいかなる「決断」をくだすか、注目されます。
 そしてもちろん、守屋もいつかの時点では証言してくれるもの、と私は信じています。 誰でもよろしい。
 建設部関係で、誰かが部分的にでも証言してくれれば、額賀さんも進退窮まります。
 大好きな額賀さん、危うし!

太田述正コラム#1834(2007.6.25)
<ルパート王子>(2007.12.21公開)

1 始めに

 チャールス・スペンサー(Charles Spencer)って覚えておられますか。
 そう、コラム#1786と1790に登場した、ダイアナ妃の弟(43歳)です。
 その彼は、二度の結婚と離婚という点では身持ちの余りよくなかったダイアナと似ていますが、凡庸であったダイアナとは違って、ダイアナに対する名弔辞を書いただけでなく、このところ歴史家としても活躍しています。
 そのスペンサーが最近上梓したばかりの'Prince Rupert: The Last Cavalier’を手がかりに、数奇な生涯を送ったルパート王子(Prince Rupert of the Rhine。1619〜82年)の生涯をご紹介しましょう。
 
2 ルパート王子の生涯

 ルパートは、1619年に30年戦争のさなかにプラハで生まれます。
 父親はパラティン選帝伯(Elector Palatine)(注)、母親はイギリスのジェームス1世の娘です。

 (注)パラティン伯領は、ドイツ南西部のルクセンブルグとライン川に挟まれた下パラティン伯領(the Lower Palatinate)とドイツ東部の東ババリアの上パラティン伯領(the Upper Palatinate)からなる(
http://www.answers.com/topic/palatinate?cat=travel

 父親はその時ボヘミア王になったばかりでしたが、すぐにハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝との戦いに敗れて王位を逐われ、パラティン選帝伯領まで召し上げられてしまい、ルパートはオランダのハーグで両親とともに一種の亡命生活を送ります。
 長男ではなかったルパートは、軍隊で活躍することを選び、プロテスタントとして30年戦争に身を投じ、当時の残虐な戦争のやり方を習得します。
 ルパートは神聖ローマ皇帝軍の捕虜になるのですが、カトリックへの改宗を頑として拒んだために何年も抑留されます。
 1642年、22歳のルパートは彼の伯父のチャールス1世のイギリス議会軍との戦いを支援するためにイギリスに渡ります。
 そして、国王側の近衛騎兵の長に任命され、縦横無尽の活躍をするのです。
 その勇猛さ・残虐さ・掠奪好きから、ルパートは議会側から「キチガイ騎兵(Mad Cavalier)」というあだ名で呼ばれ、彼が戦場に伴った犬まで魔犬として懼れられました。
 しかし、議会側の総帥の20歳年長のクロムウェル(Oliver Cromwell。1599〜1658年)の方がルパートより軍の指揮官としては一枚上手でした。
 やがて国王側の敗北を予感したルパートはチャールスの不興をかい、戦列を離れ、1646年、議会によってイギリスから追放されます。
 その後チャールスとよりを戻したルパートは、国王側の艦隊の指揮官となります。しかし、議会側の艦隊に敗れ、西インド諸島に逃げたルパートは、今度は海賊となり、イギリス商船を執拗に襲い、その後、欧州大陸に戻ります。
 イギリスで1660年に王制復古がなると、ルパートはイギリスに再び渡り、チャールス2世に重用され、公爵となり、1666年からはイギリス艦隊の司令官に任命され、第2次英蘭戦争で大活躍しますが、第3次英蘭戦争では苦戦を強いられます(コラム#1805)。
 彼は、1670年には英領カナダのハドソン湾会社(Hudson's Bay Company)の初代総督に任命されます。ブリティッシュ・コロンビア州のプリンス・ルパートとかケベック州のルパート川は、この時の縁で名付けられたものです。
 ルパートは、ドイツで開発された銅版画技法(mezzotint)をイギリスに導入するとともに、自らこの技法を使った画を残した人物としても知られています。また彼は、古典の造詣が深い知性の人でもありました。
 ルパートは1682年に62歳で亡くなり、ウェストミンスター寺院に埋葬されます。
 (以上、特に断っていない限り
http://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,,2109184,00.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Rupert_of_the_Rhine
以下、断片的に
http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2007/06/10/nspeech210.xml
http://www.itv-thismorning.co.uk/NewsAndFeaturesArticle.aspx?fid=2347&tid=2
http://www.althorp.com/LiteraryFestival/pgeFestivalAuthors.aspx?id=3
(いずれも6月25日アクセス)による。)

3 感想

 スペンサーは、女誑しで大酒飲みで、しかし同時に知性の人でもあったルパート王子に自分を重ね合わせているようです。
 このスペンサーの本は、英王室のために一身を捧げた一人の貴族を採り上げているわけであり、これは英王室の犠牲となった姉ダイアナへのオマージュでもあるのでしょう。
 このような弟を見ていると、ひょっとしてダイアナも単なる凡庸な美人ではなかったのではないかと思えてくるのが不思議です。

太田述正コラム#2233(2007.12.13)
<お年の志方俊之さん>(予定を変更し、2007.12.17公開)

1 始めに

 志方俊之さんは、方面総監まで勤め上げた幹部自衛官のOBとしてはめずらしく、大学で教鞭をとるかたわら、防衛問題の評論活動を行ってこられました。
 この志方さんをどう評価するか。
 皆さんにお考えいただきたいと思ってこのコラムを書きました。
 志方さんの言っておられることを転載したので、お読み下さい。

2 私が防衛省を飛び出した頃

志方俊之『自衛隊に誇りを』(小学館文庫2001年3月)

 かっては内局のシビリアンが制服を着ている者に対して威張っているという面があった。・・今はそれも改善されていると思う。・・一つは、シビリアン側の人たちに防衛庁生粋<(プロパー)>の人材が育ってきたということ。今までは植民地人事と呼ばれていろいろな省庁から集められた人がいて、その中にはシビリアン・コントロールの真の意味を知らない人がいた。最近になってようやく防衛庁プロパーが育ってきた。その人たちがアメリカのハーバード大学やプリンストン大学に留学し、ほんとうの意味のアメリカのシビリアンコントロールは何かを勉強してきている。・・それから、制服組の中にも相当勉強している者が出てきたということ・・勉強しているから内局の人と対等に論議ができるようになったのだ。・・両者が無意味に反撥し合うことなく、うまく補完し合って力を発揮しはじめているということだ。彼らはこれまで難しいとされてきた変革を次々と成し遂げている。」(PP134-136)、「若い世代の防衛庁プロパーと制服組の非常にインテレクチュアル(知性的)な人間が出てきた・・ポリティコ・ミリタリーのリーダーシップが確立してきた・・」(PP136)、「今の自衛隊には変革が必要である。これは確かだ。しかし、自分達の努力でできることは全部したというのが自衛隊の総意といえる。」(PP154)

→現時点に立って振り返ってみると、この超楽観的な志方さんの見方に唖然とされる読者が多いのではありませんか?(太田)

3 現在

 産経新聞2007年12月13日 正論 志方俊之
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/071213/plc0712130332002-n1.htm

  政軍関係について外国では政治優先(Political Leadership)という表現を使っている。これは政治が軍事に優先するということで、わが国ではなぜかこれを文民統制(Civilian Control)と呼んでいるから、その意味を誤解する者が出てくる。
 ・・・
 そうなると、防衛官僚の中に、文民統制とは背広を着た官僚が制服を着た自衛官を統制することだと思い込む者が出てくる。しばしば制服組と内局官僚間の確執を問題視する向きもあるが、現実には、マスコミが興味本位に取りざたするほどではない。
 制服組はこれを仕事を進める上での「秩序」と受け止め極めて冷静に対応している。
 制服自衛官には激しい異動があり、しかも中央を離れることが多い。第一線部隊での教育訓練、災害派遣、海外での活動に忙しく、政治に対して細部まで説明するほどの余裕はない。
 したがって、背広組の防衛官僚が政治との接点に立ち、予算を取り、装備を取得し、施設を整備し、これらを維持・管理するのが当然なのである。

→ここでは志方さんは、自衛官は内部部局に勤務する必要はない、勤務すべきでないとおっしゃっているとしか読めませんね。(太田)
 ところが、志方さんは続いて次のように言っておられます。

 防衛官僚と制服自衛官との関係であるが、トップレベルの調整の場である防衛参事官会議の制度を見直すとき、制服組と文民官僚との役職分担のサンドイッチ構造を防衛省の各局レベルまで拡大して両者の接触面積を大きくすることが必要だ。

→分かりにくい書き方ですが、仮に自衛官も防衛官僚とともに内局で勤務すべきだとおっしゃっているのだとすれば、志方さんの先程のご主張と整合性がありません。(太田)

 国家公務員の上級試験に合格すると、現場を知らないまま出世の階段をのぼる。その弊害をなくすため、まず幹部候補生学校に3カ月ないし半年程度の体験課程を新設し、両者の相互理解を深めるシステムを構築することを考えてもよい。
 さらに、地方協力本部だけでなく、第一線部隊の何らかの職場、例えば業務隊などを若い文民官僚にも開放し、若いころから制服組と接触させることが重要だろう。

→これでは、自衛官と文官の区分がぼやけてしまいます。文官が勤務できるようなポストであれば、そもそも自衛官のポストになっていることがおかしいのです。そもそも先進諸国の中で、日本は、国防省職員(自衛隊員)全体に占める(相対的に人件費が低い)文官の比率が極めて低い(典拠省略)おかしな国なのですよ。(太田)

 防衛装備品の調達見直しでは、現在商社に任せている仕事(情報収集と分析、製造者との折衝、資料整備、アフターケアなど)を省内部に持つとなれば、多くの専門的識見を持つ人材を省内に抱え込む必要がある。
 ・・
 特定の装備に関する識見しかない自衛官は、民間では全く「つぶし」が利かないから、定年後に装備を扱う商社勤めをすることは本人にも商社にも一石二鳥である。
・・
 これを「天下り」と指弾するのは簡単だ。だが、若年定年制をやめれば自衛隊員の超高齢化が進む。

→自衛官OBに商社(民間)勤めを奨励されているところを見ると、自衛官は民間で「つぶし」が利くと志方さんは見ているということになり、一つの文章の中に論理矛盾があります。
 それに、自衛官OBが商社勤めができるのであれば、若年定年制を廃止し、自衛官を若年で定年退職させずに防衛省の中で商社的業務に従事させることもできそうですよね。ですから、この段落全体としても志方さんの論理に矛盾があります。(太田)

3 終わりに

 私は、志方さんは6年半前の時点で既にお年を召されておられる、と考えているのですが、それがどうしてなのか、皆さんにもおぼろげなりにお分かりいただけたのではないでしょうか。

太田述正コラム#1822(2007.6.19)
<エトルリア人の正体>(2007.12.15公開)

1 始めに

 今回は、古代ローマと切っても切り離せない関係にあるエトルリア人(コラム#1756、1758、1767)の正体がついに明らかになったという話をしましょう。

2 エトルリア人はリディアからやってきた

 (1)これまでの論争

 エトルリア人(Etruscans)は、紀元前1,200年頃に出現し、紀元前6世紀に最盛期を迎え、イタリア半島と地中海に覇を唱え、紀元前200年頃にローマ共和国に統合されます。
 古代ローマは、冶金術や航海術等、多くのものをエトルリアに負っているとされています。

 しかし、エトルリア人の起源は2,500年以上にわたって論争の種となってきました。

 紀元前5世紀に古典ギリシャの歴史家であるヘロドトス(Herodotus of Halicarnassus。BC484〜425?年)は、エトルリア人がアナトリア半島のリディア(Lydia)からやってきたと主張しました。
 ヘロドトスによれば、18年間にもわたる飢饉に苦しんでいたリディアで、国王が国民全員を二つに分けた上でくじをひかせて、片方に港町で船をつくらせ、つくった船に全財産とともに乗り込ませ、息子のティレヌス(Tyrrhenus)に率いさせ、新天地を探させ、最終的にイタリア半島のウンブリア(Umbria)上陸した彼らは町をつくってそこに定住したというのです。
 しかし、紀元前1世紀に、まずローマの歴史家のリヴィウス(Titus Livius。BC59〜AD17年)がエトルリア人は北欧からやってきたと主張し、次いでローマ居住のギリシャ人著述家のディオニシウス(Dionysius of Halicarnassus。BC60?〜BC7年以降)は、このヘロドトスの説には神話が含まれているし、リディアの言語とエトルリアの言語は異なるので信用できないとし、エトルリア人は最初からイタリア半島に居住していた、と主張しました。
 爾来、この論争には決着がつかないまま現在に至っていたのです。

 (2)ついに論争決着へ

 今年に入ってから、リディア起源説が復活してきていたところ、6月17日に、ついに決定打となるリディア起源説がイタリアで発表されました。
 この説は、トスカナ地方のかつてのエトルリア人居住地区に代々住んできたエトルリア系の名字を持つ男性の人々のY染色体を欧州・地中海地方の各地の男性の人々のY染色体と比較し、最も前者に近いのがアナトリア半島西部に代々住んできた人々であること、そして両者の共通の祖先が生きていたのは約3,500年前であったことを明らかにしたのです。
 今年初めには、女性が受け継いでいくミトコンドリアDNAに関し、同じ結論に到達した研究と、この二つの地域の牛のミトコンドリアDNAについても同じ結論に到達した研究とが発表されているので、合わせ技三つで一本だ、というわけです。

 ただし、まだリディア起源説に疑問を持つ学者も少数ながら存在しています。
 例えば、まだ完全に解読されていないところのエトルリア人の言語は印欧語族に属していないのに、リディア語は印欧語族の言語である、という問題がまだ解決していない、というのです。

 (以上、
http://www.guardian.co.uk/international/story/0,,2105308,00.html
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-sci-etruscans18jun18,1,5297311.story?coll=la-headlines-world
http://www.mysteriousetruscans.com/history.html  
(いずれも6月19日アクセス)による。)

3 感想

 第一の感想は、イタリアの学者も頑張っているな、ということです。それに引き替えわが日本の学者は何をしているのだろう、ともどかしい思いがします。
 もう一つの感想は、東の司馬遷(BC145〜86?年)と並ぶ西のヘロドトスの、歴史の父としての偉大さです。

太田述正コラム#1820(2007.6.18)
<梅屋庄吉をめぐって>(2007.12.12公開)

1 始めに

 梅屋庄吉(1868〜1934年)の話をしましょう。

2 梅屋庄吉の生涯

 梅屋は長崎出身であり、1893年に米相場の投機に失敗して南洋に移り、その後支那や東南アジアの各地を転々とした後、香港の目抜き通りに写真館を開きます。
 1895年に、引き合わせる人があって、梅屋は、この写真館の2階で孫文(1866〜1925年)(コラム#228〜230、234)と知り合います。孫文29歳、梅屋27歳の時でした。革命の決意を熱く語る孫文に、梅屋は資金の支援を約束し、爾来30年間にわたって、何の見返りも求めず梅屋は孫文を支援し続け、その総額は現在の2兆円に達したと言われています。

 1899年に米国とフィリピン独立軍との戦争が始まると、独立軍の総帥アギナルドとその香港亡命時代に親交のあった梅屋は、アギナルドの幕僚ポンセに紹介状を持たせて当時日本に滞在していた孫文に面会させてフィリピン独立支援を要請させています。

 1905年に日本に帰国した梅屋は、1912年に自分の会社を含む4つの映画会社を合併させて「日本活動写真株式会社」(現「日活」の前身)を創設します。

 1911年に清朝打倒の辛亥革命が起きると、梅屋は技師を派遣して記録映画を撮影し、米国にいた孫文のため、後日、浅草で上映会を開きます。
 その後、軍閥の袁世凱に中華民国臨時総統の座を追われた孫文は、1913年に再び日本に亡命し、恐らく1915年に東京の梅屋邸で、宋姉妹の一人の宋慶齢と結婚します。
 また、蒋介石は、当時孫文が寄寓していたこの梅屋邸で、やはり恐らく同じ1915年に、宋慶齢の妹の宋美齢(コラム#177〜179)と結婚しています。
 梅屋は、1916年には孫文が組織した革命軍武器輸入委員を引き受けます。
 孫文は1925年に亡くなりますが、その遺書の中には梅屋への謝辞が記されています。
 梅屋は、孫文の銅像4基を作って1929年以後、南京・広州・マカオなどに寄付しました。

 梅屋は、一貫して日本の対中強硬政策に批判的であり、蒋介石と連絡を取り続け(注)
 (注)1927年、国民党における汪兆銘・・当時共産党と提携していたがその後回心する(コラム#234)・・との権力闘争に敗れた蒋介石は、参謀本部第2部長をしていた松井岩根の手引きで来日し、田中義一首相と会談し、中国統一が成功したあかつきには日本はこれを承認する、これに対し国民政府は満州に対する日本の地位と特殊権益を認める、という合意が成立した。日本滞在中、蒋介石は梅屋邸を訪問している。蒋は帰国して上海に上陸した際、会見で、「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。孫先生もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と語った。ところが関東軍が、その翌年張作霖爆殺事件を起こし、3年後には満州事変を起こしたため、松井や梅屋らの努力は実を結ばなかった。(
http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/tanaka_shankai.html
。6月18日アクセス)。

、ためにスパイの容疑をかけられ、憲兵隊による家宅捜索、召喚、身柄拘束という目に遭います。
 それにもめげず、1934年、広田弘毅外相の会見要望に応じ、対中局面打開のための協議に千葉県の住まいから東京に向かう途上、梅屋は倒れ、病死します。
 そして、彼の棺は日章旗と青天白日旗に抱かれて荼毘に付されるのです

 (以上、特に断っていない限り
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070603ijw1.htm  
(6月4日アクセス)、及び
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/18990720nunobiki/nunobiki.htm
http://liffey2.ld.infoseek.co.jp/rekishi/umeya/
http://72.14.235.104/search?q=cache:rYR1RFYZt0MJ:www.matsumotoro.co.jp/umeya1.htm+%E6%A2%85%E5%B1%8B%E5%BA%84%E5%90%89&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox-a
http://www.kinokuniya.co.jp/05f/d_01/book36/book04_36.html
http://shisly.cocolog-nifty.com/
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/socho/mirai/mirai-high.pdf
(いずれも6月18日アクセス)による。)

3 コメント

 以上をお読みになって、日支間にも友好時代があった、そしてその友好を担った素晴らしい日本人がいた、と思われたのではないでしょうか。
 それはそれで間違いはないのですが、問題は梅屋が支援した支那人です。
 孫文は支那の民主主義独裁への道を開き、蒋介石・宋美齢夫妻は、これを受けて支那に腐敗の極のファシスト政権を樹立し、挙げ句の果ては、もう一つの民主主義独裁の共産党と野合して日本と戦い、日本を対米戦争へと追いつめ、敗戦に追い込むとともに、最終的には共産党との内戦に敗れ、支那の人々に共産党政権下で塗炭の苦しみを味わわせる、という愚行をしでかしました。
 梅屋の好意は、全く無になったと言えるでしょう。

太田述正コラム#1779(2007.5.24) 
<スターリン(その3)>(2007.11.27公開)

4 独裁者スターリンの謎に迫る

 以上見てきたように、スターリンには二面性があるわけだが、果たして知性・感性溢れる家庭人であり、同時に殺戮者であるなどということが両立するものなのだろうか。

 ちなみに、スターリンは、若い頃にボルシェビキの同僚から、全体のために奉仕することを旨とする共産主義者というよりも自律性と独自性を重視する個人主義者である、と批判されたことがある。
 このスターリン評は当たらずといえども遠からずであり、スターリンの中には沢山の「個人」が同居していた。当時スターリンは数々の偽名を使いわけ、変装の名人と言われていた。
 しかも、ボルシェビキのために沢山の「個人」を使い分けていただけでなく、帝政ロシア政府の諜報機関のスパイ役まで勤めていたのだというのだから開いた口が塞がらない。

 それにしても、スターリンを虐殺者たらしめたものは一体何だったのだろうか。
 スターリンが暴力的な家庭で育ち、ロシアで最も暴力的な都市で育ったことは事実だが、スターリン自身が、残酷さ・野望・自己過信・他人への感情移入の希薄さ、といった、独裁者に適合的な性格的偏りを持っていたことの方が大きい。
 他人への感情移入(empathy)の希薄さは、スターリンがグルジア人であり、ロシアの民衆一般と民族的・社会的に自己同一化できなかったことから来ていると考えられる。
 ちなみに、レーニン(Vladimir Ilyich Ulyanov。1870〜1924年)の父は帝政ロシアの高級官僚であり、トロツキー(Leon Davidovich Bronstein。1879〜1940年)はユダヤ人であったことから、やはりスターリンと同じことが言えそうだ。
 決定的だったのは、ボルシェビキの文化そのものだ。
 ボルシェビキは、初期において、メシア的ファナティシズムに突き動かされつつ地下で非合法活動に従事していた。秘密・非寛容・陰謀・暴力はそんな活動にはつきものであり、若きスターリンは、このボルシェビキの中で頭角を現す。
 つまり、ボルシェビキがスターリンをつくったといえよう。
 それが証拠に、粛清は、1917年にレーニンが権力をロシアで掌握してから間もなく始まっており、それが、スターリンの死まで続いたのだ。
 それに、スターリンはレーニンの死後、1929年にソ連の権力を掌握する(注1)ものの、最近明らかになったことなのだが、それ以降も1937〜38年の大粛清の頃までスターリンが権力闘争に晒され続けた(注2)ことだ。

