太田述正ブログは移転しました 。
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太田述正コラム#9510(2017.12.9)
<皆さんとディスカッション(続x3551)/朝鮮論II--朝鮮半島史の分水嶺>
<太田>(ツイッターより)
「<異種武道大会>なぎなた女子、剣道男子を降す 香川…」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171207-00000017-mai-soci
蘊蓄、オフザケだらけの書き込みが、滅法面白い。
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/5303297.html
こーゆー活発な議論を、太田コラムについて、(モチ、女性達も含めて、)大勢の人々がやってくれるようになる日が来るといいんだけどねえ。
「…受験で合格に必要なものは何か。満点を取ることじゃないですよ。
ちゃんと戦略を立てて、得意な科目でしっかり稼いで合格してください。…」
http://www.asahi.com/articles/ASKD64RDKKD6UEHF008.html?iref=comtop_list_edu_f02
理系が得意な人だけに当てはまる助言かも。
僕の場合は不得意な理系、就中数学ばっかしやって、結果的には総合学力が急上昇したな。
<kuV3jOyw>(「たった一人の反乱(避難所)」より)
「女系天皇「皇祖神は女なのに何でダメ?」 自由・小沢氏・・・」
http://www.asahi.com/articles/ASKD84VGPKD8UTFK00R.html
この人まだいたのか。でもそういうことならもっと言ってやれ。
<太田>
その他の記事の紹介は、明日に回します。
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<太田>
<X299パソコンで>USB-DACを通じてのサウンドが聞こえなくなりました。・・・
「システム」のところ、「デバイスのパフォーマンスと正常性」に三角の注意マークがついており、調べると、「Kabylake PCI Express Root Port#10-A2B1のドライバーに問題があります」とありました。
このことと関係があるのかどうか不明ですが・・。
昨日は、一日、サウンドを聞く機会がなかったように思います。
一昨日、既定のアプリでVLC media playerを選択したことが関係している?
<K.K>
これは、現時点では関係ないかなと思います。
<太田>
<確かに>そんなことはない<ですよね>。
昨日、youtubeで藤井四段等の動画を視聴してますからね。
<K.K>
使用しているUSBポートは、マザーボードの方でしょうか、それとも増設ボードの方でしょうか?
<太田>
CDトレイ等が収納されている扉のすぐ上のUSB2.0ポートだったのですが、今、その隣の3.0ポートに付け替えたところ、「USB−DACを認識しました」的な表示が画面に出、視聴してみたところ、やっぱり音がしませんでした。
<K.K>
フロントパネル(パソコンケースの上面)の方のUSBポートは、増設ボード経由のUSBポートになります。
おそらくは、USBボードのドライバかチップセットドライバの問題だと思います。
不都合がないのであれば、背面のマザーボードのUSBポートにUSB DACを接続して、音が出るか確認してみてください。
<太田>
<音は>出ません<でした>。
ケーブルが短いので、反対側のUSBポートに接続するのは大変でした。
なお、イヤホンジャックからは音は聞こえます。
<K.K>
これ以上の対処は、今日は無理だと思います。
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もしかすると、Windows 10 Fall Creater Updateのクリーンインストールでは、HD-DAC1(←これですよね?)のドライバを入れないと音が出ないかもしれないです。現時点で、ドライバはインストールしていなくて、Windowsの汎用ドライバですよね?
<太田>
Marantzのドライバーをインストールしてあります。
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一人題名のない音楽会です。
交響曲の隠れた名曲シリーズの2回目です。
今回は、リヒャルト・ワグナー(Richard Wagner)(注a)の登場です。
彼の楽劇シリーズよりも、むしろ良いのでは?
(注a)注釈は不要でしょうが・・。1813〜83年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC
Symphony in C Major(1832)(注b)
https://www.youtube.com/watch?v=RJNNJTRD1GQ
(注b)「ワーグナーが完成させた唯一の交響曲。」19歳の時の作品。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2_(%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC)
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--朝鮮論II--朝鮮半島史の分水嶺--
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[目次]
1 プロローグ
2 広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像
3 かつて朝鮮半島南部と日本列島は同一文明圏
(1)総論
(2)諸傍証
ア 古代地理
イ 倭への敬意に基づく朝貢
ウ 新羅は文字通りの日本文明国だった
[総括]
[王統]
[支配層等における男女両系制]
[男系女性首長の輩出]
[仁政の伝統]
エ 補論1:シャーマニズム
オ 補論2:沖ノ島
4 日本文明内での支那文化の東伝
(1)人
(2)漢字
(3)道教
(4)儒教
(5)仏教
5 日本文明存亡の危機を救った新羅
6 朝鮮半島史の分水嶺--日本文明から支那文明への文明の乗り換え
(1)前史
(2)文明の乗り換え方針の事実上の対日予告
(3)文明の乗り換え・・地名の支那化
(4)その結果としての唐の政治経済体制の継受の一層の促進
◎律令制
◎宦官制度
◎科挙
7 終わりに
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1 プロローグ
プーチンは2005年に「ソ連崩壊は20世紀最大の地政学的悲劇」と述べたが、その伝でいくと、「〇は朝鮮半島最大の地政学的悲劇」の〇とは何か?≪(コラム#9218。太田)
こう読者諸氏に問題提起した後で、「<新羅の>文武王<によって>・・・、7世紀後半に、朝鮮半島の韓民族の統一王朝が、初めて支那の冊封体制の下に置かれ、以後、その状態が、20世紀初頭まで続くことになった」(コラム#9202)と書いたことがあったので、このことではないのか、と指摘してくる読者が現れるかな、と思っていたのですが、結局、現れませんでしたね。
もっとも、これ、私の頭の中にあった正解とはちょっと違うんですが・・。
さて、この問題提起を行って間もなく、それを、「狙いは文明継受、しかしそれに失敗し、結果は安全保障弱体化・・・的な地政学的悲劇」(コラム#9222)、と言い換え、更に、「「狙いは安全保障強化、しかしそれに失敗し、結果は文明継受」「的」な、逆のケース、も対象にしてみてください。」(コラム#9224)と補足したわけですが、それまでとその直後に、様々な解答案が寄せられました。
実は、私の頭の中には、新羅の、「朝鮮半島南部の統一、北方における領域の拡大、それらの成果の保全、という安全保障の観点から、結果として、日本文明から支那文明へと文明転換を行ってしまった、という地政学的悲劇」、というイメージが最初からあったものの、問題提起した時点では、それが一体いつ起こったのか、換言すれば、いつ不可逆的なものになったのか、依然として模索している状態だったのです。
読者諸氏からいただいた諸解答案も参考にしつつ、ようやく、それは統一新羅の時代の757年である、という結論を出したのが8月5日でした。
(白村江の戦いを挙げた回答とモンゴルによる高麗の武臣政権の打倒を挙げた回答にニアピン賞をを差し上げようとしたものの、どちらの方にも賞を受け取っていただけなかったことはご承知の通りです。)
どうして私がそう考えるのか、をご説明するのが、本日のお話の主眼です。
2 広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像
国宝の彫刻の部の第一号、つまりは、日本人達が、日本に存在する諸彫刻中、最高の作品である、と衆目認めているのが、京都の広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(画像A略)です。
それが、新羅から伝来したのか国内で造像されたものか、はっきりしない、ということは、7世紀当時、日本と朝鮮半島とが、美意識、というか、精神世界、を共有していた可能性が高いことを直感させます。
朝鮮半島といっても、それが新羅であり、かつまた、広隆寺が、もともとは帰化人系・・漢人系にして新羅系・・の秦氏の氏寺であったこと、を、この際、頭に入れておいてください。↓
「京都府京都市太秦の[、かつて帰化人系の氏族である秦氏の氏寺であった、真言宗の]広隆寺霊宝殿に安置されている「宝冠弥勒」(国宝彫刻の部第一号)は、右手の薬指を頬にあてて物思いにふける姿で知られる。しかしこの像は、当時多くの仏像が楠で造られているのに対して赤松で造られているため、『日本書紀』記載の推古31年(623年)に新羅から伝来したものとする説が有力であった。ところが1968年、大きく抉られた内繰りの背板に楠材が使用され、背部の衣文<(えもん)>もこれに彫刻されていることが判明し、断定できなくなっている。 この像の右の腰から下げられた綬帯(じゅたい)は、以前から楠木であることは知られていたが、これは後に付加したものとして考慮されていなかったが、二箇所の、特に背板に楠材が使用されていることは、楠が朝鮮半島南部に自生しているが、日本での使用例が多いため、日本で造像された可能性も出てきた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E8%8F%A9%E8%96%A9%E5%8D%8A%E8%B7%8F%E6%80%9D%E6%83%9F%E5%83%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA ([]内)
「秦氏<は、>・・・秦人が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮)。
新羅系渡来氏族。聖徳太子に仕えた秦河勝<(はたのかわかつ)>は新羅仏教系統を信奉していたが、これは蘇我氏と漢氏<(あやうじ)>が百済仏教を信奉していたのと対照的である(平野邦雄・直木孝次郎・上田正昭)。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F 上掲
なお、新羅から伝来したと今年認定されたところの、もう一つの国宝級の弥勒菩薩半跏思惟像があるのですが、その容貌は、広隆寺のものにそっくりです。(画像B略)
この仏像についての専門家の解説を読むと、やはり、当時、支那とは画然と区別されるところの、精神世界を、日本と朝鮮半島、就中、新羅、とが共有していた、という感を深くします。↓
「妙傳寺(みょうでんじ)は、京都府京都市左京区にある天台宗の寺院・・・当寺の・・・半跏思惟像は江戸時代の作と考えられていたが、大阪大学や東京国立博物館の研究者が鑑定したところ、像の様式や金属組成が6世紀から7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像や出土品の特徴と一致するとの見解が、2017年(平成29年)に発表された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E5%82%B3%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%B7%A6%E4%BA%AC%E5%8C%BA%E5%85%AB%E7%80%AC%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%94%BA)
「半跏思惟像は<支那>では弥勒ではなかったが、おそらく朝鮮半島で弥勒として信仰されるようになり、それが日本に伝えられたと考えられる。
<また、支那>の単独の半跏思惟像はすべて石造であるが、韓国や日本には本像のような金銅<(注0)>仏が数多く伝来している。・・・
(注0)「銅に金の鍍金を施し,あるいは金箔を押したもの。鍍金技法は,日本には仏教とともに大陸から伝来し,仏像,仏具,建築金具,装身具に用いられた。」
https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E9%8A%85-67456
<この>像を<支那>の仏像史のなかにそのまま位置付けることは難しく、むしろ朝鮮半島において古様を継承しながら新形式を採用した作例とみるのが自然である。
そして、初唐の要素を受容していることに鑑みれば、その制作は7世紀中葉とみられる。
さらに成分分析の結果を踏まえるならば、三国時代、とりわけ新羅における制作の可能性がもっとも高いと思われる。
そして、それが妥当であれば、<日本のみならず、>韓国でも国宝級の像といえるだろう。」(學士會会報2017IV48、51頁)
ところが、いつしか、朝鮮半島は、日本、ではなく、支那、と精神世界を共有する・・但し、片思い的にですが・・ようになるのです。↓
「韓国人の「文化」<と形容されるべき>、文化はシナ文化しかなく、自分の文化には関心がなかった。だから彼らは「入ってきたら内の物」だと思う。剣道も華道も韓国起源、孔子は韓国人だったという。外国人はこうのたまう彼らの文化(?)を俗にウリジナルといっている。実に身もふたもない。・・・・
なぜ彼らは受容しても自分の文化だと思うのだろうか・・・コリアンはシナ文化しかなかったので、文化に関心を持たなかった<のだ>・・・。
大阪市大の野崎充彦<(注1)>さん(朝鮮古典文学の専門家)は、長い研究の末、「朝鮮古典文学の特徴は・・・舞台も主人公もほとんどシナだから・・・朝鮮の不在である」という結論に達してしまった。」(古田博司・筑波大学大学院教授)
http://www.sankei.com/column/news/171107/clm1711070004-n1.html
(11月7日アクセス)
(注1)野崎充彦(のざきみつひこ。1955年〜)は、「朝鮮古典文学者、大阪市立大学教授。専攻は朝鮮古典文学・文化史。・・・関西大学法学部卒。90年大阪市立大学大学院後期博士課程(中国文学)単位取得退学。大阪市立大学助教授、2002年「朝鮮異人伝承論」で大阪市大文学博士。教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%B4%8E%E5%85%85%E5%BD%A6
これはまことに不思議なことだ、と思われませんか?
3 かつて朝鮮半島南部と日本列島は同一文明圏
(1)総論
何はともあれ、表記が、本日の私の「講演」の出発点であるところ、このことから、まず、ご説明しましょう。
1975年に、スタンフォード大の学生寮たる高層マンションの部屋をシェアしていた韓国人留学生のユン・チャンホ君と、任那なる日本領がかつて存在したかどうかを巡って議論になり、その折、私は、朝鮮半島南部と北九州は同一文化圏だった可能性が高く、日本領が朝鮮半島南部にかつて存在したかどうか、など、そもそも、意味のない議論だと思う、といった指摘をし、彼がそれにも反発したこと、を鮮明に覚えています。(コラム#262)
今となっては、当時のこの私の発想が、いつ頃からのもので、いかなる根拠に基づいていたのか、を思い出せません。
ひょっとすると、私が朝鮮半島に結構関心を抱いていた、高校時代まで遡るのかもしれません。
話を戻しますが、今年に入ってから、朝鮮半島史に取り組み始めてから、朝鮮半島南部と北九州ならぬ、日本列島、が、そもそも、同一文化圏ならぬ、同一文明圏、だったのではないか、という気が、改めてし始めてきていました。
そんな私の背中を押してくれたのが、詠み人しらずの、下掲のサイトでした。↓
「約6000年前の縄文中期に縄文海進(C:画像略)が起こっています。海が内陸奥まで入り込み、全国の平野部はこの縄文海進によって作られたと言われています。
北部九州の低地にある縄文集落は水没してしまいます。・・・佐賀の東名<(ひがしみょう)>遺跡
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%90%8D%E9%81%BA%E8%B7%A1 >
が泥に埋まった状態で出土したことが、 当時の状況を表しています。
九州の縄文土器の年代を調べますと、約7000年前以前の土器と約4000年前以降の土器は見つかりますが、縄文海進の起こった約6000年前から約5000年前の土器はほとんど見つかっていないのです。
一方韓国国立中央博物館から出されていた朝鮮半島の古代年表を見ますとこれ以前の遺跡が無く、縄文海進の起こった約6000年前から突然北部九州の縄文土器によく似た櫛目文土器が出土し始めているのです。
縄の材料は葦や稲ですが朝鮮半島は葦の生育圏から外れているため縄文土器を作ることができず、仕方なく櫛で模様を付けたものと解釈できます。・・・
北部九州で土器がなくなった後すぐに朝鮮半島からよく似た土器が作られていることは、人が移り住んだ何よりの証拠と言えるのではないでしょうか。
頻繁な交流をしていたにもかかわらず言葉の障害が見られないなど、 多くの謎が同じ日本人通しだったことで理解できると思います。
またその後成立した国通し<(ママ)>の指導者が海を隔てて血縁関係にあったからこそ、沖ノ島に納められたお宝を奪い合わなかったのではないでしょうか。」
http://news-ssu.com/post-3897-3897 ※
上掲の筆者は、縄文海進(注2)の結果、縄文文化が朝鮮半島に伝播した、と主張しているわけです。
(注2)「最終氷期の最寒冷期後、約19000年前から始まった海面上昇は、沖積層の堆積より速かったので、日本では最終氷期に大河によって海岸から奥深くまで浸食された河谷には海が入り込<んだ。>・・・
<日本列島では>約6,500年前<(紀元前4500年)>〜約6,000年前<(紀元前4,000年)>にピークを迎え、ピーク時の海面は現在より約5m高く、気候は現在より温暖・湿潤で平均気温が1〜2℃高かった。・・・
最寒冷期後の海面は、氷床から遠く離れた場所で年速1〜2cmで100m以上上昇した。しかしこの現象が見られるのは氷床から遠い地域だけであり、氷床のあったイギリスや北米などでは見られない。これは、氷床が溶け重みがなくなり、海面上昇速度よりも速く陸地が隆起したからである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%B5%B7%E9%80%B2
しかし、残念ながら、下掲の通説を踏まえれば、土器等の伝播は双方向であったと考えられます。↓
「縄文時代前期[(約6千年〜5千年前)]に日本列島の九州から南西諸島まで広まった曽畑<(そばた)>式土器も、朝鮮の櫛目文土器の影響を強く受けたと考えられている。同時代には他に朝鮮半島に起源があるとされる「結合式釣り針」、日本列島に起源があるとされる「隆起文土器」、「鋸歯尖頭器・石鋸」など南朝鮮と九州に共通する文化要素が見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%9B%E7%9B%AE%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3#.E7.B8.84.E6.96.87.E6.96.87.E5.8C.96.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E7.9A.84.E5.A4.89.E9.81.B7 ([]内)
とはいえ、「朝鮮<半島>では、櫛目文土器時代中期(紀元前3500年から紀元前2000年頃)に雑穀などの小規模な栽培が始まったと見られる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E8%BE%B2%E6%A5%AD
ところ、「福井県の鳥浜貝塚の前期<(紀元前4000年〜3000年)>の層から栽培植物(アズキ、エゴマ、ウリ、ヒョウタン、ゴボウなど。)が、早期<(紀元前8000年〜紀元前4000年)>の層からヒョウタンが<、>検出されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
というのですから、北九州の小規模雑穀栽培が縄文海進によって壊滅し、北九州の縄文人が文化交流のあった朝鮮半島南部に移住し、小規模雑穀栽培、要するに原初的農業、を伝播させた可能性は否定できないのではないでしょうか。
(なお、北九州が「遅れて」いて、縄文海進以前に小規模雑穀栽培が行われていなかったという可能性は、「北部九州の後・晩期<(紀元前2000年〜紀元後300年)>遺跡の遺物で焼畑農耕が行われていた可能性が高いと考えられている」(上掲)ほど、北九州が「先進的」な地域であったことからすれば、考えにくいところです。)
この私の見立てが正しければ、少なくとも※の結論(だけ?)は正しいのであって、この時点で、日本列島、いや、(縄文文化の多様性説を踏まえれば、)少なくとも九州北部、と、朝鮮半島南部、とは同一の縄文文化圏になった、ということになりそうです。
それだけではありません。
私見では、「同一の・・・文化圏」になったところの、「少なくとも九州北部、と、朝鮮半島南部」は、弥生時代においても、同一文化圏であり続けた可能性が大なのです。
というのは、「弥生時代の開始年代は<今から3000年前の>紀元前10世紀であり、日本における水稲稲作<(注3)>の開始時期は朝鮮半島に先行する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA#.E7.94.A8.E8.AA.9E.E5.A4.89.E6.9B.B4.E3.81.AE.E7.90.86.E7.94.B1.E3.81.A8.E8.83.8C.E6.99.AF
というのですから、日本列島、この場合も恐らく北九州、から、弥生人が朝鮮半島(南部)に水稲稲作、を持ち込んだ可能性が高い、と思われるからです。
(注3)「イネ(Oryza sativa)には、ジャポニカ(日本型)とインディカ(インド型)などの亜種があり、ジャポニカはさらに、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)に分かれる。・・・
列島へは、まず熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播した。・・・
縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。・・・
<他方、>温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している<ところ、>弥生時代以降の水稲<は>温帯ジャポニカであるとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3 前掲
但し、弥生人が朝鮮半島南部に持ち込んだ水田耕作は、直播方式によるものだけだった、ということになりそうですが・・。(注4)
(注4)「縄文時代晩期から古墳時代にかけての水田遺構が日本各地で発見され、移植栽培の痕跡とみなされる株跡が数多く検出されており、日本でも田植えが古くから行われていたことが裏付けられて<は>いる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A4%8D%E3%81%88
ものの、「<弥生時代の>のイネの栽培技術はまだ未発達でした。それでもイネの種もみを直接水田にまく直播(ちょくはん</じかまき>)法とともに、苗代で育てた苗を田植えで本田に移す移植栽培法も行われていたようです。耕地としては湿田だけでなく、半湿田ないし半乾田も利用されていました。」
http://www.komenet.jp/bunkatorekishi01/23.html
「昔 … 種籾(たねもみ)を直接田んぼに撒く
今 … 種籾を発芽させて15cmほどの苗まで育ててから田植えする
昔 … 実った穂の部分だけを刈り取って収穫する
今 … 稲の根本から刈り取って収穫する」
http://www.okomehp.net/history/history002
(もっとも、最近、日本で、直播法への復帰の動きが出て来ているようだ。↓
http://www.msn.com/ja-jp/money/news/%EF%BD%A2%E7%94%B0%E6%A4%8D%E3%81%88%EF%BD%A3%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%8D%E8%A6%81%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%82%82%E3%81%97%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84-%E3%82%B3%E3%83%9E%E3%83%84%EF%BD%A5%E5%9D%82%E6%A0%B9%E6%AD%A3%E5%BC%98%E7%9B%B8%E8%AB%87%E5%BD%B9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC/ar-AAoWlkN?ocid=iehp#page=2
(8月3日アクセス))
「<朝鮮半島では、>無文土器時代(紀元前850年から紀元前550年頃)には南朝鮮で大規模な水田も作られた。・・・
<現在でも、>朝鮮半島北部では畑作、南部では水田が多い。・・・
<但し、>朝鮮では稲作は、長い間、主に陸稲や水稲の直播栽培が行われ、田植えが広まったのは、李氏朝鮮後期になってからである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E8%BE%B2%E6%A5%AD 前掲
そう考えることによって、「後に狗邪<(くや)>韓国(金官国)<(後出)>そして任那<(後出)>となる<朝鮮半島南部の南部>地域は、弥生時代中期(前4<〜>3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3
ことも、腑に落ちる、というものです。
以上から、縄文文化部分が日本のそれに比べると脆弱ではあるけれど、縄文文化を基調として弥生文化と組み合わされたところの、日本文明、と極めてよく似た文明を、朝鮮半島南部は日本と共有していた、換言すれば、紀元前1000年紀央以降の時点において、朝鮮半島南部と日本とは、ほぼ同一文明圏を呈していた、というのが私の新説です。
いかにも奇矯な新説だと思われるかもしれませんが、今まで、どうして、そう明確に唱えた人が出なかったのかがむしろ不思議でなりません。
この説の諸傍証を、以下、適宜、列挙してみましょう。
(2)諸傍証
ア 古代地理
最大の傍証は、(既に、若干言及したところですが、)朝鮮半島の313年までの歴史地理です。↓
「漢四郡(かんのしぐん)は、朝鮮半島の中・西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、紀元前107年に設置した玄菟郡の郡・・・のことである。各郡の位置については諸説ある。朝鮮四郡(ちょうせんしぐん)ともいう。
<支那>王朝は313年までおよそ400年もの間、朝鮮半島中部・北部を郡県により直接支配し、また朝鮮半島南部に対して間接統制を行った。漢四郡に先立って、紀元前128年に漢は蒼海郡を置いた。漢四郡のうち、真番郡と臨屯郡は早く廃され、玄菟郡は朝鮮半島から西に移ったが、204年には朝鮮半島に新たに帯方郡が置かれた。楽浪郡と帯方郡は313年まで存続した。紀元前107年に設置され、高句麗の攻撃により遼東に撤退した313年までの400年間、平壌の存在した楽浪郡を通じて<支那>王朝の政治的・文化的影響を朝鮮に与え、また朝鮮も主体的にそれを求め、<支那>文明が朝鮮にもたらされ、高句麗の発展は、玄菟郡への服属抵抗が大きな意義を持つという研究があり、楽浪郡・帯方郡の漢人が高句麗王権・百済王権に取り込まれ、高句麗・百済の発展に寄与した。
楽浪郡と帯方郡の故地には、5世紀まで土着の漢人や新移住者の漢人が住み続けた。・・・
<年表
紀元前82年 - 真番郡、臨屯郡を廃する。
[前82年に15県中の9県は廃止となり、残りの6県と玄菟郡の夫租県を合わせた7県は楽浪郡に編入され、臨屯郡は消滅した]
紀元前75年 - 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる。
204年 - 公孫氏が帯方郡を置く。
238年 >- 魏が公孫氏を滅ぼし、帯方郡を支配。
313年 - 高句麗が楽浪郡を滅ぼし、帯方郡も滅びる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%9B%9B%E9%83%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E5%B1%AF%E9%83%A1 ([]内)
上掲の中に出てくるところの、「<支那>王朝」が「朝鮮半島南部<(注5)>に対して<は>間接統制」にとどめたのは、・・そもそも「間接統制」って意味不明ですが、・・どうしてか、という疑問が湧きませんか?
