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太田述正コラム#8951(2017.3.4)
<夏目漱石は縄文モード化の旗手だった?(その1)>(2017.6.18公開)

1 始めに

 最近号である『學士會会報No.923 2017-II』を斜め読みしていて、小森陽一による「没後百年に読みなおす夏目漱石」(同43〜52頁)に遭遇した時、びっくりしたのなんのって、私の言葉に置き換えりゃ、表記のような内容だったんですからねえ。
 おかげで、ずっと蟠っていたところの、「<在英中、>「漱石発狂」という噂が文部省内に流れる。漱石は急遽帰国を命じられ、<1902年(明治35年)12月に>ロンドンを発つことになった。」のはなぜか、「1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、・・・朝日新聞社に入社」したのはなぜか、が私なりに解明できたように思いますし、どうして、「文豪」漱石の文学作品群が、(『こころ』以外、)どれもこれも私には面白くなかったのか、も、私なりに腑に落ちました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3#.E5.A4.8F.E7.9B.AE.E5.AE.B6 (「」内)
 ちなみに、小森は北大文修の東大院総合文化研究科教授であり、本論考は学士會午餐会での講演要旨ですが、それより前にこのような内容の論文が発表されていると思われるところ、その論文も、この午餐会での講演も、全く話題にならなかったことは、漱石人気の凋落を意味するのかもしれません。
 「<英国で>の漱石最後の下宿の反対側には、「ロンドン漱石記念館」が・・・1984年(昭和59年)に設立され<(知っていた。(太田))、>・・・一般公開されていたが、・・・2016年9月末をもって閉館」(上掲)している(知らなかった(太田))のもその表れである可能性があります。 

2 小森論考のさわり

 「漱石は人生最後の年となる1916年の正月、10年間にわたって連載を続けてきた朝日新聞紙上にて、『点頭録』というエッセイの連載を開始しました。・・・
 <この>1916年は第一次世界大戦の最中です。漱石は、「独逸に因つて代表された軍国主義が、多年英仏に於て培養された個人の自由を破壊しさるだらうか」と心配しています。彼が最大の関心を寄せたのは、ドイツと連合国のどちらが勝つかではなく、「軍国主義」と「個人の自由」のどちらが勝つか、についてでした。そして「軍国主義」の要として、特に「強制徴兵制」を重視しました。漱石に衝撃を与えたのは、個人の自由を何よりも尊重してきたイギリスの議会で、・・・大差で「強制徴兵制」案が可決されたことでした。

⇒英文学者でかつ小説家であった以上、漱石は言葉の用法に細心の注意を払わなければならないはずですが、日本語でも英語でも、「強制徴募(impressment)」や(「志願制(volunteer system)」に対するところの、)「徴兵制(conscription=draft system)」という言葉はあるけれど、「強制徴兵制」という言葉はありえません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E5%88%B6%E5%BA%A6
 小森も、また、漱石の、こんな用語を、自分の文章の中で繰り返し用いるべきではありませんでした。(太田)
 
 漱石は、「現に非常な変化が英国民の頭の中に起りつつある証拠になる。さうして此変化は既に独逸が真向に振り翳してゐる軍国主義の勝利と見るより外に仕方がない。戦争がまだ片付かないうちに、英国は精神的にもう独逸に負けたと評しても好い位のものである」と言い切っています。・・・

⇒後でもう一度触れますが、国費留学生であった漱石は精神状態が不安定になり中途で日本に召喚されてしまうわけで、彼、英国が肌に合わず、碌に勉強もできず、やらなかった、ということなのでしょう、欧米史に関する無知丸出しです。
 (漱石の言を検証することなく、そのまま得々と紹介している小森にもげんなりしますが・・。)
 まず、欧州では、部族民(男性。以下同じ)皆兵であったゲルマン人が、中・西欧州の支配者となり、封建制を敷くわけですが、被治者達は非武装化した上で、支配者たる彼らだけが「強制徴募」されるプロの兵士として被治者達に君臨する時代が長く続くことになったのに対し、イギリスでは、社会全体がゲルマン人(アングロサクソン人)化することとなり、観念上は、国民(部族人)全体が「強制徴募」の対象であり続けたのです。(以上、コラム#省略)
 従って、国民皆兵という意味での徴兵制は、欧米では、観念上、イギリスに始まるのであり、それを、後に欧州諸国が、アングロサクソン文明継受の一環として採用するに至る、と解すべきであるところ、漱石の認識の中では、あろうことか、あべこべになっているわけです。
 但し、イギリスの場合、基本的に島国であるため、有事においても大陸軍の必要性がない状態が続いたことから、「強制徴募」は、基本的に海軍だけで行われたところです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E5%88%B6%E5%BE%B4%E5%8B%9F (太田)

 漱石は小説家になった当初から、強制徴兵制に対して強くこだわってきました。例えば、初めての小説の『吾輩は猫である』の第一回は、日露戦争で203高地の激戦が行われた時期に書かれたものです。・・・この中で、12月5日に迷亭という金縁眼鏡の美学者と苦沙弥先生が、「昔、イタリアの大家アンドレア・デル・サルトが"写生をしろ"と言ったというから、一生懸命写生しているけれど、うまくいかない」という会話をします。これは意図的です。というのは、12月5日は203高地が陥落した日で、当時の大日本帝国臣民の99.9%はぴんときたからです。でも、『吾輩は猫である』はおくびにも出しません。戦争から逸脱した世界だったからこそ、『吾輩は猫である』は多くの読者を獲得しました。・・・

⇒ここでは、小森は、『吾輩は猫である』は、「強制徴兵制」への批判というよりは、もっと広く、漱石の反戦意識を示唆する作品である、とすべきでしたね。(太田)

(続く)

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