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太田述正コラム#9357(2017.9.23)
<アングロサクソンと仏教--米国篇(その12)>(2018.1.6公開)

 しかし、我々の諸目的にとって大事なことは、この進化・・欧米的な21世紀の仏教のバージョンを生み出した進化・・が、現行の実践と古の思想との間の繋がりを断ち切りはしなかったことだ。
 現代のマインドフルネス瞑想は、古のマインドフルネス瞑想と全く同じではないけれど、この二つは、哲学的かつ精神的に(spiritually)同じ場所へと導きうるのだ。
 更に言えば、この二つは同じ場所から出発しているのだ。
 マインドフルネスの聖書である『念処経(Satipatthana Sutta)』<(注10)>は、現代の瞑想者達に馴染みがあるであろう諸指導・・「両脚を交差させ背筋を伸ばして」座り、自分の息に注意を払え」、から始まっている。

 (注20)サティパッターナ・スッタ。「パーリ仏典経蔵中部に収録されている・・・。・・・類似の伝統漢訳経典としては、『中阿含経』(大正蔵26)の第98経「念処経」がある。 <ちなみに、>釈迦によって、比丘たちに四念処等が説かれ<たとされてい>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%B5%E5%87%A6%E7%B5%8C
 『中阿含経』(Madhyama Āgama)は、「仏教の漢訳『阿含経』の1つ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%98%BF%E5%90%AB%E7%B5%8C
 「<これらの>経蔵はそれぞれ阿含(āgama, アーガマ)または部(nikāya、ニカーヤ)の名で呼ばれた。
 現存するものは、<南伝仏教の>・・・『パーリ語仏典』と、それに相応する<北伝仏教の>漢訳経典など[・・<これらは、>一般に、紀元前4世紀から紀元前1世紀にかけて徐々に作成されたものであると言われている。・・]である。
 <支那>においても原初的な経典であることに気付いており、研究を行った記録もあるが、大勢を占めることはなかった。
 <支那の>天台宗の教相・・・は、『阿含経』は釈迦が布教最初期に一般人向けに説いた、最も平易かつ初歩的な教えだと位置付けている。
 [日本にも伝播初期から伝えられており、倶舎宗で研究されていたとされるが、ほとんど伝えられていない。]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AA%E4%BB%8F%E5%85%B8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%90%AB%E7%B5%8C ([]内)

⇒「<支那では、>儒教<が>・・・共同体の中<で>の人間のモラルを強調し<たことに表れているように、>・・・個人よりも共同体が重要であるという意識が強」く、また、「道教が・・・不老長寿の世界にあこがれ、その自然・・・の中に神仙があるという・・・自然を超越した世界を志向してい<る>・・・神仙思想」も根付いていました。
https://books.google.co.jp/books?id=0_UkDwAAQBAJ&pg=PT79&lpg=PT79&dq=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%EF%BC%9B%E5%AE%9F%E7%94%A8%E4%B8%BB%E7%BE%A9&source=bl&ots=zYLF3VR3zo&sig=ulfMJNyuEkUEoBjUnQW4aoekSZo&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjHhKDb4rrWAhXDlJQKHcw1D8EQ6AEIUTAH#v=onepage&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%EF%BC%9B%E5%AE%9F%E7%94%A8%E4%B8%BB%E7%BE%A9&f=false
 このように、支那では人間観も自然観も「非常に実際的なもの<を>・・・志向」してきたのであって、それらは、日本の人間主義的な人間観や自然観とは全く異なります。
 「<支那>の・・・画一的<で>・・・高貴さ<、すなわち、>・・・徹底した超越性を持っていない・・・仏像を含む>美術<や漢詩・・>恋愛<がほとんどうたわれてい<ない・・>に、人間表現における深みが見られない」のはそのためである(上掲)、というわけですが、そんな共同体主義・・私の言う一族郎党命主義・・の支那で、仏教を継受した際、煩悩の滅却(個人主義)の側面にせよ、慈悲(人間主義)の側面にせよ、悟りの最終技法たる念的瞑想、というか、悟り、が無視されたのは当然であったのではないでしょうか。
 (痛みの軽減が念的瞑想の一効用であることことが知られておれば、支那人達は、関心くらいは示したことでしょうが、仮に知られていたとしても、あいにく、痛みの軽減も謳っている鍼灸が支那では戦国時代に既に生まれており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%BC%E7%81%B8
http://www.white-family.or.jp/healthy-island/htm/repoto/repo-to169.htm [←鍼は灸よりも後発だが。]
それに取って代わることは困難であったことでしょう。)
 また、日本において、悟りに至る最終技法たる念的瞑想が無視されたのは、以前から私が指摘しているように、日本が既に人間主義社会であった以上、これまた自然なことだったのではないでしょうか。
 以上の私の仮説を、歴史学者がきちんと検証してくれるといいのですが・・。(太田)

(続く)

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