カテゴリ: アーロン収容所

太田述正コラム#3365(2009.6.29)
<バターン死の行進(その2)>(2009.11.2公開)

 「・・・<バターン死の行進>は、<行進させられた者達にとって、>日本の捕虜として待ち構えていた恐怖の単なる始まりでしかなかった。
 過熱した貨車での死ぬような列車での旅、見かけだけの捕虜収容所と死にかけている男達で一杯の病院、「瓶に詰め込まれた漬け物」のような輸送船の中への積載、死の行進と同じ類の次から次への作業、といった話が語り継がれている。
 死ななかった多くの男達は単に頭がおかしくなった。
 <この本の中には>日本人の声もたくさん登場する。
 ノーマン夫妻は、日本がやったことを許しはしないが、それを注意深いコンテクストの中に置く。
 日本の兵士達は、「世界で最も暴力的な軍隊規律の下で暴力の閉ざされた世界の中に置かれていた」と彼等は記す。
 これらの兵士達は、「野蛮な意図を持った軍隊をつくるべく野蛮化されたのだ」と。・・・
 ・・・夫妻は、フィリピンにおける日本軍の司令官であった本間雅晴将軍には同情的だ。
 彼の戦争犯罪人としての1946年の裁判と処刑はどれだけ帝国陸軍が、本間もそのうちの一人であったところの上級士官達を、熱狂的な右翼が脅迫することによって、異常なこと(excesses)に駆り立てられたかを示すものだ。
 しかし、最近の他の批判者達と同様、彼等は、米国で1942年にユリシーズ・S・グラント(Ulysses S. Grant)以来の米国の軍事的英雄と称えられた(注1)ところの、フィリピンにおける米側の司令官であったダグラス・マッカーサー将軍に対してはほとんど尊敬の念を示さない。

 (注1)「・・・真珠湾攻撃の屈辱に沈むアメリカで、「シンガポールは落ちたがコレヒドールは健在である」というニュースは国民を勇気付け、マッカーサーは英雄となった・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1941-1942%E5%B9%B4)(フィリピンの戦いに係る日本語ウィキペディア)

 著者達に言わせると、1月15日、マッカーサーは、彼のバターンの弱り果てた部隊の士気を高揚させるために、米国から部隊と航空機が来援する途上にあると言明した。
 「それはウソであり、ユダの<イエスに対する>接吻だった」と彼等は記す。
 「フィリピンは切り捨てられたのだ。ワシントンはそのことを知っていたし、マッカーサーも同様だった」と。・・・」
http://www.kansascity.com/402/story/1252389.html

→ソ連軍等と戦ったことがない、著者夫妻等の米国人インテリには、最近の軍隊の中では日本の旧軍が世界で最も暴力的であるように見えるらしい点はご愛敬ですが、それはともかく、ニューヨークタイムスの書評子よりは、この「田舎」新聞(失礼!)の書評子の方がよほどまともです。(太田)

 「・・・<バターン死の行進>は10,000人以上の死をもたらしたが、<捕虜達に対しては、>それから何年もの飢餓、奴隷労働、拷問、疾病、そして絶え間ない殴打が続くことになった。・・・
 著者達は、捕虜達の無検閲の話を紹介するとともに、日本側からの回想も盛り込んでいる。後者については、読者の中には不愉快に思う者もいるだろう。
 また、彼等はいくつかの鋭くかつ詳細な批判を米国の司令官のダグラス・マッカーサーについて記している。
 これもまた、<読者の間で>否定的な反応を引き起こしてきたところだ。・・・」
http://www.nashvillecitypaper.com/content/lifestyles/new-book-takes-chilling-look-bataan-death-march-and-its-aftermath

→この「田舎」新聞の書評子のスタンスは、上記書評子とニューヨークタイムスの書評子の中間といったところでしょうか。(太田)

→既に何度か引用した英語ウィキペディアから、最後にもう一度引用しておきましょう。(太田)

 「・・・1942年4月9日、バターンの戦いの最終場面において、・・・約76,000人のフィリピンと米国の部隊が・・・54,000人の日本軍に降伏した。・・・
 日本側は、戦闘がまだ続くと考えており、約25,000人の捕虜が出るものと予想していた。
 だから、彼等は準備不足でもあったし、予想のほとんど3倍にも達した捕虜達を人道的に輸送する気も起きなかったわけだ。・・・
 1945年に日本が降伏すると、連合国は、バターン死の行進という残虐行為、及び、それに引き続くキャンプ・オドンネル(Camp O'Donnell)とカバナツアン(Cabanatuan)<両収容所>における残虐行為等の戦争犯罪で本間将軍に対して有罪を宣告した。
 将軍は、バターンが陥落した後、コレヒドールを落とすことに努力を傾注しており、彼は死の行進の犠牲者数をその2ヶ月後まで知らなかったと弁明した。
 彼はマニラの郊外で1946年4月3日に処刑された。
 理由は定かではないが、連合国は戦争犯罪で<バターン死の行進の首謀者である>辻政信は起訴しなかった。・・・」(バターン死の行進に係る英語ウィキペディア前掲)

3 終わりに

 第二次世界大戦参戦直後の米陸軍は、極めて準備不足でした。
 「北アフリカでの戦いにおいて、米軍の未熟さと臆病さは英軍を呆れさせ、彼らは米軍を「我がイタリア人達」と呼んだ」(コラム#1830)のを思い出して下さい。
 フィリピンの米比軍も同様であったと思われます。
 欧州派遣米軍と違って、フィリピンとの混成軍であったことも理由にはなりません。
 第二次世界大戦の時、英国は大英帝国の自治領や植民地の部隊を束ねて最初から健闘しています。
 他方、日本軍は、満州や支那での戦いで鍛え上げられていました。ただし、それは特殊な戦いであり、満州や支那での戦いは戦争ではなく事変であり、物資を基本的に現地調達でき、かつまた、相手が匪賊や、国際法順守意識が高かったとはお世辞にも言えない国民党軍や中国共産党軍が中心であったために、更にはまた、下克上の気風が陸軍等において充ち満ちていたこともあり、国際法順守意識は弛緩し規律も厳正とは言えませんでしたし、兵站も軽視されがちでした。
 こんな米比軍と日本軍が初めて地上において相まみえた結果が、攻めていた日本軍よりも大兵力の米比軍(注2)、しかも日本軍より損害が少なかった米比軍(注3)が、あっけなく降伏してしまったわけであり、このために死の行進という悲劇が起こってしまったわけです。
 
 (注2)在フィリピン総兵力で見ても、日本軍:43,110、米比軍:米軍 22,532(うち、米本国の兵士は8,500)、フィリピン軍 120,000。(フィリピンの戦いに係る日本語ウィキペディア前掲)
 なお、各書評の中に登場する数字と食い違いがあるが、詮索しないことにする。
 (注3)フィリピンの戦い(後の米国によるフィリピン奪回作戦とは違うので注意)での全損害は、日本軍:戦死 4,130、行方不明 287、戦傷 6,808 米比軍:戦死 2,500、戦傷 5,000、捕虜 83,631。(日本語ウィキペディア上掲)

 それにしても、米国民一般の対日戦争観の正常化への歩みは、遅々たるものがあるようです。

(完)

太田述正コラム#3359(2009.6.26)
<バターン死の行進(その1)>(2009.11.1公開)

1 始めに

 5月30日、バターン死の行進(Bataan Death March)生存者達のテキサス州サンアントニオにおける、64回目にして最後の会合の場で、藤崎一郎駐米大使は、日本政府を代表して謝罪しました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bataan_Death_March

 その背景について、例によって怠惰極まりない日本の主要メディアは、電子版を見る限り、何も教えてくれませんし、当時はフィリピンは米国の植民地であったけれど、死の行進の被害者はフィリピン人の方が圧倒的に多いにも拘わらず、駐フィリピン大使が同様の謝罪を行ったという報道に接していないのも首をひねらざるを得ません。
 一体、麻生首相は、何を考えて藤崎大使に唐突な謝罪をさせたのでしょうか。

 時あたかも、米国人による汗牛充棟のバターン死の行進本に、更にノーマン夫妻(Michael Norman and Elizabeth M. Norman)による 'TEARS IN THE DARKNESS The Story of the Bataan Death March and Its Aftermath' が加わりました。
 この本の書評を通じ、米国の人々の本件に対する現在の心情を推し量ってみたいと思います。

2 書評に書かれていること

 (1)書評1
http://themoderatevoice.com/35150/book-review-tears-in-the-darkness-the-story-of-the-bataan-death-march-and-its-aftermath/
(6月26日アクセス。以下同じ)

 「アウシュヴィッツ、収容所列島、カンボディアのキリングフィールド<、そしてバターン死の行進>・・・」

→ナチスドイツ、スターリン体制、ポルポト派による、しかも100万〜数千万の殺戮と並べるとは、呆れるのを通り越して笑っちゃいます。(太田)
 
 「Bataan Death March, a march that left more than 2,000 American and Filipino prisoners dead.・・・」

→最初は、2,000人死亡ってミスプリかと思ったのですが、いくら何でもそうではないとすると、この書評子に代表される米国人一般にとって、この事件の記憶がいかに薄れているかを示すものだし、仮にこれが米国人の死者だけの数を指しているとすると、フィリピン人蔑視が露呈したということになります。(太田)

 「フィリピンで捕虜になった約25,000人の米国人のうち、戦後生きて家に戻れたのは15,000人に過ぎなかった。・・・」

→これは誤解を生む書き方です。この書評においても、これら捕虜の多くは日本の内地に移送されており、その途中で米軍の攻撃にあって犠牲者が出ている旨の記述がなされていますし、このほか、広島に投下された原爆等によって内地で死亡した者もいるからです。(太田)

 「・・・これは、戦争の当時の日本側の観点についても掘り下げた最初の米国人による著作かもしれない。・・」

→エ! それが本当だとしたら、米国人は日本人を人間だと思ってこなかったの、と絶句しちゃいますね。とにかくできの悪い書評です。(太田)

