太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/
太田述正コラム#9361(2017.9.25)
<アングロサクソンと仏教--米国篇(その14)>(2018.1.8公開)
-------------------------------------------------------------------------------
[仏教と人間主義(印象論的説明)(続)]
日本に主として個人や国の現世利益のために導入された北伝仏教(コラム#省略)だったが、その一方で、ジャータカに触れた箇所で記したように、北伝仏教の眼目が、本来、人間主義実践教にあったこと、も、日本では理解はされていたわけだ。
当時の日本は、内外に敵を抱え、国内の臣民達の中にあっても、人間主義的非人間主義者達が顕在的であった、ということを想起されたい。
その日本が、内外の敵が消滅し、拡大弥生時代が終わりを告げて第一次縄文モードの時代に入ると、表見的には日本人はほぼ全員が人間主義者、という社会になった。
これは、仏教が、日本において、存続の危機に直面したことを意味した。
この時、日本に現れた空海と最澄の2人が、日本における仏教を、無意識的な絶妙のケミストリーでもって人間主義教へと完全に作り替えることで、その延命に事実上成功した。
まず、空海(774〜835年)は、南伝仏教でも北伝仏教でもないところの、インド起源の最新の仏教・・実は新宗教たる密教・・を支那経由で継受することで、南都仏教、すなわち、北伝仏教、を、事実上、日本から一掃した。
その上で、呪文を軸として、拡大弥生時代の日本の仏教の2要素である、現世利益と人間主義実践とを車の両輪とする、構造的には簡素な新宗教・・日本の真言宗・・を創始した。
密教とは、仏教が、ヒンドゥー教との競争的混淆の結果、呪文と現世利益の宗教へと変貌したものであること、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99
「満濃池<に>空海が築池別当として派遣され改修を行った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%BF%83%E6%B1%A0
ことを契機に、彼が、人間主義実践を象徴する人物となったことを想起せよ。
(後者は、日本全国に、彼による、温泉発見伝説が残っている
http://genkiryokup.com/mainhp/kenkou/onsen/category27/entry217.html
こと等を指す。言うまでもなく、温泉には治癒的・地域振興的諸効能がある。)
この新宗教をも包摂するとともに、その理論的根拠を確立することによって、もう一つの新宗教たる、日本の天台宗を創始したのが、年齢こそ空海より上だが密教を空海から学んだ、しかし人間主義実践挿話・伝説とは無縁の、最澄(766?〜822年)だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E6%BE%84
彼は、日本では人間主義実践を促す経典と受け止められた(コラム#省略)ところの、「妙法蓮華経(法華経)を根本経典とする」支那天台宗を再継受しつつ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
支那で生まれた本覚思想なる、「衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れていき、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなる、という<思想・・人は本来皆人間主義者という思想(太田)・・>」(注13)をも初継受し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%A6%9A (※)
この二つを組み合わせることで、既に悟っている人=人間主義者、が大部分を占めている日本、における悟り(人間主義者化)の意味を再定義したもの。
(注13)一般に、「本覚思想は・・・釈迦の教説とは全く相反するものである」(※)、とされているが、ジャータカに触れた箇所で示した私見を踏まえれば、それは仏教ではないかもしれないが、釈迦の考えには合致している、ということになろう。
また、「島地大等・・・は、日本には「哲学」がないと説いた中江兆民に対して、・・・日本独自の「哲学」を代表するものとして本覚思想を掲げているが、本覚思想自体は哲学というよりは日本仏教界の腐敗とその保身、政治的事情から、暗黙の了解となし崩し的に成立した「仏教界のみで完結した事情により生まれた建前の考え方」でしかなく、大和民族全体の固有の心理背景から自立的に生じた哲学といえるものでは無い。<(典拠?(太田)>」(※)とされるが、それが哲学と呼べるかどうかはともかくとして、島地の肩を持ちたいところだ。
ちなみに、島地大等(1875〜1927年)は、「盛岡の願教寺住職・・・。曹洞宗大学(現駒澤大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、東洋大学などで教え、1919年東京帝国大学講師として死去までインド哲学を教えた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%9C%B0%E5%A4%A7%E7%AD%89
人物。
「鎌倉仏教は<この>本覚思想の発展<である、>とする考え方」が日本の仏教学者達の間での通説である(※)ところ、私見では、それは、この思想が、非平和の第一次弥生モードにおける、庶民(縄文人=人間主義者)達の不安・悩みの救済、武士(弥生人=人間主義的非人間主義者)の非人間主義化の苦悩への対処、というニーズに応えたからなのだ。
-------------------------------------------------------------------------------
