カテゴリ: 郵政民営化

太田述正コラム#8782005.9.25

<改めて郵政民営化について>

1 始めに

 自民党は、米国のエージェントであると同時に日本の官僚機構のエージェントであり、小泉首相は、このような自民党を少しも「ぶっこわし」てなどいない、と申し上げました(コラム#865)が、先般の総選挙の最大の争点となった郵政民営化を、このような観点からもう一度振り返ってみましょう。

2 米国の思惑

 米国の思惑については、米経済紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)(注1)の、要旨を下に掲げた8月26日付の論説http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu102.htm。9月20日アクセス)が代弁してくれています。

 (1)スタンフォード大学に留学した1974?76年、私がとっていた新聞だ。ちなみに、日本からは日本経済新聞を取り寄せて読んでいた。WSJFTほども記事をサイトに無償公開していないのは、残念なことだ。

 日本の郵政公社は、郵便貯金(郵貯)は1.9兆米ドル、簡易保険(簡保)は1.1兆米ドル、計3兆米ドル(330兆円)の資金を有する。

 うち、1.7兆米ドル(187兆円)は日本の国債だ。これは日本の国債発行済み額の四分の一弱に相当する。他方、外国の債券類は8.5兆円しか保有していない。

 ところが、日本の10年もの国債の利回りは1.5%なのに対し、同様の米財務省証券の利回りは4.17%もある。

だから、郵貯・簡保が民営化されれば、その経営者は、保有資産の多くを外国の債券類に切り替えるに違いない。

 ある試算によれば、切り替えられる額は1.375兆米ドル、うち1270億米ドルは米国の債券、640億米ドルは欧州の債券、そして5210億米ドルは日本の株の購入に充てられる、と見積もられている。

3 日本の官僚機構の思惑

(1)始めに

日本の官僚機構の意向については、東京新聞(http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050923/mng_____tokuho__000.shtml。9月23日アクセス)に載った、元証券マンで特定郵便局長となるも、渡切(わたしきり)費問題の告発を企てたことをきっかけに転身した作家世川行介氏の意見が参考になります。

世川氏は、今回の郵政民営化法案は、以下の三点を見ただけでも国民への恩恵などない、と指摘します。

一、28万人に及ぶ国家公務員である郵政職員の人減らしになると言うが、郵政事業は独立採算制(黒字)であり、郵政職員の給与は税金で賄われていない。

二、国鉄民営化では、反体制的な国鉄労組や動労を解体する狙いもあったが、郵政の旧全逓は既に労使協調路線に転換している。

三、郵貯と簡保の抱える資金を民間に還流することにより、経済活性化を図るというが、資金がだぶついて超低金利時代が続いている日本で資金を「還流」させることは容易ではない。

 その上で世川氏は、郵政民営化は、主として財務省、従として旧郵政省の思惑を受けたものだ、と主張しています。

(2)財務省の意向

世川氏はそもそも、郵貯・簡保の肥大化による民業の圧迫も、郵貯・簡保資金の無駄遣いも、どちらも財務省(旧大蔵省)の責任であるにもかかわらず、財務省は一切責任をとっていない、と指摘します。

すなわち、1985年のプラザ合意で米国から「輸出より内需」と政策転換を迫られ、そのための資金として、鳴り物入りで郵貯・簡保に国民のタンス預金をかき集めた結果、郵貯・簡保の肥大化を招いたのは財務省であるし、こうしてかき集めた資金を碌に査定もせずに公共事業や公益法人に回し、無駄遣いを黙認・放置し、バブルを生み、かつこのバブルを崩壊させ、山のような不良債権をつくり出したのも財務省である、というのに財務省は、その責任を一切とっていない、というのです。

さて、今年3月末で国債を含む国の借入金残高は781兆円にも上っていますが、ここまで国の一般会計の赤字体質を悪化させた責任の一半も財務省にあることは言うまでもありません。

問題は財務省が、国債のうち172兆円(7月末)も郵貯・簡保に引き受けさせてきたことです。これは、郵貯・簡保の資金の52%に相当します(注2)。

(注2)地方債や財政投融資債なども含めれば、郵貯の資金の9割が国や公的機関の借金の原資にあてられてきた。

    なお、時点のずれが若干あるが、国債については、公的部門(郵貯・簡保、政府系金融機関等)による保有が45.1%、郵貯・簡保保有分だけで22.4%、民間金融機関保有が37.2%、日銀保有が13.5%、残りが個人や一般企業保有、となっている(http://www.yuichiro-itakura.com/archives/2005/08/22-0640.html。9月24日アクセス)。

しかし、国債の償還に伴う借り換えや国債の利払いの経費は今後雪だるま式に膨張し、かかる経費を捻出するために国債を更に発行しなければならなくなる結果、近い将来には、(国債の引き受け手がほとんどいなくなってしまい、)国債の暴落は必至である、と囁かれています。

国債が暴落すれば、郵政公社は財務内容が悪化して破綻する懼れがあり、それが公社である以上は、財務省は責任を免れるわけにはいきません。

世川氏は、民営化されておれば、郵貯・簡保が破綻したとしても、その責任はもはや財務省に及ばないからこそ、財務省は民営化を急いだのだろう、と推測しています。

しかも、民営化すれば、既に2で述べたところから明らかなように、日本の国債から外国の債券類への切り替えが起こり、国債の暴落は必至です。

まさにそのことこそ、財務省として最も望むところだろう、とも世川氏は指摘しています。

確かに、このままでは今後国債関係費が膨張して、財務省の裁量で予算をつけられる、いわゆる一般歳出がどんどん減って行くことが見込まれていて、そうなれば、予算査定権を背景にした財務省の他省庁・政治家に対する権力も否応なしに低下していくことになるわけであり、これを回避するために、どれほど非情かつドラスティックな方法であろうと、抜本的な財政再建につながる国債暴落を、財務省が仕組むことは、大いに考えられるところです(注3)。

(注3)国債が暴落しても、償還期間が来れば、財務省は額面通り満額払い戻さなければならない。しかし、暴落した市中の国債を日銀に買い上げさせれば、過度に通貨流通量を増大させない形で国債償還の凍結を図ることが可能。

(3)総務省の意向

国債暴落に伴う責任を回避しつつ国債暴落を起こしたい財務省としては、郵貯・簡保の民営化でも(民主党が主張し始めた)郵貯・簡保の廃止でも、どちらでもよかったはずですが、どうして政府・自民党案は民営化ということになったのでしょうか。

そこには、総務省、より正確には、総務省に吸収された旧郵政省、の思惑が働いている、と世川氏は推測しています。

旧郵政省は、郵政公社に「寄生」する株式会社や公益法人を多数つくってきており、民営化後、公益法人も株式会社に衣替えさせた上で、これら会社同士で株の持ち合いをさせて外部の介入を妨げる措置を施した上、人事・給与面で支配力を増すことをねらっている、と世川氏は指摘しています。

言うまでもなく、「寄生」するためには宿主が必要であり、旧郵政省としては、郵貯・簡保が廃止されては、(つまり、先行き赤字転落の可能性が高い郵便だけが残っては)困るわけです。

4 終わりに

 以上、WSJや世川氏は深読みしすぎなのでしょうか。

 私には、私自身の自民党観ないし小泉純一郎観に照らしても、彼らの読みが正しいように思えるのですが・・。

 真に日本の中長期的国益に沿った形で郵政問題に決着をつける端緒とすべく、民主党が前原新代表の下で、政府自民党を改めて徹底的に追及し、WSJや世川氏の読みが正しいかどうかをはっきりさせてくれることを願ってやみません。

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太田述正コラム#8622005.9.11

<郵政解散の意味(補論)(続x8)>

 あまりにも長くなったので、このあたりで強引に結論に持っていくことにしましょう。

 今回の総選挙は、日本を真に弥生化させるための、最後の環境整備を行う選挙である、と私はとらえています(注1)。

 (注1)私のコラムを読んでおられるほどの人であれば、もはや一人として、今次総選挙を、(政府提案の)郵政民営化に賛成か反対かを問う選挙などという雑駁なとらえ方はしておられないと信じたい。

     さりとて、小さな政府か大きな政府かを選択する選挙、ととらえるわけにもいかないことについては、http://www.asahi.com/politics/update/0910/001.html(9月10日アクセス)参照。この記事は、自民党は現状と等似形の小さな政府、民主党と公明党は小さな政府だが公共事業から社会保障への重点の移動、共産党と社民党は社会保障の拡充に重点を置いた大きな政府、国民新党は公共事業の拡充に重点を置いた大きな政府、新党日本は政府の大きさは現状のままで公共事業から社会保障への重点の移動、をそれぞれ追求しているとしている。確かにこれでは、連立与党(自民党・公明党)と第一野党(民主党)との違いはほとんどない。

 この場合、真に弥生化させるとは、日本を真にアングロサクソン的社会へと変貌させることです。

 どうして「的」がついているのでしょうか。

 それは、アングロサクソン側としては、日本が大陸法を捨てて、完全に英米法(コモンロー・衡平法体系)に切り替えるところまで徹底しない限り、日本をアングロサクソンの一員とは認めないであろうからであり、日本としても、中間組織の活用、といった「日本的」特徴・メリットを捨ててまでアングロサクソン化することは不可能だからです。

 ただし、真にアングロサクソン的社会へと変貌するためには、日本が軍事並びに移民・難民の受入に係る禁忌を廃棄すること、そして男女差別を撤廃することが必要不可欠です。

 軍事については、アングロサクソン的社会の人間は、全員が自分及び他人の自由を守るための戦士でなければならないからであり、また、アングロサクソン的世界を維持・拡大するために軍事による貢献を求められるからです。

 移民・難民受け入れについては、自由を求めてやってくる人々を受け入れることは、アングロサクソン的世界の維持・拡大・・受け入れ側のアングロサクソン的社会の活力の維持向上並びに送り出す側の非アングロサクソン的社会のアングロサクソン的社会化・・に資するからです(注2)。

 (注2)米英を始めとして、アングロサクソン社会がどんなに人種的多様性に富んでおり、人口減少を免れており、活力があるか、はご存じのとおりだ。日本は、まずはアジア(南西アジアを除く)人を対象に、学者/技術者・保父/保母/ベビーシッター・介護士・看護士(及びその配偶者・子供)の受け入れから始め、徐々に拡大して行くことが望ましい。

