カテゴリ: 吉田ドクトリン

太田述正コラム#2955(2008.12.5)
<辻元清美議員との対談>(2012.1.20公開。一部イニシャル化した)

 (本篇は公開しません。転載を厳禁します。)

1 始めに

 11月20日に辻元清美議員と行った対談の週間金曜日掲載用原稿が昨日送られて来ました。
 以前(コラム#2946で)「・・・私の話を聞いてそれを記事にした場合、私が手を入れなきゃ支離滅裂な内容になっちゃうことが多いのですな。これはジャーナリスト、ライター、編集者の皆さんがどれだけ優秀であろうと、安全保障、とりわけ日本の安全保障の基本の基本について余りにも無知だからです。」と申し上げたことろですが、その実例をお目にかけましょう。
 なお、この原稿は、2時間近くにわたった対談をわずか2頁に圧縮した、というか、対談から2頁分を切り取ったものです。
 リンカーンの「文民統制」ぶりや南北戦争が南部の黒人のための集団的自衛権の行使であったこととか、私自身の歴史認識を語った部分等がオミットされたのは残念ですが、焦点が絞られたという意味では分かり易いものになったと言えるのかもしれません。

2 手直し前

●12月19日号(732号)
58〜59ページ

【タイトル】
防衛省はなぜ腐敗するのか

【対談者】
対談[太田述正・辻元清美]

【リード】
田母神論文問題で露呈した防衛省・自衛隊の本質的な問題とはなにか。『実名告発 防衛省』(小社刊)で体験を赤裸々に描いた太田述正氏と、衆議院安全保障委員会で追及してきた辻元清美氏が激しく語り合う。

【対談者略歴、垂らし】
戦後、日本の周囲に脅威はなかった。無意味な仕事だけ与えられている
太田述正
おおた のぶまさ・評論家。1971年防衛庁入庁、官房審議官を経て仙台防衛施設局長を最後に2001年、自ら退職。

自衛隊を分割して人道復興支援をやる別部隊を作るのがいい
辻元清美
つじもと きよみ・衆議院議員。早稲田大学在学中の1983年に『ピースボート』を設立、民間外交を展開。

【文末に】
対談まとめ/MK
写真撮影/IH(編集部)

【本文】237行
辻元 田母神(俊雄・前航空幕僚長)事件はこれまでと質が違いますね。自衛隊員は公務員であり、憲法を尊重し擁護する義務がある。たとえ、自分が集団的自衛権の行使がいいと思っていても、任務は忠実に行ない、公的発言も政府の解釈に従う必要があります。航空幕僚長という、航空自衛隊を率いる立場なのですから、クーデターだと思うくらい深刻だと考えます。

確信犯ですらない

太田 今回の事件は「KY(空気が読めなかった)」という印象ですね。辻元さんは戦前を連想されてクーデターと言われたのでしょうが、当時のクーデターには、国民の幅広い共感と支持があった。農村の疲弊を憂いた若者たちが下剋上を目指した。
 今回の問題点は、文民統制という理由で懲戒免職まで突っ走った点です。「発言」と、「部隊を動かしました」行動は厳密に区別をしなくてはいけない。逆のケースを考えてください。総理や防衛相など政治家が突っ走ってしまうことがあるんです。これにストップをかける異論を出した空幕長を懲戒免職にするのかという問題です。
 いま、米軍はイラクで占領統治をしている。やりかたがむちゃくちゃだと、米軍の将校が批判論文を書いても、懲戒免職にならないし、解職もされていない。軍の言論の自由は一般の役人以上に制約されるのだけれども、懲戒免職に突っ走らず、ある程度の余地を残しておいてやらないといけない。
辻元 「KY」だけではすみませんよ。行動や実力部隊を統括する人の発言は重い。「好き嫌いにかかわらず憲法を守る」というタガが外れすぎだし、歴史認識がお粗末すぎます。その程度の認識の人が航空自衛隊のトップだったということは、国内からみても海外からみても、日本の自衛隊の質が相当に低いと思われる。不安になります。
太田 しかも彼は「大騒ぎになると思わなかった」などと発言しました。確信犯ですらなかった。彼は戦略や戦術について権威でなければならないけど、戦略も戦術もまったくなかった。そもそも、航空自衛隊員の九十数人が投稿論文を書いたというのはパワハラですよね。大半は書きたくない人でしょう。
辻元 上がこういう論文募集があるよと紹介したら、下は察する。明らかなパワハラですよ。
太田 防衛省はセクハラとパワハラの巣窟ですが、組織の風通しをよくしていない点で職務怠慢。そうした人間が歴史認識を語るのもおこがましい。

士気が低下した理由

辻元 私は一九九六年の初当選から安全保障委員会所属です。本来は国の安全保障を議論する場なのに、不祥事ばかり追及する委員会になっています。
太田 不祥事はこれからも出てくると思います。具体的な使命を国民が与えていない。無意味な仕事だけが与えられて、むなしい気持ちを多かれ少なかれ抱いています。
辻元 士気が低下したと思われるのはいつからですか。
太田 ソ連崩壊による冷戦終結ですね。深刻なモラルハザードが生じた。不祥事と腐敗の巣窟化が明らかだったのに、国民も政治家も何も考えなかった。
辻元 憲法9条を持った国なのに、何も考えないままに、世界のスーパーパワー、米国に引きずられるままになっていますよね。その矛盾が噴出してきている。9・11テロ以降、自衛隊法の改正で主たる任務に「海外の活動」などを加えました。米軍再編とか、海外での活動とかに存在理由を見つけようとしています。ただ、太田さんは『実名告発』で、発足当初から本当の存在意義はなかった、と書かれています。
太田 戦後、日本の周囲に脅威なんてなかった。仮想敵とみなす北朝鮮も中国も、かつてのソ連も脅威ではありません。ソ連側からみた極東は、補給線がシベリア鉄道しかないアキレス腱のような場所だった。ソ連が日本の脅威を感じていたのが実態ですね。実は自衛隊は何もする必要がなかった。
 そもそも、戦前の軍備をみるとわかりますが、狷本の安全瓩魍諒櫃垢襪砲歪鮮半島を押さえるか、または十分な軍備をもった味方がいればいい。戦後は米軍が日本列島と、半島に駐留している。韓国軍までいる。半島がこうした状態であれば、何もする必要がなかったんです。ただ、かつては「将来は国軍になる」との士気があったし、冷戦期に米軍のお先棒を担いでソ連を攻撃するシミュレーションをしていたときには士気がありました。
辻元 いま国防では存在意義がないから、海外で莫大な予算を使って存在意義を作ろうとしている。イラク・サマワでの給水活動も要塞のように守られたなかでの活動でした。給水費用よりも、警備や、民間の警備会社を雇った費用のほうが高かったのです。
太田 おっしゃる通りです。自衛隊でなくてもできることしかやっていない。というのは、集団的自衛権の行使が認められていなからです。集団的自衛権を認めない限り、自衛隊がまったく意味がないということは間違いがない。
辻元 集団的自衛権を認めるべきだという声が国会内にもありますが、それが日本にとってプラスかどうかなんです。使える国にしたら、イラク戦争にも日本は英国並みの要求を米国からされた。米国よりも前線で戦うことになるかもしれない。

防衛予算5兆円の意味

太田 日本が米国の属国だから断れないのです。日本が米国の属国でなくなれば拒否できますよ。
辻元 防衛省の人たちは、米国の属国で自分たちは手先のように働かされているとは思わないんですか。
太田 頭の働く人間は、みんな思っています。日本が属国という意識がないのは、国民や大部分の政治家だけです。
辻元 属国のままでいいのかと、防衛省職員は誰も言わないわけですか。
太田 みんな思考停止して仕事をしています。これほど楽な仕事はない。
 あとは、米国の要求に「憲法上の制約がある」とか「予算がない」などとごねること。たいていはウソなんだけど、ごねる。こんな仕事だけで、天下り先まで保証されています。
辻元 私は本当に役立つべき形に自衛隊を分割すべきだと思うんです。定員がいま二〇万人とかいわれていますけど、どこまで減らすことができますか。
太田 現状ならゼロですね。ただ、現実には二つの脅威があります。核の脅威とテロの脅威です。北朝鮮の核はどうでもいいんですが、ロシアと中国の核の一部は日本列島に照準があっているはずです。この核の脅威に関しては米国の核抑止力に依存することになっている。ただ、現実には、日本がどういう事態になったら米国が核を使うか、なんら取り決めがない。米国の核抑止力とは、お経みたいなものなんです。
 もうひとつは不審船のようなテロの脅威にどう立ち向かうか。これは、多国間的な枠組みに入っていくことになるんだと思います。NATOを拡張するか、北太平洋にNATO的なものを構築するのがいいと思っています。
辻元 私は、自衛隊を分割して人道復興支援をやる別部隊を作るのがいいと思うんです。世界に災害の復興援助を必要としている人はいる。国内だけでなく、政治体制の違う国の災害援助にも行きやすいように、自衛隊という看板をはずす。現場にあわせて、アメーバ状に自分でどんどん判断して活動できる災害救助に特化した世界で他にない部隊をつくる。
 やがては、北東アジア共通の災害救助隊をつくる。北東アジアの国々がお互いに協力することで、対立の危機を低下させていくことができます。こうして防衛予算約五兆円をばらしていけばいいと思うんです。
太田 それは米国が許しませんよ。もし、日本から米軍が撤退すると、兵站基地がなくなるので韓国へ駐留することも困難になります。韓国の軍事力がどれだけになるかわかりませんが、半島は安定しなくなる。日本の軍事力がゼロだとリスクが高まりますよね。
辻元 自衛隊をいきなりゼロにしろといってるわけではない。専守防衛なら専守防衛の範囲にとどめてる。その範囲を考える必要があると……。
太田 それは独立してから、国民に問うときに提示する選択肢として、考えるべきではないでしょうか。属国の段階でそんなことを議論したってまったくのフィクションですよ。まずは、腐敗や不祥事をどれだけ抑えていくか、天下りをなくしていくか、そういった仕組み作りが大事になってきます。
辻元 いま、金融危機で米ドルへの信認が揺らいでいます。いまでも思いやり予算二〇〇〇億円を出していますが、米軍駐留の日本側の費用負担がますます大きくなっていくと思うんですね。
太田 なにしろ、米国本土においておくより安上がりですからね。
辻元 といっても、日本の経済状況ではこれ以上、お金を出せない。米国は中国とも関係を密にしていくでしょうし、いまのような日米安保が続いていくようには思えません。日米の軍事関係の見直しを米国側から持ち出される、その時期がかなり近くまできているように思います。

3 手直し後

 (導入部分は同じなので省いた。なお、辻元議員の発言には一切手を入れていない。)

辻元 田母神(俊雄・前航空幕僚長)事件はこれまでと質が違いますね。自衛隊員は公務員であり、憲法を尊重し擁護する義務がある。たとえ、自分が集団的自衛権の行使がいいと思っていても、任務は忠実に行ない、公的発言も政府の解釈に従う必要があります。航空幕僚長という、航空自衛隊を率いる立場なのですから、クーデターだと思うくらい深刻だと考えます。

確信犯ですらない

太田 今回の事件は「KY(空気が読めなかった)」という印象ですね。辻元さんは戦前を連想されてクーデターと言われたのでしょうが、二・二六事件等には、当時の国民の幅広い共感と支持があった。農村の疲弊を憂いた若い将校たちが下剋上を行なったわけです。そんなこと今や考えられないでしょう。
 なお、文民統制などという空虚な錦の御旗を持ち出し、懲戒免職すべきだったと言う人がいるがそれもおかしい。「発言した」だけで「部隊を動かした」わけではないし、総理や防衛相など政治家が突っ走ってしまうことだってあるんです。これにストップをかける意見を公表した空幕長を懲戒免職にするんですか。
 米軍がイラクで占領統治をした。そのやりかたがむちゃくちゃだと米軍の将官ならぬ将校が批判論文を書いたけど、懲戒免職どころか解職もされていません。
辻元 「KY」だけではすみませんよ。行動や実力部隊を統括する人の発言は重い。「好き嫌いにかかわらず憲法を守る」というタガが外れすぎだし、歴史認識がお粗末すぎます。その程度の認識の人が航空自衛隊のトップだったということは、国内からみても海外からみても、日本の自衛隊の質が相当に低いと思われる。不安になります。
太田 しかも彼は「大騒ぎになると思わなかった」などと発言しました。確信犯ですらなかった。将官は戦略や戦術の権威でなければならないけど、戦略も戦術もまったくなかった。そもそも、航空自衛隊員の九十数人が投稿論文を書いたというのはパワハラですよね。大半は書きたくなかった人でしょう。
辻元 上がこういう論文募集があるよと紹介したら、下は察する。明らかなパワハラですよ。
太田 航空自衛隊はセクハラとパワハラの巣窟ですが、彼は、組織の風通しをよくしようとしてこなかったし、業者との癒着にも全く手を付けていない。そうした職務怠慢の人間が歴史認識を語るなどおこがましい。

士気が低下した理由

辻元 私は一九九六年の初当選から安全保障委員会所属です。本来は国の安全保障を議論する場なのに、不祥事ばかり追及する委員会になっています。
太田 不祥事はこれからも次々に起きることでしょう。具体的な使命を国民が与えていない。無意味な仕事だけが与えられて、むなしい気持ちを多かれ少なかれ抱いているからです。
辻元 士気が低下したと思われるのはいつからですか。
太田 ソ連崩壊による冷戦終結ですね。深刻なモラルハザードが生じた。防衛省が不祥事と腐敗の巣窟になるのが明らかだったのに、国民も政治家も何も考えなかった。
辻元 憲法9条を持った国なのに、何も考えないままに、世界のスーパーパワー、米国に引きずられるままになっていますよね。その矛盾が噴出してきている。9・11テロ以降、自衛隊法の改正で主たる任務に「海外の活動」などを加えました。米軍再編とか、海外での活動とかに存在理由を見つけようとしています。ただ、太田さんは『実名告発』で、発足当初から本当の存在意義はなかった、と書かれています。
太田 戦後一貫して日本の周囲に脅威なんてなかった。仮想敵とみなす北朝鮮も中国も、かつてのソ連も脅威ではありません。ソ連側からみた極東は、補給線がシベリア鉄道しかないアキレス腱のような場所だった。ソ連が日本の脅威を感じていたのが実態ですね。
 そもそも、戦前の軍備は日本列島を直接守るためのものではなかった。朝鮮半島等を押さえるためのものだった。戦後は米軍が日本列島を兵站拠点にして朝鮮半島に駐留している。そこには韓国軍までいる。そうである以上、自衛隊がいてもいなくても同じです。自衛隊発足時には「将来は国軍になる」と思っていたし、冷戦期には米軍を補完する形でソ連を攻撃するというシナリオがあったので士気は維持されていました。
辻元 いま国防では存在意義がないから、海外で莫大な予算を使って存在意義を作ろうとしている。イラク・サマワでの給水活動も要塞のように守られたなかでの活動でした。給水費用よりも、警備や、民間の警備会社を雇った費用のほうが高かったのです。
太田 おっしゃる通りです。自衛隊じゃなくてもできることしかやっていない。これは集団的自衛権の行使が認められていないからです。集団的自衛権を認めない限り、自衛隊はまったく存在意義がないと言ってよい。
辻元 集団的自衛権を認めるべきだという声が国会内にもありますが、それが日本にとってプラスかどうかなんです。使える国にしたら、イラク戦争にも日本は英国並みの要求を米国からされた。米国よりも前線で戦うことになるかもしれない。

防衛予算5兆円の意味

太田 集団的自衛権を行使できることは日本が米国から独立するための必要条件ですが、独立した暁には、米国の要求を受けるかどうか自分で主体的に決めることができるようになります。
辻元 防衛省の人たちは、米国の属国で自分たちは手先のように働かされているとは思わないんですか。
太田 頭の働く人物なら、みなそう思っています。ところが、国民や大部分の政治家には日本が属国であるという意識がない。
辻元 属国のままでいいのかと、防衛省職員は誰も言わないわけですか。
太田 大部分の人は思考停止して仕事をしています。割り切ってしまえば、これほど楽な仕事はない。防衛官僚の主な仕事は、国会質問への答弁を書くことと米国からの要求に対してごねることです。たいていはウソをついてね。こんな仕事だけで、天下り先まで保証されているわけです。
辻元 私は本当に役立つべき形に自衛隊を分割すべきだと思うんです。定員がいま二〇万人とかいわれていますけど、どこまで減らすことができますか。
太田 現状なら、理論的にはゼロまで減らせます。もとより脅威がないわけではありません。核の脅威とテロの脅威です。北朝鮮の「核」はどうでもいいんですが、ロシアと中国の核の一部は日本列島に照準があてられているはずです。この脅威については米国の核抑止力に依存することになっている。しかし、日本がどういう事態になったら米国が核を使うか、なんら話し合いがなされていない。米国の核抑止力なるものはお経でしかないのです。
 また、不審船のようなテロの脅威にどう立ち向かうかですが、これはもっぱら警察力を強化して対処すべき問題です。
 集団的自衛権が行使できるようになった独立日本は、多国間的な枠組みに入っていくことが望ましいと思います。NATOを拡張するか、太平洋にNATO的なものを構築してね。
辻元 私は、自衛隊を分割して人道復興支援をやる別部隊を作るのがいいと思うんです。世界に災害の復興援助を必要としている人はいる。国内だけでなく、政治体制の違う国の災害援助にも行きやすいように、自衛隊という看板をはずす。現場にあわせて、アメーバ状に自分でどんどん判断して活動できる災害救助に特化した世界で他にない部隊をつくる。
 やがては、北東アジア共通の災害救助隊をつくる。北東アジアの国々がお互いに協力することで、対立の危機を低下させていくことができます。こうして防衛予算約五兆円をばらしていけばいいと思うんです。
太田 日本が属国のままであれ独立しておれ、そんなことをすれば、米国は日本から米軍を撤退させる可能性が高い。その場合、韓国で米軍の駐留を続けることも困難になります。韓国の軍事力だけでは、朝鮮半島、ひいては北東アジアは不安定になるでしょう。
辻元 自衛隊をいきなりゼロにしろといってるわけではない。専守防衛なら専守防衛の範囲にとどめてる。その範囲を考える必要があると……。
太田 水を差すようですが、日本が独立を決意した時に国民的議論を行なって決めるべき事柄を、属国に甘んじている段階でわれわれが議論したってむなしい限りです。まずは、余りにひどい腐敗や不祥事は起こさせない、そのためにも天下りをなくす、といったことに取り組むことが大事です。
辻元 いま、金融危機で米ドルへの信認が揺らいでいます。いまでも思いやり予算二〇〇〇億円を出していますが、米軍駐留の日本側の費用負担がますます大きくなっていくと思うんですね。
太田 なにしろ、米軍を米国本土に置いておくより安上がりですからね。
辻元 といっても、日本の経済状況ではこれ以上、お金を出せない。米国は中国とも関係を密にしていくでしょうし、いまのような日米安保が続いていくようには思えません。日米の軍事関係の見直しを米国側から持ち出される、その時期がかなり近くまできているように思います。

太田述正コラム#4378(2010.11.15)
<『吉田茂の自問』を読む(その6)>(2011.2.28公開)

 (4)佐藤尚武(1882〜1971年。フランス大使・外相・ソ連大使・戦後衆議院議長)

 「この書きもの<(報告書(太田))>は、よくできているし、よい思いつきでもあると思う。その内容について、別にどうかと思うような点もない。」(263頁)

→これだけで、後読む必要がない、と言いたいところです。(太田)

 「元来私は、外務省の者は大臣になってはいけないという考えだった。というのは、外務省の者は海外に出ている期間が多いので国内に地盤を造るひまがない。従って内閣に入っても伴食大臣になってしまう。外務大臣は、どうしても閣内に重きをなすようでなくてはいけない。・・・
 他面、私は外務省の者は、誰も受ける者のない場合に責任を回避することは出来ないと考えていた。それで大臣就任を受諾したわけである。」(264頁)

→巧言令色鮮なし仁だからこそ、佐藤、食言のような話をして恬として恥じないのですね。(太田)

 「私は防共協定ができたときは、その時期と結ぶ相手方が悪いというので、これに不賛成で、巴里からかなり手強い電報を出したこともある。しかし、協定そのものは、共産勢力に対抗するものとしてよいと考えていた。」(266頁)

→格好付けるなと言いたくなりますね。(太田)

 「日本の軍部でも、幼年学校出が一番始末が悪かった。私は、今のロシアを非常に懼れている。日本の歴史をくりかえしているように思う。それは、幼年学校を沢山つくっているからだ。・・・その生徒は・・・領土の広さでも、あるいは、文明のすべての方面でも、ロシアが一番だという式のことを教えこまれておる。」(270頁)

→幼年学校出身の東條英機
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
へのあてこすりだと思いますが、純粋培養はよろしくないということは一般論としてはその通りです。
 ただ、ソ連は共産党が完全に軍を統制しており、また、政府機関では軍よりも諜報機関の方が重視されていた・・アンドロポフのように諜報機関トップを経て最高指導者まで上り詰めた者
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%95
は軍部にはいません。(ちなみに、アンドロポフ以外は、党務以外のポストに就いたことのある最高指導者はソ連にはいません。(典拠省略))
 ソ連に関して軍をかくも重視する佐藤は、それだけで駐ソ大使経験者として失格です。
 更に問題なのは、佐藤がまるで戦前の日本とソ連とを似たような国と見ているかのようである点です。自分の国のことが分かっていない者がよその国のことが分かるわけがないという見本がここにあります。(太田)

 (5)林久治郎(1882〜1964年。奉天総領事・ブラジル大使)

 「吉田総理もそうだが、自分などもわれわれは外交官ではなく外交家だ、ステイツマンだというような生意気な気持ちで一向役所の仕事を覚えなかった。外交官というものは結局テクニシャンである<というのに・・。>」(271頁)

→林は、外務省で檜舞台を歩んだわけではなさそうなだけに、むしろ傾聴すべきものがあるかもしれないという期待を抱かされます。ここは吉田茂批判を行っているのでしょうね。(太田)

 「われわれの若い頃は、帝国主義謳歌の時代だった。・・・あの時代にウィルソンが帝国主義をしりぞけたことは、彼が偉かったことを示す。

→期待はただちに裏切られます。林もまた、米英の指導者のタテマエ論を真に受ける愚か者でした。(ウィルソンについては、コラム#3726、3728参照。)(太田)

 しかし、昔の日本の国際信用は大したものだった。自分のロンドン時代に、イギリスのある新聞人から「日本の外交には、信がおける。日本の外務大臣のいうことは信用できる」といわれて、有難い国だと感激したことがある。

→以下を読むと、有り難い国の国とは外務省だけのことを指しているらしいと分かって来ます。(太田)

 軍の堕落は、昭和の初め頃、その勢威が地に落ちて、何とかばん回しなければならないとして焦ったことから来ている。内部では下克上の風がおこり、外には、トラブル・メイカーになった。軍規の弛緩はひどいものだった。団匪事件の際の日本兵というものは、諸外国人を讃嘆させたものだったが、その時分のことを知っている外国人は、済南出兵の際の日本兵を見て、その変わりサマに驚いていた。」(272頁)

→前段は間違いであり、ロシア革命(及びロシア内戦)の後、ロシアの脅威が減殺したことも一つの大きな要因として、世論が軍縮を求め、軍もそれに従ったが、その後再びロシア(ソ連)の脅威が復活したことも一つの大きな要因として、世論が軍拡を求めたものの、それが思うに任せなかったことから、軍部内で下克上の風が起こったということだからです。
 後段は基本的にその通りです。この点は、軍部を厳しく糾弾しなければなりません。しかし、支那側にどちらかと言えば一方的に非がある済南事件(コラム#214、215)を例に用いるのでは、議論に迫力が出ないと言うべきでしょう。
 なお、下克上的な規律の弛緩は外務省でも見られたのであって、例えば、前出の白鳥のケースのほか、広田弘毅が齋藤實内閣の外相であった「1934年・・・4月17日、天羽英二<外務省>情報部長が中国大陸に対する外国の干渉を退けるという趣旨の会見を行った(天羽声明)。この発言を欧米諸国は「東亜モンロー主義」であるとして激しく非難し、外務省内部からも反発された。天羽の発言は広田外相名義で有吉明駐華公使に宛てた公電であったが、この公電の内容を指示したのは外務次官の重光葵であ<り、広田は関知していなかった>。・・・<しかし、>天羽や重光が処分されることはなかった」というケースをあげることができます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85 (太田)

 「日本の対満関係を困難にし、従って又満州事変の遠因ともなった一つの重要な因子は、何といっても張作霖を爆殺したことであると思う。・・・

→最近、ソ連陰謀説が登場している(コラム#1881)ことに照らしても、予断を持った議論をしてはいけないという良い見本です。(太田)

 満州事変が起きたとき自分は国際的に異端視されて大変な目に会わされると予言していたが、不幸にしてその予言が適中した。・・・
 満州事変を止めたかったら、なぜ金を出すことを拒まなかったのか。又軍の過激派の主な者を何人か馘にしたら、軍を反省させることも出来た筈である。・・・ところがそれだけの勇気がない。幣原さんもただ困っているだけ。・・・しかし満州事変について幣原さん以上に責任のあるのは若槻総理である。私が満州から帰って会ったときには・・・弱音を吐いているだけだった。・・・井上大蔵大臣<は、>・・・「軍と戦わなければならぬ」といっていた。彼の民政党内における地位も高まっていた。彼<は>殺された・・・。」(273〜274頁)

→満州事変は、国を挙げて実行すべきだったのにそうしなかったことこそが問題であると私は考えており、結果オーライであったと思うわけです(コラム#省略)が、勝手に関東軍が動いた以上は、関係者は処罰しなければならず、それをやらなかった点では林の批判に同感です。(太田)

 「広田<弘毅(注6)>は、・・・実に立派な男だった。・・・しかし、公人としては、罪が深い。自分がブラジルから帰った時、陸軍大臣現役制のことで文句をいわう(ママ)と思っ・・・たら、初めから、いや僕が悪かったんだといって、あやまられたので、それ以上議論もできなかった。」(274頁)

 (注6)「猪木正道<は、広田が外相時代の1937年に>、「駐日ドイツ大使<ヘルベルト・フォン・ディルクセン>に<駐華大使オスカー・トラウトマンを介して>蒋介石政権との>和平のあっせんを頼みながら、南京攻略後の閣議では真っ先に条件のつり上げを主張するなど、あきれるほど無責任、無定見である」とし、「一九三六年のはじめごろから、広田は決断力を失ったと思う」と評した。猪木の著作を読んだ昭和天皇は「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」と猪木の評価を肯定している。
 <また、その前、首相時代の1936年に、彼は>軍部大臣現役武官制を復活させた・・・
 <そして、戦後、>A級戦犯となり<文官で唯一>死刑となった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85 上掲

→林が同僚たる外務官僚批判をやっている点は評価できます。(太田)

 (6)芳沢謙吉(1874〜1965年。アジア局長・フランス大使・外務大臣・ハノイ大使)

 「ここに書いてあることには大体同意見で、結構だと思う。」(275頁)

→林同様、これだけでアウトです。(太田)

 「外務省に入って、半世紀の間というもの、結局軍部のしくじりの尻拭いをやったことが一番多い。・・・一体歴史を見ても判る通り、・・・日本国民は好戦国民であった。」(275頁)

→私の言う弥生モードだけを見ている偏った日本認識です。(太田)

 「昔読んだ本でモダン・ジャーマニーというのに、「ドイツ人は結局ミリタリーネーションである」と書いてあったが、日本人もそうである。陸軍などは、ドイツが好きであった。プロシヤ精神に傾倒していた。そして軍人は、軍のみならず、国民を組織化し、立法府までそうしようというので、大政翼賛会みたいなものをこしらえたわけだ。そういうわけで戦争は強かった。極端まで行かなければ大成功をしていたであろう。日蘭会商でもまとめておけば、日本も米国に次ぐ強国になっていたかも知れない。しかし、どうにも戦争が好きであるため国を誤った。」(277頁)

→大政翼賛会は、戦後の事実上の自民・社会大連合の先取りととらえるべきであり、戦前は戦時挙国一致体制の所産であり、これが戦後は、外交安保の基本を宗主国に託した結果としての平時挙国一致体制へと衣替えをしたということであり、芳沢は大政翼賛会の実態がまるで分かっていません。自国について疎かった外務官僚としては驚くことはありませんが・・。
 また、戦後、少なくとも経済力では日本は米国に次ぐ強国になったわけで、ここでも芳沢、自国の潜在能力を理解していませんでしたね。
 なお、蘭領インドネシア当局と何とか折り合う、というのは一つの方策であったことは確かです。(太田)

 「平和条約が出来れば、結局再軍備をやるに定まっておるが、・・・天皇陛下の軍隊でなく・・・日本国民の軍隊であることにな<っても、>・・・強い軍隊をつくり得ると思う。・・・
 日本の再軍備については、第三次世界大戦があるからというのでなく、ただ列国並みにやっておくというだけのことである。」(277、280頁)

→戦前の日本が自由民主主義(的)国家であったことが、やはり分かっていないようです。
 なお、再軍備論者である点は評価できるものの、これが彼の恒久弥生モード的日本観といかなる整合性があるのか、いささか腑に落ちません。(太田)

 「太平洋戦争勃発について、ある実業家がこれは外交官の責任であるといっていたが、これはとんでもない見当違いである。東条は、天皇陛下を強要して、開戦のお許しをいただいたのである。これを止めようとしたら、天皇陛下でも危かったであろうと思う。」(279頁)

→1941年12月という時点に至って、しかも対英開戦ではなく、対米英開戦となったことに関しては、この実業家の言うことが正しく、芳沢は間違っていると言わざるをえません。
 また、東條についての芳沢の評価が軍部、就中陸軍への反感に基づく中傷であることは、改めて説明の必要はありますまい。
 そもそも、芳沢は、東條と昭和天皇との関係について全く無知であったとしか思えません。(注7)(太田)

 (注7)「木戸は「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。・・・東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている・・・
 日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、<東條が>首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名で、『昭和天皇独白録』にも記載されている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F 前掲

 (7)「日本外交の過誤」に対する省員の批評

 「第一の責任者は軍であったのだから、そのことをはっきり出すべきである。
 日本の政治経済全般、世界の客観情勢と結び付けて考えなければ、日本外交の功罪についても結論は出せない。
 外務省の者は、経済についての勉強が足りなかった。調査の機能が弱かったことを反省しなければならない。
 外務省が、内政上の基盤をもたず、国民と遊離していたことがいけない。」
 (以下、更に2項あるが、省略する(太田)。)

→第1項は、民主主義下の対外政策のあり方、その中での外務省の果たすべき役割を考えるための教訓を引き出さなければならないというのに、問題を余りにも偏波にかつ矮小化してとらえています。第2項はその通り。第3項は結論はいいが、勉強が足らなかったのはむしろ軍事でしょう。第4項もその通り。
 本報告書の執筆者達より、外野の方が少しはマシであったという印象です。
 これは、恐らく、吉田茂の意図に縛られていなかったからでしょうね。(太田)
 
4 終わりに
 
 有田のような非武装中立論者が、戦前、外相を引き受けたことが私には理解できません。
 彼の考えが早期に形成されていたとすれば、外務省に入省したことすらおかしいと思います。
 有田のような人間は、さすがに戦前から戦後にかけての外務官僚の中では少数派であったでしょうが、そんな人間を許容し、外務省のトップにまで上り詰めさせたこと一つとっても、当時の外務省がいかに「国賊」的な国家機関であったかが分かろうというものです。

 この本の編者の小倉和夫(1938年〜。外務審議官(経済担当)・韓国大使・フランス大使)は、「吉田茂が考え抜いた日本外交の基本路線は、極めて現実的な考慮に基づくと同時に、過去の反省に基づく理念と理想をなおざりにしないものであった。現実的対応という合い言葉のうちに、理念と理想が失なわれるようなことがあれば、実はそれこそ、第二次大戦前の外交の誤りをくり返すことになりかねまい。」(20頁)と記していますが、一度腐ってしまった国家機関は、半永久的に小倉のような「国賊」的人物を再生産していくようです。
 
 最後に一言。
 この報告書を通じて、戦前から戦後にかけての外務官僚達が、いかに自国のこと・・正確には世界のこともだが・・が分かっていないかが判明したわけですが、にもかかわらず、その外務官僚達が、いわば、日本の縄文モード化のうねりの主たる担い手になったことは、何という歴史の皮肉でしょうか。

(完)

太田述正コラム#4376(2010.11.14)
<『吉田茂の自問』を読む(その5)>(2011.2.27公開)

 (3)重光葵(コラム#4348、4350、4366)

 「松岡の考えの基礎は間違っていたかも知れないが、政策の一貫していたことが明らかになった。」(255頁
 「自分が本当に腹を打ち明けることが出来たのは・・・木戸内大臣・・と陛下だけである。」(256頁)

→このように、天皇は別格として、外務省出身者と(陸海軍以外の)他省の出身者(木戸幸一は商工省出身)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80
には、重光は甘いのです。(太田)

 「一体軍人などというものは、外交を手品みたいに考えている。帽子の中から何でも出せるように何でも出来るものと考える。重慶と話をつけて、支那からアメリカを追い出し、支那と手を握って一緒にアメリカに立ち向うというようなことを真面目に考えているような按配だった。」(256〜257頁)
 「近衛は、ゾルゲ事件以来ソ連に対しては戦慄するような気持をもっていた。それが、<和平仲介を依頼するために>ソ連行きを引き受けたのは、ただ飛び廻っていたい気持ちからだったであろう。近衛という人は矛盾だらけの乱脈な人だった。
 鈴木さんが組閣の当時から終戦の肚があれば、行間にそれが読みとれるのでなければ嘘だ。ポツダム宣言を黙殺するといってしまってはお話にならぬ。結局無識のいたすところで、大智とまではいかなくても、中智位はなければ何にもならない。<(注2)>
 小磯内閣はみょうひん[繆斌<(漢字印字がなかったっためにひらがなのままにした?(太田))>]工作<(注3)>や対陸軍関係の行詰まりだけで瓦解したのではなく、そもそも初からナンセンスだった。三月事件<(注4)>や満州事変の発頭人であった小磯、二宮、建川、橋本<(注5)>というような連中の寄り合いであった。」(260〜261頁)

 (注2)「陸軍の突き上げで、<1945年>7月28日に本来鈴木は、意見を特に言わない、と言いたかったのだが、記者会見で「共同聲明<(ポツダム宣言)>はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」・・・と述べ<たところ>、翌日・・・、讀賣新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと予想以上に大きく・・・報道された。<そして>、この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社により「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、またロイターとAP通信では「reject(拒否)」と誤訳され報道された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E
 (注3)「1945年・・・3月、<汪兆銘政権で要職を歴任していた>繆は重慶国民政府の密命を受けて訪日し、日本軍撤退などを条件とする全面和平交渉を小磯國昭内閣と行った(繆斌工作)。
 この交渉は、日本側では小磯國昭や国務大臣・情報局総裁緒方竹虎らが主導した。・・・[<しかし、>過去に繆と接触した経験があり、信頼できない人物だと確信していた重光葵外相と米内海相<は>※]、繆は「和平ブローカー」で蒋介石には繋がっていないなどと批判し、繆の招致に反対した。小磯はあくまで交渉の続行にこだわり、4月2日には昭和天皇拝謁に際して繆を引き留めることを進言した。しかしこれがかえって天皇の不興を買うことになる。結局繆は成果をあげることなく南京に引き返し、この騒動が主因となって小磯内閣は総辞職となった。
 戦後南部圭助(頭山満の腹心)は、蒋介石に繆斌工作が蒋自身の指示で行なわれたことを直接確認したとしており、繆斌の長男である繆中も同工作が正式な和平工作であったことを証言している。・・・
 日本敗北直後の1945年・・・9月27日、上海で繆斌は軍統に逮捕されてしまう・・・。・・・
 繆斌の死刑判決に至るまでの審理とその死刑執行は余りにも素早かった。そのため、蒋介石には繆を「漢奸」として処断する以外にも、別の意図があったと推察する見方がある。たとえば劉傑と鄭仁佳は、東京裁判において繆が和平工作の証人として呼ばれる動きを事前に察知した、蒋による口封じの可能性を指摘している。和平工作が公になれば、カイロ会談で蒋が徹底した対日抗戦を主張しながら、その裏で日本との和平を目論んだことが露見するためである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%86%E6%96%8C
(ただし、※は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD による。)
 (注4)「1930年(昭和5年)に政治結社「桜会」を結成した橋本欣五郎中佐・・・らは、我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよ」との主張の下、軍部による国家改造を目指して国家転覆を画策した。これに杉山元陸軍次官、小磯國昭軍務局長、永田鉄山軍事課長、・・・二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長、・・・作戦課長、・・・補任課長ら当時の陸軍上層部や社会民衆党の赤松克麿、亀井貫一郎、右翼の思想家大川周明・・・らも参画。永田鉄山軍事課長が計画書(建設)を作成した。また、活動資金として徳川義親が20万円を出資(戦後返還)した。・・・
 <しかし、>直前の3月17日に撤回された。・・・
 中央部における中堅将校中に強い反対が起こったことと、実際に兵力を握っていた第1師団長の真崎甚三郎が反対の態度を表明したからであった。・・・
 <このように、>統制派・・・は、三月事件を断行し、軍事政権に切り換えたうえで、満蒙問題に着手する予定であったが、皇道派の正論に圧倒されて失敗に終わると、満蒙で事を起こして国内の改革を行おうとした。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 (注5)小磯國昭は満州事変当時、軍務局長だったが、職掌から言って、同事変について責任があるとは言えまい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%8B%99%E5%B1%80#.E9.99.B8.E8.BB.8D.E7.9C.81.E8.BB.8D.E5.8B.99.E5.B1.80
 二宮治重は、満州事変当時、参謀次長だったので同事変の責任がないとは言い難い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E6%B2%BB%E9%87%8D
 建川美次は、「勃発する満州事変直前に参謀本部第1部長として関東軍の行動を引き留める名目で奉天に派遣されるが関東軍の行動を黙認」した人物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%B7%9D%E7%BE%8E%E6%AC%A1
であり、同事変に責任がある。
 橋本欣五郎は、「二・二六事件の際に・・・、自ら昭和天皇と決起部隊の仲介工作を行い、決起部隊側に有利な様に事態を収拾しようと、陸軍大臣官邸に乗り込んだが、天皇が決起部隊を「暴徒」と呼び、鎮圧するように命じたため、橋本にも責任問題が及び、予備役へ回される事とな」った人物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E6%AC%A3%E4%BA%94%E9%83%8E
だが、満州事変には関わっていない。