 (2)書評2
http://www.nytimes.com/2009/06/17/books/17garner.html?_r=1&hpw=&pagewanted=print(6月17日アクセス)

 「・・・筆者達は、<バターンで>降伏したところの、部下達に愛されていた米国の少将であるネッド・キング(Edward P. King, Jr)に同情的だ。(キング将軍は、彼の兵士達に対し、降伏したのは自分であって君達ではないと明言したものだ。)」

→そうですかねえ。上記英語ウィキペディアで、(管理者から典拠をつけろと注意書きが添えられていますが、)この降伏は米比連合軍総司令官のマッカーサーやナンバー2のウェインライトの意向に反したものだったと書かれてますよ。逆に、バターンの米比連合軍が降伏するのなら、すぐ近いのコレヒドールの米比連合軍(司令部)・・兵力がこちらの方が少ない・・も降伏すべきでした。(太田)

 「一方ノーマン夫妻は、初期の米比連合軍司令官でバターンの軍についても監督下にあったダグラス・マッカーサーへの軽蔑の念を露わにしている。部下と共に戦う姿勢に欠け、しかも、部下を置き去りにして逃げ出したと。」

→ヒアヒア。ここはそのとおりです。(太田)

 「現在バターン死の行進として知られているものは、1942年4月10日に始まった。
 その多くが既に死ぬ一歩手前になっていた、約76,000人の捕虜達が、一年の中で最も暑い季節に66マイルも歩くことを強いられたのだ。途中にはほとんど建物がなく、日差しを遮る木々もなく、食糧も水もほとんどなかった。
 それが死の行進と呼ばれたのは単純な理由からだ。何ともし行進を止めると銃剣か小銃によって殺されたのだ。
 バターン死の行進で死ぬのには色んな方法があった。それは恣意的暴虐さのバカ騒ぎだったと言えよう。
 おもしろ半分に、日本の兵士達は小銃の台尻で<捕虜達の>頭蓋骨をたたき割った。
 日本の戦車は倒れた捕虜をひき殺して進んだ。
 倒れた戦友達を助けようとした情け深い捕虜達は殴られたり突き刺されたりした。
 捕虜達は、・・・まだ生きている者も埋葬するよう強いられた。
 この行進の一員となることによって、「文明の終わりに遭遇した」時に感じるであろうところのものを感じさせられた、と一人の元捕虜は語っている。
 こうして、捕虜収容所という最終目的地に到着するまでの間に約11,000人が死んだ。」

→上掲の英語ウィキペディアは、「75,000人の捕虜中約54,000人が最終目的地に到達した。この行進による死者の数は計算が困難だ。というのは、何千人もの捕虜が監視兵の目をかいくぐって逃亡することができたからだ。結局のところ、約5,000〜10,000人のフィリピン人捕虜と600〜650人の米国人捕虜が<最終目的地に>到達するまでに死んだ。」と記しており、この書評が上限の数字だけをあえて紹介していることは、ニューヨークタイムス掲載の書評であるだけに、嘆かわしい限りであると言いたくなります。
 ちなみに、日本語ウィキペディアの「バターン死の行進」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2
によれば、「・・・日本軍の捕虜後送計画は総攻撃の10日前に<策定>されたものであり、<キングの過早な降伏によって>捕虜の状態や人数が想定と大きく異なって<しまった>。・・・米比軍は約7万6千もの捕虜を出した。これは日本側の2万5千との予想[1]を大きく上回るものであった。・・・<このため、>捕虜は一日分の食料を携行<させたけれど>、・・・実際には最長で三日かかって<しまった>。<また、途中の地点>から・・・鉄道駅までの区間<は>・・・全捕虜がトラックで輸送されるはずであった。<これが実現されておれば、歩くのは半分の30マイル程度で済んだはずだった。>しかし、トラックの大部分が<まだ>修理中であり、米軍から押収したトラックも<まだ降伏していない>コレヒドール<攻略>戦のための物資輸送に当てねばならなかった。結局、<降伏した場所>から<鉄道の駅まで>の区間83キロ<と鉄道を降りた後の12キロ>を、・・・捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった」(基本的にトーランドの本に拠る)ということであったようですし、典拠は定かではありませんが、「・・・看視の日本兵は少なく、逃亡は容易だった・・・<し、>フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、脱走者が多かった・・・」ということでもあったようです。
 しかし、このような事情があったとはいえ、また、戦争の時には残虐行為が起こりがちであり、しかも、日本軍の場合、残虐行為を強く禁ずるという意味での規律が必ずしも厳正でなかったわけですが、戦闘が完全に終わった後の、日本兵による上出のような残虐行為については、いささか説明することが困難です。
 これについては、やはりこの日本語ウィキペディアで、「現地の指導的立場にあった辻政信は「この戦争は人種間戦争である」として、「アメリカ人兵士は白人であるから処刑、フィリピン人兵士は裏切り者だから同じく処刑しろ」と部隊に扇動しており、独断で「大本営から」のものとする捕虜の処刑命令を出していた。今井武夫の記録によれば、4月9日午前11時ごろ、第六十五旅団司令部から電話で、大本営命令として米比軍捕虜を射殺せよという命令が届き、ことの重大性から今井大佐は書面による命令を要求した。この命令に文書がなく、本物かどうか疑わしいため、現場では無視したり逆に捕虜を釈放したとの証言も多くある。しかし命令は絶対であるとして、実行したものもいた。本間中将はこのことについてまったく知らなかった。」とされていることで、ある程度説明がつきそうです。
 当時の日本軍の下克上ぶりには、まことに目を覆わしめるものがあった、と言わざるをえません。(太田)

(続く)

太田述正コラム#10542006.1.21

<「アーロン収容所」再読(その14)>

 実は、米国の心理学者でシカゴ大学とハーバード大学の教授であったコールバーグ(Lawrence Kohlberg1927?87年(自殺))が個人の倫理観は、生物的・社会的要因によって段階的に上昇していくという説(Kohlberg's stages of moral developmentを唱え、この説が1970年代から80年代にかけて米国ではやったことがあります。

 この説は、個人の倫理観は、初期においては外の権威によって強く影響されているのが、次第に内面化された社会規約(convention)に基づくようになり、ついには中立性・平等主義・普遍的権利といった一般的原理・原則に則るようになる、というものです。ルース・ベネディクトは、個人の倫理観は、恥に基づくものと罪に基づくものの2種類があると主張したわけですが、コールバーグは、3種類あるとし、しかも個人は低い種類から高い種類へと段階を経て上昇していく、と考えたわけです。

 更にコールバーグは、文化・性・個人における倫理観の違いは、どの段階の倫理観にどれくらい早く上昇するかの違いである可能性が高い、と考えたのです。

 この説に対しては、一番高い倫理観に欧米(私に言わせればアングロサクソン)の成人の、しかも男子に多い倫理観を充てているのはいかがなものか、という批判を始めとする、ありとあらゆる批判が投げかけられ、最近ではこの説を推す人は余りいません。 しかし、  このコールバーグの説は面白いので、もう少し詳しくご紹介することにしましょう。

  彼は倫理観を、下掲の3種類(level)6段階(stage)に分けたのです。そして個人は、この段階を一段ずつ上って行くしかなく、飛び越すことはできない考えたのです。

 レベル1(プレ社会規約)(9歳まで)

1.服従と懲罰志向

2.利己志向  

 レベル2(社会規約)(9歳超から青年まで)

3.個人間の約束(Interpersonal accordと大勢順応(よい子悪い子的姿勢)

4.権威と社会秩序維持志向(「法と秩序」的道徳観)

 レベル3(ポスト社会規約)(成人)

5.社会契約志向

6.普遍的倫理諸原則(原則に則った良心)

(以上、http://www.bostonreview.net/BR30.5/saxe.html前掲による。なお、http://en.wikipedia.org/wiki/Lawrence_Kohlberg、及びhttp://en.wikipedia.org/wiki/Kohlberg%27s_stages_of_moral_development(どちらも1月12日アクセス)も参照した。) 

 これを、イギリス人が密かに抱いているところの階層的世界観に当てはめると、レベル3がアングロサクソンで、うち段階6.は純正アングロサクソン、段階5.は米国等のできそこないのアングロサクソンがそれぞれ該当し、レベル2が野蛮人で、うち段階4.は西欧・日本、段階3.はロシア・支那・東南アジア・インド・アラブ・中南米がそれぞれ該当し、レベル1が野蛮人の最たるもので、黒人やアボリジンが該当する、といったところではないでしょうか。

 これこそ会田が、「アーロン収容所」で意識せずして到達したところの階層的世界観そのものです。

 そして、私の考えは、少なくとも、段階4.と段階5.と段階6.の三つの間に高低はない、だから、おおむね段階4.の人が多い日本人が、段階5.6.の人が多いアングロサクソンに引け目を感じる必要はないというものだ、ということになりそうです。

太田述正コラム#10522006.1.20

<「アーロン収容所」再読(その13)>

 私自身が、米国流(アングロサクソン流)の倫理(=抽象的倫理=「高い」倫理)と日本流の人間関係(=状況倫理=「低い」倫理)の板挟みになった経験があります。

 私が1974年から1976年にかけて米スタンフォード大学に留学していた時、日本と随分違うなと思ったことの一つは、試験の時に試験監督官が試験会場に残っていない方が多いことでした。しかも、時には半日或いは丸一日の回答時間が与えられ、その間、(他人と相談してはダメだけれど)自分の居室や図書館等で文献等にあたって回答を書いても良い、という試験もありました。

定型の答案用冊子の表紙には必ず倫理規定(honor cord)が印刷してあり、カンニングをしてはならない、といったことが明記されています。学生はそれを守ることが当然であり、だから試験監督官が試験会場にいなくてもよいし持ち帰り形式の試験もできる、ということなのでしょう。確かに、カンニングの話はスタンフォードにいた二年間、まず耳にしたことがありません。(カンニングをやったら、それを知った他人は躊躇なく告発しますし、厳罰が科されます。)