 男女差別の撤廃については、アングロサクソン的社会化以前の課題であり、説明は省きます。

 では、今回の総選挙がそのための最後の環境整備を行う選挙である、とはどういう意味なのでしょうか。

 それは、日本のアングロサクソン的社会化に反対する勢力(反対勢力)(三つの新党及び社民党)、日本の民主主義独裁社会化ないし社会民主主義社会化を追求する党(欧州化追求勢力)(共産党)に打撃を与え、自民党と民主党内の反対勢力及び民主党内の欧州化追求勢力を萎縮させるための選挙であり、かつ、宗教政党(中世的勢力)(公明党)に打撃を与え、自民党、ひいては日本を中世的勢力の重しから解放する選挙である、ということです。

 私としては、政財官の癒着構造を一挙に断ち切るため、上記が、民主党が躍進する形で実現して欲しかったところですが、残念ながら自民党が躍進する形で実現することになりそうです。

 しかし、いずれにせよ、上記諸勢力に打撃を与えることができれば、その後に論理的に待ち構えているのは、日本のアングロサクソン的社会化を徹底的に成し遂げようとする勢力と、これに抵抗する勢力、という二大勢力に分化する形の政界再編です。

 前者は、日本の独立、すなわち米国の保護国からの離脱を目指す勢力であり、後者は日本が米国の植民地と化し、ついには日本が滅びるのを座視しようとする勢力です。

 既に私のように期日前投票を済ませた人もおられるでしょうが、とにかく投票をしましょう。そしてできれば民主党に、さもなくば自民党に投票しましょう。

 そして、私のコラムを広めましょう。

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太田述正コラム#8602005.9.10

<郵政解散の意味(補論)(続x7)>

 なかなか結論に到達しなくて申し訳ありませんが、もう少しおつきあい下さい。

 われわれが目にしている近代国家の国家機関は何のためにあるのでしょうか。

まず、王・大統領といった国家元首は、アングロサクソンならずとも、軍の最高司令官そのものであることは言うまでもありませんが、アングロサクソンの歴史に照らせば、議会は軍の最高司令官を承認ないし選出するとともに、軍隊を維持する経費や戦争の経費を国民に税金を課して確保する権限を軍最高司令官に付与するための機関であり、中央銀行は、軍最高司令官のために、戦費が足らなくなった暁に(戦債を引き受ける等によって)貨幣を増やして臨機応変に戦費を調達するための機関として生まれ、行政府は、軍事力を背景とした外交交渉の実施(=外交)、軍隊維持と戦争遂行(=軍務)、軍隊維持経費と戦争遂行経費の確保(=財務)、を行うところの、軍最高司令官の補佐機関として発展してきたのです(注17)(注18)。

(注17)コラム#128。以上のことを、きちんと典拠付きで説明するお約束はなかなか果たせそうもない。

 (注18)ワシントンを大統領とする最初の1989年の米連邦政府の閣僚は、国務(外務)・財務・軍務(War)の3名のsecretary(長官)とAttorney General(検事総長=司法長官)の4名だけだった(http://www.enchantedlearning.com/history/us/pres/washington/。9月9日アクセス)。

 このような背景があるからこそ、英米等のアングロサクソン諸国においては、軍隊や戦争以外のことに国家が関与することへの違和感があり、常に小さい政府への志向があるのです。

 ところで、アングロサクソンの世界を舞台にした侵攻・掠奪、その結果としての世界制覇は、一体どのようになしとげられたのでしょうか(注19)。

 (注19)本シリーズにおいては、単純化のため、アングロサクソンの中での英国と米国との区別や両国の抗争等は捨象して論じている場合が多いことに注意されたい。

 彼らは、原住民が少なくてかつ住みにくいところは、将来天然資源等を活用することを含みに先占(併合)宣言をし、原住民が少なくて住みやすいところは、植民しつつ「侵攻」する形で併合しました。

また、原住民が多いところでは開港をさせるか自ら港を建設して貿易や投資を行い、原住民を経済的に隷属させる形の「掠奪」を行いました。この場合、半植民地のままにしておいたケースもあれば、最終的に植民地にした(併合する)ケースもあります。

そして、以上はことごとく、軍事力を誇示ないし行使することによってなしとげられたのです。

ただし、西欧諸国や東欧諸国、更に中南米諸国(植民地であり続けたカリブ海諸国を除く)のように、準アングロサクソンと認めて、最初から対等の関係をとり結んだり、後に半植民地(隷属)状態から解放して対等の関係を取り結んだりした(1910年以降の)日本のようなケースもありました(注20)。

 (注20)アングロサクソンは、その植民地や半植民地に対して、アングロサクソンのイデオロギーである「経済学」の教えるところに従い、自由貿易を行い、自由に投資を行い、財産権を確立させた。(これに加えて植民地に対しては、小さな植民地政府で統治した。)

 他方、(アングロサクソンと張り合って植民地や半植民地を持った西欧諸国や日本以外の)独立国は、どの国もおおむね「経済学」に反する重商主義的政策をとった。

興味深いことに、独立国の方が植民地ないし半植民地より高い一人当たりGDP成長率を達成している。(GDP成長率をとっても基本的に同じ。)これは、アングロサクソンに経済的に隷属すると経済パーフォーマンスが低くなることを意味する。つまり、植民地や半植民地は「掠奪」(搾取)されていたということだ。

(以上、http://www.atimes.com/atimes/Global_Economy/FH18Dj01.html(8月17日アクセス)による。この典拠は、アングロサクソンの植民地や半植民地だけでなく、すべての列強の植民地や半植民地を一括して論じているが、アングロサクソンのシェアの圧倒的大きさを想起せよ。)

ただし、対等とは言っても、それは経済の分野に限った話であり、軍事においては、非アングロサクソン全ての軍事力を併せたよりも強力な軍事力を保持することによって世界的覇権の維持に努め、現在では、アングロサクソンに代わる覇権国の出現を決して許さないという方針を打ち出しています(注21)。

(注21)米ブッシュ政権は、2002年9月に発表した国家安全保障戦略(National Security Strategy)において、米国は強力になりつつある国を妨害(check)することにより、世界的なバランスオブパワーの中で支配的地位を維持する旨を宣言したが、ブッシュ政権によるイラク戦争等の予防的戦争(preemptive war)の実施を批判する米国内のリベラル勢力も、この宣言については何の異議申し立てもしていない(http://www.foreignpolicy.com/story/cms.php?story_id=2740&print=1。9月4日アクセス)

 アングロサクソンが、準アングロサクソンと認める対象国・地域が、先の大戦以降、次第に増えてきていることはご承知のとおりです。

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太田述正コラム#8572005.9.8

<郵政解散の意味(補論)(続x6)>

 まず、押さえておくべきは、プロの戦士であったアングロサクソンにとって経済活動は、戦士としての実益の追求を兼ねた趣味ないし暇つぶしに過ぎない、ということです。

 ここで実益の追求とは、食い扶持を確保した上で、更に個人的戦費及び集団的戦費(税金)を確保することであり、かかる実益の追求を兼ねた趣味ないし暇つぶしを、彼らはいかに楽に行うかに腐心しました(注13)。

 (注13)ちなみにアングロサクソンは、「戦士としての実益の追求を兼ね」ない趣味ないし暇つぶしの多彩さでも知られている。彼らが後に、読書・科学研究・スポーツ・レジャー・観劇・旅行、等に狂奔したことが、近代文学・近代科学・近代スポーツ・近代レジャー・近代演劇・パック旅行、等を生み出すことになった(コラム#27)。

 タキトゥスの叙述からもお分かりのように、彼らは、その生業としての戦争に従事している間、生死をかけること等に伴うストレスにさられただけでなく、集団行動に伴うストレスにも(個人主義者なるがゆえに)さらされたことから、平時においては、各自がばらばらにリラックスをして過ごすことによって、精神的バランスを回復する必要がありました。

 しかも彼らにはその「自由の意気と精神」から支配者がおらず、またその「戦争における無類の強さ」に恐れをなして彼らを掠奪の対象とするような者もほとんどいなかった上に、彼らにとって戦争が経済計算に立脚した合理的営みである以上、戦費は巨額なものにはなりえませんでした。ですから彼らは、支配者に貢ぐために、あるいは外敵によって掠奪されることを見越して、あるいはまた巨額の戦費を捻出するために、ひたすら額に汗して働かなければならない、という状況にはなかったわけです。

 そういうわけで彼らが経済活動にあたって考えることといえば、目標とした一定の収益を、いかに最低限の労力やコストの投入によって確保するかだけでした(注14)。

 (注14)つい最近まで、こんな贅沢が許される社会は他には存在しなかった。他の社会においては、経済活動従事者は、支配者や外敵による仮借ない搾取・収奪に日常的に晒されているのが通常であり、経済活動従事者は常に最大限の収益を目指さざるをえない、火の車的な生活を強いられていた。しかも、他の社会はアングロサクソン社会のような個人主義社会ではなく、多かれ少なかれ大家族形態の社会であり、一族の特定の構成員が過度に搾取・収奪された等の際にその他の構成員が当該構成員を扶助するためにも最大限の収益を目指す必要があった。また、かかる社会においては、労力を最大限投入する必要上子沢山が奨励された点も、少子社会であったアングロサクソン社会とは全く異なる。

 さて、このようなアングロサクソン社会においては、「士」「農」「工」「商」が身分的に分化するようなことはありえないのです。

 彼らが全員、士(戦士)であったということは既にご説明しました。

 しかも、個人主義社会なのですから、アングロサクソンの各個人は、自分自身(の労働力)を含め、自分が所有する全ての財産を、誰の干渉も受けずに自由に処分する権利を持っており、実際にその権利を頻繁に行使しました。そういう意味で、アングロサクソンは全員が「商」(資本家)でもあったわけです(注15)。

 (注15)このような意味で、個人主義社会であるところのアングロサクソン社会は、生来的に(つまり最初から)資本主義社会であると言えよう(コラム#81)。

 また、経済活動に関しては、「農」に従事する者(農民)が多かった一方で、少数の「工」に従事する者(職人)や、狭義の「商」、すなわち商業に従事する者(商人)がいました(注16)。とはいえ、それは、単に好き嫌いとか向き不向きによる個人的選択の結果であり、これらが家業として子孫に受け継がれることは基本的にありませんでした。(そもそも、個人に完全な遺言の自由があり、その子供にすら法定遺留分が認められていませんでした。(コラム#89))

