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太田述正コラム#9131(2017.6.3)
<ダコタ戦争(その3)>(2017.9.16公開)
(3)白人のインディアン観
ア 大部分
「著者は、<リンカーンによるダコタ族の強制排除が、>ダコタ族のあらゆる暴力行為は、それがどんな挑発に対してのものであったとしても、<インディアン達の>文化的諸欠陥と人種的悪逆さの結果なのであるからして、<こんな>インディアン達を彼らが200年間にわたって故郷(home)と呼んできた土地から移動させることができ<さえす>れば、<自分達にとって>ブームの時代が到来する、という、白人達の間での、ミネソタは今や自分達<だけ>の州であるとの圧倒的諸感覚、の産物であったことについて、我々に注意を喚起する。」(B)
イ 例外
「白人の入植者達の中には、もちろん、唯一の良いインディアンは死んだインディアンだ(The only good Indian is a dead Indian)<(注4)>、と信じていない者達もいた。
(注4)本人自身は否定しているが、一般に、フィリップ・シェリダン(Philip Sheridan。1831〜1888年)の言であるとされている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Sheridan
なお、シェリダンは、「<米陸軍士官学校卒。>・・・南北戦争に北軍の将軍として従軍し、1864年にはシェナンドー渓谷の戦いで大きな功績を挙げた。1865年にはその部隊がロバート・E・リー将軍を追撃し、アポマトックスでの降伏に貢献した。
・・・軍在籍時および退役後にイエローストーン国立公園の開発、保護に寄与した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%80%E3%83%B3
著者は、ヘンリー・ベンジャミン・ウィップル(Henry Benjamin Whipple)<(注5)>主教<(bishop)(前出)>は、インディアンの友という評判に値した<人物であった>ことを示している。
(注5)1822〜1901年。米オーバリン大中退(健康を損ねたため)。1849年に英国教会の助祭(deacon)。ローマ、NY、シカゴを経て1859年にミネソタで英国教会の初代主教となり、死ぬまで務める。
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Benjamin_Whipple
しかし、それは、19世紀末から20世紀初にかけての改革者達<共通>の、余りにも特徴的であるところの、複雑な友情だった。
1901年の死に至るまで、ウィップルは、インディアン平和委員会(commission)の設立を推進した。
そして、ダコタ族を、乾き切った荒地から、ネブラスカ内の、より棲息に適した諸特別保留地へと移転させることに成功した。
しかし、彼の、インディアン達に対する進歩的政策の定義は、白人の諸習慣と宗教の教え込み、アメリカ・インディアンのアイデンティティ、諸価値、そして、諸伝統の消去、を意味していたのだ。
だから、リンカーンの陸軍長官のエドウィン・M・スタントン(Edwin M. Stanton)<(注6)>、更には、インディアンと白人の関係(red-white relations)に係る全ての歴史学者達と同じく、著者が、インディアン達の、(平等な、はもとよりだが、)公正な、取り扱いが実現しなかったのは、「民主主義においては、人々がそれを求めるまでは悪を改革することは決してない」、と結論付けたのは当然である、と言えよう。」(B)
(注6)1814〜69年。「<米>国の政治家、法律家。[ブキャナン大統領の下、民主党員として]1860年から1861年まで・・・<米>司法長官を、[リンカーン及びアンドリュー・ジョンソン両大統領の下、共和党員として]1862年から1868年まで・・・<米>陸軍長官を務めた。・・・
ケニヨン大学で法律を学んだが、1833年に家族の仕事を支援するため退学し<、その後>・・・オハイオ州で弁護士として認可を受け<る。>・・・<ワシントン時代には、米国>史上初めて心神喪失が適用され<た>無罪放免<を勝ち取っている。>
・・・司法長官<時代には、>・・・スタントンは南部諸州の連邦離脱に強く反対した・・・
陸軍長官<に就任すると、>・・・陸軍省の管理運営に対してきわめて効率的に貢献した。その一方で省内の幹部からは南部に通じた反逆者ではないかという嫌疑をかけられ、その対応に多大な労力を消費した。・・・
<ちなみに、リンカーンとも、更に、リンカーン暗殺後の、ジョンソン大統領とも、ぎくしゃくした関係が続いた。>・・・
<なお、>1869年、スタントンは・・・グラント大統領から連邦最高裁判所の判事に任命された・・・が上院の承認から4日後の1869年12月24日、・・・ワシントンD.C.において死去し<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3 ([]内)
(続く)
