カテゴリ: アングロサクソン

太田述正コラム#4930(2011.8.14)
<イギリスと騎士道(その11)>(2011.11.4公開)

 『宮廷人』は、同時代のイギリスでは、騎士道の精神が非騎士たる指導層にも広まっていたというのに、(イギリスを除く)欧州等においては、旧騎士以上の人々の上品な行儀といった形骸的な指針へと矮小化してしまっていることを示していますし、『ドン・キホーテ』は、騎士の時代を懐かしむアナクロな人物を笑いのめす喜劇であり、そもそも、騎士道に関する本とは言えないでしょう。
 結局、騎士に関する英語ウィキペディアは、騎士道に関する本は、イギリス人の生み出したものしかない、ということを示している、と私は思うのです。

 (6)結論

 もう結論は出ているようなものですが、改めて騎士道について考えてみましょう。
 まず、「騎士」がいなければ「騎士道」はありえないわけですが、騎士の起源は何か?
 西ローマ帝国が終焉を迎えた西欧及び中欧では、フランク族が幅を利かせたわけですが、その軍隊は、ローマ帝国の軍隊同様、歩兵が中心で、その中の上級者だけが騎乗していました。ただし、騎乗者も、馬から降りて戦いました。
 732年のトゥール・ポワティエ間の戦い(The Battle of Tours-Poitiers)で、ウマイヤ朝アラブ侵攻軍を破ったカール・マルテル(Karl Martel)の軍隊も歩兵が中心であり、騎乗の上級者も馬から降りて戦ったものです。(注28)

 (注28)「7世紀後半のフランク王国は、2国(西北のネウストリアと北東のアウストラシア)<等>に分かれており、それぞれの宮宰が争っていた。アウストラシアの宮宰であったカロリング家のピピン<(Pippin)>2世が勝利して、実権を掌握した。この内紛に乗じて、イベリア半島の西ゴート王国を征服したウマイヤ朝のイスラム政権が、ピレネー山脈を越えてフランク王国内に侵入を始めたのである。とりわけ720年からは大規模な侵入が始まり、・・・ボルドーを略奪し、破壊した後、軍を東に向け・・・ロワール川流域に進めたのである。この知らせを受けたフランク王国の宮宰カール・マルテル(ピピン2世の子)・・・は、事態の重大さを察知し、急遽軍勢を集めてパリから・・・急行し・・・トゥールに入ったところ、イスラム軍は到着していなかったため、南のポワティエに向かった。ポワティエの手前20kmの平原で両軍は遭遇し、ここに布陣して互いに相手方の様子を伺っていたが、1週間目の正午から前面衝突が始まった。正午、イスラム軍の騎兵隊が突撃を開始した。重装歩兵を中心とするフランク軍は、密集隊形を組み、前面に盾の壁をつくって防戦した。イスラム騎兵は突撃を繰り返したが、フランク軍の盾の壁はこれを支え続けた。この日、戦いは勝敗がつかず、日没で止んだ。フランク軍は当然、翌朝から再び激しい戦いが始まると予想していたが、朝靄が明けてみると、イスラム軍は多数の遺体を残したまま姿を消していた。・・・<総司令官>を失ったイスラム軍は、夜中に南に総退却していたのである。
 この思わぬ勝利で、カール・マルテルの声望は一気に上がった。しかし、・・・イスラム軍の騎兵隊の威力を嫌というほど見せつけられた・・・マルテルは、騎兵隊の大増員を行ってイスラム軍の脅威に備えようとした。鐙(あぶみ)を知らなかったフランク騎兵が、優れたイスラム騎兵の馬の鐙を採用したのもこの戦いの後であった。また、マルテルは、騎兵に農民付きの土地を与えて忠実な直属騎兵隊を創設しようとした。全土の3分の1を占めていた教会領の没収を強行して、騎士に貸与(恩貸)したのである。このようにして、土地を貸与する(これを封土といった)ことによって臣下に服従(奉仕)させるという主従関係が、フランク王国の新しい支配の制度となっていった。これが封建制度である。カール・マルテルの子のピピン3世・・・は751年、名ばかりのメロヴィング<(Merovingian)>家の王を廃して、自ら王位に就いた。これに始まるのがカロリング<(Carolingian)>朝である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 しかし、注28で紹介した事情から、8世紀にカロリング朝になると、皇帝率いる軍隊において、騎乗者の割合が次第に増えて行き、かつ、騎乗者は騎乗したまま戦うようになります。
 この時点で、ラテン語のcaballus由来の騎士(chevalier)という言葉が、騎乗用の馬を保有できる人々、すなわちフランク人(ゲルマン人)たる支配階級を意味する言葉として使われるようになったのです。
 
 このような、chevalierによってもっぱら構成される軍隊を引き連れて、フランク化したノルマン人(バイキング)たるウィリアムは、1066年にイギリスを征服したわけです。
 ところが、彼らがノルマン訛りのフランス語をイギリスに大量に持ち込んだにもかかわらず、chevalierという言葉、ないしはその英語化した言葉はイギリスに定着しませんでした。
 そして、1100頃に、古英語(Old English)の召使い(servant)を意味していたcnihtという言葉に由来する、knightが、イギリス王の部下たる戦士のうち、騎乗して戦う者を指す言葉として用いられるようになるのです。
 (この用法が、その後、ドイツ語圏(Ritter)、蘭・北欧圏(ridder)に普及します。)
 (以上、事実関係はb及びcに拠るが、それを私見でもって若干敷衍した。)
 
 さて、少し時計の針を戻して、930年に、現在のフランスのブルゴーニュ地方のクリュニー大修道院長のオド(Odo abbot of Cluny。878?〜942年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Odo_of_Cluny
が、彼が著した、オーリヤックの聖ジェラルド(St. Gerald of Aurillac)の伝記の中で、キリスト教の神聖さ(sanctity)と正統性を剣でもって確保するのが騎士の役割であるということを言い出します。(b)
 この考え方が、思うに、十字軍につながって行き、この十字軍が今度は、騎士道の成立に影響を及ぼした(c)、と考えられるのです。(注29)

 (注29)cは、騎士道の成立に、イスラム世界の、奴隷戦士たるマムルークの間で14世紀に確立したフルシーヤ(Furusiyya)
http://en.wikipedia.org/wiki/Furusiyya
が及ぼした影響についても示唆している。

 要するにこういうことです。
 イギリスに占領者としてやってきた騎士達が、アングロサクソン化することによって、アングロサクソン的価値観の擁護者となり、そのような騎士の在り方が、地理的意味での欧州において矮小化的継受がなされ、騎士(chevalier)の在り方、すなわち騎士道(chevalerie)と称されるようになった、と思われるのです。
 矮小化とは、アングロサクソン的価値観が、騎士道の3属性に即して言えば、君主、神、及び高貴な女性への忠誠へと矮小化されてしまったということです。
 このような騎士道なる概念は、イギリスに逆輸入されることになるのですが、その証拠に、英語では、騎士道を指す言葉はchevalerieを英語化したchivalryであり、knighthoodというknight由来の言葉もつくられはしたけれど、ほとんど用いられていません。

4 終わりに

 実質的な意味での騎士道とは、アングロサクソン的価値観そのものであり、イギリスにおいて、かつては騎士(knight)が、そして近代以降は紳士(gentleman)がその体現者たることを求められたのに対し、形式的な意味での騎士道とは、かかる実質的な意味での騎士道を、地理的意味での欧州のゲルマン系支配層が、騎士が追求すべきところの、君主・神・高貴な女性への忠誠、へと矮小化したものである、というわけです。
 (ただし、「(6)結論」の箇所は、更なる検証が必要であることをお断りしておきます。)

(完) 

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太田述正コラム#4928(2011.8.13)
<イギリスと騎士道(その10)>(2011.11.3公開)

<脚注:アーサー王の円卓の騎士>

 アーサー王伝説におけるあの有名な円卓(The Round Table)は、その周りに彼と彼の騎士達が集まったテーブルである。
 円いのは参集者達が皆対等であることを示唆している。
 1155年に初めて円卓への言及がなされたが、12世紀末には、アーサーゆかりの騎士団の呼称・・円卓の騎士(the Knights of the Round Table)・・において使われるようになった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Round_Table
 円卓は、やがて、アーサー王の伝説的宮廷を真似して行われたお祭りの呼称となった。
 結婚や戦勝を祝す際等において、通常、切っ先を丸めた槍による馬上槍試合が行われるとともに、宴会や踊りが行われた。
 参集者がランスロット、トリスタン等に扮することもあった。
 初めて行われたのは、1223年であり、十字軍のベイルートの君主が、キプロスで、彼の年長の息子達を騎士に叙した折のことだった。
 爾後、この催しは、15世紀まで行われた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Round_Table_(tournament)

 (4)騎士道に関する本

 騎士に関する英語ウィキペディア(c)は、騎士道の普及に重要な役割を果たした本(※は本の中の一つの話)として、次の6つをあげています。(以下に出てくる諸典拠等も参照した。)

I :1136年頃に書かれた マンモスのジェフリー(Geoffrey of Monmouth)の『ブリタニア列王記(Historia Regum Britanniae=History of the Kings of Britain)』、
II :14世紀に書かれた 真珠詩人(Pearl Poet)の『ガウェイン卿と緑の騎士(Sir Gawain and the Green Knight)』(前出)、
III:14世紀末に書かれたジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer)の 『騎士物語(The Knight's Tale)』※、
IV :1485年に出版された トマス・マロリー卿(Sir Thomas Malory)の 『アーサー王の死(Le Morte d'Arthur=The Death of Arthur)』、
V :1528年に出版された バルダッサーレ・カスティリオーネ(Baldassare Castiglione)の『宮廷人(Il libro del cortegiano=The Book of the Courtier)』、
VI :1605年と1615年に出版された ミゲル・デ・セルバンテス(Miguel de Cervantes)の『ドン・キホーテ(Don Quixote)』、

 年代順に配列しましたが、これを見ると、12世紀から15世紀にかけての初期の約350年間に上梓された4冊は、・・そのうち3冊が(その全部または一部が)アーサー王伝説群に係るものであるところ・・いずれも、イギリス人が書いたものばかりです。
 ここからも、騎士道=イギリス騎士道、という私の主張がもっともらしいことがお分かりいただけようというものです。
 以下、簡単に、これらの本について、それぞれ、見て行きましょう。

I :マンモスのジェフリー(1100?〜1155?年)(コラム#463、468)は、僧侶、英国史編纂者、アーサー王伝説普及者。彼はこの本をラテン語で書いた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Geoffrey_of_Monmouth
 この本は、英国史の擬似歴史的叙述を行ったものであり、トロイ人がブリトン人の国をつくってから(コラム#463、468)の2000年にわたるブリトン人の王の事績を編年体で記し、7世紀前後にアングロサクソンがブリトン人の大部分を支配する時までをカバーしている。
 17世紀以来、他の典拠によって裏付けることができない記述が多いことから、歴史書としての信頼性はなくなったが、中世文学としては貴重なものとして評価されている。
 リア王と3人の娘達の話や、(ウェールズ語を使っていた人々以外に)アーサー王の伝説群を紹介したことで知られている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Le_Morte_d%27Arthur

II :真珠詩人ないしガウェイン詩人(Gawain Poet)というのは、『ガウェイン卿と緑の騎士』等の名前不詳の著者に付けられたあだ名。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pearl_Poet
 この詩は、中期英語(Middle English≪=1100年ごろ‐1500 年ごろの英語≫)の北西ミッドランド(North West Midland)方言で書かれており、危機に直面した時の名誉と騎士道の重要性を訴えたものである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sir_Gawain_and_the_Green_Knight 前掲
 (ただし、≪≫内は下掲↓による。)
http://ejje.weblio.jp/content/Middle+English

III:ジェフリー・チョーサー(1343?〜1400年)は、イギリスの詩人、作家、哲学者、錬金術師、天文学者、官僚、宮廷人、外交官。
http://en.wikipedia.org/wiki/Geoffrey_Chaucer
 この物語は、中期英語で書かれた彼の『カンタベリー物語(The Canterbury Tales)』(コラム#54、3844、4888)の第一話であり、宮廷愛や倫理的ジレンマといった騎士道の典型的諸様相を紹介している。
The first page of Knight's Tale in the Ellesmere manuscript
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Knight%27s_Tale
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Canterbury_Tales

IV :トマス・マロリー卿(1405?〜1471年)は、イギリスの作家。最近の説は、彼がワリック州(Warwickshire)の騎士、地主にして下院議員であったとする。この本は、彼が著者か編者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Malory
 中期フランス語(Middle French)で書かれ、原題は、'Le Morte Darthur’であり、アーサー王、その王妃のグィネヴィア、円卓の騎士筆頭のランスロット、そして円卓の騎士そのもの、を紹介したもの。
http://en.wikipedia.org/wiki/Le_Morte_d%27Arthur

V :バルダッサーレ・カスティリオーネ(1478〜1529年)は、イタリアの宮廷人、外交官、兵士、著名なるルネッサンスの作家。
http://en.wikipedia.org/wiki/Baldassare_Castiglione
 この本は、お行儀本であり、完全な宮廷人とは何か、そして補足的に完全な貴婦人(lady)とは何かを記したもの。
 16世紀におけるベストセラーの一つであり、6ケ国語に翻訳され全欧20か所の出版者によって出版された。イギリスにおいても、その上流階級に、紳士とは何かについて大きな影響を与えた。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Book_of_the_Courtier

VI :ミゲル・デ・セルバンテス(1547年受洗〜1616年)は、スペインの小説家、詩人、戯作者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Miguel_de_Cervantes
 完全な原題は、『英知あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ(El ingenioso hidalgo don Quijote de la Mancha=The Ingenious Gentleman Don Quixote of La Mancha)』・・≪(「ドン」は郷士より上位の貴族の名に付く。「デ・ラ・マンチャ」はかれの出身地のラ・マンチャ地方を指す。つまり「ラ・マンチャの騎士・キホーテ卿」と言った意味合い)≫・・で2巻からなる。初の近代欧米文学とされる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Don_Quixote
 (ただし、完全な原題の邦訳と≪≫内は下掲↓による。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%86
 この小説は、騎士道の理想とそれがセルバンテスの時代における現実とは相いれないことを描く。これは、中世末においては、戦争の新しい諸手法が、鎧をまとった古典的な騎士を時代遅れにしてしまったため。(c)

(続く)

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太田述正コラム#4926(2011.8.12)
<イギリスと騎士道(その9)>(2011.11.2公開)

 (3)騎士道の属性

 騎兵に関する英語ウィキペディアは、中世の文学を通じてうかがえる騎士道の属性は、互いに重なり合うところの、三つ・・一、同郷人(countrymen)及びキリスト徒たる仲間(fellow Christians)への義務、二、神に対する義務、三、女性に対する義務・・であるとしています。
 第一の戦士的騎士道(warrior chivalry)とは、君主(lord)への義務であり、『緑の騎士(Green Knight)』<(注20)>や『ガウェイン卿とラグネルの結婚(The Wedding of Sir Gawain and Dame Ragnelle)』<(注21)>におけるガウェイン卿がその例であるというのです。

 (注20)『ガウェイン卿と緑の騎士(Sir Gawain and the Green Knight)』。この物語の成立は12世紀にまで遡り、その主人公たる、円卓の騎士、ガウェイン卿(Sir Gawain)はアーサー王の甥であり、この物語のテーマは約束を守ることだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sir_Gawain_and_the_Green_Knight
 なお、対応する日本語ウィキペディアは、筋がきちんと説明されていない等、できが良くない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%8D%BF%E3%81%A8%E7%B7%91%E3%81%AE%E9%A8%8E%E5%A3%AB
 (注21)恐らく15世紀に書かれたと思われ、そのテーマは主君の命に従うことであり、そのサブ・テーマは、女性は「自分自身で意思決定を行うこと(sovereynte)」ことを一番望んでいるというものだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Wedding_of_Sir_Gawain_and_Dame_Ragnelle
 なお、ガウェイン卿に関する日本語ウィキペディアにおけるこの物語の紹介では、sovereynteを「自分の意思を持つこと」と訳している
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%B3#.E3.82.AC.E3.82.A6.E3.82.A7.E3.82.A4.E3.83.B3.E5.8D.BF.E3.81.A8.E3.83.A9.E3.82.B0.E3.83.8D.E3.83.AB.E3.81.AE.E7.B5.90.E5.A9.9A
が、いかがなものか。

 第二の宗教的騎士道(religious chivalry)とは、無辜の人(innocent)を守り神に奉仕する義務であり、聖杯(Grail)伝説<(注22)>群の中におけるガラハッド卿(Sir Galahad)<(注23)>ないしパーシヴァル卿(Sir Percival)<(注24)>がその例であるというのです。

 (注22)「漁夫王(いさなとりのおう・・・Fisher King)は、アーサー王物語に登場するカーボネック城の主。本名はペラム王で、またロンギヌスの槍によって癒えない負傷を得たことから、不具の王(Wounded King) などとも呼ばれる。王が病むことにより王国も同様に病み、肥沃な国土は荒野へと変わってしまう。王の病を癒すために勇者たちが「聖杯」を探しに赴き、そのうちの一人が聖杯を探し当て王と王国を癒すことに成功する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%81%E5%A4%AB%E7%8E%8B
 「漁夫王(または聖杯王)が病み、主人公である聖杯の騎士が聖杯に正しい問いをすることで回復することができるのだが、失敗し、騎士は聖杯探求の使命を与えられる・・・。騎士は数々の試練を乗り越え、聖杯を発見し、漁夫王は癒され国土は再び祝福される。伝説中で聖杯(Holy Grail)は、最後の晩餐のとき用いられた杯、または十字架上のイエスの血を受けたものであり、聖遺物のひとつとされる。発見に成功する騎士にはガウェイン、ガラハッド、あるいは・・・パーシヴァル・・・など諸説がある。いくつかの伝説では、漁夫王と主人公は祖父と孫などの血縁関係にあり、また聖杯を最後に見つける場所は聖杯城とも呼ばれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9D%AF%E4%BC%9D%E8%AA%AC
 (注23)ガラハッドは、ランスロット(後出)とカーボネックのエレーヌ(Elaine of Corbenic)の間にできた子。アーサー王伝説群の中では最も遅く登場した人物。恐らくはイエスの騎士的顕現。
http://en.wikipedia.org/wiki/Galahad
 (注24)パーシヴァルは、ガラハッドに同道して聖杯城に赴き、聖杯を見つける2人の騎士のうちの1人。彼の息子を白鳥の騎士たるローエングリン(Lohengrin)とする物語もある。リヒャルト・ワーグナーは、それぞれの物語を、楽劇『ローエングリン』、『パルツィファル』に仕立てた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Percival

 第三の宮廷愛騎士道(courtly love chivalry)とは、自分自身にとっての貴婦人(lady)、ひいてはすべての女性への義務であり、ランスロット卿(Sir Lancelot)<(注25)のグィネヴィア王妃(Queen Guinevere)への愛<(注26)>ないしトリスタン卿(Sir Tristan)のイソールト(Iseult)への愛<(注27)>がその例であるというのです。(b)

 (注25)「ランスロットの父ベンウィックのバン王・・・(・・・King Ban)・・・は、即位したばかりのアーサー王の後ろ盾となってイングランド統一戦に兵を送ったフランスの領主である。そのためにフランスを長期間留守にしてしまい、そこをクラウダス(・・・Claudas)に攻められて・・・領地を失った。<この父も、そして母も>早くに他界し<たことから、ランスロット>は湖の乙女という妖精に育てられたため、「湖の騎士(Lancelot du Lac)」とも呼ばれる。その後、成人になった彼は武者修行のため・・・ブリテン島・・・に渡り、そこでアーサーと運命的に出会った。そして彼に惚れ、のちに円卓の騎士として名を馳せることになる。・・・騎士としてはランスロットが一等、ガウェインが二、アーサー王は三と評される。・・・ペレス王の娘、カーボネックのエレインは、魔法の薬の幻覚と、家臣らの演技を使って、ランスロットに<アーサー王の妃の>グィネヴィア王妃と誤認させて、彼と一夜を共にする。このとき身篭った子がガラハ<ッ>ドである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88
 (注26)グィネヴィアは、当初ランスロットを遠ざけていたが、やがて二人は愛人となる。二人の関係を疑った他の円卓の騎士達12人が、同衾しているこの二人のところに踏み込み、ランスロットは逃亡するがグィネヴィアは捕まって、アーサー王によって火刑に処せられようとする。しかし、彼女はランスロットによって救出され、一緒にフランスに逃亡する。その後、アーサーはフランスに渡ってランスロットの城を攻めるがうまくいかない。最終的にランスロットは隠遁生活に入り、グィネヴィアは尼僧となる。
http://www.sir-lancelot.co.uk/Guinevere-Lancelot.htm
 (注27)トリスタンは、トリストラム(Tristram)とも呼ばれ、イソールトは、Yseultとも綴られ、イゾルデ(Isolde)とも呼ばれる。「トリスタンの起源はピクト人≪(Picts。鉄器時代末から中世初にかけて現在のスコットランドの東部及び北部に住んでいた人々)≫の伝承にあるのではないかと思われている。そして、この物語がコーンウォールを経て、ブルターニュへ、そして西洋の各地に移ったと見られる。・・もともと『アーサー王伝説』とは別の伝説であったが、・・アーサー王物語にも組み込まれた。」
 このコーンウォールの王族のトリスタンと(アイルランド王の娘でトリスタンの叔父のコーンウォール王の許嫁、後にその王妃となった)イソールトの不倫愛の話がランスロットとグィネヴィアの物語の成立に影響を与えた可能性が高い。
 ワーグナーが、やはり楽劇『トリスタンとイゾルデ』に仕立てている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Tristan_and_Iseult
 (ただし、「」内は下掲↓による。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3
 (また、≪≫内は下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Picts

 さて、注に記したところの、一つ一つの物語を丁寧に見て行くと、上記英語ウィキペディアによるこれらの物語の総括の仕方は必ずしも正確ではないのではないか、と言わざるをえません。
 私の見るところ、騎士道とは、女性を含め、個々人が、自由に己の意思に従って行動すべきこと、その個々人が相互に約束を取り交わし、その約束を守ろうとする結果として社会が成立すると考えるべきこと、そして、その社会は、個々人が相互に思いやりを抱きつつ、場合によっては自分を犠牲に供することによってのみ維持できること、を唱えるものの考え方なのであり、言い換えれば、騎士道とは、イギリス的(アングロサクソン的)価値観そのものなのです。
 神がダシに使われているだけのように見えること、男女間の愛は主君の命に従うことよりも優先すると考えているとしか思えないこと、等、まことにもってアングロサクソンらしいではありませんか。

 ちなみに、騎士に関する英語ウィキペディアには、「中世の騎士達は、「弱者(weak)、守るすべのない者(defenseless)、寄る辺なき者(helpless)を保護(protect)し、全ての人々の一般的福祉のために闘う」ことを求められた。・・・
 戦闘において貴族達や騎士達が捕虜になった場合、彼らは命をとられることなく、しばしば、快適な環境の下で身代金が支払われるまで拘置された。
 この行動規範は、非騎士達(射手、小作農、歩兵、等々)には適用されなかったのであり、彼らは、しばしば捕えられた後殺戮されたし、戦闘の最中には、相手方の騎士の所へ行って戦おうとする騎士達に、単なる邪魔者扱いをされた」と記されています。(c)

 この前段の意味は、いまや明らかでしょう。
 なお、この後段については、イギリスは、もっぱらイギリスの外であるスコットランドやフランスで戦ったところ、その際には、非騎士の同道は最小限に抑えざをえなかったと考えられる・・フランスにおいて、イギリス軍の射手が、熟練を要する長弓をもっぱら用いた(コラム#4879、4918)ことからも、彼らは準騎士的な存在であったと思われる・・ことから、イギリス騎士道が、非騎士を多数徴用して戦闘に使ったところのフランス等によって継受された時に、捕虜を殺さないという取り扱いに関しては、騎士道が矮小化的変貌を遂げ、騎士だけを対象とするものとなった、とも推察できそうです。

(続く)

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太田述正コラム#4924(2011.8.11)
<イギリスと騎士道(その8)>(2011.11.1公開)

さて、サラディンについてです。
 彼の名前の正しい読みは、サラーフッディーン(=サラーフ・アッ=ディーン。1138?〜93年)。
 彼は、サダム・フセインと同じく現在のイラクのティクリット生まれの、ただしクルド人であり、シリアとエジプトのスルタンとなり、アイユーブ朝を創設した人物です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3
 
 「・・・[サラディンによる1187年のアクレ(Acre)と、とりわけ]エルサレム(Jerusalem)の陥落に対して、第三次十字軍<(1189〜92年)>が・・・決行された。
 [一番最初に出発したのは、神聖ローマ皇帝のフリードリッヒ1世(Frederick I)だったが、1190年に渡河の際に落馬して溺死し、その後継たるオーストリア王レオポルド5世(Leopold V)も、そして、フランス王フィリップ2世(Philip II)も、1191年には本国に引き揚げてしまったため、イギリス王リチャード1世(リチャード獅子心王)とイギリス兵が第三次十字軍の主力となった。ちなみに、ビザンツ帝国は、サラディンの側に加担していた。]
 ・・・リチャード1世・・・は、アクレの包囲攻撃を行い、これを落とし、女子供を含む3,000人のイスラム教徒たる捕虜を処刑した。
 サラディンは、報復として、<2週間弱の間、>捕虜にしたすべてのフランク人<(十字軍兵士)>を殺害した。・・・
 サラディン軍とリチャード軍は1191年9月・・・アルスフ(Arsuf)で戦い、サラディン軍は敗北したが、リチャード獅子心王によるあらゆる軍事的試みや戦闘にもかかわらず、エルサレムを奪還することはできなかった。
 それでも、サラディンのリチャードは、軍事的敵対関係であると同時に騎士的な相互敬意の関係を築いた。<(注18)>

 (注18)日本語ウィキペディアは、
 「エルサレムを占領した第1回十字軍は捕虜を皆殺しにし、また第3回十字軍を指揮したリチャード1世も身代金の未払いを理由に同様の虐殺を行った。しかし、サラーフッディーンは敵の捕虜を身代金の有無に関わらず全員助けている。・・・捕虜を助けた事に関して、次のような逸話がある。サラーフッディーンが身代金を支払わない捕虜の扱いに困っていると、彼の弟・・・が捕虜を少し自分に分け与えるよう進言した。サラーフッディーンは訳を訪ねるが弟は答えず、彼の言う通りに捕虜を与えてやった。すると、弟は自分の物だからと言って全て解放してやり、こうするのが良いのだと兄に言った。喜ぶ兵士たちの姿を見たサラーフッディーンは捕虜を殺さないことを決心したという。また、病床にあるリチャード1世に見舞いの品を贈る等、敵に対しても懐の深さを見せている。
 その寛容さは名声を高めたが、しばしば不利益となっても現れた。行軍の際に、途中で立ち寄った村の村人たちに軍事費の一部を分け与えていたため、彼の兵士の多くは軍事費を自腹で用意しなければならない程であったという。私財も常にそのように用いたため、サラーフッディーンの遺産は自身の葬儀代にもならなかった。また、ハッティンの戦いでティールに追い込んだ守将バリアンに対し、当初は武装解除を条件に脱出を許可していたが、書簡でエルサレムの指揮権を請われるとこれを認めて入城させ、エルサレム攻略戦での苦戦を招いている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3 前掲
としており、いかにも具体的かつもっともらしいが、この部分を含め、一切典拠が付けられていないどころか、参考文献すらあげられていない。
 
 アルスフで、リチャードが馬を失ったところ、サラディンは2頭の馬を贈った。
 リチャードは、シチリア王国の王妃[で当時未亡人]たる彼の妹のイギリスのジョーン(Joan of England, Queen of Sicily)<(注19)>とサラディンの弟を結婚させ、エルサレムをこの二人への結婚の引き出物にする提案を行っている。・・・

 (注19)シチリア島を含む南イタリアは、11世紀に、ノルマン公国のノルマン人達によってイギリスの征服前後に、しかし、イギリスの征服よりも時間をかけて征服された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Norman_conquest_of_southern_Italy
 1130年にロジャー2世(Roger II)によってノルマン諸領が一つにまとめられたシチリア王国が創建され、その孫で三代目のウィリアム2世(Wiliam II。〜1189年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Sicily
と1177年に結婚したのが、アンジュー生まれでイギリス及びフランス内のイギリス領で育ったところの、この、イギリスのジョーン(1165〜99年)だ。夫死去後、次のシチリア国王のタンクレド(Tnacred)によって幽閉されていたジョーンを、十字軍に赴く途中の兄のリチャードが救出した話は有名。なお、彼女とサラディンの弟との結婚は、両者とも異教徒との結婚を拒否したために実現しなかったもの。
http://en.wikipedia.org/wiki/Joan_of_England,_Queen_of_Sicily
 シチリア王家とイギリス王家は、どちらもノルマン公国ゆかりであり、もともと同族意識があったのではなかろうか。

 1099年、<第一次十字軍の時>にエルサレムを陥落させると十字軍は殺戮をしたというのに、サラディンは恩赦を与え、一般のカトリック教徒だけでなく打ち破ったキリスト教徒たる兵士達に対しても、彼らが・・・身代金を払いさえすれば、<エルサレムへの>自由通行権を与えた。
 (ギリシャ正教徒は一層優遇された。というのは、彼らは西欧の十字軍にしばしば反対したからだ。)・・・
 1191年4月、あるフランク人の女性の3か月の赤ん坊が彼女の宿営地から盗まれ市場で売られてしまった。
 フランク人達は、彼女に自らこのことをサラディンに訴えるように促した。
 ・・・サラディンは、自分の金でこの子供を買い戻した。
 彼は、この子をこの母親に与え、彼女は受け取った。
 そして、涙を垂らしながら、この子を胸にかき抱いた。
 <イスラム教徒の>人々・・・はこの光景を見て声を出して泣いた。
 彼女は、しばらくの間乳を与えていたが、サラディンは、彼女のために馬をもてと命じ、彼女を宿営地まで送り届けさせた。・・・
 信仰の違いにもかかわらず、イスラム教徒のサラディンはキリスト教の君主達、とりわけリチャードに尊敬された。
 リチャードは、ある時、サラディンは偉大な君主(prince)であると称賛し、疑いもなく、彼はイスラム世界における最も偉大で強力な指導者である、と述べている。
 サラディンはサラディンで、リチャード以上に尊敬に値するキリスト教の君主(lord)はいない、と陳述している。・・・
 ・・・この二人は、1192年にラムラ条約(Treaty of Ramla)を締結し、エルサレムはイスラムのもとにとどまるけれど、キリスト教の巡礼達に開放されることとなった。・・・
 この条約締結後、サラディンとリチャードは、敬意の証として、夥しい贈り物を交換した。・・・
 しかし、<リチャードとサラディン>は、対面することはついになく、相互の通信は、<最後まで>書簡または使者によってなされた。・・・
 中世が過ぎると、サラディンのことは忘れられて行ったが、サー・ウォルター・スコット(Walter Scott)<(コラム#4177、4197、4414、4885)>は、彼の小説、『タリスマン(The Talisman)』(1825年)でサラディンのことを好意的に取り上げた。
 <英語圏における>現在のサラディン観<であるところの>・・・近代的な・・・自由主義的な欧州の紳士<たるサラディン>・・・は、主としてこの小説に由来する。」

 (以上、特に断っていない限り、下掲による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Saladin
 (ただし、[]内は下掲による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Third_Crusade

 以上から推察できるのは、サラディンが敬意を表されることになったのは、サラディン自身の人柄もさることながら、彼と戦ったのがイギリス人たるリチャード獅子心王であったからこそである、ということです。
 イギリスには、その自然宗教の伝統から、開かれた、かつ世俗的な宗教観があり、だからこそ、イスラム教徒のサラディンを、全く偏見なく評価することができたのでしょう。
 また、イギリス人には、人種差別意識が希薄です。
 サラディンが捕虜を原則として殺害しなかったこと、女性を大切にしたこと等にリチャード以下のイギリス人達はいたく感動したに違いありません。
 ウォルター・スコットはスコットランド人ですが、19世紀に、英語世界に、改めてこのサラディン像を売り込み、それを確固としたものにしたわけです。
 ここまでくれば、韜晦大好き人間のイギリス人が、騎兵に関する英語ウィキペディアの中の記述で、「欧州」の「代表的騎士」の筆頭にサラディンをもってきたのは、決して冗談などではないことがお分かりいただけることと思います。
 世代的には、サラディンよりも古手ですが、「欧州」の「代表的騎士」の2番手にブイヨンのゴドフリーというフランク人、すなわち、地理的意味での欧州のどこの「国」にも属さない人物、をもってきた理由についても、改めて思いを致していただきたいものです。

(続く)

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太田述正コラム#4922(2011.8.10)
<イギリスと騎士道(その7)>(2011.10.31公開)

 では、最後にあげられていた、二人目のフランス人騎士のジョフロイ・ド・シャルニ(1300?〜56年)はどうでしょうか。

 生まれたのは、現在のフランスのブルゴーニュ地方のシャルニです。
 彼は、フランスのジャン2世(Jean II=イギリスではジョン2世(John II))が、イギリスのエドワード3世によって創設されたガーター騎士団の真似をして1351年に創設した星騎士団(Order of the Star)の創設時の団員の一人です。
 彼は、フランス王旗たるオリフラム(Oriflamme)の旗手という至上の名誉と危険・・敵の攻撃の的となった・・の担い手であり、戦技だけでなく、敬虔さ等においても有名であったといいます。
 彼のエピソードとして英国でよく知られているのは、英仏百年戦争における最も著名な戦いの一つである1356年のポワティエ(Poitiers)の戦い(注14)の直前、英仏両陣営の首脳達が戦いを回避するための話し合いを行った時、彼が、両陣営から騎士を100人ずつ出して戦うことで決着をつけ、それ以上の犠牲者が出るのを防ごうと提案したことです。

 (注14)英仏百年戦争においてイギリス軍が大勝利をあげた3つの戦い・・クレシー(Crecy)(前出)、ポワティエ(Poitiers)、アジンコート(Agincourt)(前出)の1つ。イギリスのエドワード黒太子とフランスのジャン2世が戦い、後者が前者の捕虜になった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Poitiers_(1356)

 結局、この話し合いは決裂し、ポワティエの戦いで、シャルニは戦死するのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Geoffroi_de_Charny
 興味深いのは、彼に関するフランス語のウィキペディアは極めて簡単であって、ほとんど何も書いてないに等しいことです。
 英語ウィキペディアの書き手の数とフランス語ウィキペディアの書き手の数が違うことから、前者の方が詳しくても不思議はない、と一般論としては言えますが、彼のような「有名人」たるフランス人に関するウィキペディアなのですから、これは異常なことです。
 要は、彼については、戦功をあげたとか政治的手腕を発揮したと言えるほどの顕著な事績がないことをフランス人はよく自覚しているからこそ、多くを書く気にならない、ということではないでしょうか。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Geoffroy_de_Charny
 それに、フランス語ウィキペディアが、そもそも、シャルニは、デュ・ゲクランより世代的に先輩なのに、シャルニを一番最後に持ってきている点も意味深です。
 考えてみれば、旗手は、常に国王の直轄軍と行動を共にしなければならず、自分の才覚で部隊を指揮することができない、いわば飾り物のような存在です。
 しかし、代表的騎士としてイギリス人を1人はあげざるをえない以上は、フランス人を何とか2人あげたい、ということで、イギリスで評判の良かったフランス人騎士であるシャルニ(後述)を無理やり列記した、と私は勘繰っているのです。
 いずれにせよ、シャルニは、フランス国王の命で2度、スコットランドを訪れ、スコットランド貴族達と親交があったことから、この、イギリスと密接な関わりのある、しかもイギリスの接壌国の貴族達を通してイギリス騎士道について学んだことと思われますし、彼はまた、イギリス軍の捕虜に2回なっており、2度目の時には、イギリスにまで連れて行かれて拘置されていることから、イギリス人騎士から直々に騎士道を学んだと思われるのです。
 ポワティエの戦い直前の上記の挿話を記録したのは、この話し合いに出席していた一人のイギリス人騎士であって、フランス側は記録した形跡がないことは、この時の、あたかもイギリス騎士道を体現したかのようなシャルニの発言をイギリス側は高く評価したけれど、フランス側は突飛な発言であるとして評価しなかったことを示唆していて、私の解釈を裏付けているように思うのですが、いかがでしょうか。
 (以上、事実関係は、下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Geoffroi_de_Charny 前掲


 さて、騎士に関する英語ウィキペディア(c)には、代表的騎士があげられていないのですが、騎兵に関する英語ウィキペディア(b)の、欧州の中世後期の記述の所に、著名な騎士として、サラディン(Saladin)、ブイヨンのゴドフリー(Godfrey of Bouillon)、ウィリアム・マーシャル(前出)、そしてベルトラン・デュ・ゲクラン(前出)があげられています。

 この4人中、後の2人は、騎士道に関するフランス語ウィキペディアに出てきた代表的騎士と重なっていますが、最初の2人は違います。
 興味深いことには、最初のサラディンは、イスラム世界の「騎士」であって地理的意味での欧州の騎士ではないことです。
 このサラディンは後回しにして、まず、2番目のブイヨンのゴドフリー(1060?〜1100年)を俎上に載せましょう。
 
 彼は、フランス人騎士というより、フランク人騎士であり、第一次十字軍の指導者の1人を1096年からその死亡時まで務めました。
 彼は、1076年からブイヨン(Bouillon)(注15)の領主(Lords of Bouillon)であり、1087年からは低ロレーヌ(Lower Lorraine)(注16)の公爵でした。

 (注15)現在のルクセンブルグからフランスアルプスあたりにかけて散在していたところの、アルデンヌ・ブイヨン家(Ardennes-Bouillon dynasty)の所有地等の総称。
http://en.wikipedia.org/wiki/Lords_of_Bouillon
 (注16)フランク王国が三分割された時にできたロタールの国(Lotharingia)の領土の北半分の呼称。現在のオランダとベルギーの相当部分と、現在のドイツのラインラントの北部からなる。ブイヨンのゴドフリーの当時は神聖ローマ帝国領。
http://en.wikipedia.org/wiki/Lower_Lorraine

 1099年に十字軍がエルサレムを落とすと、ゴドフリーは、エルサレム王国の最初の統治者となります。
 なお、国王と称するのを、彼は、エルサレムは神に属するとして固辞したといいます。
 彼の両親はどちらも貴族であり、現在のフランス東北端のブーローニュ・シュール・メール(Boulogne-sur-Mer)(注17)か現在のベルギーのベイジ(Baisy)・・当時は神聖ローマ帝国領・・で生まれています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Godfrey_of_Bouillon

 (注17)ドーバー海峡に面した町でカレーの近傍。
http://en.wikipedia.org/wiki/Boulogne-sur-Mer

 英語ウィキペディアが、こんなゴドフリーを登場させたのは、イギリスで生まれた騎士道がキリスト教と関わりが深いことから、輝かしい第一次十字軍の象徴とも言うべきブイヨンのゴドフリーを、彼が生きていた当時には、まだ騎士道が明確に成立していなかったにもかかわらず、後付で遡って、彼を騎士道の元祖的に奉ろうとしたからである、と推察できるのであり、これは、私がたびたび指摘しているところの、イギリス人的韜晦・・自らへりくだることで目立たなくさせて出る杭が打たれないようにする・・の典型例の一つである、と私は思うのです。

(続く)

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太田述正コラム#4920(2011.8.9)
<イギリスと騎士道(その6)>(2011.10.30公開)

3 イギリスで生まれた騎士道

 (1)序

 かつて私は、コラム#3137で、「私はイギリスに封建時代はなかったとかねてから指摘しています・・・。ですから、騎士もまたいなかったのです。じゃなんでKnight爵があるんだって?
 11世紀のノルマン人による征服によって、若干封建制的なものがイギリスに導入された名残ですよ。
 イギリス人の英雄は、アーサー王でも、いわんやランスロットでもなく、ノルマン領主と戦ったロビン・フッド(Robin Hood)・・・でさあ」と書いたわけですが、これは紅顔ものの完全な誤りであったということです。
 (Chaseさん、登録お願いしまーす。)
 そこで、この際、騎士道はイギリスにしかなかった、という、私にとっての新説を、若干なりとも整理された形で展開したいと思います。
 ソールの本から明らかではないか、と思われたかもしれませんが、私による彼の本の紹介は、あくまでも書評をもとにしたものであり、書評がたまたまイギリスがらみのことしか引用しなかったのではないか、とか、そもそもソールが書いたのは、イギリスの騎士道の話であって、イギリス以外の騎士道に触れていなかったとしても必ずしも不思議ではないのではないか、といった批判が予想されます。
 そこで、騎士に関係するいくつかの英語ウィキペディア(一部日本語とフランス語ウィキペディア)の記述に拠って、私にとっての上記新説を裏付けてみることにしました。 

a:http://fr.wikipedia.org/wiki/Chevalerie
b:http://en.wikipedia.org/wiki/Cavalry
c:http://en.wikipedia.org/wiki/Knight
(8月6日アクセス)
 
 (2)代表的騎士

 騎士道に関するフランス語ウィキペディアがあげている代表的騎士は、12世紀のギョーム・ル・マレシャル(Guillaume le Marechal)、13世紀のウルリッヒ・フォン・リヒテンシュタイン(Ulrich von Liechtenstein)、14世紀のベルトラン・デュ・グクラン(Bertrand du Guesclin)とジェフロイ・ド・シャルニ(Geoffroy de Charny)の4人です。
 そして、騎士像の形成に大きな役割を果たしたのが、(イギリス由来の)アーサー王の円卓の騎士の物語であるとしています。(a)
 この4人の代表的騎士中、最も初期の代表的騎士は、フランス人ならぬイギリス人ですし、残り二人のフランス人中、一人はイギリスと歴史的に関わりの深い地方の出身であり、イギリス軍の捕虜に2回なっており、もう一人はスコットランドを2回訪問し、やはりイギリスの捕虜にもなっていて、どちらもイギリス人騎士像を熟知していると思われる人物です。
 また、一人あげられているドイツ人は、喜劇的人物です。

