カテゴリ: 人物研究

太田述正コラム#3381(2009.7.7)
<トロツキーとその最期(その3)>(2009.12.3公開)

6 暗殺

 「・・・3ヶ月後、スターリンについて、共産党の「傑出した凡人」にして「革命の墓堀人」と形容した男は死んだ。
 トロツキーに対してフランク・ジャクソン(Frank Jacson)と名乗った・・ベルギー生まれのジャック・モルナール(Jacques Mornard)と名乗ったと(B)にはある(太田)・・メルカデル(Mercader)は、<著者によると、>NKVDの政治テロリズムの訓練場であったスペイン内戦の中でリクルートされたものだ。この内戦において、メルカデルは、フランコに敵対して戦った。
 スペイン内戦の後、彼はパリに送られ、そこでロシアから移民してきた人物を父親に持つシルヴィア・アゲロフ(Sylvia Ageloff)<という女性>に出会う。
 トロツキーは、そのタイピスト兼通訳兼調査係であったところの、シルヴィアの姉妹たるルース(Ruth)が好きだった。
 メルカデルは、この関係を、トロツキーに近づき、それを彼の最終的な運命的な訪問とするためにうまく用いた。<トロツキーに面会する>名目は、メルカデルが書き、出版したいと考えているトロツキー主義に関する論文の修正について議論するため、ということにした。・・・」(C)
 
 「・・・<実は、その少し前にもこういうことがあった。>
 ・・・暗殺の最初の試みがなされたのは1940年の5月24日の朝だった。
 20人の武装したスターリン主義者達の集団がメキシコシティー郊外のトロツキーの家を襲撃し、護衛達を武装解除した後、20分間にわたってこの家に機関銃を撃ち込み、それから数発の焼夷弾を投げ込んだ。
 トロツキーと彼の妻のナターリャは、ベッドの下に潜り込んで生き延びた。
 眠っていた彼等の孫の男の子のマットレスを銃弾が突き抜けたけど、その子はかすり傷を負っただけだった。
 奇跡的に、トロツキーも、飛散したガラスによって顔にかすり傷ができただけだった。・・・
 <著者に言わせると、>この5月24日の襲撃の目的は、単に殺害ではなく放火でもあった。
 弾丸はトロツキーのためのものであったのに対し、焼夷弾は彼の個人的な書類のためのものだった。
 書類には、1937〜38年の大粛清(Great Terror)に関する<スターリンにとって>不利な主張が記されていた。トロツキーの思想ほどでなくともソヴィエト連邦を脅かした人間は、スターリンが布告したように、消されなければならなかったのだ。
 約200万人の「人民の敵」がこの期間中に殺された。・・・」(B)

 「・・・トロツキーの取り巻きの中に潜入して彼を殺害した、スペイン生まれのラモン(Ramon)・メルカデルは、バルセロナのリッツ・ホテルでシェフとして働いていたことがある。
 ・・・NKVD<は、>ブルックリンのソーシャル・ワーカーで米国のトロツキー主義運動に関わるようになったシルヴィア・アゲロフとロマンティックな時を過ごさせることによって、メルカデルをトロツキーの取り巻きの中に潜入させるという計画を立てた・・・。
 アゲロフを仲介者として、メルカデルはメキシコのトロツキーの家のスタッフに取り入り、こうして彼の標的に会ったのだ。
 ・・・1940年8月20日、メルカデルはこのメキシコの家に、護衛達から慇懃な歓迎の挨拶を受けて、まっすぐ正面のドアから中に入った。・・・」(E)

 「・・・メルカデル・・・がトロツキーに自分が書いた政治的論考のいくつかを読んで欲しいと申し出た時、トロツキーは書斎で仕事をしていた。 
 トロツキーは頷き、それに向けて背を屈めた時、<(その日はすばらしい晴天だったが)レインコートの下から小さなアイスピックを取り出し、メルカデルは目をつぶって(D)>アイスピックでトロツキーの前頭部を<たったの1回>ぶん殴<っ>た。
 彼は痛みに呻きながらかろうじて立ち上がり、攻撃者をかわしてから倒れた。
 護衛達が大慌てで入ってきてこの侵入者を殴打した。
 ・・・病院にただちに運ばれたが、トロツキーは翌日死亡した。・・・」(B)

 「・・・トロツキーは、所蔵していた大量の文書を1940年にハーバード大学に6,000ドルで売っている。
 これは、彼が金欠病にかかっていたためだが、スターリンが、トロツキーを革命期の種々の写真から削除したように、彼の記録を抹殺するために放火魔を送り込んでこないとも限らないと思っていたからでもある。
 彼の文書が確かに届いたという知らせが到着した日は、皮肉なことに、彼の暗殺者がトロツキー自身を「削除」した日だった。・・・」(D)

 「・・・20年間を監獄で過ごした後、メルカデルは<1960年に>釈放されたが、彼は、ソ連に対する功績に対し、<フルシチョフから>ソ連邦英雄勲章を授けられた。・・・」(E)

7 終章:トロツキー論

 「・・・トロツキーの亡命後、<やがて>米国と欧州の彼の弟子達の大部分は、社会主義の必然性について、彼と見解を異にするに至った・・・。
 <しかし、>トロツキーは・・・自分の考えに固執し続けた。・・・」(C)

 「・・・トロツキーの家(最初はリヴェラの青の家、しかし仲違いをした後は何丁目かだけ離れた第二の家)の周りの精緻な警備網<は、>ゆっくりだが次第に整備されて行った・・・。
 しかし、トロツキーは、隠遁者のように生きることは好まなかった。
 彼は、サボテンを集め、裏庭でウサギと鶏の世話をし、妻と口論をし、友人がほとんどできないところの、かつまた友人をしばしば怒らせたところの、熱心な勧告と癇癪の混ざり合いだらけの独特な手紙を書いた。
 彼は複雑な人間だった。
 清教徒的な外見を持ち、彼の家族さえ含む、周りの人々の犠牲の下にその大儀に絶対的に身を捧げた。
 家族に対しては、彼等を明らかに深く愛していたにもかかわらず、全く顧慮を払わないのを常としたように見える。
 彼は疑い深く、知的に傲慢であり、論争的で、怒りっぽかったが、それでも深く愛された。
 このような肖像は、結局のところ愛情深い人物を指し示しているように見えるかもしれない。
 しかし、ここで重要なことは、トロツキーは、マルキストのユートピアの行く手に立ちはだかる者を殺すことに何の良心の呵責も覚えたことがなかった人物だということだ。
 彼の人道に関する感覚の欠如が明白に現れているのが、その亡命生活の最後の数ヶ月だ。
 彼は、同志達の大部分の見解に逆らって、フィンランドの資本家達と搾取者達を追い詰めるためにはソ連のフィンランドに対する戦争は良いことだと言い続けた。
 だから、自分がスターリン主義者のテロ行為によって死んだことを彼は驚きはしなかっただろう。
 ボルシェヴィキの正義と不正義は、革命の道に立ちふさがるものは何であれ破壊する、というものだったからだ。
 <この本を読むと、>どんな読者であれ、共産主義者の将来ビジョンが感染していたところの、ナイーブな楽観主義と道徳的利己主義の混ぜ物について瞠目せざるをえないだろう。
 トロツキーは、その「歴史のゴミ箱」という隠喩においても有名だが、悲しいことに、彼自身も恐らくはゴミとなってしまったのではないか。」(D)

 「・・・1982年の英国議会における演説で、<時の米大統領の>ロナルド・レーガンは、トロツキーの劇的な言葉をトロツキーに対して用いた。彼は、「自由と民主主義の行進は、マルクスレーニン主義を「歴史の灰の一山(ash heap)」の上に置き去りにすることができるはずだ」と宣言したのだ。
 <そして、そのとおりになった。>・・・」(E)

8 終わりに

 20世紀は、狂気が全世界を覆った時代でした。
 それがどうしてかについての私の仮説は、ここでは繰り返しません。
 いずれにせよ、間違いなく、その主役はスターリンと毛沢東とヒットラーの3人であり、この、スターリンは青年期には本格的な詩人であったこと、毛沢東は生涯詩人気取りで通したこと、そしてヒットラーは挫折した画家だったこと、は興味深いものがあります。
 一方脇役を演じた者は数え切れないほどいますが、トロツキーは、その中ではムッソリーニや蒋介石等と並ぶ大物の部類に属します。
 トロツキーも蒋介石もムッソリーニも、芸術とはほとんど縁がなかったため(?)か、主役の3人に比べれば、行った悪行もたかが知れています。

 ところで、以上の6人は、いずれも、多かれ少なかれ、共産主義(マルクス・レーニン主義)の影響を受けています。
 (ムッソリーニについては、以下を参照のこと。
http://en.wikipedia.org/wiki/Benito_Mussolini
 共産主義は、狂気の時代たる20世紀を象徴するイデオロギーであり、レーニンは、まさにこの狂気のイデオロギーの教祖であると言えるでしょう。

 こんな狂気の時代に遭遇した上に、愚昧な大国であった米国に翻弄され、悲劇的な敗戦を迎えて帝国解体の憂き目にあった戦前の日本の不幸を改めて思わざるをえません。

(完)

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太田述正コラム#3379(2009.7.6)
<トロツキーとその最期(その2)>(2009.12.2公開)

4 メキシコ亡命時代

 「・・・メキシコ・・・に1937年1月に到着すると・・・、首都の近くの小さい町であるコヨアカン(Coyoacan)の(急進的な芸術家たるフリーダ・カーロ(Frida Kahlo<。1907〜54年>)(注1)と結婚していた)画家ディエゴ・リヴェラ(Diego Rivera<。1886〜1957年>)(注2)の持ち家に落ち着き、トロツキーと彼の妻のナターリャ(Natalia)は、そこで異様な牢獄のような宮廷を維持することになった。

 (注1)http://www.youtube.com/watch?v=nE-UjfdIGEY
 (注2)http://www.youtube.com/watch?v=hL9JLugE8s8

 NKVD(内務人民委員部<。隷下に秘密警察を持つ>)に殺されるのではないかという恐れから外出することができず、トロツキーは訪問客が訪れるのを歓迎した。
 そして、彼に忠誠を誓うトロツキー主義者達からなる事務局と護衛によって支えられ、スターリンとソヴィエト連邦が堕してしまったところの奇形の労働者達の国家の性格に関する恐ろしく辛辣な論考を書くことで世界という舞台において一定の役割を演じた。
 トロツキーといちゃついた前衛芸術家達と作家達は、政治的な文脈の中でシャンパンの泡のような背景を形成した。・・・
 そのうち、最も有名であったのはフリーダ・カーロだった。
 彼女は、すぐにトロツキーの魔力にとらわれ、興が冷めるまでの短い期間彼との情事にふけった。
 これらの友人達と同僚達よりちょっと遠くにたむろしていたのはソ連のスパイや手先であり、彼等はトロツキーが警戒を緩めるのを待っていた。・・・」(D)

 「・・・スターリンによって追放されたトロツキーと彼の妻のナターリャは、トルコ、フランス、そしてノルウェーに住んだ後、1936年の画家のディエゴ・リヴェラの招きを受けて<メキシコに赴き>、コヨアカンの青の家に経費をリヴェラ持つ形で住んだ。・・・
 彼のメキシコ到着は、有名なモスクワの見せ物裁判の第二波の開始時期とたまたま一致していた。
 この裁判では17人の被告が反ソ・トロツキー主義者達の陰謀の黒幕として非難された。
 この裁判中、連日のように、トロツキーは「彼に対してなされた種々の非難が矛盾しており、不可能であり、ばかげている」と指摘するプレス・リリースを発出した。・・・」(C)

 「・・・1930年代のメキシコは、反スターリン主義者達の避難所になっていた。
 メキシコの指導者であったカルデナス(Cardenas<1895〜1970年。大統領:1934〜40年>)大統領(注3)は、米英の会社から石油資源を没収し、メキシコを政治的難民の安息所にしようとし、トロツキーの滞在を歓迎した。・・・

 (注3)傑出した人物であり、ぜひ、↓に目を通されたい。
http://en.wikipedia.org/wiki/L%C3%A1zaro_C%C3%A1rdenas

 トロツキーは、メキシコの最も有名な左翼の芸術家たるディエゴ・リヴェラの庇護の下に<当地に>やってきた。
 彼のメキシコシティーの諸壁画は、幸せなメキシコの農民等をソ連様式で描いたものであり、トロツキーはそれを痛く気に入った。
 <また、彼の>壁画のうちの一つは、第一次世界大戦を素材としたものであり、トロツキーを、野性的な眼を持った預言者然とした姿で赤軍の事実上の司令官として描いた。
 しかし、リヴェラはすぐにトロツキーの硬直したイデオロギーとその人を小馬鹿にしたような諧謔に嫌気がさした。
 彼等の友情は、リヴェラの妻であったところの、激情を内に秘めたハンサムな画家たるフリーダ・カーロがトロツキーと情事にふけるようになって一層悪化した。
 彼女はトロツキーを、そのピンと伸びたあごひげから、「かわいいヤギちゃん(Little Goatee)」と呼んだ。
 いつも拳銃を持ち歩いているような男であったリヴェラは、復讐を欲した。
 後に、彼は、そこで暗殺させようとトロツキーをメキシコにおびき寄せたと主張したものだ。・・・」(B)

 「・・・この本は、フリーダのトロツキーとの個人的関係について、余り具体的なことは記していない。・・・
 <著者は>ゴミのような情報集めに専念したかのようだ。
 <フリーダがトロツキーに付けていた渾名とか、彼女の>自画像のうちの一つに登場する猿は、彼女の日系米国人の元彼氏を表しているとか、リヴェラの暴力的傾向とか・・。・・・
 <或いはまた、>トロツキーの秘書が、フリーダは彼女の人生哲学を「セックスをして風呂に入り、それからまたセックスをする」ことであると語っている<とか・・>。
 ・・・この本は、フリーダがトロツキーとの情事にふけるに至った考えられる理由を3つあげている。<彼女が>とにかくセックスが大好きであったこと(promiscuity)、(彼女の妹と寝た)リヴェラに対する復讐、そして<トロツキーのような>有名人への心酔だ。
 <稀代の芸術家であるフリーダの恋について、もうちょっと気の利いたことが書けなかったものか。>・・・」(E)

5 暗殺計画

 「・・・ドラマの最終章は、「あひる作戦(Operation Duck)」という奇妙な名前がつけられたNKVDの作戦だった。
 スターリン自身の了解の下に1939年に開始されたこの作戦の唯一の目的は、トロツキーを消すことだった。
 この頃には、ソ連の偏執狂的プロパガンダ上はともかくとして、トロツキーはもはやスターリンにとってほとんど脅威ではなくなっていた。
 しかし、スターリンはトロツキーが自分を矮小化していることを憎んでいた。
 トロツキーの家族たる息子達、及び最初の妻等々が全員消されるか収容所送りになった。
 残っていたのはトロツキーだけだった。・・・」(D)

 「・・・1939年3月にスターリンは、クレムリンで、彼の体制にとっての大嫌いな人物(bete noire)としてのトロツキーの有用性の耐用命数が尽きたとして、彼の処刑を命じた・・・。
 この時の会議の模様だが、参集したのは、NKVDの悪名高い長であったラヴレンティ・ベリア(Lavrenti Beria)と暗殺専門のエリート部隊の長であったパヴェル・スドプラトフ(Pavel Sudoplatov)だったが、議題が歴史的に極めて重要なものであったにもかかわらず、まことにもって日常的に進行した。
 スターリンは、灰色の党上着と古びただぶだぶのズボンを着ていた。
 彼等は、緑の粗いラシャの布で覆われた長方形のテーブルに座った。
 ベリアは、彼の鼻眼鏡の奥から視線を投げかけていた。
 かなり長い議論をした後、スターリンは、スドプラトフに「行為」を遂行するための突撃チームをつくるよう指示し、「トロツキーは一年以内に消されなければならない」とだけ述べた。・・・
 自分の以前の股肱の同僚達の処刑は、トロツキーの気を滅入らせた。
 しかし、NKVDによるパリでの彼の愛する息子のレフ(Lev)の殺害こそ、スターリンの復讐への願望の深さを指し示すものだった。
 米国でのトロツキー運動の資金や要員のおかげで青の家の警備はより厳重になった。・・・」(C)

(続く)

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太田述正コラム#3377(2009.7.5)
<トロツキーとその最期(その1)>(2009.12.1公開)

1 始めに

 レオン・トロツキー(Leon(Lev) Davidovich Trotsky。本名Lev Davidovich Bronstein。1879〜1940年)の最期を描いた、米スタンフォード大学フーバー研究所フェローのバートランド・パテノード(Bertrand Patenaude)の'Stalin's Nemesis: The Exile and Murder of Leon Trotsky; Bertrand M Patenaude' が上梓されたので、その書評を通じて、20世紀の狂気の一端を担った人物像に迫ってみましょう。

≪書評≫
A:http://www.guardian.co.uk/books/2009/jul/05/stalins-nemesis-bertrand-patenaude-review (本の紹介を超えた内容)
B:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article6471172.ece
C:http://living.scotsman.com/books/Book-review-Stalin39s-Nemesis-The.5380542.jp
D:http://www.literaryreview.co.uk/overy_06_09.html
E:http://www.oxonianreview.org/wp/the-dustbunnies-of-history/

≪適宜参照したもの≫
F:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC
G:http://en.wikipedia.org/wiki/Leon_Trotsky
H:http://en.wikipedia.org/wiki/Diego_Rivera
I:http://en.wikipedia.org/wiki/Frida_Kahlo

2 序章:ロシア時代

 「・・・<この本は、トロツキーの>ヨセフ・スターリンとの1924年のレーニンの死以降続いた権力闘争の大団円<を描いている。>それは、ジェノサイドを行った独裁者の亡命インテリに対する勝利<についてだ。>・・・」(C)

 「・・・一番鉄のような心を持っていたのはスターリンだった。
 彼はトロツキーとほぼ同い年だったが、1917年に至る革命前の年月を彼はボルシェヴィキの大義のために戦うべくロシアにとどまっていたのに対し、トロツキーは、この期間、ボルシェヴィキの一員であったことがなく、激しい反レーニン主義的論考を書き、外国で亡命生活を送っていた。
 1917年にロシアに戻ると、トロツキーは、やがて、ロシアの人々の混乱した革命的熱意を真のマルクス主義革命へと向かわせることができる唯一の手段であるとしてボルシェヴィキ主義と仲直りをした。・・・」(D)

 「・・・1917年の10月革命の夜、ロシアの穏健派の社会主義者達はペトログラードの第二ソヴィエト議会から一斉に退出しようとした。これは、同市で進行中であった過激派のボルシェヴィキによるクーデターに抗議するためだった。
 穏健派が議場から出る直前、アジっていたところの、口ひげと丸く輝く眼と、光沢のある鼻眼鏡のボルシェヴィキの代表が彼等の棺の最期の冷たい釘を打ち付けた。
 「おまえ達は哀れむべき孤立した連中だ」とレオン・トロツキーは吠えた。
 「おまえ達は破産者だ。おまえ達の役割は終わった。これからはおまえ達のための場所へ行け。歴史のゴミ箱へ!」と。・・・」(E)

 「・・・彼は軍事経験はなかったが、1917年にまず革命的民兵の組織者として名をはせ、次いで1918年からは戦争に係る人民委員として、事実上赤軍の司令官となって名をはせた。
 彼は、その後始まった内戦において共産主義抵抗運動を鼓吹し、外の世界においてレーニンに次ぐ二番目の男として知られるようになった。・・・
 それから突然彼は表舞台から姿を消す。・・・」(D)

 「・・・<トロツキーは、1918年から1925年にかけてボルシェヴィキ政権の陸海軍担当人民委員(大臣)を務めたが、>政治分野においてもまた、彼はあらゆる社会的分野にわたって行政を行ったところの政治秩序を設計し構築した。
 彼が1920年に書いた『テロリズムと共産主義』は、「人民の敵」とみなされた者へのテロの実行を正当化した。
 10月革命後の彼が権力の座にあった時期、彼は過酷な独裁体制を導入することを大いに楽しんだし、一党支配の必要性について疑問を投げかけることも一切なかった。
 彼の残忍さは追放された後も続いた。
 1931年にメンシェヴィキの指導者達が<スターリンによって>見せ物裁判に雁首を並べさせられた時、彼は一掬の同情も示さなかった。・・・」(A)

 「・・・<トロツキーは、陸海軍担当人民委員として>1922年までにボルシェヴィキ<を白軍との>戦争で勝利<に導いた。>
 そして、レーニンがその2年後に(脳梗塞、梅毒、毒の投与、ないしはこの三つの何らかの組み合わせによって)死ぬと、誰がこの公式のものとしては史上初の社会主義国家の指導者になるかという問題が、トロツキーにとっては、生か死かの問題となった。
 ヨセフ・スターリンは、トロツキーをゴミ箱にたたき込もうと決意していた。
 慢性的な熱と虚弱な健康に悩まされ、病がちのトロツキーは1924年に黒海に向かっていた。
 その時、彼はスターリンからの電報でレーニンの死の知らせを受け取った。
 その電報には誤った葬儀の日付が記してあり、それではトロツキーが列車でモスクワに引き返しても葬儀に間に合うことは不可能だった。
 国家の革命英雄達がレーニンの葬儀のためにクレムリンの欄干に向かって行進した時、トロツキーの姿を誰も見つけることはできなかった。・・・」(E)

 「・・・ 党に権力基盤を持たず、実質的な仕事を与えられないまま、彼は野心的なスターリンに容易に出し抜かれてしまうのだ。・・・
 トロツキーの勃興と没落を説明することは容易ではない。
 彼が1917年にレーニンのボルシェヴィキの人々から受け入れられたのは、彼がいかなる犠牲をも厭わずに労働者達の天国を創造することに絶対的に身を捧げていたことと、革命的大衆の間で圧倒的な人気があったからだ。
 内戦における彼の直感力のある(inspirational)指導力は、彼の同僚達の何人かの間で、彼がナポレオン的な野心を抱いているのではないかとの恐れを生んだ。
 しかし、最大の問題は、彼が恒久革命という考え方・・ロシア社会を変革する一方で、発足したばかりのソヴィエト国家が萎えてしまわないように他の場所における革命も推進する・・を絶対的に信じ込んでいたことだった。
 これに対し、他のボルシェヴィキ達、とりわけスターリンは、一国における社会主義を強調したが、こちらが1920年代半ば以降の現実的教義となった。
 トロツキーは孤立し、有名な1926年の政治局会議でスターリンに対し、「革命の墓堀人」になったと非難した。・・・」(D)

 「・・・この独裁者は、<このことで、>彼を決して許すことはなかった。・・」(B)

 「・・・政治的内ゲバの数年の後、体制を支配するに至ったスターリン主義一味は、1927年にトロツキーを投票で政府から追い出した。
 その1年半後、この一味は、彼をソ連から永久に追放した。・・・」(E)

3 初期亡命時代

 「・・・1929年の亡命以降、トロツキーはスターリン主義国家に係るすべての恐怖と怒り<の象徴たる>稲妻のような指揮者となった。
 「トロツキー主義」は、最も親ソ連の共産主義者の眼からは、ファシズム、裏切り、そして反革命と同義となった。
 ソ連の外では、トロツキーは、スターリンのコミンテルンの窒息させるような態様に対する恒久共産主義革命活動なる直接的挑戦の象徴となった。
 これこそが、1930年代に多くの共産主義者達をしてトロツキー主義に帰依させた理由だ。
 このことは、どうしてトロツキーが暗殺の標的となったかも説明する。・・・
 <追放されてから彼は、>まず、トルコに赴き、最終的には、短期の欧州各地での滞在の後、事実上投獄されていたようなものであったノルウェーからメキシコに向けて船で赴いた。・・・」(D)

 「・・・トロツキーの生涯における不幸のすべてがスターリンに帰せられるわけではない。
 精神的に不安定で結核に冒されていた<トロツキーの娘の>ジナ(Zina)は、ソ連を去って<トルコの>マルマラ(Marmara)海で彼女の父親に合流した。
 すると、すぐにトロツキーが借りていた家で不審火が何回か起こった。
 彼の身の回りにいたトロツキー主義者達は、ジナが犯人ではないかとの疑いを持った。
 彼女は父親のために政治的任務を遂行している時だけが幸福だったというのに、彼は彼女を邪険に扱い、彼女をベルリンに治療を受けさせるために送った。
 ドイツから彼女は母親に、自分がこんなになってしまった根本原因は、自分が「生まれたその日から崇敬してきた」男が彼女を疎外したからだ、と訴える痛ましい手紙を何通も送った。
 絶望の余り、彼女はガス自殺した。
 トロツキーの『反対派一覧』は、これをスターリンのせいにしているが、決定的な要素は、トロツキー自身の感情的共感能力の欠如だったのだ。・・・」(A)

(続く)

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太田述正コラム#3614(2009.10.29)
<再び過剰適応者フランシス・フクヤマについて>(2009.11.29公開)

1 始めに

 フランシス・フクヤマ(Francis Fukuyama)については、マイノリティーとして米国に過剰適応した人物として、コラム#1718(と1719)で切り捨てる一方、コラム#2525ではちょっと持ち上げたところですが、このたび、彼の過剰適応性を示すインタビューに出会ったので、再度彼をとりあげることにしました。

2 過剰適応者フランシス・フクヤマ

 「・・・ハンチントン(Huntington)<(コラム#2456、2856)>の論は、民主主義、個人主義、そして人権は普遍的なものではなく、欧米のキリスト教圏に根ざす文化の反映である、というものだ。
 歴史的にはそのとおりだが、これらの価値は、その起源を超えて成長してきた。
 これらは、極めて異なった文化的諸伝統を持つ諸社会によって継受されてきた。
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ここは、以下のような留保の下、私も基本的にフクヤマに同意です。

このような議論を行う場合に、欧米を一括りにしてはならない。
 欧州文明とアングロサクソン文明は別個のものだからだ。
 個人主義は、アングロサクソン文明固有の代物であり、それ自体に普遍性はない。
 これと対置される集団主義にも普遍性はない。
 普遍性があるのは、人間(じんかん)主義だ。
 ただし、自由主義は、個人主義なくしては生まれ得なかった。
 そういう意味では、個人主義の果たした歴史的役割は大きい。
 これに関連し、人権は、法の支配(≒アカウンタビリティー)と裏腹の関係にあるところ、人権は、法の支配とともに、自由主義の一環であって、真の近代化のために確保されるべき前提だ。
 そういうわけで、自由主義は普遍性がある、と言えよう。
 なお、民主主義は、自由主義(人権/法の支配)が一定程度機能している社会においてのみ、文明を超えた普遍性がある。(太田)
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 日本、台湾、韓国、そしてインドネシアをを見よ。・・・
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これらの国が、民主主義、(上述のように留保の下で)個人主義、及び自由主義を継受できた理由を、フクヤマがどう考えているか、知りたいところだ。
 私は、日本については、その文明がアングロサクソン文明と親和性があるからだと考えているし、台湾、韓国については、日本の植民地であったこと、インドネシアについては、日本の占領統治を受け、また、事実上日本残留兵の協力の下で独立を達成したこと(コラム#省略)を重視しているところ、フクヤマがそんな風に考えているはずがないからだ。
 なお、インドネシアについては、コラム#3610で引用したオオニシ記者の記事参照。(太田)
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 ハンチントンは、法の支配とアカウンタビリティー<についても、それらが>欧米の文化だと言うべきだった。 
 私は、これらの価値に向かって非欧米諸社会も、彼等自身の様々な経験ゆえに収斂しつつあると思う。
 法の支配とアカウンタビリティーなくして、真の近代化は不可能<だからだ>。
 この二つは、実際のところ、互いに必須な相互補完関係にある。
 <これら抜きで、>単に、有能な国家の属性であるところの政治的近代化しか達成していなければ、<そのような国家は、>より効果的な形態の暴政(tyranny)を達成するのがせいぜいのところかもしれない。
 <その場合でも、>間違いなく、効果的な国家形成はできるし、専制的諸条件の下での一時の一定の分量の繁栄は達成できる。
 それが支那人達がたった今やっていることだ。
 しかし、私は、法の支配とアカウンタビリティー抜きでは、彼等の繁栄は結局は継続できないし、支那の市民達も、彼等の個人的前進を不可逆的なものにすることなどできない、と私は確信している。・・・
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 ここは、フクヤマに完全に同意です。(太田)
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 ・・・<ちなみに、>宗教と近代化は、間違いなく共存できる。
 世俗主義は近代性の前提条件ではないのだ。
 そんなことは、トルコに旅行するまでもなく分かることだ。
 現に、米国は、非常に宗教的な社会だが、高度な科学と技術的革新があふれている。・・・
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 近代性の定義にもよるが、宗教的な社会、より正確には宗教原理主義的な社会においては、差別がつきものであり、かかる社会は、ゴールドヘーゲンが言うところの除去主義(コラム#3599、3601、3609)の温床だ。
 実際、トルコのクルド人等への差別は甚だしいし、米国については、いまだに黒人等への差別が残っているが、その1960年代までの有色人差別は特にひどく、またこれと関連して、先の大戦中、日本に対して除去主義的大量殺戮を行ったところだ。
 だからこそ、トルコは、EUに加盟する見通しが立っていない(コラム#3610で引用したトルコに関する記事参照)のであって、トルコを真の近代国家と呼ぶのは躊躇せざるをえないし、1960年代までの米国についても同様だ。(太田)
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 支配者によるところの、<臣民に対する>道徳的義務感覚を醸成するための道徳教育を通じて、選挙に拠らざるアカウンタビリティーを達成できないわけではない。
 伝統的な儒教は、要するに、皇帝に対し、彼が自分自身だけでなく臣民達に対して義務を負っていることを教え込んだわけだ。
 儒教に影響を受けた東アジアの諸社会においてのみ最も成功した専制的近代化が行われたことは、決して偶然ではないのだ。・・・」
http://www.csmonitor.com/2009/1021/p09s07-coop.html
(10月22日アクセス)
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 フクヤマの念頭には、少なくとも台湾、韓国、及び支那がある・・まさかとは思うが、ひょっとすると日本もあるのかもしれない・・のだろうが、上述したとおり、台湾、韓国については日本の植民地支配の賜であるし、支那については、トウ小平が、蒋介石のファシズムを採択したためだ。
 いずれの例についても、どちらかと言えば、儒教的伝統を排したが故に近代化を行い得た、と私は考えている。
 なお、日本は儒教の影響をほとんど受けていないところだ。(太田)
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3 終わりに

 やはり、フクヤマは、両親の母国である日本、ひいては東アジアについて、余りにも無知であり、あえて勉強をしていないという印象すら受ける一方で、彼が生まれ育った米国について批判的視点が皆無である、と言わざるを得ません。
 改めて、フクヤマは、米国への過剰適応者であると思います。
 同じ2世米国人たる日系のフクヤマとユダヤ系のゴールドヘーゲンの、180度近い姿勢の違いには、まことに興味深いものがあります。 

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太田述正コラム#3373(2009.7.3)
<バイロンの短く激しい生涯(その2)>(2009.11.4公開)

 「・・・オブライエンは、バイロンの手紙、とりわけ彼の他に比肩しうるものがないラブレター群、と彼の日記類・・その中には、最後の、そしてある意味では最も重要な愛人であったテレサ・グイッチオーリ(Teresa Guiccioli)についての記述がある・・を夥しく発掘した。
 このイタリアの伯爵夫人との間で、彼は、その傑作である『ドン・ジュアン(Don Juan=ドン・ファン)』を生み出すのと平行して、ついに<愛が>充足されるという経験をする。
 オブライエンが記すように、「そのふんぞり返った歩行と虚勢にもかかわらず、バイロンの真のテーマは愛だった」のだ。・・・
 彼は<父親には捨てられたようなものだったし、彼の躁鬱病であった>母親との関係は抑圧的になったり暴力的になったりを繰り返した。
 <また、>彼の乳母は彼を虐待した。
 その結果もたらされたものは、放蕩的かつ無差別的な、性的な、あるいは恐らくは、愛情への渇望(appetite)だった。・・・
 その間ずっと、彼は自分の母親違いの姉との近親相姦的関係を継続した。
 そして、彼の哀れな妻とこの姉の二人ともが妊娠した時、彼は自分の俳優たる情婦を、この二人と共に暮らしていた家に招き入れると脅した。
 彼の妻が出産した夜、彼は家の回廊を歩き回り、いつも身につけているピストルを振り回し、自分が「地獄にいる」と叫んだ。
 それから彼は、妻と赤ん坊を二人とも殺すと脅した。
 後に、彼がイタリアに亡命していた期間に、メアリー・シェリーのまま姉妹が彼の不義の娘を生んだ時、彼は何度も彼女を罵る一方で、子供のことは全く気にかけなかった。
 しかし、この男は同時に、英語でのいくつかの最も偉大なラブレターを書き上げた人物でもあるのだ。
 例えば、ラム(前出)に対する別れの手紙で、彼は、「ここにあるすべてのものと墓に持って行けないすべてのものを喜んであなたの手に委ねるであろうことをあなたは知っているだろう」と記している。
 また、彼のイタリアの伯爵夫人(上出)に対しては、彼は、「私の人生、私の名誉、私の愛、といったあらゆるものがあなた次第なのだ。あなたを愛することはルビコン河を渡ることであり、既に私は自らの運命を決定したのだ」と書き送った。・・・」
http://www.latimes.com/features/books/la-et-rutten17-2009jun17,0,4459039,print.story
(6月17日アクセス)

 「・・・<バイロンを>第二のカリギュラ(Caligula<。12〜41年。ローマ皇帝>)<と呼ぶ者もいた。>
 <バイロンは、>躁鬱病であり、また、そのエディプス・コンプレックスにより、彼が一度も会ったことがない父親に取り憑かれることとなった。・・・
 内反足(club foot)の汚点・・・<そして>不格好な右の脚<がバイロンのコンプレックスとなった。>・・・
 27歳で、オブライエンが言うところの、「すべての詩人の中で最も公的な(public)結婚」をするまでに、彼は既に彼の母違いの姉のオーガスタ・レイ(Augusta Leigh)との間で子供をなしていた。・・・
 ・・・<彼の>結婚相手は、アナベラ・ミルバンク(Annabella Milbank)だった。・・・
 バイロンによると、これはカネ目当ての結婚だった。・・・
 彼の<男女を問わず>人を惹き付ける能力には魔術的なものがあったと、いうのが彼の友人・・・の意見だ。・・・」
http://www.nytimes.com/2009/06/14/books/review/Harrison-t.html?_r=1&pagewanted=print
(7月2日アクセス)

 「・・・バイロン自身の推計によれば、関係を持った男女(toolings)は約200人にのぼる。・・・
 彼は早くして賞讃を浴びたが、その後、不道徳、工作下手、更には盗作について攻撃を受けることとなり、バイロンは欧州大陸で残りの生涯にわたって亡命生活を送る羽目に陥った。
 オブライエンが我々に教えてくれるように、「バイロンはぶっきらぼうに「私はイギリスに向いていない(unfit)しイギリスは私に向いていない」と述べた」・・・のだった。
 やがて、彼はヴェニスに居を定める。
 そこで彼は数限りない「関係を持った男女」をつくったようだ。
 「厚かましくも伯爵夫人から靴の修繕屋の妻に至る戦利品を列挙する一方で、母親達と父親達と彼等の娘達」<と関係を持つべく>交渉を行った、とブライエンは記す。
 しかし、1819年の春に至って、若きテレサ・グイッチオーリ伯爵夫人に出会うと、彼はその愛情と性的エネルギーの大部分の焦点をたった一つの不倫関係にしぼることになる。
 彼は、法王庁のイタリアに対するところの、妨害にあって挫折する戦いに身を投じるが、テレサに対する愛が少し冷めた頃、セファロニア(Cephalonia)に向けて海を渡り、恋愛関係に投じる熱意に匹敵する熱意で、オスマン帝国に対するギリシャの独立戦争に身を投じるのだ。・・・」
http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2009/06/19/RVI51886GU.DTL

3 終わりに

 バイロンは心身ともにボロボロになって36歳で死を迎えるのですが、先日50歳でやはり心身ともにボロボロになって亡くなったマイケル・ジャクソン(Michael Joseph Jackson。1958〜2009年) のことが頭に浮かびますね。
 天才的芸術家にはこういう人が少なくないわけですが、こういう類の人々と、性的、非性的のいかんを問わず、関わった人々はたまったものではありません。
 しかし、バイロンやマイケル・ジャクソンは見事な芸術作品を残すことができた、という意味では幸せでした。
 躁鬱病者(コラム#2805)であっても、当然のことながら、芸術的天分のない人や、芸術的天分があってもそれを発揮する機会を逃した人が圧倒的に多いからです。

(後注)マイケル・ジャクソンが躁鬱病を含め、精神病を患っていたという説はない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Jackson

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太田述正コラム#3371(2009.7.2)
<バイロンの短く激しい生涯(その1)>(2009.11.3公開)

1 始めに

 英国の詩人のバイロン(George Gordon Byron, later Noel, 6th Baron Byron。1788〜1824年)
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Gordon_Byron,_6th_Baron_Byron
の名前くらい聞いたことがある人は多いでしょう。
 このたび、アイルランドの女性作家のエドナ・オブライエン(Edna O'Brien。1930年〜)
http://en.wikipedia.org/wiki/Edna_O'Brien
がバイロンの伝記、'Byron in Love: A Short Daring Life'を上梓しました。
 この本のいくつかの書評を手がかりに、バイロンの短く激しい生涯を紹介しましょう。

