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太田述正コラム#9223(2017.7.18)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その8)>(2017.11.1公開)
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[お断り]
1年2か月ちょっと前に、「ここから先、皇極・斉明天皇の話になるのですが、645年の乙巳の変の背景についても、そのこととも関係していますが、皇極・斉明の実子である中大兄皇子が、乙巳の変の首謀者であったとされているにもかかわらず、同変直後に即位した孝徳天皇の下で立太子されるにとどまり、また、母皇極・斉明が655年に重祚した際も、引き続き皇太子にとどまり、斉明が死去した661年においてさえ、称制・・・しただけで即位を668年まで引き延ばした・・・理由についても、自分の頭の中を十分整理できていないので、もう少し整理できるまで、このシリーズを中断します」と記したままになっていた表記のシリーズを再開する。
この間、日本の古代史に係るシリーズを複数書いているうちに、「自分の頭の中を十分整理でき」たのではないか、と思い、かつ、表記シリーズを最後まで書き切ることが、このところの、オフ会「講演」のテーマになっている、朝鮮半島史の理解を深めることにもなるのではないか、と考えた、からだ。
なお、「改めて米独立革命について(第II部)」シリーズについては、今後とも、並行して書いていく予定でいる。
ここで、中断前に書いたことにコメントを付しておく。
「当時」の日本列島「は、私の言う拡大弥生時代であったわけですが、倭(日本)の支配層には自分達の祖先が大陸から渡来したという意識が明確に残っており、だからこそ、当時、大陸から渡来してそれほど時間が経っていなかった者達を躊躇なく」遣隋使や隋への留学生といった「重要な任務にあてたのでしょうね。」(コラム#8380)との私見については、(次回の東京オフ会「講演」において、その折に述べる予定の理由に基づき、)一部手直しする予定だ。
また、入江は、「<推古天皇はその36年(628年)に亡くなるが、>632年、・・・新羅が、最初の女王として善徳<(注17)>を立てたとき、遠く推古の像が投影しているように思われるのである。」(コラム#8384)と記しているが、本当に「最初の女王」だったのかどうかについても、(同様の理由に基づき、)私は疑問に思うに至っている。
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「<三国が>膠着状態の東アジアに、642年激震が走った。
7月、百済王・武の死後、王位を継いだ義慈(ぎじ)が、大軍を率いて新羅の西部に侵入し40余の城を攻略。さらに8月には新羅の重要拠点の一つ大那(だいや)城を占領した。・・・
同じ年10月、高句麗では泉蓋蘇文(せんがいそぶん)<(注21)>が国王を弑逆。
(注21)淵蓋蘇文とも。?〜665年。「642年(栄留王25年)に北方に千里長城を築造し唐の侵入に備えた。その年のうちに唐との親善を図ろうとしていた第27代王・栄留王、および・・・180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵王を第28代王に擁立して自ら大莫離支(だいばくりし:高句麗末期の行政と軍事権を司った最高官職)に就任して政権を掌握する。・・・淵蓋蘇文は対外強硬策を採り、高句麗に救援を要請するために到来した新羅の金春秋(後の武烈王)<(後出)>を監禁し、新羅と唐との交通路・・・を占領した。644年(宝蔵王3年)、新羅との和解を勧告する唐の太宗の要求を拒否する。これに激怒した太宗が弑君虐民の罪を問い、645年(宝蔵王4年)に17万の大軍を率いて高句麗に侵入した(唐の高句麗出兵)<が、その第1回目を含め、その後、>4回に亘って<の>唐の侵入<は>・・・ことごとく・・・阻<まれた>。一方、643年(宝蔵王2年)に唐へ使臣を派遣し、道教の道士8名と『道徳経』を高句麗に持ちこむなど、淵蓋蘇文は文化面でも功績を残した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B5%E8%93%8B%E8%98%87%E6%96%87
王の甥・宝蔵を立て、自らは・・・軍と官の権力を一手に掌握した。
この<時、これを>・・・高句麗・百済連合の楔を断ち、新たに高句麗・新羅連合を実現する好機<である、>と・・・善徳は・・・とらえた<が、高句麗との交渉は失敗した。>
唐の太宗<は太宗で、>・・・高句麗討伐<を考慮したが、>高句麗が朝貢使を送って恭順の意を表したこと<等から、>・・・出兵を思いとどまり、その翌年、不本意ながら泉蓋蘇文の立てた新王・宝蔵を従来どおり冊封<し、>唐の華夷体制の下に<再び>組み込んだ。
この年9月、・・・善徳は、唐に使者を送って、高句麗と百済が連合して新羅侵略を企てていることを告げ、何度目かの救援を願った。・・・
645年、ついに太宗は自ら軍兵を率いて、高句麗討伐にふみ切った。・・・
<新羅の>朝廷で・・・は、・・・太宗<からの以前の示唆を踏まえ、>唐から新王を迎える方向で善徳に退位を迫<る勢力が出てき>た。