 もう少し詳しく見て行きましょう。

 最初に出てきたギョーム・ル・マレシャルは、英語表記では、初代ペンブローク伯爵のサー・ウィリアム・マーシャル(Sir William Marshal, 1st Earl of Pembroke。1147〜1219年)ですが、彼は、アングロ・ノルマン人(ノルマン系イギリス人)たる軍人兼政治家です。
 ヘンリー2世、リチャード獅子心王、ジョン王、そしてヘンリー3世の4人のイギリス国王に仕え、最後のヘンリー3世の時に摂政(regent)に上り詰めます。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Marshal,_1st_Earl_of_Pembroke
 つまり、マーシャルは、初期のイギリス人騎士の代表格的人物であり、それがゆえに騎士の理念型となったと言ってよいでしょう。

 次にウルリッヒ・フォン・リヒテンシュタイン(1200〜78年)です。
 彼は、現在のオーストリアのムラウ(Murau)生まれの貴族・騎士・政治家・ミンネジンガー(minnesanger)<(注10)>です。

 (注10)「12〜14世紀ドイツの宮廷歌人。徳の高い貴婦人を自分の主君とあがめ、その人のために精進修業するという愛(ミンネ)の抒情詩をうたう。起源はトルバドゥールといわれ<る。>」
http://kotobank.jp/word/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC

 彼は、自伝的詩集の中で、一つは旅に出て、ヴェネティアからヴィーンへの道中、美神ヴィーナスの出で立ちをして、馬上槍試合(joust)や馬上トーナメント(tourney)に、自分がプラトニックな敬慕を寄せる貴婦人を賭けて参加し、相手の槍を307本折り、全てに勝利した時のことを記し、もう一つは、自分はアーサー王に扮し、自分の子分達を円卓の騎士達に擬した時のことを記しています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ulrich_von_Liechtenstein
 2人目は、イギリスで生まれた騎士像の一部分にかぶれた、一風狂人たる外国人以上でも以下でもない、と言わざるをえません。

 では、二人のフランス人騎士はどうでしょうか。

 ベルトラン・デュ・ゲクラン(1320?〜1380年)は、ブルターニュ(Bretagne=Brittany)(注11)の鷲等として知られ、ブルターニュの騎士で百年戦争の際に軍事指揮官を務めます。
 そして、1370年から死ぬまで、フランス王軍司令官(connetable de France)(注12)を務めるのです。

 (注11)小ブリテン(Less, Lesser or Little Britain)とも呼ばれ、最初は独立国、後に独立した公国、そして1532にフランスの一部たる名目だけの公国となる。フランス革命の時に公国廃止。もともとケルト人が住んでいたが、ローマ時代にブリトン人(大ブリテン島の住民)が移住してきた上、5世紀のアングロサクソンの大ブリテン島侵攻時に再度ブリトン人の移住があった。6世紀以降、ウェールズからの宣教師達によって本格的にキリスト教化した。その後、840年に小王国群が統合されてブルターニュに単一王国が生まれ、やがて独立ブルターニュ公国(Duchy)が成立した。今でもケルト系の言語が生き残っている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Brittany
 (注12)彼がフランス王軍司令官に任命された時の絵が掲げられている。↓
http://fr.wikipedia.org/wiki/Conn%C3%A9table

 ゲクランがフランスに忠誠を尽くした(注13)ことに対し、20世紀のブルターニュ人のナショナリスト達は、彼をブルターニュの「裏切り者」と考えているといいます。

 (注13)「<1337年に英仏百年戦争が始まっていたが、ベルトラン・デュ・ゲクランは、ブルターニュ公国継承戦争で、イギリス王が推した側ではなく、フランス王が推した側について戦った。>1366年、<フランス国王>シャルル5世(Charles V≪。1338〜80年≫)はカスティーリャ王国の「残酷王」ペドロ1世<(Pedro the Cruel)>の弾圧によって亡命したエンリケ・デ・トラスタマラ<(Henry of Trastamara)>を国王に推すために、ベルトラン・デュ・ゲクランを総大将とするフランス王軍を遠征させた。これは・・・<フランス>国内で盗賊化している傭兵隊<を戦いに同道させることで、スペイン>・・・に追放する意味もあり、ゲクランはこれを見事に成功させた。
 ・・・王位を追われたペドロ1世は、アキテーヌ<で百年戦争を戦っていたイングランドの国王エドワード3世の長男で皇太子、いわゆる>黒太子エドワード<(Edward, the Black Prince。1330〜76年)>の元に亡命し、復位を求めた。<同>年9月・・・、黒太子エドワードとペドロ1世の間で・・・条約が交わされ、イングランド王軍はカスティーリャ王国に侵攻した。
 1367年、<スペインでのフランス軍との>戦いに勝利した黒太子エドワードは、総大将デュ・ゲクランを捕え、ペドロ1世の復権を果たした・・・。・・・
 <以前にも同じことが一度あったが、再びシャルル5世が払った身代金によってイギリス軍の捕虜の身から解放されたデュ・ゲクランは、捲土重来を期し、今度は、>1370年3月・・・<スペインで>カスティーリャ王ペドロ1世を下し・・・パリに凱旋し、フランス王軍司令官に抜擢される。シャルル5世は・・・1370年12月・・・ブルターニュに撤退中のイングランド王軍に勝利し、1372年には、<カスティーリャ海軍とともに>・・・7月・・・海戦でイングランド海軍を破った・・・。これに対して、イングランドは1372年にブルターニュ公ジャン4世[(Jean IV。1339〜99年)・・イングランドにおいてはジョン5世(John V)・・]と軍事同盟を結び、1373年にはイングランド王軍がブルターニュに上陸したが、デュ・ゲクランはこれを放逐し、逆にブルターニュのほとんどを勢力下においた。
 1375年7月・・・、フランス優位の戦況を受けて、エドワード3世とシャルル5世は<平和条約交渉に入ったが、>1376年には黒太子エドワードが、1377年にはエドワード3世が死去するに及んで両陣営は正式な平和条約を締結することがなかった。
 ・・・1378年12月・・・、シャルル5世はすでに征服したブルターニュを王領に併合することを宣言した。しかし、これは独立心の強いブルターニュの諸侯の反感を買い、激しい抵抗にあ[い、彼らはイギリスに亡命していたジャン4世を呼び戻して戦った)]。<また、今回は、デュ・ゲクランもブルターニュ平定作戦には真面目に取り組まなかった。>また、国内では・・・重税に対する一揆が勃発したため、シャルル5世はやむなく徴税の減額を決定し、1380年9月・・・に死去した。1381年4月・・・<ジャン4世との間で>条約が結ばれ、ブルターニュ公領はジャン4世の主権が確約され、公領の・・・併合・・・はさけられた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
(ただし、<>内は、下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Bertrand_du_Guesclin 前掲
(また、[]内は、下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/John_V,_Duke_of_Brittany
(更にまた、≪≫は、下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_V_of_France

 第二次世界大戦中、親ナチのブルターニュ国家社会労働運動はレンヌ(Rennes)にあった彼の塑像を破壊しています。
 (以上、特に断っていない限り、下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Bertrand_du_Guesclin

 結局、3人目のデュ・ゲクランは、イギリスと歴史的に密接な関係のあった地方に生まれ、英仏百年戦争の初期にイギリス軍と継続的に戦ったこと、かつまた、その捕虜に2度もなったことを通じ、イギリス騎士道の何たるかを体得するに至ったと考えられるわけです。
 しかも、そのデュ・ゲクランは、フランス王の諸侯中の筆頭に上り詰めた、という点で、イギリス騎士の理念型と既にみなされていたと思われる、ウィリアム・マーシャルが、イギリス王の諸侯中の筆頭に上り詰めたことになぞらえ、フランス騎士の理念型としてフランス内で祭り上げられるに至った、とも考えられるのです。
 要するに、デュ・ゲクランは、ウィリアム・マーシャルの、フランスにおける二番煎じ以外の何物でもない、というのが私の見立てです。

(続く)

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太田述正コラム#4918(2011.8.8)
<イギリスと騎士道(その5)>(2011.10.29公開)

 「・・・次第に騎士道は衰退した。
 騎士道はカネの嵩む営みであり、郷紳(gentry)や小貴族(lesser nobility)や法律家達、吏員(clerk)達、そして執事(senior household servant)達、といった都市の専門職達のような新しい階級群が出現した。
 貴族の尺度として、徳と平和的諸活動が、家系と武器をとった時の武勇にとって代わり始めたのだ。
 中世末の戦争は、より血が多く流される性格のものとなった。
 長弓射手達(longbowmen)<(コラム#4879)>の配備は、騎士により多数の死傷を与え、他方で、傭兵(paid soldiers)や規律の向上は、ヘンリー5世をして、彼の騎士達が身代金によって得られるであろう利潤を奪われるというのに、アジンコートの戦いにおいて、「フランス軍による再攻撃の噂があるとして<フランス軍の>捕虜達を殺害せよとの命令を発することを可能ならしめた」。
 その後起こったバラ戦争は、貴族達の間で復讐のための殺害の流行をもたらしたが、最も重要なことは、「中世の名誉に立脚した自己認証的な(self-authenticating)社会」を掘り崩したところの、国王権力の中央集権化だった。」(B)

 「宮廷におけるゲームは、14世紀後半を騎士として生きようとした男達が直面した劇的な様々な挑戦を隠すことはできなかった。
 黒死病(1348〜49年)<(コラム#25、54、397、398、1586、2503、2550、2860、3126、4822、4887)>は、経済をひっくり返し、様々な社会関係を揺るがせた。
 土地はその価値を失い、多くの農奴達は町や都市に流入した。
 領主達は、ビジネスマンのような対応を行い、耕地から牧地へと移動し、鉱業、漁業、兎の養殖・販売、就中、羊毛の輸出と拓殖(exploitation)の将来性(prospects)、に賭けた(develop)。
 必要性に迫られて、法廷で専門職的にふるまうことや、ランスロット(Lancelot)とガウェイン(Gawain)の事績<(後出)>を諳んじることができた者達で、乗馬して刀を振り回すよう育てられた人々に対して、以前はありえなかったところの、土地の生産物に係る価格の変動や需要の動向を追いかけるためにお呼びがかかるようになった。
 ぴかぴかの甲冑を纏った騎士達は、商人達、銀行家達、法律家達と、次第により多く関わるようになった。
 今度は、これらの専門職の人々の地位と富が上昇した。
 ノーフォーク(Norfolk)のパストン(paston)家<(注5)>の人々のような、非軍事で名声を博した(of epistolary fame)ところの最も成功を収めた人々は、騎士の階級へと上昇した。

 (注5)一介の小農民であった「初代」が息子に法律家としての教育を受けさせ、その息子が政略的結婚を行ったこともあって土地財産を増やし、孫はケンブリッジに行って法律家になり、またもや政略的結婚を行ったこともあって土地財産を増やし、地元出身の騎士にロンドンで取り入り、彼の遺産の主要相続人となり、おかげで騎士になる。
http://www.bbc.co.uk/history/british/middle_ages/pastonletters_01.shtml

 こういう騎士達は、怒ると刀よりも羽ペンを振り上げる可能性の方が高かった。」(A)

 (5)騎士道に関する本や物語

 ワリック州(Warwickshire)の男であったサー・トマス・マロリー(Thomas Malory)<(注6)>は、1469〜70年に書かれた『アーサー王の死(Mort d'Arthur)』の中で、騎士道を超えた世界に向けて、騎士道の最も偉大な様々な瞬間の要約を提供した。・・・
 マロリーのスポンサー達はロンドンの商人達だった。

 (注6)1405?〜71年。作家、騎士、地主、下院議員。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Malory

 そのうちの一人であった、絹織物商人(mercer)のウィリアム・キャクストン(William Caxton)<(注7)>は、この種の文学を印刷して出版した場合にどれくらい売れるかが分かっていた。

 (注7)1415?-1422?〜1492年?。イギリスの商人、外交官、作家、イギリス最初の印刷業者に本の小売業者。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Caxton

 1485年版への序文の中で、彼は、読者達に、「高貴な騎士道、礼儀(courtesy)、人道性(humanity)、親切(friendliness)、耐久力(hardiness)、愛、友情、臆病、殺人、憎しみ、徳、そして罪」をその中で発見するであろうことを約束した。・・・
 1354年に初代ランカスター公爵のグロスモントのヘンリー(Henry of Grosmont)<(注8)>は、その中で、自分の傷ついた魂のための慰めの香油(balm)を求めてキリストと聖処女マリアに訴えたところの、祈祷書(devotional book)を書いた。

 (注8)1310?〜61年。貴族、著名な外交官、政治家、軍人。英仏百年戦争の初期においてエドワード3世に最も信頼された指揮官。1351年から52年にかけて、プロイセンにおいて<ドイツ騎士団の(太田)>十字軍生活を送っている。彼の著書は『Livre de seyntz medicines(Book of the Holy Doctors)』(1354年)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_of_Grosmont,_1st_Duke_of_Lancaster

 その傷は、偉大なる騎士の生活そのものであったところの、官能への耽溺(indulgence of the senses)がもたらしたものだった。
 <そのほかの騎士道に関する本や物語としては、>もう一人の十字軍従事者のサー・ジョン・クランヴァウ(Sir John Clanvow)<(注9)>は、1373年に書いた『二つの道(The Two Ways)』・・・ロビン・フッド(Robin Hood)<物語(コラム#3137、3467、4007、4197)、そして、>・・・キャメロット(Camelot)<(=アーサー王の宮廷があったという伝説上の町=アーサー王物語)、があげられる。>」(A)

 (注9)1341〜91年。イギリスのヘアフォード州(Herefordshire)の騎士。
http://histfam.familysearch.org/getperson.php?personID=I25011&tree=Welsh
 グロスモントのヘンリーと似通った趣旨のこの本を書いている。1390年にチュニス十字軍に加わり、翌年、コンスタンティノープルで死去している。
http://books.google.co.jp/books?id=87inL4Cd4wgC&pg=PA264&lpg=PA264&dq=sir+john+clanvow;the+two+ways&source=bl&ots=l3vmrV2qxF&sig=UqVhDLBrv07S-VElOuaZXmT9wiE&hl=ja&ei=Lto_TqKBHYXzmAXs0v2WCA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CCEQ6AEwAQ#v=onepage&q=sir%20john%20clanvow%3Bthe%20two%20ways&f=false

→騎士道に関する本や物語の中にも、イギリス以外のものが全く登場しませんね。(太田)

(続く)

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太田述正コラム#4916(2011.8.7)
<イギリスと騎士道(その4)>(2011.10.28公開)

   エ エドワード3世

 ソールは、<次の>フェーズを、エドワード3世(Edward III<。1312〜77年
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_III_of_England
>)<(コラム#4572)>の長い治世(1327〜77年)を典型的な事例とするところの、「騎士的な国王(Chivalric Kingship)」のフェーズと呼ぶ。
 この国王は、スコットランドとフランスで戦い、クレシー(Crecy)で自ら大勝利をあげた<(コラム#726、741、1695、2276)>が、フランスの地における多くのイギリス人を襲った手詰まりの占領や砦でのやる気を失わせる生活を目撃することにもなった。
 彼は騎士道の文化を抱懐し、円卓の騎士団(Order of the Round Table)をウインザー城において作り出し、アーサー王的連帯感(fellowship)のお馴染みの諸テーマを14世紀の男達と若干の女達の生活に持ち込むことによって、騎士道を強化した。
 これらの儀式とガーター勲章(insignia)は現在に至るまで生き残っている。」(A)

 「エドワード3世は、1346年にクレシーの戦いでフランスの騎兵を潰走させたが、それは、部分的にはより優れた戦術、そして部分的にはその数年後のガーター騎士団(Order of the Garter)の創設に反映されたところの、彼の騎士的取り巻き達を一致団結させた騎士的規範(code)に帰せしめられる。」(B)

 「エドワード3世の国王道は、彼の祖父の<エドワード1世の>それと同じ鋳型にぴったりあてはまる。
 しかし、エドワード3世の野心は、<祖父>より、イギリスの騎士道についての彼らの意識(identity)を研ぎ澄ますと意味での影響力は大きかった。
 名誉と評判、それと同時に、役務の過程で勝ち得た獲物と身代金、の分け前の魅力(lure)は、ここでの強力な要因だった。
 主として彼がクレシーでの大いなる勝利を挙げた戦場での仲間たちであった指導的貴族たる指揮官(captain)達の中から最初の団員達が選ばれたところの、ガーター騎士団の創設は、軍事役務を魅惑的なものとする輝かしい一撃(stroke)だった。
 それに関連するところの、エドワードの聖ジョージ崇拝(cult)の売り込み(promotion)と聖ジョージの採択は、国王(crown)への役務<の提供>は、同時に王国の公共の福祉(common weal)への役務でもあるということを饒舌に明言した。
 イギリスにおいて、「外地における戦争の追求を良き国王道の基盤と考え、戦争における成功はイギリス王国に対する神の祝福の程度を示す」という、強力に強化された認識は、エドワードの時代が過ぎてからも容易に拭い去られることはなかった。
 この信念(conviction)は、ヘンリー5世(Henry V<。1386〜1422年。国王:1413〜22年
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_V_of_England
>)<(コラム#4180、4312、4317、4478)>によるフランスにおける深刻な戦いの再開と彼のアジンコート(Agincourt)における顕著なる勝利<(コラム#3604、4180、4307)>によってもう一度再確認された。」(C)

 (4)騎士道の変貌

 「後に、ヨーク党(Yorkist)の時代とそれ以降においても、攻撃的な「外での戦争(werre outward)」は、多くの人々によって、ヘンリー6世(Henry VI<。1421〜71年。国王:1422〜61年、70〜71年
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VI_of_England
>)<(コラム#90、812、916、3471、3804、4312、4478)(注4)>の治世における諸大災厄の後の国家的再生(national renewal)への最も確実な方法であると見られ続けた。

 (注4)無能であったため、彼の治世中に王位継承戦争であるバラ戦争(1455〜85年)が始まる。また、精神障害を発症したこともあり、自分の妃に実権を奪われ、彼自身のランカスター家は没落し、ヨーク家が勃興した。(ヘンリー6世の英語ウィキペディア上掲及び
http://en.wikipedia.org/wiki/Wars_of_the_Roses )

 しかし、15世紀において、一つの決定的な点で、事情は変わってしまった。・・・
 ヘンリー5世のあげた何度かの勝利は、イギリスの騎士達と紳士達が軍事的役務を引き受けて、エドワード3世の何度かの勝利の時のように、成功裏の作戦の栄光と利潤の分け前を追求する、という心構えを再点火させることはなかった。
 騎士達の、国家社会と国家的威信(dignity)における役割において、変移(shift)が起こっていたのだ。
 騎士道の軍事的罠かけ(trapping)であるところの、紋章(heraldic arm)、真鍮の全身甲冑や教会の記念碑たる墓彫刻の姿での顕彰(commemoration)、自分達の自宅のそこから矢や鉄砲を射撃するための定間隔のすき間のあいた城のてっぺんにある城壁(crenellation)
< http://ejje.weblio.jp/content/crenellation >
、は、領主たる貴族達にとっては貴重であり続けたが、それは今や、軍事的な役割というよりは、主として、彼らの社会的地位(standing)と家系や、イギリス王国の政府及び行政機構(magistracy)における彼らの非軍事的役割、の視覚的表現として愛でられるようになった。
 ソールの表現によれば、彼らの騎士道は、「騎士的冒険を求めての彷徨(knight errantry)
< http://ejje.weblio.jp/content/errantry >
ではないところの国家の役務に馬具でつながれた(harness)新騎士道」になりつつあったのであり、この新騎士道は、この素晴らしい本の中心的テーマに彼がしたところの、より古い、具体的には軍事的騎士道、とは強調点において区別できるのだ。」(C)

→騎士道の変貌もまた、イギリスにおいて内生的に起こったということになります。(太田)

(続く)

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太田述正コラム#4914(2011.8.6)
<イギリスと騎士道(その3)>(2011.10.27公開)

   ウ エドワード1世

 「特にエドワード1世(Edward I<。1239〜1307年
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_I_of_England
>)<(コラム#4572)>の積極的治世(1272〜1307年)の間のように、イギリスという国の野心がいや増しに増すようになると、ウェールズ、スコットランド、及びフランスにおける戦争を支える各種形態の税金が考案された。
 騎士達は、上院という別の部屋(chamber)で審議を行う、より地位の高い<(=男爵以上の)
http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_the_United_Kingdom
http://en.wikipedia.org/wiki/Peerage
>貴族達とは分れて<下院で審議を行い>、代表政治の背骨となった。
 議会での審議、戦場での功績(exploits)、そしてまた、州(shires)における法と秩序の維持(delivery)、に関してかくも騎士達が中心的であるところの政府形態が、名誉と男らしい勇気の崇拝(cult)であるところの騎士道の基本的教義(tenets)を醸成し精緻化した。」(A)

 「・・・「変容した騎士道(Knighthood) 1204〜90年」という章は、そのタイトルからして重要な章であることを含意している。
 長くて比較的平和であったヘンリー3世(Henry III<。1207〜72年
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_III_of_England
>)の治世において、軍事役務に応え得る、剣で肩を軽くたたいてナイト爵を授けられたイギリスの騎士の数は大きく減少した。
 ジョン(John<。1166〜1216年
http://en.wikipedia.org/wiki/John,_King_of_England
>)王が大陸での諸領地を失ったことに伴って騎士達の軍事役務への需要が減ったことは確かだが、減少の主たる原因は、絢爛たる騎士的生活様式の費用が上昇したことによるように見える。
 騎士達の紋章への関心や家紋章(family arm)・・とりもなおさず家系(lineage)・・に対する誇りは、序列と地位の顕示への膨張した欲求(appetite)のわずか一つの徴候に過ぎなかった。
 その結果、多くの貧しい騎士的な家は、騎士への昇格(admission)を求めるのを止めてしまった。
 しかし、同時に、引き続き昇格を求めて騎士となった者達の中から、自分達の社会的役割の認識が深まりつつあった。
 13世紀において、イギリス王国政府(royal government)は、範囲と密度の両面(scope and intensity)にわたって急速に拡大しつつあったところ、地方の土地所有者たる騎士達は、検死官、法律上の相続人がいない場合に国に帰属することとなる財産の検認官(escheator)
< http://ejje.weblio.jp/content/escheator
http://ejje.weblio.jp/content/escheat >
、治安責任者、といった官職に就き、それと並行して、自分達の州の法的諸委員会の職業的法律家を務めた。
 つまり、彼らは、非軍事貴族制及び軍事貴族制の一員として、国王や彼らより地位の高い貴族達による戦争や軍事的事業に従事しただけでなく、イギリス政府の中に入ったのだ。
 エドワード1世の戦争や軍事的野心は、相当な数の騎士達から役務の提供を受ける必要性を改めて生ぜしめた。
 それは、金持の騎士達にとっても、まったくもって経費が嵩む話だった。
 エドワードが騎士達の熱情を高めるために撒いた重要な餌は、議会に課税承認させることで資金が確保されたところの、国外での<騎士達の>役務に対する、<政府による>経費負担だった。
 ソールは、エドワードがイギリスの騎士達の再軍事化に成功した最大の要因について説得力ある主張をしている。
 それは、国王によるイギリスの軍事的諸伝統の教化(cultivation)と称揚(celebration)だったというのだ。
 エドワードは、これを、国王家の騎士達と大貴族達の従者達が自分達の同僚の間で栄光と評判を勝ち得ることができる大きな騎士馬上試合の開催、自分の宮廷での儀式的大量ナイト爵授爵、そして、騎士道の英雄的パトロンにしてイギリスの騎士的国王道(chivalric kingship)の模範たるアーサー<王>に係る歴史と範例の鳴り物入りの教化によって行った。 
 彼が、フランスとスコットランドでの主要戦役のために調達することができた騎士達の大量の数は、これらの努力が騎士達のエリート集団・・その主たる社会的役割は国王とイギリス王国の軍事役務であった・・に属しているとの意識を再活性化することにどれほど驚嘆的な成功を収めたかを証明するものだ。」(C)

→同じことを繰り返して恐縮ですが、いまだに、イギリス(イギリス国王のフランス等国外における所領を含む)外における騎士道がどのような影響をイギリスの騎士道に及ぼしたかどころか、イギリス外における騎士道についてそもそも一切言及がないこと、に注目してください。(太田)

(続く)

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太田述正コラム#4912(2011.8.5)
<イギリスと騎士道(その2)>(2011.10.26公開)

 (2)始まり

 「イギリスでは、物語は、劇的に異なる戦争のテクノロジーの衝突であったところの、ノルマン人による征服に始まる。
 その大部分がノルマンディーからだが、フランスのその他のいくつかの地域とフランダースからも、<ノルマンディー>公爵のウィリアムにつき従ってやってきた、騎乗の戦士達は、この経費が嵩むやっかいな(demanding)形態の戦争方式(warfare)を自分達の領土(estates)からの収入によって維持していたが、すぐに収入はイギリスの土地によって増加することとなった。
 彼らは少年期から騎乗戦争の技の訓練を受け、彼らの一家は軍事的手柄(exploit)志向(gear)だった。・・・
 ソールは、イギリスにおける騎士の起源をノルマン人の1066年の到着に求める。
 ノルマン人が騎兵を好んだのに対し、アングロサクソンは、デーン人やヴァイキング同様、もっぱら歩兵でもって戦うやり方をしていた。
 アングロサクソンは、暴虐であって、殺戮の狂乱の中で打ち破った敵の頭蓋骨を叩き割り四肢をちょん切ることを好んで行った。
 逆に、ノルマン人は、城を造り、財産、カネ、或いは爾後の忠誠の誓約を見返りに敗れた敵に情けをかける規約(convention)を定めた。・・・
 1066年以降、アングロ・ノルマンのエリートは、「戦争のやり方(conduct)をやわらげ文明化する」諸価値を<イギリスに>押し付けたところ、これは、この礼儀と寛大の名誉規範(honour code of courtesy)は、嬉々として、妊娠した女性、子供、そして年寄を屠殺することから野蛮人と見なされていたスコットランド人とはまことに対照的だった。」(B)

→イギリス以外の地理的意味での西欧における騎士道の物語の始まりについては一切語られていないことに注目しましょう。(太田)

 (3)全盛期

   ア 序

 「ソールが格別な関心を向けるのは三人の国王だ。
 十字軍の英雄、騎士馬上試合(tournament)のパトロンにしてフランスにおけるノルマン<公領=ノルマンディー(コラム#74、96、397、1650、1694、1695、3533)>とアンジュー<伯領(コラム#96、2055、2210、3816、4468、4472、4476、4529)>の相続財産(inheritance)の断固たる防衛者であったリチャード1世、十字軍騎士、ウェールズの征服者にしてスコットランド人粉砕者(Hammer of the Scots)であったエドワード1世、クレシーの戦いの勝者、ガーター騎士団(Order of the Garter)の創設者にして(彼がイギリスの守護聖人にして戦争に際してのイギリスの天上におけるスポンサーとして採択したところの)聖ジョージ(St George)帰依者(devotee)であったエドワード3世。
 この3人の国王の治世、彼らのあげた勝利、そして彼らが自分達自身を寛大なる騎士的指導者として表現する(project)技、が<ソールがこの3人を選んだ>選定の基準なのだ。」(C)

   イ リチャード1世

 「12世紀は、騎士道の歴史における重要な時代だった。
 騎士(knight=chevalier)は、(ノルマン人による征服より前のイギリスには見られなかったところの、)鞍の上で戦う技の巧みさを愛でられた職業的兵士というつつましい存在として始まったわけだが、リチャード1世(Richard I<。1157〜99年。英国王:1189〜99年
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_I_of_England (太田)
>)<(コラム#4472)>の時までには、それをはるかに超える存在・・キリスト教社会の「団(order)」の一員・・として、見られ、自らもそう見るようになった。
 騎士の地位の基盤は、<キリスト教>僧侶と土壌の耕作者(tiller)を防衛するために武器を帯びるということだった。
 騎士道の神秘的な初期の文化は、この団とその軍事をめぐって集成した。
 ソールがここでとりわけ強調する様相は、この団への入団の共通の儀式(rite)・・国王が抜いた剣で肩を軽くたたいてナイト(騎士)爵を授ける(dubbing)
http://ejje.weblio.jp/content/dub (太田)>
儀式(ceremony)・・の発展だった。
 この儀式は、金持ちと貧乏、名門(blue-blooded)と新参(new stock)の騎士同士の一体感、アーサー王物語(Arthurian romance)とその騎士的冒険の小話群についての嗜み、そして、騎士達を貴族的な生誕と地位の武人(martial persons)と見なした(identify)「視覚的象徴主義の言語」たる紋章(heraldry)の発展、を醸成した。
 これは、リチャード1世のリーダーシップと軍事的業績に熱情的に応えたところの騎士道(knighthood)のイギリス版(version)だった。
 リチャード1世のキャリアを、彼の後継者達がイギリスの統治者として成功したいのなら真似をし(emulate)なければならなくなったところの模範(model)として深く心に刻みつける(stamp)こととなったほど極めて熱情的に・・。」(C)

→騎士道のイギリス以外の版について、何の言及もないことに、ここでも注目しましょう。(太田)

(続く)

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太田述正コラム#4910(2011.8.4)
<イギリスと騎士道(その1)>(2011.10.25公開)

1 始めに

 私のコラムは、多かれ少なかれ、相互に関連しあっていますが、アングロサクソン論は中心的な位置の一つを占めていると言っていいでしょう。
 さて、今まで様々な角度からアングロサクソン論を展開してきたとはいえ、なにしろ近現代のほとんどすべてがアングロサクソン(つまり、イギリス)発祥である以上は、とりあげるべき事柄は数限りがないのであって、これまで私が書いてきたものには欠缺部分が一杯残されている、と言うべきでしょう。
 そのうちの一つが騎士道です。
 騎士道は、地理的意味での西欧全体に関わるのであって、それがどうしてアングロサクソン論たりうるのか、という疑問を抱かれる方もおられることでしょう。
 結論を最初に申し上げておきますが、騎士道というものは、ノルマン朝以降のイギリスで生まれ、その概念がイギリス以外の地理的意味での西欧に伝播した、と私は考えるに至っています。
 本シリーズの構成は、最近、他のシリーズで何回か繰り返したところですが、まず、上梓された本の紹介を書評類に拠って行ったうえで、その本の記述に触発された私の考えを記す、という形にしました。
 こういった構成は、いささかお行儀が悪いけれど、私の思考過程をありのままに分かっていただく、という意味ではメリットもある、と思っています。
 今回、俎上に載せる本は、ナイジェル・ソール(Nigel Saul)の 'For Honour and Fame: Chivalry in England, 1066-1500' です。
 ちなみに、ソールは、1952年生まれの英国の学者で、ロンドン大学ロイヤル・ハロウェー(Royal Holloway)校(RHUL)の歴史学教授(中世イギリス史専攻)です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nigel_Saul
http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Holloway,_University_of_London
(どちらも8月4日アクセス)

2 ソールの本の概要

A:http://www.guardian.co.uk/books/2011/jul/22/honour-fame-chivalry-nigel-saul-review
(7月26日アクセス)
B:http://www.express.co.uk/posts/view/251752
(8月3日アクセス)
C:http://www.literaryreview.co.uk/keen_07_11.html
(8月3日アクセス)

 (1)序

 「マリー・アントワネットの遺憾なる運命(sorry fate)について回想しつつ、エドマンド・バーク(Edmund Burke)は、彼の『フランス革命の省察(Reflections on the Revolution in France)』(1790年)の中で、婦人に親切な(gallant)男達の国(nation)、名誉と騎士達(cavaliers)の国において、このような大災厄が彼女の身の上にふりかかるとは、私はほとんど夢想だにしなかった」と嘆いた。
 「私は、彼女を侮辱しながら脅すように見えただけで、何万本もの刀が鞘から飛び出して復讐をしたはずだと思った。
 しかし、既に騎士道の時代ではなかったのだ」と。」(A)

→イギリスには一族連座制はなく、1648年にイギリスでも国王を処刑していますが、それに連座した形で(無実の)王妃等国王の一族から処刑者は出ていません(典拠省略)。
 ちなみに、日本では1742年に一族連座制が廃止されているようです。
http://melma.com/backnumber_160538_3505017/ (典拠として薄弱)
 しかし、ここでバークは、一族連座制であること以上に、高貴な女性を処刑したことを嘆いているように見えます。
 それと同時に、果たしてフランスに真の騎士道が存在したことがあるのだろうか、という疑問が生じませんか?(太田)

 「この光彩を放つ本の著者は、「騎士道(Chivalry)を舞台の中央に据え」、それが、欧米文明の発展に、捕虜を慈愛をもって扱う慣行や個人主義の発達や、更には何と現代の有名人崇拝、等に相当程度貢献した、と説明する。」(B)

 「騎士道の時代は、武装した騎乗者の軍事的優位から生まれ出た理想化された幻想であり、おおむね、鐙(あぶみ=stirrup)の発明<(注1)>から火薬(gunpowder)の発明<(注2)>までの間、続いた。・・・

 (注1)支那で晋の時代(226〜420年)に発明され、中世に欧州に伝わった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Stirrup
http://en.wikipedia.org/wiki/J%C3%ACn_Dynasty_(265%E2%80%93420)
 (注2)9世紀に支那の道教の道士達または擬似化学者(alchemist)達が不老長寿薬(elixir of immortality)研究の過程で発明し、アラブ世界、欧州、及びインド亜大陸に伝わった。硫黄(sulfur)、木炭(charcoal)、硝酸カリウム(potassium nitrate)が原料。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gunpowder

 騎士道は、行動規範であっただけでなく、戦場と立派な住居の双方において磨かれた様式(style)でもあり、それは11世紀のフランス北部の貴族達の宮廷においてはっきり現れるに至っていた。」(A)

 「<やがて、>騎士道は、文化のあらゆる場所(every nook and cranny)に浸透(invade)した。
 それは、芸術家達、作家達、建築家達と工芸家達の主成分(staple)となった。
 よりよい性(fairer sex)、より敬虔(pious)で貞節(chaste)な存在として女性達を扱うという観念は<その>中核的価値だった。
 宗教的含蓄(overtones)に富む騎士的イメージ(imagery)が中世社会において流行した(prevalent)ことは、性的かつ物質的イメージが今日の社会において流行していることに比肩しうると言えるかもしれない。」(B)

 「騎士道への関心は、美学(aesthetic)と同時に道徳を対象として、ヴィクトリア時代の中世的なものへの崇拝(cult)の形で復活した。
 それは、クイーンズベリー(Queensberry)侯爵のルール<(注3)>や、ソールがその後のジュネーブ条約(Geneva convention)の成立につながるとするところの、戦争法の集成(codification)の試み(initiative)を鼓吹した。」(A)

 (注3)1865年に作成され、67年に公表されたボクシングのルール。第9代クイーンズベリー侯爵のジョン・ダグラス(John Douglas。1844〜90年。スコットランドの貴族)がその制定を推進した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Marquess_of_Queensberry_Rules
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Douglas,_9th_Marquess_of_Queensberry

(続く)

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太田述正コラム#5053(2011.10.15)
<イギリスにおける近代議会の誕生(その2)>

3 イギリス議会

 (1)序

 ジェンキンスは、次のように言っています。

 「戦争にはカネが必要だったが、これは、<国王が納税者達からの>苦情<(陳情)>を処理する見返りとしてのみ納税者達から提供された。
 ケルト達の「粉砕者(hammer)」と称されたエドワード(Edward)1世でさえ、「今まで気前よくかつ善意で我々に支払われてきた」税金が、「将来、隷属的義務にならないか」という懸念を抱いたものだ。
 <イギリス国内における>妥協なかりせば、イギリス国王達は戦うことができなかったということだ。
 イギリスの歴代統治者達の戦闘性(belligerence)が皮肉にも、早くからの同意による統治の推進器であったというわけだ。」(C)

 これは、国王が陳情の処理程度のサービスを提供すれば、主としてブリトン人からなる、イギリスの被支配者達は、「気前よくかつ善意で」税金を支払った、ということであり、それはすなわち、被支配者達が、国王や貴族達の生業が戦争であって、彼らがそれに従事することを当然視し、声援を送っていたからであるし、これほど被支配者達が鷹揚かつ協力的であったのは、一貫して、イギリスが、欧州に比較しても、突出して豊かで、被支配者達に十分すぎるほどの担税力があったからである、と私は考えています。
 こんな予定調和的な支配者と被支配者の関係は、貧しく、かつ被支配者達が戦争を忌み嫌っていたと思われる欧州においては、およそ考えられないことだったのです。

 「この<イギリス史という>物語には、一つの、他の全てに優先する英雄がいる。
 それは議会だ。
 <アングロ>サクソン人の初期の賢者集会(witans)から出現した議会は、14世紀には、既に今日の両院的性格を帯びるに至っていた。
 それは<実質的な意味におけるイギリス>憲法において中心的な存在であり続けた。
 議会は、<イギリス>内戦の苦悩をイギリスを操って潜り抜けさせた。
 <また、>ハノーヴァー朝の下では、議会とその「諸政党」は、政府の旗手の座を獲得し、1832年の<チャーチスト>改革では、その操縦席を担った。
 しかしながら、議会は、しばしばどれだけ「腐敗」していようとも、議論において節度(control)を失うようなことはなかった。
 <まこと、>議会は<、イギリスの>政治的天才の被造物だったのだ。」(C)

 私には、現時点で、到底、イギリスの内戦期以降までもカバーする能力と時間的余裕がないので、本日は、おおむね14世紀くらいまでのイギリス議会の発展を追うことでお許し願いたいと存じます。

 (2)イギリス議会前史

 --武装自由民総会--

 まず、イギリス議会のご先祖様と言うべきものが、アングロサクソンを含むところのゲルマン人における「武装自由民総会(general assembly of the freemen in arms)」です。
 この総会で、王は貴族達の中から選挙で選ばれました。
http://www.bible-history.com/maps/romanempire/Germania.html
 すなわち、武装自由民総会の最大の仕事は、彼らの生業たる戦争を遂行する際の最高指揮官を選ぶことであったわけです。
 それ以外は、平時においては政府があってなきが如しであったことから、武装自由民総会を開いてまで処理すべき案件などほとんどなかったのではないでしょうか。(コラム#81参照)

 --人民集会--

 大ブリテン島に侵攻したゲルマン人の混淆部族たるアングロサクソンの武装自由民総会は、「人民集会(folkmoot=folkmote=Thing)」と呼ばれたところ、その権限は通常の武装自由民総会より広範であり、当該部族の、地域社会ないし地区ごとに統治を行う機関として設置されました。
 権限が広範なものになったのは、ブリトン人という、文化の異なる異民族を統治しなければならなくなったからでしょう。
 この人民集会は、「賢者集会(witans=witenagemot)」の前身であって、それがある意味でまた近代議会の前身になりました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thing_(assembly)

 --賢者集会--

 賢者集会が「ある意味で近代議会の前身」であるとされるのは、それが、近代議会の直接の前身ではないのであって、キュリア・レジス(Curia Regis)(後出)の前身であると言った方が正確であるからです。
 賢者集会は、単に賢者(=顧問=Witan(上出))と呼ばれることもあり、それが機能したのは7世紀から11世紀にかけてであり、イギリスが統一されるまでは、アングロサクソン各王国にそれぞれ存在しました。
 イギリスの貴族及び僧侶中の重要人物・・総督(earl。数州(shire)を束ねていた)、州代官(ealdorman)、王の近侍の武士(thegn=thane)、上級僧侶(senior clergy)等がその議員であり、主たる任務は、討論の上、重要な全国的または地方的事項について国王に助言することでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Witenagemot
http://www.answers.com/topic/witenagemot
 それは、ゲルマン人における武装自由民総会が、アングロサクソンが多数のブリトン人を支配することとなった時点で人民集会となり、やがてアングロサクソン人とブリトン人との間に一体感が醸成される一方で、アングロサクソン武装自由民がブリトン人の上に君臨する貴族や上級僧侶となったことに伴い、全自由民による集会が貴族及び上級僧侶による賢者集会へと変貌を遂げた、ということであろう、と私は考えています。

 賢者集会は、かなりの力を持っていました。
 アングロサクソン各国や、その時々の国王によって議員となる資格や賢人会議の機能はまちまちでしたが、法律、租税、外交、国防、特権的領地の授与(bestowal of privileged estates)にあたって、この集団の助言と同意が通常国王によって求められたからです。
 賢者集会が直接国王に反対するようなことは稀であったでしょうが、国王をチェックする機能は果たしていたと考えられています。
 しかも、余り記録は残っていませんが、少なくともウェセックス(Wessex)・・イギリスを統一することになる・・の賢人会議は、国王選出権を持っていた可能性があるのです。
 国王の地位は子孫に受け継がれるのが普通でしたので、通常はこの権限は象徴的な意味しかありませんでしたが、時には実際に賢者集会が国王を選出したことがあるのです。
http://www.answers.com/topic/witenagemot 上掲
 人民集会同様、賢人会議の権限は広範であったわけですが、権限が強かったのは、被支配者たるブリトン人の自治の精神が後押しをしたのであろう、と私は考えています。
 賢人達は、恐らく、ブリトン人の意向にも十分配慮してこの権限を行使した、と思われるのです。

 --キュリア・レジス--

 この賢人会議が母体となって、1066年のノルマン・コンケスト以降、キュリア・レジス(Curia Regis)が生まれます。
 キュリア・レジスは、荘園主(tenant-in-chief)・・国王から直接封、すなわち荘園の保有を認められた者・・達と聖職者(ecclesiastic)達から構成される会議体(council)であり、制定法の制定についてイギリス国王に助言を行いました。
 ウィリアム征服王が、出身地のノルマンディーからイギリスに封建制度を持ち込んだことがその背景にあります。
 封建制度の持ち込みとは、ウィリアムが、土地を自分にとって最も重要な軍事的支援者達に供与し、彼らは、更にその土地を彼らの支援者達に供与し、といった具合に、封建的階統制が作り上げられたことです。
 彼の息子のウィリアム2世(1056?〜1100年。イギリス国王:1187〜1100年)(コラム#90、4924)は、絶対君主でしたが、制定法を制定する前に、しばしばキュリア・レジスの助言を求めました。
 荘園主達は、しばしば、聖職者たる議員達や王と権力をめぐって争うやっかいな存在であったからです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Curia_Regis
 この荘園主達は、恐らく、ノルマンコンケスト前の賢者達と同様の精神でもって権限行使を行ったことでしょう。

