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太田述正コラム#9049(2017.4.22)
<ナチが模範と仰いだ米国(その10)>(2017.8.6公開)
(5)ナチスによる調査研究
「アドルフ・ヒットラーがドイツの宰相になってから約1年半後の1934年6月5日、ナチスドイツの指導的法律家達が、(ナチの人種体制の中枢反ユダヤ法制たる)ニュルンベルク諸法に結実するところのものを計画するために一堂に会した。
この会合は重要なものであり、新しい人種体制の創造に係る枢機な瞬間の記録として、常に勤勉であるナチ官僚制によって保管されるべく、逐語記録の写しを残すために速記者が臨席していた。
この記録の写しは、仰天の事実を顕現している。
この会合は、米国の法についての長時間の諸議論を伴っていたのだ。
まさに開会の時に、法務大臣は、米人種法についてのメモを提示したし、この会合が進展する際に、参加者達は米国の事例を繰り返し振り返った。
彼らは、ジムクロウ人種分離を第三帝国に導入すべきかどうかを討論した。
<また、>彼らは、人種間諸婚姻を処罰したところの、30の米諸州の諸法規について細かい諸議論に従事した。
彼らは、様々な米諸州が、誰が「黒人(Negro)」或いは「黄色人(Mogol)」に計上されるか、をどのように決定しているかを検討(review)し、誰がユダヤ人に計上されるかを決定する彼ら自身のアプローチにおいて、米国の諸技術を採用すべきか否かを秤量した。
一貫してこの会合を通じて、米国モデルの熱烈な支持者達は、部屋の中にいたうちの、最も急進的なナチ達だった。
この会合の記録は、間違いなく米国人達をすくませるところの、未検証の歴史におけるわずか一片の証拠に過ぎない。
ニュルンベルク諸法策定の年々である、1930年代初期を通して、ナチの政策決定者達は、鼓吹されるために米国を眺めやった。
ヒットラー自身、『我が闘争』(1925年)の中で、米国について、健全な(healthy)人種主義社会の創造に向けて前進を遂げた「第一の国家(the one state)」と描写しており、1933年にナチ達が権力を奪取した後、彼らは、米国の諸モデルを繰り返し(regularly)思料した。
もとより、彼らは、米国の憲法上の諸価値に関し、軽蔑すべきものをたくさん見出してはいた。
しかし、彼らは、米国の白人至上性(white supremacy)に尊敬すべき多くの諸事柄を見出したのであって、ニュルンベルク諸法が1935年に公布された時、それらが米国の直接的影響を反映していたことは、殆ど確実であると言えるのだ。」(L)
「穏健派は法的伝統は首尾一貫性を求めている、と主張した。
人種間諸婚姻を禁止するいかなる新しい法規も、結婚を犯罪と取り扱ったところの、既存の一つの前例・・重婚を違法とする法・・と適合する(in accord with)形で構築されなければならない、と。
これはいささか無理な理屈というものであり、穏健派としては、人種間恋愛を警察沙汰にするのではなく、情宣専門家達が防止(discourage)することの方を好んだ。
急進派は、<穏健派とは>異なった概念工具一式でもって動いていた。
<穏健派が依拠していた>法学的伝統は、ヒットラーが呼んだところの、「国家の民族的(volkisch)概念」・・アーリア人の至上性と人種的純粋性を要求した・・の域に達していない(counted for less than)、と。
彼らにとっては、試みられ検証されてきたところの事例に追随する方が道理にかなっていたのだ。
この委員会における<急進派中の>筋金入り(hard-core)のナチは、<事例探しのためには>どこを向けばよいかを知っていた。
ここで、人種概念の叙述(delineation)に関し、米国の諸州の一覧表に一瞥をくれると興味深い。
<そうすれば、>米国の30州が人種法制を持っているところ、それらが、<白>人種保護(race protection)の観点から作られた(crafted)のは・・・明白であるように見える。…
それは、・・・日本人達に係る事例であったと・・・想像されるところの、できれば外来の(foreign)政治的影響を排除(exclude)したいとの願望、を除けば、それらの全ては<白>人種保護の観点に由来していたのだ。