(注5)この「朝鮮半島南部」のAD1世紀頃のイメージ。(D:画像略)
なお、武帝が滅ぼした衛氏朝鮮(コラム#9202)は、「その実在について論争のない朝鮮半島の最初の国家である。中国の燕に出自を持つ<支那>人亡命者である衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)が今の朝鮮半島北部に建国した」国だが、この漢人を支配者とする国が、そもそも、朝鮮半島南部には本格進出をしていなかったわけだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE
更にまた、武帝が、ベトナム北部を征服したのは、外征というよりは、漢人支配地の編入に過ぎない、と以前指摘したところだ(コラム#8511)が、朝鮮半島北部の征服も同じことであることも想起して欲しい。
もう少し具体的に言えば、上掲に登場する漢の武帝(Han Wudi)は、支那の朝貢制度の創設者であるとされている
https://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_Chinese_tributary_system
ところ、「周辺異民族と敵対して多額の防衛費や軍事費を負担するよりも、朝貢を受けて回賜<(かいし)>を与えたほうが安上がりであるという現実もあった<、すなわち、>仮に周辺の異民族を討伐して支配下に置いたとしても、生産性の低い地域に支配領域を広げるだけであり、税収よりも軍事支配のためのコストのほうが上回る」という、朝貢制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2
のロジックからすれば、稲作が行われているところの、従って、生産性が低い(=人口が少ない)とは考えにくい、朝鮮半島南部は、朝貢制になじまない、つまりは、征服し、直接支配してしかるべき地域、であるはずなのに、しかも、その間に大河や山脈といった自然境界もないのに、どうして、彼は、直接支配しようとしなかったのか、という疑問です。
私は、その地域に、倭人達及びその提携勢力の韓人達、という、私の言葉で言えば、縄文性と弥生性を併せ持った、侮り難い、変わった人々が住んでいて、しかも、その後背地として、というか、聖域として、倭人達の本拠地である日本列島が玄界灘の彼方に控えていたから、であり、かつ、その一方で、これら勢力が好戦的ではなく、朝鮮半島北部に脅威を及ぼさなかったからだ、と思うのです。
そのことを間接的に裏付けるのが、220年の後漢滅亡の直後の朝鮮半島南部についての下掲の記述です。↓
「狗邪韓国(くやかんこく)は、3世紀中頃に朝鮮半島南部にあった国。中国正史の『三国志』や『後漢書』に見え、[280年以降に成立した]『三国志』では「其(倭国?)の北岸」、または「韓は南は倭と接する」<とあり、>432年以降に成立した>『後漢書』では「倭の西北端の国」と<あ>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD
([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E6%9B%B8 (<>内)
つまり、支那が三国時代(184〜280年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
であった、3世紀の中頃には、『後漢書』、と、成立時期等から、より信頼性の高い『三国志』、の双方が、朝鮮半島南部の韓(注6)の南側は倭と陸続きであり、その倭の部分に狗邪韓国があった、的なことを記している(注7)わけであり、この時点から時計の針を巻き戻して、AD1世紀の、更にはBC1世紀の朝鮮半島南部の状態を、想像して見て欲しいのです。
(注6)馬韓・弁韓・辰韓のいわゆる三韓(E:画像略)。馬韓は1世紀初から百済となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93
(注7)「『三国志』「魏書」東夷伝倭人条・・・韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。・・・
『後漢書』東夷伝倭人条・・・楽浪郡からその国(邪馬台国)へ去ること一万二千里、その(倭の)西北端の拘邪韓国へ去ること七千余里。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD
(ちなみに、「任那<は、>・・・狗邪韓国の後継にあたる金官国を中心とする<、倭の直接支配>地域<であって>、三韓<中>の・・・弁韓<の全部、>および辰韓の一部、馬韓の一部・・・を含むと看做すのが<日本の>通説である<ところ、>任那諸国の中の金官国・・・を指すものと主張する説もあ<ります>。」
任那という文字の初出は広開土王碑の414年で、その滅亡は562年です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3 前掲
なお、この任那の北側(現在の慶尙南道の一部)に、伽耶=加羅、がありました。
日本列島に見られる前方後円墳が任那にあり、伽耶にはないことから、伽耶は倭の直接支配下にはなかったとする説が有力です。(F:画像略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6#.E9.87.91.E5.AE.98.E5.9B.BD.EF.BC.88.E9.A7.95.E6.B4.9B.E5.9B.BD.EF.BC.89
後に、「唐の軍事力を背景に新羅はその後668年に高句麗を滅亡させ<、朝鮮半島の統一を果たしましたが、>この間の<新羅の>戦力の成長を支えたのは、伽耶<の高度な>鉄生産技術の取得が背景にあったものと見られ<てい>る」ところです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82#.E7.99.BD.E6.9D.91.E6.B1.9F.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84 )
イ 倭への敬意に基づく朝貢
[百済と新羅]
一見、百済と新羅の倭(日本)への朝貢は、単に、朝鮮半島内において、高句麗と倭に北と南から挟まれていたという、地政学的事実の産物であった、と言えそうです。↓
「百済と新羅は高句麗属民で朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となした」(414年に建立された広開土王碑碑文より)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E8%B2%A2%E5%9B%B3
「丁酉年(397年)、百済の阿莘<(あしん)>王は王子腆支<(てんし)>を人質として倭に送り通好する。
(399年)庚子年(400年)高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。このとき新羅の王都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き任那・加羅まで後退する。高句麗軍が追撃すると倭国傘下の安羅<(あら)>の別働隊が新羅の首都を陥落させた為に新羅は奈勿尼師今<(なこつにしきん)>の王子未斯欣<(みしきん)>を人質として倭に送り臣従する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B
しかし、第三国である支那にはいささか異なった景色が見えていたようです。↓
「隋書の倭国伝には「新羅・百濟は、みな俀<(たい)>を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒<(つね)>に使いを通わせ往来す」との記述がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2
「『隋書』では他の<支那>史書が「倭」としている文字を「俀」と記述している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%80%9D%E6%AF%94%E5%AD%A4
つまり、百済と新羅は、倭を「敬い仰」いでいたからこそ、朝貢していた、と。
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[徐福伝説]
朝鮮半島南部諸国・諸地域は、これよりずっと早い時期から、朝鮮半島内の日本の「植民地」、及び、日本「本国」、を「敬い仰」でいた可能性が高い。
そうだったとすれば、そのことが、辰韓等を通じて支那に伝わらなかったはずがない。
徐福伝説↓は、そんな背景があったからこそ生まれたのだろう、と私は見ている。
「徐福(じょふく)は、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士。・・・司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。・・・
東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる。瀛州はのちに日本を指す名前となった。「東瀛(とうえい)」ともいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F
「方士とは・・・ <支那>古代の方術を行なった人。方術とは,卜筮,医術,錬金術などをさす。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B9%E5%A3%AB-132003
実際にも、日本列島は、大昔から、朝鮮半島や支那大陸に比し、相対的に、「長生不老」の地だったのではなかろうか。
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(余談:高句麗と渤海)
三国の残りの一国である高句麗は、長く、日本と敵対関係にあったこともあり、百済と新羅よりも、遅れて、しかし、同様に、倭に対して同じ敬意を抱き始めたようです。
その高句麗と日本の交流は、新羅はもちろんのこと、百済よりも友誼に満ちたものになったようです。↓
「・・・4世紀末から5世紀にかけて、高句麗は倭(日本)と敵対関係にあった<が、>・・・6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭と高句麗との関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。570年に北陸に漂流した高句麗人が「烏羽之表」を携えており、これが正式な国書であると王辰爾によって解読され、初めて国交が開かれたと伝えられる。7世紀前半までの高句麗と倭との国交は文化的な交流に限定されており、特に仏僧の活躍が目立つ。595年に来朝し、後に聖徳太子の師となった恵慈<(えじ)>、610年に来朝した碾磑(みずうす)を製法を伝えたという曇徴は有名である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82
「恵慈<は、>・・・推古天皇23年(615年)・・・高句麗へ帰国した。推古天皇30年2月22日(622年4月8日)に聖徳太子が没したという訃報を聞いて大いに悲しみ、自らも推古天皇31年(623年)の同じ日に浄土で聖徳太子と会うことを誓約して、言葉通りに没したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%85%88
高句麗が滅亡すると、その交流は終焉を迎えますが、日本は、亡命高句麗人達を暖かく迎え入れます。↓
「668年に高句麗が滅亡すると倭に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建郡された。高麗郡大領となる高麗若光<(こまのじゃっこう)には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族だと推測される。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗<(こま)>神社が今も鎮座する。ほかにも『新撰姓氏録』には<6つの>高句麗系氏族が見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82 前掲
ちなみに、その直前の「660年<の>・・・百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む一部の百済人が倭国に亡命し、一部が朝廷に仕えた。また、彼らの子孫が後に日本名を貰い正式に帰化し、さらにその6代後の子孫が高野新笠として桓武天皇の母となったという説がある。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82
と、日本は、亡命百済人達も暖かく迎え入れていますが、これは、百済滅亡時点で、百済が、日本と対新羅同盟関係にあったという背景があります。
(当時、百済は、高句麗とも対新羅同盟関係にありました。)(上掲)
ついでに申し上げておきますが、渤海(G:画像略)が698年に建国されるところ、日本との関係は、以下のように進行します。↓
「713年には唐<の>・・・羈縻体制下に入<ったというのに、>・・・727年、渤海は高仁義らを日本に派遣し日本との通好を企画する。・・・安史の乱<(755〜763年)>に際し、渤海は日本と共同して新羅挟撃を計画したが、これは藤原仲麻呂の乱により計画が頓挫した<といったことまであった。>・・・しかし渤海と唐の関係改善が実現すると、日本との関係は軍事的な性格から文化交流的、商業的な性格を帯びるようになり、その交流は926年渤海滅亡時までの200年間継続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82
「渤海<は、>日本に対して渤海使を派遣し、渤海側は日本に対し「朝貢」をした。当時の日本の国力では、毎年の「朝貢」に対して回賜を行う能力は無く、12年に1度に制限するに至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2 前掲
渤海のこの、一貫した親日ぶりの背景には、上述したような、「同族」の百済と高句麗<(注8)>の滅亡の際の日本の亡命者受け入れへの感謝の念があった、と想像されるところ、それだけだけではなく、やはり、渤海も日本を「敬い仰」ぐに至ったからであろう、と私は見ています。↓
(注8)「<高句麗と>同じツングース系であるところの「靺鞨<が、>・・・高句麗遺民と共に渤海国を建国した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%BA%E9%9E%A8
「百済<は、>・・・民族については、百済王・高句麗王(夫余)等に代表されるツングース系夫余族の国家だったとする説と、ツングース系夫余族の支配層(王族・臣・一部土民)と韓族の被支配層(土民中心)からなっていたとする説の2説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88#.E5.80.AD.E5.9B.BD.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82
というのも、渤海の首都が、日本の平城京を模して造られた可能性が高く、しかも、このことから、渤海は、日本の度量衡を使用していた、とも考えられるからです。↓
「渤海<の>・・・首都上京[龍泉府(じょうけいりゅうせんふ)]は、中央に宮殿、周りに城壁、周囲16kmと、ほぼ平城京と同じ規模である。井上和人は、この都の衛星写真を分析し、平城京造営と同じ物差しを使っているという見解を示した。したがって、首都上京は、長らく中国の長安を真似たものだと思われていたが、平城京の造営は710年、首都上京は755年なので、727年に初めて来日した渤海使が日本から都造りを学んだ可能性がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD) 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BA%AC%E9%BE%8D%E6%B3%89%E5%BA%9C ([]内)
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ウ 新羅は文字通りの日本文明国だった
[総括]
新羅が、初めて朝鮮半島の統一を達成した・・但し、渤海(698〜926年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)
を朝鮮半島の国にカウントする立場を採れば、新羅時代の大部分は南北時代となってしまうことから、その「栄誉」は高麗のものとなる・・時点頃までは、既に記したように、新羅は文字通りの日本文明国であった、というのが私の認識です。
新羅は、韓人達が住んでいるところに、支那の秦人達が入植し、漢語の秦方言をみんながしゃべるようになった国です。(コラム#9202)
その「新羅<は、>・・・或るとき<辰>韓に属し、あるときは倭に属した」(『職貢図』に係る張庚『諸番職貢圖巻』より)、という「史実」(コラム#8382)が、改めて思い出されます。
その新羅の日本性を、具体的に見ていくことにしましょう。
[王統]
初めて朝鮮半島を統一した新羅に関し、第一に、その王室が、三つの王統から成っていて王統間で王位が禅譲されたという、牧歌的な伝説・・支那史における 尭・舜・禹伝説と部分的に似ている・・ならぬ「史実」を有する(注9)・・ここが、「史実」においては放伐史しか持たない支那史とは決定的に異なる・・のは、同じく牧歌的な、但し、万世一系の日本史と似ていること、第二に、この三つの王室の祖のうち、一人は日本人、もう一人も日本人ゆかりの人物ないし日本人、という伝説があること(注9)、からだけでも、新羅の日本性は濃厚である、と言えそうです。
(注9)三王統:「『三国史記』新羅本紀によれば、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があること、そしてそれぞれに始祖説話を持っていることが伺える。新羅はこの3王統により何度か王朝交代が起きており、それぞれの王統が王位を主にしめていた時代を朴氏新羅(初代赫居世居西干<(かくきょせいきょせいかん)>〜)・昔氏新羅(57年・第4代脱解尼師今<(だっかいにしきん)>〜)・金氏新羅(356年・第17代奈勿尼師今<(なこつにしきん)>〜)と呼ぶ。なお、昔氏新羅時代に初代金氏の王である第13代味鄒尼師今<(みすうにしきん)>が、また金氏新羅時代には第53代神徳王から3代だけ朴氏から王が出ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
朴氏:「朴氏初代の朴赫居世・・・辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。また、瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴赫居世を同定する、またはその同族とする説がある。」(上掲)
昔氏:「昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)・・・倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側と比定される)の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄<(なんかいじじゆう)>の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。」(上掲)
金氏:「金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)」(上掲)「は紀元1世紀の新羅の人と伝えられる・・・。『三国史記』新羅本紀によれば、脱解9年(65年)、時の新羅の尼師今(王)である脱解尼師今が金の箱を見つけ、その中に入っていた男の子が金閼智であり、このため「金」の姓を与えられたとされる。金閼智の子孫の味鄒尼師今が尼師今(王)となり、新羅三王統の一つとなった。17代奈勿尼師今以降新羅王を独占した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%B7%9E%E9%87%91%E6%B0%8F
史実:「有力な勢力となった農民出身の甄萱<(けんけん)>が892年に南西部に後百済を、新羅王族の弓裔<(きゅうえい)>が901年に北部に後高句麗を建て、後三国時代に入る。・・・
統一新羅王朝末期には、52代孝恭王に子がいなかったために朴景暉<(ケイキ)>が推戴されて王位を継承(53代神徳王)し、その後55代景哀王までの3代は朴氏王統となる。なお、新羅最後の王(第56代)敬順王の姓は金氏であり、新羅は王位が金氏王統に戻ってから間も無く滅亡したことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85 前掲
「神徳王・・・(在位:912年〜917年)<は、朴氏たる、>・・・第8代新羅王阿達羅尼師今<(あだつらにしきん)>の23代孫」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%BE%B3%E7%8E%8B
[支配層等における男女両系制]
「<日本の>中世領主の族縁共同体の在り方は・・・男系・女系双方の系譜につらなる人々をその族団構成の主要メンバーとしている結合<である。>」(コラム#9153)ことを踏まえれば、「<7世紀央〜末の善徳、真徳女王>当時の新羅は父系相続制と母系相続制が並存していて、家長(heads of families)には女性が就いていた」(コラム#9245)ところ、これは、核心的社会制度に係る、新羅の日本性を示している、と言えそうです
[男系女性首長の輩出]
「韓国の歴史の中で女王は3人います。この善徳女王、そして真徳女王と真聖女王の3人はすべて新羅の王でした。高句麗や百済には女王はなく、その後の歴史でも女王はいません。」
http://www.coara.or.jp/~mieko/koreahistory/koreahistory9.htm (コラム#9223、コラム#9245、コラム#9249、コラム#9251、も参照)
つまり、新羅においては、ほぼ同時代の日本同様、男系女性首長が輩出したわけです。
[仁政の伝統]
新羅は朝鮮半島を統一したわけですが、それがどうして高句麗でも百済ではなかったのか、です。
常識的には、国力の伸びが相対的に大きく、かつまた、国内の平和が相対的によく保たれていた、ということでしょうが、これは、相対的に新羅において仁政が執り行われていたことを推察させます。
また、時代を一挙に進めると、「8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起き、地方でも農民の反乱が起き、混乱を深めて行った。この乱れは真聖女王[(?〜897年)]の時に一層激しくなり、地方の有力な豪族たちが新羅を分裂させ[、後三国時代<(H:画像略)>の幕開けとなる]。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97
という背景の下、「治世11年にして、<真聖>女王は「盗賊蜂起、此れ孤の不徳なり」と宣言し、「太子」に譲位した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%81%96%E5%A5%B3%E7%8E%8B
というエピソードを見出すことができます。
このような譲位事例は、支那にはありません。
このことは、新羅において、日本のような、仁政の伝統が、そんな時点でも、少なくとも観念上はまだ存続していたことを意味している、と私は解しています。
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[耽羅の日本性]
済州島にあった耽羅も、日本性を彷彿とさせる伝説を有する。↓
「耽羅(たんら、ちんら・・・)は、朝鮮半島沖の済州島<(I:画像略)>に古代から中世にかけて存在した王国である。百済、統一新羅、高麗に内属し、15世紀初め李氏朝鮮に完全併合された。・・・
朝鮮半島本土の諸王国とは異なる独自の「三姓神話」を有し・・・高・梁・夫の三兄弟が、東国の碧浪国(『高麗史』では日本)から来た美しい3人の女を娶り、王国を建国した<、また、>日本の使いが来て開国させた<、とされ>ている。・・・
韓族とは言語系統を異なるものとするのが通説である(これには異説もある)。
『三国史記』では耽羅が476年に百済の文周王に朝貢し、498年に百済の東城王に服属したとある・・・。しかし660年百済が唐・新羅連合軍の侵攻によって突如滅亡すると、・・・662年には新羅に服属したとみられるが、このとき唐から帰国する日本の遣唐使船がたまたま耽羅に寄港し、唐軍の侵攻を恐れる耽羅はしばらく日本に朝貢を送り続けたという記録が『日本書紀』にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%BD%E7%BE%85
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エ 補論1:シャーマニズム
シャーマニズムが生きている先進社会は、朝鮮半島と日本だけです。↓
「宮廷の中でずっと、シャーマニズムが幅を利かせてきたのが朝鮮半島であり、江戸時代になって神道国学の発達を通してかえってシャーマニズムが息を吹き返してきたのが日本である。・・・
とにかく、文明の地で、明確にシャーマニズムが生命力を確保し、正統性を維持し続けられたところは、おそらく、日本と朝鮮半島だけである。」
http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3-rakusho/archives/53968350.html。」
http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3-rakusho/archives/53968350.html
(参考)白山信仰と朝鮮半島
http://blog.goo.ne.jp/sadalon/e/f7f000ce3f6f4556a23c7abfd022069c
(モンゴルと内モンゴルでも、シャーマニズムは死んではいません↓が、どちらも、先進社会と言えるかは微妙です。
http://foreignpolicy.com/2017/07/24/the-shaman-masters-of-hohhot-have-returned-mongolia-china/
(8月2日アクセス))
朝鮮半島については具体的に次の通りです。
私のとりあえずの仮説は、新羅の日本性が一番強かったことから、シャーマニズムは高句麗、百済、新羅の3国の中では、新羅において最も強かった、そして、そのシャーマニズムは、女性が主流であった、というものです。↓
「<新羅の>善徳女王(?〜647年。王:632〜647年)<は、>・・・その呪術者的性格に期待されて王位を継いだ。」(コラム#8384)
「巫俗(日本語読み:ふぞく、朝鮮語読み:ムーソク)は、朝鮮のシャーマニズム(英: Korean shamanism)である。ムーダン(ムダン)(巫堂・・・)というシャーマン(職業的宗教者)がクッ(・・・)という神を憑依(ノリ)させ、お告げを行う祭儀を行う。朝鮮の土着の信仰として、古代から現代に至るまで続いている。 戦前の資料によれば、ムダンの男女比には地域性があり、男性が主流の地域もあれば、女性が多い地域もあった。・・・ 戦後、古い迷信として衰退したが、近年の国家主義的価値観とも連動し、巫俗こそが朝鮮固有の宗教であるという思想が生まれ、表舞台に近年しばしば取り上げられることとなってきている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB%E4%BF%97
日本のシャーマニズムについても、念のために復習しておきましょう。↓
「『魏志倭人伝』に記述された邪馬台国女王の卑弥呼が用いたという「鬼道」もシャーマニズムと言われている。また、神代巻のアマテラス、崇神紀のヤマトトトヒモモソヒメ、仲哀紀の神功<(じんぐう)>皇后などもシャーマンの例として挙げられる。・・・
現代でも、アイヌの「トゥスクル」、下北半島の恐山におけるイタコ、沖縄県周辺のユタ(ユタ(シャーマン)とノロ(祭司)とは役割が異なる)など、各地域にシャーマンに当てはまる事例がある。また都市においてもみられる。また小口偉一は、日本の宗教信仰の基底にシャマニズム的傾向があるとし、新宗教の集団の形成や基盤も同様であるとした。新宗教の教祖らの中には召命型シャーマンの系統に属すると思われるような人がいるのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)については、下掲↓参照。なお、「百襲姫の地位・巫女的性格から、『魏志』倭人伝に見える卑弥呼を百襲姫に、卑弥呼の男弟を崇神天皇にあてる説や、・・・<彼女の墓とされる、>・・・全国の古墳で最古級の3世紀中頃の・・・箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説がある。」(コラム#9183、9191)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%A7%AB%E5%91%BD