 (注16)狭義の「商」に関しても、「血をもって購いうるものを、あえて額に汗して獲得するのは欄惰であり、無能であるとさえ、彼らは考えている」(ゲルマーニア・前掲)ため、後々までアングロサクソンの国際商人は同時に海賊でもあり続けた。(コラム#41

 そして、「最低限の労働力やコストの投入」を追求した結果、「農」「工」「商」いずれにおいても、アングロサクソン(イギリス)は欧州(ひいては世界)に対し、額に汗せずにして優位を維持し続けるのです。

「商」については説明を省きますが、「農」については、イギリスの穀物生産は、一貫して欧州のどの国よりも高い生産性(反当収量)を維持し続けました(コラム#54)し、「工」については、「イギリス<の>・・職人<は>・・実に手先が器用<で>・・しかも彼らは世界のすべての国の職人の中で最も工夫に長けている」と評された(コラム#46のです。

 このようなイギリスにおいて、世界に先駆けて産業革命が起こったのは、不思議でも何でもありません。

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太田述正コラム#854(2005.9.7)

<郵政解散の意味(補論)(続x5)>

 今から1900年以上前の1世紀末に、タキトゥスによって描写されたゲルマン人の特徴が、仮に5世紀にイギリスに移住・侵攻したゲルマン支族たるアングル人・サクソン人・ジュート人にそのまま受け継がれていたとしても、現在のアングロサクソン(注10)にまでそのまま受け継がれているという保証がどこにあるのか、と首をかしげる人もあることでしょう。

 (注10)ゲルマン人たるアングル人・サクソン人・ジュート人と基本的にブリトン人(ケルト人)であるアングロサクソンとは、人種的に全く異なる(コラム#461、482)。また、米国は人種のサラダボールであり、米国においてアングロサクソンは今や、人種的には少数派にすぎないことはご存じの通りだ。にもかかわらず、米国は、まぎれもないアングロサクソン文明に属する国家なのだ。

 そういう人のためにも、再度ゲルマーニアから引用することにしましょう。ここは、ゲルマーニアで最も有名なくだりなのですが、うっかり引用し忘れるところでした。
 「ゲルマーニア族は、・・[共和制時代の]ローマ国民より執政官の軍を一時に五つ、[帝政時代にはいっては]カエサル皇帝・・からさえ、・・三つの軍団を奪ったのである。・・ゲルマーニア族ほど絶えずわれわれの緊張を惹き起こしたものはなかった。――これもひとえに、ゲルマーニア族のもつ自由の意気と精神が、・・強烈であったためにほかならない。」(169頁)
 このゲルマン人の「自由の意気と精神」、及びそれと密接な関わりのあるところの「戦争における無類の強さ」、についてのくだりは、あたかもタキトゥスが、20世紀初頭に世界史上最大の帝国を築きあげ、21世紀に入った現在において、世界に覇を唱えるに至った現在のアングロサクソンについて、語っているかのようではありませんか。
 これで少しは納得されたでしょうか。
 1世紀のゲルマン人の特徴=5世紀のアングル人・サクソン人・ジュート人の特徴=アングロサクソンの特徴、であることを(注11)。
 
 (注11)西ローマ帝国に侵攻・移住してこれを分割支配したゲルマン人は、ローマ化して・・ローマ法を採用して・・旧ローマ帝国臣民並びに市民の上に君臨する王族ないし貴族階級となり、「自由の意気と精神」を失ってしまうが、ずっと以前にローマ勢力が撤退していたイギリスに侵攻・移住したゲルマン人(アングル人・サクソン人・ジュート人)は、欧州時代に培ったコモンロー(実体的・手続き的に「自由の意気と精神」を体現化した慣習法体系。コモンローについては、まだ、私が「アングロサクソン=ゲルマン人」を当然視していた頃に書いたコラムだが、コラム#80参照)を持ち込み、原住民のブリトン人をゲルマン化し、ここにゲルマン人の「自由の意気と精神」と「戦争における無類の強さ」を忠実に受け継いだアングロサクソンが誕生する。唯一の変化は、アングロサクソンの社会単位の規模がゲルマンの社会単位に比べて大きかったことから、会議(議会)制度は残ったものの、「自由」にとって脅威と考えられるに至った民主主義は放棄されたことだ。アングロサクソンが再び民主主義化するのは、19世紀以降だ(コラム#91)。

 その後も、アングロサクソンは、11世紀(のバイキングの巨頭ウィリアムによるイギリス征服)に至るまで、絶えることなく、これまた純粋なゲルマン人であるバイキングの侵攻・移住にさらされ続けることによって、「自由の意気と精神」及び「戦争における無類の強さ」を注入され続けます。
 それからのアングロサクソンの膨張の歴史はよくご存じでしょう。
 アングロサクソンはまず、欧州(フランス等)への侵攻・移住に乗り出しますが、15世紀にフランスに敗れ、その試みは一旦挫折します。しかし、16世紀からは目を欧州から世界に転じ、全世界への侵攻・移住を開始し、20世紀に至って、ついに欧州を含め、全世界を手中に収めるのです。
 言うまでもなく、このアングロサクソンの世界支配を担保しているものは軍事力です。
 そして、先の大戦後、米国が、世界のどこでも戦略核兵器で攻撃する能力、並びに世界のどこにでも軍事力を投入する能力、を持つに至ったことでアングロサクソンの世界支配が完成したのです(注12)。

 (注12)戦後、米国が全世界をいくつかの地域に分割し、それぞれの地域に、太平洋軍等の統合地域軍を割り当てた時点で、アングロサクソンの軍事力による世界支配が形式的に完成し、ソ連の崩壊によって、実質的にも完成した。

 それでは、アングロサクソンにおいて、軍事と経済は、一体いかなる関係にあるのでしょうか。

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太田述正コラム#8522005.9.5

<郵政解散の意味(補論)(続x4)>

 (本篇は、コラム#849の続きです。この間、HPhttp://www.ohtan.net)の掲示板上で交わされた議論を参照されることをお勧めします。)

6 「士」「商」対置論について

 (1)始めに

>軍事や政治を本分となさる「士」である太田さん・・商人であることを本分とする私・・

このような「士」「商」対置論を、日本のアングロサクソン的社会への変革を主張している人がお唱えになるというのは、恐らくアングロサクソンの何たるかをご存じないからでしょう。

 実は、個人主義のアングロサクソン文明の「個人」において、「士」と「商」は分かちがたく結びついているのです。

 少し長くなりますが、このことをご説明しましょう。

 (2)ゲルマン人

 アングロサクソンはイギリスに移住・侵攻したゲルマン人ですが、欧州に移住・侵攻したゲルマン人とは違って、ローマ文明の影響を殆ど受けず、ゲルマン人としての純粋性を保ち続けた人々であると私が考えている(注7)ことは、ご承知の方も多いと思います。

 (注7)これは人種的な純粋性を保ち続けた、という意味ではない(コラム#461482参照)。

 では、そのゲルマン人とは、どのような人々だったのでしょうか。

 私はかつて(コラム#41で)、タキトゥスの「ゲルマーニア」(岩波文庫)の中の以下のようなくだり・・「人あって、もし・・ゲルマン人・・に地を耕し、年々の収穫を期待することを説くなら、これ却って、・・戦争と[他境の]劫掠<のために>・・敵に挑んで、[栄誉の]負傷を蒙ることを勧めるほど容易ではないことを、ただちに悟るであろう。まことに、血をもって購いうるものを、あえて額に汗して獲得するのは欄惰であり、無能であるとさえ、彼らは考えているのである。」(77)・・を引用して、「これは、ゲルマン人の生業が戦争であることを物語っています。つまり、戦争における掠奪(捕獲)品が彼らの主要な(或いは本来の)生計の資であったということです。」と指摘したことがあります(注8)。

 (注8)戦争にでかけていない時、つまり平時においては、男性は「家庭、家事、田畑、一切の世話を、その家の女たち、老人たち、その他すべてのるい弱なものに打ち任せて、みずからはただ懶惰ににも打ち暮らす。」(79)というメリハリのきかせ方だった。

 ゲルマーニアには、「彼らは、公事と私事とを問わず、なにごとも、武装してでなければ行なわない。」(70頁)というくだりも出てきます。

 つまり、ゲルマン人の成人男性は全員プロの戦士であったわけです。

 しかも、以下のくだりからも分かるように、ゲルマン人の女性もまた、その意識においては男性と全く同じでした。

「妻・・らはまた、・・戦場に戦うものたち(夫や子息たち)に、繰りかえし食糧を運び鼓舞・激励をあたえさえする・・。」(53頁)

 戦争が生業であったということは、ゲルマン人はハイリスク・ハイリターンを求める人々(リスク・テーカー=ギャンブラー)であったということです(注9)。

 (注9)「彼らは・・賭博を・・あたかも真摯な仕事であるかのように行ない、しかも・・最終最後の一擲に、みずからの自由、みずからの身柄を賭けても争う・・。」(112頁)

 注意すべきは、ハイリスクであるとはいえ、戦争は、それが生業である以上、合理的な経済計算に基づき、物的コストや自らの人的被害が最小になるような形で実行されたであろう、ということです。

 ここで、女性も戦場に赴いた、という点はともかくとして、このようなゲルマン人と似た特徴を持った民族なら、例えば、モンゴルを始めとする遊牧民を始めとしていくらでもある、という反論が出てきそうですね。

 それはそうなのですが、ゲルマン人がユニークだった点が二つあります。

 その個人主義と民主主義です。

 「彼らはその住居がたがいに密接していることには、堪えることができない・・それぞれ家のまわりに空地をめぐらす。」(81?82頁)、「蛮族中、一妻をもって甘んじているのは、ほとんど彼らにかぎられる・・。・・持参品は・・夫が妻に贈る・・。妻はそれに対して、またみずから、武器・・一つを夫に齎す。」(89?90頁)が個人主義を彷彿とさせる箇所です。

 また、「小事には首長たちが、大事には・・[部族の]<成人男子たる>部民全体が審議に掌わる。・・最も名誉ある賛成の仕方は、武器をもって称賛することである。・・会議においては訴訟を起こすことも・・できる。・・これらの集会においては、また郷や村に法を行なう長老(首長)たちの選立も行なわれ・・る。」(65?69頁)のですから、古典ギリシャのポリスのそれ並に完成度の高い直接民主制であったと言えるでしょう。

 以上をまとめると、ゲルマン人は、個人主義者であり、民主主義の下で、集団による戦争(掠奪)を主、家族単位による農耕(家畜飼育を含む)を従とする生活を送っており、合理的計算を忘れぬギャンブラーであった、というわけです。

 そして以上は、アングロサクソンの属性でもある、ということになるのです。

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太田述正コラム#8492005.9.2

<郵政解散の意味(補論)(続x3)>

6 「士」「商」対置論について

 (1)「商」においては常にwin-win関係?

