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太田述正コラム#9145(2017.6.9)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その11)>(2017.9.23公開)
「縄文人の祭祀<で>は、・・・土偶を完全に破壊して、その破片をあちことにばらまくことが、より豊かな稔りをもたらすとされたのだ。・・・
縄文人は冬に野山の樹々が葉を落とし多くの草が枯れることを植物の精霊の死と考えていた。
そして春が訪れ、若葉が繁り草が新たに芽生えることを、植物の再生として祝った。
縄文人はこのような自然のあり方から、「あらゆる精霊は死と再生を繰り返す」という自然観をもつようになった。
かれらは人間は死んでもその霊魂は不滅で、いずれ新たな乳児となって生まれ変わってくると信じた。
そのような縄文時代の人びとが、冬が来る前に集まって土偶を祭り、それを割って、新たな春の訪れがもたらす生命の再生を大地の母神に願ったのである。
原始的な医術しか知らない縄文人たちにとって、女性の出産は命がけの行為であった。
無事に子供が生まれても、母親はお産のときに大いに苦しむ。
このような女性のあり方から縄文人は、「母なる女神が大きな苦痛を受けて死に、その死によって新しい多くの生命を誕生させた」という宗教観をもったのであろう。・・・
⇒典拠が付されておらず、或いは、武光独自の説なのかもしれませんが、このくだりは説得力があります。(太田)
インドネシアノセラム島の神話は、つぎのようなものである。
「ココヤシの木から生まれた神の少女が、祭りの夜にばらばらに切り刻まれて埋められた。すると土中の彼女の体からさまざまなイモが生えた」
最初の種イモは、神の少女の死によって生み出されたというのである。
日本神話の中にも、素戔嗚尊が殺した大宜津比売神(おおげつひめのかみ)<(注29)>の体から、蚕、稲、粟、小豆、麦、大豆が生えたという話がみられる。
(注29)「オオゲツヒメは『古事記』において五穀や養蚕の起源として書かれているが、『日本書紀』では同様の話がツクヨミがウケモチを斬り殺す話として出てくる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%84%E3%83%92%E3%83%A1
このような神話は、旧い時代にアジアの各地に広まっていたものであろう。<(注30)>」(64〜65)
(注30)「ハイヌウェレ型神話とは、世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、殺された神の死体から作物が生まれたとするものである。・・・この形の神話は、東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に広く分布している。それらはみな、芋類を栽培して主食としていた民族である。・・・日本神話においては、発生したのは宝物や芋類ではなく五穀である。よって、日本神話に挿入されたのは、東南アジアから一旦<支那>南方部を経由して日本に伝わった話ではないかと考えられている。」※
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AC%E5%9E%8B%E7%A5%9E%E8%A9%B1
⇒このあたりの説は、縄文中期にこの型の神話が日本列島でも知られるに至っていたからだ、とする吉田敦彦(注31)が唱えたものです
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AC%E5%9E%8B%E7%A5%9E%E8%A9%B1
が、そう武光は断るべきでした。
(注31)1934年〜。成蹊大学政治経済学部卒、東大院西洋古典学修士、仏国立科学研究センター(CNRS)研究員、ジュネーヴ大学文学部非常勤講師、米UCLA古典学部門の招待講師、成蹊大文学部助教授・教授を経て、学習院大文学部教授、2006年 定年退任し名誉教授、という面白い経歴の神話学者だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%95%A6%E5%BD%A6
なお、「日本書紀・・・には、天照大神が、高天原にある稲穂を天忍穂耳命(あめのおしほみみ)に授け、オシホミミは天降る際に生まれた瓊々杵尊(邇邇芸命・ににぎ)にそれを授けて天に帰ったとの記述がある。」ところ、こちらは、古典ギリシャのデーメーテール神話型の神話です。(上掲)
また、上出の※には直接的な典拠が付されていないところ、※が通説だとすると、この通説は吉田説とは異なるわけですが、一般のハイヌウェレ型神話地域には土偶的なものが見出せないようであること、ハイヌウェレ型神話が生まれた当時のセラム島は既に農業社会であった
https://en.wikipedia.org/wiki/Hainuwele
のに対し、縄文時代は農業時代とは言い難いこと、更には、セラム島の住民達は20世紀央まで首狩り族であって住民相互で戦闘が絶えなかった
https://en.wikipedia.org/wiki/Seram_Island
https://en.wikipedia.org/wiki/Alfur_people
故、母系制の縄文社会とは違って父系制であったと思われること、から、私は、武光とは違って、吉田説は採りません。(太田)