2 バイロンの激しく短い生涯

 「・・・オブライエンは、彼女自身、情熱的かつ偶像破壊的な作家であって、若い頃に書いた性的に赤裸々な「Country Girls」という小説シリーズは、彼女の生まれたアイルランドで1960年代に初めて出版された時に発禁となり燃やされた。・・・
 <そんな彼女は、バイロンの伝記の著者としてはうってつけだと言えるだろう。>
 バイロンが捨てた沢山の愛人の一人であるキャロライン・ラム(Caroline Lamb)夫人は、バイロンのことを「狂っていて、悪漢で、知り合うだけで危険」な男と呼んだ。
 オブライエンが描くように、バイロンは、才気のある、魅力一杯の怪獣のような、かつ傲慢な男だった。飽くことを知らない両刀使いの誘惑者であり、近親相姦的不倫者であり、吝嗇であり、驚くほど独創性があり、人気があり、悪漢視された詩人だった。また、狂っていて子供の面倒をみない父親だった。情熱的な旅行家でもあった。そして、寛大な友人でもあった。彼はナポレオンを偶像視し、ギリシャを愛した。
 オブライエンは記す。「バイロン的(Byronic)という言葉は、今日に至るまで、異常性(excess)、悪魔的所行、そして国王も庶民もお構いなしの叛乱的言葉遣い、といった意味を持つ。バイロンは、他のいかなる詩人よりもずっと、詩人が叛乱的で、想像力豊かで無法者であることを体現している」と。
 ジョージ・ゴードン・バイロンは、<スコットランド国王>ジェームス1世<(1394〜1437年)>・・・の子孫である22歳のスコットランド人女性・・・キャサリン・・・の息子として1788年にロンドンで生まれた。
 バイロンが生まれた時には、キャサリンの放浪者たる夫、「狂った(Mad)ジャック」バイロンは、彼女のカネを使い尽くし、借金で投獄されることを回避するためにフランスに既に逃亡していた。・・・
 「狂ったジャック」は、以前の結婚でバイロンの姉をつくっていたが、この母親違いの姉は、間違いなくバイロンの生涯における最愛の相手になることになる。
 1798年に「ワル(Wicked)殿様(Lord)」バイロンとして知られた大伯父が死ぬと、バイロンは10歳で第六代バイロン卿となり、ニューステッド(Newstead)の12世紀に建てられたゴシック様式の廃屋のような邸宅を相続した。
 彼が殿様として臨んだうちの一人が彼の魅力のない母親だった。
 オブライエンは、「彼の彼女に対する要求は息子としてのものではなく、暴虐な夫としてのものだった」と記している。
 この新しい地位にふさわしく、彼はハロー寄宿学校に通い、それからケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジに入学する。
 彼は、そこで、15歳の聖歌隊の男の子と禁じられた関係になる。
 ・・・男色の嫌疑がかけられると投獄されてしまう。
 そこで彼は、ロンドンから、そして更に海外へと学位をとることなく、逃亡する。・・・
 バイロンは「君主のように生きようと決心した」ことから、金貸し達から次から次へと借金をする必要が生じ、常に借金漬けだった。
 こんな危うい財政状況だったというのに、彼は気前よくも、彼の最も成功した「Childe Harold」を含む出版物からあがる収入のすべてを彼の編集者達や出版者達に譲渡してしまい、この状況を更に悪化させた。・・・
 <こういった背景の下で>出現したのは、熱烈な書簡体の愛の人だった。彼は、彼自身よりも紙の上でよりロマンティックだった。
 彼が、夫のいる母違いの姉への情熱を克服するために、愚かにも廉直なアナベラ・ミルバンク(Annabella Milbanke)・・後にバイロンのひどい仕打ちに対して復讐を企てることになる・・と結婚したように、うまくいかなくなった恋愛沙汰から次々に逃げるというのが彼の習慣となった。
 彼は大勢の女性を苛め破滅させたが、とりわけ彼が悪いことをしたのがメアリー・シェリー(Mary Shelley)(コラム#71)のまま姉妹のクレール・クレアモント(Claire Clairmont)だった。
 彼は、二人の間にできた子供の完全な親権を得るのに固執した挙げ句、イタリアの修道院にその子を置き去りにし、そこでその子は5歳で亡くなってしまう。
 彼は、にっちもさっちもいかなくなると、1816年もそうだったが、イギリスから逃亡した。
 彼は、最後の8年間を海外で過ごした。そのうちの何年かを過ごしたのはイタリア<のヴェニス>であり、最後にはギリシャをトルコから救出するための軍事的活動を開始する。
 彼は、熱病にかかり、1824年に独立戦争最中のギリシャで亡くなる。
 既に最盛期を36歳にして過ぎていた彼は、その地で、求愛した少年に拒絶されている。・・・」
http://features.csmonitor.com/books/2009/06/17/byron-in-love/
(6月19日アクセス)

(続く)

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太田述正コラム#3329(2009.6.11)
<革命家トマス・ペイン(その2)>(2009.10.28公開)

 「<ペインの著書である>『理性の時代』(1794〜95年)は、キリスト教に対する真正面からの攻撃だった。・・・
 ペインは、ジェファーソン同様、啓蒙主義時代の産物であり、中世の国王達や僧侶達にハイジャックされたところの、完全な自由と平等の自然秩序が存在することを心から信じ込んでいた。
 ディドロ(<Denis> Diderot<。1713〜84年。フランスの哲学者。いわゆる百科全書の編纂者として有名>)が言ったように、最後の国王が最後の僧侶<から掻き出されたところ>の内蔵とともに首を絞められさえすれば、この自然秩序が自然に回復されると。
 マルクスによる後日における同様の幻想の描出は、国家が萎えて行って消え去り、調和的で無階級の社会が出現するというものだった。
 ダーウィンの自然(nature)についての記述やフロイドの人間の本性(nature)、第一次世界大戦のばかげた殺戮、それに20世紀のジェノサイドの諸悲劇に照らすと、ペインの楽観的な諸仮定は、極端にナイーブであるように見える。・・・」(ニューヨークタイムス上掲)

 「・・・一方では、普通の人々(common man)の権利、貢献、及び責任、という、ペイン、ジェファーソン、マディソン、社会主義者達、そして今日のリベラルによって推進されているところのアプローチがある。
 そしてもう一方ではそれに反対であるところの、エドマンド・バーク、ジョン・アダムス、及びアレキサンダー・ハミルトンの類が好んでいる、より伝統的、貴族的、階統的、財産権スタイルがある。
 米国史の200年間を通じた、前者に対するペインの影響と後者によるペインに対する攻撃は、瞠目するほど何度も繰り返された。・・・」
http://www.thomaspainefriends.org/nelms-timothy_review-of-harvey-kaye.htm

 「・・・ペイン<は>・・・不公正に、そしてしばしば悪意をもって米建国の父の一人としての地位からはずされてきた。もっともそれには相応の理由があった。・・・
 <というのも、>ペインは、『人間の権利』の中で、経済的不平等を相殺するための公的福祉制度を提案したし、『農業的正義(Agrarian Justice)』の中では、21歳の誕生日にすべての人に一定のかなりの額のカネを支払い、もう一度こういった額のカネを50歳以上のすべての人に毎年支払うことを提案したのだから。・・・
 ペインは、英国の私掠船の乗組員だったことがある。・・・
 ペインは、米反奴隷制協会(American Anti-Slavery Society)の創設会員の一人で<も>あった。・・・」
http://www.yesmagazine.org/article.asp?ID=1444

 最後に、ペインの言をいくつかご紹介しておきましょう。

 「我々は、世界をもう一度最初からやり直す力を持っている。」
 「新しい世界の生誕は近い(at hand)。」
 「我々は実験に携わっている人々なのだ。」
 「これは革命の時代だ。あらゆることが求められてしかるべきだ。」
http://www.yesmagazine.org/article.asp?ID=1444上掲

 英文ウィキペディアのトマス・ペインの項
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Paine
(6月11日アクセス)からもピックアップしておきましょう。

 「フランス語がしゃべれなかったのに、ペインはフランス国民議会(French National Convention)議員に選出された。
 ジロンド党(Girondists)は彼を仲間とみなした、よって、山岳党(Montagnards)、とりわけロベスピエールは、彼を敵とみなした。
 <ペインは、フランス王制の廃止には賛成したが、ルイ16世の処刑には反対し、ルイがその独立を助けたところの米国に彼を亡命させるよう主張したが、結局ルイは処刑された。>
 1793年12月にペインは逮捕され、パリで投獄されるが、<山岳党の失権に伴い、>1794年に釈放される。・・・
 <議員に復職したペインは、普通選挙の廃止に反対票を投じたが、結局普通選挙は廃止された。>
 フランスで、彼は、『農業的正義』(1795年)というパンフレットを著し、・・・最低所得を保障するという概念を導入した。
 ナポレオン時代の初期をペインは引き続きフランスで過ごした。<ペインはナポレオンに英国侵攻作戦について献策した。>しかし、<次第に独裁的になって行ったことから、>ナポレオンを非難し、「史上最も完璧な山師」と呼んだ。
 ジェファーソン大統領の招待で、1802年に彼は米国に戻った。・・・
 リンカーンの弁護士事務所のパートナーであったウィリアム・ハーンドン(William Herndon)は、リンカーンがペインの<既存宗教を排する>自然宗教(deism)を擁護する文書を書いたので、友人のサミュエル・ヒル(Samuel Hill)が、リンカーンの政治的キャリアを守るためにその文書を焼き捨てた、と伝えている。
 また、トーマス・エジソンは、ペインについて、
「私はいつもペインが全米国人のうちの最も偉大な人物の一人だとみなしてきた。
 この共和国は、彼ほど健全な知性の人を持ったことはない…。
 私が少年時代にペインの諸著作に出会ったことは幸運だった…。
 <ペインのような>偉大な人物の政治や神学の問題に関する考え方について読むことは、私の目を啓いてくれた。・・・」
と述べている。
 更に、ペインの言葉はバラク・オバマ大統領によってその就任演説で引用された。
 "Let it be told to the future world that in the depth of winter, when nothing but hope and virtue could survive, that the city and the country, alarmed at one common danger, came forth to meet it."

 <BBCが2002年に行った人気投票で、ペインは100人の最も偉大な英国人のうちで34位に入った。>」

3 終わりに

 ペインの『コモンセンス』を昔読んだことがある私ですが、彼がこんなに面白い人物だとは知りませんでした。
 ただし、ペインが抱いていた理想は、古よりイギリス人が共有してきた理想であり、ただ、彼がその理想を即時に実現しようとしたこと、とりわけ民主主義を即時実現すべきだと考えたこと(だけ)が、非典型的だったということではないでしょうか。
 このような意味でペインは革命家であったことから、英国にはもちろんのこと、米国にも、そしてフランスにも彼は安住の地を見いだすことはできませんでした。
 ちょっとした手違いもあり、ペインの遺体(遺骨)は行方知れずであり、彼には正式な墓もありません。(ウィキペディア上掲)
 彼の生誕の地ゼットフォードが、ローマが大ブリテン島の大部分を支配していた紀元1世紀に、イケニ(Iceni)部族等を率いて反ローマの大反乱を起こした女王ブーディカ(Boudica)の本拠であったというのは面白いですね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thetford
http://en.wikipedia.org/wiki/Boudica 
 ペインの反骨精神は、ブーディカのそれに相通じるものがあるような気がします。

(完)

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太田述正コラム#3327(2009.6.10)
<革命家トマス・ペイン(その1)>(2009.10.27公開)

1 始めに

 今年は、『コモンセンス』の著者として有名なトマス・ペイン(Thomas Paine。1837〜1809年)の没後200年にあたります。
 そこで、昨日読んだBBC電子版記事
A:http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/8089115.stm
(6月9日アクセス)と、4年前に上梓されたハーヴェイ・ケイ(Harvey Kaye)の 'Thomas Paine and the Promise of America' の書評
B:http://www.nytimes.com/2005/07/31/books/review/31ELLISL.html?_r=1&pagewanted=print
C:http://www.thomaspainefriends.org/nelms-timothy_review-of-harvey-kaye.htm
D:http://www.yesmagazine.org/article.asp?ID=1444
(いずれも6月10日アクセス)

をもとに、ペインについて思いを巡らしてみようと考えました。

2 ペインについて

 「・・・<イギリスの>ノーフォーク(Norfolk)のゼットフォード(Thetford)・・・で1737年に生まれたペインは、その成人時代の初期をコルセット製造職人や学校の先生として過ごし、政治とはほとんど無関係だった。
 その後、間接税務局(Excise)吏員を務めていた時に、彼は同僚達の給与と労働条件の改善を求めた21頁のパンフレットを著した。これが彼の最初の政治的行為だった。
 たまたま、<北米英植民地人たる>ベンジャミン・フランクリン・・米国の建国の父の一人・・に1774年にロンドンで出会ったことが、ペインの人生と、更には米国の歴史を変えることになる。
 フランクリンの大西洋を渡るようにという勧告に従い、ペインは1774年の11月に米国の<フィラデルフィアの>地に降り立った。その頃、米国人の革命家達は、英国から分離すべきかどうかについて、激しい議論をしている最中だった。・・・
 1776年1月に、彼は、彼をして米革命の父という称号を獲得せしめた短いパンフレットを出版した。・・・『コモンセンス』<だ>・・・。・・・
 この本はセンセーションを巻き起こした。最初の3ヶ月で12万部も売れたのだ。
 当時北米英領植民地には200万人の自由人しかいなかったことを考えると、これは、現在の米国人の著者が最初の3ヶ月間で1,500万部売り上げたに等しい。
 この本は歴史も変えた。
 「1776年には大陸会議(Continental Congress=米革命のための政治組織)の代表のわずか3分の1しか英国からの独立を宣言するという考え方をとってはいなかった。」・・・
 ところが、そこへペインが、植民地の「母国」からの即時かつ完全な分離を主張した『コモンセンス』を出版したわけだ。
 彼の予見的で非妥協的な言葉は公衆の想像力をとらえ、人々からの圧力の下で、個々の植民地は彼らの代表達に独立に票を投じるように指示し始めたのだ。・・・
 ・・・<しかし、>ペインは、<その後、フランス革命においても活躍し、>フランスの最初の民主主義議会の議員に選出され、ナポレオン・ボナパルトを含む多数の彼のファンが<フランスにさえ>できたというのに、彼の出版した次のパンフレットである『理性の時代(The Age of Reason)』は、彼の初期の崇拝者達の多くにとっていささか過激に過ぎた
 <その中でなされた>既存の宗教(organised religion)への攻撃と「自由かつ合理的糾問(rational inquiry)』の擁護から、この著作を契機に、ペインは米国の建国の父の地位から微妙にはずされて行くこととなった。
 彼が1809年6月8日にニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジで亡くなった時、葬儀にはわずか6人しか出席しなかった。・・・
 ・・・<ペインはまた、所得再分配の必要性も訴えた。>『人間の権利(The Rights of Man)』の中で、彼は、若年者と老人は彼らの政府から金銭的な保障を与えられなければならないと主張した。・・・」
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/8089115.stm
(6月9日アクセス)

 「・・・ペインは、建国時代の世代の一人として、1776の<独立宣言に体現された>米国の約束の神髄を理解していた。
 その革命的ビジョンが奴隷制の汚点によってぼやけてしまっていたところの、あのトーマス・ジェファーソンよりも、ペインはもっと洞察力がある急進派だった。
 <ペインの残した最も>枢要な史料は『コモンセンス』ではなく、『人間の権利』(1791〜92年)だ。
 後者の中で、<ペイン>は、フランスと米国それぞれが、革命の意味していたところのもの・・奴隷制の廃止、男女平等、投票のために求められる財産要件の全面的撤廃、教会と国家との完全な分離、共和的諸政府からなる国際連盟によって強制されるところの全地球的平和・・を実現すべきであると主張した。
 換言すれば、ペインは、その後の2世紀をかけて極めてゆっくりとだが、<最終的に>勝利することが運命づけられていたところの、自由主義的課題を即時採用することに固執したという意味で、急進的予見者なのだ。・・・
 例えば、<もう一人の米建国の父である>ジョン・アダムス(John Adams)は、靴作り職人の息子だったが、ペインを忌み嫌った。
 アダムスは、革命的課題全部を即時に実行しようとすることなど、ドーバーの崖へと誘う<自殺的な>道であるとみなしていたからだ。
 ペインとアダムスとを隔てたものは、階級(class)というよりはいかに革命を管理し確保するかという古典的(classic)な見解の相違なのだ。
 アダムスは、進化的革命の形での漸進的変化を信奉していた。
 他方ペインは、「1776年の精神」なる革命的課題は管理される必要などなく、ただ宣言されればよいと信じていた。・・・
 ペインのアプローチは、実際のところ、フランス革命においてとられたところの、より急進的なコースだったのだ。
 それは、アダムスが予言したとおり、大流血とナポレオン的専制主義をもたらした。
 <フランス革命を>引きおこすことを助けたペイン自身、その過程であわや殺されるところだった。
 彼がギロチンを免れたのは、牢獄の番人が、処刑の日に彼を房から出すのを忘れたというただそれだけの理由だ。・・・」
http://www.nytimes.com/2005/07/31/books/review/31ELLISL.html?_r=1&pagewanted=print
(6月10日アクセス。以下同じ)

(続く)

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太田述正コラム#3122(2009.2.27)
<ハーバート・フーバー(続)>(2009.8.25公開)

1 始めに

 第31代米大統領のハーバート・フーバーについては、以前コラム#597〜599でとりあげ、彼のイメージの改善に大いに努めたところですが、このたび、ウィリアム・E・ルークテンバーグ(William E. Leuchtenburg)により、「バランスのとれた」フーバー像を提示した'Herbert Hoover: The 31st President, 1929-1933'が上梓されたので、その内容の簡単な紹介をしたいと思います。

2 本の簡単な紹介

 「<第一次世界大戦中及びその戦後において、ロシアを含む欧州諸国の飢餓の回避に尽力し大成功を収めたフーバーだったが、その>彼にはよくない側面(darker qualities)もあった。例えば、彼は自分の意向に他人が全面的に従うことを求めた。
 他人の批判を受け入れることができないことから、彼は、多くの人々から法と彼の権限の境界をいつも超える「帝国建設者」であると見られていた。
 ウォーレン・G・ハーディング大統領の商務長官として、フーバーは「彼が発出する権限がなく、しかもそれが議会によって禁止されているにもかかわらず、アマを電波から閉め出し、彼自身にライセンスを発行する権限を与え、米国の法律及び国際法に反して電波の割り当てを行ったところの、諸布告」を発出した。
 また、彼の同僚たる閣議メンバー達が所管する省庁の部局を次々と商務省に移設することで、彼は米国の内政及び外交の両方で大きな影響力を持つに至ったが、同時に敵をたくさんつくることとなった。 
 1927年のミシシッピー州の洪水の際には、フーバーは、カルヴィン・クーリッジ大統領の商務長官だったが、「カネ集め運動をやって1,700万ドルも集め、600隻の大「艦隊」を結集してその上に150のテントを張り、各般の避難民の避難所とした。」
 この行動は広く賞賛を呼び、フーバーは簡単に第31代大統領に当選した。
 その任期の初期に、フーバーは、国立衛生研究所<の設立>、コロラド川におけるフーバー・ダムの建設、そして労働、銀行、刑事改革といった革新的諸措置で高い評価を得た。
 しかし、1929年10月24日に株式市場の暴落なる「黒い木曜日」が起こったことで、彼の米国史における不幸な位置が決まってしまうのだ。
 その直後の数ヶ月、フーバーは、連邦準備制度理事会に通貨供給を増加することと借金がし易くすることを頼み込んだ。
 しかし、彼が「繁栄はもうそこまでやってきている」と言い続けたことが、急速に増大する失業や銀行の破産の連続を前にして虚ろに響いてしまったのだ。
 ジャーナリストのウォルター・リップマン(Walter Lippmann)に言わせれば、フーバーは「不決断ですぐ震え上がってしまう」と見られるようになってしまう。
 フーバーは1930年に、広く批判されたところの保護主義的な「ホーレー・スムート関税法(Hawley-Smoot Tariff Act)」に署名したが、これは既に泥沼状態になっていた恐慌を一層深刻化させる役割を果たしてしまう。
 同じ年にローズベルトは、簡単にニューヨーク州の知事に再選され、彼は1932年<の大統領選>でフーバーへの挑戦者になると目された。
 ローズベルトの人気が高まりつつあったというのに、フーバーは、「再びの繁栄は公的財政出動によってはもたらされえない」と述べて、地方的及び私的解決法を好み、連邦による支援を頑なに拒み続けた。・・・
 フーバーのローズベルトに対する下卑た嫌悪は、1933年3月に緊急銀行法に署名した後、彼がぎごちなくこの法律を「戦慄すべき困難を惹起する<ことが必至であるところの>巨大な社会主義への動き」であるとこき下ろしたことによってより明白になった。フーバー自身がこの法律の起草の大部分を自分の責任において行ったというのに・・。
 しかし、ニューヨーク市のウォルドルフ・アストリア・ホテルのスイート・ルームに引退した後、フーバーの評判は、トルーマン大統領が彼を第二次世界大戦後の欧州の救援事業の長に任命したことによって高まることになる。・・・」
http://features.csmonitor.com/books/2009/02/26/herbert-hoover-the-31st-president-1929-1933/
(2月27日アクセス。以下同じ。)

 「・・・ルークテンバーグは、いかにフーバーが、彼の政府に対する不信と彼のボランティア主義があらゆる社会悪を解決するとの信念によって視野狭窄に陥っていたかを示している。・・・
 <彼の母校である>スタンフォード大学で<長く>隠退生活を送ったフーバーは、死に至るまでニューディールと大きな政府に対する声高な批判者であり続けた。・・・」
http://www.firesidelounge.info/0805069585/Herbert_Hoover_The_American_Presidents_Series_The_31st_President_1929-1933.shtml

 「・・・我々はフーバーが社会的手練(skills)がほとんどない男で、大恐慌の下で苦しんでいる人々に対する感情移入ができないテクノクラートであって、更に、彼を取り巻く世界が変わりつつあることを理解することができなかった男でもあることを示される。・・・ 
 ・・・<その彼が、>ハリー・トルーマン大統領によって氷室から外に出始める。
 トルーマンは1946年にこの元大統領にドイツに行って占領下にあるこの国の食糧事情を見極めるように頼んだ。
 このフーバーの視察の結果、いくつかの勧告が出、米国と英国の占領地域での学校給食計画が促進されることになった。・・・」
http://www.newmexicoguide.com/histbooks-2393-0805069585-Herbert_Hoover_The_American_Presidents_Series_The_31st_President_1929_1933.html

3 終わりに

 フーバーというのは、知れば知るほど興味が増す人物ですね。
 お時間あらば、ぜひコラム#597〜599に(改めて)お目をお通しください。

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太田述正コラム#3422(2009.7.28)
<アルベール・カミュ(その2)/皆さんとディスカッション(続x552)>

         --アルベール・カミュ(その2)--

 「・・・色んな意味において、彼は文学的のぼせあがり(crush)だった。
 彼は、20世紀における最も魅惑的にして不透明な知的運動たる実存主義の最も魅惑的な代表者だった。
 彼は、ハンフリー・ボガードに似ており(注)、生涯を通じて結核によって気高くも苦しみ、ノーベル賞をとってからまもなく若くして自動車事故で死んだ。

 (注)説明書きがフランス語だが、カミュとその関係者の写真ならこのサイト↓がお奨め。(太田)
http://www.youtube.com/watch?v=H_7F8pTTeTg

 彼は矛盾の束だった。
 すなわち、芸術家的哲学者にして、私的な政治的人物にして、隠遁的著名人にして、道徳的女誑しだった。
 彼は二重にエキゾチックだった。
 フランス人だけでなくアルジェリア人でもあったからだ。
 彼は、今なお多くの米国人にとって欧州純文学への入り口であり、誰しもが高校時代に『異邦人』を読んで少しはぶっとばされるという経験をしている。・・・」
http://nymag.com/arts/books/features/57735/

 「・・・カミュの頂点の時代は短かった。
 しかもその時代も、カミュが『反乱者』において要約的に述べた立場に対する、古い仲間達や同類達からの悪意に満ちた攻撃によって、少なくともパリにおいては暗い影を投げかけられていた。
 この作品の中で、カミュは、スーザン・ソンタグ(Susan Sontag<。1933〜2004年。米国の著述家、哲学者、文学理論家、政治活動家>)による挑発的な「共産主義は人間の顔をしたファシズムだ」という宣言の原型を、まがうことない形で提示した。
 カミュは、「今は既にことは明らかになっているのであって、社会主義にあっても、強制収容所的なものは、強制収容所と呼ばれなければならない」と記した。・・・
 ・・・観念や態度は流行に乗ったりはずれたりするが、<カミュが抱き続けた>道徳的警戒心はそうではない。
 カミュは、両目を見開き、スロットルを全開にして生きたのだ。・・・」
http://www.boston.com/ae/books/articles/2009/07/19/an_insightful_if_worshipful_look_at_albert_camus?mode=PF

 「・・・ホーズは、カミュの研究者と言うよりは、ほとんどストーカー<といった趣があるが、>・・・<かく言う>私自身、・・・ホーズのように、カミュの哲学的な様々な確信を吸収し、私自身のものとしたといってよい。
 私は、世界は不条理であり、一旦そういうものだと達観してしまえば、世界を受け入れつつ生きていくことができる、というカミュの考えを採用した。
 私はまた、私のような何千人もの人々と同じく、『異邦人』の出だしの告白を頭に叩き込んだ。
 それはぞっとするほど無感情な(unemotive)文句であるところの、「今日母さんが死んだ(Aujourd'hui, maman est morte)」だ。
 私は、カミュが1960年に自動車事故で死んだのを見て、人生は絶対的に不条理であるとの確信を一層深めた。・・・
 何を食べたかの結果として我々はあるところ、摂取した場合に限っての話ではあるが、疑いもなく、何を読んだかの結果としても我々はある、と結論づけざるをえない。・・・」
http://www.huffingtonpost.com/david-finkle/writing-under-the-influen_b_230680.html

3 終わりに

 いかがでした?
 ご感想をお寄せください。

(完)
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          --皆さんとディスカッション(続x552)--

<みやざき>

 太田さん、はじめまして。
 小泉進次郎君のことですけど、ここに名前が見当たらないということは皆さんのご想像通りの結果ということみたいですね。
http://www.columbia.edu/cu/polisci/lists/student.html#C

→現在のコロンビア大学政治学科大学院在籍者名簿のようですから、小泉進次郎が載っているわけはないですよ。(太田)

 太田さんのファンです。太田さんのおかげでまったく興味が無かった軍事・自衛隊の事に興味を持てました。

→どうもどうも。(太田)

<ΚΚΑΑ>(2009.7.24)(「小林よしのりvs佐藤優」より)(http://cc.bingj.com/cache.aspx?q=%e5%a4%aa%e7%94%b0+%e8%bf%b0+%e6%ad%a3&d=76446503732638&mkt=ja-JP&setlang=ja-JP&w=30e20ec2,d268ba4b

 佐藤<優>批判って
櫻井良子/小林よしのり・・売国奴論
池田信夫・・学問の基礎が無い論
金光翔・・右左をフラフラするコウモリ論
太田述正・・無駄な努力論
の4つ見つけたけど太田述正以外は大したこと言ってないなあ。

<太田>

 記事の紹介です。
 昨日も今日も、全然無いですねえ。
 民主党のマニフェストの話は、もう少し様子を見てから触れることにしましょう。

 日経ビジネスから無理矢理一つ。

 アダルトビデオを見てかいた汗を<女性は>無意識に感知!↓

http://www.nikkeibp.co.jp/article/nba/20090721/168689/?ml
(7月28日アクセス)
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太田述正コラム#3423(2009.7.28)
<米国の国家エリート像>

→非公開

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太田述正コラム#3420(2009.7.27)
<アルベール・カミュ(その1)/皆さんとディスカッション(続x551)>

 (本日は、地方から出てきた友人と、都心で10年ぶりに旧交を温めたので、記事の紹介に余り時間がとれないこと、そもそもめぼしい記事も少なかったこと、から昨日大急ぎで書いたコラムを公開し、これに読者とのディスカッションを付け加えることにしました。)
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--アルベール・カミュ(その1)--

1 始めに

 米国の文芸評論家のエリザベス・ホーズ(Elizabeth Hawes)が上梓した'CAMUS, A ROMANCE' の書評をもとに、アルベール・カミュ(Albert Camus。1913〜60年) の生涯を振り返ってみることにしましょう。
 なお、カミュについては、私には、ちょっとした思い出がある、ということを以前(コラム#1257で)記したところです。

2 アルベール・カミュの生涯

 「・・・アルベール・カミュは、1913年11月に<仏領アルジェリアの>アルジェで生まれた。
 彼は、電気も水道もないごみごみしたアパートで育った。
 彼の母親は、第一次世界大戦で亭主をなくし、文盲で耳も悪かった。
 ホーズは、カミュが大志を抱く活動的な人物になったのは、この母親の極端な受動性への反動であると結論づける。
 しかし彼は、この母親への深い愛情を、彼が1942年にフランス本土に移ってからも抱き続ける。
 カミュの才能を初めて見いだしたのは小学校(grammar school)の教師だった。
 この教師の尽力により、カミュはアルジェ中心部の国立中等学校(lycee)に「フランス国の孤児」として奨学金をもらって通った。
 そして、アルジェ大学で哲学を学んだ。
 17歳の時に結核に罹り、そのために彼は残りの生涯を通じて苦しめられることになるのだが、彼は教師になるための学位を得る資格がなくなってしまう。
 彼はまた、軍隊に入ることもできなくなり、結局著述、ジャーナリズム、そして演劇に目を向けることになる。
 ホーズは、カミュの「抑えきれない良心」と「道徳的リーダーシップ」の事例に光をあてる。
 第二次世界大戦中に彼が編集した地下レジスタンス紙「戦闘(Combat)」にその多くが掲載されたところの、死刑、ナチ、スターリン、そして原爆に対する反対論・・。
 彼女は、彼のジャン・ポール・サルトルとの苦渋の争闘や、1957年にノーベル文学賞をもらった前後に、血なまぐさいアルジェリア独立戦争に際して旗幟を明らかにしなかった彼に対して投げかけられた批判について解き明かす。
 (彼はイスラム教徒に対する差別撤廃運動の生涯にわたっての輝かしい闘士だったが、彼は、フランス人を含めた多文化国家たるアルジェリア、という夢を擲つことができなかったのだ。)・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/07/24/AR2009072401422_pf.html
(7月26日アクセス。以下同じ)
 
 「・・・アルベール・カミュは、20世紀のインテリのほとんどあらゆる危機と悪戦苦闘した。
 彼は、1930年代には自分が生まれたアルジェリアにおける反植民地活動家だったし、<第二次世界大戦中には、>占領下のフランスのレジスタンスのメンバーだった。
 彼は、戦争と絶望に苦しめられていた世界の人々の心を1942年に出版した2冊の本によって打った。
 彼の最初の小説である『異邦人』は、不条理の世界において漂流する男を描いたものだ。
 そして彼の哲学的随筆である『シジフォスの神話』は、この不条理は我々の<実存の>意味の創造へと我々を駆り立てるはずだと論じた。
 彼の1947年の『ペスト』は、集団的苦難と闘争の小説であり、『反乱』(1951年)は、反全体主義論だったが、1952年のジャン・ポール・サルトルとの苦渋の決別をもたらした。・・・
 1957年にノーベル賞をとる頃までには、アルジェリア内戦に対する彼の苦悶の両義的スタンスのせいで、カミュは、欧州の左翼の中のつまはじきになっていた。
 もっとも、今日においては、テロリズムがもたらすものへの彼の警告は先見の明があったように思える。
 最初は実存主義の化身のように誤って判断され、次いで現実を知らない反動であるとされたが、エリザベス・ホーズは、その詳細な研究によって、彼が極めて私的な人物であったというのに公共の舞台へと歴史の潮流と彼の責任感によって押し出されてしまったことを明らかにした。・・・
 カミュは、彼の<未完に終わった>最後の小説を、<文盲であるがゆえに>「その本を読むことがありえない母親に捧げた」。
 <ここから分かることは、>典型的なフランス的インテリであると見なされていたカミュが、観念の世界などとは文字通り縁がない人々の間で生まれところ、彼がこのような人々を決して忘れることがなかったということだ、<とホースは指摘する>。
 ホースは、後の方で、彼はいつもこれら労働者階級のダチ(copain)達との方が居心地が良かったと記している。
 彼等と一緒にいる時は、彼はその有名なプドゥール(pudeur)の仮面を脱ぎ捨てた。
 プドゥールとは、英語には翻訳不可能な言葉であって、謙虚とか抑制的といった意味を持つが、その程度と言ったら、彼が20年にわたって彼の愛人であったマリア・カサール(Maria Casares)でさえ、カミュのことは決して理解できなかったと言っているほどだ。
 アルジェリアの地中海沿岸の太陽と海は、カミュに、その最も暗い作品群さえも特徴付けているところの、人生の肉感的快楽についての臆せぬ喜びを与えた。
 彼がアルジェの窮屈で不健康なベルクール(Belcourt)界隈で結核に罹ったことは、世界がよろめきながらファシズムとの血なまぐさい対決へと導かれて行った時代において、余りにも多くの人々を苛んだところの、人間の不条理性の感覚を彼に吹き込んだ。
 カミュの長きにわたった結核との戦い、彼の母親・・(彼自身は逃れることができたけれど何百万もの人々は逃れることができなかった)希望を失わせる貧困を彼にずっと思い起こさせた・・への深い愛情、<カミュにとっての>アルジェリアの中心的な重要性、にホースは光をあてるが、これらはカミュにとって決定的に重要な事柄であるにもかかわらず、これまで顧みられてこなかった。・・・」
http://www.latimes.com/entertainment/news/la-ca-albert-camus5-2009jul05,0,3963494,print.story

(続く)
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          -- 皆さんとディスカッション(続x551)--

<KT>

≫According to a government survey, more than a quarter of men and women between the ages of 30 and 34 are virgins; 50 percent of men and women in Japan do not have friends of the opposite sex.≪(コラム#3418)

→政府調査によると、30と34歳の間の男女の4分の1以上がバージンです。日本の男女の50パーセントには、異性の友人がいません。(KT仮訳)

 この政府調査20代がないのか気になります。

 高校3年の男女は、非処女・非童貞が5割近いという記事もあります。
http://news.ameba.jp/domestic/2009/06/40732.html
 あ、東京だけの結果でした。

<植田信> (2009.7.25)(http://8706.teacup.com/uedam/bbs

 太田述正氏のサイトに紹介のあった小柳るみ子の「雨」を聞いてみました。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=SFhiJDuNigI&fmt=18

 ついでにこの曲をつくったという中島みゆきの歌も聞いてみました。
http://www.youtube.com/watch?v=9_Hw0StLWwk&feature=related

 小柳るみ子の歌としては、私はやはり加瀬邦彦が作曲した「冬の駅」のほうがいいと感じました。
http://www.youtube.com/watch?v=YUjtVACm0HI&feature=related

 私はどうもグループサウンズのメロディー系が好きです。
 しかし、中島みゆきという人は、不思議な人です。

 昔、「悪女」という歌を聞いたことがあります。
 中島みゆきの歌として私が耳にした最初の歌でした。
 友人のクルマの中で聞きました。
 まあ、悪くはない歌、と思いました。
 しかし当時は、私はすでにビートルズ・マニアだったので、日本の歌は一般に「真面目な」音楽として分類されていませんでした。

 中島みゆきの歌、そのあとは、NHKの「プロジェクトX」の番組曲。
 なんて大げさな歌詞、と感じていました。

 そして吉田拓郎との「つまごい共演」歌の「永遠の嘘をついてくれ」。
 拓郎の歌にしては変わっているなあ、と思っていたところ、なんと、中島みゆきの歌でした。

 あと、「ファイト」とか、その他2、3の歌を耳にしたことがありすが、私の印象では、この人は、可愛らしい外見に似合わず、屈折した歌ばかりを歌う人、という感じです。
 不思議な人です。

<太田>

 中島みゆきは、作詞・作曲して自分で(時にギターで伴奏しながら)歌唱し、そのすべてが他の超一流の作詞家、作曲家、歌手のレベルに達していて、しかもそのレベルを長期にわたって維持し続けている、歌唱力に至っては一層うまくなってきている、という意味では、ルネッサンスの万能人的な希有の天才だと思います。
 直近の彼女の姿こそつまびらかにしませんが、年輪を重ねるにつれて次第に美しさを増してきた、という意味でも、彼女は一種の天才です。
 独断と偏見をもって言わせていただければ、これらは、彼女が独身を通し、自分が天職として与えられたものを極めることを目指して日夜研鑽に励んできたたまものではないでしょうか。

<チャッピー様>

 曲を作る才能とかは別にして、一音楽家であられる太田殿の音楽感性から生み出される曲を聴いてみたいと思いました。<(コラム#3416参照)>
 もし機会があれば宜しくお願いします。

<太田>

 太田がこれまで書き綴ってきたものは一種のクラシック音楽だ、という受け止め方もできるかもしれませんよ。
 世界史論(アングロサクソンvs.欧州)、日本史論(縄文vs.弥生)、米国史論(アングロサクソンvs.スコッチ・アイリッシュ)、なんてそう思いません?
 つまり、歴史に対する対位法(counterpoint)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E4%BD%8D%E6%B3%95
的アプローチだと言えなくもない、ということです。

<たぬき>

 総選挙前なので自民党がやらない2005年の自民党マニュフェストの総括とか、民主党の2005年のマニュフェストの比較をしてみませんか?
自民
http://www.jimin.jp/jimin/jimin/2005_seisaku/120yakusoku/pdf/yakusokuText.pdf#search=%27%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%20%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%20%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%90%EF%BC%95%27
民主
http://www.dpj.or.jp/special/manifesto2007/pdf/manifesto_2007.pdf#search=%27%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A%20%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%20%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%90%EF%BC%95%27

<太田>

 IT支援グループの絶大なるご協力で、逐次、民主党議員のネガティブリストを充実させています。
http://www.ohtan.net/negative.html
 
 これも皆さん、ぜひ時々ご覧いただき、ご意見等をお寄せ下さい。
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太田述正コラム#3421(2009.7.27)
<過激派はどうして生まれるのか(その2)>

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太田述正コラム#2919(2008.11.17)
<ローズベルト/マーシャル・チャーチル/ブルーク(その2)>(2009.5.20公開)