⇒日本人移民排斥だけは人種主義に基づくというよりは政治的思惑に基づくものであった、とのこの書評子の主張はナンセンスです。
そもそも、いかなる少数民族迫害も、一般に、人種主義と(経済的思惑等も包含したところの)政治的思惑とが分かちがたく結びついているものだからです。
インディアン迫害は基本的にその土地を強奪するためでしたし、ジムクロウ法制は基本的に南部における黒人による権力奪取ないし権力共有を回避するためであったこと、を想起してください。
ナチの(というか、戦間期のドイツ民族の過半の意思に基づく)ユダヤ人迫害もまた、(それが妄想であったにせよ、)基本的に、ドイツ内外からのユダヤ人による権力奪取ないし権力共有を回避するためであったことも・・。(それぞれコラム#省略)
なお、ここで銘記していただきたいのは、先の大戦中の、ナチスドイツにおけるユダヤ人達の強制収容所収容と米国における日系人達の強制収容所収容とは、全く同質のものであった、と認識すべきであることです。
たまたま、紙一重の差で、前者ではその後ホロコーストへと進んだのに対し、後者ではそうならなかった、ということです。
(この紙一重の差が何に由来するかの説明はそうむつかしくはなさそうですが、ここでは立ち入りません。)(太田)
著者がナチの急進派と同定しているところの法律家達は、ドイツ的な厳密さ(rigor)の諸標準に照らせば非常に米国の諸州が異なっていた(different)こと、を前向きに評価(appreciate)していたように見える。
確かに、米国の諸法では、ユダヤ人達と非ユダヤ人達(Gentiles)が結婚することに対して嘆かわしいほど無関心であることが示されていた。
しかし、その点を除けば、それらの諸法は、総統が望んだ通りに人種主義的だった。
著者は、「1930年代初においてナチの目を通してみた米国のイメージは我々が心に抱く(cherish)イメージではないが、それは<我々が>認識不可能なことでは決してない」、と記す。」(B)
(続く)
<ナチが模範と仰いだ米国(その10)>(2017.8.6公開)
(5)ナチスによる調査研究
「アドルフ・ヒットラーがドイツの宰相になってから約1年半後の1934年6月5日、ナチスドイツの指導的法律家達が、(ナチの人種体制の中枢反ユダヤ法制たる)ニュルンベルク諸法に結実するところのものを計画するために一堂に会した。
この会合は重要なものであり、新しい人種体制の創造に係る枢機な瞬間の記録として、常に勤勉であるナチ官僚制によって保管されるべく、逐語記録の写しを残すために速記者が臨席していた。
この記録の写しは、仰天の事実を顕現している。
この会合は、米国の法についての長時間の諸議論を伴っていたのだ。
まさに開会の時に、法務大臣は、米人種法についてのメモを提示したし、この会合が進展する際に、参加者達は米国の事例を繰り返し振り返った。
彼らは、ジムクロウ人種分離を第三帝国に導入すべきかどうかを討論した。
<また、>彼らは、人種間諸婚姻を処罰したところの、30の米諸州の諸法規について細かい諸議論に従事した。
彼らは、様々な米諸州が、誰が「黒人(Negro)」或いは「黄色人(Mogol)」に計上されるか、をどのように決定しているかを検討(review)し、誰がユダヤ人に計上されるかを決定する彼ら自身のアプローチにおいて、米国の諸技術を採用すべきか否かを秤量した。
一貫してこの会合を通じて、米国モデルの熱烈な支持者達は、部屋の中にいたうちの、最も急進的なナチ達だった。
この会合の記録は、間違いなく米国人達をすくませるところの、未検証の歴史におけるわずか一片の証拠に過ぎない。
ニュルンベルク諸法策定の年々である、1930年代初期を通して、ナチの政策決定者達は、鼓吹されるために米国を眺めやった。
ヒットラー自身、『我が闘争』(1925年)の中で、米国について、健全な(healthy)人種主義社会の創造に向けて前進を遂げた「第一の国家(the one state)」と描写しており、1933年にナチ達が権力を奪取した後、彼らは、米国の諸モデルを繰り返し(regularly)思料した。