オ 補論2:沖ノ島
冒頭に掲げたところの、※が言及していた、沖ノ島(J:画像略)の祭祀の歴史は重要だと思います。↓
「
1.4世紀後半から5世紀にかけて<、沖ノ島の>岩上祭祀/巨石の上で祭祀を行っ<ており>、三角縁神獣鏡<(さんかくぶちしんじゅうきょう)>などの銅鏡が見つかっており、宗像<(むなかた)>氏と関連がある津屋崎<(つやざき)>古墳群の副葬品と共通するものも多い・・・
2.5世紀後半から7世紀にかけての岩陰<(いわかげ)>祭祀/巨石の岩陰で祭祀を行っ<ており>、新羅の都・慶州の大陵苑王墓(世界遺産慶州歴史地域)から出土したものと同じ金製指輪など朝鮮半島由来の遺物が多い・・・、
3.7世紀後半から8世紀前半にかけての半岩陰・半露天祭祀/岩陰に接する平場で祭祀を行っ<ており>、唐三彩など<支那>由来の遺物がみられる・・・
4.8世紀から9世紀末にかけての露天祭祀/岩場から離れた平地で祭祀を行っ<ており>、遺物は滑石製形代類と呼ばれる人や馬に似せた祭祀専用の石製品になり、国内生産品が主体になる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E5%B3%B6
というのですが、支那由来の遺物も見られると言っても、沖ノ島の位置
https://matome.naver.jp/odai/2143813038000794801
を見ると分かるように、この島は、北九州と朝鮮半島の間の対馬の東側の航路・・但し、後出の事情からメインルートではない・・上に位置しているのであり、単にこの航路で、朝鮮半島経由で支那の供え物も運ばれた、というだけのことだと思われます。
では、一体、この祭祀は、どのように始まったのでしょうか。
篠川賢<(注10)>は、2013年に、次のように記しています。
(注10)しのかわけん(1950年〜)。北大文(国史)卒、同大院文学研究科博士課程単位取得満期退学、「日本古代国造制の研究」で北大文学博士。成城大文芸学部助教授、教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%B7%9D%E8%B3%A2
「沖ノ島の神については、本来は、宗像氏の前身集団を含めた地域の集団によって祀られた島神・海神であったとする見方が一般的であるが、・・・『記』『紀』の神話・伝承から導き出せる宗像三女神<(さんじょしん)(注11)>の神格<は>、「北部九州を経由する王権の対外交渉にかかわる海上交通の守護神」<なの>である・・・。
(注11)「宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像神(むなかたのかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる『 道 』の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E4%B8%89%E5%A5%B3%E7%A5%9E
ちなみに、「1185年、宗像氏実が、博多の貿易商・王氏の娘と、宗像氏忠は北宋商人・張氏の娘と2代に渡って中国人と縁組する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E6%B0%8F
さて、<そう>・・・であるならば、そこには、倭王権の対外交渉上の何らかの契機が存在したとみなければならないであろう。そして、その成立時期が4世紀後半に求められるということからすれば、その契機は、これまでも指摘されているとおり、石上神宮<(いそのかみじんぐう)(注12)>所蔵の七支刀<(しちしとう)(K:画像略)>の銘や、『紀』の神功皇后摂政46年〜52年条の一連の記事に示されるところの、百済との公的外交の開始に求めるのが妥当であろう。
(注12)「奈良県天理市布留町にある神社。・・・古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E5%AE%AE
七支刀銘は、次のとおりである。
[表] 泰和四年五月十六日丙午正陽造百錬銕七支刀生辟百兵宜供供侯王□□□□作[裏] 先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世
銘文の釈読をめぐっては、多くの議論が重ねられてきたが、冒頭の「泰和」は東晋の年号の太和とみてよく、それは、西暦にして369年にあたる。また銘文の趣旨は、百済王(近肖古王<(きんしょうこおう)>の世子(のちの近仇首王<(きんきゅうしゅおう)>)が倭王のために七支刀を造り後世に伝え示すということであり、百済王と倭王との関係を対等とする立場での文章と考えられる。そこに百済から(あるいは東晋から)倭への下賜の意味や、逆に献上の意味を見出すことはできないであろう。
一方、『紀』の神功皇后摂政46年〜52年条によれば、百済との公的外交の開始は、およそ次のとおりであったとされる。
<神功摂政>46年3月、卓淳国(伽耶地域の一国)に派遣された斯摩宿禰<(しまのすくね)>は、卓淳国の王から、2年前に百済の使者の久●<(氏の下に一)(くてい)>らが卓淳国にやって来て倭国との通交の仲立ちを求めてきた、ということを聞いた。そこで斯摩宿禰は、卓淳国にて百済に使者を派遣し、百済の近肖古王から倭王への朝貢の意思を確認して帰国した。翌47年、百済の近肖古王は、久●らを遣わして朝貢してきた。その後百済は、毎年朝貢することを誓い、50年、51年と朝貢し、52年には、また久●らを遣わして、七枝刀・七子鏡などの宝物を献上した。
百済を日本(倭)に従属する国として描いているのは、『紀』の認識によるものであり、実際の両国の関係を伝えているとは考え難い。ただ、この一連の記事は、「百済記」に基づいた記事と考えられ、干支<(注13)>二運繰り下げた年のこととみるならば、その記事内容には一定の事実を伝えている部分があるとみられている。
(注13)「十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなり、十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類からなっており、これらを合わせて干支と呼ぶ。・・・10と12の最小公倍数は60なので、干支は60回で一周する。干支には、すべての組合せのうちの半数しかない。例えば、一覧01〜60で5回ある「子」のうちに、「甲子」はあるが「乙子」はない。これは、10と12に共通の約数2があるので、干支の周期が積の120ではなく、最小公倍数の60になるからである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF
神功摂政46年は西暦にして246年に相当するが、二運繰り下げれば、366年、神功摂政52年(西暦252年)は372年ということになる。七枝刀が百済から贈られてきたという後者の記事内容は、まさしく石上神宮所蔵七支刀の銘文と対応するのであり、この頃に、百済との公的外交が開始されたことは事実とみてよいであろう。
また、これらの一連の記事内容からすると、百済との通交は、百済からの要求で開始されたことになる。
おそらくそれも事実であり、百済は、南下を進める高句麗に対抗するため、倭に軍事援助を求めてきたものと推定される。したがって、百済との公的外交の開始は、倭王権による朝鮮半島への派兵という、おそらくはそれ以前には経験していなかった形での通交の開始であり、そこに、沖ノ島祭祀が新たに開始される理由があったのではないかと推定される。
沖ノ島祭祀の内容は、直接に朝鮮半島への派兵を示すものではなく、沖ノ島祭祀を朝鮮半島に対する軍事行動にのみ関わって行われた祭祀と限定的に考えることも正しくないであろうが、その開始は、倭王権による朝鮮半島への派兵を契機とした可能性が高いとみてよいと思う。
一方、百済との通交が始まったことにより、沖ノ島を経由して朝鮮半島に渡るというルートが新しく設置され、以後そのルートがメインルートとなったということでもなかったと考えられる。『魏志』倭人伝によれば、3世紀中ごろの倭と朝鮮半島を結ぶルートは、壱岐・対馬を経由するルートであり、『隋書』倭国伝によれば、7世紀初めころのルートもそれと同様である。
沖ノ島祭祀が開始されたのちも、航海の安全性から、壱岐・対馬を経由するルートが依然メインルートであったことは間違いないであろう。沖ノ島祭祀が、百済の要請に基づく朝鮮半島への派兵を契機として開始されたものであるならば、その派兵のルートは、従来からのメインルートを使用するとみるのが自然である。
沖ノ島祭祀は、玄界灘に浮かぶ孤島としての沖ノ島の位置に由来するところの、あくまで象徴的な祭祀であったとみるのが妥当ではなかろうか。」
http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_52_file.pdf
つまり、篠川は、高句麗の脅威が、百済をして、日本に接近せしめた、と主張しているわけですが、どうして高句麗が「南下を進め」たのか、まで説明していません。
思うに、こういうことでしょう。
後漢が事実上滅亡した黄巾の乱(184年)から支那は分裂時代に入り、後漢消滅、三国時代を経て、晋(Jin。西晋)が280年に支那を一時再統一しますが、316年には早くも滅んでしまいます。
しかし、その前の、301年には内乱状態となり、304年には、いわゆる五胡十六国時代に突入し、311年には、晋は事実上滅亡してしまっていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B
高句麗の美川王<びせんおう)>(Micheon。?〜331年。国王:300〜331年)は、この「西晋の混乱に乗じ、積極的に<晋>領への侵攻を進めた。302年9月には三万の軍隊を率いて玄菟郡に侵入し、・・・311年8月、遼東郡[(遼東(Liaodong)半島)]の西安平<(せいあんぺい)>を襲撃して奪い取り、313年10月、楽浪[(Lelang)]郡に侵入してこれを滅ぼし、翌314年には帯方郡を滅ぼし」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E5%B7%9D%E7%8E%8B
ここに、支那による、朝鮮半島北部の、400年にわたった統治、を終わらせることに成功したのです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Goguryeo
こうして、隋によって589年に支那が再統一される
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
までの2世紀半超の間、高句麗は、基本的に、北方からの脅威を免れつつ、南方攻略に専念できるようになった、というわけです。
これは、朝鮮半島南部の、百済、朝鮮半島内日本飛地、及び、新羅、という、朝鮮半島における日本文明圏の存亡に関わる危機が出来した、ということを意味しました。
高句麗には、漢人達とは違って、領域拡大に関して経済合理的な発想がなかったと想像されます。
というのも、漢人達のかかる発想は、(検証したわけではありませんが、)全球的には、極めて珍しいものだと思われるからです。
私のここでの仮説は、日本との間に、密接な関係にあった朝鮮半島内の日本飛び地、同じく密接な関係にあった日本性の強い新羅、を通じて高句麗からの脅威が聞こえてきていたにもかかわらず、覚醒するに至っていなかった、日本の弥生性が、新羅に比べれば疎遠だった百済からのSOS発信を受けて、遅まきながら覚醒し、いざという場合に、朝鮮半島に速やかに軍事介入できる態勢を日本が整え、この軍事介入ルートの安全を祈念するために沖ノ島での祭祀が始まった、というものです。
もっとも、既述したように、その高句麗は、6世紀後半になって、新羅と百済が日本と好を通じている状況の打開を図るためでしょうが、積極的に対日接近を図ってきます。↓
「欽明天皇の御代、<日本は、>・・・570年、<特使を乗せて>能登に漂着した高句麗の船を、・・・敦賀・塩津間を、丘を曳いて峠を越え、塩津から大津まで琵琶湖を航走、・・・さらに宇治川を下り、木津川の畔の相楽館(さがらかのむろつみ)で正規の特使として饗応し、難波津から返した。」
https://books.google.co.jp/books?id=hhYR8iLIYs0C&pg=PA193&lpg=PA193&dq=%E8%BF%91%E7%95%BF%EF%BC%9B%E6%B2%B3%E5%B7%9D%EF%BC%9B%E6%B0%B4%E9%81%8B&source=bl&ots=mRM3FInSn2&sig=WyqoSydy2O2jlhwNOZR__OcbZeU&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiYkOC0x6HVAhXNNpQKHcZzAZoQ6AEITjAG#v=onepage&q=%E8%BF%91%E7%95%BF%EF%BC%9B%E6%B2%B3%E5%B7%9D%EF%BC%9B%E6%B0%B4%E9%81%8B&f=false
その後、高句麗と日本の交流は、新羅、百済よりも、一層、密に行われた感があります。↓
「高句麗は日本に大きな影響を与えた。飛鳥寺創建のときに高句麗僧が法要を行い、聖徳太子の仏教の師匠も高句麗僧である。鳥取県には高句麗系石塔とされる岡益石堂<(L:画像略)>や高句麗系の四隅突出墓<(L:画像略)>がある。
東日本には高句麗からの渡来人に関する遺跡が多く残り、高句麗の墓制である積石塚<(つみいしづか)(L:画像略)>が長野県や山梨県、群馬県に多く見られる。特に長野県の大室古墳群は積石塚の一大集積地である。東日本は大和朝廷から命ぜられて渡来人が開墾したところも多い。埼玉県には716年に高麗郡が作られ高麗神社、聖天院(高麗王若光の墓)などが残る。また、神奈川県にはその高麗王若光が上陸したとされる高麗山、高来神社がある。関東南部の古墳からも高句麗系の遺跡が多く出る。そのような遺物の出た東京の狛江という地名は「高麗(こま)=高句麗」から来ているとされ、調布市深大寺周辺には高句麗にまつわる伝説が多く残されているし、あきる野市の瀬戸岡古墳群には積石系の古墳群があるなどその影響は大きい。」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=189215
こうして、日本側から見れば、朝鮮半島の3国の全てが日本への朝貢国になったかのような状況になるのです。
大化の改新につながる、645年の乙巳(いっし)の変が、本当だったかどうかは疑問符が付くものの、この3国が内揃った日本への進貢の場で行われたということにされているのは、象徴的です。↓
乙巳(いっし)の変。「皇極天皇4年・・・、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌足はこれを好機として暗殺の実行を決める(『大織冠伝』には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)。
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、三国の調の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣を外させていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3%E3%81%AE%E5%A4%89
4 日本文明内での支那文化の東伝
(1)人
下掲↓中の「朝鮮半島から」渡来した人々には、朝鮮半島系人だけでなく、支那系人も後述するように少なくありませんでした。
いずれにせよ、「日本から朝鮮半島の方向に人・物が動いた事例もあ<った。>」ことが肝心なのです。
私は、同じ日本文明内で、人は自由に行き来をしていた、と見ている次第です。
「4世紀末 - 6世紀、古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者や亡命者として<支那>大陸や朝鮮半島から人々が渡来し・・・大王を中心とするヤマト王権において重要な位置を占めた者や文化の発展に寄与した者がいた。
日本から朝鮮半島の方向に人・物が動いた事例もあ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA
(2)漢字
通説では、漢字を日本に伝えた人物は百済の王仁であるとされているところ、彼は支那人である、とされています。↓
「漢字が朝鮮半島を経て・・・4世紀後半に・・・伝わってきたことが次第にわかってきました。・・・
なお、漢字そのものの伝来とはやや趣きを異にしますが、学問或いは典籍の伝来の話は、記紀に伝えられています。日本書記によれば、応神天皇16年に百済の王仁が来て、太子は王仁を師として諸の典籍を習ったとあります。古事記では応神天皇の時、和邇吉師<(ワニキシ)>が論語十巻、 千字文一巻を百済から貢進したとあります。これについては、古来から論語の巻数や千字文の成立期などからみて疑問視されていますが、応神紀の事は干支二回り即ち120年ずらして伝えられている事が多いとの説もあり、それを考慮するとほぼ漢字伝来の経緯と重なります。」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000071818
「伝承では、百済に渡来した<支那>人であるとされ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BB%81
しかし、最近、漢字の朝鮮半島経由での伝来は、もっと早く、1〜2世紀の頃であった可能性が取り沙汰され始めています。↓
「福岡県筑前町にある弥生時代中期〜後期の薬師ノ上(やくしのうえ)遺跡で、弥生時代では初めてとなる完全な形の硯(すずり)<(M:画像略)>が出土していた・・・
専門家は「弥生時代の日本で文字が書かれていた可能性を示す発見」としている。・・・
朝鮮半島で出土した硯と同じ砂質頁岩(けつがん)製で形などが似ており、硯と判断。一緒に出土した土器などから、1〜2世紀のものと推定している。」
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20171114-OYT1T50132.html?from=ytop_main7
(2017.11.15アクセス)
私は、朝鮮半島に支那から伝わったものは、殆ど、リアルタイムで日本文明圏内を東伝し、日本「本国」にも伝えられた、と見ています。
(3)道教
「道教<は>・・・各地で発掘されている三角縁神獣鏡<(さんかくえんしんじゅうきょう)>や道教的呪術文様から、4世紀には流入していたと見られている。6世紀には百済からの仏教に伴い「呪禁師」「遁甲方術」がもたらされ、斉明天皇から天武天皇の治世にかけては、その呪力に期待が寄せられて、支配者層における方術の修得や施設建設も見えている。それに伴う神仙思想も、支配者層において教養的知識レベルに留まらず実践に至るまでの浸透を見た。これらは民衆社会にも流布しており、『日本書紀』『風土記』『万葉集』に見える浦嶋子伝説、羽衣伝説等などの神仙伝説にその痕跡を遺している。だがそれらは担い手組織の核となる道教経典・道士・道観の導入を伴っておらず、体系的な移植には至らず、断片的な知識や俗信仰の受容に留まった。そして天武朝以降、道教の組織的将来の道が政治的に閉ざされると、そうした知識や俗信仰が帯びていた体系的道教思想の痕跡も希薄になっていく。
一方で、道教に取り入れられていた要素に過ぎなかった陰陽思想、五行思想や神仙思想、それに伴う呪術的な要素は道術から陰陽道に名を変えて政務の中核を担う国家組織にまで発展した。
この意味で日本において本来の道教が伝わっているとは言いがたい。唐王朝が道教の開祖とされた老子の末裔を称しており、唐側より日本に対して道教の受け入れを求めた時に、日本側が(天照大神の子孫とされる)天皇を中心とする支配体制と相いれないものとして拒否したとも言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E9.81.93.E6.95.99
「神獣鏡は崑崙の神仙世界を描いているのである。笠松型と表現される模様を含む鏡もあるが、崑崙を描いているのだから、そこに生えている霊木を表すのであろう。淮南子には珠樹、玉樹、不死樹など、いろいろ書いてある。外周部、三角断面の盛り上がりも、意図的なデザインだから、何らかの意味を持つ。上記から、三角縁は崑崙、高山の表現とすることができる。」
http://www.eonet.ne.jp/~temb/9/Sinzyukyou/Sinzyukyo.htm
とまあ、こういう具合に、道教などというものまで(!?)、早くから断片的には日本に伝わっていたところ、それも、通説に言う6世紀より、もっと早い時期に伝わっていた可能性が高い、と私は見ています。
(4)儒教
「日本へ儒教が伝わったのは仏教よりも早く、継体天皇の時代の513年、百済より五経博士が渡日して以降のことである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%84%92%E6%95%99
王仁だ、五経博士だ、といった挿話は、同一文明圏であったところの、朝鮮半島南部と日本との間では、人も物も、かなり自由に行き来していたことからして、極端なことを言えば、ことごとく後付けのフィクションであると疑った方がいい、というのが私の見解です。
(5)仏教
「古代、三国に分かれていた朝鮮半島においては、それぞれ各個に仏教が公伝された。最も北にあり、<支那>に近かった高句麗へは早くも372年、小獣林王の時代に前秦から伝えられたとされる。375年には肖門寺・伊弗蘭寺などが建立された。
大和朝廷と盟友関係となる百済では、これより若干遅れて、384年に枕流王<(ちんりゅうおう)>が東晋から高僧の摩羅難陀を招来し、392年には阿莘王(阿華王)が仏教を信仰せよとの命を国内に布告している。ただし、百済国内に本格的に仏教が普及するのはそれより1世紀ほど遅れた6世紀初頭である。
残る新羅においては上記2国よりも遅れ、5世紀始めごろに高句麗から伝えられたという。法興王の時代に公認された後は、南朝梁との交流もあり、国家主導の仏教振興策がとられるようになっていた。・・・
<そして、>6世紀半ばに、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた・・・
6世紀前半即位した百済の聖明王(聖王)は、<支那>南朝梁の武帝から「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封され、当初新羅と結んで高句麗に対抗していた。が、次第に新羅の圧迫を受け、538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされるなど、逼迫した状況にあり、新羅に対抗するため、さかんに大和朝廷に対して援軍を要求していた。百済が大和朝廷に仏教を伝えたのも、大陸の先進文化を伝えることで交流を深めること、また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%AC%E4%BC%9D
仏教についても、このように、4世紀には朝鮮半島南部にまで伝わっていたのだとすれば、殆ど時を置かず、日本「本国」にも伝わっていた、と見るべきでしょう。
百済の聖王によるプロパガンダに、我々は惑わされてはいけないのです。
5 日本文明存亡の危機を救った新羅
日本文明時代の朝鮮半島南部の新羅が、半島統一を成し遂げる過程で、結果的ではあれ、日本「本国」、すなわち、日本文明の本家本元、を滅亡から救ってくれたこと、つまりは、我々は新羅、すなわち、朝鮮半島の最初の統一王朝に大変な借りがあること、を、我々は銘記すべきなのです。↓
「663年の白村江での壊滅的敗北で、日本は、本国を含めて残存兵力が殆ど亡くなった状態になり、唐軍に対して・・・降伏した上で、引き揚げ船での敗残兵の帰国を認められ、その翌年の664年には、唐から日本占領支配の開始を告げる使者が来日し、更にその翌年の665年には、唐の別の使者が、200数十人を率いて来日し、新羅・百済・眈羅・倭国(日本)の使者を引き連れて唐に戻り、泰山において・・・降伏式<が行われた。
そして、・・・<唐は、日本に、>北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城(例えば、筑前にあった大野城)や連絡施設を築<かせる>とともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置・・・させ・・・666年の、近江大津<(注14)>という、・・・狭隘な地への遷都は、中大兄が、飛鳥を唐の使者に明け渡せとの命令を受けて、やむなく疎開したもの・・・。
(注14)近江大津宮(667〜672年)。「<遷都>の翌年(668年)1月、称制実に7年にわたったが、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。日本で最初の律令法典となる近江令が制定されたともいわれる。・・・前期難波宮をやや変形・縮小して造営されたものと評価されている。錦織地区は西側の丘陵が湖岸付近まで迫り平地が極端に狭いため、遺構の立地可能な範囲は最大限でも南北700m、東西400m程度とみられる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%AE%AE
そして、668年に今度は高句麗を滅亡させた唐は、日本占領政策を本格化させ、669年の時点では、唐の占領軍は2000名体制になっていた・・・。
更に、670年には、日本において、史上初めて全国にわたる戸籍・・「庚午年籍」・・が作成されているところ、これも、徴税目的を持ったところの、唐占領軍の命を受けて中大兄が実施させられた・・・。
<ところが>、671年に、高句麗の移民達と共に新羅が唐に反旗を翻し、恐らくは、この事態に対応するために唐の占領軍はその時点で日本から引き揚げ、更に、新羅が678年までに、唐軍を朝鮮半島から完全に撤退させてくれたおかげで、日本は、671年に唐の占領下から脱し、その後も、20世紀に至るまで、再び他国に占領されることがなかった・・・。」(コラム#9255)
6 朝鮮半島史の分水嶺--日本文明から支那文明への文明の乗り換え
(1)前史
(農業時代における戦時共産主義的なものであった(コラム#9261)ところの、いわば異常な)支那の律令制度について、日本による継受に比し、新羅の場合は、律令制度そのものについてだけでなく、唐の年号まで用いるなど、支那の国家制度を広範に継受するに至ったわけですが、このこと自体は、すぐ後で記すことからも、決定的な転機であった、とまでは言えないのではないでしょうか。↓
「金春秋<(こんしゅんじゅう)(武烈王)>は<、支那>の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82 前掲
広範に唐の制度を継受したのは、唐の油断を誘って、唐の禍機に付け込んで、朝鮮半島の統一を行うためだった、つまりは、安全保障目的であった、と私は見ています。↓
武烈王の息子で王となった文武王は、「唐が西方で吐蕃<(注15)(N:画像略)>と戦争している隙に反乱を起こして、676年に唐の行政府に駐留する役人や警備部隊を奇襲して殺害、旧百済領と旧高句麗領の南半分を合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E7%8E%8B (文武王)
(注15)「吐蕃<は>・・・670年、唐の安西都護府管轄の安西四鎮・・・を攻め落として天山南路を遮断した。唐は10万の大軍を率いて反撃に出たが、<吐蕃は、>・・・青海湖南の大非川で唐軍を大いに打ち破った(大非川の戦い)。しかし、吐蕃は天山南路の諸都市を統治せず、撤退して東部での戦争を始める。唐はこの戦争で痛手を受けた上、新羅が反乱を起こした(唐・新羅戦争)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%90%E8%95%83
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<吐蕃の仏教国教化と滅亡>
このように、唐と互角以上に渡り合うと共に、インド亜大陸北部や中央アジアまでをも勢力圏としたところの、吐蕃、の滅亡もまた、仏教の国教化がもたらしたもの、のように私には思えてならない。↓
「吐蕃<では、>・・・「チソンデツェン<王>(在位:755年〜797年)」が仏教振興を始め、チツクデツェン<王の時の>820年代に「仏教を国教とし始め」<たところ、>・・・「877年に・・・吐蕃は滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%90%E8%95%83
その後は、小勢力群が分立したり、モンゴル帝国やモンゴル系のオイラトのホシュート部や清に事実上臣従したりした状態で推移する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