→他方、軍出身者に対しては辛口などというものではありません。
 海軍出身の鈴木貫太郎の「黙殺」をめぐるいきさつには大いに同情すべきものがある一方、ローズベルト米大統領の死に際して弔意を表明したり、御前会議で天皇の聖断を求めたり、とその政治的感覚は敬意に値します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E
 鈴木への罵倒に近い重光の話は、重光の人間性を疑わせるものです。
 また、重光の話に登場する陸軍出身の小磯國昭、二宮治重、建川美次、橋本欣五郎が、いずれも三月事件に関わっていたことは事実ですが、満州事変に関しては、小磯と橋本は関係ないと言うべきであり、また、小磯内閣において、小磯が首相、二宮が文相であったのは事実ですが、建川は駐ソ大使、橋本は大政翼賛会常任総務
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%86%85%E9%96%A3
に過ぎず、重光の話し方は、いかに彼が陸軍を忌み嫌っていたかを示して余りあるものがあります。
 しかし、例えば小磯など、とう見ても立派な人物であったように見受けられます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD 前掲
 なお、近衛文麿は貴族であったため、これまた、それだけで重光のお眼鏡にかなわなかったのではないでしょうか。(太田)

 「再軍備の問題は、結局「方針」の問題でなくて、「要領」の問題である。・・・スレイヴならいざしらず、自衛権はクリミナルにもある。自衛権があれば、これを行使する手段もあるべきはずのものである。・・・
 再軍備問題は、フィロソフィの問題であると同時に、いざやるということになれば、高度の政治問題でもあるわけだ。これについては、当然、諸外国の対日感情とか、国民感情とか、色々な面を考え合わせてやって行かなければならない。これは「要領」に属することだ。
 中立などということは、一時代前の考えだ。世界は動いている。現在の共産主義と民主々義との争いに対しては、中立の余地はない。共産主義は戦争一色ではない。平和もその手段であって、ソ連はその間の使い分けをする。・・・「第三次世界戦争」・・・は、当分ないと判断するのが常識だろう。しかし「戦争」が無いからといって安心することは間違いだ。・・・形勢は、まだまだ複雑緊迫化の方向に進んでいうと思わなければならない。ソ連には根底において和解出来る素質がない。話せば判るのはデモクラシーにのみ通じる考え方である。」(261〜262頁)

→あくまでも再軍備する「方針」を決めた上で、実際に整備する軍事力の量や質をどうするか、その際に「諸外国の対日感情とか、国民感情とか、色々な面を合わせてやって行かなければならない」というのが「要領」の問題でなければおかしいでしょう。
 重光の言は、吉田ドクトリンの、堀田の社会党バージョンに対するに、自民党バージョンを見事に先取りしていますね。
 ここまで見てきただけでも、吉田茂を総帥として、外務省出身の当時の重鎮達が総出を挙げて構築したのが吉田ドクトリン/属国化戦略であった、と断定してよさそうです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4374(2010.11.13)
<『吉田茂の自問』を読む(その4)>(2011.2.26公開)

 「日本が<ロンドン>軍縮会議から脱退した・・・。・・・
 太平洋戦争の一番の起源はここにある。アメリカは、最近の状況でも判るように、大きな軍備を長く維持出来る国ではない。軍縮条約が出来たら、軍艦を作らないような国である。条約をこわしたから、軍備を拡充して来たのだ。そしてどこの国の軍人でも、軍備が出来ると戦争をしたくなる。アメリカ海軍は非常に排日になっていた・・・。」(235〜236頁)

→堀田は録に歴史書を繙いたことがないとみえます。ブッシュ政権下における、3年間の海軍でのパイロット・飛行教官歴しかないラムズフェルト国防長官や全く軍歴のないウォルフォヴィッツ国防副長官、ライス安全保障担当大統領補佐官(以上タカ派)と陸軍の職業軍人あがりのパウエル国務長官(ハト派)との対立(コラム#190、1189。なお、#1201も参照のこと)は記憶に新しいところです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Donald_Rumsfeld
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Wolfowitz
http://en.wikipedia.org/wiki/Condoleezza_Rice
http://en.wikipedia.org/wiki/Colin_Powell 
 なお、第二次世界大戦終戦直後にこそ米国は急速に国防費を削減したものの、1948年を底として、冷戦が本格化した以降は、その国防費は、インフレを除いた実質値で1948年の3〜4倍の水準で現在まで推移してきており、
http://www.mtholyoke.edu/~jephrean/classweb/United%20States.html
掘田の思い込みに反し、「アメリカは、・・・大きな軍備を長く維持出来る国」であったことを示しました。(太田)

 「日米交渉はやってよかったと思う。陸軍も最初は妥結を欲していた。アメリカが容れられないような条件を並べたからいけなかったのである。」(240頁)

→チャーチルとローズベルトが揃って日米交渉妥結を望んでいなかった(コラム#省略)以上、同交渉がうまく行くはずがなかったのであり、堀田は、自分の同時代の事柄についても表面的な動きしか見ていなかった、ということが分かります。(太田)

 「一体、大島<浩駐独大使>や白鳥<敏夫駐伊大使>は、政府のいうことを聞かないことが度々あった。・・大島や白鳥は、先方からイギリスと戦争する場合に日本がこの<三国同盟>条約によって参戦するかときかれて、然りと答えた。・・・訓令違反<だ。>・・・有田<外相>は、この時やめようとしたのを慰撫された。・・・<いずれにせよ、>大島や白鳥はやめさせられなかった。訓練違反の出先をやめさせるという方針<があったのにそれ>は、実行されなかったわけだ。」(238〜239頁)

→大島は陸軍出身
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B5%A9
ですが、白鳥
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E6%95%8F%E5%A4%AB
のように、外務官僚の中にも下克上を実践した者がいたことを覚えておきましょう。(太田)

 「南方方面では真珠湾攻撃前に一部戦闘を開始している。イギリスに最後通牒を出さなかったことも一つの手落であろう。」(240頁)

→珍しくもここはその通りです。もっと問題にされてしかるべき外務省の失態であったと言うべきでしょう。(太田)

 (3)有田八郎(1884〜1965年。外務省アジア局長・外相2回・戦後公職追放・衆議院議員)

 「自分の亜細亜局長時代の吉田<茂>次官などは、外国が協調しないから支那がのさばって来る。イギリスと手を結んで支那を押えるべきだという考えをもっていた。自分はその実現性がないと思って反対であった。しかし、吉田次官はケロッグブリアン協定の会議に代表として巴里へ行った内田さんにこのことについて英と話をするように訓令を与えた。ロンドンではこれに余り乗気を示さず、北京の現地でいかなる問題が協調してやれるかをお互いに研究して見ようというようなことでお流れになってしまった。」(244頁)

→吉田の指示は、日本のみならず英国の国益にも合致しており、有田は、支那の担当局長であったにもかかわらず、仕事をさぼったのは自慢できることではありません。
 外務省をあげて英国にあたっておれば、たとえ成功しなかったとしても、相手のホンネが露見した可能性が高かったはずです。
 いずれにせよ、問題は、吉田が、この働きかけに英国が乗ってこなかった理由について深く思いを致した形跡が無く、その後も対英(及び対米)宥和策に固執し続けたのは、不勉強のしからしめたところの、吉田の限界と言うべきでしょう。(太田)

 「<日独防共協定を審議していた>枢密院の委員会で石井顧問官が「自分は日英同盟締結の際命を受けて英国はそれまで同盟を裏切るようなことがあったかを調べさせられた。そして調査の結果英国のレコードはきれいであると報告したことがある。一体今度の独逸は信を置けるか」と聞かれた。自分は信用がないともいわれないからヒットラーは裏切ることをしないと思うと答えておいた。」(245頁)

→ここでも有田は無責任であり、分からないことは分からないと正直に答えるべきでした。その後ヒットラーが独ソ不可侵条約を反故にしたにもかかわらず、こんな恥ずべきエピソードをわざわざ語るとは、有田はまことにおかしな人物です。(太田)

 「自分は、亜細亜局長時代から中国共産党の動きには、注意していた。・・・白鳥は、スウェーデンから、「ソ連を早くたたかなければいけない、それについては、支那の問題は早く解決し、英米とも協調しなければいけない」という趣旨の意見書をよこした。自分は、すぐたたくというのは過激だが、何か手を打つ必要があるとは思っていた。それが防共協定の形になったわけだ・・・。」(245頁)

→白鳥は陸軍の皇道派と同じく「赤露」巻き返し論者であったということです。
 いずれにせよ、これだけおかしな有田ですら、陸軍の統制派同様、「赤露」封じ込め論者であったことは、何度も繰り返しますが、横井小楠コンセンサスがいかに当時の日本の指導層に浸透していたかを示して余りあるものがあります。(太田)

 「支那事変勃発以後支那の各地で日本人による排英運動が盛んに行われた。軍はイギリスを支那、アジアから追い出したいという気持だった。当時東京でクレーギー大使と会談を行った際には、イギリスは当方の持ち出した原則の点は皆きいた。先方としては、条件としてではないが、日本の主張をきく代りに排英は止めて貰いたいという気持だった。ところが加藤外松(ママ(太田))が愈々細目協定の交渉に入るとイギリスの態度は硬化して来た。これにはアメリカの掣肘もあったろう。しかし、支那各地の排英はその後も止まらなかったのだから、どうにもならない。当時の軍の出先は全く不随意筋のようなもので軍の中央もこれを動かせなかった。」(246頁)

→在支那日本人・・その背後には本土の日本人がいる・・の排英感情は正当なものであり、それに陸軍、とりわけ在支陸軍が同情的であったのは当然です。だからこそ、クレイギーはこのような声に誠実に向き合ったのです。有田は一体どこの国の外務官僚なのでしょうね。やりきれないのは、恐らく当時の外務省で有田は決して珍しい存在ではなかったであろうことです。(太田)

 「外務省は内政的基盤を持っていなかったことが非常な弱みであったと思う。この点は、軍は違っていた。ロンドン条約前後から大きな金を使って軍備の必要を強調し、又いわゆる生命線論を宣伝した。陸軍は在郷軍人会のような組織を持っていた。これをどの程度に使ったかは知らないが満州事変の直前に在郷軍人大会で南陸将が満蒙問題解決のためには断乎として立たなければならないと演説したこともあった。軍は又御用学者も大分もっておった。・・・当時外務省の者は、小村さん以来の伝統で、外交は外務省に任せておけという考え方で国民大衆の上に立ってやる点にかけていた。それには矢張り金が要る。・・余り金をとるのは嫌だという考え方では駄目だと思う。」(247頁)

→一見正論を吐いているようですが、愚昧ゆえ外交の足を引っ張る日本国民を自分達のような人間が指導してやらなければならない、と有田は言っているに過ぎません。有田は、当時の日本が民主主義(的)国家であることを全く理解していなかったようです。(太田)

 「自分は<1948年刊の自著>に書いてある新憲法第9条に賛成の意見は、今でもよいと考えている。結局米ソ戦というものは無いと考えている。・・・これに関連して自分は・・・<日本は>永世中立<国になるべきだと>思う。・・・米国は、着々軍備を整えつつあり、然も日本の戸口まで来ている。戸をたたけばすぐ入ってこれる状態にあるわけだ。・・・日本が中立宣言をするとすれば、アメリカはこれに保障を与えるかも知れないが、ソ連中共は、保障しないかも知れない。しかし、それでも構わないのである。ソ連が侵略して来たら、アメリカがやるということならそれでよい。こういう考えを自分が前に発表したのは、一昨年の暮頃、対日講話の問題について国務、国防両省間の意見の対立が伝えられた。国務省の方は、沖縄や小笠原だけ押えておれば、日本内地からは兵をひいてもよいというのに対して国防省が反対しているということだった。この間の調整を計る一案として考えて見たわけである。・・・

→ここは、批判するのもばかばかしい妄言です。
 吉田ドクトリンの社会党バージョンを見事に先取りしていますね。(太田)

 自分は、再武装ということについては、軍国主義の再建を恐れる。日本の民主化などについてマッカーサー元帥のいっていることは賞めすぎで、日本の変化は、ほんの薄皮だけであると思う。又一旦ああいう憲法を造った以上、そう易々と変えるべきではない。・・・

→要するに、有田は、戦前、民主主義が大嫌いであり、世論を常に意識して動いたがゆえに外務省と衝突することが多かった軍部も大嫌いであったところ、戦後においてもその考えを貫いた、ということです。(太田)

 第三次世界大戦は起らないであろうと考える理由は、結局ソ連は今日まで力を用いないで勢力を拡張することに成功して来ているから、・・・この際世界戦争というような大冒険をする必要を認めていないであろう、ということにある。・・・
 中共が朝鮮動乱に介入して来、又現在伝えられているような大損害を蒙りながらも、これを継続している理由は、判断に苦しむ。・・・ソ連の思う通りに中国を引っ張って行っているということだろうか。

→支離滅裂な言ですね。
 有田は、ソ連による間接侵略も、北朝鮮や中共といった代理人による侵略も無視しようとするから支離滅裂になってしまうわけです。(太田)

 中共政権が内部からくつがえされるとか、あるいはソ連から離れるということは近い将来には実現出来ないことではないかと思う。・・・中共とのチトー化の可能性ということには、疑を持っておる。

→有田は、現実から目を逸らせているのですから、予想がことごとく外れるのは当然です。1965年に亡くなる前に、有田は中ソ対立
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E5%AF%BE%E7%AB%8B
の顕在化を目の当たりにすることになります。(太田)

 再軍備の問題についても、新憲法の行き方が現実の事態に適用困難になったからといって、すぐこれを改正しようとするような考え方はとらない。出来るなら憲法を改正しないで、その許す範囲内で、例えば警察予備隊の増強等のやり方を研究して見てしかるべきではなかろうか。再軍備するとなると、最初は小規模のものでよいということであっても、5年、10年経つと、それでは足りないということにあり、大掛りのものに発展する可能性がある。

→愚民観に基づく反民主主義論の典型です。(太田)

 第三次世界大戦を回避するために民主陣営の武力を増強しなければならない、それには日本としても出来るだけ協力すべきである、ということも考えられるが、何も日本がいわゆる蟷螂の斧をたてなくても、アメリカは勝つと思うし、予備隊の増強程度で勘弁して貰えたら、それが一番いいと思う。

→属国、しかも卑怯な属国であり続けようというわけです。(太田)

 ソ連が日本に対して侵攻する可能性についてのマッカーサー元帥のアメリカ上院における証言は、私がかねがね考えていたところと同じである。マッカーサー元帥は「アメリカの陸海軍は日本周辺において優勢を保持しているから、ソ連が日本に侵攻する可能性はない。例えば、北海道の一部に一時的にブリッヂヘッドを作ることは出来るだろうが、全体を制圧出来なければそんなことをやっても意味がない」というような趣旨であった。・・・

→そもそも反民主主義者である有田には、反「赤露」感情はあっても、親米感情もまたないようですね。彼には、戦前の日本がどうして反「赤露」であったのかという肝腎のところが理解できていなかったのでしょう。(太田)

 日本の安全のためには、どうしてもアメリカの力によらねばならないという結論に達したならば、そのための日米間の協定は、期間を長くした方がよいと思う。アメリカの政権が変って政策にも変化が起り、日本から退いてしまうというようなことのないように縛っておいた方がよい。」(248〜253頁)

→有田には、このような自発的属国戦略が中長期的に日本を腐らせてしまうであろうことなど全く予想外だったのでしょうね。
 もはや言葉を失います。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4372(2010.11.12)
<『吉田茂の自問』を読む(その3)>(2011.2.25公開)

 「米英・・・両国の当局者も国民<は、>・・・日独伊というような国は、やはりワンス・アンド・フォア・オールに片付けてしまわなかれば、将来に禍根を残すというような気持ちであったろう。従って、ネゴシエイテッド・ピースの余地は、初めからなかったかも知れない。」(202〜203頁)

→中身を問題にしたいのではなく、「公文書」であるにもかかわらず、この報告書における英語を多用する書き方が大変気になったので、その端的な一例として引用しました。
 この報告書の提出相手の吉田は元外務官僚ではあっても、あくまでも首相なのですから、仲間内の話法を用いたというのは言い訳になりません。
 これまでの引用の中にも、既に「インフレクシブル」、「イニシアティヴ」(2回)、「グランドデザイン」が登場ていましたね。
 特段英語を用いなくてもよい箇所であえて英語を用いるところに、(今でも変わっていないと思いますが、)戦前から戦後の頃の外務官僚達の鼻持ちならないエリート意識、というか、独善性を見る思いがしますし、これは、報告書作成にあたっての緊張感の欠如を物語っているとさえ言いたくなってしまいます。(太田)

 「外務当局は、ソ連による中立条約の廃棄の重大さを自覚もせず、又、かりに自覚していたにしても、これを終戦をもたらす上に国内的に利用しようとはしなかった。又、ドイツ降伏に際しては、少くとも表面上は、三国条約等が当然失効したものと認める旨の発表をしただけであった。この時、政府当局者、特に外務当局が、8月の終戦の際位の意気込みで、強く終戦を主張したら、目的を達することができたかも知れない。少くとも、ポツダム宣言が発出された時、これを受諾するだけの精神的な準備はできたのではないかと思われる。」(204頁)

→これは、この報告書中の数少ない正論の一つです。
 ただし、そんな見識と気概が当時の外務省には全くなかった以上、これは作文に過ぎません。
 なお、いずれにせよ、ポツダム宣言は無条件に受諾することにはならなかったでしょうね。(太田)

 「ソ連を日独伊三国側に抱き込むという夢が独ソ開戦によって破れた以上、これを前提とした外交政策は、一切ご破算とすべきであった。日独伊三国条約をご破算にしていたら、日米交渉にも本気にかかれたであろう。・・・行懸りにこだわることの禁物なゆえんである。」(223頁)

→これも、この報告書中の数少ない正論の一つであり、ドイツが日本に対する背信行為を行ったとして、当時、外務省の外からもそういう声がどうしてもっとあがらなかったのか不思議でなりません。
 しかし、残念ながら、この報告書は、ここでもその分析を怠っているので、将来の参考にはなりそうもありません。
 思うに、「行懸りにこだわる」というより、条約類は遵守しなければならない、という日本の律儀さが裏目に出たということなのでしょうが・・。(太田)

 「実利主義ということからいえば、戦争をすることは、いつの場合でも損になるに決っている。少くとも、現代においてはそうである。まして、国力不相応の戦争を自らはじめるにおいてをやだ。・・・戦争を前提とするからこそ、石油も足りない、屑鉄も足りない、ジリ貧だということになる。戦争さえしなければ、生きて行くに不足はなかったはずである。」(224〜225頁)

→「国力不相応」の戦争は行ってはならないということすら(ペルシャ戦争等を引き合いに出すまでもなく)ナンセンスに近い(コラム#4116)のですが、全般的に一切の戦争を否定しているように読めるだけに、暴論に近い箇所であると言えるでしょう。
 吉田ドクトリンを見事なまでに先取りしていますね。
 そもそも、太平洋戦争に関しては、英国の陰謀に米国が乗ぜられ(たフリをし、)日本が開戦を強いられたものであることを、この報告書は全く無視しています。
 クレイギーは「<ハルノート・・・については、私は、>そのすべてが日本がまず戦場において敗北を喫さない限り、受け入れる可能性が皆無であることを米国政府は自覚しているべきだった・・・」と記しています(コラム#3968)が、この報告書作成プロジェクトチーム員達は、クレイギーに説教するつもりのようです。
 更に言えば、(私としても、ここはもっときちんと検証する必要がありますが、)1940年中、そして遅くとも1941年初までに、必ずしも「国力不相応」とは言えないところの、日本による対英(だけ)開戦を押しとどめた外務省の責任に口を拭っているのはいかなる料簡なのでしょうか。(太田)

3 「「日本外交の過誤」に関連する諸先輩の談話及び省員の批評」より

 (1)最初に

 この部分は、関係者の証言録であり、自ずから自己弁護がなされるでしょうが、このようなものを作成し、記録にとどめることには大いに意義があったと思います。
 しかし、当然のことのように、陸軍出身の宇垣一成(外相)、大島浩(駐独大使)、海軍出身の豊田貞次郎(外相)、野村吉三郎(外相・駐米大使)らの証言は登場しません。
 全くの部外者どころか、政治的任命職であるとはいえ、外務省の仕事をした部外出身者の証言すら求めないのですから、この報告書が身内の論理で貫かれたものとなったことは、この点だけからでも必至であったと言うべきでしょう。(太田)

 (2)掘田正昭(1883〜1960年。欧米局長・駐イタリア大使等)

 「<ロンドン海軍軍縮条約への加入をめぐる1930年の>統帥権問題<が、>軍令部総長の加藤の帷幄上奏の問題に関連して<起こった>。・・・日本外交の過誤の背景をなす軍部の横暴の発端がここに開かれた。そしてこれに政党がついて来た。・・・政友会は民政党内閣を海軍問題で落とそうとかかった。・・・政友会は元々・・・侍従長・・・に不満を持っていた。・・・
 も一つの悪い結果は海軍の青年将校で陸軍の青年将校と一緒になって騒ぐ奴が出て来たことである。
 外交の過ち[り]を犯させるに至った根本の原因は軍部が外交に口を入れるようになったことである。これは絶対にさせてはならない。」(232〜233頁)

→第一に、かつて私が、「統帥権・・広義であれ狭義であれ・・を干犯するとかしないとかは、本来、帝国憲法(の解釈)とは何の関係もない事柄です。(戦前、慣例上、狭義の統帥権たる「軍事作戦の立案や指揮命令」権、すなわち軍令権を軍人に委ねていたことについては、一つの見識であり、いずれにせよ、時代の変遷とともに変わり得たことでした。)統帥権干犯問題とは、にもかかわらず、政党(政友会)が、軍政に係る事柄について、統帥権干犯なる言葉を用いて政争の具に供した・・・、という、ただそれだけの話である、というのが私の認識です。」(コラム#4141)と記したように、この事案は、当時の日本で民主主義が機能していて、対外政策が世論によって基本的に形成されていたことの証左以外の何物でもありません。
 興味深いことに、掘田自身、「このことがあって間もなく海軍の内部で申合せが出来て、「この種の問題については軍<令>と軍政の一致がなければならない」ということが定められた。これによれば、軍令系統のことも軍政系統<(究極的には内閣(太田))>と相談しないで勝手なことをやることは出来なくな<った>わけである」(232頁)と、この事案のおかげで、狭義の統帥権の独立が否定された側面があることを認めています。
 第二に、かつて私は、「軍部の下克上は、直接民主制、すなわち究極の「文民統制」によって引き起こされた一時的病理現象です。」(コラム#2922)と記したところ、軍部における下克上とは、中堅将校達が、外務省等の横やりで世論に基づく対外政策の遂行を怠り続けていた(軍部を含む)政府に対して異議申し立てを行い、あるいは政府に代わって世論に基づく対外政策を直接遂行したものであって、いわば世論が直接外交を行ったに等しい、その限りにおける病理現象である、と認識することができるでしょう。
 以上からすれば、掘田は、自分が言及したこの二つの問題を、「軍部の外交への介入」などと総括すべきではなく、「世論による外交」と正しく総括すべきだったのであり、仮にそれが日本の過誤につながったとするならば、それは、世論が間違っていたとすれば外務省がかかる世論を正すための世論への働きかけを怠ったためであり、世論が正しかったとすれば、それは、外務省がかかる世論の円滑な遂行のための諸外国就中英米の政府や世論への適切な情報宣伝活動をほとんど行わなかったためである、と自己批判ないし外務省批判をしてしかるべきでした。
 それをやらなかった堀田は、外務省の職務怠慢を棚に上げて軍部に責任を転嫁した、と非難されてもいたし方ありますまい。
 ここにも、愚民観や軍事/軍隊忌避感情に根ざす吉田ドクトリンの萌芽が見られる、と言うべきでしょうね(太田)

(続く)

太田述正コラム#4370(2010.11.11)
<『吉田茂の自問』を読む(その2)>(2011.2.24公開)

 「戦後に発表された米英側の文献からすれば、米国は、真珠湾攻撃等のことがなくても、いずれは欧州戦争に参加したであろうといい切ってよかろう。米国が日米交渉に応じたのも、話ができたら、欧州戦争に介入する場合の後顧の憂いが絶てるというところにねらいがあったと見るべきであろう。」(143頁)

→この箇所に限りませんが、この報告書、典拠がほとんどついていません。
 外国の話をする場合など、本来、絶対に典拠が必要ですが、戦前の外務省キャリアにも東大法学部に学んだ者が多かったところ、そもそも卒業しても短大卒相当であったわけですが、卒業すらせず、外交官試験に通って大学を中退するのが誉れだったときていたのでは、典拠をつける習慣が身についていなかったのは当然かもしれません。
 話は逆であり、真珠湾攻撃を含む対米英開戦がなく、なおかつ、条約上の義務がないナチスドイツが対米開戦をしなかったら、米国は欧州戦争に参加しなかったことはほぼ間違いありません。(太田)
 
 「条約<(日独伊三国同盟)>自体の目的について見ても、戦争中日独伊の間に具体的協力が行われたという事実は、ほとんどない。そういうことが行行(ママ)われうるような関係に初めからなかったのである。
 要するに、三国条約の締結も、百害あって一利なき業であった。」(144頁)

→クレイギーは、三国同盟は、日本にとって、一利どころか、相当の利があったと考えていた(コラム#3958、3960)わけですが、このくだりは、三国同盟推進の中心であった旧陸軍への敵意がこのような極端な表現を生んだのではないでしょうか。
 なお、敵の敵と誼みを通じるというのは、直接的なメリットがあろうとなかろうと、古今東西、行われてきたところであることは、あえて申し上げるまでもありますまい。(太田)

 「日ソ中立条約<を締結したものの、>その後いくばくもなくして独ソの開戦を見ている。又、この条約の締結によって、対米交渉を有利に導こうというのは、あまりに甘い考え方であり、米国のインフレクシブルな理念外交的的傾向や米国民の直情的な性向を見損ったものであった。」(144頁)

→「米国のインフレクシブルな理念外交的的傾向や米国民の直情的な性向」は、どちらかと言えば褒め言葉であり、米国の人種主義的帝国主義への言及がこのくだりだけでなく、この報告書の中で一切出てこないことは、戦前から戦後にかけての外務省が全く米国を理解していなかったことを物語っています。(太田)

 「松岡外相は、ロウズヴェルト大統領と同じように、・・・彼独自のグランド・デザインをもっていた。双方とも、野心的な性格から構想の大きいことに自負を感じていたこと、ソ連抱き込みをその一つの重要な支柱としていたこと、客観情勢のいかんはお構いなしにその偉大なる構想の実現を追求したこと、そして、この現実無視から結局大きな破綻を来したことに共通したところがある。しかし、ロウズヴェルト大統領の方は、戦争に勝つことが何ものにも優先する第一義的な目的であり、そして、この目的を達成するためには、ソ連の協力が必要であるという前提(軍当局の意見がそうだったのだから、これを採用したことについて大統領を責めるわけには行かないだろう)に立ってのことであるから、まだしも、いわゆるカルキュレイテッド・リスクとして合理性があったといわなければならない。」(156頁)

→米国の方は、1945年に入る頃までは、ソ連を敵であると考えていなかっただけではなく、そもそも国の存立が危ぶまれるような状況ではなかったのに対し、日本は、国の存立をかけて、敵であるソ連が当面対日戦を仕掛けることのないようにすべく必死であったわけであって、米日両国の対ソ政策を同列に論じること自体が間違っています。
 米国の方は、完全に対ソ政策を誤っていたのであり、戦争末期に米国はソ連の対日参戦を回避するのにやっきになるのですが、それに失敗することになります(コラム#2667、2669、2675、4110)。(太田)

 「<締結直後にナチスドイツの対ソ戦開始によって>四国協商の一支柱としての意味をもたない<ものとなった>日ソ中立条約の存在が、米国にとって対日関係上何等の重圧でありうるはずはなかった。又、中立条約の本来の目的について見ても、この条約の存在がソ連の対日宣戦をいくらかでも控えさせ、遅らせたとも考えることはできない。ソ連は、すでに欧州戦争勃発に際して、ポーランド、フィンランド等との不可侵条約を破っていた。対日宣戦も中立条約の有効期間中に行った。ドイツを片付けて余力を極東に振り向けられるようになり、又、日本が降伏の余儀なきことが明らかになるという最も都合のよい時まで待っただけの話である。」(158頁)

→ナチスドイツの対ソ戦開始は、自殺行為以外の何物でもなかったのであり、当時の日本政府が、そんなことを、ドイツが、しかも日ソ中立条約締結直後にやらかすとは予想していなかったことを責めることはできません。
 また、ソ連は、日ソ中立条約違反の誹りを免れるために、それなりの腐心をしている(コラム#4110)ことからも、同条約締結に全く意義を認めないのは行き過ぎです。(太田)

 「一体、ノモンハン事件以来の日ソ関係においては、外交のイニシアティヴは、常にソ連の手中にあったといえる。昭和14年9月15日、ノモンハンの停戦協定が成立するや昼夜を出でずして、ソ連軍はポーランドへの進撃を開始した。欧州戦争勃発後、日本側は、中立条約ないし不侵略条約締結の提案を何度も繰り返しているが、ソ連側は、北樺太利権の解消を要求して、容易に条約の締結に応じなかった。いよいよそれをソ連の方で必要とするに至って、最後のどたん場で、これに応じた。しかも、離間解消のコミットメントという景品まで付けさせることに成功した。
 このように、日本が対ソ交渉上、いつも劣位に立たされた根本の原因は、日本の米英との関係が悪化の一途をたどっていたことにあったと思われる。ソ連にしてやられるのは、米英と対立関係に入った日本の宿命であったといえよう。それにしても、これ程まで乗ぜられたということにはソ連という国家に対する根本の認識の甘さもあずかっている。これは、ソ連による中立条約廃棄通告の受け取り方とそれ以後における日本の対ソ折衝にもうかがわれる。さらに、・・・米英陣営に対抗する日独伊ソの連繋という・・・あまりに野心的、権謀術数的な大構想の罪もあげられるべきであろう。」(158〜159頁)

→「ソ連という国家に対する根本の認識の甘さ」は、米国>英国>日本、の順であり、このくだりの自虐ぶりは喜劇的ですらあります。
 また、「日本の米英との関係が悪化の一途をたどっていた」のは、米英側に非があるのであり、日本の対ソ観の妥当性について、米英政府や国民に対し情報宣伝活動をほとんどやらなかった外務省の責任も問われなければなりません。
 読むに耐えない、と言っておきましょう。(太田)

 「北部仏印進駐に関する日仏交渉の過程を通じて驚くべきことは、日本の南進に対するアメリカの強い危惧と警戒心や敵意を、日本の外交当局が当然それを知りながらも、やや実態よりも軽く考えていた節がみられることである。とりわけ、米側への説明や説得といった努力をほとんど行なっていないことが目につく。・・・
 こうした態度は、全て、日本の南進について米国は反対するけれども、それがゆえに日本と米国との全面対決には至るまいとする甘い読みが、外務省の一部を含め相当数の人々の心にあったからである。」(168〜169頁)

→ここでも、評論家的な記述にとどまっており、どうして肝腎の外務省がそんな甘い読みしかできなかったのかを究明しようとする気配が見られません。(太田)

 「日本は、日米交渉の最中の昭和16年7月、南部仏印に進駐した。これは、戦争を前提とする限り、必要な措置であったかも知れない。しかし、日米交渉の運命に対しては致命的な打撃となった。これに対抗して米国が諸般の対日圧迫措置をとったことは、当然であるが、これで日米交渉に対する日本の誠意を疑わしめることとなったことも大きい。
 日本は、米国が欧州戦争で英仏を積極的に援助した関係上、東亜において事を構えることを避けようとするであろうというところに賭けて、日米交渉に乗り出した。ところが、戦後発表された種々の資料によっても、当時米国の当局者は、さらに積極的に対独戦に積極的に介入したがっていたのであって、日本の真珠湾攻撃は、むしろ彼等をほっとさせたのである。当時の米国当局者の交渉にのぞんだ態度についても、戦後米国内で、交渉を成立せしむべきであったという見地から批判する者もあるが、しかし、米国の当局者が懸命であったかどうかは別として、日本側としては、こういう米国側の立場なり腹なりは、やはりそれとして計算に入れて置かなければならなかったはずである。
 なお、当時の英国も対日強硬態度を主張した。米国の態度が一時ぐらついた11月、チャーチル首相は、ロウズヴェルト大統領に親書を送り、蒋介石を見殺しにしてはいけない、日本人は当てにならないという趣旨のことを申し送っている。米国のみならず対独戦で弱り切っているはずの英国までも、想像以上に強腰だったわけである。」(191〜192頁)

→チャーチルは1940年5月日に(日本に対米攻撃をさせることによって)米国を欧州戦争に引きずり込む計画を思いつき(コラム#4214)、日本との外交交渉をあえて単細胞的(だとチャーチルが勝手に思い込んでいた)米国にぶんなげ、(結果的に)日本を追い詰めることに成功します。
 そして、翌1941年12月に「真珠湾攻撃<という日本の対米開戦という自分の工作成功>のニュースを聞いて<、チャーチルは>戦争の勝利を確信」するのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83
 ですから、例えば、1941年9月に米国が対日宥和に一瞬心を動かした時にも、彼は、米国を翻意させるために全力を挙げています。(コラム#3978)
 「対独戦で弱り切っているはずの英国までも、想像以上に強腰だった」などと寝ぼけたことをこの報告書は言っていますが、(クレイギー等から見れば、客観的には、同年11月の時点では既にドイツに勝ち目はなくなっていたところ、その時点からさかのぼればのぼるほど、)チャーチルは主観的には対独戦で弱り切っていたからこそ、彼は、米国を何が何でも欧州戦争に引きずり込みたかったわけであり、このチャーチルの意図を全く見抜けず、最後の最後まで米国より英国の方が対日宥和的であると信じ続けた当時の外務省の間抜けかげんには開いた口が塞がりません。
 しかも、この書きぶりからすると、戦後1951年の時点で、なお、当時の自分達の先輩達の間抜けさかげんにこの報告書のプロジェクトチーム員達は気付いていないように見えます。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4368(2010.11.10)
<『吉田茂の自問』を読む(その1)>(2011.2.21公開)

1 始めに

 読者のTAさん提供の小倉和夫『吉田茂の自問 敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』(藤原書店 2003年9月)からの抜粋から、更に抜粋し、適宜私のコメントを付したいと思います。