 1215年に荘園主達は、ジョン王にマグナ・カルタに調印をさせ、(封建税を除き、)国王のための会議体(royal council)、すなわち、キュリア・レジス、の同意なしに税を課したり徴収したりすることができないことを認めさせました(注)。

 (注)ジェンキンスは、次のような趣旨のことを言っている。
 課税についてはマグナ・カルタの第12条に規定されている。
 議会史と直接関係はないが、この条項と並んで重要なのが人身保護(habeas corpus)について規定した第39条「自由人は、同輩による合法的判断またはその地域の法に基づく場合を除き、逮捕、投獄、権利はく奪、無法者と宣言され、追放される等のいかなる形においても身を滅ぼされることはない」だ。
 なお、マグナ・カルタは、ジョンが法王に訴えた結果、無効とされた。だから、シェークスピアの戯曲『ジョン王』にはマグナ・カルタへの言及は出てこない。
http://www.guardian.co.uk/books/2011/oct/02/great-english-dates-1215
(10月3日アクセス)

 (3)イギリス議会の成立

 この国王のための会議体、すなわちキュリア・レジスがイギリス議会へと発展して行くのです。
 議会(parliament)という言葉は、ラテン語ないしフランス語の議論ないし語りという言葉に由来するのであり、1230年代から使われるようになったのですが、最初から、象徴的な国王任免権と実質的な税金承認権に加えて、(コモンローの補充に過ぎないが)立法権(legislative power=制定法制定権)と、(最終審としての)司法権(judicial power)とを有していたと考えられています。
 立法権と司法権については後述します。
 さて、初期においては、議会が招集されるのは、基本的に、国王が税金をかけてカネを集める必要が生じた場合だけでした。
 しかし、マグナ・カルタ以降、議会の招集が慣習化することになります。
 議会の権威が増したことには、たまたまジョン王(コラム#90、2210、3467、3469、3471、4743、4920)が1216年に亡くなり、彼のまだ幼児であった息子のヘンリー3世(コラム#96、4468、4470、4476、4914、4920)が王位を継承した結果、有力な貴族や僧侶によって彼が成人になるまで統治が代行されたことが大いに寄与しています。
 まさに、その間に、彼らはヘンリー3世に(無効化されていたところの、)マグナ・カルタを再承認させるのです。
 ところが、成人になったヘンリー3世は、絶対君主的な統治を目指します。
 そこで、1258年、有力な直臣(baron)達は、団結して、ヘンリーをオックスフォード条項(Provisions of Oxford)に同意させ、宣誓させるのです。
 その結果、15人の直臣達が統治行為を行うと共に彼らを監視するために議会が年3回を目途に開かれる運びになります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England

 1261年に、今度は、ヘンリー3世は、オックスフォード条項を破棄します。
 これに対し、有力な直臣のシモン・ド・モンフォール(Simon de Montfort, 6th Earl of Leicester。1208?〜65年)(コラム#1334、3467)が他の有力な直臣達とともに叛乱を起こします。
 彼は、1264年に国王軍との決戦(Battle of Lewes)を制し、ヘンリー3世及びその息子と弟を捕え、彼と他の2人からなる政府を樹立し、この政府を議会が効果的に監視できるようにするため、すべての州(county=shire)と若干の都市(borough)ごとに、それぞれ2人ずつの代表・・州については騎士、都市については市民(burgess)、騎士と市民の総称は郷紳(gentry)、議員としての総称はコモンズ(commons)・・を選出してこの議会に送るようにさせました。
 騎士が議会に招かれたことは以前にもありましたが、市民が招かれたのは、この時が初めてです。
 こうして1265年に開かれた議会(ド・モンフォールの議会)こそ、それまでの世界史上他に例を見ないところの、民主的代表議会制(democratic representative parliament)、つまりは間接民主制、の始まりなのです。
 議会に代表を送ることができる都市は、国王が勅許状(Royal Charter)を与えることで次第に増え、最後の勅許状が1674年にニューアーク(Newark)市に与えられることになります。
 なお、州選挙区に関しては、有権者は、40シリングの年間地代が得られる土地について自由保有権(freehold)を有するすべての者(Forty-shilling Freeholders)でしたが、都市選挙区に関しては、まちまちでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Simon_de_Montfort,_6th_Earl_of_Leicester
(10月7日アクセス)(ただし、適宜、
http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England 前掲
で補足した。)
 その後、州選挙区等の有権者資格が次第に拡大されて行き、最終的には、現在の普通選挙制が導入されることになるわけです。

 1265年にモンフォールが戦死し、ヘンリー3世が再び実権を回復するのですが、ヘンリー3世もその子のエドワード1世(コラム#624、1334、2470-1、3842、4572、4912、4914、4916)>も、税金を課す時にはコモンズ込の議会を、単に助言を求める時にはコモンズ抜きの議会を、という形で議会を活用し続けます。
 そして、議会は、エドワード1世の子供のエドワード2世(コラム#3465、3467、3471、3814、4572、4885)を退位させ、その子供のエドワード3世(コラム#726、1334、3158、3467、3804、4312、4478、4566、4572、4912、4916、4918、4920、4922)を即位させたことによって、その権威を確立するのです。
 更に、1341年には、貴族と僧侶からなる議員達と、騎士と市民からなる議員達とが、別々に集まるようになります。上下両院制がここに、やはり世界で初めて成立します。
 そして、エドワード3世が、英仏百年戦争のための資金を確保したかったことに付け込んで、議会は、上下両院の同意なくして法律を制定したり税金を課したりできない、というルールを確立します。

 1376年には、下院議長(presiding officer。後にspeakerと呼ばれるようになった)の発意で下院が国王の大臣の問責(impeach)を行います。
 議長は、これに怒った国王によって投獄されたものの、まもなく、エドワード3世の死の後、釈放されます。
 また、エドワード3世の次のリチャード2世(コラム#726、916、3465、3471)の時には、下院は予算統制権も手中にします。
 ちなみに、1707年以来、国王は上下両院を通過した制定法案(bill)への拒否権を行使しないまま、現在に至っています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England 前掲

 すなわち、14世紀末までには、イギリス議会は、立法権とともに、行政権を統制する最大手段たる租税承認権と立法権に加えて、国王のみならず、国王の閣僚達をも事実上任免する権限を持つに至ったのであり、いわゆる議院内閣制(英語では、Parliamentary systemという)
http://en.wikipedia.org/wiki/Parliamentary_system
の原型が、ここに成立したことになります。
 (イギリス議会は、更に司法権も持っていた(後述)わけですが、これは、イギリスを始めとするアングロサクソン諸国以外には普及しませんでした。)

 (4)コモンローと議会制定法

 今までに「立法権」や「制定法」という言葉が登場しましたが、イギリスにおける法体系はどうなっているのでしょうか。
 1066年のノルマンコンケストまでは、裁判は、主として州裁判所(shireないしcountyのcourt)において、教会法関係と世俗法関係が別個に、それぞれ、教区司教(diocesan bishop)と州長官(sheriff)によって主宰されてとり行われました。
 プランタジネット朝初代のヘンリー2世(1133〜1189年。イギリス国王:1154〜89年)(コラム#1025、1064、1334、2384、3128、3790、3816、4468、4470、4472、4474、4476、4478、4531、4920)は、1154年にコモンロー(コラム#90)の集積、整理を行いました。
 その方法ですが、中央から判事を全国の州長官主宰の裁判所に送り、その地の法や慣習に基づいて審理、判決させ、その結果を再びこれら判事に中央に持ち帰らせ、互いに議論をしながら集積、整理を行わせ、全国共通の先例集(stare decisis=precedent)へとまとめあげさせたのです。
 爾後、判決を下すにあたって、判事はこの全国共通の先例集に拘束されることとなります。
 これは、換言すれば、この先例集所載の先例に該当しない事案については、自由に判決を下せる、ということであり、その結果はやがて、節目節目における集積、整理を経て先例集に追加的に反映されていくことになりました。
 これが共通法、すなわちコモンローなのです。
 爾後、コモンローによる教会法の領域の侵食が始まります。
 こうして起こったのが、前出のトマス・ベケット大司教殺害事件なのです。
 13世紀後半に確立した議会で、制定法も制定されるようになりましたが、それはあくまでも、コモンローの上に付け加えられた二次的法源でしたし、またそうあり続けて現在に至っているのです。
 なお、12世紀から13世紀にかけて、欧州ではローマ法の再発見が行われましたが、その頃までにはイギリスにはコモンローが根付いており、欧州で生じたようなローマ法の継受は、イギリスでは生じませんでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Common_law
(9月3日アクセス)

 ここで忘れてはならないのは、コモンローの淵源となったイギリス各地の法が形成され、イギリス各地の慣習が認定されたのは、その大部分が陪審制的な裁判を通じてであったことです。
 ゲルマン人には、一般に裁判員制があったらしいことが分かっていますが、大ブリテン島に到来したアングロサクソン人の裁判所において、最初から裁判員制ないし陪審員制的なものが存在したかどうかは定かではないようです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Conservator_of_the_peace
(9月4日アクセス)
 確かなのは、アングロサクソン諸王国の頃から盛んにイギリスを襲ってきて、その一部がイギリスに定着したり、イギリス国王となったりしたバイキングについてです。(ノルマン人ももともとはバイキングですが、これは捨象しましょう。)
 バイキングは訴訟大好き人間であり、その武装自由民は、しばしば、司法会議(thing)に集まっては裁判を行いました。この裁判員達は、自分達で捜査等も行いました。
 これにヒントを得たと思われるのですが、エセルレッド無思慮王(Aethelred the Unready。908?〜1016。イギリス国王:978〜1013、1014〜1016)
http://en.wikipedia.org/wiki/%C3%86thelred_the_Unready
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%892%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
の時に、小地区(wapentake)ごとに12人の下級貴族(thegn)達が宣誓の上、捜査等を行った後、裁判を行うものとされていたことが分かっています。
 バイキングの場合は、自由民なら基本的に誰でも裁判員になれたけれども、ブリトン人を支配したバイキングやアングロサクソンは、全員が下級貴族以上相当であったため、裁判員には下級貴族があてられた、と考えられます。 
 ノルマンコンケスト後には、フランク族の陪審制がノルマンディー地方経由でイギリスに導入され、やがて、これが、やはりヘンリー2世の時に、上述したところの、イギリスに既に存在した一種の裁判員制度と融合し、同輩たる陪審員による陪審制がイギリスにおいて確立します。
 他方、欧州の方では、ローマ法の再発見に伴い、陪審制度は消滅してしまったようです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jury_trial
http://en.wikipedia.org/wiki/Jury
(9月4日アクセス)

 (5)議会と司法権

 イギリス議会は、つい最近まで最高裁判所としても機能してきました。
 その始まりは、議会が、下級裁判所の判決を覆して欲しいとの陳情を受け付け始めたことです。
 1339年に、下院はかかる陳情の受付を止めた結果、かかる陳情を受け付けるのは上院だけになり、上院がイギリスの事実上の最高裁判所、ということになりました。
 その上院では、その後この機能が衰退し、1514年から1589年の間にはわずか5件しか上告(陳情)を受け付けませんでしたし、1589年から1621年の間には全く受け付けていません。
 1621年から、ようやく上院は、活発な最高裁判所として機能するようになります。
 2009年になって、英国最高裁判所(Supreme Court of the United Kingdom)が設置され、ついに上院のこの機能は廃止されるのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Judicial_functions_of_the_House_of_Lords
(9月8日アクセス)

 (6)議会主権

 ここで改めて、強調しておきたいのは、イギリスは、議会が「成立」した時から、行政権、立法権、司法権が分立していないところの、単一主権の議会主権の国であり続けてきた、ということです。
 イギリスは、国王主権の国でも、国民主権の国でもないのです。(コラム#1334)
 すなわち、イギリス国王は、議会内の存在なのです。(国王が男性の時はKing-in-Parliament、女性の時はQueen-in-Parliamentの観念です。)(コラム#1334、1695、1789、1798、1805、1809、2244、2472、2482、2922、3828)
http://en.wikipedia.org/wiki/Queen-in-Parliament
 ただし、つい最近、司法権だけは分立し、二権分立制となるに至った、というわけです。
 ちなみに、日本の、大正デモクラシー以降の政府形態は、イギリスの議院内閣制の系譜に属するところの、King-in-Parliamentの、司法だけ分立した二権分立制である、と言えるでしょう。
 ただし、ご存じのように、日本はコモンロー(プラス補助的法源たる制定法)の国ではなく、制定法の国なので、現時点では、日本の議会の方がイギリスの議会よりも強力である、と言えそうです。

 (7)欧州の「議会」との違い

 では、イギリスの議会と欧州の議会とはどこがどう違うのでしょうか。
 欧州の最先進国のフランスの三部会(States-General=Estates-General)を例にとりましょう。

 まず第一に、発足がイギリスの議会より遅いのです。三部会はフランス国王フィリップ3世(Philip the Fair)によって、1302年に設置されています。
 恐らく、イギリスの議会を模倣して設置した、と考えられます。
 第二に、三部会は、イギリスの議会と違って、持続的に発展することができませんでした。例えば、三部会は、1560年まで76年間開かれなかったことがありますし、1614年以降はほとんど開かれませんでした。
 第三に、三部会の権限はイギリス議会の権限よりはるかに小さいものでした。
 租税や制定法の決定権はなく、国王に供与される補助金の承認権こそあったけれど、基本的に、国王への陳情の取次と財政政策についての助言を行う、単なる助言機関に過ぎませんでした。
 (ちなみに、フランスでは、国王には(直轄地のしかも一部を除いて)徴税権がなく、補助金の供与指示権しかありませんでした。)
 また、イギリス議会は国王任免権を象徴的に有し、たまに実際に行使しましたが、三部会は、ルイ11世が死去した1484年にオルレアン公がシャルル8世の摂政になろうとした時に、シャルルの姉のアン・ド・ボジュー(Anne de Beaujeu)側についてこれを拒否したことがあるだけであり、果たして国王任免権を象徴的にせよ有していたかどうかも判然としません。
 三部会には、司法権もありませんでした。
 第四に、総括的に言えば、フランスの国王は、三部会の外(上)に存在しており、議会の中に存在していたイギリスの国王とは異なっており、このことは、三部会がイギリス議会とは、全く異なった範疇に属する存在であることを示しているのです。

 ところで、日本語で三部会と呼ばれるのは、僧侶、貴族、市民がそれぞれ別個に集会(部会)を持ったからですが、市民と言っても、主要な特権的都市の代表であり、しかも一つの都市から僧侶、貴族、市民(burgess)たる三名が選出される決まりでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Estates-General_of_France

4 終わりに

 もともとは、スコットランドとウェールズ(、更にはアイルランド)の議会の歴史との比較や、古典ギリシャ(アテネ)と古代ローマの議会の歴史との比較もしようと思ったのですが、果たせませんでした。
 また、断定的に書いていない部分は、十分調べることができなかった部分であることをお断りしておきます。

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<前半(コラム#5009)の補遺>

 「・・・<現在の>イギリスのナショナリズムには、ウェールズとスコットランドのそれと比較して、穏やかならざる、人種的に排他的な要素がある。・・・」
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/oct/11/britain-model-unhappy-family
(10月12日アクセス)

 「・・・最も最近の諸研究が見出したところによれば、それぞれの有権者達が選択を強いられた場合、イギリス人の52%、スコットランド人の19%、ウェールズ人の30%が、英国を、それぞれ、イギリス、スコットランド、及びウェールズよりも第一に選ぶ。・・・」
http://www.guardian.co.uk/uk/2011/oct/12/uk-citizens-reject-british-survey
(10月13日アクセス)

(完)
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太田述正コラム#5054(2011.10.15)
<2011.10.15オフ会次第(その1)>

→非公開

太田述正ブログは移転しました 。
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太田述正コラム#5009(2011.9.23)
<イギリスにおける近代議会の誕生(その1)>

 これは、9月23日に東京で行うはずであった講演会(オフ会)のために用意した講演草稿の前半部分です。改めて10月15日に順延された東京での講演会で、後半部分を含めて話をする予定です。(太田)
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1 始めに

 本日のお話は、サー・サイモン・デイヴィッド・ジェンキンス(Simon David Jenkins。1943年〜)の新著'A Short History of England’の書評類
A:http://www.prospectmagazine.co.uk/tag/simon-jenkins/
(この本を含む3冊の本の書評)
B:http://www.spectator.co.uk/books/7189473/the-bigger-picture.thtml
(この本を含む2冊の本の書評)
C:http://www.guardian.co.uk/books/2011/sep/01/history-dates-english
(ジェンキンス自身による紹介。以上、いずれも9月2日アクセス)
D:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/d651676c-dd30-11e0-b4f2-00144feabdc0.html#axzz1YAkA8FwL
(この本を含む3冊の本の書評。9月17日アクセス)
に大いにヒントを得ていることをあらかじめお断りしておきます。

 というのも、この本の「黄金の織り糸は、同意による政府という観念に関する慣習とコンモンローの進化に対する<著者>の関心」(B)であり、「この本のテーマがあるとすれば、それは、議会の発展(growth)」(D)であるからです。
 なお、「この本に書かれていることで新しいことは何もない」(D)というのが事実だとすれば、イギリス議会の歴史などというものは、イギリス人にとっては常識の部類にほかならない、ということになりそうです。
 ただし、「この本は、このテーマを十分展開していない(this is insufficiently developed)」(D)ようなので、相当補充しつつジェンキンスの言わんとするところを把握しなければならない、ということになりそうです。
 いわんや、その書評類においてをや。

 申し遅れましたが、ジェンキンスは、オックスフォード卒で新聞コラムニストで著述家であり、以前ザ・タイムス紙の編集長をやり、2008年11月から英国のナショナルトラスト(the National Trust。英国の自然環境・歴史的環境保護のための民間組織)
http://ejje.weblio.jp/content/National+Trust
の会長を務めています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Simon_Jenkins

 この本(の書評類)に出会うまで、私は、話のタイトルは決めたものの、どうまとめたらよいものか、頭を悩ましていました。
 その呻吟ぶりに、コラムにおける時々の記述(注1)から気づいておられた方もあるいはいらっしゃるかもしれません。

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 (注1)
 「ロンドン滞在中の1988年、大書店でイギリス議会制度の起源についての本を探していると店員に聞いたら、そんな本はないと言われて当惑したことがある。コラムでもまともに取り上げたことがない。そこで、勉強を兼ね、今度のオフ会の「講演」のテーマは「イギリスにおける近代議会の誕生」にしたい。」(コラム#4957)
 「マグナカルタは(法の支配と裏腹の関係にあるが、)自由主義の起源であって民主主義の起源とは言えまい。更に、議会制の起源をフランスの三部会的なものに求めるのもおかしいのであって、ゲルマン文化直系のイギリスの議会・・議会主権・・に求めるべきであり、これこそ近代民主主義の起源でもあると考えるべきだろう。」(コラム#4797)
 「今度のオフ会の「講演」のテーマは「イギリスにおける近代議会の誕生」にしたい。」と申し上げた上で、「このテーマ、ボクにとっちゃ単純にオモシロイ・・なんで世界中でこんだけ当たり前になっちゃった制度が、しかし、イギリスで形成されるまで世界のどこにもなかったのかを知りたい・・んだけど、原点を振り返ることで、現在の日本の政治・・イギリス由来の議院内閣制に立脚した政治・・についての理解が深まる、とでも言えば、皆さんの興味もちったあ湧くんじゃないかな」(コラム#4957)
 「(コラム#4800に関し)直接民主制は民主主義独裁(内部崩壊)ないし帝国主義(膨張的崩壊)へのベクトルを内包してるってことだな。
 じゃあ、崩壊を免れうる民主制とはいかなるものか。
 これは、次回のボクの「講演」のテーマ、どうして間接民主制がイギリスで生まれたのか、それはどんな間接民主制だったのか、につながる。」(コラム#4963)
 「次の「講演」テーマ、「イギリス議会制度の起源」。なんでそんな本ないってロンドンの書店の店員が答えたのかだんだん分かってきた。第一に起源なんてない、第二に、それは「イギリスの起源」とほとんど同値であり、設問が巨大かつ漠然としすぎている、からだったんだ!答えようとした日本人いないか?」(コラム#4971)
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太田述正コラム#4822(2011.6.21)
<イギリス人の起源をめぐって(その3)>(2011.9.11公開)

 なお、この学説については、2006年7月18日にBBCが電子版で報じています。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/5192634.stm

3 イギリス人=アングロサクソン説A(多数渡来説)

 以上、ご説明した「イギリス人=アングロサクソン説B(少数渡来説)」と、今から触れる「イギリス人=アングロサクソン説A(多数渡来説)」、及び、その後で言及する「イギリス人=バスク人説」の三つを公平に紹介しているのが、2009年12月17日にアップされた下掲のサイト↓です。
http://heritage-key.com/britain/genetic-britain-how-roman-viking-and-anglo-saxon-genes-make-uks-dna

 このサイトは、ブリテン諸島に人間が最初にやってきたのは700,000万年前だが、継続的に住み着いたのは、最後の氷河期が終わった12,000年前頃であったとした上で、かねてから、英国人の遺伝子構成が侵攻者達によって大いに影響を受けたとする説(注10)と、ほとんど変わらなかったとする説(注11)とがあったとします。

 (注11)多数説。大量のアングロサクソンの侵攻があったからこそ、イギリスは欧州とは異なり、制限王政と自由への愛で特徴づけられるところの、異なった発展を遂げたとする。
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Saxon_settlement_of_Britain
 (注12)少数説。例えばローマ史で有名なギボン(Edward Gibbon)がそうであり、だから、イギリスにはブリトン人由来のものが大幅に残ったとする。
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Saxon_settlement_of_Britain 上掲

 そして、最近の学説として、まず、2002年に打ち出された、ロンドン・ユニヴァーシティー・カレッジ(UCL)の研究者達による「イギリス人=アングロサクソン説A(多数渡来説)」(本シリーズにおける学説のネーミングは、私が仮につけたもの)を、概略次のように紹介します。
 
 彼らは、現在の、イギリス中部の男性達のY染色体をオランダのフリースランド(Friesland)地方・・アングロサクソンの原住地であったと考えられている・・の男性達のそれとを比較した。
 その結果、この二つの集団が著しく遺伝子的に似通っていることが分かり、「大量の移住」が暗黒時代に起こったに違いないという結論を下した。
 他方、イギリスとウェールズの人々は遺伝子的には似通っていないことから、アングロサクソンはウェールズまでは席巻しなかったという結論も下した。
 そして、以上を説明するためには、侵攻勢力は約500,000人という、当時としては莫大な数であったはずだと指摘した。

 (このサイトは、次に、同じUCLで、今度は2006年に打ち出されたもう一つの学説である、「イギリス人=アングロサクソン説B(少数渡来説)」を説明しています。
 これまで出ていなかった話で補足しておきますと、アングロサクソンは、わずか15世代でイギリスを席巻したとし、そのあおりで、暗黒時代に、敗れたブリトン人達がブリテン島から逃げ出し、フランス北西部のブルターニュ地方(ブリトン人からその名前が由来している)とスペイン北西部のガリチア(Galicia)地方に流入した、というのです。
 これに加えて、ユスティニアヌスの疫病(plague of Justinian)(注12)が暗黒時代において顕著な人口減少をもたらされたと信じられているとします。

 (注12)東ローマ帝国を中心に541〜542年に起こり、約1億人を病死させた史上最大の疫病。原因は腺ペストであり、14世紀の黒死病(Black Death)と同じ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Plague_of_Justinian
 なお、600年前後にインドから欧州に広がった天然痘の影響もあるとする説がある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Saxon_settlement_of_Britain 前掲

 なお、イギリスの住民の遺伝子構成は9世紀のヴァイキング、11世紀のノルマン人の到来によって新たなインプットが生じたけれど、アングロサクソンとその後の侵攻者達のY染色体を区別する方法を見出していないので、これらのインプットがどれほどのインパクトを与えたかは分からない、というのです。)

4 イギリス人=バスク人説

 最後に、上記サイトは「イギリス人=バスク人説」を紹介しています。
 この学説は、私が以前(コラム#1687で)紹介済みであり、2007年3月にオックスフォード大学と関わりの深いスティーブン・オッペンハイマー(Stephen Oppenheimer)
http://en.wikipedia.org/wiki/Stephen_Oppenheimer
・・その折には言及しなかったが、共同研究者がいて、オックスフォード大学のブライアン・サイクス(Bryan Sykes)教授
http://en.wikipedia.org/wiki/Bryan_Sykes
がそうだ・・が発表したものです。
 つまり、この学説は、イギリス人の起源に関する最新の学説なのです。
 当時の紹介との重複を厭わずに、このサイトにおけるこの学説の説明を要約しておくと以下のとおりです。

 イギリスに人間が継続的に住み着いてからというもの、彼らの遺伝子構成はほとんど変わっていない。
 現在のアイルランド人とウェールズ人は、バスク人と遺伝子的に80%が共通しているのに対して、イギリス人は65%が共通している。
 だから、イギリスの住民はケルト系であるとは言えない。
 このことは、英語にケルト系の言葉がないこと、また、ケルト系の地名がないことからも明らかだ。
 ローマが到来した時、イギリス南部は、ガリアのベルギー地方とつながりのあるゲルマン系の言葉をしゃべる部族であるベルガエ人によって占領されていた。
 アングロサクソンに関しては、そのDNAはイギリス人の男系(male lines)の5%にしか発見されておらず、女系においてはほとんど発見されていない。(注13)

 (注13)この学説は、Y染色体とミトコンドリアDNAとベースにしている
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Saxon_settlement_of_Britain 前掲
が、「イギリス人=アングロサクソン説B(少数渡来説)」のY染色体のみをベースにした数字と大きな違いがあるが、どなたか、その違いが何に由来するのかを、原データにあたって究明していただきたいものだ。

5 終わりに

 その後、Y染色体ハプログループ(Y-chromosome haplogroup(注14))のR1bが、イギリス中部・南部、ウェールズ、アイルランド、フランス北西部及びスペイン北部において、80%の男性に存在することが発見され、これにより、「イギリス人=バスク人説」は、更なる裏付けを得た、ということになりそうです。
 (以上、特に断っていない限り、下掲による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Saxon_settlement_of_Britain 上掲
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_R1b
http://en.wikipedia.org/wiki/File:R1bmap.JPG

 (注14)「父系で遺伝するY染色体のハプロタイプの集団のこと」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97
 「現在は限定的な意味として、同一染色体上で統計学的に見て関連のある、つまり遺伝的に連鎖している多型(一塩基多型[SNP]など)の組合せをいうことが多い。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%97

 このように見てくると、やはり、イギリス人の起源については、「イギリス人=バスク人説」が最も最新の学説であり、かつ、最も説得力がある、と言えそうです。
 ですから、冒頭の話に戻りますが、現在のドイツが依然としてイギリスに対して強いコンプレックスを抱いていることから、ドイツのシュピーゲル誌が、意趣晴らしのためにあのようなおかしな記事を掲載したとしか考えられない、と私は思うのです。
 
(完)

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太田述正コラム#4820(2011.6.20)
<イギリス人の起源をめぐって(その2)>(2011.9.10公開)

 補足しつつ、もう少し詳しくコメントしたいと思います。

 この学説は、2006年7月に発表されたもの
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1635457/
ですが、ヘルケは、記事の中にも出てきたトマスのほかに1名(Michael P.H Stumpf。名前から英国人らしい)と連名で登場しているだけなのに、この記事では、あたかもこの学説が(ドイツ人である)ヘルケ単独の学説のように誤解させる記述ぶりになっていますし、そもそも、どうして5年近く前に打ち出された学説を、あたかも発表されたばかりの学説のようにこの記事では紹介したかも疑問です。
 また、この論文ではブリテン島に到来したアングロサクソンを10,000人から200,000人としていたというのに、どうしてこの記事では上限の方の数字だけを引用したのかも不明です。
 ついでに言えば、この記事では、現代イギリス人の遺伝子構成(gene pool)中50〜100%を占める(注5)、というこの論文中の肝心の数字も引用していません。(なお、この点、バスク人説とどう折り合いをつけるのか、私としては関心のあるところです。)

 (注5)同じ3名の連名による2008年の論文
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2603197/
によれば、Y染色体に着目した推定らしい。

 更には、3世紀末のローマ支配下のブリテン島の人口は370万人はあったところ、4世紀から5世紀初頭にかけて200万人程度まで減少した、というこの論文中の数字にもかかわらず、「約100万人<以上>の圧倒的な数のブリトン人」と迫力の乏しい誤った(?)数字をこの記事が援用した理由も不明です。

 これでは、比較的少数のアングロサクソンしか渡来していないのに、どうして現代イギリスの多数がアングロサクソン(ゲルマン)化したのかを解き明かす、というこの学説の眼目がボケてしまっています。

 アングロサクソンによる原住民の「アパルトヘイト」的支配の実態について、この記事に盛り込めなかったのは、紙面の制限があったとすれば理解はできるところ、(前掲のウィキペディアにも載っていなかった)この学説のもう一つのウリを、より詳しくこの論文に拠って解説しておきましょう。
 イネの諸法は、ウェセックスにおいて、サクソン人と「ウェールズ人(Welsh)」(原住民たるブリトン人)に対して、両者が近くに住んでいてしばしば同じ家に住んでいたにもかかわらず、異なった法的地位を与えていた、というのです。
 具体的には、考古学的指標ないし遺骨の指標から、武器を持っている男性達(成人男性の47%)は移住者や移住者の子孫であったと推定されるのに対し、武器を持っていない男性達(53%)は様々なグループに属していてその相当部分が原住民たるブリトン人であると推定されるところ、この二つのグループの地位の違いは5世紀後半から6世紀末まで続き、7世紀にはなくなった、というのです。
 アングロサクソンと同じくゲルマン人で、ブリテン島ならぬ南仏とスペインに侵攻した西ゴート(Visigoth)の王エウリック(Euric)(在位:466〜484年)(注6)は、彼が率いた者達と原住民との通婚を禁じたことと、それより600年後の11世紀にイギリスを征服したノルマン人達はイギリスとウェールズの原住民に低い法的地位を付与した法的枠組みを打ち立て、通婚は、仮に行われたとしても、ノルマン人男性とイギリス人女性の間でだけ行われた、ということが、その間接的証拠であるというのです。

 (注6)415?〜484。南仏のトゥールーズ(Toulouse)を首都として統治。(西)ローマ帝国内に侵入したゲルマン人の中で、ローマ皇帝の名目的支配から脱した(475年)最初の首長。また、ゲルマン人首長の中で法典を編纂した(471年)最初の人物でもある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Euric

 そして、「低い法的地位」に関し、イネの諸法においては、サクソン人について支払われるべきヴェアギルド(wergild)(注7)は「ウェールズ人」のそれの5倍であったし、ケントのエセルベルト(Ethelbert)王(注8)の7世紀初頭の諸法では、自由人について支払われるべき贖罪金は原住民たるブリトン人と思われる人々のそれの1.25から2.5倍であった、というのです。(注9)

 (注7)weregildと綴られることもある。サリカ法(Salic Law)においては、人間と財産にはすべて金銭的価値が付与され、財産が盗まれたり、誰かが傷つけられたり殺されたりした場合には、犯人はヴェアギルド(贖罪金)を犠牲者の家族か財産の所有者に払わなければならなかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Weregild
 ちなみに、「サリカ法典(・・・Lex Salica) は、フランク人サリー支族が建てたフランク王国の法典。ラテン語で記述されており、編纂にあたってはローマ人の法律家の援助を得たと言われているが、ローマ法とは異なり、金額が固定された金銭賠償(贖罪金)に関する規定が主であり、自力救済を原則としていたことにも特色がある。また、サリカ法の相続条項を拡大解釈して女王及び女系継承を禁じたフランス王国の王位継承法と、それに準じた他国の相続方式も、しばしば便宜的にサリカ法と呼ばれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%B3%95%E5%85%B8
 (注8)560?〜616年。在位:580/590〜616年。アングロサクソン諸王中、最初のキリスト教への改宗者。ゲルマン系言語で法典を編纂した最初の王でもある。また、アングロサクソン諸王国中、貨幣を初めて流通させたことでも知られる。妻は、当時の欧州最強国のフランクの王の娘。後にカトリック教会により聖人に叙せられる。
http://en.wikipedia.org/wiki/%C3%86thelberht_of_Kent
 (注9)http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2603197/ (前掲)において補足的記述があり、イネの諸法において、ブリトンが、一か所の例外を除き、従属的役割ないし奴隷の地位にある旨言及されていること、唯一なされている「自由な」ブリトン人への言及においても、彼らの贖罪金が同等のサクソン人の半分に設定されていること、法廷におけるブリトン人の証言の価値がサクソン人証人のわずか半分とされていること、を指摘している。

 (以上、特に断っていない限り前掲の下掲に拠る。)
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1635457/

 なお、バスク人説を意識したと思われる記述が、
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2603197/ (前掲)に出てきます。
 すなわち、バスク説において、英語の原型となった言語をブリテン島にもたらしたとされる(ガリアのベルギー地方に居住していた)ベルガエ(Belgae)人(コラム#1687)について、彼らがゲルマン系であるとするのはカエサルだけであるところ、同じカエサルが別の機会には、ベルガエ人とゲルマン人とを明確に区別しているのでカエサル自身に矛盾があり、かつ、果たしてベルガエ人がイギリス南部に移住してきたのかどうかについては何十年にわたって議論の対象となってきた、と指摘しています。

(続く)

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太田述正コラム#4818(2011.6.19)
<イギリス人の起源をめぐって(その1)>(2011.9.9公開)

1 始めに

 昨日、今からご紹介する、シュピーゲル誌の記事を読んであわてました。
 イギリス人の起源の話なのだけれど、バスク人説に何の言及もないし、そもそも、根本的にバスク人説と相容れない内容だったからです。
 さっそく、調べてみたのですが、私の結論は、こんな一方的な記事を載せたことで、シュピーゲル誌は決して高級誌なんぞではないことが露呈してしまったというものです。
 どうやら、ナチスドイツばりのドイツ人至上主義に(恐らく意識せずして)シュピーゲルの編集陣は毒されている、ということなのでしょう。

2 イギリス人=アングロサクソン説B(少数渡来説)

 まず、この記事が紹介しているところの、イギリス人の起源に関する学説のあらましをご披露しましょう。
 どうして、表記のような説と言えるのかは、おいおい分かってきます。

 「・・・英リーディング(Reading)大学の考古学者の<ドイツ人、>ハインリッヒ・ヘルケ(Heinrich Harke)は、<ブリテン島への>移民の動きの量的推計値に到達した。
 彼は、「せいぜい200,000万人の」移民が北海を渡ったと想定している。
 この<、しかし>大量の人々の動きは、明らかに、病んだローマ帝国がその軍隊の多くをブリテン島から撤退させた407年を契機に始まった。
 その直後に、ローマは兵士達に給与を支払うのを完全に止めてしまった。
 その結果、残った最後の兵団達が出て行った。
 これにより、ブリテン島の防御態勢は消滅したが、欧州大陸の飢えた人々がこの機会を見逃せるはずがなかった。
 アングル、サクソン、そしてジュート族が、北欧州の湿地帯の中の泥でできた(mound)住まいと広い豆畑を後に残し、群れをなしてやってきたのだ。・・・
 こうして新しく到来した人々は、410年頃に、オックスフォード近くのドーチェスター(Dorchester)に最初の墓をつくった。・・・
 推定<上限>200,000人の侵入者たちは約100万人<以上>の圧倒的な数のブリトン人と対峙したけれど、侵攻者達が勝利した。
 東アングリア(East Anglia)、ウェセックス(Wessex=西サクソニー)、エセックス(Essex=東サクソニー)といった諸王国<(注1)>がすぐに形成され、シゲリック(Sigeric)やキネウルフ(Cynewulf)(注2)といった強力な首長が<これら諸王国を>統治した。

 (注1)いわゆるアングロサクソン7王国(heptarchy)。主要4か国:ウェセックス、東アングリア、マーシア(Mercia)、ノーサンブリア(Northumbria)。その他の3か国:ケント(Kent)、サセックス(南サクソニー)、エセックス。
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Saxon_England
http://en.wikipedia.org/wiki/File:British_kingdoms_c_800.svg
 (注2)シゲリックについては確認できなかったので、この記事を書いた記者の勘違いではないか。キネウルフは、757年から786年までウェセックスの王であった人物。
http://en.wikipedia.org/wiki/Cynewulf_of_Wessex

 ケルト人達はこれらの乱暴者達にはかなわなかった。
 ローマ人達は、彼らにリラの弾き方や大量のワインの飲み方は教えたけれど、この地域の民衆はパックス・ロマーナ(ローマの平和)の下にあり、武器を持つことを禁じられていた。
 その結果、この地の人々は刀にもはや馴染みがなくっており、<慌てて刀をとったものの、>次々に戦いに敗れ、この島の端へと追い立てられた。
 古のイギリスの英雄譚である『ベオウルフ』<(コラム#2269、2271)>は、この異教徒たる征服者達がいかに荒っぽく互いに戦いに明け暮れていたかを示唆している。
 彼らは、すぐにイギリスの東部と中部を占領した。
 アーサー王の有名な伝説は、やはりこの時代に、一種の反プロパガンダとして、起源を持つ。
 歴史家達は、この作品について、キリスト教徒たる原住民達・・聖杯(Holy Grail)は恐らく聖餐式(holy communion)用の杯を象徴している・・によって生み出された「防衛的神話」であると考えている。
 恐らく、アーサー王伝説<(コラム#461、462、463、3137)>は、500年前後にバドン山(Mount Badon)<(注3)>において勝利をあげたところの、神話上のケルト人の王をもとにできたのだろう。・・・

 (注3)The Battle of Mons Badonicus。6世紀中頃に僧侶のギルダス(Gildas)が、ラテン語で、44年前にブリトン人とアングロサクソンとの間の戦いがあり、前者が勝利したが頽勢の挽回にはつながらなかった、と記した。9世紀にこの話がアーサー王伝説と結びつけられた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Mons_Badonicus

 ロンドンの遺伝学者のマーク・トマス(Mark Thomas)は、大陸からやってきた征服者達が、ウエセックスのイネ(Ine)王<(注4)>の(695年前後の)諸法によって裏付けられているところの、アパルトヘイトに似た社会構造を維持していたことを確信している。
 この諸法は、ブリトン人の6つの社会階層を規定しているところ、そのうち5つは奴隷だ。

 (注4)688年から726年までウェセックスの王。694年頃に諸法を制定したことで有名。
 しかし、イネに関する英語ウィキペディアのこの諸法の説明には、この記事の「6つの階層」云々の話は出てこない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ine_of_Wessex

 このような過酷な従属により、負け組のブリトン人達の繁殖は明らかに抑えられ、一方で勝者達は大勢の子供達を持った。
 その結果は現在の英国の遺伝子構成において、依然として明白だ。
 「イギリスの田舎出身の人々は、彼ら同様の田舎出身者たるウェールズやスコットランド人達に比べて北部ドイツ人により<遺伝子構成的に>近いのだ」とヘルケは説明する。・・・」
http://www.spiegel.de/international/europe/0,1518,768706,00.html
(6月17日アクセス)

 この学説ですが、ゲルマン人が、イギリスの支配者となり、原住民を人種的にもゲルマン人化したとか、原住民をアパルトヘイト式に統治したとか、しかも、ドイツ人の学者が主唱しているとか、と来れば、いかにもドイツ至上主義者の気持ちをくすぐることだろうて、と思いませんか。

(続く)

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太田述正コラム#3626(2009.11.4)
<正義について(その3)>(2009.12.12公開)

  エ 道徳的(vituous)自由主義

 このように、二つの現代自由主義の派は、そのあらゆる違いにもかかわらず、ロールズが含蓄ある形で要約したところの「権利は財(good)よりも優先順位が高い」という原理を共有している。
 両派は、実質的な道徳的諸理想とは離れて、選択についての公的な諸特性だけから正義の諸ルールが導き出されなければならない、という点について合意している。
 取り返しがつかないほど、宗教的かつイデオロギー的な線に沿って分かれてしまっている諸社会に住んでいる我々として、それ以外のことを望むことができるだろうか、と。
 <しかし、>サンデルは、財よりも権利の方が優先順位が高いとする考え方を拒否する。
 彼は、大昔にアリストテレスによって提唱された古い考えに着目する。
 それは、財の正義にかなった分配をするためには、我々はその財がいかなるものであるのかをまずはっきりさせなければならないというものだ。
 例えばフルートは、演奏されるために作られたわけだ。
 だから、最も良いフルートは、それを最も良く演奏できる者に与えられるべきであって、最も賢明な者、最も富んだ者、あるいは最も美しい者に与えられるべきではない。
 我々は、フルートが何のためのものであるか、すなわちそのテロス(telos=目的)が何であるかを知るまではフルートをどのように配分するかを知ることはできない。
 同じことが、あらゆる社会的諸財について言える。
 こうして我々は、不可避的に、諸価値の議論の多い土俵に登らされる。
 サンデルは、この論題を多くの事例の助けを借りて例証する。
 例えば、同性愛者の結婚は、道徳的中立性に立脚しつつ、しばしば(両派の)自由主義者達によって擁護される。
 彼等は、国家は、同性愛的諸関係の望ましさであろうが何であろうが、それらについて意見を表明すべきではない、と主張する。
 国家の仕事は、それが何であろうと、個々人による選択を裏書きすることだけだ、というのだ。
 この種の議論は、その論理的結論を突き詰めれば、一夫多妻や一妻多夫やその他のありとあらゆる同意に基づく同棲に許可を与えることになってしまう。
 実際のところ、それは、若干のリバタリアンによって好まれているところの、結婚契約の完全な自由化(privatisation)につながってしまう。
 仮に同性愛者の結婚の擁護者達がこんなことまでは望んでいないのだとすれば・・実際彼等の大部分は望んでいないのだが・・彼等を真に動かしているのは、同性愛関係に<異性愛関係と同様の>威信を与えるべきであるとの信条なのだ。
 換言すれば、彼等の立場は、全く中立などではないのであって、実質的な道徳的主張を体現化したものなのだ。・・・」(C)

 「・・・サンデルは、アリストテレスを引き合いに出し、これらの諸制度において「行うべき正しいこと」を知るためには、その目的を決定することが求められる、と主張する。
 そして、政府の目的は、個人の権利を守ることだけではなく、愛郷心、自己犠牲、そして隣人への関心といった市民的諸徳について、これらを尊重し報償を与えることであるとする。
 この正義の三番目<(私のこのシリーズにおける整理の仕方では四番目(太田)>の(本来そうあるべき)定義は、道徳的営み(enterprise)なのだ、と。・・・」(A)