なお、チンギス・カンはデュルク系モンゴルたるケレイトととの濃密な関係から、キリスト教に好意を抱いていたと思われる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%88
ところ、無宗教であった可能性が高い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3 (←宗教への言及が皆無)
が、せっかく、彼が史上初めてモンゴル諸部族を統一し、世界帝国を築いたというのに、その衰亡も速かった大きな原因の一つも、私は、「クビライが即位すると、<チベット僧>・・・パクパは元朝の帝師として篤く遇され、・・・チベット仏教はモンゴル諸部族に広く浸透した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
ことにある、と考えている。
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ところが、渤海が勃興したことによって、唐は新羅に復仇するどころか、新羅を懐柔せざるをえなくなり、その結果、その最大の潜在的国であった唐と新羅の関係は安定化したことから、新羅は、文明を共有していた日本との関係を蔑ろにするようになります。↓
「696年に唐と渤海との間に戦端が開かれると渤海により唐と新羅は国境線を接しなくなった<(前出G参照)>。これ以後を韓国や北朝鮮では南北国時代と呼んでいる。
732年、渤海に山東の蓬莱港を占領された唐は新羅に南からの渤海攻撃を要請、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻撃、唐と新羅の関係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅は渤海攻撃の功績が認められ、735年に唐から冊封を受けて鴨緑江以南の地の領有を唐から正式に認められた。・・・
735年(天平7年)日本へ入京した新羅使が、国号を「王城国」と改称したと告知したため、日本の朝廷は無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返した。
<ここの記述は新羅に甘過ぎよう(太田)。↓>
こうして両国関係は、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、日本があくまで従属国扱いしたことにより悪化した。なお、当時、渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣していることも背景にあるとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82
その後、新羅が、一時、日本との関係修復に動いた時期があります。↓
「752年(天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を持ち込んだと推定されている。この際は王子による朝貢であり外交的には日本に服属した形となった。
朝貢の形式をとった意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し極度に緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている。金泰廉は実際の王子ではないとする研究が一部で出されているが、王子の朝貢を演出することによってより積極的な通商活動を意図していた<との>説には確証は無い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82
(2)文明の乗り換え方針の事実上の対日予告
しかし、(新羅自身がどれだけ積極的に関与していたのかは定かではありませんが、)その直後の753年に、日羅間に再び「事件」が起こります。
後から振り返れば、この「事件」は、日本に対する新羅の文明の乗り換え方針の事実上の予告であった、と言えそうです。↓
「日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『(くとうじょ)>旧唐書』や『新唐書』の記述においては、<遣唐使は、>「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。・・・
<吐蕃は朝貢国ではなかったはずなので、ここの記述はおかしいのでは?(太田)↓>
753年の正月に長安の大明宮にて玄宗臨御の、朝貢諸国の使節による朝賀に出席。当初、日本の席次は西畔(西側)第二席、第一席吐蕃の下であり、東畔第一席が新羅(二席大食国の上)であった。すなわち新羅より下位に置かれていたことから、大伴古麻呂は「長く新羅は日本に対して朝貢を行っていることから席順が義に適っていない」として抗議し、日本と新羅の席を交換させている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
(3)文明の乗り換え・・地名の支那化
私は、ここで今から記すことこそ、朝鮮半島史における、朝鮮半島当局による、最大の愚行であり悲劇であった、と考えるに至っています。
唐の決定的弱体化に繋がった、安史の乱は、新羅が唐と再び距離をとる絶好のチャンスであったにもかかわらず、あろうことか、まさにその真っ最中に、新羅は、支那(漢人)文明継受の最終的措置・・地名の支那化・・を断行してしまうのです。↓
「安史の乱」(755〜763)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1
の最中の「757年12月に」<新羅の>景徳王(?〜765年。在位:742〜765年)は、「<新羅>全国各地の地名を固有語から<支那>風の漢字2文字に変更した。また、759年正月には中央官庁とそれに属する官職名についても<支那>風のものに変更している。地名改称については州に所属する郡県の区域の改定も行なっており、単なる美名改称ではなく、従来の三国時代の伝統を考慮した地方行政を律令体制の立場から再編推進しようとする意図のものであると考えられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%BE%B3%E7%8E%8B (「」内)
これが、どんなにべらぼうなことであったかは、北海道にアイヌ人時代の地名が広範に残っていること、人種主義の権化のような米国において、インディアン時代の地名が、そして、カリフォルニアを含む、旧メキシコ領地域で、メキシコ時代のスペイン語の地名が、広範に残っていること、からも明らかでしょう。
地名を全て変えることは、社会に、恐るべき不便と混乱を生み出します。
しかも、それを一挙に行ったのですからね。
ロシアの地名が、例えば、サンクトペテルブルク(ドイツ語)→[独墺との戦争=第一次世界大戦]→ペトログラード(ロシア語)→[ロシア革命]→レニングラード→[ソ連崩壊]→サンクトペテルブルク、と変遷したのは、その都度、革命的変化がロシア社会に起こったからこそですが、新羅の場合は、同国が安定していた絶頂期に決行した、という意味でも、しかも、それが売国的な地名変更であったという意味でも、世界史上、他に例を見ないのではないでしょうか。
その結果、朝鮮半島の人々は、それまでの同半島の歴史と同定できなくなったはずであり、それがもたらしたものは、自らの歴史の廃棄、忘却であり、彼らは、いわば、デラシネ化してしまうのです。
景徳王が、こんなことができたのは、既に新羅において、日本文明に内在的な仁政の思想、伝統が殆ど失われてしまっていたからだ、と解する他ありますまい。
すなわち、既に行われていたところの、国民全体の人名の支那風のものへの変更(すぐ後の囲み記事で紹介)、及び、唐の律令制を含む政治経済制度の広範な導入、という準備を経て、新羅は、ここに、最終的に、日本文明から支那文明へと文明の下降的乗り換えを完結させたのでした。
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[新羅の人名の支那化]
支那では、「春秋戦国時代<に>、・・・平民も姓を称するようになり、民は「百姓」と呼ばれるようになった」、とされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%93
それに対し、「新羅で姓が用いられるようになったのは6世紀からのことと見られて」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
おり、その先鞭をつけたのは、新羅の王室であったようだ。↓
「『北斉書』には、565年に新羅の真興王が金真興として歴史書に初めて登場したが、これは金氏姓を最初に使い始めた新羅の人物としての記録とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%A7%93%E6%B0%8F%E3%81%A8%E5%90%8D%E5%89%8D
新羅の人々は、支那の秦人だったのだから、漢人としての、姓名ならぬ名(のみ)をそれまでは持っていた、ということになりそうだ。
(ちなみに、「統一新羅の時代以前<の、新羅以外の、高句麗や百済の人々は、そもそも、新羅の人々とは>まったく違う名前を用いていた。」ようであり、そのことは、「『日本書紀』や『古事記』に見られる朝鮮半島系の渡来人の名<の大部分が支那>式の名・・・ではなかったことからもわかる。」
例えば、<渡来人ではないが、>高句麗王朝末期の貴族、淵蓋蘇文は・・・『日本書紀』の「伊梨柯須弥」という表記から当時の高句麗では「イリ・カスミ」と発音したことが知られて<いるところ、>「イリ」は高句麗語で淵を意味すると言われており、日本語の訓読みに類似した表記方法、「カスミ」を「蓋蘇文」とするのは漢語の発音を用いて高句麗語を表現した、日本の万葉仮名に類似した表記方法と考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%8D#.E4.B8.AD.E5.9B.BD.E4.BA.BA.E3.81.AE.E5.90.8D.E5.89.8D
どうやら、女真系の高句麗や百済の人々は、新羅の人々とは違って、姓的なものと名的なものからなる人名を持っていたようだ。)
さて、「統一新羅の成立と共に・・・唐の律令制度を取り入れながらも、位階などの名称は旧称のままで残されたりもした<のだ>が、8世紀半ばには唐風に改められてい<るところ、>・・・この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、・・・漢族・・・風に改められていく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
<具体的には、この> 南北国時代(統一新羅と渤海の並立時代)<において、統一>新羅では・・・<支那>との交流が頻繁な階層の人々がいち早く姓を作って使い始めたと推定されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%A7%93%E6%B0%8F%E3%81%A8%E5%90%8D%E5%89%8D
結局、統一新羅中の、三国時代の新羅の人々の子孫にとっては、名はもともと漢人的なものが多かったと考えられる上、6世紀以降に使われるようになった姓も漢人的なものが多かったと考えられることから、新羅の人名の支那化といっても殆ど空振りであった可能性が高いし、他方、三国時代の高句麗の人々の子孫にとっては、彼らの祖先は日本文明下にあったとは言えないことから、改名は日本文明から支那文明への乗り換えとは関係がない。
結局、三国時代の百済の人々の子孫にとってだけ、改名は日本文明から支那文明への乗り換えに「寄与」した、ということになりそうだ。
よって、人名の支那化は、地名の支那化に比して、その「重要」性は低いと言ってよいのではないか。
(地名についても同じ、ということにはならない。
秦人は、世界通念に則り(?)、辰韓地域に移民してくる前に当該地域に住んでいた原住民が付けていた地名を秦人も使ったはずだからだ。)
[参考:日本の人名]
「氏姓制度(しせいせいど)とは、古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度。「氏姓の制(ウヂ・カバネのせい)」ともいい、「氏・姓」を音読して「氏姓(しせい)」ともいう。
大化の改新ののち、律令国家の形成におよぶと、戸籍制によって、氏姓はかつての部民(べみん)、つまり一般民衆にまで拡大され、すべての階層の国家身分を表示するものとなった。氏姓を有しない者は、天皇をはじめとする皇族と奴婢のみとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E5%A7%93%E5%88%B6%E5%BA%A6
「氏(うじ、ウジ)は、事実上または系譜上、祖先を同じくする同族とされる家の集団」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F
「姓(カバネ、可婆根)は、古代日本の大和王権において、大王(おおきみ、天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号・・・カバネには有力豪族により世襲される称号として、いわゆる爵位としての性格と、職掌の伴う官職としての性格の二つの側面があるとされ<る。>」例:徳川家康=源朝臣家康、では、徳川が家、源朝臣が姓、家康が名。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%90%E3%83%8D
「ウジ・カバネが制度化される以前の大王(天皇の前身)は、姓を有していたとされる。5世紀の倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、宋との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている。
また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、<支那>風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある。(ただし、<支那>にも2字姓がないわけではない……「諸葛氏」「司馬氏」など)。大王家の「倭」姓は、<支那>の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説も提出されている。
吉田孝は、倭国が5世紀末に<支那>の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4
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付言しますが、この景徳王の時の「天平宝字3年(759年)<、>新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82 前掲
、ということがありました。
日本では、7世紀末ないし8世紀初めから11世紀まで、律令制と裏腹の関係にある徴兵制の軍団が設けられていた・・その中から九州沿岸の防衛のための防人が抽出された・・のですが、826年には対蝦夷戦争が継続中であった東北辺境を覗いて廃止されたということになっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%9B%A3_(%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC) ←軍団
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E4%BA%BA ←防人
しかし、現実には、早くも738年に、朝鮮半島と大陸からの潜在的脅威に備えるための軍団が(佐渡が含まれる)北陸道と西海道(九州)に残されただけで、後の地域では軍団が停止されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%85%90
当時、既に、(私が言うところの、)縄文モード回帰が進行していたのでしょうね。
762年に軍団の若干の増勢がなされた(上掲)のは、新羅征伐の準備のためだったのでしょうが、もともと、無理があった、と想像されるところです。
いずれにせよ、この時、日本が新羅に本格的出兵をしておれば、唐は安史の乱の最中で新羅に援軍を送ることなどできなかったでしょうから、新羅の文明の乗り換えを中止させることができた可能性が高く、そうなっておれば、朝鮮半島は文明的堕落という悲劇を免れ得ていた可能性もまた高かったことでしょう。
次に朝鮮半島が日本文明に回帰するチャンスだったのが、16世紀末の秀吉による朝鮮出兵ですが、その時は、秀吉の死によって頓挫してしまいます。(コラム#省略)
そして、三回目のチャンスは、1910年の日韓併合であり、この時、朝鮮半島は順調に日本文明回帰軌道に乗ったにもかかわらず、その35年後の日本の敗戦によって再び頓挫してしまい、爾後、南北両朝鮮、とりわけ、韓国は、支那文明回帰の度を強めて現在に至っているわけです。
しかし、肝心のその支那が、中共政権の下、日本文明総体継受戦略を推進しており、今や、そのことを見る人が見れば半ば公然化している、ときているのですから、もはや、韓国のトホホな現況を形容すべき適切な言葉が見つかりません。
(4)その結果としての唐の政治経済体制の継受の一層の促進
さて、話を戻して、統一新羅以降の、朝鮮半島の支那化のその後の進展を、ざっとご紹介しておきましょう。
◎律令制
日本における、律令制、就中その中核たる公地公民制、のタテマエは次の通りであり、あたかも、当時、支那と日本の類似性が支那と朝鮮半島の類似性を上回っていたかのように見えます。↓
「律令制とは、古代<支那>から理想とされてきた王土王民(王土王臣とも)、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制であった。また、王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていた。
律令制では、王土王民および一君万民の理念のもと、人民(百姓)に対し一律平等に耕作地を支給し、その代償として、租税・労役・兵役が同じく一律平等に課せられていた。さらに、こうした統一的な支配を遺漏なく実施するために、高度に体系的な法令、すなわち律令と格式が編纂され、律令格式に基づいた非常に精緻な官僚機構が構築されていた。・・・
唐と同様の体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである。<これは、>律令を制定できるのは<支那>皇帝だけであり、<支那>から冊封を受けた国には許されないことだったが、日本は冊封を受けておらず独自に律令を制定<できたためだ>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6
しかし、その実態といえば、唐でさえ、律令制の中核たる公地公民制は徹底した実施はされておらず、日本に至っては、ほぼ実施されなかったようです。↓
「ただし、唐代の江南地方では兵役がほぼ免除されていたり、日本では東国(関東)ばかりが防人の兵役義務を負っていたなど、必ずしも一律的に兵役が課されていないという実態があった。・・・」(上掲)
「班田収授は唐の均田制を参考にしたものであるが、その手本となった唐が780年に両税法を施行し既に均田制が崩壊しており、このような制度を当時の日本が導入する事自体に無理があったと言える。そもそも、均田制や租庸調は粟を主食・徴税対象としていた華北・中原(旧北朝地域)の支配に則した制度であり、稲を主食・徴税対象としていた華中・華南(旧南朝地域)では完全に実施されていなかった可能性もあり、日本の班田収授法は牛が耕作に広く導入されていた華中・華南の水田耕作規模と比較しても過大であったとする指摘もある。また、班田収授法に基づいて班給・収公される「公地」が、本当に実態として存在したのかにも疑問が呈されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E7%94%B0%E5%8F%8E%E6%8E%88%E6%B3%95
「成立直後の新政府の実力で、長い間、世襲的に保有してきた、貴族と豪族の私有民と私有地とを、一片の法令で政府に集中することが可能であったろうか。むしろ新政府当局者がその不可能を知り、実施した場合の多くの反撃を予想したからであろう。政府は予かじめ公地公民制の実施と同時の食封(じきふ)の制を約束した。食封というのは一定戸数が政府に納めるべき貢租の一部もしくは全部を、貴族豪族の地位に応じて与える制度である。後に彼等は新しく整備される官制の下で、新たな官職にもついた。この改新によって貴族、豪族の地位にも権力にも変化<は>生じなかった・・・。」(木村時夫<(注16)>「大化改新の虚構と真実」13頁)
http://biblioteca.universia.net/html_bura/ficha/params/title/%E5%A4%A7%E5%8C%96%E6%94%B9%E6%96%B0%E3%81%AE%E8%99%9A%E6%A7%8B%E3%81%A8%E7%9C%9F%E5%AE%9F/id/38432101.html
(注16)1920〜2009年。政治学者。早大文卒、早大社会科学部教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%99%82%E5%A4%AB
それに対し、統一新羅ではどうだったのでしょうか。
唐でさえ徹底した実施はしていなかった律令制(公地公民制)を、国王側は徹底実施を図ろうとし続けたため、それに抵抗する貴族勢力との衝突が長期にわたって続き、国内は混乱し、それを契機に、新羅は衰退していくのです。↓☆
「恵恭王[(758〜780年。在位:765〜780年]の時代の新羅では律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立は顕在化し、反乱が多数発生する。768年7月には貴族連合体制復活派とみられる大恭・大廉の兄弟の反乱が発生し、王都を33日間包囲するが、王の軍隊が平定した。770年8月には律令体制推進派と見られる金融の反乱、775年6月に貴族連合体制復活派の金隠居の反乱。775年8月には律令推進派の廉相、正門が反乱を企てたことが発覚して誅滅された。776年正月には新羅政府は教書を出し、律令体制を強固に推進した景徳王が唐風に改名した百官の名称を、旧来のものに戻した。貴族連合体制派への譲歩であったと見られる。
8世紀の終わりに新羅の国内が混乱すると、再び日本に慇懃な態度をとるようになり[恵恭王は]、宝亀10年(779年)、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した。この調は、日本が新羅に要求し続けた念願の品であった。・・・
780年2月、伊飡<(いさん)(注17)>の金志貞が反乱を起こし宮中を包囲する。
(注17)「新羅における17等級の官職のうち、第二位にあたる官職。」
https://books.google.co.jp/books?id=VlpWBAAAQBAJ&pg=PT242&lpg=PT242&dq=%E4%BC%8A%E9%A3%A1&source=bl&ots=a-BO6eSAxN&sig=gcmC9oGVeGJ4eYH41SGaZVDF_xY&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwj3ydj9wPDXAhWDbbwKHfCZDb8Q6AEISzAE#v=onepage&q&f=false
同年4月、金良相(後の宣徳王)が金敬信(後の元聖王)とともに挙兵し、金志貞を滅ぼす。この戦乱の中で金良相によって]恵恭王も王妃ともに殺害された。この8世紀末の新羅では、780年に武烈王の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位簒奪や王都内での反乱が頻繁に発生する様になった。また災害や飢饉、また相次ぐ反乱や内戦、また渤海(698年 - 926年)との対立などもあり、新羅は衰退する。
日本では780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82
「新羅の内部でも「下代」として時代の変わったことを認識されることとなり、以後王位簒奪が相次ぐこととなった。宣徳王自身は王となってから5年余りで死去した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%BE%B3%E7%8E%8B ([]内も)
その結果、尻に火が付いた、新羅側の働きかけにより、日羅関係は一時的に好転します。↓
「恵恭王による日本への御調朝貢
8世紀の終わりに新羅の国内が混乱すると、<新羅は、>再び日本に慇懃な態度をとるようになり、宝亀10年(779年)、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した。この調は、日本が新羅に要求し続けた念願の品であった。また、新羅の混乱により多数の難民が日本列島へ亡命し、大量に帰化を申請する事態が発生するが、日本側は、「蛮国」の人民が天皇の徳を慕って帰化を願うことは、日本における中華思想にかなっていたため、帰化を許可した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82 前掲
◎宦官制度
また、日本では導入しなかった宦官制度を、新羅は導入してしまいます。↓
「日本では・・・「宦官制度」は記録に残るかぎりでは存在しなかった<のに対し、>・・・朝鮮<では、支那>に倣い、・・・官僚機構に宦官制度を導入し・・・<少なくとも>9世紀にはすでに宦官制度があったことが分か<ってい>る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A6%E5%AE%98#.E6.9C.9D.E9.AE.AE
◎科挙
更にまた、新羅は、日本同様、科挙のそのままの導入には躊躇したものの、やがて、李氏朝鮮時代に、完全実施するに至ってしまいます。
元聖王 「788年には官吏登用の制度として、科挙に類似する「読書三品」を定めたように、儒教的・律令体制的な政策を打ち出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%81%96%E7%8E%8B
「788年新羅元聖王の時に唐の影響で読書三品科を設置して科挙を導入したが、新羅の身分制度である骨品制の維持のため官吏抜擢には限界があった。・・・
<ところが、>李氏朝鮮時代の科挙・・・<で>は良民以上なら誰でも応試が可能<にな>った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%91%E6%8C%99
7 終わりに
口述
<皆さんとディスカッション(続x3551)/朝鮮論II--朝鮮半島史の分水嶺>
<太田>(ツイッターより)
「<異種武道大会>なぎなた女子、剣道男子を降す 香川…」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171207-00000017-mai-soci
蘊蓄、オフザケだらけの書き込みが、滅法面白い。
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/5303297.html
こーゆー活発な議論を、太田コラムについて、(モチ、女性達も含めて、)大勢の人々がやってくれるようになる日が来るといいんだけどねえ。
「…受験で合格に必要なものは何か。満点を取ることじゃないですよ。
ちゃんと戦略を立てて、得意な科目でしっかり稼いで合格してください。…」
http://www.asahi.com/articles/ASKD64RDKKD6UEHF008.html?iref=comtop_list_edu_f02
理系が得意な人だけに当てはまる助言かも。
僕の場合は不得意な理系、就中数学ばっかしやって、結果的には総合学力が急上昇したな。
<kuV3jOyw>(「たった一人の反乱(避難所)」より)
「女系天皇「皇祖神は女なのに何でダメ?」 自由・小沢氏・・・」
http://www.asahi.com/articles/ASKD84VGPKD8UTFK00R.html
この人まだいたのか。でもそういうことならもっと言ってやれ。
<太田>
その他の記事の紹介は、明日に回します。
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<太田>
<X299パソコンで>USB-DACを通じてのサウンドが聞こえなくなりました。・・・
「システム」のところ、「デバイスのパフォーマンスと正常性」に三角の注意マークがついており、調べると、「Kabylake PCI Express Root Port#10-A2B1のドライバーに問題があります」とありました。
このことと関係があるのかどうか不明ですが・・。
昨日は、一日、サウンドを聞く機会がなかったように思います。
一昨日、既定のアプリでVLC media playerを選択したことが関係している?