 吉田茂は、2度目の首相当時の(まだ講話前の)1951年1月上旬、外務省政務局政務課長を箱根の別荘に呼び、次のような指示を与えました。
 「・・・日本外交は、満州事変、支那事変、第二次世界大戦というように幾多の失敗を重ねてきたが、今こそこのような失敗の拠ってきたところを調べ、後世の参考に供すべきものと思う。これらの時代に外交に当たった先輩、同僚の諸君がまだ健在の間に、その意見を聞いておくのもよいだろう。
 以上のようなことを、上司とではなく君たち若い課長の間で研究を行ない、その結果を報告してもらいたい」(18頁)
 
 こんな指示を出したのでは、次の四つの理由から、碌な報告書ができあがらないに決まっています。
 第一に、いくら外務省出身だと言っても、吉田は首相なのですから、「日本外交は」ではなく、「日本政府は」でこの指示を始めなければならなかったはずです。
 省庁横断的なプロジェクトチームを立ち上げるのは時間も経費もかかるし秘密保全もできない、という判断があったとしても、「満州事変、支那事変、第二次世界大戦」を外交的視点からだけで振り返ることができるわけがありません。
 第二に、百歩譲って、外交的視点からだけ振り返ることにそれなりの意義があるとしても、それを外務省職員だけで構成されるプロジェクトチームにやらせたのでは、外務省に甘く外務省以外には厳しい報告書になるのは分かりきっている話です。
 第三に、吉田の指示は、「満州事変、支那事変、第二次世界大戦」(の日本政府による開始(?))のいずれも、ないしは戦前の昭和史が「失敗」であった、という結論をいわば押しつけた形のものであったことであり、結論が決まっている以上は、失敗をもたらした「過誤」について、犯人捜しをした結果をまとめた報告書ができあがることもまた分かりきっている話です。
 更に端的に言えば、その犯人が軍部ということにされるのは火を見るより明らかであった、と言うべきでしょう。そもそも、吉田が軍部嫌いであることは周知の事実でしたしね。
 第四に、これはTAさんが(コラム#4359で)既に指摘している根本的な問題点ですが、以上のような指示内容である以上、「満州事変、支那事変、第二次世界大戦」に係る諸外国が犯した「過誤」を追及、考察することは最初から全く考慮の外に置かれており、そんなマスターベーション的、あるいは自虐的な報告書を取り纏めてどうするのだ、ということです。

 この本の著者(編者とすべきであったのでは?)の小倉和夫は、
「吉田茂は、<その>月末に日本を訪問する予定のジョン・F・ダレス特使との講和条約に関する交渉方針を練っていた。・・・アメリカ側が日本に要求してくる最大のポイントは、日本の再軍備であることを十分意識していた。しかし、吉田は、信念として、日本の安易な再軍備には反対であった。・・・再軍備はしない--そう日本国民が固く決意している以上、それをくつがえすことはできない。しかし、その決意が真に堅固たるものであるには、軍部の暴走を許した過去の反省が深く鋭いものでなければならなかった。吉田茂の頭と心を支配していたこうした思いが契機となっ<て>」(16頁)
吉田は上記のような指示を行ったのではないか、と記しています。
 私は、恐らく、この忖度は、正鵠を射ているのではないかと思います。
 吉田は、このような政治的目的、すなわち、(朝鮮戦争勃発時に引き続く、)講話時における(再度の)再軍備拒否に成功するわけですが、その結果、占領終了後の日本は米国の属国になったばかりではなく、吉田の予期に反してその状態が恒久化してしまったことを我々は知っています。
 このような取り返しの付かない「過誤」を吉田が犯すための材料に使われる報告書を、外務省の当時の課長達つくらされた、ということになるわけです。

2 「日本外交の過誤」より

 「当時の中国の特殊事情からして、ある程度の武力行動は、かりに止むをえなかったとしても、満州国を独立せしめ、さらに、国際連盟を脱退(昭和8年3月27日)するところまで突走ったのは、勢いのおもむくところとはいえ、何等利するところのないことであった。これについては、もちろん、日本国内の強硬派ばかりを責めるわけには行かない。米国のスティムソン国務長官が、事態の推移が見極められるまで待たないで不承認主義(満州国の成立は、太平洋の現状維持についての国際的了解に反し、米国としては認められないというもの。(小倉))なるものを通告(昭和7年1月7日)した<(コラム#4004)>ことも、日本をあそこまで追い込む一因となったとも見られよう。又、当時の外務当局に事変前の内外情勢の行詰りを打開しようというような積極性が乏しく、又事変勃発後においては、事毎に軍部に反対したが、その根拠が現実から遊離した観念論に終始したことも、反省の余地があるのではなかろうか。・・・満州事変そのものだけについていえば、国際的な悪評をこうむりながらも、一つの既成事実をつくることに成功した。そして、国民は、その方について行ったのである。」(70頁)

→めずらしく、外務省や米国の批判を行っている箇所です。これは、軍部や国民が現実主義的であって、外務省や米国が「現実から遊離した観念論に終始し」ていた、と断じたとさえ読むことができそうです。惜しむらくは、どうして外務省と米国がそれぞれ「現実から遊離していた」のかの分析がなされていません。(太田)

 「日本は、国際聯盟脱退後、昭和9年にはワシントン海軍軍縮条約を廃棄し(12月29日)、又、昭和11年には、ロンドンの軍縮会議<(注1)>からも脱退した(1月15日)。両者[英米と日本と]の国力には大きな懸隔があったのであるから、日本の国力についての現実的考慮からすれば、いずれもまとめた方が有利な話であったはずである。」(99頁)
 (注1)第二次ロンドン海軍軍縮会議。「1935年12月9日にイギリスのロンドンで開かれた国際会議。1930年に締結されたロンドン海軍軍縮条約の改正を目的としたが、1934年に行われた予備交渉が不調に終わった為、日本は軍縮条約からの脱退を決意。1934年12月、ワシントン海軍軍縮条約の条約破棄を通告(破棄通告後二年間は有効)。1936年(昭和11年)1月15日に本会議を脱退、イタリアもエチオピア侵略の為脱退し、最終的に英・米・仏の三国のみで1936年3月25日に第二次ロンドン海軍軍縮条約が締結された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E7%B8%AE%E4%BC%9A%E8%AD%B0 (太田)

→一見もっともらしい指摘ですが、国力はともかくとして、当時の米、英両国とも不況下にある上世論は軍備増強に否定的であり、当時の日本にとって、無条約状態が現実に有利なのか不利なのか、一概には言えなかったのではないでしょうか。また、その後、実際に、日米英3国の建艦状況はどのように推移したのでしょうか。具体的に論じていないことにもの足らなさを覚えます。(太田)

 「<昭和11年には日独防共協定が締結され、>翌昭和12年には、イタリーが防共協定に参加し、日独伊三国間の協定になった・・・ソ連ないし、国際共産勢力なるものの脅威は、当時国際的にさほど感ぜられていなかった。ソ連自身は、革命以来、第二次大戦の直前までは、少くとも、対外武力行使に関する限り、ずっとおとなしくしていた。コミンテルンなるものの活動も、ソ連以外のどの国でも共産革命を成就せしめえなかった位だから、国際的な対抗措置を講ずる必要がある程の脅威とは認められていなかった。それに反して、日独伊の方が国際的に脅威を感ぜられていたのである。日本が中国に進出するに際しては、よく防共ということを口にしたが、それはいわば口実であり、又、一般にそう認められていた。従って、世界の非共産主義諸国の反共聯盟の結成というようなことは、全く夢に過ぎなかったわけである。今日の世界の情勢にかんがみれば、先見の明があったといえないこともないかも知れないが、果してどれだけまじめであったか疑問であり、又たとえ先見の明があったにしたところで、一般に受け入れられなければ、現実的には無意味である。」(101〜102頁)

→ここは、最も問題のある箇所です。 
 (以前コラム#4002で記したように、)日本政府は、外相も当然加わった閣議で決定、改定されてきた帝国国防方針を、1936年(昭和11年)に、初めて軍部と外務省との間の事前調整を経て再度改定し、ロシア(ソ連)を(米国と並んで)最大の仮想敵国としたところ、あたかもそれがおかしかったと言わんばかりです。
 そもそも、「ソ連ないし国際共産勢力」が「ソ連以外のどの国でも共産革命を成就せしめえなかった」と、あたかも「ソ連ないし国際共産勢力」が(本来支那の一部である)外蒙古で共産革命を成就させ(、支那から分離せしめた)ていたという史実を忘れたような妄言を記すとは呆れるほかありません。
 ソ連が「対外武力行使に関する限り、ずっとおとなしくしていた」というのも、ソ連が1929年7月にソ連軍を満州に侵攻させて中華民国軍を撃破するという中東路事件を引き起こした(コラム#4004)史実を無視しています。
 「日本が中国に進出するに際しては、よく防共ということを口にしたが、それはいわば口実であり」というくだりなど、支那政策に真摯に関与した軍人達に対する冒涜以外の何物でもありません。
 また、「一般にそう認められていた」にいう「一般」とは、一体誰を指しているのでしょうか。
 当時の国民世論ではありえない以上、論理的には外務省と米英等ということにならざるをえません。
 このように、外務省は、文字通り、支那や日本国内の「現実から遊離した観念論」をもてあそんでいたわけですが、そんな外務省が、国内的には軍部、就中陸軍にことごとくケチをつけてはその足を引っ張り、また、米英等に日本の対ソ・対共産主義政策を広報宣伝して「受け入れられ」るようにする労など一切とらなかったのは当然であったと言うべきでしょう。
 こんな外務省、こんな外務官僚達を持っていたことが日本の悲劇だったのです。(太田)

(続く)

 この点に関する限り、日本は米国の保護国どころか、終戦当時から引き続き米国の占領下にあると言えるでしょう。
 次に、やはり米国の他の同盟国ではまず見られないことですが、日本は在日米軍駐留経費を(半分も)負担させられています。米軍基地の土地借料分を計算に入れると、日本は米軍の駐留経費の実に8割を負担している勘定になるのです。
 しかも日本は、米軍基地の正規の日本人労働者のほか、米軍基地内の独立採算制のハンバーガー店等の日本人労働者の給料まで負担しています。
 その結果、米軍は減っているのに基地労働者はどんどん増えている、という笑い話のようなことが生じています。

 (在日米軍は、駐留経費負担が始まった1978年度には4万5,939人だったのが、2006年度(9月末現在)では27%減の3万3,453人まで減少したというのに、米軍基地内で働く日本人従業員は、1978年度2万 1,017人だったのが、2006年度(同)には逆に2万5,403人へと2割も増え、今では、米軍100人あたり基地従業員が75.9人もいる。ちなみに、韓国は米軍100人当たり47.2人、イタリアは43.1人、ドイツは30.8人だ。)
 
 また、何事によらず日本は米国の言いなりになっている、と不愉快な思いをされていませんか。
(コラム#1823)

 9 「一般的に、戦後日本は吉田茂のもと、いわゆる吉田ドクトリンという戦略をとることで、世界第二位の経済大国にまでなったといわれていますが、このことに関して太田さんはどう思われておられますか?」

 吉田ドクトリンは、吉田茂の米国に対する強い反発感情に起因する判断ミスに端を発し、その後吉田自身が自分の選択を後悔していたにもかかわらず、様々なイデオローグ達や吉田のできのわるい弟子の政治家達によって、いつしか吉田ドクトリンなる日本の国家戦略へと祭り上げられていっただけで、そもそも、戦略とよべるようなものではありません。

 吉田茂は何に怒ったのでしょうか。

 第一に、米国の誤った東アジア政策です。

 先の大戦は、第一次世界大戦の結果世界に覇権国が存在しなくなった、すなわち、英帝国は疲弊し、米国は覇権国たる自覚が欠如していた、という状況下で東アジアにおいて、ソ連、蒋介石政権、中国共産党らの民主主義的独裁勢力への防波堤となり、地域の平和と安定を維持に努めるという、覇権国機能をやむなく果たしていた日本への、有色人種差別意識に根ざす日本蔑視に加えて、「12歳」並みの判断能力しかなかった米国の無知・無理解に基づく敵意が日本を含む東アジアにもたらした悲劇です。
 皮肉なことに、日本の敗戦後、米国は、ファシストたる蒋介石政権をようやく見限ったものの、支那と北朝鮮、更にはインドシナにおける共産主義政権の樹立に伴い、ソ連の脅威に加えてこれら諸国の脅威に東アジアで直面した米国は、「戦前」の日本と全く同じく東アジアの覇権を、しかし「戦前」の日本よりもはるかに不利な戦略環境の下で追求することを余儀なくされたのです。
 そして、さすがに頭の固いマッカーサーも、朝鮮戦争で北朝鮮及び中国と戦う羽目となり、東アジアの平和と安定を担っていた小覇権国日本と手を組むどころか、民主主義的独裁勢力に手を貸して日本を叩き潰した米国の非に気づいたのでしょう、マッカーサーは、「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」と1951年5月に米議会で証言したのです。(コラム#221)。
 米国が犯したこの深刻な過ちは、米国にとって、第一の原罪である黒人差別(コラム#225)と並ぶ第二の原罪と言ってもいいでしょう。(コラム#234)、
 
 これが吉田茂の抱いた米国に対する怒りの第一の原因であると思われます。

第二に、米国による日米協定破りです。

 1905年、日本の桂太郎首相とタフト米陸軍長官の間で、桂・タフト協定が締結され、日本は米国の植民地フィリピンへの不干渉、米国は日本が朝鮮を保護国とすることを認めました。その三年後の1908年には高平大使とルート米国務長官の間で、高平・ルート協定が締結され、日米両国は、アジア・太平洋における相互の領土尊重、中国の門戸開放と領土保全、中国のおける現状維持を約束しました(中国における現状維持という言葉は、満州における日本の経済特殊権益を暗黙のうちに認めるものと理解された)。
 ところが、先の大戦が始まるや、1943年のカイロ宣言において、米国はこれら協定に違背して、英国、中華民国とともに、「滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國カ清國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ 日本國ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本國ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ驅逐セラルヘシ 前記三大國ハ朝鮮ノ人民ノ奴隸状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且獨立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」と、「盗取」、「略取」という言葉を使って、日本の植民地及び中国における権益保有の正当性を否定したのです。
 このカイロ宣言は、ポツダム宣言で援用され(コラム#247)、日本がポツダム宣言を受諾して降伏することによって、日本は植民地及び中国における権益を失いました。
 それだけではありません。戦後米国は、これらの地域における全日本居留民を日本に追放するとともにその全私有財産を没収するという国際法違反を行いました。日本の植民地及び中国における権益の保有を違法視したカイロ宣言・・この宣言自体が国際協定、すなわち国際法違反・・を実行に移したわけです。
 これが吉田茂の抱いた米国に対する怒りの第二の原因であると思われます。

 第三に、日本国憲法、就中第9条の押しつけです。

 日本が受諾したポツダム宣言第の13項には、「吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ニ対ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス・・」とあり、日本軍が無条件降伏しただけであったのに、連合国(=United Nations=国際連合、しかもそれが実質的には米国、であることにご注意)は、1945年8月に日本を占領するや、ポツダム宣言13項は、日本に無条件降伏を要求したものと一方的に読み替え、ポツダム宣言の履行監視の域を超え、早くも10月に憲法改正を「示唆」し、翌年の2月には、自ら作成した新憲法草案を日本政府に押し付けました。
 これは日本の降伏条件違反であるのみならず、戦時国際法にも違反する二重の国際法違反です。
 すなわち、陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(ハーグ陸戦法規)の第43条には、「国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ」と規定されているところ、第一に、日本が無条件降伏していないことから、ハーグ陸戦法規のこの占領規定が適用され、そうである以上は、第二に、大日本帝国憲法が「占領」に「絶対的・・支障」がない(連合軍は、大日本帝国憲法の規定のどこが占領に支障があるのか、具体的に明らかにしていない)ことから、連合軍が新憲法を押し付けることは許されないのです。
 
 (フランス憲法には、「領土保全が侵害されている場合には、いかなる憲法改正手続きも開始または継続されてはならない」(89条4項)という規定がある。これは無条件降伏の場合の抜け穴をあらかじめ閉ざしたもの、とも解しうる。)

 それだけではありません。
 連合国が押し付けた新憲法草案には、後に第9条となる、日本の再軍備禁止条項が含まれていました。これは、占領終了後の日本を、連合国、実質的には米国、の保護国の地位に貶めようとするものでした。

 吉田は当時、外務大臣でしたが、天皇制と昭和天皇を守るため、緊急避難的に連合国の不当な新憲法制定要求を受け入れます。

 これが吉田茂の抱いた米国に対する怒りの第三の原因であると思われます。

 第四に、日本への朝鮮戦争参戦要求です。

 その連合国があろうことか、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、米国の戦略は180度一変し、日本を共産主義の防波堤とする戦略に切り替え、いまだ占領下にあった日本に対し、連合国軍(朝鮮国連軍)の補助部隊としての朝鮮半島出兵を含みにした再軍備を要求してきたのです。

 これが吉田茂の抱いた米国に対する怒りの第四の原因であると思われます。
 吉田はここで完全にキレたのです。彼は恐らく、誰が朝鮮戦争の原因をつくったのか、誰が日本人を朝鮮半島から無一文で追放したのか、誰が日本に再軍備を禁じたのか、その日本によくもまあ、そんな要求ができるものだ、という気持ちだったろうと推察されます。

 これらの怒りにかられた吉田茂の対応は、断固たる再軍備拒否でした。
 私でも、当時の一市民であれば、吉田の対応に喝采を送ったかもしれません。
 しかし、吉田は日本の総理大臣でした。
 冷静にこれを絶好の機会ととらえ、朝鮮戦争に参戦はしなくてよいとの言質をとりつけた上で、彼は憲法9条改正の指示を日本占領中の連合国に出させ、ただちに再軍備に乗り出さなければならなかったのです。
 当時連合国、すなわち米国は、あわてふためいており、日本の再軍備を熱望していたのですから、吉田の要求を全部飲んだ上、再軍備のための初期経費を喜んで負担してくれたはずです。
 その後の吉田の対応も、著しく適切さを欠くものでした。(吉田の「過ち」の全体像については、拙著「防衛庁再生宣言」219〜223頁参照。)
 そして、この怒りによって我を忘れた吉田の対応は、様々なイデオローグ達や吉田の弟子たる政治家達によって、いつしか吉田ドクトリンなる日本の国家戦略へと祭り上げられていくのです。
(拙著223頁以下を。コラム#349、250→『属国の防衛革命』24〜29頁) 

10 日本は、米国と今後、どういう付き合い方をすればよいとお考えなのですか?

 少し、話の幅を広げつつ、今までお話をしてきたことをまとめると、次のようになります。

 欧州とイスラム世界は、世界観やおぞましさにおいて、瓜二つ的存在でした。
 米国は、アングロサクソンを主、欧州を従とするキメラ的存在であって、米国は欧州とは、おぞましさを共有しているのです。
 米国のおぞましさは、どちらも欧州由来である、その市場原理主義と人種主義的帝国主義イデオロギーにあります。
 その米国は、情報社会の到来により、所得・資産格差がどんどん酷くなりつつあり、一握りのエリートと大多数の庶民に二極分解しつつあります。その結果、庶民を中心に、もともと孤独でストレスに苛まれてきた米国人の孤独、ストレスが一層募ってきていると私は見ています。
 そのためでしょう、迷信にたぶらかされている庶民がどんどん増えています。
 米国が、一種ラテンアメリカ化しつつある、と言ってもいいかもしれません。
 それに加えて、金融危機を端緒に米国は深刻な景気停滞に陥っており、その相対的国力は急速に衰えを見せています。
 このような背景の下、米国のイデオロギーである、市場原理主義と人種主義的帝国主義のうち、前者のウェートが高まり、米国がファシスト国家化する可能性が現実のものとなりつつあります。
 ブッシュ時代には、対テロ戦争の名の下で、ファシスト国家の一歩手前まで墜ちた米国でしたが、オバマの大統領選出によって、間一髪で引き返すことができました。
 しかし、世界を全く知らず、また、地球温暖化人為説を否定する、トンデモおばさんたるペイリン前アラスカ州知事が、庶民の支持を得て、次の大統領選で共和党の候補に選ばれ、更には大統領に当選する可能性が出てきています。
 万一そんなことになれば、米国が本格的にファシスト国家化する危険性があります。
 もっとも、ペイリンなどが大統領になれば、属国日本の奴隷根性が骨の髄まで染みこんだ大部分の日本人のうちの多くが、とてもじゃないけど、こんな大統領をいただくような宗主国に日本の安全保障を委ねるわけにはいかないことを身に染みて悟って、日本の「独立」に賛成してくれるかもしれませんね。
 (コラム#3697、3699、3701)

 まあ、それは冗談として、私に言わせれば、先進国でまともなのは、アングロサクソン諸国と日本だけであり、とりわけまともなのは日本です。
 例えば、欧州文明の鬼子であるロシアは、共産主義を掲げ、戦後一時世界人口の三分の一を支配しましたが、世界の自由民主主義的諸国の中で、19世紀から、一貫してロシアと戦ってきたのが日本だけであることに我々はもっと誇りを持ってよいでしょう。
 だからこそこの両者で、bastardアングロサクソンたる米国をおだてながら善導(harness)しつつ、西欧を中心とする欧州の政治統合を妨げながらもこれを活用して、世界の安定と繁栄を確保する体制を構築する必要があるのです。
 そのためにも、まずもって、人種主義的帝国主義と市場原理主義を信奉してきた病んだ国であって、現在、急速に国力の相対的低下に悩む米国から、日本が「独立」することが、喫緊の課題なのです。
 (コラム#3695、3696)


≪参考文献≫

1 アングロサクソン

・タキトゥス『ゲルマニア』(ラテン語からの翻訳)
・Alan MacFarlane ‘THE ORIGINS OF ENGLISH INDIVIDUALISM: THE FAMILY, PROPERTY AND SOCIAL TRANSITION’(邦訳あり)

2 欧州

・John Gray ‘Black Mass?Apocalyptic Religion and the Death of Utopia’

3 米国

・Bruce Feiler 'AMERICA'S PROPHET Moses and the American Story'

4 米国の人種主義的帝国主義

・Jackson Lears 'Rebirth of a Nation: The Making of Modern America, 1877-1920'
・James Bradley 'THE IMPERIAL CRUISE A Secret History of Empire and War'

5 戦前の日本の政治体制

・Gordon M. Berger, Parties out of Power in Japan 1931-1941(邦訳あり)
・古川隆久『戦時議会』

6 日米戦争

・Arthur Waldron ‘How the Peace was Lost: The Developments by Ambassador Jon Van Antwerp MacMurray’(邦訳あり)
・ジョン・ダワー『人種偏見――太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』(John W. Dower ‘War without Mercy: Race and Power in the Pacific War’の翻訳)
・Nicholson Baker 'Human Smoke--The Beginnings of World War II, the End of Civilization'

5 原爆投下

・Tsuyoshi Hasegawa 'Racing The Enemy: Stalin, Truman, & the Surrender of Japan'
・Daniel Jonah Goldhagen 'WORSE THAN WAR Genocide, Eliminationism, and the Ongoing Assault on Humanity'

太田述正コラム#3754(2010.1.7)
<早稲田大学での講義>(2010.2.7公開)

 本日1630〜1800、早稲田大学政経学部の3、4年生を対象とした授業の一環として、私が1コマ受け持ち、講義をしてきました。
 以下に、事前に学生諸君に配布してあった講義案を掲げます。
 なお、有料読者の皆さんは、本日の講義に用いたパワーポイント資料2種を、コラム・バックナンバーと同じ形でダウンロードできます。
 資料2種とは、学生諸君に講義が始まる際に白黒コピーで配布した資料と、私が実際にプロジェクターに出力して使った資料(ファイル名にanimationが入っている)です。
 講義案作成に協力していただいた、MSさん、べじたんさん、Chaseさん、USさん、そしてパワーポイント資料を一手に作成していただいたUSさんに心から御礼申し上げます。(太田)
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                 講義案

全体構成

一 講師紹介
 概要:太田さん自身のプロフィール及び太田さんの表芸、裏芸についての紹介
二 米国論
 概要:世界の警察であるとか、自由主義陣営のリーダーを自認している米国だが、実は、できそこないアングロサクソンであることを説明
三 属国論
 概要:日本は、そのできそこないアングロサクソンである米国を宗主国とする属国であることを説明
四 日本の選択肢
 概要:日本の選択肢を提示する。強制はしない

一 講師紹介

 1 太田さんの紹介

 簡単な略歴
 専門が国際問題・安全保障であることの説明
 一方、官僚批判などもその著書で行っていることを説明

 2 「太田さんは、安全保障の専門家として、現在の日本の状況をどのような危機感を持たれておられますか?」

 戦後日本の国家戦略は、自らの意思で属国・・外交、防衛を米国に依存・・となり、経済に専念するという、いわゆる吉田ドクトリンです。
 要するに、日本は、集団的自衛権行使の禁止というエゴイズムの奨励と国家としてのガバナンスの放棄を自ら行い、現在に至っているのです。
 現在の政治、官僚機構、ひいては政府依存度の大きい大企業における、三位一体的癒着構造の下での退廃・腐敗はその論理的帰結である、と私は考えているのです。
 このような人類の歴史上余り例をみない退嬰的な戦略に半世紀以上も経っていまだにしがみついている日本を、米国の指導層は軽蔑しきっています。

 ここで日本の安全保障状況についてちょっと触れておきます。
 冷戦時代を含め、戦後一貫して、日本に対する直接侵略の脅威はありませんでした。
 というのは、一つには四囲が海であることです。これが核時代においては決定的な意味を持ちます。日本に対する上陸作戦の実施がほとんど不可能になったからです。
 次に、在日米軍が日本に前方展開し、朝鮮半島には、在韓米軍と韓国軍が存在して、日本を大陸からの脅威から守ってくれていることです。
 結局、日本にとっての軍事的脅威は、核の脅威とテロリスト的脅威だけなのです。
 しかし、核の脅威に対しては、米国の核抑止力に依存できることに一応なっていますし、テロリスト的脅威に関しては、軍事的脅威というよりは、治安上の脅威であり、基本的に警察力で対処すべきものです。

 このように、国内では軍隊として活動をする場面はまず考えられないわけですが、そこへもってきて、政府憲法解釈により、集団的自衛権行使が禁じられているのですから、海外で軍隊としての活動をすることも不可能です。

 それだけではありません。
 念が入ったことに、自衛隊は軍隊ですらないのです。
 憲法解釈上の建前論を言っているのではありません。
 編成・装備は軍隊のように見えますが、軍隊もどきの警察にほかなりません。
 「警察」予備隊のままだ、と言ってもいいでしょう。
 (国際法上は軍隊とみなされるでしょうが、それは別の話です。)
 というのは、自衛隊は、政府憲法解釈により、軍法会議や軍律法廷(コラム#5)など、軍隊の基本的な機能を欠如したまま、ポジリストにより管理されているからです。
 ポジリストとは、何をやってよいか、細かく法律によって定められていることです。
 これは、自衛隊が単なる一行政機関であって、まさに警察そのものであることを意味します。
 およそ軍隊というのは、政府の最後の拠り所たる暴力装置であって、諸外国においては、国際法上禁止されていること・・ネガリスト・・以外は、何でもやらせることができるものなのです。
 このように、国内で自衛隊法でがんじがらめにしばっている上に、海外に派遣する時には、いちいち特別法をつくるというやり方をしています。
 イラクに派遣するのも特別法をつくり、インド洋で給油活動をするのも特別法をつくり、すべて期限を付している、というのですから、何をかいわんやです。

 結局、自衛隊は軍隊としてやるべきことは何もないし、何もできない、ということです。

 その結果、これまで国内ではもちろんですが、PKO等で民間人、外交官、警察官は任務遂行中の死亡者が出ているけれど、自衛官の死亡者は一人もいないという笑い話のような話になっているわけです。

 こんな自衛隊が、退廃、腐敗しない方が不思議でしょう。
 これほどひどくはないけれど、似たようなことが、外交の基本を宗主国の米国に委ねていることから外務省についても言えます。
 安全保障に関係のない省庁などありませんし、グローバル化した現代においては、外交と関係のない省庁もほとんどありません。
 結局、退廃、腐敗は全省庁、ひいては政府依存度の高い全企業を覆うことになって現在に至っているのです。

 このような見解に私が到達したのは、私が、戦後日本の吉田ドクトリンの矛盾を集約したような官庁である防衛庁に30年近く在職したからこそですが、だからといってこのような見解をバイアスがかかったものである、とは考えていません。

 ところで、勘違いしてもらっては困るのであえて申し上げておきますが、官僚批判にせよ自民党批判にせよ、これらは私の裏芸であって表芸ではありません。
 7年以上にわたって書き綴ってきた私のブログ
http://blog.ohtan.net/
をご覧になればすぐお分かりになるように、私の表芸は比較政治論であり国際安全保障論なのです。
 しかし、残念ながら日本の現状においては、私が比較政治論や国際安全保障論をどれほど論じようと、それらが日本の政治、日本の安全保障に活かされることはありえません。なぜなら日本にガバナンスが欠如しているからです。
 だからこそ、私は官僚批判や自民党批判を行い、日本が米国から自立を果たし、ガバナンスを回復するために戦っているのです。
 米国の属国なるがゆえに政官業が退廃・腐敗したという私の認識を今申し上げたところですが、政官業の退廃・腐敗を突くことは、米国の属国という現実を浮かび上がらせることにつながる、と考えています。
(コラム#2613=『実名告発防衛省』序文、コラム#2989、#30、57、58)

 3 ありがとうございます。 表芸・裏芸が表裏一体であると理解しました。 では、本日のテーマである米国論、属国論について教えてください。
 まず、米国論からうかがいましょう。
 私たちは経済的にも文化的にもまた安全保障の観点からも過度に米国に依存している感があります。先生のご専門である我が国の安全保障の観点から、このような状態は望ましいものなのでしょうか? 言葉を変えると、米国とはそれほど頼りにしてよい国なのでしょうか?

 (アングロサクソン=イギリス人とは、ゲルマン文化を継受した、ブリテン島在住のバスク人である。言語はベルガエ人から、言語以外の文化はアングロサクソンから継受した。それ以前は、ブリテン島及びアイルランド在住のバスク人はケルト文化を継受していた。これが、イギリス人とウェールズ・スコットランド・アイルランド人との違いだ。すなわち、後者はケルト文化を維持したのだ。後者は文明的には欧州文明に属する。前者は言うまでもなく、純粋ゲルマン文化を特徴とするアングロサクソン文明を形成した。(コラム#1687))

 アングロサクソン文明と欧州文明の違いは何か。
 一言で言えば、ローマ文明の影響を強く受けていないかいるかの違いです。
 ローマ文明とは、ローマ法とキリスト教(帝政期に国教化された)によって特徴付けられます。
 欧州文明とは、ローマ文明をそっくり継受しつつゲルマン人が支配者として形成した文明であり、ローマ文明の特徴に加えて階級制を特徴とする、演繹的、合理論的思考の文明です。
 これに対し、アングロサクソン文明とは、純粋なゲルマン文化を継受したものであり、コモンローと個人主義を特徴とする、帰納的、経験論的思考の文明です。個人主義を特徴としているということは、アングロサクソン文明は、本来的に資本主義的文明であるということです。
 アングロサクソンと欧州は、水と油くらい異質であり、アングロサクソンは、野蛮はドーバー階級の向こう岸から始まると内心思っています。
 他方、欧州は、アングロサクソンに対し、内心著しいコンプレックスを抱いているのです。

 4 米国もそのアングロサクソンの一員ですよね?