これに敢然と抗したのが、・・・金春信<(注22)ら>・・・を中心とした新興勢力であ<り、>・・・女王の廃位に反対する。
(注22)602?〜661年。国王:654〜661年。伯母の善徳女王、遠縁の真徳女王の後。「655年1月には高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)が攻め入って北部辺境の33城が奪われたため、唐に使者を送って救援を求めた。これに応えて唐は・・・高句麗を攻撃している。659年にも百済が国境を侵して攻め込んできたため、唐に出兵を求める使者を派遣し・・・唐と新羅との連合軍としての百済討伐<を行>った。同年7月18日には義慈王の投降により百済は滅び<る。>・・・さらに翌661年より唐と連合して高句麗を滅ぼそうとした(唐の高句麗出兵)が、軍を北上させている途上で病に倒れ、・・・陣中で病死した。・・・
理法府格(きゃく、律令の修正・補足のための法令、副法)60余条を制定し、新羅における律令制度の基盤を整備した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%83%88%E7%8E%8B
しかしこのとき、新羅にはさらに一つの難題、重大な外交問題が重なっていた。
646年の初冬、ヤマト朝廷から朝貢を求める死者が到着・・・。
宗属--つまりヤマトに対する新羅の国の在り方を問い、回答を求めていたのだ。
その問題を宙吊りにしたまま、647年正月、ついに善徳廃位を旗印にかかげて●<(田偏に比)>曇<(注23)>の乱は起こった。」(30〜36)
(注23)ひどん=ピダム。?〜647年。「新羅貴族の合議機関である和白会議・・・の首座であると同時に、新羅の最高官職である上大等・・・の地位にありながら・・・親唐派の先頭に立<ち、>・・・「女主不能善理(女性君主は国を治めることができない)」と唱えて反乱を起こした<が、>・・・十余日で鎭圧され・・・た。<こ>の乱が進行する途中・・・、善徳女王は崩御し、続いて真徳女王が新羅の第28代国王として即位した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E6%9B%87
⇒この争いは、唐の内地化の是非を巡るもので、広義の親唐派の内紛に他ならず、新羅における親日派の存在感の希薄さを感じさせられますね。
なお、これに比べると、前出の高句麗での内紛は、唐の冊封国たるべきことは当然視しつつ、まともな冊封国になるか、それとも貢納貿易の利だけを得る形だけの冊封国になるか、の争いと見てよさそうです。当然ながら、そこには日本の姿は影も形もありません。(太田)
(続く)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その8)>(2017.11.1公開)
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[お断り]
1年2か月ちょっと前に、「ここから先、皇極・斉明天皇の話になるのですが、645年の乙巳の変の背景についても、そのこととも関係していますが、皇極・斉明の実子である中大兄皇子が、乙巳の変の首謀者であったとされているにもかかわらず、同変直後に即位した孝徳天皇の下で立太子されるにとどまり、また、母皇極・斉明が655年に重祚した際も、引き続き皇太子にとどまり、斉明が死去した661年においてさえ、称制・・・しただけで即位を668年まで引き延ばした・・・理由についても、自分の頭の中を十分整理できていないので、もう少し整理できるまで、このシリーズを中断します」と記したままになっていた表記のシリーズを再開する。
この間、日本の古代史に係るシリーズを複数書いているうちに、「自分の頭の中を十分整理でき」たのではないか、と思い、かつ、表記シリーズを最後まで書き切ることが、このところの、オフ会「講演」のテーマになっている、朝鮮半島史の理解を深めることにもなるのではないか、と考えた、からだ。
なお、「改めて米独立革命について(第II部)」シリーズについては、今後とも、並行して書いていく予定でいる。
ここで、中断前に書いたことにコメントを付しておく。
「当時」の日本列島「は、私の言う拡大弥生時代であったわけですが、倭(日本)の支配層には自分達の祖先が大陸から渡来したという意識が明確に残っており、だからこそ、当時、大陸から渡来してそれほど時間が経っていなかった者達を躊躇なく」遣隋使や隋への留学生といった「重要な任務にあてたのでしょうね。」(コラム#8380)との私見については、(次回の東京オフ会「講演」において、その折に述べる予定の理由に基づき、)一部手直しする予定だ。
また、入江は、「<推古天皇はその36年(628年)に亡くなるが、>632年、・・・新羅が、最初の女王として善徳<(注17)>を立てたとき、遠く推古の像が投影しているように思われるのである。」(コラム#8384)と記しているが、本当に「最初の女王」だったのかどうかについても、(同様の理由に基づき、)私は疑問に思うに至っている。
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「<三国が>膠着状態の東アジアに、642年激震が走った。
7月、百済王・武の死後、王位を継いだ義慈(ぎじ)が、大軍を率いて新羅の西部に侵入し40余の城を攻略。さらに8月には新羅の重要拠点の一つ大那(だいや)城を占領した。・・・
