太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/
太田述正コラム#9209(2017.7.11)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その27)>(2017.10.25公開)
「信仰の対象となった大物主神は、有力な神ではあっても王家が私的に祭った神にすぎなかった。
王家からなかば自立していた豪族たちは、国魂などの思い思いの神を祭っていた。
この形は、6世紀はじめの継体天皇のときに王家の太陽神信仰が始まったのちにも変わらなかった。
王家の一員である斎宮は、あくまでも王家が私的に祭る太陽神の祭司であった。
しかし王家の下の官僚として勢力を伸ばそうと考えた中臣氏のような豪族は、自らすすんで、自立した神であった自家の祖先神を天照大神に仕える神とした。
このような動きによって、日本のあらゆる神を天照大神の親戚の神やその家来筋の神とする世界観がじわじわとつくられていった。
しかし天照大神の祭りは、朝廷の公式な場では行なわれなかった。
王家は中央集権をすすめて勢力を拡大していく中で、大王が各地の豪族が祭る神々の祭司に関与することによって豪族に対する指導力を強めようと考えはじめたらしい。
それによって天武天皇の時代にあたる7世紀末に、「天皇が日本全国の神社の祭り手である」ことが公認された。
『日本書紀』につぎのような短い記事がみえる。
「推古天皇<(注63)>が次のような詔(みことのり)(大王の命令)を出した。
(注63)554〜628年。天皇:593〜628年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87
『わが治世から、神々の祭祀を立派に行なっていくことにしよう。豪族たちは私の意向に従って神々をよく祭るように』」
私はそれを、これまで諸豪族の裁量に任されていた各地の神々の祭祀について、大王がはじめて指示を出したことを伝えるものであると考えている。
推古天皇のもとで、聖徳太子の指導による仏教興隆がすすめられていた。
それは大王が仏教興隆の詔を出して、豪族たちに新たな寺院を建てさせるものであった。
聖徳太子はこのような仏教興隆策の成果をふまえた上で、「神々をよく祭れ」という命令を出すことを推古天皇に勧めたのであろう。
⇒聖徳太子の頃の大王家が、仏教の興隆策と神道の興隆策(国家宗教化)とにほぼ同時に着手した・・但し、後者についてはその後中断(後出)・・ことについて、「神々の信仰は本来土着の素朴な信仰であり、共同体の安寧を祈るものであった。神は特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的だった。普遍宗教である仏教の伝来は、このような伝統的な「神」観念に大きな影響を与えた。仏教が社会に浸透する過程で伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、古代の王権が、天皇を天津神の子孫とする神話のイデオロギーと、東大寺大仏に象徴されるような仏教による鎮護国家の思想とをともに採用したことなどから、奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経、神宮寺が広まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88
といったところの、仏教伝来当時の日本人が仏教を神道に比べてより高度で普遍的なもの受け止めていたという前提に立った「高尚な」説明が一般になされていますが、「敏達天皇14年・・・(585年)、・・・病にな<ったことから>、・・・<蘇我>馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E9%A6%AC%E5%AD%90
「用明天皇2年(587年)、・・・厩戸皇子<は>・・・戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
といった諸挿話を踏まえれば、仏教は、日本に伝来してきた頃には、現世利益を叶える呪術的なものと受け止められていて、(共同の祖先を敬い、豊作を祈る)神道を補完するもの、として、両者の間には、神仏習合への「非高度で非普遍的な」モーメントが、少なくとも仏教伝来当時には働いていた、ということなのではないでしょうか。(太田)
この詔が出されたときに、<大>王家から主だった神社に奉幣(供え物を捧げること)がなされたと考えてよい。
『日本書紀』によって、<大>王家の斎宮の役目は継体天皇の時の・・・皇女から<更に他の三人の>皇女に受け継がれていったことがわかる。
しかし用明天皇<(注64)>の皇女・・・(聖徳太子の異母姉)のあと数十年にわたって、斎宮に関する記録が見られなくなる。
(注64)?〜587年。天皇:585〜587年。推古天皇の兄にして厩戸皇子(推古天皇の皇太子・摂政)の父。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
<この>皇女は推古天皇の時まで活躍していたと考えられるが、そのあとの五代の大王のもとでは斎宮が置かれなかったらしい。
その時代は、舒明天皇から天智天皇までの五代の治世にあたっている。」(186〜188)
⇒166〜184頁は、本筋からややズレた細かい話だったので、一切、引用しませんでしたが、その後に続く、上掲箇所は、説得力があると思います。(太田)