 さて、そろそろ対ドイツ戦略における米英の対立について触れよう。
 米国の軍部は、ロシア正面のドイツ軍の圧力を軽減するためにできるだ早く北西フランスの海岸への上陸作戦を敢行したいと考えていた。しかし、英国の方は、第一次世界大戦の時のソンム(Somme。北フランスを流れる川の名。1916年に会戦が行われた。(太田))やパッシェンデール(Passchendaele。ベルギーの西フランダースの地名。1917年に会戦が行われた。(太田))での血生臭さい会戦の記憶があり、また、ドイツ軍の精強さを恐れていたために、地中海方面から慎重に侵攻を開始したいと考えていた。
 最初のうちは英国の言い分が通った。マーシャルの反対にもかかわらず、ローズベルトが英国側の肩を持ったからだ。その結果、1942年にまず北アフリカ侵攻がなされ、現地のドイツ軍が駆逐され、次いで1943年には、米国の反対を1944年に北西フランス上陸作戦を敢行すると約束することで英国が押し切り、イタリア侵攻がなされた。
 ここまでは、そもそも英国の言い分はすべて正しかった。
 英国の言い分が間違っていて、米国の言い分が正しい、という転換点になったのは、1943年10月にローズベルトがマーシャルとタッグを組んで、米国の大兵力をバックに、英国の反対を押し切って、オーバーロード(Dデー)作戦の決行を1944年6月(その日プラスマイナス1月)と決めた時だ。
 実は、ローズベルトは1942年5月にソ連のモロトフ外相とホワイトハウスで会談しており、1942年中に米国はフランス侵攻作戦を(実際に敢行されるより2年も前に)敢行するとほとんど約束してしまっていたのだ。
 こんなことをモロトフに言ったローズベルトは非難されるべきだ。なぜなら、 スターリンが、約束が2年も先延ばしされたことで、裏切られたと感じた等、連合国内部がこのためぎくしゃくすることになったからだ。
 皮肉なことに、北西フランス侵攻作戦の早期敢行に反対し続けたブルークは、1943年6月にチャーチルに「適当な時に君をドーバー海峡越え作戦の最高司令官に任命するつもりだ」と言われた時に欣喜雀躍した。
 ブルークは後に、「このような解放作戦について連合軍の指揮を執るなんて、私の行ってきた闘争の完璧なるクライマックスになると思った」と記している。
 しかし、チャーチルはこの申し渡しを実現することができなかった。2ヶ月後にチャーチルは、最高司令官は米国人にやらせなければならなくなったとブルークに伝えた。
 しかし、今度はローズベルトがマーシャルを落胆させる番だった。
 Dデーの最高司令官は、最終的にアイゼンハワーが勤めることになったからだ。
 この結果、ブルークもマーシャルも、ついに檜舞台に登場することはなく、第二次世界大戦は終わるのだ。

 さて話を少し戻すが、Dデーが決まった頃になっても、英国はなお、労多くして実りの少ないイタリア作戦により多くの資源を投入することを主張し続けていた。その一つの理由は、イタリア作戦は英国の統制下にあったからだ。
 チャーチルとブルークは、ナポリを奪取したところまではよかったのだが、彼らが引き続きローマを目指したのは誤りだった。いわんやゴシック・ライン(Gothic Line。アペニン山脈沿いに設けられたドイツ軍の防御線(太田))まで進撃したのはひどい誤りだった。

 さはさりながら、まがりなりにも、米英の「特殊関係」は、こんな具合に機能し続けた。
 他方、ドイツと日本の関係はすこぶるつきに良くなかった。もし両国の関係が良かったならば、英国もソ連もおちおちはしていられなかったはずだ。ドイツとイタリアは、同じファシスト国家として、バルカン半島、ウクライナ、そして北アフリカで一緒に戦ったというのに、この両国の関係も良くなかった。既に1939年までに、何度も会っていたというのに、ムッソリーニとヒットラーの間には、チャーチルとローズベルトの間のような信頼関係はついに構築されなかった。

 いずれにせよ、米英間だけでなく、米英それぞれにおいて、政府首脳が軍人の言い分に十分耳を傾け、勇み足をしないように窘められていたことは特記すべきだろう。
 これにひきかえ、ドイツでは、ヨーデル(Alfred Jodl。1890〜1946年。ドイツ軍最高司令部作戦部長。戦後ニュルンベルグ裁判で死刑(太田))とカイテル(Wilhelm Bodewin Johann Gustav Keite。1882〜1946年。ドイツ軍最高司令官。同左(太田))は、どちらも臆病でヒットラーを恐れており、ヒットラーを窘めるどころの騒ぎではなかった。
 これこそ、最終的に米英側が勝利し、ドイツが破れた原因なのだ。
 もちろん、米英の場合はそれぞれの海軍と空軍の貢献も忘れてはならないし、ドイツとソ連の合計5,000万人近くの兵士が動員された東部戦線において、第二次世界大戦中のドイツの死傷者の80%を生み出したところの、ヒットラーとスターリン二人が行った諸決定こそ、何と言っても戦争の帰趨にはるかに大きなインパクトを持ったことは忘れてはなるまい。

3 終わりに

 ファイナンシャルタイムスの書評子は、ペロポネソス戦争史である『戦史』を著したツキジデス(Thucydides)(コラム#908)が、戦争指導にあたっては専制が民主制より優っていると指摘しているところ、ローズベルトとマーシャル、チャーチルとブルークによる戦争指導がコンセンサス方式で行われ、うまくいったところを見ると、ツキジデスは間違っていたと言わざるをえない、と指摘していますが、これはおかしい。
 あくまでも、米国はローズベルト、英国はチャーチルが専制的(独裁的)に戦争指導を行ったのであって、マーシャルとブルークスは、それぞれ直言を厭わない補佐役に過ぎなかったからです。
 ところで、ロバーツ自身が舌を噛んでいる感じがあるのですが、第二次世界大戦での連合国の勝利は、ローズベルト及びマーシャル並びにやチャーチル及びブルークによる(地上戦の)戦争指導ないし軍事戦略が適切であったためでもなく、米英の海空軍力のおかげでもなく、はたまたソ連の犠牲のおかげでもなく、米国の生産力の賜だと私自身は単純に考えています。
 それにしても、日本の政治家と官僚の関係が、チャーチルとブルークの関係のような正常かつ生産性の高い姿になるのはいつのことなのでしょうね。 

(完)

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太田述正コラム#2917(2008.11.16)
<ローズベルト/マーシャル・チャーチル/ブルーク(その1)>(2009.5.19公開)

1 始めに

 英国の歴史家のアンドリュー・ロバーツ(Andrew Roberts。1963年〜)が'Masters and Commanders: How Roosevelt, Churchill, Marshall and Alanbrooke Won the War in the West' を上梓したので、その書評を通してこの本の概要をご紹介しましょう。

 (以下、特に断っていない限り
http://www.guardian.co.uk/books/2008/nov/15/masters-and-commanders-andrew-roberts
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2008/09/28/borob128.xml
http://www.ft.com/cms/s/0/caed8480-7ad9-11dd-adbe-000077b07658.html
http://www.literaryreview.co.uk/overy_10_08.html
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/book_reviews/article4833789.ece
(いずれも11月16日アクセス)による。)

2 本の概要

 第二次世界大戦における最も有名な米英の軍人と言えば、アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)とモントゴメリー(Bernard Montgomery)だろう。
 しかし、最も重要な役割を果たしたのは、米陸軍参謀総長を勤めたジョージ・マーシャル(George Catlett Marshall, Jr.。1880〜1954年。後国務長官、国防長官を歴任)米陸軍大将と英統合参謀総長を勤めたアラン・ブルーク(Alan Francis Brooke, 1st Viscount Alanbrooke。1883〜1963年)英陸軍元帥だ。この二人と、彼らの政治家たる上司であるローズベルトとチャーチルの計4名が、ロシア以外の連合軍の軍事戦略を決定したからだ。
 この4名が初めて一同に会したのは1942年6月21日、ワシントンにおいてだった。
 この日、チャーチルは、北アフリカの枢要な港であるトブルク(Tobruk)がロンメル指揮するドイツ軍の手に落ちたとの連絡を受けた。
 当時、英国の運命は風前の灯火だった。英陸軍は、ノルウェー、フランス、ベルギー、ギリシャ、マラヤ、そして今やリビアで敗北した。大西洋において失われる英国の船舶の数は年が改まってから、2倍に増えていた。枢軸側は、豪州、インド、スエズ運河、そしてコーカサスと中東からの石油供給を脅かしていた。
 その後、3年間にわたって上記4名の関係は続き、連合国側に最終的な勝利をもたらしたのだ。
 4名とも日本の前にドイツを敗北させる必要性を認めていた。しかし、その方法については見解の相違があった(後述)。

 この4名の中で、戦争の帰趨に一番影響力を行使したのはローズベルトだったが、彼は軍事戦略については一番無知だった。
 (なお、マーシャルは、当時の各国の陸軍参謀総長の中では、おそらくただ一人、実戦を経験したことのない人物だった。)
 他方チャーチルは、本人の自負ほどではないにせよ、大変な軍事戦略通だった。
 ローズベルトは、チャーチルを評して、一日の間に100も軍事戦略上のアイディアを思いつくが、そのうちまともなのは4つくらいだ、と厳しい採点をしている。
 第一次世界大戦勃発当時、英海軍大臣であったチャーチルは、ガリポリ作戦(1915〜16年)を、専門家の意見具申を無視して推進し、この作戦が失敗に終わったため、大臣辞任を余儀なくされたことがある。
 この時の失敗に懲りて、チャーチルは、あえて直言居士のブルークを統合参謀総長に任命したのだ。

 しかし、マーシャルがローズベルトの関係を、そしてブルークがチャーチルとの関係を維持するのは大変だった。
 ローズベルトは、意図的に米国政府の軍事指揮組織を不整序のままにしていた。マーシャルに対しても、ローズベルトは自分が英国に送ったメッセージの半分くらいしか見せなかった。仕方なくマーシャルは、駐米英国大使のジョン・ディル(John Dill)卿と密かに会って、情報を聞き出すことにしたのだが、これがバレたらディル大使がすぐクビになるので、マーシャルは細心の注意を払わなければならなかった。

 他方、ブルークは気むずかしいチャーチルに率直に意見具申してしばしばその不興を買った。
 戦争の末期に、ブルークは過激なまでに自分の意見にこだわったことがある。その後でチャーチルは別の将官に、「<ブルーク>は私を憎んでいる。彼の両目には怒りが宿っている。私はブルークをクビにすることにした」と述べた。この話を伝えられたブルークは、「私は憎んでいない。それどころか、深く<チャーチルを>尊敬している。私は彼を敬愛している。しかし、自分が同意しかねることで彼に対して同意しますと私が言うようになった暁には、もはや私は彼の役に立たなくなったということなので、彼は私をクビにしなければならない」と述べた。これを聞いたチャーチルは、翻意した。
 ブルークは、「チャーチルなかりせば、英国は間違いなく敗北していただろう。しかし、チャーチルのおかげで英国は何度も何度も大災害のがけっぷちまで連れて行かれた」と記している。
 ブルークは、モントゴメリーの後任として中東方面司令官に擬されたが辞退した。受けておれば、その直後のエル・アラメインの戦いで勝利し、後世の歴史にモントゴメリーならぬブルークの名が永遠に刻まれることになっていたことだろう。
 辞退した理由は、自分だけがチャーチルを制御できると思ったからだった。
 このブルークの辞退は、高く評価されるべきだ。

(続く)

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太田述正コラム#3178(2009.3.27)
<シルヴィア・プラスをめぐって(続)>(2009.5.11公開)

1 始めに

 ニューヨークタイムスで、鬱病の遺伝、ひいては生まれ(nature)と育ち(nurture)の問題(コラム#2765、2798)についてのコラムを見つけたので、「シルヴィア・プラスをめぐって」シリーズの続篇として、その内容をかいつまんでご紹介します。
 本来、私は単一の典拠に拠ってコラムを書くことは避けているのですが、、以前も複数の論文を引用した単一典拠に基づくコラムを書いたことがあり、今回もお許しいただきたいと思います。

2 鬱病・生まれ・育ち

 「・・・ある種「環境的」(ないし「育ち」による)効果が実際には遺伝的性向に起因する場合がある。
 このパラドックスのように見える話は、いわゆる「遺伝子対環境」という問題設定そのものが誤っていることを示している。・・・
 ・・・<要するに、>遺伝的素質が<環境的>諸事情との相互作用によってユニークな個性を生み出すのだ。・・・
 ある有名な論文が、<次のようなことを明らかにした。>
 セロトニンに係る遺伝子に関し、高リスク型の遺伝子を2対持っている人は離婚や暴行といったストレスのかかることが起きると鬱病を発症するけれど、環境が穏やかな場合は発症しない。>
 これに対し、低リスク型の遺伝子を2対持っている人は、環境的ストレスに晒されても鬱病に罹りにくい。高リスク型と低リスク型を1つずつを持っている人は、ご想像の通りその中間だ。・・・
 また、別の研究では、ある女性の一卵性双生児たる姉妹が鬱病に罹っている場合、その女性が暴行を受けたり、失業したり、離婚したり、あるいはひどい病気に罹ったり、借金に苦しんだりする可能性が、二卵性双生児たる姉妹が鬱病に罹っている場合に比べて顕著に高いことが明らかになっている。
 (このことを司る遺伝子はまだ発見されていない。)
 これらの悪しき出来事は、この女性が鬱病に罹っていたために起こったわけではない。
 なぜなら、このような相関関係は、研究の時点で鬱病に罹っている<一卵性双生児や二卵性双生児たる姉妹>を除外しても成り立ったからだ。
 つまり、鬱病に係る遺伝子は、ストレスのかかる環境的出来事に対する感度を高めると同時に、このような<ストレスのかかる環境的>出来事を生起し易くすると考えてよかろう。・・・
 ・・・<面白いのは、>知力から心配症に至る多くの心理的性向は、人が成長すればするほど遺伝性が増大する<ことだ>。
 そんなばかなことが、と思うだろう。
 というのも、遺伝子は赤ん坊と子供の時の大脳の発達にとって最も重要なはずだからだ。
 しかし、子供は大人より、自分の環境をコントロールする力がない。
 人は成長すると、自分自身の環境をもっと自分で決定することができるようになり、自分自身の生来の人格的性向を強化する環境を選択できるようになる。
 よく年をとるにつれて両親に似てくると言われるが、確かにそういう面はあるのだ。・・・
 <だからと言って、すべては親のせいだ、ということにはならない。>
 ・・・<なぜなら、>人生が遺伝によって決定される割合はわずか4分の1に過ぎず、4分の3はそうではないのだから。・・・」
http://judson.blogs.nytimes.com/2009/03/24/guest-column-mugged-by-our-genes/?ref=opinion
(3月27日アクセス)

3 終わりに

 ニューヨークタイムスの科学記事は、テーマの選択はいつもおおむね適切ですが、まとめ方や文章に難があって分かりにくいことがしばしばあります。
 この記事(2人の記者の共同執筆)もそうです。
 そうは言っても、彼らが典拠とした何本もの論文に直接あたるのは余りにも煩雑です。
 ただ、以上の抄訳をお読みになっただけでも、思わず目を見張った読者もいらっしゃるのではないでしょうか。
 人間とは何かが科学によって次第に明かされつつあることはすばらしいことですが、それは同時に怖いことでもあるな、とつくづく思います。
 亡くなった父と母に想いをはせつつ・・。

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太田述正コラム#3176(2009.3.26)
<シルヴィア・プラスをめぐって(その2)>(2009.5.10公開)

3 詩人・精神疾患・自殺

 「・・・鬱病に遺伝性があることは認められているが、ヒューズ博士の自殺と彼の母親<たるプラス>の自殺を結びつけるような自殺遺伝子の存在は知られていない。・・・
 <ただし、>もしあなたの家族に自殺した人がおれば、同じようなことをする人がこの家族からまた出る可能性は、そうでない家族に比べて高いことは確かだ。・・・」
http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article5956380.ece上掲

 「・・・とりわけ、自殺者が有名人でしかもその自殺が劇的な自己破壊であったような場合は、当該自殺者の子供達や親類は、その他の人々と違って出来合いの「脱出口」を提供されたようなものだ、という言い方はできよう。・・・
 <とはいえ、>多くの鬱病患者の最終到達点が自殺であることは事実だとしても、鬱病に罹っていても自殺志向のない人はいくらでもいる。
 自殺するには鬱だけでなく衝動性も必要なのだ。
 鬱病は、多くの場合、人を受動的で弱々しく非活動的にする。鬱の痛みは耐え難いものがあるかもしれないけれど、自殺のような意図的なことを決行するなんて考えただけでも圧倒されそうになるものなのだ。
 <いずれにせよ、>文学者の自殺は、作品を生み出すことに取り憑かれている作家なるものは極度の鬱の結果なのか原因なのかはともかくとして、よくあることだ。・・・
 <だが、ある文学者が、>「私は自分自身を反応させることができなかった。私はじっとして空虚感に苛まれるままだったが、これは周囲の喧噪をよそに鬱陶しく(dully)動いている竜巻が感じているであろうところの様子といった趣だった」<と鬱の時のことを書いていることからも、鬱病だから自殺、ということに必ずしもならないことが推し量れるだろう。>・・・」
http://roomfordebate.blogs.nytimes.com/2009/03/24/why-the-plath-legacy-lives/上掲

 「・・・疑うべくも無いことは、多くの詩人が精神疾患に悩まされていたと見られることだ。ちょっと考えただけでも、ジョン・クレア(John Clare)、ロバート・ローウェル(Robert Lowell)、シルヴィア・プラス、そしてセオドール・ロースケ(Theodore Roethke)らがいる。・・・
 <これに対しては、>躁鬱病的な気分の揺れは詩人の創造的周期の特徴でもあるけれど、少なからざる精神疾患は柔軟性の欠如や心理的硬直化といった、詩が求めるところの「カメレオン的自我」の対極的なものによって特徴づけられる<ことから、精神疾患に罹った人が詩をつくれるなんて不思議だと思われるむきもあろう>。
 確かに、例えば、ひどい精神病に罹っている最中は<詩をつくることなど不可能>だろうが、私自身の経験から言うと、「落ち込み(breakdown)」がもたらしてくれる余録の一つは、大きく増進された柔軟性であり、「現実」を「創造の世界」から切り離していたところの境界の不分明化なのだ。<そういう時詩作をする、ということは大いにありうることなのだ。>・・・」
http://www.guardian.co.uk/society/joepublic/2009/mar/23/mental-health-poetry-words-on-monday
(3月24日アクセス)

4 科学的知見

 (1)人はなぜ自殺するのか

 「<以下のような研究が行われた。>・・・
 <プラスを始めとする>20人の異なった詩人達・・その半分が自殺した・・によって書かれた300篇の詩が研究の対象とされた。
 自殺した詩人達の詩と自殺しなかった詩人達の詩の特徴が比較されたのだ。・・・
 これまで、自殺については、絶望(hopelessness)理論と社会からの逃避(Social disengagement)理論の二つの理論があった。
 <後者は、>フランスの社会学者のエミール・デュルケム(Emile Durkheim)<が唱えた説だ。>
 デュルケムは、人々が自殺するのは、主に彼らが自分自身に取り憑かれ、社会的関係から切り離され、社会的世界から全般的に引退するからだと主張した。
 有名になると、ある意味、このプロセスが促進される。
 例えば、詩人達や俳優達は、自分自身に集中して社会的現実からより切り離されるよう奨励されるものだ。
 仮にこの<デュルケムの社会からの逃避>理論が正しければ、自殺した詩人達<の詩>は、他者とのコミュニケーションへの言及より自身への言及の方が多いはずだ。
 詩を分析したところ、社会からの逃避理論の一定の正しさが証明された。
 自殺した詩人達は、一人称単数(I, me, my)を自殺しなかった詩人達よりたくさん用いていたのだ。
 他方、絶望理論を裏付けるものは発見されなかった。
 というのは、自殺した詩人達は、特段、自殺しなかった詩人達に比べてより多く、否定的な感情に係る言葉を使ったり死について語ったりはしていなかったからだ。
 ・・・<この研究で新たに分かったことがある。それは、>自殺した詩人達は自殺しなかった詩人達に比べてセックスにより強い関心があったということだ。
 自殺した詩人達は、実際、死よりもセックスにより関心を集中させていたということがおおむね証明されたのだ。・・・」
http://www.spring.org.uk/2007/09/why-attempt-suicide-evidence-from.php
(3月25日アクセス。以下同じ)

 (2)人はなぜ鬱病になるのか

 「・・・鬱病患者・・・の右側の大脳皮質・・・は顕著に薄くなっていることが判明した。・・・
 科学者達が大脳をスキャンして行った研究によれば、鬱病の両親・祖父母の子孫達は、当人達が鬱病や不安障害(anxiety disorder<=social anxiety disorder=社会不安障害>)の既往歴がなくても、上記薄化が生じていることが分かったという。・・・
 このことから、かかる家族的性向は遺伝的なものだと思うかもしれないが、必ずしもそう断定はできない・・・。・・・病気である両親や祖父母と一緒に育った結果かもしれないからだ。
 実際、両親が鬱病患者であると、子供達が育つ環境が変わっ(=悪化し)てしまうことが研究で分かっている。・・・
 大脳皮質は、論理的思考、計画、そして気分(mood)の中枢たる脳の部位であり、この皮質が薄くなっているということは、その個人が、社会的感情的手がかりに注意を払い解釈する能力に<悪い>影響を及ぼす可能性がある、と科学者達は示唆している。・・・
 右半球の薄化は現実の鬱病をもたらすわけではないが、これに左半球における同じ部位の薄化が付け加わると、鬱病になりやすかった人が実際に鬱病の発症に至る、と考えられる。・・・」
http://www.nytimes.com/2009/03/25/health/25brain.html?_r=1&hpw=&pagewanted=print
5 終わりに

 「生涯のうちに鬱病にかかる可能性については、近年の研究では15%程度」、「鬱病を反復する症例では、20年間の経過観察で自殺率が10%程度とされている」「男性より女性のほうが2倍ほど、鬱病になりやすいとされている」だそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%B1%E7%97%85
 また、上記文中に登場した社会不安障害についても、やはりかかる可能性は鬱病と同じくらい
http://www.2px.jp/psycho/cafe41.htm
だそうですから、精神障害の種類はこれ以外にもあることに鑑みれば、本シリーズの冒頭で私が申し上げたように、我々の回りにゴロゴロ顕在的・潜在的患者がいて当然なわけです。
 かくいう私だって、これからどれかの精神障害を発症しないという保証はありません。

 最後に一言。
 役人時代に、実は例外的に、私から見て、(精神障害に罹っていた可能性があるとまでは言いませんが、)おかしいんじゃないかと私が思う人がたくさんいた職種が身近に存在しました。
 自民党系の政治家という職種がそうです。
 そのうち何人かは、『実名告発防衛省』の中で実名で登場していますよ。
 機会があれば、別途論じたいと思いますが、どうしてそんなことになるかを解明する鍵は、2世政治家の多さ、吉田ドクトリンの墨守、そしてこのこととも関連するところの日本の政治家業の歪み、更には、戦後日本におけるエリート教育(の欠如)にある、と思います。

(完)

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太田述正コラム#3174(2009.3.25)
<シルヴィア・プラスをめぐって(その1)>(2009.5.9公開)

1 始めに

 既に故人となった、私のかつての上司の池田(久克)さん(コラム#2695(非公開)。『実名告発防衛省』229〜233頁)は、役人は退官した時に初めて社会人になるんだ、というのが口癖でした。
 本当にそのとおりだな、と自ら退官してからというもの、時々痛感します。
 例えば、娑婆(一般社会)では精神疾患で苦しんでいる人やその既往症のある人がゴロゴロしているのに、キャリア官僚の世界では、ほとんどそんな人と出会うことはありません。
 キャリア・ノンキャリアを問わず、役人で精神疾患の気(け)があることが判明した人は、地方や付属機関的な所に「隔離」されてしまいますし、地方や付属機関的な所から仕事でキャリア官僚の所にやってくる人にしても、部外の人、例えば企業や団体の関係者にしても、地域の人々の代表者や陳情者やマスコミ関係者にしても、スクリーニングされた「まともな」人ばかりだからです。
 振り返ってみれば、親族にその気のある人がいない人の方がめずらしいでしょうし、家庭にいる場合だってあるでしょう。
 にもかかわらず、自分の仕事場にはそういう人がいないことは不思議には思わないわけです。
 ところが、退官してからは、例えば私のコラムの読者の中にも結構そういった方がいらっしゃる。
 コラム#2805に登場する、私に鮮烈な印象を残した「知人」もそのうちの一人です。
 私の場合、そういう類の人と出会う経験が、退官するまで全くと言ってよいほどなかったものですから、出会うたびにびっくりしないのなんのって・・。
 このような「社会」経験を経て、私はその気のある人がこの社会にはたくさんいらっしゃるという前提で社会評論活動を行わなければならない、と肝に銘じるに至っている次第です。
 前置きが大変長くなりました。
 今回は、「社会」経験を積んでいなかった頃なら、何の関心もなく、見過ごしてしまった話のご紹介をしたいと思います。
 その上で、若干、一般論を展開するつもりです。

2 シルヴィア・プラスをめぐって

 (1)シルヴィア・プラスの息子

 「シルヴィア・プラス(Sylvia Plath)<が自殺してから>・・・46年経つが、彼女の娘のフリーダ・ヒューズ(Frieda Hughes)が、<フリーダの弟で>プラスの47歳になる息子のニコラス・ヒューズ(Nicholas Hughes)<博士>・・アラスカの魚類生物学者・・が・・・鬱病との長い戦いの後、・・・先週自殺したことを発表したことは、世界的なニュースとなった。・・・
 30歳の時に自殺したシルヴィア・プラスは、20世紀の米国の偉大な詩人達の一人だ。
 こんな短い生涯でかくも長期的に評価され続ける詩を英語で書いた詩人と言えば、<英国の>キーツ(Keats)だけであり、米国人では彼女だけだ。・・・」
http://roomfordebate.blogs.nytimes.com/2009/03/24/why-the-plath-legacy-lives/
(3月25日アクセス。以下同じ。)

 「・・・ニコラス・ヒューズは結婚したことがなく子供もいないが、3月16日に首をつって自殺したものだ・・・。
 彼は科学の人であって文学の人ではなく、近親者の中では唯一詩人にはならなかった。
 ・・・彼は10年近くアラスカ大学フェアバンクス校の魚類/海洋科学の教授だったが、・・・2006年12月に辞めている。<研究を続けながら、自宅で趣味の域を超えた陶器作りを始めたのだ。>・・・
 ニコラス・ヒューズは、1984年にオックスフォード大学を卒業し、同大学から修士号を1990年に取得し、米国籍をとり、アラスカ大学で博士号を取得している。・・・

 (2)シルヴィア・プラス本人について

 ・・・<ニコラス・>ヒューズは、彼の両親が離婚した時はまだ9ヶ月の赤ん坊だったし、彼の母親が<30歳の時に>1963年2月にロンドンのマンションで≪1歳のニコラスと2歳のフリーダ≫が<寝室で>寝ている時に<彼らに牛乳入りのコップとバターを塗ったパンを残して、<隣室の>台所に目張りをした上でオーブンに頭を突っ込んで>ガス自殺した時もまだ幼児だった。・・・
 死亡当時はそれほど知られていなかったプラスだったが、彼女は、自殺直前まで書き綴っていた詩の詩集『アリエル(Ariel)』・・・によって一躍超有名人となった。
 <また、1971年には、プラスが、自分の大学時代の鬱病の発症について書いた<自伝的>小説『The Bell Jar』が米国で出版され大人気を博した。>
 彼女が<夫のテッド(Ted)>ヒューズと分かれた直接的な原因は、<もう一人の詩人の妻であったところの、>アッシア・ウェヴィル(Assia Wevill)<という女性>とテッドのダブル不倫だった。
 プラスのことは、彼女の夫につきまとうことになった。<彼は、プラスを自殺に追いやった張本人だという非難を世の女性達から浴び続けたのだ。>
 ≪(このような夫妻の悲劇的顛末は、)2003年の映画「シルヴィア」で・・・描かれることとなる。≫
 <それだけではない。>テッド・ヒューズは、彼の2番目の妻となったウェヴィルの自殺という目にも遭ったのだ。ウェヴィルは、1969年3月に彼らの間にできた4歳の娘を道連れにして自殺した。・・・」
http://www.iht.com/bin/printfriendly.php?id=20998879
(<>内は、
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,980566,00.html
http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article5956380.ece
、また≪≫内は
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/03/23/AR2009032301892_pf.html
による。)

 (3)シルヴィア・プラスの夫だった男

 「・・・プラスのヒューズとの結婚は現代の神話となった。
 二人が初めてケンブリッジで会った時、米国からフルブライト奨学生として同大学に留学していたプラスの口をヒューズがぶん殴り、お返しに彼女は彼の頬に噛みついて出血させた。そしてあっという間に二人は結婚したかと思ったら、悲劇的な結末を迎えたからだ。・・・
 ヒューズは否応なしにかきたてられた子供達二人の母親への関心からこの二人を守るためにできるあらゆることをやった。母親が自殺したことは二人が10台になるまで話さなかった。・・・
 ≪彼は、英国の最も著名な詩人の一人となり、桂冠詩人に任命される。
 しかし、プラスの自殺は彼の1998年の死に至るまで、彼に暗い影を落とすことになる。≫・・・
 <その年、>彼はついに自分のプラスとの生活と彼女の死に対する思いを綴った88篇の詩からなる『Birthday Lettersa』シリーズを書く。
 このシリーズはロンドン・タイムスで連載され、自分の妻の運命についてのはっきりした告開(contrition)を行ったことのない男という評判が、いやそうではなく彼はもっと複雑な人間だったのだ、という評判に変わった。
 ヒューズはこの『Birthday Lettersa』を自分の子供達に捧げた。
 詩集としてはめずらしいことだが、この本はベストセラーになり、背表紙付きのこの本が英国内だけで15万部以上売れた。
 しかし彼は、この本が1999年のホイットブレッド賞(1999 Whitbread Book of the Year award)を授与される前の年の10月に癌で亡くなってしまった。
 そこで、ニコラスではなく、フリーダが彼に代わってこの賞を受け取った。・・・」
 (以上、
http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article5956380.ece
 ただし、<>内は、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/03/23/AR2009032301892_pf.html
上掲による。)

 (4)シルビア・プラスの娘

 「・・・フリーダ・ヒューズは、彼女が20台の時に再び世間の注目を浴びることになった。
 彼女の最初の児童向けの本が出版されたからだ。
 彼女は、アーチスト、詩人、新聞のコラムニストとしても成功を収め、彼女の両親のことや彼女自身の鬱病、慢性疲労症候群(ME=myalgic encephalomyelitis=Chronic fatigue syndrome=CFS)、及び拒食症のことについて語ったり書いたりしてきた。・・・」
http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article5956380.ece上掲

(続く)

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太田述正コラム#2840(2008.10.9)
<ロアルド・ダールの半生(その2)>(2009.4.15公開)

 ダールはこのような面白いものを書く、背が高く、ハンサムで頭が良い男で、「戦闘」で負傷した勇敢な士官で、しかも制服が似合うときていたため、誰にも好かれました。
 他方で彼は、傲慢で、風変わりで手に負えない男であることから、秘密任務に就いているとは誰も思いませんでした。
 こんな男が、ゴシップを仕入れてはおもしろおかしく語るのですから、米国人の権力者や大金持ちの奥さんにもてないわけはありません。
 ダールが年間収入が50,000ドル以上の米国の家庭のすべての女性と寝たという伝説すら伝わっています。
 ダールはギャンブラーでもあり、彼はハリー・トルーマン(Harry Truman。後出のヘンリー・ウォレスの後を襲って1945年1月から副大統領。ローズベルト死去に伴い、同年4月からは大統領)に賭で900ドル(ダールが初めてもらった印税全額)とられた逸話が残っています。
 彼はまた、フェンシングの達人でもありました。

 ところで、ダールが所属していたスパイ組織は、英国安全保障調整機関(British Security Coordination =BSC)と称されており、彼の同僚には、ジェームス・ボンド・シリーズで有名になるイアン・フレミング(Ian Fleming)、俳優にして劇作家にしてポピュラー音楽の作曲家として有名になるノエル・カワード(Noel Coward)、英国初の本格的な広告会社をつくることになるデーヴィッド・オグリヴィー(David Ogilvy)らがいて、彼らはシャーロック・ホームズ物に登場する、街の探偵団をもじってベーカー街非正規軍(Baker Street Irregulars)と呼ばれていました。
 ダールもそうでしたが、彼らはその魅力と悪知恵を駆使して米国上層部が何を考えているかを探る一方で英国が米国にやって欲しいことを吹き込むことに努めたのです。

 とりわけダールの活躍は際だっていました。
 彼は連日連夜、パーティー、レセプション、公式晩餐会に出没し、友人の輪を広げて行きました。
 こうして彼は、コラムニストのウォルター・リップマン(Walter Lippman)やドゥルー・ピアソン(Drew Pearson)、副大統領のヘンリー・ウォレス(Henry Wallace)、更にローズベルト夫人のエレアノア(Eleanor Roosevelt)と親しくなります。
 ピアソンは、ダールに米国の各省の動向や閣議の模様を詳しく教えるようになります。
 エレアノアはダールが1943年に米国で処女出版した児童文学書に感銘を受けて孫達に読んでやるようになり、それをきっかけに彼をホワイトハウスや私邸に何度も招待することとなったのですが、そのおかげでダールはローズベルト大統領自身にも近づくことに成功します。
 初対面の時、私邸でカクテルをつくっていた大統領はダールが英国の諜報機関員であることを見抜いたようであり、そのことをダールに示唆したといいます。
 それでも、ダールは爾後、ローズベルト自身から、その健康状態、再選の可能性や共和党の大統領候補についてのローズベルト自身の見方等を聞き出すことに成功します。
 またダールは、タイム社のオーナーのヘンリー・ルース(Henry Luce)の夫人で劇作家でコネチカット州選出の下院議員でもあったクレア・ブース・ルース(Clare Booth Luce)が反英であったことから彼女に近づき、友人となっただけでなく愛人関係になりました。
 彼女の3日連続の激しい性的要求に音を上げたダールは、英国大使のサー・ハリファックスに彼女との関係終了を申し出るのですが、同大使は、ヘンリー8世が好きになれなかったクリーヴスのアン(Anne of Cleves。ドイツの公国出身のヘンリー8世の4番目のお后)と「お国のためだ」と自分に言い聞かせて寝室を共にした映画シーンに言及し、彼女との関係の継続を厳命したのです。
 このほか、ダールは文豪のアーネスト・ヘミングウェーとも関わりができ、1944年には英空軍機で彼に付き添ってロンドン旅行に行ったりします。
 ダールは本来のスパイらしい仕事もやってのけています。
 当時パン・アメリカン航空は、レンド・リース法の一環として欧州中に空軍基地を建設する軍事契約を米国政府との間で結んでいましたが、この関連で米国の航空権とその交渉状況を把握していました。
 ダールは同航空からこの情報を取ったのです。

 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/08/28/AR2008082802911_pf.html前掲、
http://www.newsweek.com/id/156340
http://www.washingtontimes.com/livechat/2008/sep/29/author-jennet-conant/
http://www.onthemedia.org/transcripts/2008/09/12/05
(いずれも10月8日アクセス)による。)

4 終わりに

 当時の英国の首相はチャーチルでしたが、彼は諜報工作大好き人間でした。
 彼の下で、英国政府がいかに多士済々の人物達を的確にリクルートし、諜報活動に従事させていたかがお分かりいただけたでしょうか。
 チャーチルは、第二次世界大戦が始まる直前まで、上層部は英国にコンプレックス的憧憬を抱きつつも英国を敵視していて、一般大衆には孤立主義的ムードが蔓延していた米国を、英国が苦戦していた対ドイツ戦に引きずり込むために、ありとあらゆる策略を重ね、米国のために諜報機関までつくってやった挙げ句、日本の真珠湾攻撃もあってようやくそれに成功します。
 そして、その後も、米国の上層部に対するスパイ活動を続けることで、米国に基本的に英国の望むような軍事作戦をとらせることにも成功するのです。
 歴史の皮肉は、チャーチルが全精力を傾けて守ろうとした大英帝国が、第二次世界大戦終了とともに、音を立てて瓦解を始め、英国が米国によって世界覇権を奪われてしまうことです。
 とまれ、ダールは、BSCによってその文才を見いだされ、米国で児童文学者としてデビューを果たし、英国帰国後は花形児童文学者として大活躍することになるのです。

(完)

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太田述正コラム#2838(2008.10.8)
<ロアルド・ダールの半生(その1)>(2009.4.14公開)

1 始めに

 いつも、最初にコラム(ないしシリーズ)で何を書くのかを明らかにしていますが、今回は初めての試みで、明らかにしないまま始めようと思います。
 とにかく、読んでみてください。
 最低限、話の主人公が『チャーリーとチョコレート工場(Charlie and the Chocolate Factory)』や『ジェームスと巨大な桃(James and the Giant Peach)』等を書いた児童文学作家のロアルド・ダール(Roald Dahl。1916〜90年)であることだけは申し上げておきましょう。

2 任務を与えられるまでのロアルド・ダール

 ロアルド・ダールは、英国のウェールズでノルウェー人の両親の下に生まれました。
 彼はパブリックスクールのレプトン(Repton)校を卒業後、本来はオックスフォード大学かケンブリッジ大学に入学すべきところ、海外での冒険の夢ほだしがたく、1934年、シェル石油に入社し、英国内での2年間の勤務の後、タンガニーカ(現在のタンザニア)のダルエスサラームに3年間の任期で派遣されます。