 私は、米国はアングロサクソンを主、欧州を従とする「キメラ」であると考えており、そのような意味で、米国をできそこないのアングロサクソンと形容してきました。
 その欧州における、18世紀における代表的知識人たるフランスのヴォルテールもドイツのカントもユダヤ人やアフリカの黒人に対する偏見を抱いており(コラム#3702)、19世紀から20世紀にかけての西欧列強は、文字通りの人種主義的帝国主義国でした。また、ナチスがユダヤ人の絶滅を図ったこともご存じのとおりです。
 欧州を従とする米国もまた、欧州同様、人種主義的帝国主義だったのです。
 これに対し、イギリスは帝国主義国ではあったけれど、決して人種主義的ではありませんでした。
 そのことがよく分かる挿話をご紹介しましょう。

続きを読む

太田述正コラム#3125(2009.3.1)
<右脳インタビュー>

 (これは、私が片岡秀太郎氏に受けたインタビューが同氏のサイト
http://chizai-tank.com
に掲載されたので、転載したものです。
 脚注を付けたのは同氏です。)


第40回 右脳インタビュー 2009年3月1日
太田 述正さん  評論家。元防衛庁審議官
http://www.ohtan.net/


プロフィール
評論家。1949年三重県生れ。 東京大学法学部卒。防衛庁入庁後、スタンフォード大学に留学、経営学修士(MBA)及び政治学修士(MA, Political Science)取得。英国国防省の大学校(Royal College of Defence Studies)に留学。その後、教育課長、防衛大学校総務部長、防衛庁長官官房防衛審議官、仙台防衛施設局長を歴任。

主な著書                            
『実名告発 防衛省』 太田 述正 (著) 金曜日 2008年
『属国の防衛革命』 太田 述正, 兵頭 二十八 (共著) 光人社 2008年
『防衛庁再生宣言』 太田 述正 (著) 日本評論社 2001年


片岡: 今月の右脳インタビューは太田述正さんです。太田さんの著書「実名告発防衛省」は、天下りや口利きの実態を企業や政治家の実名を挙げて告発しており衝撃的でした。
太田: 守屋武昌(注1)の事件も、結局、接待だけに焦点を故意に絞り、天下り問題を避けた感がありました。接待など小さな問題で、天下り、そしてそれを容認して「みかじめ料」を得ている政治家の腐敗が最大の問題です。これはどの省庁にも共通の問題です。だから天下りの柵を断ち切れば、少しはまともな議論も起こって、役人も本来の仕事をするようになる…。兎に角、風を吹かせてみなければ何も起こらないという気持ちでした。当初は圧力もあるのではないかとも思っていましたが、そういったものはなく、脅威と感じていないのか、反発をするエネルギーもないのか…。間違っていると思うなら名誉棄損で私を訴えればいいのですが、そうすることで証言者が現れる可能性もあります。元々刑法に直接引っかかるような不詳事は書いていませんので、藪蛇になるようなリスクまでは冒したくないのかもしれません。その後、天下りに対する規制が既定路線となってきましたことからすれば、一定の役割を果たせたと思っています。
片岡: 次の目標は。
太田: 米国からの独立です。それは国家ガバナンスの回復のためです。日本は米国におんぶに抱っこ、「米国にダーティジョブを任せ、日本は経済に集中する」といって、国家にとって一番重要な外交・防衛の基本を自分で決めないことにしたまま現在に至っています。こうして日本は戦争を放棄してしまっているので、防衛省は存在意義がなく、仕事をしているふりをしなくてはいけません。腐敗が特に深刻化する土壌があります。そういう制度設計をしたのは政治家であり、国民です…。本来、そうした腐敗の深刻化を防ぐのは防衛省のキャリアの大切な任務です。陸上自衛隊のように組織が巨大であれば、人々は統率/出世など、インセンティブをそれなりに保っていくこともできます。ところが、それを管理している防衛省の内局は小さい組織ですし、キャリアの同期の間の競争も慣れ合いです。その結果、捕まらない程度、マスコミにすぐ叩かれない程度のマネジメントも出来ていない…。勿論、キャリア制度そのものに反対しているわけではありません。留学などの手厚い教育投資をすべての人に行うことも、2,3年で人間の能力を見極めることも無理です。ですから上級職で入った人間に等しく手厚く投資をしていくことも必要で、どこの国も軍隊と外交官はキャリアの世界です。私も留学する機会を与えられましたが、退官するまでに、ビジネススクールに留学した人間は私一人でした。米国の場合はMBAを持った軍人がゴロゴロしていて、ビジネススクールでも国防省の元高官が2人も教授でいました。これは防衛省のマネジメントに対する認識不足を端的に表しているのではないでしょうか。
片岡: 制服組については如何ですか。前航空幕僚長の論文(注2)が話題となりましたが、その背景についてお聞かせ下さい。
太田: 内容的には論じるに値しません。むしろ、なぜ田母神俊雄のような人物が出てきたのかが問題です。結局、私の同期の守屋のケースと同じであり、社会的エリートたるに相応しい人格や見識を身に付ける機会も与えられないまま、30年以上も目標のない仕事をしているとどういうことになるか、ということです。自衛隊の大部分の人はそういった問題を考えないようにしていますが、田母神や守屋はそれを思い悩んだからこそバランスを失ったのではないでしょうか。田母神論文についてですが、私が1988年に英国の国防大学に留学した時の校長は空軍大将でした。この空軍大将の論文と比較すると一目瞭然、大将のグローバル・スタンダードで求められる論文の水準からは程遠いと言わざるをえません。そもそも守屋も田母神も、留学経験も海外駐在の経験もありません。そんなことで次官、あるいは空幕長として、米国が宗主国であるとするならば、その考えを正確に理解し、意見をしっかりと言っていくことができるでしょうか。
片岡: さて、米国はジョセフ・ナイ(注3)を駐日大使に決めましたが、これはどのような意味を持つのでしょうか。
太田: ナイはリチャード・アーミテージ(注4)らと対日政策の提言(注5)を2007年2月に発表しています。普通、今時の大使はそれほど権限がありません。今や世界どこにいようとリアルタイムで情報を把握して判断を下すことができますので、象徴的な面と、赴任地での活動のコーディネート、マネジメントが役割です。ただ、今回ナイを大使に持ってきたのは、単にそれだけではないと思います。ナイのソフト・パワー理論を信奉しているヒラリー・クリントンが国務長官に就き、またオバマ政権は超党派の国政運営を目指しています。そういう目で見ると、ナイは民主党、アーミテージは共和党と、このレポートは超党派であり、そのまま新政権の対日政策の指針といってもいいものだと思います。このレポートでは、日本のソフト・パワーも軍事力も徹底的に利用しようという意図が見受けられます。そうすることでインド、オーストラリア、インドネシア等の味方の結束力を高め、中国やアラブ諸国、ロシアを封じ込めていくという発想です。
片岡: 具体的にお教え下さい。
太田: 日本のソフト・パワーとは経済力と技術力です。技術力については、今まで以上に装備開発に協力させようということで、だからこそ、武器輸出三原則を撤廃しようとしています。またハード・パワーたる日本の防衛力を強化し、米軍に完全に組み込んでいこうとしています。日本の自衛官をハワイの太平洋軍司令部に恒常的に派遣させ、同時に米側は自衛隊の統合幕僚監部に軍人を派遣することを提言しています。相互派遣先のランクが違うところにも、日米の地位の違いが表れています。また諜報力、すなわち情報を大量に集めて処理する能力を日本に持たせなくてはいけないとも書いてあります。現在、米国は経済的に苦境に立っているので、要求は更に厳しいものになるでしょう。日本人はこうしたオバマ政権が成立した意味をよくよく考えなくてはいけません。日本は、徹底的に米国に貢か、それとも独立するかの判断を突きつけられることになるでしょう。なお米国は、日本に対して適切な影響力を維持していくためにも、ソフト・パワーの面での交流を活発化するとともに、広報活動にもより力を入れると思います。
片岡: 広報や情報の活用は、日米の間に大きな違いがありますね。
太田: 自衛隊の広報は論外です。元々日本の組織はボトムアップで、理念型的に言えば戦略情報を末端まで共有していて、最前線で競争相手や顧客と接している人たちのアイデアを神輿に乗っている経営者が取り分けて全体が進んでいく。だから意思決定までは時間がかかるけれど、既にどういうことが議論されているか皆が知っているので、いったん決まるとスムーズにことが進みます。しかしこんな組織では、軍隊としては使い物になりません。戦略情報の共有はできるだけ少人数に限定することが必要で、さもないと、どんどん漏れてしまいます。日本の場合は競争している企業同士もある意味で癒着関係にあって、戦略上重要な情報も同じ業界の企業だったら互いに概ね知っている…。そういう状態では戦争したら負けてしまいます。戦略情報を一元的にトップが掌握し、速やかに決断を下す状態になっていなくてはいけません。戦略広報というのは何をオープンにし、何をオープンにしてはいけないかという判断がカギです。その上で、オープンにしてよいものは最大限出して行く。これはあらゆる重要情報を把握しているトップの仕事で、組織そのものをどこまで脱日本化できるかということが適切な戦略広報や危機管理を行うために必要です。少なくとも政府、自衛隊等においては、そういう脱日本型、の組織を作り上げなければ、米国から独立することなど不可能でしょうね。
片岡: 貴重なお話を有難うございました。 完(敬称略)



インタビュー後記

今回の対談では、太田さんの著書やブログから受ける固いイメージを完全に払拭させる豊かなバランス感覚と国際センスが感じられました。例えば、留学経験やMBA等は海外から日本を俯瞰する貴重な経験となった筈です。さて、米国では軍務経験者がCEOを務める大手企業は好業績な傾向があるという調査結果も出ています(注6)。天下りや口利きとは別次元で、米軍が優れた経営センスや国際感覚も持つ将官の組織的な採用と養成に成功しています。軍隊におけるマネジメントの重要性を知り抜いた太田さんの危機感は大変なものだった筈です。


聞き手 片岡 秀太郎

1970年 長崎県生まれ。東京大学工学部卒、大学院修士課程修了。博士課程に在学中、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームのプロジェクトへの参加を経て、海を愛する夢多き起業家や企業買収家と出会い、その大航海魂に魅せられ起業家を志し、知財問屋 片岡秀太郎商店を設立。 < http://chizai-tank.com >


脚注
注1 守屋武昌については下記をご参照下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/守屋武昌
注2 田母神俊雄については下記をご参照下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/田母神俊雄
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
注3 ジョセフ・ナイについては下記をご参照下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョセフ・ナイ
注4 リチャード・アーミテージについては下記をご参照下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/リチャード・アーミテージ
注5 アーミテージレポートについては下記をご参照下さい。
http://www.csis.org/media/csis/pubs/070216_asia2020.pdf
http://www3.keizaireport.com/file/WDC013.07.pdf
注6 米国の人材紹介会社コーン・フェリー・インターナショナル社の調査より
Military Experience & CEOs: Is There a Link?
http://www.kornferry.com/Publication/9287

(以上、敬称略)
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太田述正コラム#3126(2009.3.1)
<イスラム・中世のイギリス・中世の欧州(その2)>

→非公開

太田述正コラム#2900(2008.11.8)
<19世紀末以降の日本史をどう見るか>

1 始めに

 これまで、19世紀末以降の日本史の個別イッシューはかなりコラムで取り上げて来たものの、その全体像を描いたことがありません。
 田母神騒動もこれあり、私が全体像を描くとしたらどういう感じのものになるか、取り急ぎメモってみました。
 なお、最近のもの以外は、過去コラムを典拠としてつけていません。
 関心のある方は、私の過去コラムにあたってください。

2 19世紀末以降の日本史

 (1)基本的スタンス

 歴史を語るにあたっては、それが事実を踏まえたものであるかどうかについて、慎重の上にも慎重を期すべきだ。
 それはそれとして、「正しい」歴史認識などありえない。各自の抱いている価値観に照らし、「もっともらしい」歴史認識であるか「もっともらしくない」歴史認識であるかどうかだけだ。
 歴史認識について語る際には、自分の価値観を明らかにすべきだ。
 私の価値観は、専制は悪で自由は善、しかしアナーキーは悪、機会の平等が追求されるべきで、無抵抗の人間を殺すことは極力避けなければならない、というシンプルなものだ。
 言うまでもなく、これはアングロサクソン的価値観だが、基本的に日本的価値観でもある。
 「侵略」とは何かとか、「侵略」は常に悪か、といった議論には私は関心がない。
 戦争(冷戦を含む)については、どちら側が、より上記価値観に則った言動を行っているかどうかを見極めた上で、評価を下すよう心がけている。
 これは歴史に対する価値観的アプローチだが、文明論的アプローチであると言ってもよかろう。
 近現代においては、世界は地域史を超えて共通の歴史を織りなすに至っている。日本は、この世界の近現代史の中心的なアクターではない。よって日本を中心とした日本近現代史を描くことは生産的ではない。

 (2)世界の近現代史は、自由主義のアングロサクソン文明と専制主義の欧州文明の抗争の歴史である。

 (3)ただし、米国はアングロサクソン文明を主、欧州文明を従とする、アングロサクソンのできそこない(bastard)である。

 (4)19世紀末から、この抗争は、アングロサクソンと(欧州文明のextensionとしての)ロシアの対峙・抗争へと収斂するに至り、この抗争は約100年続いた。(19世紀末に中央アジアで展開されたイギリス対ロシアのいわゆる Great Game は、その序章にあたる。)
   その後は、ロシアと支那の主客が逆転し、アングロサクソンと(欧州文明のextensionのextensionとしての)支那の対峙の時代となって現在に至っている。ただし、現在においても、ロシアは支那のジュニア・パートナーとして専制主義世界の中で重要な役割を演じている。 

 (5)アングロサクソン文明と世界で最も親和的な文明を持つ日本は、19世紀末から約100年間にわたって、一貫してアングロサクソン側に立ってロシアと対峙、抗争し、その後は支那と対峙し、現在に至っている。
 この19世紀末以降の日本史は、ロシアに対するところの第一期(1894〜1924年)、第二期(1924〜53年)、第三期(1953〜91年)と、支那に対するところの第四期へと四期に区分できる。

 (6)第一期:日清戦争、日露戦争、シベリア出兵の時期。
 日本はそれぞれ英米から、好意的中立、諜報的・資金的支援、共同出兵、の形で支援を得ながらロシアと間接的、直接的に戦い、文明開化(実態はアングロサクソン化)を掲げて自らの勢力圏を拡大することで、ロシアの勢力圏拡大の阻止、減殺を図った。
 (周辺地域の植民地化は、必ずしも日本の望むところではなかったが、「15年」戦争の終焉((7)参照)まで続いた日本の植民地経営は、欧米列強の植民地経営と比べて、就中英国の植民地経営と比べてすら、成功したものだった。このことは、韓国と台湾の現況と欧米列強の旧植民地の現況を比較するまでもなく明らかだ。)
 この第一期の大部分の1902〜23年、日本は英国と同盟関係にあった。
 なお、第一期の末期に、ロシアは共産主義の衣を纏うに至る(=ソ連)。

 (7)第二期:ロシア(ソ連)との対峙(1925年に治安維持法成立)から始まり、満州事変、日中戦争、大東亜戦争からなる「15年」戦争(家永三郎による命名)から朝鮮戦争までの拡大大東亜戦争(私の命名)の終戦に至る時期。
 「15年」戦争については、日本は、満州事変に関しては単独で、日中戦争に関しては米国の妨害に抗しながら、更に大東亜戦争に関しては英米と戦争をしながら、ロシアによるところの、(ファシストたる)中国国民党、(ロシアの傀儡たる)中国共産党を手先とした支那への間接侵略と戦った(コラム#2894)。
 大東亜戦争の最終場面でロシアが前面に出て日本に対して開戦したことを受け、日本は「15年」戦争での敗北を認め、支那と朝鮮半島北部はロシアの勢力圏に入った。
 朝鮮戦争については、日本を占領していた米国が、朝鮮半島におけるロシアによる間接侵略に直面し、日本のいわば代理として、英国等の協力を得ながら、この間接侵略と戦い、朝鮮半島南部へのロシアの勢力圏拡大阻止に成功した(コラム#2894)。
 なお、この時期を、日本はアングロサクソン流の自由民主主義国(吉野作造ばりに言えば立憲民本主義国)として迎えた(1925年に普通選挙法成立)。「15年」戦争の末期においても、日本で自由民主主義は機能していた。
 この戦争末期に(当時の米英同様、)日本で自由が大きく制限されていたからといって、日本が自由民主主義国であったことが否定されるものではない。。
 日本は、「15年」戦争を、自由に表明された国民的コンセンサスに基づいて戦った。
 なお、(10)参照。

 (8)第三期:米国がロシアと対峙したことに伴い、日本もロシアと対峙した時期。
 第三期以降は核時代でもある。
 この第三期の間、1960年代には支那がロシアの勢力圏から離脱した。
 1991年にロシアは共産主義の衣を脱ぎ捨てるとともに領土と勢力圏を再び大幅に失い(=ソ連の崩壊)、もはやアングロサクソンと対峙できる存在ではなくなり、ここに第三期は終焉を迎える。
 この期において、日本は、一貫して米国と「同盟」関係・・実態は、日本側の意思に基づく宗主国米国との属国(保護国)関係・・を維持した。これに対し米国は、一貫して日本の「独立」を求め続けた。

 (9)第四期:ロシアの勢力圏の縮小に伴い、ロシアと支那の国力が主客逆転し、支那がメインとなってアングロサクソンと対峙するようになったことに伴い、日本も支那と対峙するようになった時期。
 混乱期を経てファシスト国家へと変貌を遂げたロシアは、共産主義を標榜したままファシスト国家へと変貌を遂げた支那に再接近し、支那のジュニアパートナーとなって現在に至っている。(この関係をいわば公式のものとしたのが、2001年の上海協力機構設立だ。)
 日本は、引き続き米国と「同盟」関係を維持しているところ、米国は、これまた引き続き日本の「独立」を求めている。

 (10)第一〜第四期を通じて、日本のスタンスには一貫してぶれがない。他方英米、とりわけ米国は、第二期の「15年」戦争において、ロシア側に立つ、という逸脱行動をとった。
 これは、当時の米国の、第一に、(欧州文明から引き継いだ)病理的な対有色人種差別意識に基づく東アジア黄色人種に対する牧民意識、第二に、(欧州文明に由来するところの)共産主義/ファシズムに対する甘い認識、第三に、世界の覇権国で(地盤沈下しつつ)あった英国に対する近親憎悪的嫉視、東アジアの覇権国であった(興隆する)日本に対する人種差別的敵意、がしからしめたもの。
 (第二期において、米国が世界中で(やはり欧州文明由来の)ナショナリズムを推進、支援したのは、それが英日両帝国の解体にも資するイデオロギーだったから。)
 英国がこの米国の逸脱行動を黙認したり逸脱行動に同調したりせざるをえなかったのは、自国の裏庭である欧州において、その覇権国になろうとと目論む専制国家ないしファシスト国家たるドイツの挑戦に、第一期の終わりと第二期の途中で2度にわたり直面したため、米国から、やむなく資金的・軍事的支援を得る必要があったため。なお、緊急避難的に英国は、両大戦において、敵の敵である専制国家/共産主義国家ロシアと共に戦った。(これは日本が、「15年」戦争末期において、緊急避難的に敵の敵であるファシスト国家ドイツと共に戦ったことと好一対。)
 この米国の逸脱行動により、支那及び朝鮮半島北部にまでロシア勢力圏が広がった。その結果、独裁者毛沢東の下で支那は累次にわたり、総計何千万人にも上る餓死者、虐殺者を出し、朝鮮半島では朝鮮戦争が起き、その後もその北部は金独裁王朝の恐怖政治の下にあるが、それらすべてに米国は大きな責任がある。
 (ベトナム戦争は、共産主義を掲げたベトナム・ナショナリズムの興隆をロシア勢力圏の拡大と米国が誤認したためにエスカレートしたもの。まさに共産主義の「悪」に目覚めた米国が、羮に懲りて膾を吹いたというところか。)
 
 (11)米国は、第二期の末期にファシズムに対する甘い認識を改め、第三期に入る頃から、共産主義に対する甘い認識も改め、1960年代の公民権法の成立から、今年のオバマの大統領選出へと有色人種差別意識をも相当程度克服し、今や単独覇権の追求を止める兆しすら見える等、急速に自らを純粋なアングロサクソンへと脱皮させつつある。

 (12)日本自身も、「15年」戦争の際の軍の統制の乱れ(将校の下克上、兵士の無規律)、兵士の人命の軽視(餓死戦病死兵士の続出、玉砕の多発)と、それにより支那一般住民に不必要に多数の犠牲者を出したことを厳しく反省するとともに、米国による日本の都市無差別爆撃、就中原爆投下、ソ連による満州居留民に対する暴虐行為やシベリア抑留を強く批判し続けるべきだろう。
 その上で日本は、米国に対し、上記逸脱行為が、米国の第一の原罪たる有色人種差別と並ぶ第二の原罪であること粘り強く説明してその反省を促すべきだろう。
 私は日本が、米国からの「独立」を達成し、日本による説得によって逸脱行為を反省し、改心して純粋なアングロサクソンとなった米国と(現行の安保条約を廃棄した上で)双務的な同盟条約を締結し、他のアングロサクソン諸国等とも手を携えて世界の平和と安定、そして繁栄に尽力する日が一日も早く来て欲しいと願っている。

3 終わりにに代えて

<太田>

 19世紀末以降の日本史の個別イッシューについても、その全体像(史観)についても、日本人が書いたもの、日本語で書かれたもので、私の参考になったものはほとんどありません。
 これまで手がかりにしたのは、もっぱら英語で書かれたものです。
 これは、日本の人文社会科学の遅れを物語って余りあるものがあります。
 私は個別イッシューについて掘り下げた研究を行ったわけではなく、また、全体像を提示するだけの能力があるわけでもありません。
 しかし、仕方なく自ら、これまで個別イッシューについて論じてきました。
 これに加えて今回は、いささか生煮えではあるけれど、初めて全体像についてメモをまとめてみた次第です。
 どしどし、ご意見、ご叱正をお寄せください。

<雅>

 アフリカは国か大陸か、米副大統領候補のペイリン氏、知らなかった!?
http://sankei.jp.msn.com/world/america/081107/amr0811071144018-n1.htm

 一応、「ある意味」大切で、ちょっと見ただけでは発見しにくく「マスコミが大々的に報道しなさそうな」大切なニュースかと思い投稿します。

<VincentVega>

 『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』を出版したばかりの町山さんのブログでも関連記事が取り上げられていました。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20081108

<太田>

 「米国民の知的劣化」を取り上げた(コラム#2890、2892(未公開))ばかりですが、少しも驚くべきことではありません。
 

<こととい>

 オバマの勝利演説を見る限りでは、彼もブッシュと同様の歴史認識を持っていると思われますがいかがでしょうか。

(11/4)オバマ氏の勝利演説(全文)
http://www.nikkei.co.jp/senkyo/us2008/news/20081105u0bb5000_05.html

”爆弾が(真珠)湾に落ち、圧政が世界を脅迫した時、彼女は偉大な世代が立ち上がり、民主主義を救うのを目撃した。イエス・ウィー・キャン。 ”

<太田>

 よく見つけましたね。
 演説を聴いてみたら、確かに、"Bombs fell on our harbour, a terror threatened the world. She was there to witness a generation rise to greatness, the democracy was saved. Yes we can." と言ってますね(
http://jp.youtube.com/watch?v=bR88Ncsq6GM

 「第二次世界大戦では」、と言うところを、「爆弾が港に落ち」とみんながイメージできる言葉で置き換えた、ということであってそう気にすることはないでしょう。
 (急に思ったけれど、何で日本では「Pearl Harbour(真珠港)」を「真珠湾」って訳してきたんでしょうね。)
 とにかく、ブッシュやペイリンを含む米国の白人達は、先ほど申し上げたように無知な上に、55%対43%でマケインに投票した方が多かった(コラム#2899(未公開))、という異常な国でオバマは大統領に当選したのですから、彼らの逆鱗に触れないように、オバマは細心の注意を払わなきゃならないわけですよ。
 そういう目で見守ってあげましょう。

<遠江人>

 --ホシュやネトウヨの人々について--

日本のいわゆる保守派と言われる人々に功績と言えるものがあるとすれば、それは(日本の)左翼に対する批判(そのイデオロギーや欺瞞性等々の批判)を行い、それにある程度成功した、ということでしょうか。このことには、ある程度の意味があったと思います。
しかしながら、日本の保守派には、ほとんどそれだけしか価値のあることはできませんでした。それだけのことならいいのですが、問題なのは、「保守の左翼批判」=「ファーストインパクト」に感銘を受けて感化されすぎてしまった人々は、もはや保守思想の虜になってしまったことです。
日本の保守派の人々の語る世界情勢や他国理解など、デタラメばかりの、ほとんど擬似的なものでしかないところ、悲しいかな、それが日本の保守かぶれ達には(リアルな世界を理解する能力も意欲も無いことから)リアルっぽく聞こえてしまうのでしょう。
その結果、左翼を論破し(まぁこれはある程度そうだとしても)、厳しい世界の現実(笑)を知る者となった、とイタイ勘違いをして、そのような洗礼を受けた人々(笑)はまるで選民の如く振舞うのですね。左翼論破の原初体験(笑)が忘れられないのでしょう。まさに宗教ですね。
更に悪いことに、このような人々は、それがアイデンティティに直結してしまっていることが往々にしてあるため、保守思想の否定は認めるわけにはいかないのではないでしょうか。なので話が通じない人がよくいるのではないかと。

<太田>

 まあ、米国の白人連中よりは物わかりがいいのではないでしょうか。
 何たって、「ホシュやネトウヨ」の人々で原理主義的キリスト教徒の人、要するに神がかりの人はほとんどいないでしょうからね。
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太田述正コラム#2901(2008.11.8)
<オバマが尊敬するリンカーン>

→非公開

太田述正コラム#2500(2008.4.21)
<先の大戦正戦論から脱する米国?(続々)(その2)>(2008.5.26公開)

5 感想

 米国人のローゼンバウムもトーマスも、そしてイギリス人のヘースティングスも、ことごとくハセガワの本の存在を見て見ぬふりをしていることからくるイライラを、バードがまとめて断罪してくれたようなものであり、溜飲が下がりました。
 ハセガワの本やバードの共著の(オッペンハイマーについての)本等をめぐって、日本の論壇ではいかなる議論が出ているのでしょうか、それとも出てないのでしょうか。日本の論壇を全くフォローしていない私には分かりません。
 それにしても私には、日本の原水爆禁止運動団体は何をしているのだという思いを禁じ得ません。
 広島や長崎の市長だって、彼らから何も聞こえてきませんし、広島の場合は平和記念資料館があるというのに、そのサイト(
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
)を見ても、このような米国での論争の類など全く関心の埒外にあるように見受けられます。
 広島市も、その平和記念資料館も核の廃絶を訴えているわけですが、核が現実に用いられたのは広島と長崎においてだけであり、この原爆投下が正当であった、意味があったという米国の公定史観を紹介、批判するとともに、この公定史観が誤っていると指摘する説の紹介に努めることは、核廃絶運動にとって極めて意義が大きいことを考えると、首をひねらざるをえません。
 それにしても、対日戦だけではなく、原爆投下に関しても、米国において、先の大戦正戦論から脱する兆候がみられることは慶賀の至りです。

6 付け足し

 イギリス人ヘースティングスの日本に対する底意地の悪い物の言い様は、私が何度も指摘しているところの、日本によって大英帝国を瓦解させられた憾み(例えばコラム#805)・・イギリスのまともなエリート達は克服済み・・の産物であると考えればいいでしょう。
 ここでは付け足し的に、原爆投下問題そのものから離れ、彼の主張を紹介するとともに、私のコメントを付したいと思います。
 ヘースティングスは要旨次のように記しています。

 この戦いは人種戦争的様相を帯びていた(注2)。

 (注2)ダワー(John Dower)が'War without Mercy: Race and Power in the Pacific War’(1986年。邦訳あり)で詳述している。(太田)

 英軍のスリム(Sir William Slim)将軍は、日本の兵士は「史上最も恐るべき戦闘昆虫だ」と述べた。また、硫黄島の戦いからハワイに戻った米海兵隊員の中には、日系米人達の前でのパレードの際、日本人の頭蓋骨を振りながら「これが杭に乗っかったお前らの叔父さんだぞ」と呼ばわった者達がいた。
 しかし、こんなことより、日本側が英米側に施した蛮行の方がはるかにひどい(前出)。
 しかも、日本は自分達の兵士の扱いだってひどかった。
 日本海軍は、米海軍とは違って、不時着したり撃墜された航空機の乗員の捜索・救難を行わなかった。そのため、何百人という熟練した操縦士達を失うことになった。
 また、日本の軍国主義者達は、古の武士道の規範を死の病的カルトへとねじ曲げた。
 日本人は降伏するより死を願うべきものとされ、戦争が進行するにつれ、米側もこのことに順応して行った。
 日本の捕虜達が自分達を救出した米艦艇でサボタージュ活動を試みることを米側が周知すると、米艦艇は海中の日本兵を救出しなくなり、時々「諜報サンプル」用に拾い上げるだけになった。
 日本側においては、降伏することは恥だと考えられていたがゆえに、降伏した米兵は不名誉を犯したとみなされ、基本的な人間としての尊厳を放棄したものとみなされた。
 (以上、ニューヨークタイムス前掲による。)

 しかし、英米側が日本側に対して行った蛮行の方がはるかにひどいと言うべきでしょう。
 いわゆる南京事件は、降伏しなかった国民党軍の国際法違反が引き金となり、それに日本軍兵士達の個人的規律違反が加わって引き起こされたものであり、日本軍の「制度的」蛮行の例証にはなりません。(いずれにせよ、支那派遣日本軍の規律が弛緩していたことは厳しく咎められなければなりません。)(コラム#253、254、256〜259)
 シンガポールの支那系壮年男子住民の大量殺害は、過剰なゲリラないし諜報工作予防措置ではあったけれど、国際法違反であったかどうかは微妙なところではないでしょうか。(いずれきちんと論じたいと思います。)
 英米兵捕虜に労働させたこと自体は国際法違反ではありませんが、彼らの死亡率が監督した日本兵や同様の労働に従事した日本人よりはるかに高かったのは、日本兵並みの食事しか与えられず、しかも彼らが亜熱帯の環境下において日本人より脆弱であったことによる部分もあるとはいえ、国際法違反と言わざるをえません。(コラム#805、806) 
 他方、いわゆるフィリピンにおけるバターンの死の行進は、米兵の捕虜が、劣悪であった日本兵と同等の処遇を受けた結果生じたものであり、国際法違反であるとは言えません。(コラム#830、1433)
 (いずれにせよ、ここでも、日本が兵士の命を、給養面でも作戦においても大事にしなかったことは厳しく咎められなければなりません。)
 大事なことは、これらは戦後ことごとく英米側によって国際法違反と断じられ、BC級戦犯が数多く処刑されたのに対し、英米側が犯した同等の行為(コラム#1433)は、戦時中に日本側によって処断されたもの以外は、放任されたまま現在に至っているという事実です。
 これに対し、米国による日本の都市に対する戦略爆撃と原爆投下は、もっぱら文民の大量殺害を意図した「制度的」(組織的計画的)な行為であり、明白な国際法違反です。特に原爆投下は、化学兵器使用を禁じた国際法違反にも該当すると言うべきでしょう。
 (戦略爆撃そのものについては、コラム#520、521、523、日本に対する戦略爆撃の違法性については、コラム#213、258、423、805、806等参照。) 
 これらの蛮行の責任者達すら、放任されたまま現在に至っていることはご存じのとおりです。

(完)

太田述正コラム#2498(2008.4.20)
<先の大戦正戦論から脱する米国?(続々)(その1)>(2008.5.25公開)

1 始めに

 4月4日に(コラム#2467で)「日本との戦争について、米英における既成観念を問い直そうとしているのはロサンゼルスタイムスであるのに対し、ワシントンポストは正反対のスタンスであり、他方、ニューヨークタイムスは、どっちともつかずのスタンスをとり、ひたすら日本との戦争の直視を避けて逃げ回っている・・・。この関連で、ニューヨークを拠点とする米国の有名なフリーランスのジャーナリストと、ニューヨークタイムス自身の、日本への原爆投下に関する、臆病かつ卑怯な筆致を<近々>問題にし・・たいと思います。」と記したところです。
 ところが、ワシントンポストが、4月17日付で原爆投下を批判する内容の書評を掲載したのです。こうなると、米国の有力紙3紙に関する評価は見直す必要が出てきます。
 というわけで、原爆投下問題に関する上記米フリーランス・ジャーナリストのコラム、及び上記ニューヨークタイムス(に掲載された原爆投下問題を主要テーマとする本に対する肯定的)書評のさわりをご紹介した上で、これらに対する私の批判を、ワシントンポストに掲載された上記(同じ本に対する否定的)書評のさわりを援用しつつ行いたいと思います。

2 フリーランス・ジャーナリストのコラム

 米国のフリーランスのジャーナリスト兼著述家であるローゼンバウム(Ron Rosenbaum)は、広島から米スレート誌に概略下掲のようなコラムを寄稿しました。

 広島に来てみると、被爆直後はひどかったけれど、時間がちょっと経過すれば、まあまあの再建計画さえあれば、立派に都市が蘇るものであることが分かる。
 1995年にアルペロヴィッツ(Gar Alperovitz)が『原爆投下決定(The Decision To Use the Atomic Bomb)』を上梓し、日本は降伏しようとしていたが、米国は、(日本が和平仲介を打診していたところの)ソ連との来るべき冷戦を予期しつつ、このソ連を畏怖させるために原爆を日本に投下することにした、と主張した。
 しかし、昭和天皇がどうなるのか、そして天皇制がどうなるのかが当時の日本政府の最大の関心事であり、原爆投下までは日本は確定的な降伏意思を固めてはいなかったので、このアルペロヴィッツ説はとることができない。
 (以上、
http://www.slate.com/id/2187282/  
(3月26日アクセス)による。)

3 ニューヨークタイムス書評

 米ニューズウィーク誌の編集陣の一員であるトーマス(Evan Thomas)は、英国のジャーナリスト兼編集者兼歴史家兼著述家のヘースティングス(Max Hasting)の『報い--日本との戦い 1944〜45年(RETRIBUTION--The Battle for Japan, 1944-45)』(注1)についてのニューヨークタイムス掲載書評で、以下のようにヘースティングスの主張を要約した上、これに賛意を表明しました。

 (注1)この本の第一章の冒頭部分を、
http://www.washingtonpost.com/wp-srv/style/longterm/books/chap1/retribution.htm
(4月20日アクセス)で読むことができる。

 先の大戦においては、英米側も日本側も無数の戦争犯罪を犯したが、日本側の戦争犯罪の方がはるかにタチが悪かった。
 日本兵によるサディスティックな行為は偶発的なものではなく制度的なものだったからだ。
 捕虜達や文民たる収容者達は餓死させられ、銃剣で刺し殺され、首を刎ねられ、強姦致死させられ、時には生体解剖された。
 だから、こんな日本が原爆を投下されたのは正当な報いだったのだ。

 (以上、特に断っていない限り
http://www.nytimes.com/2008/03/30/books/review/Thomas2-t.html?ref=world&pagewanted=print  
(3月30日アクセス)による。)

4 ワシントンポスト書評

 これに対し、ピュリッツァー賞を受賞したオッペンハイマーの伝記の共著者の一人である米国のバード(Kai Bird。現在ネパールのカトマンズ居住)(コラム#2420)は、ワシントンポストに掲載された上記ヘースティングスの本に対する書評で、ヘースティングスが原爆投下は正当であったと主張するためにつくられた「日本がいずれにせよ降伏する用意があったという神話は最近の研究によって完全に否定されているというのに、何人かの論者がまだそんなことを主張しているのは呆れるほかない。・・こんな連中は幻想の行商人だ」とも記しているとした上で、以下のようにヘースティングスを厳しく批判しています。

 ヘースティングスが記していることは、一方的主張(assertion)に過ぎず、およそ議論(argument)の体をなしていない。
 3年前にカリフォルニア大学サンタバーバラ校のハセガワ(Tsuyoshi Hasegawa)は、広く好評を博した著書'Racing the Enemy: Stalin, Truman and the Surrender of Japan’(コラム#819、820、821、830、1849)において、原爆投下ではなくソ連の参戦こそが日本の降伏をもたらしたことを証明したというのに、ヘースティングスは読者にこの新しい証明の出現を知らせることを怠っている。
 当時、陸軍長官のスティムソン(Henry Stimson)、陸軍次官のマクロイ(John J. McCloy)、国務省のグルー(Joseph Grew)、陸軍大将のマーシャル(George Marshall)らや、ワシントンポストが、日本に対し、無条件降伏の条件として天皇を立憲君主として維持することを認めると明確に通告すべきである、としていたのに、大統領のトルーマン(Harry S. Truman)が耳を貸さなかったことこそ問題なのだ。
 そうしておれば、日本が降伏したかもしれないことをヘースティングス自身がこの本の中で認めているではないか。
 広島に原爆が投下される3日前の1945年8月3日に、トルーマン自身と国務長官のバーンズ(James F. Byrnes)、大統領首席幕僚であった海軍大将のリーヒ(William D. Leahy)は日本が降伏したがっていることを全員で確認していたではないか。
 しかも、米上院の共和党の指導部は、国務省が日本が望んでいることを知っていたところの、天皇制の存続の保証を与えずに戦争を長引かせているとして、トルーマンをあからさまに攻撃していたではないか。

 (以上、特に断っていない限り
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/04/17/AR2008041703311_pf.html
(4月20日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#2467(2008.4.4)
<先の大戦正戦論から脱する米国?(続)(その3)>(2008.5.7公開)

脚注:リプケス(Jeff Lipkes)の'Rehearsals: The German Army in Belgium, August 1914'の紹介

 リプケスは、生まれも育ちもロサンゼルスであり、カリフォルニア大学バークレー校を卒業し、プリンストン大学で歴史学の博士号を1995年に取得した。博士論文には、米経済史学会から賞が授与された。経済思想史と英国思想史(intellectual history)が専門であり、現在フロリダ州タンパの郊外に小説家の妻と一人娘と住み、執筆活動に専念している。これまでの著書はPolitics, Religion and Classical Political Economy in Britain: John Stuart Mill and his Followers 1冊だ。(
http://www.jefflipkes.com/
。4月4日アクセス)

 今回上梓されたリプケスの2作目の本は、昨年10月にベルギーのリューヴェン大学出版会から欧州を対象に刊行されたものだが、今年1月には米国のコーネル大学出版会から北米を対象に刊行されている。
 その内容の概要は次の通り。

 ドイツは、1914年8月2日にロシアに、そして翌3日にはフランスに宣戦布告し、同時にかねてよりのシュリーフェン・プランに基づきベルギーに侵攻した(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
。4月4日アクセス)。そして、この8月に3週間にわたって6,000人近くの、女性と子供を含むベルギーの非戦闘員を殺害した。これは今日の米国にあてはめれば230,000人の殺害に匹敵する。また、25,000近くの家屋や建物を焼尽させた。一番酷い蛮行が行われたのは8月19日から26日にかけてだった。
 この非戦闘員の大量殺害は、リージュ(Liege)、アールショット(Aarschot)、アンデンヌ(Andenne)、タミン(Tamines)、ディナン(Dinant)、そしてとりわけリューヴェン(Leuven)において、非戦闘員を無作為に、10人から20人ずつ村の広場や河辺の牧草地に連行し、あるいは牛車に乗せて収容所に集めた上で射殺する形で行われた。一番多い時は300人が一挙に射殺された。
 こんなドイツ軍が進撃するにつれて、約200万人のベルギー人が逃げ惑った。
 この非戦闘員の大量殺害は、市民狙撃手(francs-tireurs=civilian sharpshooters)を病的に懼れたドイツ軍兵士達がパニックに陥って行ったものだという見方が一部でなされているが、それは違う。ドイツ軍当局が、ベルギーの非戦闘員達を恐怖に陥れるという計算された狙いを持ってこのようなテロ行為的作戦の実行を兵士達に命じたのだ。
 強制連行といい牛車といい、ドイツ人の態度や優越感・・自分達が戦争に勝利するためには何をやっても許されるという傲慢さ・・といい、後の第二次世界大戦の時のドイツ人と生き写しではないか。

 しかし第一次世界大戦後の米英では、こういったことは戦争の際には起こりがちのことであるとか、これは、英国が米国を戦争に引き入れたり、英軍に人々を志願させたりする目的ででっち上げたフィクションであるとさえ言われるようになった。
 そして、真偽いずれにせよ、この類のことを話題にするのは、第一次世界大戦時の反目を再びかき立てるようなものであり、二度と戦争をしないためには、沈黙しているべきだ、という声が主流になってしまったのだ。

 (以上、特に断っていない限り
http://www.jefflipkes.com/work1.htm
http://www2.tbo.com/content/2008/mar/14/pa-author-traces-invented-wwi-atrocities/
http://tnt.spidergraphics.com/cup8/cup_detail.taf?ti_id=4865
http://www.historyofwar.org/bookpage/lipkes_rehearsals.html
(いずれも4月4日アクセス)による。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

