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太田述正コラム#9149(2017.6.11)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その12)>(2017.9.25公開)
「縄文時代後期が始まる4000年前頃から、土偶の仮面<(注32)>が出土するようになる。
(注32)それらしきものについては、ネット上で、「茅野市湖東の中ッ原遺跡<で、>・・・土偶が埋納され<てい>た・・・土坑と近接するほかの土坑から、遺体の顔にかぶせたであろう土器が出土しています。そのうちの8点が附(つけたり)として国宝指定を受けています。」
http://www.city.chino.lg.jp/www/contents/1446544820161/index.html (←写真付き)
くらいしか見出せなかった。
⇒「土偶の仮面」が、当時、かなり一般的に「普及」していたのかどうか、武光は、その根拠とともに明らかにすべきでした。(太田)
仮面は長さ16センチメートルから18センチメートルぐらいの、顔をすっぽり覆う大きさにつくられている。・・・
女神の祭祀のときに、巫女がその仮面をかぶって女神を演じたのであろう。・・・
このような土面を用いる習俗は、シテが能面<(注33)>をかぶって精霊を演じる能楽や、鬼の面をかぶる秋田のナマハゲ<(注34)>に受け継がれていったと考えてよい。
(注33)「能面(のうめん)は、能楽や一部の神楽で用いられる仮面である。伎楽面や舞楽の仮面などの影響を受けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E9%9D%A2
「伎楽は呉(<支那>江南地方)から日本へ伝えられた仮面舞踊劇であり、滑稽な所作を伴うパントマイム(無言劇)であった。その起源については、使用される仮面の民族的特徴に中国人よりはアーリア系の要素が色濃くみられることから、西域(中央アジア)方面で発祥し、シルクロードを経て<支那>江南地方で完成されたものと推定されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8E%E6%A5%BD%E9%9D%A2
「舞楽<は、>・・・雅楽の演奏様式の一種。唐楽や高麗 (こま) 楽を伴奏とする舞踊。」
https://kotobank.jp/word/%E8%88%9E%E6%A5%BD-123736
(注34)なまはげの鬼の面の起源についての記述はなまはげのウィキペディアには出て来ない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%AF%E3%81%92
そもそも、鬼の起源についても定説がないが、「初期の鬼というのは皆女性の形」である、という点
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC
が、それが縄文時代起源である可能性を示唆している。
⇒能面やナマハゲの鬼の面の起源を「土偶の仮面」に求めるのは容易ではなさそうであり、武光は、この自説(?)の具体的根拠を示す必要がありました。(太田)
日本列島の人口は、少ない時期には約10万数千人、多い時期でも20数万人であったと推測されている。「女性の数がふえれば、自分たちの集団はさらに繁栄する」と考えられて、女性は歓迎され<た>に違いない。
それゆえ「縄文人は母となる女性を中心とした家族を営んでいた」と考えるのが自然であろう。
⇒結論はともかく、必ずしも説得力のない主張ですが、この結論が正しいとして、「女性を中心とした家族<が>営<まれる>」ためには、私が既に指摘したように、「戦争・闘争の少ない」「定着的生活」でなければならない、と考えます。
日本の縄文社会は、「女性を中心とした家族<が>営<まれ>」ていたところの、人類の古今東西の中で、極めて珍しい、例外的な社会の一つであった、と私は思っている次第です。(太田)
縄文人の集落の中で大事にされた女性たちの中から選ばれた一人の巫女が、縄文時代の一つの集団を指導したのである。
長老と呼ぶべき年長の女性が巫女となる場合が多かったのだろう。
⇒私自身、縄文社会について、そういうイメージを抱いてきたわけですが、武光には、もう少し、具体的根拠をあげてもらいたかったところです。(太田)
<この>縄文時代の結婚の形式<について、>・・・考古学者の春成秀爾(はるなりひでじ)<(注35)>氏・・・は、「西日本では婿入り婚が主流で、中部日本では婿入り婚と嫁入り婚が混在し、東日本では嫁入り婚が主流である」と主張する。・・・
(注35)1942年〜。国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。岡山大法文学部(日本史)卒、九大修士(考古学)中退、後、同大博士(『縄文社会論究』)。「弥生時代の始まりが従来の一般的な年代観よりも500年さかのぼる可能性があるとの見解を発表」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%88%90%E7%A7%80%E7%88%BE
⇒縄文社会が母系制だけの社会ではなかったと見るべきか、広義の母系制の社会と見るべきか、判断を留保しておきます。(太田)
<但し、嫁入り婚といえども、>女性が主導権をとる縄文時代の社会は、家長に従う女性を嫁にするものではなく、他の集団で育った女性が一つの家族の指導者として迎え入れられる形式のものであったのだろう。」(65〜70)
⇒ここも、武光が具体的根拠をあげていないのは残念です。(太田)