 (注1)レーニンが亡くなると、スターリンは、どちらもユダヤ人であるところのジノヴィエフ(Grigory Yevseevich Zinoviev。1883〜1936年)とカーメネフ(Lev Borisovich Kamenev。1883〜1936年)と手を組んで、左派のやはりユダヤ人のトロツキー、及び右派のブハーリン(Nikolai Ivanovich Bukharin。1888〜1938年)と闘った。トロツキーの追放に成功すると、スターリンは今度は右派のブハーリンとルイコフ(Alexei Ivanovich Rykov。1881〜1938年)と組んで、1917年の蜂起に反対したとしてジノヴィエフとカーメネフと闘い、勝利する。その上で、最後にスターリンは、ブハーリンとルイコフを葬り去った。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Stalin
。5月24日アクセス。以下同じ)(太田)
 (注2)かつてのボルシェビキの中堅幹部であり失脚していたリューティン(Martemyan Ryutin。1890〜1937年)が、1932年に、強制的集団農場化の中止・工業化のペースダウン・追放されたボルシェビキ指導者達の復権等を唱え、スターリンを激しく攻撃する文書を配布するという事件が起こっている。また、スターリンは、キーロフ(Sergey Mironovich Kirov。1886〜1934年)の人気に押され気味であったところ、1934年にキーロフが暗殺されてほっと一息ついたと考えられる。スターリンは、この暗殺の背後にトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフがいたと容疑をでっち上げ、国内で流刑にされていたジノヴィエフ、カーメネフらを改めて引っ立ててきて、見せ物裁判にかけ、粛清した(後述)。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Ryutin_Affair
http://en.wikipedia.org/wiki/Sergei_Kirov
)(太田)

 1932年から33年にかけて、スターリンがウクライナ人弾圧のためにあえて大飢饉を引き起こして600万〜700万人の餓死者を出したこと、ボルシェビキの大物政敵ジノヴィエフやカーメネフを見せ物裁判(show trial)を行った上で1936年に粛清し、これがボルシェビキの幹部を殺す最初の事例となったこと、それがスターリンが1937〜38年に実施した、ボルシェビキを対象とする大粛清(Great Purge)の前触れとなったこと、そして戦後にスターリンがユダヤ人粛清を行った(注3)ことは、このような文脈の中で理解されなければならない。

 (注3)スターリンは死ぬまで執拗に粛清を続けた。1953年にユダヤ人医師達によるソ連共産党幹部暗殺計画(Doctors' plot) が明るみに出るが、同年のスターリンの死の直後に、これがスターリンによるでっちあげであったことが明らかにされた。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Doctors'_plot
)(太田)


 つまりスターリンは、その治世を通じて対民衆と対政敵という二正面作戦に明け暮れた、ということだ。

5 感想

 モントフィオールが摘示する、スターリンに関する事実の圧倒的な重みの前には語る言葉もありません。
 スターリンには神と悪魔が同居していた、という感を深くします。
 ここで大事なことは、スターリンの中の悪魔を解き放ったのは、欧州文明が生み出した民主主義独裁の思想の一つである共産主義であったということです。
 毛沢東や金日成/金正日もそうです。
 ナポレオンの中の悪魔を解き放ったのは、やはり欧州文明が生み出したナショナリズムでしたし、ヒトラーの中の悪魔を解き放ったのも、これまた欧州文明が生み出したファシズムでした。
 ところが、ナポレオンもヒトラーもアングロサクソンの手で葬り去られたというのに、スターリンも、毛沢東も金日成も、権力を掌握したまま大往生を遂げることができました。
 それは、できそこないのアングロサクソンである米国のために、20世紀に入ってから日本が疎外され、日本を含めた自由・民主主義勢力が一体となって共産主義に対抗することができなかったからです。
 そもそも、毛沢東や金日成が、それぞれ支那と朝鮮半島北部の権力を掌握できたのは、米国が日本を疎外し、あまつさえ先の大戦で日本を打ちのめすという愚かなことを行ったせいです。
 スターリンや毛沢東や金日成の犠牲になった無数の無辜の人々の鎮魂のためにも、格下ではあるとはいえ、せめて金正日は、権力を掌握したまま死なせてはいけないと思うのですが、相変わらずのできそこないぶりを発揮している米国と、いまだに吉田ドクトリンを克服できない日本を見ていると、この私のささやかな願いも実現しないかもしれませんね。

(完)

太田述正コラム#1777(2007.5.23)
<スターリン(その2)>(2007.11.25公開)

3 独裁者スターリン

 (以下、
http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9B02EFD7143BF935A25757C0A9629C8B63&sec=&spon=&pagewanted=print
http://www.ashbrook.org/books/1400042305.html
http://www.powells.com/review/2004_07_06.html
http://www.popmatters.com/books/reviews/s/stalin-court-of-the-red-tsar.shtml
(いずれも5月23日アクセス)も参照した。)
 
 (1)知性・感性溢れる家庭人スターリン

 若かりし頃、天才的な詩人であったのだから、スターリンの知性と感性が傑出していたことは確かだ。
 これまで、レーニンと比較して、知的にははるかに凡庸であるとされてきたスターリンの評価は間違いであり、スターリンは、少なくともボルシェビキの指導者群の中では、レーニンに匹敵する群を抜いた知性と感性の持ち主だった、ということだ。

 スターリンの愛読書は、ゴーゴリ(Gogol)、チエホフ(Chekhov)、プーシキン(Pushikin)、シモーノフ(Konstantin Simonov)らのロシア文学書はもちろんのこと、ゲーテの書簡集、バルザック(Balzac)、フランス革命時の詩、ユーゴ(Hugo)、シェークスピア、サッカレー(Thackeray)、等の外国文学に及んだ。
 彼が特に好んだのは、ゴールズワージー(Galsworthy)のThe Forsythe Saga、ジェームス・クーパー(James Fenimore Cooper)のThe Last of the Mohicans、ヘミングウェーの諸作品、等であったと伝えられている。奇しくもすべてが英米文学だ。
 スターリンは歴史も大好きだった。
 ヘルツェン(Herzen)の『7年戦争史』、ピーター・スコット(Peter Scott)の『海戦1939〜1945年』等を読みふけったと伝えられている。
 そして、1941年のモスクワ攻防戦のさなか、スターリンは当時出版されたばかりのクトゥーゾフ(Kutuzov)・・ナポレオンがモスクワを攻めた時にモスクワを放棄して戦いを続けた・・の伝記を読みふけり、最後の最後までその心中を空かさなかったクトゥーゾフに感銘を受け、スターリンは逆に最終的にモスクワを放棄しない決断を下したされている。
 また、気持ちを落ち着けたい時には、スターリンは、モーツアルトのピアノ協奏曲第23番を何度も繰り返して弾いたという。
 薔薇やミモザを育てるのも好きだった。
 彼はまた、映画狂でもあった。"It Happened One Night"や "Mission to Moscow" やジョン・フォード(John Ford)監督の西部劇や、チャップリンのすべての作品が大好きだった。もっともヒットラーも金正日も映画狂だが・・。

 (もっとも、この知性溢れるスターリンが、時には致命的な情勢判断ミスを犯す場合があった。一番有名なのが、1941年の独ソ戦の前、そして独ソ戦が始まってからもしばらくの間、ヒトラーの電撃戦能力を見くびったことだ。しかも、スターリンは、馬に挽かせた火砲といったソ連の軍事戦略の欠陥を理解しようとしなかった。)

 しかもスターリンは、良き夫にして良き親、つまり良き家庭人でもあった。
 1930年にスターリンは妻ナディア(Nadya)に以下のように書き送っている。
 「タツカ(妻の愛称)へ・・タトーチュカ(妻のもう一つの愛称)、君に会いたい。僕は角が生えたフクロウのようにさびしい。・・私は今仕事を終えつつあり、この町を出て明日子供達の所に戻る。・・だから、家に戻って君に会うのはもうすぐだよ。キッスを送る。君のヨセフ。」
 その妻が翌年自殺した時は、スターリンは棺に崩れかかるように嘆き悲しんだという。
 総じて言えば、スターリンは人間的な魅力に溢れる人物だったのだ。

 (2)独裁者にして殺戮者たるスターリン

 独裁者にして殺戮者たるスターリンについては、従来からよく知られていたところだが、ソ連崩壊後、詳細が分かってきた。
 彼がレーニンが亡くなってから5年目の1929年にソ連の権力を掌握してから1953年に73歳で死ぬまでの間に、2,000万人にも及ぶソ連の人々が、粛清や強制収容所送りによって殺戮された。
 スターリンは、ソ連の人々を、元富農(kulak)、帝政ロシアの元官僚、非ボルシェビキ政党の元党員、宗教活動家、投機家、等様々なカテゴリーに分け、カテゴリーごとに処刑枠を設定した。このほか、個別にスターリンが直接特定の個人を処刑を命じる場合があった。前者によって処刑された者は、1937年から39年間の2年間だけで77万人近くに達したし、後者によって処刑された者は、スターリンの全治世下で4万4,000人に達した。
 1941年の独ソ戦開戦は、スターリンを驚かせ、呆然とさせた。
 しかし、しばらくするとスターリンは、敵前逃亡した約50万人の赤軍兵士をつかまえ、1万人以上の将校を銃殺した上で、残りを再編して前線に再投入した。
 この過程で、銃殺された将校の妻達も処刑された。
 1935年に制定されたソ連の法律によって、罪を犯した人物の家族や親戚は、たとえ全く無実であっても連座責任を問われることになった。この結果、粛清された人物の妻、子供、兄弟姉妹に対しても処刑等がなされるようになっていった。
 例えば、1938年に拷問されて死んだブリュッヘル(Vasily Blyukher)元帥の場合、その最初と二番目の妻は銃殺され、三番目の妻は強制収容所での8年間の重労働が科された。
 帝政ロシアでは、レーニンの兄が大逆罪を犯して処刑されたけれど、レーニンは処刑されるどころか、学業を全うすることを許された。また、シベリア送りになった流刑囚だって、ソ連の場合のように、餓死させられたり死ぬほどこき使われるようなことはなかった。
 だから、ソ連は帝政ロシアよりはるかに人間性に悖る体制であったと言える。
 この恐怖政治の下で、レフチェンコ(Trofim Lysenko)の遺伝学等のエセ科学がはびこったし、政治エリートは萎縮し、知性が鈍磨したため、スターリンの死後、ソ連はフルシチョフのようながさつな指導者やブレジネフのような凡庸な指導者をいただく羽目になった。

 (悪いイメージが確立しているベリア(Lavrenti Beria。1899〜1953年)だが、スターリンの死後、彼がソ連の権力を掌握していたならば、ソ連は40年早くペレストロイカの時代を迎えていたことだろう。
 ベリアは、共産主義の根本的問題点を理解しており、私有財産制を導入しない限りソ連が早晩体制崩壊を迎えるのは必至であると考えていた。
 スターリンの死後すぐに、彼は、ソ連の経済の自由化、スターリンが抑圧した諸民族の解放、強制収容所に収容されている人々の恩赦、粛清裁判のインチキさの暴露、ソ連による東独支配の終了等を唱えた。しかし、ベリアはフルシチョフらによって、一年も経たないうちに粛清されてしまう。)

 このソ連に、少なからぬ欧米のインテリがいかれ、ソ連のシンパになったことは遺憾なことだった。
 ソ連における粛清を、ユダヤ系ドイツ人小説家のリオン・フォイヒトヴァンガー(Lion Feuchtwanger。1884〜1958年)、フランス人小説家にしてジャーナリストにして共産主義者のアンリ・バルビュス(Henri Barbusse。1873〜1935年)、フランス人作家のロマン・ロラン(Romain Rolland。1866〜1944年)、米国人自然主義作家のセオドア・ドライサー(Theodore Dreiser。1871〜1945年)、米国人ヒューマニストにしてマルクス主義哲学者のコーリス・ラモント(Corliss Lamont。1902〜95年)らが擁護したことを我々は決して忘れるべきではない。

(続く)

太田述正コラム#1775(2007.5.21)
<スターリン(その1)>(2007.11.21公開)

1 始めに

 ユダヤ系英国人のモントフィオール(Simon Sebag Montefiore。1965年〜。ジャーナリストにしてロシア史学者)が上梓したばかりの'Young Stalin, Weidenfeld & Nicolson, 2007'が、絶賛を博した前作(2004年上梓)の'Stalin: The Court of the Red Tsar'に勝るとも劣らぬ称賛を浴びています。
 あのスターリンが若かりし頃は天才詩人であったというのですから、面白いですね。
 著者がこの二作でどんなことを言っているかをご紹介した上で、最後に私のコメントを付したいと思います。

2 詩人スターリン

 (以下、
http://books.guardian.co.uk/poetry/features/0,,2083062,00.html  
(5月19日アクセス)、及び
http://politics.guardian.co.uk/bookshelf/story/0,,1974026,00.html
http://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,,2078281,00.html
http://www.orionbooks.co.uk/interview.aspx?ID=5934
http://www.newstatesman.com/200705140042
(いずれも5月21日アクセス)による。)

 (1)スターリンの詩

 まずは、青年スターリンの詩を一つご覧あれ。
 なお、原詩は、彼の母国語であるグルジア語で書かれており、韻がすばらしいというのですが、残念ながら、英訳ではそこまでは分かりません。

 Morning

The rose's bud had blossomed out
Reaching out to touch the violet
The lily was waking up
And bending its head in the breeze

(仮訳)

 朝

薔薇のつぼみが花を開いた
すみれに届かんばかりに
百合は目を覚まそうとし
そよ風の中で頭を垂れている

 (2)詩人スターリン

 スターリン、本名ヨセフ・ジュガシヴィリ(Joseph Djugashvili。1878〜1953年。愛称SosoないしSoseloないしKoba。Joseph(Josef) Stalinと名乗るようになったのは1917年から)は、正教の修道院で僧になる修行をしていた1895年、17歳の時、著名な編集者でありグルジア貴族のチャヴチャヴァーゼ(Ilya Chavchavadze)公(Prince)を自作の詩集を携えて訪ねた。
 公はスターリンの詩を高く評価し、五篇を選んで当時のロシアで最も定評のあった文芸誌に掲載した。
 これらの詩は大評判になり、グルジアで爾後準古典扱いをされることになる。
 スターリンは聖歌隊の一員当時、歌唱力がプロ並みだったとされているが、詩才はノーベル文学賞を受賞したチャーチルの文才といい勝負のレベルであり、彼がもし政治の道を選ばずに、詩人としての人生を歩んでいたら、どんなに世界のためによかったか、と思わずにはおられない。

 それから10年後の1905年にレーニンに会ってすっかりレーニンの魅力の虜となったスターリンは、ボルシェビキの幹部の一人として、汚れ役を一手に引き受けるようになる。つまり彼は、レーニンのために、殺し屋、泥棒、銀行強盗等あらゆる悪事に手を染めるようになったのだ。
 当時既にグルジアでは詩人として有名になっていたスターリンは、グルジアの首都のトビリシの銀行を襲うにあたって、スターリンの詩の大ファンであった行員に手引きをさせ、40人を殺して多額のカネを奪うのに成功している。
 権力を掌握してからのスターリンの行った恐怖政治については、ご承知の通りだ。

 とまれ、スターリンは、生涯、詩、そして文学一般、更には芸術に対する思い入れを持ち続けた。
 体制に批判的な者はすぐに殺したスターリンも、体制に批判的なパステルナークらの文学者の命を奪うようなことはしなかった。また、音楽のショスタコーヴィッチ、文学のブルガコフ、映画のエイゼンシュタインらには、時々直接電話をしては、激励した。
 スターリンは、権力を掌握してからというもの、自分がかつて書いた詩について沈黙を貫いた。
 1949年にスターリンの70歳の誕生日の記念に、秘密警察の長のベリア(Lavrenti Beria。同じくグルジア人)が上記五篇の詩のロシア語への翻訳を試みたことがある。著者を知らされていなかった、パステルナークらの翻訳者達は、これはスターリン賞に値する作品だと評価したが、このことを知ったスターリンは翻訳作業を中止させたという。
 ある時、どうしてもう詩を書かないのかと聞かれたスターリンは、「全神経を集中し、しかも死ぬほどの忍耐力がなければ詩は書けないからだ」と答えている。

(続く)

太田述正コラム#2188(2007.11.21)
<額賀さん大好き(続)>

1 始めに

 今日はヒマになると思ったらそうはいきませんでした。
 2件の長時間の取材を受けて、とっぷり日が暮れてしまいました。
 この2人の記者と話をしていて、私の活動が各方面に大きな影響を与えつつあることを感じました。

2 明日の予定

 明日、民主党「次の内閣」外務防衛部門会議で講演を行うことになりました。
 朝8時より9時半位まで、会場は衆議院本館2階の第4控室(民主党の代議士会を行う部屋)、テーマは「防衛省利権の真相に迫る」です。
 私にとって、国会議事堂の中に入るのは8年ぶりです。
 私と調整したのは、同党の影の防衛大臣の浅尾慶一郎参議院議員と同議員の政策秘書の池田東一郎さんですが、池田さんは、2001年に私が民主党から立候補した際、浅尾事務所から私の助っ人として私の事務所に一時派遣されていた人物です。
 守屋と額賀さんが、二人して私と民主党とを再び結びつけた、ということになります。
 なお、この講演は取材陣に開放されるそうです。

 また、本日昼のテレ朝のスクランブルに生出演するはずが、録画出演に切り替えられたところ、今度は同じ系列の大阪の朝日放送の明日(22日)午後の「ムーブ!」という番組生出演することになりました。
 ここからも、同じ系列でも在京局は、権力のお膝元だけに、自主規制の度合いが強いことが改めて分かります。
 いずれにせよ、私にとって初体験となる生出演は、編集されないだけに、出演者にとっても放送局にとっても命がけです。
 担当者からは、以下のようなメールが届いています。

 「ご出演ありがとうございます。私が担当している「ムーブ!」というテレビ番組は、関西を中心に流れている硬派な情報番組です。月曜から金曜日の午後3時51分から生放送しております。明日の出演者は、評論家の宮崎哲弥氏、ジャーナリストの大谷昭宏氏、弁護士の橋下徹氏がコメンテーターで、司会は弊社のアナウンサー堀江政生が務めています。過去の実績としましては、全国を騒がせることになった社会保険庁の不正免除問題は、我々のスクープでした。またNHKのプロジェクトXの内容捏造をつかみ、番組終了に追い込んだのも、この「ムーブ!」です。太田さんの明日のご出演が非常に楽しみです。
 ・・・
 こちらまでの交通費につきましては、本来ですと新幹線のチケット等をお送りすべきなのですが、時間的に間に合いません。誠にご面倒ですが事後精算とさせていただきたく思います。「朝日放送」で領収証をおとり願います。あすお支払いいたします。
 弊社の住所は、大阪市北区大淀南2−2−48で、新大阪から「朝日放送」と言っていただけたら15分くらいで到着いたします。午後3時までに玄関受付にお越しください。よろしくお願いいたします。

3 その他

 その他、日本テレビの「太田総理・・」の担当者から、
 「・・12月10日(月)収録で、また官僚をテーマにしたマニフェストをやろうかと思います。
 太田様のご都合がよろしければ、ご出演をお願いしたいと思っておりますが、いかがでしょうか?収録時間は、17時より開始する予定ですので、16時過ぎに日本テレビにお越し願えれば大丈夫です。・・」
というメールが届き、これにも出演することにしました。

4 終わりに

 朝日の例の記事、昨日の0700頃、FAXで届いたのですが、持ち歩きはしたものの、結局昨日中には読むことができず、本日ようやく目を通しました。
 昨日のインタビュー等の中で、額賀さんが口利きをした山形県の業者は、額賀さんがクレームをつけてきたにもかかわらず、その後指名されることはなかったと一部で申し上げたところ、この記事によれば、2000年12月入札工事で再度指名をされていた(落札はせず)のですね。
 おわびして訂正させていただきます。
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太田述正コラム#2189(2007.11.21)
<人種別知能指数比較(その2)>