3 終わりに代えて

 以上をまとめれば、ベーカーの問題提起を最も真摯に受け止め、日本との戦争について、米英における既成観念を問い直そうとしているのはロサンゼルスタイムスであるのに対し、ワシントンポストは正反対のスタンスであり、他方、ニューヨークタイムスは、どっちともつかずのスタンスをとり、ひたすら日本との戦争の直視を避けて逃げ回っている、ということになるわけです。
 この関連で、ニューヨークを拠点とする米国の有名なフリーランスのジャーナリストと、ニューヨークタイムス自身の、日本への原爆投下に関する、臆病かつ卑怯な筆致を問題にしておきたいと思います。

(続く)

太田述正コラム#2465(2008.4.3)
<先の大戦正戦論から脱する米国?(続)(その2)>(2008.5.6公開)

 ワシントンポストの2度目の書評は、1度目の書評のスタンスを維持しつつ、日本に対して一層厳しいものとなりました。
 そのさわりは次のようなものです。

 ベーカーは、第二次世界大戦が米英にとって良い戦争だったという既成観念によくまあ挑戦しようとしたものだ。
 ナチスはホロコーストを行ったし、日本は何度も虐殺を行い、占領地域の女性を強制的に性奴隷にしたというのに・・。
 もちろん米英が行った戦争の中には対イラク戦のような悪い戦争だってある。私がなぜ対イラク戦が悪い戦争だと思うかと言うと、サダム・フセインを失脚させるという戦争目的そのものは正しかったけれど、その結果もたらされたものが酷すぎるからだ。
 しかし、だからといってベーカーのように、直接的自衛以外のあらゆる戦争を排斥すべきではなかろう。
 第一次世界大戦後の欧州では大戦の惨禍の記憶から、あらゆる戦争を排斥する考えが主流となった。
 その結果ヒットラーへの対応が微温的なものとなってしまったし、1933年の英オックスフォード・ユニオンでの若者達のディベートでは、「われわれはいかなる状況下においても国王と英国のために戦うべきではないと決した」という宣言が発せられる始末だった。
 しかし、結局のところ、彼ら英国の若者達は第二次世界大戦を戦った。戦わざるをえなかったのだ。
 J.S.ミルが、「戦争は醜悪だ。しかし、最も醜悪だというわけではない。戦争よりはるかに醜悪なものは、人生において戦うに値するものなど存在しないという考え方だ」と記していることを思い出して欲しい。
 第二次世界大戦は、米英にとって様々な意味で戦うに値する戦争だった。とりわけ、殺人を止めるためには殺人者達を止める以外に方法がなかったという意味で・・。

 この書評子は、ナチスによるホロコーストと日本軍による南京事件等を同視するとともに慰安婦を性奴隷ととらえた上で、これら独日による蛮行を止めさせるために米英は第二次世界大戦を戦ったと総括しているわけであり、「既成観念」の中にひたすら閉じこもり、ベーカーの問題提起を耳を塞いでやり過ごそうとしていると言うべきでしょう。

 (5)ロサンゼルスタイムス(2度目)

 そこへ昨日付でロサンゼルスタイムスまでもが2度目の書評(
http://www.latimes.com/features/books/la-et-history2apr02,0,1875662,print.story
。4月3日アクセス)を掲載したのです。
 更に大変なことになってきました。
 これは、米国の知識人の間で議論が沸騰している証拠です。
 (にもかかわらず、しかも日本にも密接に関わるというのに、これまでのところ、日本のメディアはこの米国で現在進行中のこの大事件を全く取り上げていませんね。)
 これで、ロサンゼルスタイムスのスタンスもはっきりしました。
 ロサンゼルスタイムスは、ワシントンポストとは違って米英にとって第二次世界大戦もまた必ずしも良い戦争であったとは言い切れないものの、ドイツに対しては良い戦争であった可能性が高い、というスタンスなのです。
 その含意は、米英にとって第二次世界大戦は、日本に対しては悪い戦争であった可能性が高い、ということです。
 というのは、この書評のさわりは次のとおりだからです。

 米国人は、歴史に対するセンス(sennsibility)はお粗末(limited)だし、為せば成るという観念に取り憑かれているので、ベーカーのような既成観念に挑戦する本の意義は大きい。
 歴史は様々な見方ができることや、人間が達成できることには限界があること、を自覚することができるかもしれないからだ。
 このような自覚があれば、十分考えないまま対イラク戦を始めてしまう、といったことを回避することができたのはなかろうか。
 ベーカーの本は第二次世界大戦に関する米英の既成観念に挑戦したが、このたび、第一次世界大戦に関する米英の既成観念に挑戦した本が出た。
 リプケス(Jeff Lipkes)による'Rehearsals: The German Army in Belgium, August 1914'だ。
 リプケスは、第一次世界大戦は不必要な集団的愚行だった上、復讐心によって戦後処理がドイツに厳しいものになりすぎたためにナチスの台頭を招いた、という米英の既成観念に挑戦している。
 彼は、大戦が始まった1914年にドイツ軍がベルギーで、一般国際法や条約に違反して、6,000人近くの子供達を含む一般住民を1週間かけて虐殺した証拠を提示している。関係者はこの事実を否定したりそんな規模ではなかったと言い張ってきたというのだ。そして彼は、この虐殺は、20数年後にナチスが冒すことになる大虐殺の予行演習になったとし、ドイツにはこのような虐殺を冒すまがまがしい文化的性向ないし継続性があることを示唆している。
 彼は更に、この虐殺がこれまでほとんど取り上げられてこなかったのは、上述の第一次世界大戦に対する既成観念が邪魔をしたからだ、と指摘している。
 その上で、リプケスは、米英にとって第一次世界大戦は戦う意義のある戦争だった、と結論づけているのだ。

 実は、実際の書評の記述の順序を逆にしてご紹介したのですが、書評子が、ドイツの虐殺性向がホロコーストをもたらしたのであり、だからこそ、米英にとって第二次世界大戦もまたドイツに関しては戦う意義のあった、つまりは良い戦争だったと言いたいことは明らかですよね。
 それと同時にこの書評子が、ベーカーの本の意義を称えつつ、ナチスドイツについては強い留保をつけたにもかかわらず、日本については言及しなかった、留保をつけなかったということは、第二次世界大戦に係る日本についての米英の既成観念は見直す必要があることを示唆していることも、慧眼なる読者にはお分かりいただけることでしょう。

(続く)

太田述正コラム#2463(2008.4.2)
<先の大戦正戦論から脱する米国?(続)(その1)>(2008.5.5公開)

1 始めに

 コラム#2410と2412でベーカーの本を紹介し、ロサンゼルスタイムスの絶賛と言ってもよい書評に言及しつつ、「今後の米国における波紋に注目したいと思います。」と結びました。
 その後、コラム#2410で、ニューヨークタイムスに書評が出たけれど、「ガンディー流非暴力主義でヒットラーに対処すべきであったとしているベーカーの所論の弱点だけをもっぱら攻撃する、という幼児的書評であるところに、東部リベラルに与えたこの本の衝撃がうかがい知れます。つまり、書評の中に日本の話が全然出てこないのです。」と記したところです。
 その後、クリスチャンサイエンスモニターが書評でとりあげ(
http://www.csmonitor.com/2008/0318/p16s01-bogn.htm
。3月18日アクセス)、次には何とニューヨークタイムスは再び書評で取り上げた(
http://www.nytimes.com/2008/03/23/books/review/Toibin-t.html?pagewanted=print 。3月22日アクセス)と思ったら、今度はワシントンポストが、これまた2度にわたって書評でとりあげました(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/03/27/AR2008032703082_pf.html  
(3月30日アクセス)、及び
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/03/31/AR2008033102149_pf.html 
(4月1日アクセス))。
 私が予想した通り、この本は強烈な衝撃を米国の知識人に与えているわけです。
 そこで、日本人の眼で新しく出てきたこれらの書評の書評を行ってみましょう。

2 書評の書評

 (1)クリスチャンサイエンスモニター

 この書評も、上記ニューヨークタイムス書評同様、日本の話から逃げまくり、わずかに「日本は戦闘的な警告を何度も発したけれど<米国は>聞く耳を持たなかった」という、どちらかというと日本の肩を持ったセンテンスだけでお茶を濁しています。

 (2)ニューヨークタイムス(2度目)

 2度目のニューヨークタイムス書評には期待したのですが、その期待は裏切られました。
 この書評は、英空軍が、当時陸軍相兼空軍相であったチャーチルの積極的同意の下で1920年にイラクで一般住民に対する戦略爆撃を始めたこと、1925年にはインドで150トンもの爆弾を投下する同様の戦略爆撃をおこなったこと、当然チャーチルが首相であった第二次世界大戦中、ドイツに対して同様の戦略爆撃が行われたこと、しかし、この戦略爆撃はドイツの一般住民の士気を低下させたり、彼らを対ナチスに対する蜂起へと誘うどころか、ユダヤ人迫害を促進させただけであったこと等を踏まえ、ベーカーは一般住民に対する戦略爆撃は正当化できないということを見事かつ情熱的に証明したとしつつ、米国の日本への原爆投下には全く口を拭っていたからです。
 それに、日本に触れたのは、「ベーカーは、ローズベルトは米国を参戦させることを目的として、日本を真珠湾を爆撃させるよう駆り立てたと言いたいがために数々の断片的典拠(vignett)を提示している」というくだりだけです。
 つまり、1度目の書評と全く同じなのであって、ニューヨークタイムスは、日本に関しては逃げの一手を決め込むことに決めた、と私は受け止めた次第です。

 (3)ワシントンポスト(1度目)

 ワシントンポストの1度目の書評を読むに至って、私は、こんなニューヨークタイムスでも、相対的には良心的であると思い知りました。
 というのは、ワシントンポストのこの書評は、日本とナチスドイツを同一視するところの、ステレオタイプ化された第二次世界大戦観を所与のものとしてこの本の批判を行ったからです。
 すなわち、
 「米国と英国の市民はアジアを日本に、欧州をドイツに割譲するつもりであれば、あの戦争は「不必要であった」可能性を弄ぶことはできたかもしれない。しかし、他の参戦国にとっては、あの戦争は不可避だった。何となればこれらの国は日本とドイツの人種的帝国主義の進路に位置していたからだ。これに比べるとベーカーの第二の問題提起、すなわちあの戦争は助けを必要とした人々を助けただろうか、はちとむつかしい。というのは、あの戦争がもたらしたところの現実の惨禍(evils)<中略>と日本とドイツが欲したことを欲しただけの期間自由にできた場合にもたらされたであろう惨禍とを比べなければならないからだ。果たして、ヒットラーに対して宥和政策をとった場合に比べてヒットラーに抵抗する方がより大きな害悪(harm)が生じたとする平和主義者達は正しいだろうか。」
と。
 それにしても、この書評はこずるいと思いませんか。
 最後のセンテンスのヒットラーを東條に置き換えることができないことをどうやら承知しつつ、はたまた、ヒットラーを日本に置き換えた場合にはこのセンテンスが甚だしく迫力を欠くものになることを間違いなく承知しつつ、それまで日本とドイツを対で論じてきたというのに、ここではドイツだけへの言及にとどめているのですから・・。

 (4)ワシントンポスト(2度目)

(続く)

太田述正コラム#2507(2008.4.25)
<先の大戦正戦論から脱する米国?(続x3)>

1 先の大戦に係るライト師のまっとうな説教

 オバマの所属している教会の前主宰者のライト(Wright)師は、次のような説教をしたことがあるとして、オバマ批判の材料にされています。

一、「米国政府は彼ら(黒人達)にヤクを与え、よりでかいムショをつくり、3回重罪加重懲役法(three-strike law)を成立させたくせに、われわれ(黒人)に「神よ米国に祝福を(God bless America)」と唱わせようとする。とんでもないことだ。こんなことをする国に対しては聖書は「神よ米国に断罪を(God damn America)」と唱えよと教えている。わが市民(黒人)達を人間以下に扱っている米国に神よ断罪を。自分があたかも神であるかのように、かつ至上の存在であるかのようにふるまっている米国に神よ断罪を。」
二、「米国政府は意図的にエイズが蔓延するように図ってきた。」
三、(9.11同時多発テロ直後に、)「われわれは広島に原爆を落とした。長崎に原爆を落とした。そしてこのたびのニューヨークとペンタゴンで殺された数千人よりもはるかに沢山の人々を殺害した。それなのにこのことに我々はずっと口を拭っている(we never batted an eye)」
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/world/2008/apr/25/barackobama.uselections2008
http://blog.washingtonpost.com/the-trail/2008/04/24/rev_wright_in_pbs_interview_de.html?hpid=topnews
(4月25日アクセス。以下同じ)による。) 

 この三つの説教のうち、最後のものが米国で最も評判が悪いらしいのですが、日本人の立場からすれば、よくぞ言ってくれたと拍手喝采したいくらいです。

 さて、この際、ライトの一番目の説教について補足しておきましょう。
 米国では、多くの州が、麻薬としての毒性にほとんど違いのない高純度コカイン(crack Cocine)の所持を粉末コカイン(powder cocaine)の所持よりはるかに重く罰することとしていた(これをcrack/cocaine disparityと呼ぶ)こともあずかって、2002年のデータで、高純度コカイン保持で有罪となった者の85%は(貧しい都市部の)黒人です。
 (コネチカット州の例で言うと、刑務所に収容されている者の25%近くはヤク関係の罪を犯した者であり、州人口の3%しか占めていない黒人が刑務所収容者の47%を占めています。)
 そして黒人の逮捕率、起訴率、有罪率、更には刑期は白人よりはるかに高く、黒人男性の32%は生涯に一度以上刑務所に収容される勘定であるのに対し、白人男性は5.9%に過ぎません。
 この結果、黒人の選挙権喪失者、失業者、奨学金受給欠格者等の割合は極めて高くなっているのです。
 (以上、
http://www.slate.com/blogs/blogs/convictions/default.aspx
http://www.drugpolicy.org/statebystate/connecticut/crackcocaine/
による。)

 いくら黒人の平均IQが低いとはいえ、米国政府や米国の各州が、黒人達がヤクに手を出さないような予防措置を十分講じ、中毒者のリハビリに努め、そして何よりも黒人に対する米国の構造的差別の解消に配意しておれば、こんなことにはならないはずだ、というのがライト師の言いたいことなのでしょう。
 つまり、このライトの説教もまっとうだと思いませんか。
 となれば恐らく、二番目の説教だってまっとうであるに相違ありません。
 むろん、最後の説教などは極めつきにまっとうなのです。

2 英国で先の大戦に係る論議始まる

 米国の売れっ子純文学者のベーカー(Nicholson Baker)が著書'Human Smoke'で行ったところの、先の大戦もまた英米にとって正戦と言えたような代物ではない、という問題提起(コラム#2410、2412)が、ついにまだこの本が発売されていない(5月発売)英国でも論議に火をつけました。
 雑誌や新聞の編集者である英国人ウィルビー(Peter Wilby)が英ガーディアン紙に以下のような趣旨のコラムを寄せたのです。

 ベーカーが戦争反対論者(pacifist)を持ち上げているのはいかがなものか。(ここは私と同意見(太田)。)
 しかし、この本は、先の大戦を英米が人道的ないし民主主義的目的で戦ったわけではないことを思い起こさせる。
 英国は、昔から欧州において戦ってきた目的と同じ目的、つまりは欧州大陸を単一の国家が支配することを防止する目的、でナチスドイツと戦ったのだ。米国もまた、太平洋における強力な競争相手の更なる強大化を防止するために日本と戦っただけのことだ。
 いずれにせよ、ベーカーが、先の大戦が果たしてポーランドやユダヤ人を救うために役立ったかと問いかけているのは、誤った問いかけだ。というのは、英米は誰かを救うために先の大戦を戦ったわけではなく、単に英米は、それぞれの外交政策の手段として戦ったに過ぎないからだ。
 1938年にはドイツに侵攻されたチェコスロバキアは放置されたが、1939年にはポーランドを「救う」べく英国はドイツに宣戦を布告した。
 しかし、先の大戦が終わった時点で、放置された方の国民は10万人も死亡しなかったのに対し、「救い」の手を差しのばされた方の国民は650万人もの死亡者を出した。
 一体どちらの方が幸せだったのだろう。しかも、ようやくのことでヒットラーから解放された両国は戦後どちらも英米によってスターリンに譲り渡されたときている。
 英米が先の大戦をヒットラーのユダヤ人絶滅政策に抗するために戦ったなどというのは後付のウソだ。
 1942年12月までには、ヒットラーがドイツ占領下の欧州のユダヤ人を絶滅させようとしていることは明らかになっていた。同月、米国ユダヤ人会議(American Jewish Congress)の会長であるラビのワイズ(Stephen Wise)はローズベルト米大統領に、このヒットラーの計画を20頁の冊子にしたためて提出した。英議会はこの計画を聞かされた時、1分間の黙祷を捧げた。しかし米国でも英国でも、ユダヤ人を救うにはどうしたらよいか数分も考えることはなかった。
 仮に先の大戦が無ければホロコーストが起こらなかったかどうかは誰にも分からないが、フランスがドイツに降伏した1940年の時点で英国がドイツと講和をしておれば、ユダヤ人達はマダガスカルに送られた可能性が高い、とだけは言える。
 大戦が始まってからは、大量のユダヤ人を輸送するとその中にドイツのスパイが混入する懼れがあったし、石油確保の重要性に鑑みれば、アラブの地にユダヤ人を送り込むことはできなかった。また、ユダヤ人とドイツ兵捕虜を交換することは英米側の弱さの表れと受け止められる懼れがあったし、そもそも、英米がヒットラーの欧州からユダヤ人を一掃する目論見に協力するいわれもなかった。
 結局、1944年に外相のイーデン(Anthony Eden)が語ったように、われわれは「ドイツ政府がこの不幸な人々を絶滅させることを思いとどまるよう希望する」ことしかできなかったのだ。
 一度先の大戦が始まるや、われわれもドイツも同じ道徳的次元に立った。
 ベーカーが記すように、一般住民に対する夜間爆撃を始めたのはドイツ側ではなく英国側であったし、チャーチルは占領下の欧州に食糧援助を行うことを認めなかった。また、戦争末期には、イーデンは、その多くが射殺されるであろうことを熟知しながら、ドイツ占領地域で発見されたロシア人をソ連に送還せよとのソ連の要求を飲んだ。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/apr/25/foreignpolicy.iraq
による。)

3 感想

 米国において、原爆投下についてライト師が説教であのように語ったこと、そしてこのライトにオバマ候補が私淑していることをわれわれは決して忘れないようにしましょう。
 また、英国において、先の大戦についてウィルビーがこのように記したことにも注目しましょう。
 ここまで来れば、後はわれわれ日本人の出番です。
 ナチスドイツのホロコーストに相当する蛮行を戦前の日本帝国が犯さなかっただけではありません。
 共産主義ソ連と戦って勢力の拡大を図ったファシズムのナチスドイツと違って、日本帝国は自由民主主義国家として支那の体制変革のため、ファシズムの中国国民党及び共産主義の中国共産党と戦った、ということを機会あるごとに心ある日本人は、機会あるごとに、英米の人々に対して訴えるべきでしょう。
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太田述正コラム#2508(2008.4.25)
<ロシアの体制(その3)>

→非公開

太田述正コラム#2412(2008.3.9)
<先の大戦正戦論から脱する米国?(その2)>(2008.4.15公開)

 日本は早くも1934年の時点でローズベルトが意図的に日本を挑発していることに苦情を申し立てていた。1940年にはローズベルトは、支那を攻撃してはいたけれど米国とは戦争状態になかった日本に対し、支那の空軍基地から米国の航空機を用い、必要に応じて米国の操縦士を乗せて、爆撃する計画策定に乗り出していた。1941年には日本政府は米国のハワイにおける軍備強化に抗議している。当時グルー(Joseph Grew)駐日米大使は、このような状況を受け、真珠湾に奇襲をかけるという噂が日本で流れていることを本国に報告している。
 ちなみに、ローズベルトは、基本的に木と紙で出来ている日本の住宅が火がつけばよく燃えることから、日本の都市を焼夷弾で爆撃することを考えていたのに対し、真珠湾は純粋に軍事的な標的だ。
 にもかかわらず、米国は眠りこけていて全く戦争に対する備えができていなくて、卑怯極まる攻撃を受けて仰天した、という神話が創作された。
 ローズベルトには日本と交渉するつもりなどさらさらなかった。
 1941年の10月、彼は航空機だけで1000億米ドルにのぼる新軍備拡張計画について、情報のリークを始めた。
 グルー大使は再びローズベルトに対し、日本を米国との戦争へと追い詰めていると警告を発したが、ローズベルトは戦争準備を継続した。
 真珠湾攻撃が行われる前日、ローズベルトは天皇に交渉を呼びかけるメッセージを送ったが、彼はそれを中華民国の駐米大使に向かって読み上げ、「記録に残すものとしては悪くない」と思うと伝えている。

3 ベーカー本の波紋

 ロサンゼルスタイムスの書評子は、「ベーカーは、自分達が大好きな先の大戦を批判したと米国民を激怒させるだろう。しかし、ベーカーは風聞をもとにこの本を書いたわけではない。それどころか、この本は典拠に基づいており、脚注や参照文献だらけだ。・・読者は自分で判断するほかない。とにかくこのHuman Smokeを読んで欲しい。この本はあなたが自分の生涯で読むもののうち、最も重要な本の一つになるかもしれないからだ。」と記しています。
 今後の米国における波紋に注目したいと思います。

4 私のコメント

 ベーカーは、前衛的な作品を多数モノしているところのシリアスなベストセラー作家です。
 その作家が、もっぱら資料をして語らしめる自己禁欲的なノンフィクションを書いたところに、私は彼の意気込みを感じます。
 ただし、私が違和感を覚える部分がないわけではありません。
 ベーカーが、熱心な戦争反対論者達と積極的にユダヤ人等の難民に手を差し伸べた人々とがおおむね重なり合っていると指摘しているらしい点は、事実その通りなのでしょうが、ナチスドイツに対する正しい対応はガンジーの平和主義だと示唆しているらしい点には私は全く同意できません。
 またベーカーが、戦前の英米をalliesと表現している点についても、当時英国が依然米国の潜在敵国ナンバーワンであった史実に照らせば、(ベーカーはこのことを知らないのでしょうが、)呆れてしまいます。
 これらのマイナーな点を除けば、ベーカーがこの本で訴えたいことは私のかねてからの持論と全く同じです。
 さて、ベーカーの本の内容のかくも断片的な紹介だけからもお分かりのように、戦前の米国は、有色人種やユダヤ人に対する人種差別意識に凝り固まると同時に共産主義には大甘という度し難い国であったのに対し、戦前の英国は、というか少なくともチャーチルの世界観は、人種差別意識がなかった点といい、共産主義に対する厳しい見方といい、ファシズムを共産主義に対抗するより小さい悪(lesser evil)とみなしていた点といい、戦前の日本の朝野が抱いていた世界観と瓜二つです。
 だから、日英が提携し、これに更に米国が加わる形で自由民主主義陣営の結集が図られ、ファシズムの暴走を押さえこみつつ、ファシズムを利用しながら、ソ連や国際共産主義に対抗して行くというというシナリオが実現する可能性が理論的にはあったのです。
 このシナリオが実現しなかった最大の原因は、米国の指導層が、共産主義に対し大甘であった上、支那の蒋介石政権にのめり込み、しかるがゆえに日本を敵視したためです。
 そして副次的な原因は、ヒットラーがチャーチルや日本の指導層の理解を超える悪魔的かつ非合理な人間であったことです。
 米国に追い詰められた日本が1940年9月にヒットラーのドイツと同盟関係を結んだのは、今にして思えば大変な愚行でしたが、チャーチルだって、当時日本の首相であったなら、同じことをしていたことでしょう。

(完)

太田述正コラム#2410(2008.3.8)
<先の大戦正戦論から脱する米国?(その1)>(2008.4.14公開)

1 始めに

 米国のベストセラー作家のベーカー(Nicholson Baker。1957年〜)の第二次世界大戦についてのノンフィクション'Human Smoke--The Beginnings of World War II, the End of Civilization'が米国に衝撃を与え始めています。
 第二次世界大戦が米国や英国にとって正戦であったという通念に真っ向から挑戦を試みた作品だからです。
 まず、この作品の概要をご説明した上で、私のコメントを付したいと思います。

 (以下、
http://www.latimes.com/features/books/la-bk-kurlansky9mar09,0,4405178,print.story
http://www.veryshortlist.com/vsl/daily.cfm/review/395/Book/human-smoke-nicholson-baker/
http://www.nytimes.com/2008/03/04/books/04bake.html?ei=5088&en=bfc19459af626218&ex=1362546000&partner=rssnyt&emc=rss&pagewanted=print
http://online.wsj.com/article/SB120481455326416671.html?mod=2_1167_1
(いずれも3月8日アクセス)による。)

2 ベーカー本の概要

 (1)総論

 第二次世界大戦についての神話は、近代史における巨大な、かつ最も巧妙につくられたウソだ。この神話によれば、英米の政治家達はドイツのヒットラーや日本の東條のような暴虐なファシストと対話ができるとナイーブにも思いこんでいたが、ヒットラーと東條は英米のこの弱さを奇貨として世界を征服しようとしたので、米国と英国はこれを押し止めるために軍事力を行使せざるをえなくなったということになっている。
 しかし実際には、英米の指導者達が頑迷にも、ファシズムより共産主義に反対し、かつ武器輸出に執着し、好戦的であったがゆえに世界は戦争へと誘われたのだ。

 (2)ドイツに対して

 具体的に、ドイツに対してはどうだったのだろうか。
 反ユダヤ主義は英米でも猛威を振るっていた。
 フランクリン・ローズベルトは、ニューヨークの検事であった1922年、ハーバード大学の新入生の三分の一がユダヤ人であることを知り同大学の顧問団(Harvard Board of Overseers)の一員としての影響力を行使して、毎年ユダヤ人入学枠を1〜2%減じて何年間かでユダヤ人新入生を15%まで減らすことにさせた。また、彼は欧州のユダヤ人を助けることに反対を続け、1939年になっても、米議会が起草した、ユダヤ人の子供達を救うためのワグナー・ロジャース(Wagner-Rogers)法案の採択を妨害した。
 チャーチルも再々反ユダヤ人的言辞を弄している(注)。

 (注)しかし、これはチャーチル流韜晦であったことを、以前コラム#2301、2303、2305、2307、2309で指摘したところだ。(太田)

 しかも、チャーチルは決して反ファシズムではなかった。
 彼の1937年の著書「偉大な現代人達(Great Contemporaries)」の中で、ヒットラーを「極めて有能にして、冷静で事情に精通した行儀の良い子役人だ」と評している。他方、同じ本の中でレオン・トロッツキーに対しては激しく攻撃している。また、ムッソリーニについては、その柔和で素朴な挙動を何度も誉めている。そして1927年には、ローマ市民達の聴衆の前で、「もし私がイタリア人だったら、レーニン主義の獣のような貪欲と野望に対する皆さんの成功裏な戦いの最初から最後まで私は完全に加わっていたことだろう」と述べている。
 チャーチルは、ファシズムをロシア・ウィルスに対する不可欠な解毒剤とみなしていた。彼は1938年に、記者に対して、英国が戦争に負けるようなことがあった場合は、ヒットラーが我々を諸国の間の正当な地位に連れ戻してくれることを希望していると語っている。
 それ以外の指導者はどうだろうか。
 第一次世界大戦中の米国の首相であったロイド・ジョージ(David Lloyd George)は、ヒットラーが権力を掌握した1933年に、「仮にわれわれがナチズムをを打倒できたとして何がそれに取って代わるだろうか。極端な共産主義だ。だから我々はそんなことをすべきではない」と語っている。
 もう一つ。
 1930年代を通じて米国産業界はドイツに、武器を始めとするありとあらゆるものの輸出を続けた。これに負けじと英国とフランスはヒットラーに戦車や爆撃機を売った。米国ユダ人議会(American Jewish Congress)のテネンバウム(Joseph Tenenbaum)による、ドイツ排斥要請は無視された。ナイーブだからではなく、貿易上の利益のために、ヒットラーを封じ込め、孤立させ、妨害し、あるいは打倒する試みはなされなかったのだ。大恐慌の時代であったこともあり、ヒットラーを打倒しようとするドイツ人達の動きはあったけれど、米国と英国の政府及び産業界は、そのような動きをむしろ妨げたのだ。

 (3)日本に対して

 それでは、日本に対してはどうだったのだろうか。

(続く)

太田述正コラム#2100(2007.10.2)
<朝鮮戦争をめぐって(その6)>(2008.4.11公開)

 孫文が中華民国大総統の座を譲った袁世凱(Yuan Shikai。1859〜1916年)に宋教仁を殺され、反袁蹶起にも失敗して日本に亡命した孫文は、1914年に中国革命党をつくるのですが、党員になるにあたって孫文に忠誠を誓わされた上、厳しい規律を押しつけられたため、それまで孫文と行動を共にしてきた同志達の多くはこれは非民主的であるとして入党を拒んでいます。 
 その後支那に戻った孫文は、1917年に広州(Guangzhou)政府をつくります。
 これは軍事独裁政府であり、孫文は大元帥(Generalissimo)としてこの政府に君臨するのですが、1918年に孫への反発が起きて内閣制が採用され実権を失うと、孫文は広東を去ります。
 孫文は翌1919年に今度は、「国民党」ならぬ「中国国民党」(以後、紛らわしいが「国民党」と呼ぶ)をつくります。
 そして広州に再び政府をつくった孫文は、1920年にソ連の支援を仰ぐこととし、ソ連の指示に従って、国民党をソ連共産党と瓜二つの形態にし、爾後国民党はこの形態を台湾に逃げ込んでからも1990年代まで維持することになります。
 また、やはりソ連の指示に従って、創設されてから日が浅かった中国共産党(以後「共産党」と呼ぶ)とも協力関係を結び(第一次国共合作:1924〜27)、共産党員は党員のまま国民党員になります。
 この頃孫文が盛んに唱えていたのが「連ソ容共」です。
 この国民党が1924年に採用したのが孫文の、民族主義(nationalism。韃虜(清)の駆除・中華の回復)・民権主義(democracy。民国の建立)・民生主義(people's livelihood。地権の平均)からなる三民主義(Three Principles of the People)です。
 民族主義は危険なナショナリズムの旗を掲げたということですし、民権主義とはその実、一党独裁下の民主集中制を意味していましたし、民生主義に至っては、孫文自身、中身をつめずに終わってしまっています。
 この時点では国民党は、ファシスト的要素と共産主義的要素が未分化な民主主義独裁政党であったと言えるでしょう。
 さてこの間、蒋介石(Chiang Kai-shek。1887〜1975年)は孫文の指示により、1923年にソ連で軍事と政治の研修を受けた後、1924年に、広州の近郊に開校した黄埔軍官学校(Whampoa Military Academy)の校長に就任していました。
 1925年に孫文が病死すると、跡を継いだ蒋介石は、その翌年の1926年、国民党からソ連の顧問達を追放し共産党員を国民党幹部から排除し、更に支那統一を目指して軍閥を征伐する北伐(Northern Expedition)を開始します。
 翌1927年、この北伐の過程で蒋介石は上海で、そこに党本部を置いていた共産党に対し血の弾圧を行うとともに、国民党政府の首都を広州から南京(Nanjing)に移転します。
 ここに国民党は、共産主義的要素が排除されたファシスト政党となり、軍閥との内戦に加えて、共産主義政党(スターリン主義政党と言ってもよい)たる共産党とも内戦を行いつつ支那統一を目指すこととなり、それに第三勢力たる日本がからむ形で支那の歴史が進行していくことになるのです。
 蒋介石の国民党がファシスト政党であった証拠として、国民党は亡くなった孫文を神格化し、一党独裁制/民主集中制を引き続き堅持するとともに、資本家に対する優遇政策をとり、かつ1928年から始まったドイツとの軍事協力を、1933年のナチスのドイツ権力掌握以降も、1938年にナチスドイツ側から解消されるまで継続したことが挙げられます(注4)。

 (注4)ナチス党員のドイツ人ラーベが南京事件当時、南京で「大活躍」したことを想起せよ(コラム#253、254、256、259参照)。

 しかし蒋介石は、結党の経緯もあって容共勢力を抱えていた国民党からこれらの勢力を完全にパージすることに成功せず、このこともあって共産党との対決姿勢に一貫性を欠き、1936年の西安事件(Xi'an Incident。コラム#178、187、234、256)を契機として第二次国共合作(1937〜45年)が成立したために共産党を壊滅させる機会は永久に失われ、日本の敗戦後の国共内戦に敗れ、台湾に逃走することになるのです。
 私が国民党を容共ファシスト政党と呼ぶゆえんがお分かりいただけたでしょうか。
 この国民党は極めて腐敗したファシスト政党でもあったことを付言しておきます(コラム#177〜179参照)。

 (以上、事実関係は、特に断っていない限り
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Republic_of_China
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%BE%A9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3
http://72.14.235.104/search?q=cache:M5CWzXmjN7wJ:www.history.gr.jp/nanking/books_shokun0204.html+%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%EF%BC%9B%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A%EF%BC%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E9%A1%A7%E5%95%8F&hl=ja&ct=clnk&cd=3&gl=jp
(10月1日アクセス)による。)

 それでは、どうして国民党政権との戦争が日本の自衛戦争であったのでしょうか。

(続く)

太田述正コラム#2098(2007.10.1)
<朝鮮戦争をめぐって(その5)>(2008.4.10公開)

 このシリーズは、朝鮮戦争についてのシリーズなので、東アジア25年戦争全体をきちんと取り上げるのは別の機会に譲ることとし、ここでは朝鮮戦争以前については、スケッチ風に触れるにとどめたいと思います。
 
 トルーマン大統領によって解任された後、マッカーサーが1951年5月に米上院で、「これらの原料の供給を断ち切られたら、1,000万人から1,200万人の失業者が発生するであろうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れていました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、基本的に安全保障上の必要に迫られてのことだったのです(They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.)」と証言したのは、米国による日本への経済制裁が日本を対米(等)自衛戦争に追い込んだ、と指摘したものであると受け止められています(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC
。10月1日アクセス)。

 しかし、もし日華事変が日本による支那の侵略戦争であったとすれば、侵略されていた支那(国民党政権)を軍事援助や対日経済制裁等によって支援した米国の行為は正当な行為であり、このような正当な行為を行っていた米国に対して日本が自衛権を発動する・・安全保障上の必要によって開戦する・・ことは許されないはずです。
 となれば、この時点でマッカーサーは、日米戦争(太平洋戦争)だけでなく、日華事変も日本の自衛戦争であったと思っていたに違いない、ということになります。
 どうして日華事変は日本の自衛戦争なのでしょうか?
 あえて忖度すれば、戦前の日本の安全保障の基本であった対ソ連抑止戦略を背後から掘り崩そうとした支那の国民党容共ファシスト政権・・及び国民党と合作・離反を繰り返しつつ、最終的には合作した(ソ連の別働隊たる)中国共産党・・と戦ったのだから、これは日本にとっては自衛戦争である、という理屈です。
 1948年11月中に判決が逐次言い渡された極東裁判では、日華事変以降の日本の戦争は、共同謀議に基づく侵略戦争であったとしており、当然これはマッカーサーの認識でもあったはずなのに、この彼の認識を180度変えさせたものこそ朝鮮戦争であった、と私は考えているのです。

 (補注)米最高裁判事のスティーブンス(John Paul Stevens。1920年〜。最高裁判事:1975年〜)は本来保守派の判事なのに、右傾化を強める米最高裁において、あたかもリベラルの旗手のように右派に対する防波堤的な役割を果たしてきた、米最高裁の良心とも言える存在であるところ、彼に日米戦争は大きな影響を及ぼした。シカゴ大学を卒業後、彼は米海軍に入り、日本海軍の暗号を破ることに成功し、勲章をもらうことになるのだが、そのため、1943年4月、山本五十六連合艦隊司令長官は乗機を米軍機によって待ち伏せ攻撃されて命を落とした。スティーブンスは、高度の知性を持ち、かつて米国に在住し、米国の将校達と友人になった人物が、ほとんど議論されることも人道的考慮が払われることもないまま撃墜されたことに心を痛めた。戦争では一個の人間が単に殺されるべき敵に堕してしまうというわけだ。これを契機にスティーブンスは死刑廃止論者になる。(
http://select.nytimes.com/preview/2007/09/23/magazine/1154689944149.html?adxnnl=0&adxnnlx=1190262635-hjsH9hcx+lPey/oToqffhQ&pagewanted=print
。9月23日アクセス)
     マクナマラ(コラム#122、123)といい、スティーブンスといい、先の大戦期を経験した米国人の中に、このように人種的偏見から自由に、虚心坦懐に物事を見ることのできたエリート達が、わずかではあってもいたことを忘れないようにしよう。