 ところが、1939年の9月に英国がドイツに宣戦する直前の8月、タンガニーカが旧ドイツ領であったことからダルエスサラームにいる数百人のドイツ人を拘留する計画がつくられ、ダールは現地招集されて英陸軍士官となり現地人部隊一個中隊の指揮官となります。
 更に11月には英空軍に移るように命じられ、陸路600マイルを車に揺られてケニアのナイロビで空軍に入隊します。
 身長が198cmもあったので、相当無理があったのですが、パイロット不足の折から、ダールは戦闘機パイロットとしての訓練を受けさせられます。
 2ヶ月間の基本訓練が終わったところで、彼はイラクのハッバニヤ(Habbaniya。バグダッド南方100マイル)の基地で更に6ヶ月間訓練を受けます。それから彼は、リビアのイタリア軍と戦うべく、エジプトのスエズ運河沿いの基地に戦闘機に乗って派遣されるのです。そこから、西方の砂漠の中にある前線基地に向けて、途中二回給油に降り立つという計画の飛行を行うのですが、計画そのものが間違っていたため、結局第一給油地にすら到達できずに砂漠に不時着してしまいます。
 この時、大けがを負ったダールはアレキサンドリアの海軍病院に6ヶ月入院します。
 このまま除隊になっても不思議はない状態でも、パイロット不足が更に深刻化していたことから、彼はギリシャのアテネ近くの英空軍部隊勤務を命ぜられ、1941年4月、赴任します。
 しかし、ドイツ軍は4月には英軍をギリシャ本土から駆逐し、5月にはクレタ島からも駆逐してしまいます。
 ダールの空軍部隊はパレスティナのハイファに「転進」し、ドイツ軍と仏ヴィシー政府軍への抵抗を続けますが、その頃、ダールは大けがの後遺症のためパイロットを続けるのは無理であると認定され、帰国を言い渡され、6月、英国に船で戻らされます。この時、ダールは空軍大尉(Flight Lieutenant)になっていました。

 ところが、母親(父親は彼が3歳の時に死亡)の下で休暇をとって療養していた26歳のダールに、1942年3月、ロンドンの空軍次官バルフォア(Harold Balfour)の所に出頭せよとの連絡が入ります。

3 任務が与えられてからのダール

 出頭して言い渡されたのは、表向きは駐ワシントン英国大使館空軍武官補として、実際には英領カナダ人のスティブンソン(William Stephenson)(コラム#1383)という元締めの下で米国の孤立主義勢力を弱体化させ米国の政策を英国寄りのものにするためのスパイとしての秘密任務を帯びての米国赴任でした。
 ダールとしては、戦闘地域から大洋を隔てた安全な場所で「軟弱」なデスクワークをするのはいやで仕方がなく、「それだけはご勘弁を」と答えるのですが、命令に逆らうわけにはいかず、赴任するのです。

 現地で「同僚」で、既に作家として名声を博していたC.S.フォースター(Cecil Scott Forester。1899〜1966年)(注1)からの、空軍パイロット時代の話をまとめてみろとの要請を受け、1942年8月、最初の著書『リビアの空で撃墜されて(Shot Down Over Libya)を米国で新聞に掲載させられます。実際には撃墜されたわけではないのですが、フォースターは本文には一切手を入れなかったけれど、タイトルだけは劇的なタイトルに変えさせたのです。

 (以上、特に断っていない限り
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/08/28/AR2008082802911_pf.html  
(8月31日アクセス)、及び
http://en.wikipedia.org/wiki/Roald_Dahl
http://www.msnbc.msn.com/id/26510367/
(どちらも10月8日アクセス)による。)

 (注1)ホレイショ・ホーンブロワー(Horatio Hornblower)を主人公にした海洋冒険小説のシリーズであるホーンブロワーシリーズの作者として有名(
http://en.wikipedia.org/wiki/C._S._Forester
。10月8日アクセス)。

(続く)

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太田述正コラム#2717(2008.8.8)
<ヒットラーの二つの謎(その2)>(2009.2.22公開)

 第一の点については、カーショウは、ヒットラーがナチスドイツの中心にいたことを明らかにします。何事であれ重要なこと・・もちろんホロコーストは重要なことです・・がヒットラーの認知と承認なくして行われるようなことはなかったと。しかし、ヒットラーの影響力はしばしば間接的に、彼の目指していたり欲っしているものを忖度した人々によって発揮された、というのです(注3)。

 (注3)カーショウは、ヒットラーは、ドイツ国民が、より正確にはドイツ国民中の主要グループが、自分達の野心と熱望を投影する空虚な入れ物(blank space)であったように見えると指摘する。ただ、時間が経つにつれて、ヒットラーは、その大部分が彼のために他人達がつくりあげたところの、自分自身の神話を信じ込むに至り、より決定的な、そして最終的には破滅的な役割を、政策形成、就中戦争に関する政策形成において担うようになったというのだ。

 第二の点については、カーショウは、やはりホロコーストを例にとってナチスドイツの世論の評価を行います。ここでも彼は両極端の議論を排します。当時の大部分のドイツ人は、熱狂的なユダヤ人嫌いでもなければ何も知らぬ(innocent)傍観者でもなかったというのです。彼らは、欧州のユダヤ人がどんな目に遭っているか知っているか、さもなくば知ることができたのであって、自分達の政府の血まみれの政策に積極的に反対した者はほとんどいなかったのです。とはいえ、「ユダヤ人問題」はヒットラーとその取り巻きにとってはこの上もなく重要であったものの、ドイツ人の大部分にとってはそんなものは重要な案件ではありませんでした。「アウシュビッツへの道は憎しみによって築かれたが、無関心によって舗装された」とカーショウは1983年に記しています(注4)。

(注4)カーショウによれば、ナチスに傾倒していた(committed)ドイツ国民はほとんどいなかった。大部分はナチスのプロパガンダやいくつかの実績によっていつの間にかナチスの黙従するに至った(lulled into acquiescence)ものであり、彼らの日常生活における最も内奥の価値・・その大部分は宗教的行為に関わるもの・・に直接的に干渉された場合に限ってナチス体制に・・時には成功裏に・・異議を唱えたのだという。

 カーショウはやがて、ホロコーストについて何も知らぬ傍観者であったドイツ国民などほとんどいなかったという見解へと変わるのですが、いずれにせよ、ヒットラーらは(対外的侵略と)ホロコーストを、さしたる抵抗にドイツ国内で直面することなく遂行することができたのであり、ナチスドイツのもたらした悪夢に終止符を打ったのは、国内の抵抗ではなく、軍事的敗北であったということを銘記すべきでしょう。

 以上のことを踏まえるとして、ホロコーストに係る意志決定はどのようになされたのでしょうか。

 ホロコーストについては、ヒットラーによる特定の日付の単一の命令がなされたわけではありません。
 カーショウは、「ヒットラーによる明確な命令があるのは、1939年9月のドイツによるポーランド侵略の後、ポーランドの知識人の殺害と旧ポーランド領でドイツ領に編入された地域からのユダヤ人の追放(ethnic cleansing)を命じたものくらいだ。」と記しています。
 1941年の夏、ドイツ占領下のポーランドにおける上級保安将校であったロルフハインツ・ホップナー(Rolf-Heinz Hoppner)はアドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)に、彼の州(province)にいる30万人のユダヤ人をどうしたらいいのかを問い合わせる手紙を送っています。
 その手紙にいわく、「この冬、ユダヤ人全員の食糧を確保できない可能性がある。すぐにできるやり方で、強制労働に耐えられないと考えられるユダヤ人を片付けることこそ最も人道的解決方法ではないのか、真剣に検討がなされるべきだ。いずれにせよ、こうすることは、連中を餓死させるよりは不快感が少ないと愚考する。」と。
 1941年中のヒットラーの命令にもホロコーストに関し明確なものはないのですが、カーショウによれば、SS(親衛隊)の長官ハインリッヒ・ヒムラーにヒットラーが、「新たに占領した地域を「平定(pacify)」し、保安上の脅威たるソ連共産党幹部(Soviet political commissars)とユダヤ人を殺害せよ」という命令を発し、広範な権限を与えたことが決定的だったというのです。
 1941年8月までには、ヒムラーの特命部隊と警察はユダヤ人の男性、女性、そして子供達の大量無差別殺戮を始めました。このことについては、ヒットラーは十分承知していました。
 そして1941年10月、ナチス当局は、ベルリン、プラハ、ウィーンや他の中欧の諸都市からユダヤ人の東方への輸送を始めます。このユダヤ人達は、ポーランドや東欧のユダヤ人達が既に強制的に送り込まれ、急速に悪化する条件の下で生活していたところの、ゲットーに送り込まれたのです。
 その間、特命部隊と警察によるユダヤ人の銃殺は最高潮に達していました。
 ヒムラーは、このような状況の下、ユダヤ人を大量に殺害するより迅速な方法として毒ガスを用い始めます。最初は移動車両の中で、次いで、1941年11月にベルゼック(Belzec)を嚆矢として、ユダヤ人根絶収容所の中に恒久的施設を建設することによって・・。
 いずれにせよ、ことここに至るや、ナチスの指導部は、ユダヤ人殺害計画に係る根本的意志決定を行うとともに、同計画の遂行について総合調整を行うための会議を開催する必要に迫られ、主要行政官庁が集う会議をベルリン郊外のワンゼー(Wannsee)で開催するとの決定を行います。この会議は、米国に対しドイツが宣戦布告を行ったことにより、翌1942年の1月まで延期された上で開催されます。
 米国に宣戦布告をした翌日、ナチスの指導者達への私的会話の中で、 ヒットラーは、「世界戦争が始まった。ユダヤ人の絶滅がその必然的結果(necessary consequence)でなければならない」と語っています。 
 このヒットラーの発言を数日後に自分の部下達に伝えたポーランド総督のハンス・フランク(Hans Frank)は、この上もなく明快でした。「われわれはユダヤ人を見つけ次第粉砕(destroy)しなければならない。<管轄下の>350万人のユダヤ人を銃殺することは不可能だが、連中を毒殺することはできる。ただし、われわれはユダヤ人絶滅の成功に導く適切な手順を踏む必要がある」と。
 すなわち、カーショウに言わせれば、ホロコーストの意思決定は確かになされ、その意志決定を行ったのはヒットラーその人なのです。

4 終わりに

 この類の話は、書いているだけで気が滅入ってきます。
 欧州文明は狂気の文明である、との私のかねてよりの主張はもっともらしい、とお思いになりませんか?

(完)

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太田述正コラム#2715(2008.8.7)
<ヒットラーの二つの謎(その1)>(2009.2.8公開)

1 始めに

 ヒットラーの二つの謎と言えば、どうしてヒットラーがドイツの権力を掌握できたのかと、ホロコーストに係る意志決定はどのようになされたのかですが、英国の著名な歴史家である、英シェフィールド大学教授のカーショウ(Ian Kershaw。1943年〜)(コラム#1894)が上梓した最近の本の書評や、カーショウ自身の論考をによって、この二つの謎に迫ってみましょう。

 (以下、特に断っていない限り
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/07/31/AR2008073102684_pf.html  
(8月3日アクセス)、
http://www.philly.com/inquirer/entertainment/books/25896489.html
http://www.nytimes.com/2008/02/03/opinion/03kershaw.html?_r=1&pagewanted=print&oref=slogin
http://hnn.us/roundup/entries/39200.html
(いずれも8月7日アクセス)による。)

 ちなみに、カーショウはもともとは中世イギリスの修道院の社会経済史の専門家だったのですが1970年代末に研究対象をナチスドイツ史に変更して現在に至っています。

2 どうしてヒットラーがドイツの権力を掌握できたのか

 「ヒットラーは、高度に自由主義的な憲法を持った民主主義の下で権力を掌握し、民主主義的自由をも活用してこの民主主義を掘り崩し、破壊した。
 ドイツの民主主義は1919年に導入されたものであり、第一次世界大戦での敗戦と革命の産物であってドイツのエリートの大部分、とりわけ軍隊、大土地所有者、大企業は決して民主主義を受容しなかった(注1)。

 (注1)1917年の初めての本格的な政党内閣の成立と1925年の普通選挙制の成立に象徴される日本の民主主義(大正デモクラシー)は、エリートは東大の吉野作造や美濃部達吉、から大衆は米騒動に参加した人々に至る広範な人々によって内発的にもたらされたものであり、ドイツとは事情が全く異なる。(例えば、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC
(8月7日アクセス)参照。)(太田)

 ヒットラー率いるナチスの選挙での支持率は1928年には2.6%、1930年には18.3%、1932年7月には37.4%とうなぎ登りだったが、これは、数百万のドイツ大衆の怒り、フラストレーション、恨み、と同時に希望の大きさと、ヒットラーがこれらの感情を汲み上げることができたことを示している。
 民主主義は失敗し、ドイツは分裂し、貧しくなり辱めを受けていたとドイツ大衆は感じていたのでスケープゴートが必要だったのだ。
 彼らが憎しみをユダヤ人にぶつけたのは当然とも言えた。というのは、ユダヤ人が外からの脅威であるところの国際資本主義とボルシェヴィズムを代表しているかのように見えたからだ。国内的にはユダヤ人は、ヒットラーとその一派によってドイツの苦境について責任があるとされた政治的左派たる社会主義者と共産主義者の仲間と目された。
 次第にヒットラーは、ドイツの選挙民の三分の一強によって国を復興し、誇りを取り戻し、民族的救済をもたらしてくれる唯一の希望とみなされるようになった。1930年までにはドイツをナチスの支持なくして統治することは事実上不可能になった。しかし、ナチスの得票率は民主主義を阻害することは可能であったものの、ヒットラーに権力を掌握させるには不十分だった。
 1930年以降は、ドイツ国家は膠着状況に陥ってしまった。民主主義は形式的には生き残っていた。しかし、事実上死んでいたか死につつあった。反民主主義的なドイツのエリート達は解決策を仲介しようとしたが、ヒットラーが非妥協的であったために失敗した。結局、他に権威ある解決策を見出せなかったため、パウル・フォン・ヒンデンブルグ大統領は1933年1月30日、ヒットラーを政府の首班、首相に任命した。その結果として、ドイツ、欧州、そして世界に大災厄がもたらされることになる。
 とはいえ、ヒットラーが首相になってからも、その一ヶ月後の国会議事堂の火事なくしては、民主主義の最後の痕跡の破壊が始まり、ヒットラーの全権掌握への道が開かれることはなかったろう(注2)。」(カーショウ。ニューヨークタイムス上掲)

 (注2)民主主義は圧力に晒されてもしのびよる専制主義への障害たりうる。このことは最近、ロシアのプーチン(Vladimir Putin)が憲法の規定との抵触を回避するために、実権は維持しつつも大統領の座を譲らざるをえなかったことや、チャベス(Hugo Chavez)が終身大統領となる野望を(国民投票で敗れたため)当分の間諦めざるをえなくなったことからも分かるというものだ。

3 ホロコーストに係る意志決定はどのようになされたのか

 この問題を考えるためには、ナチスの政治システムにおけるヒットラーの個人的役割についての考察と、ナチスドイツにおける世論をどう評価すべきかについての考察を行う必要がある、とカーショウは指摘します。

(続く)

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太田述正コラム#2913(2008.11.14)
<「諸君」に見る小沢一郎像>(2008.12.22公開)

1 始めに

 本日、ライターの塩田潮氏が、月刊誌「諸君」編集部からの依頼原稿執筆のための取材に私の自宅を訪問され、1時間半ほど懇談しました。
 その時、「諸君」の最新号を置いて行かれたので、それこそ10年ぶりに「諸君」に目を通してみました。
 10年ほど前に、日本の総合雑誌に目を通すのを止めた時と全く変わらず、少しも面白くないことから、ゴミ箱に抛り投げようとしたのですが、小沢一郎論の特集が組まれていることを思い出し、ほとんどそこだけを斜め読みしました。
 今回は、その報告をさせていただきます。

2 小沢一郎について

 「慶応卒で、日大大学院で司法試験を目指して挫折した、<私が内閣安全保障室長の時の>小沢<官房>副長官は、官僚、とくに東大出のエリート官僚に強いコンプレックスとその裏返しの激しい支配欲、対抗心、見下し、自己肥大症的自己顕示欲があったようだ。・・・<彼は、>官邸記者クラブのオフ・レコの副長官内話で「<内閣の>五室長は皆、無能で、中曽根・後藤田の手先。全員首をすげ替える」と後任者候補の名前まで挙げて語った−-と翌日の毎日の朝刊が報じたのである。五室長は怒った。・・・小渕<官房>長官、小沢<政務>・石原(信雄)<事務>両副長官<の面前でいならぶ五室長を代表して>的場順三内政審議室長が・・・「我々を無能だと仰るが、中曽根・後藤田の下では立派に機能しました。それが機能しないのは、上の方の御器量の問題です」といってのけたのだ。・・・<結局、>竹下総理<から>・・・本領安堵の言葉<があ>った。・・・メンツ丸潰れの小沢氏・・・」(佐々淳行。42〜43頁)

 「戦後の政治家の中で小沢一郎ほど、実像と虚像に格差がある人物はいない。原因は本人にあり、「弁解」や「言い訳」をしないこと。相手の「非難」や「悪口」を絶対にしない性格にある。・・・」(平野貞夫。52頁)

→どちらが正しいのでしょうか? これは、具体性があり、かつ証人がたくさんいるところの、佐々氏の小沢評の方が正しいと考えざるをえません。
 もとより、佐々氏の記述内容に脚色や自己中心的歪曲がある可能性(コラム#1420のQ&A参照)は心にとめておく必要がありますが・・。(太田)

 なお、

 「官僚内閣制の精算、そのための政権交代という軸でみると、小沢氏の行動のすべての説明がつく。」(屋山太郎。58頁)
 「<小沢は、>・・・小さい人間だ・・・」(細川首相(当時)の言)(武村正義。44頁)

→ここからも、佐々氏の小沢評の正しさが推し量れます。
 どうやら、小沢氏の官僚嫌いや、官僚内閣制の精算をめざす政策は、私憤に根ざした公憤に基づく、ということのようですね。(太田)

3 小沢一郎の第9条解釈

 「・・・小沢氏<の>・・・国連中心主義でなければならないという理論・・・これは本当にわかりません。日本だけでなく、世界中の国際法学者、憲法学者で、「自分の意見と小沢氏の意見は同じだ」と言える人は一人も居ないと思います。専門家が誰一人支持しない議論を、素人が一歩も譲らず正しいと言い張っている。こんな例は、ガリレオの地動説ならいざ知らず、政治家の世界では、理解を絶します。・・・」(岡崎久彦。39〜40頁)

 「・・・今では随分、奇矯な議論に聞こえるようになったが小沢氏の例の「国連中心主義」も、湾岸戦争や細川・羽田政権の頃の日本では、むしろ多数派の意見だったのであり、何人もの東大教授や国際政治学者が小沢の下に馳せ参じお墨付きを与えていたものだ。つまり変わったのは世間の方で、小沢氏は一貫している、むしろ恐ろしく一貫していると言うべきだろう。・・・」(中西輝政。49頁)

「・・・小沢の「国連中心主義」という考え方も、国連が米ソの拒否権発動による膠着した二大陣営対決の場から、合意形成可能な場に変化したことを踏まえたもので、政局的なものとは考えられない。・・・自衛隊<は、>・・・海外に出て欲しくはないが、「国連中心主義」というのは共産党の基本的な姿勢と重なる。・・・となれば、小沢と共産党の間にある壁はずいぶん低い。・・・小沢は総選挙後、「あと数議席で政権が取れる」という状況になれば、共産党とどんな妥協をしても手を組む。・・・<こんな>小沢をみて「変節した」「政局だけ」と見るかどうかは各人の判断だ。しかし、彼の動きに通底しているのは、時代を見る確かな眼力と決断力だと思う。」(筆坂秀世元日本共産党政策委員長。55〜56頁)

→岡崎氏の主張はナンセンスです。そもそも、日本に憲法なんてないと私は考えています。明治憲法も、日本国憲法も一度も改正されていないのがその証拠です。改正されていないのに、明治憲法下で日本は立憲君主国から「自由民主主義」国へと変貌しましたし、日本国憲法の下で私学助成が行われているし、憲法第9条の解釈は初期において転々と変わり、何と現在では日本に軍隊が存在しています!
 小沢氏の憲法第9条の解釈が一貫して変わらなかったのは、中西氏の言うとおり。ただし、これが一貫して変わらなかった理由は、筆坂氏の言うことにひっかければ、小沢氏としては、(社民党はもとより、)共産党と手を組むた余地を残しておくため、と思われます。

 なお、

 「このごろの小沢さんは、民主党の代表就任時に自ら表明したとおり、"少し変わった"ように思います。昔に比べ良くなった面もありますが、政策面まで言い続けてきたことと違うとなると、非常に残念です。・・・これでは、党利党略のために政策を決めているとしか思えません。・・・」(海部俊樹。40〜41頁)

と、2で行った「分析」を踏まえると、私憤で動く、器の小さい人物たる小沢氏の政策で一貫して変わっていないのは官僚内閣制の精算だけであって、それ以外のすべての小沢氏の政策は変わりうる、ということだと思うのです。

4 終わりに

 同じ「諸君」の最新号に、西尾幹二氏が、「左派の旗幟を鮮明にしてきた『論座』はもとより、近年の<講談社の総合雑誌の>『現代』も、明らかに"左寄り"のスタンスをとる雑誌でした。岩波書店の『世界』にも、一時代を築きあげた昔の面影はなく、左派論壇の沈滞は、誰の目にもはっきり分かるほど、著しいものがあります。その一方、保守系論壇誌は、本誌『諸君!』をはじめ、『正論』『Voice』『WiLL』に、『月刊日本』『SAPIO』、そして最近は『撃論ムック』の出現もあり、ひとまず活況を呈しているといっていいと思います。」(26頁)と書いています。
 とにかく、10年くらい、全く日本の論壇をフォローしていないので、ヘーそうだったの、と驚いています。
 私には、保守系論壇と自民党タカ派がダブって見えており、彼らこそが、「正論」を掲げつつも、その「正論」の実現のために何もしてこなかったという一点で、私が打倒すべき最大の敵だと思っていることから、まことに残念です。

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太田述正コラム#2711(2008.8.5)
<ソルジェニーティンの死>(2008.9.17公開)

1 始めに

 ロシアの作家ソルジェニーティン(Alexander Solzhenitsyn)が89歳で亡くなりました。
 
 彼がエリティンによる表彰を蹴ったがプーチンによる表彰は受けた話を以前(コラム#1885で)したところですが、手厳しい弔辞が英国等の主要メディアに載ったのでご紹介しておきましょう。

2 米スレート誌

 ・・・どんな人でも完璧であることはありえない。ネルソン・マンデラだってダニエル・アラプ・モイ、フィデル・カストロ、ムアンマール・カダフィ、そしてロバート・ムガベには甘かった。しかも、困難な闘争において一時的な同盟者として彼らを必要とした時期ではもはやなくなってもなお甘かったのだ。
 ソルジェニーティンは、米国に亡命した時、ヘンリー・キッシンジャーの忠告に従ったところの、ジェラルド・フォード大統領によってホワイトハウスから遠ざけられた。しかし、この共和党のブレジネフとの共謀を非難するより、彼はロック音楽が好きな米国人達に対して怒りをぶつける方を選んだ。(私が当時形容したように)ハーバード大学で行った悪名高い彼の講義のアヤトラのような調子は、彼の本心だったのだ。時が経つにつれて彼はよりロシアの古典的な排外主義者的となり、その作品は、より饒舌かつプロパガンダ的に、少し礼儀正しく言えば、年とともに風変わりなものになって行ったのだった。
 彼の最も最近の本である『200年間一緒に(Two Hundred Years Together)』は、ロシア人とユダヤ人の危うさに充ちた関係に関する率直な考察を意図したものとされているが、このテーマは、彼のこれまでの著作のいくつかの中でもしばしば顔を覗かせていたものだ。彼はこのテーマの探求が、コスモポリタン(でしばしばボルシェビキ志向)であるユダヤ人を古よりロシアのナショナリスト達が毛嫌いしていたこととは何の関わりもないとしており、彼の言い分を信じたいところではある。しかし、スロボダン・ミロシェビッチやセルビアの聖なる大義への彼の賛同、再生した(そして新たに国家の支援を受けることとなった)ロシア正教への彼の有頂天ぶり、そして冷たい目をしたウラジミール・プーチンに対する彼の遅咲きの賛嘆、を合わせ考慮すると、これらの結果としての彼の態度や偏見からしても、彼はトルストイではなく、ドストエフスキーであると言いたくなってくる。NATOのバルカンにおける「凶暴な」行動を非難する一方で、チェチェンにおけるロシア軍兵士達の行為について一言も語ることなく、ソルジェニーティンは、その晩年の何年かを、それが正しいか間違っているかはともかくとして、ソ連時代に経験した恐怖を「ジェノサイド」と呼ぼうとしているところのウクライナのナショナリスト達に対して非生産的な酷評を投げつけることによって過ごしたのだった。・・・
 (以上、
http://www.slate.com/id/2196606/
(8月5日。以下同じ)による。)

3 英ガーディアン紙

 ・・・ソルジェニーティンによるソ連共産主義の分析は、ロシアの歴史や性格にはそぐわないところの全体主義体制をボルシェビキがロシアに押しつけたという観念に立脚していた。
 彼に言わせれば、ロシア文化、とりわけロシア正教の文化は無神論のソ連の文化によって抑圧されたのだ。
 ソ連にとって好ましからざる人物として、ソルジェニーティンは1974年から米国で亡命生活を送ったが、欧米の文化もまた彼のお眼鏡にはかなわなかった。
 歴史に関する彼の著作は、すべてがバラ色だった理想化された帝政時代へのあこがれの念に充ち満ちている。彼は、正教の基礎の上に築かれ、欧米の個人主義的自由主義に対する代替イデオロギーを提供するところの統一スラブ国家(ロシア帝国)、という夢の中の過去への逃避を試みたのだ。
 1991年にソ連が崩壊すると、ソルジェニーティンは、当時ロシアの新聞に寄稿したように、ロシア、ウクライナ、ベラルスを包摂し、そこにおいて代替文化が花開くところの統一スラブ国家が創設されることを期待した。
 1994年にロシアに戻ると、ソルジェニーティンは1990年代におけるロシアへの資本主義導入に伴う行きすぎに反対の声を挙げた。それに加えて、彼はウクライナの独立に声高に反対した。
 しかし、プーチンが権力の座につき、ナショナリズム、及びロシアが「ユニーク」で欧米のリベラルな文化と「違っている」という観念が復活すると、彼の見解の信憑性が増大した。最近彼は、クレムリン寄りの新聞に、欧米でも広く転載されたところの論考を寄稿し、いわゆる1932〜33年のウクライナにおけるホロドモール(Holodomor)ジェノサイドは、ウクライナのナショナリストによってでっち上げられ、欧米のロシア嫌いが飛びついたところのいかれたおとぎ話だと主張した。この論考は、ちょうどロシアの国会において、同様の決議が行われた時に新聞に掲載されたものだ。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/aug/04/solzhenitsyn.russia
による。)

4 英ファイナンシャルタイムス

 歴史家がソ連の終焉について書く場合、モスクワで89歳で亡くなったアレクサンダー・ソルジェニーティンが果たした役割について特記すべきだ。
 ヨセフ・スターリンによって設立された政治犯収容所に関する彼の本・・『イワン・デニソビッチの生涯における一日』から『収容所列島』に至る・・の出版なくして、あの体制の全体像が白日の下に晒されることはなかったかも知れないのだ。
 しかし、ソルジェニーティンは、自分の生まれた地の狂気と腐敗について批判的であったのと同様、そこで20年間亡命生活を送ったところの欧米の物質主義と道徳的邪悪さについても批判的だった。実際、冷戦たけなわの1978年のハーバード大学における有名な講演において、彼は、メディアからの「情報提供の過剰」を含むところの欧米の生活の「破壊的で無責任な自由」の批判、米国によるベトナム和平の非難を行い、ロシアに共産主義に代えて「欧米モデル」を押しつける一切の考えを拒否した。・・・
 (以上、
http://www.ft.com/cms/s/0/ed439548-6255-11dd-9ff9-000077b07658.html
による。)

5 終わりに

 ソ連の崩壊に重要な役割を果たしたソルジェニーティンは、晩年には非自由民主主義的なロシアのプーチン体制の擁護者となったわけですが、100年後にソルジェニーティンの世界的評価がどうなっているか、知りたいものですね。

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太田述正コラム#2253(2007.12.23)
<辰野金吾>(2008.7.9公開)

1 始めに

 自衛隊専門新聞「朝雲」に1990-1993年の間、隔週74回にわたって連載された私のエッセーの中から、拙著『防衛庁再生宣言』に収録されなかった一篇(2回に分けて連載)をご披露しましょう。
           
2 辰野金吾

 いつも見慣れている風景の中にもドラマがある。先日東京駅のステーションギャラリーで開かれている「東京駅と辰野金吾」展に招待され、あわせて東京駅の見学をしてきた。
 赤煉瓦の東京駅を設計した辰野金吾は安政2年生まれ。明治21年に東大建築学科(当時は工部大学校造家学科)を5人の初代卒業生中の首席で卒業し、政府留学生としてイギリスに4年間派遣される。帰国後は、母校の学科の最初の日本人教授となり、また日本で初めて建築設計事務所を設立した。そしてその生涯を通じ、東京駅のほか、日本銀行本店、奈良ホテル、両国国技館(現存せず)、朝鮮銀行(ソウル。現韓国銀行)、霊南坂教会等の数々の記念碑的建築を設計した。

 辰野が東大工学部(当時工部省工学寮)を受験したときには、83名中20名が合格したが、彼は不合格で、かろうじて聴講生として通学が認められ、後日再試験を受けてやっと正式入学が認められている。
 後に仏文学者として令名を博すことになる息子の隆がまだ小さいとき、彼は繰り返し「自分は一度でも秀才であったためしはない。然しいかなる秀才も自分ほど勉強家ではなかった。秀才が一度聞いて覚えることは自分は十度たずね、二十度質して覚えた。」と語って聞かせたという。

 もっとも、クソ努力をしているだけでは人間なかなか浮かばれるものではない。
 辰野は、人生の初期に三度好運にめぐりあい、自らの才覚でその三度の好運を自分のものにしている。
 一つ目は明治初年に一年間だけ設けられていた唐津藩の藩校で、東京の借金取りをくらませるため偽名で英語教師として赴任してきた、後の総理大臣高橋是清と出会ったことである。辰野は、高橋の上京を追いかけるように上京し、広い世界に飛び出して行くことになる。
 二つ目は東大で専門課程に進学する頃、建築学科の設置が決まり、正式の教授もいないという、他の学科では考えられない状況であったにも関わらず、辰野が敢然この学科を選んだことである。
 辰野金吾にとって、三つ目の好運は渋沢栄一と出会い、そのパトロネージを得たことである。
 渋沢は、500余の企業の設立、運営に携わり、日本の資本主義の産婆役として余りにも有名な人物である。その渋沢は、明治維新以前に慶喜の弟の徳川昭武の洋行に随行し、1年半をナポレオン3世治下のパリで過ごした。パリの豪壮華麗な街並に心酔した渋沢は、その生涯にわたって東京で本格的な街造りをしたいという夢を抱き続けた。彼の人生の悼尾を飾るのが、あの田園調布の建設であったことはご承知の人も多いことだろう。
 渋沢の情熱の最初のはけ口となったのは、兜町であった。ここに明治6年、彼の肩入れで第一国立銀行(現在の第一勧銀)が生まれる。しかし、これを皮ぎりに兜町に建てられた建物には、和洋折衷の擬古風のものが多く、洗練された渋沢の嗜好には合わなかった。
 明治10年代の半ばに至ると、再び兜町で建築ブームが起きようとしていた。明治16年、銀行集会所(銀行協会)の新築にあたり、当時43才だった渋沢は、工部省の知合いに本格的な建築家の紹介を依頼し、推薦されたのがつい半年前にイギリス留学から帰ったばかりの弱冠30才の辰野だった。辰野は、よくこの期待に応え、明治18年、彼にとっての処女作にあたる本格的な煉瓦造り建築を仕上げた。その後、辰野は渋沢自身の邸宅を含め、渋沢の息のかかった建築を兜町で次々に手がけ、建築家としての名声を確立する。
 二人はどちらも熱烈な愛国者であったが、官尊民卑の風潮がはびこっていた当時にあって、渋沢は企業の自由競争の活力を信じ、辰野は帝大教授の地位よりも市井の一建築家としての自由を尊んだ点で肝胆相照らすところがあったのであろう。

 とまれ、辰野のライフワークの一つである東京駅は、関東大震災にはびくともせず、第二次大戦中の米軍の空爆にはさすが若干その姿を傷つけられたものの、いまなお美しく健在である。

3 終わりに

 当時は私もまだ防衛庁に完全に見切りをつけてはいませんでした。
 私自身も、そして防衛庁も、せめてあの頃に戻れたらいいなと痛切に思います。

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太田述正コラム#1990(2007.8.9)
<レーニンによるインテリ海外追放>(2008.2.10公開)

1 始めに

 とっくの昔に『Mao』は読み終わったのですが、『Stalin』はまだ読んでいる途中です。
 この間、先に終わりの方のスターリンが死ぬところを読みました。
 スターリンにいつ殺されるかと戦々恐々としていたソ連指導部の連中が、脳内出血で倒れたスターリンを前にして右往左往し、まさに当時スターリンが、もともとの主治医を含むユダヤ人医師達の大粛清を行っていた最中であったために、入院はおろか碌に治療も受けられないまま、スターリンが緩慢に死んでいくところは、小説より迫力がありました(PP626〜650)。
 ところで、スターリンによる大粛清、大量殺人の起源は何に求めるべきなのでしょうか。
 1918年から1921年にかけての第一回目のそれについて、以前(コラム#1866で)ご説明したことがありますが、もう一つの起源について触れた本が上梓されました。
 ロシア料理やロシアの哲学についての本を書いた英国人女性のチェンバレン(Lesley Chamberlain)のThe Philosophy Steamer: Lenin and the Exile of the Intelligentsia(英国版2006年)または Lenin’s Private War:The Voyage of the Philosophy Steamer and the Exile of the Intelligentsia(米国版2007年)です。
 今回はこの話です。

2 ソ連のインテリの海外追放

 資本主義もどきの経済政策がとられたNEP(New Economic Policy)時代の1922年、ソ連の行く末はまだ定まっていないかのように見えました。
 その年の9月、ペトログラードを一隻の船がドイツに向けて出港しました。その6週間後にはもう一隻の船が続きました。
 この2隻には、ボルシェビキのお眼鏡にかなわなかったベルジャーエフ(Nikolai Berdyaev)達ソ連のインテリとその家族220人が乗せられていました。
 これらのインテリは、帰国したら見つけ次第射殺すると申し渡されていました。
 後にこの2隻は、哲学の船(The Philosophy Steamer)と呼ばれることになります。

 当時、既に赤軍は白軍に勝利していましたが、まだ、思想的にはボルシェビキと反ボルシェビキとの間で戦いが続いており、ボルシェビキは、独立的な雑誌を廃刊に追い込み、大学で粛清を行い、新たな戦闘的なマルクスレーニン主義インテリを輩出させようとしていました。
 哲学の船の出港は、このボルシェビキの戦いが収束したことを象徴する出来事だったのです。
 レーニンがトロツキー(Leon Trotsky)、スターリン、そして秘密警察(GPU、これが後にNKVD、更にKGBとなる)にこれを命じたのです。
 そのやり方は、「危険」な思想家を見つけ、逮捕し、証拠をでっちあげ、事後法を適用する、あるいは法をねじまげるというインチキ裁判を行った上で、永久に追放するというものであり、この後にやってくるスターリンによる恐怖政治の原型と言ってよいでしょう。

 どこが違うかと言えば、このインテリ達が殺されなかったことです。
 レーニン自身、彼らを同等の存在として最低限の敬意は払っていたと思われます。
 哲学の船の出港を見届けていた秘密警察の一員が、「われわれはみんなロシア人だ。どうしてこんなことが起こっているのだ」と言ったというエピソードが紹介されています。 当時、トロツキーが米国人のジャーナリストのインタビューに答えて、この追放は慈悲の行為である、何となれば再び内戦が勃発すれば、連中は敵側に与することになろうが、そうなると殺されることになるからだ、と述べていますが、プロパガンダとはいえ、一抹の真実が含まれていたのではないでしょうか。

 哲学の船に乗せられなくとも、自発的に亡命するロシアのインテリも沢山いました。

 このようにして、この1922年をもってロシア(ソ連)は鎖国体制、全体主義体制となり、その2年後のレーニンの死をはさみ、爾後70年間この体制が維持されることになるのです。

 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/08/08/books/08grim.html?pagewanted=print
http://www.brandonsun.com/story.php?story_id=64648
http://www.liturgicalcredo.com/LesleyChamberlainInterview031507.html
(いずれも8月9日アクセス)による。)

3 終わりに

 そろそろレーニン論も書きたいのですが、なかなかこれという新著が出ませんね。

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太田述正コラム#1830(2007.6.23)
<アイク・マーシャル・マッカーサー>(2007.12.20公開)

1 始めに

 本格的なマッカーサー(Douglas MacArthur。1880〜1964年) 論は他日を期したいと思いますが、ウェイントローブ(Stanley Weintraub)の'15 STARS--Eisenhower, MacArthur, Marshall Three Generals Who Saved the American Century, Free Press' の書評等をてがかりに、アイゼンハワー(アイク=Dwight David "Ike" Eisenhower。1890〜1969年)やマーシャル(George Catlett Marshall, Jr.。1880〜1959年)との比較でマッカーサー像を浮き彫りにしてみることにしました。

2 アイク・マーシャル・マッカーサー

 先の大戦における米国の三人の元帥(注1)のうち、マッカーサーは、大統領になったアイク、国務長官になりマーシャルプランの功績を称えられてノーベル平和賞を受賞したマーシャルほどの人物ではありませんでした。 三人のうちで一番年下のアイクは、人柄は誉められても頭が良いと言われたことはありませんし、マッカーサーは、同期生の凡庸なマーシャルを尻目に米陸軍士官学校を首席で卒業したのですから、この三人のうちではずば抜けて頭が良かったことは疑いありません。