(続く)
<アングロサクソンと仏教--米国篇(その14)>(2018.1.8公開)
-------------------------------------------------------------------------------
[仏教と人間主義(印象論的説明)(続)]
日本に主として個人や国の現世利益のために導入された北伝仏教(コラム#省略)だったが、その一方で、ジャータカに触れた箇所で記したように、北伝仏教の眼目が、本来、人間主義実践教にあったこと、も、日本では理解はされていたわけだ。
当時の日本は、内外に敵を抱え、国内の臣民達の中にあっても、人間主義的非人間主義者達が顕在的であった、ということを想起されたい。
その日本が、内外の敵が消滅し、拡大弥生時代が終わりを告げて第一次縄文モードの時代に入ると、表見的には日本人はほぼ全員が人間主義者、という社会になった。
これは、仏教が、日本において、存続の危機に直面したことを意味した。
この時、日本に現れた空海と最澄の2人が、日本における仏教を、無意識的な絶妙のケミストリーでもって人間主義教へと完全に作り替えることで、その延命に事実上成功した。
まず、空海(774〜835年)は、南伝仏教でも北伝仏教でもないところの、インド起源の最新の仏教・・実は新宗教たる密教・・を支那経由で継受することで、南都仏教、すなわち、北伝仏教、を、事実上、日本から一掃した。
その上で、呪文を軸として、拡大弥生時代の日本の仏教の2要素である、現世利益と人間主義実践とを車の両輪とする、構造的には簡素な新宗教・・日本の真言宗・・を創始した。
密教とは、仏教が、ヒンドゥー教との競争的混淆の結果、呪文と現世利益の宗教へと変貌したものであること、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99
「満濃池<に>空海が築池別当として派遣され改修を行った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%BF%83%E6%B1%A0
ことを契機に、彼が、人間主義実践を象徴する人物となったことを想起せよ。
(後者は、日本全国に、彼による、温泉発見伝説が残っている
http://genkiryokup.com/mainhp/kenkou/onsen/category27/entry217.html
こと等を指す。言うまでもなく、温泉には治癒的・地域振興的諸効能がある。)
この新宗教をも包摂するとともに、その理論的根拠を確立することによって、もう一つの新宗教たる、日本の天台宗を創始したのが、年齢こそ空海より上だが密教を空海から学んだ、しかし人間主義実践挿話・伝説とは無縁の、最澄(766?〜822年)だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E6%BE%84
彼は、日本では人間主義実践を促す経典と受け止められた(コラム#省略)ところの、「妙法蓮華経(法華経)を根本経典とする」支那天台宗を再継受しつつ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
支那で生まれた本覚思想なる、「衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れていき、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなる、という<思想・・人は本来皆人間主義者という思想(太田)・・>」(注13)をも初継受し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%A6%9A (※)
この二つを組み合わせることで、既に悟っている人=人間主義者、が大部分を占めている日本、における悟り(人間主義者化)の意味を再定義したもの。
(注13)一般に、「本覚思想は・・・釈迦の教説とは全く相反するものである」(※)、とされているが、ジャータカに触れた箇所で示した私見を踏まえれば、それは仏教ではないかもしれないが、釈迦の考えには合致している、ということになろう。
また、「島地大等・・・は、日本には「哲学」がないと説いた中江兆民に対して、・・・日本独自の「哲学」を代表するものとして本覚思想を掲げているが、本覚思想自体は哲学というよりは日本仏教界の腐敗とその保身、政治的事情から、暗黙の了解となし崩し的に成立した「仏教界のみで完結した事情により生まれた建前の考え方」でしかなく、大和民族全体の固有の心理背景から自立的に生じた哲学といえるものでは無い。<(典拠?(太田)>」(※)とされるが、それが哲学と呼べるかどうかはともかくとして、島地の肩を持ちたいところだ。
ちなみに、島地大等(1875〜1927年)は、「盛岡の願教寺住職・・・。曹洞宗大学(現駒澤大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、東洋大学などで教え、1919年東京帝国大学講師として死去までインド哲学を教えた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%9C%B0%E5%A4%A7%E7%AD%89
人物。
「鎌倉仏教は<この>本覚思想の発展<である、>とする考え方」が日本の仏教学者達の間での通説である(※)ところ、私見では、それは、この思想が、非平和の第一次弥生モードにおける、庶民(縄文人=人間主義者)達の不安・悩みの救済、武士(弥生人=人間主義的非人間主義者)の非人間主義化の苦悩への対処、というニーズに応えたからなのだ。
-------------------------------------------------------------------------------
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/