(続く)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その27)>(2017.10.25公開)
「信仰の対象となった大物主神は、有力な神ではあっても王家が私的に祭った神にすぎなかった。
王家からなかば自立していた豪族たちは、国魂などの思い思いの神を祭っていた。
この形は、6世紀はじめの継体天皇のときに王家の太陽神信仰が始まったのちにも変わらなかった。
王家の一員である斎宮は、あくまでも王家が私的に祭る太陽神の祭司であった。
しかし王家の下の官僚として勢力を伸ばそうと考えた中臣氏のような豪族は、自らすすんで、自立した神であった自家の祖先神を天照大神に仕える神とした。
このような動きによって、日本のあらゆる神を天照大神の親戚の神やその家来筋の神とする世界観がじわじわとつくられていった。
しかし天照大神の祭りは、朝廷の公式な場では行なわれなかった。
王家は中央集権をすすめて勢力を拡大していく中で、大王が各地の豪族が祭る神々の祭司に関与することによって豪族に対する指導力を強めようと考えはじめたらしい。
それによって天武天皇の時代にあたる7世紀末に、「天皇が日本全国の神社の祭り手である」ことが公認された。
『日本書紀』につぎのような短い記事がみえる。
「推古天皇<(注63)>が次のような詔(みことのり)(大王の命令)を出した。
(注63)554〜628年。天皇:593〜628年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87
『わが治世から、神々の祭祀を立派に行なっていくことにしよう。豪族たちは私の意向に従って神々をよく祭るように』」
私はそれを、これまで諸豪族の裁量に任されていた各地の神々の祭祀について、大王がはじめて指示を出したことを伝えるものであると考えている。
推古天皇のもとで、聖徳太子の指導による仏教興隆がすすめられていた。
それは大王が仏教興隆の詔を出して、豪族たちに新たな寺院を建てさせるものであった。
聖徳太子はこのような仏教興隆策の成果をふまえた上で、「神々をよく祭れ」という命令を出すことを推古天皇に勧めたのであろう。
⇒聖徳太子の頃の大王家が、仏教の興隆策と神道の興隆策(国家宗教化)とにほぼ同時に着手した・・但し、後者についてはその後中断(後出)・・ことについて、「神々の信仰は本来土着の素朴な信仰であり、共同体の安寧を祈るものであった。神は特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的だった。普遍宗教である仏教の伝来は、このような伝統的な「神」観念に大きな影響を与えた。仏教が社会に浸透する過程で伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、古代の王権が、天皇を天津神の子孫とする神話のイデオロギーと、東大寺大仏に象徴されるような仏教による鎮護国家の思想とをともに採用したことなどから、奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経、神宮寺が広まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88
といったところの、仏教伝来当時の日本人が仏教を神道に比べてより高度で普遍的なもの受け止めていたという前提に立った「高尚な」説明が一般になされていますが、「敏達天皇14年・・・(585年)、・・・病にな<ったことから>、・・・<蘇我>馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E9%A6%AC%E5%AD%90
「用明天皇2年(587年)、・・・厩戸皇子<は>・・・戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
といった諸挿話を踏まえれば、仏教は、日本に伝来してきた頃には、現世利益を叶える呪術的なものと受け止められていて、(共同の祖先を敬い、豊作を祈る)神道を補完するもの、として、両者の間には、神仏習合への「非高度で非普遍的な」モーメントが、少なくとも仏教伝来当時には働いていた、ということなのではないでしょうか。(太田)
この詔が出されたときに、<大>王家から主だった神社に奉幣(供え物を捧げること)がなされたと考えてよい。
『日本書紀』によって、<大>王家の斎宮の役目は継体天皇の時の・・・皇女から<更に他の三人の>皇女に受け継がれていったことがわかる。
しかし用明天皇<(注64)>の皇女・・・(聖徳太子の異母姉)のあと数十年にわたって、斎宮に関する記録が見られなくなる。
(注64)?〜587年。天皇:585〜587年。推古天皇の兄にして厩戸皇子(推古天皇の皇太子・摂政)の父。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
<この>皇女は推古天皇の時まで活躍していたと考えられるが、そのあとの五代の大王のもとでは斎宮が置かれなかったらしい。
その時代は、舒明天皇から天智天皇までの五代の治世にあたっている。」(186〜188)
⇒166〜184頁は、本筋からややズレた細かい話だったので、一切、引用しませんでしたが、その後に続く、上掲箇所は、説得力があると思います。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/