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太田述正コラム#8941(2017.2.27)
<東は東・西は西?(その2)>(2017.6.13公開)

 単純な例として、あなたが背の高い誰かがより背の低い誰かを脅している絵を見たと想像してみよ。
 追加的な情報が全くなかった場合、欧米人達は、このふるまいが、この大きな男についての何か本質的かつ固定的な事柄・・彼はたちの悪い人物なのだろう、といった・・を反映していると考えがちだ。
 「他方、仮にあなたが全体論的に考えるのであれば、この二人の間で他の諸事が存在しているのかもしれない、と考えることだろう。この大きな奴は上司か父親かもしれない」、と、ヘンリックは説明する。
 <このような>あなたの社会的志向は、あなたの物の見方(the way you see)さえ変え得る。
 そして、このような思考スタイルは、我々が無生物たる諸対象を範疇化するやり方にもまた及んでいる。
 例えば、「列車、バス、線路」という言葉群のリストの中で関係のあるもの二つを名指すようにあなたが促されたとしよう。
 あなたは何と答えるだろうか。
 これは「三つ組み(triad)試験」として知られており、欧米における人々は、どちらも運搬諸手段のタイプ群であることから、「バス」と「列車」を選ぶかもしれない。
 対照的に、全体論的な思考者なら、「列車」と「線路」と言うのではなかろうか。
 というのも、片方のものがもう一方の仕事にとって不可欠(essential)であることから、この二つのものの間の機能的関係に彼らは焦点を当てるからだ。
 <再度言うが、>それは、あなたの物の見方さえ変え得るのだ。
 ミシガン大学のリチャード・ニスベット(Richard Nisbett)<(コラム#3662、5806)>による、視線を追跡したある研究によれば、東アジアからの参加者達には、ある形象(image)の背景一帯を見ること、すなわち、文脈を見極める(work out)こと、に時間をより費やす傾向があったのに対し、米国における人々は、その絵の主要焦点に集中するのにより時間を費やす傾向があった。
 興味深いことに、この差異(distinction)は、日本とカナダからの子供達のお絵かき群においてさえも見ることができるのだ。
 これは、物の諸見方<の差異>が極めて早い年齢で出現することを示唆している。
 そして、我々が注意を向けるものへと誘う(guide)することで、この狭い、ないしは、多様な、焦点当て<の傾向>は、我々が後になってある光景をどのようなものとして思い出すかを直接的に規定(determine)する。
 「仮に我々は何を見るか<によって何者であるかが規定されるの>であるとすれば、我々が異なった代物(stuff)に注意している(attend to)以上、我々は、異なった諸世界に住んでいる<場合がある、というか、極端に言えば、一人一人が異なった世界に住んでいる>のだ」、とヘンリックは語る。

⇒ここで、早めに、私の仮説を提示しておきたいと思います。
 「東」を東アジア諸国で代表させて「西」を欧米諸国で代表させることの当否はともかくとして、ここまでで紹介されてきた、欧米、というか、英米、の広義の心理学者達の念頭から抜け落ちていることがあるのではないでしょうか。
 それは、東アジア諸国の国民の平均的IQが英米の国民の平均的IQを、というか、すら、有意に(顕著に)上回っている、という事実
https://iq-research.info/en/page/average-iq-by-country
です。
 IQが高ければ高いほど、複雑なもの・・真実・・を、過度に単純化しない形で「理解」できるわけであり、東アジアの被験者達が、「全体論的な思考」だの「機能的関係に・・・焦点を当てる」だの「形象・・・の背景一帯を見る」だの「文脈を見極める」だのができるのは、彼らが、それらのことができない、英米の被験者達よりも平均的知能が顕著に高い・・偏差値が高いと言えばより分かり易いかも・・社会で家庭教育や公教育を受けて来た以上、当たり前ではないか、ということです。
 これは、私自身はアナロジー以上の意味があると考えているのですが、近代物理学が、古典物理学→相対性論→量子論、就中場の量子論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B4%E3%81%AE%E9%87%8F%E5%AD%90%E8%AB%96
へ、と発展を遂げてきているところ、人間社会だって、個人がばらばらに存在しているのではなく、個人と個人の関係性やかかる関係性の集合体としての場、によって個々人が規定されている、と考えるべきなのに、人文社会科学の方法論が自然科学、とりわけ、物理学のそれを追いかけつつ未だ追いつけていない、ということではないでしょうか。
 (物理学者達の集団知(IQ)の向上にそれ以外の学者達、とりわけ人文社会科学者達の集団知(集団IQ)の向上が追い付けていない、と言い換えられそうですね。)
 つまり、我々は、一人一人どころか、集団的にも、異なった諸世界に住んでいるのではなく、同じ諸世界に住んでいるにもかかわらず、それがどんな世界であるかについての理解度(理解能力)に関して、集団的に、そして、一人一人においてはもちろん、優劣があるだけのことではないか、というのが私の仮説なのです。(太田)

(続く)

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