 最後に、どうして私が中国国民党(Kuomintang =Nationalist Party)を容共ファシスト呼ばわりしているのか、そしてどうして中国国民党政権との戦争が日本の自衛戦争であったかを簡単にご説明しておきましょう。
 そのためには、孫文(Sun Yat-sen。1866〜1925年)の時代まで一旦時計を巻き戻す必要があります。
 1912年に国民党という自由民主主義政党が支那で結党され、孫文が党首になるのですが、彼は名目的な党首でしかなく、実権はナンバー3の自由民主主義者、宋教仁(Song Jiaoren。1882〜1913年)(コラム#234)が握っていました。

(続く)

太田述正コラム#2096(2007.9.30)
<朝鮮戦争をめぐって(その4)>(2008.3.31公開)

 最終章たる朝鮮戦争から始めることにしましょう。

 現在の日本人の多くは、占領史観の影響を受けた、戦前と戦後が断絶した歴史観を抱いています。
 ですから、朝鮮戦争についても、隣国で米軍と北朝鮮軍/中共軍とが戦った戦争、といった程度の認識の人が多いのではないでしょうか。

 このような認識は誤りです。
 韓国軍が、初期の潰走の後、釜山一帯に追い詰められた釜山橋頭堡防衛戦線で、(支援にかけつけた米軍とともに)頑強に抵抗したおかげで、韓米連合軍によるその後の反撃が可能になったことを忘れるべきではありません。
 朝鮮戦争の主役はあくまでも北朝鮮軍と韓国軍であり、それをそれぞれ中共軍と米軍等が支援した、ととらえるべきなのです。
 北朝鮮軍は中共軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編したものが殆どで練度が高かったのですが、その北朝鮮軍に対し、韓国軍は、建国後に新たに編成された師団ばかりであって、その5年前まで日本帝国臣民であったところの、その多くが日本軍出身者であった将校(注2)が、まだ訓練が十分ではなかった、やはりその5年前まで日本帝国臣民であった兵士を率いて戦いました。
 (以上、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%96%84%E7%87%81
(9月30日アクセス)、及び
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89
(9月28日アクセス)による。)

 (注2)例えば、開戦時の韓国軍の参謀総長は蔡秉徳(日本陸士49期卒・元日本陸軍少佐)、そして蔡の解任後の参謀総長は丁一権(日本陸士55期・日本陸軍憲兵。後に首相)であるし、釜山橋頭堡防衛戦線で最も活躍した第一師団長は白善(満州国軍官学校卒・元満州国軍中尉。後に陸軍参謀総長・駐仏大使・交通部長官)。

 そして北朝鮮軍は、1936年のソ連軍ドクトリンである『赤軍野外教令』に則って戦い、韓国軍は、日本陸軍の『歩兵操典』に則って戦ったのであって、北朝鮮軍と韓国軍の戦いについてみれば、朝鮮戦争は、1938年の張鼓峰事件や1939年のノモンハン事件、そして1945年の日ソ戦に引き続く最後の日ソ戦であるという意味において、私の言う東アジア25年戦争の最終章だったのです。
 (ここは、
http://www.okazaki-inst.jp/?p=432
(9月28日アクセス)を大いに参考にした。)

 それに、朝鮮戦争には、正真正銘の日本の武装部隊が参戦をしています。
 海上保安庁の掃海艇(もちろん旧海軍由来)が戦闘地域である朝鮮水域で掃海を実施した(注3)のです。

 (注3)「10月6日米極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の掃海艇使用について、文書を以て指令が出された。1945年9月2日の連合国最高司令官指令第2号には、「日本帝国大本営は一切の掃海艇が所定の武装解除の措置を実行し、所要の燃料を補給し、掃海任務に利用し得る如く保存すべし。日本国および朝鮮水域における水中機雷は連合国最高司令官の指定海軍代表者により指示せらるる所に従い除去せらるべし。」とあり、進駐軍の命令により海上保安庁は朝鮮水域において掃海作業を実施する法的根拠は一応存在していた。もっとも、朝鮮水域は戦闘地域であり、そこで上陸作戦のために掃海作業をすることは戦闘行為に相当するため、占領下にある日本が掃海部隊を派遣することは、国際的に微妙な問題をはらんでいた。また、国内的には、海上保安庁法第25条が海上保安庁の非軍事的性格を明文を以て規定していることから、これまた問題となる可能性があった。そこで、日本特別掃海隊は日章旗ではなく、国際信号旗のE旗を掲げることが指示された。吉田茂首相の承認の下、米国海軍の指示に従い、10月16日に海上保安庁は掃海部隊を編成し<、朝鮮水域に派遣し、掃海を実施し>た」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89
上掲)

 中国共産党との内戦に敗れて台湾に逃げ込んでいた中国国民党も朝鮮戦争への参戦を希望したのですが、中共軍の参戦を惹起する懼れがあったので米国はこれを断っています。 なお、朝鮮戦争が勃発すると、台湾海峡を挟んで内戦が再燃することを懼れた米国は、第7艦隊を台湾海峡に派遣しています。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Korean_War
(9月28日アクセス)による。)

 疎遠になっていた中国国民党と米国との関係修復もまた、朝鮮戦争を契機に成ったのです。

 このように見てくると、東アジア25年戦争の最終章、かつ最後の日ソ戦としての朝鮮戦争は、それまで日本を敵視していた米国(や英国等)と中国国民党が、初めて日本の側に立ってソ連と中国共産党と戦った最初にして最後の戦争であった、という捉え方ができるのです。
 朝鮮戦争の結果、南北併せて最高約300万人(南約100万、北最高約200万)の旧日本帝国臣民たる一般市民、41万5,000人の旧日本帝国臣民たる韓国軍兵士、33,000人の米軍兵士、約150万人の北朝鮮兵士(その中には多数の旧日本帝国臣民が含まれている)と中共軍兵士が死亡しました(
http://www.latimes.com/features/books/la-et-rutten25sep25,0,190081,print.story?coll=la-home-middleright
。9月28日アクセス)。
 この天文学的な犠牲、とりわけ旧日本帝国臣民の犠牲は、米国が旧日本帝国を敵視し、先の大戦で旧日本帝国を瓦解せしめてさえいなければ生ずるはずがなかったことに鑑みれば、その責任は米国が一義的に負わなければならない、と私は考えているのです。

(続く)

太田述正コラム#2094(2007.9.29)
<朝鮮戦争をめぐって(その3)>(2008.3.30公開)

3 朝鮮戦争とは何だったのか

 (1)米国の東アジア戦略大転換の契機

 朝鮮戦争は、日本の再軍備を認めない戦略から、日本を米国の東アジア防衛の拠点とする戦略への大転換を米国にもたらしました。
 この米国の戦略転換の転轍手となったのは昭和天皇であり、以下のような経過をたどります。

 昭和天皇は、新憲法が成立して10日後の1946年10月16日に行われたマッカーサーとの会見(3回目)会見で、早くも「戦争放棄を決意実行する日本が危険にさらされる事のない様な世界の到来を、一日も早く見られる様に念願せずには居れません」と憲法第9条、つまりは米国の日本再軍備否定戦略への不安感を表明しました。
 この時、マッカーサーはこの天皇の不安感の表明に一顧だに与えていません。
 その半年後、新憲法が施行されてから3日後の1947年5月6日の会見(4回目)において天皇は、「日本の安全保障を図る為にはアングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアティヴをとることを要するのでありまして、その為元帥の御支援を期待しております」と、事実上米国による日本の防衛を要請しました。
 この時、マッカーサーはこの天皇の要請を、事実上拒否しています。
 (ちなみに、この会見から半年後の11月19日、天皇は、「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」の下で米軍による沖縄占領の継続を求める、という「沖縄メッセージ」を米側に伝達している。)
 その後、東西間の冷戦が本格化し、1947年6月から翌1948年9月にかけてベルリン危機が起こっています。
 このような背景の下、1949年11月26日の会見(9回目)において、天皇は「ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対する侵略等がありますと国民が甚だしく動揺するが如き事態となることを惧れます」と、あたかも朝鮮戦争の勃発を予測したかのように共産主義の脅威を訴えます。
 これに対し、ようやくマッカーサーは、日本が主権を回復してからも「過渡的な措置」として米軍等が駐留を続ける可能性に言及します。
 ところが、その半年後の1950年4月18日に行われた会見(10回目)において、改めて天皇が、中国やインドシナ、朝鮮半島、日本など内外の共産主義の動向に触れた上で、「イデオロギーに対しては共通の世界観を持った国家の協力によって対抗しなければならないと思います」と主張したのに対し、マッカーサーは、再び米軍の駐留について言を左右にするのです。

 そこへ1950年6月25日に朝鮮戦争という東西「熱戦」が勃発します。
 茫然自失後、正気に戻ったマッカーサーが痛切に感じたのは、先の大戦前からの自分を含む米国の指導者達の東アジア認識が間違っており、昭和天皇の認識こそ一貫して正しかった、ということであったに違いありません。
 そこでマッカーサーひいては米国は豹変し、日本を含む東アジアの防衛に米国がコミットする必要性を認めるとともに、日本に再軍備を命じるのです。
 このようにして、朝鮮戦争は、日本の再軍備を認めない戦略から、日本を米国の東アジア防衛の拠点とする戦略への大転換を米国にもたらしたのです。

 この際、付け加えておきましょう。
 当時の吉田茂首相は、米国の本格的再軍備命令に抵抗し、警察予備隊の創設でお茶を濁した上、7月末の参議院外務委員会において、「私は<米国に>軍事基地は貸したくないと考えております」とまで発言します。
 これらが吉田による米国に対する意趣返しであることに天皇が気付いていたのか気付いていなかったのかは定かではありませんが、いずれにせよ危機意識を募らせた天皇は、同年8月、日本との講和問題の責任者であるダレスに対し、「基地問題をめぐる最近の<参議院における>誤った論争も、日本の側からの自発的なオファによって避けることができたであろう」に、との吉田を批判する「文書メッセージ」を直接送っています。
 とまれ、昭和天皇の描いた日本再軍備プラス双務的日米安保構想は、こうして吉田茂によって軍隊もどきの自衛隊プラス片務的日米安保へと矮小化されてしまい、日本は米国の保護国に成り下がってしまったわけです。

 (以上、天皇とマッカーサーについては、
http://nota.jp/group/kgarticle9/?20060912121406
(9月28日アクセス)による。)

 (2)東アジア25年戦争の最終章

 私は、朝鮮戦争(1950〜51年)は、1925年の中国国民党の北伐開始によって始まった東アジア戦争の最終章である、とらえています。
 日本と支那だけを見れば、1931年の満州事変から1945年の日本の先の大戦における敗北までを一続きの15年戦争(正しくは14年戦争)ととらえることもできますが、私は、東アジアにおける自由民主主義と全体主義との戦いという視点に立って25年戦争ととらえているのです。
 その主要アクターは、自由民主主義の日本と米国、共産主義(スターリン主義)のソ連(ロシア)と中国共産党、そして容共ファシストの中国国民党、です。

太田述正コラム#2092(2007.9.28)
<朝鮮戦争をめぐって(その2)>(2008.3.29公開))

 (3)ニューヨークタイムス2

 「ハルバースタム氏は、ヘンリー・R・ルース(Henry R. Luce)を始めとするチャイナ・ロビーが及ぼした悪しき影響についても、歯に衣を着せぬ批判を行っている。彼らが蒋介石と国民党に無条件で支援を続けていたために、共産主義の支那と朝鮮における紛争に対して冷静な政策をとることが不可能になった、と。」

→そこまで言うなら、米国人の大部分がが蒋介石と国民党ロビーだけでなく、毛沢東と共産党ロビーでもあったため、支那における紛争に対して米国が冷静な政策をとることが不可能になった1930年代をどうしてくれる、と言いたくなります。

 (http://www.nytimes.com/2007/09/26/books/26grim.html?pagewanted=print
。9月27日アクセス)

 (4)ロサンゼルスタイムス

 「米国人数百万の頭の中に存在していた支那像は、米国と米国人が大好きな忠実で従順な農民で一杯、という幻想に満ちたものだった。
 
→そう。その裏返しが、米国と米国人を物とも思わぬ狡猾で好戦的なサムライで一杯、という幻想的な戦前の日本像だったことが問題なのです。

 (http://www.latimes.com/features/books/la-et-rutten25sep25,0,190081,print.story?coll=la-home-middleright
。9月26日アクセス)

 (5)スレート誌

 「<ハルバースタムは、マッカーサー(及びその幕僚であったやウィロビー(Charles Andrew Willoughby)やアーモンド(前出))だけを悪者にしているが、>それでは、物事の反面しか見ていないと言わざるをえない。・・マッカーサーが何をしでかすかを非常にはらはらして見守っていた連中だってマッカーサーと目標は共有していたし、マッカーサーが希望していたのと同様、彼らも大勝利を欲していた。ハルバースタムは、<朝鮮>戦争の際の反共ヒステリー・ムードが政権の選択肢を狭めてしまっていたと信じている。・・<トルーマン>大統領は閣僚達に、新しい権威と新しい資源を<マッカーサーに>与えてやらなければならないと述べた。「少なすぎるのと多すぎるのとどちらがよいかだが、マッカーサーは多すぎる方を与えられるべきだ」と。・・
 しかも、朝鮮半島を統一するという運命的な意志決定は、基本的に既に仁川上陸の前になされていたのであり、アチソン<国務長官>自身、その信奉者の一人だったのだ。・・
 マッカーサーが38度線を越えて北朝鮮に進撃する準備をしている時、個人的に電報を彼に送り、来るべき作戦においてマッカーサーは「基本的に自由にやってよい」と思ってくれてよいと大統領が考えている、と伝えたのはマーシャル<国防長官>だった。」

→その通り。米国の指導者達は、ほとんど全員国際情勢が分からず、とりわけアジアのことなど、皆目分からないのであって、マッカーサーはフィリピンにいた期間が長く、その上日本に5年もいたのですから、当時の米国の指導者達の中ではまだマシな方だったのでです。
 何と言っても、マッカーサーは、(恐らく朝鮮戦争が起こったことで)先の大戦が日本の自衛戦争であったことに気付く程度の国際情勢リテラシーはあったからです。(後で再び論じる。)

 (http://www.slate.com/id/2174591/
。9月25日アクセス)(注1)

 (注1)クリスチャン・サイエンスモニターにも書評が載っていた(
http://www.csmonitor.com/2007/0925/p13s02-bogn.htm
。9月25日アクセス)が、面白いのは、仁川上陸作戦を取り上げている箇所だけであり、ワシントンポストの書評と同じなので、省略する。

(続く)

太田述正コラム#2089(2007.9.27)
<朝鮮戦争をめぐって(その1)>(2008.3.28公開)

1 始めに

 今年4月に交通事故で亡くなったハルバースタム(David Halberstam。1934〜2007年)・・ベトナム戦争にいかに米国のエリート達が愚劣に対処したかを描いたThe Best and the Brightest (1972)の著者として有名・・の遺作'THE COLDEST WINTER America and the Korean War'についてのいくつかの書評を読んで感じたところをご披瀝したいと思います。

2 書評と感想

 (1)ワシントンポスト

 「<朝鮮戦争(1950〜53年)では>軍人たる士官達が事実をねじまげて文民の指導者達に報告した。ベトナムとイラクではこのパターンが逆さまになり、文民達が軍部と国民を操るために情報を恣意的に選択した。しかしハルバースタムの見解では、朝鮮戦争の方がはるかに危険な先例なのだ。・・<事実、>半世紀も経ってまだ何千もの米軍部隊が朝鮮半島にとどまっている・・」

 →前段については特段言うことはありませんが、後段については、そんなことを言うのなら、先の大戦から60年以上も経ってもなお、何万もの米軍部隊が日本列島にとどまっているのはどういうことになるのでしょうね。

 「マッカーサー(Douglas MacArthur。1880〜1964年)は、5年間誰にも無答責な立場で日本占領軍の司令官をしていた男だが、<朝鮮>戦争をリモート・コントロールで行った。「朝鮮半島の戦場でわずか一夜を過ごす」こともなかったのだ。彼は既に70になっていた・・。」

 →1950年6月25日に北朝鮮軍が侵攻してきたのですが、マッカーサーは6月29日に専用機で水原に入り、自動車で前線を視察しただけでなく、自ら戦場を歩き回っています(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89
。9月27日アクセス)。確かにマッカーサーはその日のうちに日本に戻っているので、ハルバースタムの指摘は間違いではないとはいえ、何十万の軍隊を指揮する元帥が戦場にいなければならない、ということはないでしょう。第一、マッカーサーは戦場のすぐ近くの日本にいたのです。

 「ワシントンを回避し彼が戦争を個人的に遂行するため、マッカーサーは、<もともとからあった>第8軍(Eighth Army)と並列の第10軍団(X Corps)を編成した・・。自分の部隊を・・ハルバースタムに言わせれば「信じがたいことに」・・二つに分けたのは彼の愛おしい廷臣であったエドワード・アーモンド(Edward Almond)に戦闘部隊指揮官職を与えることによって大将への承認基準を満たすためであり、その結果マッカーサーは敵の追撃を一ヶ月遅らせてしまった」

 →第10軍団は仁川(Inchon)上陸作戦を敢行するために編成されたものであり、その間、半島内における追撃の速度が鈍ったとことはある意味で当然のことですし、海兵隊を交えた上陸作戦の特殊性に鑑みれば、新しい部隊を編成したことも決しておかしいとは言えないのではないでしょうか。

 (http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/09/20/AR2007092002084_pf.html
。9月23日アクセス)

 (2)ニューヨークタイムス1

 「朝鮮戦争は、議会ないし国民が理解しないままに疑わしい戦略的大義に基づき大統領が命じた、ハルバースタムの生涯中に生起した3つの米国の戦争の最初のものだった。
 朝鮮戦争は、米国が初めてその帝国的無能さをさらけ出し、軍事指導者達が二度とアジアにおける地上戦を行うまいと誓うことになった戦争でもあった。しかし・・ベトナム戦争とイラク戦争がその後に生起することになる・・。
 朝鮮半島における戦争は巨大な失策の賜だった。ディーン・アチソン(Dean Acheson)国務長官が定例演説で南朝鮮を米国のアジアにおける「防衛圏(defense perimeter)」に含めることを忘れたことが、気乗りしなかったスターリンをして、金日成が約束したところの全朝鮮を統一するための3週間の電撃戦に北朝鮮軍を投入させることになった。それは成功する寸前のところまで行った。
 マッカーサーは・・日本においても、南朝鮮においても、攻撃に対して準備することを完全に怠っていた。<攻撃を受けた>最初の夜、彼はそれを「強行偵察」と誤解した。一日経った時点で、今度は彼は全朝鮮が失われてしまったとパニくった。・・
 マッカーサーは彼の軍歴の中で最も素晴らしい<仁川上陸という>戦術的攻撃で答えた。これが逆説的により大きな大失敗を引き起こすことになる。・・<マッカーサーは、>自分はもはや不敗であると思い、・・中共が彼に挑戦するようなことはありえないと信じ込み、全北朝鮮の速やかな征服を命じた。
 ・・しかしその結果、ハルバースタムに言わせれば、「賽は投げられ、他の人々が彼のひどい傲慢さと虚栄の代償を支払うことになった」のだ。
 またもや米軍が敗走した時、マッカーサーの強迫観念的反応は核戦争をも辞さない、中共との全面戦争の扇動だった。一人一人の兵士に「死にものぐるいで戦う」ことを求める「過酷な限定戦争」で満足できるもっとまともな将軍で置き換えるため、彼はトルーマンによって1951年4月に馘首されなければならなかった。そのおかげで、対峙状況が招来され、二つの朝鮮の間のもともとの境界線が回復することになったのだ。」

 →ここは、まことにもってその通りですね。

 (http://www.nytimes.com/2007/09/23/books/review/Frankel-t.html?pagewanted=print
。9月23日アクセス)

(続く)

太田述正コラム#1830(2007.6.23)
<アイク・マーシャル・マッカーサー>(2007.12.20公開)

1 始めに

 本格的なマッカーサー(Douglas MacArthur。1880〜1964年) 論は他日を期したいと思いますが、ウェイントローブ(Stanley Weintraub)の'15 STARS--Eisenhower, MacArthur, Marshall Three Generals Who Saved the American Century, Free Press' の書評等をてがかりに、アイゼンハワー(アイク=Dwight David "Ike" Eisenhower。1890〜1969年)やマーシャル(George Catlett Marshall, Jr.。1880〜1959年)との比較でマッカーサー像を浮き彫りにしてみることにしました。

2 アイク・マーシャル・マッカーサー

 先の大戦における米国の三人の元帥(注1)のうち、マッカーサーは、大統領になったアイク、国務長官になりマーシャルプランの功績を称えられてノーベル平和賞を受賞したマーシャルほどの人物ではありませんでした。 三人のうちで一番年下のアイクは、人柄は誉められても頭が良いと言われたことはありませんし、マッカーサーは、同期生の凡庸なマーシャルを尻目に米陸軍士官学校を首席で卒業したのですから、この三人のうちではずば抜けて頭が良かったことは疑いありません。

 (注1)米議会が元帥(General of the Army)位を設けたのは、1944年12月だ。

 ずば抜けて頭が良かったからこそ、マッカーサーは第一次大戦後に例外的に格下げにならず准将(Brigadier General)位にとどまり、かつ1930年に49歳の時に大将(General)/陸軍参謀長(Chief of Army Staff)になっています。同期のマーシャルが陸軍参謀長になったのは、その実に9年後の1939年ですし、アイクが陸軍参謀長になったのは1945年であり、15年後、年次を補正しても、マッカーサーより約5年後、ということになります。
 もっともこれは、最初はアイクやマーシャルの上司だったマッカーサーが、後にまずマーシャルの、次いでアイクの部下に転落したことを意味します。
 アイクとマーシャルの性格は対照的であり、開けっぴろげですぐに誰とでも親しくなったアイクに対し、マーシャルは、一見とりつく島もない感じのぶっきらぼうな、しかし根は暖かい人物でした。
 この二人はどちらも、米国民が実は戦争が嫌いであり、戦争に長けてもいないことを熟知していました。ですから二人とも、米国がやる戦争は長期化してはならず、かつ単独で戦ってはならない、という信念を持っていました。
 このあたりの政治的感覚が、朝鮮戦争の時に中共に対する核攻撃を求めてトルーマン大統領に馘首されたマッカーサーには欠けていました(注2)。

 (注2)アイクもマーシャルも先の大戦中は、主として欧州戦線に精力を注いだが、このアイクやマーシャルも英国のモントゴメリー(Bernard Law Montgomery)将軍には頭があがらなかった。アイクらは短期決戦を主張し、ただちにフランスに上陸してベルリンを目指すべきだとしたのに対し、モントゴメリーはまずアフリカと地中海を押さえるべきだと主張した。これは、英国の植民地を守りたかったということもあるが、同時に未熟な米軍に経験を積ませるためでもあった。実際、モントゴメリーは正しかったのであり、北アフリカでの戦いにおいて、米軍の未熟さと臆病さは英軍を呆れさせ、彼らは米軍を「我がイタリア人達」と呼んだものだ。

 帝王然とした(imperious)マッカーサーは、アイクもマーシャルも敬遠していました。
 フィリピン時代に一度マッカーサーに使えたアイクは、大戦の始まる前、マッカーサー率いる部隊の参謀長をしていましたが、マッカーサーのことを「我慢ならない将軍閣下(General Impossible)」と陰口をたたいていましたし、マッカーサーはマッカーサーで、アイクのことを「今まで出会った中の最高の事務員だ(Best clerk I ever had)」と嘲っていました。後にアイクは、「私はマッカーサーの下で素人芝居(dramatics)の何たるかを学んだ」とマッカーサーを揶揄しています。更にはアイクは、マッカーサーを50人もらったとしても1人のマーシャルと交換したくない、とまでマッカーサーをこき下ろしています。
 マーシャルは、陸軍参謀長として、慎重に、しかし何度となくマッカーサーに対し、メディアに対して、米国防省が自分の太平洋における作戦の邪魔をしているなどと言うな、と注意喚起しています。
 それにマッカーサーは、自分の手柄を誇張し、自分のライバルを貶めるのを習いとしていました。
 もう一つ。
 先の大戦初期において陸軍参謀長のマーシャルの下で参謀をしていたアイクに、ある日マーシャルが、「君は参謀だから昇任はないよ」と言ったところ、アイクは「あなたが昇任させてくれるかどうか何て私にはどうでもよいことです。私がここにいるのは自分の義務を果たすためです。」と返答して席を立って歩いて出て行こうとしました。ドアの前でアイクが後ろを振り向いてみると、マーシャルが笑みを浮かべていた。アイクはにやりと笑って外に出たといいます。こんなことをしたら、マッカーサーは激怒したに違いありません。
 なお、実際にはマーシャルの部下時代に、アイクはとんとん拍子の出世をしています。
 アイクは大統領になったし、マーシャルだって十分大統領になれたでしょうが、マッカーサーは、到底大統領の器ではなかったのです(注3)。

 (注3)この3人の違いを更に二つ挙げておこう。
    まずは取り巻きだ。アイクは腹心(confidant。運転手やブリッジ仲間等の気の置けない人々のほか、有名なのはブッチャー(Harry Butcher)やスミス(Walter Bedell ("Beetle") Smith))を、マーシャルは顧問(counsel。大戦中に英国からワシントンに派遣されていたディル元帥(Sir John Dill, Field Marshal)が有名)を、そしてマッカーサーは廷臣(court。ウィロビー(Charles Willoughby)とホイットニー(Courtney Whitney)が有名)を取り巻きとした。マーシャルはマッカーサーには廷臣はいてもスタッフはいない、と心配していた。
    次に住んだ場所だ。中西部の田舎出身のアイクは田舎暮らしが好きで晩年をゲティスバーグ近くの農場で送ったのに対し、ペンシルバニア州西部の小さな町で育ったマーシャルは郊外が好きで首都ワシントンから20マイル離れた小さな町をすみかとし、マッカーサーは都市が好きで、ワシントン、マニラ、東京を経て引退後はニューヨークのウォルドルフ・ビルの37階で晩年を過ごした。

 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/06/15/AR2007061501131_pf.html  
(6月17日アクセス)、及び
http://www.diesel-ebooks.com/cgi-bin/item/555163423X/15-Stars-Eisenhower-MacArthur-Marshall-Three-Generals-Who-Saved-the-American-Century-eBook.html#
http://www.bordersstores.com/search/title_detail.jsp?id=56620751&ref=list+newhistory  
(どちらも6月23日アクセス)による。)

3 感想

 先の大戦当時に米国で最も有名であった三人の米軍人のうち、格段に器の小さいマッカーサーを戦後米国から派遣され、彼を絶対君主として崇め奉らされた日本人が哀れでなりません。
 しかも、アイクもマーシャルもマッカーサーも、先の大戦のおかげで、しかもその大戦に米国が勝利したおかげで、実像以上に虚像が膨れあがったに違いない、と考えるとなおさらです。
 現に、その後、パウエル前国務長官のように、軍人出身の国務長官は出ていますが、一人の大統領も米国では出てはいません。

<太田>(2007.8.5)
 ニューヨークタイムスも、コラム#1830で紹介したウェイントローブらの本の書評を載せました。
http://www.nytimes.com/2007/08/05/books/review/05besc.html?pagewanted=print
(8月5日アクセス)
 
 その中に、マーシャルについては、
・・in 1938, Roosevelt tried to pressure Marshall, then the Army’s deputy chief of staff, into consenting to a delay in the development of large ground forces until seven airplane factories could be built.
As a dozen officials’ bobbleheads went up and down, Roosevelt asked Marshall, “Don’t you think so, George?” Marshall resented Roosevelt’s “misrepresentation of our intimacy.” He said, “I am sorry, Mr. President, but I don’t agree with that at all.” As Marshall later recalled, Roosevelt “gave me a startled look, and when I went out they all bade me goodbye and said that my tour in Washington was over.”
It wasn’t. Roosevelt was not used to such frank disagreement in large meetings, but he admired Marshall’s grit and conviction and soon promoted him.

アイゼンハワーについては、
A lifelong Army man, Eisenhower had watched Marshall and MacArthur during their differences with Roosevelt and Truman. When he entered the White House in 1953, he was probably better schooled to know both the importance and the limits of military advice than any other president of his century.
Though the story does not appear in either book, in the late 1950s, Eisenhower’s generals - especially in the Air Force - were clamoring for a huge increase in the defense budget. The Soviet leader, Nikita Khrushchev, was declaring that his country was cranking out planes and nuclear missiles “like sausages” and would soon overtake the United States.
Knowing from secret intelligence that Khrushchev’s claims were a fraud, Eisenhower held down military spending. His fortitude opened him to charges from Senator John F. Kennedy and other politicians that he was tolerating a “missile gap” and leaving America undefended. But his decision probably meant the country was able to avoid the ruinous inflation that afflicted its economy in later years.

というくだりが出てきます。
 やはりこの2人に比べるとマッカーサーは一段劣る、ということのようです。
 
 もっとも、やたら格好良いマーシャルも、『マオ』の張戎らにかかると、支那情勢が全く分からないでくの坊ということになってしまうのが面白いところです。
 トルーマンは、1945年12月に陸軍参謀長のマーシャルを支那に送り込み、国共内戦回避に当たらせますが、1947年1月まで現地に滞在しつつ、当時の中国共産党がソ連の傀儡であることも、毛という人物についても把握できず、従っていくら腐敗しきっていたとはいえ、中国国民党の方がまだマシであることもついに自覚せず、内戦が始まると共産党軍の方を支援した挙げ句、毛と中国共産党に好意を抱いたまま帰国して国務長官に任命されるのです。(『マオ』PP287〜289)

 とはいえ、これはマーシャル一人の罪ではなく、当時の米国がいかに国際情勢音痴であったかを示すものでしょう。
 こんな米国のために東アジア全体がどれほどの災厄を被ったか、米国人に骨の髄まで分からせる必要があります。

太田述正コラム#1651(2007.2.7)
<吉田茂小論>(2007.9.16公開)

1 始めに

 防大1期生の平間洋一氏が防大教授兼図書館長の時に私は同大学校の総務部長を勤めていたので、掲示板上で同氏の吉田茂邸訪問記がサイト(
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/hirama/yh_ronbun_sengoshi_yoshidahoumon.htm
。2月7日アクセス)に掲げられているという話を聞いて、なつかしくなり、同サイトにアクセスしてみました。
 その結果、この際、吉田茂についての小論を上梓すべきであると感じました。

2 平間氏に会った当時の吉田茂

 吉田茂(1878〜1967年)があらゆる機会に語った以下のような持論が、1957年2月に平間氏らが吉田邸を訪問した時にも吉田の口から語られています(注1)。

 (注1)吉田は、1954年12月に(五度目、かつ最後の)首相職を辞任したが、当時、引き続き衆議院議員ではあった(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82

 「国防は国の基本である。 しかし、 今の日本はアメリカとの安全保障の下に経済復興を図るのが第一で、 アメリカが守ってやるというのだから守って貰えばよいではないか。また、 憲兵に追われ投獄され取調べを受けたが、 かれらのものの解らないのにはどうにもならなかった。 だから僕は陸軍が嫌いだ。 昔のようにものの解らない片輪な人間を作ってはならない。 そのためには東大出身者は固くて分からず屋が多いので駄目だ。」
 「君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されたり、 歓迎されることなく自衛隊<生活>を終わるかも知れない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。 御苦労なことだと思う。 しかし、自衛隊が国民から歓迎され、 ちややほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。 言葉を変えれば君達が日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。 堪えて貰いたい。 一生御苦労なことだと思うが、 国家のために忍び堪え頑張って貰いたい。自衛隊の将来は君達の双肩にかかっている。 しっかり頼むよ」

2 最晩年のもう一人の吉田茂

 以上の吉田の言を、1963年に上梓された吉田の著書『世界と日本』(番長書房)における、以下の記述(拙著『防衛庁再生宣言』43〜44頁)(注2)と付き合わせて見てください。

 (注2)吉田は、1963年10月、次期総選挙に出馬せず引退する旨を表明している(ウィキペディア上掲)。

 「再軍備の問題については、<これが、>経済的にも、社会的にも、思想的にも不可能なことである<ことから、>私の内閣在職中一度も考えたことがない。・・・しかし、・・・その後の事態にかんがみるに、私は日本防衛の現状に対して、多くの疑問を抱くようになった。当時の私の考え方は、日本の防衛は主として同盟国アメリカの武力に任せ、日本自体はもっぱら戦争で失われた国力を回復し、低下した民生の向上に力を注ぐべしとするにあった。然るに今日では日本をめぐる内外の諸条件は、当時と比べて甚だしく異なるものとなっている。経済の点においては、既に他国の援助に期待する域を脱し、進んで更新諸国への協力をなしうる状態に達している。防衛の面においていつまでも他国の力に頼る段階は、もう過ぎようとしているのではないか。・・・立派な独立国、しかも経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するに至った独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存の改まらないことは、いわば国家として片輪の状態にあるといってよい。国際外交の面においても、決して尊重される所以ではないのである。・・・今日、一流先進国として列国に伍し且つ尊重されるためには、自国の経済力を以って、後進諸国民の生活水準の向上に寄与する半面、危険なる侵略勢力の加害から、人類の自由を守る努力に貢献するのでなければならぬ。そうした意味においては、今日までの日本の如く、国際連合の一員としてその恵沢を期待しながら、国際連合の平和維持の機構に対しては、手を藉そうとしないなどは、身勝手の沙汰、いわゆる虫のよい行き方とせねばなるまい。決して国際社会に重きをなす所以ではないのである。上述のような憲法の建前、国軍の在り方に関しては、私自身の責任を決して回避するものではない。憲法審議の責任者でもあり、その後の国政運営の当事者でもあった私としては、責任を回避するよりは、むしろ責任を痛感するものである。」

3 吉田茂の評価

 吉田茂は、1946年5月に初めて首相に就任する際、「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」と側近に語っています(ウィキペディア上掲)。
 私は、この発言を、大東亜戦争敗戦の意趣返しのため、戦前の日本に代わって、東アジアにおけるソ連等共産主義勢力への防波堤の役割を米国に全面的に負わせるべく首相に就任するという吉田の決意表明であると思っています。
 だからこそ、吉田は、占領軍が「押しつけた」第9条入りの日本国憲法を堅持し、「戦力なき軍隊」(自衛隊に関する吉田自身の議会答弁。ウィキペディア上掲)の保持しか肯んじなかったのだし、1952年のサンフランシスコ講話条約締結にあたって日米安保条約の締結にあれほど執念を燃やした(ウィキペディア上掲)のだ、と私は考えているのです。
 このことは、自衛隊員が日陰者ないし税金泥棒視されることにつながったわけですが、そんなことは、戦時中に憲兵隊に逮捕され、40日間の拘置所暮らしを強いられて旧軍に含むところのあった吉田(上掲の吉田自身の言及びウィキペディア上掲)にとっては、むしろ小気味よいことだったのではないかとさえ私は勘ぐっているのです。
 ですから私には、吉田の「君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されたり、 歓迎されることなく自衛隊<生活>を終わるかも知れない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。 御苦労なことだと思う」以下の言は、かかる立場に防大出身の自衛隊幹部達を追いやってしまったことについての、吉田のかすかな自責の念に由来する白々しい弁明としか受け止められないのです。
 すなわち、吉田は、米国と旧軍に対する二つの私憤(注3)の意趣返しのため、憲法第9条の堅持と「戦力なき軍隊」の保持という、政治家としてあるまじき政策に固執することによって、結果として、講話条約によって主権を完全に回復するはずであった日本を米国の保護国にしてしまった責任者なのです。

 (注3)吉田の米国に対する怒りは、本来決して私憤ではなく、私自身も共有するところの公憤だが、吉田が、あのような方法で公憤を晴らそうとした瞬間に、それは私憤に堕してしまったと私は思う。吉田は、朝鮮戦争の勃発で尻に火がつき正気に戻った米国に、占領軍を通じて日本の憲法改正を命じさせ、かつ米国の軍事・経済援助を最大限引き出す形で日本の再軍備を実現するとともに、朝鮮戦争への参戦は断固拒否する、という方法で米国に対する怒りを晴らすべきだったのだ。

 ただし、吉田の偉大さは、やや遅きに失したとはいえ、この自分の犯した過ちを全面的に認め、自らを厳しく断罪したところにあります(注4)。

 (注4)吉田のもう一つの偉大さは、首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび自分の選挙区の高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴したことだ(ウィキペディア上掲)。

