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太田述正コラム#9127(2017.5.31)
<ダコタ戦争(その2)>(2017.9.14公開)
3 諸書評より
(1)戦争のきっかけ
「1862年の夏、アブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)が連邦から11の奴隷保有南部諸州が離脱するのを防ぐために戦争をしかけていた頃、4人の若いダコタ族のインディアン達が、狩猟の旅で獲物が得られなかった後に、現在のミネソタ州中央の農家に、食べるものを求めて近づいた。
酔っていたことから、彼らは度重なる一連の悪しき諸決定をすぐに下し、その全員が白人であるところの、農夫、他の2人の男達、一人の女、そして15歳の少女を撃ち殺した。
この諸殺人は、その時代と場所においてはそれほど珍しいものではなかった。
しかし、この酔っぱらったお礼参りはこの地域全体を震撼させ、<南北戦争と並ぶ、>もう一つの戦争をもたらしたのだ。」(D)
「米国のフロンティア沿いにおけるこの日の諸殺人はこの地域の白人達を恐怖に陥れた。
しかし、それは逆説的にも、ムデワカントン・ダコタ(Mdewakanton Dakota)支族<(注1)>に糾合原理を与えることとなった。
(注1)「スー族(・・・Sioux)は、<米>国北部中西部に先住するインディアン部族である、ダコタ族、ラコタ族、およびナコタ族の総称。・・・それぞれ「ラコタ語」、「ダコタ語」、「ナコタ語」という・・・スー語の方言が話される。19世紀末までは定住せず、夏はティピー<(後出)>に住んでバッファローの群れを追い、冬は・・・「冬の村」に住むという、北部平原で最も勢力を誇った典型的な平原インディアンだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E6%97%8F
ダコタ族とナコタ族は、それぞれ、現在、東部ダコタ族(Eastern Dakota)、西部ダコタ族(Western Dakota)、と呼ばれている。
ダコタ族(東部ダコタ族)は、更に、[三つの支族(sub-tribe)ないし]バンド(band)に分かれ、ムデワカントン・ダコタ族はその一つである。
https://en.wikipedia.org/wiki/Dakota_people
https://en.wikipedia.org/wiki/Mdewakanton ([]内)
彼らは、酋長のリトル・クロウ<(注2)>のティピー(tepee)<(注3)>に、この4人の男達がやったことを報告し、暴力から詐欺、そして諸条約違反について、拡大しつつあった米国に対する諸苦情の長いリストを並べ立てるために集まった。
(注2)1810?〜1863年。本名はThaoyate Duta(赤い民族)だが、祖父の名前を誤訳した白人達によってLittle Crowと呼ばれることになった。ムデワカントン・ダコタ支族の酋長。
https://en.wikipedia.org/wiki/Little_Crow
(注3)「アメリカインディアンのうち、おもに平原の部族が利用する移動用住居の一種である。・・・もともとはスー族の言葉で、「住居(house)」の意味。正しい発音は「ティーピー(tee-pee)」である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%94%E3%83%BC
寛容の限界まで追い詰められていたダコタ族は戦争を欲した。
リトル・クロウは叛徒達の会議で、白人の女性と少女の諸殺害は、「ダコタ族全員に対する、迅速かつ無差別的な報復をもたらすだろう。この猛襲を我々は持ち堪えることは不可能だろう。」と警告した。
とまれ、リトル・クロウは彼らは、彼らを戦闘へと率いることを決め、その結果は破滅的なものとなったのだ。」(D)
(2)戦争の結果(南北戦争との比較)
「南北戦争はこの時代における国家の諸危機のうちの一部に過ぎなかったのだ。」(D)
「ダコタ戦争の諸結果を南北戦争の諸結果と比較すれば、<前者におけるリンカーンの>決定が示唆しているのは、連邦政府に対する暴力行為に対する処罰に紛れもなく人種主義的次元があった、ということだ。
100万人を超える南部の白人達が、奴隷制を守るために、4年間にわたったところの、空前の規模での諸虐殺が生じた紛争において連邦に対して諸武器を取ったというのに、元南部連合は、この叛乱に関してたった一人の処刑にしか直面させられなかった。
他方、西部においては、数百人のダコタ族が、条約の目的を政府が遵守することを確保するために、一年未満続いた一連の諸紛争において、ダコタ族の諸土地を守ったことの結果は、我が国の歴史の中で最も大規模な、政府公認の大量処刑だった。
<このように、>西部において政府に公然と反抗した者達に対してとは、大いに異なった運命を東部において政府に挑戦した者達に対しては直面させたわけであり、1860年代の文脈の中で、リンカーンが含まれていたところの、連邦政府は、人種主義的な形(terms)で「正義」を与えたわけだ。」(A)
(続く)