 「・・・<これは、>疑いなく、サンデルや<カナダの>マックギル(McGill)大学名誉教授のチャールス・テイラー(Charles <Margrave >Taylor<。1931年〜。カナダ出身の哲学者>)
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Taylor_(philosopher) (太田)
や<米国の>ノートルダム大学のアラスデア−・マッキンタイヤー(Alasdair <Chalmers >MacIntyre<。1929年〜。スコットランド出身の哲学者)
http://en.wikipedia.org/wiki/Alasdair_MacIntyre (太田)
ら何人かの知識人・・・によって共有されているところの、少数派の見解だ。・・・」(E)

 (4)結論

 「・・・「私が自由主義と争っている主要点は、自由主義が個人的諸権利を非常に強調することに対してではない。私はこれらの諸権利は極めて重要であり、尊重されなければならない、と信じている」と彼は言う。
 「問題は、市民達が公的生活に持ち込むところの道徳的諸信念について、そして時には宗教的な諸信念についてさえ、一定の立場をとらずして、我々の権利を定義し正当化することが果たして可能なのかどうかなのだ」と。・・・
 もう一つ彼が争っているのは、多くの今日の自由主義者達が、宗教的な市民達は、彼等の見解を、市民的議論のためには、全市民が理解できるような言葉へと翻訳しなければならないと主張していることに対してだ。
 サンデルは、「公的理性(public reason)は、もっと信仰に暖かくあって」欲しいのだ。・・・
 サンデルは、連帯と市民的自尊心のために、<米国で>より広汎かつ社会横断的に人々が軍役に就くべきだと考えている。
 <ところが、彼にとって遺憾なことに、>マンキュー(<Nicholas Gregory "Greg" > Mankiw<。1958年〜。ハーバード大学教授たる新ケインズ主義(コラム#3602)マクロ経済学者>)
http://en.wikipedia.org/wiki/N._Gregory_Mankiw (太田)
は、 彼の行った授業で、彼等が徴兵から解放されたことでミルトン・フリードマン<(コラム#765、1221、1231、1567、1568、2050、3162、3539)>に感謝すべきだ、と語ったものだ。・・・
 <また、>サンデルが<ある時、>彼の正義についての観念を要約した話をしたところ、・・・歴史学者のニール・ファーガソン(Niall Ferguson<。1964年〜>)<(コラム#125、207〜212、738、828、855、880、905、914、967、1053、1202、1433、1436、1469、1492、1507、1691、3129、3379)>・・・は、・・・「あなたの言う「徳」について、そうだそうだという気にはなれそうもない」と述べた。
 「私は、あなたが徳という言葉を使うたびに、共和国の徳の体現者として人々をギロチンへと送ったロベスピエール<(コラム#66、516、1256、1839、3216、3321、3329)>を思い出さずにはおられなかった」と。
 この二人のやりとりは、その業績を通じてサンデルによって提起された<下掲の>いくつかの主要な疑問に係るものだ。
 自由主義がそれらを改善するためにこそ設計されたところの、民族的かつ宗教的諸緊張に再点火することなく集団的連帯の重要性を強調することが、果たしてできるのだろうか?
 特定の生活の仕方が他の生活の仕方より良いという観念や、政治家達と裁判官達はかかる判断をすべきだという観念は、非寛容ないし強制を簇生させることなく蘇生させることが、果たしてできるのだろうか?・・・」(E)

3 サンデルとコミュニタリアニズム

 サンデルは、1953年に米国で生まれ、同国のブランダイス大学を卒業した後、オックスフォード大学にローズ奨学生(コラム#1009、2031、3230、3405)として留学し、同大学で博士号を取得したのであり、指導教官は、当時同大学の教授をしていた上出のチャールス・テイラーでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Sandel
 このテイラーも、オックスフォード大学にローズ奨学生として留学し、同大学で博士号を取得しており(上出の彼のウィキ)、時代が少しずれているだけで、瓜二つの学歴です。
 また、同じく上出のアラスデア−・マッキンタイヤーは、ロンドン大学を卒業した後、マンチェスター大学とオックスフォード大学で修士号を取得しています(上出の彼のウィキ)。
 要するに、文中に登場した3人が、その思想を形成したのは、いずれもイギリスにおいてであったわけです。

 他称なのですが、彼等はコミュニタリアン(Communitarian)、その学派はコミュニタリアニズム(Communitarianism)と呼ばれています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Communitarian
 上記ウィキは、コミュニタリアンとして、上出の3名のほか、一人の米国人、一人のフランス人、一人のギリシャ人をあげていますが、この一人の米国人とは、プリンストン大学名誉教授のマイケル・ウォルザー(Michael Walzer。1935年〜)です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Walzer
 ウォルザーは、米国のブランダイス大学を卒業後、フルブライト奨学生としてケンブリッジ大学に留学し、博士号はハーバード大学で取得したという経歴であり、やはりイギリス歴があります。

4 終わりに

 このように見てくると、サンデルら、アングロサクソンのコミュニタリアンは、イギリスで人間主義的なものの考え方を身につけ、裸の個人主義に対する批判を展開するようになった、ということではないでしょうか。
 人間主義は和辻哲郎が日本の思想的伝統を踏まえて打ち出した考え方ですが、コミュニタリアニズムはサンデルらがイギリスの思想的伝統を踏まえて打ち出した考え方であり、その両者は極めて似通っている、というのが私の現時点での総括です。
 少数とはいえ、サンデルによって米国の超エリート大学で多数の学生が毎年コミュニタリアニズムを注入されてきたわけですから、米国で今後コミュニタリアニズムが次第に力を増して行くことが期待されます。
 私の見るところ、オバマ大統領もコミュニタリアンであり、サンデルは彼にエールを送っていますが、オバマは、ハーバード・ロースクールの学生の時(1988〜91年)に、始まっていたばかりのサンデルの名物講義(20年以上にわたって続いている(C))に接する機会があったのかもしれません。
 いや、あったに違いない、と思うのです。
 
 (蛇足ながら、このシリーズの最終回に登場したロベスピエール、フリードマン、ファーガソンを私が過去のコラムで何度もとりあげていることに気づきましたが、これは、ロベスピエールは欧州文明の体現者として、フリードマンはbastardアングロサクソン「文明」の体現者として、そしてファーガソンは、スコットランド出身で米国に過剰適応し、結果的にbastardアングロサクソン「文明」の体現者となった人物として、批判の対象にしてきたことの現れである、ということになりそうです。)

(完)

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太田述正コラム#3624(2009.11.3)
<正義について(その2)>(2009.12.11公開)

 (3)各論

  ア 功利主義

 「・・・<正義の>定義の第一のものは、社会的厚生(social welfare)の最大化、すなわち、最大多数の最大幸福である<とする。ベンサムやミルの功利主義がそうだ>。
 しかし、サンデルの見解では、功利主義には目立った弱点がある。
 個人的諸権利の原理的な防衛を認めない点だ。
 <ローマ時代のように、キリスト教徒といった>少数派の一人をライオンがいる所に投げ込<み、その人がライオンに食われるのを見物して楽し>むことで社会的幸福の総計が増大したとしたら、どうする?
 つまり、功利主義は、究極的には、より高い形の幸福を実現することとより低い形の幸福を実現することとを区別することができないのだ。
 <功利主義では、>どうして我々が闘犬の楽しみよりも美術館の楽しみの方をより選好すべきなのか<、説明ができないということだ。>」(A)

  イ 契約的(contractual)自由主義

 「<正義の>定義の第二のものは、個人的自由を尊重することこそ正義であるとする。
 このアプローチは、<一つには、>市場志向のリバタリアニズム(libertarianism<=完全自由主義/完全市場主義>)という形をとりうる。
 その信条は、正義は同意に基づく成人による自由な選択と同値である、というものだ。 あるいはそれは、<後述するような、>より平等主義的表現をとることもできる。
 その場合、社会は、その最も恵まれていない構成員の便益に資するように組織されるべきだということになる。
 しかし、このどちらの見解も、政府の唯一の仕事は公正なルールと手続きを定めること<だけ>である、という前提をとる。
 そして、最も良い<と思う>生活の仕方を選択するのは完全に自由な諸個人に委ねられる。(注2)

 (注2)「リバタリアニズムという言葉は、個人的自由の最大化と国家の最小化ないし廃止を擁護する幅広い政治哲学によって採用されている。
 リバタリアン<には、>・・・財産権賛成論者から財産権反対論者まで、また、マイナーキスト(minarchist<=個人を攻撃から守ることだけが国家の仕事であるとする(太田)>)からアナキストであることを公言する者までがいる。・・・
 ・・・ノジック(前出)の<1974年に上梓された>『アナーキー、国家、及びユートピア(Anarchy, State, and Utopia)』は、学問の世界においてリバタリアニズムの正統性を単独で確立した<書物である、とされている。>・・・」
http://en.wikipedia.org/wiki/Libertarianism

 多くの米国人達は、この<種の>見解に反対しないだけでなく、この見解は疑う余地がないと思うことだろう。
 しかし、サンデルは、この見解を激しく攻撃する。
 「私は、たとえそれが公正な諸条件の下におけるものであっても、選択の自由が正義にかなった社会のための適切な基盤であるとは思わない」と彼は言う。
 このような、正義を自由と等置する考え方は、人間が現実に生活をしている仕方からかけ離れている、と彼は言う。
 我々が抱く、正しいことと間違っていることや義務と裏切りについての見解は、単に個人的な自由選択の結果なのではない。
 我々は全員、様々な制度・・我々の無条件の愛に関わる家族、連帯感情を誘発するコミュニティー、大きな犠牲を伴う忠誠心を求める国・・の中に生まれ落ちる。
 サンデルは、自由主義的個人主義ではこれらへの深い愛着を説明することができないと主張する。
 我々は、「我々が選択したわけではない、様々な道徳的紐帯によって縛られている」というのだ。・・・」(A)

 「・・・サンデルの正義に係る究極の標的は、現代の大部分のリベラルに共通するところの、我々の権利と義務に係る基本的枠組みは、競い合う諸ビジョンに関して中立であるべきであるとする見解だ。・・・
 サンデルは、彼のこの本の最後を、彼がロバート・ケネディやマーチン・ルーサー・キングの、より理想主義的な進歩主義を復活させたと見るところの、バラク・オバマへの賛歌で締めくくる。
 現代の自由主義者の理想は<、上述のように、>二つの全く異なった形をとるが、サンデルはこの二つを交互に取り扱う。
 彼の最初の標的であるリバタリアンは、国家の権限は個人的権利を確保することだけだとする。
 この域を超えて、個人に対して、その財産や身体についてどうすべきかを伝えた瞬間、国家は家父長的となり強圧的となる、というわけだ。
 サンデルは、この理論に惹かれる者全員に対し、その含意を考え抜くように促す。
 我々は本当に人肉食・・もちろん同意に基づくものだが・・や<臓器等、>身体の各部について<取引する>自由市場を認めたいと思うのか、と。
 更に、リバタリアニズムは、自分が欲するものを形作るべく資質(capacity)を高める自由などはいらないのであって、所与の欲望を充足する能力(ability)に係る自由さえあればよい、というのだから、<人間を>矮小化している、という。
 この後者の<言うところの人間の>資質・・カントが「自律性(autonomy)」と呼んだもの・・は、基礎的な最小限の富、教育、そして市民的参加(engagement)をその実現のために必要とするが、これらのどれについても、リバタリアンは保証することができないではないか、と。
 <だから、>中立的であるどころか、<リバタリアンが推奨する>夜警国家は、強者の弱者に対する支配を永続化するのだ、と。」(C)

  ウ 手続き的(procedural)自由主義

 「現代自由主義の第二の要素は、人とそのニーズに関し、より高尚な(elevated)見解をとる。
 その最も著名な擁護者であるジョン・ロールズ(John Rawls)は、自分が<最終的に落ち着くこととなるであろう>社会的場所がどこか分からない以上、正義にかなった財の分配方法に関しては、特定のコミュニティーの全構成員がコンセンサスに到達するであろう、と主張する。
 <ロールズは、これは、>リバタリアニズムが考えているものに比べれば、より気前が良いけれど、このような分配が行われたとしても、中立性の原則には抵触しないとする。
 というのは、それは、我々の真に理性的な自身による評決の結果の表明だからだ、と。
 <そのような財の分配>は、「無知のヴェール」によって我々が自分の本当の関心や信条<や、それらがもたらすところの、当該社会において自分が最終的に落ち着くこととなるであろう場所>から切り離されることさえできれば、我々全員が選択するであろうことなのだ、と。・・・」(C)

 1982年に上梓した『自由主義と正義の諸限界(Liberalism and the Limits of Justice)』の中で、サンデル氏は、ロールズの、人口に膾炙することとなった<かかる>社会的正義論は、家族的感情、集団的忠誠、そしてコミュニティーへの愛着の道徳的重さを過小評価している、と主張した。・・・」(D)

 「・・・ロールズは、正義にかなった社会を創り出すには二段階の過程が必要であると考えた。
 第一の過程は、どの市民も他者の権利を侵害せず、かつ個々の市民が自分の人生の目標を追求するための十分な資源を持つことを確保するための構造をひねり出すことだ。
 この構造を創造するためには、ロールズは、理想化された諸個人の間での理性的な討論を想定した。
 ここは有名なくだりなのだが、これらの理想化された人物達は、彼等がその新しい社会において最終的にどうなるかを知らないことから、その社会における最も恵まれない人々を守ろうとする可能性が高いところの、「無知のヴェール」の背後で討論をするわけだ。
 その場合の基本的な仮定は、市民達はそれぞれ、「良い生活」がいかなる属性を必然的に伴うかについて、<すなわち、道徳について、>極めて異なった観念を持っているに違いない、というものだ。・・・」(E)

 「サンデルは、彼の最初の著書である『自由主義と正義の諸限界』・・・において、ロールズが、人間を、あらゆる社会的紐帯からだけでなく、彼等の人生に目的を与える諸理想からも切り離された形でとらえうると想像して門出をして行った、と主張した。
 このような、環境から切り離された(decontextualized)人間は、「全く人格を持たず、道徳的な深さもない代物である以上、理想的な、自由で理性的な行為者(agent)であるとは見なしえない」とサンデルは主張したのだ。・・・」(E)

 こむつかしくて困るって?
 もう少しで終わるので、ここは忍の一字で読み進んでください。

(続く)

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太田述正コラム#3622(2009.11.2)
<正義について(その1)>(2009.12.10公開)

1 始めに

 ハーバード大学の学部で、毎年、1,000人の学生が集まる超人気講義が本になり、米国(と部分的に英国)でかなりの話題になっています。
 同大学政治学教授のマイケル・サンデル(Michael Sandel)の 'Justice: What's the Right Thing to Do?' です。
 超人気講義とは言っても、内容は高度ですが、いつものように、この本の書評を活用して、どういうことが書かれているのかに迫ってみましょう。

A:http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/10/27/AR2009102702841_pf.html
(10月29日アクセス。以下同じ)
B:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article6866091.ece?print=yes&randnum=1256808771312
C:http://www.newstatesman.com/print/200910010033
D:http://www.economist.com/books/PrinterFriendly.cfm?story_id=14492347
E:http://chronicle.com/article/Michael-Sandel-Wants-to-Talk/48573/

2 正義について

 (1)序

  「・・・1884年に英国のモクセイソウ(Mignonette)号が南大西洋で浸水沈没した。
 船長を含む4人の乗組員は救命ボートで逃れたが、二個のカブの缶詰しか食べ物がなかった。
 生存者達の一人は、船室走り使いの17歳の孤児の少年で、海水を飲んだためにすぐ病気になった。
 海上に漂い始めてから19日目、完全にやけっぱちになった船長・・・は、くじ引きで殺される1人を決めて残りがその死体を食べて生き残りを図ることを提案した。
 しかし、1人の男が反対したため、この計画は頓挫した。
 しかし、その翌日、船長は、残りの人々に目をそらしているように言い、祈りを捧げた後、船室走り使いの喉を切り裂いた。
 4日後に「我々が朝食をとっている時に」乗組員達は船を発見した、と後に船長は記した。
 イギリスに戻ると、3人の生存者達のうちの2人が殺人で起訴された。・・・」(E)

 といった具体的な例をいくつも出して、さあ、あなたはどう思いますか、とサンデル先生は問いかけます。
 そして、宿題として、「アリストテレス、ジェレミー・ベンサム、ジョン・スチュアート・ミル、ジョン・ロック、ロバート・ノジック(Robert Nozick<。1938〜2002年>)」(E)らの本を読むように促すのです。

 この5人に、後ほど登場するカントとロールズの2人を加えた7人中、古典ギリシャ人のアリストテレスとドイツ人のカントを除き、5人が英米人・・ベンサム、ミル、ロックがイギリス人でノジック(注1)とロールズが米国人・・であり、サンデルのようなアングロサクソンにとっては、参照すべき思想は、ほぼアングロサクソン世界の中で自己完結している、ということが分かります。

 (注1)ユダヤ系のハーバード大学の哲学者。財産権は絶対であるとし、成人が自由意思で他の成人の奴隷になる契約は有効である、と主張した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Nozick

 (2)総論

 「・・・サンデルは、私利、功利主義、あるいは費用便益分析のような市場を真似た諸理論、に立脚した道徳的意志決定を是とする諸学派に異を唱えてきた。
 サンデルに言わせれば、彼等は、全員、ふるまいを個人の見地から評価し、生得の私利と利己性に訴えているのだ。
 彼等は全員、失敗した。
 諸制度に対する信頼性が揺らいできた現在、我々は、何かもっと倫理的に健全でコミュニティーに立脚したものによって、その行いを律する必要がある、と彼は言う。・・・
 民主主義諸国において、過去50年間にわたって、宗教や精神性を政治的議論から排除し、市民の世界(civic sphere)における行動を律するのは理性だけであるとの信条を肯定する傾向があったことを彼は示唆する。
 我々は、そうではなく、主要な社会的諸問題について、異った信条体系間の討論を公開で行い、我々の意思決定を・・双方のうちのどちらかの党派的信条に屈するようなことなく・・かかる討論の知的結果に基づいて律するようにすべきである、と彼は主張する。
 「我々が、道徳的な異論をぶつけあうことで、より健全な形で公に関与すれば、我々の間で、相互的敬意を、より弱い基礎の上にではなく、より強い基礎の上に築くことができる。道徳的かつ宗教的諸確信を同輩たる市民達が公の生活に持ち込むことを回避するのではなく、我々は、<道徳的かつ宗教的諸確信をひっさげて、>公の生活により直接的に関わるべきなのだ」と。・・・」(B)

 「・・・サンデル<の考え方>は、古典ギリシャまで遡る伝統に属する。
 すなわち、彼は、道徳哲学は市民的討論の延長かつ洗練化であると見る。
 アリストテレスのように、彼は体系的に教育された人々の常識を追い求めるのであって、かかる常識を専門家の知識や抽象的諸原理によって代替するようなことはしないのだ。・・・」(C)

 「・・・ジェレミー・ベンサムやJ・S・ミルのような功利主義者達にとっては、正しい行動は、粗っぽく言えば、人間の福祉(well-being)を最も増進するものだ。
 カント主義者達は、個人的諸権利を強調するとともに、他者をあなたの目的のための手段として利用してはならないと強調する。
 サンデル氏は、その上で、これらの<思想家達の>学問的な諸解答のそれぞれについて、異論と、その異論に対する反論とを提示する。
 彼は、<この2派>に目配りをしつつも、この2派に対して厳しくあたることによって、読者達をアリストテレス的なアプローチへと小突いて動かして行く。・・・」(D)

(続く)

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太田述正コラム#2577(2008.5.29)
<竹山道雄抄>(2008.11.30公開)

1 始めに

 コラム#1019で、
 「ナチスのホロコーストは、ポグロムのカトリック・プロテスタント版であると言えますし、共産主義自体がカトリシズムの鬼子と言えるのであって、各国において共産主義が行った天文学的な数の「階級の敵」殺しはカトリシズムの伝統を踏まえた異端殺しである、と言ってよいでしょう。(このヒントを得たのは、独文学者にして評論家であった竹山道雄(1903〜84年。「ビルマの竪琴」の著者として有名)の「昭和の精神史」(新潮社。1956年)を通じてだったと思う。)」
と記したところです。
 要するに、「ファシズムと共産主義はキリスト教から生まれた。このヒントを得たのは、竹山道雄の「昭和の精神史」を通じてだったと思う。」と言っているわけですが、本日調べてみたら、「昭和の精神史」ではなく、『見て 感じて 考える』(創文社。1953年)に収録されている「進歩思想について」(1952年5月)と「精神史について」(1951年11月)でした。
 竹山がどんなことを言っているか、ご紹介しましょう。(『見て 感じて 考える』は、その後、新潮文庫に収められています。下に出てくる頁は新潮文庫のものです。)

2 竹山道雄の指摘

 (1)「進歩思想について」より

 「近代になって、人間精神が現世化されるにしたがって、キリスト教の彼岸的超絶的な性格からはなれた。しかし文明は人が上衣を脱ぐように、簡単にその過去を脱ぎ捨てることはできない。これから、さまざまのキリスト教の思想が、形をかえて鋳出されることとなった。その超自然の色彩がぬりかえられて、現世の姿をとって生れかわった。
 いままで神の御旨とされていたものは、人間の理性におきかえられた。神の命ずる道徳律は、人間の社会的な博愛行為となり、いつか来るとつげられた神の國は、むしろ人間の理性によって現世に実現されるべきものと考えられるようになった。キリスト教は来世を信仰したがいまや人間の現世における道徳的完成と文明を無限に進歩させるという信念が、人間努力の最終の目標となった。」(223〜224頁)
 「このようなよりよき完成への進歩という考え方を、はじめてはっきりと公式化したのは、ルソーに影響をあたえたフランスの司祭サン・ピエール(1743年死)だった。この人が僧職の人だったということが、進歩という考えがもともとキリスト教から出たものである、という系譜を示しているといえよう。
 理性による進歩ということを、もっとも典型的に説いた人は、コンドルセである。彼はフランス革命の恐怖政治のさ中に、死刑を宣告されて潜行生活をつづけながら、高貴な情熱をもって、一冊の参考書もなしに、『人間精神進歩史』を書きあげた。」(224頁)
 「歴史に内在する必然的な向上をはばむ社会機構を改革し、過去の残滓的思想を一掃し、これによって社会の欠陥を正す。人間の本性も生活も、理性の力によってきわめつくされることができるし、計画的に規正されることができる。しかもこれが一挙に、次の段階に成就されるはずである。--このような進歩主義の古典的公式は、はやここにうちたてられた。」(225頁)
 「進歩発展という観念はふかく根をはって、これから後は、もはや疑われることはなかった。はなはだ保守的なドイツ観念論にとってすら、これは自明のことであり、世界歴史を理性の実現の発展過程として説明したヘーゲルから、マルクシズムが生れることとなった。」(226頁)
 「<しかし、>歴史の直線的な進歩という観念は、・・・思想史上にはもはや完全に過去のものとなったものである、」(231頁)
 「進歩と観念の後退ということは、近代ヨーロッパ文明の自信の喪失ということと結びついているのであろう。」(232頁)

 (2)「精神史について」より

 「元来ドイツ人は観念・理念・精神が大好きであり、すべて現象をそのあらわれとして見ようとする傾向はむかしからつよかった。これがずいぶんグロテスクな形をとることもあり、ときには痴人夢を説くような始末にもなった。日本でもドイツから観念主義を学んで以来、この未熟な領域に彷徨して、いまだ足が地についていない感じである。」(221〜222頁)
 「イギリスの啓蒙思想は冷静な学問研究であたが、フランスのそれは大なり小なり激情的扇動的な抗争であったというが、われわれの周囲ではいまなおそれが行われているのである。しかし、この啓蒙思潮的思考はもうとくに反省されるべき段階にきている、と思うのである。」

3 コメント

 今、読み返してみると、竹山は、必ずしもファシズム(ナチズム)もまた、「キリスト教の思想が、形をかえて鋳出され」たとは言っていません。

 にもかかわらず、私は、マルクシズム(共産主義)だけでなく、ファシズムもまた、キリスト教の変形したものだと竹山が指摘した、と大学時代に『見て 感じて 考える』を読んだ時に受け止めたようです。

 竹山のように、キリスト教の世俗的変形=進歩主義、ととらえてしまうと、ファシズムが果たして進歩主義か、と首をかしげることにもなってしまいます。
 しかし、ナチスの実質最初の党名は「ドイツ労働者党」であり、その綱領は反資本主義・社会主義色が濃く、後の正式名称の「Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei=国民社会主義ドイツ労働者党」を見ても、ナチスの共産党との類似性は明かでしょう。
 (ちなみに、支那語では「民族社會主義意志工人黨」ないし「國家社會主義意志勞工黨」と表記し、朝鮮語では「民族社會主義獨逸勞動者黨」されています。日本語でも「民族」と表記する方が正解かもしれませんね。)
 (以上、事実関係は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%80%85%E5%85%9A
(5月29日アクセス)による。)

 もう一点興味深いのは、竹山には、イギリスと仏独等欧州諸国を峻別する兆しが見られることです。
 このことに私が無意識的に影響をされたことが、後にマクファーレンの『イギリスにおける個人主義の起源』(コラム#1397)を読んだことを契機として、私が牢固としたイギリス文明・欧州文明峻別論を抱くに至る布石となった、と言えるのかもしれません。

 ところで、以前から私が不思議に思っているのは、どちらも全体主義について深く考えた文学者であるところの、イギリスのオーウェルと日本の竹山が、濃厚なビルマ(ミャンマー)滞在経験を共有している(オーウェルについては、コラム#2099参照)ことです。
 いやいや、英国の植民地であった当時のビルマ、しかも仏教国のビルマでの滞在経験が、全体主義についての考察を促したはずがない、と思い直しつつも、何か関連があるのではないか、とあれこれ考えをめぐらしているものの、まだ考えがまとまりません。

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太田述正コラム#2472(2008.4.7)
<スコットランドと近代民主主義の起源(その2)>(2008.10.18公開)

3 その意義

 イギリスによって退位させられ、イギリスの囚われ人となったスコットランド国王ジョン・バリオルに代わって、王家の血筋につながるとはいえ、国王を僭称するに至ったロバート・ブルースの立場を、スコットランドにおいて、そして対外的により確固としたものとするために、貴族達は、この宣言の中でわれわれがロバートを選んだと表現したと考えられるのです。
 スコットランド人は、イギリス人やアイルランド人同様、その後に渡来したケルト人の慣習を採用し、(イギリス人のように、更にその後に渡来したアングロサクソン人の慣習を採用してケルト人の慣習を捨て去るようなことなく、)アイルランド人同様、この慣習を堅持し続けたわけですが、ケルト人の慣習の中に、貴族全員が集まった集会で、指導者の血筋の中の年長者でかつ有能な者を指導者を選ぶというタニストリー(tanistry)という慣習があり(
http://www.1911encyclopedia.org/Tanistry
。4月7日アクセス)、スコットランドの貴族達がわれわれがロバートを選んだと記したのは、突然国王が退位したため、この古からの慣習を久方ぶりに援用して新しい国王を選んだということを述べたもの以上でも以下でもありません。
 しかし、やがてこのくだりは、貴族主権ならぬ人民主権、すなわち近代民主主義を宣言したものとスコットランドの人々によって受け止められるようになります。
 その結果として、人民主権ないし民主主義のスコットランドに対するに、議会主権(King in Parliament)ないし自由主義のイギリス、がブリトン島において北と南で対峙するという歴史が始まるのです。
 16世紀にドイツで始まった宗教改革がスコットランドにも波及すると、やがてカルヴィン派のスコットランド版である長老派(Presbyterian)にスコットランドの人々の大半が改宗するに至り、長老派教会は、スコットランド人民の教会として、国王に対する優位を宣言し、この宣言を実行に移すことになります。
 ここまで説明すればお分かりでしょう。
 どうして、米国でタータン記念日が制定されたかが・・。
 そうです。英領北米植民地は、人民主権ないし民主主義を掲げて、議会主権ないし自由主義を旨とする英本国から独立すべく、スコットランド独立宣言と瓜二つのフレーズをちりばめた米独立宣言を456年後の1776年に発し、独立戦争に勝利し、独立を達成したという経緯があるからです。
 そもそも、米独立宣言に署名した英領北米植民地の指導者達の半数以上はスコットランド系であったのです。

 (以上、特に断っていない限り
http://en.wikipedia.org/wiki/Declaration_of_Arbroath
http://www.bbc.co.uk/history/scottishhistory/independence/features_independence_arbroath.shtml
http://www.constitution.org/scot/arbroath.htm前掲、
http://www.scotclans.com/scottish_history/medieval_scotland/1320_arbroath.htmlhttp://www.bellrock.org.uk/arbroath/arbroath_declare.htm
による。)

4 終わりに

 スコットランド由来の人民主権の考え方を採用した米国は大統領制を創設する一方、議会主権を堅持し続けたイギリスは議院内閣制に移行します。
 以下は私見です。
 米国に一貫してキリスト教原理主義的傾向が見られ、他方イギリスに一貫して世俗主義的傾向が見られることも、米国がスコットランドの影響を強く受けているからだ、と言えそうです。
 また、スコットランド由来の近代民主主義は、1707年のスコットランドとイギリスとの合邦の後、変化を厭うイギリスにめずらしくも大きな影響を与え、やがて自由主義イギリスは自由民主主義イギリスへと変貌するのです。
 このイギリス発の自由民主主義は今では世界中に広まっています。しかし、自由民主主義国家の政体として、いまだに世界中で米国、ひいてはスコットランド由来の大統領制とイギリス由来の議院内閣制の2種類の政体が並存し続けているのは興味深いことです。
 また、米独立革命の後、この米独立革命の影響をも受けて大革命が起きたフランスにおいて、人民主権の名の下、スコットランドの長老派ならぬ、新しい宗教(イデオロギー)・・ナショナリズム・・がひねり出されることによって、欧州における最初の民主主義独裁体制が誕生することとあいなるわけです。
 このように見てくると、スコットランドは、良い意味でも悪い意味でも近代民主主義の祖であると言えそうですね。

(完)

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太田述正コラム#2470-1(2008.4.6)
<スコットランドと近代民主主義の起源(その1)>(2008.10.17公開)

1 始めに

 これまでスコットランドはしばしばとりあげてきています(注1)が、スコットランドが近代民主主義を生み出した話を少し掘り下げて論じたいと思います。

 (注1)コラム#181、183、1522、1524、及び2279、2281(このシリーズが未完なのは、私が近代スコットランド哲学をまだうまく総括できていないため)。このほか、米国におけるスコット系の人々の貢献について記述したコラム#624がある。

2 スコットランド独立宣言

 スコットランド出身の映画俳優ショーン・コネリー(Sir Sean Connery)が米国のタータン記念日(Tartan Day)・・1998年に米上院が設定したスコットランド独立宣言記念日・・である4月6日付でロサンゼルスタイムスにコラム(
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-connery5apr05,0,7865820,print.story
。4月6日アクセス(以下同じ))を寄せ、その中でスコットランド独立を、と叫んでいます。
 スコットランド独立宣言とは、1320年にスコットランドの数十人の貴族達が時の法王宛に発出したアーブロース(Arbroath)宣言のことです。
 このラテン語で書かれた宣言のさわりの部分は次の通りです。

 ・・われわれは<スコットランドにやってきて(注2)からというもの、>あらゆる束縛から自由であり続けた。われわれの王国はわれわれの高貴な血筋・・その中には外国人の血は一滴たりとも交じっていない・・の113人の歴代国王によって統治されてきた。・・<中略>・・仮に国王が、自ら始めたことをあきらめ、われわれの王国をイギリス国王またはイギリスに臣従せしめることに同意するようなことがあれば、われわれは彼を、彼自身とわれわれの権利の敵かつ転覆者としてただちに放逐し、われわれを守ることができる他の男を国王にすべく取り計らうであろう。たとえわれわれが100人しか生き残っていない状況になろうとも、われわれはいかなる条件の下であれイギリスの支配に服するつもりはない。われわれが戦っているのは栄光のためでも、富のためでも、名誉のためでもなく、ただただ自由のためなのだ。そしてこのためには、およそ誠実なスコットランド人であれば、命がかかっていたとしても決してあきらめることはないのだ。・・
 (以上、
http://www.constitution.org/scot/arbroath.htm
による。)

 (注2)この宣言の前の方で、スコットランド人が、東方から地中海経由でイベリア半島にやってきてそこに長期間滞在してから、スコットランドの地に渡り、(ケルト人である)ブリトン人を放逐し、(同じくケルト人である)ピクト人を粉砕し、ノルウェー人、デンマーク人、そしてイギリス人の侵攻を受けつつもスコットランドの地を守り抜いてきた、という趣旨のくだりが出てくる。最新の学説では、イギリス人も、アイルランド人も、そしてスコットランド人もすべて、イベリア半島からやってきたバスク人であって、後にケルト人が少数、そして更にゲルマン人(ベルガエ人、アングロサクソン人、バイキング(ノルウェー人・デンマーク人・ノルマン人))が少数、イギリス、アイルランド、スコットランドに渡来して混血したということになっている(コラム#1687、2271)。現時点で振り返って見ると、1320年の時点でのスコットランドでの伝承は、結構史実に沿っていたことになる。

 この独立宣言が発せられた背景は次のとおりです。
 1296年に当時のスコットランド国王ジョン・バリオル(John Balliol)がイギリス国王エドワード1世に対する臣従を撤回したことを受け、エドワードはスコットランドに侵攻し占領します。
 しかし、スコットランドの貴族達が叛乱を起こし、ここにスコットランド独立戦争(後に第一次独立戦争と呼ばれることになる)が始まります。
 ウォレス(William Wallace)(コラム#624)らの英雄的な抵抗、活躍を経て、ロバート・ブルース(Robert Bruce)が1314年のバノックバーン(Bannockburn)の戦いでイギリス軍に大勝利を収め、スコットランドは事実上独立を回復し、彼が1316年にロバート1世としてスコットランド王に就任するのですが、イギリスとの戦争は1328年に平和条約(Treaty of Edinburgh-Northampton)が結ばれるまで続くのです。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/First_War_of_Scottish_Independence
による。)

 では、どうして1320年の時点でこの宣言が発せられたのでしょうか。
 それは、キリスト教国の貴族達がこぞって十字軍に参加すべき時であるにもかかわらず、どうしてイギリスとの戦争を続けているのか、しかも、どうして法王ヨハネ14世(John14)がスコットランドが独立国家であることを認めていないにもかかわらず、よりにもよって(王位を争っていたコミン(John Comyn)を1306年に教会内で殺害したため)同法王が破門していたロバート・ブルースを「国王」にしてイギリスとの戦争を続けているのか、そして更に激高した同法王がイギリス国王に臣従しなければスコットランド国民全員を破門すると言い出していたにもかかわらず、どうして戦争を続けているのかを、スコットランドの貴族達が申し開きをするためです。
 この宣言は功を奏し、同法王はイギリス国王を法王庁に召喚しますが、国王がこれに応じなかったこともあり、法王が介入し、1328年に、イギリス国王にスコットランドへの権利をすべて放棄させる形の平和条約が結ばれるに至るのです。

(続く)

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太田述正コラム#2766(2008.9.2)
<読者によるコラム:太田アングロサクソン論(その2)>

8.本来的には反民主主義的な文明

 「ゲルマン人にとっては、戦争による掠奪こそ、その生業であった。
 ゲルマン人の政治集会には、戦士のみが出席を許された。集会は、各自が武装したまま開催され、軍の司令官である王の選出、慣習法および王例の承認、また戦争によって掠奪された戦利品の分配等が行われた。
 これが西欧における議会制の起源であり、ゲルマン議会制が最も純粋な形で残ったイギリスにおいて、これが後に近代議会制へと変貌を遂げるのである。」(『防衛庁再生宣言』P139〜140より抜粋)

 「(注1)イギリス議会の起源はゲルマン民族のどの部族にも見られた部民全
    体会議である。部民全体会議参加有資格者は戦士たる成人男子だっ
    た。王も将軍も基本的にこの会議において選出された。(タキトゥ
    ス「ゲルマーニア」(岩波文庫版。原著が執筆されたのは、紀元97
    〜98年)52〜53頁、65〜76頁)
     してみれば、議会が軍隊を興して議会の意向に従わない国王と戦
    ったり、その議会軍が代議員を政治集会に派遣したりするのは、
    (大陸に残ってローマ化して「堕落」したゲルマンと違って)純粋
    なゲルマン民族の風習を受け継いだアングロサクソン(イギリス
    人)にとってはごく当たり前のことだったに違いない。」(コラム#372(*15)より抜粋)

 太田さんの「ゲルマン人がユニークだった点は、その個人主義と民主主義です」との言もあり、当然、アングロサクソンは個人主義と同様に民主主義も大好きなのかと思ってしまいますね。しかし、どうもそう単純な話ではないようです。

 「私は手放しの民主主義礼賛者では全くありません。
 私の好きなアングロサクソン文明は、反民主主義文明の最たるものです。フランス人貴族のトックビルが書いた「アメリカにおける民主主義」という余りにも有名な本は、そのタイトルだけでも多大の誤解を読者に与え続けています。哲人ソクラテスを、青年達を惑わしたとして死に追いやったのはアテネの民主主義でした。このような権力を握る多数者による少数者・個人の自由の恣意的侵害を許さない、という世にもめずらしい文明がアングロサクソン文明なのです。
 アングロサクソンは、手続き的正義と実体的正義が渾然一体となった慣習法=コモンローを墨守してきました。議会制定法によるコモンローの改廃を基本的に認めないという考え方です。   
 そして政治制度にあっては、英国は、王制や貴族院制度、そして王制と表裏一体の内閣制度等の反民主主義的制度、米国は、大統領の間接選挙制(その名残が、この前の大統領選挙の総得票数でゴアを下回ったブッシュの当選)、三権分立による権力の相互牽制、連邦制(「合衆国」ならぬ「合州国」)等の反民主主義的制度、を堅持してきたわけです。(議会制そのものが、直接民主制の否定という側面を持っていることもお忘れなく。)
 ですから、英米における民主主義の進展は遅々としたものでした。米国の黒人の投票権問題に端的にあらわれているように、両国における普通選挙権の確立に至る紆余曲折の歴史を振り返ってみれば、そのことは明らかです。英国の貴族院制度、つまりは貴族制度に至っては、その「民主化」に手がつけられたのは、つい最近のことに過ぎません。

 しかし、このようなアングロサクソンの自由主義が貫徹されるのは平時だけの話であり、有事にはアングロサクソンの姿が完全に変貌することを我々は忘れがちです。」(コラム#48(*16)より抜粋)

 「イギリスが筋金入りの個人主義社会であることには既に触れましたが、個人主義社会では自由競争の結果、必然的に階層分化がもたらされます。この階層分化を前提にすると、民主主義は、有能で財産と教養ある上流階層を犠牲とする、無知で無能で貧乏な人々による支配以外のなにものでもないことになります。イギリス人がそんな民主主義を好きなわけがないのです。
 19世紀初頭までのイギリスやbastardアングロサクソンたるアメリカでは、代議政治がすでに確立しており、それはそれで世界史上特筆されるべきことなのですが、それらは、あくまでも、上流階層による代議制であり、英米いずれにおいても、反民主主義的風潮が支配的であったのです。 
 16世紀において、ホッブスが、絶対王政を擁護したことは、よく知られていますが、アメリカ独立革命に大きな思想的影響を与えたジョン・ロックも、決して民主主義者ではありませんでした。
(略)
 ところで、案ずるより生むがやすしということでしょうか、ミルの死後11年たった1884年以降、大衆の要望にこたえて、イギリスでは男子普通選挙制度が実現されていくのですが、ミル達が懸念したような形での、労働者階層による政治の専断的支配は起こりませんでした。
 その後のイギリス民主主義100有余年の経験は、民主主義が、少なくともイギリスでは実行可能であったことを示しています。しかし、依然としてイギリス人は、民主主義が、世界のどこにでも、時と場所を問わず、適用できる普遍的政治システムであるとは考えていません。」(コラム#91(*17)より抜粋)

 多数により少数の権利が犠牲になるから民主主義は嫌いだ、というわけです。なるほど、個人主義が徹底しているのなら、そういう意見はむしろ出てきて当然なのかもしれません。しかし、民主主義を絶対的価値として崇めるような社会より、民主主義を警戒しつつも代議制や内閣制などの工夫をしつつ民主主義を維持していく社会のほうがよほど健全な社会のように感じます。

(*15)コラム#372<民主主義の起源(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955461.html
(*16)コラム#48<先の大戦中の日本の民主主義(続き)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955788.html
(*17)コラム#91<民主主義嫌い(アングロサクソン論9)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955742.html

9.戦争とイギリス

 「緊急事態において、近代国家は意外な本性をかいまみせる。
(略)
 最初の例は平時の場合だし、その次の例は植民地における有事の場合である。これが英国本土での有事ともなれば、次のようなおどろおどろしい場面が展開する次第となる。すなわち、戦争が勃発し、勅令等で緊急事態が宣言されるや、全地方自治体は機能を停止させられ、国土全体が10個の方面に分けられ、各方面は、軍・警察・行政の三者統合委員会の掌握するところとなる。そして全てのマスコミは接収され、電話の私的使用も原則禁止されるに至るという(コリガン&セイヤー『ザ・グレート・アーチ』ブラックウエル、1991年による)。
 これらのことは実は意外でも何でもない。近代国家の最大の特徴は、国民等の自由・人権を憲法によって保障する立憲国家たるところにあるが、近代国家たる欧米諸国にあっても、国内外の敵に抗して自らの存続を図ること、すなわち安全保障が至上命題であることに変わりはない。その限りにおいて、物理的生存権を含め、人権が制限されることがあるのは、至極当然のこととされているからだ。
 今日、近代文明の恵沢を我々を含め世界中の人々が享受しているのも、その近代文明発生の地であるイギリスにおいて世界で最初に成立した近代国家が、島国であるという地理的優位性を生かしつつ、強力な安全保障政策を一貫して採用し、近代国家を育み、発展させてきたからである。
(略)
 戦争好きで戦争に強いイギリス人!この恐るべきイギリス人が後に、あの日が沈むことのない大帝国を築くのである。」(『防衛庁再生宣言』P202〜204より抜粋)