→非公開

太田述正コラム#2187(2007.11.20)
<額賀さん大好き>

1 始めに

 例の記事を書いた朝日新聞の記者からは、多分朝6時頃には最初の電話が他社からかかってくるだろうと聞いていたのですが、案の定、6時少し前に電話がかかってきて叩き起こされました。
 その後、簡単な朝食をとり、後30分弱の昼飯休憩を除き、ビッグマックを夕食代わりにほおばりながらの取材まで、場所を、自宅、自宅最寄りの駅前のマクドナルド、駅の近くの駐車場、自宅と移しつつ、連続14時間の取材を受けました。
 この間、疲れるどころか、だんだん口調が滑らかになっていった感があり、この調子でいくと近い将来、私のトレードマークの「フフフ」も「口べた」も解消して、一部の「ファン」の方々をがっかりさせるのではないか、と心配です。

2 額賀さん大好き

 それにしても額賀さん。
 守屋以上にあなたが好きです。
 初めてあなたにお目にかかったのは、私が審議官をしていた1999年7月12日でした。
 もっとも、あなたは何でもかんでも全面否定されているから、このことも否定されるかも知れませんね。
 その時私は、元防衛庁長官のあなたに防衛白書の案の説明を行ったのですが、短期間とはいえ、防衛庁長官をされたあなたが私に「中期防って何ですか」と尋ねられたのには、そんなこともご存じないのか、とぶったまげました。
 驚くと同時に、知らないことを恥ずかしがらずにお尋ねになるあなたの不器用さ、素直さに私は感銘を受け、密かにファンになりました。
 ですから、仙台防衛施設局に赴任後、そのあなたが建設・土木事業で口利きをされていることを知り、裏切られたような気持ちになりましたよ。
 しかし、このところの守屋事件に関わるあなたの対応を拝見していると、やはりあなたは不器用で素直な方なのだなあと思います。
 宮崎氏や守屋と宴席で同席したことなど一度もないとあなたはおっしゃっていますが、何も「防衛庁長官の時に」同席したとまでおっしゃる必要はないものの、同席したことがあったかもしれない、となぜおっしゃらないのか、私には理解できません。
 同席したっていいじゃありませんか。
 そういうあなたですから、山形県の土木・建設業者の口利きをされたことも全面否定されるだろうと予想していましたが、案の定そうでした。
 だけど額賀さん。
 何で口利きをしちゃいけないのですか?
 自民党ないし自民党系の政治家が土木・建設業者の口利きをした場合、防衛施設庁(当時)が、この業者を、資格要件を満たしていないようなケースを除き、必ず指名競争入札で指名する手はずになっていることをあなたがご存じであった可能性は高いと思っていますが、その旨証言する人は現時点では容易に現れないでしょう。それに、仮に証言をする人が出てきたとしても、指名されたって落札するとは限りませんよね。ですから、指名するくらいのサービスを施設庁が口利きをした政治家にしたっていいじゃないか、と開き直られればいいのです。
 そもそも、当時土木・建設業者のための口利きを行っていた自民党ないし自民党系議員はご自分だけではないこともあなたよくご存じだったはずです。
 自分一人だけがどうして指弾されなければならないのだ、ということもおっしゃればいいのです。
 でも、あなたは不器用で素直でいらっしゃるからこそ全面否定された。
 全面否定された以上、私と朝日新聞を名誉毀損で訴えられてしかるべきです。
 訴えないのであれば、あなたはウソをついたことになるからです。
 ですから、一刻も早く弁護士とご相談の上、訴えを提起されることをあなたにお奨めします。
 私のねらいは、守屋の「不祥事」が守屋個人の問題でも、防衛省キャリア共通の問題でもなく、全省庁のキャリア共通の問題であることをアピールするところにあることと同様、額賀さんの「不祥事」もまた、額賀さん個人の問題でも、防衛族議員共通の問題でもなく、自民党及び自民党系議員共通の問題であることをアピールするところにあります。
 ですから、額賀さんが口利きを全面否定され、更に裁判等を通じてわれわれと長期間にわたって争われることは、この口利き問題への国民の関心を持続することにつながると考え、歓迎するところです。
 大好きな額賀さん。
 心からご健闘を祈ります。
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<元官僚・現医師・河辺啓二>        

 先日の日テレ「太田総理」の収録の際はお疲れ様でした。
 その後、私の名前の検索エンジンで太田さんのHPに私の名前が登場していることを知り、そのHPを拝見させていただきました。そこで、太田さんが誤解されておられていることを知り、ここにメールいたします。
 私のことを「技官」だと紹介していましたが、これは誤りです。「工学部卒」ということで「技官」と思われたのでしょうか。確かに工学部卒事務官は異色かもしれませんが、経済学は数学を使うので、理系から経済職を受験する人は、結構多いのです。私の略歴は以下のとおりです。
 「東京大学工学部4年生のとき、国家公務員採用上級(甲種)試験(現擬錙法峽从僉弑菠に合格。同卒業後、キャリア事務官として、農林水産省および総務庁(現総務省)に勤務。官僚としての閉塞感を覚え、現役最後の1年間に、官僚の業務をこなしながら受験勉強をし直し、東大理科稽爐帽膤福F碓絣愽卒業後、東大病院内科等を勤務。平成10年に、東京から群馬に移り住み、開業する。」
 私は、昭和54年の国家公務員採用試験上級甲種「経済」で合格者90人中26番で合格しました(したがって、翌55年入省です)。霞が関では、行政・法律・経済の3区分の合格者を事務系とされるので、いちおう、私も、キャリア事務官でした。東大法卒が主な同期の連中は、現在、官房課長or各局筆頭課長になっております。「河辺さんは技官なので、技官は接待されない」という趣旨のことを言うのを憚られたそうですが、言ってほしかったですね。そうすれば、技官・事務官問題に発展し、私の持論を展開することができたのになぁと思っております(この件については、拙著『官僚と医師はなぜ同じ過ちを犯すのか』や『政治家がアホやから役人やめた』の中で述べております)。なお、「競演」した他の元官僚・国会議員の中に技官出身の方がおられます。

[付け足し 1]

 数か月前まで世間をお騒がせした安倍内閣の閣僚には、農水省OBが多いため、特に私には興味深かったです。自殺した松岡元農水相、「絆創膏」の赤城元農水相、「しょうがない」の久間元防衛相、・・・。若林元環境相(現農水相)は、なんとかしのいでいたようですが。この方々のうち松岡さんのみ技官上がりで、他は、みな私と同じ上級職農水事務官出身です(農水省には「法経学士名簿」というキャリア事務官名簿があり、毎年OBにも送られて来ます)。赤城クンは、私の3年後輩でよく知っています。世間で言われるほど、そんな悪いヤツでないと思うのですが・・・。

[付け足し 2]

『太田総理』放映の中で、私の「(官僚に対して)低い報酬で高いモラルを求め過ぎる」の発言が紹介されましたが、会場の皆さんも、視聴者の方々も「モラル」を「道徳moral」の意に取ったでしょうね。私は「士気morale」のつもりだったのですが、言葉足らずでした。発音が違う(moralは第1音節にアクセント、moraleは第2音節にアクセントがありますよね)ので、このことを直ちに「(報酬は)低くない」と反論したバイリンガルのケビンさんに私の英語の発音で説明したら笑いが起きたでしょうね。ちょっと残念・・・(笑)。

<太田>

>私のことを「技官」だと紹介していましたが、これは誤りです。

 大変失礼いたしました。
 これを機会に、今後ともよろしくお願いします。
 メールありがとうございました。

太田述正コラム#2169(2007.11.9)
<二つの公開質問状>

 (有料読者の皆さん。2回続けて公開コラムを配信するのをお許し下さい。)

1 始めに

 昨日、ついに検察が宮崎前日本ミライズ社長と山田洋行元執行役員を逮捕し、守屋事件の立件に向けて明確な動きを示しました。
 このことを報じた新聞記事を見て、公開質問状を2通したためたのでご披露します。

2 土屋泰昭氏への公開質問状

 「二十数年前のことだ。当時大蔵省(現財務省)主計局で防衛庁の予算を担当していた同省元幹部は、まだ防衛庁経理局の若手だった前事務次官、守屋武昌(63)に会食に招かれた。席に行くと、見慣れぬ男性が同席していた。当時は山田洋行の取締役だった同社元専務、宮崎元伸(69)。予算を握る主計局職員を各省庁がもてなす「官官接待」が横行していた時代のエピソードだが、「タニマチのような業者を会食の場にまで連れてくる人はいなかったので、奇異に感じた」と元幹部は振り返る。元幹部が「当時は社名すら聞いたこともなかった」という山田洋行の名が一躍鳴り響いたのは、平成に入ってからだ。防衛関連業界で今も語り草になっているのは、平成元年、米ゼネラルエレクトリック(GE)が開発したF2支援戦闘機エンジンの販売代理権を山田洋行が三井物産から奪取した出来事だ。・・」(
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/071108/crm0711082143035-n1.htm
。11月9日アクセス。以下同じ)

 土屋泰昭さん、ご無沙汰しております。
 私の高校の先輩でスタンフォード・ビジネススクールでは私の2年後輩にあたるという関係から、当時確か既にGEジャパンの副社長でいらしたあなたは私に、1991年頃、同期の守屋を紹介して欲しいと持ちかけられ、3人で六本木で昼食を共にしたことがありましたね。
 上記記事が正しいとすると、当時、GEの代理店は山田洋行ではなく三井物産だったようですが、あなたは、一体何の目的があって当時航空機課長であった守屋に接近しようとされたのですか。
 その後、GEが代理店を三井物産から山田洋行に変えたことにはあなたも当然関与されたはずですが、代理店変更の理由は何だったのですか。
 また、昨年山田洋行から日本ミライズが分離独立した際、GEは代理店を山田洋行から日本ミライズに変更しましたが、その理由もお聞かせ下さい。
 そもそも、商社を通してエンジンを防衛省に納めてきたのはどうしてなのですか。それはGE側の意向だったのですか、防衛省側の意向だったのですか。
 代理店時代の山田洋行から米本土でGE関係者が守屋が受けていたような接待を受けていたという報道も一部でなされていますが、これは事実なのですか。あなたご自身も山田洋行の接待を受けておられたのでしょうか。
 聞くところによると、あなたは今年5月にGEジャパンの副社長をお辞めになったそうですが、これはどういうことだったのでしょうか。
 メディアが全くあなたのことを報道しないし、国会であなたを参考人招致等をする動きも全くないので、僭越ながら、私が質問をさせていただきました。
 これだけ世間を騒がせている事件の重要な関係者でいらっしゃるのですから、土屋さんには以上のような様々な疑問に対してきちんと説明をする責任があると私は思います。
 ご回答をぜひお願い申し上げます。

3 田村氏への公開質問状

 「山田洋行・・の躍進を支えたのは、<宮崎による>きれいごとの営業活動だけではない。空自幹部学校長(空将)で退官し、平成元年に参院議員となった田村秀昭(75)=今年7月に不出馬で引退=の存在を抜きにしては語れない、と山田洋行元幹部は言う。
 田村は現役空将だった昭和60年代から山田洋行にホテル宿泊費などの負担を受け、平成元年の参院選に初出馬した際は、山田洋行が2億円の選挙資金を捻出していた。宮崎はこの参院選前後に田村の後援会「真一会」を設立しており、田村が政治家になっても支援を続けた。「田村さんの政界進出と軌を一にして山田洋行が急成長した。田村さんの影響力が働いたのは確かだ」。山田洋行元幹部はこう断言した。・・<田村氏は、>民主党代表の小沢一郎(65)とともに野党を渡り歩いた・・」(
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/071108/crm0711082143035-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/071108/crm0711082143035-n3.htm

 田村秀昭さん、ご無沙汰しております。
 上記記事によれば、18年前のあなたの初出馬の際、山田洋行が2億円もの選挙資金を提供したということですが、どのようにして航空自衛隊在職中に山田洋行とそのような密接な関係を築かれたのですか。
 また、これだけの資金を提供してくれた企業に対して、あなたはどのように報いたのですか。
 小沢さんとは常に行動を共にされてきたあなたが、最後に小沢さんから離れて国民新党に移られた本当の理由は何だったのでしょうか。
 東元民主党議員を山田洋行に紹介されたのはあなただと聞いていますが、それは事実ですか。事実だとして、東氏をどのような理屈をつけて山田洋行に売り込まれたのでしょうか。
 小沢さんが山田洋行から政治資金をもらっており、最近これを小沢さんはお返しになりましたが、小沢さんと山田洋行の間をとりもったのも田村さんではありませんか。
 ひょっとして他の防衛関係企業からも政治資金が小沢さんに入るようにあなたが手配をされていた、ということはありませんか。
 守屋事件に関連してメディアはあなたについても若干報道を行うようにはなりましたが、あなたを国会に参考人等招致をする動きが全くないので、私が質問をさせていただきました。
 田村さんは、18年の長きに渡って自衛隊関係者の衆望を担って参議院議員を勤めてこられた方なのですから、以上のような様々な疑問に対してきちんと自衛隊関係者ひいては日本国民に説明をする責任があると私は思います。
 ご回答をぜひお願い申し上げます。

太田述正コラム#2159(2007.11.4)
<小沢辞任>

1 始めに

 小沢民主党代表が辞任する意向を表明しました。
 私は、一貫して小沢おろしを民主党議員達にこのコラムで呼びかけてきた(コラム#199、248、1884、1888、1899、2066、2124、2141、2146等)ので、快哉を叫んでいます。
 次にやらなければならないのは、自民党の粉砕ですが、それがいよいよ現実性を帯びてきた、と思いたいところです。
 
2 どうして小沢辞任?

 小沢さんよ。
 民主党に政権担当能力がないだって?
 よく言うよ。
 政権担当能力どころか、自分の身を守る才覚すらなかったのはあんたの方だろ。
 私は、以前(コラム#1991で)、「<日本の宗主国>米国は、エシュロンで小沢氏の電話やメールは全部盗聴していると考えるべきであり、不祥事の噂の絶えない小沢氏のことですから、その政治生命を米国が絶とうとしたらいつでも絶てる、くらいに考えておいた方がいいのであって、小沢氏が虎の尾を踏む愚をこのところ繰り返していることは私には到底理解できません。」とまで、あんたに警告を発してやったのに、給油反対の軌道修正を図るのが遅すぎたんだよ。
 世上、自民党が山田洋行の話よりもっとすごいあんたの醜聞のネタを握ってあんたを脅迫したのではないかと取り沙汰されているけれど、自民党の恥部を誰よりも知悉している小沢に対し、そんなことで自民党が脅迫できるわけがない。共倒れになりかねないからだ。
 私は、米国があんたの数々の超弩級醜聞を独自に調べ上げ、あんたを脅迫した可能性が大だと思っている。これに加えて山田洋行の話もあったということだろう。
 これはたまらんと恐惶を来したあんたは自民党に泣きついて大連立話を持ちかけ、給油反対を取り下げる名分を得た上で、民主党代表の地位にとどまる、という一縷の可能性にかけた、と私はふんでいるんだ。
 もちろんあんただって、大連立の話が民主党内で受け容れられる可能性が低いことは分かっていただろう。
 受け容れられない場合は、民主党をこきおろして自分は代表の座をおりればよい、というわけだ。
 どこまで行っても、小汚い野郎だ。
 とっとと子分どもを率いて民主党を出て行け。
 あんたこそ、とっくの昔に旧社会党とともに滅んでいるべき自民党をここまで延命させた第一級戦犯だ。
 大功労者として自民党に名誉復党して、自民党とともに滅べ。

3 民主党に訴える

 2を読まれて、私の口の悪さにショックを受けた読者の方もおられるでしょう。
 しかし、私の小沢さんに対する怒りには根拠があります。
 その根拠は、コラム#2160(非公開)に書いておきます。
 それはさておき、民主党の(小沢一派ないし小沢亜流以外の)議員諸公に以下のことを訴えます。

一、小沢さんを、党を侮辱した廉で除名すること。
 一緒に小沢一派ないし小沢亜流も離党するだろうが、それがむしろねらい目です。結果的に党は浄化されるでしょう。
二、後任には、鳩山さんか野田佳彦さんをあてること。
 岡田さんは安全保障音痴(コラム#393)である上、そもそもリーダーの器ではない(コラム#836、837)。前原さんは安全保障に関心はあるがおかしな安全保障観を自衛官や米軍需産業からインプットされているのでかえってタチが悪い(コラム#1156、1158)。
三、給油継続賛成に切り替えた上で、党としての安全保障政策がない現状を政権を奪取するまでは続けること。
四、参院でも守屋喚問を行い、天下り問題や防衛省全体の腐敗・退廃問題に切り込んでいくこと。

4 終わりに

 10月27日に民主党の原口議員(影の総務大臣でらしたのですねえ)に対し、「小沢、東と民主党も大変ですね。これじゃ民主党の方が自民党より先に壊滅しかねないじゃないですか」と語りかけた私の予言は、わずか一週間余でほぼ的中したと言ってよいでしょう。
 世界情勢だけでなく、国内情勢でも私の分析はかなりのものだと思いませんか。(自画自賛をお許し下さい。)
 それには理由があると私は前から思っています。
 私が安全保障についてと、アングロサクソン、ひいては宗主国米国・・アングロサクソンの中ではできそこないだけど・・について、ちょっとばかし日本の一般の皆さんよりはよく知っているからです。
 日本が抱える問題点の吹きだまりが、(本来安全保障を所管すべき)防衛省であり、案の定、防衛省がらみの話に小沢さんは個人的に足をすくわれただけでなく、民主党党首としては、給油という安全保障問題が致命傷になったことを考えてもみてください。
 また、小沢さんに最終的な引導を渡したのは米国だと私が見ていることも既にご説明したところです。
 だから、民主党の議員諸公、私を信じて、3で私が訴えたことを忠実に実行してくださいね。
 そうすれば、民主党は必ず政権をとれるけれど、実行しなければ、自民党より先に本当に壊滅するかもよ。
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太田述正コラム#2160(2007.11.4)
<小沢辞任(続)>
→完全非公開。

太田述正コラム#2086(2007.9.26)
<福田康夫体制を点検する(その2)>

4 内閣

 (1)布陣

 25日に編成された福田内閣の布陣ですが、17閣僚のうち、安倍改造内閣とポストが変わらない再任は13閣僚にのぼり、変動した4ポストも町村、高村両氏が横滑りで、新任閣僚は、伊吹文明自民党幹事長の後任の渡海紀三朗文部科学相と、高村氏の後任の石破茂防衛相の2人だけであり、閣外に去ったのは与謝野馨官房長官と伊吹氏だけでした。
 総裁選で麻生氏を支持した鳩山邦夫法相や甘利明経済産業相も再任されています。
 ちなみに、防衛相から転じた高村正彦外相や、石破防衛相はいずれも2度目の就任です。

 これは、福田新首相自身が述べたように国会中であり混乱を避けたということでしょう。
 新任閣僚を起用する場合、「政治とカネ」をめぐる問題などを調べる時間的余裕が無い事情もあったのではないかと取り沙汰するむきもありますが、資金管理団体の借入金問題を抱える鴨下一郎環境相や政治団体の補助金受給問題がある若林正俊農相を再任させているところをみると、そうではなさそうです。

 石破氏は津島派・・ただし、実質的な長は額賀財務相・・に所属しており、額賀氏を党役員人事では処遇しないこととしたことから、石破氏を入閣させる必要があったと考えられます。
 また、渡海氏は山崎派に所属しており、山崎拓前副総裁を党役員人事で処遇できず、他方、内閣内で処遇することもむつかしかったことから、渡海氏をとりあえず入閣させた、と考えられます。

 他方、総裁選を争った麻生氏は、次の首相を狙う立場から入閣を固辞したため、福田氏が希望した、(山崎派を除く)自民党全派閥の長の党または内閣への取り込みは成りませんでした。
 一人貧乏くじを抽いたのが与謝野前官房長官、ということになります。

 (以上、
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070926k0000m010173000c.html
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070925ig90.htm
http://www.sankei.co.jp/seiji/shusho/070925/shs070925014.htm
(いずれも9月26日アクセス。以下同じ)による。)