ア 企業と企業

>「軍事にしても政治にしても相手の方が強くなるということは、自分が弱くなるということなんです。ところが経済は違う。隣の国が良くなるということは、自分も良くなるチャンスが出てきたということ…」という一節があります。この「ところが経済は違う。…」以降の後段の発想は正に「商」・・が本能的にする発想です。

 しかし、(竹中平蔵氏や)私有自楽さん言うところの「商」の姿は、日本型政治経済体制下等においてのみ通用する、きわめていびつな・・非資本主義的な(非アングロサクソン的な)・・「商」の姿なのです。

 日本型政治経済体制は本来総力戦体制であり、経済界は産業分野ごとの官製カルテル(護送船団)で覆い尽くされていました。個々の企業は、利潤最大化でなく、戦争遂行能力を最大限に整備することへの協力、を行動原理にさせられていたのです。

 戦後は「戦争遂行能力」を「GNPGDP)」と読み替えただけで、日本型政治経済体制は殆どそのままの形で維持され、昭和が終わる頃まで機能し続けたことはご承知のとおりです。

 このような体制の下では、同業他社が強くなるということは、護送船団の一員たる自社もまた強くなるであろうこと(win-win関係)を意味していました。

 これに対して、アングロサクソン的政治経済体制の下では、同じ産業分野に属する企業同士は敵対関係にあり、同業他社が強くなるということは、即、自社が弱くなるということを意味します。それはどうしてかというと、財務内容に差が生じる結果、自分の資金調達コストが上昇し(注7)、その結果、設備投資も研究開発投資もこの他社に遅れをとることになり、当然、この他社との差は更に開くことになり、そしてこの悪循環が続く結果、自社は倒産し、当該産業分野はこの他社が独占するところまで行き着きついてしまうからです(注8)。

 (注7)これに対し、日本型政治経済体制下では貸し出し金利が政府によって規制されているので、財務内容に差があっても資金調達コストは必ずしも上昇しない。ちなみに、日本で戦後長きにわたって米国譲りの独占禁止法が実際に用いられることがなかったのは、日本型政治経済体制下では独占は生じ得ないからだ。

(注8)しかし、そうなると競争がなくなってしまい、この独占会社は価格をつり上げる一方で研究開発投資を怠るようになり、消費者は古い製品を高い価格で買い続けさせられるはめになる。だから、アングロサクソン的政治経済体制の下では、独占禁止法が不可欠になる。アングロサクソン的体制の世界への普及に伴い、一国単位で独占を禁じる意味はなくなったという議論があるが、ここでは立ち入らない。

  イ 国家と国家

 話のすり替えだ。竹中氏も自分も企業の話などしていない。「商」(経済)の観点からは国家と国家は常にwin-win関係にある、と言っているだけだ、とおっしゃるのですか?

 だとしたら、これについてもまた、異なことをうけたまわる、としか申し上げようがありません。

 米国は同盟関係にある日本や欧州NATO諸国(EU諸国とほぼ同じ)の軍事力が強くなることを歓迎しています。実際米国は、日本やEUに常に防衛費増を要求しています。

 つまり、経済だけでなく政治や軍事の分野でも、米国と日本やEU諸国のような同盟国の間では、win-win関係が成り立っていることが分かります。

 他方、中共のような米日やEUにとっての潜在敵国については、その軍事力が強くなることは脅威と受け止められていることはご承知のとおりです。

 逆に、経済の分野では、米日やEUと中共との間であっても常にwin-win関係が成立するのでしょうか。

 高度な技術や高度な技術を用いた製品の中共への輸出を禁止している(例えば、http://www.meti.go.jp/policy/anpo/参照)ところを見ると、米日及びEU諸国がそうは考えていないことは明白です。

 そのねらいは、高度な技術を有する米日やEUに中共経済は従属し奉仕させるところにあり、その結果、中共は好むと好まざるとにかかわらず、実質的に米日やEUの植民地と化しているのです。

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太田述正コラム#8442005.8.31

<郵政解散の意味(補論)(続x2)>

 (4)結論

 久方ぶりにこのような分野の論考にあたってみると、相変わらず、実証研究が断片的なものにとどまっていることと、理論化(数理経済学的理論化を含む)が不十分である観が拭えません。日本の社会科学者の奮起を促したいと思います。

 ともあれ、この問題の本質はそうむつかしいものではありません。

 特定の、あるいはすべての財・サービス・ヒト・カネ・情報に関し、市場の失敗が存在する場合、あるいは市場がまだ十分成立していない(市場が未成熟である)場合、経済主体は財・サービス・ヒト・カネ・情報の調達に当たって市場以外の手段を採用するほかないわけですが、その場合、組織を採用する方法と、市場でも組織でもない第三の形態を採用する方法があります。

 この第三の形態は、中間組織と呼ばれることが多いようですが、私はかつて多傘分散メカニズムと呼んだことがあります(太田述正「「日本型経済体制」論 ――「政府介入」と「自由競争」の新しいバランス」(「日本の産業5 産業社会と日本人」筑摩書房1980年6月に収録)。コラム#404243参照)

 組織もまた、大きくなればなるほど弊害が出てくることが多い(=組織の失敗が生じる)わけですが、中間組織の採用は、市場の失敗ないし未成熟を踏まえつつ、同時に組織の失敗をも回避するという、虫の良い方法であると言えるでしょう。

 ただし、中間組織を採用するにあたっては、前提条件があります。

 それは、経済主体と、その経済主体の依頼を受けて財・サービス・ヒト・カネ・情報の調達に当たる中間組織とが、目的意識(objective function)及び価値観(効用関数utility function)とリスク選好(risk preference)からなる)を共有していなければならない、という点です。

 理念型的に申し上げると、米国では、経済主体が中間組織との間で目的意識及び価値観を共有するためのコストが大き過ぎるため、もっぱら組織が採用されるのに対し、日本では、コストが比較的小さいため、(組織が採用される場合もないわけではありませんが、)中間組織が採用される場合が多いのです(注6

 (注6)長期雇用システムは、経営者(経済主体)にとって必要な要員が、外部の労働市場からではなく、中間組織たる従業員集団(内部労働市場)からリクルートされるシステムであるし、ケイレツは、企業(経済主体)にとって必要な部品等が、市場からではなく、中間組織たる系列企業群から調達されるシステムだ。

 しかも、日本型政治経済体制下においてのみならず、日本型政治経済体制からなし崩し的にアングロサクソン的政治経済体制に移行しつつある現在においても、この日米間の違いが依然基本的に維持されていることをわれわれは見てきました。

 そこで結論ですが、私は、日本が目指すアングロサクソン的政治経済体制に係る制度は、このような中間組織を活用こそすれ、その存立を不可能にするようなものであってはならない、と考えているのです。

4 長銀の「処理」

 日本型政治経済体制の下では、開銀・輸銀等の政府系金融機関、興銀・長銀等の長期信用銀行、そして一般の銀行は、大蔵省・日銀という金融当局からみれば、金融政策を実施するための中間組織であり、一般の銀行すら、純粋な営利企業ではありませんでした。経営の自由度に著しい制約が課されていたわけです。ですから、興銀・長銀や一般銀行がおしなべて不良資産を抱えることになったのも、もとはと言えば金融当局の責任です。ところが政府は、不良資産を抱えたままのこれら銀行を、突然純粋な営利企業として放り出してしまったのです。

 その結果、日債銀や長銀がつぶれたわけですが、長銀をつぶしたのがとりわけ惜しいと思うのは、当時の日本で唯一機能していた公共的シンクタンクとしての長銀をつぶしてしまったからです。

 竹内・日下両名の活躍は、ご本人達が優れた資質を有することは否定しませんが、長銀だからこそ、御両名を始めとする多数の人材が輩出したのだ、と私は考えています。(より規模が大きく、資質の優れた人々もより多くいたはずの興銀は、著名な研究者を生み出していません。)

 いずれにせよ、機能している組織というものは、シナジー効果によって、それを構成する個々人の能力の総和を超える存在となることを、お忘れなく。

5 失われた10(余)年の原因

 経済学者自身が、日本の失われた10(余)年の原因について、経済学は解明できていない、と認めています(http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/colCh.cfm?i=t_harada022004年7月2日アクセス)。

 この期に及んで解明できていない、というのですから、原因は経済外に求めざるを得ないのではないでしょうか。

 問題は、原因は経済外の何だったのか、ということです。

 私は、「米国の要求に従って、過早に、他律的にかつ非体系的に政治経済のアングロサクソン化を実施したためにもたらされた」と主張したのに対し、私有自楽さんは、「米国は適切な助言をし続けてくれていた<にもかかわらず、>省益は考えても・・民のことは念頭にない・・当時の橋本総理大臣と三重野日銀総裁・・<らの>人々<が>・・その助言を曲解し、最も愚かな決してやってはいけない政策を実施した」からだ、と主張されています。

私が、米国がワルだったからだと主張しているのに対し、私有自楽さんは、米国は善意だったけれど日本の当局者達がアホだったからだ、という対蹠的な主張をされている、とお思いですか。

 実は私は援軍を得た思いをしています。

と言うのは実のところ、私有自楽さんは、私と同じことを言っておられるからです。

 米国は自分の国益に基づいて日本に要求をぶつけたところ、米国の保護国たる日本には国益概念がない・・何が「民」のために良いかを判断する基準を持たない・・ために、「過早に、他律的にかつ非体系的に」米国の要求を受け入れ、その結果、失われた10(余)年がもたらされた、と言い換えれば、両者の主張が同じであることがお分かりになるでしょうか。