 「(注2)このように、多くの欧州諸国の憲法は、人権の一部を制限したり、
    制限をすることを許容しているわけだが、それに対し、日本の場合
    は、憲法に人権制限規定はないし人権制限を許容するような憲法解
    釈論も存在しない代わり、憲法に国権の一部(自衛権)を制限する
    規定(第9条)がある。日本の憲法の国権制限規定は、「押しつ
    け」られたものであり、憲法を改正するなり解釈改憲をすること
    で、この制限規定を廃止すればよいだけのことだ。他方、上記欧州
    諸国では、制限や制限許容を取りやめることなど、到底考えられな
    い。」(コラム#993(*18)より抜粋)

 「さて私は、アングロサクソンの本来の生業は戦争である、と繰り返し申し上げてきました(コラム#41、61、72、82、125、307、399、426、489)。
 そう言うと、新しい読者の中には、英国は最近そんなに戦争をしていないではないか、という素朴な疑問を抱かれる方がおられることでしょう。
 私に言わせれば、英国が戦争を余りしなくなった理由は単純そのものです。経済的利得につながる(ベネフィットがコストを上回る)ような戦争が少なくなったからです。そういうわけで最近では、不本意ながらイギリス人は戦争以外で主たる生計を立てているのです。」(コラム#616(*19)より抜粋)

 近代国家においては安全保障は至上命題であり、一旦戦争状態になれば、平時の個人主義とは正反対に人権は制限されます。大変メリハリが利いていますね。このアングロサクソン由来の安全保障体制が今ではすっかりグローバルスタンダードになっているわけですが、何のことはない、戦争を生業とすること以外は、ゲルマン人の生き様そっくりですね。

(*18)コラム#993<徒然なるままに(その2)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954840.html
(*19)コラム#616<米国とは何か(完結編)(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955217.html

10.欧州文明とは何か

 ではアングロサクソンと同じように見られがちな欧州文明とは具体的にどのような文明なのでしょうか。
 欧州文明の源泉は、西欧大陸の人々が継承した古代ローマ文明にあり、カトリック政教一致時代(=プロト欧州文明。宗教権力が世俗権力と連携しつつ個人に対して宗教教義(doctrine)の強制を行うことを最大の特徴とする文明)を経て、欧州文明時代(=全体主義的独裁時代)へと至ります。

 「大方のイギリス人は、古代「ローマは、巨大で、一枚岩の独裁体制であって、いやがる人々にその意思を押し付け、どのように生きるか、何をしゃべり、何を信仰するかを指示した<ところの、>ナチスのごときものと見て」います(http://www.bbc.co.uk/history/ancient/romans/questions_01.shtml。5月3日アクセス)。」(コラム#1755(*20)より抜粋)

 「(1)ローマ帝国のキリスト教国教化
 ローマ帝国におけるキリスト教弾圧は、ネロ(Nero)帝による紀元64年のキリスト教徒迫害から始まり、哲人マルクス・アウレリアス(Marcus Aureliu)帝による165〜180年の迫害、更にはディオクレティアヌス(Diocletian)帝による303年の大迫害へと続きます。
 ところがコンスタンチヌス(Constantine)帝の時にそれが一転します。コンスタンチヌスは313年にミラノ勅令を発出してキリスト教を公認し、325年にニケーア(Nicea)にキリスト教指導者達を集めて会議(council)を催し、原始キリスト教の反政治的・反権威的色彩を改めたニケーア信条(Nicene Creed)を制定させ(注4)、かつ337年の臨終の際にローマ皇帝として初めて正式にキリスト教の洗礼を受けるのです。

(注4)これは、キリスト教の堕落を意味した。

(略)
 その結果、ギリシャ文明が全地中海世界を包摂したヘレニズム時代は、いわば信教の自由が担保された開放的な時代であったというのに、ローマ帝国が上記のような形でキリスト教を国教化したことによって、単一の宗教が国家権力と結びついていた、ヘレニズム以前の信教の強制を伴う閉鎖的な古代地中海世界がここに復活してしまうのです。
 そして、西欧はカトリック教会の下で、東欧及びロシアは正教会の下で、そして7世紀にはキリスト教の影響の下で生まれたイスラム教の下で、欧州、ロシア、及び中東は爾後それぞれ、抑圧に満ちた悲劇的な歴史を歩むことを運命づけられるのです。」(コラム#413(*21)より抜粋)

 「(注2)プロト欧州文明とは、キリスト教(カトリシズム)を体現する教会
    と欧州の諸国家が提携しつつ、各国家が勢力伸張を競い合った文明
    であり(コラム#61、65、231、457)、欧州文明とは、欧州の諸国家
    が各種イデオロギー(ナショナリズム・共産主義・ファシズム)を
    手段として勢力伸張を競い合った文明だ(多すぎるのでコラム番号
    は記さない)。そしてこの両者をつなぐ移行形態が、ルイ13、14世
    時代のフランス絶対王制であり、フランスがカトリシズムを手段と
    してその勢力伸張を図った(コラム#100、127、129、148、162、
    498)。」(コラム#503(*22)より抜粋)

 「私は、世界の近現代史の最大のテーマは、アングロサクソンと欧州大陸(後には欧州・ユーラシア大陸)の間の大抗争(Great Game)であると考えている。これは、「個人主義=自由主義・経験主義」対「全体主義・合理主義」の大抗争であった。全体主義の起源は、欧州大陸において原始キリスト教が変容して生まれたカトリシズムである(ここでカトリシズムというのは、欧州の中世のそれであって、現在のカトリシズムではないことに注意)。
 カトリシズムにあっては、主権者(国王等)が被治者に特定の信仰を強制するのが特徴である。つまりは、特定のイデオロギーによる洗脳が行われる。このカトリシズムの風土に生まれたのが、(フランス革命の鬼子たる)ナショナリズムであり、(ドイツ観念論の鬼子たる)マルクシズムやナチズム(ファシズム)である。異端審問(あるいは審問会議)や魔女狩り(あるいは粛清、エスニック・クレンジング)がカトリシズムと結びついていることは、容易に理解できよう。
 これらは、アングロサクソンの最も嫌いな代物である。だからこそ、イギリス人は、今でも「English Channelの向こうから野蛮が始まる」(1988年、ロンドン滞在中に聞いたイギリス人の友人の言)と思っているのだ。」(『防衛庁再生宣言』P191〜192より抜粋)

 「両文明は本来相容れないはずです。なぜなら「自由」を至上原理とするアングロサクソン文明は人間の言動のみならず心までも規制しようとするイデオロギーを何よりも厭うのに対し、欧州文明は、世界史上めずらしいイデオロギーの文明だからです。カトリシズム・プロテスタンティズム・絶対主義・ナショナリズム・共産主義・ファシズム・無神論等のイデオロギーは、カトリシズムを原型として、欧州文明が手を代え品を代えて次々に生み出してきた欧州文明固有の特産物であり、アングロサクソン文明にとっては、ことごとく異質な仇敵なのです。」(コラム#504(*23)より抜粋)

 「欧州的な考え方とは、古代ローマないしカトリシズムに由来する合理論的・演繹的な考え方・・理論ですべてを割り切ろうとする・・だ。これに対し、イギリス的な考え方は、ゲルマンに由来する経験論的・帰納的な考え方・・理論と現実のフィードバックを重視する・・だ。」(コラム#1256(*24)より抜粋)

 欧州文明は、宗教のドグマや特定のイデオロギーを人々に強制する、集団主義的、絶対主義的な文明だったと言えそうです。
 また、社会や世界の仕組みを、経験によらず、「理論」で以て組み立てて導き出し、その導き出した「答え」を、現実の政治に適用することで(そこで初めて試す!)、その度に欧州の人々に惨禍をもたらしてきた、とも言えそうです。
 このような欧州をアングロサクソンは当然のように野蛮な文明視しているわけですが、それを表に出してしまっては欧州の人々を怒らせることになるので、けっして表に出さないのがアングロサクソンのようです。だから欧州地域以外の人々には、両者の違いが分からないのかもしれません。

 「この手の論考は、イギリス人の間では常識的な共通認識・・アングロサクソン文明は世界の頂点に位置し、欧州文明も、その他のもろもろの文明同様、一段と低い野蛮な文明である・・をイギリス人たる筆者とイギリス人たる読者が密かに再確認し合い、ほくそ笑み合うのが目的なのです。内々のエールの交換だ、と言ってもいいかもしれません。
 そんな身内同士の密かな楽しみのために、イギリス人以外の人々、とりわけ一衣帯水の位置関係にある欧州の人々、を怒らせてしまうようなことは愚の骨頂であり、避けなければなりません。
 そこで筆者は、意図的に論理構成を無茶苦茶にすることによって、欧州の人々に具体的な攻撃材料を与えないようにしているのです。
 欧州の人々は、イギリス人が自分達を野蛮人視していることをうすうす感づいているし、この論考がこのようなイギリス人の欧州観を記したものであることも何となく分かるけれど、筆者は、プライドが高い欧州の人々が、明確に侮辱的文言が記されているわけではない上に論理構成も無茶苦茶である論考であれば、怒りを飲み込んであえてイチャモンはつけないことを知っているのです。」(コラム#1256より抜粋)

(*20)コラム#1755<米国とは何か(続々)(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/51059826.html
(*21)コラム#413<トラディショナリズム(その4)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955420.html
(*22)コラム#503<米国とは何か(続)(その2)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955330.html
(*23)コラム#504<米国とは何か(続)(その3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955329.html
(*24)コラム#1256<アングロサクソン論をめぐって(続x3)(その3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954577.html

11.最後に

 以上、アングロサクソンとは何かを順を追って見てきましたが、自由主義、民主主義、資本主義、これらの価値観はすべて個人主義に由来し、その個人主義は軍事を前提としていました。今やグローバルスタンダードになっているこれらの諸価値が、アングロサクソンの由来であることが正しければ、リベラルな人々は、これらの大好きな言葉と同じように、軍事も尊重すべきではないでしょうか。いや、リベラルでここまで軍事を忌避しているのは日本だけでしょう。
 「世界の歴史と現状を理解するためには軍事とアングロサクソンを理解しなければならない。」これは太田さんの言葉ですが、アングロサクソン文明のほぼすべてが軍事から来ているとするのなら、即ち、軍事の知識を身に付けることが、政治、社会、世界、そして個人の生活をも、本当に理解することに繋がるのかもしれません。
 ところで太田さんは、日本文明はアングロサクソン文明と最も親和性があり、日本人は本来アングロサクソンの最大の理解者です、と仰っています。

 「こう見てくると、アングロサクソンと日本は、違いは沢山あるものの、多元主義と寛容の精神という、世界的に見て極めて稀な価値観を共有していることになる。」(『防衛庁再生宣言』P192より抜粋)

 日本とアングロサクソンが、お互いを良き理解者として、対等な立場で尊重しあえる日は来るのでしょうか。

(終わり)

<太田のコメント>

 私より私のアングロサクソン論をよくご存じであるとさえ思える遠江人さん、すばらしい紹介をしていただき、まことにありがとうございました。

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#2764(2008.9.1)
<読者によるコラム:太田アングロサクソン論(その1)>

 (これは、遠江人さんによるコラムです。)

 --太田さんオリジナルの文明論「アングロサクソン論」の紹介--

1.はじめに

 いわゆるアングロサクソンと呼ばれる人々がブリテン島において形成されて以来、大航海時代以降に多くの人々が海外に出て行くことはありましたが、基本的には現在に至るまで欧州という地域の中にアングロサクソンは存在してきました。このこともあってアングロサクソンは、アングロサクソン以外の欧州の国々と多少の文化の違いはあっても、それほど大きな違いがあるわけではなく、当然のように同じ欧州文明に属するものであると、当事者である欧州以外の人々は思いこんでいるのではないでしょうか。
 しかし、アングロサクソン文明とそれ以外の欧州文明は、実は全くの異質な文明である、といったらどう思われますか。さらに世界の近現代史を貫く最大のテーマはアングロサクソン文明とそれ以外の欧州(西欧)文明の抗争の歴史であると。
 まさにそのように主張しているのが太田さんオリジナルの文明論「アングロサクソン論」なのです。

2.アングロサクソンは純粋のゲルマン文明

 ではアングロサクソン文明とアングロサクソン以外の欧州(以下、欧州とします)文明は、なぜ近くにあって大きく違うのでしょうか。また、それぞれどのような文明なのでしょうか。
 太田さんの言によると、アングロサクソンはゲルマン民族の伝統をほば変わらず持ち続け、他方、欧州(のゲルマン諸族)はローマ化してゲルマンの伝統をほぼ失ってしまった人々であり、また(大雑把に言って)アングロサクソン文明はゲルマン由来の「個人の自由の尊重」(=個人主義)を中心的価値とする文明であり、欧州はローマ由来の「宗教(中世まで)や一般意思(近代以降)の優越する」文明(=全体主義的)、ということのようです。
 では具体的に、ゲルマン民族の価値観や文化とはどういうもので、どのように形成され、なぜブリテン島のアングロサクソンにだけ受け継がれたのでしょうか。

3.戦争を生業とするゲルマン人

 「タキトゥスの「ゲルマーニア」(岩波文庫1979年4月。原著は97-98年(1世紀))は、ローマ時代のゲルマン人について記述した有名な書物ですが、以下のような記述があります。
 「人あって、もし彼ら(筆者注:ゲルマン人のこと)に地を耕し、年々の収穫を期待することを説くなら、これ却って、・・戦争と[他境の]劫掠<によって>・・敵に挑んで、[栄誉の]負傷を蒙ることを勧めるほど容易ではないことを、ただちに悟るであろう。まことに、血をもって購いうるものを、あえて額に汗して獲得するのは欄惰であり、無能であるとさえ、彼らは考えているのである。」(77頁)
 これは、ゲルマン人の生業が戦争であることを物語っています。つまり、戦争における掠奪(捕獲)品が彼らの主要な(或いは本来の)生計の資であったということです。
 こういうゲルマン人がやがてローマ帝国に侵攻し、これを滅ぼしてしまうのですが、欧州大陸のゲルマン人はやがてローマ化していまい、戦争が生業ではなくなっていきます。
 ところが、ローマが自分でイングランドから撤退した後、文明のレベルが違いすぎてローマ文明を受け継ぐことのできなかった原住民のブリトン人(ケルト系)を、スコットランドやウェールズといった辺境に駆逐する形でイングランドを占拠したアングロサクソン人(ゲルマン人の支族たるアングル、サクソン、ジュート人がイングランド侵攻後、混血したもの)は、ゲルマン「精神」の純粋性を保ち続けます。
だから、アングロサクソンにとっては、戦争は生業であり続けたのでした。」(コラム#41(*1)より抜粋)

 「では、そのゲルマン人とは、どのような人々だったのでしょうか。
 私はかつて(コラム#41で)、タキトゥスの「ゲルマーニア」(岩波文庫)の中の以下のようなくだり・・(略)(77頁)・・を引用して、「これは、ゲルマン人の生業が戦争であることを物語っています。つまり、戦争における掠奪(捕獲)品が彼らの主要な(或いは本来の)生計の資であったということです。」と指摘したことがあります(注8)。

 (注8)戦争にでかけていない時、つまり平時においては、男性は「家庭、
    家事、田畑、一切の世話を、その家の女たち、老人たち、その他す
    べてのるい弱なものに打ち任せて、みずからはただ懶惰にのみ打ち
    暮らす。」(79頁)というメリハリのきかせ方だった。

 ゲルマーニアには、「彼らは、公事と私事とを問わず、なにごとも、武装してでなければ行なわない。」(70頁)というくだりも出てきます。
 つまり、ゲルマン人の成人男性は全員プロの戦士であったわけです。
 しかも、以下のくだりからも分かるように、ゲルマン人の女性もまた、その意識においては男性と全く同じでした。
 「妻・・らはまた、・・戦場に戦うものたち(夫や子息たち)に、繰りかえし食糧を運び鼓舞・激励をあたえさえする・・。」(53頁)
 戦争が生業であったということは、ゲルマン人はハイリスク・ハイリターンを求める人々(リスク・テーカー=ギャンブラー)であったということです(注9)。

 (注9)「彼らは・・賭博を・・あたかも真摯な仕事であるかのように行な
    い、しかも・・最終最後の一擲に、みずからの自由、みずからの身
    柄を賭けても争う・・。」(112頁)

 注意すべきは、ハイリスクであるとはいえ、戦争は、それが生業である以上、合理的な経済計算に基づき、物的コストや自らの人的被害が最小になるような形で実行されたであろう、ということです。」(コラム#852(*2)より抜粋)

 以上のように、ゲルマン民族は一人一人が戦士であり、戦争を生業とする人々であったようです。額に汗して働くことよりも、自分が負傷したり命を落とすリスクがあっても、戦争によって掠奪品を得るほうが、はるかに効率がよく得るものも大きいと、当然のように考えている人々だったのです。
 そして戦争遂行という最優先事項のためには、部族の全員が一丸となって協力し、また戦争をする上では、合理的な計算に基づいて、可能な限りコストや被害を少なくして、いかに効率よく戦争を遂行できるかということを追求した形で、実行されていたのです。

(*1)コラム#41<米国憲法第一条第八節第11項>
http://blog.ohtan.net/archives/50955794.html
(*2)コラム#852<郵政解散の意味(補論)(続x4)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954981.html

4.個人主義

 ゲルマンの成人男子は一人一人がプロの戦士で、部族全体が戦争という生業のために一致協力していた、ということは分かりました。では、その戦闘民族的な側面以外に、ゲルマン特有のユニークな点はあるのでしょうか。

 「ここで、女性も戦場に赴いた、という点はともかくとして、このようなゲルマン人と似た特徴を持った民族なら、例えば、モンゴル等の遊牧民を始めとしていくらでもある、という反論が出てきそうですね。
 それはそうなのですが、ゲルマン人がユニークだった点が二つあります。
 その個人主義と民主主義です。
 「彼らはその住居がたがいに密接していることには、堪えることができない・・それぞれ家のまわりに空地をめぐらす。」(81〜82頁)、「蛮族中、一妻をもって甘んじているのは、ほとんど彼らにかぎられる・・。・・持参品は・・夫が妻に贈る・・。妻はそれに対して、またみずから、武器・・一つを夫に齎す。」(89〜90頁)が個人主義を彷彿とさせる箇所です。
 また、「小事には首長たちが、大事には・・[部族の]<成人男子たる>部民全体が審議に掌わる。・・最も名誉ある賛成の仕方は、武器をもって称賛することである。・・会議においては訴訟を起こすことも・・できる。・・これらの集会においては、また郷や村に法を行なう長老(首長)たちの選立も行なわれ・・る。」(65〜69頁)のですから、古典ギリシャのポリスのそれ並に完成度の高い直接民主制であったと言えるでしょう。
 以上をまとめると、ゲルマン人は、個人主義者であり、民主主義の下で、集団による戦争(掠奪)を主、家族単位による農耕(家畜飼育を含む)を従とする生活を送っており、合理的計算を忘れぬギャンブラーであった、というわけです。」(コラム#852より抜粋)

 「まず、押さえておくべきは、プロの戦士であったアングロサクソンにとって経済活動は、食い扶持を確保した上で、更に戦士としての実益の追求を兼ねた趣味ないし暇つぶしに過ぎない、ということです。
 ここで実益の追求とは、個人的戦費及び集団的戦費(税金)を確保することであり、かかる実益の追求を兼ねた趣味ないし暇つぶしを、彼らはいかに楽に行うかに腐心しました(注13)。

 (注13)ちなみにアングロサクソンは、「戦士としての実益の追求を兼
    ね」ない趣味ないし暇つぶしの多彩さでも知られている。彼らが後
    に、読書・科学研究・スポーツ・レジャー・観劇・旅行、等に狂奔
    したことが、近代文学・近代科学・近代スポーツ・近代レジャー・
    近代演劇・パック旅行、等を生み出すことになった(コラム#27)。

 タキトゥスの叙述からもお分かりのように、彼らは、その生業としての戦争に従事している間、生死をかけること等に伴うストレスにさられただけでなく、集団行動に伴うストレスにも(個人主義者なるがゆえに)さらされたことから、平時においては、各自がばらばらにリラックスをして過ごすことによって、精神的バランスを回復する必要がありました。
 しかも彼らにはその「自由の意気と精神」から支配者がおらず、またその「戦争における無類の強さ」に恐れをなして彼らを掠奪の対象とするような者もほとんどいなかった上に、彼らにとって戦争が経済計算に立脚した合理的営みである以上、戦費は巨額なものにはなりえませんでした。ですから彼らは、支配者に貢ぐために、あるいは外敵によって掠奪されることを見越して、あるいはまた巨額の戦費を捻出するために、ひたすら額に汗して働かなければならない、という状況にはなかったわけです。
 そういうわけで彼らが経済活動にあたって考えることといえば、目標とした一定の収益を、いかに最低限の労力やコストの投入によって確保するかだけでした(注14)。」(コラム#857(*3)より抜粋)

 自由の意気と精神、つまりは戦士たる己の力(能力)のみを頼りとして支配されることを由としないということ、それぞれが戦士として自立していること、戦時以外の自由を尊重すること、これらのことから、ゲルマン人にはごく自然なこととして個人主義が定着していたと思われます。
 部族内においては、戦時以外では自分も他人も自由が侵されず、制度的なしがらみもない。ゲルマン人は戦争を生業とする戦士であったことで、かなりの程度、個人主義、自由主義が文化として浸透していたようです。また(義務を果たしている人々である)戦士による直接的な民主主義も行われていました。一見、個人主義や民主主義というと、古代ギリシャ等、文化的に高いレベルにあって初めて実現すると思い勝ちかもしれませんが、なるほど、武の伝統から生まれることもある、というところはユニークで面白いですね。

(*3)コラム#857<郵政解散の意味(補論)(続x6)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954976.html

5.アングロサクソンの起源

 では、このようなゲルマンの伝統が、いかにしてブリテン島に伝播し、維持されていったのでしょうか。アングロサクソンの起源を確認しておきましょう。

 「今まで随時、アングロサクソン論を展開してきましたが、このあたりでアングロサクソンとは何かを振り返っておきましょう。
5世紀に、スカンディナビア及び北ドイツから様々なゲルマン支族がイギリスに渡ってきて、ケルト系先住民のブリトン人(=ローマ文明を継承できていなかった)を辺境に駆逐した上で定住し、相互に通婚してアングロサクソンとなります。(8世紀にベード(Bede)は、アングル支族、サクソン支族、ジュート支族の三支族が渡ってきたと記しましたが、これは単純化しすぎだと言われています。)(Historical Atlas of Britain, Kingfisher Books, 1987 PP30)
 このアングロサクソンは、7世紀末までにキリスト教化します(前掲Historical Atlas of Britain PP32)。アングロサクソンの部分的ローマ化、欧州化です。
しかし、9-10世紀には、アングロサクソンは、まだキリスト教化していない、デンマーク(一部ノルウェー)のバイキング(デーン人)の侵入、定住化を経験します。(前掲 PP38)(なお、11世紀初頭には、アングロサクソンは、後にデンマーク王とノルウェー王を兼ねることになる、デーン人(その頃には既にキリスト教化していた)の王族カヌートに一時征服されます。(前掲 PP52))
 更に1066年には、アングロサクソンは、フランス北部に侵入、定住したバイキング(ノルマン人)の子孫である、ノルマンディーの領主ウィリアム公に征服されます。(前掲 PP55-57)
 このように、アングロサクソンは、もともとゲルマン人としての純粋性を維持していた上に、キリスト教化した後も、累次にわたってかつての同胞であるバイキング・・キリスト教化していなかった者も少なくなく、しかも、極めて能動的(=悪く言えば、好戦的で侵略的)でした・・の侵入、定住化、征服を受け、その都度、ゲルマン精神を「再注入」させられ、「純化」させられたのです。そのおかげで、アングロサクソンは、精神のローマ化・欧州化を基本的に免れることができたのです。(アングロサクソンとノルマンの同根性、同質性を強調するのがBBCの歴史サイトです(http://www.bbc.co.uk/history/war/normans/society_01.shtml。11月10日アクセス)。)」(コラム#74(*4)より抜粋)

 「また、メイトランドが、アングロサクソン文明と欧州文明の最初の岐路について、イギリスではアングロサクソンが侵攻した時にローマ文明が拭い去られた(swept away)のに対し、欧州(フランス・イタリア・スペイン)ではゴート族やブルグンド族は侵攻先のローマ=ガリアの人々の中の圧倒的少数派に過ぎず、しかも彼らが(征服者ではなく)ローマ皇帝の家来ないし同盟者に他ならなかったことからローマ文明の法・宗教・言語が生き残った(注4)ことを挙げている(PP77)ことも知りました。」(コラム#1397(*5)より抜粋)

 以上のとおり、ガリアのゲルマン諸族はローマ化した結果、ゲルマンの伝統を失うことになり、海を渡ってブリテン島に渡来して現地民と同化したアングロサクソンには純粋な形で残ることとなりました。さて、そんなゲルマンの伝統をほぼ純粋に受け継いだアングロサクソンの国、英国とはどのような社会になったのでしょうか。(ちなみに最新の研究によるとアングロサクソンの起源はバスク系の人々とベルガエというゲルマン系の人々がかなり関係しているようです。詳しくはコラム#1687(*6)を参照してください。)

(*4)コラム#74<アングロサクソンと北欧神話(アングロサクソン論3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955759.html
(*5)コラム#1397<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954436.html
(*6)コラム#1687<アングロサクソンの起源>
http://blog.ohtan.net/archives/50954197.html

6.法の支配とコモンロー

コモン‐ロー【common law】
1 英国で、通常裁判所が扱う判例によって発達した一般国内法。一般法。→エクイティー
2 ローマ法・大陸法などに対して、英米法の法体系。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=07686006861500
かんしゅう‐ほう〔クワンシフハフ〕【慣習法】
慣習に基づいて社会通念として成立する法。立法機関の制定によるものでなくても、法としての効力を認められている慣習。一種の不文法。習慣法。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC&dtype=0&stype=1&dname=0na&ref=1&index=04483903890000

 アングロサクソン社会のユニークな点として、まずはコモンローを挙げてみたいと思います。コモンローと言えば、アングロサクソンの慣習法、自然法といったことを思い浮かべますが、太田さんはどのように考えているのでしょうか。

 「クライムスは、「11世紀初頭において、[イギリスを征服したデンマーク王]カヌートは、それより半世紀後のウィリアム征服王と同様、・・彼らの前任者たる王達によって、築かれた伝統や身分を破壊しようとはしなかった。」と述べ、アングロサクソン期と中世の連続性を指摘した上で、「[アングロサクソン期の]イギリス王は、法の源ではなかった。・・法は種族の慣習、または部族に根ざす権利からなり、王は、部族の他のすべての構成員同様、法に全面的に従属していた。・・法は、本質的には、その起源からしても非人格的なものであって、いにしえの慣習や、部族共同体の精神に由来すると考えられていた。法を宣言し、裁定を下すのは、王の裁判所ではなく、部族の寄り合い(moot)であり、王の任命した判事や役人ではなく、訴追員や審判員の役割を担った、近所の自由人達であった。・・王は、単に、法と寄り合いの裁定を執行するにとどまった。」と言っています。
 こういうわけで、自由と人権の起源もはるか昔の歴史の彼方へ渺として消えていってしまいます。
 この、マグナカルタ、権利の請願、権利の章典、アメリカ独立宣言などを次々に生み出していった淵源としてのアングロサクソン古来の法こそ、Common Law (コモンロー)なのです。
 われわれは、個人主義が、アングロサクソン文明の核心にあることを見てきました。しかし、個人主義社会という、人類史上空前の「異常」な社会が機能し、存続していくためには、個人が、他の個人、集団及び国家の侵害から守られていなけれなりません。守ってくれるものが、王のような個人であったり、グループや、国家であったりすれば、それらが、一転、おのれの利害にかられ、私という個人の自由、人権を侵害するようなことがないという保証はありません。守ってくれるものが非人格的なコモンローであり、王も含めて全員がこの法に拘束されるということの重要性がここにあるのです。
(略)
 フォーテスキューは、フランスは絶対君主制であり、すべての法が君主に発し、人々はそれに服するが、イギリスは、人々の自発的黙従に基づく制限君主制であり、王自身、彼の臣民と同じ法に拘束されるとし、「予想される不幸や損害を防止し、一層自らと自らの財産を保護するためだけに王国を形成した国が、イギリス以外に存在しないことは明白である。」と指摘します。」(コラム#90(*7)より抜粋)

 アングロサクソンにとってのコモンローとは、古来からの個人主義の精神に基づいて、必然的に生まれた慣習法体系だと言えそうです。個人の自由や権利や財産を守るための法が自然法として定着していて、王といえど権利を制限され法の支配の下に置かれるというわけです。このことは、アングロサクソンは古来から人治主義ではなく法治主義であったという見方ができますね。
 考えてみれば、個人主義であるためには、法の整備と遵守が全員に徹底していなければ実現できないであろうことは、当然と言えば当然ですね。
 ちなみに個人主義だけでは遠心力が働いて社会が瓦解してしまうことを防ぐための制度として、コモンローとはまた別にアングロサクソン文明固有の「信託」という思想があるようです。信託については、コラム#1399(*8)と#1400(*9)を参照してください。

(*7)コラム#90<コモンローの伝統(アングロサクソン論8)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955743.html
(*8)コラム#1399<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その2)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954434.html
(*9)コラム#1400<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954433.html

7.資本主義と反産業主義

 個人主義社会であるからには、同時に、資本主義社会でもあると言えそうです。個人主義が貫徹している社会であれば、個人が所有する全ての財産を、誰の干渉も受けずに自由に処分する権利を、誰もが持っているはずだからです。

 「個人主義社会とは、個人が部族・封建制・教会・領域国家等、欧州史の古代・中世におけるような社会諸制度のしがらみから、基本的に解放されている社会です。
 ちなみに、個人主義社会と資本主義社会はイコールであると言ってよろしい。個人主義社会とは、上記のごとき社会諸制度によるしがらみから基本的に自由に、個人が自分の財産(労働力・カネ・モノ)の使用・処分を行うことができる社会であり、これぞまさしく資本主義社会だからです(注6)。

 (注6)これは、英国のマクファーレーン(Alain Macfarlane)の指摘だ
    が、この話をもっと掘り下げて論じたいと以前(コラム#88)記しな
    がら、マクファーレーンのその後の著作等の勉強を怠っているた
    め、今後とも当分の間、この「約束」を果たせそうもない。」(コラム#519(*10)より抜粋)

 「しかも、個人主義社会なのですから、アングロサクソンの各個人は、自分自身(の労働力)を含め、自分が所有する全ての財産を、誰の干渉も受けずに自由に処分する権利を持っており、実際にその権利を頻繁に行使しました。そういう意味で、アングロサクソンは全員が「商」(資本家)でもあったわけです(注15)。

 (注15)このような意味で、個人主義社会であるところのアングロサクソ
    ン社会は、生来的に(つまり最初から)資本主義社会であると言え
    よう(コラム#81)。」(コラム#857より抜粋)

 「いずれ詳しくご説明するつもりですが、イギリスはその歴史始まって以来、(すべての成人が、生産財、消費財のいかんを問わず、自由に財産を処分できるという意味で)資本主義社会であり、産業革命前に既にその「反産業主義的」資本主義は、高度に成熟した段階に達していました。
 そして、(これについてもいずれ詳細にご説明するつもりですが、)イギリスは反産業主義(反勤勉主義)であったからこそ、(機械化によって楽をしようとして)産業革命を世界で初めてなしとげます。そして、イギリスは良かれ悪しかれ、反産業主義のまま現在に至っているのです。(「産業精神」参照)」(コラム#81(*11)より抜粋)

 「また、古典ギリシャ社会においても古ゲルマン社会においても、労働には低い社会的評価しか与えられていませんでした。アテネ等のポリスでは、奴隷が労働に従事し、市民はもっぱら政治と軍事に精を出したものですし、ゲルマン民族の男達は、「戦争に出ないときにはいつも、幾分は狩猟に、より多くは睡眠と飲食に耽りつつ、無為に日をすごす・・家庭、家事、田畑、一切の世話を・・女たち、老人たち<など>・・に打ち任せて・・懶惰にのみ打ちすごす」(タキトゥス「ゲルマーニア」(岩波文庫版)78〜79頁)のを常としました。
 ですから、貧しかった時代ならいざ知らず、豊かになった現在の西欧諸国において労働時間が著しく減ってきたのもむべなるかなとお思いになるでしょう。

 それでは、アングロサクソン諸国の労働時間の長さはどう説明したらよいのでしょうか。
 アングロサクソンは世界でほぼ唯一生き延びた純粋なゲルマン人であり、ゲルマン人の生業(本来の労働)は戦争(=略奪行為)だったことを思い出してください(上記引用参照)。これは戦争以外の時間はゲルマン=アングロサクソンにとっては来るべき戦争に備えて鋭気を養う余暇だったということを意味します。だから農耕・牧畜(=食糧確保)に比べて狩猟(=食糧確保+戦争準備)をより好んだとはいえ、これら「労働」も「無為・懶惰に過ごす」こととともに余暇の一環であり、「労働」を減らす、制限するという観念は、元来彼らにはなじまないのです。
 そして、キリスト教の聖書を世界で初めてに民衆が読める自国語に翻訳して大量に普及させたアングロサクソンは、ゲルマン人としての彼らのもともとの好き嫌いを踏まえ、農耕・牧畜等の「懲罰」としての「額に汗」する「労働」(labour。「陣痛」という意味もある。同義語はtask)と狩猟等のそれ以外の「労働」(work。同義語はbusiness)とを明確に区別し、hard work を厭わず(?!)labourを減らすことに腐心してきました。その最大の成果の一つがイギリスを起源とする18世紀のいわゆる産業革命です(コラム#81参照)。
 これに対し、西欧ではこの二種類の「労働」を区別することなく、どちらも忌むべきものとして削減することに努めてきた、と私は考えています。」(コラム#125(*12)より抜粋)

 アングロサクソン社会は当初から資本主義社会であり、それと同時に反産業主義であったというのは面白いですね。楽をしたいからhard workを厭わないというのも、とても面白いと思います。英国が様々な創意工夫をして近代的な発明を数多く生み出したのも、よく分かる気がします。
 ちなみに太田さんは、近代文明はイギリス文明そのものといってよく、近代のほぼ全てがイギリスで始まっている、とも仰っています。コラム#84(*13)を参照してみてください。
 それと、経済的物質的に貧しい社会においては、個人主義を成り立たせる余裕が無く、乏しきを分かちあいながら、共同体に埋没して生きて行くより他はないところ、イギリスで個人主義が維持できたのはイギリスが大変豊かだったからだ、という側面もあるようです。コラム#54(*14)を参照してみてください。

(*10)コラム#519<米国反仏「理論」あれこれ(その4)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955314.html
(*11)コラム#81<反産業主義(アングロサクソン論4)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955752.html
(*12)コラム#125<各国の労働時間の違い>
http://blog.ohtan.net/archives/50955708.html
(*13)コラム#84<イギリス文明論をめぐって(アングロサクソン論5)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955749.html
(*14)コラム#54<豊かな社会(アングロサクソン論2)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955781.html

(続く)
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太田述正コラム#2765(2008.9.1)
<読者によるコラム:人種間格差を教育でいかに克服するか>

→非公開

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太田述正コラム#2611(2008.6.15)
<アイルランドがやってのけた椿事>(2008.8.10公開)

1 始めに

 EU本部及びEU全加盟国がショックを受けています。
 EU加盟国たるアイルランドで6月13日に行われた、リスボン条約批准の是非について問う国民投票で、高い投票率の下、反対票が54%対46%で賛成票を上回り、批准が否決されたからです。
 この椿事が今回のテーマです。

 (以下、
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/jun/14/ireland.eu
http://www.guardian.co.uk/world/2008/jun/13/ireland.eu1
http://www.guardian.co.uk/world/2008/jun/13/ireland.eu1
http://www.guardian.co.uk/world/2008/jun/13/ireland.eu1
http://www.ft.com/cms/s/0/8eda1142-3949-11dd-90d7-0000779fd2ac.html
http://www.ft.com/cms/s/0/f2466f88-3975-11dd-90d7-0000779fd2ac.html
http://www.ft.com/cms/s/0/63fef7c2-396b-11dd-90d7-0000779fd2ac.html
(いずれも6月14日アクセス)
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1814373,00.html
(6月15日アクセス)による。)

2 椿事のあらまし

 (1)総論

 リスボン条約は、2005年にフランスとオランダの国民投票で反対票が賛成票を上回った結果廃案に追い込まれたEU憲法の代わりに締結されたものであり、EU憲法の核心部分であったところの、長任期のEU大統領、強力な外相、そしてより民主的な投票制度といった規定が同条約に盛り込まれています。
 現在リスボン条約は各国において批准されつつあり、EU加盟全27カ国中18カ国で批准が終わっていたところ、全加盟国中唯一、その憲法上条約の批准を国民投票で行わなければならないアイルランド、しかも人口が420万人でEUの総人口4億9,000万人の1%にも達しないアイルランドにおいて、批准が否決されてしまったわけです。
 一カ国でも批准が否決されれば、リスボン条約は効力を発生しないので、これは大事(おおごと)なのです。

 (2)椿事たるゆえん

 なぜこれが椿事かと言うと、一つ目は、同条約にアイルランドのほぼ全政党が賛成し(反対したのは7%の得票率しかないシン・フェーン党のみ)、全主要経営・産業団体、労働組合、全農業組合、主要メディア、そしてカトリック教会が賛成していたにもかかわらず、反対票が上回ったからです。
 椿事である理由の二つ目は、反対票を投じた人々の大部分は、リスボン条約の何たるかがさっぱり分かっておらず、EU軍ができて徴兵制が敷かれる、アイルランドの中立(NATO非加盟)が失われる、アイルランドがその低い法人税を維持できなくなる、アイルランドの堕胎禁止政策が維持できなくなるだのといったリスボン条約に書いてないことに反発したり、果てはアイルランドの某地方空港と英国のヒースロー空港を結ぶ定期便がなくなるといったリスボン条約と何の関係もないことに反発したり、等のてんでバラバラの、しかもいずれ劣らぬばかげた理由を挙げているからです。
 椿事である三つ目の理由は、アイルランドが大いに利益を受けたEUに恩を仇で返した形であるからです。
 アイルランドは1972年に賛成5対反対1の割合でEU(当時はEuropean Economic Community=EEC)加盟を決め、1973年に加盟国中最貧国として加盟したのですが、現在では世界で5番目の一人当たりGDPの国になっています。
 加盟当時は英国への輸出が全輸出額の55%を占めており、主要輸出品はと言えばビール、バター、と牛肉でした。
 加盟後は、1980年までに家計所得が三分の一も減少する不景気が到来したのですが、1980年代終わりから税金と規制を他のEU加盟国以下の水準に減らしたところ、アイルランドが英語国であることことにも目を付けた外国企業が押し寄せ、1995年から2000年にかけて年率10%成長を遂げ、EU全体への輸出が70%を占め、英国への輸出は17%に減少しています。
 これまで、アイルランドはEUから累計400億ユーロ(820億米ドル)の補助金を受け取りましたが、遠からず補助金拠出国に転じる見通しです。
 そして、かつては移民送り出し国だったアイルランドが今では東欧からの移民受入国になりました。
 アイルランドは、まさにケルトの虎(Celtic Tiger)へと変貌を遂げたのです。
 このように足を向けては寝られないEUに対し、余りにもつれないしうちをアイルランド国民はやってのけたことになります。

 (3)頭を抱えるEU

 EU憲法を葬り去ったのはフランスとオランダというEU大好き国でしたが、今度リスボン条約が葬られる可能性をもたらしたのもアイルランドというEU大好き国でした。 
 複雑な案件を各国の国民投票に付したためにEU憲法が葬り去られたとの反省に立って、(アイルランド以外では)国民投票に付す必要がないリスボン「条約」に仕立て直して再チャレンジしたものの、たった一各国、国民投票に付さねばならないアイルランドにおいて、その国民からダメ出しがなされてしまったというわけです。
 EU当局とEU大衆との間に大きなギャップがあることが改めて露呈した形ですが、こんなことでは、いつまで経ってもEUは、覇権国米国や、興隆しつつある中共、インド、ロシアといった諸国に伍する政治的経済的存在になれないのではないかという嘆き節が聞こえ始めました。
 とにかく、このまま批准を続けて行って、アイルランドを除く26カ国が批准を終え、その上でアイルランド国民を説得(脅迫?)すべきであるとか、こうなったら当分の間、EU大統領の設置は諦め、条約の改訂なくして実行できるEUの外交機構の強化やEU議会の権限の強化だけで我慢しようといった声が出始めています。

3 感想

 民主主義が嫌いで自由主義が大好きなアングロサクソンは、直接民主制を排し、有権者の拡大にも慎重であり続けたという過去を持っていますが、にもかかわらず、米国を含むアングロサクソン諸国では民主主義化してからも民主主義が機能不全を起こすことはありませんでした。
 しかし、アイルランドを含む欧州諸国では、民主主義は機能不全を起こしてばかりいます。ナショナリズム、共産主義、ファシズム、有色人種差別/ホロコースト、表現の自由の蹂躙(ホロコースト否定論の禁止等)、等が欧州における民主主義が起こした機能不全のいくつかの例です。
 今回のアイルランドにおける椿事は、欧州の一国において、自傷行為的な愚か極まる決定を下すという形で民主主義が機能不全を起こしたものであり、ここに欧州文明の負の歴史に新たな一章が刻まれたわけです。

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太田述正コラム#2601(2008.6.10)
<オバマ熱の欧州とアングロサクソン論>(2008.8.5公開)

1 始めに

 イギリスはアングロサクソン文明、欧州諸国は欧州文明、米国はアングロサクソン文明を基調とし、それに欧州文明が加わったキメラ的文明、という文明観を抱くと、今回ご紹介する、欧州におけるオバマ熱に関する米国人の手になる二つのコラムが良く理解できる、というお話をしたいと思います。

