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太田述正コラム#9187(2017.6.30)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その21)>(2017.10.14公開)

 「私は大和朝廷のもとにおける古墳の出現によって、首長霊信仰<(前出)>が広がっていったと考えている。
 大和朝廷の人びとは纏向遺跡のそばの三輪山に住む大物主神をを、自分たちを守る国魂として祭っていた。
 この国魂は多くの霊魂の集まりとされていたが、王家は国魂を構成する霊魂の中心に、自分たちの先祖の霊魂(首長霊)がいると主張した。
 そのために大物主神が王家の祖先神と混同されるようになり、纏向遺跡の古墳は三輪山と同じく大王の祖先が束ねる多くの精霊が訪れる神聖な地と考えられて、大物主神の祭祀の場とされるようになっていった。・・・

⇒「祖霊信仰とは、亡くなった祖先の霊魂や人間の霊魂以外の霊魂を祭る信仰のこと。もともと日本人は、この祖霊信仰を行なっていたという。古代の日本人は、互いに親戚関係の人々が一つの集団をつくっており、その祖先たちなどの霊魂の集団を祖霊として祭っていたのだ。首長とは人々の集団の代表だが、やがて祖霊についても、首長の祖先の霊が祖霊をまとめていると考えるようになった。地域の祖霊を代表する存在として、首長の祖霊を祭ったのが首長霊信仰になったというわけだ。
 また、武光氏はこう<も>語る。
「祖霊信仰の時代の小国には、高くつくられた祭場と、土を盛って設けた王墓との二つの信仰があったのです。私は巨大な古墳がのちに、この二つの機能を合わせるようになったと考えています。木造の建物を、どこまでも高くしていくことは不可能です。そのため大和朝廷の大王は、古墳を巨大化していく方向をとったとみられます」
 つまり、祖霊信仰⇒首長霊信仰⇒古墳という流れだ」
https://nikkan-spa.jp/638781?img=link&guid=ON
という記述中の、「また・・・こう語る」以下のような基本的な説明が、『誰が天照大神を女神に変えたのか』では端折られているため、分かりにくくなっています。
 いずれにせよ、この説は、「高くつくられた祭場と、土を盛って設けた王墓」のそれぞれの跡が隣接して日本のどこかで発見されない限り、単なる仮説にとどまる、と言わざるをえません。(太田)

 纏向遺跡では、交易品を運ぶのに使われた日本各地の土器が出土する。
 このことは、王家が纏向遺跡をつくったあと、各地の首長と意欲的に交易して、しだいにかれらを支配下にとり込んでいったことを示すものとされている。・・・
 大和朝廷の王家は交易のためのさまざまな優れた特産品をつくり、それを各地に広めていった。
 纏向では、良質の木製農具が多くつくられた。
 また各地の古墳から出土する三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)<(注53)(コラム#7517)>という大型の贅沢な銅鏡は、大和で鋳造されて各地に送られたものとされる。

 (注53)「<支那>の歴史書『三国志』「魏志倭人伝」には239年(景初3年)魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したとする記述があることから、三角縁神獣鏡がその鏡であるとする<支那製鏡>説がある<が、>・・・三角縁神獣鏡と同じようなものは<支那>では出土しておらず、<支那>で既に改元された年号や実在しない年号の銘が入ったものもあることから、日本製あるいは<支那>から渡来した工人の製であるとする説、また・・・、日本で中国の鏡を真似て作った倣製鏡説<といった>・・・日本製鏡説<もある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B8%81%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1

⇒舶来説と国産諸説とが入り乱れているというのに、武光が国産のしかも、特異な説を、あたかも、それが通説であるかのよう記しているのでは、一般読者はたまったものではありません。(太田)

 三角縁神獣鏡とは、鏡の縁を太くし、その断面が三角形になるようにつくり、裏に架空の動物の絵を鋳出した銅鏡である。
 大和朝廷との交易が盛んに行われる中で、王家に近い立場にある中央や地方の首長が、首長霊信仰をとり入れて古墳を築きはじめた。
 これによって各地で祭られた国魂という土地の守り神も、しだいに豪族(首長)の祖先神と一体化していった。
 古代の首長(豪族)の先祖を祭神とする神社や大国主命などを祭る神社の多くは、大和朝廷の首長霊信仰にならうものである。・・・
 中央の有力豪族の支配下にはいった地方豪族の多くは、国魂を表わす名称で呼ばれていた自家の首長霊の名称を、中央豪族ゆかりの神名に変えた。・・・
 <もとより、変えなかった場合もある。>
 原則として、どの地域の国魂も同列の神とされていた。
 しかし、大和朝廷に従って首長霊信仰をとり入れた豪族は、王家の大物主神を自家の祖先神の国魂より有力なものと認識していたと考えられる。
 それゆえ、古墳の広がりは、大和朝廷の勢力圏の拡大を知る目安にもなるといわれる。
 古墳の分布によって、大和朝廷が3世紀末にあたる300年頃にすでに、三河から瀬戸内海沿岸を経て九州北東部にいたる地域を押さえていたことがうかがえる。。
 誕生から100年足らずで、大和朝廷は日本統一への道を歩み始めていたのである。」(106〜110、113)

 (続く)

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