 では、福田色は皆無かと言えば、そうでもありません。
 閣僚級以外のところで、福田氏は、自分の意思を貫いています。
 
 政務の官房副長官、大野松茂、岩城光英両氏を再任していますが、どちらも町村派に所属しており、首相官邸の政治家のラインは、首相、官房長官、副長官とすべて町村派で占められた形です。
 また、官僚トップである事務担当の官房副長官は、安倍前首相が任命した旧大蔵省出身の的場順三氏を更迭し、その前の官房副長官だった旧内務省系の自治省出身の二橋正弘氏を再起用しました。
 二橋氏は2003年9月から3年間、小泉政権の官房副長官を務め、福田氏が2004年5月に官房長官を辞任するまで補佐したことから、福田氏とは気心の知れた間柄です。
 と同時に、幹事長に旧大蔵省出身の伊吹氏を就けたので、バランスをとったという見方もできそうです。
 更に、首相の政務秘書官には、長男で秘書を務めていた福田達夫氏(40歳)を起用するとともに、事務秘書官には、財務省の林信光文書課長(1980年入省)、外務省の石兼公博国際協力局政策課長(1981年入省)、経済産業省の菅原郁郎総務課長(同)、警察庁の栗生俊一刑事企画課長(同)の4人を内定しましたが、林、石兼両氏は福田氏が官房長官時代の秘書官です。

 福田氏は、徹底して身内重視をしたということです。
 
 なお、拉致問題担当の中山恭子、教育再生担当の山谷えり子両首相補佐官は再任されています。

 (以上、
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070926it01.htm?from=top
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070926k0000m010134000c.html
による。)

 (2)深刻な問題

 私が深刻な問題だと思うのは、憲法第6条で天皇が国会の指名に基づいて首相を任命すると規定されているにもかかわらず、福田氏が25日に、国会の指名後ただちに親任式を行うことなく、組閣を行ったことです。
 新閣僚の認証式は翌日回しでも仕方ないとしても、これはおかしいと思いませんか。
 一体何の権限があって福田氏は首相官邸に入り、組閣作業を行うことができたのでしょうか。
 その、まだ正式に首相に就任していない福田氏が、夜10時過ぎに新首相として記者会見に臨んでいるのを見て私は呆れました。
 しかも、その前に新しい「閣僚」達が福田内閣の閣僚として記者会見に臨んでいます。
 彼らは、首相になっていない人物から指名を受けただけなのであって、もちろん認証式も経ていないのですから、これでは日本は法治国家ではないと言わざるをえません。
 福田氏も、新「官房長官」を含む各新「閣僚」も、天皇の存在など全く念頭にないようです。 

 このことは同時に、福田新首相も、入院中も内閣法に基づく首相臨時代理を置かなかった安倍前首相同様、危機管理感覚が欠如していることを示しています。
 26日午前8時半に開始された親任式が終わるまでの間に安全保障上の緊急事態があれば、法的には安倍氏が自衛隊の最高指揮官としての権限を持つというのに安倍氏は新首相指名の衆院本会議に出席した後に再び病院に戻っており、最高指揮官の事実上の不在が更に1日近く続いた上に、最高指揮官を補佐する防衛相も交替途中である、という肌に粟が生じる事態が生じていたわけです。
 こんなことは、大統領ないし首相が核兵器行使権限を持つ国連常任理事国を含む核武装国家ではもちろんですが、それ以外の世界のまともな独立国でも、およそ考えられないことです。
 米国の保護国である日本の首相の座の軽さが改めてよく分かりますね。

 (以上、
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070926AT3S2501M25092007.html
を参考にした。)

(完)
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 コラム#2087(2007.9.26)「ミャンマー動く(続々)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
 ・・
 9月25日、ミャンマーの軍事政権は・・<夜間>外出禁止令と・・集会禁止令を発出しました。
 ・・
 26日に、ついに軍事政権は反撃に出ました。
 ヤンゴンでのデモ隊に盾と警棒で殴りかかり、威嚇射撃も行ったのです。
 未確認情報によれば、約300人が逮捕されたといいます。
 ・・
 ミャンマー<に>は・・外国人記者は入国できませんが、これまでの抗議行動がリアルタイムで全世界に伝えられてきたのはインターネットの賜です。
 ・・
 ミャンマーはインターネット後進国の最たるものであり、<しかも、>インターネットアクセスは当局によって規制され監視されているのですが・・この規制・監視のかいくぐり方は、
http://www.rsf.org/rubrique.php3?id_rubrique=542
のようなサイトで教えてくれ・・動画や写真のアップロードや、掲示板への投稿が、
http://ko-htike.blogspot.com/
のようなサイトになされているのです。
 ・・
 英国がミャンマーを・・征服した時、ミャンマーの仏教の最高指導者・・の職を廃止し、仏教の組織的一体性を失わせました。
 ミャンマーの王政廃止とともに、英国の植民地統治がもたらした禍根と言えるでしょう。
 それにもかかわらず、仏教は根強い影響力を持ち続けました。
 ・・
 ・・1988年以降・・、軍事政権は仏教界と仏教関係の学校での教授内容を厳しく統制しています。
 もっとも、その統制は、個々の僧院や若手の僧侶達までは及んでいないようです。
 ・・
 1988年の抗議活動は、軍部の弾圧によって約3,000人の死者を出して挫折しましたが、今回の抗議活動は、1988年当時と違ってインターネットを通じて情報が世界に発信されている点と、同じく1988年と違って抗議活動の中心が学生達ではなく、尊敬を集めているがゆえに軍部も余りひどいことはできないと考えられている僧侶達が中心である点が異なることから、挫折を免れる可能性もある、と思いたいところです。

太田述正コラム#2082(2007.9.24)
<福田康夫体制を点検する(その1)>

1 始めに

 福田康夫氏が自民党総裁・首相に就任する運びになりましたが、彼の率いる体制の布陣を点検してみましょう。

2 総裁・首相

 既に私の福田評は以前(コラム#2064と2076で)申し上げたところですが、それに付け加えておきましょう。

 福田氏の出身校である麻布中学・高校の同級生の声優、柴田秀勝氏が、実に興味深い福田評を語っています。

 「福田には友達がいなかった。部活もやっていなかったし、いつも一人でいたね」
 「もちろん女の子には見向きもしなかった」
 「福田を見た記憶はあるけど… いつも勉強しているか、本を読んでいるか。笑顔も見たことがない。」
 それでいて、「成績は中の上かな。周りからは『東大に行けたのに何で早稲田?』と思われるくらい・・だった」。
 「福田はリーダーシップを取ったことがない。子供のころから自分の殻に閉じこもって頑張ってたから。こんな大変なときに総理になって…。同期も『長続きするかねえ』って言ってるよ」
 「他の同級生仲間も『俺、福田と同じクラスになったことあったっけ?』と首をかしげ合っている」

 (以上、
http://news.livedoor.com/article/detail/3317935/
(9月23日アクセス)による。)

 中高時代の話ではあっても、これでは福田氏は、並の政治家ならともかく、総裁・首相に求められる知的能力と資質に欠ける人物であると言われても仕方ありませんね。

 また、福田氏は、「政治家になりたくてなったわけではない」と言われています(
http://72.14.235.104/search?q=cache:7Jmh81AYr_MJ:news.livedoor.com/article/detail/3307830/+%E7%A6%8F%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%A4%AB%3B%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%8F%E3%81%A6%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%8F%E3%81%91%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84&hl=ja&ct=clnk&cd=5&gl=jp
。9月24日アクセス)。
 自らの政治資金集めにも、首相候補と目されてきたにしては、不熱心であるようです(
http://www.asahi.com/politics/update/0923/TKY200709230151.html
。9月24日アクセス)。
 
 これでは、政治家としての意欲にも疑問符がつかざるをえませんね。

3 自民党

 伊吹文明幹事長、二階俊博総務会長、谷垣禎一政調会長、細田博之幹事長代理、古賀誠選挙対策総局長、という自民党執行部の布陣を見ると、いずれも福田氏の総裁当選に貢献した人々ばかりであり、4人は派閥の領袖であり、1人(細田氏)(注1)は、恐らく福田氏意中の将来の総裁・首相候補であると考えられます。

 (注1)細田氏は、旧通産省出身の2世義員だが、文系なのに科学技術に通暁するとともに、自民党随一の選挙通とされている。私は官僚時代に、政治家になったばかりの細田氏と会合で一緒したくらいの関係しかないが、その時、細田氏をよく知る、氏とそれほど年次の違わない官僚達が恭しく彼に接する態度を見て、細田氏は相当の識見を備えた辣腕官僚であったに違いないと思ったものだ。

 このうち、伊吹、二階の両名にはカネをめぐる不祥事疑惑が囁かれており、これらの人々を内閣から敬して遠ざけた、という見方もできます。
 ただし、敬して遠ざけようと、ここから、前任者の安倍氏同様、福田氏のカネをめぐる不祥事への鈍感さ(朝日前掲)が透けて見えてきます。
 ちなみに古賀氏は、総務会長を打診されたところ、どちらも宏池会の系譜に属する、古賀派と谷垣派同士での合併が取り沙汰されているため、一方の谷垣氏が政調会長になった以上自分は辞退することとし、選挙対策総局長というより軽いポスト回ったとされています。
 どうして、選挙の顔として必ずしもふさわしくない伊吹氏を幹事長に据えたのかについて、種々憶測が飛んでいますが、私は、福田氏の旧大蔵官僚への謝意とコンプレックス(コラム#2064)の表れであると見ています(注2)。

 (注2)私が防衛庁に入ったばかりの頃、当時大蔵省で防衛担当の主査の1人であった伊吹氏のもとに防衛庁の資料を届けさせられたことがある。その時、その資料の内容を既に知っていた伊吹氏が、私に向かって防衛庁はけしからんと怒鳴りつけた。カネを握っているというだけで、他省の、しかも単なる走り使いにこういう態度で接する伊吹氏に呆れたものだ。

 この幹事長人事は福田氏の大いなるチョンボであると言うべきでしょう。

 はっきりしているのは、福田氏が、政治家としての資質と意欲において、この5人のいずれと比べても大いに遜色があることと、知的能力において、伊吹、谷垣、細田各氏に到底及ばないことです。
 ということは、福田内閣は、党務も政策立案も、完全に党まかせになる可能性が高いということであり、実際の政策立案は財務省を中心とした官僚機構主導にならざるをえないということです。
 福田氏はそれでかまわないし、むしろそうあるべきだと思っているということでしょう。 
 やはり、福田体制においても、政官業の癒着体制は、引き続き堅持されることになりそうです。

 (以上、私の見聞を除き、事実関係は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%90%B9%E6%96%87%E6%98%8E
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E4%BF%8A%E5%8D%9A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%9E%A3%E7%A6%8E%E4%B8%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E7%94%B0%E5%8D%9A%E4%B9%8B
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E8%AA%A0
(9月24日アクセス)による。)

(続く)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 コラム#2083(2007.9.24)「ミャンマー動く(続)(その2)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
 ・・
 スーチー女史の父親のアウンサン(Aung San。1915〜47年)はミャンマー独立の父とも言うべき人物です・・。
 ・・
 その女史に決定的な転機が訪れたのは1988年です。
 ネウィンの26年間にわたる社会主義的独裁によってミャンマーが世界の最貧国の一つに転落していたところへ、1987年の9月に政府が紙幣のほとんどを無効化したため、タンス預金が無価値になったことに怒った人々がデモを始め、それが次第に民主化運動に発展していき、1988年7月にネウィンが引退を声明したにもかかわらず、8月8日にはミャンマー全体が騒擾状態に陥ったのです・・。
 病に斃れた母の看病のためにミャンマーに戻っていた女史は、アウンサン将軍の再来として、急速に民主化運動の象徴へと祭り上げられていくのです。
 事態は、軍部による大弾圧と全権掌握、・・スーチー女史を書記長とする政党・国家民主化同盟(NLD)・・の結成へと動き、1990年の総選挙における民主化同盟の大勝利、その軍事政権による無効化、1991年の女史へのノーベル平和賞の授与、と続き、女史は1989年以降断続的に軟禁状態に置かれつつ、現在に至っているわけです。
 この間、女史は一貫して敬虔な仏教徒であり続けるとともに、非暴力主義を訴えてきました。
 ・・
 ネウィン独裁政権にせよ、現在の軍事政権にせよ、彼らなりの大義名分は、軍部支配の終焉は、少数民族の独立によるミャンマー・・現在人口5,500万人・・の崩壊をもたらす、というものです。
 ・・
 その軍事政権は、1989年に国名をビルマからミャンマーに、ラングーンをヤンゴンに改め、1990年代初頭から、従来の社会主義的経済運営を止め、外国からの投資と観光客を呼び込むねらいで経済開放政策をとっています。
 ・・
 しかし、・・NLD弾圧を軍事政権に翻意させるべく1990年から欧米諸国によって経済制裁が行われている<こともあって>、ミャンマーは、中共で起きたような経済的離陸を果たせないでいます。
 ・・
 ここで、諸外国の動きを見てみましょう。

(続く)

太田述正コラム#2064(2007.9.15)
<自民党総裁選挙>

 (本篇は即公開します。)

1 始めに

 自民党総裁選挙は、麻生太郎(1940年〜)氏と福田康夫(1936年〜)氏の一騎打ちということになりました。
 この二人のとりあえずの比較をしてみましょう。

2 麻生太郎

 (1)親がかりの「華麗」な経歴

 ウィキペディア(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E5%A4%AA%E9%83%8E
。9月15日アクセス)から、麻生太郎氏の経歴等を抜き出してみると以下の通りです。

1940年9月 - 福岡県飯塚市に麻生太賀吉と<吉田茂の長女>和子の長男として生まれる・・。小学3年生の頃、上京し学習院初等科に通う。
1959年3月 - 学習院高等科を卒業。
1963年3月 - 学習院大学政経学部政治学科を卒業。
1963年4月 - スタンフォード大学大学院に留学。
1965年 - スタンフォード大学大学院を中退し、ロンドン大学政治経済学院に留学。
1966年8月 - ロンドン大学を中退し、麻生産業株式会社に入社。
1966年11月 - <父親の>麻生産業株式会社の取締役に就任。
1973年5月 - 麻生セメント株式会社の代表取締役社長(1979年12月まで)。
1978年1月 - 社団法人日本青年会議所の会頭に就任(1978年12月まで)。
1979年10月 - 第35回衆議院議員総選挙に(旧福岡2区、現福岡8区)から出馬し初当選。
・・
・・モントリオールオリンピックに日本代表選手として出場(結果は41位)、第2回メキシコ国際射撃大会(クレー・スキート(個人・団体))では優勝。現在日本クレー射撃協会会長を務めている。
・・ 漫画が大好きで、漫画雑誌のほとんどを読み流していると語っており、週に2,30冊のコミック雑誌を読むともいわれている
 
 すぐ気がつくのは、4月に米国の大学に留学するなんておかしいな、ということです。米国の大学の学年の始まりは9月だからです。
 それに彼が何を専攻したのかも分かりません。
 そもそも麻生氏は、本当にスタンフォード大学に入学できたのでしょうか。
 ご承知のように、特段学業成績が抜群でなくとも、吉田茂元首相の孫ということが考慮されて入学が認められたという可能性はありますが・・。
 いずれにせよ、同大学が本当に入学を認めたのだとすれば、麻生氏は、大学院の授業についていくために最低限必要な知的能力と英語力があることは認められたということですが、(ビジネススクールやロースクール以外なら)1年間で通常なら卒業できるところ、2年在籍しても卒業できなかったというわけです。
 その次の英国のLSE留学はもっとヘンです。
 今度は大学院ではなくて学部に留学したことになっています!
 それにLSEは、英国ではオックスフォードやケンブリッジと並ぶ超難関大学であり、ある学業成績抜群の知人の日本人でさえその修士課程への入学を認められなかったという事実に照らすと、学部といえども、麻生氏のような学業経歴の人物が入学するのは簡単ではなかったはずだからです。
 いずれにせよ、ここでも麻生氏は卒業できていません。
 まことに親のスネを囓り続けた「華麗」な遊学経験であることよ、とため息が出ますね。

 (2)海外メディアの評価

 「<麻生は、>米国の外交官は中東の諸問題を絶対に解決できない。なんとなれば彼らは青い目をしていて金髪だからだ」と言った。その時彼は外相だった。経済企画庁長官の時には、日本を金持ちのユダヤ人が住みたくなるような国にしたいと言った。彼はタカ派のナショナリストであり、日本の朝鮮半島における乱暴な植民地統治を称賛して北東アジアで一悶着を引き起こした。・・<安倍を見ても分かるように、>日本が重要で強力な国であるにもかかわらず、その国を担うべき政治的指導者の資質は不釣り合いに低い。・・麻生もまた、<日本の政治的指導者として>ふさわしい人物であるとは言えない。彼が好んで話題にすることと言えばマンガなのだから。」と英ガーディアン紙は麻生氏を一刀両断の元に切り捨てています(
http://www.guardian.co.uk/leaders/story/0,,2167703,00.html
。9月13日アクセス)。

 ロサンゼルスタイムスは、政治評論家の森田実氏の「安倍は最悪の指導者だったが去って行った。遺憾ながら麻生は2番目にできの悪い指導者だ」という言葉を紹介した上で、ボロボロになった自民党は、おじいさんが尊敬される元首相であるところのマンガ好きのナショナリストが、もう一人の元首相の孫であるナショナリストが遺贈して行った混沌から党を救ってくれる最適任の人物かどうか、よくよく考えるべきだ」と麻生氏を冷たく突き放しています(
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-aso13sep13,0,3979742,print.story?coll=la-home-world
。9月14日アクセス)。

3 福田康夫

 (1)親がかりの「華麗」な経歴

 福田氏についても、ウィキペディア(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%A4%AB
。9月15日アクセス)を見てみると、以下の通りです。

総理大臣を経験した福田赳夫の長男にあたる。
・・
# 1949年3月:東京学芸大学附属小学校卒業・・
# 1952年3月:麻布学園中学校卒業
# 1955年3月:麻布学園高等学校卒業
# 1959年3月:早稲田大学政治経済学部経済学科卒業 丸善石油入社
# 1962年3月:米国駐在(2年間)
# 1976年11月:退社し、衆議院議員秘書となる
# 1977年12月:内閣総理大臣秘書官(〜1978年12月)
# 1986年5月:社団法人 金融財政事情研究会理事(〜1994年2月)
# 1990年2月:第39回衆議院議員選挙当選(1期)
・・

 1978年から86年まで何をしていたのかも気になりますが、その後、94年まで8年間金融財政事情研究会(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%9E%8D%E8%B2%A1%E6%94%BF%E4%BA%8B%E6%83%85%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A
。9月15日アクセス)理事をしていた、というのが気になりますね。
 金融・財政に関して知識・経験がさしてあるとは思えない福田氏が、このような社団法人の理事になれたのは、どう考えても、元大蔵官僚で首相を務めた父赳夫のおかげであったとしか思えません。
 金融財政事情研究会は日本で、労働省(厚生労働省)からファイナンシャル・プランニング技能検定指定試験機関の指定を受けている2団体のうちの1つであり、大蔵省(財務省)所管の法人です。
 また、私自身、この社団法人が発行する週刊雑誌の「金融財政事情」は、各官庁が相当数買い上げ(させられて)いることを知っています。
 つまり、この社団法人は、国から特権や便宜を供与されてカネを稼ぎ、その所管官庁(大蔵省)から天下りを受け入れる(
http://www.kinzai.or.jp/info/pdf/yakuin.pdf
http://www.kinzai.or.jp/info/pdf/houshuu.pdf
)受け皿になっているのです。
 親がかりでこんな所の禄を8年間も食んだ人物が、官僚機構と対決できるのでしょうか。いや、そもそも「改革」を口にできるのでしょうか。

 (2)内外メディアの評価

 「対日関係が悪化した小泉政権時代に<中共の>武大偉大使が足しげく官房長官室を訪れ、福田氏を政権とのパイプ役にした」(
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070915AT3S1401V14092007.html
。9月15日アクセス)。
 「福田氏はテレビ番組で自分が首相になった時の靖国神社への参拝について「恐らくないと思う」と述べた。福田氏はこれまでも参拝していなかった。」(
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/kokkai/news/20070915k0000m010180000c.html
。9月15日アクセス)。

 後者は、そのこと自体はともかくとして、前者(コラム#1075も参照)とからめて考えると、いささか疑念が生じてきますね。
 さて、突然自民党総裁候補として浮上しただけに、海外メディアはまだほとんど福田氏をとりあげていませんが、英ファイナンシャル・タイムスは、政治評論家の歳川隆雄氏の、福田氏の支持者にはタカ派とハト派が混在しており、総裁選の投票までの間、麻生氏は福田氏に立場を鮮明にするように迫って行く戦略をとることになるだろう、という言を紹介しています(
http://www.ft.com/cms/s/0/f2e6703a-62ef-11dc-b3ad-0000779fd2ac.html
。9月15日アクセス)。

 情報屋台の掲示板への私の投稿を転載しておきます。

       藤田正美氏の「戦争終結と原爆と核廃絶」について

1 始めに

 藤田正美氏が「戦争終結と原爆と核廃絶」(
http://johoyatai.com/?page=yatai&yid=63&yaid=507
)で「1945年の核爆弾についてわれわれはもっと議論しておかなければならないと思う。」と指摘されていますが、同感です。
 とりあえず、藤田氏の論調に対し、二点ほどコメントさせていただきました。