2 二つのコラム

 (1)ニューヨークタイムス

 「フランス人から見て・・・この何十年というもの、良い米国人とされたのはケネディ大統領と(彼女のエレガンスに欧州人がしびれた)ジャクリーヌ夫人、(欧州的都会性と機知の持ち主)ウッディ・アレン、(イラク戦に反対する欧州的激情の持ち主)マイケル・ムーア、それに(欧州的環境主義者たる)アル・ゴアだった。
 しかし現時点において、フランス人から見て良い米国人と言えば、それは米民主党大統領候補になったバラク・オバマだ。彼の著書『希望の大胆さ』はベストセラーになっている。彼の顔にあらゆるところで出っくわす・・・。
 インターネット上にオバマ支援サイトが設けられているが、ファッションデザイナーのソニア・リキエル、バリ市長のベルトラン・ドゥラヌー、作家・哲学者のベルナール・アンリ・レヴィ、故イヴ・サン・ローランの共同経営者のピエール・ベルジュらが名を連ねている。<しかし、フランスの>都市郊外に大勢住んでいるアフリカ人やアラブ人達は、国会議員555名中黒人がたった1名しかいないという政治システムに対して広範な不信を念を抱いている。彼らからすれば、オバマは都市伝説といったところか。少なくともフランスでは、オバマにいかれている<多数の>人々とオバマを醒めた目で見ている<少数の>人々に分かれている。
 オバマ熱に取り憑かれているのはフランスだけではない。ドイツのオバマ熱だって優るとも劣らない。・・・」(
http://www.nytimes.com/2008/06/09/opinion/09cohen.html?ref=opinion&pagewanted=print
。6月10日アクセス)

 (2)スレート誌

 「ドイツでは、・・・現在オバマニア(Obamamania)とでも言うべき現象が起こっている。ドイツのメディアは、この米民主党大統領候補者を・・・あたかもジョン・F・ケネディとマーチン・ルーサー・キングの間に置かれたキリスト(cross)のように見ている。ドイツの外相は「<オバマ由来の>イエス・アイ・キャン」が口癖になってしまったし、ベルリンのヒッピー地区ではオバマTシャツを着た人が結構いる。このようなオバマに対する熱情は、ドイツだけでなく、英国、フランスでも見出すことができる。・・・
 <ここで忘れてはならないのは、>人種差別は米国だけの現象ではない<ということだ>。
 欧州とアジアにおいて、少数民族の置かれた状況は米国よりもはるかにひどい。そもそも、米国と<欧州と>では社会が色んな意味で全く違うのだ。
 欧州各国における非白人たる住民達は最近の移民であり、奴隷の子孫ではない。・・・ ・・・少なくとも言えることは、非白人たる政治家が欧州では<米国と違って>圧倒的に少ないということだ。・・・
 オバマに関する情熱的な見だしの裏に何が隠れているかについてのヒントが先週、オバマニアックなドイツで現れた。ベルリンの新聞のディー・ターゲスツァイトゥング(Die Tageszeitung)がホワイトハウスの写真を「バラクおじさんの小屋(=Uncle Barack's Cabin。ストウ(Harriet Beecher Stowe)著'Uncle Tom's Cabin'(1852年)をもじったもの(太田))という見だしとともに掲載したのだ。同紙編集部は風刺目的だとしているが、同じ新聞が現在の米国務長官を「トムおじさんのライス」とあてこすったことがあることから考えると、連中が「トムおじさん」の含意の汚さを百も承知していることは明らかだ。
 外国人達がオバマの外交経験の乏しさを心配し始めた時も注意した方がよい。一見これは全くもって正当な心配ではあるけれど、私はこの種の議論に人種差別的底意を感じ取ることがある。つまり。「黒人に欧州・中東・南アジアの政治が分かるものかねえ」と連中が言っているように見える時があるのだ。・・・」(
http://www.slate.com/id/2193219/
(6月10日アクセス。)

3 解説

 この二つのコラムは、要するに、アングロサクソンの中では最も人種差別的な米国を恥ずかしく思っている米国の有識者達が、欧州諸国はもっと人種差別的であることを指摘することで溜飲を下げているものである、と考えればよいのです。
 ちなみに、この二つのコラムに、フランスやドイツが人種差別的であるという話は出てきても、英国(イギリス)が人種差別的であるという話が出てくるわけがありません。
 元祖アングロサクソンたるイギリス人は、自分達の文明について絶対的な優越感を抱いているものの、アングロサクソン文明は人種を超越した文明であることから、彼らは人種的な優越感(その裏返しが人種差別感)など抱いてはいないからです。
 なるほどこの二つのコラムはそんな風に読めるな、と思われ始めていませんか。
 私のアングロサクソン論になじみのない方は、これを機会に私の過去のアングロサクソン論関係コラムにぜひ目を通してみてください。

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太田述正コラム#2324(2008.1.26)
<世界帝国とその寛容性・包摂性(その3)>(2008.7.31公開)

 また別の書評子は、チュアのこの本を読み、自国である米国に思いをはせて次のように述べている。
 「米国は、徹底的に多元主義的であるけれど同時に排外的憎悪に間歇的に襲われる。米国は、軍事力によって統治をしたもののその被支配民をペルシャ化しようとはしなかったアケメネス帝国と、移民受入と寛容なる国内政策によってカカオ豆を安く買って高く売るといったことを行う商業帝国を構築したオランダ共和国とが結合した存在であるように見える。
 恐らく現在の米国に面と向かって軍事力で挑んで勝てる国はないであろう・・そもそも米国の敵はそんな事態に陥らないように抜け目なく立ち回っている・・し、山のような国家債務と巨額の貿易赤字にもかかわらず、米国は世界最大の経済大国であり続けている。
 米国は古からの問題・・凝集力の不十分さ・・に直面しているところの新しい種類の帝国なのだ。パックス・アメリカーナを擁護する人々は、米国に比べればちっぽけなあらゆる種類の国を侵略したがっているかもしれないけれど、米国の市民権をイラク人やイラン人や北朝鮮人やベネズエラ人に与えるつもりはさらさらないのだ。」

4 おまけ

 最盛期が余りにも短かったからということか、チュアが世界帝国の中にカウントしていないアレキサンダー大王の帝国とムガール帝国について、彼女はそれぞれ概要次のようなエピソードを紹介しています。
 
 アレキサンダー(Alexander the Great。BC356〜323年)は民族の違いなど眼中になく、打ち破った軍隊の最良の司令官達や兵士達を召し抱えることで自分の軍隊を強化して行った。
 紀元前331年、アレキサンダー率いる軍隊は、現在のイラク中部のヒラ(Hilla)市付近にあったバビロン(Babylon)を占領した。残虐で地域の疫病神視されていた独裁者、アケメネス朝ペルシャのダリウス3世(Darius3。BC380〜330。国王:BC336〜330)を追い払ってくれたというので住民達は新しい征服者を歓迎した。そして、彼らを一ヶ月にわたってご馳走責めにし、市の最も瀟洒な民家に宿泊させ、彼らに酒・食物・女を無制限に与えた。有力市民達は自分達の妻や娘まで提供した。高級廷臣達は様々な専門的サービスを提供した。夕食後には夜な夜なストリップショーが催された(注8)。

 (注8)言うまでもなく、チュアの念頭には2003年の米軍等によるバグダッド占領の時の対照的な様子がある。ちなみに、アレキサンダーが没するのはこのバビロンにおいてだ。(太田)

 ムガール帝国(Mughal Empire)のアクバル大帝(Akbar the Great。1542〜1605年。皇帝:1556〜1605年)は戦略的寛容性を実践した。
 そのうちの一つが「多文化的性交(multicultural copulation)」とも言うべきものだ。
 アクバル自身はイスラム教徒だったが、亡くなるまでに実に300人以上の妻を娶った。
 その中にはラージプト(Rajpu)(注9)、アフガニスタン人、南インド諸王国の姫君達、トルコ人、ペルシャ人を始めとして、ポルトガル系のキリスト教徒の女性2人まで含まれていた。

 (注9)ヒンズー教においてバラモン等と並ぶクシャトリアに属する有力グループで武勇をもって知られ、現在も彼らをインド軍将校に多数見出すことができる。(太田)

5 終わりに

 チュアは、戦前の日本帝国が宗教的正統性や人種的純粋性に固執したとしているわけですが、彼女はもともと歴史学者ではなく、しかも、日本のフィリピン占領時代を体験した支那系フィリピン人の両親の下に生まれたこともあって、日本について無知で偏見があると思われ、だからこそこのような誤解をしたのでしょう。
 この点を除けば、最初の書評子が指摘したように、チュアは歴史をやや単純化し過ぎているきらいはあるものの、そして私に言わせれば、2世特有の米国への過剰適応傾向が感じられる(注10)ものの、寛容性・包摂性を帝国形成・維持の必要条件とした彼女の考えは基本的に正しいと私は思います。

 (注10)フランシス・フクヤマの過剰適応性を指摘したコラム#1718、1719参照。

(完)

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太田述正コラム#2321(2008.1.25)
<世界帝国とその寛容性・包摂性(その2)>(2008.7.30公開)

 (6)オランダ

 オランダは、1492年から1715年にかけて、欧州各地で宗教的迫害を受けたユダヤ人やプロテスタントの難民を、彼らの金融資産とともに受け入れた。
 オランダの繁栄の否決は、商売の業を磨くことに専念し、世界を軍事的に征服することなど全く試みなかったところにあった。
 オランダの滅亡は、オレンジ公ウィリアムがイギリスに攻め込み、ジェームス2世を王座から追放し、オランダ海軍をイギリスに移植し、オランダのユダヤ人銀行家達と熟練工達をロンドンに連れて行き、かつオランダの移民と宗教的少数者を歓迎するというビジネス・モデルをイギリスに伝授することによってもたらされた(注4)。

 (注4)コラム#1794も参照されたい(太田)。

 (7)英国

 英国は、欧州ではどこでも嫌われていたユダヤ人やユグノー、それにスコットランド人を迎え入れることによって勢力を拡大した。これらの人々の貢献がなければ、英国の金融・産業革命は成就しなかっただろう。
 特に大きかったのは、1707年のイギリスとスコットランドの合邦(union)だった。
 これにより、英国王は、イギリスの北方の辺境の恐るべき企業家的・知的・戦争好きにして貧乏な人々を世界中における新しいプロジェクトに投入できるようになり、大英帝国を世界に広げることが可能になったのだ(注5)。

 (注5)「スコットランドの近現代への貢献」シリーズ(コラム#2279、2281(いずれも未公開)、未完)参照。(太田)

 ただし、イギリスがもう一つの隣接民族たるアイルランド人を成功裏に吸収することに失敗したことは、英国のインド統治の前途に不吉な予兆を与えることとなった。

 (8)米国

 米国については、特に説明は不要であろう。(太田)

 (9)失敗例

 イベリア半島は、1478年に異端審問を開始したことで、比較的に寛容であった歴史に終止符を打った(注6)

 (注6)コラム#2022、2028(いずれも未公開)参照。(太田)

 そして1492年には、共同君主であったフェルディナンドとイサベラがユダヤ人に対し、カトリックに改宗するかスペインを去るかの二者択一を迫った。その10年後にはカスティリア地方のイスラム教徒に同じ二者択一を迫った(注7)。

 (注7)コラム#146参照。(太田)

 このようにスペインは公式に非寛容政策を採用した結果、爾後次第に衰亡して行くことになる。

 ナチスドイツは、征服した数百万人とドイツ国民数十万人を殺害することによって計算できないほどの人的資源をドブに捨て去った。
 その中にはアインシュタイン(Albert Einstein)、フォン・カルマン(Theodore von Karman)、ウィグナー(Eugene Wigner)、ジラード(Leo Szilard)、ベーテ(Hans Bethe)、テラー(Edward Teller)、マイトナー(Lise Meitner)らがおり、その多くは世界最初の原爆をつくるのに決定的な役割を果たし、米国をして第二次世界大戦に勝利することを可能ならしめた。
 ナチスドイツは、世界史において最もばかげた自傷行為を行ったのだ。
 このように、宗教的正統性や人種的純粋性に固執することは帝国の形成ないし維持を不可能にするものなのだ。

 同じ過ちを犯したのが戦前の日本帝国であると言えよう。

3 書評子達の声

 ある書評子は、チュアの歴史観は単純すぎると指摘する。
 寛容性・包摂性を戦略的・戦術的に駆使するだけでなく、バランスよく非寛容性・非包摂性を戦略的・戦術的に駆使することによって、初めて帝国は掲載され、維持されてきたのだ。
 例えば米国は、インディアンに対して非寛容的・非包摂的であったからこそ、(地理的意味の)欧州から移民を受け入れることができたのだ。
 また米国は、第二次世界大戦の直前と最中にユダヤ人の科学者達を受け入れる一方で、日系米国人を収容所に収容した。

(続く)

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太田述正コラム#2317(2008.1.23)
<世界帝国とその寛容性・包摂性(その1)>(2008.7.29公開)

1 始めに

 移民の受け入れとか外国人への地方参政権の付与と聞いただけで、相変わらず拒否反応を示す日本人が少なくないこともあり、支那系フィリピン人の両親の間に米国で生まれ、ユダヤ系米国人と結婚したチュア(Amy Chua)エール大学ロースクール教授(女性)が昨年上梓した'Day of Empire: How Hyperpowers Rise to Global Dominance -- and Why They Fall’の概要をご紹介することにしました。

 (以上を含め、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/01/03/AR2008010302906_pf.html 
(1月6日アクセス)、
http://www.salon.com/books/review/2007/11/19/chua/
http://www.nytimes.com/2007/11/18/books/review/morrow.html?pagewanted=print
http://www.latimes.com/features/books/la-bk-kurtzphelan11nov11,0,2652809.story?coll=la-books-headlines
http://www.1913intel.com/2007/12/31/day-of-empire-how-hyperpowers-rise-to-global-dominance-and-why-they-fall/
(以上すべて1月23日アクセス)による。)

2 チュアの本の概要

 (1)総論

 史上出現した大帝国であるペルシャ、ローマ、唐、モンゴル、オランダ、英国、米国には共通点がある。
 寛容性(tolerance)ないし包摂性(inclusiveness)だ。
 寛容性・包摂性を戦略的・戦術的に駆使することによって、各帝国は円滑な支配と人材の確保が可能となったのだ。
 これに反し、強制は非効率的だし、迫害は高くつくし、民族的ないし宗教的均質性は非生産的だ。

 (2)ペルシャ

 アケメネス朝ペルシャ(Achaemenid Persian Empire)創始者のキュロス大王(Cyrus the Great。?〜BC530年)とその子ダリウス大王(Darius the Great。BC549〜485年。国王:BC522〜485年)の宮廷は国際色豊かであり、エジプト人の医者、ギリシャ人の科学者、バビロニア人の占星術師らが集っていた。
 最盛期にはペルシャの版図は西はドナウ川から東はインドに及んだ。
 帝国の各地方の法、慣習、宗教は尊重された。よく知られているのは、キュロスがバビロン捕囚のユダヤ人を解放し、カネを出してエルサレムにユダヤ教の神殿を再築させたことだ。
 帝国の公式言語はアラム語(Aramaic)、エラム語(Elamite)、バビロニア語、エジプト語、ギリシャ語、リディア語(Lydian)、及びリシア語(Lycian)だったが、ダリウスはこのどの言語も読むことはできなかったと考えられている。(注1)

 (注1)英国における最近のアケメネス朝ペルシャへの高い評価については、コラム#867〜869参照。(太田)

 (この帝国の弱点は、凝集性を担保すべき共通の宗教、言語、文化がなかったことだ。
 帝国には被支配者に付与すべきアイデンティティーないし市民権がなく、寛容なペルシャの支配の下で、ギリシャ人、エジプト人やフェニキア人はギリシャ人、エジプト人、フェニキア人であり続けた。
 このため、ダリウスの子クセルクセス(Xerxes。BC519〜465年。国王:BC485〜465年)やその後継者達の統治が過酷で非寛容となり、エジプトの都市を破壊したりギリシャの神殿を掠奪したりするようになると、各民族は帝国に対して叛乱を起こし、帝国を瓦解させてしまうのだ。)

 (3)ローマ

 ローマは、アフリカ人、スペイン人やガリア人らをどしどし登用した。
 クラウディアス(Claudius)1世(BC10〜AD54。ローマ皇帝:41〜54年)は、元老院で、「<ロムルスは>敵と戦った同じ日にその敵の帰化を認めた。・・<ガリア人だって元老院に受け入れてもよい。何となれば>彼らはもはやズボンを履いておらず、<ローマ風のトガを身につけているからだ>」と演説した。
 トラヤヌス(Trajan。53?〜117年。皇帝:98〜117年)は、スペイン人であり、最高顧問達にはギリシャ人、イスラム教徒、ユダヤ人がいた。
 セプティミウス・セヴェルス(Septimius Severus。146〜211年。皇帝:193〜211年)はアフリカ人でシリア人がお妃だった。(注2)

 (注2)ローマ滅亡の原因については、コラム#858、859参照。(太田)

 (4)唐

 漢人とトルコ人の祖先を持つ太宗(Taizon。李世民。598〜649年、皇帝:626〜649年)によって建国された唐(Tang)は、宗教的・民族的に寛容であり、おかげで大帝国を築くことができた。
 唐の最盛期の713年、第6代皇帝の玄宗(685〜762年。皇帝: 712〜756年)はアラブの使節団を引見したが、その際、彼らが叩頭の礼を行うことを免除した。
 その約1,000年後、清は英国の使節団に対して叩頭の礼を強い、それを拒否した使節団は皇帝に会うことなく引き揚げたことと比較せよ。
 唐は、後に上記の寛容性を失い、爾後支那は長期にわたる緩慢かつ内向きの衰亡を続け、欧米に文化的にも技術的にも大幅に後れを取ることとなってしまった。

 (5)モンゴル

 モンゴルは残虐だったが、同時に民族的・宗教的に極めて寛容であったために大帝国を築き上げることができた。
 モンゴル軍は、近衛部隊は仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、原始宗教教徒からなる9つの種族によって構成されており、種族を混淆した形で編成されていた。
 チンギス・ハーン(Genghis Khan。1162〜1227年)とその後継者達は、文盲であり、科学、技術、農業、文字とは無縁だったが、出会ったすべての文化の最良の部分を採用することでバグダッド、ベオグラード、モスクワ、そしてダマスカスを征服した。
 また、このモンゴルの支配者達が、13世紀に支那の芸術、音楽、演劇を奨励した。(注3)

 (注3)モンゴル帝国への最近英米における高い評価等については、コラム#626、633〜637、647、658、659、668、671参照。(太田)

(続く)

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太田述正コラム#2281(2008.1.4)
<スコットランドの近現代への貢献(その2)>(2008.7.18)

3 各論

 (1)アイケンヘッドの処刑(PP2〜12)

 1696年の8月、スコットランドのエジンバラを四人の大学生が歩いていた。
 そのうちのアイケンヘッド(Thomas Aikenhead)という神学専攻の18歳の大学生が、イエスの行ったとされる奇跡なんてウソだ、イエスの復活も罪の贖いの教義も神話だ、モーゼの方が政治家としても魔術師としてもイエスより上だ、この二人よりムハンマドの方が更に上だ、神と自然と世界とは一つであり永久に存在してきた、と語った。
 以前、アイケンヘッドはイエスは詐欺師だ、と語ったこともあった。
 これを聞きつけたスコットランドの検事総長は、アイケンヘッドの発言は1695年にスコットランド議会が制定した涜神法に触れるとして起訴した。
 この法律は、3回涜神した者は死刑に処することができる、ただし1回目の涜神であっても、神を直接涜神した場合は直ちに死刑に処することができる、と定めていた。
 当時のスコットランドにはイギリスと違って起訴の可否を評決する大陪審が存在せず、起訴するもしないも検事総長の完全な自由裁量に委ねられていた。
 そして小陪審は、有罪の評決を下した。
 当時のイギリスでは、宗教上の問題を世俗的な裁判所が扱ってはならないという考え方が既に確立していた。イギリス議会が1689年に制定した寛容法(Act of Toleration)はまさにこの考え方を体現した法律だった。
 しかし、スコットランドではそうではなかった。
 まだ世俗的な裁判所で魔女狩り裁判が行われており、1697年には2人の「魔女」が処刑されるという有様だった。(イギリス領北米植民地のマサチューセッツでも1692年に悪名高いサーレム(Salem)における魔女狩り裁判が行われている(コラム#2114)。)
 アイケンヘッドを処刑すべきではないと主張する人々も少なくなかった。
 彼らはイギリスの思想家のジョン・ロックとも連絡を取り合ってアイケンヘッドの救命運動を展開し、イギリスの共同国王であるとともにスコットランドの共同国王でもあるウィリアム3世とメアリーにも嘆願書を出したが、結局1697年の1月8日、アイケンヘッドは処刑された。

 (以上、PP2〜9より。)

 このスコットランドは当時、貧困にも苦しんでいた。
 1697〜1703年の飢饉では、人口200万人弱のスコットランドで数万人が死亡している。
 
→神懸かりと貧困とくれば欧州そのものです。まさに当時のスコットランドは欧州に属していたと思いませんか。(太田)

 (2)ジョン・ノックスの巨大な足跡

 スコットランドを神懸かりにしたのはジョン・ノックス(John Knox。1510?〜72年)だ。
 彼はたった一人でスコットランドのほとんどの人々にカトリシズムを放擲させ、カルヴィニズム・・スコットランドではプレスビテリアニズム・・を信奉させることに成功する。
 日曜に働いたら逮捕され、カーニバルもダンスも笛吹もバクチもカードゲームも劇場も禁止された。およそ共同で楽しむあらゆることが禁じられたのだ。違反者には教会が厳罰が科された。魔女に至っては焼殺された。

 しかし、ノックスのカルヴィニズムには、ユニークな点があった。
 ノックスは権力は神によって人民に与えられているとしたのだ。
 この点を敷衍したのがスコットランドのジョージ・ブキャナン(George Buchanan。1506〜82年)だ。
 ブキャナンは、1579年に上梓された著書の中で、人民は偶像崇拝と専制から自らの権力を守る権利と義務があると主張した。
 地理的意味での欧州最初の人民主権論の誕生だ。
 ジョン・ロックの人民主権論はノックスやブキャナンの説の二番煎じに他ならない。
 このノックスやブキャナンの説は余りに時代に先んじていた。
 彼らの説に人民が感化されたため、スコットランドはノックス死後、20年にわたってアナーキーな状況に陥ってしまい、この状況はスコットランド王のジェームス6世(後にイギリスのジェームス1世)が国王の権力を再強化することでようやく解消される。
 しかし、ノックスとブキャナンによって民主的運営が始められたプレスビテリア教会は、この民主的運営を一貫して続けることになる。

 (以上、PP15〜19)

(続く)

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太田述正コラム#2279(2008.1.3)
<スコットランドの近現代への貢献(その1)>(2008.7.17公開)

1 始めに

 12月中に会費代わりのアマゾン・ギフト券を使って三冊の洋書を注文したところ、うち二冊が届きました。
 一冊は、2002年に上梓された、米国の歴史学者アーサー・ハーマン(Arthur Herman)による' How the Scots Invented the Modern World--The true story of how Western Europe's Poorest Nation Created Our World and Everything in It'です。
 ハーマンは、2000年に'Joseph McCarthy: Reexamining the Life and Legacy of America's Most Hated Senator'、2004年に'To Rule the Waves: How the British Navy Shaped the Modern World'(注1)という本も上梓しています。

 (注1)ハーマンがこの英海軍の本について受けたインタビュー(
http://www.nationalreview.com/interrogatory/qa200501060730.asp
。1月3日アクセス)は一読に値する。

 まずはネット上の書評等を踏まえて序論的書評をものした上で、この本を実際に読み、各論的書評を書き上げることにしたいと思います。

2 序論

 私見によれば、スコットランドはアングロサクソンではなく、欧州世界に所属します。
 そのスコットランドとイギリスが1707年に合邦します(注2)。

 (注2)スコットランドとイギリスの合邦と現在のスコットランド「独立」への動きについては、コラム#1522、1524参照。

 これによりスコットランドに化学反応が起こります。
 イギリスの懐に飛び込んだことによってスコットランドの知識人は、イギリス人が行わなかったこと、すなわちアングロサクソン(イギリス)文明の中核部分の理論化、つまりは普遍化に成功するのです。
 イギリス経験論を理論化したヒューム(David Hume。1711〜76年)(コラム#1257、1259、1699)、イギリス資本主義を理論化したアダム・スミス(Adam Smith。1723〜90年)の二人を挙げるだけでもこのことがお分かりになるでしょう。
 また、スコットランド人はイギリスの産業「革命」(注3)にも決定的な役割を果たします。蒸気機関を完成させたあのジェームス・ワット(James Watt。1736〜1819年)はスコットランド人です。 

 (注3)なぜ私が「」に入れるかについては、「産業革命をめぐって」シリーズ(コラム#1489、1501、1515、1570、1586)を参照されたい。

 これだけでも、米国のイギリスからの独立と発展、そしてイギリスの帝国形成、更にはアングロサクソン文明のグローバルスタンダード化に果たしたスコットランドの役割が極めて大きいことは想像に難くないでしょう。
 実は、スコットランドとイギリスの合邦は、イギリス側にも化学反応を惹き起こすのです。
 すなわち、スコットランドは不変の文明であるアングロサクソン文明を変化させるという離れ業をやってのけるのです。
 自由主義を旨とする民主主義嫌いのアングロサクソン文明(コラム#91)の自由・民主主義への変化・・進化と言うべきか・・です。
 
 (以上、
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,635676,00.html
http://www.electricscotland.com/familytree/frank/herman.htm
http://www.julielorenzen.net/scots.html
(いずれも1月3日アクセス)を参考にした。)

(続く)

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太田述正コラム#2276(2008.1.2)
<ヨーロッパ史序論習作紹介>(2008.7.16公開)

1 始めに

 1997年に書いた私の小論、ヨーロッパ史序論(未完)が出てきたので、まだ習作的なレベルにとどまっている上、典拠が付いていないという致命的欠陥があるものの、このところ私のアングロサクソン・欧州対置論に対する関心が高まっていることもあり、この小論を紹介することにしました。
 この小論では、イギリスとヨーロッパ(欧州)を明確に対置するには至っていませんが、その萌芽が見られます。
 なお、この小論ではイギリスとフランスなる国民国家が英仏百年戦争の結果生まれたとしており、同趣旨のことをコラム#96で繰り返したところですが、コラム#2055と2057で、フランスに関してはこれに留保をつけたところです。
 また、冒頭出てくるデュプイとは、Trevor N. Dupuy(
http://en.wikipedia.org/wiki/Trevor_N._Dupuy
)のことです。

2 ヨーロッパ史序論

 米国の軍事史学者T.N.デュプイは、史上最も強かった軍隊を6つ挙げている。アレキサンダー大王のマケドニア軍、共和制時代のローマ軍、ジンギスカンのモンゴル軍、英仏百年戦争前半のイギリス軍、ナポレオン時代初期のフランス軍及び第2時世界大戦初期のナチスドイツ軍である。
 デュプイのこの選択の妥当性はともかくとして、このうち世界史に最も大きな影響を与えたものはどれかと問われれば、筆者は躊躇なく百年戦争(1337〜1453)の時のイギリス軍だと答えるだろう。
 というのは、私は、この百年戦争によってヨーロッパの長い長い戦国時代が始まり、それが第2次世界大戦後の冷戦時代の終焉によってようやく英米を中心とするアングロ・サクソン連合の最終的勝利で幕を閉じたと考えているからだ。
 戦国時代という以上は、二つ以上の「国」と「国」の間で絶え間なく武力抗争が続かなければならない。ユーラシア大陸の西端のヨーロッパ半島においては、それまでも領域の支配権を巡って領主層の間の武力抗争が絶えることはなかった。百年戦争の目新しさは、従来型の武力抗争から出発しつつ、戦争を通じてイギリスとフランスという現存するヨーロッパ最古の二つの「国」、すなわちネーション・ステート(国民国家)が形成されたという点にある。
 百年戦争は奇妙な戦争である。この長い戦争における主要な戦役にはことごとくイギリス側が圧倒的な勝利をおさめる(下表参照)のだが、それにもかかわらず、イギリスはフランスの征服に失敗する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ・ クレシーの戦い(1346)・ ポワティエ(1356) ・ アジンクール(1415) ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・英・ 兵力12000=損害500 ・ 6000〜8000=40 ・ 5000 =500 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・仏・   40000=  10000・ 30000   =5000・ 30000=9600 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (注)損害とは、死者の数と捕虜の数の和である。

 イギリスは百年戦争に何故敗北したのか。
 フランス側の方が、イギリス側より地域が広大で人口もはるかに多く、常に多数の兵力を個々の戦役に投入することができたため、イギリス軍は次第に疲弊して行くのだが、それができたのは、強力な敵の「侵攻」に直面して、フランス側に民衆を含めたネーション(国民)意識が生まれ、国民が一丸となってイギリス軍に抵抗するに至ったからである。これを象徴しているのが、一平民であるあのジャンヌ・ダルクの活躍である。 
 イギリス側においても、もともとノルマンジー公ウイリアムによる征服(1066年)以前からアングロサクソン人の統一国家ができていたこと、百年戦争の結果フランスにおける領土的足がかりをことごとく失い、大ブリテン島の東南部に領土が局限されるに至ったこと、更にはフランスにおける国民国家の成立に刺激されたこともあって、ここにもう一つの国民国家が確立する。
 いずれにせよ、記憶しておくべきことは、その後のヨーロッパ史の主役となる「国」=国民国家なるものは、百年戦争の過程で、戦争を遂行するために生まれたということと、百年戦争が一方による一方の征服という形では終わらず、英仏間で爾後も緊張状態が続いた結果、百年戦争によって始まったヨーロッパの戦国時代が長期にわたって継続したということである。周の時代の春秋戦国時代以外に戦国時代を知らない中国史や「万世一系」の我が日本史とこの「異常な」ヨーロッパ史を比べてみていただきたい。
 その後、ヨーロッパには次々に国民国家が生誕してゆき、これら国民国家群は、互いに戦争を繰り返しながらヨーロッパの中での覇権を争い、またヨーロッパ外への進出を果して行くことになる。そして、多かれ少なかれ、全世界がヨーロッパの戦国時代のまきおこした大波に飲み込まれていくのである。
 ヨーロッパの戦国時代を通じ、際だって有利な立場にあったのはイギリスだった。

 イギリスの優位は、

一、まず、ブリテン島の中での陸続きの敵対勢力として、スコットランドとウエールズという経済発展が遅れ、人口も少ない国ないし地域しかなく、フランス等の強力な敵対勢力からは海によって隔てられていたこと、
二、次に、イギリスが人口こそフランス等に比べて少ないものの、自然環境に恵まれていたこともあって、経済的にははるかに先進国であったこと、
三、しかもイギリス人は、(百年戦争の各戦役における戦いぶりを見ても分かるように、)軍事的天分にも恵まれていたこと

等に由来する。
 イギリスは、その有利な立場を生かし、ヨーロッパの戦国時代を基本的に軽武装で通すことができたが、イギリスのように恵まれた立場になかったその他の諸国は、生き延びて行くために、平素から強大な軍事力を常備する必要があった。
 ヨーロッパの辺境に位置していた国は、ヨーロッパに侵入していた異教徒等を征服し、駆逐し、更にはヨーロッパの外に進出して行くことによって国力の強大化を図った。アジア大陸に進出したのがロシアであるし、中南米大陸に進出したのがスペイン(ポルトガルを含む)である。
 ヨーロッパの中心部に位置していた諸国は、北はイギリスと北極圏、西はスペイン、東はロシア、南はイスラム教圏によって進出路を閉ざされていたため、専ら国内資源を増大させ、これを総動員する方策を追求せざるを得なかった。
 重商主義政策の採用や、絶対王政の成立は、このような文脈の中で理解されるべきであろう。
 20世紀に登場するファシズムやマルクス・レーニン主義は、この絶対王政の徹底ととらえるべきであろう。(宗教改革でさえ、戦争目的に宗教を活用するため、普遍的なカトリック教会から切り離されたナショナルな諸教会を作り出す必要から生じたと考えることも不可能ではない。)
 やがて、イギリスと共に、ヨーロッパの中心部に位置していた諸国も海外進出に乗り出して行くのだが、この間にイギリスの優位は、より際だったものになって行った。

 イギリスは長期にわたって常備軍らしい常備軍を持たず、軍事に投入する資源も少なくて済んだため、税金は安く、政府の力も相対的に弱いままであった。このおかげで、イギリスにおいては、ゲルマン時代に由来する自由の精神が減衰することなく、市民の創意、活力が十二分に発揮され、イギリスの政治・経済システムは他のヨーロッパ諸国に比べてより順調かつ均衡のとれた形で発展を続けるのである。
 イギリスは、ヨーロッパが統一され、戦国時代が終焉を迎えそうになる度に、その前に立ちはだかった。
 最初にヨーロッパ統一をほぼ実現したのはフランスだった。
 1789年のフランス革命は民主主義を標榜したが、西欧民主主義とは、民衆の政治参加意識を高めつつ、小数派を多数決によって切捨て、抑圧し、戦争に向けて民衆を動員して行くための方便であったと考えることもできる。徴兵制がヨーロッパで初めて採用されたのはフランス革命においてであったことを想起してほしい。
 フランスの野望は、ナポレオンが1815年に最終的にイギリスを中心とする反仏連合軍にワーテルローに敗れることによってついえさった。
 20世紀後中頃にはナチスドイツがヨーロッパを席巻した。ファシズムとは、国民と産業を戦争目的のために根こそぎ総動員するためのイデオロギーであった。
 イギリスは、このドイツの全体主義的挑戦を、かつて自らの植民地であった米国の協力のもとに、満身創痍になりながら退けた。
 残されたのは、ヨーロッパの辺境及びその延長地域だったロシア(及びその後継であるソ連)とイベロ・アメリカ(イベリア半島及びラテンアメリカ)だった。第2次世界大戦後、英米を中心とするアングロサクソン連合は、イギリスが堅持してきた、ヨーロッパ大陸に軍事プレゼンスを置かないとの百年戦争以来の方針を変更して、そこに平時から兵力を展開することとした。

(未完)

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太田述正コラム#2266(2007.12.29)
<昔の文明論コラム2篇>(2008.7.13公開)

1 始めに

 コラム#2253に引き続き、自衛隊専門新聞「朝雲」に1990-1993年の間、隔週74回にわたって連載された私のエッセーの中から、拙著『防衛庁再生宣言』に収録されなかった二篇(文明論的なもの)をご披露しましょう。

2 西欧音楽

 筆者は、かねてより、西欧ではなく、それと明確に区別されるところのイギリスが、近現代文明の形成、発展に圧倒的な影響を及ぼしたと考えているのだが、西欧にも近現代文明への重要、かつ独創的な貢献が少なくとも一つある。西欧音楽がそれである。
 西欧音楽は、記譜法の確立、音楽の歌唱や舞踊からの解放、ハーモニーの重視等、音楽史において決定的に重要な貢献を数多く行った。
 記譜法が確立したおかげで、音楽は「文字」を得、時間と空間の壁を越えて広く伝播されるようになった。
 また、歌唱や舞踊の引立て役から解放されることによって、「純粋」音楽の豊醸な世界が「発見」され、楽器及び器楽曲の飛躍的な発展がもたらされた。
 (オペラやリート等は、このように一旦分離された歌唱と音楽が、人間の声の器楽化(声楽!)を経て再統合されたものである。)
 更に、リズムとメロデイーに並ぶ音楽の三番目の要素であるハーモニー(和声)の重視は、西欧音楽と、それまでのリズム重視のアフリカ音楽、メロデイー重視のアジアや東欧の音楽等とを決定的に分かつ点である。
 また、特定の音とその倍音を機械的に12等分した平均律音階を作り上げたことこそ、音楽に世界共通の「言葉」をもたらしたという意味で、西欧音楽の最大の貢献だとする説もある。
 西欧音楽が生み出した楽器の最高傑作が筆者も親しむピアノである。
 ピアノは、楽音の全てを用いて複雑なハーモニーを奏でることができるだけでなく、初心者でも簡単に強弱、長短織り混ぜた音を鳴らすことができる唯一の楽器である。
 短所としては、重くて持ち運びに不便だという点と、管弦楽器のように、音を同じ強さで長く引き延ばしたり、ビブラートをかけたりできないことくらいである。 
 この西欧音楽が日本へ本格的に導入されてから120余年が経過した。今や日本のどこの家庭でもクラシック音楽が流れ、居間にはピアノが鎮座している。
 日本における西欧音楽の揺藍期を専ら担ったのは、旧帝国陸海軍の音楽隊であった。この伝統を引き継ぐ陸海空自衛隊音楽隊の一層の健闘を祈りたい。

3 日本文化

 外国人から日本文化について質問された場合、筆者は梅原猛氏や佐原眞氏の所説を援用しつつ、次のような議論を展開することにしている。
 日本では、住宅は専ら木で造られる。日本以外の先進国(欧米諸国)やかっての先進地域(中近東、中国等)では、もともとは木造住宅が多かったものの、現在では石や煉瓦造りの家が通例であるのと対照的である。
 これは、日本ではいつも木材を容易に入手できたことが背景にある。現在でも日本の国土の実に三分の二は森林である。昔から日本人の間で、木を切った時には必ず植林をするという自然との共生(エコロジー)思想が確立していたおかげで、森林が破壊されなかったのである。
 さて、日本では、家を建てる場合、木の柱をまず立てて、次にその柱と柱の間を建具か土壁で塞ぐ。木の太さ、すなわち柱の太さには限界があることもあって、壁の厚さは薄く、家の外と内は石や煉瓦造りの家のように断絶はしない。断絶どころか、玄関や部屋の入口に鍵すらないのが日本の住宅の本来の姿であった。
 そもそも日本の社会環境は、世界でも希なほど平和で安全なものであった。
 戦争は生産物に余剰の生じた農業社会の到来とともに始まったらしいが、日本は、他の先進国やかっての先進地域と比べて、一番農業社会の到来が遅かった(稲作の伝播によって弥生時代が始まったのは、わずか2300年前)ため、それまでの長期にわたる平和な狩猟採集社会の時代の記憶が残ったとの指摘がある。
 しかも、農業社会が到来してから、最も短期間(数百年)の内に統一国家が形成された。爾来現在に至るまで一度も外敵の侵略を受けず、また室町期及びその前後を除いて内乱が長期間続いたこともない。かくも平和で安全であったため、日本の都市には、世界の都市にかってつきものであった城壁が設けられたことがない。
 いつもこれに引き続いて、これまた特異な、全く牧畜を伴わない日本の稲作農業文化について一くさり語った上で、相手が関心がありそうなら、おもむろに筆者得意の憲法第9条や防衛政策の話に入って行くことにしている。

4 終わりに

 「西欧音楽」コラムのテーマは後にコラム#454でも繰り返されることになるほか、コラム#27、801、1485でも言及されることになります。
 また、「日本文化」コラムは、後に縄文モード・弥生モードからなる日本文明論へと発展して行くのです。

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太田述正コラム#1699(2007.3.22)
<日本人のアングロサクソン論(続)(その4)>(2007.10.5公開)

 (3)ヒュームは英国最大の哲学者?