 しかし、一体どうして私有自楽さんは、私の主張を誤解されたのでしょうか。

 それは、当時の日本の当局者達と同様、大変失礼ながら私有自楽さんご自身も、重症の保護国住民症候群に罹っておられるからなのです。

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太田述正コラム#843(2005.8.30)

<郵政解散の意味(補論)(続々)>


3 長期雇用や系列を生かすメリット

 (1)始めに

 摺り合わせ生産については、ご異論がないようなので、長期雇用と系列(ケイレツ)について論じたいと思います。

 (2)長期雇用

日本型政治経済体制の下で、日本の大企業を中心に広く見られた長期雇用システム(注1)(注2)は、各企業の生産システムに適した技能や技術の形成(注3)そして人材の適材適所への配置を可能にするといった人的資源管理の面でのよさと、労使あるいは労働者間の情報共有を密にするといったメリットを持っています。

しかしその反面、長期雇用には労使間に長期にわたる雇用や賃金を安定的に保証するという暗黙の了解があるために、必然的に人的費用が固定費用化するというデメリットが存在することがかねてから指摘されてきました。

(注1)長期雇用システムは、諸外国においては日本ほど普及していないhttp://www.boj.or.jp/ronbun/00/ron0001b.htm(8月29日アクセス)。また、日本では、かねてより、企業規模が小さくなるにつれて、長期勤続者の比率が減少する傾向が存在する。

 (注2)日本の長期雇用を論じる時には、併せて年功制についても論じる必要があるが、ここでは立ち入らない。例えば、http://www.boj.or.jp/ronbun/00/ron0001b.htm上掲参照。

 (注3)これを「熟練知」と命名し、日本の長期雇用や年功制の普遍性を主張したのが小池和男だ。ただし、小池の研究方法論と結論には批判(http://www.econ.tohoku.ac.jp/~nomura/nachlabstudy.html。8月29日アクセス)もある。

 そこで、長期的に景気低迷が続いていることから、長期雇用に伴う人的費用の硬直化のデメリットがメリットを上回るようになったとして、長期雇用システムの解消を図るべきだ、という主張がなされていることは事実です。

 ところが現在、日本で見られるのは、いわゆる労働市場の二極化現象であり、長期雇用は比率を下げつつも深化して生き延びているのが現実です。

 二極化現象とは、企業の中心部門が内部化し、それ以外の部門は外部化してきていることを指しています。つまり企業は、人件費の硬直化を伴う長期雇用者を企業のコアとなる中心部門のみに配置し、その他の部門はパートタイマーや契約社員あるいは派遣社員などの短期雇用社員で補うことによって、長期雇用システムのメリットを維持しながら人件費硬直化を防ぐための対策を講じてきているのです。それと同時に、長期雇用者の勤続年数はより長期化しています。

 すなわち、パートタイマーを含まない一般労働者に限れば、長期雇用慣行の崩壊の兆しは全く見られないのです。

 (以上、特に断っていない限りhttp://www.iser.osaka-u.ac.jp/library/dp/2002/DP0563.PDF(8月29日アクセス)による。)

 このように労働市場の二極化によって長期雇用を温存することが合理性を有するのは在来型企業のケースであり、IT産業にあっては、たとえ大企業であっても、長期雇用は解消しなければならない、という議論もあります。

 しかしこれに対しては、IT化や経済環境の変化が激しく、先行きの見通しが難しい時代においては、幅広い知識経験を基に変化に迅速に対応できる長期雇用人材の重要性が、むしろ増すのではないか。また、こうした人材の技能・技術蓄積は、企業内で行われるべきであり、その方が効率性が高いのでないか。かつまた、IT産業も日本の在来産業とのインターフェースの下で活動している以上、在来産業と全く異なった雇用方式をつるわけにもいくまい、といった反論が投げかけられており、決着はついていません。

 (以上、http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no145/siten.htm(8月29日アクセス)による。)

 (3)ケイレツ

(大企業が部品会社に出資したり技術者を派遣したりする)ケイレツを活用する日本型政治経済体制独特のものづくりは、1960年代以降に「低価格・高品質」の日本車が米国などで人気を集めると脚光を浴びました(注4)。だがその後の日米貿易摩擦等において「閉鎖的な取引慣行」として批判の的になり、1990年代後半にはケイレツの崩壊もささやかれるようになります。

(注4)ケイレツでは、部品会社が自動車メーカーからの情報をもとに、受注が決まっていなくても、将来をにらんだ工法・素材の研究を進め、物流・生産設備の効率化への投資もする。こうした開発初期からの関与が、継続的な品質向上とコスト削減につながるとされる。

そして、世界的な自動車業界の再編の中で日本の自動車メーカーに出資した外国自動車メーカーを中心に、ケイレツにとらわれずに安い価格を提示する部品会社を優先し、そこに大量発注してコストを減らす欧米流が導入されました。

 しかし次第に、コスト削減効果より、部品会社との関係悪化のマイナスのほうが大きいことが明らかになってきたことから、最近では、開発初期から部品会社と深く協力しあう日本流ケイレツが復権しつつあります(注5)。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.asahi.com/car/news/TKY200506250265.html(6月26日アクセス)による。)

(注5)その転機になったのが、1997年2月に愛知県刈谷市にあるトヨタ自動車系のアイシン精機の刈谷工場で火災が発生、工場一棟が全焼し、重要な部品がトヨタに供給できなくなった事件だ。トヨタは1ヶ月は操業停止せざるをえないかと思われたが、操業停止は数日間で済み、世界中をびっくりさせた。アイシンの下請け企業群が、トヨタやアイシンが混乱の中で具体的な細かい指示が余り出せなかったにもかかわらず、ケイレツの下請け企業群が、トヨタやアイシンと目的意識と価値観を共有していたおかげで、阿吽の呼吸で独自に判断して動くことができたからだ。(http://www.isssc.com/id/topics/04.html。8月29日アクセス)

 米国カリフォルニア州シリコンバレーのベンチャーキャピタルが「ケイレツ」と称して、投資先企業間の連携、グループ化を大変重んじていることは興味深いものがあります(http://www.kiis.or.jp/salon/kikansi/kiis109/109htm/aprc1.htm。8月29日アクセス)。

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太田述正コラム#842(2005.8.30)

<郵政解散の意味(補論)(続)>

「私有自楽」さんより、コラム#834をコメントしたメールがあったので、ここに転載させていただくとともに、私の再コメントを、今回と次回の二回に分けてつけることにしました。

メールや私のHPの掲示板への投稿をコラムに転載させていただく際には、本来、ハンドルネームでなく本名を明かしていただいた方が良いと思いますが、「私有自楽」さんについては、一度ハンドルネームのまま、投稿をコラムに転載した経緯があるので、今回もハンドルネームのままにしています。

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私有自楽

ロシアについての評価はここではおおよそ同意することにしましょう。

細かく言えば多くの異議はあるもののそれを述べていると話が逸れてしまいますので。

しかし、同じ論理で日本についての記述が始まる辺りからは同意しません、日本についての捉え方は大いに異なります。

丁寧に語ると幾らでも書けるのですが、現在私にはゆっくりご返事している時間がないので、乱暴ですが、ロシアとは社会体制、社会基盤、産業社会の構造と厚みが違うこと、またそれを育んできた歴史が違うことだけを指摘してロシアと同様の道を歩むことなどありえないと結論だけ申し上げておきます。

ロシアはツァーと農奴の社会は経験していても高度の封建社会を築いた経験を持たないままに共産革命になだれ込んで行ってしまった国である。

一方、日本は最も完全な封建社会の秩序を築いた経験がある国であると同時に重層的に堺、近江、江戸の町人社会とその文化を保有し引き継いで来た国である。要するに社会のベースには筋金入りの町民社会(市民社会と微妙に異なる)があり、封建社会と同居した町民産業社会の数百年の歴史があり、その間には太田さんの言うところの弥生モード期を何度も経験していることを申し添えます。

ここで私の主張をより良くご理解を頂くためにここでわざと少々脱線します。

太田さんは政治体制をアングロサクソン的政治形態と、ローマ法(或いはナポレオン法典)に基盤を置く大陸型政治形態の二つに分けてわかりやすく解説していらっしゃいます。

私もこの分類には大いに賛同する者ですが、私はこの分類の他に、日本社会に限っては、これにもう一つの対立軸を設定して観察しています。

それは現在の社会を「士農工商」社会に見立てて「士農」型と「工商」型との二つに分けて考える方法です。(上田令子氏の論(http://www.ueda-reiko.com/02a.html)より借用)

太田式分類をX軸とするならば、「士農工商」社会を「士農」型と「工商」型とに分ける考え方をY軸に置いてお考え下さい。

このように二次元で捉えると、大田さんと私有自楽の主張の共通点と対立点が明確に見えてきます。

以下、Y軸についてのみ説明します。

政治・軍事の世界は当然「士」の価値観の世界です。

また、この「士」の価値観は「農」を統治した関係上その価値観は「農」の価値観と表裏一体をなし、親和性は高いようです。

一方、この価値観とどうしても相容れないのが「工商」の価値観で、この価値観は西欧社会では市民革命後台頭した価値観の様に言われていますが、日本ではもっと古く、堺、大阪、江戸の民衆の間ではごく普通に昔からあった価値観だったのではないかと想像しています。

また「商工」と言ってもヨーロッパのギルドやマイスター達の世界は「士農」の社会のサブシステムであり、ヴェニスや堺の商人達の社会とはかなり異なったものと捉えています。

また、「士」身分の人達の中にも僅かながら例外的な精神構造を持った人も居るわけで、歴史上では勝海舟、坂本龍馬、福沢諭吉、渋沢栄一等に代表される人々は「士」の身分でありながら「商工」型のフィロソフィーを持っていた人々だったと想像しています。

また、未だ確証を掴むには至っておりませんが意外や幕府最後の老中小栗上野介にもその匂いを感じています。

そして、それ以外の日本の殆んどの指導者達は尽くと言って良いほどに「士」の理想と、「士」価値観を持った人々でした。

結論から先に入りましょう、太田さんは典型的に「士」の価値観で物事を判断なさり、主張なさる日本の指導層の方と同じ発想の方のようです。

それに対し、私は典型的に「商」の価値観で物事を判断し、主張するようです。

ここに同じテーマについての二人の異なる見解が発生してくる原因があります。

どちらが正しく、どちらが良いというのではありません。

二人とも、アングロサクソン的政治形態の方が望ましいと考え、今後の日本には弥生モードの考え方がぜひ必要と共に考えながらも、ここ彼処で意見の一致を見ないのはこの点に違いがあるということに気がついたのです。