<ダコタ戦争(その2)>(2017.9.14公開)
3 諸書評より
(1)戦争のきっかけ
「1862年の夏、アブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)が連邦から11の奴隷保有南部諸州が離脱するのを防ぐために戦争をしかけていた頃、4人の若いダコタ族のインディアン達が、狩猟の旅で獲物が得られなかった後に、現在のミネソタ州中央の農家に、食べるものを求めて近づいた。
酔っていたことから、彼らは度重なる一連の悪しき諸決定をすぐに下し、その全員が白人であるところの、農夫、他の2人の男達、一人の女、そして15歳の少女を撃ち殺した。
この諸殺人は、その時代と場所においてはそれほど珍しいものではなかった。
しかし、この酔っぱらったお礼参りはこの地域全体を震撼させ、<南北戦争と並ぶ、>もう一つの戦争をもたらしたのだ。」(D)
「米国のフロンティア沿いにおけるこの日の諸殺人はこの地域の白人達を恐怖に陥れた。
しかし、それは逆説的にも、ムデワカントン・ダコタ(Mdewakanton Dakota)支族<(注1)>に糾合原理を与えることとなった。
(注1)「スー族(・・・Sioux)は、<米>国北部中西部に先住するインディアン部族である、ダコタ族、ラコタ族、およびナコタ族の総称。・・・それぞれ「ラコタ語」、「ダコタ語」、「ナコタ語」という・・・スー語の方言が話される。19世紀末までは定住せず、夏はティピー<(後出)>に住んでバッファローの群れを追い、冬は・・・「冬の村」に住むという、北部平原で最も勢力を誇った典型的な平原インディアンだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E6%97%8F
ダコタ族とナコタ族は、それぞれ、現在、東部ダコタ族(Eastern Dakota)、西部ダコタ族(Western Dakota)、と呼ばれている。
ダコタ族(東部ダコタ族)は、更に、[三つの支族(sub-tribe)ないし]バンド(band)に分かれ、ムデワカントン・ダコタ族はその一つである。
https://en.wikipedia.org/wiki/Dakota_people
https://en.wikipedia.org/wiki/Mdewakanton ([]内)
彼らは、酋長のリトル・クロウ<(注2)>のティピー(tepee)<(注3)>に、この4人の男達がやったことを報告し、暴力から詐欺、そして諸条約違反について、拡大しつつあった米国に対する諸苦情の長いリストを並べ立てるために集まった。
(注2)1810?〜1863年。本名はThaoyate Duta(赤い民族)だが、祖父の名前を誤訳した白人達によってLittle Crowと呼ばれることになった。ムデワカントン・ダコタ支族の酋長。
https://en.wikipedia.org/wiki/Little_Crow
(注3)「アメリカインディアンのうち、おもに平原の部族が利用する移動用住居の一種である。・・・もともとはスー族の言葉で、「住居(house)」の意味。正しい発音は「ティーピー(tee-pee)」である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%94%E3%83%BC
寛容の限界まで追い詰められていたダコタ族は戦争を欲した。
リトル・クロウは叛徒達の会議で、白人の女性と少女の諸殺害は、「ダコタ族全員に対する、迅速かつ無差別的な報復をもたらすだろう。この猛襲を我々は持ち堪えることは不可能だろう。」と警告した。
とまれ、リトル・クロウは彼らは、彼らを戦闘へと率いることを決め、その結果は破滅的なものとなったのだ。」(D)
(2)戦争の結果(南北戦争との比較)
「南北戦争はこの時代における国家の諸危機のうちの一部に過ぎなかったのだ。」(D)
「ダコタ戦争の諸結果を南北戦争の諸結果と比較すれば、<前者におけるリンカーンの>決定が示唆しているのは、連邦政府に対する暴力行為に対する処罰に紛れもなく人種主義的次元があった、ということだ。
100万人を超える南部の白人達が、奴隷制を守るために、4年間にわたったところの、空前の規模での諸虐殺が生じた紛争において連邦に対して諸武器を取ったというのに、元南部連合は、この叛乱に関してたった一人の処刑にしか直面させられなかった。
他方、西部においては、数百人のダコタ族が、条約の目的を政府が遵守することを確保するために、一年未満続いた一連の諸紛争において、ダコタ族の諸土地を守ったことの結果は、我が国の歴史の中で最も大規模な、政府公認の大量処刑だった。
<このように、>西部において政府に公然と反抗した者達に対してとは、大いに異なった運命を東部において政府に挑戦した者達に対しては直面させたわけであり、1860年代の文脈の中で、リンカーンが含まれていたところの、連邦政府は、人種主義的な形(terms)で「正義」を与えたわけだ。」(A)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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