 「イギリス史を論じる時に、特定の人物の役割を過大視することは禁物であること」は、渡部がヒューム(David Hume。1711〜76年)について、「イギリス最大の哲学者といってもいいかと思う」(135頁)(注8)と記している点にもあてはまります。
 
 (注8)渡部は「イギリス」を、私の用法で言う「英国」の意味で使っている。ヒュームはスコットランド出身だ。

 しかし、グーグルで検索して出てくる、上位の英米のサイト4つを調べた(
http://plato.stanford.edu/entries/hume/(米):A、
http://atheism.about.com/library/glossary/general/bldef_hume.htm(米):B、
http://www.iep.utm.edu/h/humelife.htm(米):C、
http://en.wikipedia.org/wiki/David_Hume(英):D
(いずれも3月17日アクセス))範囲では、そのうちの一つ(A)が、「英語で書いた最も重要な哲学者であると一般に認識されている」と記しているだけで、残り三つは、そんなことは言っていません。
 それどころが、Cの一環であるサイト(
http://www.iep.utm.edu/b/berkeley.htm
。3月17日アクセス)は、ヒュームをロック(John Locke。1632〜1704年)、バークレイ(George Berkeley。1685〜1753年)(注9)とともに、18世紀における最も有名な英国の経験論者(Empiricist)として位置づけているにとどまります。

 (注9)アイルランド出身。ただし、父親はイギリス人。

 そこで今度は、偉大な哲学者リストの中にヒュームがどのように登場するかを調べてみました。
 まず、英国の偉大な哲学者28人のうちにヒュームが登場する(
http://atheism.about.com/library/FAQs/phil/blphil_bios_brit.htm(a)
。3月17日アクセス(以下同じ))のは当たり前でしょう。
 そして、欧米(West)の偉大な哲学者39人中の1人とされる(
http://www.philosophypages.com/ph/index.htm(b)
)(コラム#1697)のもまた不思議ではありません。
 ところが、ホッブス(Thomas Hobbes。1588〜1709年)やロックやバークレーとともに世界の偉大な哲学者9人中の1人とされる(
http://library.wustl.edu/subjects/philosophy/famous.html(c)
)一方で、ホッブス、ロック、ミル(John Stuart Mill。1806〜73年)、フェミニストのウォルストーンクラフト(以上イギリス)、法哲学のロールズ(John Rawls。1921年〜)(米国)を始めとする世界の偉大な哲学者11人中にヒュームは選ばれていません(
http://www.dwc.edu/library/famous_philosophers.shtml(d)
)。
 ちなみに、英国のペンギン社が選んだところの、偉大な哲学者ではなく、偉大な思想家20人(ただし、短編の名著をものしている人物に限る)(e)の中にもヒュームは挙げられていません(コラム#471)。

 以上から分かることは、ヒュームは、イギリス、ひいては英国の経験論の伝統(コラム#46)の中に位置づけられる哲学者群像のうちの重要な一人に過ぎない、ということなのです(注10)。

(注10)それにしても、この5つのリスト中、ウォールストンクラフトが、(b)、(d)、(e)の三つに登場することは、現在の米英においてフェミニズムが重視されているあらわれとして、われわれは心すべきだろう。

(続く)

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太田述正コラム#1696(2007.3.19)
<日本人のアングロサクソン論(続)(その3)>(2007.10.4公開)

 渡部氏は、「昔は特に常識的だったというわけではな<い>・・イギリス<であったところ、そのイギリスが>常識・・common sense・・誰でも持っているような判断力・・の国といわれるように」し(113頁)たのはウォルポールであり、「一般的な歴史の見方のみだと、華やかなことが何もないので見損ねる<が、>・・イギリス史の中でも重要な地殻変動というべきもの<を>起こ<した>」(126頁)傑出した政治家であったと主張しています。
 具体的には渡部氏は、「日々のことは日々に捌いてゆけばいいので、何が正義かということはうるさく議論することはない。毎日、事務処理をしていて、非常に事務の捌き方がスムーズだったものだから、戦争も起こらず金利も低く安定していたし、インフレもなかった、ということだったろうと思う」(134頁)とし、ウォルポールは、「<もともと>貴族ではな」かった(116頁)上「首相をやめる二日前<まで>貴族の栄誉を受けようとしなかった」(129頁)ことから下院の多数党を背景として特定の大臣が内閣を統括するという意味で「初めて首相といわれるものにな」り(116頁)、かつ「あまりプロの歴史家も強調しないことであるが、復讐心のあまりない人だった」(126頁)ことから「反対党<の>私有財産と命を保証した」(129頁)結果、「トーリー(王党派)とウィッグ(貴族党)という・・二大政党制へと自然に移行し」(130頁)、「内閣を組織したときに、・・方針という<も>のがな<く、>要するに、戦争をしなければいいだろうということで、条約は結ばない、他国の戦争には巻き込まれない、とこれだけを、その後21年間確実に守った」(117〜118頁)結果、「イギリス<は>世界一の金持ちにな<り>、フランスに対して優越感を持てるようになった」(120頁)というのです。

 しかし、これまで私が述べてきたことから、最後の点は、渡部氏の勝手な思いこみに過ぎない、ということはご理解いただけると思います。
 しかも、その他の点も、おおむね同様であろうことは、「一般的な歴史の見方のみだと・・見損ねる」とか、「思う」とか、「あまりプロの歴史家も強調しないことであるが」とかいった表現を乱発されていることから推測できます。少なくとも、これら表現が用いられた箇所について、私がこれまで読んできた英文の典拠で渡部氏のようなことを記しているものに遭遇したことはありません(注6)。
 
 (注6)もちろん、ウォルポールに関する渡部氏の記述中には、上には掲げなかったが、(田沼意次と比較しつつ、)ウォルポールの「腐敗」を問題視すべきではないといった、1987年当時としては斬新で鋭い指摘もあることは認めなければならない。今年に入ってからの英国人によるウォルポールの同趣旨の論評(
http://www.socialaffairsunit.org.uk/blog/archives/001380.php
。3月19日アクセス)参照。

 このあたりで、渡部氏のアングロサクソン論の根本的な問題点を挙げておきましょう。
 第一に、氏が本来は言語学者であるにもかかわらず、平気で「アングロ・ノルマン語」を「フランス語」とぼかした記述を行ったり、今度はcommon senseを「王様の首を斬ったり<といった>ラディカラルなこと」をしないことという意味で用いる(113頁)という誤りを犯し(注7)たりしていることです。

 (注7)ラディカルな米独立革命の理論的煽動書となったトマス・ペイン(Thomas Paine)の1776年の小冊子のタイトルがcommon sense であったことを思い出すだけでも、渡部氏の言葉に対する感覚の杜撰さは明らかだろう。そもそも、最終的にラディカルにも1649年に「王様の首を斬」ることにつながった1628年の権利の請願(Petition of Rights)の提出もまた、当時のイギリス人のcommon law 感覚、すなわちcommon senseに根ざすものだった(コラム#90)。

 第二に、日本史について論じる時と同じく、イギリス史を論じる時に、特定の人物の役割を過大視することは禁物であることを氏は分かっていないことです。
 何度も言及している英国の標準歴史書では、ウォルポールについて本文中には、彼が事実上最初の首相(1721〜1742年)になったという記述は全く出てこず、わずかに巻末の英国歴代首相一覧の最初に彼の名前が掲げられているにとどまります。
 それは、「首相」は当時はまだ議会対策、とりわけ下院対策だけをやっていればよかったわけではなく、国王・・ウォルポールの場合で言えばジョージ1世とジョージ2世・・の信任を得ることの方がより重要であったからです。内閣の一体性もまだ確立していませんでした。実際、ウォルポールが引退した1742年、ほとんどの重要閣僚がそのまま留任しています。
 二大政党制の確立にウォルポールが貢献したとする渡部氏の指摘にも首をひねらざるを得ません。彼の時代にはトーリー党の地盤沈下は著しく、取るに足らない存在になってしまったことから、その後、ホイッグ党の政権独占が続いたとしても不思議ではなかったからです。
 とにかく、ウォルポールは英国憲政史の発展にはほとんど寄与していない、というのが英国での一貫した「常識」なのです。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.bartleby.com/65/wa/WalpoleR.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Walpole
(どちらも3月17日アクセス)による。)

 第三に、これは渡部氏のしかもアングロサクソン論に限った話ではなく、日本の評論家のあらゆる論考に一般的に当てはまることですが、氏が一切典拠を示していないことです。
 これがどうして問題であるかは、きちんとした反論を行うことができないこと、等々を説明するまでもなくお分かりのことでしょう。

 第四に、これも渡部氏のしかもアングロサクソン論に限った話ではなく、日本の評論家一般にしばしば見られることですが、一つの本、一つの論考の中で、互いに相矛盾すること無神経にも主張されていることです。
 渡部氏は、「平和主義の弊害」を力説し、「クエーカーの平和至上主義が第一次大戦を招来」し、「チェンバレンの国際平和主義が第二次世界大戦に走らせた」と力説しています(204、205、209頁)。ところが、その一方で氏は、ウォールポールの孤立主義、非戦主義については、当時の英国に経済的繁栄をもらたしたとして、手放しで礼賛しています(118頁)。
 しかし、これでは著しく一貫性に欠けると言われても仕方がないでしょう。
 少なくとも渡部氏は、平和主義の弊害がどうしてウォルポールの時代には生じなかったのか、その理由を説明すべきでした。
 私には、ウォルポールの引退直後の1745年に、フランスに亡命していた(ジェームス2世の孫の)ボニー・プリンス・チャーリー(Bonnie Prince Charlie)のスコットランドを根城にした叛乱によってすんでのところでハノーバー朝が倒されそうになった(コラム#181、1136)のは、ウォルポールが軍事力、就中陸軍力の整備を怠ったことも原因の一つだと思えてならないのです。

(続く)

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太田述正コラム#1695(2007.3.18)
<日本人のアングロサクソン論(続)(その2)>(2007.10.3公開)

 (3)イギリスに対仏劣等感があった?

 さて、皆さんが混乱するのが目に見えていますが、渡部氏がこの本を執筆した当時参照した可能性がある英国の標準歴史書の The Oxford Illustrated Historry of Britain, Oxford University Press, 1984 は、1066年以降13世紀末まで、「教育程度の高いイギリス人は、母国語である英語を身につけていたほか、少しばかりのラテン語の知識と身につけており、しかも流ちょうなフランス語を話した」と、あえてアングロ・ノルマン語をフランス語とぼかして記述しています(PP107)。
 そうしないと話が長くなる、という配慮もあるのでしょう。
 しかし、渡部氏の場合、「フランス語」が一時期イギリスの公用語になったということが、後で「イギリスの対フランス、対大陸への劣等感」(116頁)を語り、しかもその「劣等感を消した男」としてウォルポール(Robert Walpole。1676〜1745年)を持ち上げる(116頁以下)ための伏線の一つとなっているからこそ、私は、重箱の隅をつつくようだと言われることを覚悟で問題提起をしたのです。

 そもそも、イギリスに全般的な対仏劣等感があったという話は寡聞にして私は知りません。
 確かに、上記標準歴史書自身、「ノルマン・コンケスト(The Norman Conquest)以降、イギリスは、エルサレム王国がそうであったように、海外におけるフランス、Outremerの一つとなったと言っても過言ではない。13世紀初頭までは政治的にはフランスの植民地(ただし、フランス王室の植民地ではない)となったし、それ以降も文化的植民地であり続けた」(PP107〜108)と記しており、特に地中海世界から、多くはフランスから入ってきたロマネスク様式やゴシック様式がイギリスの教会建築に決定的な影響を与えた、としています(PP107)。
 しかし私に言わせれば、これは波風を立てることを回避するための、イギリス流の韜晦なのです。
 私は、以上申し上げたぼかした記述や韜晦ができるのは、イギリス人がフランスに対して確固たる優越感を抱き続けてきたからこそであると確信しています。
 11世紀末から13世紀初頭のイギリス人が、支配者たるノルマン人に対して鬱屈した感情を抱いていたことは間違いないとしても、イギリス人は過去何度もバイキングの侵攻・移住・支配を経験してきており、ノルマン人に対してもどちらかと言えば身内意識を持っていたと考えられる上、ノルマン人自身、形の上で臣従していたフランス王室に対し、さほどの忠誠心があったとは思えず、いわんや劣等感を抱いていたとは思えません。ですから、被治者たるイギリス人だってフランス王室に象徴されるフランスなるものに劣等感を抱いていたとは到底考えられないのです。
 もとより当時のイギリス人は、建築、美術、ファッション、料理、音楽等、宮廷文化に淵源を持つところの、広義の芸術(art)の分野ではフランス、ひいては欧州大陸に対して劣等感を抱いていたでしょうが、それは現代においても全く変わっていません。
 他方、ずっと以前に(コラム#54で)ご説明したように、アングロサクソン時代からイギリスは、経済的に欧州地域と比べて抜きん出た豊かさを誇ってきましたし、政治的には欧州地域には全く見られないところの、コモンローと議会主権(注4)に裏打ちされた自由を享受してきました(コラム#90、#1334)。

 (注4)1066年、イギリス国王のエドワードが死ぬと、イギリス議会(Witan)は全くエドワードと血縁関係のない実力者ハロルド(Harold 2。1020?〜1066年)を国王に選出した。これに対し、ノルマンディー公ウィリアムが、自分こそエドワードから後継者に指名されていたと異議を唱えたわけだ。(標準歴史書PP102)

 しかも、イギリス人は自分達は軍事的にも卓越していると思ってきました。
 英仏百年戦争の際、イギリス軍が、クレシー(1346年)、ポワティエ(1356年)やアジンクール(1415年)の戦いで、3倍から6倍の仏軍と戦い、相手に20倍から100倍の損害(戦死者と捕虜の計)を与えたことは特に有名ですが、フランス人の方でも、14世紀の文人フロワサールが、「イギリス人は、戦さに強い国王か武器や戦さを好む国王でなければ崇敬し、お追従しようとはしなかった。彼らの地イギリスは、平時よりも戦時の方が富に満ち溢れたものだし、イギリス人は(富をもたらしてくれる)戦闘と殺りくに無上の快感を覚える」と語っているところです(拙著『防衛庁再生宣言』日本評論社 203〜204頁)。
 ですから、現在のイギリス人がフランスに対して優越感を抱いている(注5)ように、11世紀末から13世紀初頭のイギリス人だって、フランスに対して優越感を抱いていたに違いないのです。

 (注5)例えば、一昨年11月、TVディレクターとおぼしき英国人が、英デイリーメール紙に掲載されたコラムで、「どうしてフランス人は恥ずかしげもなく感情的に、毎年革命記念日にシャンゼリゼを仏陸軍に気取って行進させるような形で、フランスとかフランスの栄光とかを表明せざるをえないのだろうか。それは彼等は、二級の国々に対してこそ、軍事的勝利をおさめたことはあったかもしれないが、この1,000年間にわたって、大リーグであるイギリスにまみえる都度、粉砕され続けてきたからだ。・・<しかも、>われわれが今フランスと呼ぶ地域の過半は中世の大部分の期間、誰あろう、イギリスによって、立派に統治されていたことを付け加えておかなければならない」と記している。(
http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/news/news.html?in_article_id=369777&in_page_id=1770
。3月17日アクセス)

(続く)

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太田述正コラム#1694(2007.3.17)
<日本人のアングロサクソン論(続)(その1)>(2007.10.2公開)

1 始めに

 まだ、最初のシリーズが完結していませんが、日本のアングロサクソン専門家によるアングロサクソン論の月旦に入ります。

2 渡部昇一

 (1)始めに
 最近、ある読者が、渡部昇一氏の『アングロサクソンと日本人』(新潮社1987年)を引用して投稿をされたことに触発されて、前から気になっていたこの本を読んでみました。
 「今の北ドイツに住んでいたゲルマン民族の部族・・アングル、サクソン、ジュート族・・がイギリスに渡ってきて住みついた」(14頁)、「<だから、>昔のドイツ語と昔の英語の関係は、近代における英語とアメリカ語の関係にたいへん似ているといってもよかろうと思う。」(49頁)といったくだりは、もはや正しくない(コラム#1687)わけですが、1987年時点の本ですからそれは仕方がないとして、それ以外で私が若干違和感を覚えたことのいくつかを、以下に記します。

 (2)英語は一時姿を消した?
 
 最初は、いささか技術的なお話です。
 渡部氏は、ノルマン公(Duke of Normandy)ウィリアム(William 1=William the Conqueror。1027〜1087年)のイギリス征服によって、フランス語がイギリスの公用語になり、英語は300年近く・・正確には1066年から1362年まで・・姿を消した、と記しています(63〜64頁)。
 しかし、これは本来英語学者である筆者にしては、いささか雑駁に過ぎる記述です。
 より正確なところをお教えしましょう。
 
 まず、11世紀当時にはまだ標準フランス語は成立しておらず、ラテン語のガリア地方における方言であるガロ・ロマンス(Gallo Romance)語の、これまた各種方言が、後にフランスの版図となる地域等で並立して用いられており、その内の一つがノルマンディー地方にその100年ほど前に侵攻したノルマン人が用いていた言語でした(注1)。

 (注1)ウィリアムの母方のいとこである、アングロサクソン朝最後の国王エドワード懺悔王(Edward the Confessor。1004?〜1066年)は、9歳の時に彼の父のエセルレッド(Aethelred)が死去し、以後王位を継ぐまでノルマン公国で過ごした。だから、彼はアングロ・ノルマン語も身につけていた可能性が高い。

 しかも、この言語には、かつてバイキングであったノルマン人のゲルマン系の単語が多数混入していました。
 この言語は、後にアングロ・ノルマン語(Anglo Norman)(またはアングロ・フランス語(Anglo French))と呼ばれることになります。

 イギリスを征服したノルマン人は、アングロ・ノルマン語を用い続けたのですが、300年経たずして、被支配者の言語である英語を、原住民のみならず彼等まで用いるようになります。
 このことは、17世紀前後から始まる400年内外のイギリス(後に英国)による支配ですっかりアイルランド島から原住民のケルト系の言語が姿を消してしまい、アイルランド共和国が英国から独立してからもケルト系の言語が全く復活していないことと比べて、一見不思議に思えます。

 しかし、これは不思議でも何でもありません。
 第一に、ウィリアムは、イギリス王位の正当な継承者として、あえて大部分の布令をラテン語または英語で発布しました(注2)し、そもそも、イギリスの法制度に変更は加えたものの、ノルマンの法制度で置き換えたわけではなかったことです。

 (注2)ただしその後、布令や法律、裁判の判決等が、ラテン語に代わってアングロ・ノルマン語で行われるようになる。

 第二に、1066年以降のノルマン人のイギリスへの移住はせいぜい2万人程度であり、当時のイギリスの人口の1.3%に過ぎなかったことです。
 そこで、13世紀初めにイギリス国王のジョン(John)がノルマンディー公国を失ったこともあり、その頃にはノルマン系貴族の間でもアングロ・ノルマン語はほとんど用いられなくなったのです。
 そして、1362年には、行政(議会を含む)及び司法の場で話し言葉としては英語を用いなければならないとする法律が成立するのです(注2)。

 (注2)しかし、この法律がアングロ・ノルマン語で書かれていたことからも分かるように、イギリスの行政及び司法の場における書き言葉としては、アングロ・ノルマン語、後には(15世紀に成立した)標準フランス語がその後も生き続け、司法の場でフランス語が完全に使われなくなるのは、実に1731年になってからだ。

 むしろ、ノルマン系貴族の間で、かくも長く話し言葉としてアングロ・ノルマン語が用いられ続けたことの方が不思議だと言わなければならないのです。

 アングロ・ノルマン語が用いられ続けたのは、一つには、ノルマン貴族が、なかなか原住民のイギリス人と通婚しようとせず、また、通婚するようになってからも、プライドにかけて、原住民の言語である英語を習得しようとはしなかった(注3)からであり、また彼等が、何世代にもわたってフランスにも領地を維持し続け、この間、日常的にフランスとイギリスとの間を行き来し、更にこれに関連して、フランスからイギリスへ住民の移住も行われていたからなのです。 
 (以上、
http://www.chass.utoronto.ca/~cpercy/courses/6361Heys.htm
http://www.anglistik.rwth-aachen.de/de/lehrstuehle/anglistik2/projekte/middleages/articles/Language/french.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Norman_language
(いずれも3月17日アクセス)による。)

 (注3)1066年から1120年頃までの間に、アングロ・ノルマン語から英語に採用された言葉は約900にとどまっているが、15世紀までには、約1万語のアングロ・ノルマン語や(後に標準フランス語となる)パリ地方のフランス語方言が英語に採用されている。こうして英語は古英語(Old English)から中英語(Middle English)へと変化した。ちなみに、アングロ・ノルマン語が使えない最初のノルマン朝の英国王はヘンリー4世(Henry 4。1367〜1413年)だ。

(続く)

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太田述正コラム#1692(2007.3.15)
<日本人のアングロサクソン論(その3)>(2007.9.30公開)

 これから先は、学者ではなく、金融界の第一線で活躍してこられたお二人のアングロサクソン論についてです。

4 実務家のお二人

 (1)有澤沙徒志氏

 まず、有澤沙徒志『日本人はウォール街の狼たちに学べ』中経出版1998年 から。

 「とにかくアメリカ人が「これだけは絶対にしっかりヤル」というのが休暇である。・・新年早々の仕事始めというと、ウォール街ではどこの職場もやることは皆同じ。何よりも大切な休暇の<年間>予定表づくりである。」(156頁)

→この点も、有事即応の在日米軍であれ、「常に平時」の自衛隊であれ、同じです。
 在日米軍も自衛隊も、有給休暇はばっちりとります。
 もちろん、本当の有事のただ中にある在イラク米軍もそうです。せっかくうまくやっていたペトラユースの陸軍部隊を本国で休ませて交替で休暇をとらせるためにイラクから引き揚げて別の陸軍部隊を送り込んだために、すべてを台無しにしてしまった話をした(コラム#1641)ことを覚えておられるでしょう。
 命をやりとりする軍隊は本来こうでなくてはいけません。
 日本の旧軍、特に帝国陸軍はそうではありませんでしたが・・。

 「日本では、リストラというと不景気を連想するが、アメリカでは、好景気であろうとそれをやる。・・アメリカの場合、会社を成立させているのは株主で、株主が誰よりもエライわけだから、会社側はリストラをすることで効率を上げ、利益率を増すという方法で株主を惹きつけているのである。」(49〜50頁)、「お金の循環機能におけるアメリカの銀行の役割は、日本の銀行と比べるとはるかに小さい。・・<しかも、>アメリカの個人資産に占める銀行預金の比率<は>、年を追うごとに確実に減少していった」(72、92頁)

→これは、軍隊になぞらえるわけにはいきません。後で取り上げます。

 (2)高木哲也氏

 次に、高木哲也『日本とアメリカのビジネスはどこが違うか』草思社1999年 です。
この著者には、『謝らないアメリカ人 すぐ謝る日本人―生活からビジネスまで、日米を比較する』草思社1996年 という、かなり評判のよい本もある(
http://www.amazlet.com/browse/ASIN/4794207301/
。3月15日アクセス)ようですが、何せ、このシリーズで私がご紹介している本は、経費節約のため、すべて経営コンサルタントの友人の書架にあった本から適宜借りてきたものなので、ご理解のほどを。

 「アメリカの企業によく見られる経営スタイルは、0か1か、イエスかノーか、白か黒かという、「デジタル的発想」をベースにしているのにたいし、日本企業のマネージメントには、多くの場合、ものごとの継続性を重視し、左右や黒白のどちらとも割り切れない部分を大切にしようとする「アナログ的思考」が強くはたらいている。」(21頁)、「アメリカでのコンピュータライゼーションは、・・省力化もさることながら、人間の介在がまちがいのもとになりやすいという人間観、機械観、システム観も、その促進に作用したのではなかろうか。アメリカ企業では一般に、ファイリング・システムも日本企業のそれにくらべると一日の長があるが、それも、人の出入りがはげしいということとともに、人には依存しにくいアメリカ社会の体質ないし風土によるところもあると思える。」(170頁)、「アメリカ企業・・は、「ポリシーズ・アンド・プロシージュアス」と呼ばれる執務規定を定め、誰がなにを決める責任権限をもつかを明文化し、意志決定ルールを明確にしていることが多い。「ポリシーズ」とは行動を起こすためのガイドライン、「プロシージュアス」とはそのための具体的な手続きのことである。・・<これ>とならんで重要なものに、「ジョブ・ディスクリプション」と呼ばれる文書がある。一般に「職務記述書」と訳されるものだ。個々の従業員が担当する一つひとつの仕事について、その職務の目的と輪郭、責任範囲、権限、社内外の人びととの関係、評価項目とその内容、必要な技能などを明文化したものである。」(13〜14頁)、「アメリカ企業に執務・職務のマニュアル化が浸透するようになったのには、つぎの三つのことが考えられる。第一に、アメリカ社会が言語や風習などバックグラウンドの異なる他人種、多民族から成り立っているということがある。・・第二に、・・転職があたりまえという雇用構造のもとで、ルールの文書化は必須なのである。第三に、ホワイトカラーの業務の効率化、生産性の追求がある。・・この三つの要因の背後には、「仕事とは個人と会社との契約関係」ととらえるアメリカ人に共通した企業観、職業観がある。」(15〜16頁)

→最後のオチの部分はともかくとして、基本的にはこれらも軍隊の特性です。
 軍隊の場合、職務記述書に該当するものはありませんが、職種ごとに階級に応じて「その職務の目的と輪郭、責任範囲、権限、社内外の人びととの関係、評価項目とその内容、必要な技能など」が明確に「明文化」されています。しかも軍隊は徹底したマニュアルの世界です。
 どうしてそうなるかは、考えてみれば当たり前であって、有事においてはアトランダムに戦闘損耗が発生し、その都度当該部隊に関しては全くの新参者が速やかにその穴を埋める必要があり、その新参者にオンザジョッブトレーニングを施し「暗黙知」を共有させる時間的猶与などないからです。

 「アメリカ企業の従業員は大別すると、「エグゼンプト」と「ノン・エグゼンブト」とに分けられる。エグゼンプト・・は「タイムカード」を推すことを免除されている「月給制社員」を、後者は「タイムカード」を押さければならない「時間給で、残業や休日出勤の手当もつく人」のことだ。」(133〜134頁)

→軍人には超過勤務手当の概念はなじまないが、エグゼンプトとノン・エグゼンプトの区別は将校と下士官の区別に対応していると見ることができます。兵卒は、パートタイマーといったところです。

 「97年2月から98年1月までの12か月間に全国の企業が使った交際費の総額は5兆3089億円で、これまでのピーク時(92年)の6兆2000億円とくらべると14.4%減少した。しかし、なおGDP(国民総生産)の1%を上回る・・。一方、・・1988年のアメリカ企業の交際費総額は円換算で1兆4000億円・・にすぎなかった。」(173頁)、「<ちなみに、>総経費に占める交際費の割合が高い業種は、アメリカでは法律事務所、会計事務所、コンサルティング会社などの専門的サービス業である。日本では「先生」ともちあげあれて接待されることが多いこれら職種の人たちが、アメリカでは「クライアント(依頼人)」にたいするプロフェッショナル・サービスの提供者として、熾烈な競争のもとでクライアントをもてなす場面が少なくないのだ。これも文化のちがいと言えるかもしれない。」(177〜178頁)、「日本の企業は基本的になんでも社内で研究し検討したうえで意志決定に結びつける傾向が強いのにたいし、アメリカでは・・社外の専門機関・・<に>法務、税務、経営上の問題などに関するアドバイスを・・求める」(184頁)、「「苦しいときはじっと耐え忍んで、みんなでパイを分かちあおう」というような考え方は、アメリカではきわめて通用しにくい。「苦しくなったら、外的環境の変化に合わせてサイズを縮め、残った人たちにはむしろ昇給して励まし、前向きの気持ちにさせる」というアプローチのほうが、アメリカ人の精神風土には合っている。」(189頁) 

→これも軍隊になぞらえるわけにはいきません。すぐ後で取り上げます。

(続く)

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太田述正コラム#1690(2007.3.13)
<日本人のアングロサクソン論(その2)>(2007.9.29公開)

 糸瀬氏は、この本の中で、次のようなことをおっしゃっています。
 →の後に記されているのは私見です。

 「優勝劣敗のアングロサクソン型経済の行き着くところは、拝金主義と成功至上主義であり、その過程で貧富の差は極大化し、弱いもの、能力のないものは淘汰されていく・・市場原理を受け容れるということは、まさにそういうことなのです。・・それでもアングロサクソン型経済の光の部分の効用の方が大きい」(43〜44頁)、「アングロサクソン型経済システムに普遍性があるといっても、じつは、つい数年前までは、アメリカの投資銀行のなかだけの話でした。ところが、かつては投資銀行業務においてアメリカ勢と「対峙」していたドイツやスイスの大手金融機関が、それまでの「大陸型(欧州型)の経営システム」をほぼ完全に放棄し、このアングロサクソン型経営システムを、一斉に移植しはじめたのです。」(59〜60頁)

→どうやら、アングロサクソン式企業・・私見では軍隊式管理企業・・は、超時代的に、あるいはすべての産業、もしくはすべての場所で光の部分の効用が大きいわけではなさそうですね。

 「その会社にいる人間が、そこに物理的に一緒にいるのは、共通の目的を達成するためであり、一緒に生活するためではありません。すなわち、会社は「目的集団」であり、「生活集団」ではないのです。・・<そう>である以上、そこでは見事な「公私の区別」が行なわれています。」(29頁)、「日本の会社においては「公」の部分の個人評価に、「私」の部分の評価や噂、その他仕事とはなんの関係もないような情報までもが、ことごとく影響を与えてしまう」(73〜74頁)、「アングロサクソンの会社においては、上司が部下の私生活について、父親的な立場でアドバイスをしたり、あるいは干渉するといったことは皆無です。また部下の方も、プライベートな悩みを上司に聞いてもらおうなどとは思っていません。」(78頁)、

→軍隊、特に有事における軍隊は、命のやりとりに従事しているのであり、個々の将校や兵士の私の部分にかかずらわっているわけにはいかないことはお分かりでしょう。

 「日本の会社における経営会議(たとえば常務会など)の場合を考えると、ほとんどの重要案件は、経営会議の前の段階での「周到な根まわし」によって、あらかじめ結論が決まっています。そして根まわしの段階で働く力学は、政治的(人事的)力学であり、その会社が「目指すべき経営」というものを客観的に見据えたものではありません。全会一致が美徳とされ、会議の席上、公然と大勢に逆らうことは、それがたとえ論理的な発言であっても疎まれます。これでは、・・経営会議は完全に形骸化してしまい、変革や革新は生まれません。」(87頁)

→参謀(=幕僚=staff)は軍隊で生まれた職務であり、将校は、参謀が務まるように、目的合理的な思考をして、論理的な意見具申を行うように、幹部学校の指揮幕僚課程(CGS。旧軍の陸軍大学にあたる)で徹底的に教育訓練されます。

 「<アングロサクソンの会社の>組織<は>フラット<であり、>情報伝達の速さ、正確さという点で驚くほどの効果を発揮します。」(105頁)

→軍隊では、指揮官の所にいかに迅速に広汎な情報があがるかが勝敗を決するカギです。

 「アングロサクソンの社会では、たとえば金融産業の場合を考えてみると、たとえ名門金融機関に就職したとしても、そのこと自体は、その人になんの価値も与えません。彼が一人前として認められるのは、たとえば債券トレーディングのプロ、デリバティブのプロ、企業セールスのプロ、というふうにそれぞれの専門分野において、それなりの市場価値を有するプロになってからのことです。」(91頁)、「<アングロサクソンの会社では、>それぞれの現場で一流のスペシャリストとして名を成・・した<人物>に、たまたまリーダーシップやカリスマ性、さらに経営管理能力(マネジメント・スキル)や外部との交渉能力が備わっていた「結果」、社長や会長の職に就いてい<く>のです。」(113頁)、

→軍隊の将校も兵士も、歩兵・火砲・戦車といった特定の職種の専門家としてスタートを切るのであって、下士官まではジェネラリストはいません。将校だけは、将軍(general!)以上になって初めてジェネラリスト(generalist)が出現します。

 「採用にあたっては、人事部は一定の役割を果たしますが、・・現実の採用決定は、・・実質的に分社化されている・・各部門の現場のスペシャリスト・・による数度のインタビューを経たあと、最終的には各部門の最高責任者に託されています。・・入社後の昇進・昇給も・・一目瞭然に数字で表現され<た>・・個人の業績がとことん反映され<た形で>・・現場に一任され、人事部の出る幕はほとんどありません。」(109頁)、

→私が防衛庁に入った頃(1970年代初頭)の陸上幕僚監部は、米国の陸軍のやり方をマネて、職種の名前を冠した課が陸上幕僚長に直結する形で沢山設けられており、職種の将校の人事は、事実上それぞれの課が行っていました。

 「<金銭的業績が出るわけではない、例えば>投資銀行における・・調査部門の・・アナリストやエコノミストなど<については、>クロス・エバリュエーションという「相互評価」の仕組み<があります。>・・<これは、>「彼のおかげで、どれぐらいの顧客ビジネスが獲得できたか」・・「・・どれぐらいのトレーディング収益が上がったか(または、損失を回避できたか)」・・をもっとも良く知る立場にある現場の人間、すなわちセールスマンやトレーダー・・が、・・エコノミストの成果についての評価を行なうというメカニズム・・です。」(118頁、127〜128頁)、「この考えを究極まで発展させたのが、「360度人事評価システム」と呼ばれるものです。・・360度とは、文字どおり上下左右の方向を示しており、人事評価が、上司、同僚(複数部署)、部下の四方向から行なわれるというものです。・・<この>360度人事評価システムは、・・その客観性と透明性ゆえに、その結果が、評価される人にも受け容れられる・・のです。」(129、130、140頁)

→いやーなつかしい。私は若い頃(1970年代末)に陸上自衛隊の将校の人事を担当したことがありますが、陸上自衛隊が、まさにこの360度人事評価システムをやっていました。 今にして思えば、これも米陸軍からの直輸入だったのでしょう。

 とまあ、こんなわけで、糸瀬氏のおっしゃることもまた、私にとっては、すべてかつての職場における旧聞に属するのであって、全然面白くありませんでした。

(続く)

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太田述正コラム#1689(2007.3.12)
<日本人のアングロサクソン論(その1)>(2007.9.27公開)

1 始めに

 私が自分のアングロサクソン論の発信を積極的に始めてから、早くも6年経ちましたが、読者の皆さんの中から、同じようなことを他の人も言っているよ、というご指摘が出てこないところを見ると、私の見解はかなりユニークであるようですね。
 これは、必ずしもうれしい話ではないのであって、ひょっとすると、私の見解は箸にも棒にもかからない誤りである可能性があります。
 もちろん、私自身は自分の見解が誤っているとは思っていませんが・・。
 さて、今まで余りやったことがないのですが、これまでの日本人のアングロサクソン論の月旦を試みることにしました。
 日本人のアングロサクソン論といっても範囲が広いので、まずは経営学的な観点からのアングロサクソン論から始めましょう。

2 橋本久義教授

 橋本氏は、元通商産業省技官、埼玉大学教授を経て現在政策研究大学院大学教授をされている人物です。
 たまたま目にした同教授のコラム、「外資系の企業倫理はこんなに厳しい」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20070226/119785/
。3月9日アクセス)の要旨は次のとおりです。
 なお、橋本氏は、○○社という外資系企業の話をされているのですが、外資系企業イコール米国系企業とみなし、橋本氏はアングロサクソン論を展開されている、と勝手に解釈させてもらいました。

 外資系○○社では、入社するとすぐに、役員だろうが普通の社員だろうが、「○○社の倫理規定に従います。反した場合には解雇されても異議を唱えません」という誓約書にサインする。日本の会社でも誓約書にサインするということはあるが、○○社は2年に1度これをやる。
 その内容だが、例えば「私は会社の秘密を外部に洩らしません」という項目がある。日本と違うのは、「よその会社の秘密を聞きません」という項目があることだ。要するに談合に対してものすごく厳しく考えているのであって、米国では同業者の会合には必ず弁護士を立ち合わせて、談合のような事実がないように監視する。
 倫理規定には、「法令違反であるようなテーマが議題になったら、それに対して、『その議論をしてはいけません』ということを議長に対して言いなさい」とも書いてある。「もし、会議メンバーがその話をやめないならば退場しなさい」とも書いてある
 更に、「我が○○社の機械を買ってくれたら、貴社の何かを買います」とか「おたくに委託します」という、いわゆる相対取引は絶対やっちゃいけないとも書いてある。この規定に違反した社員がいて当然クビになったが、その上司も責任をとらされてクビになったという。
 はたまた、顧客からの贈答品は決してもらってはいけない、どうしても拒否できなかった場合は会社に持参せよ、会社の方で送り返す、という規定もある。
 残業に対する考え方も日本の会社とは全く違う。○○社では残業しないことに価値があるのであって、評価の基本は、「あなたがやっている仕事を、何時間かけて完成させたか」だ。だから、残業を減らす。○○社に入った時に成績を上げるために部下に残業をどんどんやらせて人物は怒られたという。

 さあ、これを読まれてどう思われましたか。
 私には、面白くも何ともありませんでした。
 ○○社は米軍や自衛隊そっくりだからです。
 大変失礼ながら、戦後育ちの日本人の通弊で、橋本氏も軍隊のことを全くご存じないな、という感想を私は持ちました。
 軍隊においては、将校や兵士が敵(企業の場合で言えば、競争会社や購入/販売相手)に内部情報を漏らすことは厳禁ですし、敵と通謀するなどということはもってのほかです。
 また、市民生活においては許されないところの、殺傷等を主たる仕事にしているだけに、将校や兵士は逆に規則でがんじがらめにされています。
 そして軍隊においては効率性・効果性が重視されるのであって、むやみやたらに敵を殺傷すればよいというわけではなく、敵の戦意をくじいたり敵を制圧するため以上の殺傷は控えますし、自分達の側の損害やコストを最小に抑えるようにも努めます(注1)。

 (注1)自衛隊は、各幕僚監部こそ、日本の中央官僚機構とお付き合いしなければならないことから、残業が普通だが、部隊へ行けば、5時には一斉に勤務棟から人影が消える。在日米軍は、司令部も含めて、4時半には勤務棟の大部分の灯りが消える

 つまり、アングロサクソン式企業とは、(全世界共通であるところの、)軍隊式の管理を行っている企業なのです。

3 糸瀬茂教授

 以上のことを念頭に置いて、糸瀬茂宮城大学教授が助教授時代に上梓された『アングロサクソンになれる人が成功する――なぜ彼らのビジネス・スタイルが最強なのか』(PHP研究所1998年)を俎上に載せて見ましょう。
 なお、糸瀬教授(1953年〜)は、第一勧業銀行に入行し、同行から派遣されてスタンフォード大学でMBAを取得し、その後ソロモン・ブラザース・アジア証券、DBモルガン・グレンフェル証券(東京支店副支店長)、長銀総合研究所研究員などを経て宮城大学助教授となり、教授に昇格されてから2001年になくなられています(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E7%80%AC%E8%8C%82
。3月12日アクセス)。

(続く)

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太田述正コラム#1687(2007.3.10)
<アングロサクソンの起源>



 (本篇は、情報屋台用のコラムを兼ねています。)



1 始めに



 昨年、オックスフォード大学のオッペンハイマー(Stephen Oppenheimer)教授(
http://www.bradshawfoundation.com/stephenoppenheimer/
)が、 The Origins of the British: A Genetic Detective Story, Carroll & Graf という劃期的な本を上梓し、遺伝子学(Y染色体(Y-chromosomes )とミトコンドリア(mitochondrial) DNAの分析)にのっとり、言語学・考古学・古文献をも参考にしつつ、アングロサクソンの人種的・語学的起源論におおむね決着をつけました。
 この本で展開されている教授の説をご紹介しましょう。
 なお、オッペンハイマー教授は、現代人類は、東アフリカから、せいぜい数百人が旅立ち、北アフリカとそれ以外の全世界に散らばって行ったと主張した『エデンの東(East of Eden。1998年)』や、白色人種(Caucasoids)はインド亜大陸の北西部から西ユーラシア大陸へ、黄色人種はインド亜大陸の北東部から東ユーラシア大陸・オセアニア・太平洋・アメリカ大陸・グリーンランドへと散らばって行ったと主張した『本当のイブ(Out of Eden/The Real Eve)』を書いたことで有名な学者です。
(全般的に、
http://www.nytimes.com/2007/03/05/science/05cnd-brits.html?_r=1&hp=&oref=slogin&pagewanted=print
(3月6日アクセス)、
http://www.nytimes.com/2007/03/06/science/06brits.html?pagewanted=print
(3月7日アクセス)(以上の二つの書評は、タイトルは違うが中身は同一)、
http://www.amazon.co.uk/Origins-British-Genetic-Detective-Story/dp/1845291581
http://www.bradshawfoundation.com/origins_of_the_british.html
http://www.prospect-magazine.co.uk/article_details.php?id=7817
http://en.wikipedia.org/wiki/Stephen_Oppenheimer
http://www.telegraph.co.uk/connected/main.jhtml?xml=/connected/2006/10/10/ecbrits10.xml
http://www.wilsoncenter.org/index.cfm?fuseaction=wq.essay&essay_id=216048
http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/news/news.html?in_article_id=440748&in_page_id=1766&ito=1490
http://ml.ci.uc.pt/mhonarchive/archport/msg01018.html
(以上、3月10日アクセス)によっ。)



2 オッペンハイマーの説



 氷河時代には現在のブリテン諸島のあたりは、氷河で覆われて人間は南方に待避したため、4,000年間にわたって誰も住んでいなかったが、氷河期が終わりかけた約16,000年前から約7,500年前にかけて、現在のイベリア半島から、バスク(Basque)系の人々が、まだ陸続きであった英仏海峡を通って(まだ諸島に分かれていなかった)ブリテン諸島のあたりへ、三々五々戻ってきた。
 この段階では、彼等は狩猟採集生活を送っていて、(印欧語族に属さない)バスク系の言葉を用いていた。
 次に、約6,000年前から約3,700年前にかけて、(既に約7,500年前に)英仏海峡によって大陸から隔てられたブリテン諸島へ、船で、南フランスから北スペイン経由で、ケルト人が農業を携えてアイルランド島及び大ブリテン島西岸に渡来した。
 渡来したケルト人の数は少なかった(注1)が、農業とケルト系の言葉がこれらの地域に普及した。



 (注1)遺伝子分析を行うと、ケルト系は、北ウェールズの人々の約三分の一、残りの大ブリテン島の人々の10%未満(うち南岸の人々の10%)を占めているが、アイルランド島の人々のわずか4%を占めるに過ぎない。だから、アイルランド島の人々はケルト系とは言えない。



 その後しばらくしてからローマの侵攻以前までの間に、ベルギーあたりから、ベルガエ(Belgae)というゲルマン系の人々が少数、大ブリテン島の東部沿岸と南部沿岸に渡来し、これら地域にゲルマン語の一種のベルガエ人の言葉が普及した。これと平行して、スカンディナビア地方から同じくゲルマン系の人々が、大ブリテン島の東部(のシェットランドからアングリアにかけて)に渡来した(注2)。彼等の間にもまたベルガエ人の言葉が広まった(注3)。



 (注2)遺伝子分析を行うと、この時期に渡来したゲルマン系は、大ブリテン島の東部及び南東部の人々の10??19%を占めている。
 (注3)これが英語であるわけだが、どうしてベルガエ人の言葉がイングランド全体に普及したのかは、今後の解明を待ちたい。なお英語は、ゲルマン語の三つの系統中の西ゲルマン語(ドイツ語・オランダ語)から派生したのではなく、ゲルマン語の独立した四番目の系統であると認識すべきだ。いずれにせよ重要なことは、英語は、アングル・サクソン・ジュート人が持ち込んだ言葉ではないことだ。だから、ローマが侵攻した時点では、イングランドの人々は既に英語を用いていたことになる。



 遺伝子分析を行うと、現在のアイルランドの人々の88%、ウェールズの人々の81%、コーンウォールの人々の70%、スコットランドの人々の70%、イングランドの人々の68%がバスク系の人々であることが分かる。つまり、ブリテン諸島全体では、約四分の三の人々がバスク系であり、うちイングランドでは、約三分の二の人々がバスク系だということだ。
 バスク系の人々より後でブリテン諸島に移住ないし侵攻してきたグループは、いずれもそれぞれ5%以下のウェートしか占めていない。
 最新の説によれば、4世紀に、アングル・サクソン・ジュート人(=アングロサクソン人。ただし、その大部分はアングル人)は大ブリテン島の総人口が約200万人であったところにわずか約25万人がやってきたにすぎない(注3)。また、1066年のノルマン人の侵攻に至っては、せいぜい約1万人の規模でしかない。
 しかし、この説ですら、アングル・サクソン・ジュート人(アングロサクソン人)のウェートを過大に見ている。私見では、彼等はブリテン諸島の人々の5%しか占めていない。(ただし、アングル人が最初に住み着いたノーフォークのいくつかの地方では15%を占める。)累次のバイキングの侵攻でブリテン諸島に住み着いた人々のシェアの方が大きいくらいだ。
 だから、アングロサクソン人は実はアングロサクソン人(=イングランド人≒(ウェールズ人を含んだ)イギリス人)ではなかったし、英語(=イングランド語)もアングロサクソン語ではなかった、という舌をかみそうな話になる。



