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太田述正コラム#8993(2017.3.25)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その9)>(2017.7.9公開)
「日本の売春の歴史は、遊郭ができたこと・・・をきっかけに様相が一変する。・・・
1589(天正17)年、豊臣秀吉は京都・万里小路(までのこうじ)に初の遊郭を開設させた。これが後の島原遊郭<(注24)>である。続いて江戸時代が始まって間もない1617(元和3)年、吉原遊郭<(注25)>がオープン、以後、売春の歴史は遊郭の歴史とほとんど重なり合うことになる。
(注24)「室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。桃山時代(1589年)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条万里小路に「二条柳町」を開設した。江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出した。ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。・・・
廓の女性達は(手形が必要ではあるが)自由に廓の外へ出ることができ、一般人も(男女問わず)自由に出入りができた。清河八郎や頼山陽のように、実母を「親孝行」として揚屋で遊ばせた例もあ<る。>・・・
現在もお茶屋として営業を続けているのは輪違屋のみ。すでに揚屋としての営業は行っていないが、角屋は建築物としては今も日本に唯一残る揚屋造の遺構である。・・・
江戸中期には炭太祇(たんたいぎ)が島原で不夜庵を主宰し、親交のあった与謝蕪村らとともに俳諧活動を行った。また、その他にも島原の太夫や、文人らによる和歌などの文芸活動が盛んであった・・・。「太夫」とは・・・かつては正五位の地位をも与えられた最高位の遊女であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F_(%E4%BA%AC%E9%83%BD)
(注25)「江戸幕府によって公認された遊廓である。始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。・・・
江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと<いう背景の下、>・・・遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%8E%9F%E9%81%8A%E5%BB%93
⇒並べてみると、島原遊郭も吉原遊郭も、(先の大戦中の慰安所同様、)政府が「関与」して設立された点では同じでも、縄文的な上方、と、より弥生的な江戸、の違いが、それぞれに反映されているように思います。
島原には女性客もいた、とは知りませんでしたが、前に記したことがある(コラム#省略)ように、大部分の女性は同性愛志向者でもある以上、(セックス疑似行為を伴わない場合も当然あったのでしょうが、)不思議に思ったらいけないのでしょうね。
かつての島原遊郭は、パリのサロンが真っ青になる、世界最高のサロンであったと言えそう・・吉野太夫のウィキペデイア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E5%A4%AA%E5%A4%AB
も参照のこと・・ですが、こういう面もあったところの遊郭、より広く言えば売買春・・広義の米占領政策の一環として廃止された・・の復活/合法化を、日本の「独立」と併せ、できるだけ早く実現したいものです。(太田)
では、遊郭以前の売春の実態とはどんなものだったのだろう?
遊女・・・たちは、歌作りの才能で宮中女官としての栄達をはかったり、美貌を武器に高官の妻の座を占める、さらには財をなすことを欲し<てい>たのであり、それは当時の女性たちに認められたキャリアアップの道であった<のだ>。・・・
<一方、>平安時代に生まれた・・・五奇祭・・・「江州筑摩社の鍋被り祭り、越中鵜坂社の尻叩き祭り、常陸鹿島神宮の常陸帯、京都・大原の江文社の雑魚寝<(注26)>、そして奥州の錦木」<という>・・・<諸>奇祭<は、>・・・<都ならぬ>地方の女性が性のアイデンティティーを確認する機会だったといえるかも知れない。・・・そこで<のものを含め、>多くの男を経験することは、当時の女性にとって勲章だった。女性たちはそれを告白することによって<これら諸>祭りのスターとなったのである。
(注26)「大和の十津川 (奈良県) や山城の大原 (京都府) などで・・・定日に・・・神社などに集まって・・・男女が枕席をともにする民間習俗」
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%91%E9%AD%9A%E5%AF%9D-68878
⇒雑魚寝以外は、その祭りの内容自体がセックスそのものを連想させるものでは必ずしもない・・例えば、常陸帯については、下掲参照・・
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%B8%AF-610496
ことに注意が必要です。
いずれにせよ、第一次縄文モード(平安時代)においては、貴族から庶民まで、セックスを開けっ広げに謳歌していた、と見てよさそうですね。(太田)
江戸時代には雑魚寝の風習は全国に広がった。」(121、127〜130、132、134)