<K.K>
これは、現時点では関係ないかなと思います。
<太田>
<確かに>そんなことはない<ですよね>。
昨日、youtubeで藤井四段等の動画を視聴してますからね。
<K.K>
使用しているUSBポートは、マザーボードの方でしょうか、それとも増設ボードの方でしょうか?
<太田>
CDトレイ等が収納されている扉のすぐ上のUSB2.0ポートだったのですが、今、その隣の3.0ポートに付け替えたところ、「USB−DACを認識しました」的な表示が画面に出、視聴してみたところ、やっぱり音がしませんでした。
<K.K>
フロントパネル(パソコンケースの上面)の方のUSBポートは、増設ボード経由のUSBポートになります。
おそらくは、USBボードのドライバかチップセットドライバの問題だと思います。
不都合がないのであれば、背面のマザーボードのUSBポートにUSB DACを接続して、音が出るか確認してみてください。
<太田>
<音は>出ません<でした>。
ケーブルが短いので、反対側のUSBポートに接続するのは大変でした。
なお、イヤホンジャックからは音は聞こえます。
<K.K>
これ以上の対処は、今日は無理だと思います。
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もしかすると、Windows 10 Fall Creater Updateのクリーンインストールでは、HD-DAC1(←これですよね?)のドライバを入れないと音が出ないかもしれないです。現時点で、ドライバはインストールしていなくて、Windowsの汎用ドライバですよね?
<太田>
Marantzのドライバーをインストールしてあります。
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一人題名のない音楽会です。
交響曲の隠れた名曲シリーズの2回目です。
今回は、リヒャルト・ワグナー(Richard Wagner)(注a)の登場です。
彼の楽劇シリーズよりも、むしろ良いのでは?
(注a)注釈は不要でしょうが・・。1813〜83年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC
Symphony in C Major(1832)(注b)
https://www.youtube.com/watch?v=RJNNJTRD1GQ
(注b)「ワーグナーが完成させた唯一の交響曲。」19歳の時の作品。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2_(%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC)
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--朝鮮論II--朝鮮半島史の分水嶺--
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[目次]
1 プロローグ
2 広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像
3 かつて朝鮮半島南部と日本列島は同一文明圏
(1)総論
(2)諸傍証
ア 古代地理
イ 倭への敬意に基づく朝貢
ウ 新羅は文字通りの日本文明国だった
[総括]
[王統]
[支配層等における男女両系制]
[男系女性首長の輩出]
[仁政の伝統]
エ 補論1:シャーマニズム
オ 補論2:沖ノ島
4 日本文明内での支那文化の東伝
(1)人
(2)漢字
(3)道教
(4)儒教
(5)仏教
5 日本文明存亡の危機を救った新羅
6 朝鮮半島史の分水嶺--日本文明から支那文明への文明の乗り換え
(1)前史
(2)文明の乗り換え方針の事実上の対日予告
(3)文明の乗り換え・・地名の支那化
(4)その結果としての唐の政治経済体制の継受の一層の促進
◎律令制
◎宦官制度
◎科挙
7 終わりに
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1 プロローグ
プーチンは2005年に「ソ連崩壊は20世紀最大の地政学的悲劇」と述べたが、その伝でいくと、「〇は朝鮮半島最大の地政学的悲劇」の〇とは何か?≪(コラム#9218。太田)
こう読者諸氏に問題提起した後で、「<新羅の>文武王<によって>・・・、7世紀後半に、朝鮮半島の韓民族の統一王朝が、初めて支那の冊封体制の下に置かれ、以後、その状態が、20世紀初頭まで続くことになった」(コラム#9202)と書いたことがあったので、このことではないのか、と指摘してくる読者が現れるかな、と思っていたのですが、結局、現れませんでしたね。
もっとも、これ、私の頭の中にあった正解とはちょっと違うんですが・・。
さて、この問題提起を行って間もなく、それを、「狙いは文明継受、しかしそれに失敗し、結果は安全保障弱体化・・・的な地政学的悲劇」(コラム#9222)、と言い換え、更に、「「狙いは安全保障強化、しかしそれに失敗し、結果は文明継受」「的」な、逆のケース、も対象にしてみてください。」(コラム#9224)と補足したわけですが、それまでとその直後に、様々な解答案が寄せられました。
実は、私の頭の中には、新羅の、「朝鮮半島南部の統一、北方における領域の拡大、それらの成果の保全、という安全保障の観点から、結果として、日本文明から支那文明へと文明転換を行ってしまった、という地政学的悲劇」、というイメージが最初からあったものの、問題提起した時点では、それが一体いつ起こったのか、換言すれば、いつ不可逆的なものになったのか、依然として模索している状態だったのです。
読者諸氏からいただいた諸解答案も参考にしつつ、ようやく、それは統一新羅の時代の757年である、という結論を出したのが8月5日でした。
(白村江の戦いを挙げた回答とモンゴルによる高麗の武臣政権の打倒を挙げた回答にニアピン賞をを差し上げようとしたものの、どちらの方にも賞を受け取っていただけなかったことはご承知の通りです。)
どうして私がそう考えるのか、をご説明するのが、本日のお話の主眼です。
2 広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像
国宝の彫刻の部の第一号、つまりは、日本人達が、日本に存在する諸彫刻中、最高の作品である、と衆目認めているのが、京都の広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(画像A略)です。
それが、新羅から伝来したのか国内で造像されたものか、はっきりしない、ということは、7世紀当時、日本と朝鮮半島とが、美意識、というか、精神世界、を共有していた可能性が高いことを直感させます。
朝鮮半島といっても、それが新羅であり、かつまた、広隆寺が、もともとは帰化人系・・漢人系にして新羅系・・の秦氏の氏寺であったこと、を、この際、頭に入れておいてください。↓
「京都府京都市太秦の[、かつて帰化人系の氏族である秦氏の氏寺であった、真言宗の]広隆寺霊宝殿に安置されている「宝冠弥勒」(国宝彫刻の部第一号)は、右手の薬指を頬にあてて物思いにふける姿で知られる。しかしこの像は、当時多くの仏像が楠で造られているのに対して赤松で造られているため、『日本書紀』記載の推古31年(623年)に新羅から伝来したものとする説が有力であった。ところが1968年、大きく抉られた内繰りの背板に楠材が使用され、背部の衣文<(えもん)>もこれに彫刻されていることが判明し、断定できなくなっている。 この像の右の腰から下げられた綬帯(じゅたい)は、以前から楠木であることは知られていたが、これは後に付加したものとして考慮されていなかったが、二箇所の、特に背板に楠材が使用されていることは、楠が朝鮮半島南部に自生しているが、日本での使用例が多いため、日本で造像された可能性も出てきた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E8%8F%A9%E8%96%A9%E5%8D%8A%E8%B7%8F%E6%80%9D%E6%83%9F%E5%83%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA ([]内)
「秦氏<は、>・・・秦人が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮)。
新羅系渡来氏族。聖徳太子に仕えた秦河勝<(はたのかわかつ)>は新羅仏教系統を信奉していたが、これは蘇我氏と漢氏<(あやうじ)>が百済仏教を信奉していたのと対照的である(平野邦雄・直木孝次郎・上田正昭)。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F 上掲
なお、新羅から伝来したと今年認定されたところの、もう一つの国宝級の弥勒菩薩半跏思惟像があるのですが、その容貌は、広隆寺のものにそっくりです。(画像B略)
この仏像についての専門家の解説を読むと、やはり、当時、支那とは画然と区別されるところの、精神世界を、日本と朝鮮半島、就中、新羅、とが共有していた、という感を深くします。↓
「妙傳寺(みょうでんじ)は、京都府京都市左京区にある天台宗の寺院・・・当寺の・・・半跏思惟像は江戸時代の作と考えられていたが、大阪大学や東京国立博物館の研究者が鑑定したところ、像の様式や金属組成が6世紀から7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像や出土品の特徴と一致するとの見解が、2017年(平成29年)に発表された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E5%82%B3%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%B7%A6%E4%BA%AC%E5%8C%BA%E5%85%AB%E7%80%AC%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%94%BA)
「半跏思惟像は<支那>では弥勒ではなかったが、おそらく朝鮮半島で弥勒として信仰されるようになり、それが日本に伝えられたと考えられる。
<また、支那>の単独の半跏思惟像はすべて石造であるが、韓国や日本には本像のような金銅<(注0)>仏が数多く伝来している。・・・
(注0)「銅に金の鍍金を施し,あるいは金箔を押したもの。鍍金技法は,日本には仏教とともに大陸から伝来し,仏像,仏具,建築金具,装身具に用いられた。」
https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E9%8A%85-67456
<この>像を<支那>の仏像史のなかにそのまま位置付けることは難しく、むしろ朝鮮半島において古様を継承しながら新形式を採用した作例とみるのが自然である。
そして、初唐の要素を受容していることに鑑みれば、その制作は7世紀中葉とみられる。
さらに成分分析の結果を踏まえるならば、三国時代、とりわけ新羅における制作の可能性がもっとも高いと思われる。
そして、それが妥当であれば、<日本のみならず、>韓国でも国宝級の像といえるだろう。」(學士會会報2017IV48、51頁)
ところが、いつしか、朝鮮半島は、日本、ではなく、支那、と精神世界を共有する・・但し、片思い的にですが・・ようになるのです。↓
「韓国人の「文化」<と形容されるべき>、文化はシナ文化しかなく、自分の文化には関心がなかった。だから彼らは「入ってきたら内の物」だと思う。剣道も華道も韓国起源、孔子は韓国人だったという。外国人はこうのたまう彼らの文化(?)を俗にウリジナルといっている。実に身もふたもない。・・・・
なぜ彼らは受容しても自分の文化だと思うのだろうか・・・コリアンはシナ文化しかなかったので、文化に関心を持たなかった<のだ>・・・。
大阪市大の野崎充彦<(注1)>さん(朝鮮古典文学の専門家)は、長い研究の末、「朝鮮古典文学の特徴は・・・舞台も主人公もほとんどシナだから・・・朝鮮の不在である」という結論に達してしまった。」(古田博司・筑波大学大学院教授)
http://www.sankei.com/column/news/171107/clm1711070004-n1.html
(11月7日アクセス)
(注1)野崎充彦(のざきみつひこ。1955年〜)は、「朝鮮古典文学者、大阪市立大学教授。専攻は朝鮮古典文学・文化史。・・・関西大学法学部卒。90年大阪市立大学大学院後期博士課程(中国文学)単位取得退学。大阪市立大学助教授、2002年「朝鮮異人伝承論」で大阪市大文学博士。教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%B4%8E%E5%85%85%E5%BD%A6
これはまことに不思議なことだ、と思われませんか?
3 かつて朝鮮半島南部と日本列島は同一文明圏
(1)総論
何はともあれ、表記が、本日の私の「講演」の出発点であるところ、このことから、まず、ご説明しましょう。
1975年に、スタンフォード大の学生寮たる高層マンションの部屋をシェアしていた韓国人留学生のユン・チャンホ君と、任那なる日本領がかつて存在したかどうかを巡って議論になり、その折、私は、朝鮮半島南部と北九州は同一文化圏だった可能性が高く、日本領が朝鮮半島南部にかつて存在したかどうか、など、そもそも、意味のない議論だと思う、といった指摘をし、彼がそれにも反発したこと、を鮮明に覚えています。(コラム#262)
今となっては、当時のこの私の発想が、いつ頃からのもので、いかなる根拠に基づいていたのか、を思い出せません。
ひょっとすると、私が朝鮮半島に結構関心を抱いていた、高校時代まで遡るのかもしれません。
話を戻しますが、今年に入ってから、朝鮮半島史に取り組み始めてから、朝鮮半島南部と北九州ならぬ、日本列島、が、そもそも、同一文化圏ならぬ、同一文明圏、だったのではないか、という気が、改めてし始めてきていました。
そんな私の背中を押してくれたのが、詠み人しらずの、下掲のサイトでした。↓
「約6000年前の縄文中期に縄文海進(C:画像略)が起こっています。海が内陸奥まで入り込み、全国の平野部はこの縄文海進によって作られたと言われています。
北部九州の低地にある縄文集落は水没してしまいます。・・・佐賀の東名<(ひがしみょう)>遺跡
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%90%8D%E9%81%BA%E8%B7%A1 >
が泥に埋まった状態で出土したことが、 当時の状況を表しています。
九州の縄文土器の年代を調べますと、約7000年前以前の土器と約4000年前以降の土器は見つかりますが、縄文海進の起こった約6000年前から約5000年前の土器はほとんど見つかっていないのです。
一方韓国国立中央博物館から出されていた朝鮮半島の古代年表を見ますとこれ以前の遺跡が無く、縄文海進の起こった約6000年前から突然北部九州の縄文土器によく似た櫛目文土器が出土し始めているのです。
縄の材料は葦や稲ですが朝鮮半島は葦の生育圏から外れているため縄文土器を作ることができず、仕方なく櫛で模様を付けたものと解釈できます。・・・
北部九州で土器がなくなった後すぐに朝鮮半島からよく似た土器が作られていることは、人が移り住んだ何よりの証拠と言えるのではないでしょうか。
頻繁な交流をしていたにもかかわらず言葉の障害が見られないなど、 多くの謎が同じ日本人通しだったことで理解できると思います。
またその後成立した国通し<(ママ)>の指導者が海を隔てて血縁関係にあったからこそ、沖ノ島に納められたお宝を奪い合わなかったのではないでしょうか。」
http://news-ssu.com/post-3897-3897 ※
上掲の筆者は、縄文海進(注2)の結果、縄文文化が朝鮮半島に伝播した、と主張しているわけです。
(注2)「最終氷期の最寒冷期後、約19000年前から始まった海面上昇は、沖積層の堆積より速かったので、日本では最終氷期に大河によって海岸から奥深くまで浸食された河谷には海が入り込<んだ。>・・・
<日本列島では>約6,500年前<(紀元前4500年)>〜約6,000年前<(紀元前4,000年)>にピークを迎え、ピーク時の海面は現在より約5m高く、気候は現在より温暖・湿潤で平均気温が1〜2℃高かった。・・・
最寒冷期後の海面は、氷床から遠く離れた場所で年速1〜2cmで100m以上上昇した。しかしこの現象が見られるのは氷床から遠い地域だけであり、氷床のあったイギリスや北米などでは見られない。これは、氷床が溶け重みがなくなり、海面上昇速度よりも速く陸地が隆起したからである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%B5%B7%E9%80%B2
しかし、残念ながら、下掲の通説を踏まえれば、土器等の伝播は双方向であったと考えられます。↓
「縄文時代前期[(約6千年〜5千年前)]に日本列島の九州から南西諸島まで広まった曽畑<(そばた)>式土器も、朝鮮の櫛目文土器の影響を強く受けたと考えられている。同時代には他に朝鮮半島に起源があるとされる「結合式釣り針」、日本列島に起源があるとされる「隆起文土器」、「鋸歯尖頭器・石鋸」など南朝鮮と九州に共通する文化要素が見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%9B%E7%9B%AE%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3#.E7.B8.84.E6.96.87.E6.96.87.E5.8C.96.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E7.9A.84.E5.A4.89.E9.81.B7 ([]内)
とはいえ、「朝鮮<半島>では、櫛目文土器時代中期(紀元前3500年から紀元前2000年頃)に雑穀などの小規模な栽培が始まったと見られる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E8%BE%B2%E6%A5%AD
ところ、「福井県の鳥浜貝塚の前期<(紀元前4000年〜3000年)>の層から栽培植物(アズキ、エゴマ、ウリ、ヒョウタン、ゴボウなど。)が、早期<(紀元前8000年〜紀元前4000年)>の層からヒョウタンが<、>検出されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
というのですから、北九州の小規模雑穀栽培が縄文海進によって壊滅し、北九州の縄文人が文化交流のあった朝鮮半島南部に移住し、小規模雑穀栽培、要するに原初的農業、を伝播させた可能性は否定できないのではないでしょうか。
(なお、北九州が「遅れて」いて、縄文海進以前に小規模雑穀栽培が行われていなかったという可能性は、「北部九州の後・晩期<(紀元前2000年〜紀元後300年)>遺跡の遺物で焼畑農耕が行われていた可能性が高いと考えられている」(上掲)ほど、北九州が「先進的」な地域であったことからすれば、考えにくいところです。)
この私の見立てが正しければ、少なくとも※の結論(だけ?)は正しいのであって、この時点で、日本列島、いや、(縄文文化の多様性説を踏まえれば、)少なくとも九州北部、と、朝鮮半島南部、とは同一の縄文文化圏になった、ということになりそうです。
それだけではありません。
私見では、「同一の・・・文化圏」になったところの、「少なくとも九州北部、と、朝鮮半島南部」は、弥生時代においても、同一文化圏であり続けた可能性が大なのです。
というのは、「弥生時代の開始年代は<今から3000年前の>紀元前10世紀であり、日本における水稲稲作<(注3)>の開始時期は朝鮮半島に先行する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA#.E7.94.A8.E8.AA.9E.E5.A4.89.E6.9B.B4.E3.81.AE.E7.90.86.E7.94.B1.E3.81.A8.E8.83.8C.E6.99.AF
というのですから、日本列島、この場合も恐らく北九州、から、弥生人が朝鮮半島(南部)に水稲稲作、を持ち込んだ可能性が高い、と思われるからです。
(注3)「イネ(Oryza sativa)には、ジャポニカ(日本型)とインディカ(インド型)などの亜種があり、ジャポニカはさらに、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)に分かれる。・・・
列島へは、まず熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播した。・・・
縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。・・・
<他方、>温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している<ところ、>弥生時代以降の水稲<は>温帯ジャポニカであるとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3 前掲
但し、弥生人が朝鮮半島南部に持ち込んだ水田耕作は、直播方式によるものだけだった、ということになりそうですが・・。(注4)
(注4)「縄文時代晩期から古墳時代にかけての水田遺構が日本各地で発見され、移植栽培の痕跡とみなされる株跡が数多く検出されており、日本でも田植えが古くから行われていたことが裏付けられて<は>いる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A4%8D%E3%81%88
ものの、「<弥生時代の>のイネの栽培技術はまだ未発達でした。それでもイネの種もみを直接水田にまく直播(ちょくはん</じかまき>)法とともに、苗代で育てた苗を田植えで本田に移す移植栽培法も行われていたようです。耕地としては湿田だけでなく、半湿田ないし半乾田も利用されていました。」
http://www.komenet.jp/bunkatorekishi01/23.html
「昔 … 種籾(たねもみ)を直接田んぼに撒く
今 … 種籾を発芽させて15cmほどの苗まで育ててから田植えする
昔 … 実った穂の部分だけを刈り取って収穫する
今 … 稲の根本から刈り取って収穫する」
http://www.okomehp.net/history/history002
(もっとも、最近、日本で、直播法への復帰の動きが出て来ているようだ。↓
http://www.msn.com/ja-jp/money/news/%EF%BD%A2%E7%94%B0%E6%A4%8D%E3%81%88%EF%BD%A3%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%8D%E8%A6%81%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%82%82%E3%81%97%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84-%E3%82%B3%E3%83%9E%E3%83%84%EF%BD%A5%E5%9D%82%E6%A0%B9%E6%AD%A3%E5%BC%98%E7%9B%B8%E8%AB%87%E5%BD%B9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC/ar-AAoWlkN?ocid=iehp#page=2
(8月3日アクセス))
「<朝鮮半島では、>無文土器時代(紀元前850年から紀元前550年頃)には南朝鮮で大規模な水田も作られた。・・・
<現在でも、>朝鮮半島北部では畑作、南部では水田が多い。・・・
<但し、>朝鮮では稲作は、長い間、主に陸稲や水稲の直播栽培が行われ、田植えが広まったのは、李氏朝鮮後期になってからである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E8%BE%B2%E6%A5%AD 前掲
そう考えることによって、「後に狗邪<(くや)>韓国(金官国)<(後出)>そして任那<(後出)>となる<朝鮮半島南部の南部>地域は、弥生時代中期(前4<〜>3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3
ことも、腑に落ちる、というものです。
以上から、縄文文化部分が日本のそれに比べると脆弱ではあるけれど、縄文文化を基調として弥生文化と組み合わされたところの、日本文明、と極めてよく似た文明を、朝鮮半島南部は日本と共有していた、換言すれば、紀元前1000年紀央以降の時点において、朝鮮半島南部と日本とは、ほぼ同一文明圏を呈していた、というのが私の新説です。
いかにも奇矯な新説だと思われるかもしれませんが、今まで、どうして、そう明確に唱えた人が出なかったのかがむしろ不思議でなりません。
この説の諸傍証を、以下、適宜、列挙してみましょう。
(2)諸傍証
ア 古代地理
最大の傍証は、(既に、若干言及したところですが、)朝鮮半島の313年までの歴史地理です。↓
「漢四郡(かんのしぐん)は、朝鮮半島の中・西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、紀元前107年に設置した玄菟郡の郡・・・のことである。各郡の位置については諸説ある。朝鮮四郡(ちょうせんしぐん)ともいう。
<支那>王朝は313年までおよそ400年もの間、朝鮮半島中部・北部を郡県により直接支配し、また朝鮮半島南部に対して間接統制を行った。漢四郡に先立って、紀元前128年に漢は蒼海郡を置いた。漢四郡のうち、真番郡と臨屯郡は早く廃され、玄菟郡は朝鮮半島から西に移ったが、204年には朝鮮半島に新たに帯方郡が置かれた。楽浪郡と帯方郡は313年まで存続した。紀元前107年に設置され、高句麗の攻撃により遼東に撤退した313年までの400年間、平壌の存在した楽浪郡を通じて<支那>王朝の政治的・文化的影響を朝鮮に与え、また朝鮮も主体的にそれを求め、<支那>文明が朝鮮にもたらされ、高句麗の発展は、玄菟郡への服属抵抗が大きな意義を持つという研究があり、楽浪郡・帯方郡の漢人が高句麗王権・百済王権に取り込まれ、高句麗・百済の発展に寄与した。
楽浪郡と帯方郡の故地には、5世紀まで土着の漢人や新移住者の漢人が住み続けた。・・・
<年表
紀元前82年 - 真番郡、臨屯郡を廃する。
[前82年に15県中の9県は廃止となり、残りの6県と玄菟郡の夫租県を合わせた7県は楽浪郡に編入され、臨屯郡は消滅した]
紀元前75年 - 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる。
204年 - 公孫氏が帯方郡を置く。
238年 >- 魏が公孫氏を滅ぼし、帯方郡を支配。
313年 - 高句麗が楽浪郡を滅ぼし、帯方郡も滅びる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%9B%9B%E9%83%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E5%B1%AF%E9%83%A1 ([]内)
上掲の中に出てくるところの、「<支那>王朝」が「朝鮮半島南部<(注5)>に対して<は>間接統制」にとどめたのは、・・そもそも「間接統制」って意味不明ですが、・・どうしてか、という疑問が湧きませんか?
