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太田述正コラム#9263(2017.8.7)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その25)>(2017.11.21公開)

 但し、ここで注意しなければならないのは、天武期の現人神たる天皇(広義)が、権威の担い手たる皇后と権力の担い手たる天皇(狭義)、から構成されていた、と考えられることです。
 入江自身、何度も天武時代は天武と持統の共同統治だったと書いているところ、実際、「『日本書紀』に・・・天武天皇の在位中、皇后は常に天皇を助け、そばにいて政事について助言した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
旨の記述があるのがその傍証です。
 この体制はその後も維持されたのではないでしょうか。
 「685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった<が、>686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった」(上掲)のも、要は、持統が権威を、草壁が権力を担う「共同統治」であった、と私は解している次第です。
 そして、持統が即位後、「天武朝の皇親政治は、ここで修正」され、「高市皇子<(注64)>を太政大臣<(注65)>に」した、とされている出来事(前出)についても、私は、単に、持統が権威を、(亡くなった草壁の代わりに)高市が権力を、それぞれ担う「共同統治」であった、と見ているのです。

 (注64)たけちのみこ(654〜696年)。「天武天皇の皇子(長男)、母は尼子娘。・・・<その後、>高市皇子は天武天皇の皇子の中で・・・皇女を母にもつ草壁皇子、大津皇子に次ぐ・・・第三の地位とされるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%82%E7%9A%87%E5%AD%90
 尼子娘(あまこのいらつめ)は、「筑紫宗像郡の豪族・胸形徳善の娘。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%A8%98
 (注65)「最初の太政大臣とされているのは、天智天皇が天智天皇10年(671年)・・・に任命した大友皇子である」が、持統即位時の高市皇子のケースは、2度目にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%A4%A7%E8%87%A3
 私は、最初のは「最有力の皇位継承者」(上掲)であったのに対し、2度目及びそれ以降のは「天皇の共同統治者・政務代行者」(上掲)であった、と見ている。

⇒壬申の乱の最中、大海人皇子(当時)が高市皇子と会っている時、「唐の人たちに「汝の国は戦が多い国だ。きっと良い戦術を知っているのではないか」と問うた」のに対し、彼らが答えた、旨の記述が『釈日本紀』にある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%82%E7%9A%87%E5%AD%90 前掲
ようですが、日本占領にやってきた唐人達のうち、引き揚げられなかった(引き揚げなかった?)人々がいた、ということではないでしょうか。(太田)

 そもそも、「天武天皇は伊勢神宮を特別に重視し、この神社が日本の最高の神社とされる道筋をつけた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
ところ、「<、伊勢神宮の祭神である、女神たる>天照大神という神を造り出したのが天武天皇であるという説もある」(上掲)わけですが、当時、持統が権威を担っていたからこそ、権威の究極の源泉である(大王家の祖神たる)天照大神は女神でなければならなかった、と解されるのです。

 以下、入江の本から引用する代わりに、持統のウィキペディア(前掲)から、彼女の爾後の足跡を記しておきます。

 「外交では前代から引き続き新羅と通交し、唐とは公的な関係を持たなかった。・・・
 新羅に対しては対等の関係を認めず、向こうから朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件をのんで関係を結んだようである。・・・

⇒天武/持統期の、日本の唐と新羅に対する外交姿勢の違いは、どちらの国も日本と戦ったけれど、唐は日本を占領したのに対し、新羅はしていない、ということから説明ができそうですね。(太田)

 高市皇子が持統天皇10年7月10日に薨去し・・・持統天皇は8月1日に15歳の軽皇子に譲位した。文武天皇<(注66)>である。

 (注66)683〜707年。天皇:697〜707年。「草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。父・草壁は皇太子のまま亡くなり即位していないため、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。・・・
 当時としては異例の・・・若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

 日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。・・・
 『続日本紀』には文武天皇と並んで座って政務をとったとある・・・

⇒これも、権威は持統が、権力は文武が、それぞれ担った、と見るわけです。(太田)

 703年1月・・・に崩御した。1年間の殯(もがり)の後、火葬されて天武天皇陵に合葬された。天皇の火葬はこれが初の例であった。」(太田)

(続く)

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