 これは、大学院レベルだけでなく、学部レベルでも同じでした。(私は大学院レベルのビジネススクールだけでなく、政治学科の大学院にも在籍したが、政治学科の学部(undergraduate)の課目を一つとってみたところ、その課目の試験でも全く同じだった。)

 さて、この留学から帰国して1年経たない頃のことです。

 家族ぐるみで大変親しくしていた知人の大学生が、ある土曜日の午後、突然私の家にやってきたのです。

 当時はまだ土曜日の午前中は休みではなかったのですが、その日の午前中、彼の大学のある課目の授業で期末試験の試験問題が渡され、週末の間に自分で文献等にあたって作成した回答を週明けに提出せよと言われた、ついては私に回答を書いて欲しい、というのです。

 確かに、私なら簡単に回答が書けそうな出題内容でした。

 私は、参考になりそうな本を貸してやるから、自分で回答を書けと答えたところ、その大学生が怒り出しました。

 学期の始めに、この授業の教師が試験は週末をはさんだ持ち帰り形式でやる、と言ったので、この課目なら試験問題が分かってから太田さんに頼めばよいと考え、授業には全く出なかった。だから、本を貸してもらっても、チンプンカンプンで、回答を自分で週末中に書きあげることなど不可能だと言うのです。

 私は頑として拒否しました。スタンフォード大学仕込みの倫理感覚がそうさせたのです。

 結局彼は、太田さんがそんなに薄情な人だとは思わなかった、と捨て台詞を吐いて帰って行きました。

 それから、彼は我が家に寄りつかなくなり、何年かに一回、冠婚葬祭の場で一緒になっても、ほとんど口をきこうとしません。

 「事件」があってから、四半世紀ほど経った時に、たまたま彼と酒席で一緒になったのですが、その折には、彼はこの「事件」などなかったかのように、話しがはずみました。(この「事件」は話題にはなりませんでした。)

 しかし、これで一件落着とはいきません。

 実は、あの「事件」があってからそんなに時間が経たない頃から、持ち帰り形式の試験であったのだから、自分のあのような対応は間違っていたのかもしれない、という悔悟の念にとらわれ始めたのです。

 そしてそのうち、日本においては、抽象的な倫理ではなく、人間関係をより重視すべきであり、入試の替え玉受験や試験会場内でのカンニングとは違って、まず露見することはないし、そもそも犯罪(詐欺や業務妨害)に該当しそうもない以上、私は彼の依頼を受けてあげるべきであった、と思うようになりました。

 別の言い方をすれば、あの試験を行った教官は日本人として、回答の作成を他人に依頼する学生がいるであろうことは「想定の範囲内」であり、他人に依頼できるかどうかも実力のうち、と考えていたに違いない、と思うようになったのです。

 現在では、更に進んで、次のように考えるに至っています。

 「抽象的倫理を重視するアングロサクソン流倫理観と人間関係(状況倫理)を重視する日本流倫理観との間に高いとか低いとかはない。そもそも、アングロサクソン流倫理観よりも日本流倫理観の方がはるかに普遍性がある。しかも、日本流倫理観もアングロサクソン流倫理観同様、個人を単位とする倫理観であって、集団を単位とする倫理観とは違って「近代」と相容れない、ということもない」と。

太田述正コラム#10492006.1.18

<「アーロン収容所」再読(その12)>

 以下のような事例を想像してみてください。

Aは出張先の町にいますが、本日午後に遠く離れた町で行われる結婚式で花婿付添人(best man)を務める予定であり、二人の結婚指輪を預かっています。ところが、長距離バスの停留所を目指して歩いていたところ、後15分でバスが来る、という時にサイフが盗まれていることを発見します。サイフには、バスの切符、クレジットカード、そして身分を証明するすべての書類が入っていました。停留所についたAは、町の通りすがりの人々に事情を話し、切符を買うためのカネを貸して貰おうとしましたが、誰も相手にしません。もう後5分でバスが来てしまいます。その時、身なりの良い男の人が、Aと同じ目的地行きのバスの切符をポケットに入れた上着をベンチに置いて席を外しました。誰も見ていません。

さて、Aは切符を盗むべきでしょうか。

 この質問を米国人にぶつけると、大人も子供も、大部分は、盗むべきでないと答えます。

 ところが、インド南部のマイソール市(Mysore)で同じ質問をすると、大人の85%、子供の98%は盗むべきだと答えるのです。

 この調査を行った学者は、米国人は、正義と公正さによって自らの行動を律するため、見知らぬ他人に対して、ほんの少しでも被害を与えてはならないと考えるのに対し、インド人は、人間関係や契約上の義務を重視するため、見知らぬ他人が蒙る被害と結婚式が台無しになる被害とを比べ、後者の方がはるかに大きいことに着目する、と推測しています。

 パプア・ニューギニアの田舎の人々にこの質問をぶつけると、もう一つの答えが返ってきます。

 それは、出張先の町の誰もAを助けようとしなかった以上、Aは切符を盗むべきだが、それはAの責任ではなく、その町の人々全員の責任であるというのです。

(以上、http://www.bostonreview.net/BR30.5/saxe.html(1月12日アクセス)による。)

 以上を私の言葉で整理すると、「汝盗むなかれ」という倫理は世界共通(注22)だけれど、このような事例において、米国ではこの倫理は守られるけれど、インドとパプア・ニューギニアでは守られないし、守られない理由が、インドでは人間関係ないし損得が倫理に優先するからであるのに対し、パプア・ニューギニアでは、そもそも集団倫理が個人倫理に優先するからである、ということになるのではないでしょうか。

 (注22)最近では、「汝盗むなかれ」といった単純明快な倫理だけではなく、もっと複雑な倫理についても、世界共通であることが分かってきた。

     以下の3つの設問をサイトに掲げ、世界中の1500人に投票させた研究がある。

     1 切り離された貨車が線路上を歩く5人をはねようとしている。転轍手は転轍することによって、この貨車を引き込み線に引き入れ、引き込み線の線路上にいる1人がはね殺されるのを覚悟の上でこの5人を助けることは許されるか。

     2 浅い池で子供がおぼれかけていて周りには自分しかいない。もし子供を助けると、自分の着物が台無しになる。子供を助けるべきだろうか。

     3 5人の患者が病院に搬送された。彼らを生きながらえさせるためにはそれぞれに異なった臓器を緊急移植する必要があるが、一刻の猶予も許されない。病院の待合室に一人の健康な人がいる。この健康な人を殺してこの人の臓器を搬送された5人に移植することは許されるか。

     結果は、1について許されると答えた者は90%、2について救うべきだと答えた者は97%、3について許されないと答えた者は97%だった。しかも、この結果は宗教を信じているかどうかや、男女間、更には国によってほとんど違いがなかった。また、どうしてこのように答えたかについて、大部分の人は、答えられないか、非論理的な答えしかできなかった。

(以上、http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2006/01/10/2003288343(1月10日アクセス)による。)

 そして私の仮説は、アングロサクソンから見ると、このようなインド人は野蛮であり、またこのようなパプア・ニューギニア人は野蛮人の最たるものである、ということになるのではないか、そしてまた、インド人やパプア・ニューギニア人は、このように抽象的倫理をあくまでも遵守しようとするアングロサクソンに敬意を抱くのではなかろうか、というものなのです。

太田述正コラム#10462006.1.15

<「アーロン収容所」再読(その11)>

 (5)どうしてイギリス人には頭が上がらないのか

 「アーロン収容所」からも分かるように、インド人やビルマ人は以前から、そして日本人も、もちろん会田自身も、最終的にイギリス人には頭が上がらなくなったわけです。

 それどころか、同じアングロサクソンである米国人ですら、イギリス人には一目も二目も置いていることをご紹介してきました。

 また、英国防大学の研修でインド亜大陸を訪問したとき、研修団、就中その英国人同僚達を接遇する、旧英領植民地人たるインド人やパキスタン人の「恭順な」態度に私はびっくりした(コラム#264)ものです。

 その後、英国による植民地統治が、インド亜大陸統治も含めて、日本による植民地統治より、はるかに過酷なものであったこと(注20)を知るにつけて、私の疑問は深まっていきました。

 (注20)既出(コラム#397)のMike Davis, Late Victorian Holocausts によれば、1876年から78年にかけてインド亜大陸を襲った大干魃に伴う飢饉で、1200万人から2900万人の死亡者が出たが、これは英国政府の政策のせいだった。一番飢饉がひどかった1877年と1878年には、インド亜大陸からの小麦の輸出は新記録を達成した。農民達が飢え始めたとき、英印植民地当局は、公定穀物価格に悪影響を及ぼすとして、あらゆる義捐活動を禁じた。しかも、当局は税収の落ち込みを取り戻すべく、強圧的な徴税キャンペーンを行った。こうしてかき集められた税金は、アフガニスタン戦争に投じられた。当局が唯一行った救恤活動は、まだ足腰の立つ農民達を収容所に入れて労働に従事させたことだ。しかし、碌に食糧を与えなかったため、1877年には収容者の94%が死亡したと推計されている。

     Caroline Elkins,

Britain

's Gulag, David Anderson, Histories of the Hanged らが明らかにした、英領ケニア植民地における戦後のキクユ族の大虐殺については、コラム#609610参照。

(以上、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1673991,00.html20051227日アクセス)による。)

 確かに、英国による植民地統治は、欧米諸国による植民地統治の中で、最もマシなものであったことは確かですが、それよりも更にマシであった日本による植民地統治を受けた韓国の対日憎悪に相当する感情が、旧宗主国たる英国に対し、インド人やパキスタン人の間で全くと言ってよいほど見られないのはなぜか、という疑問です(注21)。

 (注21)コラム#264で、種々疑問の解明に努めつつも失敗したことを記したが、覚えておられるだろうか。

 ここで、一つの大胆な仮説を提示してみることにしました。

 「人間には、階層をなしている倫理感覚が備わっているが、どの階層の倫理感覚を現実に選択するかは文明によって決まっている。より「高い」(=普遍性のある)階層に属する倫理感覚を選択した文明を体現した人間に対しては、「低い」階層に属する倫理感覚を選択した文明を体現した人間は、意識するとせざるとにかかわらず、頭が上がらない(敬意を抱く)」という仮説です。