 (注1)米議会が元帥(General of the Army)位を設けたのは、1944年12月だ。

 ずば抜けて頭が良かったからこそ、マッカーサーは第一次大戦後に例外的に格下げにならず准将(Brigadier General)位にとどまり、かつ1930年に49歳の時に大将(General)/陸軍参謀長(Chief of Army Staff)になっています。同期のマーシャルが陸軍参謀長になったのは、その実に9年後の1939年ですし、アイクが陸軍参謀長になったのは1945年であり、15年後、年次を補正しても、マッカーサーより約5年後、ということになります。
 もっともこれは、最初はアイクやマーシャルの上司だったマッカーサーが、後にまずマーシャルの、次いでアイクの部下に転落したことを意味します。
 アイクとマーシャルの性格は対照的であり、開けっぴろげですぐに誰とでも親しくなったアイクに対し、マーシャルは、一見とりつく島もない感じのぶっきらぼうな、しかし根は暖かい人物でした。
 この二人はどちらも、米国民が実は戦争が嫌いであり、戦争に長けてもいないことを熟知していました。ですから二人とも、米国がやる戦争は長期化してはならず、かつ単独で戦ってはならない、という信念を持っていました。
 このあたりの政治的感覚が、朝鮮戦争の時に中共に対する核攻撃を求めてトルーマン大統領に馘首されたマッカーサーには欠けていました(注2)。

 (注2)アイクもマーシャルも先の大戦中は、主として欧州戦線に精力を注いだが、このアイクやマーシャルも英国のモントゴメリー(Bernard Law Montgomery)将軍には頭があがらなかった。アイクらは短期決戦を主張し、ただちにフランスに上陸してベルリンを目指すべきだとしたのに対し、モントゴメリーはまずアフリカと地中海を押さえるべきだと主張した。これは、英国の植民地を守りたかったということもあるが、同時に未熟な米軍に経験を積ませるためでもあった。実際、モントゴメリーは正しかったのであり、北アフリカでの戦いにおいて、米軍の未熟さと臆病さは英軍を呆れさせ、彼らは米軍を「我がイタリア人達」と呼んだものだ。

 帝王然とした(imperious)マッカーサーは、アイクもマーシャルも敬遠していました。
 フィリピン時代に一度マッカーサーに使えたアイクは、大戦の始まる前、マッカーサー率いる部隊の参謀長をしていましたが、マッカーサーのことを「我慢ならない将軍閣下(General Impossible)」と陰口をたたいていましたし、マッカーサーはマッカーサーで、アイクのことを「今まで出会った中の最高の事務員だ(Best clerk I ever had)」と嘲っていました。後にアイクは、「私はマッカーサーの下で素人芝居(dramatics)の何たるかを学んだ」とマッカーサーを揶揄しています。更にはアイクは、マッカーサーを50人もらったとしても1人のマーシャルと交換したくない、とまでマッカーサーをこき下ろしています。
 マーシャルは、陸軍参謀長として、慎重に、しかし何度となくマッカーサーに対し、メディアに対して、米国防省が自分の太平洋における作戦の邪魔をしているなどと言うな、と注意喚起しています。
 それにマッカーサーは、自分の手柄を誇張し、自分のライバルを貶めるのを習いとしていました。
 もう一つ。
 先の大戦初期において陸軍参謀長のマーシャルの下で参謀をしていたアイクに、ある日マーシャルが、「君は参謀だから昇任はないよ」と言ったところ、アイクは「あなたが昇任させてくれるかどうか何て私にはどうでもよいことです。私がここにいるのは自分の義務を果たすためです。」と返答して席を立って歩いて出て行こうとしました。ドアの前でアイクが後ろを振り向いてみると、マーシャルが笑みを浮かべていた。アイクはにやりと笑って外に出たといいます。こんなことをしたら、マッカーサーは激怒したに違いありません。
 なお、実際にはマーシャルの部下時代に、アイクはとんとん拍子の出世をしています。
 アイクは大統領になったし、マーシャルだって十分大統領になれたでしょうが、マッカーサーは、到底大統領の器ではなかったのです(注3)。

 (注3)この3人の違いを更に二つ挙げておこう。
    まずは取り巻きだ。アイクは腹心(confidant。運転手やブリッジ仲間等の気の置けない人々のほか、有名なのはブッチャー(Harry Butcher)やスミス(Walter Bedell ("Beetle") Smith))を、マーシャルは顧問(counsel。大戦中に英国からワシントンに派遣されていたディル元帥(Sir John Dill, Field Marshal)が有名)を、そしてマッカーサーは廷臣(court。ウィロビー(Charles Willoughby)とホイットニー(Courtney Whitney)が有名)を取り巻きとした。マーシャルはマッカーサーには廷臣はいてもスタッフはいない、と心配していた。
    次に住んだ場所だ。中西部の田舎出身のアイクは田舎暮らしが好きで晩年をゲティスバーグ近くの農場で送ったのに対し、ペンシルバニア州西部の小さな町で育ったマーシャルは郊外が好きで首都ワシントンから20マイル離れた小さな町をすみかとし、マッカーサーは都市が好きで、ワシントン、マニラ、東京を経て引退後はニューヨークのウォルドルフ・ビルの37階で晩年を過ごした。

 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/06/15/AR2007061501131_pf.html  
(6月17日アクセス)、及び
http://www.diesel-ebooks.com/cgi-bin/item/555163423X/15-Stars-Eisenhower-MacArthur-Marshall-Three-Generals-Who-Saved-the-American-Century-eBook.html#
http://www.bordersstores.com/search/title_detail.jsp?id=56620751&ref=list+newhistory  
(どちらも6月23日アクセス)による。)

3 感想

 先の大戦当時に米国で最も有名であった三人の米軍人のうち、格段に器の小さいマッカーサーを戦後米国から派遣され、彼を絶対君主として崇め奉らされた日本人が哀れでなりません。
 しかも、アイクもマーシャルもマッカーサーも、先の大戦のおかげで、しかもその大戦に米国が勝利したおかげで、実像以上に虚像が膨れあがったに違いない、と考えるとなおさらです。
 現に、その後、パウエル前国務長官のように、軍人出身の国務長官は出ていますが、一人の大統領も米国では出てはいません。

<太田>(2007.8.5)
 ニューヨークタイムスも、コラム#1830で紹介したウェイントローブらの本の書評を載せました。
http://www.nytimes.com/2007/08/05/books/review/05besc.html?pagewanted=print
(8月5日アクセス)
 
 その中に、マーシャルについては、
・・in 1938, Roosevelt tried to pressure Marshall, then the Army’s deputy chief of staff, into consenting to a delay in the development of large ground forces until seven airplane factories could be built.
As a dozen officials’ bobbleheads went up and down, Roosevelt asked Marshall, “Don’t you think so, George?” Marshall resented Roosevelt’s “misrepresentation of our intimacy.” He said, “I am sorry, Mr. President, but I don’t agree with that at all.” As Marshall later recalled, Roosevelt “gave me a startled look, and when I went out they all bade me goodbye and said that my tour in Washington was over.”
It wasn’t. Roosevelt was not used to such frank disagreement in large meetings, but he admired Marshall’s grit and conviction and soon promoted him.

アイゼンハワーについては、
A lifelong Army man, Eisenhower had watched Marshall and MacArthur during their differences with Roosevelt and Truman. When he entered the White House in 1953, he was probably better schooled to know both the importance and the limits of military advice than any other president of his century.
Though the story does not appear in either book, in the late 1950s, Eisenhower’s generals - especially in the Air Force - were clamoring for a huge increase in the defense budget. The Soviet leader, Nikita Khrushchev, was declaring that his country was cranking out planes and nuclear missiles “like sausages” and would soon overtake the United States.
Knowing from secret intelligence that Khrushchev’s claims were a fraud, Eisenhower held down military spending. His fortitude opened him to charges from Senator John F. Kennedy and other politicians that he was tolerating a “missile gap” and leaving America undefended. But his decision probably meant the country was able to avoid the ruinous inflation that afflicted its economy in later years.

というくだりが出てきます。
 やはりこの2人に比べるとマッカーサーは一段劣る、ということのようです。
 
 もっとも、やたら格好良いマーシャルも、『マオ』の張戎らにかかると、支那情勢が全く分からないでくの坊ということになってしまうのが面白いところです。
 トルーマンは、1945年12月に陸軍参謀長のマーシャルを支那に送り込み、国共内戦回避に当たらせますが、1947年1月まで現地に滞在しつつ、当時の中国共産党がソ連の傀儡であることも、毛という人物についても把握できず、従っていくら腐敗しきっていたとはいえ、中国国民党の方がまだマシであることもついに自覚せず、内戦が始まると共産党軍の方を支援した挙げ句、毛と中国共産党に好意を抱いたまま帰国して国務長官に任命されるのです。(『マオ』PP287〜289)

 とはいえ、これはマーシャル一人の罪ではなく、当時の米国がいかに国際情勢音痴であったかを示すものでしょう。
 こんな米国のために東アジア全体がどれほどの災厄を被ったか、米国人に骨の髄まで分からせる必要があります。

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太田述正コラム#0569(2004.12.20)
<マキアヴェッリとヒットラー(その2)>

 (3)結論への補注
 「これまで外国の侵入に苦しめられてきた・・イタリア・・において・・救世主がどれほどの熱愛・・どれほどの復讐への渇望や断固たる忠誠心、献身、涙をもって迎えられるかは筆舌に尽く難い。・・それゆえ高貴なるあなたの一門は、正義にかなった事業を起こすときの勇気と期待とをもってこの任務を担うべきである。」というくだりが『君主論』の終わり近く(319??320頁)にあり、かつマキアヴェッリがこの本をメディチ家の当主ロレンツォ・デ・メディチ(小ロレンツォ。Lorenzo de Medici。1492??1519年)(注2)に捧げているからといって、マキアヴェッリが『君主論』を欧州統一ではなくイタリア統一を念じて執筆した、と考えるわけにはいきません。

 (注2)偉大だった彼の祖父の大ロレンツォ(il Manifico=The Magnificent。1449??92年)と同姓同名なのでしばしば混同される。

 マキアヴェッリのこの献呈や本文の記述は、あわよくばメディチ家へ再就職したいと考えてゴマスリ目的のためになされただけだったからです(前掲書解説128、131頁)。
 佐々木教授が、マキアヴェッリの他の著作である『ドイツ事情報告』・『ドイツの状況と皇帝についての論考』・『ドイツ論』及び『フランス人について』を踏まえつつ、「マキアヴェッリにとってはイタリア<は>腐敗と堕落の巣窟であり、・・<また>・・フランスではイタリアやスペイン同様、政治的、社会的不平等が極めて大き<いのに対し>・・ドイツ<こそ>自由と素朴さによって・・理想の世界<であった>」(前掲書解説90、92、101、102頁)と指摘していることからも分かるように、マキアヴェッリは欧州全体を視野に入れており、その中で彼が真に希望を託していたのはドイツだったのです。
そして、彼が『君主論』を本当に献呈したかったのは、まだ見ぬ将来のドイツの「君主」に対してであったに違いない、と私は見ているのです。
 
3 理想の「君主」ヒットラー

 (1)「君主」の来臨
  ア 始めに
 『君主論』の執筆が完了したのは1512年末であったと考えられています(前掲書解説168頁)。
 それから、400年以上も経過してから、ようやくマキアヴェッリの申し子たる理想の「君主」がドイツに現れるに至ります。
 アドルフ・ヒットラーその人です。

  イ 意地汚い「君主」
 今月、ヒトラーの意地汚さが明らかになりました。
 ヒトラーは確信的脱税常習犯だったのです。
 彼の脱税は少なくとも1921年には始まっていたと考えられています。
ベストセラーとなった『我が闘争』を出版した1925年から総統に就任する1933年までの約8年間、ヒトラーはこの本の印税だけでも120万ライヒスマルクもの収入がありましたが、自家用車を「公用」と弁明したり、運転手と秘書の経費がかかったと称したり、慈善事業に寄付したと虚偽の報告をするなどして所得税の滞納を続け、その「滞納額」は確定額だけで約40万5,000ライヒスマルク(現在の貨幣価値で約8億4,000万円)に達していました。
ヒトラーは総統就任後、上記滞納額について担当税務署長に「納税免除」の決定を出させ、しかもその事実を口封じし、見返りにその署長を昇進させたというのです。当然と言うべきか、それ以降も、ヒトラーは首相としての給与を年間約4万5,000ライヒスマルクももらっていたのに、一切所得税を払おうとはしませんでした。
利己心を捨てて公のために奉仕するようにドイツ国民に呼びかけながら、鉄面皮にもご本人はそれと正反対のことをやって恬として恥じなかったわけです。
(以上、http://www.tokyo-np.co.jp/00/kok/20041218/eve_____kok_____001.shtml(12月18日アクセス)、http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1376472,00.html(12月18日アクセス)、及びhttp://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20041219ddm007030057000c.html(12月20日アクセス)による。)
この点だけとってもヒトラーは、まさにアレクサンデル/チェーザレ父子と生き写しであり、マキアヴェッリ的「君主」の鑑ではありませんか。

(続く)

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太田述正コラム#0568(2004.12.19)
<マキアヴェッリとヒットラー(その1)>

1 始めに

トマス・アクィナスがプロト欧州文明の大イデオローグであることは既にご説明した(コラム#547以下)ところですが、(このプロト欧州文明が生み出したところの)イデオロギーの文明たる欧州文明が生んだ嫡出的鬼子であるファシズムの思想的淵源は、マキアヴェッリ(Nicolo Machiavelli。1469??1527年)に求められる、と私は考えています。
ファシズムの「旗手」はヒットラー(Adolf Hitler。1889??1945年)ですから、ヒットラーはマキアヴェッリの申し子だ、と私は考えている、ということです。

2 マキアヴェッリの君主論

 (1)結論
 マキアヴェッリはチェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia。1475??1507年。コラム#544)と同世代人ですが、マキアヴェッリの主著『君主論(Prince)』は、いわば最悪の法王であったアレクサンデル6世と冷酷にして凶暴な、その子チェーザレに捧げたオマージュ(佐々木毅「マキアヴェッリと『君主論』」(講談社学術文庫1994年)中の『君主論』209??218頁、247??248頁、263頁、269??270頁)であり、トマス・アクィナス論難の書でもあります。
 すなわち、マキアヴェッリは君主論において、トマス・アクィナスの試み・・異端者を抹殺すること等によってカトリック教会の権威を維持増進することにより、危険に満ちた不安定な世界に生きていた欧州の人々の共通の紐帯を確保し、秩序を確立しようとした(コラム#552)・・の限界を自覚し(注1)、アレクサンデル/チェーザレ的でかつアレクサンデル/チェーザレ以上に「ワル」の君主が欧州に出現し、欧州を統一することによって初めて、欧州の社会から危険と不安定さを取り除くことができる、と考えたのです。

(注1)佐々木東大教授教授は、「あらゆる社会的関係が解体し、人間が相互に常時対立・抗争する世界(欧州(太田))の中でどのような手段によって、またどのような内容の統治が可能であるか、がマキアヴェッリの関心であったのである」(佐々木前掲書中の解説76頁)と指摘している。

 最初にこのことを、『君主論』とこの『君主論』に対する佐々木教授の解説(いずれも前掲書)を引用することによって明らかにしましょう。

 (2)引用
 佐々木教授は、マキアヴェッリはアクィナスとは対照的であって、
 ア 「権力の正当性の弁証がなく、権力は端的に存在するものとして前提されている。」(君主は法的正当性や伝統的正当性など顧慮しないでよろしい。(太田。以下同じ))
 イ 「王と暴君との区別がほとんど完全に消滅している。・・倫理学は政治学と無縁のものとして現われ、・・統治と倫理的価値との一体性はまったく見られない。」(君主はキリスト教的倫理になどに縛られてはならない。うそをついたり、人を拷問したり虐殺したり、またこのようにしてカネを貯め込んだり、何をしてもよろしい。)
 ウ 「政治的共同体はまったく姿を消し、相互になんらの共通項をもたない君主と臣民との関係がすべてとなる。」(臣民もまた君主の手段に過ぎない。)
 エ「<アクィナス>の場合、外敵の防衛の観点から消極的にその存在を肯定された軍事問題が今や君主の最大の義務と規定される。」(君主は臣民兵からなる強大な軍事力を整備し、ひたすら領土の拡大を目指さなければならない。)
と『君主論』で主張していると指摘しています(「」内。前掲書中の解説173頁)。

 イ に関しては、『君主論』中に以下のような記述があります。
 「支配者は自らの臣民の団結と自らに対する忠誠とを維持するためには残酷だという汚名を気にかけるべきではない。」(263頁)、「信義のことなどまったく眼中になく、狡智によって人々の頭脳を欺くことを知っていた君主こそが今日偉業をなしている。闘争手段には二つのものがある・・。一つは・・人間に固有の方法であり・・法によるものであり、他は・・野獣に特有な方法であ<り>・・力によるものである。・・君主は野獣と人間とを巧みに使い分けることを知る必要がある。・・野獣の中でも狐と獅子とを範とすべきである。」(268??269頁)、「大衆は、事柄を外見とその結果とからのみ判断するものだ・・。そしてこの世にはかかる大衆だけが存在し、大衆が支持する場合にのみ少数者は初めて影響力を持つことができるのである。」(271頁)。

 また、エ に関しては、『君主論』中に以下のような記述があります。
 「領土獲得欲というものは、極めて自然で当然のものである。能力のある者が領土を獲得するのは称えられることでこそあれ、非難されるものではない。」(189頁)、「君主は戦争と軍事組織、軍事訓練以外に目的を持ったり、これら以外の事柄に考慮を払ったり、なにか他の事柄を自らの業としてはならない。それというのもこれのみが支配する人間に望ましい業であるからである。この能力は極めて重要であって、それは生まれながらの君主にその地位を保たせるのみならず、多くの場合私人から君主の地位に昇るのを可能にする。」(251頁)、「自己の軍隊・・傭兵隊・・援軍・・のうち傭兵隊と援軍とは有害無益で、危険である。」(238頁)。

(続く)

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太田述正コラム#0566(2004.12.17)
<ブルガリアのシメオン首相(続)>

 (父王の死は、ヒットラーとの会見直後の不審死でした。)
 1944年の共産党系によるクーデターでシメオンの三人の摂政達とブルガリアの多数の知識人が殺害されますが、その後もシメオンは国王にとどまっていました。
 しかし、その2年後に行われた、しくまれた国民投票によって、シメオンは妹や母の王妃とともにブルガリアを追われます。
 一家は、母たる王妃の父親であって(事実上)最後のイタリア国王であるヴィクトル・エマヌエル3世(Victor Emmanuel ??。1869??1947年)(注2)が亡命していたエジプトのアレキサンドリアに身を寄せますが、1951年にスペインのフランコ政権が受け入れを表明したことに伴い、マドリッドに落ち着きます(注3)。

 (注2)イタリア国王(1900??46年)、エチオピア皇帝(1936??43年)、アルバニア国王(1939??43年)。不適切な作為(1922年にムッソリーニを首相に任命したこと・法王はローマにとどまったというのに1943年の連合軍攻撃下にローマから脱出したこと)と不作為(1922年のファシスト武装隊のローマへの進軍をやめさせなかったこと・イタリアでの連合軍の勝利が決定的となった1943年に退位しなかったこと)により、イタリア王制の終焉をもたらした。(http://en.wikipedia.org/wiki/Victor_Emmanuel_III_of_Italy及びhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B(どちらも12月17日アクセス))
 (注3)1952年には、エジプトでナセルら青年将校団による革命が起こり、ファルーク(Farouk)国王が海外追放となるので、いずれにせよ早晩シメオン一家はエジプトから去らねばならなかったろう。

 そしてシメオンはスペインと米国で教育を受けます。
 おかげでシメオンは、ブルガリア(故郷の言葉。彼のブルガリア語は古風だと言われている)のほか、英(米国で教育を受ける。また最有力な親戚が英国の君主)・仏(フランス語は欧州王族・貴族の共通語。また有力な親戚がベルギーの君主)・独(ドイツは本家の地)・伊(イタリアは母親の里)・西(第二の故郷スペインの言葉。スペインは奥さんの出身地でもある)の各国語を自在にあやつり、アラビア語(少年時代エジプトに5年間滞在)とポルトガル語(ポルトガルはかつて有力な親戚が国王だった)もできる人間として人となります。
 成人してからは、彼はスペインと米国で、軍需産業のスペイン支社の会長職のほか様々な仕事に従事します。
 この間、シメオンは故国ブルガリアについて強い関心を抱き続け、世界中のブルガリア移民達と仕事で協力したり彼らを援助したりしてきました。
 結婚は1962年で相手はスペインの貴族の娘でした。
 シメオンは、1996年に故国ブルガリアへの50年後の帰還を許され、国民の大歓迎を受けます。
 1998年にはブルガリアの憲法裁判所が、旧国王家の私有財産をシメオンらに返還する判決を下します。
2001年に彼は政治組織(National Movement Simeon II)をつくり、3ヶ月後の同じ年に行われたブルガリアの総選挙でこの組織がちょうど半数の議席を獲得し、トルコ系政党と連合政権をつくり、シメオンは首相に就任します。
 ブルガリアは、イラク戦争後にイラクに500名の治安維持部隊を派遣し、今年NATO加盟を果たします。そして2007年にはEUに加盟する予定です(注4)。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.government.bg/English/PrimeMinister/Biography/http://www.setimes.com/cocoon/setimes/xhtml/en_GB/infoCountryPage/setimes/resource_centre/bios/saxe-coburg-gotha_simeon?country=bulgariahttp://www.thepathtopeacefoundation.org/saxe-coburg_gotha.htmlによる。)

(注4)現在のEU拡大候補国はブルガリア・ルーマニア・トルコの参加国だが、ブルガリアとルーマニアは2007年の加盟が予定されているのに対し、トルコは正式な加盟交渉が始まったばかりだ(http://europa.eu.int/comm/enlargement/enlargement.htm。12月17日アクセス)。

4 感想

 以上のシメオンの足跡からうかがえるのは、(米国滞在期を除き、)第一に、シメオンがローマ帝国の領域内を生活圏としてきたこと(ブルガリア地方もかつてはローマ領トラキア(Thrace)だった)、第二に、ゲルマン民族のリーダー達の子孫がいまだに欧州で強い影響力を持ち続けていること、であり、とりわけサックス・コーブルグ・ゴータ(注5)家の人々の活躍ぶりです。

 (注5)日本での報道では、シメオン首相の姓をサクスコブルクゴツキとしている(毎日前掲)が、「ゴツキ」というのは「ゴータ」のスラブ語尾形なのだろうか。

 同時に改めて痛感したのは、ブルガリアもそうですが、欧州の一つ一つの国々が背負っている歴史の重さとユニークさです。
 シメオン2世殿下のブルガリア首相としての今後の一層の活躍を祈念させていただきます。

(完)

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太田述正コラム#0565(2004.12.16)
<ブルガリアのシメオン首相>

(台湾の総選挙に関するコラム#562の注1の後に続く段落に大きく手を入れてホームページの時事コラム欄に再掲載してあります。また、前回のコラム#564を誤って#563と記してしまいましたが、これも訂正して再掲載してあります。)

1 始めに

 現在、ブルガリアのシメオン(Simeon Saxe-Coburg Gotha)首相が日本を訪問中です(http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/america/news/20041216k0000m030140000c.html。12月16日アクセス(以下同じ))。
私の友人の福井宏一郎駐ブルガリア大使(注1)がニュースレターでこの首相のことを紹介していたことに触発されて、今回のコラムを執筆しました。

(注1)私とはスタンフォードビジネススクール同期。日本開発銀行、KDDを経て、本年(異例にも民間から)大使に起用される。

シメオン首相は、6歳から9歳までブルガリア国王でしたが、それから55年経った2001年に、彼の率いる政党がブルガリア議会の総議席数240中120議席を獲得し、首相に就任するという数奇な運命の持ち主です。国王だった人が後に同じ国の民主的に選ばれた最高権力者になったというのは、世界史上初めてのことです。(http://www.economist.com/displayStory.cfm?story_id=702586&bypass=1。12月16日アクセス(以下、同じ))

2 ブルガリアの歴史

 駆け足でブルガリアの歴史を振り返るところから始めましょう。
 ブルガリアという国名は、7世紀後半に、フン族とブルガル族(サルマタイ人(コラム#462)とトルコ系の混淆)が混淆したフノ・ブルガル(Hunno-Bulgar)族が北からドナウ河を渡って南下し、現在のブルガリア地方を占拠したことに由来します。
 その後、フノ・ブルガル文化(遊牧民・ペルシャ系言語)はスラブ族の侵入に伴ってスラブ文化に取って代わられて現在に至っています。9世紀後半には国王が正教を採択します。この9世紀後半と13世紀後半にはブルガリアはバルカン半島のほぼ全域を支配したことがあります。1396年にはオスマントルコに征服され、1908年までその支配下に置かれます。
 露土戦争(1877??78年)の結果、オスマントルコ内にブルガリア大公国が生まれます。その二代目の大公になったのがサックス・コーブルグ・ゴータ家(注2)のフェルディナンドであり、彼は1908年にトルコからの独立を果たし、翌年ブルガリア王国が成立します。

 (注2)ドイツのザクセン・チューリンゲン地方にあった公国(サクソン系とフランク系の二つの小公国からなる)の公爵家の家系。1831年にできたベルギー王国の王室、1837年から1910年までのポルトガルの王室、ビクトリア女王と結婚した同家出身のアルバート(コラム#309)の長男のエドワード7世以降の英国王室、そしてブルガリアの王室(上記)はサックス・コーブルグ・ゴータ家。(ただし、英国王室は第一次世界大戦以来、ウィンザー姓に改名。)ちなみに、ドイツの本家は血筋が絶え、1899年からはアルバートの孫のイギリス貴族が本家を継いだ。(http://www.royal.gov.uk/output/Page128.asp及びhttp://www.newadvent.org/cathen/13494a.htm

 ブルガリアは第一次バルカン戦争(1912??13年)で他のバルカン諸国とともにトルコと戦い、領土を拡大しますが、第二次バルカン戦争(1913年)でその拡大された領土を全て失います。
 また、第一次世界大戦ではドイツ側に立って戦いますが、ドイツ側の敗北によってまたもや領土拡大に失敗します。
 更に第二次世界大戦では、枢軸側に立って戦うのですが、1944年にソ連がブルガリアに宣戦布告すると、連合国側に寝返り、その三日後に共産党系の政府がクーデターで樹立されます。
 1947年にはブルガリアは完全なソ連圏の一員となります。1990年に至って自由な総選挙が行われ、1991年にようやく非共産党系の政党が政権を握り、現在に至っています。
 (以上、http://www.infoplease.com/ipa/A0107365.html及びhttp://www.kutriguri.com/history.html(どちらも12月16日アクセス)による。)

3 シメオン首相

 シメオン殿下(以下敬称略)は1937年にブルガリア王国のボリス3世の長男として呱々の声を挙げます。数週間後に挙行された洗礼式には、ヨルダン川の水が空輸されて用いられました。
 1943年には父王の死去に伴い、6歳でシメオン2世として国王に即位します。

(続く)

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太田述正コラム#0377(2004.6.11)
<ロナルド・レーガン(その3)>

 (コラム#375のサプライサイド経済学がらみの記述を訂正してホームページに再掲載してあります。)

 第一にレーガンは、1982年に米海兵隊を平和維持目的でレバノンに派遣しますが、1984年にはシーア派過激派の自爆テロによって海兵隊241名が殺害され、なすところなくレバノンからの撤退に追い込まれてしまいます(http://www.special-warfare.net/data_base/102_military_unit/001_military_us/us_military_forces_03.html。6月10日アクセス)。
 第二に、1982年暮れに米議会が、CIAと国防省の予算をニカラグアのサンディニスタ左翼政権打倒のために使うことを禁じたところ、ホワイトハウス内のポインデクスター(John Poindexter)国家安全保障会議(National Security Council)事務局長はスタッフのノース(Oliver North)中佐らを使って、国連安保理が(そして米国政府自身も)武器禁輸国に指定していた、イラン・イラク戦争(1980??1988年)中のシーア派過激派総本山のイランに武器を輸出し、その収益をニカラグアの親米反乱勢力であるコントラへの支援活動費にあてるという非合法工作を実施しました。この工作が1986年に露見する(イラン・コントラ事件=Iran-Contra affair)と、レーガンはポインデクスター以下のトカゲのシッポ切りを行い、1987年、結局自らは責任追及を免れたのです(http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/3788229.stm及びhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/usa/iracongate.htm(6月10日アクセス))。
 第三にレーガンは、1983年暮れにわざわざラムズフェルト特使(現国防長官)をイラン・イラク戦争(上述)中のイラクに派遣し、米国の敵イランの敵であるフセイン大統領に誼を通じただけでなく、翌1984年にはイラクが化学兵器を使ったことを知ったにもかかわらず、見て見ぬふりをしました(http://slate.msn.com/id/2101829/(6月6日アクセス)及びhttp://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB82/(6月10日アクセス))。
 第四に1986年4月、リビアの最高指導者のカダフィー大佐が、西ドイツ駐留米軍へのテロ攻撃を行ったことを知ったレーガンは、トリポリのカダフィーの居宅を航空攻撃し、カダフィーは九死に一生を得ます。しかし、(恐らくこれに対する報復としてカダフィーの指示の下、)リビア人工作員が1988年にパンナム機をスコットランドの上空で時限爆弾を爆発させて墜落させ、乗員乗客及び住民あわせて270名を殺害します(ロッカビー事件。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%93%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6(6月10日アクセス))。カダフィー攻撃は何の「成果」ももたらさなかったことになります。
 第五に、レーガンのアフガニスタン(アフガン)政策です。
ゴルバチョフは、1985年にソ連の最高権力者となって間もなく、アフガンからのソ連軍の撤退を密かに決意します。レーガン政権が、カーター政権に引き続き、アフガンの反政府勢力にカネに糸目をつけずに武器援助をしていることもゴルバチョフの決意を促した大きな要因の一つです。ゴルバチョフはソ連政権内部並びにアフガニスタンのナジブラ(Najibullah)親ソ政権との根回しを終えた上で、1987年初頭、米国に対し、ソ連軍を撤退させるので、米国も反政府勢力への支援をやめるように打診しますが、レーガンはこの話に乗ってきません。やむなくゴルバチョフはアフガンでソ連軍に大攻勢をかけさせます。この時、パキスタン国境近くのJajiでビン・ラーデンを含むアラブ志願兵のゲリラ50名とソ連兵200名との死闘が繰り広げられ、ビン・ラーデン自身負傷しつつ、ソ連兵を撃退します。その結果ビン・ラーデンは一躍ジハード英雄伝説の主になるのです。結局この攻勢に失敗したソ連は、1987年9月、米国に対し、ソ連軍撤退を通告し、米ソ共同してイスラム原理主義の勢力拡大に対処しようと呼びかけたのですが、レーガンは、これをソ連のアフガン敗戦の言い訳としか受け止めず、聞き流したのです。
そして1989年にソ連軍のアフガン撤退が完了すると、米国はアフガンに関心を失い、アフガンを放置します。1992年にはナジブラ政権が打倒され、更に1996年、タリバンがアフガンの政権を掌握します。ビン・ラーデンのアルカーイダはこのタリバン政権の庇護を受け、急速に勢力を拡大することになるのです。
(以上、http://slate.msn.com/id/2102243/及びhttp://www.afghan-web.com/history/chron/index4.html(6月11日アクセス)による。)

 以上から、レーガンの対中東イスラム過激派対策に全く一貫性がなかったことがお分かり頂けたことと思います。
(以上、特に断っていない限り、http://www.latimes.com/news/specials/obituaries/la-na-policy6jun06,1,5688193.story?coll=la-home-headlines(6月7日アクセス)による。)
レーガンは、現在米国が直面しているアルカーイダ系等のイスラムテロリストの脅威を芽のうちにつみ取ることを怠ったと批判されてもやむをえないでしょう。

<補論:レーガンの台湾政策について>

対ソ戦略の観点から行われた1979年のカーター大統領による中共との国交樹立(=対台湾断交)を受け、1982年に訪中したレーガンは、8月14日、台湾に対する武器の提供を次第に減らすことを約束した米中共同コミュニケに署名します。
翌1983年、レーガンは過ちに気付き、台湾政策を大幅に軌道修正します。
それが彼の行った「六つの保証(six assurances)」宣言です。すなわち、台湾への武器提供の終期は設定しない、台湾関係法を尊重する、台湾の主権に関する米国の立場は変更しない、中共の台湾に対する主権を認めない、台湾への武器の提供に関し中共と協議はしない、台湾と中共との間の仲介は行わない、ことをレーガンは宣言したのです。
その意義は、中共の脅威に晒されていた台湾の安全保障上の懸念を取り去ったことです。
その後、蒋経国が台湾の自由・民主主義化に安んじて着手できたのはそのおかげだと言っていいでしょう。
(以上、http://www.taipeitimes.com/News/edit/archives/2004/06/09/2003174388(6月10日アクセス)による。)

(完)

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太田述正コラム#0376(2004.6.10)
<ロナルド・レーガン(その2)>

5 勧「善」懲「悪」外交

 (1)ソ連
 レーガンは共産主義の総本山のソ連を「悪の帝国(evil empire)」と呼び、ソ連のSS-20に対抗するため、西欧にパーシング??とGLCMを配備してソ連に圧力をかけました(注3)。
 これに加えて、ミサイル防衛(Star Wars)構想をぶちあげ、在来兵力の質量ともの増強にも勤しみました。
 こうして米国に経済力と科学技術力で圧倒的に劣るソ連は追いつめられて行きます。
 その上で、ブッシュは政権後半に至って、今度はソ連に手を差し伸べ、ゴルバチョフソ連大統領との間で、ソ連との信頼醸成と核軍縮に成功するのです。

 (注3)ソ連がSS-20を西欧に打ち込めば、米国はパーシング??等をウラル以西のソ連心臓部に打ち込むことになるが、これは米国が無傷なままソ連が一方的に壊滅的打撃を受けることを意味した。私は当時これを垂直エスカレーション戦略と名付けた(「虚像に満ちた日本の防衛論議」(小学館発行の雑誌(その後廃刊)「コモンセンス」1984年7月号)掲載の拙稿。「21世紀の防衛を考える会」という仮名で執筆)。ソ連が通常兵力で西欧や中東に侵攻してきたら極東で日本を根拠地として通常兵力で反撃する(ソ連のオホーツク海周辺地域の占領と極東所在第二撃戦略核戦力の撃破)という水平エスカレーション戦略(コラム#30)からのアナロジーだ。

 (2)核
 レーガンは前述したように、ミサイル防衛構想をぶちあげ、政権の後半にはソ連に核の全面撤廃を持ちかけます。レーガンは大真面目にミサイル防衛技術をソ連と共有することを考えていました。
 それもこれも、レーガンが、核兵器が「悪」であるとの認識を持っていたためです。

 (3)第三世界
 レーガンは、ソ連を主敵にすえ、反ソ政権や運動はすべて支援し、親ソ政権や運動にはことごとく敵対しました。(これをReagan DoctrineないしThird World Rollbackと呼ぶ。)
 例えば、カンボジアでは、親ソのベトナムの後押しを受けたヘンサムリン政権が放逐した世界の鼻つまみのポルポト政権の国連代表権の維持に努めました。
 (以上、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1233817,00.html(6月9日アクセス)による。)
同様の考え方に基づき、中南米ではキューバの経済封鎖を続け、エルサルバドルとニカラグアの内戦に介入し(注4)、グレナダのような小国にも海兵隊を送り込んだ(注5)ため、いまだにレーガンは中南米では悪評さくさくです(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A19167-2004Jun5.html。6月7日アクセス)。

 (注4)エルサルバドル内戦(1980??1992年)時に政府に40億ドルを支援し、この内戦時に75,000人以上が命を落とした。ニカラグアのサンディニスタ政権下の内戦(1982??1990年)時には反政府のコントラ側に10億ドルを支援し、この内戦時に約50,000人が命を落とした。また、内紛が36年間も続き、200,000人以上が命を落としたグアテマラの政府を支援し続けた。(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A29546-2004Jun9?language=printer、エルサルバドル内戦:http://www.pbs.org/itvs/enemiesofwar/elsalvador2.html、ニカラグア内戦:http://www.atlapedia.com/online/countries/nicaragu.htm(6月11日アクセス))
(注5)1979年にビショップ(Maurice Bishop)率いる共産主義勢力がクーデタを起こしてグラナダの政権を掌握したが、1983年に再びクーデタが起こってBishopが殺されるや、レーガンは、カリブ海の5ミニ国家の「協力」の下、治安の回復とキューバのミサイル撤去を目的として海兵隊1900人を送り込み、グラナダを占領した(http://www.infoplease.com/ipa/A0107592.html。6月11日アクセス)。

 (以上、特に断っていない限り、ガーディアン前掲による。)

 以上を総括するとどういうことになるでしょうか。
 レーガンが大統領に就任したとき、米国は三つの脅威に直面していました。
 それは日本の経済的脅威(注6)、ソ連の軍事的脅威、イスラム過激派の治安上の脅威の三つです。

 (注6)早くも日本人は、かつての高度成長日本が米国にとってソ連に勝るとも劣らない脅威であったことを忘れかけている。1974年に米国のスタンフォード大学に留学した時のことだ。ビジネススクールでの経済学の最初の授業の冒頭、教師が「石油危機が勃発したことにより、日本経済もこれで一巻の終わりだろう。ざまを見ろ」と語ったことを今でも昨日のことのように鮮明に覚えている。

 最初の二つの脅威については、たまたまレーガンが大統領職から退いた直後に、片や日本はバブルがはじけてその経済が「沈没」てしまい、片やソ連は崩壊してしまい、どちらについても後世の米国の史家から、それがレーガンの功績として讃えられる可能性があります。
 ソ連の崩壊については、ソ連の経済システムが疲弊してきていたこと、そこに更にCIAが大打撃を与えたこと(コラム#261)、ゴルバチョフという相手に恵まれたこと等を考慮したとしても、なおレーガン自身の功績を認めざるを得ません。
 日本経済の「沈没」への米国の「関与」については、別の機会に論じたいと思います。
 しかし、最後のイスラム過激派の脅威への対処については、レーガンに不合格点がつくことが既にはっきりしています。

