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太田述正コラム#9259(2017.8.5)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その23)>(2017.11.19公開)

 「<天武>2<(673)>年閏6月、新羅と耽羅<(注53)>から外交団が到着した。・・・

 (注53)498年以後は百済に朝貢していたが、660年の百済滅亡を受け、661年に日本に対して初めて朝貢を行い、662年以降は新羅の属国となったが、しばらく日本に朝貢を送り続けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%BD%E7%BE%85

⇒「新羅と」の部分は入江の勘違いでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%BD%E7%BE%85

 新王朝は左右の大臣を置かず、近江朝において臣下なのか次期大王なのかが曖昧だった太政大臣を廃して、<天皇>と皇后の共同統治というすっきりした形をとった。・・・
 真っ先に着手したのは、行政を担う官吏登用の原則を改めたことである。
 従来の臣・連の高い門地にかぎられた禁中勤務の資格を地方豪族の子弟の層まで拡げ、能力主義を導入した。<(注54)>

 (注54)「天武天皇2年(673年)<に導入された>大舎人の登用制度」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89
のことか。
 「大舎人は・・・天皇に供奉して宿直や様々な雑用をこなした。そのため、繁雑な官司に出向することも多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%8E%E4%BA%BA%E5%AF%AE

 それ以上に画期的なことは、後宮に仕える女性の資格をその本質から変えた点であろう。・・・
 美醜を問わず、年齢を問わず、夫の有無も子の有無も問わず、能力と意欲だけを採用の条件とした。<(注55)>・・・

 (注55)氏女(うじめ)。「天武朝から畿内の諸氏は,年13〜30歳の女性を,氏別に1人貢進することが定められたが、これを氏女という。氏女は、・・・女孺(によじゆ)として・・・後宮の諸司に配せられ、残りは縫司にあてられた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B0%8F%E5%A5%B3-439652
 縫司(ぬいのつかさ)。「律令制で、後宮十二司の一。中務省縫殿寮の指示で、宮中所用および賞賜用の衣服・帯・紐ひもの類を製作<するとともに、>・・・女官の出仕・朝参のことを管理した役所。」
https://kotobank.jp/word/%E7%B8%AB%E5%8F%B8-593923

 のちに藤原不比等<(注56)>とともに摂関政治の基盤を築いた県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)<(注57)>も少女ではあるが才知と意欲を認められて、このとき採用された一人である。」(125〜126)

 (注56)「藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。・・・
 『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の御落胤と書かれる。・・・歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇・持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する学者・・・保立道久・・・もいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89
 保立道久(ほたてみちひさ。1948年〜 )は国際基督教大卒。都立大修士。東京大学史料編纂所助手、助教授、教授、所長、名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%AB%8B%E9%81%93%E4%B9%85 
 (注57)665〜733年。「県犬養氏は・・・中堅氏族。・・・
 天武8年(679年)には氏女の制により豪族女性の出仕年齢が15歳前後に定められ、三千代も同年に・・・宮中に仕えたと考えられている。・・・
 和銅元年(708年)・・・には即位直後の元明天皇から橘宿禰姓を賜っており、・・・橘氏の実質上の祖とな<るとともに、>養老5年(721年)・・・には元明太上天皇の病平癒を祈念して仏門に入っていることから、天智天皇の娘で草壁皇子の妻となった阿閉皇女(元明天皇)に出仕し・・・<かつまた、同皇女の息子の>軽皇子(後の文武天皇)・・・の乳母を務め・・・た可能性が考えられている。・・・
 はじめ敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)<等>・・・を生む。・・・<その後、>美努王とは離別し、藤原不比等の後妻となり、光明子・・・を生んだ・・・。
 不比等は・・・持統天皇10年(696年)には高市皇子の死去に伴い・・・政権中枢に参画した。文武天皇元年(697年)8月には不比等の娘宮子が即位直後の文武天皇夫人となり、藤原朝臣姓が不比等とその子孫に限定され藤原氏=不比等家が成立する。こうした文武天皇即位に伴う不比等の栄達の背景には、・・・三千代の存在があったと考えられている。・・・
 養老5年<(721年)>には正三位に叙せられ、宮人としての最高位に叙せられ・・・733年(天平5年)・・・に薨去<するが、>死後の同年・・・に従一位、760年(天平宝字4年)・・・に正一位と大夫人の称号を贈られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%8C%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E4%B8%89%E5%8D%83%E4%BB%A3

⇒当時の皇室や宮中における女性の地位の高さ、活躍ぶりには、改めて瞠目させられます。(太田)

(続く)

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