(続く)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その12)>(2017.9.25公開)
「縄文時代後期が始まる4000年前頃から、土偶の仮面<(注32)>が出土するようになる。
(注32)それらしきものについては、ネット上で、「茅野市湖東の中ッ原遺跡<で、>・・・土偶が埋納され<てい>た・・・土坑と近接するほかの土坑から、遺体の顔にかぶせたであろう土器が出土しています。そのうちの8点が附(つけたり)として国宝指定を受けています。」
http://www.city.chino.lg.jp/www/contents/1446544820161/index.html (←写真付き)
くらいしか見出せなかった。
⇒「土偶の仮面」が、当時、かなり一般的に「普及」していたのかどうか、武光は、その根拠とともに明らかにすべきでした。(太田)
仮面は長さ16センチメートルから18センチメートルぐらいの、顔をすっぽり覆う大きさにつくられている。・・・
女神の祭祀のときに、巫女がその仮面をかぶって女神を演じたのであろう。・・・
このような土面を用いる習俗は、シテが能面<(注33)>をかぶって精霊を演じる能楽や、鬼の面をかぶる秋田のナマハゲ<(注34)>に受け継がれていったと考えてよい。
(注33)「能面(のうめん)は、能楽や一部の神楽で用いられる仮面である。伎楽面や舞楽の仮面などの影響を受けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E9%9D%A2
「伎楽は呉(<支那>江南地方)から日本へ伝えられた仮面舞踊劇であり、滑稽な所作を伴うパントマイム(無言劇)であった。その起源については、使用される仮面の民族的特徴に中国人よりはアーリア系の要素が色濃くみられることから、西域(中央アジア)方面で発祥し、シルクロードを経て<支那>江南地方で完成されたものと推定されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8E%E6%A5%BD%E9%9D%A2
「舞楽<は、>・・・雅楽の演奏様式の一種。唐楽や高麗 (こま) 楽を伴奏とする舞踊。」
https://kotobank.jp/word/%E8%88%9E%E6%A5%BD-123736
(注34)なまはげの鬼の面の起源についての記述はなまはげのウィキペディアには出て来ない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%AF%E3%81%92
そもそも、鬼の起源についても定説がないが、「初期の鬼というのは皆女性の形」である、という点
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC
が、それが縄文時代起源である可能性を示唆している。
⇒能面やナマハゲの鬼の面の起源を「土偶の仮面」に求めるのは容易ではなさそうであり、武光は、この自説(?)の具体的根拠を示す必要がありました。(太田)
日本列島の人口は、少ない時期には約10万数千人、多い時期でも20数万人であったと推測されている。「女性の数がふえれば、自分たちの集団はさらに繁栄する」と考えられて、女性は歓迎され<た>に違いない。
それゆえ「縄文人は母となる女性を中心とした家族を営んでいた」と考えるのが自然であろう。
⇒結論はともかく、必ずしも説得力のない主張ですが、この結論が正しいとして、「女性を中心とした家族<が>営<まれる>」ためには、私が既に指摘したように、「戦争・闘争の少ない」「定着的生活」でなければならない、と考えます。
日本の縄文社会は、「女性を中心とした家族<が>営<まれ>」ていたところの、人類の古今東西の中で、極めて珍しい、例外的な社会の一つであった、と私は思っている次第です。(太田)
縄文人の集落の中で大事にされた女性たちの中から選ばれた一人の巫女が、縄文時代の一つの集団を指導したのである。
長老と呼ぶべき年長の女性が巫女となる場合が多かったのだろう。
⇒私自身、縄文社会について、そういうイメージを抱いてきたわけですが、武光には、もう少し、具体的根拠をあげてもらいたかったところです。(太田)
<この>縄文時代の結婚の形式<について、>・・・考古学者の春成秀爾(はるなりひでじ)<(注35)>氏・・・は、「西日本では婿入り婚が主流で、中部日本では婿入り婚と嫁入り婚が混在し、東日本では嫁入り婚が主流である」と主張する。・・・
(注35)1942年〜。国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。岡山大法文学部(日本史)卒、九大修士(考古学)中退、後、同大博士(『縄文社会論究』)。「弥生時代の始まりが従来の一般的な年代観よりも500年さかのぼる可能性があるとの見解を発表」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%88%90%E7%A7%80%E7%88%BE
⇒縄文社会が母系制だけの社会ではなかったと見るべきか、広義の母系制の社会と見るべきか、判断を留保しておきます。(太田)
<但し、嫁入り婚といえども、>女性が主導権をとる縄文時代の社会は、家長に従う女性を嫁にするものではなく、他の集団で育った女性が一つの家族の指導者として迎え入れられる形式のものであったのだろう。」(65〜70)
⇒ここも、武光が具体的根拠をあげていないのは残念です。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
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