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太田述正コラム#9159(2017.6.16)
<改めて米独立革命について(第I部)(その4)>(2017.9.30公開)
(3)ロンドン時代
「<親英派である人物の>義理の息子であると同時に、自由の息子でもあったコプリーはどうすべきだったのか?
<結局、>彼は、欧州に渡った。
一つには、彼の芸術を完成させるためであり、一つには、慎重で冷静であることが、とりわけ、冷静であることが、同類の人びと同様に有罪であるように見えた時にあっては、危険になり過ぎたためだった。
彼は二度とアメリカに戻らなかった。
こうして、彼は、王党派達(royalists)と親英派達の間で、死を迎えることとなる。
彼の米独立戦争についての両義性は永続したが、茶商人の娘と結婚したことによって、10代から、自分の母親と異父弟を支えるために奮闘してきたコプリーにとっては、彼の裕福な姻族の意に叶うことをする以外の選択肢は殆どなかった。」(A)
「<イギリスで、>彼は、諸肖像画、と共に、次第により大きな英雄的な戦闘諸場面を描くに至り、国の<絵画関係の>審議会入りを目指すと共に、ロイヤル・アカデミーの指導部入りを果たすべく争い、結局、それらに失敗する。
彼の家族が彼のもとにやってきてしばらくは、彼は恐ろしいほどの成功をおさめ続けた。
しばしば、それは、批評家達の間でというよりは、公衆の間でだったが・・。
そして、次第に、彼の作品の質は劣化して行き、値も下がって行った。」(α)
「自分の目と手を教育するためにイタリアで広範な諸旅行を行った後、1775年12月に、コプリーは、自分の妻と子供達と共に<イギリス>に住み始める。
彼は、学んだことを「ワトソンと鮫(Watson and the Shark)」<(注12)という作品>でもって披露した。
(注12)https://en.wikipedia.org/wiki/Watson_and_the_Shark#/media/File:Watsonandtheshark-original.jpg
1749年に、キューバのハバナで、イギリス人の14歳の船室ボーイ、ブルック・ワトソン(Brook Watson)が鮫に襲われ、片脚を食いちぎられているところを助けられている光景を描いた1778年の絵。同じ主題の絵が何枚かある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Watson_and_the_Shark#/media/File:Watsonandtheshark-original.jpg
ワトソン(1735〜1807年)は、イギリスに生まれ、孤児になりボストンの叔父伯母の下で少年時代を送り、機帆船を使った商人、在アメリカ英軍兵站将校を経て、ロンドンに渡ってアメリカと英国をまたにかけた商売に従事し、米独立戦争の時は英軍に協力し、後にロンドン(シティ)市長になり、また、準男爵となった人物だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Brook_Watson
これは、イギリス的英雄主義の表現であり、1778年のロイヤル・アカデミー展で好評を博し、1781年の「チャタム伯爵の死(The Death of the Earl of Chatham)」<(注13)>でもって、彼の評判は確固たるものになった。
(注13)https://en.wikipedia.org/wiki/The_Death_of_the_Earl_of_Chatham#/media/File:The_Death_of_the_Earl_of_Chatham_by_John_Singleton_Copley.jpg
米独立戦争について審議していた英上院で1778年に斃れた、大ピット(ウィリアム・ピット=William Pitt, 1st Earl of Chatham。[1708〜78年。英首相:1766〜68年])・・7年戦争で英国を勝利に導いた立役者で、アメリカ人達に同情的だったが米独立には反対していた・・を描いた1781年の絵。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Death_of_the_Earl_of_Chatham
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Pitt,_1st_Earl_of_Chatham ([]内)
しかし、ロイヤル・アカデミーの一会員が、中流階層の見物客達で一杯だった商業ホールで、この絵が一つだけ豪華に展示されていたことについて、侮蔑的に、「路傍の展示品(raree-show)」、と形容した時、それは不吉な言葉の発声となった。
この画家の親英派との諸関係が、彼を、北米諸植民地のお尋ね者にしていたことが、コプリーもまたカネ目当てのアメリカ人に過ぎないと英国で彼が侮蔑される作用をしたのだ。
コプリーの芸術的諸能力は、彼の批評家達から受けた悪評ほど落ちたわけではないのだが、著者は、1791年に、コプリーの評判を格段に落とすことになったところの、「ジブラルタルでの浮かぶ砲台群の敗北(The Defeat of the Floating Batteries at Gibraltar)」<(注14)>が、「高くついた、膨れ上がった形骸」であったことを、そっと認めている。」(γ)
(注14)https://en.wikipedia.org/wiki/The_Defeat_of_the_Floating_Batteries_at_Gibraltar,_September_1782#/media/File:The_Siege_and_Relief_of_Gibraltar_(2).jpg
米独立戦争中の1782年におけるスペインとフランスによる英領ジブラルタルへの攻撃の際の英軍の反撃の被害者たるスペイン水夫達の救助を指示する、ジブラルタル総督達を描いた1791年の絵。42.5平方メートルもある、英国最大の油絵の一つ。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Defeat_of_the_Floating_Batteries_at_Gibraltar,_September_1782
浮かぶ砲台とは、即興的ないし実験的に作られた、もっぱら重火器群搭載目的だけの船体。
https://en.wikipedia.org/wiki/Floating_battery
(続く)
<改めて米独立革命について(第I部)(その4)>(2017.9.30公開)
(3)ロンドン時代
「<親英派である人物の>義理の息子であると同時に、自由の息子でもあったコプリーはどうすべきだったのか?