以下、二人の異なる見解を併記してみました。

括弧内は竹中平蔵氏が最近出された素人の為の経済講義からの引用ですが、「軍事にしても政治にしても相手の方が強くなるということは、自分が弱くなるということなんです。ところが経済は違う。隣の国が良くなるということは、自分も良くなるチャンスが出てきたということ…」 という一節があります。この「ところが経済は違う。…」以降の後段の発想は正に「商」の、商が本能的にする発想です。

軍事や政治を本分となさる「士」である太田さんが下記のことを本能的に次のように結論付けられることは自然なことです。

> 私は、日本の1990年代以降の失われた十有余年は、米国の要求に従って、過早に、他律的にかつ非体系的に政治経済のアングロサクソン化を実施したためにもたらされた、と考えています。

> さりとて、ロシアのように一挙にアングロサクソン化を実施していたとすれば、日本もまた滅びていた可能性大です。

しかし、商人であることを本分とする私は次のように考えます。

1990年代以降の失われた十有余年は、「米国の要求に従って、…アングロサクソン化を実施したためにもたらされた」、とは全く考えません。

むしろ米国は適切な助言をし続けてくれていたとすら考えます。

その助言を曲解し、最も愚かな決してやってはいけない政策を実施したのが当時の橋本総理大臣と三重野日銀総裁で、彼等は単に無能でバカだったのだ、より正確に言うならば省益は考えても、民のことは念頭にない人々なのだと思っているのです。

米国批判は、肥満児の健康の為には適度の食事制限と水泳等の運動が良いという医者の助言を曲解し、バブルでぶくぶくに太った我が子を三日ほど絶食させた上で、手足を縛って水に放り込んで溺死させた親が、ダイエットと水泳を勧めた医者の責任を追及しているような発言に聞こえるのです。

長銀問題にしても、「頭取に縄目の恥を受けさせ…」とは考えずに、頭取は株主に対して背任行為を行った明白な犯罪者であると考え、刑事罰の他に損害賠償の穴埋めの為に、一般の銀行債務者同様に、頭取の私財没収が行われないことを不思議に感じるのです。

長銀自体は破産処理すればよく、預金者は預金の返済が受けられなくて当然、それが預金者の当然のリスクというものであり、どうしても金融秩序の為に預金者を救いたければ、ここに税金を投入すれば良いのです。

そうすれば経済犯罪人たる頭取を始め役員達の救済や禿げ鷹ファンドを儲けさせる結果となった莫大な税金の投入の必要はありませんでした。 腐った組織温存の為に税金を投入したこと自体が責められるべきで、その結果としてリスクを取ったリップルウッドが儲けたのはその額が如何に大きくとも当然の報酬です リップルウッドは断じて責められるべきではありません。

責められるべきは無能な交渉と投入してはいけない所に税金を投入した役人であり財務省の方です。

日本が滅びるとすれば、決して自らが私財をリスクに曝して責任を取ることをしない役人に不当な決定権を与えるようなシステムを温存するからであり、その事を棚上げして、禿げ鷹ファンドや米国政府のせいにするのはとても恥かしい筋違いの話しと感じるのです。

「士」たる太田さんは次のように述べられました。

> 調査部だけからも竹内宏や日下公人らの逸材を輩出させてきた長銀を壊滅させて人材を散逸させ…、と。

「商」たる私有自楽は次のように考えます。

長銀がそれまで得ていた金融の護送船団方式による独占的利益によって竹内宏や日下公人らの逸材を独占的に囲い込んでいた状態から、彼等逸材を世の中誰でもが世の中全体で彼等の能力を活用させて頂けるようになったことは素晴らしいことです。もし竹内宏氏や日下公人氏らの将来が暗いものになったり年収が下がったのだとすれば、それは長銀が不当に高い報酬を彼等に払っていたということであり、その逆ならば彼等は水を得た魚の様に更に広い世界に羽ばたけるチャンスを得たのだと思います。 私はきっと彼等は後者の方だろうと考えており、彼等の高い能力を最も高く評価してくれる所で、或いは日本国民全体で共有できることはとても好ましいことだと考えています。(想像ではなく、ご本人達の率直なご意見を伺いたいものですね)

> すなわち、「日本自身のニーズに従った制度設計を行い、日本自身が設定したスケジュールに従って推進」する以外に日本がアングロサクソン化するにあたっての王道はないのです。

いかにも「士」の世界の人が本能的に正義と錯覚し主張しそうな考え方です。

太田さんのこの議論は多くの誰でもの共感を得やすい、それ故とても危険な発想です。

真実は、日本自身のニーズに従った制度設計など神様以外誰にも作れないのです。

「こういう制度を作ろうとする考え自体が、バベルの塔を築こうとするに等しい誤った考えである。」と人は謙虚に考えたほうが良い社会に確実に近づけます。

何故ならば、誰かに都合の良い制度は必ず誰かには都合悪く、今適合した制度は次の瞬間には最早時代遅れになるからです。

壮大壮麗な法典を作ろう等としてはいけません。現状の悪い所を直ぐ直し、個別に最善と思われる判断を積み重ねていく、人智の及ぶところはせいぜいここまでです。

ここにも多少「ローマ法」と「英米法」との対比に共通するところがありますね。

卑近な例で言うならば、郵政民営化のより良い案を煮詰めるために更に審議を重ねる必要がある、という民主党の主張よりも、今より多少でもマシな民営化案を取敢えず実現しその上で悪い所を修正していくというスピード感のある小泉政策を重ねていかないと人々の住みやすい世の中になりません。民主党のいう様にしていたら継続審議の懸案だらけになり、その間既得権者は甘い汁を吸い続けることが出来、それを永遠に続けることさえ可能です。

この様な、より良い方向への暫時改善主義こそがアングロサクソン化の王道なのではないでしょうか。

> 私の言いたいことの第二点は、かかる制度設計にあたっては、長期雇用(典拠失念)や系列http://www.asahi.com/business/update/0626/003.html。6月26日アクセス)や摺り合わせ(藤本隆宏「能力構築競争―日本の自動車産業はなぜ強いのか」中公新書)といった日本型政治経済体制下で培われたところの、アングロサクソン的政治経済体制下においても日本等においては維持した方がよさそうなシステムを生かすこと等を考慮する必要があるということです。

このご主張には全く同意しません。

この点では、太田さんと私とは全く別の世界に住んで居るようです。

結果としての長期雇用は大いに望ましいものですが、長期雇用の為のいかなる施策も人間関係ばかりか人間の尊厳と品位そのものまで貶めます。

系列についてはお薦めの書物を未だ読んでいないので言葉の定義がハッキリしませんが、資本や信用についての「系列」の概念まで否定するつもりはありませんが、系列故の商品優先選択買付けなどは考えられないことです、それこそその発想は親の仇です。

「摺り合わせ」には何の違和感もありません、人間社会では当然に必要とされることであり、またその「摺り合わせ」こそが交渉そのものでもあると考えています。

> 私が言いたいことの第三点は、この点が最も重要なのですが…、

太田主張を特段に否定するものではありません、国家と言うものは、弱ければつけ込まれ、強ければ理の通った話し合いが互いに出来る様になる、というだけのことです。

今日の太田さんは米国に対して殊更に被害妄想的になっておられるように感じますが、「日本も他国に対してせめて理の通った話が出来る程度には普通の国になって居なければいけません。」という意味だと理解することにします、全く同感です。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

<太田のコメント>

1 「士農」「工商」対置論について

>それは現在の社会を「士農工商」社会に見立てて「士農」型と「工商」型との二つに分けて考える方法です。(上田令子氏の論(http://www.ueda-reiko.com/02a.html)より借用)

ここは、専門家の典拠をつけていただきたかったところですが、「士農」と「工商」に分ける発想は面白いですね。

 かつてイサドラ・バードが、李氏朝鮮における「工」と「商」の未発達の原因は、(「士」による)政治の搾取性にある、と指摘した(コラム#404)ことが思い起こされます。

 さて、私は、「江戸時代には日本は数百の藩に分かれ、藩ごとに言葉(方言)も違えば、考え方も違っていました。また、士農工商という身分制度は(負の面はさておき、)身分ごとに異なった考え方の人々を生み出していました。この異質のものがせめぎあうダイナミズムがあったからこそ、日本は近代化を円滑かつ急速になしとげることができたのです。」(コラム#358)と書いたことがあります。

私は、欧米列強が東漸してきた時点での日本と朝鮮半島の決定的な違いは、幕藩体制下の日本では「士」が藩単位で重商主義的政策を行い、「農」「工」「商」のそれぞれをそれなりに発展させ、「士」はもとより、「農」「工」「商」のいずれもが誇りを持って仕事を行っていたところにある、と考えているのです。

 すなわち、やや美化して申せば、「士農工商」は相互依存・共栄関係にあり、このうち「工商」が「士農」と画然と区別され、異なった論理で機能していた、とは考えていないのです。(「工商」に藩を超えて活動していた側面があることは否定しませんが・・。)

 この点は、更に議論を深めたいものです。

2 日本自身のニーズに従った制度設計は可能か

 いずれにせよ、

>日本自身のニーズに従った制度設計など神様以外誰にも作れない

というご指摘は、このような幕藩体制を構築した徳川家の制度設計能力を貶めるものではないでしょうか。

 徳川家による制度設計の意図せざる結果として幕藩体制が構築されただけではないか、ですって?