(注5)この「朝鮮半島南部」のAD1世紀頃のイメージ。(D:画像略)
なお、武帝が滅ぼした衛氏朝鮮(コラム#9202)は、「その実在について論争のない朝鮮半島の最初の国家である。中国の燕に出自を持つ<支那>人亡命者である衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)が今の朝鮮半島北部に建国した」国だが、この漢人を支配者とする国が、そもそも、朝鮮半島南部には本格進出をしていなかったわけだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE
更にまた、武帝が、ベトナム北部を征服したのは、外征というよりは、漢人支配地の編入に過ぎない、と以前指摘したところだ(コラム#8511)が、朝鮮半島北部の征服も同じことであることも想起して欲しい。
もう少し具体的に言えば、上掲に登場する漢の武帝(Han Wudi)は、支那の朝貢制度の創設者であるとされている
https://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_Chinese_tributary_system
ところ、「周辺異民族と敵対して多額の防衛費や軍事費を負担するよりも、朝貢を受けて回賜<(かいし)>を与えたほうが安上がりであるという現実もあった<、すなわち、>仮に周辺の異民族を討伐して支配下に置いたとしても、生産性の低い地域に支配領域を広げるだけであり、税収よりも軍事支配のためのコストのほうが上回る」という、朝貢制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2
のロジックからすれば、稲作が行われているところの、従って、生産性が低い(=人口が少ない)とは考えにくい、朝鮮半島南部は、朝貢制になじまない、つまりは、征服し、直接支配してしかるべき地域、であるはずなのに、しかも、その間に大河や山脈といった自然境界もないのに、どうして、彼は、直接支配しようとしなかったのか、という疑問です。
私は、その地域に、倭人達及びその提携勢力の韓人達、という、私の言葉で言えば、縄文性と弥生性を併せ持った、侮り難い、変わった人々が住んでいて、しかも、その後背地として、というか、聖域として、倭人達の本拠地である日本列島が玄界灘の彼方に控えていたから、であり、かつ、その一方で、これら勢力が好戦的ではなく、朝鮮半島北部に脅威を及ぼさなかったからだ、と思うのです。
そのことを間接的に裏付けるのが、220年の後漢滅亡の直後の朝鮮半島南部についての下掲の記述です。↓
「狗邪韓国(くやかんこく)は、3世紀中頃に朝鮮半島南部にあった国。中国正史の『三国志』や『後漢書』に見え、[280年以降に成立した]『三国志』では「其(倭国?)の北岸」、または「韓は南は倭と接する」<とあり、>432年以降に成立した>『後漢書』では「倭の西北端の国」と<あ>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD
([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E6%9B%B8 (<>内)
つまり、支那が三国時代(184〜280年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
であった、3世紀の中頃には、『後漢書』、と、成立時期等から、より信頼性の高い『三国志』、の双方が、朝鮮半島南部の韓(注6)の南側は倭と陸続きであり、その倭の部分に狗邪韓国があった、的なことを記している(注7)わけであり、この時点から時計の針を巻き戻して、AD1世紀の、更にはBC1世紀の朝鮮半島南部の状態を、想像して見て欲しいのです。
(注6)馬韓・弁韓・辰韓のいわゆる三韓(E:画像略)。馬韓は1世紀初から百済となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93
(注7)「『三国志』「魏書」東夷伝倭人条・・・韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。・・・
『後漢書』東夷伝倭人条・・・楽浪郡からその国(邪馬台国)へ去ること一万二千里、その(倭の)西北端の拘邪韓国へ去ること七千余里。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD
(ちなみに、「任那<は、>・・・狗邪韓国の後継にあたる金官国を中心とする<、倭の直接支配>地域<であって>、三韓<中>の・・・弁韓<の全部、>および辰韓の一部、馬韓の一部・・・を含むと看做すのが<日本の>通説である<ところ、>任那諸国の中の金官国・・・を指すものと主張する説もあ<ります>。」
任那という文字の初出は広開土王碑の414年で、その滅亡は562年です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3 前掲
なお、この任那の北側(現在の慶尙南道の一部)に、伽耶=加羅、がありました。
日本列島に見られる前方後円墳が任那にあり、伽耶にはないことから、伽耶は倭の直接支配下にはなかったとする説が有力です。(F:画像略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6#.E9.87.91.E5.AE.98.E5.9B.BD.EF.BC.88.E9.A7.95.E6.B4.9B.E5.9B.BD.EF.BC.89
後に、「唐の軍事力を背景に新羅はその後668年に高句麗を滅亡させ<、朝鮮半島の統一を果たしましたが、>この間の<新羅の>戦力の成長を支えたのは、伽耶<の高度な>鉄生産技術の取得が背景にあったものと見られ<てい>る」ところです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82#.E7.99.BD.E6.9D.91.E6.B1.9F.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84 )
イ 倭への敬意に基づく朝貢
[百済と新羅]
一見、百済と新羅の倭(日本)への朝貢は、単に、朝鮮半島内において、高句麗と倭に北と南から挟まれていたという、地政学的事実の産物であった、と言えそうです。↓
「百済と新羅は高句麗属民で朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となした」(414年に建立された広開土王碑碑文より)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E8%B2%A2%E5%9B%B3
「丁酉年(397年)、百済の阿莘<(あしん)>王は王子腆支<(てんし)>を人質として倭に送り通好する。
(399年)庚子年(400年)高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。このとき新羅の王都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き任那・加羅まで後退する。高句麗軍が追撃すると倭国傘下の安羅<(あら)>の別働隊が新羅の首都を陥落させた為に新羅は奈勿尼師今<(なこつにしきん)>の王子未斯欣<(みしきん)>を人質として倭に送り臣従する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B
しかし、第三国である支那にはいささか異なった景色が見えていたようです。↓
「隋書の倭国伝には「新羅・百濟は、みな俀<(たい)>を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒<(つね)>に使いを通わせ往来す」との記述がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2
「『隋書』では他の<支那>史書が「倭」としている文字を「俀」と記述している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%80%9D%E6%AF%94%E5%AD%A4
つまり、百済と新羅は、倭を「敬い仰」いでいたからこそ、朝貢していた、と。
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[徐福伝説]
朝鮮半島南部諸国・諸地域は、これよりずっと早い時期から、朝鮮半島内の日本の「植民地」、及び、日本「本国」、を「敬い仰」でいた可能性が高い。
そうだったとすれば、そのことが、辰韓等を通じて支那に伝わらなかったはずがない。
徐福伝説↓は、そんな背景があったからこそ生まれたのだろう、と私は見ている。
「徐福(じょふく)は、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士。・・・司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。・・・
東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる。瀛州はのちに日本を指す名前となった。「東瀛(とうえい)」ともいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F
「方士とは・・・ <支那>古代の方術を行なった人。方術とは,卜筮,医術,錬金術などをさす。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B9%E5%A3%AB-132003
実際にも、日本列島は、大昔から、朝鮮半島や支那大陸に比し、相対的に、「長生不老」の地だったのではなかろうか。
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(余談:高句麗と渤海)
三国の残りの一国である高句麗は、長く、日本と敵対関係にあったこともあり、百済と新羅よりも、遅れて、しかし、同様に、倭に対して同じ敬意を抱き始めたようです。
その高句麗と日本の交流は、新羅はもちろんのこと、百済よりも友誼に満ちたものになったようです。↓
「・・・4世紀末から5世紀にかけて、高句麗は倭(日本)と敵対関係にあった<が、>・・・6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭と高句麗との関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。570年に北陸に漂流した高句麗人が「烏羽之表」を携えており、これが正式な国書であると王辰爾によって解読され、初めて国交が開かれたと伝えられる。7世紀前半までの高句麗と倭との国交は文化的な交流に限定されており、特に仏僧の活躍が目立つ。595年に来朝し、後に聖徳太子の師となった恵慈<(えじ)>、610年に来朝した碾磑(みずうす)を製法を伝えたという曇徴は有名である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82
「恵慈<は、>・・・推古天皇23年(615年)・・・高句麗へ帰国した。推古天皇30年2月22日(622年4月8日)に聖徳太子が没したという訃報を聞いて大いに悲しみ、自らも推古天皇31年(623年)の同じ日に浄土で聖徳太子と会うことを誓約して、言葉通りに没したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%85%88
高句麗が滅亡すると、その交流は終焉を迎えますが、日本は、亡命高句麗人達を暖かく迎え入れます。↓
「668年に高句麗が滅亡すると倭に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建郡された。高麗郡大領となる高麗若光<(こまのじゃっこう)には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族だと推測される。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗<(こま)>神社が今も鎮座する。ほかにも『新撰姓氏録』には<6つの>高句麗系氏族が見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82 前掲
ちなみに、その直前の「660年<の>・・・百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む一部の百済人が倭国に亡命し、一部が朝廷に仕えた。また、彼らの子孫が後に日本名を貰い正式に帰化し、さらにその6代後の子孫が高野新笠として桓武天皇の母となったという説がある。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82
と、日本は、亡命百済人達も暖かく迎え入れていますが、これは、百済滅亡時点で、百済が、日本と対新羅同盟関係にあったという背景があります。
(当時、百済は、高句麗とも対新羅同盟関係にありました。)(上掲)
ついでに申し上げておきますが、渤海(G:画像略)が698年に建国されるところ、日本との関係は、以下のように進行します。↓
「713年には唐<の>・・・羈縻体制下に入<ったというのに、>・・・727年、渤海は高仁義らを日本に派遣し日本との通好を企画する。・・・安史の乱<(755〜763年)>に際し、渤海は日本と共同して新羅挟撃を計画したが、これは藤原仲麻呂の乱により計画が頓挫した<といったことまであった。>・・・しかし渤海と唐の関係改善が実現すると、日本との関係は軍事的な性格から文化交流的、商業的な性格を帯びるようになり、その交流は926年渤海滅亡時までの200年間継続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82
「渤海<は、>日本に対して渤海使を派遣し、渤海側は日本に対し「朝貢」をした。当時の日本の国力では、毎年の「朝貢」に対して回賜を行う能力は無く、12年に1度に制限するに至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2 前掲
渤海のこの、一貫した親日ぶりの背景には、上述したような、「同族」の百済と高句麗<(注8)>の滅亡の際の日本の亡命者受け入れへの感謝の念があった、と想像されるところ、それだけだけではなく、やはり、渤海も日本を「敬い仰」ぐに至ったからであろう、と私は見ています。↓
(注8)「<高句麗と>同じツングース系であるところの「靺鞨<が、>・・・高句麗遺民と共に渤海国を建国した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%BA%E9%9E%A8
「百済<は、>・・・民族については、百済王・高句麗王(夫余)等に代表されるツングース系夫余族の国家だったとする説と、ツングース系夫余族の支配層(王族・臣・一部土民)と韓族の被支配層(土民中心)からなっていたとする説の2説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88#.E5.80.AD.E5.9B.BD.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82
というのも、渤海の首都が、日本の平城京を模して造られた可能性が高く、しかも、このことから、渤海は、日本の度量衡を使用していた、とも考えられるからです。↓
「渤海<の>・・・首都上京[龍泉府(じょうけいりゅうせんふ)]は、中央に宮殿、周りに城壁、周囲16kmと、ほぼ平城京と同じ規模である。井上和人は、この都の衛星写真を分析し、平城京造営と同じ物差しを使っているという見解を示した。したがって、首都上京は、長らく中国の長安を真似たものだと思われていたが、平城京の造営は710年、首都上京は755年なので、727年に初めて来日した渤海使が日本から都造りを学んだ可能性がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD) 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BA%AC%E9%BE%8D%E6%B3%89%E5%BA%9C ([]内)
ーーーーーーーーーーーー
ウ 新羅は文字通りの日本文明国だった
[総括]
新羅が、初めて朝鮮半島の統一を達成した・・但し、渤海(698〜926年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)
を朝鮮半島の国にカウントする立場を採れば、新羅時代の大部分は南北時代となってしまうことから、その「栄誉」は高麗のものとなる・・時点頃までは、既に記したように、新羅は文字通りの日本文明国であった、というのが私の認識です。
新羅は、韓人達が住んでいるところに、支那の秦人達が入植し、漢語の秦方言をみんながしゃべるようになった国です。(コラム#9202)
その「新羅<は、>・・・或るとき<辰>韓に属し、あるときは倭に属した」(『職貢図』に係る張庚『諸番職貢圖巻』より)、という「史実」(コラム#8382)が、改めて思い出されます。
その新羅の日本性を、具体的に見ていくことにしましょう。
[王統]
初めて朝鮮半島を統一した新羅に関し、第一に、その王室が、三つの王統から成っていて王統間で王位が禅譲されたという、牧歌的な伝説・・支那史における 尭・舜・禹伝説と部分的に似ている・・ならぬ「史実」を有する(注9)・・ここが、「史実」においては放伐史しか持たない支那史とは決定的に異なる・・のは、同じく牧歌的な、但し、万世一系の日本史と似ていること、第二に、この三つの王室の祖のうち、一人は日本人、もう一人も日本人ゆかりの人物ないし日本人、という伝説があること(注9)、からだけでも、新羅の日本性は濃厚である、と言えそうです。
(注9)三王統:「『三国史記』新羅本紀によれば、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があること、そしてそれぞれに始祖説話を持っていることが伺える。新羅はこの3王統により何度か王朝交代が起きており、それぞれの王統が王位を主にしめていた時代を朴氏新羅(初代赫居世居西干<(かくきょせいきょせいかん)>〜)・昔氏新羅(57年・第4代脱解尼師今<(だっかいにしきん)>〜)・金氏新羅(356年・第17代奈勿尼師今<(なこつにしきん)>〜)と呼ぶ。なお、昔氏新羅時代に初代金氏の王である第13代味鄒尼師今<(みすうにしきん)>が、また金氏新羅時代には第53代神徳王から3代だけ朴氏から王が出ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
朴氏:「朴氏初代の朴赫居世・・・辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。また、瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴赫居世を同定する、またはその同族とする説がある。」(上掲)
昔氏:「昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)・・・倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側と比定される)の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄<(なんかいじじゆう)>の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。」(上掲)
金氏:「金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)」(上掲)「は紀元1世紀の新羅の人と伝えられる・・・。『三国史記』新羅本紀によれば、脱解9年(65年)、時の新羅の尼師今(王)である脱解尼師今が金の箱を見つけ、その中に入っていた男の子が金閼智であり、このため「金」の姓を与えられたとされる。金閼智の子孫の味鄒尼師今が尼師今(王)となり、新羅三王統の一つとなった。17代奈勿尼師今以降新羅王を独占した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%B7%9E%E9%87%91%E6%B0%8F
史実:「有力な勢力となった農民出身の甄萱<(けんけん)>が892年に南西部に後百済を、新羅王族の弓裔<(きゅうえい)>が901年に北部に後高句麗を建て、後三国時代に入る。・・・
統一新羅王朝末期には、52代孝恭王に子がいなかったために朴景暉<(ケイキ)>が推戴されて王位を継承(53代神徳王)し、その後55代景哀王までの3代は朴氏王統となる。なお、新羅最後の王(第56代)敬順王の姓は金氏であり、新羅は王位が金氏王統に戻ってから間も無く滅亡したことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85 前掲
「神徳王・・・(在位:912年〜917年)<は、朴氏たる、>・・・第8代新羅王阿達羅尼師今<(あだつらにしきん)>の23代孫」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%BE%B3%E7%8E%8B
[支配層等における男女両系制]
「<日本の>中世領主の族縁共同体の在り方は・・・男系・女系双方の系譜につらなる人々をその族団構成の主要メンバーとしている結合<である。>」(コラム#9153)ことを踏まえれば、「<7世紀央〜末の善徳、真徳女王>当時の新羅は父系相続制と母系相続制が並存していて、家長(heads of families)には女性が就いていた」(コラム#9245)ところ、これは、核心的社会制度に係る、新羅の日本性を示している、と言えそうです
[男系女性首長の輩出]
「韓国の歴史の中で女王は3人います。この善徳女王、そして真徳女王と真聖女王の3人はすべて新羅の王でした。高句麗や百済には女王はなく、その後の歴史でも女王はいません。」
http://www.coara.or.jp/~mieko/koreahistory/koreahistory9.htm (コラム#9223、コラム#9245、コラム#9249、コラム#9251、も参照)
つまり、新羅においては、ほぼ同時代の日本同様、男系女性首長が輩出したわけです。
[仁政の伝統]
新羅は朝鮮半島を統一したわけですが、それがどうして高句麗でも百済ではなかったのか、です。
常識的には、国力の伸びが相対的に大きく、かつまた、国内の平和が相対的によく保たれていた、ということでしょうが、これは、相対的に新羅において仁政が執り行われていたことを推察させます。
また、時代を一挙に進めると、「8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起き、地方でも農民の反乱が起き、混乱を深めて行った。この乱れは真聖女王[(?〜897年)]の時に一層激しくなり、地方の有力な豪族たちが新羅を分裂させ[、後三国時代<(H:画像略)>の幕開けとなる]。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97
という背景の下、「治世11年にして、<真聖>女王は「盗賊蜂起、此れ孤の不徳なり」と宣言し、「太子」に譲位した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%81%96%E5%A5%B3%E7%8E%8B
というエピソードを見出すことができます。
このような譲位事例は、支那にはありません。
このことは、新羅において、日本のような、仁政の伝統が、そんな時点でも、少なくとも観念上はまだ存続していたことを意味している、と私は解しています。
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[耽羅の日本性]
済州島にあった耽羅も、日本性を彷彿とさせる伝説を有する。↓
「耽羅(たんら、ちんら・・・)は、朝鮮半島沖の済州島<(I:画像略)>に古代から中世にかけて存在した王国である。百済、統一新羅、高麗に内属し、15世紀初め李氏朝鮮に完全併合された。・・・
朝鮮半島本土の諸王国とは異なる独自の「三姓神話」を有し・・・高・梁・夫の三兄弟が、東国の碧浪国(『高麗史』では日本)から来た美しい3人の女を娶り、王国を建国した<、また、>日本の使いが来て開国させた<、とされ>ている。・・・
韓族とは言語系統を異なるものとするのが通説である(これには異説もある)。
『三国史記』では耽羅が476年に百済の文周王に朝貢し、498年に百済の東城王に服属したとある・・・。しかし660年百済が唐・新羅連合軍の侵攻によって突如滅亡すると、・・・662年には新羅に服属したとみられるが、このとき唐から帰国する日本の遣唐使船がたまたま耽羅に寄港し、唐軍の侵攻を恐れる耽羅はしばらく日本に朝貢を送り続けたという記録が『日本書紀』にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%BD%E7%BE%85
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エ 補論1:シャーマニズム
シャーマニズムが生きている先進社会は、朝鮮半島と日本だけです。↓
「宮廷の中でずっと、シャーマニズムが幅を利かせてきたのが朝鮮半島であり、江戸時代になって神道国学の発達を通してかえってシャーマニズムが息を吹き返してきたのが日本である。・・・
とにかく、文明の地で、明確にシャーマニズムが生命力を確保し、正統性を維持し続けられたところは、おそらく、日本と朝鮮半島だけである。」
http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3-rakusho/archives/53968350.html。」
http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3-rakusho/archives/53968350.html
(参考)白山信仰と朝鮮半島
http://blog.goo.ne.jp/sadalon/e/f7f000ce3f6f4556a23c7abfd022069c
(モンゴルと内モンゴルでも、シャーマニズムは死んではいません↓が、どちらも、先進社会と言えるかは微妙です。
http://foreignpolicy.com/2017/07/24/the-shaman-masters-of-hohhot-have-returned-mongolia-china/
(8月2日アクセス))
朝鮮半島については具体的に次の通りです。
私のとりあえずの仮説は、新羅の日本性が一番強かったことから、シャーマニズムは高句麗、百済、新羅の3国の中では、新羅において最も強かった、そして、そのシャーマニズムは、女性が主流であった、というものです。↓
「<新羅の>善徳女王(?〜647年。王:632〜647年)<は、>・・・その呪術者的性格に期待されて王位を継いだ。」(コラム#8384)
「巫俗(日本語読み:ふぞく、朝鮮語読み:ムーソク)は、朝鮮のシャーマニズム(英: Korean shamanism)である。ムーダン(ムダン)(巫堂・・・)というシャーマン(職業的宗教者)がクッ(・・・)という神を憑依(ノリ)させ、お告げを行う祭儀を行う。朝鮮の土着の信仰として、古代から現代に至るまで続いている。 戦前の資料によれば、ムダンの男女比には地域性があり、男性が主流の地域もあれば、女性が多い地域もあった。・・・ 戦後、古い迷信として衰退したが、近年の国家主義的価値観とも連動し、巫俗こそが朝鮮固有の宗教であるという思想が生まれ、表舞台に近年しばしば取り上げられることとなってきている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB%E4%BF%97
日本のシャーマニズムについても、念のために復習しておきましょう。↓
「『魏志倭人伝』に記述された邪馬台国女王の卑弥呼が用いたという「鬼道」もシャーマニズムと言われている。また、神代巻のアマテラス、崇神紀のヤマトトトヒモモソヒメ、仲哀紀の神功<(じんぐう)>皇后などもシャーマンの例として挙げられる。・・・