2 コメント

 (1)補足

>原爆投下は「しょうがない」と発言した久間章生防衛大臣・・は、長崎出身なのにずいぶん不用意な発言をしたものだと思う。

について補足させていただきます。

 「<米>カリフォルニア大学サンタバーバラ校の・・ハセガワ・・教授は、<2005年に上梓した著書において、>・・「原爆投下は日本の降伏をもたらし、百万人の米兵の命を救った」という神話・・を完膚無きまでに打ち砕<きました。>
 ハセガワは、日本が降伏したのは、原爆投下(8月6日広島、8月9日長崎)のためではなく、ソ連の参戦(8月8日)のためであることを証明したのです。
 すなわち、原爆による被害は、広島でも東京大空襲並みであり、焼夷弾によるものであれ原爆によるものであり、戦略爆撃が続くことには日本の政府も軍部も耐えてきたのであり、原爆投下以降も耐えていくつもりだったのに対し、日本の政府も軍部も、ソ連軍によって日本本土が席巻されたり占領されたりすることは絶対に回避しなければならないと考え、降伏を決意したというのです。」(太田述正コラム#819)

 つまり、原爆投下は、単に一般市民を殺戮し、苦しめただけで、政治的にも軍事的にも何の意味もない愚行であったからこそ、強く非難されるべきなのです。


 (2)疑義の提起

>もし犠牲者の多さや民間人が多数殺されたことがその理由なら、1945年3月10日の東京大空襲についてなぜアメリカを非難しないのか。東京大空襲では 10万人が犠牲になったとされている。そしてもしアメリカの無差別爆撃を非難するなら、1938年に日本軍が行った歴史上類を見ない重慶爆撃をどう反省するというのか(重慶爆撃こそ都市に対する無差別爆撃の事実上の始まりとされている)。

 これについては、若干疑義があります。
 まずは以下をお読み下さい。

 「<イタリア人ドゥーエが提唱した>戦略爆撃の目的は、敵の政治的に重要な<拠点>、軍事的生産拠点、交通のネック<等を>撃滅し、敵の戦争遂行能力を喪失させることである・・。
 <日本による>重慶爆撃は、日中戦争・第二次世界大戦と続くこの時期の世界戦争の中で、1937年の<ドイツによる>ゲルニカ爆撃に続く最初期の都市空襲(戦略爆撃)である。・・<重慶爆撃の>爆撃目標は「戦略施設」であり、・・現地部隊への指示では、「敵の最高統帥、最高政治機関の捕捉撃滅に勤めよ」とあり、アメリカ、イギリスなど第三国の施設への被害は避けるようにと厳命されていた。しかしながら重慶は霧がちで、曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、目的施設以外に被害が発生する可能性を承知で爆撃が実施された。・・<また、ゲルニカ爆撃では、>市が立っている市街地を爆撃し、さらに、低空に下りて銃撃(爆撃機がである)を加えたりしている<等>、 ・・明らかに<一般市民を>狙っ<た部分があ>った。
 ・・蒋介石は、重慶爆撃・・の悲惨さを非人道的な無差別爆撃として強調、宣伝することにより、・・外交的にアメリカを日本と中国の戦争に巻き込むことを画策し、・・アメリカの経済制裁に始まって、それに対する資源獲得の為の米軍勢力の払拭の為の日米戦争という形で 見事に成功させた・・。
 <第二次世界大戦においては、>戦争の初期<の>ヨーロッパ戦線では、・・一般市民を殺戮し<てドイツ国民の戦意を喪失させ>・・ようとするイギリス軍と、・・軍事施設と生産施設を・・攻撃するアメリカ軍とは別の理論により<戦略>爆撃が行われていた。・・<しかし、後にアメリカ軍は、>太平洋戦線では、日本相手にB-29爆撃機を用いて、<一般市民を殺戮して日本国民の戦意を喪失させようして、>大規模に都市ごと焼き払う戦法<を>採用<した。>」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%85%B6%E7%88%86%E6%92%83
(7月9日アクセス)。ただし、ゲルニカ爆撃については、
http://en.wikipedia.org/wiki/Bombing_of_Guernica
(7月9日アクセス)により、補正した。)

 つまり、当時でも国際法違反となるところの、一般市民の殺戮を主たる目的とする戦略爆撃を世界で初めて実施したのは、スペイン内戦時のドイツでも日華事変時の日本でもなく、第二次世界大戦時の英国であり米国である、ということです。
 また、原爆投下は、当時でも化学兵器の使用が国際法違反であったことを踏まえれば、原爆が化学兵器以上の後遺症を爆撃生存者に残す残虐な兵器である以上、国際法違反と解すべきなのです。 
 従って、広島と長崎への原爆投下は二重の意味で国際法違反なのであり、だからこそ、ハンブルグ大空襲や東京大空襲等以上に強く非難されてしかるべきなのです。

太田述正コラム#1428(2006.10.2)
<英国の悪人達(その2)>
 
 (BBC History Magazineが、昨年末に11世紀から20世紀まで、各世紀ごとに英国の最大の悪人を一人ずつ、計10人を選んだ中から、前回(コラム#1025)には、11世紀と12世紀の最大の悪人をご紹介しました。ちなみに、11世紀はイギリス国王を何度も裏切った男であり、12世紀は法王の側に立ってイギリス国王に敵対した男でした。
 今回は、一番直近の20世紀における英国の最大の悪人、と名指された人物をご紹介することにしましょう。)

 (3)20世紀:Oswald Mosley
 オズワルド・モズレー(Sir Oswald Ernald Mosley, 6th Baronet。1896??1980年)は、18世紀以来のイギリス貴族の家に生まれ、有名なパブリックスクールであるウィンチェスター校から陸軍士官学校を経て第一次世界大戦で陸と空を舞台に活躍し、戦後、1918年から1924年まで、そして1926年から1931年まで、途中で保守党から労働党へ鞍替えしつつ下院議員を勤めます。
 労働党内閣の下で閣外相であった1930年に彼は、不況克服のために、政府支出の増大・輸出振興・産業政策の実施等を内容とする包括的な政策(注1)を採用するように提案しますが、容れられず、閣外相を辞任します。

 (注1)この政策は、当時の日本政府が採用した政策・・その結実が日本型政治経済体制・・に極めて近いことは興味深い。

 モズレーが悪名をはせるようになるのはそれ以降です。
 1932年に、彼はイタリアでムッソリーニ(Benito Mussolini)に会って感銘を受け、英国ファシスト連合(British Union of Fascists=BUF)を創設し、青年メンバー達に黒シャツを着せて物議を醸します。
 また、モズレーは、1936年に2度目の結婚式をナチスドイツのゲッペルス(Joseph Goebbels)の自宅でヒトラー(Adolf Hitler)等をゲストに執り行います。
 モズレーは、大英帝国をそっくりそのまま欧州と統合させたいという夢を抱いており、ナチスドイツとの平和共存を追求したのです(注2)。

 (注2)彼は、「欧州/大英帝国を勢力圏とする英国」、「アジアを勢力圏とする日本」、及び「アメリカ大陸を勢力圏とする米国」、という三つのアウタルキー政治経済圏が鼎立し、互いに協力しつつソ連が率いる共産主義勢力を封じ込める、という構想を抱いていた。日本が先の大戦で苦し紛れに掲げた大東亜共栄圏構想を先取りしたような構想であり、これも興味深い。

 同じ年の10月4日に彼は、ロンドン東部(East End)のユダヤ人の多い地域でBUFのデモを行おうとしましたが、この地域と全国から集まった30万人以上のユダヤ人・共産主義者・労働組合員・労働党員・アイルランド系カトリック教徒・労働者等が、スペイン内戦における人民戦線側のスローガンである「No Pasaran=通るな!」を唱和しつつ、バリケードをつくったり、石を投げたりしてこの警官隊に守られたデモを妨害し、結局モズレーはこの地域でのデモを断念します。
 これをケーブル街の戦い(Battle of the Cable Street)と言い、英国における反人種差別・反ユダヤ人差別運動上の金字塔とされています。
 1940年になると、制定されたばかりの戦時緊急法令に基づき、BUFは解散させられ、モズレーは妻や他のBUF幹部とともに逮捕されます。そしてモズレーは、裁判を受ける権利を奪われたまま拘禁生活を送り、1943年に病気を理由に釈放されます。
 戦後、彼は長い余生を、途中からパリに「亡命」するような形で送り、1980年に亡くなります。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/farright/story/0,,1884440,00.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Oswald_Mosley
http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/PRmosley.htm
及び、かなりアブナイ典拠である
http://www.ihr.org/jhr/v05/v05p139_Row.html
(いずれも10月1日アクセス)による。)
 英国人は、とにかく欧州由来の「イズム」も、欧州につきものの人種差別やユダヤ人差別も大嫌いであることが、良く分かりますね。

(続く)

太田述正コラム#1405(2006.9.12)
<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その5)>

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 「アングロサクソン対欧州という<法系の対立>図式の中で、ドイツはそのどちらに属するのか」という質問がホームページの掲示板上で読者からあったので、お答えしましょう。
 日本の法学部を出た人間であれば誰でも、「英米法と<欧州>大陸法という図式の中で、ドイツの法系はどちらに属するのか」と聞かれたら、即座に後者の大陸法、と答えることでしょう。
 すなわち、正解は「ドイツは欧州に属する」です。
 しかし、そのようにお答えすると、新たな疑問が湧いて来るかも知れませんね。
 私がコラム#1399で、メイトランドを引用(マクファーレンから孫引き)して、「欧州では、少数派たる外来のゲルマン系の人々はゲルマン法、多数派たる土着のローマ・ガリア系の人々はローマ法という具合に法系が並存していた西ローマ帝国崩壊直後の時代を経て、やがて地域ごとにその地域の慣習法をベースにした俗化したローマ法が法として通用するに至っていたところ、・・1200年頃から・・フランス・スペイン・イタリア・ドイツ・低地地方・・といった、それまでの地域を超えた大地域単位が出現し始め・・、これらの大地域単位の首長(国王等)達がそれぞれ、地域ごとに異なっていた法に代わって大地域単位共通の法として、純粋なローマ法を採用した」と記したことはご記憶のことと思います。
 ここから、ドイツはアングロサクソン同様、ローマ帝国内に侵入しなかったゲルマン人なのだから、ローマ帝国内の土着の人々の法系であったローマ法とは直接関係を持たなかったはずであり、ゲルマン人の法を堅持したのではないか、しかもドイツは、フランスやスペインとは違って、大地域としての凝集力が弱かったのではないか、それなのにそのドイツで1200年以降、純粋なローマ法が採用されるに至ったのはどうしてなのか、という疑問が湧いてきても不思議ではありません。
 実は、フランク帝国が分裂し、やがてその東の半分(後のドイツ)の首長となったオットー(Otto)に対し、何を間違ったか、962年に法王が神聖ローマ帝国皇帝(Holy Roman Emperor)の称号を与えたことが、ドイツのローマ法継受の大きな伏線になったのです。
オットーの王国は、帝国と称するには狭すぎるし、ローマと称するには北方過ぎる上、神聖でも何でもなかった、と皮肉るむきもあるところ、歴代の神聖ローマ皇帝は、自分達は、ローマ帝国の再興を図ろうとしたビザンツ帝国(東ローマ帝国)皇帝ユスティニアヌス(注10)の正統な後継者なのであるからして、ユスティニアヌスの事跡に倣わなければならない、という脅迫観念に取り憑かれるに至ったのです。

 (注10)Justinian 1(483??565年)。旧西ローマ帝国の領域中、北アフリカ、イベリア半島南部及びイタリア半島をゲルマン人から奪い返した。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Justinian_I。9月12日アクセス)

 そして、ユスティニアヌスの最大の事跡の一つが、ローマ法の集大成であるローマ法大全(Corps Juris)の編纂であったことから、ローマ法の普及は神聖ローマ皇帝の責務となったのです。
 (以上、特に断っていない限り
http://history-world.org/holy_roman_empire22.htm、及び
http://cunnan.sca.org.au/wiki/Holy_Roman_Empire
(どちらも9月11日アクセス)による。)
 11世紀から12世紀にかけて法王と皇帝の間で戦わされた叙任権論争(1059??1122年。コラム#546、1229、1230、1232、1236、1242)も、ローマ法の普及に大きな役割を果たしました。というのは、法王側も皇帝側も、自分の主張を裏付ける根拠をローマ法に求めた結果、イタリア、ドイツ等でローマ法の研究が盛んになったからです
http://www.fordham.edu/halsall/sbook1l.html。9月11日アクセス)。
 そして、「イタリアのボローニャの法学校がローマのユスティニアヌス<の>法典の研究・教育を始めたことを契機として、1200年頃から、どの地域においても、この法学校伝来の純粋なローマ法の再継受が進」む(コラム#1399)ことになります。
 とりわけ、徹底的な(再)継受が行われたのがドイツであり、単にローマ法の継受と言えば、15世紀から17世紀にかけてのドイツにおけるローマ法継受を指すところにその徹底ぶりが推し量れます。すなわち、ドイツにおいては、ゲルマン人の法がローマ法によって取って代わられただけでなく、陪審制の廃棄や法の言語のドイツ語からラテン語への切り替え等が行われたのです(
http://links.jstor.org/sici?sici=0002-8762(194210)48%3A1%3C20%3AROTF%22O%3E2.0.CO%3B2-7)(注11)。

 (注11)ローマ法を継受したところのドイツ法及びドイツ法学は、欧州全域の法及び法学をリードしていくことになる。また、17世紀において、30年戦争が終わってウエストファリア条約が結ばれ、ドイツ諸邦の独立性が更に高まると、これらの国家間の関係を規律する法が必要となり、当時神聖ローマ帝国圏、すなわちドイツ圏内の一地方であったオランダ出身のグロティウスらが、ドイツの私法をベースにして国際法を生み出すことなる。この二つはドイツ法ないしドイツ法学の世界に対する二大貢献であると言えよう。
http://history-world.org/holy_roman_empire22.htm前掲)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(続く)

太田述正コラム#1403(2006.9.10)
<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その4)>

 (3)福澤諭吉論
 福澤が、(本当はまるっきり異なる)アングロサクソンと欧州とを一括りにして考えていたのは、福澤がわずか三回洋行した・・二回が米国、一回が欧州(イギリスを含む)・・だけであって欧米経験に乏しかったことや、遠くから欧米を俯瞰せざるをえなかったこと、更には、19世紀後半には、欧州にもイギリス由来の産業革命が普及したことから欧州がアングロサクソンに似通ってきていたことから、やむをえないとしつつ、マクファーレンは、福澤が、前近代と近代(実はアングロサクソン文明)の違いを、集団主義的/ヒエラレルキー(階統)社会に対するところの個人主義的/平等主義社会(PP161)(注8)、と見事に定式化し、近代化(実はアングロサクソン化)の必要性と必然性を主張しただけでなく、自ら日本の近代化の有力な推進者の一人となり、多大の成果を挙げた、として高く評価します(注9)。

 (注8)福澤は、正しく、欧米の個人主義ないし自由主義は、ゲルマン人由来のものであると考えていた(PP225)。
 (注9)福澤諭吉論については、メイトランド論よりも一層、マクファーレンの言葉を私の言葉に置き換えて紹介していることをお断りしておく。
 
マクファーレンは、福澤の功績は、モンテスキュー(1689??1755年。コラム#88、311、503、516、592)がフランスから隣国イギリスを眺めて、自由主義ひいては米独立革命の思想を確立し、アダム・スミス(1723??90年。コラム#529、1126、1220、1254、1255、1257、1259)がスコットランドから「隣国」イギリスを眺めて、資本主義のメカニズムを理論的に提示したのに匹敵する社会思想家としての功績に加え、近代化を欧州文明以上にアングロサクソン文明とは異質な文明において推進し、多大の成果を挙げた社会改革家でもあり、世界史的にはモンテスキューやアダム・スミス以上に評価されてしかるべきである、と主張するのです。
 (以上、特に断っていない限りPP139??150による。)
 日本が福澤のような超一流の社会思想家・社会改革家を生み出すことができたのは、福澤が、日本が急速に近代化するただ中にあって、非近代と近代とを身をもって体験できたこと(PP190)もさることながら、日本文明がイギリスとは別の意味で極めて先進的な文明であったことから、福澤が、モンテスキューやアダム・スミスのように、ひたすらイギリスを仰ぎ見ていたのではなく、批判的に欧米(実はアングロサクソン)を見ていたからである、とマクファーレンは示唆しているように私は思います。
 例えば福澤は、世界でも稀な不可知論(agnosticism=宗教を敬して避ける考え方)的社会であり(PP168??169)、かつ、支那等に比べて権威(天皇という儀礼上の存在)と権力(将軍等)の分離という特徴を持つ(PP220??221)日本にあって、欧米の拝金主義・貧富の差の大きさ・愛情のみによって結びついた夫婦関係(PP238)・弱者の搾取・非白人に対する人種差別・帝国主義(注10)、等を批判し、確かに欧米は科学技術・政治制度・市場経済の面においては日本より優れてはいるが、精神・倫理の面において武士道を持つ日本(PP169、221)より劣っていると考えていました。
 (以上、特に断っていない限りPP188??189による。)

 (注10)福澤が1878年から日本が日清戦争に勝利する1895年までの間、ナショナリスト的なスタンス・・日本の近代化が焦眉の急であるのは日本の独立を確保するためだというスタンス・・をとり、脱亜論を唱えたのは、欧米の帝国主義に対する警戒心からであろう、とマクファーレンは指摘している(PP196、202、206)。

 そして、ここにこそ、日本文明が近代化(アングロサクソン化)の過程で、欧州文明のように危機に瀕することを回避できた秘密がある、とマクファーレンは喝破するのです。

(続く)

太田述正コラム#1402(2006.9.9)
<マクファーレン・マルサス・英日(その1)>(有料。ただし当初から公開)

1 始めに

 マクファーレンの2冊目の本、The Savage Wars of Peace---England, Japan and the Malthusian Trap, Palgrave Macmillan, 2003 の内容をご紹介しましょう。
 なお、この本は、1997年にBlackwell Publishers Ltd. から出版されたハードカバー版のペーパーバック版であり、ハードカバー版の時のIntroductionの前に新たにPrefaceが付されています。
 (ちなみに、既に2回にわたってご紹介してきた1冊目の本はハードカバー版であり、318頁であるのに対し、2冊目の本は427頁であり、いずれの本も一次資料に基づく研究成果というよりは、他人の研究成果をマクファーレンが適宜取捨選択した上で綜合したもの、と言った方がいいでしょう。)
 この本のテーマは、マクファーレンが言うところの、マルサスの二つの罠(Malthusian trap)から人類がどのように逃れることができたかを、人類史上最も早くこの罠から逃れた国であるイギリス(PP25)と、二番目にこの罠から逃れた国である日本とを比較しつつ論じたものです(注1)。

 (注1)マクファーレンは、イギリスと日本は、どちらも島国であるほか、「封建」時代を持ち、世界宗教のピューリタン的形態が見られ、それぞれの地域における産業化の先鞭を切ったといった点で大変良く似ているだけでなく、人口増加のパターンまで類似していて、どちらの国も生産力の増加と人口の増加との関係を早期に断ち切った点まで似ていることを発見して驚いた、と記している(PP6)。
     ちなみに、私は以前(コラム#54で)「イギリスは、<地理的意味における>ヨーロッパ諸国の中で、初めて人口増加と飢饉、疫病等による人口減少のくりかえしの悪循環から逃れることができた」と指摘したところだが、日本の人口動態をイギリスのそれと比較する視点は当時なかった。
 
 マルサスの第一の罠とは、戦争・飢饉・疾病、による人口減少の罠であり、第二の罠とは、第一の罠を逃れた場合に生じる人口増大が、新たに戦争・飢饉・病をもたらすという罠です(PP6??7)。
それでは、この本のさわりをご紹介しましょう。

2 英日はどのようにマルサスの罠を克服したか

 (1)戦争
 支那を例にとれば、13世紀のモンゴルの侵攻により、50年間で人口の約半分の6,000万人を失った(注2)。また、1660年代の清の侵攻時には、人口の17%にあたる2,500万人の人命が失われた。更に、1850年から1863年にかけての太平天国の乱では2,000万人の死亡者が出た(PP52)。

 (注2)イギリス(を含む地理的意味の欧州)と日本がモンゴルの侵攻を免れた意義は大きい。

 イギリスは基本的に島国であり、1066年以降、外敵による大規模な侵攻を受けたことがなく、また、国防のために大きな軍事力を維持する必要もなかった(PP53)。更に、たびたび内乱はあったものの、庶民まで内乱に巻き込まれて難渋したり死亡したりする、ということは基本的になかった(PP54)。
 他方、日本は完全な島国であり、外敵による大規模な侵攻を受けたことが一度もない、という希有な存在だ。しかも、イギリス同様、戦国時代のような内乱期はあったものの、やはり庶民が内乱に巻き込まれて難渋したり死亡したりする、ということは基本的になかった。(PP55??57)