 こう言うと、米国の文化人類学者のルース・ベネディクト(Ruth Benedict1887?1948年)が、一度も日本を訪問することなく執筆した「菊と刀」(The Chrysanthemum and the Sword1946年)を思い出す方もおられるかもしれません。

 彼女は、「欧米」のキリスト教を背景とした罪の文化(倫理感覚)と日本の恥の文化(倫理感覚)を対置させ、前者が後者より「高等で普遍性がある」と指摘した、と記憶しています。

 私自身は、この指摘には強い反発を覚えたものですが、「欧米」を一括りにしている点とか、キリスト教的バイアスを取り去ってみると、このベネディクトの指摘には、一抹の真理が含まれているのではないか、と現在は考えています。

太田述正コラム#10452006.1.14

<「アーロン収容所」再読(その10)>

 (3)英国人に頭の上がらぬ米国人

 英国防省の大学校での、英国人の前に出るとかしこまっていた米国人達の姿を思い出させたのが、Aylwin-Foster英軍准将が執筆した、イラクでの米軍の不穏分子対処方法を厳しく批判した米陸軍の雑誌Military Review掲載論考です。

 この准将は、昨年までイラク軍の教育訓練に携わっており、現在在ボスニア欧州平和維持軍(Eufor)副司令官をしています。

この論考の要点は次のとおりです。

米軍の「やればできる」的発想("can-do" approach)が、逆説的に「危うい楽観主義」("damaging optimism")を生んでいる。米兵は、対不穏分子作戦術や地域住民の「心と考え」を惹き付ける必要性について十分教育訓練を受けていない。

米軍の将校達は、英軍等が軍事力の行使に消極的すぎると批判するが、米軍の戦略は、「全てのテロリストと不穏分子を殺害するか捕らえる」ことであり、このように敵の殲滅を戦略的目標にしていることから、米軍は、迅速にして強力な在来型戦闘を絶対視するきらいがある。

こんな単純なやり方は、非生産的であって、多くの住民の反発を生んで米軍の任務遂行を困難なものにしてしまう。

米軍は、目的さえ正しければ、たとえ失敗が生じたり一般市民に死傷者が出たとしても、一般市民の理解は得られると思っているが、それは間違いであり、不穏分子の思うつぼだ。

2004年の春にファルージャで4人の米国籍の軍事会社社員が殺害された時の米軍の反応は、まさに「道徳的正義感」に突き動かされたものであり、敵の全面的殲滅という不釣り合いに大きな反撃に乗り出してしまった。ファルージャの限られた場所にめがけて、一晩で40発以上の155ミリ砲弾を発射するなどということは、全く愚かなことだった。

この論考は、英軍将校のコンセンサスを代弁したものであると言ってもいいようです。

この論考に対する米軍の将官や将校達の反応は、先生の叱責にぶつぶつ言いながらも頭を垂れる、といった感じであり、英国防省の大学校での米国人達の姿を思い起こさせました。

(以上、http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,1684561,00.html、及びhttp://www.csmonitor.com/2006/0112/dailyUpdate.html(どちらも1月13日アクセス)による。)

 過去の帝国統治や北アイルランド紛争対処を通じて培われた英軍の低強度紛争への対処に係る識見と能力に対しては、世界最強の米軍と言えども、敬意を表せざるをえないのです。

 (4)アパルトヘイトとアングロサクソン

萬晩報の伴氏の目には、「アーロン収容所」に見られるような、被支配者と交わろうとしない英軍の姿と、英国の植民地であった南アのアパルトヘイトとが二重写しに見えたようですが、それはとんだ誤解です。

確かに、南アでのボーア戦争の時には、英国は強制収容所をつくって、ボーア人達をそこに押し込め、ボーア人戦闘員達とその他のボーア人達を切り離すことによって、戦争を勝利に導いた(コラム#310880)のですが、これはあくまでも有事における措置であり、南アが独立してから成立した、平時の黒人隔離政策であるアパルトヘイトとは何の関係もありません。

アパルトヘイトはボーア人が推進したのであり、ボーア人の母国オランダ
が所属するところの欧州文明の所産であって、南アのアングロサクソンは、アパルトヘイトに非暴力による反対運動を続け、最終的に国際社会の科した経済制裁、黒人の行った武力闘争とあいまってアパルトヘイト解消がもたらされたのです。

(以上、http://news.ft.com/cms/s/7540679e-833a-11da-9017-0000779e2340.html(1月14日アクセス)による。)

太田述正コラム#10442006.1.14

<「アーロン収容所」再読(その9)>

5 「アーロン収容所」アラカルト

 (1)連歌的議論

 お分かりいただいたことと思いますが、「アーロン収容所」は、英国人による差別糾弾の書であるにもかかわらず、日本人による差別は是認しており、一方で英国人による差別を是認している書でもある、という具合に矛盾だらけの著作です

 これは、会田が、執筆しながら、自分の見聞したこと、自分が考えたことを、その都度ありのままに記し、著作全体としての論理的整合性をほとんど顧慮しなかったことを示しています。

 「アーロン収容所」は論文ではありませんが、一定の長さ以上の日本の学者の論文にもしばしば見られる現象です。

 私は、これを日本人特有の連歌的議論と呼んでいます(コラム#991)。欧米人の著作ではまずお目にかかれない議論の仕方です。

 これは私が、大学の教養学部時代に、確か政治学の京極純一教授の授業で読むことを勧められた本のうちの一つ、神島二郎(元立教大学教授。1918?98年)の「近代日本の精神構造」(1961年。丸山真男の政治学と柳田国男の民俗学の綜合)を読んだ時に、著者がこの著作の所々で言っていることに相互矛盾はなさそうだけれど、著者が何を結論的に言いたいのかをどうしても絞り切れなかったことから、苦し紛れに思いついたことです。

 連歌的議論が展開される著作には愚著も多いのですが、神島のこの本のように、豊饒な中身を持つ著作もありえます(注19)。

 (注19)連歌的議論が展開される著作を読むむつかしさは、理科的頭脳を持っていない私が理科的な著作を読むむつかしさとは全く異なる。逆に理科的な頭脳しか持っていない人間が読むと、こういう著作は、愚著としか思えないだろう。理科的な頭脳しか持っていないように見える家永三郎が、神島のこの著作を、全く理解できなかったと言っている(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B3%B6%E4%BA%8C%E9%83%8E。1月14日アクセス)のは、さもありなんという気がする。

 では、「アーロン収容所」は愚著なのでしょうか。

 会田が体験した事実の紹介をした箇所に関しては名著だけれど、体験に対する会田の所見を記した箇所に関しては、相互矛盾だらけなので愚著だ、ということではないでしょうか。

 (2)英国対ドイツ・日本の戦後

 一体先の大戦に関し、英国人はドイツと日本のどちらに対して怒りがより大きいのでしょうか。

 私はドイツに対する怒りの方がはるかに大きいと思っています。

 英国人の日本に対する怒りは間歇的にしか表面化しないのに対し、ドイツ(ナチスドイツ)は、戦後一貫して英国人によって日常的にコケの対象にされ続けてきたからです(コラム#596)。

 これは、不思議なことです。

 なぜなら、なるほどドイツは、日本と違って英本国を戦略爆撃の対象にしたけれど、その何倍もの報復戦略爆撃を英国はドイツに対して行って借りは完全に返しているし、英軍捕虜がドイツに虐待されることもなかったのに対し、日本には英軍捕虜を「虐待」され、その上、大英帝国を瓦解させられたからです。(大英帝国の瓦解が明らかになったのは、戦後しばらく経ってからですが・・。)

 先の大戦直後に英国が異常な執念を持ってナチス残党の追及を行ったことは、以前にも(コラム#946で)述べたことがありますが、その時言及した、昨年ようやく露見した事例は、心理的拷問プラスアルファをナチス容疑者取り調べの際に行ったというものでした。

 昨年それに引き続いて露見したもう一つの、より深刻な事例を挙げておきましょう。

 それは、ドイツ降伏後に英国が北西ドイツのBad Nenndorfに設置し、22ヶ月後に閉鎖された秘密収容所での出来事です。

 この収容所に収容されたのは、ナチス党員・SS隊員・ナチス体制の下で潤った産業家達でした。(後に、ソ連のスパイ達も収容した。)この中には、間違えて捕まった人々も含まれていました。

 そして、延416人に及ぶこれら収容者達は、厳冬期に寒気に晒されて凍傷を負わされたり、餓死に追い込まれたり、機具を用いた痕跡が体に残る拷問を受けたりしたのです。死に至った収容者で判明しているのは1名だけですが、死者はもっと沢山いたと考えられています。

 どうしてこれほど、ナチスドイツ関係者が英国人の復讐の対象にされたのでしょうか。

 これは、ナチスドイツが犯したホロコーストという(英国人にとっては単なる第三者に対する)蛮行への怒りがしからしめた、としか私には考えられません。

 これらの事例を見ると、戦争直後ですら、英国人のドイツ人に対する怒りと復讐は、日本人に対する怒りと復讐よりも激しかったのではないかと私は思うのです。

 英軍や米軍に対して降伏した降伏ドイツ軍人は、本国や本国のすぐ近くで降伏したことから、長期にわたる収容が行われなかったこと、他方、ドイツの戦犯(容疑者を含む)で収容所に収容された者に対する英国(連合軍)の措置については、裁判にかけられてからのことしかつい最近まで開示されていなかったことから、会田が、ドイツと日本の比較を行うのは容易ではなかったことは分かるけれど、このような比較を行おうとした形跡すら「アーロン収容所」からは窺えないことは問題だと思います。