現代でも、アイヌの「トゥスクル」、下北半島の恐山におけるイタコ、沖縄県周辺のユタ(ユタ(シャーマン)とノロ(祭司)とは役割が異なる)など、各地域にシャーマンに当てはまる事例がある。また都市においてもみられる。また小口偉一は、日本の宗教信仰の基底にシャマニズム的傾向があるとし、新宗教の集団の形成や基盤も同様であるとした。新宗教の教祖らの中には召命型シャーマンの系統に属すると思われるような人がいるのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)については、下掲↓参照。なお、「百襲姫の地位・巫女的性格から、『魏志』倭人伝に見える卑弥呼を百襲姫に、卑弥呼の男弟を崇神天皇にあてる説や、・・・<彼女の墓とされる、>・・・全国の古墳で最古級の3世紀中頃の・・・箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説がある。」(コラム#9183、9191)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%A7%AB%E5%91%BD
オ 補論2:沖ノ島
冒頭に掲げたところの、※が言及していた、沖ノ島(J:画像略)の祭祀の歴史は重要だと思います。↓
「
1.4世紀後半から5世紀にかけて<、沖ノ島の>岩上祭祀/巨石の上で祭祀を行っ<ており>、三角縁神獣鏡<(さんかくぶちしんじゅうきょう)>などの銅鏡が見つかっており、宗像<(むなかた)>氏と関連がある津屋崎<(つやざき)>古墳群の副葬品と共通するものも多い・・・
2.5世紀後半から7世紀にかけての岩陰<(いわかげ)>祭祀/巨石の岩陰で祭祀を行っ<ており>、新羅の都・慶州の大陵苑王墓(世界遺産慶州歴史地域)から出土したものと同じ金製指輪など朝鮮半島由来の遺物が多い・・・、
3.7世紀後半から8世紀前半にかけての半岩陰・半露天祭祀/岩陰に接する平場で祭祀を行っ<ており>、唐三彩など<支那>由来の遺物がみられる・・・
4.8世紀から9世紀末にかけての露天祭祀/岩場から離れた平地で祭祀を行っ<ており>、遺物は滑石製形代類と呼ばれる人や馬に似せた祭祀専用の石製品になり、国内生産品が主体になる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E5%B3%B6
というのですが、支那由来の遺物も見られると言っても、沖ノ島の位置
https://matome.naver.jp/odai/2143813038000794801
を見ると分かるように、この島は、北九州と朝鮮半島の間の対馬の東側の航路・・但し、後出の事情からメインルートではない・・上に位置しているのであり、単にこの航路で、朝鮮半島経由で支那の供え物も運ばれた、というだけのことだと思われます。
では、一体、この祭祀は、どのように始まったのでしょうか。
篠川賢<(注10)>は、2013年に、次のように記しています。
(注10)しのかわけん(1950年〜)。北大文(国史)卒、同大院文学研究科博士課程単位取得満期退学、「日本古代国造制の研究」で北大文学博士。成城大文芸学部助教授、教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%B7%9D%E8%B3%A2
「沖ノ島の神については、本来は、宗像氏の前身集団を含めた地域の集団によって祀られた島神・海神であったとする見方が一般的であるが、・・・『記』『紀』の神話・伝承から導き出せる宗像三女神<(さんじょしん)(注11)>の神格<は>、「北部九州を経由する王権の対外交渉にかかわる海上交通の守護神」<なの>である・・・。
(注11)「宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像神(むなかたのかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる『 道 』の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E4%B8%89%E5%A5%B3%E7%A5%9E
ちなみに、「1185年、宗像氏実が、博多の貿易商・王氏の娘と、宗像氏忠は北宋商人・張氏の娘と2代に渡って中国人と縁組する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E6%B0%8F
さて、<そう>・・・であるならば、そこには、倭王権の対外交渉上の何らかの契機が存在したとみなければならないであろう。そして、その成立時期が4世紀後半に求められるということからすれば、その契機は、これまでも指摘されているとおり、石上神宮<(いそのかみじんぐう)(注12)>所蔵の七支刀<(しちしとう)(K:画像略)>の銘や、『紀』の神功皇后摂政46年〜52年条の一連の記事に示されるところの、百済との公的外交の開始に求めるのが妥当であろう。
(注12)「奈良県天理市布留町にある神社。・・・古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E5%AE%AE
七支刀銘は、次のとおりである。
[表] 泰和四年五月十六日丙午正陽造百錬銕七支刀生辟百兵宜供供侯王□□□□作[裏] 先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世
銘文の釈読をめぐっては、多くの議論が重ねられてきたが、冒頭の「泰和」は東晋の年号の太和とみてよく、それは、西暦にして369年にあたる。また銘文の趣旨は、百済王(近肖古王<(きんしょうこおう)>の世子(のちの近仇首王<(きんきゅうしゅおう)>)が倭王のために七支刀を造り後世に伝え示すということであり、百済王と倭王との関係を対等とする立場での文章と考えられる。そこに百済から(あるいは東晋から)倭への下賜の意味や、逆に献上の意味を見出すことはできないであろう。
一方、『紀』の神功皇后摂政46年〜52年条によれば、百済との公的外交の開始は、およそ次のとおりであったとされる。
<神功摂政>46年3月、卓淳国(伽耶地域の一国)に派遣された斯摩宿禰<(しまのすくね)>は、卓淳国の王から、2年前に百済の使者の久●<(氏の下に一)(くてい)>らが卓淳国にやって来て倭国との通交の仲立ちを求めてきた、ということを聞いた。そこで斯摩宿禰は、卓淳国にて百済に使者を派遣し、百済の近肖古王から倭王への朝貢の意思を確認して帰国した。翌47年、百済の近肖古王は、久●らを遣わして朝貢してきた。その後百済は、毎年朝貢することを誓い、50年、51年と朝貢し、52年には、また久●らを遣わして、七枝刀・七子鏡などの宝物を献上した。
百済を日本(倭)に従属する国として描いているのは、『紀』の認識によるものであり、実際の両国の関係を伝えているとは考え難い。ただ、この一連の記事は、「百済記」に基づいた記事と考えられ、干支<(注13)>二運繰り下げた年のこととみるならば、その記事内容には一定の事実を伝えている部分があるとみられている。
(注13)「十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなり、十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類からなっており、これらを合わせて干支と呼ぶ。・・・10と12の最小公倍数は60なので、干支は60回で一周する。干支には、すべての組合せのうちの半数しかない。例えば、一覧01〜60で5回ある「子」のうちに、「甲子」はあるが「乙子」はない。これは、10と12に共通の約数2があるので、干支の周期が積の120ではなく、最小公倍数の60になるからである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF
神功摂政46年は西暦にして246年に相当するが、二運繰り下げれば、366年、神功摂政52年(西暦252年)は372年ということになる。七枝刀が百済から贈られてきたという後者の記事内容は、まさしく石上神宮所蔵七支刀の銘文と対応するのであり、この頃に、百済との公的外交が開始されたことは事実とみてよいであろう。
また、これらの一連の記事内容からすると、百済との通交は、百済からの要求で開始されたことになる。
おそらくそれも事実であり、百済は、南下を進める高句麗に対抗するため、倭に軍事援助を求めてきたものと推定される。したがって、百済との公的外交の開始は、倭王権による朝鮮半島への派兵という、おそらくはそれ以前には経験していなかった形での通交の開始であり、そこに、沖ノ島祭祀が新たに開始される理由があったのではないかと推定される。
沖ノ島祭祀の内容は、直接に朝鮮半島への派兵を示すものではなく、沖ノ島祭祀を朝鮮半島に対する軍事行動にのみ関わって行われた祭祀と限定的に考えることも正しくないであろうが、その開始は、倭王権による朝鮮半島への派兵を契機とした可能性が高いとみてよいと思う。
一方、百済との通交が始まったことにより、沖ノ島を経由して朝鮮半島に渡るというルートが新しく設置され、以後そのルートがメインルートとなったということでもなかったと考えられる。『魏志』倭人伝によれば、3世紀中ごろの倭と朝鮮半島を結ぶルートは、壱岐・対馬を経由するルートであり、『隋書』倭国伝によれば、7世紀初めころのルートもそれと同様である。
沖ノ島祭祀が開始されたのちも、航海の安全性から、壱岐・対馬を経由するルートが依然メインルートであったことは間違いないであろう。沖ノ島祭祀が、百済の要請に基づく朝鮮半島への派兵を契機として開始されたものであるならば、その派兵のルートは、従来からのメインルートを使用するとみるのが自然である。
沖ノ島祭祀は、玄界灘に浮かぶ孤島としての沖ノ島の位置に由来するところの、あくまで象徴的な祭祀であったとみるのが妥当ではなかろうか。」
http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_52_file.pdf
つまり、篠川は、高句麗の脅威が、百済をして、日本に接近せしめた、と主張しているわけですが、どうして高句麗が「南下を進め」たのか、まで説明していません。
思うに、こういうことでしょう。
後漢が事実上滅亡した黄巾の乱(184年)から支那は分裂時代に入り、後漢消滅、三国時代を経て、晋(Jin。西晋)が280年に支那を一時再統一しますが、316年には早くも滅んでしまいます。
しかし、その前の、301年には内乱状態となり、304年には、いわゆる五胡十六国時代に突入し、311年には、晋は事実上滅亡してしまっていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B
高句麗の美川王<びせんおう)>(Micheon。?〜331年。国王:300〜331年)は、この「西晋の混乱に乗じ、積極的に<晋>領への侵攻を進めた。302年9月には三万の軍隊を率いて玄菟郡に侵入し、・・・311年8月、遼東郡[(遼東(Liaodong)半島)]の西安平<(せいあんぺい)>を襲撃して奪い取り、313年10月、楽浪[(Lelang)]郡に侵入してこれを滅ぼし、翌314年には帯方郡を滅ぼし」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E5%B7%9D%E7%8E%8B
ここに、支那による、朝鮮半島北部の、400年にわたった統治、を終わらせることに成功したのです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Goguryeo
こうして、隋によって589年に支那が再統一される
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
までの2世紀半超の間、高句麗は、基本的に、北方からの脅威を免れつつ、南方攻略に専念できるようになった、というわけです。
これは、朝鮮半島南部の、百済、朝鮮半島内日本飛地、及び、新羅、という、朝鮮半島における日本文明圏の存亡に関わる危機が出来した、ということを意味しました。
高句麗には、漢人達とは違って、領域拡大に関して経済合理的な発想がなかったと想像されます。
というのも、漢人達のかかる発想は、(検証したわけではありませんが、)全球的には、極めて珍しいものだと思われるからです。
私のここでの仮説は、日本との間に、密接な関係にあった朝鮮半島内の日本飛び地、同じく密接な関係にあった日本性の強い新羅、を通じて高句麗からの脅威が聞こえてきていたにもかかわらず、覚醒するに至っていなかった、日本の弥生性が、新羅に比べれば疎遠だった百済からのSOS発信を受けて、遅まきながら覚醒し、いざという場合に、朝鮮半島に速やかに軍事介入できる態勢を日本が整え、この軍事介入ルートの安全を祈念するために沖ノ島での祭祀が始まった、というものです。
もっとも、既述したように、その高句麗は、6世紀後半になって、新羅と百済が日本と好を通じている状況の打開を図るためでしょうが、積極的に対日接近を図ってきます。↓
「欽明天皇の御代、<日本は、>・・・570年、<特使を乗せて>能登に漂着した高句麗の船を、・・・敦賀・塩津間を、丘を曳いて峠を越え、塩津から大津まで琵琶湖を航走、・・・さらに宇治川を下り、木津川の畔の相楽館(さがらかのむろつみ)で正規の特使として饗応し、難波津から返した。」
https://books.google.co.jp/books?id=hhYR8iLIYs0C&pg=PA193&lpg=PA193&dq=%E8%BF%91%E7%95%BF%EF%BC%9B%E6%B2%B3%E5%B7%9D%EF%BC%9B%E6%B0%B4%E9%81%8B&source=bl&ots=mRM3FInSn2&sig=WyqoSydy2O2jlhwNOZR__OcbZeU&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiYkOC0x6HVAhXNNpQKHcZzAZoQ6AEITjAG#v=onepage&q=%E8%BF%91%E7%95%BF%EF%BC%9B%E6%B2%B3%E5%B7%9D%EF%BC%9B%E6%B0%B4%E9%81%8B&f=false
その後、高句麗と日本の交流は、新羅、百済よりも、一層、密に行われた感があります。↓
「高句麗は日本に大きな影響を与えた。飛鳥寺創建のときに高句麗僧が法要を行い、聖徳太子の仏教の師匠も高句麗僧である。鳥取県には高句麗系石塔とされる岡益石堂<(L:画像略)>や高句麗系の四隅突出墓<(L:画像略)>がある。
東日本には高句麗からの渡来人に関する遺跡が多く残り、高句麗の墓制である積石塚<(つみいしづか)(L:画像略)>が長野県や山梨県、群馬県に多く見られる。特に長野県の大室古墳群は積石塚の一大集積地である。東日本は大和朝廷から命ぜられて渡来人が開墾したところも多い。埼玉県には716年に高麗郡が作られ高麗神社、聖天院(高麗王若光の墓)などが残る。また、神奈川県にはその高麗王若光が上陸したとされる高麗山、高来神社がある。関東南部の古墳からも高句麗系の遺跡が多く出る。そのような遺物の出た東京の狛江という地名は「高麗(こま)=高句麗」から来ているとされ、調布市深大寺周辺には高句麗にまつわる伝説が多く残されているし、あきる野市の瀬戸岡古墳群には積石系の古墳群があるなどその影響は大きい。」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=189215
こうして、日本側から見れば、朝鮮半島の3国の全てが日本への朝貢国になったかのような状況になるのです。
大化の改新につながる、645年の乙巳(いっし)の変が、本当だったかどうかは疑問符が付くものの、この3国が内揃った日本への進貢の場で行われたということにされているのは、象徴的です。↓
乙巳(いっし)の変。「皇極天皇4年・・・、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌足はこれを好機として暗殺の実行を決める(『大織冠伝』には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)。
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、三国の調の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣を外させていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3%E3%81%AE%E5%A4%89
4 日本文明内での支那文化の東伝
(1)人
下掲↓中の「朝鮮半島から」渡来した人々には、朝鮮半島系人だけでなく、支那系人も後述するように少なくありませんでした。
いずれにせよ、「日本から朝鮮半島の方向に人・物が動いた事例もあ<った。>」ことが肝心なのです。
私は、同じ日本文明内で、人は自由に行き来をしていた、と見ている次第です。
「4世紀末 - 6世紀、古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者や亡命者として<支那>大陸や朝鮮半島から人々が渡来し・・・大王を中心とするヤマト王権において重要な位置を占めた者や文化の発展に寄与した者がいた。
日本から朝鮮半島の方向に人・物が動いた事例もあ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA
(2)漢字
通説では、漢字を日本に伝えた人物は百済の王仁であるとされているところ、彼は支那人である、とされています。↓
「漢字が朝鮮半島を経て・・・4世紀後半に・・・伝わってきたことが次第にわかってきました。・・・
なお、漢字そのものの伝来とはやや趣きを異にしますが、学問或いは典籍の伝来の話は、記紀に伝えられています。日本書記によれば、応神天皇16年に百済の王仁が来て、太子は王仁を師として諸の典籍を習ったとあります。古事記では応神天皇の時、和邇吉師<(ワニキシ)>が論語十巻、 千字文一巻を百済から貢進したとあります。これについては、古来から論語の巻数や千字文の成立期などからみて疑問視されていますが、応神紀の事は干支二回り即ち120年ずらして伝えられている事が多いとの説もあり、それを考慮するとほぼ漢字伝来の経緯と重なります。」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000071818
「伝承では、百済に渡来した<支那>人であるとされ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BB%81
しかし、最近、漢字の朝鮮半島経由での伝来は、もっと早く、1〜2世紀の頃であった可能性が取り沙汰され始めています。↓
「福岡県筑前町にある弥生時代中期〜後期の薬師ノ上(やくしのうえ)遺跡で、弥生時代では初めてとなる完全な形の硯(すずり)<(M:画像略)>が出土していた・・・
専門家は「弥生時代の日本で文字が書かれていた可能性を示す発見」としている。・・・
朝鮮半島で出土した硯と同じ砂質頁岩(けつがん)製で形などが似ており、硯と判断。一緒に出土した土器などから、1〜2世紀のものと推定している。」
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20171114-OYT1T50132.html?from=ytop_main7
(2017.11.15アクセス)
私は、朝鮮半島に支那から伝わったものは、殆ど、リアルタイムで日本文明圏内を東伝し、日本「本国」にも伝えられた、と見ています。
(3)道教
「道教<は>・・・各地で発掘されている三角縁神獣鏡<(さんかくえんしんじゅうきょう)>や道教的呪術文様から、4世紀には流入していたと見られている。6世紀には百済からの仏教に伴い「呪禁師」「遁甲方術」がもたらされ、斉明天皇から天武天皇の治世にかけては、その呪力に期待が寄せられて、支配者層における方術の修得や施設建設も見えている。それに伴う神仙思想も、支配者層において教養的知識レベルに留まらず実践に至るまでの浸透を見た。これらは民衆社会にも流布しており、『日本書紀』『風土記』『万葉集』に見える浦嶋子伝説、羽衣伝説等などの神仙伝説にその痕跡を遺している。だがそれらは担い手組織の核となる道教経典・道士・道観の導入を伴っておらず、体系的な移植には至らず、断片的な知識や俗信仰の受容に留まった。そして天武朝以降、道教の組織的将来の道が政治的に閉ざされると、そうした知識や俗信仰が帯びていた体系的道教思想の痕跡も希薄になっていく。
一方で、道教に取り入れられていた要素に過ぎなかった陰陽思想、五行思想や神仙思想、それに伴う呪術的な要素は道術から陰陽道に名を変えて政務の中核を担う国家組織にまで発展した。
この意味で日本において本来の道教が伝わっているとは言いがたい。唐王朝が道教の開祖とされた老子の末裔を称しており、唐側より日本に対して道教の受け入れを求めた時に、日本側が(天照大神の子孫とされる)天皇を中心とする支配体制と相いれないものとして拒否したとも言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E9.81.93.E6.95.99
「神獣鏡は崑崙の神仙世界を描いているのである。笠松型と表現される模様を含む鏡もあるが、崑崙を描いているのだから、そこに生えている霊木を表すのであろう。淮南子には珠樹、玉樹、不死樹など、いろいろ書いてある。外周部、三角断面の盛り上がりも、意図的なデザインだから、何らかの意味を持つ。上記から、三角縁は崑崙、高山の表現とすることができる。」
http://www.eonet.ne.jp/~temb/9/Sinzyukyou/Sinzyukyo.htm
とまあ、こういう具合に、道教などというものまで(!?)、早くから断片的には日本に伝わっていたところ、それも、通説に言う6世紀より、もっと早い時期に伝わっていた可能性が高い、と私は見ています。
(4)儒教
「日本へ儒教が伝わったのは仏教よりも早く、継体天皇の時代の513年、百済より五経博士が渡日して以降のことである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%84%92%E6%95%99
王仁だ、五経博士だ、といった挿話は、同一文明圏であったところの、朝鮮半島南部と日本との間では、人も物も、かなり自由に行き来していたことからして、極端なことを言えば、ことごとく後付けのフィクションであると疑った方がいい、というのが私の見解です。
(5)仏教
「古代、三国に分かれていた朝鮮半島においては、それぞれ各個に仏教が公伝された。最も北にあり、<支那>に近かった高句麗へは早くも372年、小獣林王の時代に前秦から伝えられたとされる。375年には肖門寺・伊弗蘭寺などが建立された。
大和朝廷と盟友関係となる百済では、これより若干遅れて、384年に枕流王<(ちんりゅうおう)>が東晋から高僧の摩羅難陀を招来し、392年には阿莘王(阿華王)が仏教を信仰せよとの命を国内に布告している。ただし、百済国内に本格的に仏教が普及するのはそれより1世紀ほど遅れた6世紀初頭である。
残る新羅においては上記2国よりも遅れ、5世紀始めごろに高句麗から伝えられたという。法興王の時代に公認された後は、南朝梁との交流もあり、国家主導の仏教振興策がとられるようになっていた。・・・
<そして、>6世紀半ばに、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた・・・
6世紀前半即位した百済の聖明王(聖王)は、<支那>南朝梁の武帝から「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封され、当初新羅と結んで高句麗に対抗していた。が、次第に新羅の圧迫を受け、538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされるなど、逼迫した状況にあり、新羅に対抗するため、さかんに大和朝廷に対して援軍を要求していた。百済が大和朝廷に仏教を伝えたのも、大陸の先進文化を伝えることで交流を深めること、また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%AC%E4%BC%9D
仏教についても、このように、4世紀には朝鮮半島南部にまで伝わっていたのだとすれば、殆ど時を置かず、日本「本国」にも伝わっていた、と見るべきでしょう。
百済の聖王によるプロパガンダに、我々は惑わされてはいけないのです。
5 日本文明存亡の危機を救った新羅
日本文明時代の朝鮮半島南部の新羅が、半島統一を成し遂げる過程で、結果的ではあれ、日本「本国」、すなわち、日本文明の本家本元、を滅亡から救ってくれたこと、つまりは、我々は新羅、すなわち、朝鮮半島の最初の統一王朝に大変な借りがあること、を、我々は銘記すべきなのです。↓
「663年の白村江での壊滅的敗北で、日本は、本国を含めて残存兵力が殆ど亡くなった状態になり、唐軍に対して・・・降伏した上で、引き揚げ船での敗残兵の帰国を認められ、その翌年の664年には、唐から日本占領支配の開始を告げる使者が来日し、更にその翌年の665年には、唐の別の使者が、200数十人を率いて来日し、新羅・百済・眈羅・倭国(日本)の使者を引き連れて唐に戻り、泰山において・・・降伏式<が行われた。
そして、・・・<唐は、日本に、>北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城(例えば、筑前にあった大野城)や連絡施設を築<かせる>とともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置・・・させ・・・666年の、近江大津<(注14)>という、・・・狭隘な地への遷都は、中大兄が、飛鳥を唐の使者に明け渡せとの命令を受けて、やむなく疎開したもの・・・。
(注14)近江大津宮(667〜672年)。「<遷都>の翌年(668年)1月、称制実に7年にわたったが、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。日本で最初の律令法典となる近江令が制定されたともいわれる。・・・前期難波宮をやや変形・縮小して造営されたものと評価されている。錦織地区は西側の丘陵が湖岸付近まで迫り平地が極端に狭いため、遺構の立地可能な範囲は最大限でも南北700m、東西400m程度とみられる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%AE%AE
そして、668年に今度は高句麗を滅亡させた唐は、日本占領政策を本格化させ、669年の時点では、唐の占領軍は2000名体制になっていた・・・。
更に、670年には、日本において、史上初めて全国にわたる戸籍・・「庚午年籍」・・が作成されているところ、これも、徴税目的を持ったところの、唐占領軍の命を受けて中大兄が実施させられた・・・。
<ところが>、671年に、高句麗の移民達と共に新羅が唐に反旗を翻し、恐らくは、この事態に対応するために唐の占領軍はその時点で日本から引き揚げ、更に、新羅が678年までに、唐軍を朝鮮半島から完全に撤退させてくれたおかげで、日本は、671年に唐の占領下から脱し、その後も、20世紀に至るまで、再び他国に占領されることがなかった・・・。」(コラム#9255)
6 朝鮮半島史の分水嶺--日本文明から支那文明への文明の乗り換え
(1)前史
(農業時代における戦時共産主義的なものであった(コラム#9261)ところの、いわば異常な)支那の律令制度について、日本による継受に比し、新羅の場合は、律令制度そのものについてだけでなく、唐の年号まで用いるなど、支那の国家制度を広範に継受するに至ったわけですが、このこと自体は、すぐ後で記すことからも、決定的な転機であった、とまでは言えないのではないでしょうか。↓
「金春秋<(こんしゅんじゅう)(武烈王)>は<、支那>の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82 前掲
広範に唐の制度を継受したのは、唐の油断を誘って、唐の禍機に付け込んで、朝鮮半島の統一を行うためだった、つまりは、安全保障目的であった、と私は見ています。↓
武烈王の息子で王となった文武王は、「唐が西方で吐蕃<(注15)(N:画像略)>と戦争している隙に反乱を起こして、676年に唐の行政府に駐留する役人や警備部隊を奇襲して殺害、旧百済領と旧高句麗領の南半分を合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E7%8E%8B (文武王)