<ダコタ戦争(その3)>(2017.9.16公開)
(3)白人のインディアン観
ア 大部分
「著者は、<リンカーンによるダコタ族の強制排除が、>ダコタ族のあらゆる暴力行為は、それがどんな挑発に対してのものであったとしても、<インディアン達の>文化的諸欠陥と人種的悪逆さの結果なのであるからして、<こんな>インディアン達を彼らが200年間にわたって故郷(home)と呼んできた土地から移動させることができ<さえす>れば、<自分達にとって>ブームの時代が到来する、という、白人達の間での、ミネソタは今や自分達<だけ>の州であるとの圧倒的諸感覚、の産物であったことについて、我々に注意を喚起する。」(B)
イ 例外
「白人の入植者達の中には、もちろん、唯一の良いインディアンは死んだインディアンだ(The only good Indian is a dead Indian)<(注4)>、と信じていない者達もいた。
(注4)本人自身は否定しているが、一般に、フィリップ・シェリダン(Philip Sheridan。1831〜1888年)の言であるとされている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Sheridan
なお、シェリダンは、「<米陸軍士官学校卒。>・・・南北戦争に北軍の将軍として従軍し、1864年にはシェナンドー渓谷の戦いで大きな功績を挙げた。1865年にはその部隊がロバート・E・リー将軍を追撃し、アポマトックスでの降伏に貢献した。
・・・軍在籍時および退役後にイエローストーン国立公園の開発、保護に寄与した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%80%E3%83%B3
著者は、ヘンリー・ベンジャミン・ウィップル(Henry Benjamin Whipple)<(注5)>主教<(bishop)(前出)>は、インディアンの友という評判に値した<人物であった>ことを示している。
(注5)1822〜1901年。米オーバリン大中退(健康を損ねたため)。1849年に英国教会の助祭(deacon)。ローマ、NY、シカゴを経て1859年にミネソタで英国教会の初代主教となり、死ぬまで務める。
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Benjamin_Whipple
しかし、それは、19世紀末から20世紀初にかけての改革者達<共通>の、余りにも特徴的であるところの、複雑な友情だった。
1901年の死に至るまで、ウィップルは、インディアン平和委員会(commission)の設立を推進した。
そして、ダコタ族を、乾き切った荒地から、ネブラスカ内の、より棲息に適した諸特別保留地へと移転させることに成功した。
しかし、彼の、インディアン達に対する進歩的政策の定義は、白人の諸習慣と宗教の教え込み、アメリカ・インディアンのアイデンティティ、諸価値、そして、諸伝統の消去、を意味していたのだ。
だから、リンカーンの陸軍長官のエドウィン・M・スタントン(Edwin M. Stanton)<(注6)>、更には、インディアンと白人の関係(red-white relations)に係る全ての歴史学者達と同じく、著者が、インディアン達の、(平等な、はもとよりだが、)公正な、取り扱いが実現しなかったのは、「民主主義においては、人々がそれを求めるまでは悪を改革することは決してない」、と結論付けたのは当然である、と言えよう。」(B)
(注6)1814〜69年。「<米>国の政治家、法律家。[ブキャナン大統領の下、民主党員として]1860年から1861年まで・・・<米>司法長官を、[リンカーン及びアンドリュー・ジョンソン両大統領の下、共和党員として]1862年から1868年まで・・・<米>陸軍長官を務めた。・・・
ケニヨン大学で法律を学んだが、1833年に家族の仕事を支援するため退学し<、その後>・・・オハイオ州で弁護士として認可を受け<る。>・・・<ワシントン時代には、米国>史上初めて心神喪失が適用され<た>無罪放免<を勝ち取っている。>
・・・司法長官<時代には、>・・・スタントンは南部諸州の連邦離脱に強く反対した・・・
陸軍長官<に就任すると、>・・・陸軍省の管理運営に対してきわめて効率的に貢献した。その一方で省内の幹部からは南部に通じた反逆者ではないかという嫌疑をかけられ、その対応に多大な労力を消費した。・・・
<ちなみに、リンカーンとも、更に、リンカーン暗殺後の、ジョンソン大統領とも、ぎくしゃくした関係が続いた。>・・・
<なお、>1869年、スタントンは・・・グラント大統領から連邦最高裁判所の判事に任命された・・・が上院の承認から4日後の1869年12月24日、・・・ワシントンD.C.において死去し<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3 ([]内)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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