(続く)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その11)>(2017.9.23公開)
「縄文人の祭祀<で>は、・・・土偶を完全に破壊して、その破片をあちことにばらまくことが、より豊かな稔りをもたらすとされたのだ。・・・
縄文人は冬に野山の樹々が葉を落とし多くの草が枯れることを植物の精霊の死と考えていた。
そして春が訪れ、若葉が繁り草が新たに芽生えることを、植物の再生として祝った。
縄文人はこのような自然のあり方から、「あらゆる精霊は死と再生を繰り返す」という自然観をもつようになった。
かれらは人間は死んでもその霊魂は不滅で、いずれ新たな乳児となって生まれ変わってくると信じた。
そのような縄文時代の人びとが、冬が来る前に集まって土偶を祭り、それを割って、新たな春の訪れがもたらす生命の再生を大地の母神に願ったのである。
原始的な医術しか知らない縄文人たちにとって、女性の出産は命がけの行為であった。
無事に子供が生まれても、母親はお産のときに大いに苦しむ。
このような女性のあり方から縄文人は、「母なる女神が大きな苦痛を受けて死に、その死によって新しい多くの生命を誕生させた」という宗教観をもったのであろう。・・・
⇒典拠が付されておらず、或いは、武光独自の説なのかもしれませんが、このくだりは説得力があります。(太田)
インドネシアノセラム島の神話は、つぎのようなものである。
「ココヤシの木から生まれた神の少女が、祭りの夜にばらばらに切り刻まれて埋められた。すると土中の彼女の体からさまざまなイモが生えた」
最初の種イモは、神の少女の死によって生み出されたというのである。
日本神話の中にも、素戔嗚尊が殺した大宜津比売神(おおげつひめのかみ)<(注29)>の体から、蚕、稲、粟、小豆、麦、大豆が生えたという話がみられる。
(注29)「オオゲツヒメは『古事記』において五穀や養蚕の起源として書かれているが、『日本書紀』では同様の話がツクヨミがウケモチを斬り殺す話として出てくる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%84%E3%83%92%E3%83%A1
このような神話は、旧い時代にアジアの各地に広まっていたものであろう。<(注30)>」(64〜65)
(注30)「ハイヌウェレ型神話とは、世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、殺された神の死体から作物が生まれたとするものである。・・・この形の神話は、東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に広く分布している。それらはみな、芋類を栽培して主食としていた民族である。・・・日本神話においては、発生したのは宝物や芋類ではなく五穀である。よって、日本神話に挿入されたのは、東南アジアから一旦<支那>南方部を経由して日本に伝わった話ではないかと考えられている。」※
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AC%E5%9E%8B%E7%A5%9E%E8%A9%B1
⇒このあたりの説は、縄文中期にこの型の神話が日本列島でも知られるに至っていたからだ、とする吉田敦彦(注31)が唱えたものです
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AC%E5%9E%8B%E7%A5%9E%E8%A9%B1
が、そう武光は断るべきでした。
(注31)1934年〜。成蹊大学政治経済学部卒、東大院西洋古典学修士、仏国立科学研究センター(CNRS)研究員、ジュネーヴ大学文学部非常勤講師、米UCLA古典学部門の招待講師、成蹊大文学部助教授・教授を経て、学習院大文学部教授、2006年 定年退任し名誉教授、という面白い経歴の神話学者だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%95%A6%E5%BD%A6
なお、「日本書紀・・・には、天照大神が、高天原にある稲穂を天忍穂耳命(あめのおしほみみ)に授け、オシホミミは天降る際に生まれた瓊々杵尊(邇邇芸命・ににぎ)にそれを授けて天に帰ったとの記述がある。」ところ、こちらは、古典ギリシャのデーメーテール神話型の神話です。(上掲)
また、上出の※には直接的な典拠が付されていないところ、※が通説だとすると、この通説は吉田説とは異なるわけですが、一般のハイヌウェレ型神話地域には土偶的なものが見出せないようであること、ハイヌウェレ型神話が生まれた当時のセラム島は既に農業社会であった
https://en.wikipedia.org/wiki/Hainuwele
のに対し、縄文時代は農業時代とは言い難いこと、更には、セラム島の住民達は20世紀央まで首狩り族であって住民相互で戦闘が絶えなかった
https://en.wikipedia.org/wiki/Seram_Island
https://en.wikipedia.org/wiki/Alfur_people
故、母系制の縄文社会とは違って父系制であったと思われること、から、私は、武光とは違って、吉田説は採りません。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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