 (2)飢饉
 イギリスで起こった最後の飢饉は、長雨による1315??16年の飢饉であり、当時500万人であったイギリスの人口の約10%の50万人の死亡者が出たのではないかという説もある(PP65??66)。
 日本に関しては、江戸時代に至るまで、飢饉に関する記録はほとんど見出すことができない。
 しかも、江戸時代の累次の飢饉については、それぞれ特定の地方におけるものであって、江戸・大阪・京都等の大都会に地方から飢えた庶民が押しかけたことも、これらの大都会で餓死者が出たこともないし、また、地方における飢饉死亡者の数字は各藩によって意図的に大幅に誇張されたものだ、ということが最近の研究によって明らかになりつつある(PP70??73)。
 これは、日本が、可耕地当たりの人口において、江戸時代、アジア一であったことを考えると驚くべきことだ(PP74)。
 イギリスと日本に飢饉による死亡者が少なかった理由としては、どちらも島国であって海産物を摂れたこと、気候が多様で変わりやすく、日照りや長雨によって全国が一律に被害を受けることがなかったこと(PP75)、前述したように戦争や内乱が少なかったこと、海や河川を利用した水運が発達しており、食糧の運搬が容易にできたこと(PP76)、農業生産性が高く、大きな都市人口を養ったり原始蓄積をすることができるような余剰があったこと(PP77??80)、イギリスでは16世紀末から、日本では江戸時代に入ってから、飢饉の際に政府が価格統制や食糧の放出等の飢饉対策を講じたこと(PP81)、地主が小作人を助けたり小作人が低金利でカネを借りられたりする社会制度が確立していたこと(PP82)、総じて言えば、イギリスも日本も周辺諸国に比べて豊かな国であり、そのことともあいまって、どちらも少なくとも14世紀以降、高度な市場経済が成立していたこと(PP82??83)が挙げられる。

(続く)

太田述正コラム#1400(2006.9.7)
<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その3)>

 (読者の皆さん。分かりにくいと思ったり、おかしいと思った場合は、どしどしご指摘ください。)

 信託と言えば、「信託」銀行や投資「信託」で日本でもおなじみです。
 しかし、私人間でも信託契約を結ぶことはできます。
 そもそも信託とは、「或る者(A)が他人(B)に、自己が有していた財産を移転し、その他人(B)が財産を管理し、場合によっては処分するが、その管理と処分は、一定の目的のもとで行なわれ、その財産または財産の管理・処分から得られる利益は、その財産を管理処分する者(B)ではなく、或る者(A)または第三者(C)に帰属する」(
http://www2.kobe-u.ac.jp/~yamada/02tr/02tr01.pdf#search=%22%E4%BF%A1%E8%A8%97%E6%B3%95%22
。9月7日アクセス)、というものです。
 メイトランドは、イギリスには当初から、ゲルマン時代由来と考えられるopusという信託(trust)的な制度があり、この制度によって司祭への教会用地の提供等がなされていたと指摘します(PP89)。
 メイトランドは、このような土壌の上に、イギリスで信託の思想が花開いたというのですが、それは12世紀に土地相続にあたって遺言の自由が大幅に制限されたことがきっかけになったというのです。
 すなわち、厳格化した土地相続法制/税制のいわば脱法行為として、生前に複数の他人に自分の土地を信託することが、大土地所有者を中心に行われるようになり、やがて大法官(Lord Chancellor。コラム#1334)が、信託を、コモンローを補完するエクイティー(Equity)の一環として認知し、その結果判事達も議会も信託の定着に手を貸すに至ったというのです(PP90??91)。
 信託の意義は、それが非営利的目的の追求を私的に行うとい点で、ローマ法のsosietasに由来するフランスのソシエテ(societe。accentは省略)、ドイツのゲゼルシャフト(Gesellschaft)、そしてこれらに相当するコモンローのパートナーシップ(partnership)のような、契約に基づいて営利的目的の追求を行う存在とは異なる(PP93)一方、ローマ法とコモンローに共に存在する、国家が特許ないし認可して非営利的目的の追求を行う公法人(corporation)とも異なる(PP118)ところにある、とメイトランドは主張します。
 この信託から、「公(public)」と「他人達のための無私の奉仕(disinterested service for the others)」の観念からなる信託の思想が生まれ(PP106??107)、アングロサクソン文明において、この思想を踏まえた各種のアソシエーション(association)が隆盛を極めることになります。
 メイトランドに言わせれば、イギリスの法律家の教育研修機関であるInns of Courtがそうであり、だからこそ、イギリスでは司法の独立が維持できたのですし、労働組合(Trade Union)もそうですし、権力は国民からの信託によって行使されるという観念によってイギリスの政治は深刻な腐敗を免れえたのです。更には、イギリスが海外で植民地を獲得し始めたときも、植民地統治は、植民地の住民が自治できるようになるまで、イギリス政府が信託されたものであると観念されたからこそ、イギリスの植民地は巧まずして拡大を続けることができたというのです。更に、イギリスで、国教会があったにもかかわらず、キリスト教系のセクトが次々に生まれ、それらが活発に活動できたのも、これらセクトが信託的観念に則って活動したからですし、ロイド保険機構やロンドン証券取引所等も信託的観念から生誕したほか、イギリス特有の各種クラブも信託的観念の産物であり、ここから競馬クラブや学会や慈善団体が生まれたというのです(PP97??107)。
 マクファーレンは、以上に加えて、ラグビー・サッカー・クリケット・ホッケー・等ほとんどすべてのチーム・スポーツが中世以降のイギリス起源であることも、その信託の思想と無縁ではないとし、これらのチーム・スポーツは、血縁・信仰・社会的地位・政治権力を排した形で、ルールに則って互いに協力しつつ特定の目的(勝利)を追求していくところ、これは信託の思想の発露である、と指摘しています(PP263)(注7)。

 (注7)日本は、明治維新後、全面的に大陸法(ローマ法)を継受したが、英米法に由来する信託も抜け目なく取り入れた。明治38年には担保附社債信託法ができているし、大正12年には信託法ができている。(神戸大学サイト上掲)

 更にマクファーレンは、アングロサクソン文明は、国王(国家権力)とバラバラの個々人からなる国民との間に、上記のような各種アソシエーションが介在することで、成熟した市民社会(civil society)が成立していたおかげで、個人主義に根ざす遠心力による瓦解を免れえたのに対し、欧州文明においては、中世初期に存在した宗教団体(religious fraternity)・ギルド・荘園・大学等の非国家団体がローマ法の再継受以降、国家と教会によって押しつぶされて行ったと述べ(PP270??271)、そのため、やがて欧州諸国が近代化を図るためにアングロサクソン文明の個人主義が移植されるようになると、欧州文明は必然的に危機に陥ることになったということを示唆しています。

(続く)

太田述正コラム#1399(2006.9.6)
<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その2)>
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 届いたマクファーレンの本を一冊読み終え、二冊目を読み出しているところですが、少なくとも一冊目については、無料版での紹介をもう少し続けることにしました。
 この二冊とも比較的最近のマクファーレンの著書ですが、そのいずれにおいても、彼が日本に注目し、英国と日本を対比しつつ議論を展開していることは、私にとっては驚きであると同時に喜びであり、この私の驚きと喜びを読者の皆さんにもぜひとも味わっていただきたいと思った次第です。
 こんな昔の、しかも小難しい話などご免蒙る、という読者もいらっしゃるかもしれませんが、そこは枉げて腰を据えてお読みになることをお勧めします。そうすれば、日本の国内外情勢がより的確に理解できるようになることは請け合いですし、日本が今後進むべき方向さえ見えてくるかもしれませんよ
 なお、マクファーレンは、1941年にインドのアッサム州に生まれ、オックスフォード大学で修士・博士を取得し、現在、英ケンブリッジ大学の人類科学の教授をしています。彼についてもっと知りたい方は、
http://www.alanmacfarlane.com/
を参照してください。
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 まず、前者についてですが、欧州とイギリスは前述したようにもともと違っていた上に、欧州で、1200年頃からローマ法の再継受が階級制(caste。貴族制・小作制)の深化・普及とほぼ時を同じくして起こった結果、16世紀にはイギリスと欧州は似ても似つかない存在になった(PP13、73、75)というのです。
 すなわち欧州では、少数派たる外来のゲルマン系の人々はゲルマン法、多数派たる土着のローマ・ガリア系の人々はローマ法という具合に法系が並存していた西ローマ帝国崩壊直後の時代を経て、やがて地域ごとにその地域の慣習法をベースにした俗化したローマ法が法として通用するに至っていたところ、イタリアのボローニャの法学校がローマのユスティニアヌス(Justinian)法典の研究・教育を始めたことを契機として、1200年頃から、どの地域においても、この法学校伝来の純粋なローマ法の再継受が進んだ、というのです(PP77)。
 それにしても、どうしてこの時期にローマ法が再継受されたのでしょうか?
 それは、欧州において、フランス・スペイン・イタリア・ドイツ・低地地方(Low Countries)といった、それまでの地域を超えた大地域単位が出現し始めたからであり、これらの大地域単位の首長(国王等)達がそれぞれ、地域ごとに異なっていた法に代わって大地域単位共通の法として、純粋なローマ法を採用したからである、とメイトランドは指摘するのです(注5)(注6)(PP78)。
 
 (注5)ここでも、フランス等に比べ、領域的にコンパクトで、その全領域にわたって単一のゲルマン法たるコモンロー(=「共通」法)を享受してきたイギリスの特殊性が際立つ。実は、イギリスのオックスフォード大学もローマ法研究のメッカの一つであり、おかげで、12世紀中頃から13世紀中頃にかけてイギリスのコモンローもローマ法の影響を相当受けた。しかし、その影響は、論理・方法論・精神の面にとどまり、実体面ではほとんど影響を受けなかった(PP80)。
 (注6)メイトランドによれば、ローマ法は地位(status)の法であるのに対し、コモンロー(ゲルマン法)は個人(individual)の法であって、後者は、家父長制ないしイエ制度の不存在・法の支配(ちなみに、国王も法に従う)・封建制の不存在(領主裁判権や領主への軍役義務等の不存在)・個人の平等(男女平等・親子平等・嫡出子と庶子の平等・血統による貴族や農奴の不存在)・契約/遺言の自由・(土地を含む)個人的所有権の絶対性、等において、前者と異なる(PP41??74)。
 
 法王インノケンティウス(Innocent)3世によって導入された異端審問制度(inquisitory process) による異端弾圧が、1150年から1300年頃にかけて欧州で猖獗を極めたことは、(イギリスではそもそも異端が出現すらしなかったことに鑑みれば、)このローマ法の再継受の必然的帰結であると言えるのではないか、というのがメイトランドの見解です(PP81??82)。
 さて、次に後者についてです。
 アングロサクソン文明と欧州文明の違いとその違いがどのように生じたかは、以上の説明の通りであるところ、メイトランドは、個人主義だけでは遠心力が働いて社会は瓦解してしまうはずなのに、どうしてアングロサクソン社会は瓦解しないのか、という問題を提起し、アングロサクソン文明固有の信託の思想こそ、アングロサクソン社会に求心力を与えている、と考えたのです。

(続く)

太田述正コラム#1397(2006.9.4)
<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その1)>

1 始めに

 注文したマクファーレン(Alan Macfarlane)の本3冊(コラム#1380)のうち、2冊が週末から本日にかけて届きました。
 そこで、まず1冊目の本、The Making of the Modern World?Visions from the West and East, Palgrave 2002 の紹介を行いたいと思います(注1)。

 (注1)太田述正コラムの部分的有料化から2ヶ月ちょっと経ったが、一週間に一回程度の有料版は理論編、一週間に六回程度の無料版は応用編という感じの仕分けになってきている。この際、こういった点を含め、有料版のあり方について、有料読者及び無料読者の皆さんのご意見をお寄せいただきたい。ちなみに、この間、有料読者数も無料読者数もほとんど変化していない。(それぞれ全く増えていない、と言うべきか。)なお、今回のシリーズは理論編だが、一回目だけ例外的に無料版にすることにした。

2 本の概要

 (1)注目点
 何と言ってもこの本が注目されるのは、著者が、West代表としてのE.W.メイトランド(Maitland。1850??1906年)とEast代表としての福澤諭吉(1835??1901年)を対置させる体裁をとっていることです。
 これは、イギリスを代表する法史学者の一人であるメイトランドを、「近代世界観の形成者」と捕らえ直したという点で、そして福澤を「東」におけるそのメイトランドに匹敵する存在として高く評価した点で画期的であると言えるでしょう。

 (2)メイトランド論

 私のアングロサクソン文明・欧州文明峻別論の種本がマクファーレンが1979年に上梓した「イギリスにおける個人主義の起源」(コラム#88)である(注2)とすれば、そのマクファーレンの種本が1895年にメイトランドが上梓したHistory of English Law before the Time of Edward ?? であったことが分かりました。

 (注2)口幅ったいが、私のオリジナリティーは、この両文明峻別論を援用しつつ、欧州文明の特徴を掘り下げた点にある、と自分では考えている。

 さて、これまで読んだマクファーレンの本では、アングロサクソン文明の起源が明確ではあるなせんでしたが、メイトランドが、タキトゥスの「ゲルマニア」等を引用して(PP41等)ゲルマン人起源論を主張していたことを知りました(注3)。

 (注3)私が、「ゲルマニア」を引用しつつ、先回りしてアングロサクソン文明・ゲルマン人起源論を展開していた(コラム#41、125、372、852、854、857)ことは、ちょっぴり自慢してもよかろう。しかも、メイトランドは、イギリスがアングロサクソンの侵攻以降も、何度もゲルマン系の侵攻を受けたことが、イギリスがゲルマン的純粋性を維持できた要因の一つとして挙げている(PP42)のを知ってまたもやびっくりした。たまたま私もおなじことを以前(コラム#854で)指摘しているからだ。

 また、メイトランドが、アングロサクソン文明と欧州文明の最初の岐路について、イギリスではアングロサクソンが侵攻した時にローマ文明が拭い去られた(swept away)のに対し、欧州(フランス・イタリア・スペイン)ではゴート族やブルグンド族は侵攻先のローマ=ガリアの人々の中の圧倒的少数派に過ぎず、しかも彼らが(征服者ではなく)ローマ皇帝の家来ないし同盟者に他ならなかったことからローマ文明の法・宗教・言語が生き残った(注4)ことを挙げている(PP77)ことも知りました。

 (注4)この点も私は先回りして以前(コラム#41で)指摘している。

 以上は、私にとっては目新しい話ではないのですが、瞠目させられたのはメイトランドが指摘している、アングロサクソン文明と欧州文明の二回目の岐路である欧州の再ローマ化(12??16世紀)であり(PP75)、また、アングロサクソン文明で個人主義により社会が瓦解することを食い止めている大きな要素の一つが14世紀に生み出された信託(trust)(PP90)の思想である、という二つです。

(続く)

太田述正コラム#12962006.6.14

<ザルカウィの死(その4)>

6 ブッシュのイラク訪問

 6月8日のザルカウィ死亡の直前に米国でAP通信が行った世論調査によれば、米国民の59%が米国はイラクに介入すべきではなかったと答え、ブッシュ大統領のイラク政策に肯定的評価を与える米国民は33%と今までの最低になりました(http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-zarqawi8jun08,0,2787491,print.story。6月9日アクセス)。

 同じ6月8日には、ザルカウィ死亡が発表された直後に、これがはずみとなって(?)、マリキ(Nuri Kamal al-Maliki)がイラクの首相になってから3週間も経っていたのに、議会内各派の調整が難航して決まらなかった国防・内務・安全保障の各大臣の名前が発表され、39名の閣僚全員が揃いました(http://www.nytimes.com/2006/06/08/world/middleeast/08cnd-iraq.html?ei=5094&en=d6d9b3b68ae5cc4a&hp=&ex=1149825600&partner=homepage&pagewanted=print。6月9日アクセス)。

これで、ブッシュにとってのイラクでの当面の二大懸案事項が一挙に解決されたことになります。

そこで、ブッシュは6月13日に突然イラクを訪問し、マリキ政権激励方々、自分の人気の浮上を図ったのです。

この訪問がいかに極秘裏に行われたかが興味深いので、お話ししましょう。

6月12日には、米国の大統領用別荘のキャンプデービッドで、閣僚や大統領補佐官を集めたイラクに関する2日間の会議の1日目が開かれていたのですが、夕食後、その後の会議をブッシュは欠席して、安全保障担当補佐官らとイラクに向かったのです。この時点でブッシュのイラク訪問を知っていた閣僚は、副大統領・国務長官・国防長官の3人だけでした。ホワイトハウスに残留していたスタッフは誰もこのことを知りませんでした。

ブッシュはまずヘリコプター(注7)でアンドリュー空軍基地へ飛び、そこで、随行記者団(14名)(注8)を既に乗せて、ターミナルから見えないように格納庫の横に待機中であった大統領専用機(Air Force One)に乗り込み、2100過ぎにイラクに向けて飛び立ちました。

(注7)わざわざ、大統領専用ヘリコプター(海兵隊のMarine One)ではなく、目立たないヘリコプターを使用した。

(注8)彼らは、飛行機が出発する24時間前に、それぞれ自宅もしくは出かけた先のレストランや喫茶店でブッシュのイラク行きを知らされたが、固く口止めされ、出発当日は全員がバージニア州アーリントンのホテルに集められ、携帯電話等の通信手段を取り上げられた上で、裏道を通ってアンドリュー空軍基地に連れて行かれた。

イラク時間の1600過ぎに、その1時間前から閉鎖されていたバグダッド国際空港に大統領専用機が到着し、ブッシュは今度はブラックホーク・ヘリコプターに乗り換え、6分間の飛行で、グリーンゾーン内にある米国大使館近くのヘリポートに降り立ったのです(注9)。

(注9)ブッシュが初めてイラクを訪問したのは、200311月の感謝祭の日であり、この時は、バグダッド国際空港で、駐イラク米兵士達に七面鳥等を給仕して激励しただけでとんぼ返りした。今回は二度目の訪問、ということになる。

マリキ首相に、ブッシュがイラクに突然やってきたことが初めて伝えられたのはその時でした。

もともと、その時間に米キャンプデービッドと駐イラク米大使館をTV回線でつないだTV会議が開催されることになっており、大使館には、既にマリキ首相以下のイラク側閣僚・駐イラク米大使・駐イラク米軍司令官らが集まっていたのです。予定と違ったのは、キャンプデービッドで米側の閣僚らとともにこのTV会議に参加するはずだったブッシュと安全保障担当補佐官が、駐イラク大使館でこの会議に参加したことだけでした。

ブッシュはその後、マリキ首相との対談及び駐イラク米軍兵士達の激励を行い、イラクに都合6時間滞在した後、一泊するのは危険なので、その日のうちに、英国経由で米国に戻りました。

(以上、http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-061306bush,0,1712329,print.story?coll=la-home-headlineshttp://www.nytimes.com/2006/06/13/world/middleeast/12cnd-trip.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=printhttp://www.nytimes.com/2006/06/13/world/middleeast/13cnd-iraq.html?ei=5094&en=5129d14357181634&hp=&ex=1150257600&partner=homepage&pagewanted=print(いずれも6月14日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#12922006.6.12

<ザルカウィの死(その3)>

5 ザルカウィ捕捉まで

 米国のCIA等の諜報要員、及び、米陸海空統合特殊部隊たるデルタ・フォース(Delta Force)の対テロ・コマンド、米海軍の特殊部隊のシール(SEAL)の第6チーム、米陸軍のレンジャー(Rangers)からなるタスクフォースは、200312月のサダム・フセインの追跡に協力し、フセインの逮捕に成功した後、今度はザルカウィを追いかけたのですが、なかなかうまくいきませんでした。

 ザルカウィは変装の名人であり、神出鬼没だったからです。

 昨200511月にザルカウィがヨルダンの三つのホテルの同時自爆テロ事件を引き起こし、60名余の死者を出したことを契機に、ヨルダンのアブドラ国王がヨルダンの諜報機関にイラクのザルカウィ討伐の専門部局設置を命じたことで、米国とヨルダンが手を携えてザルカウィを捕捉する態勢ができました。

 ヨルダンの諜報要員は、イラクのアラブ人の中に、全く気付かれずに入り込むことができ、情報収集に大いに貢献するのです(注5)。

 (注5)日本では陸上自衛隊にレンジャー要員こそいるが、主として対テロ作戦を行うところのデルタ・フォースに相当する特殊部隊はない。(ちなみにこの種部隊の元祖は英国のSASだ。)もちろん、日本には諜報機関もない。何ともなさけない限りだ。