 その点はさておき、少なくとも昭和期に構築され、昭和期が終わる頃にその歴史的使命を終えたところの「日本型政治経済体制」が、幕藩体制の記憶を踏まえつつ、「日本自身のニーズに従った制度設計」によって構築されたものであったことまで否定するのは困難でしょう。

 このように日本は、いくたびも縄文化を、「日本自身のニーズに従っ」てなしとげてきただけでなく、「日本自身のニーズに従っ」て、自らの政治経済体制を支那やイギリスといった外来の体制に全面取っ替えする形で弥生化(支那的国家化・アングロサクソン的国家化)を繰り返してきたのです。

その日本が、再度のアングロサクソン的国家化にあたって、「日本自身のニーズに従った制度設計」ができないわけがありません。

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太田述正コラム#8342005.8.24

<郵政解散の意味(補論)>

 普段、私のHPohta@ohtan,net)の掲示板を読んでおられない方は、まず、以下のやりとりにざっと目を通していただく必要がありますが、既に読んでおらえる方は、飛ばしてください。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

<私有自楽>

太田述正コラム#829「郵政解散の意味(その2)」をめぐって>

> 「日本の経済力をつぶそうと思ったら」このシステムは破壊しなければならない、という米国の対日大戦略http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050811_kaigai/前掲)に屈したものであり、……

チョッとチョッと待って下さい、私は太田氏の主張についてほぼ賛同する者ですが、経済学の領域の話になると途端にレベルが下がってしまうことを常々気に掛けておりました。

今回の立花論文を参照すること等はその典型です。

立花隆氏は評論家、記者或いは社会学者としては高名な方であり、その分野のお話しには敬意を表する者ですが、氏の経済学認識は初歩的な部分で経済学部の四年生のレベルにも達していないばかりでなく、基礎的な部分で明らかに誤った多くの主張しておられ、影響力の大きい方だけに多くの人を惑わす結果となりますので困ったことです。

これは高名な文学者が物理学や医学の論評をしたからといって、必ずしも正しいことを述べているとは限らないのと同様です。

一般に物理や化学のことだと「私は素人ですので…」と謙虚になる人が多いのに対し、経済学の分野の事になると途端に基礎的な分析ツールの使い方も学ばぬままに日常生活の直感だけで誤った議論を平然と推し進める人が多いのは、多くの評論家、政治家を始めとして、困ったものだと思っていることの一つです。

物理学の分野ではニュートンが現れるまでは、アリストテレスが主張していた運動の法則、即ち「物は落ちる」「物は止まろうとする」という法則が跋扈していましたが、立花隆氏の主張は正に「物は落ちる」「物は止まろうとする」という直感的な運動法則に則って人工衛星の動きを解説しようとすることに等しい愚行です。(直感的にはその誤った説明の方が専門外の人には納得し易いことが余計始末を悪くしています)

現在私は残念ながら期限の迫った仕事を抱えているので、立花隆氏の誤った議論の一つ一つを取り上げて論評し訂正している時間が無いので、簡単に氏の表題についての誤りだけを正した結論だけをここに述べておきます。 あとは一事が万事です。

正しくは、「日本の経済力をつぶそうと思ったら」このシステム(郵政)を温存しさえすれば良い。」 です。

この訂正表題についての詳細解説は私でなくても、真面目に勉強している経済学部の3?4年生の学生なら十分に出来ます。

読者に経済学を学んでいる学生さんがいらっしゃったら、夏休みを利用して、どなたか私に代わって以下の解説の投稿を試みてご覧になりませんか?

<太田>

>私は太田氏の主張についてほぼ賛同する者ですが、経済学の領域の話になると途端にレベルが下がってしまうことを常々気に掛けておりました

今まで「経済」の話はしたことがあるけれど、「経済学」の話はした記憶はありませんが・・。

それはともかく、

>「日本の経済力をつぶそうと思ったら」このシステム(郵政)を温存しさえすれば良い。」

と力説されておられるところを見ると、どうやら私の「郵政解散の意味」シリーズの趣旨を読み違えておられるようです。私の書き方に問題があったのかなあ。

 私は、「アングロサクソン的政治経済体制」への切り替えの必要性は、弥生化の観点から不可欠だと考えているので、郵政の分割なり民営化それ自体に反対している訳ではありません。

 私は、それが米国の要求リストに載っていること、米国の利益に合致する形で進められている可能性があることに注意を喚起しているだけです。(関岡氏のスタンスと基本的に同じです。)

 米国が「公正な競争」を標榜しつつ、自分で勝手に反ダンピング法制をつくって、恣意的に懲罰的関税を賦課し、米国の特定の業界を外国企業との競争から保護してきた国であることを思い出してください。

 諸外国から総スカンをくらいつつも、米国が世界の覇権国であり、かつ米国の市場が巨大であることから、そんなばかげたことが依然まかり通っています。

 (本来、国家というものはエゴの固まりですから、米国を非難しても始まりません。)

 そんな米国が要求してきたことは、疑ってかかり、郵政の分割なり民営化なりについては、あくまでも、来るべき日本のアングロサクソン的政治経済体制の全体像を思い描いた上で、日本自身のニーズに従った制度設計を行い、日本自身が設定したスケジュールに従って推進されるべきだ、というのが私の言いたいことです。

<私有自楽>

> 今まで「経済」の話はしたことがあるけれど、「経済学」の話はした記憶はありませんが・・。

そうですね、 おっしゃる通りです。

それはともかく、

> どうやら私の「郵政解散の意味」シリーズの趣旨を読み違えておられるようです。私の書き方に問題があったのかなあ。

いいえ、多分そうではないと思います、太田さんの主張は大いに認めていると同時にほぼ全面的に同意しているのです。

私が矛先を向けているのは、立花隆 主張に対してであり、その意味ではこの掲示板に投稿したのは一種の八つ当たりで、立花 隆 氏のホームページの掲示板の方に批判の矛先を向けるべきでした。

さて、私がここで主張したいことは、その社会システムの提案を最初に黒猫がしたのであれ、白猫がしたのであれ、国民の汗の結晶である郵貯と簡保の350兆円前後のお金が、国民の幸せな生活(安全保障も含む)の為に還元されるシステムであれば良いのであって、アメリカが最初に提案したことだからと言って日本を弱体化させる陰謀なのではないか?等とつまらぬ下司の勘繰り等をしている暇は無いということなのです。

太田さんは「日本自身のニーズに従った制度設計を行い、日本自身が設定したスケジュールに従って推進されるべきだ」、とおっしゃいますが、その様な理想的な計画案がいつの日か策定され、それが国会で承認されるまでのいつ果てるとも無い時間の間に、350兆円の国家事業に投資されたお金はどんどん不良債権化し、同時に本来国民の幸せな生活の為に使われる筈だったお金は談合や腐敗に満ちた談合仲間の村社会だけの為に浪費されていくことになります。

その様な悠長なことをやっているより、それなりに洗練された国際会計基準に則りアングロサクソン的政治経済体制を一刻も早く築いてしまうことの方がアメリカや中国と対等に話し合いのできる普通の国になれる最も着実な方法であり王道なのです。

何が一番良い方法かを澱んだ社会構造の中で論じるより、一見乱暴に聞こえますが、一刻も早く民営化の競争の洗練を受け、国際基準で評価され、それぞれの民営化主体が自らを律してより丁寧にきめ細かく毎日その社会システムのリファインを重ねて行った方が、より着実に多くの人々をそして社会を幸せにすることが出来ます。

あまり良い例えではありませんが、外国語を習得しようとする時の最悪手は、日本語で書かれた最も良い外国語習得の方法を論じた本を読み漁ることです。そんな暇があったら現地で生活しましょう。

今日はとても乱暴に議論を進めていますが、いつか丁寧に議論を展開したいと思っています。

太田さんからご返事を頂いてしまったので取敢えずの回答まで。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 以上は、「郵政解散の意味(その2)」をめぐっての、私有自楽さんと私の、HPの掲示板上のやりとりです。この際、もう少し議論を深めたいと思います。

悠長なことをやっているより、それなりに洗練された国際会計基準に則りアングロサクソン的政治経済体制を一刻も早く築いてしまうことの方がアメリカや中国と対等に話し合いのできる普通の国になれる最も着実な方法であり王道なのです。

 まさにこの私有自楽さんの推奨されている通りのことを、米国の勧めに従ってやった結果、国が滅びかけたのがロシアです。ロシアはたまたま産油国であったために石油価格高騰によって救われましたが、さもなければロシアは本当に滅びていた可能性があります。

こうしてソ連が解体しただけでなく、ロシアもまた没落したことで利益を得たのは米国です。

 共産党政権下のロシア(ソ連)は重厚長大産業に適した社会主義国でしたが、日本型政治経済体制下の日本は重厚長大産業にも軽薄短小産業に適した、人類史上最も効率的かつ効果的な社会主義国家(正確には社会主義的国家)でした。

 長期にわたって機能した社会主義ないし社会主義的国家の資本主義的国家(アングロサクソン的国家)への転換は一筋縄ではいかないものなのです。

 私は、日本の1990年代以降の失われた十有余年は、米国の要求に従って、過早に、他律的にかつ非体系的に政治経済のアングロサクソン化を実施したためにもたらされた、と考えています。

 (長銀のケースが良い例です。長銀の普通銀行化は早晩やらなければならなかったとしても、調査部だけからも竹内宏や日下公人らの逸材を輩出させてきた長銀を壊滅させて人材を散逸させ、頭取に縄目の恥を受けさせ、しかも税金を投入した上で米国系の投資グループにしこたま儲けさせたことを思い出してください。)

 さりとて、ロシアのように一挙にアングロサクソン化を実施していたとすれば、日本もまた滅びていた可能性大です。

 アングロサクソン化への道半ばの現在、このような事情はなお、基本的に変わっていないと私は考えています。

すなわち、「日本自身のニーズに従った制度設計を行い、日本自身が設定したスケジュールに従って推進」する以外に日本がアングロサクソン化するにあたっての王道はないのです。

 これが私の言いたいことの第一点です。

 私の言いたいことの第二点は、かかる制度設計にあたっては、長期雇用(典拠失念)や系列(http://www.asahi.com/business/update/0626/003.html。6月26日アクセス)や摺り合わせ(藤本隆宏「能力構築競争―日本の自動車産業はなぜ強いのか」中公新書)といった日本型政治経済体制下で培われたところの、アングロサクソン的政治経済体制下においても日本等においては維持した方がよさそうなシステムを生かすこと等を考慮する必要があるということです。

 換言すれば、日本のアングロサクソン化と米国化とは同値ではありえない、ということです。

 私が言いたいことの第三点は、この点が最も重要なのですが、日本のような米国の保護国が、米国の要求を次々に鵜呑みにして行くことは非常に危険だ、ということです。

吉田ドクトリンの下で日本は外交と安全保障を米国に委ねただけであって、米国が日本の内政にまで直接容喙することはできないタテマエであるはずなのですが、既に申し上げたように、米国のお眼鏡にかなわない人物が日本の首相になることも、米国の反対する政策を日本政府が実行に移すことも困難なのが実態です。