(続く)

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太田述正コラム#0375(2004.6.9)
<ロナルド・レーガン(その1)>

 レーガン(Ronald Wilson Reagan)元米大統領が6月5日、93歳で逝去しました。
 そこで、彼の大統領時代(1981??1989年)の業績等を振り返ってみましょう。
1 労働組合つぶし
レーガン政権発足直後に勃発した航空管制官組合によるストを、同政権は軍隊の航空管制官まで投入して乗り切るとともに、スト参加者13,000名中11,000名を解雇するという豪腕ぶりを見せつけました。(http://www.guardian.co.uk/usa/story/0,12271,1232979,00.html(6月7日アクセス)及びhttp://eightiesclub.tripod.com/id296.htm(6月9日アクセス))。
爾後、それまで頻発していた(航空管制官のような)争議権が認められていない連邦公務員によるストは姿を消します。

2 大軍拡
 これはレーガン政権(共和党)の前の政権であるカーター政権(民主党)がソ連とのデタントに見切りをつけて着手した第二次米ソ冷戦軍拡政策(コラム#30、68)を踏襲しただけのことだと言ってもいいかもしれません。(この結果得られた「成果」については、後述。)

3 小さい政府
 これもカーター政権が始めた規制緩和政策の継承発展、と言う側面があります。
しかし、この「政策」は結局羊頭狗肉に終わり、連邦支出の対GDP比こそ21.2%へと1%低下したものの、実質ベースで連邦政府の支出は四分の一増加し、連邦非軍人公務員数は280万人から300万人に増加しています。
ちなみに、レーガン時代に連邦行政機関が一つだけ廃止されています。それは航空局(Federal Aviation Board)ですが、これも、カーター政権下で実施された航空産業の規制緩和によって、存在根拠がなくなっていた機関を廃止したというだけのことです。
(以上、特に断っていない限り、http://slate.msn.com/id/2101829/(6月6日アクセス)及びhttp://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A19171-2004Jun5?language=printer(6月7日アクセス)による。)

4 大減税
 大減税を断行すれば、高所得者の貯蓄、投資が増大して経済成長が加速し、やがて税金の増収が期待できるという、サプライサイド経済学者達(supply-side economists)の「学説」を踏まえて、レーガン政権は三年間に税率を25%下げるという大減税を実施しました。後にレーガノミックス(Reaganomics)と名付けられた政策です。この政策について、レーガンと大統領選予備選を戦っていた頃、ブッシュ候補(George H.W. Bush。後にレーガン政権の副大統領となり、またレーガンの跡を襲って大統領となった)「ブードゥー経済学(Voodoo economics)」(注1)と嘲笑したものです。

 (注1)Voodooとは、正式にはVodunという、アフリカ由来の精霊信仰の宗教の名称。現在6000万人以上の信徒がいると言われ、アフリカのベニン(Vodunが国教)、トーゴ、ガーナ、中米のドミニカ、ハイチにおいて盛ん。米国でVoodooと言うと、この宗教の名前を借用してハリウッド映画が創作した、まがまがしい邪教を指す。(http://www.religioustolerance.org/voodoo.htm。6月9日アクセス)
ブッシュは、こちらの方のVoodooを念頭に置いてかかる発言を行った。

 その結果はどうだったか。
レーガン時代の80年代に経済は全く加速しなかった一方で、とんでもないことが起きてしまいます。
 インフレ防止を目的とした米連邦準備制度理事会の金融引き締め政策(高金利政策)とあいまって、米国政府の国債発行額とその利払い額は鰻登りに増大し、財政赤字は740億ドルから1550億ドルへと増大し(注2)で、米国は、世界一の債権国から世界一の債務国へと転落してしまうのです。
 (以上、http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A19171-2004Jun5?language=printer(6月7日アクセス)及びスレート前掲による。また、サプライサイド経済学関係は、http://66.102.7.104/search?q=cache:1mLmVlejAoAJ:mirrors.korpios.org/resurgent/23More.htm+supply-side+economics%3B+Reagan&hl=ja(6月10日アクセス)も参照した。)

 (注2)1980年から1986年にかけて、連邦政府の国防費を除く支出は対GDP比で29%減った一方、国防費は27%増え(2参照)、税収は17%も落ち込み、国債の利払い費は61%も上昇した。その結果、財政赤字の対GDP比は5%へと、86%も上昇した。

(続く)

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太田述正コラム#0212(2003.12.21)
<ニール・ファーガソン(特別篇)>

 前回のコラム(#211)に対し、一読者がご自分のホームページでコメント(http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu61.htm)を掲げておられます。(全文を私のホームページの掲示板(#317)で再録してあります。)
 このコメントを私なりに(やや強引に)整理させていただくと、次のようになります。

1 明治期、英国はロシアに対抗するため、日本を近代化させてその軍事力を強化させ、その総仕上げとして日本と日英同盟を締結した。この間、日本は英国の黙認の下に台湾、朝鮮半島に進出し、同盟締結後は日露戦争の結果サハリン南部を獲得することができた。
2 英国の犯した致命的過ちは岡崎久彦氏指摘のように、米国の画策に基づく日英同盟の解消だ。この英国の過ちの結果日本は孤立してしまった。
3 しかも、ここに日本の犯した致命的過ちが加わる。軍部が中国、更にはインドシナに進出したことだ。これが米英の許容限度を超え、日本と英米が戦うことになってしまった。
4 その結果、米国は名実ともに覇権国となり、日本と英国は植民地を失い没落することになった。
5 しかし、テロが脅威となった頃から、今度は米国がテロや中国、ロシア等に対抗するために日本の軍事的協力を求めるようになった。
6 そのためには軍事力の行使を禁じる憲法上の制約から日本を解放する必要がある。日本をイラク「戦争」に引きずり込もうとしているのはその表れだ。米国が北朝鮮をあえて崩壊させず、日本を有事法制の整備やミサイル防衛システムの導入に追い込んでいるのは、この文脈で理解する必要がある。
7 中国の武力による台湾併合を認めないとしつつも台湾の「独立」は認めないと強調している米国のスタンスもまた、台湾の「独立」と「独立」後の防衛を日本にも担って欲しいとのシグナルであると考えられる。

 以下、これに対する私のコメントを付します。

 最初に個別に見ていきましょう。
1について:異存はありません。
2について:ファーガソンの指摘する、英国の第一次世界大戦参戦致命的過ち説の方が、巨視的に歴史を見ている、という点でより魅力的です。
3について:当時の日本政府内部、とりわけ軍部内部の統制がとれていなかったことは極めて問題ですが、全般的には、軍部は政府の意向、更には民意を受けてこれらの行動をとったのであって、軍部だけに責任を負わせるべきではないと思います。当時の東アジアにとっての最大の悲劇は、米国が支那のファシズムや共産主義に日本と手を携えて対処しようとしなかったどころか、ファシズムや共産主義を支援するという致命的な過ちを犯したことです。過ちであった証拠に、戦後米国は戦前の日本の東アジア政策を全面的に、(ただしはるかに不利な地政学的状況の下で、)踏襲する羽目に陥りました。朝鮮戦争やベトナム戦争を米国が戦わなければならなくなったのはそのためです。
4について:異存はありません・
5について:同感です。なお、米国が日本の軍事的協力を求めるようになったのは、カーター政権の末期の1979年(ただし、ソ連のアフガニスタン侵攻前)からです(コラム#30)。
6について:米国が自衛隊のイラク派遣を求めているのは、これが米国によるイラクの戦後統治の正当性を強化するからですが、この読者が指摘されるような側面もあるでしょう。
北朝鮮は米国に見切られており、米国は火中の栗を現段階で拾おうとしていないだけだと私は見ています(コラム#170、171)。ただ、米国が北朝鮮の「脅威」を梃子に日本に憲法上の制約の解消につながる可能性のある諸要求を行ってきていることは事実です。
7について:いささか深読みしすぎではないでしょうか。ブッシュ大統領が陳水扁批判を行ったのは、単なる中共へのリップサービスだと考えていいでしょう。

 いずれにせよ、私が提示した日本の戦前史の見方と基本的に同じお考えの読者がおられることは心強い限りです。

 (このところやたら忙しく、腰をすえたコラム執筆がしばらくできませんが、ご容赦願います。)

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太田述正コラム#0211(2003.12.19)
<ニール・ファーガソン(その5)>

 (コラム#210の「てにをは」を直してホームページ(http://www.ohtan.net)の時事コラム欄に再掲載してあります。)

4 「良い宗主国・悪い宗主国」について
 
 植民地統治については宗主国間において相対的な評価がなされるべきである、とのファーガソンのスタンスに私は賛成であり、英国が欧州列強に比べて相対的にマシな宗主国だったという彼の指摘はその通りです(コラム#149)。
 しかし、ファーガソンは、独立後、英国の旧植民地の経済等のパーフォーマンスが格段に滴下したと言っているところ、「かつて植民地であった国の経済的パーフォーマンスは、旧宗主国別に、日本>ロシア>米国>オランダ>英国>フランス、の順序である」(コラム#197)ところから見て、独立前といえども、英国の植民地の経済的パーフォーマンスは自慢できるほどの高さではなかったのではないでしょうか。
 私は以前、宗主国が植民地の原住民の自立心と自尊心を確立ないし強化したかどうかが旧植民地の独立後の経済発展を左右するのではないか、という問題提起をしました(コラム#201)。
自立心と自尊心の確立強化や経済の発展のための必要条件が基礎教育の普及です。(もとよりこれは必要条件であって十分条件ではありません。基礎教育の普及に力を入れつつ、それがむしろフィリピン人の自立心と自尊心の確立強化や経済の発展を妨げた、米国によるフィリピン統治のケース(コラム#201)を思い出してください。)
日本の植民地統治と比べて英国の植民地統治が格段に見劣りするのが、この基礎教育の分野です。ノーベル経済学賞を受賞したインド人、アマルティア・センは、「インドでは、基礎教育・・は、つねに無視されつづけてき<た>。その結果として、インドの成人人口の約半分は、今なお識字能力を欠いている・・。」(セン前掲34頁)と言っていますが、これは独立後の歴代インド政府の責任である以上にインドを150年にわたって統治した旧宗主国英国の責任でしょう。
結局のところ、露骨な収奪を行った欧州列強の植民地統治に比べれば、英国の植民地統治は、植民地への投資から長期にわたってできるだけ多くの収益を確実に回収する、という資本主義的経済計算に立脚して行われた、という点でより合理的であっただけのことであり、原住民側から見れば、もっぱら搾取が行われただけであったという点では、欧州列強と英国の植民地統治との間に基本的な違いはなかった、と総括していいでしょう。
 私はファーガソンが、欧州列強や英国のそれと一味もふた味も違う日本の植民地統治を視野に入れなかったために、彼の指摘が甚だバランスを欠いたものになったことを惜しみむものです。

 なお、ファーガソンは、インドのナショナリズムが英国製だとしており、その点は否定できないものがある(マハトマ・ガンジーを論じたコラム#176参照)のですが、インドを含めた英国や欧州列強の植民地原住民を独立に向けて覚醒させる決定的な契機となったのは、1896年にアビシニア(エチオピア)のメネリク二世がアドワの戦いでイタリア侵攻軍を撃破して独立を維持したことや、1904-1905年の日露戦争で日本がロシアに勝利したこと(大川周明「復興亜細亜の諸問題」中公文庫1993年(原著再刊は1939年)82頁、及びhttp://www1.ttcn.ne.jp/~africanhistory/abyssinia.htm)であったというべきでしょう。

 また、ここでもファーガソンは日本をナチスドイツと同一視しており、既にこのことに対する批判は十分行いましたが、若干付言しておきます。
 彼がナチスドイツのホロコーストと日本の南京事件を同列に並べているのは全くいただけません。(なぜかは説明するまでもありますまい。)
 このような、「戦前の日本嫌い」のファーガソンの指摘に接して改めてひしひしと感じるのは、ホンネのところでイギリス人が抱いているであろう日本への憎しみです。英帝国の崩壊は避けられなかったとしても、第二次世界大戦直後に早くも崩壊しまったことについては、ファーガソン自身が認めているように、英国の戦略的意思決定の誤りによる自業自得であるわけですが、一般のイギリス人にはそれがいかにも日本のせいのように見えるであろうからです。(私がエジプト滞在当時の1958年に、小学校の夏休みに母親と一緒に欧州と英国を旅行したのですが、ロンドンで我々母子を日本人と知った通りすがりのイギリス人から悪罵を投げかけられたことを思い出します。)

5 「現代世界」について
 私はここでのファーガソンの指摘には特段異存はありません。
 あえて付け加えるとしたら次の二点です。
私が当面望んでいることは、世界及び米国自身のために米国がよりmultilateralに行動してくれることです。日本は英国と手を携えて米国をmultilateralismへと促すべきでしょう。
中長期的には、ファーガソンも指摘するように、米国単独での覇権の維持は困難だという問題があります。私は日本のイニシアティブの下、米国とアングロサクソン諸国と日本が積極的に提携して自由・民主主義と法の支配を旗印とする覇権連合を形成することによって、世界が「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)に向かって引き続き前進を続けることを心から願っています。

(完)

<読者>
昨日の続きのような歴史の話になりますが、戦略的判断ミスは日本に限らず、アメリカやイギリスもおかしている。これは後世になっての反省から出てくるのですが、外交戦略において最善の策がとれないのはやむをえないだろう。必ずしも相手が合理的、理性的判断をしてくれるとは限らないから、正しい判断をとったとしても最善の策ではなかった結果を招くこともある。
 岡崎久彦氏が指摘しているように日英同盟の解消は日本とイギリスにとって悔やまれるところです。これはアメリカの戦略である、日本とヨーロッパを組ませてはならないとする戦略から、アメリカの横槍で日英同盟は解消された。もし日英同盟が継続されていたならば、イギリスはシンガポールと香港の要塞は失わずに済んだだろう。日本も外交的に孤立することはなく日独伊の三国同盟はなかったはずだ。
 明治初頭の東アジアは、ロシアの南下政策にイギリス一国では対抗できず、日本を近代化してロシアに当たらせる戦略がイギリスにあった。その結果が朝鮮半島の併合と満州国の建設となり、台湾も中国から日本へ割譲された。しかしながら昭和の軍人達はこの戦略が理解できず、中国からインドシナへ勢力を広げてしまった。アメリカは中国の市場を狙っていたが日本に独り占めされ、日本と開戦になった。
 結果的にはアメリカの一人勝ちであり、イギリスは多くの植民地を失い、日本は朝鮮と台湾を失った。この結果で日英の軍事的後退はアメリカ一国が世界の制海権を握ることになった。しかしイラク問題に見るようにアメリカの軍事的弱点もあらわになり、経済的破綻がアメリカ一国主義の破綻に繋がるだろう。アメリカが再び大戦前の孤立主義に引篭もった場合、その軍事的空白をどこが埋めるのだろうか。日本とイギリスしかありえない。
とくに太平洋においてアメリカが引いた場合、中国とロシアが西太平洋に制海権を確立するだろう。果たしてそれはアメリカにとって容認できることであろうか。アメリカ本土の沖合いを中国やロシアの潜水艦が出没することは望まないはずだ。明治初頭のイギリスのように日本を盾にして中国とロシアに当たらせるはずだ。そのためにアメリカは日本をイラク戦争に強引に引きずり込もうとしている。
 昨日のニュースで日本もMD計画が本格的に開発されることが決まった。これもアメリカの戦略の一環であり、日本の金で技術開発が進められるのだろう。それまで北朝鮮の金正日はがんばって日本を脅迫し続けてもらわねばならない。だから北朝鮮を崩壊に追い込むのはいつでも出来るが、そうしないのはアメリカの計算だ。
もう一つアメリカは中国に対して台湾という人参を目の前にぶる下げている。台湾の独立は認めないとしながらも、中国の武力による併合は認めないというのはどういう思惑なのだろう。中国がこのまま軍事力が強化され近代化したばあい、アメリカ一国の支援では守りきれないだろう。この場合も日本が盾となる役割を負わせるのだろう。日清戦争前の状況に東アジアは似てきている。

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太田述正コラム#0210(2003.12.18)
<ニール・ファーガソン(その4)>

 (コラム#208と#209をそれぞれ一部手直ししてホームページ(http://www.ohtan.net)の時事コラム欄に再掲載してあります。)

<コメント>

 結論を先に申し上げておきますが、私は以上ご紹介してきたファーガソンの見解におおむね同意です。
「おおむね」というのは、戦前の日本をナチスドイツと同一視している、等の問題があるからです。
それでは具体的にご説明しましょう。

 ファーガソンは、グラスゴーのカルヴィン派の家庭に生まれ、グラスゴーで育ったスコットランド人です(ロバートフルフォード前掲及びhttp://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2003/02/04/bvnial04.xml(12月13日アクセス))。
 私は、スコットランド人史家ファーガソンの持ち味は、イギリス人を熟知しつつ、しかし「外国人」としての客観的な目でイギリス人のホンネを抉り出し、そのホンネに従って世界の近現代史を再構築したところにある、と思っています。

1 「経済と歴史」について
 ここでのファーガソンの見解は、マックス・ヴェーバーの見解(コラム#16)と同じであり、私としても異存はありません。
 ただ一点補足しておきましょう。「民主主義形態の政府や比較的自由なメディアが存在する国々では大飢饉と呼べる事態など一度も起こったことがない・・イギリス支配下にあったインドにおいて<は>独立直前まで飢饉が絶えることがなかった・・1943年にベンガル大飢饉が起こ<ったが、>それによって餓死した人々は、200万人を超すといわれてい<る>。・・中国<で>は・・1958年から61年の大躍進政策の失敗につづく飢饉では3,000万人が餓死してい<る>。それとは対照的に、インドは独立以来飢饉を一度も経験してい<ない>。」(アマルティア・セン「貧困の克服―アジア発展の鍵は何か」集英社新書2002年38、50、114、153頁)

2 「戦争と歴史」について
 戦争が行財政制度や金融制度を作り出したというファーガソンの指摘は、私自身がかねてより(例えばコラム#128)行ってきたところであり、その通りです。(ファーガソンの本も読んだ上で、コラム#128でも書いたように、いずれきちんと論じたいと考えています。)
 補足ですが、戦争が経済を質的に量的にも発展させる(拙著「防衛庁再生宣言」第7章)ことも忘れてはならないでしょう。
 しかし、民主主義と戦争の箇所については大いに不満があります。
私がかつて指摘した(拙著第5章)ように、民主主義もまた戦争が生み、育てたのであって、民主主義国は必ずしも戦争を忌避するとは限らないからです。
 とりわけ問題なのは、ファーガソンが戦前の日本をナチスドイツ同様の非民主主義国家と見ている点です。
 何度も申し上げてきたように、1925年の普通選挙法成立をもって民主主義が確立した日本では、1933年の授権法によってヒットラーが全権を握ったナチスドイツ(http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/gendai/47-nazis1.html)とは異なり、先の大戦中も民主主義が機能し続けた(拙著第5章及びコラム#47、#48)のであって、ファーガソンの認識は誤りです。
日本にとって先の大戦は、民主国家たる日本がファシストたる中国国民党、共産主義を奉じる中国共産党、更にこの両者と好を通じる共産主義国家ソ連と熱戦、冷戦を戦っていたところに、(米国を対ナチスドイツ戦に引き込みたかった英国の意向を受けて)米国が日本に無理難題をふっかけ、日本を対米開戦(=三国同盟に基づくナチスドイツの対米開戦)に追いこんだために始まったものなのです。

3 「Imperial Understretch」について
 (私も意見を同じくするところの)覇権国有用論に立脚したここでのファーガソンの指摘には、極めて興味深いものがあります。
 とりわけ、英国の第一次世界大戦参戦(対独開戦)は誤りだったとする指摘は重大です。
 この誤った戦略的意思決定が災いして英国が世界の覇権国の座から滑り落ちてしまい、他方で米国にはまだ世界の覇権国の地位を引き継ぐ意思がなかったため、東アジアには完全な力の空白が生じ、力不足の日本が東アジアにおける地域覇権国としてこの空白を埋めざるを得なくなってしまったからです。
その「地域覇権国」日本の「覇権」の行使を執拗に妨害したのが米国でした。
米国は日米提携を追求するどころか、まず英国に日英同盟を解消させ、その結果、日本は孤立無援の状況で、上述したように、ソ連、及びこのソ連を後ろ盾にし、かつナショナリズムの名を借りた 支那のファシズムと共産主義と対決させられる羽目になります。そしてその後も、米国は積極的に中国国民党及び中国共産党への支援を行っていき、万策尽きた日本は最終的にファシスト国家ナチスドイツとの同盟を選択してしまうのです。米国のこの愚行の総仕上げが「太平洋戦争」だった、ということになります。(拙著第9章参照)
ところで、米国がこのような「愚行の総仕上げ」をしたのは、英国の要請によるものであり、英国がかかる要請をする必要に迫られたのは、ナチスドイツを早期(もちろん三国同盟などができる前)に叩かなかったという、ファーガソン指摘の英国のもう一つの誤った戦略的意思決定のせいでしたね。
つまり、没落しつつあった老練な英国の上手の手から二度も水がこぼれたことと、図体だけはデカイけれど子供並みの頭しかなかった米国がよってたかって日本と東アジアを悲劇に追い込んだ、ということになります。

(続く)

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太田述正コラム#0209(2003.12.17)
<ニール・ファーガソン(その3)>

5 現代世界

 世界の現時点における最大の問題は、英帝国に叛旗を翻したという独立の経緯からしても帝国主義を毛嫌いするため、米国が覇権国であるにもかかわらず、自らが帝国であるという自覚を欠いていることだ(注4)。すなわち、帝国的な直接的支配ではなく、受動的な、経済的文化的浸透による間接的、非公式的支配、ないし制度やルールによる支配を好むことだ。このため、世界は必要以上に不安定化している(注5)。
この米国にショックを与え、積極的な世界「支配」に乗り出させたのが2001年の9.11同時多発テロだ。
(以上、特に断っていない限り、http://216.239.53.104/search?q=cache:bOtqcncqk4wJ:www.bbc.co.uk/bbcfour/talkshow/features/transcripts/empire.pdf+Niall+Ferguson&hl=ja&ie=UTF-8による。)

 (注4)世界の四分の三の国に750もの軍事基地を置いている国が帝国でないと言えようか。1898年にフィリピンを併合して以来、米国は帝国的なパワーとして行動してきた。(ガーディアン前掲)
 (注5)かつての英国にも、米国ほどではないが同じような傾向があった。確かに英国の植民地は米国の属領とは比べ物にならないほど広かった。しかし原住民の多数いた地域においては、その統治の実態は原住民有力者を通じた間接統治が大部分だった(フォーリンアフェアーズ前掲)。

 しかし、例えばイラクを本当に自由・民主的かつ資本主義的な社会にしたいのであれば、第二次大戦後ドイツと日本に対して行ったように、長期間にわたって占領して体制変革に取り組まなければいけないのだが、米国にそこまでの心構えができているとは思えない。
 いずれにせよ、戦略資源である石油を押さえるという観点から、イラクやサウディは、第二次世界大戦後の日本と西独のように、事実上米国の保護国となることだろう。
 一体米国に代わって世界に覇権をふるう者は出てくるのだろうか。
国連の総予算は、米国の連邦政府の1%程度に過ぎない。国連が世界を取り仕切るようにはなりそうもない。
EUもだめだろう。オーストリアや北欧でのかつての同様の試みがうまくいかなかったように、共通通貨制(ユーロ)一つとってもうまくいくわけがない。EUは余りにも経済的に雑多な国々によって構成されているからだ(ロバートフルフォード前掲)。
 中国はどうか。
独裁国中国が今後とも長期にわたって年5%以上の経済成長を続けるであろう可能性は低い。第一次世界大戦前の欧州で最も経済成長率の高かったのは独裁国ロシアだったが、経済成長が引き起こしたロシア内での階層分化が1917年のロシアの崩壊の主要な要因となったっことが思い起こされる。
だからといって、米国の覇権が見通しうる将来にかけて安泰かと言えば、それは疑問だ。
覇権を確立し、維持するためには、その国が世界の他の国々から信頼感を寄せられ、正統性を付与されるとともに、その国が志気(morale)を確立、維持することが最も重要だが、軍事力、経済力、人口、資源、情報、ガバナンス等物質的なものもやはり重要であるところ、軍事技術や情報はどんどん拡散しており、米国より経済成長率が高い国は多く、しかも米国はもはや資源大国とも言えないからだ。
(以上、特に断ってない限り、http://www-hoover.stanford.edu/publications/digest/032/ferguson.htmlによる。)
しかし、米国の覇権が続く限り、かつての英国に成り代わり、その英帝国時代の長所を真似し、短所を改めつつ、自由・民主主義を世界に普及するための軍事的介入を厭わない帝国として、米国に活躍して欲しいものだ(ガーディアン前掲)。

[参考:ファーガソンの主要著書]
Paper and Iron: Hamburg Business and German Politics in the Era of Inflation, 1897-1927(博士論文をベースにしたもの)
The World's Banker: The History of the House of Rothschild(ロスチャイルド家を通してみた欧州金融史)
The Pity of War(英国の観点からの第一次大戦論)
The Cash Nexus: Money and Power in the Modern World 1700-2000(経済と歴史)
(編著)Virtual History: Alternatives and Counterfactuals (1997)
Empire: The Rise and Demise of the British World Order and the Lessons for Global Power (英帝国史)
Colossus: The Price of America's Empire(米「帝国」論)
Twilight of the Crowns(サックス・コーブルグ(Saxe-Coburg)家を中心とするナポレオンから第一次世界大戦までの欧州王室史。欧州ガバナンス史と言ってもよい)

 (続く。次回は、このファーガソンの見解に対する私のコメントです。読者の皆さんのコメントもぜひお寄せください。)

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太田述正コラム#0208(2003.12.16)
<ニール・ファーガソン(その2)>

3 Imperial Understretch

(自由、民主主義及び法の支配を信奉する)覇権国たるかつての英国を没落させ、(やはり自由、民主主義及び法の支配を信奉する)現在の米国を没落させる恐れのあるものは、ポール・ケネディのいうimperial overstretch というよりは、imperial understretch だ。
 しかも、この両覇権国のoverstretchよりunderstretchの方が世界にはるかに迷惑をかけた。第一次世界大戦は英国がunderstretchしていたため、ドイツの欧州制覇の野望を抑止することができずに起こったし、第二次世界大戦は米国がunderstretchしていたために起こった。(キンドルバーガーはかつて、英国が覇権国ではなくなったにもかかわらず、米国は保護主義的孤立主義的姿勢を堅持して英国の衣鉢を継がず、ために世界は不安定化し、第二次世界大戦に至ったと指摘した。)
 英国没落のプロセスを振り返ってみよう。
Understretchしていた(注1)ため、英国がドイツの抑止に失敗した以上、英国は第一次世界大戦に参戦しドイツと戦うべきではなかった。天文学的なカネと人命を費やし、そのために覇権国の座を失った英国が、見返りとして得たものと言えば、ドイツを中心とする欧州統合を20世紀末まで遅らせただけだった。覇権を失った英帝国が崩壊するのは第二次世界大戦によってだが、これはドイツを(、その時点ではunderstretchしていた米国の参戦は到底ありなかったとはいえ、)フランスの協力さえ得られれば、叩くことができた揺籃期のナチスドイツを叩かなかった英帝国の自業自得だ。
(以上、http://www.robertfulford.com/NiallFerguson1??3.htmlによる。) 

(注1)ポール・ケネディは、第一次世界大戦前の英国はoverstretchしていたとするが、この指摘は、彼自身の別のところでの指摘・・英帝国の帝国的負担の軽さ・・と矛盾している。英国のoverstretchは、第一次世界大戦の結果として生じた(http://www.foreignaffairs.org/20030901fareviewessay82512/niall-ferguson/hegemony-or-empire.html)。

4 良い宗主国・悪い宗主国

 現在の世銀やIMFの発展途上国向け処方箋である、自由貿易、開放経済、自由な資本流通、国際投資の受け入れ、法の支配、均衡予算、貨幣の健全性、清廉な行政、は英帝国がビクトリア期において、その世界の四分の一に及ぶ領域にもたらしたものと同じだ。
 当時、英本国側から見れば、英植民地にカネを貸せば焦げ付く心配がなかったし、英植民地側から見れば、英本国の世界一大きい金融市場から低い利子でカネを調達することができた。そのカネで植民地ではインフラ整備が進んだ。
欧州列強は自分の文化と宗教を植民地に押し付ける一方で、あたかも海賊のように植民地の収奪に勤しんだ(http://books.guardian.co.uk/digestedread/story/0,6550,881030,00.html)。そして植民地のカネを本国に吸い上げるばかりで、植民地でのインフラ整備は(特にアフリカでは)殆ど行わなかった。
 18世紀末に、一番最初に奴隷制を廃止した植民地宗主国も英国だ。しかも英国は、奴隷制廃止を決めるや、シエラレオネ沖に海軍艦艇を派遣し、熱心に大西洋を行きかう奴隷貿易船の摘発に取り組んだ(http://archive.salon.com/books/feature/2003/04/17/ferguson/index1??2.html)。
確かに18世紀においては英国も欧州諸国のように植民地を収奪したが、これを補って余りあるだけ19世紀及び20世紀における英国の植民地への貢献は大きい(注2)。独立後、英国の旧植民諸国の経済等のパーフォーマンスが格段に低下したところからも英国による統治の卓越振りが分かる。

(注2)ただし、欧州諸国同様、英国も19世紀や20世紀に何度も原住民の虐殺を行っている。例えば1898年には、スーダンでゴードン将軍が殺されたことへの復讐として、沙漠の部族民1万名が射殺されている(アーカイブ・サロン前掲)。

 すなわち、欧州列強と比べて、はるかにマシな植民地統治を行ったのが英国だ。
 また、英帝国をその他の帝国と比べても同じことが言える。インドはムガール帝国の下にあった時期よりも、英帝国の下にあった時期の方が良い統治を受けた。
このインド亜大陸を例にとろう。
1850年以降の英帝国のインド亜大陸統治は実にリベラルなものだった。英語という共通語を与えたことはさておき、自由企業経済の確立、婦人の保護、嬰児殺しの禁止、そして最終的には代議制民主主義の導入がその成果だ(http://www.guardian.co.uk/uk_news/story/0,3604,968406,00.html)。
インドのナショナリズムだって英国製だ。そもそも、(インド)国民会議(派)はイギリス人が創設した。この国民会議に、イギリス化したインド人達が自らのアイデンティティーを見出して結集したわけだ(注3)。

(注3)英国も最初は自分の文化をインド亜大陸に押し付けようとしたが、1857年のセポイの反乱以後、それを改め、爾後この数億人の人口を持つインド亜大陸を、わずか千名の英国人行政官と八万名の英軍人で統治した。1883年にインド人の裁判官に白人の被告を裁くことを認めたことは、英国のインド亜大陸統治の何たるかを象徴している(アーカイブ・サロン前掲)。

 英帝国が崩壊したのは、チャーチルが20世紀における最も熱烈なる帝国主義者であったにもかかわらず、世界史上例を見ないの悪の帝国であった(ホロコーストの)ドイツと(南京大虐殺の)日本を叩き潰して世界を救うことが、英帝国を維持することよりも大事だと考えて、(ナチスドイツには英国と戦う意思がなかったにもかかわらず)まず1940年にドイツに、次いで日本に戦いを挑んだからだ(以上の()内はアーカイブ・サロン前掲)。(チャーチルにとって無念だったのは、戦間期において米国にいまだ覇権国としての自覚がなかっただけでなく、覇権を失った英国のリーダー達も覇気を失っており、米英が連携してドイツと日本にもっと早い時点で軍事介入して体制変革することができなかったことことだろう(ロバート・フルフォード前掲)。)

(続く)

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太田述正コラム#0207(2003.12.15)
<ニール・ファーガソン(その1)>

 今回は、日本で著書がまだ全く翻訳されておらず、殆ど紹介もされていませんが、英米では大変な評判になっているスコットランド出身の新進気鋭の歴史学者ニール・ファーガソン(Niall Ferguson。39歳。ニューヨーク大学ビジネススクール教授兼オックスフォード大学客員教授)を採り上げることにしました。
  
<ファーガソンの見解>

 以下は、ファーガソンの本の批評、ファーガソンの対談、ファーガソンによる小論考を参照して、さわりを私なりにまとめたものであり、ファーガソンの何冊もの本に直接あたってはいないことをお断りしておきます。(典拠はすべて12月13日にアクセスしたもの。)

1 経済と歴史

 民主国家においては、経済が有権者にとっての最大の関心事だというのは事実に反する。(1932年以来の英国での政権交代50件中、経済が原因だったのは4件にとどまる。一番最近の保守党から労働党への政権交代は、経済が空前の好況を呈していた1997年に起こった。)
 繁栄が自由や民主主義をもたらし、自由や民主主義が繁栄をもたらす、というのも事実に反する。そもそも、マルクス主義等の、経済が歴史を動かしていく、という経済決定論は誤りだ。人間は社会的動物であり、人間にとってより重要なのは理念や文化だ。(20世紀のドイツはその三分の一の期間民主主義ではなかったが、経済は一貫して高度成長を遂げた。不況が独裁制をもたらすものだとすれば、チェコスロバキアでは1935年に、フランスでは1936年にファシスト政権が樹立されていたはずだがそうはならなかった。ソ連は経済が破綻したために崩壊したわけではない上、その経済破綻の中から「民主主義」が芽生えた。中国は経済的に躍進を続けているが、民主主義は初歩的水準にとどまっている。シンガポールも同様だ。ユーゴは共産主義圏きっての経済の優等生だったが、共産主義の権威が失墜した後、混沌と暴力が荒れ狂い、無残な姿を晒している。1970??80年代には、相対的に経済的繁栄の下にあったアルゼンチン、チリ、ウルグアイ等のラテンアメリカ諸国の民主主義が破綻した。)

2 戦争と歴史

 ヘロドトスが指摘したように「戦争はすべてのものの父」なのだ。1495年から1975年を見ると、その四分の三の期間、世界の諸大国は戦争を行っていた。
政府が戦争を始めるのではなく、戦争が政府をつくったのだ。
戦争は政治的な危機(その中には宗教、人種、文化等を要因とするものを含む)が引き起こすが、その戦争が議会制度(http://www.helleniccomserve.com/ferguson.html)、徴税機構、(戦費が税金だけでは賄えないので国債が発行され、その国債を引き受けるための)中央銀行(の創設)、(その国債を売買するための)債権市場(の創設、更には)、株式市場等の金融制度を生み出した。そして、これら金融制度が適切に機能するように法の支配が確立し、これら金融制度を適切に運営できる人材を養成する必要から教育制度が発達した。
 だから、経済問題が戦争の原因だなどという議論は倒錯以外の何者でもない。
 貿易、投資等の経済的な相互依存関係の増大、あるいはグローバリゼーションが戦争を減少させるというのもウソだ。20世紀初めの英独は貿易によって緊密に結び付けられていたが、1914??18年の第一次世界大戦で両国が戦うことの妨げにはならなかった。
 民主主義と戦争との関係はどうか。(このくだりは、http://www.brothersjudd.com/index.cfm/fuseaction/reviews.detail/book_id/824による。)
 第一に民主主義国家は戦争を厭う。ナチスドイツ、日本帝国、ソ連、中共は米英等が文句をつけない間に強大な軍事力を整備した。第二に、民主主義国家は、一旦戦争を決意すると国民は無制限に戦い抜こうとする。これに対し、独裁国家では、自分の決めた戦争でないだけに、国民が途中で嫌気がさして戦争が終わってしまうことがしばしばある。最後に、民主主義国家は、戦争が国民の意思によって実施された聖なる事業であるということから、戦争における失敗から何も学ぼうとしない。失敗を究明するすることは聖なる事業を冒涜することになるからだ。

(続く)

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太田述正コラム#0204(2003.12.9)
<毛沢東と周恩来>

中国共産党は既に1980年に、大躍進政策や文化大革命を推進したという毛沢東の深刻な過ちに照らし、毛沢東は7割正しく3割誤っていたという評価を打ち出しています(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A47339-2003Dec8?language=printer。12月9日アクセス)。
 しかし、中国の民衆の間では、毛沢東は天才であり世界的な偉人なのだから3割程度の過ちは許されるということなのでしょうか、毛人気は全く衰えを見せていません(コラム#134)。
現在の中国共産党指導部は、このような毛沢東評価を更に見直そうとしています。
今年7月に、中国の民主諸党派(注1)代表が国家主席兼中国共産党総書記の胡錦涛と会談し、「建国後、(毛<沢東(Mao Zedong)>が発動した)政治運動により3000万人以上が迫害を受け、350万人以上が死亡した事実を考慮しなければならない。・・<天安門広場の>毛記念堂は、祖国の独立、自主、進歩、発展のために犠牲となった各界の人たちを一緒に祀る記念館にすべきだ」と提言した際、胡錦涛は、「適当な時期に科学的、実事求是的立場で(毛沢東の)評価を下したい。われわれの世代で解決していく」と答えています(『選択』2003.9 20頁)。

(注1) 中国の公式見解によれば、「中国は一党制ではなく、共産党が主導し、多数の党派が協力する政治協商制度を取っている。中国には共産党以外にも、中国国民党革命委員会(民革)、中国民主同盟(民盟)、中国民主建国会(民建)、中国民主促進会(民進)、中国農工民主党(農工党)、中国致公党(致公党)、九三学社、台湾民主自治同盟(台盟)の8つの民主党派が存在する。これら党派の党員は昨年末時点で60万人を超え、国家の政治の中で重要な役割を発揮している」ことになっている(http://j.peopledaily.com.cn/2003/12/05/jp20031205_34693.html。12月6日アクセス)。