 今年に入ってからは、サダム・フセインに忠誠心を抱く旧バース党員たるイラク不穏分子の中でザルカウィの残虐さとシーア派へのテロ攻撃に反発する連中からの情報が次々に入るようになります。更に、ザルカウィ一味の中からもイラク人でもヨルダン人でもない一人の内通者が出てきて、ザルカウィの連絡要員3名が誰かを教えてくれました。

 事態が大きく進展したのは、先月、ヨルダンの諜報要員がヨルダンの一人の関税職員を逮捕したことです。この職員は、ザルカウィ一味へのヨルダン経由でのカネや物資の供給を担当していた人物であり、彼からザルカウィの教戒師(spiritual adviser=ザルカウィの言動にイスラム教的根拠付けを提供する人物)に関する情報が引き出せたのです。

 その間、イラク国内のザルカウィ一味の17の拠点が把握されており、米タスクフォースは、盗聴器によってそのうちの一つに潜伏中のこの教戒師をつきとめます。

 米タスクフォースは、教戒師はプレデター(Predator)無人偵察機で上空から監視下に置き、連絡係3名もマンツーマンで監視下に置きました。

 教戒師と連絡係のうちの一人の計2名が同じ場所、バクーバ(Baquba)・・その近くの村にザルカウィの隠れ家があった・・を目指して動き出した時、デルタ・フォースは行動を起こします。

こうして、ザルカウィの隠れ家の周りに、数名のデルタ・フォース隊員達が接近したのです。

 自分達だけで隠れ家を急襲するには人員数も武器も不足していた上、夕刻が近づいていました。もちろん応援部隊は頼んでいたのだけれど、この間に、数人がこの隠れ家を訪れ、数人が隠れ家から出かけていきました。出かけた中にはザルカウィはいなかったものの、隊員達の焦燥感は募りました。

 そこで、彼らは空爆の要請をしたのです。

(以上、http://www.time.com/time/magazine/printout/0,8816,1202929,00.html(6月12日アクセス)、http://observer.guardian.co.uk/world/story/0,,1794904,00.html(6月11日アクセス)、及びhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/06/10/AR2006061000528_pf.html(6月11日アクセス)による。)

それから先は、既にご説明したとおりです(注6)。

 (注6)2機のF-16がそれぞれ一個の爆弾を投下したと書いた(コラム#1286)が、2個の爆弾は1機のF-16から投下されたようだ(http://www.nytimes.com/2006/06/11/world/middleeast/11scene.html?pagewanted=print。6月11日アクセス)。

(続く)

太田述正コラム#12882006.6.10

<ザルカウィの死(その2)>

4 ザルカウィの特異性

 (1)特異性の起源

 ザルカウィ(本名はAhmad Fadil Nazal al-Khalayleh)は、ベドウィンのベニハッサン族(Beni Hassan tribe of Bedouin)の一員として、ヨルダンの首都アンマンの近郊の工業と犯罪の町であるザルカ(Zarqa。彼の通称の由来)で生まれますが、父親を亡くし、一家の生活が窮乏すると悪事に手を染めるようになり、17歳で学校をドロップアウトして街のギャングとしての生活に入ります。婦女暴行で入獄したこともあります。

 その彼の転機になったのは、やはりギャングが横行していたパレスティナ難民キャンプに彼が出入りするようになり、そこでイスラム過激派の思想に接したことです(注3)。

 (以上、http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1793632,00.html及びhttp://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1494965,00.html(6月9日アクセス)による。)

 (注3)それ以降の、ザルカウィのビンラディンとの出会いと両者の関係の紆余曲折や、ザルカウィのイラクとの関わりが米国をして対イラク戦を決意させた要因の一つとなったこと、等については、上記二つのガーディアン記事及びhttp://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1793709,00.html(6月9日アクセス)参照。また、ザルカウィ一味が実行したヨルダン内でのテロ、イラク内での国連機関・米国等の部隊及び機関等・新生イラク政府・シーア派聖職者や一般住民、等に対するテロについてはhttp://www.nytimes.com/2006/06/08/world/middleeast/08cnd-assess.html?pagewanted=print(6月9日アクセス)参照。

(2)残虐さ

 ザルカウィは、氏も育ちもサウディの名門の財閥に生まれ育ったビンラディンとは月とスッポンであり、ビンラディンのようにイスラム教「理論」を口にするような能力もまた持ち合わせてはいませんでした。

彼の唯一の取り柄と言えば、ギャング時代に身につけた残虐さくらいであり、人々を震撼させ、多くの人々の反発を呼んだところの、人質の首をナイフで切り落とさせたり、場合によっては自分で切り落としたりする彼の残虐さのおかげで、彼の悪名は世界に轟きました。

(以上、http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1494965,00.html上掲による)。

(3)シーア派への攻撃

 イラクのスンニ派不穏分子に向かって、最初にシーア派への攻撃を促したのはザルカウィでした。

 彼が2004年の初期に発出した書簡には、「<スンニ派とシーア派の間の>セクト間戦争」こそ、シーア派の反撃とこれに対するイラク外からのスンニ派を結集した再反撃をもたらすことにより、イラクのスンニ派不穏分子が勝利を収める展望を開く唯一の方法だ、と記されていますNYタイムス上掲)。

 私には、これもまた、彼がギャング間抗争から学んだ手法のように思えてならないのです(注4)。

 (注4)もっとも、これをザルカウィに吹き込んだのは、シーア派神政国家イランだという説もある(http://www.slate.com/id/2143305/nav/tap1/。6月9日アクセス)。イラク国内の同朋たるシーア派を塗炭の苦しみに陥らせるようなことをイランがやるわけがない、と思われるかも知れないが、イラク国内の混乱が続くことは、米国のイランに対する圧力を弱めることとなるし、またその混乱がイラクを超えて、シーア派が多数居住する湾岸全体に波及すれば、イランの覇権を湾岸一帯に確立する契機になる、とイランが考えている可能性を全く否定することはできない。

(続く)

太田述正コラム#12862006.6.9

<ザルカウィの死(その1)>

 (本篇は、6月10日に上梓しました。)

1 始めに

 米英のメディアはこの一両日、イラクにおけるアルカーイダ系テロリストの元締めであったザルカウィ(Abu Musab Zarqawi1966??2006年)の死の話題で持ちきりです。

 「戦争」をしている相手の巨頭を斃したのですから、分からないでもありません。

 他方、日本では比較的小さい扱いにとどまっています。

 そこで、米英のメディアの報道ぶりの一端をご紹介することにしましょう。

2 ザルカウィは即死ではなかった

 隠れ家に500ポンド爆弾を2個も落とされたにもかかわらず、地上部隊が踏み込んだ時にはザルカウィはまだ生きていた、という報道(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/06/09/AR2006060900473_pf.html。6月10日アクセス)に最初に接した時には首をかしげました。

 しかし、この記事を良く読むと、隠れ家の爆撃を行った米軍のF-16 2機は、イラクの幹線道路沿いに設置されている爆発物を探知するための通常の偵察任務に従事していたところ、突然命令が出て、隠れ家爆撃に赴いた、と書いてありました。

 そのため、この2機のF-16は、常時携行している500ポンド爆弾(注1)を1個ずつ投下したけれど、それらは汎用性の爆弾であって、人員殺傷用に特化した爆弾ではなかったため、ザルカウィは即死しなかった、ということのようです。

 (注1)使用された2個の爆弾は、GBU-12という606ポンドのレーザー誘導爆弾とGBU-38という552ポンドの衛星誘導爆弾だった。なぜどちらも500ポンド爆弾と呼ぶかというと、両者は500ポンドのMK82という爆弾に導火線・誘導システム・翼/尾翼等を付け加えたものだからだ。また、500ポンド爆弾とはいっても、爆薬は200ポンドだけであり、残りの300ポンドは鉄鋼製の外殻の重さであり、これによってこの爆弾は目標物を貫徹するとともに、破砕効果を生じる。なお、MK82TNTより強力な爆薬を使用しているので、1個の爆発威力はTNT240ポンドに相当する。(http://www.slate.com/id/2143302/。6月10日アクセス)

3 次はビンラディンか?

 次にはいよいよアルカーイダのリーダーのビンラディン(Osama bin Laden1957年??)か、と思いたいところですが、そうは問屋がおろさないようです。

 ザルカウィは、イラクの首都バグダッドからわずか30マイルの所に潜み、そこからテロ活動の陣頭指揮をとっていたのに対し、ビンラディンは、人影の稀なアフガニスタンとパキスタンの国境地帯に潜み、ほとんど活動らしい活動をしないでいるからです。

(以上、http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-binladen9jun09,1,122338,print.story?coll=la-headlines-world(6月10日アクセス)による。)

致命的だったのは、ビンラディンが彼に忠誠を尽くす住民達によって守られている(ロサンゼルスタイムス上掲)のに対し、ザルカウィはアルカーイダ系の中ですらお荷物になりつつあったことです。

というのは、ザルカウィ一味による、シーア派の一般住民を対象にした爆弾テロや、ザルカウィ自身が手を下したこともあるとされる、しばしばビデオ放映されてきたところの人質の首切り、というやり方は、シーア派はもとより、スンニ派の過激派の多くをも離間させつつあったからです(注2)。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-brannan9jun09,0,1100800,print.story?coll=la-news-comment-opinions(6月10日アクセス)による。)

(注2)ビンラディンは、ザルカウィに比べるとはるかに「人道的」な人物だ。ビンラディンは9.11同時多発テロの首謀者だが、これは「敵国」の不特定多数の人々の大量殺戮を目的とした行為であり、蛮行には違いないけれども、米国だって日本への原爆投下という蛮行を行ったことを忘れてはなるまい。そのビンラディンは、特定の個人の暗殺にあたっては、子供が巻き添えにならないように配意するような人物なのだ。1991年にアルカーイダは当時のアフガニスタン国王(Zahir Shah)の(亡命先のローマでの)暗殺を試みたが、その時ビンラディンは、子供が巻き添えになるようだったら、決して手を出すな、という指示を出している(http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/HF10Ak01.html。6月10日アクセス)。

(続く)

太田述正コラム#12712006.6.2

<アブナイ人物リスト(その2)>

3 暗殺されそうな有名人リスト

 (1)リスト

 次は、今年3月の米フォーリンポリシー誌に掲載された、暗殺されそうな有名人リストhttp://www.foreignpolicy.com/story/cms.php?story_id=3400&fpsrc=ealert060328(3月30日アクセス)です。

・アフガニスタン大統領カルザイ(Hamid Karzai):そのタリバン狩りと軍閥解体政策によって、タリバン残党と「味方」の旧軍閥首領達からねらわれている。コラム#1731905616351150

・ロシア大統領プーチン:そのチェチェン政策によって、ロシア内外のイスラム過激派からねらわれている。前述

・ベネズエラ大統領チャベス:その反米政策によって、旧軍部や旧政権の幹部からねらわれている。前述

・パキスタン大統領ムシャラフ(Pervez Musharraf):そのアルカーイダ等イスラム過激派摘発政策によって、イスラム過激派及びそのシンパたる下級軍人達からねらわれている。コラム#910242539686963767968268374992410751087

 ・サウディアラビア国王アブドラ(Abdullah):そのイスラム過激派摘発及び近代化政策によって、イスラム過激派からねらわれている。コラム#924

・アルカーイダ指導者オサマビンラディン(Osama bin Laden):米国の敵ナンバーワンであるがゆえに、米軍からねらわれている。コラム#510551831901911962023883893903953964745059751233

・イラクのシーア派宗教指導者(Ayatollahシスタニ(Ali Sistani)師:そのイラク・シーア派の一体性維持及びプラグマティックな「政策」によって、スンニ過激派やシーア派内敵対勢力からねらわれている。コラム#314323371482500674685903

(2)コメント

このリストも網羅的ではなさそうですが、この6名の有名人は、いずれも治安に大きな懸念のある環境に置かれているわけですが、彼らは、ビンラディンやシスタニのように国家の首脳ではない人物か、国家の首脳の場合は、独裁者ではない人物(ただし、プーチンとチャベスは独裁者もどき)であり、独裁権力でテロリストを完全に押さえ込むことができない、という共通点があります。

敵は多くても、治安に大きな懸念のない環境に置かれている自由・民主主義国家のブッシュ米大統領や、敵が多い上に治安にも懸念はあるけれど、テロリストをほぼ完全に押さえ込むことが可能な独裁者たる金正日やカストロは、おおむね安全だ、ということです。

それにしても、この6名は、命を張って生きておられるだけに、テロや武力紛争を追いかけることが多い私のコラムには、これまで何らかの形で登場された方々ばかりですね。

これらの方々の運命やいかに?

いささか不謹慎ながら、興味津々ですね。

(完)

太田述正コラム#12702006.6.1

<アブナイ人物リスト(その1)>

1 始めに

 Vフォー・ヴェンデッタ鑑賞記を書いたついでに、独裁者といつ暗殺されても不思議ではない世界の有名人の最新のリストをご披露しておきましょう。

2 独裁者リスト

 (1)概観

 2003年にフセインという独裁者が消えたけれど、何が恐ろしいと言って、欧州が生み出した民主主義独裁・・さまざまなバリエーションあり・・が、まだまだ世界の随所で「健在」であることほど恐ろしいことはありません。

 これら独裁者達は、国内で人権蹂躙と腐敗の限りを尽くしているだけでなく、大量破壊兵器の輸入や開発に手を染めている者も少なくないだけに、その人類に対する脅威の程度は、国家を後ろ盾にしていないアルカーイダ等のテロリスト団体よりはるかに深刻だと言ってよいでしょう。

(以上、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/04/21/AR2006042101772_pf.html(4月23日アクセス)を参考にした。)

(2)リスト

  独裁者リストはざっと次のとおりです。

<独裁者もどき>

 ・ロシア大統領プーチン(Vladimir Putin):多すぎるのでコラム番号は挙げない。

 ・ベネズエラ大統領チャベス(Hugo Chavez):コラム#7327337561034

 ・イラン大統領アフマディネジャド(Mahmoud Ahmadinejad):コラム#769??772775828868875902924993994101010111013103410851090

 <独裁者>

・シリア大統領アサド(Bashar al-Assad):コラム#97324488660661663686901903926929930

 ・北朝鮮軍事委員長金正日(Kim Jong Il):多すぎるのでコラム番号は挙げない。

 ・ジンバブエ大統領ムガベ(Robert Mugabe):コラム#731

・キューバ大統領カストロ(Fidel Castro):コラム#123171329330732838

・ウズベキスタン大統領カリモフ(Islam Karimov):ソ連邦崩壊時(1991年)??。コラム#730

 ・トルクメニスタン大統領ニヤーゾフ(Saparmurat Niyazov):ソ連邦崩壊以前(1985)から

(以上、ワシントンポスト上掲による。)

・ベラルス大統領ルカシェンコ(Alexander Lukashenko):1994年??

・ネパール国王ギャネンドラ(Gyanendra)(注1):コラム#63712091213

 ・赤道ギニア大統領グエマ(Teodoro Obiang Nguema):1979年??

 ・エチオピア首相ゼナウィ(Meles Zenawi):1991年??、ただし、1991??95年は暫定大統領。

 ・エリトリア大統領アフエルキ(Isaias Afwerki):エチオピアからの独立時(1993年)??

(以上、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/04/21/AR2006042101767_pf.html(4月23日アクセス)による。なお、カリモフとニヤーゾフは、ワシントンポストの上掲記事にも出てくる。)(注2

 (注1)先般、独裁者の地位から転落したばかりだ(コラム#1209)。

 (注2)後の方のワシントンポスト記事には、ウガンダの反政府ゲリラの指導者兼新興宗教教祖のコーニー(Joseph Kony Leader, Lord's Resistance Army)も登場するが、彼は国家首脳ではないので、除いた。ただし、彼のせいで、ウガンダでは既に20万人もの人々が命を落としているという。機会があれば、改めてこのコーニーについて取り上げてみたい。

 (3)コメント

 以上のリストは網羅的なものではありませんが、この二つのワシントンポスト記事に、中共やベトナムが登場しないことはイミシンです。

 これは、米国の政府もマスコミも、現在のトウ小平亡き後の中共やホーチミン亡き後のベトナム、それに(恐らく)スターリン亡き後のソ連は、一党独裁ではあっても、個人独裁ではない、という認識だからでしょう。

 このような考え方からすれば、個人独裁のキューバや北朝鮮に対して自由・民主主義陣営が経済制裁を行うのは当然だ、ということになります(注3)。

 (注3)ハベル(Vaclav Havel元チェコスロバキア大統領、オルブライト元米国務長官のほか、フランスの哲学者、ハンガリーの元大統領、リトワニアの元大統領、ポーランドの雑誌編集長が共同論考で、カストロによる人権蹂躙を咎め、EUのこれまでの対キューバ宥和策を厳しく批判しているhttp://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2006/05/22/2003309506。5月22日アクセス)。この批判は傾聴に値する。村上龍氏等、日本のキューバに甘い有識者の諸君にも聞こえたかな?

(続く)

太田述正コラム#12182006.5.6

<チャルマーズ・ジョンソン保護国日韓を語る(その2)>

3 韓国篇

 (1)ジョンソンの指摘

 旧日本帝国から「独立」した韓国も米国は保護国にしたが、韓国は米国からの独立をほぼ果たした。

 それは以下のような経過をたどった。

 米国は、1950年代にはウッドロー・ウィルソンの教え子で亡命者だった李承晩(Syngman Rhee)を傀儡の独裁者に据えた。

 1960年に学生運動によって李の腐敗した政権が倒れ、民主主義が樹立されそうになると、米国は、日本の士官学校である満州軍官学校卒で日本の敗戦まで日本の陸軍士官であった朴正熙(Park Chung-hee)将軍を支援して1963年に権力を握らせた。1979年にはKCIA長官が夕食の席上朴を射殺したが、これは長官が米国の指示を受けて、核兵器の開発を目論んでいた朴大統領を殺したのだという噂が立った。

その後1980年からは、少将であった全斗煥(Chun Doo-hwan)が、米国の意向を受けて、二度目の軍事独裁政権を樹立した。

 その年、民主化を求めて光州(Kwangju)市民達とソウルの学生達が立ち上がったのだが、在韓米国大使は「暴徒に対しては断固たる措置が必要だ」と述べ、米軍は、国連軍の指揮下にあった韓国軍を一時的に全の統制に委ね、1981年、全は光州での市民運動の弾圧に韓国軍を用い、数千人の市民を殺害した。

 しかし、1987年にはまたも民主化運動が盛り上がった。今回はソウルの学生達を急速に数を増しつつあった豊かな中産階級の市民達が支援した。全は、翌1988年にソウル・オリンピックを控えていただけに、光州事件の時のような形の弾圧を行うわけにはいかなかった。

 そこで全は、米国の意向の下、「同志」盧泰愚(Roh Tae-woo)将軍に大統領職を譲り渡し、オリンピックを予定通り開催にこぎつけた。このような状況下で盧は民主化策をとらざるをえず、その結果、1993年の大統領選挙では、非軍人たる金泳三(Kim Young-sam)が当選する。

この間、1989年に韓国議会が光州事件の調査を行おうとしたとき、米国政府は協力を拒み、事件当時の在韓米国大使及び在韓米軍司令官に対し、証言することを禁ずる措置をとった。

 1995年には金泳三政権は全と盧を逮捕し、(それぞれ12億米ドル、6億3,000万米ドルの)収賄容疑、1979年のクーデター容疑、及び光州事件における虐殺容疑で訴追した。一審では全・盧の両者とも死刑を言い渡されたが、最高裁では減刑された。その後1997年に大統領に就任した金大中(Kim Dae-jung)は、何度も全に殺されかけた人物だが、両者を赦免する。

 このようにして韓国は、軍事政権を打倒し民主主義をほぼ確立し、米国からの独立もほぼ果たしたのだ。しかし、軍事政権を支援し民主化運動の弾圧に手を貸したところの、旧宗主国米国に対する韓国民の怒りは容易に収まる気配がない。

 

 (2)コメント

 現時点では、日米同盟は盤石であるのに対し、米韓同盟は風前の灯火といった趣きがありますが、宗主国によるコントロールに怒って独立をほぼ果たした理想主義的な韓国と、怒ることを忘れて宗主国の保護国的地位に甘んじる現実主義的な日本とのどちらが、(母国英国が課したささやかな税金に怒って独立戦争を経て建国した)米国と長期的に、互いに敬意を抱いた信頼関係を構築できるかは、申し上げるまでもないでしょう。

 韓国における対支事大主義の残滓は問題ですが、対米関係に関する限りは、日本は少し韓国の爪の垢でも煎じて飲んだ方が良いと私は思います。

(完)