 上掲の「上述のような憲法の建前、国軍の在り方に関しては、私自身の責任を決して回避するものではない。憲法審議の責任者でもあり、その後の国政運営の当事者でもあった私としては、責任を回避するよりは、むしろ責任を痛感するものである。」という吉田の最晩年の言をどうか噛みしめてください。
 しかし、この吉田の最晩年の言に吉田が引き立てたところの吉田の後継者達は耳を貸さず、吉田自身が誤りを認めた吉田の現役政治家時代の政策が吉田ドクトリンとして吉田の後継者達によって墨守されることとなり、現在に至っているわけです。


太田述正コラム#1819(2007.6.18)
<いまだに健在な吉田ドクトリン>

 (本篇は、情報屋台への出稿を兼ねており、即時公開します。)

1 始めに

 まずは、次の一連の引用をご覧ください。

 A:先月、・・朝日新聞は、21世紀の新たなビジョンについて論じた21の社説の中で、憲法第9条の修正に反対し、その代わり日本の国会が自衛隊の合憲性を認める決議を行うことを提案した。朝日は、日米安保条約が日本の安全保障の基盤として意義があることを認めつつも、日本に集団的自衛権があるとする考えを否定した。
 興味深いことに、憲法第9条を堅持する理由の一つとして、朝日は、米国からの「有志連合」による軍事行動に加わるように促す圧力に、日本がよりうまく抵抗することを可能にするであろうことを挙げている。(
http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2007/06/14/2003365250
。6月14日アクセス)

 (注)'Diet <should> legalize the role of the Self-Defense Forces'をこう訳してみた。何しろ、朝日の社説そのものを読んでいないので・・。

 B:安倍さんは「器量」が足りない・・安倍内閣に対する支持率の急落は驚きですが、国民が安倍政権の危うさに気付いてきたのではないでしょうか。考えて見れば、憲法改正や集団的自衛権の見直しなどの保守的イデオロギーのごり押し、「宙に浮いた年金」での対応のまずさ、松岡農水相を自殺に追い込んだ無神経さなどを見れば、支持率が下がらない方がおかしいかもしれません。(朝日新聞論説委員高成田享)(
http://johoyatai.com/?page=yatai&yid=50&yaid=475
。6月17日アクセス)。

 C:集団的自衛権に関する政府の有識者会議は、公海上での米軍艦船防護を「集団的自衛権行使」と位置付けた上で実施可能とするよう求める方向だ。これに対し・・公明党の北側一雄幹事長は「有識者会議で決めることではない」と不快感を示し、集団的自衛権行使を禁じた 憲法解釈見直しは国会が判断することだと強調。その上で「わが党の立場は変わっていない」と、行使を容認しない姿勢を重ねて示し有識者会議の議論に異を唱えた(
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007061701000236.html
。6月18日アクセス)

 D:日本国は専守防衛国家であり、侵攻用戦力は特に必要が無い。・・自衛隊は・・侵攻型軍隊ではない。(JSF)(
太田述正コラム#1817)

2 引用についての補足

 Bの筆者は、Aの執筆陣のうちの一人なので、だぶっていますが、情報屋台に敬意を表してBを採り上げさせていただきました。
 Dの筆者は誰かって?
 このところ、日本の軍事愛好家の皆さんと、愉快な議論を交わしているのですが、彼らの代表格の人です。
 ハンドルネームがJSFと自衛隊の略称であることからも想像できますが、私は、彼は自衛官であるか自衛官の多くと同様のメンタリティーを持った人物であると受け止めています。またこのことは、日本の軍事愛好家全体についても多かれ少なかれ当てはまる、という印象を持っています。

3 私のコメント

 (1)頭の整理

 さて、A〜Dに共通しているように見えるのは、日本が攻撃的能力を持つこと、ないし集団的自衛権を行使すること、への反対という点です。
 その彼らに、まず初歩の初歩として分かって欲しいことは、憲法第9条と日米安保条約のそれぞれの存在根拠と両者の関係です。

 まず、日本の戦略的環境と米国のそれとは似通っており、北米大陸ほどではないとしても、日本列島への直接的軍事脅威は(核弾道弾を除いて)ほとんどないということを理解して欲しいものです。
 とはいえ、だからといって日本が軍隊を持つ必要がない、ということには必ずしもなりません。
 旧帝国陸海軍がそうであったように、また、米軍がそうであるように、外征軍としての軍隊を持つという選択肢はありえます。戦後の日本政府も、日本にとって外征軍としての軍隊は必要であるという認識においては変わりありません。
 吉田茂が首相として、憲法第9条を容認するとともに、その一方で日米安保条約を締結したのは、当分の間、経費節約の観点から、日本自身は日本列島防御のための軍隊はもちろんのこと、外征軍としての軍隊も持たず、その代わり、もともと外征軍であるところの米軍に日本の外征軍としての機能を事実上代替してもらおう、という魂胆からです。

 その吉田にとって計算外だったのは、朝鮮戦争が勃発したことです。
 この時、米国から日本に再軍備要求がつきつけられたため、日本も軍隊らしきものを持たざるをえなくなります。
 そこで吉田は、米国の要求した軍隊の規模を値切りに値切った上、外征軍としては使い物にならない軍隊もどきをつくります。これが後に自衛隊になるわけです。
 外征軍として使い物にならないというのは、自衛隊に攻撃的能力を持たせないということです。しかし、それでもなお、自衛隊が米軍に組み込まれる形で外征軍として使われる可能性が残ります。そこで日本は、海外派兵はできない、集団的自衛権は行使できない、という憲法「解釈」をひねり出し、ここに自衛隊が外征することが絶対にない態勢が整うのです。

 さて、米国と日本のそれぞれの戦略や国益が常に一致することはありえないにもかかわらず、日本は自らの戦略や国益を追求するための自らの手段(軍隊=外征軍)を持たないのですから、日本は、米国の戦略や国益を即自分のものとして受け容れなければならないところの、米国の保護国、属国ということにならざるをえません。
 ですから、誇り高い吉田は、この政策が早晩廃棄されることを心から願っていました。
 ところが吉田の願いに反して、この政策は廃棄されるどころか、吉田の不肖の弟子達によって、吉田ドクトリンとして恒久化してしまうのです。

 (2)コメント

 A〜Dでは、この吉田ドクトリンが今後とも堅持されるべきであるされているように思いますが、私は全く同意できません。
 きちんと批判すると長くなりすぎるので、ここではごく簡単な批判を加えるにとどめます。
 
 Aは、吉田ドクトリンを堅持すれば、「米国からの「有志連合」による軍事行動に加わるように促す圧力に、日本がよりうまく抵抗」できると主張していますが、それならば、米国を中心とする「有志連合」に、保護国日本が自動的に賛成し、自衛隊の派兵こそしないけれど、米国に言われるがままに、「有志連合」にカネを出し後方支援をする現状をこのまま維持すべきなのでしょうか。
 米国を中心とする「有志連合」による軍事行動に反対するフリーハンドを得たいのであれば、日本は、吉田ドクトリンを廃棄し、集団的自衛権を行使できるようにし、自衛隊を攻撃的能力を持ったものに改造し、米国からの独立を果たさなければならないのです。
 Bについては、別途批判する必要はなさそうです。
 このところ、朝日の論調はかなり「まとも」になりつつあります。
 朝日のクォリティーは日経と並んで日本のメディアの中では良い方です。それだけに、朝日には無視できない影響力があります。
 その朝日の人々に安全保障問題への理解を一層深めてもらうためにも、私の説得努力を続けようと思っています。

 Cについては、安全保障問題に全く関心がない日本の大半の国民、とりわけ女性の心情が投影されており、理屈で説得するのは容易ではありません。

 また、Dでも吉田ドクトリンの堅持が当然視されているように見受けられますが、ほとんど存在意義がなく、絶対に実戦で血を流すことのない自衛隊において、高度で高価なオモチャ(武器)を使ったお遊び(訓練)を楽しみながら、そこそこ給料もよくてしかも安定したサラリーマン生活を送りたい、だから吉田ドクトリンを堅持して欲しい、という大半の自衛官の無理からぬ心情がDには投影されている、と私は見ています。
 半ば確信犯であると見られる彼らを説得するのもやはり容易ではありませんが、引き続き説得努力を続けたいと考えています。

 では、この朝日・一般国民・自衛官等からなる「有志連合」に包囲されているところの、安倍首相及びその周辺の「タカ派」自由民主党議員達だけはまともなのでしょうか。
 そうとも言えません。
 踏み絵は、憲法改正や憲法解釈変更と政権の維持のどちらを彼らが優先するかです。
 自民党内の吉田ドクトリン堅持勢力や同じく吉田ドクトリン堅持勢力たる公明党との野合を続けている限り、彼らを信用するわけにはいきません。
 そもそも、彼らの属する自民党は、結党以来憲法改正を党是に掲げてきたにもかかわらず、戦後三分の二世紀も経過した現在、いまだ憲法改正どころか、憲法解釈変更すら実現させていません。
 そんな自民党に、(上記とは違って)志のある自衛官は愛想づかししています。
 だからこそ、自民党に自衛官出身の国会議員がいなくなって久しいのです。

 それでも、私は決してあきらめません。

太田述正コラム#8712005.9.19

<韓国のマッカーサー像騒動に思う>

1 ことの顛末

 韓国で、仁川(Incheon)の公園に建っているマッカーサー(Douglas MacArthur1880?1964年)の銅像の撤去を求める左翼のデモ隊4,000人と警察の機動隊3,800人との衝突事件が9月11日に起こり、多数の怪我人が出ました(注1)。

 (注1)銅像を守ろうとする保守派の市民1,000人も現地に終結していた。

 仁川は、1950年6月25日に北朝鮮による韓国攻撃で始まった朝鮮戦争の転回点となった、米軍(国連軍)の反攻上陸作戦が、同年9月15日に実施された場所であり、国連軍を率いてこの上陸作戦を敢行したマッカーサーを称えて1957年にこの銅像が建てられたものです。

 石像の撤去を求めている左翼は、マッカーサーは朝鮮半島の南北分断の張本人だ、朝鮮戦争を引きおこした、韓国民間人の大量殺戮を行った(注2)、などと主張しています。

 こんなことはすべて、世界のまともな歴史学者の間では否定されているのですが、韓国では頑なにこのような主張を続ける歴史学者に事欠きません(注3)。

(以上、http://english.chosun.com/w21data/html/news/200509/200509110018.htmlhttp://english.chosun.com/w21data/html/news/200509/200509150005.htmlhttp://english.chosun.com/w21data/html/news/200509/200509090010.html、及びhttp://english.chosun.com/w21data/html/news/200509/200509150006.html(いずれも9月12日アクセス)による。)

 (注21948年4月3日の済州島での大量殺戮事件及び朝鮮戦争中のNogeun-riにおける大量殺戮事件。

 (注3)中には、マッカーサーは、内戦に干渉し、米国政府に軍事介入を要請し、一ヶ月で終わっていたはずの戦争を3年も長引かせた、と主張する者もいるが、マッカーサーは、彼の頭ごなしに米国政府が軍事介入を決めたことに抗議したくらいだ。北朝鮮軍を38度線以北に押し戻してからは、彼はあくまでも米国政府の訓令に従って南北統一のために兵を進めただけだ。1年で終わっていたはずの戦争が長引き、おびただしい犠牲者が出たのは、195012月に中共の参戦したためだ。

また米国が、韓国を、極東における米軍の防衛線であるいわゆるアチソン・ラインの外に置いたことを問題視する者もいるが、北朝鮮にソ連がT-34戦車やヤク(YAK)戦闘機を提供するようなことさえなければ、北朝鮮は韓国攻撃を躊躇したことだろう。

2 米国における反応

 これに怒った米下院外交委員長を含む同委員会の5名の米下院議員は、1950年の仁川上陸作戦なかりせば、今日韓国は存在していない、と指摘し、このマッカーサーの銅像が傷つけられたり倒されたりするくらいなら、銅像を米国に譲って欲しいとし、朝鮮半島(Korea)における自由の回復のために二度も連合軍を率いて戦った英雄を戦争犯罪人扱いするようなことは、米議会と米国民は到底座視できない、よって銅像の保護のために韓国政府は万全を尽くして欲しい、という書簡を15日に韓国のノムヒョン大統領に送りました。

 朝鮮日報の論説は、この米側書簡中の「朝鮮半島における自由の回復のために二度も・・」の箇所は感情的すぎて韓国人の気持ちを傷つける、とたしなめつつも、銅像の撤去を求めている左翼を非難しています。

(以上、http://english.chosun.com/w21data/html/news/200509/200509160024.html、及びhttp://english.chosun.com/w21data/html/news/200509/200509160007.html(どちらも9月17日アクセス)による)。

3 感想

 この問題に関しても、私がいつものように単純明快、米側寄りのスタンスをとって、韓国の左翼を批判するだろうと思われた方は、間違っています。

 なぜなら、朝鮮半島の分断も、そしてこの分断が引き起こした朝鮮戦争も、その責任が究極的には(マッカーサーならぬ)米国に帰せしめられることは、否定できない事実だからです。

 皆さん、思い出してください。

20世紀初頭の北東アジアでは、アングロサクソン(英米)が不平等条約下のパートナー日本とともに、朝鮮半島を緩衝地帯として、専制的なロシア・支那と対峙していました。

 そして21世紀初頭の現在の北東アジアでも、やはりアングロサクソン(米英等)がその保護国たるパートナー日本とともに、朝鮮半島を緩衝地帯として、専制的なロシア・支那と対峙しています。

 問題は、その間に異常なねじれ現象があったことです。

すなわち、その後「独立」した日本の努力のおかげで、アングロサクソンは、上記緩衝地帯を北東アジア大陸部まで前進させることに成功していたにもかかわらず、米国がロシア(ソ連)・支那側に寝返り、やむなく英国もこれに追随したために、日本は足をすくわれてしまうのです。

こうして、再び緩衝地帯が朝鮮半島まで後退し、半島の分断、及び朝鮮戦争が起こったのです。

 そして朝鮮戦争で生き残った北朝鮮が、最近になって二度にわたって核危機を引き起こしているわけですが、その責任もまた、究極的には米国に帰せしめられることは言うまでもありません。

 マッカーサーは、20世紀中頃の日本を12歳だと言いましたが、米国こそ、図体だけでかい12歳の少年だったのです。

 その米国が現在、どれだけ大人になったのか、依然心許ないものがあるものの、いずれにせよ、日本としては、いいかげん前回の「独立」がもたらしたところのトラウマから立ち直り、吉田ドクトリンを克服して再度の「独立」を果たす必要がある、と私は力説したいのです。

太田述正コラム#0495(2004.10.7)
<吉田ドクトリンの呪縛(その3)>

  エ 日本及び日本人の「再生」
 言うまでもなく、米国政府と台湾政府の要請や韓国の声なき声は、いずれもそれぞれの国の国益に即しているわけですが、対テロ戦争の遂行にせよ、中共の台湾攻撃阻止にせよ、或いは北朝鮮の韓国攻撃阻止にせよ、それらが日本の国益にも資することに思いをいたせば、そろそろ日本も吉田ドクトリンの呪縛から自ら脱する潮時ではないでしょうか。
  具体的には、以前から力説していることの繰り返しになりますが、第一に、集団的自衛権行使の禁止という政府憲法解釈の変更であり、第二に、在日米軍の駐留経費負担の廃止です。
 若干補足しておきますが、第一については、政府憲法解釈変更の宣言だけで足りるのであり、対テロ戦争に加わるとか、中共の台湾攻撃や北朝鮮の韓国攻撃の際には参戦するといった「ぶっそうな」ことをその時点で言う必要はありませんし、第二については、5カ年程度をかけてゼロに持って行くが、この間、防衛関係費は削減しない(つまり、駐留経費負担の削減分は自衛隊経費の増に充当する)と米国に通告すれば穏便におさまることでしょう。
 第一の宣言は、それだけで中共や北朝鮮の抑止につながりますし、第二の通告は、第一の宣言とあいまって、在日米軍の大幅な削減となって現れる(在日海兵隊は必ず大幅に削減される)はずです。
 そして、以上のような政府のイニシアティブがあって、初めて第三に、日本国民の意識変革がもたらされ、国民が軍事力の意義に再び目覚めることとなるでしょう。
 このように日本が吉田ドクトリンから脱することによって、ようやく沖縄の基地問題は解消されるに至るのです。
ここで銘記すべきことは、吉田ドクトリンからの脱却・・軍事力の意義の復権と言い換えてもよい・・は、日本及び日本人の「再生」のためにも必要不可欠であるという点です。
(以上、詳しくは、拙著「防衛庁再生宣言」日本評論社2001年を参照。)
 
 この点については、成人になるまで日本人であった台湾の李登輝前総統がかねてより武士道精神の喚起の形で力説されている(注6)ことはよく知られているところです。

 (注6)もっとも私は、李登輝氏が、(氏にとって農業経済学者としての先輩でもある)新渡戸稲造の「武士道」を援用して武士道論を展開されていることについて、お二方ともクリスチャンであることから(武士道とキリスト教精神が果たして原理的に両立可能か疑問があるので)違和感を覚えている。また李登輝氏は、かつて日本人であったとはいえ、現在では台湾「独立」運動の重鎮たる台湾の政治家である以上、客観的に見れば武士道論を日本の世論を台湾「独立」運動に惹き付ける手段として利用されていることになるのであって、この点も(武士道と台湾「独立」運動のいずれにもシンパシーを抱く一日本人として)遺憾に思っている。これについては、また機会を改めて論じたい。

 ここで、成人になるまで日本人であった韓国人(奇しくも李登輝氏と同じ1923年生まれ)の崔 基鎬氏が行っている同様の指摘をご紹介しておきましょう。以下、最近読んだ崔氏の「日韓併合の真実―韓国史家の証言」(ビジネス社2003年)(注7)からの引用です。

 (注7)コラム読者の高田雄二さんは、この本の方が、私が以前(コラム#249、260、264で)引用したキム・ワンソプ「親日派のための弁明」(草思社2002年。原著は韓国語)より歴史の本としては優れているとされるが、どちらも典拠等の注釈のつけかたが甘く、歴史の本とは言い難い。とまれ、崔氏のこの本が韓国語訳されて韓国で、キム氏の本(発禁処分を受けている)とともに広く読まれることを願ってやまない。

「李朝では王族とこの時代に跋扈した両班という一部の特権高級官僚が結託し、徹底的に民を搾取した・・」(14頁)、「北朝鮮は昔の李氏朝鮮が人民共和国の装いをして、そのまま蘇ったものである。・・韓国<も>李氏朝鮮的な体質を捨てないかぎり、発展することを望むことができない。」(17頁)、「日本では近年になって中国か韓国の影響を蒙ったのか、<李氏朝鮮のように>綱紀がだいぶ乱れるようになっている・・」(50頁)、「<李氏朝鮮のように>エリートが武―軍事を軽視する国は、強国のいうことを聞くよりなく、独立を維持することができない。」(104頁)、「私は今日の日本は、かつて李氏朝鮮が臣従した中国に依存したように、アメリカを慕って国の安全を委ね、アメリカの属国になり下がっていると思う。これで、よいのだろうか。」(15頁)、「<李氏朝鮮のように>国が尚武の心と独立の精神を失うと、人々が公益を忘れて、私利だけを追求するようになり、社会が乱れて、国が亡びることになる。私は今日の日本が、李氏朝鮮に急速に似るようになっていることを、憂いている。」(133頁)、「<元来>日本は精神構造からいって、中国や、韓国よりも、・・地理的に大きく離れていても、公益を尊ぶ、アングロサクソン諸民族に近いといえる。」(183頁)、「<ところが>戦後、アメリカの属国の地位に甘んじるうちに、日本国民が慕華思想に似た慕米思想に憑かれるようになったために、毎年、日本人らしさが失われている。独立心を失った国民は堕落する。」(199頁)「<こうして>日本はかつて明治以後、アジアの光であったのに、すっかり曇るようになった。国家の消長は結局のところ、国民精神によるものである。」(200頁)。

 これらは、私がかねてより拙著やこのコラム(李氏朝鮮の両班精神についてはコラム#404、406参照)で訴えてきたことと全く同じであり、崔氏に心から敬意を表したいと思います。
 最後に、崔氏の本の中から私が意表をつかれた一節を引用して本篇を終えることにします。

「第二次大戦の国難に際しては、日本は昭和天皇という史上稀にみる賢君を仰いだ。昭和天皇は同じアジア人として、誇りである。日本は十九世紀なかばから短期間で、白人と並ぶ大国を築き、第二次大戦後も短期間で経済大国となった。韓国人のなかには明治天皇と昭和天皇を尊敬し、崇拝する者が多い。」(258頁)

(完)

太田述正コラム#0494(2004.10.6)
<吉田ドクトリンの呪縛(その2)>

 (本篇は、コラム#491の続きです。なお、前回のコラム(#493)をめぐっての一読者とのやりとりがホームページ(http://www.ohtan.net)の掲示板の#739??742にあります。)

 (3)吉田ドクトリン克服オプション
 ア 米国政府の要請
米国のパウエル国務長官は8月の共同通信とのインタビューで、「もし日本が世界で十全な役割を果たそうと思い、かつ国連安保委で常任理事国になりたいのであれば・・憲法第9条は見直される必要がある・・ただし第9条が修正されるか否かは一にかかって日本国民の決定による」と述べ、日本に憲法第9条の見直した上で、積極的に国際軍事貢献を行うよう求めました(http://www.tokyo-np.co.jp/00/kok/20040813/eve_____kok_____000.shtml。8月14日アクセス)(注2)。

(注2)このニュースに接した時、私はカーター政権末期の24年前の1980年12月にマスキー国務長官(当時)が時事通信とのインタビューで、NATOを拡大して日本もメンバーになるべきだ、日本が軍事大国になることに周辺諸国の若者達は懸念など持っていない旨語った配信を、防衛庁勤務中に読んで仰天した時のこと(コラム#30)を思い出した。このマスキー発言とパウエル発言との間に実に四半世紀近い歳月が経過しているが、依然として吉田ドクトリンの呪縛の下にあるという点で日本は全く変わっていない。

このニュースは海外のプレスでも注目されました(http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/3561378.stm。8月14日アクセス)。
 パウエル発言は、(2001年の9.11同時多発テロを契機に米国が始めた)対テロ戦争を日本にも積極的に担って欲しいという気持ちの表れでしょう(注3)。

 (注3)これに対しマスキー発言は、(1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻を契機に米国が始めた)第二次冷戦を日本にも積極的に担って欲しいという気持ちの表れだったに違いない。

  イ 台湾政府の要請
また、10月3日には、台湾の遊(Yu Shyi-kun)首相(行政院長)が、台湾は日本のシーレーンを扼しており、日米安保上重要な位置にあると指摘した上で、「日本が「普通の国」になって地域の安全と防衛問題に積極的な役割を演じるべきである」という論議が日本で起きているが、「我々もそう願っている」と発言しました(http://www.taipeitimes.com/News/front/archives/2004/10/04/2003205466。10月5日アクセス)。
中共の経済発展に伴い、その軍事力の整備が進み、例えば台湾を標的にした500個の弾道弾を配備する等、台湾に対する攻撃能力を急速に高めてきていますが、台湾はこれを相殺するような攻撃能力を現時点では保有していません(http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/3701114.stm。9月29日アクセス)。しかも、米国は台湾に対し、防御的武器の供給義務は負っていますが、防衛義務は負っていない、という点で安保条約によって守られている日本とは違います。
遊首相の発言は、日本にも台湾海峡の防衛を担って欲しいという切実な気持ちの表れなのです(注4)。

(注4)台湾では核武装が論議されるに至っている(http://www.taipeitimes.com/News/edit/archives/2004/08/13/2003198573。8月14日アクセス)。なお、台湾の民進党政権からすれば、米国という「占領当局」が「押しつけた」憲法の拘束下にある日本は、中国国民党という外来「占領当局」が「押しつけた」憲法の拘束下にある台湾とだぶって見えているはずだ。

このように、米国政府と同様、台湾政府も日本が憲法第9条を見直した上で、積極的な国際軍事貢献をするよう促しているわけです。

  ウ 韓国の状況
 「反米・反日」政権である(金大中からノ・ムヒョン政権へと続く)現在の韓国政府から、米国政府や台湾政府のような日本に対する意思表明が行われるわけはありませんが、韓国と米国との関係が険悪化している(コラム#473)状況下にあって、韓国政府内外の心ある人々は危機意識に苛まれ、日本の安保・防衛面での協力を切望しているものと思われます。
 危機意識がいかに大きいかを推測させるのが、先日最大野党の議員が暴露した、昨年韓国国防省の研究所がとりまとめた、北朝鮮が韓国を攻撃した場合を想定したレポートのショッキングな内容です。
 すなわち、攻撃開始と同時に、ソウルを射程に入れた1000門の北朝鮮の火砲が一時間で最大25,000発の砲弾をソウルに撃ち込み、市街の三分の一が破壊され、米空軍が出動しなければ、16日間でソウルが陥落する、というのです(http://english.chosun.com/w21data/html/news/200410/200410040027.html。10月5日アクセス)。
 韓国が2000年に、核開発につながる、レーザーを用いたウラン濃縮実験を行った(http://www.asahi.com/international/update/0903/004.html(9月3日アクセス)。コラム#473参照)ことも、この文脈で理解することができそうです(注5)。

(注5)もっとも、韓国は1980年代にも、核開発につながる、プルトニウム抽出実験を行っている(http://english.chosun.com/w21data/html/news/200409/200409090027.html。9月10日アクセス)。

(続く)

太田述正コラム#0491(2004.10.3)
<吉田ドクトリンの呪縛(その1)>

1 始めに

 小泉首相は9月1日に突然、沖縄の負担軽減のためと称し、沖縄の米軍基地の本土移転を唱えました。(http://www.asahi.com/politics/update/1001/005.html。10月3日アクセス。
  これに対し岡田民主党代表は、首相発言は具体策を伴っていないとケチをつけるだけで、「民主党が政権を獲得した場合でも、一部の基地を本土に移転することがありうるとの認識を示し」ました(http://www.asahi.com/politics/update/1002/003.html。10月3日アクセス)。要するに、民主党は何の代替案も持ち合わせていない、ということです。
 日本の与党と野党を代表するこの二人の政治家の筋悪の発言を聞くと、一体いつになったら日本は吉田ドクトリンの呪縛から逃れられるのか、と改めて嘆息させられます。

2 米軍基地問題とは何か

 そもそも、沖縄の米軍基地問題とは一体何なのでしょうか。
 在日米軍基地が本土に比較して沖縄に集中していること自体が問題の本質であるわけがありません。日本経済新聞論説委員の伊奈久喜氏が数日前の紙面で指摘していたように、観光地として知られるハワイのオアフ島の面積に占める基地の割合は沖縄本島以上に大きいにもかかわらず、ハワイでは、同じく観光地である沖縄におけるような基地問題が存在せず、基地の負担が米本土に比べて重いといった議論もまた耳にしたことがないからです(注1)。

 (注1)もう四半世紀前も前になるが、初めて防衛庁の仕事でハワイのオアフ島を訪れた時、繁華街であるワイキキ・ビーチ周辺はともかくとして、玄関であるホノルル国際空港からして空軍基地であり、あの海軍艦艇基地のパールハーバー、海軍航空基地のバーバスポイント、そして太平洋軍司令部等、島中基地ばかりであることにびっくりすると同時に、地図を見ると高速道路が基本的に各基地の間だけを走っていることに二度びっくりした記憶がある。

 つまり、沖縄の米軍基地問題とは、
ア 軍事力の意義を没却した社会において、
イ 外国の軍隊が、
ウ 少なからず市街地の真ん中に盤踞していること
に伴って生じる諸問題であり、日本全体の米軍基地問題の縮図なのです。

3 何をなすべきなのか

 (1)過疎地への移転オプション
 そうである以上、沖縄の基地問題軽減のためにまず考えなければならないことは、市街地にある基地、就中(安全・騒音面から)、航空基地の過疎地への移転です。
とりわけ優先順位が高いのは、周辺の市街地化が沖縄の嘉手納空軍基地よりもはるかに進んでいる同じ沖縄の普天間海兵隊航空基地の、沖縄ないし本土の過疎地への移転です。(本土に移転させる場合には、在沖海兵隊司令部と若干の司令部直轄部隊もその近傍に移転させなければならなくなるでしょう。)
 しかし、沖縄内で移転させるのは事実上不可能です。沖縄では、普天間の移転先として白羽の矢が立てられている名護市辺野古沖を含め、どこに移転しても15年間程度の使用期限を設定することが県是となっており、この条件をクリアすることは米軍との関係で不可能なだけでなく、費用対効果上途方もない愚行であるからです。結局普天間については、本土の過疎地に移転先を求めざるをえないことになります。
 ところが小泉首相は、普天間基地の名護市辺野古沖への移転は既定方針通り行うと言明しており(上記サイト)、ご本人が本土移転を言い出したねらいがよく分かりません。
 いずれにせよ、米軍基地の過疎地への移転というオプションは、地位協定上日本政府がその全経費を負担しなければならず、しかもハンパではない経費がかかるというのに、軍事的には全く意味がないオプションであることから、これを追求することは基本的に得策ではありません。

 (2)日本国民の意識変革オプション
 もう一つ考えられることは、米軍を外国の軍隊ではなく、自国の軍隊であると(沖縄の住民を含む)日本人一般に認識させるための施策を講じることです。
 これは決して奇矯なオプションではありません。
日本国民は在日米軍の駐留経費のうち2,500億円弱も(減らしてきたとは言え、現在でも)負担しています(http://www.dfaa.go.jp/jplibrary/01/index2.html。9月3日アクセス)。カネに色がついているわけではないことから、これは日本が米国の国防費の一部を負担していることを意味するのであって、米国の各州の住民が米国の国防費の一部をそれぞれ負担していることと同じです。
 ところが、日本は米国議会には議員を送り込んでいる米国の一州ではないのですから、これは日本が米国の保護国であることを国際通念上意味します。(広く世界を見渡しても、外国軍の駐留経費を負担している独立主権国家は、日本と韓国・・近傍の日本に米国によって強引に倣わされた・・以外は皆無であるわけはこういうことなのです。)
 ですから、日本という米国の保護国の政府は、この事実を日本国民の前に明らかにした上で、日本国民が米軍を宗主国の軍隊、つまりは自国の軍隊であると認識するように鳴り物入りで教育・宣伝すべきなのです。幸い、韓国とは異なり、現在日本人の対米感情も米国人の対日感情も申し分ありません。
 (もっともそこまでするのなら、もう一歩進めて、米国との合邦(米国の一州化)を追求すべきかもしれませんね。しかし、米国との自由貿易協定(FTA)の締結すら日程にのぼっていない日本が、米国との合邦を追求するのは余りにも時期尚早でしょう。)
 しかし、これを仮にやったとしても、政府のそんな教育・宣伝には恐らく日本国民は耳を貸さないでしょう。誰でも、余りに不愉快な事実からは、たとえそれが真実であっても目を背けたいものだからです。
より根本的な問題は、日本が米国の保護国であり、米軍が自国の軍隊であるという認識を仮に日本国民が持ってくれたとしても、日本が軍事力の意義を没却した社会である限りは、「実際に戦争に使うための」軍隊である米軍に対する違和感や敵意はなくならないことです。
 結局、このオプションはフィージブルではないと言わざるをえません。

(続く)

太田述正コラム#0393(2004.6.27)
<集団的自衛権「論争」>

1 始めに

 27日のNHKの党首討論番組(私は見ていない)の模様を報道した朝日新聞のサイト(http://www.asahi.com/politics/update/0627/004.html。6月28日アクセス)を見て腰を抜かしました。
 腰を抜かしたのは、小泉首相と岡田民主党代表の発言に係るそれぞれ次のくだりです。
「小泉首相は・・現在の憲法解釈では禁じられている集団的自衛権の行使について「日本を守るために一緒に戦っている米軍が攻撃された時に、集団的自衛権を行使できないのはおかしい。憲法ではっきりしていくことが大事だ。憲法を改正して、日本が攻撃された場合には米国と一緒に行動できるような(形にすべきだ)」と述べた。日本防衛にあたる米軍への攻撃排除に限って、集団的自衛権が行使できるよう憲法改正すべきだとの発言だ。首相はこれまで集団的自衛権行使について「解釈の変更ではなく、憲法改正を議論することにより解決を図るのが筋だろう」などと述べていた。集団的自衛権行使の必要性について具体的に説明したのは初めて・・首相は「(政府は)日本を守っている米軍の行動まで、日本が協力して一緒に活動できないという解釈をしている」とも発言。実際には、政府は日本にある米軍基地への攻撃や、日本防衛のために行動している米艦艇への攻撃を自衛隊が排除するのは個別的自衛権の行使にあたり、現行憲法下でも可能との立場をとっている。」
「民主党の岡田代表は、現在の憲法解釈のもとでも、日本を守る米軍に対する攻撃の排除は「個別的自衛権で解決できる」と指摘。そのうえで「(集団的自衛権は)第三国で米国が戦争した時に一緒になってやる、あるいは米国が攻撃を受けた時に米国に行ってやることを含む概念だ。絶対に認めるべきではない。国連の行う集団安全保障に協力すべきだ」と述べた。」

2 小泉発言の問題点

 (1)解釈改憲の否定
 集団的自衛権(拙著「防衛庁再生宣言」70??78頁参照)の行使に関しては、政府解釈の変更によってではなく、憲法の改正で対処すべきだ、というのは従来の小泉首相のスタンスと同じではあるのですが、6月1日に内閣法制局長官に、自衛隊の多国籍軍への参加について、「他国の武力行使と一体化しないことが確保されれば憲法上問題ない」と従来の政府憲法解釈の実質変更にあたる国会答弁をまたぞろ行わせ、人道目的等のための自衛隊のイラク多国籍軍参加に道をひらいた(http://www.asahi.com/politics/update/0601/012.html。6月2日アクセス)
ばかりだけに、いささか腰の定まらない印象を受けますが、この点は大目に見ることにしましょう。

 (2)無知の暴露
 日本の領域(領海、領空を含む)内に所在する米軍(すなわち在日米軍)への組織的・計画的な武力攻撃は日本への武力攻撃と見なされますが、このような場合を含め、日本への組織的・計画的な武力攻撃があり、日本が個別的自衛権を発動した場合には、米軍と自衛隊は日本の領域の内外で共同対処ができる(すなわち自衛隊が米軍を守ることもでき、これは集団的自衛権の発動にはあたらない)、というのがこれまでの政府の確立した考え方です。
 言うまでもなく、現行法(個別的自衛権)でできることを、別の法(集団的自衛権)でもできるようにする必要はありません。小泉首相は、要するに国家の存続に関わる、政府の基本的考え方が(考え方さえ(?))分かっておられなかったということです。
 かつて自社政権の時に村山首相が、ご自分が自衛隊の最高指揮官であることをご存じなく、大恥をかかれたことがありますが、それに勝るとも劣らないおおぼけぶりを小泉首相は発揮されました。自民党総裁たる歴代首相の中で、最も安全保障に暗い首相の真骨頂ここにあり、です。

 (3)限定的憲法解釈
 (2)を踏まえれば、小泉首相は日本が個別的自衛権を発動した場合に日米共同対処ができるようにするために憲法改正を、と言ったわけですから、これは集団的自衛権を行使できるようにするための憲法改正は必要ない、と言っているに等しいことになります。
 これはまあ揚げ足取りですが、いずれにせよ、集団的自衛権は行使できてもこれに制限を課すような形での憲法改正には反対です。せっかく憲法を改正しても、再び将来の日本政府に解釈改憲を強いるであろうことは必至だからです。

3 岡田発言の問題点

 岡田代表が、すかさず小泉首相の無知を咎めたのはさすがです。
しかし、その後が目も当てられません。
民主党の憲法調査会(会長・仙谷由人政調会長)が6月22日に発表した(注)憲法改正案の中間報告では、「平和主義」の「原則的立場は今後も引き継ぐべきだ」とした上で、国連の安保理や総会の決議によって正統性を有する集団安全保障活動には関与できることを憲法上明確にすることを提言し、自衛権の発動に関しても「緊急やむを得ない場合に限る」など、国連憲章の「制約された自衛権」の内容を盛り込むとしています(http://www.asahi.com/politics/update/0622/001.html。6月22日アクセス)。

 (注)朝日新聞(上掲)は、22日に発表すると報じているので、発表されたことと思う。なお、この報道では最終的な取りまとめは2006年とも書いてあった。果たしてそれまで民主党が持つかどうか。