毛沢東の誕生110周年にちなんで、中国共産党中央文献研究室編の「毛沢東伝(1949??1976)」が近々刊行されます(注2)が、この伝記では、胡錦涛政権の上記方針の下、「毛沢東の失敗もそのまま記し、当時の中国内外の歴史的背景、毛沢東の政策決定過程、失敗の原因も客観的に記述し」たそうです(http://j.peopledaily.com.cn/2003/12/09/jp20031209_34803.html。12月10日アクセス)が、どんな記述ぶりになっているのか、上梓が待たれます。

(注2)今回出版分は新中国建国後の時期のもので、これに先立つ時期の「毛沢東伝」は1996年に出版された。

 毛沢東に対する1980年以降の評価といい、この評価を更に見直そうという動きといい、スターリンらの批判を殆ど行おうとしないロシアのプーチン政権の姿勢(コラム#144、186)に比べて、中国共産党には相対的には好感が持てます。

 しかし、中国共産党へのリップサービスはそこまでです。
 胡錦涛らが、周恩来(Zhou Enlai。-1976)が、毛沢東の傍らで毛の過ちをたしなめつつ毛の意向を四方八方に目配りしながら実施に移した、中国共産党員の模範とすべき人物であるとする、周恩来無謬性の神話を依然として維持しようとしている・・すなわち依然として中国内でいかなる周恩来批判も許していない・・ことはご存知でしょうか。
 
 この周恩来が、「毛・・をたしなめた」ことなど一度もない、絶対専制君主たる毛に盲従し翻弄される哀れな家臣以外の何者でもなかったことを明らかにしたのが、高分謙(Gao Wenqian)の「晩年周恩来(Wan nian Zhou Enlai =The Final Years of Zhou Enlai)」(中国語。2003年)という、中国で禁書に指定されることが確実な衝撃的な本(注3)です(ワシントンポスト前掲、http://www.isop.ucla.edu/article.asp?parentid=4539、及びhttp://www.dhcca.org/Seminar/GaoW%20101703.htm(いずれも12月10日))。

 (注3)高氏は、1993年に中国を出国するまでの13年間、中国共産党中央文献研究室に勤務したが、研究室時代に閲覧した中国共産党の膨大な一次資料を下に、米国でこの本を執筆した。

 高氏は次のように書いています。(以下、ワシントンポスト前掲及びUCLA前掲による。)

 周恩来は文化大革命の時に迫害された役人達を庇護したと言われているが、毛、江青、林彪らにお伺いを立てた上で、若干の人々を助けてやったというだけのことだ。逆に毛沢東に命ぜられれば、周恩来はたとえ自分の兄弟の逮捕状であっても躊躇なく署名した。
 周恩来が、文化大革命で一旦失権したクt]・燭鯢権させたというのもウソで、次Ω来を検Α垢詭榲・婆啾・譴・眷小平を復権させたというのが真相だ。
 周恩来が膀胱ガンにかかっているということを知った毛沢東は、医師団に対し、周恩来へのガンの告知を禁じただけでなく、再度検診を行ったり手術をしたりすることまで禁じた。毛沢東は、10ヶ月後に周恩来に血尿が出た時点でようやく検診実施を認めたが、その時にはもうガンは全身に転移していて手遅れだった。
 毛沢東は、自分が殺害したに等しい周恩来の葬儀にあたって、あえて(祝意を表する)爆竹を鳴らすことを命じた。
 要するに、毛沢東は中国の伝統に即した専制的な皇帝であり、周恩来は君主への絶対服従を旨とする儒教道徳に忠実な家臣だったということだ。

 いやはや、言葉を失いますね。
 なるほど、これでは中国共産党指導部が、かねてより一切の周恩来批判を許さないのも当たり前です。周恩来批判を許すということは、毛沢東の全面的否定につながりかねず、それは更にクt]・拭蔽躊)批判に直結しかねないからです。

(注4)クt]・燭蓮・950年代に毛沢東の下で知識人の粛清を担当した。彼が命じた1989年の天安門「虐殺」事件はその延長線上に位置づけるべき事件といえる。

 クt]・身稟修・″眷小平の愛弟子である胡錦涛の立場を危うくすることは申し上げるまでもありません。
 してみると、(中国には新しい王朝が成立するたびに、その正当性を示す目的で史書が編纂されたという史実がありますが、)胡錦涛による毛沢東の再評価も、現在の中国共産党指導部の正当性を示す域を一歩も出るものにはならないことでしょう。

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太田述正コラム#0179(2003.10.29)
<宋美齢(追補)>



 コラム#177と#178を、在日台湾人医師で台湾「独立」運動の闘士である知人の林建良氏に送ったところ、氏から、「大変素晴らしい文です」というタイトルのメールが返ってきました。そのメールには、コラム#178の末尾の二段落を引用しつつ、「全くその通りです。台湾の立法院で政府も議員も30秒黙祷したようで、まるで殺人魔に敬意を表すようです。」とありました。



 今回はコラム#177と#178の追補です。



1 宋・蒋一族の腐敗



 蒋介石自身、麻薬も扱う上海の暴力団の緑幇(Green Gang)の客分でした(注)が、宋・蒋夫妻は、1934年から新生活運動を推進し、その一環として一方で麻薬撲滅を唱えながら(http://www.time.com/time/asia/magazine/article/0,13673,501031103-526553,00.html?cnn=yes。10月28日アクセス)政府の麻薬対策庁の艦船を使って麻薬密貿易を行い、巨万の富を蓄えました。



 (注)蒋介石は、緑幇の一員だった男を蒋政府の諜報機関のトップにまで引き上げている(http://www.ucpress.edu/books/pages/9763.html。10月29日アクセス)。カネを媒介とする政治家と暴力団との癒着は国民党とともに台湾に持ち込まれ、黒金問題と呼ばれている(http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/paper/heijin.html。10月29日)。



 宋美齢の長兄の宋子文は蒋政府の財務部長を長く務め、政府のカネをくすねることで世界一と噂された資産家になりました。例えば、新通貨の引き当てにするとして支那全域から(貴金属の)金を供出させたことがありますが、一かけらとて中国銀行の金庫に納まることはなかった、という具合です。
 宋美齢が広告塔となって獲得した米国の蒋政権への援助物資の大部分は、戦っている相手であるはずの日本軍に転売され、宋・蒋一族は当時のカネで7億5000万ドルを横領したと見られています。終戦後、トルーマン米大統領は、「奴らは全員盗人だ」と吐き捨てるように語ったと伝えられています。
 (以上、http://www.taipeitimes.com/News/edit/archives/2003/10/27/2003073589(10月27日アクセス)による。)
 国民党は現在でも。土地、株、預金、会社などを多数所有し、その総資産額は 6000億元(現在のレートで1兆9200億円)にも達するといわれ,党営事業をはじめさまざまな利権を握っています(小笠原、前掲)が、宋・蒋一族と一体化していた国民党の台湾での不正蓄財・・日本政府や日本人が台湾に残した財産の私物化から始まった・・にも宋美齢が関わっていたことは言うまでもありません。
 また、台湾時代、輸入関税の一種である軍事福祉税(労軍捐)からの収益は全額、宋美齢が創設した婦人反侵略連盟(婦連総会)に移し替えられており、宋美齢が自らこの会の資金管理に当たっていました。約8年前に婦連総会で1000億台湾元相当(現在のレートで約3200億円)の脱漏が発見されました(前掲台北タイムスのサイト)が、それが誰の懐に収まったかは容易に想像がつきます。
 宋美齢らの強欲ぶりと腐敗のスケールには、日本人の想像を絶するものがありますね。



2 宋美齢と米国



このような宋・蒋一派の腐敗を目の当たりにしつつ、国民党内で長年耐えに耐えて党主席・総統まで上り詰めた上で台湾の民主化への道筋をつけた李登輝氏が、「中国(本土の)人は利己主義者ばかりであり、カネのことしか考えず、ウソを平気でつく」と断言するようになった(コラム#31)のは当然かもしれません。
 その李登輝氏がこのたび、かねてより噂のあった(前掲台北タイムスのサイト)ところですが、宋美齢が、ローズベルト大統領の(支那で事業を行っていた)親族達に多額のカネを渡して滞米中のロビイスト活動を有利にとり進めた、と語ったことが台湾で波紋を引き起こしています。
 台湾の国民党立法院(国会)議員で蒋経国の非嫡出子たる章孝嚴(John Chang)は、この李発言に「ウソだ」と激しくかみつき、政府から、李発言を裏付ける事実は把握していない、との答弁を引き出しました(http://www.taipeitimes.com/News/taiwan/archives/2003/10/28/2003073669。10月28日アクセス)。



 宋美齢の米国との汚い関係はそれだけではない、という衝撃的な記事も米国のタイム誌に出ました。
1940年の米大統領選挙に共和党から指名されて立候補したものの、現職のフランクリン・ローズベルト大統領に破れたウェンデル・ウィルキー(Wendell Willkie)が、次の1944年の選挙への再出馬の野望を胸に1942年、戦時中の蒋政権の首都重慶(Chongqing)を訪問したときのことです。彼が蒋との結婚15年目の宋美齢と二人っきりで一夜を過ごしたというのです。
翌1943年に宋美齢が例の訪米をした際、上記のことを知っている二人の共通の友人と会い、彼に宋は次のように語ったといいます。「米国政府から供与された借款はすべて蒋政府の米国内の口座に移し替えられています。このカネを使えるだけ使ってウェンデルの大統領選を支援するつもりよ。もしウェンデルが当選すれば、私と彼と二人で世界を支配するわ。ウェンデルは西洋を、そして私は東洋を支配するの。」(http://www.time.com/time/asia/magazine/article/0,13673,501031103-526554,00.html。10月28日アクセス)



 この宋美齢の死去に対し、ブッシュ大統領は、彼女を知性溢れる強靱な意志を持った女性と評し、米国の親しい友人であったと弔意を表しました(http://www.taipeitimes.com/News/taiwan/archives/2003/10/28/2003073668。10月28日アクセス)。
 米国政府も苦しいところです。トルーマン大統領以来の歴代政権は、宋美齢(と蒋介石)がどれほど米国の東アジア政策をゆがめたか悪党であるかは百も承知していながら、それをあからさまに指摘することは、(私が引用した)ロサンゼルスタイムスやタイム誌等米国の一部メディアが指摘するのとは重みが違って、先の大戦に関し、米国民の間で確立している神話・・正義の味方の米国が悪漢日本をやっつけた・・を否定することにつながり、時の政権の瓦解を招きかねないからです。(現ブッシュ政権について言えば、対日戦争すら誤りだったとすれば、対イラク戦はもちろん誤りだったに相違ない、という短絡的な反応を米国民の間で招くことは必至、ということです。)



3 宋美齢と台湾各派



 台湾では、私の引用した台北タイムスは圧倒的少数派であって、台湾のメディアの大部分はいまだに国民党系であり、宋美齢に対する提灯持ち記事ばかりだと言ってもいいでしょう。
 前回の2000年の総統選挙の時は、国民党が割れて国民党系の二人の候補者が立候補したため、漁夫の利を得て、国民党政治を非民主的で腐敗していると批判した民進党の陳水扁政権が誕生しましたが、いまだに立法院も世論も国民党系が多数を占めています。
しかも、民進党支持勢力の多くも、これまでの国民党政権の下で、蒋介石や宋美齢を美化する教育を受けてきた人々であるだけに、日本統治時代に人となった李登輝のような割り切り方を蒋や宋に対してする踏ん切りがなかなかつかないのです(コラム#31参照)。



 以上を頭に入れれば、台湾政府の首相が台北の蒋介石廟を訪問し、内閣を代表して弔意を表するとともに、陳水扁総統が近く出発するパナマ訪問の途上、ニューヨークに飛び、宋美齢の故人に弔慰を表し、棺を覆う中華民国旗を贈呈する予定を明らかにしたこと、この陳総統のニューヨーク行きに(現地の遺族はともかくとして、)在台湾の遺族が故人を冒涜するものとして反対していること、その一方、国民党主席の連戦をヘッドとし、国民党系三党(国民党、親民党、新党)と婦連総会からなる宋美齢葬儀実行委員会ができ、追悼式を行うとともに、その代表団がニューヨークでの葬儀に参列する予定であること、がどうしてなのか、お分かりいただけることと思います(http://www.taipeitimes.com/News/taiwan/archives/2003/10/28/2003073668(前掲)、http://www.taipeitimes.com/News/taiwan/archives/2003/10/29/2003073778(10月30日アクセス)、及びhttp://j.peopledaily.com.cn/2003/10/29/jp20031029_33589.html(同左))。
 
 要するに、台湾の真の夜明けはまだこれからだということです。



 それでは我が日本はどうか。
 宋美齢の死去について、米国有力メディアや台湾の一部メディアで見られる掘り下げた論考を、(インターネットで見る限り、)日本のメディアでは本日まで一つも目にしていません。日本のメディア、ひいては日本人の心ある人々が覚醒するのは一体いつなのでしょうか。宋美齢を的確に評価することは、即日本の現代史を的確に評価することにつながるというのに・・。



コメント:
在米の読者です。コラム#177ー179深く肯きながら読みました。
特に#179の末尾の



> 宋美齢の死去について、米国有力メディアや台湾の一部メディアで見られる掘り下げた論>考を、(インターネットで見る限り、)日本のメディアでは本日まで一つも目にしていませ>ん。日本のメディア、ひいては日本人の心ある人々が覚醒するのは一体いつなのでしょうか。>宋美齢を的確に評価することは、即日本の現代史を的確に評価することにつながるというの>に・・。



という言葉には、胸が熱くなりました。米国政府の宋美齢追悼の辞を聞きながら感じた違和感がまざまざとよみがえってきました。



9.11以後、特に昨年の8月以降、アメリカの対中政策は激変したと思います。



私は何ゆえか Stanford の フーバー研究所からでている China Leadership Monitor の Thomas Christensen の論文が面白く、かかさず読んでいますが、なぜ日本はこれほどまでに米中関係に無頓着なのだろうといつも気になっておりました。無頓着なのは親米派も反米派も日米同盟強化論者もそうでない人も皆同じのような気がして仕方ありません。



問い:「シナ」という呼称について
先の「在米の読者」さんのメッセージを読み、私も117からのコラムを再読させてもらったのですが、その初めに



「(注1)私は「支那」は、地理的概念としての英語のChinaに対応する日本語にほかならず、蔑称ではないと考えている。」



という注意書きがあります。
シナという表現は本来、純粋に地理的表現であったことは事実です。それゆえ、一部知識者はそれに拠って故意に「シナ」と呼ぶのだと思います。
しかし、呼称というものは、呼ぶ者が作り上げるものですが、その決定権は呼ばれる者が持つと思います。「シナ」という表現がいかなる歴史を持とうとも、現在において、そう呼ばれる事を快く思わない人々がいる限りその呼称を使うべきではないと思います。いかに、正しい考えの元に「シナ」という呼称が正しいと呼ぶ者が考えてもそれは呼ぶ者の勝手な判断であるとおもいます。
Japという表現があります。それがどのような理由で呼ばれ始めたかは知りませんが、仮に、「当時のアメリカ人たちが親しみを込めて呼び始めた表現」という歴史事実があったとして、現代のアメリカ人学者達がその事実を拠り所に「Japと呼ぶことは良いことだ」と言ってもそれは許される事ではないと思います。
私は「シナ」という表現が正しいか正しくないかという判断において尊重されるべきことは、その歴史ではなくそれを今現在不快だと感じる人がいるということを認識することだと思います。
 
答え:最初に私の用語法を申し上げておきますと、



 支那=清の領域、または東北アジアにおける漢民族居住地域・・・・・・・・・・・・・China
 台湾=台湾島、または中華民国の領域、もしくは中華民国・・・・・・・・・・・・・Taiwan
 中国=中華人民共和国・・・・・・・・・・・・・・・・・PRC=People's Republic of China
 中共=中国共産党、または中華人民共和国・CCP=Chinese Communist Party,Communist China
 中華民国、はそのまま・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ROC=Republic of China



といった具合で、それほど厳密なものではありませんが、「支那」という地理的概念は、そこで軍閥が争ったり、中華人民共和国と中華民国が並立していた時などには欠かせないと思っています。
逆にお聞きしたいのですが、「支那」に代わる言葉として他に適当なものがありますか?
チャイナですか?「支那」もChinaから来ているので同じことでしょう。
ところで、中華民国にしても、中華人民共和国にしても、支那史に前例を見ないヘンな国名ですが、そもそもひどくethnocentricな国名だと思いませんか(注)。(「日の出ずる国」ないし「日本」はethnocentricな国名だとは思いません。念のため。)



(注)「中華」という言葉は、20世紀初頭に始めて登場した( http://www.taipeitimes.com/News/edit/archives/2003/10/27/2003073592。10月27日アクセス)。



だからなのかどうかは知りませんが、英語表記等欧米における表記は完全に「中華」を無視し、地理的概念たるChinaを援用しています。しかし、寡聞にして中華民国や中華人民共和国がこれに不快感を表明したという話は耳にしないどころか、中共政府自体が正式国名の英語訳として People's Republic of China を用いているところです(注)。



 (注) さすがにRepubulic of Middle Kingdom、People's Republic of Middle Kingdom とは恥ずかしくて訳せなかったのだろう。



 他方、日本では「中」または「華」(例えば日華平和条約)という漢字を国名の略称でも必ず使うほど気をつかっているのですから、その一方で地理的概念として「支那」を使わせてもらってもよろしいのではないでしょうか。
 そもそも、Jap は蔑称として生まれた言葉ですが、「支那」は断じてそうではありません。
 それにしても、「朝鮮語」と言うと韓国に叱られ、「韓国語」と言うと北朝鮮(総連)に叱られ、やむなく「ハングル」と表記するような日本人の主体性のなさには困ったものです。
 
他の読者のご意見もうけたまわりたいものです。

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太田述正コラム#0178(2003.10.27)
<宋美齢(その2)>



 (前回のコラムを書いてから、伴武澄氏が2000年2月に、中共において「蒋介石の再評価」が「李登輝・・が初めて台湾の・・選挙で総統に選ばれた<1988年>ころから・・歴史学会を中心に始まり」、「匪蒋」、あるいは「「人民公敵」とされていた蒋介石が「先生」と呼ばれるようにな」り、「1996年11月」には「蒋介石が育った奉化県渓口鎮の旧居が国務院の「全国重点文物保護単位」に指定され」ている、と指摘されているのを発見しました。(典拠は今回のコラムの本文中で引用した萬晩報のサイト))



蒋介石存命中の宋美齢の行動を理解するためには、彼女の生い立ちや一族について知る必要があります。
 彼女の父親の宋耀如(Charles Jones Soong=Charlie Soong)は、米国で教育を受けてメソジスト派の牧師になり、米国で事業活動を開始し、支那に戻ってから中国語訳聖書の出版と販売等で一大財産を築いた人物です。彼は日米両国の親支那民族主義者らと並ぶ孫文の有力スポンサーとなり、その関係で彼女のすぐ上の姉の宋慶齢は支那革命(中華民国)の父で国民党の創設者である孫文の妻となり、宋美齢は蒋介石の妻となったわけです。
 当然、宋耀如の子供達はみんなメソジスト派の信徒です。
宋美齢は、二人の姉達と同様、上海のインターナショナルスクールに入ってから若くして米国に留学し、(二人の姉たちとともに、恐らく支那出身の女性としては初めて)米国の大学教育を受けて流暢な英語とアングロサクソン的修辞学を身につけます。そして結婚にあたって宋家に聖書読書を条件とされた(宗教に興味がなかった)蒋介石もやがてメソジスト派の信徒になります。ちなみに、孫文もクリスチャンです(http://www1.interq.or.jp/~t-shiro/data/human/sonbun.html。10月25日アクセス)。
長姉宋靄齢(Soong Ai-ling)の結婚相手の孔祥熙 (Kung Hsiang-his=H.H. Kung。孔子の直系子孫)は、結婚当時支那一の大金持ちと言われていましたが、孔は宋美齢の長兄の宋子文(Soong Tse-ven= T.V. Soong)とともに中華民国政府の要職を歴任することになります。
要するに、宋美齢は1927年に蒋介石と結婚することで、当時の支那の三大家族であるところの、金力の象徴たる孔家、権威の象徴たる孫家、そして軍事力の象徴たる蒋家の三つを連結することに成功し、蒋介石は孫文の後継者としての地位を確立し、やがて中華民国において蒋と宋の両名を頂点とする強権的支配体制が確立することになるのです。
しかも、キリスト教、就中プロティスタンティズムの布教先として日本に比べて有望視されていた支那にもともとシンパシーを抱いていた米国(米国のキリスト教的偏向については、コラム#6参照)は、蒋介石夫妻が醸し出したイリュージョンに幻惑され(注4)、腐敗に充ち満ちたファシスト国家であった当時の中華民国(注5)の実態には目をふさぎ、国民党を支援し日本を敵視する政策をひたすら追求することになります。



 (注4)蒋・宋のカップルは1931年、米タイム誌の表紙を飾った。
 (注5)蒋介石率いる中華民国が典型的なファシスト国家であったことは、(1)日本敗戦後、台湾に進駐した国民党軍が、1947年、いわゆる2.28事件において2??3万人、一説には11万人もの台湾住民を虐殺し、(2)蒋政権が、共産党との内戦に敗れて台湾に逃げ込んだ1949年から米国の圧力によってそれが解除される1987年まで28年の長きにわたって戒厳令を維持した(http://www.weiweitaiwan.com/life-area/profile.htm(10月25日アクセス)及びhttp://www.bekkoame.ne.jp/i/funyara9/asia/taiwan/rekisi01.htm(10月26日))、というやり口を見れば容易に想像がつこう。
 
しかし、蒋介石夫妻と言っても、主導権を握っていたのは蒋介石の方ではなくて宋美齢でした。
当時の支那の女性としてはめずらしく、彼女は、夫の蒋介石と常に行動をともにし、蒋介石の意志決定に容喙しました。その上彼女は、自らのイニシアティブで欧米就中米国に対する蒋政権の広告塔の役割を積極的に果たしました。米国の中華民国像は、彼女が通訳として「意訳」する蒋介石の言葉、ないしは彼女自身の言葉を通じて形成されたと言っても過言ではありません(注6)。



(注6)大戦中の1943年に渡米した宋美齢が、米連邦議会を始めとして全米各地で対日戦争への一層の支援を訴えて回り、行き先々で大喝采を博したことは良く知られている。
    また、同じ年に開催され、日本の植民地の処理について話し合ったカイロ会談に、支那の政権など相手にしていなかったチャーチルの反対をおしてローズベルトは蒋介石を招いたが、この会談にも宋美齢は同行し、会談の実態は彼女を含めた四者会談と化した。



そして、米国「出身」でクリスチャンの若く美しい支那のファーストレディーが醸し出すイリュージョンに幻惑され、米国民のみならず米国政府は、善玉で弱者で民主主義を奉じる支那が悪漢で強者で軍国主義の日本の侵略を受けているという単純な図式を刷り込まれてしまいます。当時の米国の(中国共産党を含む)共産主義に対する認識の甘さ(注7)とあいまって、これが米国の対東アジア政策を大きくゆがめ、日本を満州事変へ、そして三国同盟へ、更には先の大戦へと追い込んでしまい、結果的に米国の盟友でアングロサクソン文明を共有する英国の(早すぎた)「帝国」の崩壊を招いてしまうのです。



(注7)1930年代にニューヨークタイムズのソ連特派員だったワルター・デュランティ(Walter Duranty)がスターリン主義の暴虐さに目をつぶって筆を曲げていたとして、彼が授与された1932年のピュリッツァー賞を剥奪する動きがようやく米国で高まりつつある(http://www.guardian.co.uk/usa/story/0,12271,1069818,00.html(10月24日アクセス)。結局ピュリッツァー委員会は剥奪しないとの決定を下した(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3229000.stm(11月23日アクセス))。あれだけ第二次世界大戦以降、厳しく共産主義と対決するに至り、冷戦に勝利してソ連を崩壊に導いた米国においてさえ、歴史の「是正」にはかくも長い時間がかかるのだ。



これが、宋美齢が「抗日戦争に力を尽くし」た(賈慶林の前掲コメント)ということの意味です。



もう一つ忘れてはならないことは、彼女こそ、(結婚によって蒋政権の腐敗の構造をつくりあげてしまった責任までは問えないとしても、)蒋政権下の一族の腐敗を放置し、第二次国共合作を成就せしめ、結果的に共産党に支那の政権を奪取させた張本人だということです。
 蒋介石は、師匠の孫文とは違って日本に対しては宥和的であり(注8)、敵は共産党であるとの認識を持っており、対共産党戦に全力を傾けていました。(たまたま宋美齢が同行せずに)その蒋介石が共産党との戦いの督戦のために西安(Xian)を訪れた際、既に共産党とよしみを通じていた張学良(Chang Hsueh-liang)によって監禁され、国共合作を行い、国共両党が一体となって対日戦争にあたるよう迫られます。1936年のいわゆる西安事件(事変)です。
この事件を「解決」したのは宋美齢です。彼女が蒋の監禁11日目に西安に飛ぶや否や、それまで頑として首を縦に振らなかった蒋介石はしぶしぶ翻意し、その二日後に蒋は釈放されるのです。



 (注8)蒋介石は清朝の官費留学生として日本に渡り、清朝留学生のために創設された日本陸軍の「振武学堂」でまず日本語を学んだ後、新潟の陸軍十三師団高田連隊の野戦砲兵隊付き将校を経験している(http://www.yorozubp.com/0002/000209.htm。10月26日アクセス)。台湾に逃げ込んでから、蒋は、中華民国軍の再建と錬成を極秘裏に招いた軍人歴のある日本人達に託している(典拠失念)。
(三度目の結婚相手(前掲萬晩報サイト)の前妻との正式な離婚が成立しておらず、しかも多数の愛人を抱えていたにもかかわらず、蒋介石は政治的意図からまず孫文の寡婦宋慶齢にアプローチする。しかし彼女に拒絶された蒋は、やむなくその妹の宋美齢に求婚相手を切り替える。気が進まない宋美齢に蒋介石が「お見合い」をすることに成功したのは1927年、神戸の宋一族の別荘においてだった。)
     
 この第二次国共合作によって、壊滅寸前だった共産党は息を吹き返し(注9)、翌1937年、支那側、とりわけ共産党の主導で日華事変の火ぶたが切って落とされるのです。



 (注9)白話(口語)文学の提唱者で、当時の支那の最高の知識人の一人であった胡適(1891??1962年)は、「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べている(http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/QCao/cao27.htm(10月25日アクセス)及びhttp://www.tabiken.com/history/doc/G/G257L100.HTM(10月26日アクセス))。
     第二次国共合作後、国民党は共産党に資金援助まで開始する(http://www.history.gr.jp/showa/225.html。10月25日アクセス)。



 これが、宋美齢が「国家分裂に反対した」(前掲コメント)ことの意味です。



 その後、宋美齢すなわち蒋政権には民主主義を実践する気などさらさらないこと、かつまた蒋政権が無能であること、更にまた蒋政権が腐敗しており、米国の資金援助一つとっても、その多くが蒋と宋を頂点とする一族の米国預金口座に収まってしまう有様であったにもかかわらず、蒋政権にはかかる腐敗を正す意思が全くないこと、が次第に支那の民衆の関知するところとなり、先の大戦半ばともなると米国政府もさすがに目が覚め、蒋政権は支那民衆と米国政府のどちらからも見放されるに至ります。
 こうして日本が最大の悪役となった支那において、支那民衆及び米国は、当時国民党に比べてlesser evil であるかのように見えていた共産党・・実際はその逆だったのですが・・に政権を託さざるをえなくなってしまうのです。



 このように中共は宋美齢を高く評価するに至っているのですが、国民党ならまだしも、現在の台湾(中華民国)の民進党政権までもが彼女に高い評価を与えていることには首をかしげざるをえません。
台湾(中華民国)の副総統をつとめる呂秀蓮(Annette Lu)女史は、今年宋美齢が「105歳」の誕生日を迎えた時にも宋を褒め称える談話を発表しましたが、宋逝去に際しては、彼女を「人類の宝」だったとまで形容しています。
こんな歴史認識を抱いている限り、民進党が党是であるところの(支那全域を支配する支那唯一の正統政府たる)中華民国という虚構の存在からの台湾「独立」、を標榜することなどおこがましいと言うべきでしょう。


(完)

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太田述正コラム#0177(2003.10.26)
<宋美齢(その1)>

 (コラム#158を大幅に拡充しました。ホームページ(http://www.ohta.net)の時事コラム欄を参照してください。)

 蒋介石(Chiang Kai-shek)の夫人の宋美齢(Soong May-ling)がニューヨークの自宅でなくなりました。 享年106歳と大部分のメディアが報じていますが、それは、生年についての三つの説(1898年、1901年、1902年)のうち一番最初の説によった場合で、かつ数え年であり、本当のところははっきりしないようです。彼女のすぐ上のお姉さんの宋慶齢(Soong Ching-ling)は孫文(孫逸仙=Sun Yat-sen)の夫人で中華人民共和国(以下「中国」という)の名誉国家主席までつとめた人物ですが、このような超名門の一家でも生年がはっきりしないというところに、辛亥革命直前の支那(注1)の混乱ぶりがうかがわれます。(以上、事実関係はhttp://www.tokyo-np.co.jp/00/kok/20031025/mng_____kok_____003.shtml(10月25日アクセス)による。)

 (注1)私は「支那」は、地理的概念としての英語のChinaに対応する日本語にほかならず、蔑称ではないと考えている。

 面白いのは中華人民共和国(今回のコラムに限り、中華民国と区別するため、以下「中共」と略す)の宋美齢評価です。
中国共産党の機関誌人民日報の日本語サイトは「蒋介石氏の妻、宋美齢さんが23日午前5時17分、ニューヨークで死去した。106歳。宋さんは中国で最も影響力の強い女性として、最近まで多彩な活動を行なっていた。」と報じ(http://j.peopledaily.com.cn/2003/10/24/jp20031024_33459.html。10月25日アクセス)、また、中共の全国政治協商会議の賈慶林主席は宋美齢の親族に弔電を送り、深い哀悼の意を示すとともに、「宋美齢女史は中国近現代史上、大きな影響を与えた人物。抗日戦争に力を尽くし、国家分裂に反対したほか、大陸と台湾海峡の平和統一、中華民族の繁栄を希望していた」というコメントを発表しました(http://j.peopledaily.com.cn/2003/10/25/jp20031025_33480.html。10月26日アクセス)。
いつのまにか宋美齢は、国賊の妻から「さん」「女史」付けの偉人へと180度中共による評価が変わり、その内助の功で夫君の蒋介石自身も国賊から歴史上の重要人物へと「昇格」し、名前の後に「氏」やをつけてもらえるようになっていたようです(注2)。

(注2)26日の人民日報サイト(前掲)は、単に米国の大学の学部卒(BA)の宋美齢について、「米国で文学博士の学位を取得」と誇大報道を行うというゴマスリぶりだ。

 確かに彼女は中共に偉人扱いされるだけのことはあります。
まず蒋介石死去(1975年)以降の宋美齢の行動が、いかに賈慶林が言うところの「大陸と台湾海峡の平和統一」(前掲コメント)に資するものだったかを振り返ってみましょう。
宋美齢は、蒋介石の後継総統となった蒋経国(Chiang Ching-kuo。蒋介石の先妻の子)との軋轢でニューヨークに移住するのですが、1988年に蒋経国が死亡するとその次の中華民国総統に、憲法上の規定に基づき副総統の李登輝(Lee Teng-hui)が昇任することに反対し(注3)、また2000年の総統選挙の際には与党国民党(Kuomintang =Nationalist Party)の連戦(Lien Chan)候補を推して野党民進党(Democratic Progressive Party=DPP)の陳水扁(Chen Shui-bian)候補に反対しますが、いずれも彼女の意に反する結果に終わります(http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-chiang25oct25,1,4653362.story?coll=la-home-leftrail(10月25日アクセス)及びhttp://www.taipeitimes.com/News/archives/2003/10/25/2003073291(10月26日アクセス)。以下も特に断らない限り、この二つの典拠による)。

 (注3)より正確には宋美齢は蒋経国の遺志に反し、自ら後継総統になろうとしたのだが、蒋家の人間が二度と総統になるべきではないとの蒋経国の遺志に忠実であろうとした国民党若手勢力にその野望をはばまれたもの。(蒋経国に敬意を表し、私は民主主義的独裁体制における親族承継の例に台湾は入れていない。)
     李登輝総統が正式に国民党主席に就任した1988年の国民党大会にあたって久方ぶりに訪台した宋美齢は、来賓としての演説の中で「私は必ず復活する(I shall arise)」と捨てゼリフを残している。

この彼女の二つの行動は、中華民国における本省人(=日本の敗戦後に中国から渡ってきた人々である「外省人」、でないもともとの台湾の住民)や台湾の「独立」を志向する勢力の伸張に反対する中共の意向に完全に合致するものでした。

それよりはるかに重要なのは彼女の蒋介石存命中の行動です。
宋美齢が、「抗日戦争に力を尽くし、国家分裂に反対した」(前掲コメント)ことによって、まさに中国共産党は窮地から救われ、結果的に支那において中国共産党による国民党からの政権奪取がもたらされたのですから。

(続く)

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太田述正コラム#0175(2003.10.23)
<マザー・テレサ>

(コラム#173に二つの注を付け加えてホームページ(http:/www.ohtan.net)の時事コラム欄に再掲載してあります。ご参照ください。)

1 始めに

米国のメディアでは法王ヨハネ・パウロ二世(の就任25周年)に対して中立的な論調が多い、とコラム#172で述べたところですが、マザーテレサ(注1)(のbeatification=列福=福者位授与)に対しては、米国の著名なコラムニスト、クリストファー・ヒッチェンスが過激な批判を展開しています。

(注1)1910年に現在のマケドニア領内のスコピエでアルバニア人の両親のもとに生まれる。18歳の時にインドにわたり、1979年ノーベル平和賞を受賞。1997年死去。インドで国葬が執り行われた。(マザー(mother)とは本来女子修道院長という意味だが、称号と考えればよい。ちなみにシスター(sister)は女子修道士。(太田))(http://www.vatican.va/news_services/liturgy/saints/ns_lit_doc_20031019_madre-teresa_en.html。10月22日アクセス)

ヨハネ・パウロ二世がソ連の「占領」下にあったポーランド出身の法王として、ポーランド等の「解放」に尽力したことに対し、ソ連を降伏させ、解体に追い込んだレーガン大統領への英サッチャー首相等と並ぶ「協力者」として評価する人が米国内に多いことや、米国のカトリック勢力が英国に比べて強大(例えばケネディ大統領はカトリックでした)であることから、米国のメディアには法王やカトリックに対する遠慮があると思われるのですが、アングロサクソンたる米国人のヒッチェンスが抱いている反カトリック感情が、マザーテレサレベルのカトリック教徒批判に藉口して噴出したということなのでしょうか。(マザーテレサ批判は、彼女を性急に福者に列し、更には聖者に列しようとしている現法王に対する批判に直結します。)あるいはまた、チャリティー大国の市民としての自負から、マザーテレサばりの「チャリティー」のうさんくささにはどうしても一言もの申したくなったということなのでしょうか。

1988年に英国の国防省の大学校に留学していた私は、この大学校の一ヶ月にわたる秋の海外研修旅行に参加します。同期生総数約80名中我々10名はインドとパキスタンを訪問することになったのですが、この旅行の最終目的地はインドのカルカッタ(最近、名前がコルカッタ(Kolkatta)に変わったが、便宜上昔の呼称を使う)でした。
当時のカルカッタはすさまじいところでした。路上生活者が町中にあふれており、カルカッタ全体がスラムに見え、宿泊した五つ星の高級ホテルの部屋の中まで生ゴミの饐えたにおいがたちこめていました。
そのカルカッタで、マザーテレサの「ホスピス」を訪問し、マザーテレサご本人と懇談をする機会がありました。小柄な世界の有名人と握手ができてただただ感激したものです。
当時私は39歳でしたが、何とまあナイーブだったことでしょう。

2 マザーテレサ批判

それではヒッチェンスのマザーテレサ糾弾ぶりを、本人が執筆したコラム(http://slate.msn.com/id/2090083/(10月21日アクセス))を要約してご紹介しましょう。

第一にマザーテレサは、堕胎と避妊を批判するにとどまらず、堕胎と避妊は世界平和に対する最大の脅威だと主張した。
第二に彼女は、離婚を批判するにとどまらず、離婚と再婚の禁止を憲法に規定すべきだという過激な主張をした。アイルランドは、この主張に従って憲法改正を試みたが、1996年の国民投票の結果、僅差で実現に至らなかった。(ちなみに、アイルランドでは堕胎は憲法で禁止されている(太田)。)
第三に、以上の主張の論理的帰結として、彼女は世界の女性の解放、ひいては世界の人々の貧困からの解放を妨げた。そもそも、貧困に由来する苦しみは神からの恩寵だというのが彼女の持論であり、彼女は断じて貧者の友などではなく、貧困の友だったのだ。
第四に、以上の主張を貧者には一律に押しつける一方で、富者には例外を認めた。つまり彼女は富者の友だったのだ。例えば、ダイアナ妃の離婚を彼女は非難するどころか嘉したし、ハイチの暴虐な独裁者であるデュバリエから多額の寄付をもらうや、彼の統治を褒め称えたものだ。
第五に、彼女は自分に甘く他人に厳しかった。彼女は病に伏す路上生活者を、補修を碌にしない廃屋のような自分の「ホスピス」に連れてきては何の治療も施さずにその死をみとることだけに徹したものだが、自分自身が病気になるとすぐにカリフォルニアの病院に駆け込んだ。また、世界中からデュバリエからのような汚れたカネも含め、山のような寄付を集めつつ、一度もその使途を公開することなく、いつしか世界の123カ国に彼女の創設したMissionaries of Charity等の慈善団体の施設を610カ所(4000人近くの人々が働く。以上の数字等は前掲のバチカンのサイトによる)も開設(注2)し、慎み深さや謙譲さとはおよそ縁遠い彼女の本性を暴露した。