<結局、>彼は、欧州に渡った。
一つには、彼の芸術を完成させるためであり、一つには、慎重で冷静であることが、とりわけ、冷静であることが、同類の人びと同様に有罪であるように見えた時にあっては、危険になり過ぎたためだった。
彼は二度とアメリカに戻らなかった。
こうして、彼は、王党派達(royalists)と親英派達の間で、死を迎えることとなる。
彼の米独立戦争についての両義性は永続したが、茶商人の娘と結婚したことによって、10代から、自分の母親と異父弟を支えるために奮闘してきたコプリーにとっては、彼の裕福な姻族の意に叶うことをする以外の選択肢は殆どなかった。」(A)
「<イギリスで、>彼は、諸肖像画、と共に、次第により大きな英雄的な戦闘諸場面を描くに至り、国の<絵画関係の>審議会入りを目指すと共に、ロイヤル・アカデミーの指導部入りを果たすべく争い、結局、それらに失敗する。
彼の家族が彼のもとにやってきてしばらくは、彼は恐ろしいほどの成功をおさめ続けた。
しばしば、それは、批評家達の間でというよりは、公衆の間でだったが・・。
そして、次第に、彼の作品の質は劣化して行き、値も下がって行った。」(α)
「自分の目と手を教育するためにイタリアで広範な諸旅行を行った後、1775年12月に、コプリーは、自分の妻と子供達と共に<イギリス>に住み始める。
彼は、学んだことを「ワトソンと鮫(Watson and the Shark)」<(注12)という作品>でもって披露した。
(注12)https://en.wikipedia.org/wiki/Watson_and_the_Shark#/media/File:Watsonandtheshark-original.jpg
1749年に、キューバのハバナで、イギリス人の14歳の船室ボーイ、ブルック・ワトソン(Brook Watson)が鮫に襲われ、片脚を食いちぎられているところを助けられている光景を描いた1778年の絵。同じ主題の絵が何枚かある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Watson_and_the_Shark#/media/File:Watsonandtheshark-original.jpg
ワトソン(1735〜1807年)は、イギリスに生まれ、孤児になりボストンの叔父伯母の下で少年時代を送り、機帆船を使った商人、在アメリカ英軍兵站将校を経て、ロンドンに渡ってアメリカと英国をまたにかけた商売に従事し、米独立戦争の時は英軍に協力し、後にロンドン(シティ)市長になり、また、準男爵となった人物だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Brook_Watson
これは、イギリス的英雄主義の表現であり、1778年のロイヤル・アカデミー展で好評を博し、1781年の「チャタム伯爵の死(The Death of the Earl of Chatham)」<(注13)>でもって、彼の評判は確固たるものになった。
(注13)https://en.wikipedia.org/wiki/The_Death_of_the_Earl_of_Chatham#/media/File:The_Death_of_the_Earl_of_Chatham_by_John_Singleton_Copley.jpg
米独立戦争について審議していた英上院で1778年に斃れた、大ピット(ウィリアム・ピット=William Pitt, 1st Earl of Chatham。[1708〜78年。英首相:1766〜68年])・・7年戦争で英国を勝利に導いた立役者で、アメリカ人達に同情的だったが米独立には反対していた・・を描いた1781年の絵。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Death_of_the_Earl_of_Chatham
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Pitt,_1st_Earl_of_Chatham ([]内)
しかし、ロイヤル・アカデミーの一会員が、中流階層の見物客達で一杯だった商業ホールで、この絵が一つだけ豪華に展示されていたことについて、侮蔑的に、「路傍の展示品(raree-show)」、と形容した時、それは不吉な言葉の発声となった。
この画家の親英派との諸関係が、彼を、北米諸植民地のお尋ね者にしていたことが、コプリーもまたカネ目当てのアメリカ人に過ぎないと英国で彼が侮蔑される作用をしたのだ。
コプリーの芸術的諸能力は、彼の批評家達から受けた悪評ほど落ちたわけではないのだが、著者は、1791年に、コプリーの評判を格段に落とすことになったところの、「ジブラルタルでの浮かぶ砲台群の敗北(The Defeat of the Floating Batteries at Gibraltar)」<(注14)>が、「高くついた、膨れ上がった形骸」であったことを、そっと認めている。」(γ)
(注14)https://en.wikipedia.org/wiki/The_Defeat_of_the_Floating_Batteries_at_Gibraltar,_September_1782#/media/File:The_Siege_and_Relief_of_Gibraltar_(2).jpg
米独立戦争中の1782年におけるスペインとフランスによる英領ジブラルタルへの攻撃の際の英軍の反撃の被害者たるスペイン水夫達の救助を指示する、ジブラルタル総督達を描いた1791年の絵。42.5平方メートルもある、英国最大の油絵の一つ。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Defeat_of_the_Floating_Batteries_at_Gibraltar,_September_1782
浮かぶ砲台とは、即興的ないし実験的に作られた、もっぱら重火器群搭載目的だけの船体。
https://en.wikipedia.org/wiki/Floating_battery
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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