 ところで、違法すれすれだった前者の事例においても、英当局は、国際赤十字の追及を懼れて収容所を閉鎖しましたし、明らかに違法な後者の事例では、内部告発に基づき、ロンドン警視庁の捜査の手が入って収容者は閉鎖されました。このことで改めて法の支配の国、英国の「偉大さ」に敬意を表したくなります。

(以上、事実関係は、http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-torture18dec18,1,7200201,print.story?coll=la-headlines-world20041218日アクセス)、及びhttp://www.guardian.co.uk/frontpage/story/0,,1669544,00.html(1月11日アクセス)による。)

太田述正コラム#10432006.1.13

<「アーロン収容所」再読(その8)>

 しかし、「アーロン収容所」が傑作なのは、それが、英国人へのオマージュ(讃辞)に充ち満ちていることです。

 「私たちは・・一度も儀礼らしいことをさせられなかった。捕虜の閲兵などはもちろんなかった。捕虜を整列させてみたところで、得られるものは自分のくだらぬ優越感の満足でしかない。それくらいならなにか作業をさせた方がずっとよいというのが、イギリスを支えている実利主義であるということを・・ずっと後<で>・・知る<ことになる。>」(22)(注16

 (16)前にも触れたことがあると思うが、私が1988年に留学した英国防省の大学校では、入校式も修了式もなかった。修了証書は、最終日に「本来発行しないのだが、要望が強いので外国人にだけ発行した」と記した紙と一緒に、各自の資料受け渡しボックスに投げ入れてあった。

 「彼ら<イギリス人>は・・<日本兵の間で>混乱をきたすであろう新しい秩序の形成をできるだけ抑えた。階級の昇進さえもがおこなわれた。」(188頁)

 「英軍はアメリカやソ連とはちがって民主主義や共産主義の説教は全然やらなかった。・・もしそれをやられたら、本当に反省したものより便乗者や迎合分子が<日本兵の間で>支配者となることは確実である。・・英軍は説教どころか日本人を近づけ手なずけることもせず、ただの労働力としてしか待遇しなかった。英軍にとり入ってうまいことをするというような接触はまったくと言ってよいほどなかった。」(202頁)

 「いろいろのスポーツでインド兵との交歓試合もやった。しかしイギリス兵との試合などはない。」(213)

 入所時の私物検査に当たって、インド兵には「金目のものは全部とられてしまった」が、英兵は「一切とりあげなかった。これは見事だと思う。」(24頁)

 日本人の将校が英軍将校に、「日本が戦争をおこしたのは申しわけない」と言ったところ、その英軍将校に、「君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐ悪かったと本当に思うほどその信念はたよりなかったのか。それともただ主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。負けたらすぐ勝者のご機嫌をとるのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。われわれは多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私はかれらが奴隷と戦って死んだとは思いたくない。私たちは日本のサムライたちと戦って勝ったことを誇りとしているのだ。そういう情ないことは言ってくれるな」と言われてしまった。(68?69頁)

 日本兵が英軍の缶詰等を盗んでも、一旦英兵の検査をくぐりぬけたら、その後で盗んだ事実が分かっても、英兵は見逃してくれる(89頁)。英兵は「職務外のことには口を出さない」(114頁)。

 英兵には、「読み書きや計算ができない」者が多いが、「かれらは実に責任感が強い。言ったことはかならず守る。」日本兵に対し、作業終了を告げた英兵は、その後英軍将校が日本兵に別の作業を命じたことに徹底的に抗弁し、見かねた別の英軍将校が間に入って、日本兵に形だけ別の作業をやらせるという大岡裁きを行ったところ、この英兵は後で日本の将校に、「英軍が約束にそむいた。まことに遺憾であるが許してくれ」と謝りにきた。これは英国人が、「命令・・<に日本兵のように絶対服従するのではなく、その命令>が正義の具体像でないかぎり拒否すべきだ・・という・・信念を持」っていることを同時に示している。(113?116頁)

 この結果、会田はどのような結論を下したでしょうか。

 「東洋人に対するかれら<イギリス兵>の絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。・・そのうち・・ビルマ人やインド人とおなじように、<私たちも>イギリス人はなにか別種の、特別の支配者であるような気分の支配する世界にとけこんでいた」(42頁)・・「私たちもいつの間にか・・インド人<と同様、>・・イギリス人を畏怖するようになっていた。・・イギリス人の監督だと、インド人が監督のときのような落着きがなくなり、サボることもできなくなっていた。」(118頁)(注17

 (注17)「東洋人」や「ビルマ人やインド人」を、「イギリス人以外」に置き換えれば、この会田の指摘は正しい。国防省の大学校では、西欧人はもとより、同じアングロサクソンの豪州人やニュージーランド人、更には米国人までイギリス人には一目置くようになった。米国からは陸海空軍から一名ずつとシビリアンが一名、計4名来ていたが、私などに対しては、最後まで本来の米国人のままで陽気で饒舌、かつ尊大であったものの、彼らはイギリス人の前に出ると、借りてきた猫みたいにおとなしくなってしまうようになった。

 このように会田は、英国人を頂点とする支配構造を当然視するに至ったのです。

 換言すれば会田は、英国人が、非英国人に対する優越感ないし差別意識(18)を持つことを当然視するようになった、ということです。

(注18)正確には、一律の優越感ないし差別意識ではなく、英国人から見て非英国人は、できの悪いアングロサクソンであるところの1「非英国人たるアングロサクソン」、野蛮人であるところの2「西欧人・日本人等1、3以外」、野蛮人の最たるものであるところの3「黒人」、の三層構造をなしている。注意すべきは、これは人種差別意識ではなく、文明的優越感(差別意識)だということだ。

 「アーロン収容所」は、読みようによっては、英国による差別糾弾の書ではなく、(会田自身は全くそんな気はなかったでしょうが、)英国による差別・・世界支配・・を当然視すべきことを訴える書なのです。

太田述正コラム#10412006.1.11

<「アーロン収容所」再読(その7)>

 しかし、当時まで、(そしてアーロン収容所執筆まで?)海外滞在経験のなかった会田に、アングロサクソンと西欧の違いが分かっていない、と批判するのは酷だ、とおっしゃる方がいるかもしれません。

 確かに、アングロサクソンと西欧を(「欧米」として)一括りにするのは、当時の日本のインテリの「常識」であったし、現在ですらそうなのですから、ご指摘のとおり、ないものねだりかもしれませんね。

 しかし、この点は看過するとしても、問題はまだ残ります。

 一体、「アーロン収容所」のテーマは何なのでしょうか。

 英軍が日本兵に復讐を行ったということを広く知らしめ、これを糾弾したい?

 しかし、日本降伏軍人に対する英軍の復讐ぶりそれ自体は、既にご説明したように、目くじらを立てるほどのことではありません。

 糾弾するとしたら、日本人(当時日本国籍を持っていた朝鮮半島人及び台湾人を含む)の戦犯(戦犯容疑者を含む)に対する英軍の復讐ぶりです。しかし、これは連合軍による日本人BC級戦犯、更にはA級戦犯の取り扱いの過酷さに対する糾弾ということにならざるをえず、戦犯として過酷な取り扱いを直接経験したわけでもなく、また法学者でもない会田が出る幕はありません。そのことは、会田自身も自覚していたはずです。

 結局、会田にとって「アーロン収容所」のテーマは、会田を含む日本降伏軍人に対して英軍が行った「抑制された」復讐(注12)を通じてうかがえるところの、英国人の日本人に対する差別意識を(「家畜」なる表現を用いて大げさにプレイアップして)糾弾するところにあったに違いありません。

 (注12)英軍は、日本降伏軍人に対してだけでなく、降伏インド国民軍軍人に対しても、復讐のため、糞尿くみとりのような不名誉な作業を科そうとしたが、この種作業をインド国民軍は拒否し通したのに対し、日本軍はしぶしぶながら受け入れて実施した。インド国民軍の作業拒否が通ってしまったことからすれば、日本軍も断固拒否すれば通った可能性がある(事実関係は、36?37141頁による。)

ちなみに、日本の士官はすべての作業が免除されていた(208頁)が、英軍は、インド国民軍の士官には作業を科そうとした(141頁)。

(日本軍と違ってインド国民軍は英軍捕虜「虐待」を行ったわけではないが、英帝国に対する反逆罪を犯したことになる。英軍から見れば、どっちもどっちだ。)

 しかし、会田が「アーロン収容所」の中で挙げた様々な復讐事例(日本兵側が勝手に復讐されたと思いこんだものを含む)が、果たして本当に英軍の日本人に対する差別意識の現れであったかどうかについて、会田が最低限の検証も行っていない(注13)、という以前にも指摘した問題はさておき、会田が、日本人が他の民族に対して差別意識を持つことを咎めてはいないことは、問題であると思います。

 (注13)英軍の女兵士は、自分が全裸でいる部屋に日本兵が入っても気にしなかったが、「入って来たのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげた大変な騒ぎになったことと思われる」(39頁)というくだりは、会田の勝手な思いこみに過ぎない。私は、入ってきたのが降伏ドイツ兵であっても彼女たちは気にしなかったと確信しているし、仮に入ってきたのが英軍兵士であったとしても気にしなかった可能性があるとさえ思うのだが、そんなことは、会田が帰国後、文献等にあたれば、分かったはずだ。「と思われる」としたまま、「アーロン収容所」を上梓した会田は社会科学者として怠慢である、と改めて言わせていただこう。

 もう少し丁寧に言い直しましょう。

会田は、英国人がインド人やビルマ人、とりわけ日本人に対して差別意識を持つことは糾弾する(注14)一方で、日本人がインド人やビルマ人に差別意識を持つことを咎めていません(注15)。これはやや露骨に申さば、日本人は他の民族を差別してもよいけれど、英国人を含む他の民族によって日本人が差別されることは許さない、ということであり、この「ヒューマニズム」に反する得手勝手な論理には私は違和感を覚える、と言いたいのです。

 

 (注14)日本兵に対するもの以外については、英軍兵士によるビルマ人の屍体の扱い方はネズミを扱っているかのようだ(56?57頁)、「英軍兵士は新兵でさえ、インド人に対しては士官であろうが下士官であろうが、まったく無視するような様子を見せていた」(117頁)、といった箇所を参照。