同じ年10月、高句麗では泉蓋蘇文(せんがいそぶん)<(注21)>が国王を弑逆。
(注21)淵蓋蘇文とも。?〜665年。「642年(栄留王25年)に北方に千里長城を築造し唐の侵入に備えた。その年のうちに唐との親善を図ろうとしていた第27代王・栄留王、および・・・180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵王を第28代王に擁立して自ら大莫離支(だいばくりし:高句麗末期の行政と軍事権を司った最高官職)に就任して政権を掌握する。・・・淵蓋蘇文は対外強硬策を採り、高句麗に救援を要請するために到来した新羅の金春秋(後の武烈王)<(後出)>を監禁し、新羅と唐との交通路・・・を占領した。644年(宝蔵王3年)、新羅との和解を勧告する唐の太宗の要求を拒否する。これに激怒した太宗が弑君虐民の罪を問い、645年(宝蔵王4年)に17万の大軍を率いて高句麗に侵入した(唐の高句麗出兵)<が、その第1回目を含め、その後、>4回に亘って<の>唐の侵入<は>・・・ことごとく・・・阻<まれた>。一方、643年(宝蔵王2年)に唐へ使臣を派遣し、道教の道士8名と『道徳経』を高句麗に持ちこむなど、淵蓋蘇文は文化面でも功績を残した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B5%E8%93%8B%E8%98%87%E6%96%87
王の甥・宝蔵を立て、自らは・・・軍と官の権力を一手に掌握した。
この<時、これを>・・・高句麗・百済連合の楔を断ち、新たに高句麗・新羅連合を実現する好機<である、>と・・・善徳は・・・とらえた<が、高句麗との交渉は失敗した。>
唐の太宗<は太宗で、>・・・高句麗討伐<を考慮したが、>高句麗が朝貢使を送って恭順の意を表したこと<等から、>・・・出兵を思いとどまり、その翌年、不本意ながら泉蓋蘇文の立てた新王・宝蔵を従来どおり冊封<し、>唐の華夷体制の下に<再び>組み込んだ。
この年9月、・・・善徳は、唐に使者を送って、高句麗と百済が連合して新羅侵略を企てていることを告げ、何度目かの救援を願った。・・・
645年、ついに太宗は自ら軍兵を率いて、高句麗討伐にふみ切った。・・・
<新羅の>朝廷で・・・は、・・・太宗<からの以前の示唆を踏まえ、>唐から新王を迎える方向で善徳に退位を迫<る勢力が出てき>た。
これに敢然と抗したのが、・・・金春信<(注22)ら>・・・を中心とした新興勢力であ<り、>・・・女王の廃位に反対する。
(注22)602?〜661年。国王:654〜661年。伯母の善徳女王、遠縁の真徳女王の後。「655年1月には高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)が攻め入って北部辺境の33城が奪われたため、唐に使者を送って救援を求めた。これに応えて唐は・・・高句麗を攻撃している。659年にも百済が国境を侵して攻め込んできたため、唐に出兵を求める使者を派遣し・・・唐と新羅との連合軍としての百済討伐<を行>った。同年7月18日には義慈王の投降により百済は滅び<る。>・・・さらに翌661年より唐と連合して高句麗を滅ぼそうとした(唐の高句麗出兵)が、軍を北上させている途上で病に倒れ、・・・陣中で病死した。・・・
理法府格(きゃく、律令の修正・補足のための法令、副法)60余条を制定し、新羅における律令制度の基盤を整備した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%83%88%E7%8E%8B
しかしこのとき、新羅にはさらに一つの難題、重大な外交問題が重なっていた。
646年の初冬、ヤマト朝廷から朝貢を求める死者が到着・・・。
宗属--つまりヤマトに対する新羅の国の在り方を問い、回答を求めていたのだ。
その問題を宙吊りにしたまま、647年正月、ついに善徳廃位を旗印にかかげて●<(田偏に比)>曇<(注23)>の乱は起こった。」(30〜36)
(注23)ひどん=ピダム。?〜647年。「新羅貴族の合議機関である和白会議・・・の首座であると同時に、新羅の最高官職である上大等・・・の地位にありながら・・・親唐派の先頭に立<ち、>・・・「女主不能善理(女性君主は国を治めることができない)」と唱えて反乱を起こした<が、>・・・十余日で鎭圧され・・・た。<こ>の乱が進行する途中・・・、善徳女王は崩御し、続いて真徳女王が新羅の第28代国王として即位した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E6%9B%87
⇒この争いは、唐の内地化の是非を巡るもので、広義の親唐派の内紛に他ならず、新羅における親日派の存在感の希薄さを感じさせられますね。
なお、これに比べると、前出の高句麗での内紛は、唐の冊封国たるべきことは当然視しつつ、まともな冊封国になるか、それとも貢納貿易の利だけを得る形だけの冊封国になるか、の争いと見てよさそうです。当然ながら、そこには日本の姿は影も形もありません。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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