この中間報告は、小沢氏の国連待機部隊構想にリップサービスをしつつも、集団的自衛権に一切言及しておらず、民主党も随分大人になったな、と内心喝采を送っていたところです。
今回のコラムで私自身、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」という言葉を使ってきましたが、本来「自衛権」に個別的も集団的もないのです(拙著前掲参照)。ですから、仙谷構想では、憲法改正の結果、「集団的自衛権」が行使できるようになるわけです。
 しかし岡田代表は、党首討論という大事な場所で集団的自衛権行使のための憲法改正を明確に否定してしまったのです。岡田代表は、民主党が吉田ドクトリン墨守政党(=旧社会党と同じ)であると旗幟を鮮明にしてしまったことになります。
 これで今回の参議院選挙の結果いかんにかかわらず、岡田氏が代表でいる限り、よほどの敵失でもない限り、(旧社会党がついに本来の意味において政権を自民党から奪取できなかったように、)民主党が政権をとる可能性はなくなりました。

4 朝日以外の報道の問題点

 産経新聞と東京新聞(中日新聞)はどちらも、小泉首相が集団的自衛権を行使できるように憲法を改正すべきだと述べたこと、その理由として日本防衛のために戦っている米軍を守れるようにすべきだとしたこと、を報じるにとどまり、首相の誤りを指摘しておらず、産経新聞は岡田発言の紹介もしていません(http://www.sankei.co.jp/news/morning/28iti002.htm及びhttp://www.tokyo-np.co.jp/00/sei/20040628/mng_____sei_____003.shtml。いずれも6月28日アクセス))。
 日本経済新聞と読売新聞に至っては、そもそも本件を全く報道していません。(正確に言えば、それぞれのホームページ(本来の意味)に見出しが載っていなかったということ。ただし、日本経済新聞では本紙(2004.6.28朝刊2頁)上に上記、産経、東京新聞並の記事が載っていた。なお、読売新聞の本紙にはあたっていないが、産経、東京、あるいは日経並の記事も載せていない、とは思いたくない。毎日新聞は数ヶ月前に電子版を廃止しており、あたっていない。)
 日本の新聞は、(本件での朝日を除き、)依然物事の軽重が分かっていないな、とため息が出ました。

太田述正コラム#0250(2004.2.5)
<吉田ドクトリンの起源(その2)>

 (前回のコラム#249の冒頭の段落がおかしな文章になっていたのを直して、ホームページのコラム欄に再掲載してあります。)

 (3)日本国憲法、就中第9条の押しつけ

日本が受諾したポツダム宣言第の13項には 、「吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ニ対ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス・・」とあり、日本軍が無条件降伏しただけであったのに、連合国(=United Nations=国際連合、しかもそれが実質的には米国、であることにご注意)は、1945年8月に日本を占領するや、ポツダム宣言13項は、日本に無条件降伏を要求したものと一方的に読み替え、ポツダム宣言の履行監視の域を超え、早くも10月に憲法改正を「示唆」し、翌年の2月には、自ら作成した新憲法草案を日本政府に押し付けました。
これは日本の降伏条件違反であるのみならず、戦時国際法にも違反する二重の国際法違反です。
すなわち、陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(ハーグ陸戦法規)の第43条には、「国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ」(注)と規定されているところ、第一に、日本が無条件降伏していないことから、ハーグ陸戦法規のこの占領規定が適用され、そうである以上は、第二に、大日本帝国憲法が「占領」に「絶対的・・支障」がない(連合軍は、大日本帝国憲法の規定のどこが占領に支障があるのか、具体的に明らかにしていない)ことから、連合軍が新憲法を押し付けることは許されないのです。
 (以上、http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/constitution.html(2月4日アクセス)を参考にした。)

 (注) フランス憲法には、「領土保全が侵害されている場合には、いかなる憲法改正手続きも開始または継続されてはならない」(89条4項)という規定がある。これは無条件降伏の場合の抜け穴をあらかじめ閉ざしたもの、とも解しうる(http://www.senyu-ren.jp/MAGO/32.HTM。2月4日アクセス)。

それだけではありません。
連合国が押し付けた新憲法草案には、後に第9条となる、日本の再軍備禁止条項が含まれていました。これは、占領終了後の日本を、連合国、実質的には米国、の保護国の地位に貶めようとするものでした。

 吉田は当時、外務大臣でしたが、天皇制と昭和天皇を守るため、緊急避難的に連合国の不当な新憲法制定要求を受け入れます。

 これが吉田茂の抱いた米国に対する怒りの第三の原因であると思われます。

 (4)日本への朝鮮戦争参戦要求

 その連合国があろうことか、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、180度手のひらを返し、いまだ占領下にあった日本に対し、連合国軍(朝鮮国連軍)の補助部隊としての朝鮮半島出兵を含みにした再軍備を要求してきたのです。

 これが吉田茂の抱いた米国に対する怒りの第四の原因であると思われます。
 吉田はここで完全にキレたのです。彼は恐らく、誰が朝鮮戦争の原因をつくったのか、誰が日本人を朝鮮半島から無一文で追放したのか、誰が日本に再軍備を禁じたのか、その日本によくもまあ、そんな要求ができるものだ、という気持ちだったろうと推察されます。

2 吉田茂の対応

 吉田茂の対応は、断固たる再軍備拒否でした。
 私でも、当時の一市民であれば、吉田の対応に喝采を送ったかもしれません。
 しかし、吉田は日本の総理大臣でした。
 冷静にこれを絶好の機会ととらえ、朝鮮戦争に参戦はしなくてよいとの言質をとりつけた上で、彼は憲法9条改正の指示を日本占領中の連合国に出させ、ただちに再軍備に乗り出さなければならなかったのです。
 当時連合国、すなわち米国は、あわてふためいており、日本の再軍備を熱望していたのですから、吉田の要求を全部飲んだ上、再軍備のための初期経費を喜んで負担してくれたはずです。
 その後の吉田の対応も、著しく適切さを欠くものでした。(吉田の「過ち」の全体像については、拙著「防衛庁再生宣言」219??223頁参照。)
 そして、この怒りによって我を忘れた吉田の対応は、様々なイデオローグ達や吉田の弟子たる政治家達によって、いつしか吉田ドクトリンなる日本の国家戦略へと祭り上げられていくのです。(拙著223頁以下を参照。)

3 感想

 占領下に始まる戦後教育によって、日本人の間からは、「戦前」から占領期にかけて、米国が東アジア、就中日本に対して犯した深刻な犯罪・・原罪・・の記憶が拭いさられてしまっていますが、日本人の潜在意識の中には米国に対するはげしい憤りが残っています。
 私は、忠臣蔵が戦後日本で人気を保ち続けてきた背景に、充たされることのない米国に対する復讐心があることを示唆した随筆を1991年に書いたことがあります(コラム#29)。
 米国人にもこれに気がついている人はいます。
例えば、日本通の文芸評論家である米国人のエドワード・サイデンステッカー氏は、原因不明の激しい反米感情が日本人の心中にわだかまっていることを察知しています(「好きな日本好きになれない日本 」(廣済堂出版1998年)。
片岡教授は「米国<の>知識人たちも、日本人が道義的な責任を太平洋戦争に感じていないことを知っている。このため、いつか日本人が米国に復讐するという心配<を>していた。」(片岡前掲)とまで指摘されています。しかし、そこまでの認識を持っている米国の知識人は、マクナマラ元米国防長官(コラム#213)やアーミテージ米国務副長官(?)(コラム#21、225)らのごく少数の例外を除いて、殆どいないのではないでしょうか。
 日本人は、自衛隊がイラクに派遣されることになった今こそ、米国との間で、米国に対する過去の怨念を白日のもとに晒し、これを相手にぶつける形で真っ向から歴史論争を行うべきなのです。
 米国の知識人の大部分は日本の言い分に耳を傾けた上で、心から謝罪してくれるであろうことを、私は信じています。
 そうなって、初めて日本は吉田ドクトリンを完全に克服することができ、真に友好的な日米関係構築に向けての条件が整う、と思います。

(完)

<読者>
箕輪元議員の件
 佐々木敏氏がアカシックレコードで述べていたペルソナで、自分が中枢のときは表向きは逆を演じているしかなかったのかもしれないし、あるいはやめてから自分自身の意見を自由に言えるようになったから反対に転じたのではないでしょうか。
 尾崎行雄も明治のころは軍拡論者でしたが、8・8艦隊の件を容認してしまい第一次世界大戦の悲惨な戦場を見てから平和論者に変わったそうですから。
 いずれにせよ、箕輪元議員の起こした訴訟の態度は懺悔にせよ、やるべきことをやっていると思うので私は賛成です。
 論を立てるだけで行動しない人のほうがダメですよ。

吉田の記事について
 簡単に言ってしまえば、いくら貴殿が論理だててアメリカの矛盾を明らかにしても「負けたのが悪い」で一蹴じゃないでしょうか。負けたからこうなっただけです。
 戦争は勝つか負けるかだけで、負けたら国際法規も理屈も関係なく蹂躙される。
 井上成美のように論理だって開戦反対をしていた人が当時の政府にもいたのですから、それを無視したアホが断罪されるべきなのに勲章もらってでかい面している。
 だからこそ戦争をしなくてよい世の中をつくるべく我々が行動することが、死んだ人への弔いだと思うのですがいかがでしょうか。

 日本国憲法押し付け論はイラクにもあてはまるでしょう。その連合国に今度は日本が一味となって出て行くアホさをどう思われますか。
 
 私は押し付けられたというのは間違いだと思います。戦争にボロ負けしたからこうなっただけです。
 皮肉にも日本国憲法の中にある精神は今後の世界平和実現の走りとなる優れたもので、当のアメリカが自分自身でやれなかったことでしょうね。アメリカは世界連邦も作ったんですよ。そのくせ自分が他の国にやらせてから逃げ出す。宇宙ステーションだってそうでしょう?面白いですね。あの行動心理?
 あと何十年かすれば日本国憲法は逆に世界の誇りになるでしょう。
 今やっている改憲の動きは、理想から後退するだけです。

 むしろ、アメリカに押し付けられたんだからそのとおりやっていて悪いのか?と反逆して非武装徹底したらどうですか。それこそがアメリカへの嘲笑であり、いい抵抗だと思います。

 貴殿も世界連邦運動やったほうがいいと思います。

<太田>
>箕輪元議員の起こした訴訟の態度は懺悔にせよ、やるべきことをやっていると思うので私は賛成です。

議員の時の言動との不一致については、議員だった人だからこそ、国民に対して説明責任があると私は思います。違いますか?

>論を立てるだけで行動しない人のほうがダメですよ。

私が誉めていただいているような気になります。どうも。

>いくら貴殿が論理だててアメリカの矛盾を明らかにしても「負けたのが悪い」で一蹴じゃないでしょうか。負けたからこうなっただけです。 戦争は勝つか負けるかだけで、負けたら国際法規も理屈も関係なく蹂躙される。

そうはいきません。弱肉強食のジャングルの世界を望む者は、世界の中で圧倒的少数派でしょう。
しかも、日本が国際法論議をきちんとしないと、(コラムを書いている途中ですが、)台湾や、中共にまで多大のご迷惑をかけることになりますよ。
 
>戦争をしなくてよい世の中をつくるべく我々が行動することが、死んだ人への弔いだと思うのですがいかがでしょうか。

世界政府ができるまでは、国際秩序と国際理念を維持するための戦争は行わなければなりません。先の大戦での犠牲者のためにも・・。

>日本国憲法押し付け論はイラクにもあてはまるでしょう。その連合国に今度は日本が一味となって出て行くアホさをどう思われますか。

米国は、やはり連合国(国連)はダメだと見切りをつけ、自分でイラク戦争を始めたのです。連合国に痛めつけられた日本が協力するのは、ある意味で当然でしょ。
 
>日本国憲法の中にある精神は今後の世界平和実現の走りとなる優れたもので、・・あと何十年かすれば日本国憲法は逆に世界の誇りになるでしょう。今やっている改憲の動きは、理想から後退するだけです。

いよ!非武装中立論ですな。私も昔をなつかしむ年頃になってきました。

>むしろ、アメリカに押し付けられたんだからそのとおりやっていて悪いのか?と反逆して非武装徹底したらどうですか。それこそがアメリカへの嘲笑であり、いい抵抗だと思います。

戦後日本は吉田ドクトリンで、まさにそれをやってきたのですよ。自衛隊の「戦力」はつい最近まで無限にゼロに近かったと言ってもいいでしょう。
しかし、若気のいたりの反抗期も、いいかげんに卒業しないと、単なるアホです。

<読者>(2004.6.9)
わたしにとっては、永井陽之助東工大教授(まだご在職かな?)こそが純粋な「吉田ドクトリンのイデオローグ」だと思います。というか、吉田ドクトリン原理主義者ですね。永井氏は名著(迷著?)『現代と戦略』で、岡崎久彦氏を「軍事リアリスト」と分類し、「政治的リアリスト(吉田ドクトリン信奉者)」とは立場が違うという分類でした。
永井氏は同書で、先日亡くなられたレーガン大統領の対ソ戦略を批判し、CIAチームB(今のネオコン)によるソ連軍事力の過大評価と大軍拡、なかんずくパーシングIIの欧州配備に反対しました。しかし、今となって見れば、SDIなどのブラフを含めて、レーガンの軍拡チキンレース路線がソ連の息の根を止め、人類史に偉大な業績を残してしまったので、明晰な文章とは裏腹に迷著になってしまいました。国際情勢という生き物の怖さを感じますが、永井氏には見込み違いはそれとして、それ以外の評論は読ませるものが多かったので、もっと活発な言論活動をして欲しかったと思います。
同著の「吉田ドクトリンは永遠なり」の章は、当時でも全然説得力がなかったですが。^^;

ところでなぜこのような投稿を思いついたかといいますと、太田氏の『防衛庁再生宣言』の最後の章で、いろんな方を批判されてますが、アバウトに見れば、日米英同盟論者の岡崎久彦氏や「自由主義史観」の人々と主張がかなり近いのに、容赦なく辛らつ評論するのに少し違和感を感じたからです。同書は「政治」的評論というよりは、日本では珍しいリベラル右派の「思想」書という感じですね。だから、より近しい主張の人との違いもあえて強調するのかなと思いましたが。

日本のリベラルは、ソ連や中国や北朝鮮に媚を売る「仮面を被った」リベラルだったので、本格的な骨太のリベラルの登場が期待されます。
小泉政権→安倍政権→日本版ブレア政権(日本版ケネディ政権)→保守→リベラル→保守→リベラル→・・・
となって欲しいところですね。

<太田>
 なぜ永井陽之助氏に触れなかったかですが、ご指摘の永井氏の「晩年」のダッチロール的著作より、「壮年期」の著作の方が本来の氏の姿だと思っているからです。
 もう一つ、私が氏を「評価」しているのは、ダッチロール的著作を1980年代に発表されて以降、良心に照らして筆を断って来られたようにお見受けしたからです。
 要するに、(人心を最も惑わす)リアリストを装った吉田ドクトリンのイデオローグ達に比べて、永井氏の「罪」は軽い、と考えたわけです。
 とはいえ、1990年代に入ってから、私は、たまたま目にしたものを除き、日本の国際政治学者や国際情勢分析家の書くものは、読んでも時間の無駄のような気がして殆どフォローしておりませんので、永井氏の1990年代以降についてよくご承知の方があれば、私の上記認識が正しいか否か、ご教示ください。
 いずれにせよ、私が吉田ドクトリンのイデオローグ達を厳しく批判するのは、彼らが戦後自民党権力のイデオローグ達であり、非武装中立論等のイデオローグ達とは違って、権力の一翼を担ってきたゆえにはるかに責任が重いからです。

<読者>
>  なぜ永井陽之助氏に触れなかったかですが、ご指摘の永井氏の「晩年」のダッチロール的著作より、「壮年期」の著作の方が本来の氏の姿だと思っているからです。

共産主義の本質やベトナム戦争に関する論稿は、秀逸だったと思います。北ベトナムの勝利を相対化できない人たちは、今でもベトナム戦争モデル(ゲリラ戦術無敵論?)だけでイラク戦争を語ってますね。また、共産主義の悲劇の根本は、レーニンの『戦争論』(「戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない。」)の誤読・曲解にあって、「国内政治の戦争化」にあるという解説も新鮮でした。でも、これは、レイモン・アロンのパクりらしいですが。^^;

>  もう一つ、私が氏を「評価」しているのは、ダッチロール的著作を1980年代に発表されて以降、良心に照らして筆を断って来られたようにお見受けしたからです。
>  要するに、(人心を最も惑わす)リアリストを装った吉田ドクトリンのイデオローグ達に比べて、永井氏の「罪」は軽い、と考えたわけです。

仮に、「切腹」「閉門蟄居」であるならば、士として大いに評価したいですね。ま、急に退場されましたし、写真や文章からすると相当な女好きとお見受けしたので、もしかしてKGBにやられちゃったのかななどと不謹慎な想像もしましたが。^^;;;

水平エスカレーション戦略も批判されてましたが、当時の英国も疑念をもっていたらしいので、
http://noyatetuwo.hp.infoseek.co.jp/politics/koreanair0073.html
レーガン批判はある程度酌量の余地はありそうです。

>  とはいえ、1990年代に入ってから、私は、たまたま目にしたものを除き、日本の国際政治学者や国際情勢分析家の書くものは、読んでも時間の無駄のような気がして殆どフォローしておりませんので、永井氏の1990年代以降についてよくご承知の方があれば、私の上記認識が正しいか否か、ご教示ください。

わたしも、永井氏のことは知りたいですね。『時間と政治学』を読み返してますが、その学際的な奥行きの深い議論は今でも色あせてないです。ぜひ、復活して欲しいところです。中央公論はつぶれちゃいましたが・・・

>  いずれにせよ、私が吉田ドクトリンのイデオローグ達を厳しく批判するのは、彼らが戦後自民党権力のイデオローグ達であり、非武装中立論等のイデオローグ達とは違って、権力の一翼を担ってきたゆえにはるかに責任が重いからです。

「自衛隊イラク派遣」という国事に対しては現段階では貴重な戦力なので、なんとも言えないです。岡崎氏の舌足らずなTV出演はマイナスですが。(笑)つきつめると「省あって国なし」の既得権益者たちという印象は確かにありますが、わたしはの外国に媚を売るもっと変な人たちや、イラクから自衛隊を撤退させたらどうなるかを想像できない、想像する気もない人たちより、やっぱりマシに思えます。

民主、6月末までの自衛隊イラク撤退を公約に
http://www2.asahi.com/special/jieitai/TKY200406080363.html

前原氏も日本版ブレア候補の一人だったので極めて残念です。次の選挙の選択肢が、自民党しかなくなってしまいました。

太田述正コラム#0249(2004.2.4)
<吉田ドクトリンの起源(その1)>

1 吉田茂の怒り

(1)米国の誤った東アジア政策

先の大戦は「第一次世界大戦の結果世界に覇権国が存在しなくなった・・<すなわち、>英帝国は疲弊し、米国は覇権国たる自覚が欠如していた・・という状況下で東アジアにおいて、ソ連、蒋介石政権、中国共産党らの民主主義的独裁勢力への防波堤となり、地域の平和と安定を維持に努めるという、覇権国機能をやむなく果たしていた日本への、・・有色人種差別意識に根ざす・・日本蔑視<に加えて、>・・「12歳」並みの判断能力しかなかった・・米国の無知・無理解に基づく敵意<が日本を含む東アジアにもたらした悲劇です。>
<皮肉なことに、>日本の敗戦後<米国は>、ファシストたる蒋介石政権をようやく見限ったものの、支那と北朝鮮、更にはインドシナにおける共産主義政権の樹立に伴い、ソ連の脅威に加えてこれら諸国の脅威に東アジアで直面した米国は、「戦前」の日本と全く同じく東アジアの覇権を、しかし「戦前」の日本よりもはるかに不利な戦略環境の下で追求することを余儀なくされた・・。
<そして、>さすがに頭の固いマッカーサーも、朝鮮戦争で北朝鮮及び中国と戦う羽目となり、東アジアの平和と安定を担っていた小覇権国日本と手を組むどころか、民主主義的独裁勢力に手を貸して日本を叩き潰した米国の非に気づいた<のであろう、>・・マッカーサー<は、>・・「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」<と1951年5月に米議会で証言した>」(コラム#221)。
米国が犯したこの深刻な過ちは、米国にとって、第一の原罪である黒人差別(コラム#225)と並ぶ第二の原罪と言ってもいい・・マクナマラ(コラム#213)ら以外の米国人は、一体いつになったらこの第二の原罪を直視するの・・か」(コラム#234)、
と以前書いたことがあります。
 
 これが吉田茂の抱いた米国に対する怒りの第一の原因であると思われます。

(2)米国による日米協定破り

 1905年、日本の桂太郎首相とタフト米陸軍長官の間で、桂・タフト協定が締結され、日本は米国の植民地フィリピンへの不干渉、米国は日本が朝鮮を保護国とすることを認めました(http://www.c20.jp/1905/07taftk.html。2月3日アクセス)。その三年後の1908年には高平大使とルート米国務長官の間で、高平・ルート協定が締結され、日米両国は、アジア・太平洋における相互の領土尊重、中国の門戸開放と領土保全、中国のおける現状維持を約束しました(中国における現状維持という言葉は、満州における日本の経済特殊権益を暗黙のうちに認めるものと理解された)(http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/usa/file37.htm。2月3日アクセス)。
 ところが、先の大戦が始まるや、1943年のカイロ宣言において、米国はこれら協定に違背して、英国、中華民国とともに、「滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國カ清國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ 日本國ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本國ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ驅逐セラルヘシ 前記三大國ハ朝鮮ノ人民ノ奴隸状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且獨立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」(http://list.room.ne.jp/~lawtext/1943Cairo.html。3月2日アクセス)と、「盗取」、「略取」という言葉を使って、日本の植民地及び中国における権益保有の正当性を否定したのです。
 このカイロ宣言は、ポツダム宣言で援用され(コラム#247)、日本がポツダム宣言を受諾して降伏することによって、日本は植民地及び中国における権益を失いました。
 それだけではありません。戦後米国は、これらの地域における全日本居留民を日本に追放するとともにその全私有財産を没収するという国際法違反を行いました。日本の植民地及び中国における権益の保有を違法視したカイロ宣言・・この宣言自体が国際協定、すなわち国際法違反・・を実行に移したわけです。
 (以上、片岡鐵也スタンフォード大学教授の講演要旨(http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k4/140803.htm(2月2日アクセス))、及びキム・ワンソプ「親日派のための弁明」草思社2002年 235??239頁、を参考にした。)

 これが吉田茂の抱いた米国に対する怒りの第二の原因であると思われます。

(続く)

太田述正コラム#0213(2003.12.21)
<マクナマラの悔恨(その3)>

 (「その2」は2003.6.6付けだったので、随分時間がたってしまいました。恐縮ですが、私のホームページ(http://www.ohtan.net)の時事コラム欄で「その1」の末尾と「その2」全文をお読みください。) 

 結論的に、マクナマラは、確かにベトナム戦争では自分自身を含め、当時の米国のリーダー達は多くの過ちを犯したかもしれないが、それは当時米国が国防費に金を投入しすぎており、国家安全保障を効用とすれば、国防費はもはや限界効用逓減フェーズに入っていたということなのだ、と分かったようで分からないことを述べた上で、経済援助費はまだ国家安全保障の観点から限界効用逓増の段階だったとし、自分のベトナム戦争最中での国防長官辞任と世界銀行総裁への華麗な転進を合理化しています(http://archives.obs-us.com/obs/english/books/mcnamara/contents.htm前掲)。
要するに、1995年著書(In Retrospect: The Tragedy and Lessons of Vietnam, Random House, Inc., 1995前掲)の時点では、マクナマラは全く反省の色を見せていないと言うべきでしょう。

 ところが、その8年後の84歳となったマクナマラはまるで人が変わってしまったように見えます。
 彼は記録映画The Fog of War(前掲)の中でのインタビュー場面で、率直に「私は数々の過ちを犯した」が、とりわけ責任ある立場において犯した過ちは、国の行く末にかかわるだけに重大だとした上で、おもむろに語り始めます。
 日米戦争当時、マクナマラはカーチス・ルメイ将軍(http://www.af.mil/bios/bio_6178.shtml。5月31日アクセス)の参謀の一人として、日本の都市住民の大量焼殺を最大の目的とした焼夷弾爆撃をより効率的に実施する方法の研究に携わりました。その功績から、マクナマラは数々の勲章をもらうのですが、彼は、もし米国が日米戦争に敗れていたら、ルメイ将軍とともに戦争犯罪人として処刑されていただろうと自責の念を吐露します。
 そして、「日本を焼き尽くしながら、更に原子爆弾を投下する必要がどうしてあったのか。日本の67もの都市の住民の5割から9割を殺した上に原子爆弾を投下するというのは、やりすぎ(not proportional)というものだ」と当時の米国政府を激しく批判します。
 また、ベトナム戦争の時には、マクナマラははるかに責任ある国防長官という職にあったわけですが、自身の最大の過ちとして、「ベトナムの人々の気持ちを忖度できなかったこと」をあげ、「彼らは我々をフランスの後釜の植民地主義者としか見なかった。我々は冷戦を戦っているつもりだったが、彼らにとっては内戦以外のなにものでもなかった」と述べています。
 そして「Rolling Thunder作戦(注)の時には、第二次世界大戦の時の西欧に投下された爆弾の2??3倍の爆弾が投下された」と続けます。

 (注) 北爆。北ベトナムに対して米国が1965年2月から1968年10月まで実施した爆撃(http://www.fas.org/man/dod-101/ops/rolling_thunder.htm。12月21日アクセス)。

 しかし、日本に対する戦略爆撃についてとはうって変わり、マクナマラは、この北爆を含め、ベトナム戦争の時に米国がベトナムにもたらした人命等の巨大な被害については、「善であるためには、我々は時に悪を犯さなければならない」と答えるにとどまっています。
(以上、特に断っていない限り、
http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,962034,00.html前掲、による)

 このインタビューを見る限り、マクナマラはまだまだ反省が足らない、と批判するのが米国の著名なジャーナリストのフレッド・カプランです。
 ようやく「合理性(rationality)は我々を救ってはくれない」ことに気がついたかと、かつての傲慢な数理的意思決定万能論者マクナマラの「成長」を皮肉った上で、カプランはまず、マクナマラはキューバ危機の時の自分を美化していると指摘します。
 すなわち、マクナマラは、ケネディ大統領が米ソ戦争を回避しようとする努力を助けた、と語っているのですが、13日間にわたった危機の三日目からは、マクナマラはキューバのソ連のミサイル基地の爆撃と、その後のキューバ侵攻を主張し続けたことが、最近開示された当時のテープの中のやりとりから明らかになったというのです。しかも、ケネディが最終段階で、ソ連がキューバのミサイルを撤去する代わり、米国はトルコの米国のミサイルを撤去することでフルシチョフと手を打とうした時、これにマクナマラが強硬に反対したこともこのテープで明らかになったところ、これについてもインタビューではマクナマラはあえて沈黙している、というわけです。
 次に、ベトナム戦争についてもマクナマラはウソをついている、とカプランは畳みかけます。
 1964年8月のトンキン湾事件・・米駆逐艦マドックスが北ベトナムから魚雷攻撃を受けたとされ、それを口実に米国は翌年から北爆を開始した・・について、マクナマラは当時はそれが本当のことだと信じていたとインタビューでは語っているのですが、最近上梓されたダニエル・エルズバーグ氏の回顧録によれば、わずか数時間後にマドックスは、あれは勘違いだったと連絡していたことが明らかになったというのです。
(以上、http://slate.msn.com/id/2092916/(12月21日アクセス)による。)

このように、マクナマラがキューバ危機とベトナム戦争の時の自らの過ちをいまだに隠そうとしたり、過ちを認めつつもそれを弁護しようとしているのに、日本に対する戦略爆撃については、単に一士官としてかかわっただけなのに、深い自責の念に苛まれ、自らがかかわっていない、日本に対する原爆投下まで激しく非難しているのはどうしてなのでしょうか。
私には分かります。
マクナマラは、キューバ危機の時のキューバやソ連、そしてベトナム戦争の時の北ベトナム(ベトコンを含む)ないしその背後にいたソ連や中共は全体主義勢力であり、これら勢力との戦争は「正しい」(just)戦争だが、戦前の日本は民主国家であり、しかも米国はその日本を戦争に追い込んだのだから「太平洋戦争」は、「正しくない」(unjust)だった、という認識に到達した、ということでしょう。
史上最年少にしてハーバードビジネススクールの教授となり、弱冠41歳にして国防長官となったマクナマラは、自他共に許す稀代の大秀才でしたが、80歳を超えた今、ようやく賢人の域に達したと言えるのではないでしょうか。
願うらくは、米国人一般、そして何よりも日本人一般がこのマクナマラの遺言とでもいうべき告白に真剣に耳を傾けられんことを。

 最後に、マクナマラが著書(前掲)の最後に引用している英国の詩人T.S.エリオット(Elliot。ノーベル文学賞受賞。ミュージカルのキャッツは彼の詩をそのままミュージカルに仕立てたもの)の詩「リトル ギディング(Little Gidding)」からの一節をそのままここに掲げて、本稿を終えることにしましょう。
「我々は探索を決してやめてはならない。その探索の最終目的は、出発地点に到着することだ。そうして初めてそこがいかなる場所であったかを我々は理解することができるだろう。(We shall not cease from exploration And the end of all our exploring Will be to arrive where we started And know the place for the first time.)」

(完)

太田述正コラム#0123(2003.6.6)
<マクナマラの悔恨(その2)>

 実はマクナマラは1995年に本を出しており、その中でベトナム戦争の時に国防長官として犯した過ちを回顧、反省し、当時既に大いに話題になったものです。
 しかし、その時に比べると今度の映画の中でのマクナマラの姿勢は一変しています。
 それはどういうことか。
まずはその本、Robert S. McNamara with Brian Vandemark , In Retrospect: The Tragedy and Lessons of Vietnam, Random House, Inc., 1995 の中で彼がいかなる「反省」をしていたかをふりかえってみましょう。(以下、この本の抜粋、http://archives.obs-us.com/obs/english/books/mcnamara/contents.htm(6月1日アクセス)による。)

問題はマクナマラのこの本の執筆スタンスです。

若き日の彼が学び、教えたハーバード・ビジネス・スクールはケースメソッドで有名ですが、この本は、米国がベトナム戦争でなぜ「敗戦」の憂き目を見たかについて、マクナマラが米国民向けのケース(事例研究)として体裁良くまとめたものだと私は理解しています。
ケースとは、教師が学生の教材として執筆するものであり、教師が学生より一段高いところに立って、テーマにかかわる事実を提示し、結論(教訓事項)はあえてケースの中には明記せず、学生相互の議論を通じて学生達に教訓事項が何かを考えさせるところに主眼があります。
この本がケースである証拠に、マクナマラは国防に関し、単純な目的関数を最初に設定します。「国家を最小限度のリスクとコストで防衛すること、そして戦闘において(我が)生命の損失を最小限度におさえること」と。かかる目的関数に照らせば、ベトナム戦争は、多大の経費を費消し、かつ多大の米兵の犠牲者を出し、しかも米国の防衛(広義)に齟齬を来したのですから、国防上の大失態であることは明白です。
またケースだからこそ、マクナマラは、彼の国防長官時代の七年間全体を描く中でベトナム問題を浮き彫りにするという歴史学的な方法をとらず、「単純化しすぎだという指摘は甘受する」としつつ、ベトナム戦争に係る事実以外は捨象します。(彼は自分の生い立ち、バークレーでの大学生時代、軍隊時代、ハーバードビジネススクール時代について語っていますが、これは彼がいかに米国のオーソドックスな価値観を身につけるに至ったかを示すというただそれだけが目的です。)
更にケースだからこそ、マクナマラは、このケースの中に登場する彼自身を他の登場人物と同様に一客体して取り扱い、「私自身の矜持、業績、苛立ち、そして失敗についてことさらあげつらう」ことは行いません。

むろん通常のケースと違うところもあります。
本来はケースの読者が自分で考えたり他の読者と議論したりして導き出すべき教訓がすべて本の中で提示されていることです。
マクナマラは、ベトナム戦争の教訓は、ベトナム戦争に係る米国の行政府の「価値<観>や意図」は正しかったが「判断や能力<見積もり>」を誤ったことだとします。
彼によれば、判断の誤りとは、第一に「ホーチミンをチトー元帥ではなくフィデル・カストロと同類とみなし・・南ベトナムが共産主義の支配下に入ることは西側の安全を脅かす」と、いわゆるドミノ理論を所与のものとしたことであり、第二に極めて限定的なトンキン湾決議(1964年)を拡大解釈して南ベトナムへの地上兵力の本格的投入に踏み切ったことです。
また能力見積もりの誤りとは、北ベトナムないしベトコンの抵抗能力を過小評価し、南ベトナム政府の能力評価を誤り(=ゴ・ジン・ジェムに対するクーデター及びジェムの殺害を黙認し、より能力の低いグエン・バン・チューらで置き換えた)、及び米軍の軍事能力を過大評価したことです。

(続く)
http://www.nhti.tec.nh.us/library/authorresources/o'brientimeline2.htm
ロバート・マクナマラ「果てしなき論争」共同通信社3800円。

太田述正コラム#0122(2003.5.30)
<マクナマラの悔恨(その1)>

 1974年6月、25歳だった私は政府から派遣されてスタンフォード大学に留学しました。もう30年近くも前の話です。
英語ならぬフランス語の集中講座を受講したりして大いに羽を伸ばした夏学期が終わり、9月になっていよいよビジネススクールに入校したとき、学部長(Dean)のアージェイ・ミラーがフォードの元社長であり、前副会長だと知ってびっくりしました。ビジネススクールは企業経営について実践的な勉強をするところだということは承知していましたが、学者歴の全くない人物、しかも大企業のトップが大学(院)の学部長になるというのは日本では考えられないことだったからです。
(政治学科大学院志望の日本人政府留学生N氏に触発されて、私は当初の予定を変更し、政治学科大学院にも籍を置くことにしたのですが、政治学科が属するスクール・オブ・ヒューマニティーズ・アンド・サイエンスの学部長の方は名前も含め、全く記憶に残っていません。)
 ビジネススクールの授業が始まると、アラン・エントーベン(http://gobi.stanford.edu/facultybios/bio.asp?ID=40。5月30日アクセス)とヘンリー・ローエン(http://www-hoover.stanford.edu/BIOS/rowen.html。5月30日アクセス)という、ロバート・マクナマラ国防長官時代にそれぞれ国防長官事務局(内局)と連邦予算局(主計局)の幹部職員となり、(「発明」したのは第二次大戦時の米英両軍だがその後民間で発達した)システム分析手法を駆使して国防予算の「科学的」編成に辣腕をふるった著名なお二人が教授でいることを知り、防衛庁に在籍していた私は興味津々、さっそくお二人の授業要項に目を通しました。すると、ローエンの方は安全保障に関わる研究を続けているものの、エントーベンの方は医療問題の専門家になっているのにまたまたびっくり。(一年目は必修科目しかとれないので、二年目にようやくお二人の授業をとりました。)
このように産官学の垣根を越え、専門分野を乗り越えて活躍するまばゆいばかりの米国のエリート達に出会ったところから私の本格的な米国留学生活は始まったのでした。

 実はロバート・マクナマラとアージェイ・ミラーは浅からぬ因縁があります。
 二人ともカリフォルニア州出身であり、同じ1937年にマクナマラはUCバークレーを、ミラーはUCLAを卒業し、マクナマラはハーバード大でMBAを取得してから同大学のビジネススクール助教授となり、ミラーはサンフランシスコ連銀エコノミストとなります。そして第二次大戦中にはどちらも軍隊で活躍し、戦後同じ1946年に二人ともフォード社に入り、マクナマラは1960年に社長に、そしてミラーはマクナマラが1961年に国防長官に任命された後の1963年に社長になったというのですから。(ミラーがフォードの副会長になったのはスタンフォードに招致される一年前の1968年です。)(http://globetrotter.berkeley.edu/McNamara/mcnamarabio.html及びhttp://www.gsb.stanford.edu/history/miller.html。いずれも5月30日アクセス)

 前置きが長くなりました。
そのマクナマラが、今年のカンヌ映画祭に出展されたドキュメンタリー映画「The Fog of War(戦争の霧)」の中でインタビューに答えて、日米戦争とベトナム戦争において彼が犯した過ちを痛恨の思いで回顧しており、そのことが改めて話題を呼んでいます(http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,962034,00.html。5月23日アクセス)。

(続く)

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