 (注15)「インド兵は・・「長いものには巻かれろ、或いは誰かがやってくれる」という態度が濃厚だった」(142頁)、「<日本の>兵隊たちがインド兵をだんだん軽蔑するようになったのもやむを得ないことだった。」(149頁)、「ビルマでは・・大人はあまり働かない。・・昼間でもぼんやりしている。」(185頁)といった箇所を参照。

太田述正コラム#10402006.1.11

<「アーロン収容所」再読(その6)>

 (コラム#1037に関する一読者と私との、HPの掲示板上でのやりとりを、コラム#1039と併せて、お読み下さい。)

第三のグループである「捕虜」に対しては、ジュネーブ条約で保護されていることから、恐らく復讐の対象からは除外したのではないでしょうか。

第二のグループである(会田らの)「降伏軍人」がひどい目にあったと思ったことで、これまで紹介されなかったことを一つ挙げると、会田らの部隊が最初に収容されたアーロン収容所は、ラングーンの塵埃集積所と道一つへだてたところに設置され、後半収容されたコカイン収容所は、家畜放牧場の放尿所に接したところに設置されたことです。会田はこれらロケーションについて、英軍の復讐の意図は明らかだと指摘しています(62頁)が、まさにその通りでしょう。

しかし会田が、英軍は、「非難<されることなく>うまく言い抜けできるように<し>ていた。しかも、英軍はあくまでも冷静で、「逆上」することなく冷酷に落ちつき払ってそれ(=復讐(太田))をおこなったのである。」(注9)とし、「これこそ、人間が人間に対してなしうるもっとも残忍な行為ではなかろうか」と主張している(67?68)のはいただけません。これは、西欧中世の研究者としてホンモノの残忍な行為とはいかなるものかを熟知していてしかるべき人物の吐いたものとは思えぬ妄言です。それどころか、あえて言いますが、私は、英軍の復讐のやり方の自制ぶりに、敬意とほほえましさすら覚えます(注10)。

(注9)しかも、英兵一人一人はほとんど日本兵に対し非違行為を行わなかった。憎悪をむき出しにして、タバコの火を日本兵の顔で消したり、日本兵を四つんばいにして足かけ台にしたり、日本兵の顔に小便をかけたり、といった非違行為を行ったのは、もっぱら豪州兵だった(63頁)。

(注10)考えても見よ。例えば収容所のロケーションについて言えば、すさまじい悪臭等に、日本兵だけでなく、グルカ兵もインド兵も、そして英兵自身も晒されたはずだ。

 ここで重要なことは、日本兵は英軍によって復讐の対象にされた、という事実です。

 英軍が日本兵を「家畜」ないしは「非人間」視していたとすれば、日本兵による自分達の同僚への非違行為に対する復讐を、他の日本兵に対して行おうとするはずがありません。

 このことは、飼い犬(家畜)があなたの友人をかみ殺したとして、あなたはその犬を殺すことはあっても、他の犬に対し、復讐心を抱いたり、復讐の対象にしたりすることはありえないことを考えれば明らかでしょう。

つまり、英軍は日本兵を同じ人間だと思っているからこそ、日本兵に復讐心を抱き、日本兵を復讐の対象にしたのです。そうである以上、会田の用いた表現は不適切であり、社会科学者としてはいかがなものか、と私は思います。

 もっとも私自身、当時の英軍並びに英兵一人一人は、日本兵、ひいては日本人一般に対し、家畜視こそしてはいなかったけれど、差別意識を持っていたに違いない、とは思います。会田もそういう「穏当な」表現を用いるべきでした。

 

4 アーロン収容所の根本的問題点

 それにしても、これまで説明してきたような生活習慣についての誤解や表現の不適切さを超える致命的な問題点が会田の立論にはあります。

 それは会田が、英軍(すなわち英国人)を、西欧人一般と同一視した上で、英国人が日本人・インド人・ビルマ人等のアジア人(そしてアフリカ人)に対して差別意識を抱いている(家畜視している)、と主張したことです(注11)。

 (注11)例えば、4頁の「私の・・この戦争や捕虜の経験<を通じて培った>目で見るとき、ふつうの目でながめるのと大変ちがった・・イギリスの、広くはヨーロッパ・・というものの特殊な姿が浮かび上がって来<た>」や、41頁の、イギリスの女兵「たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。」

 私のコラムを長期にわたって読み込んでこられた方々にはお分かりでしょうが、英国人(正確にはイギリス人)は、西欧人と自分達は全く別物であって異なった文明に属していると考えているのですし、同時に英国人は、自分達(アングロサクソン)以外のあらゆる人々に対し、差別意識を抱いているのです。

 つまり英国人は、それが西欧人やアジア人(やアフリカ人)であれば、肌の色が白かろうと黄色かろうと(黒かろうと)、等しく野蛮人として、差別意識を抱いているのです(コラム#1005)。

太田述正コラム#10392006.1.10

<「アーロン収容所」再読(その5)>

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<補注>

 ある読者から、次のようなメールが届きました。

 排泄や羞恥心を太田さんのアメリカ留学中の2、3の経験で断定するのは思い込みです。あの頃のスタンフォードは特殊な場所(カリフォルニアの一部)・時代・環境だった事を考慮しないといけません。逆に日本でも貧しい時代には排泄の男女別なんて言ってられない場合が多く、高度成長以前の田舎ではおばあさんやおばさんは裾を腹まで捲り上げて下半身を裸にして、人が見ていても立ったまま腰を折って小用を足す光景はザラでした。野原でだけでなく、国鉄の駅にあるオープンな男用の壁に後ろ向きになったりしてね。

排泄の男女別については、1990年代前半のアメリカ東海岸の体験では日本より厳しいのではないかと思いました。排泄どころか、昼食後にデンタルフロスをトイレの外でやるアジア人には注意が来ました。はしたない姿を異性に見せるなという訳です。

会田への反論は太田さんの体験が根拠では問題だと思います。イギリス留学中の体験もスタンフォードのそれを裏打ちしてますか。

 (引用終わり)

 「排泄や羞恥心を太田さんのアメリカ留学中の2、3の経験で断定するのは思い込みです。あの頃のスタンフォードは特殊な場所(カリフォルニアの一部)・時代・環境だった事を考慮しないといけません。」の「排泄や羞恥心」は、「アングロサクソンの排泄や羞恥心<の希薄さ>」という趣旨なのでしょうが、メールの差出人は、(私の書き方が意を尽くしていなかったと反省していますが、)コラム#1037の該当箇所を誤読されているようです。

 私は単に、「場所・時代・環境」が違えば、生活習慣も異なるのが当たり前であり、自分の生活習慣と異なるからといって、いちいち深刻に考える必要はない、ということを、実例を挙げて指摘したかっただけです。その実例が、たまたまbastardアングロサクソンの、bastard度が最たるカリフォルニアの一部での私の経験だったということです。(メールの差出人が言及されている、日本の昔の田舎の実例を出した方がよかったのかもしれませんね。)ですから、スタンフォードでの私の経験は、アングロサクソンの本家である英国での留学中の私の経験とは180度異なっていますが、そんなことはどうでもいいことです。

 いずれにせよ、このメールの差出人は、私が、このシリーズの後の方で会田に対する批判に用いるつもりであった重要な指摘をされています。

 「特殊な場所・時代・環境<での>2、3の経験で」一般論を結論的に「断定するのは思いこみ」であり、非科学的だということです。

 会田が日本に帰国したのは1947年であり、「アーロン収容所」が上梓されたのは1962年ですから、その間、15年も時間があったはずです。

 ところが、この間、会田が、自分のビルマでの経験を、他の「場所・時代・環境」を背景にした史料等とつきあわせて検証を試みた形跡が、少なくとも「アーロン収容所」を読む限り、全く見られないことからして、会田は(フィールドワーカーとしてはともかく、)社会科学者としては無能で怠慢であるとの誹りが免れないのではないでしょうか(注8)。

 (注8)いまだに大きな影響力を日本国内で持っている会田の「アーロン収容所」について、インターネットをざっと見る限り、アングロサクソン、特に英国のメディアや学者が、批判するどころか、紹介することすらしていないのは、彼らがこの本をまともに相手にするに値しない代物とみなしているからだ、と私には思えてならない。

     蛇足ながら、英国人の日本理解の的確性については、ロナルド・ドーア(Ronald P. Dore1925年?。1988年に英国防省の大学校でお目に掛かった)氏の一連の日本についての著作を読むだけでも、お分かりいただけることと思う。例えば、同氏の「働くということ」(中公新書2005年)を参照されたい。

会田が、「東南アジアの英軍コロニー・先の大戦直後・戦場の延長線」を背景とした「経験」だけを根拠に一般論を結論的に断定している以上、それを論駁するためには、「カリフォルニアの大学・1970年代後半・ヒッピー文化のただ中」での私の「経験」・・それは、メールの差出人の経験とも合致するらしい・・が会田の「経験」と酷似しているという事実、を一つぶつけるだけで足りる、と私は判断した次第です。

太田述正コラム#10382006.1.10

<「アーロン収容所」再読(その4)>

 もう一点、忘れてはならないことは、「アーロン収容所」当時の日本が、現在とは比較にならないほど、男尊女卑の社会であったことです。

 それだけに、女兵士にあごで使われたことだけで、会田を含めた日本の兵士達が逆上した、ということなのではないでしょうか。

 (4)各論2:復讐

 英軍兵士の少なからぬ部分は日本の兵士達を憎んでいたと思われます。

 先の大戦中、日本軍が捕虜とした英軍兵士は約5万人は、泰緬鉄道建設等の労働を強いられ、終戦までに、その約25%が死亡しました。これに対し、先の大戦におけるイギリス全軍の死亡率は約5%であり、独伊軍に捕らえられた英軍捕虜の死亡率もたまたま同じ約5%でした。25%という死亡率は、英軍が第二次世界大戦中に経験した苛酷な戦い、例えばノルマンディー上陸作戦やビルマ戦などと比較してもはるかに高い数値でした(注5)。(http://www.hozokan.co.jp/rekikon/kanto/kanto149.html。1月7日アクセス)