太田述正コラム#12172006.5.5

<チャルマーズ・ジョンソン保護国日韓を語る(その1)>

1 始めに

 日本は米国の保護国だと申し上げてきたところですが、あの(コラム#11451148でお馴染みの)チャルマーズ・ジョンソンが、戦後米国が、日本と韓国という二つの保護国の内政をどのように左右してきたかを、アジアタイムス掲載の論考(http://atimes01.atimes.com/atimes/Front_Page/HE04Aa01.html。5月5日アクセス)に記しているので、それぞれについて、要約してご紹介しましょう。

 なお、部分的に私の言葉に直したことをお断りしておきます。

2 日本篇

 (1)ジョンソンの指摘

 日本は、中共と並んで、現存する最長の一党独裁国家の代表だ。

 日本で自由民主党の、そして中共で中国共産党の支配が始まったのはほぼ同じ時期であり、自民党と中国共産党の違いは、前者が1993年から94年にかけての短期間政権の座を離れたことくらいだ。

 日本が米国の保護国(satellite)であり続けたのも、自民党による日本の支配が続いたのも、宗主国米国の意思が働いている。そこに日本国民自身の意思も働いていることは、日本国民が米国が占領中に押しつけた憲法を墨守してきたこと一つとっても、否定はできないが・・。

 1950年代には、日本社会党が政権を獲ることがないよう、米国は自民党に秘密裏に資金援助を行った。

 また、戦時中軍需相であった岸信介が首相になった背景には米国の意向があった。

 更に米国は、日本社会党の力を削ぐために、日本社会党から分裂した民主社会党を支援し資金援助を行った。

 1960年には、国民の広汎な支持のあった安保改訂反対勢力と対峙した自民党政府を維持すべく米国は腐心した。

 このように米国の保護国であり続けるとともに米国の意向に従って自民党による支配に甘んじる見返りに、日本は、戦後の米国のイデオロギーに反する日本型経済社会体制(Japanese Model)を継続することを許された。

 日本型経済社会体制は、国内的には私有財産制と産業政策(industrial policy(注)・・国家による経済目標・市場・結果のコントロール・・が結合した体制であり、対外的には高関税等による保護主義によって国際的競争から守られていた。

 (注)産業政策は戦後の米国のイデオロギーに反すると言っても、戦後の米国は一貫して国防省による事実上の産業政策の下、軍産複合体が維持され、軍事ケインズ主義が実施されてきた。

 

皮肉なことに、保護主義は、建国以来1940年までの米国の経済政策の基本であり、そのおかげで米国経済は順調に発展したわけなのだが、日本はこのマネをしたのだ。

 (2)コメント

 自民党が米国から資金援助を受けたり、米国のお眼鏡にかなわない人物しか日本の首相にはなれない、といったことは、かねてより小さい声で囁かれてきたことですが、あっけらかんと指摘してくれた米国人ジョンソンに、ここは感謝の意を表しておきましょう。

(続く)

太田述正コラム#10252006.1.1

<英国の悪人達(その1)>

 (私のホームページの時事コラム欄は、2006年に対応していないことを発見しました。ホスティング会社に是正してもらうまでは、時事コラム欄には掲載できません。)

1 始めに

 BBC History Magazineが、昨年末に11世紀から20世紀まで、各世紀ごとに英国の最大の悪人を一人ずつ、計10人を選んだ(http://www.guardian.co.uk/britain/article/0,2763,1674066,00.html1229日アクセス)及びhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/4560716.stm(1月1日アクセス))

ので、ご紹介しましょう。

 悪人達を通じて英国、とりわけイギリスの姿が浮き彫りになれば、乞うご喝采。

2 悪人達の紹介

 (1)11世紀:Eadric Streona

イードリック(Eadric Streona。?1017年)はイギリス国王エセルレッド2世(Ethelred 2 Ethelred the Unready968?1016年。在位978?1013年・1014?16年)http://en.wikipedia.org/wiki/Ethelred_II_of_England。1月1日アクセス)の重臣でしたが、1008年から1009年にかけてのバイキングの侵攻の際に侵攻側に内通し、1015年にデンマーク王家のクヌーズ(=カヌート=Cnut995?1035年)(注1)が侵攻してくるとクヌーズ側に寝返ります。

 ところが、エセルレッドが戦死してその息子エドムンド2世(Edmund 2Edmund Ironside989??1016年。在位1016年)(http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_II_of_England。1月1日アクセス)が後を継いで戦況の巻き返しに成功すると、イードリックは今度はエドムンド側に寝返ります。

 1016年に一時、エドムンドとクヌーズはイギリスを分割して統治しますが、同年中に恐らくイードリックによってエドムンドは殺害され、その結果、クヌーズがイギリス全土を手中に収めます。そして翌年クヌーズは、勝ち馬に乗り換えるべく度重なる寝返りを行ったイードリックを処刑するのです。

(以上、特に断っていない限りhttp://cunnan.sca.org.au/wiki/Eadric_Streona(1月1日アクセス)による。)

 (注11016年にイギリス王に就任、1018年には兄の死亡に伴いデンマーク王に就任、1028年にはノルウェー王にも就任し、三つの国王を兼ね、大王と称された。カヌートの死後7年でこの「帝国」は崩壊する(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%88%E5%A4%A7%E7%8E%8B。1月1日アクセス)

 (2)12世紀:Thomas Becket

 トマス・ベケット(Thomas Becket1118??70年)はイギリス国王ヘンリー2世の重臣(国璽尚書)にして友人であり、当時フランスに大所領を有していた国王がフランスに出かけて留守の時は、ベケットがイギリスをまかされる、という間柄でした。

そこへヘンリーは好意で、1162年にイギリスにおけるカトリック教会の長であるカンタベリー大僧正に任命しようとします。

 当時法王は、国王の破門権を持ち、国王は破門されると地獄行きが決定し、臣民は国王に従う必要がなくなる、というわけで、法王は国王よりも優位にありました。カンタベリー大僧正はイギリスにおける法王の代表ですから、ヘンリーにしてみれば、友人ベケットをイギリスのナンバー2以上の存在に引き立てようとしたわけです。

 ヘンリーとしては、当時僧侶達は希望すれば国王の裁判所ではなく教会裁判所で裁判を受けることができたところ、教会裁判所では厳しい刑罰が科されない、という状況をベケットが打破し、国王によるイギリスの一元的支配(イギリス臣民の法の前の平等)を確保してくれることを期待していました。

 ベケットは、自分がカンタベリー大僧正になれば「われわれの友情が憎しみに転化するだろう」と手紙に記して一旦は就任を固辞しますが、ヘンリーは譲らず、最終的にベケットは就任を受諾します。

 このベケットの不吉は予言は的中し、大僧正に就任すると、ワインと乗馬と贅沢をこよなく愛したベケットは、生活態度を180度変え、法王に忠実な清貧を旨とする人物になり、1164年にヘンリーが、教会裁判所で有罪となり僧籍を剥奪された者に国王裁判所が改めて刑罰を科すことができる等の制度改正を盛り込んだ法律を制定(いわゆるクラレンドン憲章(Constitutions of Clarendon)。http://en.wikipedia.org/wiki/Constitutions_of_Clarendon(1月1日アクセス))すると、ベケットは、被疑者を二重の危険(double jeopardy)に晒すことになるとしてこれに反対し、激しい気性のヘンリーを懼れてフランスに亡命するのです。

 その6年後の1170年に、ほとぼりがさめたと考えてベケットはイギリスに帰国するのですが、ベケットが、国王側についたヨークの大僧正の破門を法王に申請するに及んで、ヘンリーは「誰かこの厄介者の僧を始末してくれんか」と叫び、これを命令と受け止めた4人の騎士がカンタベリー大寺院でベケットを殺害します。

 カトリック教会は、ベケットを聖人に叙し、ベケットが殺害されたカンタベリー大寺院は、イギリス最大の巡礼地になります。

 ヘンリーは後悔し、クラレンドン憲章中、教会法に抵触する部分を撤回します。

 この挫折したヘンリーの試みの成功は、ヘンリー8世による1534年のイギリス国教会の成立(カトリック教会からの離脱)を待たなければなりません。すなわちベケットは、イギリスの歴史の歩みを400年弱遅らせたことになります。

(以上、特に断っていない限りhttp://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Becket及びhttp://www.historylearningsite.co.uk/becket.htm(どちらも1月1日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#7702005.6.29

<イランの新大統領誕生(その2)>

3 なぜアフマディネジャドなのか

 (1)表見的理由

 それにしても、どうしてイラン国民はアフマディネジャドを選んだのでしょうか。

 6月17日に行われた第一回投票(投票率62.66%)(注6)で、彼は下馬評を覆してラフサンジャニ(21.0%)に次いで第二位(19.5%)に食い込み、24日に行われた上位二候補による決選投票(投票率(59.6%)では、アフマディネジャド61.7%、ラフサンジャニ35.9%と圧勝しました(http://en.wikipedia.org/wiki/Iranian_presidential_election,_2005。6月28日アクセス)。

 (注61014名が大統領選への立候補を希望したが、護憲評議会は改革派を全部オミットする等の形で6名の立候補者を選定した。これに最高指導者のハメネイ師が介入し、改革派の2名を追加させた。その後最初の6名のうちの1名が立候補を辞退し、結局7名で大統領選は戦われた。

 これは、アフマディネジャドが(これまでの大統領とは違って)法学者ではないこと、そして彼の庶民的な出自と生活ぶり、更に廉潔さ、及び彼が官選テヘラン市長として行政規律を確立した手腕、を有権者が買ったからだ、といった説明することが一応可能です(http://www.csmonitor.com/earlyed/early_world062405.htm(6月25日アクセス)及びhttp://www.nytimes.com/2005/06/26/international/middleeast/26iran.html?pagewanted=print(6月26日アクセス))(注7)。

 

 (注7)彼の略歴は次のとおり。鍛冶屋の7人の子供の四番目としてテヘランの南60マイルの場所で生まれ、幼少時に家族と共にテヘランに移り住む。イスラム系のテヘランの理工系大学で土木工学を学び、交通工学の博士号を取得。イランイラク戦争中は革命防衛隊Revolutionary Guards)の部隊長の一人として活躍。その後、イラクの北西の州の知事に任命され、更にテヘラン市長に任命される。((http://observer.guardian.co.uk/international/story/0,6903,1514905,00.html。6月26日アクセス)

     また、彼はbasij(イスラム風紀が遵守されているかどうかを監視する民兵組織)の一員であったという(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/06/24/AR2005062401696_pf.html。6月26日アクセス)。

 (2)根源的理由

 しかしより根源的には私は、1979年のイスラム革命をもたらしたイスラム教シーア派原理主義化への熱情(注8)がイラクの人々の間で蘇ったことが、フマディネジャドの当選につながった、と考えています。

 (注8)イラン人とイスラム教シーア派とのご縁は以下のとおり。

イラン人はアフラ・マズダ(Ahura Mazda)神信仰(ゾロアスター教)という、一神教の最古形態の一つを生み出した人々であり、同じ一神教であるイスラム教に余り違和感を抱かなかった(http://www.salamiran.org/IranInfo/General/History/。6月28日アクセス)。このこともあって、641年のアラブ人によササン朝(Sassanid Dynasty)ペルシャの征服を契機にイランの人々はあっというまにイスラム教(スンニ派)に改宗する。ただし、スンニ派からシーア派に切り替わったのは、サファーヴィ朝(Safavid Dynasty初代の皇帝(Shah)イスマイル(Ismail1世(治世1502?1524年)が、スンニ派のオスマントルコに対抗するために、臣民達をシーア派に強制改宗させたからだ。(http://www.vohuman.org/Article/Islamic%20era%20histroy%20of%20Zoroastrians%20of%20Iran.htm及びhttp://www.sogol.com/WHP/IINT/HL.htm(どちらも6月28日アクセス))

 私はイスラム教について、「イスラム圏においては、イスラム化→イスラム原理主義化→非世俗化→社会・生活規制の強化→反主知主義/自由の抑制→「先進」地域との所得等格差の増大→→イスラム化→(以下、同じ事の繰り返し)、という悪循環が進行する」(コラム#24)、という厳しい見方をしてきたところです。

 私は、この悪循環から脱却するためにはイスラム教の世俗化しかない、と主張してきました(コラム#24)。しかし、イスラム革命以降のイランの歩みを見ていると、このことがいかに困難であるかを改めて痛感させられます。

 とはいえ、イスラム圏の中で、例外的にイスラム教の世俗化にほぼ成功した人口大国にトルコがありますし、またそこまでは行かないけれど、イスラム教の原理主義化に歯止めをかけるのに成功しつつある人口大国としてパキスタン等があります。(トルコとパキスタンについては、煩瑣なので以前のコラムを一々挙げない。)この二カ国はどちらも、やはり人口大国であるイランの隣国でもあります。

 ではイランが、トルコやパキスタンと違って悪循環過程に陥ってしまったのは、一体どうしてなのでしょうか。

(続く)

太田述正コラム#0572(2004.12.23)
<マキアヴェッリとヒットラー(その4)>

 (2)ヒットラーは「君主」合格か?
 さて、その後ヒットラーがたどった軌跡は皆さんよくご存じのとおりです。
 ヒトラーは1945年4月30日に自殺し、ナチスドイツはその一週間後に連合国に降伏します。
 このような結末は、ヒットラーの「君主」としての限界を示すものなのでしょうか。
 私は必ずしもそうは思いません。
 ヒットラーは、マキアヴェッリの思い描いた理想の「君主」としてその生涯を見事に全うしたと言えるのではないでしょうか。
なぜなら第一にヒットラーは、一切「戦争と軍事組織、軍事訓練以外に目的を持ったり、これら以外の事柄に考慮を払ったり、なにか他の事柄を自らの業と」(コラム#568)することがなかったからです。
ヒットラーは、彼の「自己の軍隊」たるナチスドイツ軍(Wehrmacht)を世界再精強に鍛え上げました。
それはナチスドイツ軍が、ノモンハン事件において旧日本軍に自らより大きい損害を与えて勝利したソ連軍に対し、米英軍と戦ってナチスドイツ軍が出した戦死者を併せても、なお戦死者比率で4倍以上の損害を与えた(注5)ことだけとっても分かります。

(注5)第二次世界大戦におけるソ連軍の戦死者1,360万人、ナチスドイツ軍の戦死者325万人(http://ww2bodycount.netfirms.com/。12月21日アクセス(以下同じ))

更につけ加えれば、ナチスドイツ軍は、ナチスドイツ降伏に至る第二次世界大戦の最後の一年間という圧倒的に不利な時期に、米英軍に対して依然15万2,000人もの戦死者をもたらしています(注6)(注7)。

(注6)旧日本軍は、先の大戦の全期間を通じ、米軍にわずか9万2,000人の戦死者をもたらしたにすぎない(http://www.dvd-ichiba.com/document/DKLB5007.html)ことを思い起こして欲しい。
 (注7)1944年9月には会戦に勝利し(Operation Market Garden=Battle of Arnhem。コラム#523。http://www.nntk.net/arnhem_1944/arnhem_1944.html以下)、1944年12月から翌年1月にかけてなお、米英軍と互角に戦った(Ardennes Offensive(独)=Battle of the Bulge(米英)。http://www.mm.com/user/jpk/battle.htm)。この点も、開戦初期を除き、米英軍に負け続けた旧日本軍とは対照的だ。

私がヒットラーは「君主」として合格だと考える第二の理由は、彼があくことなく「領土獲得」を追求した(コラム#568)点です。
確かにヒットラーは、欧州統一に成功せずして斃れましたが、それは彼が、イギリス(後に米国がこれに加わる)と戦いながら更にソ連(ロシア)を攻撃するという、たった一つの致命的なミスを犯したからにほかなりません。
 振り返って見れば、マキアヴェッリはイギリスを訪問したことがなく、そもそもイギリスは彼の関心の外にありましたし、ロシアに至っては彼の視界には全く入っていませんでした。
余りにも遅い時代にヒットラーが登場し、そこにマキアヴェッリの想定外の世界が待ち受けていたことがヒットラーの挫折を運命づけたのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A6301-2004Dec16?language=printer(12月18日アクセス)による。)

4 終わりに

 ソ連軍がベルリンの郊外に達し、英米軍がエルベ川に達した1945年3月19日、ヒットラーは、ドイツの(戦禍を免れて生き残っていた)すべての工場及び輸送通信システムの破壊を命じます。(jewishvirtuallibrary前掲)
「臣民もまた君主の手段に過ぎない」(コラム#568)以上、「君主」亡き後に「臣民」が生き残っても何の意味もありません。ヒットラーは、だから「臣民」たるドイツ人の生存手段を奪おうとしたのです。
彼が最期の最期まで、「君主」らしくあったことに、驚異の念を抱くのは私だけでしょうか。

 プロイセンのフリードリッヒ大王(Frederick the Great=Frederick??。1712??86年)が1739年に「反マキアヴェッリ論:マキアヴェッリの君主論吟味(Antimachiavel, ou Examen du Prince de Machiavel)」を匿名で著し、当時もてはやされていた『君主論』を真っ向から否定した(http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_the_Great)のは、あたかも200年後にこの書を実践する者がドイツに破滅をもたらすことを予感していたかのようですね。

(完)

太田述正コラム#0571(2004.12.22)
<マキアヴェッリとヒットラー(その3)>

  ウ 『君主論』を実践するヒトラー
 1921年に国家社会主義ドイツ労働者党(National Socialist German Workers Party)(注3)をつくり、その党首(Fuhrer)となったヒトラーは、党員を隊員とする、突撃隊(storm troopers。SA)と親衛隊(Schutzstaffel=SS)なるミニ軍隊を編成します。まことに「君主」にふさわしい門出でした。

(注3)=Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei=NSDAP=the Nazi Party。ちなみにナチス(Nazism)は、NationalsozialismusのNaとziとsmをくっつけて短縮形としたもの(http://en.wikipedia.org/wiki/Nazi。12月20日アクセス)。

 同時にヒトラーが、「外見」に弱い大衆(コラム#568)・・第一次世界大戦でのドイツの敗北以降精神的アノミー状態に陥り、かつ経済的苦境に呻吟していた・・に受けるのをねらってつくったキャッチコピーが、アーリア(Arian)民族至上主義であり、反ユダヤ主義であり、国家社会主義でした。
 1923年にヒトラーは、力によってババリア州政府を打倒しようとミュンヘン一揆(Beer Hall Putch)を起こしますが、警官隊に発砲され失敗します。これ以降ヒトラーは、力は示威的に活用するにとどめ、合法的に権力を簒奪する方針に切り替えます。「君主」は成長したのです。
 一揆を起こした廉で9ヶ月間入獄したヒトラーは、獄中でキャッチコピーを敷衍した『我が闘争』(Mein Kampf)を著すのですが、この本は、大衆にバカ受けし、1939年までに500万部も売れ、ナチス党員及びシンパは急速に増えて行きます。
 1932年7月、ナチスは総選挙で37.3%の得票率を獲得し、国会で第一党になります。同年の11月の選挙では、ナチスは得票率を減らしますが、第一党の地位は保ち、翌1933年1月、ヒンデンブルグ(Hindenburg)大統領は、しぶしぶヒトラーを首相に任命します。
 そしてその2月に起こった(ヒトラーが起こした?)国会火災事件を契機に国家緊急事態をヒンデンブルグに宣言させたヒトラーは、3月、国会から立法権を事実上剥奪する、いわゆる授権法(Enabling Act)を国会に上程します。国会の外をSAが取り囲み、議場の通路にまでSAが入り込んで無言の恫喝を加える中で、議決に要する三分の二の票を、ナチスはカトリック系政党をウソでたらしこむことによって確保し、授権法は可決され、ここにワイマール共和国の下の民主主義は死を迎えるのです(注4)。

 (注4)これまで何度も(例えばコラム#47、48で)述べてきたように、日本では議会制民主主義は敗戦時まで機能し続けた。この点だけでも戦前の日本とナチスドイツとは180度異なっている。

 これは、『君主論』ご推奨通りの、力と法を絶妙に組み合わせて行った権力簒奪でした。
 その上で、1935年にはヒトラーはヴェルサイユ平和条約違反の大軍拡に着手し、1936年には同条約で武装禁止地帯とされていたラインラントに軍隊を進駐させます。
やがて欧州最精鋭の軍隊の整備に成功したヒトラーは、軍拡による経済成長に幻惑され、一層ヒトラーに支持を寄せたドイツ大衆を兵士と兵站要員に仕立て上げ、『君主論』が「君主」の最大の使命とするところの、領土拡大・欧州統一に乗り出して行くことになるのです。
(以上、http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Holocaust/hitler.html及びhttp://www.historyplace.com/worldwar2/riseofhitler/dictator.htm(どちらも12月19日アクセス)による。)

(続く)

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