これは、米国の要求を鵜呑みにして施策化することは簡単であるものの、その結果米国ないし米国の業界が余りにも一方的に利益を受けることが分かって、日本がこの施策を撤回ないし軌道修正しようとしても、米国が首を縦に振らない限り不可能だということを意味します。

 ですから、日本をアングロサクソン的政治経済体制に切り替えるのであれば、本来はそれに先行して日本は米国からの「独立」(自立)をはたす必要があるのであり、少なくとも自立へ向けての努力と平行してアングロサクソン化を推進すべきなのです。

 しかしご承知のように、日本の自立への歩みは余りにも遅々としており、このような状態のまま、日本がその政治経済システムを性急にアングロサクソン化、というより米国化することは、日本が米国の連邦議会に代表を送れない以上、日本が米国の保護国ならぬ植民地に転落する危険を冒すことに他なりません。

 しかもこの場合、香港のように英国によって統治されていて英国が統治に責任を負っていたケースとは違って、米国は日本の統治に何の責任も負っていないだけに、日本は一方的に宗主国米国に収奪され、奉仕させられる存在に成り果てる可能性大です。

 以上、私の意のあるところをお酌み取りいただければ幸いです。

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太田述正コラム#8292005.8.20

<郵政解散の意味(その2)>

 郵政民営化についても、マクロ的に見れば、日本の経済高度成長をもたらした日本型政治・経済体制を支えた柱の一つが「世界最大の銀行たる郵貯などがかき集めた郵政マネーを国家が中心となって公共事業に投資して回転させていくという」システムなのだから、「日本の経済力をつぶそうと思ったら」このシステムは破壊しなければならない、という米国の対日大戦略(http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050811_kaigai/前掲)に屈したものであり、ミクロ的に見れば、米「保険業界」の強い要求を踏まえた米国政府の「日本の郵貯・簡保<の>官業としての優遇措置を廃止せよ」との「圧力」(関岡前掲書133頁)に屈したものにほかなりません。

 いずれにせよ、現在の日本における最大の問題は、繰り返しになりますが、日本の弥生モードへの切り替えが、日本の主体的意思によってではなく、他国の意思によって、他国の利益のために行われつつあることです。

 その根底には、日本が戦後60年も経っているというのに、吉田ドクトリン・・外交や安全保障を米国に丸投げする国家戦略(=保護国化戦略)・・をいまだに廃棄していない、という問題があります。

 私は、グローバル化した現代世界においては、日本は自らを弥生モードに抜本的かつ恒久的に切り替える以外に生き延びるすべはない、と考えています。

 しかし、弥生モードへの切り替えが即米国化でなければならない、ということはありませんし、いわんや、それが米国の利益のために米国の指示に従って実施されるようなものであってよいはずがありません。

 もとより、私自身、日本を弥生モードに切り替えるためには、日本型政治・経済体制をアングロサクソン的な政治・経済体制に転換して行くことが不可欠である、と考えていますが、その具体的なあり方は、あくまでも日本が衆知を結集して自らの意思で決定した上で、整斉と自主的に実施に移していくべき筋合いのものだ、と思うのです。

3 有権者はどうすべきなのか

 では、今回の総選挙で有権者はどうすべきなのでしょうか。

 イデオロギー/宗教政党である共産党・社民党・公明党は論外として、政党としては、

a 米国の指示に盲従して弥生モードへの切り替え路線をつきすすむ「改革派」候補者、古き良き縄文モード時代の追憶にしがみついている「守旧派」候補者、及び両者の中間的な「ノンポリ」候補者、の三種類の候補者(自民党籍の無所属候補を含む)を擁する自民党、

b 古き良き縄文モード時代の追憶にしがみついている「守旧派」候補者のみを擁する国民新党(鈴木宗男元議員が立ち上げた新党大地は国民新党の友党と考えてよかろう)、

c 基本的に自民党と同じ三種類の候補者を擁する民主党、

という不毛の三択しか与えられていない日本の有権者は、まことにお気の毒であるとしか言いようがありません。

 それはそれとして、私が皆さんに訴えたいことは二点です。

まず、不在者投票でも何でもいいから投票を行って投票率を上げていただきたい(注5)ということと、無所属の候補者でもかまわないので、広義の外交・安全保障問題についてしっかりした識見を持った候補者に投票していただきたいということです。

 (注5)そもそも、一日も早く、インターネットによる投票制度を導入すべきだ。インターネットバンキングが普及している現在、セキュリティーの問題はクリアできるはずだ。そうすれば投票率は飛躍的に上昇することだろう。(http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0100.html(8月19日アクセス)参照)

 前者は、日本の政治の弥生モードへの切り替えの前提条件・・自民党の瓦解ないし野党化・・を妨げている大きな要因の一つである公明党の弱体化につながるからですし、後者の意義は申し上げるまでもないと思います。

 最後に、比例票をbに投じようとされている方に老婆心ながら申し上げておきますが、bは「宗主国」米国の意向に逆らう候補者のみを擁している以上、遅かれ早かれその勢力は消滅に向かうことでしょう。

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太田述正コラム#827(2005.8.18)

<郵政解散の意味(その1)>

1 始めに

8月8日午後の参議院本会議で郵政民営化法案が否決されたのを受け、小泉首相は衆院を解散し、総選挙が、30日公示、9月11日投票で行われることになりました。

 この郵政解散の意味をわれわれはどう考えたらよいのでしょうか。

2 郵政解散の意味

 (1)明治維新以来の日本の歩み

 縄文モードと弥生モードという私のパラダイムを用いて明治以来の日本の歩みを振り返ってみると、明治維新は日本が、英国化という目標を掲げて意識的に江戸期の縄文モードを弥生モードへと切り替える試みであったと言えるでしょう。

 その頂点は大正時代であり、日本の政治は(男子)普通選挙に立脚した英国的二大政党政治となり、日本の経済はイングリッシュ・ウェイ・オブ・ライフである資本主義に近似した、株主主権的にして投機的的な資本主義が機能するに至っていました。

 弥生モードが行き着くところまで行けば、何もなくても縄文モードに回帰し、新たな国風文化を確立しようとする動きが出てくるのが日本の常です。

 しかも、ちょうどその頃、資本主義の全般的危機が叫ばれるようになり、日本周辺にはファシスト勢力や共産主義勢力が勃興し、その上英国に代わって世界の覇権国になりつつあった米国が日本敵視政策をとるようになったのですから、日本の政治も経済も変調をきたし、日本は否応なしに縄文モードへの回帰を迫られた、といってもいいでしょう。

 こうして日本型政治・経済体制の構築が、当時の(軍事官僚を含む)官僚の主導で意識的に行われることになり、日本の政治は安定し、経済も再び力強い成長を始めます。

 日本の縄文モード化は、先の大戦における敗戦によって日本が占領され、日本が他律的に鎖国状態に置かれることよって完成します。そして、世界史上他に例を見ないことですが、日本の戦後の政財官のエリート達は、日本の経済の再建と高度成長に専念するねらいから、「主権」回復後も日本は憲法第9条に象徴される吉田ドクトリンを墨守し、自ら「主権」に制約を加え続けることによって事実上占領状態を継続させ、米国の保護国であり続ける道を選ぶのです(注1)(注2)。

 (注1)以上は、以前から(コラム#154、155や226で)何度か指摘してきたところだ。「縄文モード」、「弥生モード」の定義はここでは繰り返さ   ない。

 (注2)日本の近現代史における、弥生モード化の成功の象徴が日露戦争における日本の勝利であり、それに引き続く縄文モードへの回帰の成功の象徴が日本の経済大国化だ。前者の衝撃が欧米の植民地の独立をもたらし、後者の衝撃が欧米の旧植民地のうちのアジア諸国の経済的離陸・高度成長をもたらしたことに日本人はもっと誇りを持ってよい。日本の日露戦争勝利と経済大国化の衝撃については、シンガポールを代表する知識人である(インド系の)マーブバニ(Kishore Mahbubani)も力説するところだ(http://www.time.com/time/asia/2005/journey/introduction.html。8月11日アクセス)。

 (2)郵政解散の意味

この間、日本の宗主国米国は、世界の覇権国として、自らの市場を世界に開放するとともに、世界の市場における障壁の解消に努め、この開放的な秩序を維持するために軍事力を整備し、行使してきました(注3)。

(注3)これは、未成熟な覇権国であった米国が世界の政治と経済を混乱に陥れた結果、先の大戦という人類にとっての未曾有の惨禍を引き起こしてしまったことへの当然の償いであった、と総括することができよう。

しかし、日本が世界第二の経済大国になった頃から、米国は、日本に自立を促し、応分の国際貢献を行うように強く求めるようになります。

 ところが、日本は言うことを聞きません。

このような日本に業を煮やした米国が、日本が米国の保護国であり続けようとしていることを逆手にとって、占領下で徹底できなかった日本の国内体制の米国化を徹底的に行うことによって、日本の経済力が米国を脅かすようなことにならないように掣肘を加えるとともに、日本の経済力を米国の利益のために活用しよう、と考えるに至ったのはごく自然なことでした(注4)。

(注4)日本の「主権」回復以降も、米国のお眼鏡にかなわない人物は日本の首相にはなれなかったし、日本政府は米国の意向に添わない政策は実行できなかった(http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050811_kaigai/。8月17日アクセス)。保護国とはそういうものだ。

 そして、いかにも米国らしいことですが、1994年からは、かかる観点からの米国の対日要求が毎年公開されるようになっています(関岡英之「拒否できない日本―アメリカの日本改造が進んでいる」文春新書2004年52?55頁)。

 それ以前においても基本的に同じなのですが、特に日本のバブル崩壊以降、小泉政権を含む歴代の自民党政権が行ってきた「改革」なるものは、ことごとく米国の要求によるものだ、と言ってもいいでしょう。

 つまりは、日本の(米国化という)弥生モードへの切り替えが、まことに不甲斐ないことに、日本の歴史上初めて、日本の主体的意思によってではなく、他国の意思によって、他国の利益のために行われつつあるのです。

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