 (注5)コラム#805も参照。この時引用した数字と微妙に異なる。

ですから、終戦直後に英軍兵士の少なからぬ部分が日本軍兵士を憎み、復讐したいという気持ちを持っていたことは想像に難くありません(注6)。

(注6)山梨学院大学法学部の小菅信子助教授は、「東京裁判にせよ、いわゆるBC級戦争犯罪裁判にせよ、これらにおいて裁かれた「通常の戦争犯罪」はもっぱら連合軍捕虜虐待であったし、講和条約にいわば例外的に盛り込まれた個人賠償についての規定(第16条)は連合軍捕虜のみを対象とするものであった」上、1960年代初に会田雄次が『アーロン収容所』を出版し、終戦後英軍(正確には東南アジア連合軍)が降伏した日本軍人に課した苛酷な労働生活を描いたこともあり、日本軍の英軍捕虜処遇問題については、償いはしたので解決済みというのが日本人の感覚だったが、英国側にはわだかまりが残り続けたとし、次のような例を挙げている。

1971年秋、昭和天皇のイギリス訪問にあたって、元東南アジア連合軍司令官のマウントバッテン卿(エリザベス女王の伯父)が、天皇との会見を拒否した。また、放映中に昭和天皇が植えた記念樹は何者かによって引き抜かれた。

1988年に昭和天皇が臨終の床についたとき、『サン』などの英国大衆紙はこぞって「地獄が天皇を待っている」などと書きたてた。

1995年、イギリスは第二次世界大戦の戦勝50周年記念を祝うべく旧敵国ドイツを式典に招きながら、日本代表は招待せず、かわってマスメディアが連日のように日本批判の報道を繰り返した。

1998年初夏、現天皇の英国訪問に際してなお、日章旗は燃やされ、英軍元捕虜らは天皇のパレードに背を向け、口笛を吹いて抗議の意を表した。

(以上、http://www.hozokan.co.jp/rekikon/kanto/kanto149.html上掲による。)

    私が、この英国側のわだかまりは、(終戦直後にはまだ明らかではなかったが、)先の対戦の結果、大英帝国が瓦解したこと、つまりは日本が大英帝国を瓦解させたことにより、増幅され、尾を引いた、と考えていることは以前にも(コラム#698805で)申し上げたところだ。

では、英軍はどのように「復讐」を行ったのでしょうか。

終戦後の日本兵には三つのグループがありました。

会田自身が言うように、捕虜(capturedprisoner of war)、降伏軍人(disarmed military personnel=surrender personnel)、そして戦犯(war crimed)です(65頁)。

「復讐」は、戦犯(いわゆるBC級戦犯)、降伏軍人、捕虜の順に激しく行われました。

ジュネーブ条約によって保護されないところの戦犯に対しては、名ばかりの軍事「裁判」で有罪を連発し、多くを刑死に追いやったほか、会田が伝聞を記しているように、裁判にかけるまでに、川のカニには病原菌がいるので生食しないようにとのお達しを出した上で、戦犯達を飢えさせ、そのカニを生食させるように仕向け、死に追いやる、といった非道な、しかし直接的にはジュネーブ条約に違反しない形で「復讐」を行いました(66?67頁)。

そして、そもそもジュネーブ条約の対象ではないところの、会田らの東南アジア連合軍管轄下の降伏軍人に対しては、港における荷役作業や土木作業、農漁業あるいは連合軍兵舎における雑役等に就労させ(http://www.hanmoto.com/bd/ISBN4-7503-2242-3.html。1月7日アクセス)(注7「残虐行為」にわたらない範囲で、肉体的・精神的に意趣返しを行ったのです。

(注7)ソ連による、日本降伏軍人のシベリア抑留に比べて、人数が少なく、期間も短く、また死者も少なかったことから、日本ではこれまで余り話題にはのぼらなかった。

(続く)

太田述正コラム#10372006.1.9

<「アーロン収容所」再読(その3)>

3 「アーロン収容所」の間違い

 (1) 始めに

 「アーロン収容所」は、英国人が日本人を含むアジア人を、家畜視している、という主張がテーマであると言えますが、まず、総論的な反駁を加えた上で、具体的な反駁に移ることにしましょう。

 (2)アジア人家畜視論総論

英国人が、日本人等のアジア人を「家畜」視しているという会田の主張は、俗耳に入りやすけれど、会田自身の論理に照らしても、極めて説得力に乏しいと言わざるをえません。

 会田は、「ビルマの農業は日本とちがって有畜農業である。牛、水牛、豚、山羊などの飼育数は相当なものである。牛や水牛なども耕作に利用するだけではない。交通運搬にも食用にもつかわれる。だからかれらは家畜の屠殺に馴れているといえよう」(183)と指摘し、ビルマ人の(日本人から見た)残虐性(180?181頁)を説明しようとしています。

 そして同様の論理で、会田は、(英国を含むところの)西欧において有畜農業度が高いこと・・すなわち、「日本人は一般に家畜の屠殺ということに無経験な珍らしい民族なのである。同じアジア人でも、中国人やビルマ人は屠殺に馴れている。それ以上にヨーロッパ人は馴れている」(58頁)ことを、西欧人のアジア人の家畜視とその「家畜」的扱いの巧みさ、及び(日本人から見た)西欧人の残虐さの根拠にしようとしています。

 しかし会田は、支那やビルマの有畜度を具体的に示していないので、一体有畜度において、支那やビルマが日本等とともに、アジアとして一括りにできるのか、それとも日本(だけ?)を蚊帳の外にして、西欧とアジアを一括りにできるのか、定かではありません。仮に後者が正しいとすると、会田の論理は成り立たないことになります。

 それに、有畜度から言ったら、モンゴル等の遊牧民は100%近い有畜度のはずですが、そうである以上、遊牧民こそ、他の民族を家畜視する最たる者であり、かつ他の民族の「家畜」的扱いに最も巧みであり、その上、(日本人から見て)モンゴル人は最も残虐な人々、ということになるはずであるところ、モンゴル帝国/元朝による積極的な他民族の登用ぶりを見るにつけ、モンゴル人が自分達以外の民族を家畜視していた(いる)とは到底思えません。

 会田の主張の説得力の乏しさをお感じになりませんか。

 (3)各論1:排泄・性羞恥心の希薄さ

 もう少し具体的に見ていきましょう。

 英軍の女兵の日本兵を人とも思わぬような態度や、英軍の男兵の日本兵を前にした公然セックスの場面は、一般の日本人読者にとってはショッキングでしょうし、欧米滞在経験がなかった当時の会田はさぞかしショックを受けたことであろうと同情を禁じ得ません。

 しかし、会田の受け止め方は誤解に基づく間違いです。

 私が1974年に米スタンフォード大学に留学した際、最初の夏は寮生活をしたのですが、その折、カルチャーショックを受けたことが三つありました。

 一つは、大学の近くの映画館でハードコアのポルノ映画を見たことですが、当時の日本でも、「観客参加」型のストリップがあったこと等に照らし、これはそれほど大きな「ショック」ではありませんでした。

 強烈なショックを受けたのは、次の二点です。

 第一に、トイレが男女別々にはなっていたけれど、大便器の置いてある「個室」に間仕切りはあってもドアがついていなかったことです。ですから、他の学生から自分がいきんでいる姿が性器も含めて丸見えで、最初のうちは生きた心地がしませんでした。もちろんトイレ掃除の人にも丸見えです。トイレ掃除をやっていた人が男性だったか女性だったかまではしかと覚えていませんが、女性だったような気がします。

 第二に、二人部屋の寮の個室の壁がうすく深夜になると決まって隣室から、大音声のよがり声が聞こえてきたことです。しかも、その声は長時間にわたって延々と続くのです。何という羞恥心のなさ、何というタフさか、と閉口しつつ、私は目が冴えて眠れなくなってしまうのだけれど、同室の米国人の学生はいつも平気で高いびきをかいていました。

 このようなことは、単なる生活習慣の違いであって、他人を家畜視しているとかしていないといったことと何の関係もないことは申し上げるまでもありません。「アーロン収容所」に出てくる似たようなくだりについても同じことがいえます。

 私自身、しばらくすると、トイレに入って腰掛けて、たとえ掃除の人が入ってこようと平常心を保てるようになりましたし、寮の個室で、いつも熟睡できるようになったものです(注4)。

 (注4)ただし、会田の「イギリス人の性的エネルギーのたくましさには、私たちはただ驚き呆れさせられることが多かった」という感想(101頁)は正しい。ただし、「イギリス人の」を「日本人以外の」に読み替えなければならない(コラム#276807)。この点では間違いなく日本人は世界で最もユニークな存在であり、この限りにおいては、動物からの進化の度合いが最も進展している人々なのだ。

(続く)

太田述正コラム#10362006.1.9

<「アーロン収容所」再読(その2)>

2 「アーロン収容所」の評判

 最初に、伴氏の論考(前掲)から引用しよう(注3)。

 (注3)長々と引用したのは、「アーロン収容所」を読んでおられない読者に、この本に具体的にどんなことが書かれているかをご理解いただくためだ。(この本の頁が示されていない場合は、私が挿入した。)なお、読んでおられない方にこの本を読まれることをお勧めする。現在は中公文庫から出ている。会田の意見にわたる部分はともかく、事実についての記述は示唆に富んでいるからだ。

『アーロン収容所』<は>会田雄次・・がそのむかし学徒動員でビルマ戦線に投入され、戦後ラングーン(現ヤンゴン)のアーロン収容所に収容された時の経験を書いたものである。

この本はまだ中公新書で87版を重ねている名著である。

会田雄次氏はアーロン収容所での屈辱的な体験として「女兵舎の掃除」でイギリス人のアジア蔑視の実態を憤慨しながら書いている。当時の西洋人はアジアの人々を「人間」として扱っていなかった(56?61頁)。南アフリカでの体験からさもありなんと考えた。