3 感想



 人種的に同じなのに、アイルランド等の人々が、自分達はケルト系であるという(誤った)認識から、イングランドの人々と400年にわたって角突き合わせてきたのは馬鹿みたいな話ですね。
 やはり、言語こそ文化・文明の核心部分であり、アイルランド等の人々の間にケルト系の言語が普及し、イングランドの人々の間にゲルマン系の言語が普及したことが、悲喜劇の始まりだったということなのでしょう。
 ところで、両者の祖先はどちらも基本的にはバスク系であったわけですが、現在のバスクの人々は、自分達以外の文化や言語には目もくれない、頑固で柔軟性に欠ける人々である(アマゾン前掲)というのに、アイルランド等とイングランドの人々は実に柔軟ですね。
 これは恐らく、遠路はるばる歩いてブリテン諸島のあたりにやってきたのは、バスク系の人々の中でも進取の気性に富んだ人々であったからでしょう。
 結論的に申し上げれば、イングランドの人々の大半は印欧語族に属さないバスク系を祖先としているところの、(バスク地方を除く)欧州大陸の人々とは全く異質な人々であり、その彼等がゲルマン系の言語・文化を継受したことによって、化学反応が起こり、アングロサクソン文明が生誕し、その文明が現在、グローバルスタンダードとなって、世界を覆っている、ということになるわけです。

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太田述正コラム#1349(2006.7.20)
<アングロサクソンはやはり純粋ゲルマン人だった?>(有料→公開)

 (これは有料版です。)

1 始めに

 以前(コラム#379で)、「イギリス人はアングロサクソンではなく、アングロサクソン文化(ゲルマン文化)をとりいれた・・先住民」であることがロンドンのユニバーシティ・カレッジの研究で判明した、と申し上げたところですが、同じユニバーシティ・カレッジの、別の研究者を始めとするチームが、このたび、正反対の、つまりは伝統的な通念に沿った見解を打ち出し、英国で話題になっています。
 (以下、特に断っていない限り
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/5192634.stm。(7月19日アクセス)、及び
http://blogs.guardian.co.uk/news/archives/2006/07/19/ancient_britons_lose_out_to_german_blood.html#more
(7月20日アクセス)による。)
 この二つの研究は、どちらもY染色体に着目して行われたものであり、一体どちらが正しいのか、困ってしまいますが、とにかくこの「新しい」学説をご紹介しましょう。

2 「新しい」見解

 紀元410年以降、5世紀から7世紀にかけてイギリスで、わずか1万人から20万人しか大陸から渡来しなかったと考えられているアングロサクソンが、200万人前後いたと考えられている先住民のブリトン人に、数百年ないし15世代の間に完全にとってかわり、言語もゲルマン系一色になった(注1)のがなぜかはこれまで大いなる謎だった。

 (注1)現在のイギリス人(英国人ではない!)のY染色体(chromosome)の50??100%はゲルマン系のものだ。

 今回打ち出された新しい見解によれば、アングロサクソンは、その経済的・軍事的優位から、ブリトン人に比べて成人にまで至る子供の割合が多かった。また、アングロサクソンもブリトン人も互いに通婚することを避けた。
 更に、アングロサクソンは、法的にブリトン人を一種のアパルトヘイト下に置き、差別していた。
 例えば、史料(例えば、7世紀のthe laws of Ine(注2))によれば、アングロサクソンが殺された場合に遺族に支払われるべき血債(blood money= Wergild)(注3)は、ブリトン人の場合の2??5倍だった。

 (注2)Ineは、7世紀から8世紀にかけてのアングロサクソン諸王国の一つウェセックス(Wessex)の国王。成文法を制定したアングロサクソン国王としては二人目。この法の制定により、ウェセックスは中央集権化を実現した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ine_of_Wessex。7月20日アクセス)
 (注3)血債は、元々は、6世紀末から7世紀初にかけて諸王国が成立してイギリスが平穏になった頃、アングロサクソン同士で殺人が起こった場合に延々と続いた復讐の連鎖を断ち切るために導入されたもの
http://www.millennia.demon.co.uk/ravens/context.htm。7月20日アクセス)。

3 呼びかけ

 関心を持たれた方は、ぜひ、この「新しい」見解の詳細(コンピューター・シミュレーションを駆使したもの。http://www.pubs.royalsoc.ac.uk/media/proceedings_b/papers/RSPB20063627.pdf)を直接参照され、冒頭に掲げた私の当惑を解決していただきたいと思います。

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太田述正コラム#13042006.6.18

<アングロサクソンによる20世紀以降の原住民虐待(その3)>

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 7月8日のオフ会は、確定的に参加する旨表明された方がこれまで一人もおられないので、中止します。

 さて、このことと、必ずしも論理的につながることではありませんが、総合的な検討の結果、本コラムの読者層のこれ以上の拡大は見込めない状況だという結論を下すに至りました。

 よって、7月から本コラムを以下のような有料制に切り替えることにします。

 これまでのご愛顧・ご愛読に感謝します。

                  記

 私(ohta@ohtan.net)に有料講読する旨の申し込みメールを送っていただいた上で、私の返信メールに従い、みずほ・三菱東京UFJ・三井住友、の私名義の口座のいずれかに私人であれば5,000円、法人であれば2万円を振り込んでいただいた方に対してのみ、7月から本年末までコラムを配信します。(7月以降に送金された方(到着ベース)には、7月1日付からのコラムのバックナンバーを併せてお送りします。)

 ただし、コラム執筆・送付の最低保証数は、月間30篇とします。

 なお、ホームページの時事コラム欄には、コラムのタイトルとコラムの概要のみを掲げることにします。ただし、他の有料媒体に発表された拙稿は発表後できるだけ早い時点に全文をコラムとしてホームページに転載することとし、この分を含め、月4回以下のペースでコラム全文をホームページに掲載します。また、6ヶ月以上経過したコラムもホームページに転載することを考えています。ブログについても同様の扱いにするか、この際ブログを閉鎖するかは、ブログスペース提供者の島田さんのご判断にお任せしたいと思います。

 本名等を明かしたくない方や海外在住の方等で別のやり方での支払いをご希望の方は、そのご希望内容を私宛メールやホームページの掲示板上でお教え下さい。

 ただし、6月末日までに有料講読申し込みがゼロであった場合は、6月末日をもってコラムの執筆・送付は中止します。また、11月末日までに上記購読料受領額が25万円(個人50人相当)に達しない場合は、本年末日をもって、やはりコラムの執筆・送付を中止するつもりです。

 (来年もコラムの執筆・送付を継続する場合は、基本的に同じやり方を考えていますが、12月初頭にコラム上等でお知らせします。)

 この論説は、ガザ誤射(?)事件が本当にイスラエル軍の誤射によるものであるかどうか(注3)は、本質的な問題ではない、と主張します。

 (注3)6月9日(金。金曜は休日)の午後、ガザの海岸の砂浜でパレスティナ人親子達がピクニックをしていたところに爆発が起こり、3人の子供を含む8人(内7人は同一家族)が死亡し、30人以上が負傷した。パレスティナ側は、その頃ガザに向けてイスラエル軍が、この数ヶ月間、(ハマス以外の)パレスティナ過激派によるイスラエル領内への年1,000発ペースの手製ロケット攻撃に対処するため、ロケットが良く発射される畑や果樹園めがけて定期的に155ミリ砲を射撃しており、その弾のうちの一つが当たったと主張し、イスラエルのオルマート首相も一旦遺憾の意を表し、イスラエル軍も本件の調査中間射撃を中止することにしたが、ハマスはイスラエルとの事実上の休戦を破棄するに至り、イスラエル領内への手製ロケット攻撃を始め、イスラエル領内で数名の負傷者が出ている。

     しかし、イスラエル軍は13日、調査の結果を、9日に6発の砲弾を死亡者が出た場所から250メートル離れた地点に向けて打ち込んだところ、1発は目標をそれたが、この1発が原因であるとは考えられない、なぜなら、イスラエル領に運び込まれた負傷者等から検出された破片はイスラエル軍の砲弾の破片ではなく、砲弾が着弾すればできる穴が砂浜にできておらず、また、目標をそれた一発は少なくとも砂浜で爆発が起きた時間より9分以上前に発射されているからだ、と発表した。

     これに対し、英米の専門家や新聞の中から、疑問の声が出ている。

     (以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/5065982.stm(6月10日アクセス)、http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/5074792.stm(6月14日アクセス)、ワシントンポスト上掲、及びhttp://www.guardian.co.uk/israel/Story/0,,1799825,00.html(6月17日アクセス)による。)

 そもそも、一般住民がピクニックをするような場所から250メートルしか離れていない場所からイスラエル領内めがけてロケット攻撃をするのは、仮に攻撃が成功してイスラエルの一般住民から死傷者が出れば、欧米等は何も言わず、パレスティナ側は攻撃成功を祝うことができ、仮にイスラエルによってこの攻撃が事前につぶされ、あるいは攻撃後に反撃をくらったとしても、それに伴ってパレスティナの一般住民から死傷者が出れば、イスラエルが欧米等から非難される、という住民を楯にした卑劣な戦術だ、とこの論説は主張するのです(注4)。

 (注4)この論説が最も問題視するのは、パレスティナ側が政治的決着を図ろうとせず、最大限要求・・イスラエルの存続否定・・の実現を60年間一貫して求めてきたことだ。イスラエルはガザから完全撤退したというのに、パレスティナ側はこれを喜ぶどころか、それ以降もガザを対イスラエル・ロケット攻撃基地として使って恬として恥じないことを、この論説は非難している。

 この論説は事実上、非正規戦(ジュネーブ条約に定める、戦闘員としての公示を行っていない者を用いた戦争)を正規軍に対して挑んだ側・・ゲリラやテロリスト・・は、この正規軍による住民の虐待(虐殺を含む)をコラテラルダメージとして甘受しなければならない、と主張しているわけです。

 このような考え方からすれば、ハディサ事件の下手人の米海兵隊員らを咎めることはできないことになります。

4 所見

 私もこの政治的弁護論に惹かれます。

 ハディサ事件をとりたてて問題にしていないイラクのマスコミもそう考えているのではないでしょうか。

 ただし、この政治的弁護論に立ったとしても、あの1937年のいわゆる南京事件での日本軍の支那人殺害のすべてが許されるということにはなりません。

「南京を守備していた中国兵の多くが制服を脱ぎ捨て、私服に着替えて南京市内・・の一般中国住民の中にまぎれこん・・だことを日本軍が(恐らくスパイ行為として)とがめて、彼らやその協力者を捜索し、処刑した・・こと<とそれに関連した>一般中国住民の虐殺」は許されるとしても、「正式な捕虜の虐殺や<スパイ行為と無関係な>一般中国住民の虐殺」は許されるものではないからです。(括弧内はコラム#253

 いずれにせよ、南京事件に関し、当時とりたてて日本側に抗議しなかった国民党政府(典拠失念)や中国共産党(http://www.nytimes.com/2006/03/15/international/asia/15letter.html?_r=1&oref=slogin。3月16日アクセス)は、国際法についても住民保護についても、何の関心もなかったのではないかと言われても仕方がないでしょうね。

(完)

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太田述正コラム#13032006.6.18

<アングロサクソンによる20世紀以降の原住民虐待(その2)>

(本篇は、コラム#1293の続きです。)

3 米国における住民虐待弁護論とその批判

 (1)始めに

 住民虐待、就中住民虐殺が起こった時、下手人達に対し、米国ではいかなる弁護論が出るのでしょうか。

 ハディサ事件(コラム#1293)に関し、情状酌量論と違法性否定論が出ています。

 アイルランド独立運動に対し、政府の暗黙の同意の下で平然と住民虐殺を行うイギリス人は、米国人のこんな法的弁護論とも言うべき弁護論は一笑に付すのではないでしょうか。いやいや、米国人だってホンネでは政治的弁護論とも言うべき弁護論を展開したいところなのでしょう。イスラエル軍がガザで誤射により住民虐殺を行ったとされる事件(ガザ誤射()事件。後述)を米国人が弁護した論説からそのことが分かります。

 以下、順次ご説明しましょう。

 (2)情状酌量論

 これは、ハディサ事件の下手人が故意犯であるとすれば、その違法性は認めつつも情状酌量を求めるものです。

 つまり、通常の倫理感覚を持っている人間でも、権威ある命令には従いがちであり(注2)、仲間集団への同調性があるため、相手が人間以下だと思うと残虐な行為を行いがちである、ということを勘案すべきだというのです。

 (注21961年にエール大学の心理学者のミルグラム(Stanley Milgram)が行った有名な実験がある。彼が被験者達に対し、物理的懲罰が学習に及ぼす効果を計測すると説明し、対象たる人々(実際にはミルグラムの助手達)に対し、(実際には助手達は電気ショックが加えられたように演技するだけなのだが)電気ショックを加えるように依頼したところ、大部分の被験者達は、助手達が悲鳴を上げ、止めてくれと懇願してもおかまいなしにどんどん電気ショックを強めて行った。

 すなわち、ハディサ事件については、米海兵隊員達には、上司達からは不穏分子を捕縛するか殺すように猛烈な圧力がかけられ、仲間集団からは、決して弱みを見せず、亡くなった仲間の復讐をしようという圧力が加えられ、イラク人は見てくれが違うし異なった言葉をしゃべるし違った世界に住んでいることから当然のように人間以下に見えてしまう、というわけで、残虐行為が行われるための要件が全て充たされていたと考えられる、というのです。

 かてて加えて、イラクにおいては、敵の素性や場所が分からず、米軍兵士達に若者が多い、という悪条件が重なっていたのだから、残虐行為はいつ起こっても不思議でない状況だった、というのです。

 このような議論をつきつめると、部下達に誰それを捕縛するか殺すように猛烈な圧力をかけるのであれば、イラクの紛争地域のように(米国の牢獄並に(?!))危険な環境においては、適切な行動基準等について、上司達が明確、かつ一貫したメッセージを執拗に発し続けていない限り、上司達も部下達が犯した残虐行為について一半の責任を免れない、ということにもなります。

(以上、ロサンゼルスタイムス掲載の評論家論説http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-brooks9jun09,0,5099651,print.column?coll=la-news-comment-opinions(6月10日アクセス)による。)

 (3)違法性否定論

ハディサ事件の下手人達の弁護士達は、そもそも海兵隊員達が行った行為は交戦規則に完全に合致しており、全く違法性がない、という違法性否定論を主張しています。

すなわち、海兵隊員達は、路傍の爆弾を爆発させた犯人が家の中に逃げ込んだのを見て追いかけたところ、犯人側から射撃されたので、家に向かって射撃をした上で中に踏み込んで射撃を続け、更に犯人の一人らしき者が裏から別の家に逃げ込んだように思われたので、その家についてもおなじことをしただけだ、というのです。

 住民達の射殺体の写真から、至近距離から処刑スタイルで撃たれている、とされていることについても、死体の解剖をしない限り本当のところは分からないはずだが、住民側は、解剖を拒んでいる、というのです。

(以上、ロサンゼルスタイムス掲載の記者論説http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-marines12jun12,0,1437628,print.story?coll=la-home-world(6月13日アクセス)による。)

 (4)政治的弁護論

 ガザ誤射(?)事件(後述)で誤射したとされているイスラエル軍側を弁護するワシントンポスト評論家論説(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/06/15/AR2006061501794_pf.html。6月16日アクセス)は、典型的な政治的弁護論を展開しています。

(続く)

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太田述正コラム#12932006.6.13

<アングロサクソンによる20世紀以降の原住民虐待(その1)>

1 1920??21年の英国によるアイルランド人虐待

 今年のカンヌ映画祭では、パルム・ドール(大賞)が英国人のケン・ローチ(Ken Loach)監督の「大麦をゆらした風(The Wind That Shakes the Barley)」に与えられました。この映画は、アイルランド人が英国に対し独立闘争を行っていた1920??21年の当時、いかに英国当局がアイルランドの住民を手荒に扱ったかを描いています。

 この映画が大賞を受賞するや否や、まだ英国で封切りもされていないのに、英タイムス・テレグラフ・サン・デーリーメールの各紙は、ローチ監督を反英的であるとして批判する映画評を載せました。

 しかし当時、英国当局の現地治安維持部隊(Royal Irish Constabularythe Auxiliary division)の要員がアイルランド人の自宅にやってきては、非武装の住民を射殺したり銃剣で突き殺したりしたのは事実です。また彼らが、アイルランド人の群衆に向かって一斉射撃を行ったり、手榴弾を投げ込んだりしたのも事実ですし、街中でアイルランド人をたたきのめしたり、彼らの住宅やオフィスに放火したりしたことも事実なのです。更に彼らによって、アイルランド人の囚人達が拷問されたり殺されたりしたこともまた事実なのです。

 しかも、これらの虐待は、英国の中央政府の役人や政治家によって黙認されていただけでなく、中央政府の指示を受けて行われたものさえあるのです。

 例えば、独立派による襲撃事件が起きた場所の近くに住む住民が、事前にそのことを当局に注進しなかった場合は、その住民の家を取り壊してもかまわないことが法的にも認められていました。

 当時、英陸軍省の作戦課長は、陸軍相であったチャーチル(Winston Churchill)に、「<アイルランド住民に対する>無差別報復は、大変な反発をアイルランドで生む」と抗議し警告したのですが、チャーチルは聞く耳を持ちませんでした。

(以上、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,,1791176,00.html(6月6日アクセス)による。)

英国による原住民虐待としては、その後、1953年から60年にかけて行われた、ケニアの原住民(キクユ族)に対するものがあり、以前(コラム#363364で)触れたことがあります。

2 現在進行形の米国によるイラク人虐待

同じアングロサクソンの米国が、19世紀末から20世紀初頭にかけてフィリピンを植民地化する過程で甚だしい原住民虐待を行った(コラム#366)ことは良く知られています。

その米国は、対イラク戦後のイラクで原住民虐待を行っているという批判を何度となく投げかけられてきました。

つい最近も、イラクのバグダッド西部のアンバール(Al Anbar)県にある人口9万のユーフラテス河沿いの町ハディサ(Haditha)で昨年1119日の朝、道路脇にしかけてあった爆弾が爆発し、仲間の一人が死亡すると、米海兵隊員達は、付近の民家に次々に侵入し、小銃を住民に撃ちかけ、女子供や赤ん坊、そして身体障害者の老人を含む住民24名を死に至らしめた、いわゆるハディサ事件が明るみに出て、米国民にショックを与えましたハディサ事件が、本当に海兵隊員達による意図的な殺人であったかどうかは、今後の調査の結果を待たなければなりませんが、対イラク戦直後の2003年に起こったイラクのアブグレイブ収容所での米軍による収容者虐待事件やベトナム戦争の時の1968年に起こった米軍によるソンミ村ミライ地区での住民虐殺事件等を彷彿とさせますね。

米軍によるイラク住民虐待事件のうち、明るみに出るのは氷山の一角だと考えるべきでしょう。

なぜなら、イラクの住民、特にスンニ三角地帯内のイラク住民は、戦闘・テロ・犯罪等で死亡者が毎日のように出ていることもあり、死亡者が出るような虐待事件であっても、ほとんど不感症になってしまっているからです。

ですから、アブグレイブ虐待事件が、イラク人によってではなく、米軍内の内部通報者によって明るみに出たように、ハディサ事件も、イラク人によってではなく、英タイムスの調査報道によって初めて明るみに出たのです(注1)。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-haditha1jun01,0,5572152,print.story?coll=la-home-headlines(6月2日アクセス)による。)

(注1)明るみに出た現在でも、ハディサ事件をイラクのメディアはほとんど取り上げていない。これは、現在のイラクのメディアには、スンニ派に同情的でないシーア派系のものが多いことと、スンニ派のみならずシーア派の間でも米国の評判は地に堕ちており、今更一つや二つ米軍によるイラク人虐待事件が明るみに出たとて、ニュース性が大してないからだと考えられている。

(続く)

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太田述正コラム#12562006.5.25

<アングロサクソン論をめぐって(続x3)(その3)>

 この手の論考は、イギリス人の間では常識的な共通認識・・アングロサクソン文明は世界の頂点に位置し、欧州文明も、その他のもろもろの文明同様、一段と低い野蛮な文明である・・をイギリス人たる筆者とイギリス人たる読者が密かに再確認し合い、ほくそ笑み合うのが目的なのです。内々のエールの交換だ、と言ってもいいかもしれません。

 そんな身内同士の密かな楽しみのために、イギリス人以外の人々、とりわけ一衣帯水の位置関係にある欧州の人々、を怒らせてしまうようなことは愚の骨頂であり、避けなければなりません。

 そこで筆者は、意図的に論理構成を無茶苦茶にすることによって、欧州の人々に具体的な攻撃材料を与えないようにしているのです。

欧州の人々は、イギリス人が自分達を野蛮人視していることをうすうす感づいているし、この論考がこのようなイギリス人の欧州観を記したものであることも何となく分かるけれど、筆者は、プライドが高い欧州の人々が、明確に侮辱的文言が記されているわけではない上に論理構成も無茶苦茶である論考であれば、怒りを飲み込んであえてイチャモンはつけないことを知っているのです。

3 18世紀の欧州に起こったことは何だったのか

 では、18世紀の欧州を席巻した新思潮の正体は一体何だったのでしょうか。

 前から私のコラムを読んでこられた読者にはお分かりでしょうが、私は、その新思潮とは民主主義独裁の理論であり、この理論のつくったのはスイス出身のフランス人、ルソーであると考えています(コラム#646671)。また、今まで申し上げたことはありませんが、この理論を初めて実践に移したのがフランス人革命家のロベスピエール(Maximilien Robespierre1758??1794年)であると考えています。

 実のところ、以上はイギリス人の考えでもあるのです。

 このことを、イギリス人の手になるロベスピエール論を例にとって検証しましょう。

 少し古いところでは、英百科事典ブリタニカの1911年版(http://en.wikipedia.org/wiki/Maximilien_Robespierre。5月25日アクセス)

が、ロベスピエールについて、次のように言っています。

 「何千人もの他のフランス人の若者と同様、彼はルソーの著作を読んでそれれらを聖書(gospel)のように受け止めていた。この幻想が人生の現実によって破壊されるされる前に、そしてくだらない(idle)夢や理論の愚かしさ(futility)を教えてくれたかも知れない経験を積まないまま、彼は国会(states-general)議員に選出されてしまった。・・その彼は・・パリのジャコバン・クラブで彼に耳を傾ける(彼と同様の)ルソーの使徒達と出会う。・・彼は自由主義的見解と実際的本能(liberal views and practical instincts)を身につけていなかった。・・致命的な過ちは、<彼のような>理論家に権力を持たせたことだ。・・<その結果が>恐怖政治(terror)<だった。より正確に言えば、始まりつつあった>恐怖政治を、ロベスピエールは、自分の考え(ideas)と理論を実行に移すために増幅したのだ(intensified)。」

 上梓されたばかりの、イギリス歴史学者スカー(Ruth Scurr)によるロベスピエールの伝記、Fatal Purity: Robespierre and the French Revolution のイギリス人女性作家による書評http://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,,1779041,00.html。5月20日アクセス)を見ても、イギリス人のロベスピエール観は変わっていません。

 「彼が学校で学んだ<古代>ローマ共和国の政治的理念(ideals)、及び発禁図書だがベストセラーだったルソーの諸著作・・が一緒になって、ロベスピエールの、社会的平等と正義の理念に対する深く確固たる信念が形成された。・・彼は野心家で高度の自負心があった。・・後の1930年代のドイツにおけるヒットラーのように、彼が個人的に追求していたもの(theme)と時代のそれとが合致した。・・<こうして>ロベスピエールと共和国は一つに合体し、暴君(tyrant)となり、・・革命の敵であるとの嫌疑をかけられただけで、死刑を宣告されても不思議ではない体制が生まれたのだ。」

4 エピローグ

 これまで累次申し上げてきたことと大幅にオーバーラップしますが、ここで私が考えるところのイギリス人のホンネの近現代欧州観を改めてまとめておきましょう。

 先進国イギリスに劣等感をいだき、このイギリスに追いつき、追い越すにはどうすべきかを欧州で初めて考えたのが18世紀のフランスの知識人だった。

 しかし、ヴォルテールのように、イギリスの政治経済システムを直輸入することによって近代化を図れと説いた人々は主流とはならず、最終的に勝利をおさめたのは、欧州的な考え方を生かして近代化を図れと叫んだルソーだった。

 欧州的な考え方とは、古代ローマないしカトリシズムに由来する合理論的・演繹的な考え方・・理論ですべてを割り切ろうとする・・だ。これに対し、イギリス的な考え方は、ゲルマンに由来する経験論的・帰納的な考え方・・理論と現実のフィードバックを重視する・・だ。

 ちなみに、合理論的・演繹的な考え方を徹底させると無神論となる。これに対し、イギリス人は生活の知恵的な自然宗教観を抱き続けてきた。

 イギリス的な考え方は改革と妥協的政治をもたらし、欧州的な考え方は革命と恐怖政治、つまりは野蛮な民主主義独裁をもたらした。

 民主主義独裁の理論を打ち立てたのがルソーであり、この理論を初めて実践に移したのがロベスピエールのジャコバニズムだ。そしてこのジャコバニズムの発展型がナポレオンのナショナリズムであり、レーニンのマルクスレーニン主義(共産主義)であり、ムッソリーニやヒットラーのファシズムなのだ。

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太田述正コラム#12552006.5.25

<アングロサクソン論をめぐって(続x3)(その2)>

 そもそもこの論考の筆者が、代表的な啓蒙思想家として、ロックのほか、ヒューム、スミスとヴォルテールを挙げたところにトリックがあります。

 なぜなら、ヒューム、スミスの二人はスコットランド人ではあるものの、ヒュームは成人になってからというもの、基本的にイギリスのロンドンで生活を送ったからであり(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0。5月24日アクセス)、スミスは、なるほど生涯の大部分をスコットランドで過ごしたものの、青年時代の6年間を(結局卒業はしなかったけれど)オックスフォード大学の学生として送り、ヒュームとも親交があったhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9。5月24日アクセス)からです。

 つまり私は、ヒュームもスミスも、イギリス化したスコットランド人であった、と言いたいのです。

 フランス人のヴォルテールはどうか。

 彼は、イギリスで亡命生活を送り、爾来極めつきのイギリスかぶれになり、ためにフランスに帰国してからもしばらくの間はフランスの人々に白眼視された人物です(http://en.wikipedia.org/wiki/Voltaire。5月24日アクセス)。

 何ということはない。ロックはもちろんのこと、ヒュームもスミスも、そしてヴォルテールも、イギリス的な思想家なのです。

 イギリス文明(アングロサクソン文明)は経験論的(反合理論的)文明であるとともに、(非キリスト教的とまで言うと語弊があるとすれば、)非カトリック的な有神論的文明なのであり、イギリス化したヒュームやスミスが経験論的であったり、ヴォルテールが有神論的であったりすることは当たり前なのです。

この論考は、啓蒙運動にはフランス型・スコットランド型・イタリア型・ドイツ型の四つがあり、それぞれが微妙に違っていた、と主張しており、それはその通りかもしれません(注1)が、この四つの間に違いがあったとしても、そんな違いより、この欧州の四つ啓蒙運動の思想とイギリス的な思想の違いの方がはるかに大きい、と言わざるを得ません。

(注1)例えば、ヴォルテールとは全く違う考え方を持っていたルソーがフランス型啓蒙運動の典型と言われれば、そうかな、と思う。

 このイギリス的な思想は、到底イギリス型の啓蒙運動といった範疇でとらえることはできません。

イギリス的な思想は、啓蒙思想とは決定的に異なっている上、基本的に18世紀に生まれたこととされている啓蒙思想・・だからこそ啓蒙「運動」と呼ばれる・・とは違って、大昔からイギリスに存在していたからです。

 だからこそ、この論考の筆者は、イギリス型の啓蒙運動なるものを論考の中で登場させなかったのです。

ここまでご説明すれば、この論考が、啓蒙運動なるものは、19世紀に18世紀以前を振り返って「発明」された概念であり、欧州が生み出したもう一つの運動(価値観)であるファシズム・・二度にわたる人類史上最も破壊的な戦争を生み出し欧州の評判を地に堕とした・・に対抗し、欧州の名誉を回復すべく1930年代に確立し、1950年代に再確立された欧州固有の概念である、と結論づけた趣旨はお分かりですね。

イギリス文明(アングロサクソン文明)と似ても似つかない欧州文明は、ファシズム・・ここでは、ナショナリズムや共産主義も含めた民主主義独裁を総称していると考えられる・・だけしか生み出せなかった野蛮な文明であって、啓蒙運動なるものがかつて欧州に存在した、というのはフィクションにほかならない、と言っているのです。

どうしてこの論考はかくも手が込んでいるのか、より端的に言えば、どうしてかくも論理構成が無茶苦茶なのか、についてももうお分かりでしょうが、念のため、ご説明しておきましょう。

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太田述正コラム#12542006.5.24

<アングロサクソン論をめぐって(続x3)(その1)

 (本稿は、同じタイトルの「続」(コラム#1157)、ないし「続々」シリーズ(コラム#11611165、未完)の続きです。「続々」シリーズの完結編ではないのでご注意。)

1 文明の頂点に位置するイギリス人

 狡猾なのか奥ゆかしいのか、イギリス人がお国自慢をすることはめったにないのですが、先般、(実は結構辛口であるものの、)例外的な論考(http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,,1762640,00.html。4月29日アクセス)に出っくわしたので、ご紹介しておきます。

 「英国の政治家は全員、英国の人々の寛容(tolerance)・穏健(moderation)・全般的礼譲(general decency)に敬意を表することが期待されている。いかなる見解の相違があろうとも、われわれが固執するのは、われわれが地球上で最も紳士的にして文明化された人々であることだ。・・・<前首相の>ジョン・メージャーはイギリスが「クリケット場の長い影、暖かいビール、比類なき緑の郊外、犬愛好家、プール愛好家(pool fillers)の国であると夢想した。また、<アンチ・ユートピア小説「1984年」の著者である>ジョージ・オーウェル(George Orwell)は、イギリスを「年老いた女中達が朝の霧の中を自転車に乗って教会(Holy Communion)に向かう」イメージでとらえた。こんな人々がイギリスの丁重さ(civility)に誇りを持っていることなど信じがたいけれど、彼らは多分誇りを持っているのだ。」

 若干韜晦されてはいますが、私が、イギリス人は、アングロサクソン文明を頂点とする階層的文明観を持っている、ということがお分かりいただけるのではないでしょうか。

2 「啓蒙運動」を見下すイギリス人

 次に、もう少し手の込んでいる論考(http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,,1750610,00.html。4月10日アクセス)をご紹介しましょう。

 これは、イギリスと欧州を一括りにして論じるフリをしながら、実はイギリスと欧州を峻別して、後者を見下している、というよくあるタイプの論考なのです。

 この論考は、欧州の啓蒙運動(European Enlightenmentとは、一般に「西側の(western)世俗的民主主義の諸原則を生み出した人類史上の他に例を見ない出来事だ。全ての科学的発展、理性の重要性、宗教的寛容、法の支配、合理性(rationality)、世俗国家、人権の進展、及び無神論、はこの知的歴史における枢要なる時期にその淵源を有する。」と定義されているとした上で、代表的な啓蒙思想家としてヒューム(David Hume。スコットランド。スコットランドはイギリスではないことに注意(太田))、ヴォルテール(Voltaire。フランス)、ロック(John Locke。イギリス)の三人を挙げています。

 ここでは、イギリスは欧州の一員であって、イギリスにも有力な啓蒙思想家がいた、と言っているわけです。

 ところが、この論考は次に、上記定義は狭すぎる、と言い出します。

 スコットランドのヒュームやアダム・スミス(Adam Smith)は、合理論(rationalism)者ではなく反合理論(anti-rationalism)者ないし経験論(empirical approach)者であったし、主要な啓蒙思想家には無神論者はいなかったのであって、例えばヴォルテールは無神論者ではなく有神論者(deist)であったというのです。

 いつの間にかロックが消え失せてしまったことにお気づきですか。

 そしてこの論考は、啓蒙運動にはフランス型・スコットランド型・イタリア型・ドイツ型の四つがあったとし、それぞれが微妙に違っていたと続けています。

 ここにも、イギリス型の啓蒙運動は登場しません。

 最後にこの論考は、啓蒙運動なるものは、19世紀に18世紀以前を振り返って「発明」された概念であり、欧州が生み出したもう一つの運動(価値観)であるファシズム・・二度にわたる人類史上最も破壊的な戦争を生み出し欧州の評判を地に堕とした・・に対抗し、欧州の名誉を回復すべく1930年代に確立し、1950年代に再確立された欧州固有の概念である、と締めくくっています。

 この論考をわれわれはどのように読み解けば良いのでしょうか。

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太田述正コラム#11652006.4.5

<アングロサクソン論をめぐって(続々)(その2)>

 宗教の弾圧と政治的/世俗的宗教の誕生によって、一旦トドメを刺されたかに見えたカトリック教会は、その後見事に息を吹き返す。

 カトリック教会の蘇生は以下のような過程をたどった。

 カトリック教会蘇生のきっかけをつくったのはナポレオン(Napoleon Bonaparte1769??1821年。フランス皇帝:1804??14年・1815年)(私のコラムには無数に登場する。例えば#983985参照)だ。

 彼は権力亡者の無神論者だったが、その言に「私はカトリック教徒になることによってヴォンデ(Vendee)の戦いに勝利することができ、イスラム教徒になることによってエジプトで支配を確立することができた。もし私がユダヤ人を統治しようと思ったら、ソロモンの神殿を建設するだろう」とあるように、宗教の有用性を理解していた。

 だからナポレオンはカトリック教会を復権させ、法王臨席の下に執り行われるローマ皇帝としての戴冠式を挙行したのだ。(ただし、法王の手によってではなく、自らの手で冠をかぶった。)

 次いで法王ピオ(Pius)9世(1792??1878年。法王:1846??78年)は、それぞれかつては異端であった法王無謬性ドグマ(dogma of papal infallibility)と処女マリアの処女懐胎教義(doctrine of the Virgin Mary's Immaculate Conception)を公式化することによって、法王権力の強化と大衆へのカトリシズムの再浸透を図った。

 またこの法王は、自ら策定した1864年誤謬綱領(Syllabus of Errors)の第39条で、「国家が全ての権利の源であって、いかなるものによっても規制されない権利を与えられている」という教義を誤りであるとした。

彼の後継者であるレオ(Leo13世(1810??1903年。法王:1878??1903年)は、より簡潔に「国家なる偶像崇拝(idolatry of the State)」をこきおろした。

 更にレオ13世は、1891年のRerum novarum回状(encyclical)において、資本主義における「雇用主達の冷酷さと野放図な競争なる強欲さ」を痛罵するとともに、返す刀で、共産主義について、その「心地よい夢」は実は「落魄と退化という共通の状況への全員の下降」を意味する、と非難した。

  要するにレオ13世は、欧州を、法王が全欧州の盟主であったプロト欧州文明的な時代へと発展的に回帰させるべく、国家主義的な政治的/世俗的宗教であるナショナリズムや(いまだ出現してはいなかったが)ファシズム、及び反国家主義を標榜する(ものの結局は国家主義に堕してしまう)政治的・世俗的宗教である共産主義の双方を攻撃するとともに、一方でアングロサクソン文明由来の資本主義をも攻撃したのだ(注8)。そして彼は、これらに代わるものとして、官僚的福祉主義の一類型たるコーポラティズム(corporatism政府の経済政策の決定や執行の過程に企業や労働組合を参加させる考え方や運動)を推奨した。

 (注8)昨年亡くなったヨハネ・パウロ(John Paul)2世(コラム#149172175336686688)が、ソ連とそして後には米国を、どちらも無法者と批判したのは、彼が蘇生したカトリック教会の嫡流であることを示している。

第一次政界大戦において、これは偉大なるキリスト教文明の集団自殺であるとして、法王庁が、中立を維持しつつ、その早期収束に向けて努力したのは、カトリック教会が蘇生した現れだったのだ。

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太田述正コラム#11612006.4.3

<アングロサクソン論をめぐって(続々)(その1)>

 (コラム#1142で登場した、読者の小坂亜矢子さんからのメールを、私のホームページの掲示板に転載してあるのでご参照下さい。ご返事はいずれ。)

1 始めに

「欧州における、18世紀のフランス革命に始まる民主主義的ナショナリズムのうねりの思想的根拠を与えたのは、・・スイス人・・ルソーの「社会契約論」でした。・・欧州における(フランスやドイツの)帝国主義的ナショナリズム、(ドイツで生まれ、ロシアに移植され、先の大戦後欧州東部に押しつけられた)マルキシズム、(ドイツやイタリアでの)ファシズムといった同工異曲の粗暴な全体主義イデオロギーの跋扈及び、うち続く革命・戦乱並びにその度ごとの社会の荒廃が、<その>論理的帰結でした。・・<すなわち、>欧州文明<の源は>スイス<であり、他方>アングロサクソン文明の源<は>イギリス<であるところ、この欧州・アングロサクソン>両文明のせめぎあいが世界の近現代史を形作ってきた<の>です。」と、拙著は別にして、私が最初に指摘したのは、コラム#61においてでした。

 同じことをコラム#100ではより簡潔に、「ナショナリズム、共産主義、ファシズムと続く民主主義独裁の考え方<、すなわち欧州文明のイデオロギー>のイデオローグが・・ルソーであ<り>、民主主義独裁が世界で最初に・・成立した<のは>フランス<で>した。」と申し上げたところです。

 上記指摘中、ルソーに関わる部分については、典拠を示して論じたつもりですが、それ以外の部分については、典拠を探していたところ、適当な本・・英国のドイツ史家バーレー(Michael Burleigh)による“Earthly Powers: The Conflict Between Religion and Politics From the French Revolution to the Great War(注1, HarperCollins”(英国ではOctober2005、米国ではFebruary2006に出会ったので、この本の中から、私の指摘を裏付ける箇所を紹介することにしました(注2)。

(以下、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/2006/04/02/books/review/02lilla.html?pagewanted=print(4月2日アクセス。以下同じ)、http://www.newstatesman.com/Bookshop/300000105041http://www.nrbookservice.com/products/BookPage.asp?prod_cd=c6881http://blog.lewrockwell.com/lewrw/archives/009304.htmlhttp://search.barnesandnoble.com/booksearch/isbninquiry.asp?z=y&endeca=1&isbn=0060580933http://www.labyrinthbooks.com/all_detail.aspx?isbn=0060580933http://books.guardian.co.uk/reviews/politicsphilosophyandsociety/0,,1597840,00.html(注3)、http://books.monstersandcritics.com/nonfiction/reviews/article_1095785.phphttp://www.mercatornet.com/content/view/177/41/http://spaces.msn.com/sam-bedggood/blog/cns!5D9ADA9CD99CA0A9!355.entryによる。(すべて、バーレーの本の書評))

 (注1Great War とは第一次世界大戦のことを指す。

(2)バーレーは、ホンネは私と同じくアングロサクソン・欧州(西欧)文明峻別論だと思うが、タテマエ上はそうではないことをお断りしておく。

 (注3)この書評は、昨年10月にガーディアン電子版に掲載されたものだが、ガーディアンの書評としては、めずらしくピンボケの書評だったこともあって、当時は漫然と読み飛ばしてしまった。

2 バーレーの指摘より(骨子。部分的に太田の言葉に直した。)

 欧州は、フランス革命を契機として世俗化が進展し、今では世界で最も非宗教的な地域となっている。

 しかし、(国王を殺した後、更に)宗教を殺したフランス革命(注4)は、ただちに政治的/世俗的宗教(political or secular religion)を生み出してしまった。

 急進派のジャコバン党員達(Jacobins)は、(国王と)宗教(=カトリック教会)なき後、共和国となったフランスを維持していくためには民衆の間に自己犠牲の精神と帰属意識を確立させる必要があると考え、イタリアのカンパネラ(Tommaso Campanella1568??1639)の唱えたプロト・全体主義国家(proto-totalitarian state(ソラリア(Solaria))論とルソーの一般意思論の影響の下、公衆の参加する儀式等からなる政治的/世俗的宗教(=イデオロギー(ideology))をつくり出し(注5)、ここに近代最初の全体主義社会(totalitarian societyが生誕した。

 (注41791年に、まず神父は国家への忠誠の宣誓を義務づけられたが、その後宗教は弾圧されるに至り、1794年までには、革命前には4万あった教区が150まで減少した。ノートルダム寺院は、「理性の殿堂(Temple of Reason」と改名された。

 (注5)しかし、皮肉にも、ジャコバン党員らが用いた革命用語は、catechismcredogospelmartyrmissionarysacramentsermonといったキリスト教用語だらけだった。

 この最初の政治的/世俗的宗教=ジャコバン主義(Jacobinism)=ナショナリズム(nationalism。「神」の代わりに「民族(nation)」)こそ、近現代欧州の生み出したハードな全体主義である共産主義(communism。「神」の代わりに「階級(class)」)(注6)やファシズム(fascism/NazizmNational Socialism(ナチズム))。「神」の代わりに「人種(race)」)や、ソフトな全体主義である官僚的福祉国家主義(bureaucratic welfare statismといった政治的/世俗的宗教の原型なのだ(注7)(注8)。

 (注6)マルクスは、宗教は民衆のアヘンだと言ったが、彼の教義(doctrine。本来はキリスト教用語)はキリスト教用語の言い換えだらけだ。魂(soul)は意識(consciousness)に、忠実なる者(faithful)は同志(comrade)に、罪人達(sinnners)は資本家達(capitalists)に、天国(paradise)は無階級社会(the classless society)に、選民(the chosen people)はプロレタリアート(proletariat)に、そして悪魔(devil)は反革命者(counter-revolutionaries)に言い換えられた。

 (注7)共産主義が政治的/世俗的宗教である、という趣旨の指摘を最初に行ったのは、ロシアの思想家である、ベルジャーエフ(Nikolai Berdyaev1874??1948年)・ブルガコフ(Sergei Bulgakov1871??1944年)・フランク(Semyon Frank1877??1950年)だ。(Edward Skidelsky

 (注8)ナショナリズムとファシズムはまさに国家主義(statism)たる政治的/世俗的宗教だし、共産主義も結果的に国家主義に堕してしまったことはご承知のとおりだ。

 上述のような全体主義に対置されるのが自由主義(liberalism)であり、自由主義は、1945年と1989年の二度にわたる勝利によって、欧州からハードな全体主義を駆逐することに成功した。しかし、いまだにソフトな全体主義は欧州で生き残っている。

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