(注15)「吐蕃<は>・・・670年、唐の安西都護府管轄の安西四鎮・・・を攻め落として天山南路を遮断した。唐は10万の大軍を率いて反撃に出たが、<吐蕃は、>・・・青海湖南の大非川で唐軍を大いに打ち破った(大非川の戦い)。しかし、吐蕃は天山南路の諸都市を統治せず、撤退して東部での戦争を始める。唐はこの戦争で痛手を受けた上、新羅が反乱を起こした(唐・新羅戦争)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%90%E8%95%83
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<吐蕃の仏教国教化と滅亡>
このように、唐と互角以上に渡り合うと共に、インド亜大陸北部や中央アジアまでをも勢力圏としたところの、吐蕃、の滅亡もまた、仏教の国教化がもたらしたもの、のように私には思えてならない。↓
「吐蕃<では、>・・・「チソンデツェン<王>(在位:755年〜797年)」が仏教振興を始め、チツクデツェン<王の時の>820年代に「仏教を国教とし始め」<たところ、>・・・「877年に・・・吐蕃は滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%90%E8%95%83
その後は、小勢力群が分立したり、モンゴル帝国やモンゴル系のオイラトのホシュート部や清に事実上臣従したりした状態で推移する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
なお、チンギス・カンはデュルク系モンゴルたるケレイトととの濃密な関係から、キリスト教に好意を抱いていたと思われる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%88
ところ、無宗教であった可能性が高い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3 (←宗教への言及が皆無)
が、せっかく、彼が史上初めてモンゴル諸部族を統一し、世界帝国を築いたというのに、その衰亡も速かった大きな原因の一つも、私は、「クビライが即位すると、<チベット僧>・・・パクパは元朝の帝師として篤く遇され、・・・チベット仏教はモンゴル諸部族に広く浸透した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
ことにある、と考えている。
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ところが、渤海が勃興したことによって、唐は新羅に復仇するどころか、新羅を懐柔せざるをえなくなり、その結果、その最大の潜在的国であった唐と新羅の関係は安定化したことから、新羅は、文明を共有していた日本との関係を蔑ろにするようになります。↓
「696年に唐と渤海との間に戦端が開かれると渤海により唐と新羅は国境線を接しなくなった<(前出G参照)>。これ以後を韓国や北朝鮮では南北国時代と呼んでいる。
732年、渤海に山東の蓬莱港を占領された唐は新羅に南からの渤海攻撃を要請、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻撃、唐と新羅の関係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅は渤海攻撃の功績が認められ、735年に唐から冊封を受けて鴨緑江以南の地の領有を唐から正式に認められた。・・・
735年(天平7年)日本へ入京した新羅使が、国号を「王城国」と改称したと告知したため、日本の朝廷は無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返した。
<ここの記述は新羅に甘過ぎよう(太田)。↓>
こうして両国関係は、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、日本があくまで従属国扱いしたことにより悪化した。なお、当時、渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣していることも背景にあるとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82
その後、新羅が、一時、日本との関係修復に動いた時期があります。↓
「752年(天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を持ち込んだと推定されている。この際は王子による朝貢であり外交的には日本に服属した形となった。
朝貢の形式をとった意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し極度に緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている。金泰廉は実際の王子ではないとする研究が一部で出されているが、王子の朝貢を演出することによってより積極的な通商活動を意図していた<との>説には確証は無い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82
(2)文明の乗り換え方針の事実上の対日予告
しかし、(新羅自身がどれだけ積極的に関与していたのかは定かではありませんが、)その直後の753年に、日羅間に再び「事件」が起こります。
後から振り返れば、この「事件」は、日本に対する新羅の文明の乗り換え方針の事実上の予告であった、と言えそうです。↓
「日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『(くとうじょ)>旧唐書』や『新唐書』の記述においては、<遣唐使は、>「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。・・・
<吐蕃は朝貢国ではなかったはずなので、ここの記述はおかしいのでは?(太田)↓>
753年の正月に長安の大明宮にて玄宗臨御の、朝貢諸国の使節による朝賀に出席。当初、日本の席次は西畔(西側)第二席、第一席吐蕃の下であり、東畔第一席が新羅(二席大食国の上)であった。すなわち新羅より下位に置かれていたことから、大伴古麻呂は「長く新羅は日本に対して朝貢を行っていることから席順が義に適っていない」として抗議し、日本と新羅の席を交換させている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
(3)文明の乗り換え・・地名の支那化
私は、ここで今から記すことこそ、朝鮮半島史における、朝鮮半島当局による、最大の愚行であり悲劇であった、と考えるに至っています。
唐の決定的弱体化に繋がった、安史の乱は、新羅が唐と再び距離をとる絶好のチャンスであったにもかかわらず、あろうことか、まさにその真っ最中に、新羅は、支那(漢人)文明継受の最終的措置・・地名の支那化・・を断行してしまうのです。↓
「安史の乱」(755〜763)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1
の最中の「757年12月に」<新羅の>景徳王(?〜765年。在位:742〜765年)は、「<新羅>全国各地の地名を固有語から<支那>風の漢字2文字に変更した。また、759年正月には中央官庁とそれに属する官職名についても<支那>風のものに変更している。地名改称については州に所属する郡県の区域の改定も行なっており、単なる美名改称ではなく、従来の三国時代の伝統を考慮した地方行政を律令体制の立場から再編推進しようとする意図のものであると考えられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%BE%B3%E7%8E%8B (「」内)
これが、どんなにべらぼうなことであったかは、北海道にアイヌ人時代の地名が広範に残っていること、人種主義の権化のような米国において、インディアン時代の地名が、そして、カリフォルニアを含む、旧メキシコ領地域で、メキシコ時代のスペイン語の地名が、広範に残っていること、からも明らかでしょう。
地名を全て変えることは、社会に、恐るべき不便と混乱を生み出します。
しかも、それを一挙に行ったのですからね。
ロシアの地名が、例えば、サンクトペテルブルク(ドイツ語)→[独墺との戦争=第一次世界大戦]→ペトログラード(ロシア語)→[ロシア革命]→レニングラード→[ソ連崩壊]→サンクトペテルブルク、と変遷したのは、その都度、革命的変化がロシア社会に起こったからこそですが、新羅の場合は、同国が安定していた絶頂期に決行した、という意味でも、しかも、それが売国的な地名変更であったという意味でも、世界史上、他に例を見ないのではないでしょうか。
その結果、朝鮮半島の人々は、それまでの同半島の歴史と同定できなくなったはずであり、それがもたらしたものは、自らの歴史の廃棄、忘却であり、彼らは、いわば、デラシネ化してしまうのです。
景徳王が、こんなことができたのは、既に新羅において、日本文明に内在的な仁政の思想、伝統が殆ど失われてしまっていたからだ、と解する他ありますまい。
すなわち、既に行われていたところの、国民全体の人名の支那風のものへの変更(すぐ後の囲み記事で紹介)、及び、唐の律令制を含む政治経済制度の広範な導入、という準備を経て、新羅は、ここに、最終的に、日本文明から支那文明へと文明の下降的乗り換えを完結させたのでした。
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[新羅の人名の支那化]
支那では、「春秋戦国時代<に>、・・・平民も姓を称するようになり、民は「百姓」と呼ばれるようになった」、とされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%93
それに対し、「新羅で姓が用いられるようになったのは6世紀からのことと見られて」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
おり、その先鞭をつけたのは、新羅の王室であったようだ。↓
「『北斉書』には、565年に新羅の真興王が金真興として歴史書に初めて登場したが、これは金氏姓を最初に使い始めた新羅の人物としての記録とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%A7%93%E6%B0%8F%E3%81%A8%E5%90%8D%E5%89%8D
新羅の人々は、支那の秦人だったのだから、漢人としての、姓名ならぬ名(のみ)をそれまでは持っていた、ということになりそうだ。
(ちなみに、「統一新羅の時代以前<の、新羅以外の、高句麗や百済の人々は、そもそも、新羅の人々とは>まったく違う名前を用いていた。」ようであり、そのことは、「『日本書紀』や『古事記』に見られる朝鮮半島系の渡来人の名<の大部分が支那>式の名・・・ではなかったことからもわかる。」
例えば、<渡来人ではないが、>高句麗王朝末期の貴族、淵蓋蘇文は・・・『日本書紀』の「伊梨柯須弥」という表記から当時の高句麗では「イリ・カスミ」と発音したことが知られて<いるところ、>「イリ」は高句麗語で淵を意味すると言われており、日本語の訓読みに類似した表記方法、「カスミ」を「蓋蘇文」とするのは漢語の発音を用いて高句麗語を表現した、日本の万葉仮名に類似した表記方法と考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%8D#.E4.B8.AD.E5.9B.BD.E4.BA.BA.E3.81.AE.E5.90.8D.E5.89.8D
どうやら、女真系の高句麗や百済の人々は、新羅の人々とは違って、姓的なものと名的なものからなる人名を持っていたようだ。)
さて、「統一新羅の成立と共に・・・唐の律令制度を取り入れながらも、位階などの名称は旧称のままで残されたりもした<のだ>が、8世紀半ばには唐風に改められてい<るところ、>・・・この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、・・・漢族・・・風に改められていく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
<具体的には、この> 南北国時代(統一新羅と渤海の並立時代)<において、統一>新羅では・・・<支那>との交流が頻繁な階層の人々がいち早く姓を作って使い始めたと推定されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%A7%93%E6%B0%8F%E3%81%A8%E5%90%8D%E5%89%8D
結局、統一新羅中の、三国時代の新羅の人々の子孫にとっては、名はもともと漢人的なものが多かったと考えられる上、6世紀以降に使われるようになった姓も漢人的なものが多かったと考えられることから、新羅の人名の支那化といっても殆ど空振りであった可能性が高いし、他方、三国時代の高句麗の人々の子孫にとっては、彼らの祖先は日本文明下にあったとは言えないことから、改名は日本文明から支那文明への乗り換えとは関係がない。
結局、三国時代の百済の人々の子孫にとってだけ、改名は日本文明から支那文明への乗り換えに「寄与」した、ということになりそうだ。
よって、人名の支那化は、地名の支那化に比して、その「重要」性は低いと言ってよいのではないか。
(地名についても同じ、ということにはならない。
秦人は、世界通念に則り(?)、辰韓地域に移民してくる前に当該地域に住んでいた原住民が付けていた地名を秦人も使ったはずだからだ。)
[参考:日本の人名]
「氏姓制度(しせいせいど)とは、古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度。「氏姓の制(ウヂ・カバネのせい)」ともいい、「氏・姓」を音読して「氏姓(しせい)」ともいう。
大化の改新ののち、律令国家の形成におよぶと、戸籍制によって、氏姓はかつての部民(べみん)、つまり一般民衆にまで拡大され、すべての階層の国家身分を表示するものとなった。氏姓を有しない者は、天皇をはじめとする皇族と奴婢のみとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E5%A7%93%E5%88%B6%E5%BA%A6
「氏(うじ、ウジ)は、事実上または系譜上、祖先を同じくする同族とされる家の集団」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F
「姓(カバネ、可婆根)は、古代日本の大和王権において、大王(おおきみ、天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号・・・カバネには有力豪族により世襲される称号として、いわゆる爵位としての性格と、職掌の伴う官職としての性格の二つの側面があるとされ<る。>」例:徳川家康=源朝臣家康、では、徳川が家、源朝臣が姓、家康が名。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%90%E3%83%8D
「ウジ・カバネが制度化される以前の大王(天皇の前身)は、姓を有していたとされる。5世紀の倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、宋との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている。
また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、<支那>風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある。(ただし、<支那>にも2字姓がないわけではない……「諸葛氏」「司馬氏」など)。大王家の「倭」姓は、<支那>の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説も提出されている。
吉田孝は、倭国が5世紀末に<支那>の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4
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付言しますが、この景徳王の時の「天平宝字3年(759年)<、>新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82 前掲
、ということがありました。
日本では、7世紀末ないし8世紀初めから11世紀まで、律令制と裏腹の関係にある徴兵制の軍団が設けられていた・・その中から九州沿岸の防衛のための防人が抽出された・・のですが、826年には対蝦夷戦争が継続中であった東北辺境を覗いて廃止されたということになっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%9B%A3_(%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC) ←軍団
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E4%BA%BA ←防人
しかし、現実には、早くも738年に、朝鮮半島と大陸からの潜在的脅威に備えるための軍団が(佐渡が含まれる)北陸道と西海道(九州)に残されただけで、後の地域では軍団が停止されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%85%90
当時、既に、(私が言うところの、)縄文モード回帰が進行していたのでしょうね。
762年に軍団の若干の増勢がなされた(上掲)のは、新羅征伐の準備のためだったのでしょうが、もともと、無理があった、と想像されるところです。
いずれにせよ、この時、日本が新羅に本格的出兵をしておれば、唐は安史の乱の最中で新羅に援軍を送ることなどできなかったでしょうから、新羅の文明の乗り換えを中止させることができた可能性が高く、そうなっておれば、朝鮮半島は文明的堕落という悲劇を免れ得ていた可能性もまた高かったことでしょう。
次に朝鮮半島が日本文明に回帰するチャンスだったのが、16世紀末の秀吉による朝鮮出兵ですが、その時は、秀吉の死によって頓挫してしまいます。(コラム#省略)
そして、三回目のチャンスは、1910年の日韓併合であり、この時、朝鮮半島は順調に日本文明回帰軌道に乗ったにもかかわらず、その35年後の日本の敗戦によって再び頓挫してしまい、爾後、南北両朝鮮、とりわけ、韓国は、支那文明回帰の度を強めて現在に至っているわけです。
しかし、肝心のその支那が、中共政権の下、日本文明総体継受戦略を推進しており、今や、そのことを見る人が見れば半ば公然化している、ときているのですから、もはや、韓国のトホホな現況を形容すべき適切な言葉が見つかりません。
(4)その結果としての唐の政治経済体制の継受の一層の促進
さて、話を戻して、統一新羅以降の、朝鮮半島の支那化のその後の進展を、ざっとご紹介しておきましょう。
◎律令制
日本における、律令制、就中その中核たる公地公民制、のタテマエは次の通りであり、あたかも、当時、支那と日本の類似性が支那と朝鮮半島の類似性を上回っていたかのように見えます。↓
「律令制とは、古代<支那>から理想とされてきた王土王民(王土王臣とも)、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制であった。また、王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていた。
律令制では、王土王民および一君万民の理念のもと、人民(百姓)に対し一律平等に耕作地を支給し、その代償として、租税・労役・兵役が同じく一律平等に課せられていた。さらに、こうした統一的な支配を遺漏なく実施するために、高度に体系的な法令、すなわち律令と格式が編纂され、律令格式に基づいた非常に精緻な官僚機構が構築されていた。・・・
唐と同様の体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである。<これは、>律令を制定できるのは<支那>皇帝だけであり、<支那>から冊封を受けた国には許されないことだったが、日本は冊封を受けておらず独自に律令を制定<できたためだ>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6
しかし、その実態といえば、唐でさえ、律令制の中核たる公地公民制は徹底した実施はされておらず、日本に至っては、ほぼ実施されなかったようです。↓
「ただし、唐代の江南地方では兵役がほぼ免除されていたり、日本では東国(関東)ばかりが防人の兵役義務を負っていたなど、必ずしも一律的に兵役が課されていないという実態があった。・・・」(上掲)
「班田収授は唐の均田制を参考にしたものであるが、その手本となった唐が780年に両税法を施行し既に均田制が崩壊しており、このような制度を当時の日本が導入する事自体に無理があったと言える。そもそも、均田制や租庸調は粟を主食・徴税対象としていた華北・中原(旧北朝地域)の支配に則した制度であり、稲を主食・徴税対象としていた華中・華南(旧南朝地域)では完全に実施されていなかった可能性もあり、日本の班田収授法は牛が耕作に広く導入されていた華中・華南の水田耕作規模と比較しても過大であったとする指摘もある。また、班田収授法に基づいて班給・収公される「公地」が、本当に実態として存在したのかにも疑問が呈されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E7%94%B0%E5%8F%8E%E6%8E%88%E6%B3%95
「成立直後の新政府の実力で、長い間、世襲的に保有してきた、貴族と豪族の私有民と私有地とを、一片の法令で政府に集中することが可能であったろうか。むしろ新政府当局者がその不可能を知り、実施した場合の多くの反撃を予想したからであろう。政府は予かじめ公地公民制の実施と同時の食封(じきふ)の制を約束した。食封というのは一定戸数が政府に納めるべき貢租の一部もしくは全部を、貴族豪族の地位に応じて与える制度である。後に彼等は新しく整備される官制の下で、新たな官職にもついた。この改新によって貴族、豪族の地位にも権力にも変化<は>生じなかった・・・。」(木村時夫<(注16)>「大化改新の虚構と真実」13頁)
http://biblioteca.universia.net/html_bura/ficha/params/title/%E5%A4%A7%E5%8C%96%E6%94%B9%E6%96%B0%E3%81%AE%E8%99%9A%E6%A7%8B%E3%81%A8%E7%9C%9F%E5%AE%9F/id/38432101.html
(注16)1920〜2009年。政治学者。早大文卒、早大社会科学部教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%99%82%E5%A4%AB
それに対し、統一新羅ではどうだったのでしょうか。
唐でさえ徹底した実施はしていなかった律令制(公地公民制)を、国王側は徹底実施を図ろうとし続けたため、それに抵抗する貴族勢力との衝突が長期にわたって続き、国内は混乱し、それを契機に、新羅は衰退していくのです。↓☆
「恵恭王[(758〜780年。在位:765〜780年]の時代の新羅では律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立は顕在化し、反乱が多数発生する。768年7月には貴族連合体制復活派とみられる大恭・大廉の兄弟の反乱が発生し、王都を33日間包囲するが、王の軍隊が平定した。770年8月には律令体制推進派と見られる金融の反乱、775年6月に貴族連合体制復活派の金隠居の反乱。775年8月には律令推進派の廉相、正門が反乱を企てたことが発覚して誅滅された。776年正月には新羅政府は教書を出し、律令体制を強固に推進した景徳王が唐風に改名した百官の名称を、旧来のものに戻した。貴族連合体制派への譲歩であったと見られる。
8世紀の終わりに新羅の国内が混乱すると、再び日本に慇懃な態度をとるようになり[恵恭王は]、宝亀10年(779年)、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した。この調は、日本が新羅に要求し続けた念願の品であった。・・・
780年2月、伊飡<(いさん)(注17)>の金志貞が反乱を起こし宮中を包囲する。
(注17)「新羅における17等級の官職のうち、第二位にあたる官職。」
https://books.google.co.jp/books?id=VlpWBAAAQBAJ&pg=PT242&lpg=PT242&dq=%E4%BC%8A%E9%A3%A1&source=bl&ots=a-BO6eSAxN&sig=gcmC9oGVeGJ4eYH41SGaZVDF_xY&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwj3ydj9wPDXAhWDbbwKHfCZDb8Q6AEISzAE#v=onepage&q&f=false
同年4月、金良相(後の宣徳王)が金敬信(後の元聖王)とともに挙兵し、金志貞を滅ぼす。この戦乱の中で金良相によって]恵恭王も王妃ともに殺害された。この8世紀末の新羅では、780年に武烈王の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位簒奪や王都内での反乱が頻繁に発生する様になった。また災害や飢饉、また相次ぐ反乱や内戦、また渤海(698年 - 926年)との対立などもあり、新羅は衰退する。
日本では780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82
「新羅の内部でも「下代」として時代の変わったことを認識されることとなり、以後王位簒奪が相次ぐこととなった。宣徳王自身は王となってから5年余りで死去した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%BE%B3%E7%8E%8B ([]内も)
その結果、尻に火が付いた、新羅側の働きかけにより、日羅関係は一時的に好転します。↓
「恵恭王による日本への御調朝貢
8世紀の終わりに新羅の国内が混乱すると、<新羅は、>再び日本に慇懃な態度をとるようになり、宝亀10年(779年)、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した。この調は、日本が新羅に要求し続けた念願の品であった。また、新羅の混乱により多数の難民が日本列島へ亡命し、大量に帰化を申請する事態が発生するが、日本側は、「蛮国」の人民が天皇の徳を慕って帰化を願うことは、日本における中華思想にかなっていたため、帰化を許可した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82 前掲
◎宦官制度
また、日本では導入しなかった宦官制度を、新羅は導入してしまいます。↓
「日本では・・・「宦官制度」は記録に残るかぎりでは存在しなかった<のに対し、>・・・朝鮮<では、支那>に倣い、・・・官僚機構に宦官制度を導入し・・・<少なくとも>9世紀にはすでに宦官制度があったことが分か<ってい>る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A6%E5%AE%98#.E6.9C.9D.E9.AE.AE
◎科挙
更にまた、新羅は、日本同様、科挙のそのままの導入には躊躇したものの、やがて、李氏朝鮮時代に、完全実施するに至ってしまいます。
元聖王 「788年には官吏登用の制度として、科挙に類似する「読書三品」を定めたように、儒教的・律令体制的な政策を打ち出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%81%96%E7%8E%8B
「788年新羅元聖王の時に唐の影響で読書三品科を設置して科挙を導入したが、新羅の身分制度である骨品制の維持のため官吏抜擢には限界があった。・・・
<ところが、>李氏朝鮮時代の科挙・・・<で>は良民以上なら誰でも応試が可能<にな>った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%91%E6%8C%99
7 終わりに
口述
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