人権だとか民主主義だとかは西洋での約束事でアジアやアフリカではまるで関係ない事柄なのだということを改めて知らされたのである。

『アーロン収容所』を読んでいない人にために「女兵舎の掃除」のくだりを転載してみたい。

「英兵兵舎の掃除というのはいちばんイヤな作業である。もっとも烈しい屈辱感をあたえられるのは、こういう作業のときだからである。………その日は英軍の女兵舎の掃除であった。看護婦だとかPX関係の女兵士のいるカマボコ兵舎は、別に垣をめぐらせた一棟をしめている。ひどく程度の悪い女たちが揃っているので、ここの仕事は鬼門中の鬼門なのだが、割当だから何とも仕方がない」

「まずバケツと雑巾、ホウキ、チリトリなど一式を両手にぶらさげ女兵舎に入る。私たちが英軍兵舎に入るときは、たとえ便所であろうとノックの必要はない。これが第一いけない。私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信頼されているのかとうぬぼれた」

「その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない、私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終わると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた」

「入ってきたのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女たちはまったくその存在を無視していたのである」

「このような経験は私だけではなかった。すこし前のこと、六中隊のN兵長の経験である。本職は建具屋で、ちょっとした修繕ならなんでもやってのけるその腕前は便利この上ない存在だった。………。気の毒に、この律義な、こわれたものがあると気になってしょうがない。この職人談は、頼まれたものはもちろん、頼まれないでも勝手に直さないと気がすまないのである。相手によって適当にサボるという芸当は、かれの性分に合わないのだ」

「ところがある日、このN兵長がカンカンに怒って帰ってきた。洗濯していたら、女が自分のズロースをぬいで、これも洗えといってきたのだそうだ」

「ハダカできやがって、ポイとほって行きよるのや」

「ハダカって、まっぱだか。うまいことやりよったな」

「タオルか何かまいてよってがまる見えや。けど、そんなことはどうでもよい。犬にわたすみたいにムッとだまってほりこみやがって、しかもズロースや」

「そいで洗うたのか」

「洗ったるもんか。はしでつまんで水につけて、そのまま干しといたわ。阿呆があとでタバコくれよった」

N兵長には下着を洗わせることなどどうでもよかった。問題はその態度だった。「彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに人間ではなかったのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような間隔を持つ必要なないのだ、そうとしか思えない」

(以上、36?41頁)

萩原周二さんという私と同世代のブロッガーは、次のように言っておられます(http://shomon.net/books/books1.htm。1月8日アクセス)。

イギリス人にとっての日本人なんて、同じ人間ではないのです。ロシアの防波堤に利用して、それで終わりにしたいだけの存在だったのでしょう。同じ人間、同じ文明人だと日本人を思っていたとは、到底思えません。・・<ここで、上記女兵舎でのエピソードへの言及がなされた後、>彼女たちイギリス人にとっては、捕虜の日本兵は。ただの家畜でしかないのです。

だが、さらにこのことは、日本兵ばかりではなく、イギリス軍と一緒に戦ったインド兵についても、イギリス人は同じ戦友としてではなく、日本兵と同じ家畜くらいにしか考えていなかったのだと思います。これがイギリス人のアジアに対する考えでした。それを著者は如実に感じとっていきます。民主主義だろうが、ヒューマニズムだろうが、自由だろうが、それは要するに白人だけが甘受すべきものであり、アジア人やアフリカ人は、白人のための家畜同様の存在なのです。そうした存在の内の日本人がイギリス人等々の白人に刃を向けたのですから、イギリス人は不快そのものだったのでしょう。

 また、著者が強く感じたこととして、これまた有名なエピソードとして知られているわけですが、イギリス軍の中の階級差別です。将校と兵隊とは、階級が違っている、すなわち、将校はみな貴族で、兵隊は庶民なわけですが、それが日本軍と大きく違う点は、同じイギリス人でありながら、教養だけではなく、体格から全然違うという点です(102?110頁)。

「英国情報」というサイトを立ち上げておられる水谷さんは、次のように言っておられます(http://www5b.biglobe.ne.jp/~mizutani/ub-01.htm。1月8日アクセス)。

英国を知る為に絶対第一に読むべき本、それが本書、会田雄次『アーロン収容所』である。・・<そして、やはり上記兵舎でのエピソードへの言及がなされた後、>その他にも、日本人捕虜の衛兵を全く気にすることなく、男女の交わりを遠慮なく見せる英軍下士官の例も挙げられている(74?75頁)。英国(そして他の西欧諸国)の植民地経営が、それなりに実効的であったのは、原住民を全く人間扱いしなかったという点に負うところが大きいと私は考えている。・・英国に行ってみたいと思う人は、須く先ず本書を読んでから行くべきである。

最後にもう一カ所だけ引用して本稿を終えたい。「イギリス人を全部この地上から消してしまったら、世界中がどんなにすっきりするだろう」(75)

【評価】最高。絶対に読むべき。

 ジャパンタイムスに昨年8月末に掲載されたコラム(http://search.japantimes.co.jp/print/opinion/eo2005/eo20050829hs.htm。1月8日アクセス)でニューヨーク在住の翻訳家でエッセイストのHiroaki Sato 氏は次のように言っておられます。(私が翻訳した)

 会田を、1年半にわたる二箇所での収容所生活において怒りと絶望に追い込んだものは、何ヶ月も深刻であった食糧不足(26?2776頁)ではなかった。その一部がつらく屈辱的なものであったところの過酷な労働(31?3750頁)でもなかった。悪名高い日本軍による、理由もなく行われる平手打ちや殴打といった物理的暴力に英軍が訴えるようなことはほとんどなかった。もっとも、英軍は日本兵に四つんばいになることを命じたりその顔めがけて小便をしたり(63頁)、といった数々のことに秘密裏にふけりはした。

 「西欧ヒューマニズム」の学徒である会田をして、万々が一、ふたたび英国と戦うことがあったら、「女でも子どもでも、赤ん坊でも、哀願しようが、泣こうが、一寸きざみ五分きざみ切りきざんでやる」(52頁)という幻想を抱かせたゆえんのものは、英軍兵士・士官・男・女が東洋人を完全に「人間以下」とみなしていたことを完膚無きまでに自覚させられたからだ。例えば、食事の質への不満を彼らにぶつけると、いつも「<日本軍に支給している米は、当ビルマにおいて、>家畜飼料として使用し、なんら害なきものである」という返答が戻ってくる(6276頁)。この態度は全てのアジア人・・グルカ兵だろうが(この典拠は?(太田))、インド兵だろうが(117149頁)、ビルマ人だろうが(164~165218頁)、日本人だろうが・・に対してとられていたのだ。

(続く)

太田述正コラム#10352006.1.8

<「アーロン収容所」再読(その1)>

1 始めに

昨年の11月に、萬晩報というメルマガの主宰者の伴武澄氏が、会田雄次(敬称省略。1916?97)の「アーロン収容所」(中公新書1962年)を読むと南アのアパルトヘイトの拠って来る原因が分かる、といった趣旨のことを書いた論考(http://blog.mag2.com/m/log/0000002548/106656049?page=1を読んで気になっていました。

「アーロン収容所」中の会田さんの意見にわたる部分の大部分は誤りだ、と思っているからです。

 もっとも、かく言う私も、初めて大学時代にこの本を読んだ時には、会田の怒りに共感を覚え、「英国というものに対する燃えるような激しい反感と嫌悪を抱い」(同書2頁)たものです。

 ところで私は、1988年に英国の国防省の大学校に留学した時、英陸軍の施設でTVインタビューを受ける訓練を受ける機会があり、志望してその訓練を受けたことがあります(注1)。(訓練の臭いを嗅がせて貰ったというのが正確なところですが・・。)

 (注1)こんな施設を持っている英軍の先進性に、当時、目を見張った記憶がある。

その施設の責任者たる将校が私に、先の大戦時の日本軍と戦時国際法について書かれた良い本はないかと聞いた時、私はとっさに、「Yuji Aidaという人のAhlone Internment Campという本の英訳本(英訳タイトルは忘れた)が出ている(注2)と思うので、それを読まれることをお勧めする」と答えてしまいました。

(注2)今回、インターネットで調べても、全くそれらしき本にヒットしなかった。英訳本があったということについては、私の記憶違いの可能性もあるが、何かご存じの方があったら教えていただきたい。

「アーロン収容所」は、英軍が日本軍捕虜に対して行った非違行為について記述した本であって、日本軍と戦時国際法に関する本ではないし、「英軍は・・いわゆる「残虐行為」はほとんどしなかった・・しかし、・・小児病的な復讐欲でなされた行為<が>私たちに加えられた。しかし、そういう行為でも、つねに表面ははなはだ合理的であり、「逆上」することなく冷酷に落ちつき払ってそれをおこなったのである」(67頁)以上、厳密に言えば、英軍と戦時国際法に関する本でもなかったのですが、突然、「アーロン収容所」を読んだ時の怒りがこみあげてきて、この将校にこの本を何が何でも読ませたい、という衝動にかられたのです。

しかし、実のところ、それ以前から、私はこの本に疑問を抱き始めていました。

より一般的に申し上げると、和辻哲郎・梅棹忠夫・会田雄次ら日本の知識人一般に共通するところの、アングロサクソンと欧州(西欧)を同一視する史観がおかしいのではないかと思い始めていたのです。

この疑問は、1988年に英国で一年間生活した結果、確信に変わります。

上記伴氏の論考に触発されて、昨日、何十年ぶりかで再度「アーロン収容所」を読んでみました。

その上で、少し調べてみると、出版されてから40年以上経っているというのに、依然(すぐ後で紹介するような)「アーロン収容所」礼讃論オンパレードであり、この本が、日本人の西欧観やアングロサクソン観に今でも大きな影響を与え続けていることを発見しました。

これではいけないと考え、本稿を執筆することにした次第です。

(続く)

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