(続く)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その9)>(2017.7.9公開)
「日本の売春の歴史は、遊郭ができたこと・・・をきっかけに様相が一変する。・・・
1589(天正17)年、豊臣秀吉は京都・万里小路(までのこうじ)に初の遊郭を開設させた。これが後の島原遊郭<(注24)>である。続いて江戸時代が始まって間もない1617(元和3)年、吉原遊郭<(注25)>がオープン、以後、売春の歴史は遊郭の歴史とほとんど重なり合うことになる。
(注24)「室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。桃山時代(1589年)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条万里小路に「二条柳町」を開設した。江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出した。ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。・・・
廓の女性達は(手形が必要ではあるが)自由に廓の外へ出ることができ、一般人も(男女問わず)自由に出入りができた。清河八郎や頼山陽のように、実母を「親孝行」として揚屋で遊ばせた例もあ<る。>・・・
現在もお茶屋として営業を続けているのは輪違屋のみ。すでに揚屋としての営業は行っていないが、角屋は建築物としては今も日本に唯一残る揚屋造の遺構である。・・・
江戸中期には炭太祇(たんたいぎ)が島原で不夜庵を主宰し、親交のあった与謝蕪村らとともに俳諧活動を行った。また、その他にも島原の太夫や、文人らによる和歌などの文芸活動が盛んであった・・・。「太夫」とは・・・かつては正五位の地位をも与えられた最高位の遊女であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F_(%E4%BA%AC%E9%83%BD)
(注25)「江戸幕府によって公認された遊廓である。始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。・・・
江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと<いう背景の下、>・・・遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%8E%9F%E9%81%8A%E5%BB%93
⇒並べてみると、島原遊郭も吉原遊郭も、(先の大戦中の慰安所同様、)政府が「関与」して設立された点では同じでも、縄文的な上方、と、より弥生的な江戸、の違いが、それぞれに反映されているように思います。
島原には女性客もいた、とは知りませんでしたが、前に記したことがある(コラム#省略)ように、大部分の女性は同性愛志向者でもある以上、(セックス疑似行為を伴わない場合も当然あったのでしょうが、)不思議に思ったらいけないのでしょうね。
かつての島原遊郭は、パリのサロンが真っ青になる、世界最高のサロンであったと言えそう・・吉野太夫のウィキペデイア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E5%A4%AA%E5%A4%AB
も参照のこと・・ですが、こういう面もあったところの遊郭、より広く言えば売買春・・広義の米占領政策の一環として廃止された・・の復活/合法化を、日本の「独立」と併せ、できるだけ早く実現したいものです。(太田)
では、遊郭以前の売春の実態とはどんなものだったのだろう?
遊女・・・たちは、歌作りの才能で宮中女官としての栄達をはかったり、美貌を武器に高官の妻の座を占める、さらには財をなすことを欲し<てい>たのであり、それは当時の女性たちに認められたキャリアアップの道であった<のだ>。・・・
<一方、>平安時代に生まれた・・・五奇祭・・・「江州筑摩社の鍋被り祭り、越中鵜坂社の尻叩き祭り、常陸鹿島神宮の常陸帯、京都・大原の江文社の雑魚寝<(注26)>、そして奥州の錦木」<という>・・・<諸>奇祭<は、>・・・<都ならぬ>地方の女性が性のアイデンティティーを確認する機会だったといえるかも知れない。・・・そこで<のものを含め、>多くの男を経験することは、当時の女性にとって勲章だった。女性たちはそれを告白することによって<これら諸>祭りのスターとなったのである。
(注26)「大和の十津川 (奈良県) や山城の大原 (京都府) などで・・・定日に・・・神社などに集まって・・・男女が枕席をともにする民間習俗」
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%91%E9%AD%9A%E5%AF%9D-68878
⇒雑魚寝以外は、その祭りの内容自体がセックスそのものを連想させるものでは必ずしもない・・例えば、常陸帯については、下掲参照・・
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%B8%AF-610496
ことに注意が必要です。
いずれにせよ、第一次縄文モード(平安時代)においては、貴族から庶民まで、セックスを開けっ広げに謳歌していた、と見てよさそうですね。(太田)
江戸時代には雑魚寝の風習は全国に広がった。」(121、127〜130、132、134)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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