(注2)もっとも、Missionaries of Charityが、ハンセン氏病患者や孤児の面倒もみていること(http://edition.cnn.com/2003/WORLD/europe/10/17/vatican.teresa/index.html。10月17日アクセス)、及びMissionaries of Charityで働いている女性達の中にはカトリック信徒だけでなく、他のキリスト教信徒や他の宗教の信徒もいること(http://www.nytimes.com/2003/10/20/international/asia/20CALC.html。10月20日アクセス)は忘れてはなるまい。

先だって行われたこのマザーテレサの列福式(於バチカン)には、30万人の群衆のほか、(彼女の「出身」をめぐって争っている(太田))マケドニアとアルバニアのそれぞれの大統領、そしてフランスの首相が列席しました(http://www.guardian.co.uk/pope/story/0,12272,1066691,00.html。10月20日アクセス)(注3)。

(注3)フランス大統領夫人もフランス首相夫妻と一緒にこの列福式に列席したが、彼らは40人余りのお供を引き連れて仏空軍機二機でローマに乗り込み、無料で泊まれるフランス政府施設ではなく高級ホテルに宿泊し、ホテル代だけで10万ユーロ(約1300万円)も散財した、しかもフランス人でもない人物の列福式に列席すること自体がフランスが堅持する政教分離の原則に反する、との批判を浴びたhttp://www.asahi.com/international/update/1023/003.html。10月23日アクセス)。

 人間を評価することのむつかしさを考えさせられますね。

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太田述正コラム#0114(2003.4.13)
<和辻哲郎とジョン・マクマレー(その2)>

 マクマレーは、1940年代に宗教的社会主義者として頭角を現す(http://www.americanhumanist.org/humanism/morain/appendix-1.html。4月3日アクセス)のですが、彼の哲学を一言で言えば人間の個性(identity)を、基本的に集団主義的(collectivist)なものでも個人主義的(individualistic)なものでもなく、社会的(social)なものと見るというものです。(http://www.anu.edu.au/HRC/activities/conference_archive/1997/emotion.html。同上)
(なお、「宗教的」社会主義者といっても、彼の「宗教」なるものは特定の教義を持たず、「他人に親切にすること(be nice to others)」 や「友情(friendship)」を重視する世俗的(secular)な汎キリスト教的(ecumenical)ないし自然宗教的なものでした。)
 マクマレーは欧米のこれまでの哲学が物事を理論的(theoretical)かつ自己中心的(egocentric)観点から見てきたことに批判的であり、哲学的分析を思弁家(thinker)としてでなくエージェント(agent)としての立場から行わなければならないと主張します。そしてエージェントとしての自分が何かするためには人間関係の「抵抗(resistance)」と「支え(support)」を受けることが不可欠だとします。(歩くためには地面の抵抗と支えが不可欠であるように・・。)赤ん坊が何かをするためには母親とコミュニケーションをし、母親によって助けてもらわなければなりませんが、大人の人間相互にも基本的に同じことが言えるというのです。
(以上、Macmurray, Persons in Relation, Faber 1961の要約((http://johnmacmurray.gn.apc.org/PIR.htm(同上))より孫引き)
 そして人間関係には、この母子関係のような個人的(personal)な関係と、仕事上の関係のような機能的(functional)な関係があるとし、両者は互いに相互依存関係にあるとしました。ちなみに、マクマレーによれば、個人的関係の総体が共同体(community)であり、機能的関係の総体が社会(society)であって、前者は宗教と係わり、後者は政治と係わります。
http://johnmacmurray.gn.apc.org/Discovering%20Macmurray.htm。同上)
 (マクマレーの哲学について、より詳しくは、http://www.psa.ac.uk/cps/1999/bevir2.pdfを参照。)

 いかがでしょうか。核心的部分において、和辻とマクマレーの考え方は生き写しとも言えるのではないでしょうか。(和辻も宗教的人間でしたが、その宗教観は「古寺巡礼」からも明らかなように、審美的なものであり、マクマレー同様自然宗教的なものであったと言っていいでしょう。)

4 マクマレーとブレア首相

 対イラク戦がほぼ収束した現在、米国のブッシュ大統領と英国のブレア首相との間でイラク復興過程における国連の関与の度合いについて、スタンスの違いが表面化してきました。
 振り返ってみれば、対イラク戦突入までの間も、ブレアはまずしぶるブッシュを説き伏せて(注)国連査察の再開(安保理決議1441号の採択)に漕ぎつけ、その後も対イラク戦の直接の根拠となる国連安保理決議の採択に向け、横を向いたブッシュをなだめすかしながら、(結局実らなかった)理事諸国への根回しに努めました。読者の皆さんも、国連をないがしろにするブッシュと尊重するブレア、という対照的な印象を二人に対してお持ちなのではないでしょうか。

 (注)ブッシュが昨年9月に国連で行った演説の中で「イラク問題を安保理にかける」と原稿になかった重大発言を行った。これは、この演説の直前までブレアとパウエル米国務長官がブッシュやチェイニー副大統領との間で綱引きを続けていたため。ブレアはブッシュらに繰り返し「単独で軍事的対処ができる米国のような超大国といえども、イラク問題はパートナーや同盟国と手を携えつつ対処しなければならない」と説き続けた。(http://politics.guardian.co.uk/iraq/story/0,12956,929464,00.html。4月4日アクセス)(http://politics.guardian.co.uk/iraq/story/0,12956,943975,00.html(4月26日アクセス)は、このくだりが原稿から落ちていたのは単純ミスで、ブッシュがアドリブでカバーした、と事実上訂正。ただし、それまでの経緯は同じ。)
 しかし、二人のスタンスの違いはそれだけではありません。
シリアやイラクに対するスタンスも、パレスティナ問題への取り組み方も、フランスやドイツへの接し方も、二人は明確に異なります。ブッシュはシリアやイランを敵視し、パレスティナ問題への取り組みが及び腰であり、対イラク戦に反対したフランスのシラク大統領やドイツのシュレーダー首相とは現在没交渉の状態であるのに対し、ブレアはシリアやイランと友好関係を維持し、パレスティナ問題への取り組みは積極的であり、シラクやシュレーダーと対話を欠かさないように努めています。(ブレアの対シリア政策については、コラム#97参照。)
 また、地球温暖化に関する京都議定書、民族浄化等の国際犯罪を裁く国際刑事裁判所についても、肯定的評価をするブレアと否定的評価をするブッシュという違いが見られるところです。

 このように見てくると一見ブレアは、覇権国でも超大国でもない英国にとってどちらも不可欠な存在であるところの米国と欧州双方、にいい顔をするため、単に両者の見解を足して二で割ったスタンスをとってきたようにも思えます。またこのようなスタンスは、たまたま英国の世論の大勢にも合致していることから、ブレアは要するにポピュリストなのだ、と評したくなる人もいることでしょう。
 しかし、ブレアが決して足して二で割る金丸的政治屋などではなく、小泉的ポピュリストでもないことは、彼が1997年の首相就任以来、尻込みする英国世論と欧州を叱咤つつ、シエラレオネ、コソボ、アフガニスタンそしてイラクと、次々に米国顔負けの積極的な対外軍事介入政策を遂行してきた点だけからも明らかです。
 ブレアの対外政策スタンスを支えるのは、他人のことを慮らなければならない、そのためにも国際秩序と国際機関を維持強化しなければならないという確固とした信念であり、この信念の根底にあるものこそ、ジョン・マクマレーの哲学なのです。
(以上、注記の内容以外は基本的にhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A15395-2003Apr2.html(4月3日アクセス)による。なお、ブレアの国内政策スタンスについても同じことが言えるが、あえて立ち入らない。)

 ブレアは1970年代、オックスフォード大学在学中にマクマレーの著作に接して「頭を吹き飛ばされるような衝撃」を受けます。
 そしてマクマレー的な世俗的・自然宗教的宗教観を身につけた(現代英国ではめずらしい)敬虔な宗教的人間(国教徒)になるのです。
1993年にはブレアは、マクマレーが乗り移ったかのように、「我々は他人との関係の中で個性(identity)を失うことはありません。むしろ人間関係によってこそ我々の個性が実現されるのです。」という演説を行っています。
更に、1996年に出版されたマクマレーの著作集の序言に寄せて、ブレアは、「ジョン・マクマレーは、20世紀における最も著名な哲学者の一人とはみなされていない。これは私には信じがたいことだ。なぜなら、マクマレーの著作には近寄り難い雰囲気が全くなく文意も明快そのものだし、われわれが大学で使わされる諸々の定番教科書的著作のどれよりも役に立つ(relevant)こと請け合いだからだ。それだけではない。マクマレーには驚くほど現代(modern)性がある。個人と社会との関係という、21世紀における最も重要(critical)な問題に真正面から取り組んでいるからだ。」とマクマレーを絶賛しています。
http://johnmacmurray.gn.apc.org/Discovering%20Macmurray.htm。4月3日アクセス)
 まさにブレア、つまりは現在の英国の労働党政権はマクマレーの申し子なのです。

5 終わりに

 現在の世界を実質的にリードしているのは、bastardアングロサクソンたる覇権国米国を「善導」しつつ米国と手を携えて歩んでいる英国だとすれば、その英国の現政権を支える哲学にわれわれはもっと関心を持っていいのではないでしょうか。
 そして英国の現政権を支えるマクマレーの哲学が、同時代人である日本の和辻哲郎のそれと生き写しだということはいかなる意味があるのでしょうか。
 それは、アングロサクソン文明と日本文明の親和性がここにも現れているということです。
 アングロサクソン文明は個人主義文明だという側面があるのはまぎれもない事実(コラム#88、89参照)ですが、およそ個人主義だけで社会が成り立つわけがありません。そこにコモンローの伝統(コラム#90)等が果たしている役割があります。
 すなわち、アングロサクソン文明の全体像を見れば、それは決して個人主義文明なのではなく、「人間(じんかん)」的文明なのです。(米国がアングロサクソンのbastardたるゆえんは、それが極端な個人主義という病魔に犯されているところにもあります。)
 私は、日本文明が「人間」的文明であることを素直に表明したのが和辻だったのに対し、マクマレーはアングロサクソン文明が実は「人間」的文明であることを発見したのだ、と考えているのです。
 だから、かねてより私はブレアの政策に注目し、ひそかに声援を送っているのです。(終わり)

(コラムのバックナンバーを読みたい方は、http://www.ohtan.netの(時事)コラム欄にアクセスしてください。なお、民主党の鳩山さんらが唱えていた「友愛」というのはマクマレーから来ているのですかね。ご存じの方は教えてください。もっともそうだとすると、なぜわざわざ英国の哲学者のお世話になるのか、和辻がいるではないかと言いたくなりますし、マクマレーの忠実な弟子であるブレアの軍事介入政策に反対するのも首尾一貫しないことになりそうですね。

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太田正正コラム#0113(2003.4.1)
<和辻哲郎とジョン・マクマレー(その1)>

 (世界中の目が対イラク戦に注がれ、数人??数十人のオーダーでイラクの市民の犠牲者が出るたびに大きく報道がなされました。しかし、対イラク戦の悲惨さは誰も否定できないとしても、(まだ戦闘は終了したわけではありませんが、)イラク「軍」の死者や連合軍側の死者等も合わせた犠牲者を全部合わせてもせいぜい何万人にしかならないでしょう。
 他方、戦乱の直接的間接的影響でこの四年半に330万??470万人もの人命が失われたというのに、コンゴ(旧ベルギー領)の「国際的」内戦のことは余り話題にされていません
http://www.guardian.co.uk/congo/story/0,12292,932034,00.html(4月8日アクセス)、http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-congo9apr09001436,1,4038016.story?coll=la%2Dheadlines%2Dworld(4月9日アクセス))し、アフリカ全体で4000万人もの人々が飢餓に直面している問題も殆ど知られていません(http://www.guardian.co.uk/famine/story/0,12128,932778,00.html。4月9日アクセス)。
 対イラク戦に反対している人々、とりわけ人間の盾としてイラクに赴いた人々一人一人に、このコンゴ問題を始めとする、アフリカひいては世界が抱える深刻な諸問題、に対する存念を聞いてみたいものです。
 そんなことを言うが、お前のコラムの時事問題のテーマだって偏っているではないかというお叱りを受けるかもしれません。これに対しては、自分に土地勘のあるテーマを取り上げているといった弁明は可能です。しかし仮に土地勘がなくても、しかも余り話題になっていなくても、「重要」な時事問題については、折に触れてとりあげていきたいと思っています。)

1 始めに

 本稿は、同時代人であった、日本の和辻哲郎と英国のジョン・マクマレーという二人の哲学者の主張が驚くべきほど類似していること、現在の英国のブレア首相の内外政策の根底にジョン・マクマレーの哲学があること、これらのことが日本の今後の国家戦略を考えるにあたっての重要な手がかりになること、を指摘するものです。

2 和辻哲郎

 私は、帰国子女のはしりの一人ですが、小学校5年生の時(1959年)にエジプトから日本に帰国した時に感じたカルチャーショックは大きく、中学から大学時代にかけて日本文化論のジャンルの本を読みあさったものです。その中で、最も印象に残っているのが梅棹忠夫の「文明の生態史観」(『中央公論』掲載1957年)と和辻哲郎の「風土―人間的考察」(1935年)です。(私の欧州文明とアングロサクソン文明の対置論は、お二人の説に違和感を覚えた点・・イギリス文明と欧州文明を区別していない・・を掘り下げていった「成果」です。)
 和辻の有名な著作としては、ほかに「古寺巡礼」(1919年)や「鎖国」(1950年)などがありますが、現時点で振り返ってみると、「人間の学としての倫理学」(1934年。「人間」を「じんかん」と読ませる)の重要性が際だっています。(エージェンシー関係の重層構造に着目する、私の日本型経済体制論(コラム#40、42、43参照)は、この本に触発されたところが大きい、と今になって思います。)
 ご存じない方のために、和辻の人間(じんかん)論を簡単に紹介しておきましょう。
 「人間」とは、輪廻転生の五道(六道)の一つを表す仏教用語(漢語)であって、本来は「人(human、man)の世界」を意味し、「人」の意味はありません。(「人間萬事塞翁馬」という用例を想起せよ。)しかし、日本ではそれが「人(ひと)」と同じ意味の言葉として転用されるようになりました(和辻「人間の学としての倫理学」岩波全書1934年、16~17頁)。それは、「ひとの物を取る」、「ひと聞きが悪い」、「ひとをばかにするな」のように、もともと大和言葉の「ひと」には、「他人」、「世間」、「自分」の三つの意味があった(14頁)からです。
 このほかにも日本語には、「人(ひと)」=「人間」、に関連する言葉で同じように複合的な意味を持つ「兵隊」、「友達」、「なかま」、「郎等」、「若衆」、「女中」、「連中」などがあります(20頁)。
 これらのことから日本人は、「人が人間関係に於てのみ初めて人であ<る>」(12頁)と考えているとし、この考え方には普遍性があると和辻は主張したのです。
 これは、欧米の個人主義と全体主義(私に言わせれば、英米の個人主義と欧州の全体主義)のいずれをも批判する含意を持つ主張でした。
 すなわち和辻は、「アリストテレス<は>考察の便宜上個人的存在を抽象し」(52頁)ただけだったのに、「近代・・ブルジョワ社会<は>、・・恰も現実に於て<個人が存在する>かの如くに見」て「個人主義的な思想を生み出す」に至ってしまった(53頁)と個人主義を批判するとともに、「マルクス・・は、人間存在に於て特に『社会』の契機をのみ捕」えた(183頁)とし、全体主義も批判したのでした。
 (漢字は新字体に改めた。和辻の「人間論」について簡便にはhttp://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/hw-jinsei10.htmhttp://member.nifty.ne.jp/bunmao/0226.htm(4月3日アクセス)を参照。)

3 ジョン・マクマレー
 
 この和辻哲郎(1889-1960(明治20-昭和35年))と同時代人に、スコットランド生まれの哲学者ジョン・マクマレー(John Macmurray。1891-1976。拙著「防衛庁再生宣言」第九章でとりあげた米国人のジョン・マクマレー(英語綴り同じ。しかも1881-1960なのでほぼ同時代人)とは別人)がいます。
 この二人は互いに相手を認識することなくそれぞれの生涯を終えたと思われますが、その主張は驚くほどよく似ています。
(続く)

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太田述正コラム#0071(2002.10.27)
<ルソー(その3)>

 まずは以下の引用を読んでみてください。

「もしわたしが主権者だとしたら、わたしは裁縫・・<のような>不健康な職業・・は、女性たち・・のほかには許さないことにする。」(上357-358頁)、「骨の折れる職業・・<や>危険をともなう・・職業は同時に体力と勇気を養う。それは男性だけにふさわしい。」(上358頁)、「女性は、・・多くの点において、けっして子どもとは別のものにはならないようにみえる。」(中6頁)、「女性たちは、・・書物について判断をくだしたり、なんとかして書物をかこうとしたりするようになってからは、もうなにひとつわからなくなっている。」(中280頁)、「不貞の妻は・・家族をばらばらにし、自然の掟をすべて断ち切るのだ。・・こういう罪悪はあらゆる混乱、あらゆる罪悪につながっているのではなかろうか。」(下13頁)、「男はその欲望によって女に依存している。女はその欲望とその必要によって男に依存している。わたしたちは女なしでも生きていけるかもしれないが、女がわたしたちなしで生きていくのはもっとむずかしい。」(下20頁)、「男性が幼いときは育て、大きくなれば世話をやき、助言をあたえ、なぐさめ、生活を楽しく快いものにしてやる、こういうことがあらゆる時代における女性の義務であ<る>」(下21頁)、「娘は母親の宗教を信じなければならないし、妻は夫の宗教を信じなければならない。・・女性は、みずから判定者となる状態におかれていないのだから、父親と夫の決定を・・うけいれなければならない。」(下48頁)、「自分より低い地位の女と結ばれるばあいには、かれは身分を落とさないで、妻の身分を高める。はんたいに、自分より高い身分の妻をむかえれば、かれは自分の地位を高めないで妻の地位を低めることになる。」(下114頁)

これらは、岩波文庫版「エミール」から拾ったルソーの女性観に関わる箇所です。

これを読んで、ルソーも女性差別論者だったのかと受け止める私のような人と、ルソーが本当のことを率直にを語っていると受け止める人とどちらが多いのでしょうね。とりわけ、女性の感想を聞きたいものです。

ルソーが「エミール」を出版したのは1762年ですが、これを読んで憤激したのが、後に世界最初のフェミニスト運動家と評されることとなるイギリス人女性、メアリー・ウオルストーンクラフト(Mary Wollstonecraft。1759-1797)でした。 彼女は男女同権論を唱え、自らそれを実践しようとし、フランス革命に身を投じ、愛の遍歴を重ね、一人の私生児と、妊娠してからあわてて結婚して出産した一人の嫡出子を生み、そのときの産褥熱で死亡しました。彼女の主著である「女性の権利の擁護」(A Vindication of the Rights of Women, 1792)は、ルソーの女性観を批判した労作です。
(ちなみに、彼女の二人目の子供のメアリーは、後にシェリー夫人となり、「フランケンシュタイン」を著します。(シェリーとは、あのイギリスの有名な詩人のパーシー・シェリー(Percy Bysshe Shelley)です。))
ところで、彼女は、「男性の権利の擁護」(A Vindication of the Rights of Men, 1790)という本も上梓しています。こちらは、イギリス保守主義の立場からフランス革命を全面否定した、アイルランド出身のイギリスの論客、エドモンド・バークの「フランス革命に関する省察」(Reflections on the Revolution in France)に対する反論の書です。バークのように、人間の本性は容易に変わらないなどと言っていたのでは、男女同権社会は永久に実現しないというわけです。
ルソーの女性観に強く反発したウオルストーンクラフトが、男女同権社会の実現を夢見て、ルソーの思想と切っても切り離せない関係にあるフランス革命に身を投じたことは、首尾一貫性を欠くようにも見えます。しかし、彼女のフランス革命へのコミットメントが、その後のフェミニズムと「左翼」運動との不毛なる連携のさきがけとなったことを考えれば、これもまた、彼女の「先見性」を示すものと解すべきかもしれません。
(メアリー・ウオルストーンクラフトについては、http://www.bbc.co.uk/history/society_culture/protest_reform/wollstonecraft_01.shtml(-05。Shtml)とhttp://www.orst.edu/instruct/phl302/philosophers/wollstonecraft.html
による。いずれも、10月24日アクセス)

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太田述正コラム#0068(2002.10.19)
<カーター元米大統領の評価>

 ベトナム戦争中の1968年3月に起こったミライ虐殺事件を覚えていますか。
 ウィリアム・カレー中尉に率いられた米軍の一小隊が、ある村の300-400人もの老人、女性、子供を虐殺したという事件です。
 翌年の11月にこの事件がスクープされ、ジョージア州で70年から始まった軍法会議において、カレー中尉に対し71年に有罪の陪審員評決が下され、終身刑が宣告されました。
 これに対し、米国内では同情論が沸騰しました。左翼は、カレー中尉が将軍連中のスケープゴートにされたとし、右翼はこの判決が米軍兵士に対する侮辱だとしました。
 その判決の日、ジョージア州の知事は、カレー中尉支援のジェスチャーとして、州民に対し、「カレー中尉が星条旗に敬意を表したように」車のヘッドライトをつけて走行するように呼びかけました。
 その翌日、カレー中尉は仮釈放され、三年後には無罪放免になりました。
 このジョージア州知事こそ、31年後、ノーベル平和賞を授与されたカーター大統領その人です。(以上、http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/DJ17Aa01.html(10月17日アクセス)による。)
 
 カーター大統領は、フツーのハト派一市民のイメージで彗星のように大統領選に登場し、当選を果たしましたが、イランによる米大使館人質事件に対して手をこまねいたという批判を受け、一任期で交替を余儀なくされました。
 このため、ソ連を「悪の帝国」と呼んで大軍拡によって追いつめ、ついに崩壊に追い込んだ、タカ派のレーガン大統領(共和党。任期1981-1988)と、その前任者であるカーター大統領(民主党。任期1977-1980)とは好対照の存在だと思われています。

 しかし、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻以前にひそかにデタントに見切りをつけ、大軍拡に着手したのはカーター政権でしたし、日本に防衛努力の強化を久方ぶりに要請しだけでなく、集団的自衛権の行使を強く促したのもカーター政権でした(コラム#30参照)。
 また、最近、ソ連のアフガニスタン侵攻の六ヶ月近くも前にカーター政権がアフガニスタンでムジャヒディーン達に親ソ政権打倒を目的としたジハード(聖戦)を始めさせていたことが明らかにされました(http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/DL04Aa01.html。12月4日アクセス)。
 更にカーター政権が初めて、敵性を帯びた国がペルシャ湾地域を支配するために行ういかなる動きに対しても米国の枢要な利益への攻撃とみなし軍事力を含むあらゆる手段で反撃する、とのいわゆるカータードクトリンを打ち出したことも忘れてはなりません。カーター大統領は、このドクトリンに基づき、緊急展開部隊(Rapid Deployment Force)を創設しました。この政策は、それ以降のすべての米大統領によって踏襲されてきています(http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/DK23Aa01.html。11月23日アクセス)。

 一体、カーター氏は、究極のポピュリストなのでしょうか。それとも計算され尽くしたハト派・ポピュリストイメージを振りまくリアリストなのでしょうか。後者だとすれば、彼は大政治家だと言わざるをえません。
はたしてノルウェーのノーベル(平和)賞選考委員会にはその見極めがついたのでしょうか。同委員会の委員長の発言(コラム#65参照)から判断する限り、大変こころもとない思いがします。

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太田述正コラム#0066(2002.10.15)
<ルソー(その2)>

日本文明のユニークさは、文明のかたちが存在しないことです。
日本が、かつて中国文明を模範にして迅速にその社会を変革することができ、また後には欧米文明を模範にして再び迅速にその社会を変革することができたのは、日本文明のかたちのない柔軟性のおかげでしょう。
先の大戦をめがけての日本型経済システムの構築の時をふりかえっても、その感を深くします。
しかし、かたちはなくとも、不動の重心がなければ、日本文明が今日までそのユニークさを失わないまま、生き延びることはできなかったでしょう。その重心となってきたのが、連綿と続く日本の象徴たる天皇家であり、その天皇家に結びついた「公」(おおやけ)の観念です。
この観念の極限形態を我々は、前回紹介した特攻隊員の家族の痛ましいエピソードに見い出すことができます。
しかし、戦後の日本が国家戦略として、安全保障を米国に丸投げする吉田ドクトリンを採用した結果、「公」の観念(と「公」に対置される「自立」の観念)が急速に薄れてしまい、現在の日本の閉塞状況がもたらされた、というのが私の持論であることはご承知のことと思います。

ルソーは、18世紀のフランスの上流階級の間で、「公」の観念が衰退しつつあるとして、警鐘を鳴らしたのでした。
ところが、ルソーが提示した処方箋は、主観的には民主主義の理論でしたが、客観的には全体主義独裁の理論だったのです。

それでは、ルソーの言葉を引用し、コメントを加えていきましょう。
まず、押さえておかなければならないのが、「多くの人間が結合して、一体をなしているとみずから考えているかぎり、彼らは、共同の・・幸福にかかわる、ただ一つの意志しかもっていない。・・共同の幸福は、・・常識さえあれば、誰でもそれを見分けることができる。」(岩波文庫版「社会契約論」144頁)、「この一般意志によってこそ、彼らは・・自由になるのである」(同149頁)といった箇所です。
ルソーは、ある国家において、あらゆる懸案につきそれぞれただ一つの一般意志が存在し、その一般意志が見極められ、施策化されることによって、初めて国民は自由になる、と言っているのです。
「われわれの時代においてはイギリス人が、他のすべての人民よりも、より自由に近い・・」(同32頁)、とルソーはイギリスに敬意を表していますが、イギリス人にとって自由とは、国家の施策によって犯されてはならない個人の人権、が確保されている状態、を指すのであって、ルソーには、(アングロサクソンにとっての)自由の概念が全く分かっていないと言わざるをえません。
この自由についての「誤解」から、「自分たちの利益のためではなしに、多数者の利益のために多数者を支配するということが確かな・・もっとも賢明な人々が多数者を支配するのが、もっともすぐれた・・秩序である」(同100頁)と一般意志を体現するエリート(=前衛党!)による多数者(=大衆)の支配という考え方が出てきます。
このように一旦、前衛党による大衆支配を認めてしまうと、「市民が自由であることを妨げる・・悪人どもがすべてガレー船苦役に処せられるような国では、もっとも完全な自由をうけることができるであろう」(同150頁)と、一般意志を体現しない暗愚な大衆を蔑視し、迫害することが当然視されてしまいます。
「ひとたび、公共の職務が、市民たちの主要な仕事たることを止めるやいなや、また、市民たちが自分の身体でよりも、自分の財布で奉仕するほうを好むにいたるやいなや、国家はすでに滅亡の一歩前にある。」(同131-132頁)のはお説の通りなのですが、「公」への奉仕の観念を持っているのが前衛党員だけでは国が成り立ってはいかないので、「それぞれの市民をして、自分の義務を愛さしめるような宗教を市民がもつということは、国家にとって、じつに重大なことである」(同190頁)と、大衆のイデオロギーによる洗脳(=「公」への奉仕の観念の注入)の必要性が叫ばれます。
そこから、「それ(<=その宗教>)を信じることを何びとにも強制することはできないけれども、主権者は、それを信じないものは誰であれ、国家から追放することができる。・・もし、この教理を公けに受けいれたあとで、これを信ぜぬかのように行動するものがあれば、死をもって罪せらるべきものである」(同191頁)、「・・彼らを[正しい宗教に]つれもどすか、迫害するかが絶対に必要である」(同192頁)、というおぞましい結論が出てきます。「反革命分子」は(肉体的抹消を含む)粛正の対象とすべきだということです。

このルソーの思想は、当時、彼の居住地であるフランスと、祖国であるジュネーブ(スイス)の双方から厳しく糾弾されます。フランスのパリ高等法院の糾弾理由は、ルソーの宗教論(=イデオロギー論)が反キリスト教的であるというものでしたが、ジュネーブ市会の糾弾理由は、ルソーの政治思想そのものを俎上に載せたものであり、ルソーの思想が「無茶で、ふまじめで、不信心で、・・あらゆる政府を破壊する傾向がある」というものでした(同 解説234頁)。
ジュネーブの政治を理論化したと言ってもよいルソーの政治思想を、ジュネーブ市会が非難したことには興味深いものがあります。ジュネーブの人々には、ジュネーブのように(外に追放したり、そこから逃げ出すことが可能な)小さい政治単位にはふさわしい政治思想であっても、それが一般化され、(逃げ場のない)大きな政治単位に適用されることによる危険性が、はっきり見えていたのではないでしょうか。

しかし、やがて初期の迫害を乗り越えて、ルソーの死後、その思想は猛威をふるい始めます。
「ルソーのユートピアは、そのパトスによって人をう<ち>・・<そ>の政治思想は、大革命の進行につれて、一種の神話としてはたらくようになった。彼の影響が最も強かったのは、ロベスピエール、サン=ジュストの山岳等(ラ・モンターニュ)が主導権を握り、ジャコバン、サン=キュロットが活躍した時期である。『社会契約論』の思想はすでに1791年の『人権宣言』にも、1793年の革命憲法にも明瞭に影響している」(「世界の名著 ルソー」(中央公論社)解説54頁)という具合に、ルソーの思想がフランス革命をもたらします。
そのフランス革命がやがて暴走し、行き着く先がナポレオンによる全体主義独裁であったことは、ご存じの通りです。
そして、これを皮切りに、欧州はうち続く全体主義独裁の連鎖、これに伴う戦乱・荒廃の時代を迎えることになるのです。

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太田述正コラム#0064(2002.10.8)
<ルソー(その1)>

 ジュネーブ(スイス)人ジャン・ジャック・ルソーの著作は、翻訳のせいもあるのかもしれませんが、時代の違い、土地柄の違いを感じさせ、ピンとこないものが多いのですが、さすがルソーと感心させられる箇所がないわけではありません。

 その一つが、ルソーが「エミール」の中でフランスの上流階級の子育てぶり等を批判している次のくだりです。(以下、岩波文庫版による。)

「母たちがその第一の義務を無視して、自分の子を養育することを好まなくなってから、子どもは金でやとった女に預けなければならなくなった。そこで、ぜんぜん愛情を感じない他人の子の母になった女は、ひたすら骨の折れることをまぬがれようと考えた。」(上35頁)、「子どもをやっかいばらいして、陽気に都会の楽しみにふけっているやさしい母たち・・」(上36頁)、「子どもに乳をやることをやめてしまったばかりでなく、女性は子どもをつくろうともしなくなった。それは当然の結果だ。母親の仕事がやっかいになると、やがて完全にそれをまぬがれる手段をみつけだす。・・こういう習慣は、そのほかにもある人口減少の原因とあいまって、来たるべきヨーロッパ人の運命を予告している。・・<このような>風潮は、やがてヨーロッパを人の住んでいない土地にするだろう。ヨーロッパは野獣の住むところになるだろう。といっても、それは現在の住民とそれほど変わった住民でもない。」(上37頁)、「母がいなくなれば子もいなくなる。母と子の義務は相互的なものだから、一方で義務を怠れば、他方でも怠ることになる。子どもは母親を愛する義務があることを知るまえに母親を愛さなければならない。血肉の声も習慣と配慮によって強められなければ、はやくから消えてしまうし、愛情はいわば生まれるまえに死んでしまう。」(上41頁)、「子どもを生ませ養っている父親は、それだけでは自分のつとめの三分の一をはたしているにすぎない。かれは人類には人間をあたえなければならない。社会には社会的人間をあたえなければならない。国家には市民をあたえなければならない。この三重の債務をはたす能力がありながら、それをはたしていない人間はすべて罪人であ<る>・・父としての義務をはたすことができない人には父になる権利はない。」(上46頁)、「金のためにやるのではそれにふさわしい人間でなくなるような高尚な職業がある。軍人がそうだ。教師がそうだ。ではいったい、だれがわたしの子どもを教育してくれるのか。・・それは<父たる>きみ自身だ。」(上47頁)。

 ここでルソーが指摘していること、すなわち、エゴイズムの蔓延、子育ての回避、少子化、倫理の退廃、は、欧州の将来に警告を発したものです。残念なことに、100%ルソーの予言通りになってしまっているのが現在の日本です。軍人は憲法上存在しないものとされ、また教師は労働者ないしサラリーマンばかりであり、当然のことながら母らしい母、父らしい父は払底しています。市民や社会的人間も一体どこにいるというのでしょうか。

 半世紀ちょっと前の日本は、全く違う国でした。
 先の大戦末期に特攻機で出撃して散華した人々(その中には日本人以外に朝鮮人も台湾人もいました)は7,000人にのぼりますが、とりわけ悲劇的なエピソードを一つご紹介しましょう。

 1944年12月、フジイハジメ少尉は、特攻隊に志願したが、妻帯者で子どももいることから、認められなかった。彼が数日後、自宅に帰ってみると、妻のフミコの遺書が置いてあった。妻は夫が本懐を遂げることができるように、子どもの一歳のチエコと四歳のカズコとともに荒川で投身自殺していたのだ。その五ヶ月後、フジイ少尉は、沖縄から特攻機で飛び立ち、散華した。衝撃を受けた政府はこの話を秘匿した(http://newssearch.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/2266173.stm(10月8日アクセス)の書評欄から意訳)。(続く)

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太田述正コラム#0050(2002.7.22)
<本居宣長>

 本コラムの一読者から、本居宣長(1730-1801)は面白いというお話をうかがって、大学時代に買って本棚に放り込んであった「うひ山ふみ 鈴屋答問録」(岩波文庫。「うひ山ふみ」=「初山踏」=「入門」)と「秘本玉くしげ」(「近代日本の名著2 先駆者の思想」(徳間書店1966年)に収録)を埃を払って取り出し、読み返してみました。このほか、日本古典文学愛好家の菊地孝仁氏のサイトで、同氏ご推奨の「紫文要領」(紫式部論)や「石上私淑言」(いそのかみのささめごと。和歌論)にも目を通してみました。
http://homepage2.nifty.com/kotenmura/norinaga/norinaga-top.html。7月19日アクセス。)

 私の印象に残った箇所は次のとおりです。(なお、読んだ五編中、最後の二編からは引用していません。また、現代仮名遣いに改めました。)

 「学者はただ、道を尋ねて明らめ・・て、そのむねを、人にもおしえさとし、物にも書遺しおきて、たとい五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用い行い給いて、天下にしきほどこし給わん世をまつべし。これ宣長が志也。」(「うひ山ふみ」文庫29-30頁)
 これは、宣長の自信と決意の披瀝ですね。現在の日本には、政府におもねる人文・社会科学系の御用学者は沢山いますが、宣長のような心構えの学者は少ないのではないでしょうか。

「すべて神の道は、儒佛などの道の、善悪是非をこちたくさだせるようなる理屈は、露ばかりもなく、ただゆたかにおおらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞよくこれにかなえりける。」(同上45頁)、「或は此天地の道理はかようかようなる物ぞ、人の生るるはかようかようの道理ぞ、死ぬればかようかようになる物ぞなどと、実は知れぬことをさまざまに論じて、己が心々にかたよりて、安心をたて候は、皆外国の儒佛などのさかしらごとにて、畢竟は無益の空論に候。凡てさようのことは、みな実は人の智を以てはかり知べきことにはあらず候」(「鈴屋答問録」文庫86-87頁)
 宣長の宗教・イデオロギー批判です。既成の宗教・イデオロギーの思考枠組みをとっぱらって、自分自身の目で素直に物事を見よ、これが日本人の本来の物の見方だ、と言っているわけです。

「御国にては人のみにあらず、龍雷のたぐい、或は虎狼などの類いにても、凡て神霊あるもの、又畏る可きをば、直に其物を指てかみと云。」(同上105頁)、「皇統の動きたまはぬを本として、其外にも他国にまされることの多きぞ、天照大神の御本国のしるしにして、他に異なる也。」(同上118頁)
ここは日本論です。現在のわれわれにとってはあたりまえのことですが、200年以上前に、市井の一町人学者たる宣長が、これらをさらっと口にしたことに敬意を表したいですね。

「天地は一枚なれば、皇国も、漢国も、天竺も、其余の国々も、皆同一天地の内にして、皇国の天地、漢国の天地、天竺の天地と別々にあるものには非ず。然れば其天地の始まりは、萬国の天地の始まり也。然れば、古事記、日本紀に記されたる天地の始まりのさまは、萬国の天地の始まりさまにあらずや。」(同上127-128頁)
「世々の物知り人たち・・神典を私にさまざまと、あらぬさまに説曲げ、天地の始まりの神たちをも、日神をも、にほんばかりの神の如く説て、みずからの道を小く卑くなすは、いかなる心ぞや。・・神道者は、他国の説によりて、吾古典をとりさばく也。吾は吾古典によりて、他国の説をとりさばく也といえり。」(同上133頁)
宣長は、日本が特殊だと自己卑下する通弊をなげうち、日本の中に普遍に通じるものを発見し、世界に向かって発信せよと言っているのです。

「今日眼前の利益を思わば、まずその根本を正さずにあるべからず」(「秘本玉くしげ」徳間書店228頁)
「百姓町人大勢徒党して強訴濫放・・の起こるを考うるに、後にいずれも下の非はなくして、みな上の非なるより起これり。」(同上236頁)
ここは、鋭い体制批判であり、宣長の没後三分の二世紀後に起こった明治維新を先取りしていると言ってもいいでしょう。

「惣じて、古より唐土の風俗として、何事によらず、ふるきによることをばたっとばず、ただ己が私智をもって考えて、萬のことを改め変えて、功を立てんとするならわしなり。これはただ己が才智を恃みて、まことの道を知らざるものなり。ゆえに、その考えたるところの議論理屈は、いかほどもっともにて的当したるように聞こえても、実事になりてはその議論のごとくには行われず、思いのほか失あるは、まことの道理にかなわざるところあるがゆえなり。」(同上230頁)、
 宣長の中国論です。20世紀後半に毛沢東率いる中華人民共和国で中国人民に降りかかることとなる災厄を予言したかのような斬新な指摘ですね。

 読者のみなさんの宣長論もお聞かせ下さい。

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