もとより、彼らは、米国の憲法上の諸価値に関し、軽蔑すべきものをたくさん見出してはいた。
しかし、彼らは、米国の白人至上性(white supremacy)に尊敬すべき多くの諸事柄を見出したのであって、ニュルンベルク諸法が1935年に公布された時、それらが米国の直接的影響を反映していたことは、殆ど確実であると言えるのだ。」(L)
「穏健派は法的伝統は首尾一貫性を求めている、と主張した。
人種間諸婚姻を禁止するいかなる新しい法規も、結婚を犯罪と取り扱ったところの、既存の一つの前例・・重婚を違法とする法・・と適合する(in accord with)形で構築されなければならない、と。
これはいささか無理な理屈というものであり、穏健派としては、人種間恋愛を警察沙汰にするのではなく、情宣専門家達が防止(discourage)することの方を好んだ。
急進派は、<穏健派とは>異なった概念工具一式でもって動いていた。
<穏健派が依拠していた>法学的伝統は、ヒットラーが呼んだところの、「国家の民族的(volkisch)概念」・・アーリア人の至上性と人種的純粋性を要求した・・の域に達していない(counted for less than)、と。
彼らにとっては、試みられ検証されてきたところの事例に追随する方が道理にかなっていたのだ。
この委員会における<急進派中の>筋金入り(hard-core)のナチは、<事例探しのためには>どこを向けばよいかを知っていた。
ここで、人種概念の叙述(delineation)に関し、米国の諸州の一覧表に一瞥をくれると興味深い。
<そうすれば、>米国の30州が人種法制を持っているところ、それらが、<白>人種保護(race protection)の観点から作られた(crafted)のは・・・明白であるように見える。…
それは、・・・日本人達に係る事例であったと・・・想像されるところの、できれば外来の(foreign)政治的影響を排除(exclude)したいとの願望、を除けば、それらの全ては<白>人種保護の観点に由来していたのだ。
⇒日本人移民排斥だけは人種主義に基づくというよりは政治的思惑に基づくものであった、とのこの書評子の主張はナンセンスです。
そもそも、いかなる少数民族迫害も、一般に、人種主義と(経済的思惑等も包含したところの)政治的思惑とが分かちがたく結びついているものだからです。
インディアン迫害は基本的にその土地を強奪するためでしたし、ジムクロウ法制は基本的に南部における黒人による権力奪取ないし権力共有を回避するためであったこと、を想起してください。
ナチの(というか、戦間期のドイツ民族の過半の意思に基づく)ユダヤ人迫害もまた、(それが妄想であったにせよ、)基本的に、ドイツ内外からのユダヤ人による権力奪取ないし権力共有を回避するためであったことも・・。(それぞれコラム#省略)
なお、ここで銘記していただきたいのは、先の大戦中の、ナチスドイツにおけるユダヤ人達の強制収容所収容と米国における日系人達の強制収容所収容とは、全く同質のものであった、と認識すべきであることです。
たまたま、紙一重の差で、前者ではその後ホロコーストへと進んだのに対し、後者ではそうならなかった、ということです。
(この紙一重の差が何に由来するかの説明はそうむつかしくはなさそうですが、ここでは立ち入りません。)(太田)
著者がナチの急進派と同定しているところの法律家達は、ドイツ的な厳密さ(rigor)の諸標準に照らせば非常に米国の諸州が異なっていた(different)こと、を前向きに評価(appreciate)していたように見える。
確かに、米国の諸法では、ユダヤ人達と非ユダヤ人達(Gentiles)が結婚することに対して嘆かわしいほど無関心であることが示されていた。
しかし、その点を除けば、それらの諸法は、総統が望んだ通りに人種主義的だった。
著者は、「1930年代初においてナチの目を通してみた米国のイメージは我々が心に抱く(cherish)イメージではないが、それは<我々が>認識不可能なことでは決してない」、と記す。」(B)
(続く)
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