太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/
太田述正コラム#8901(2017.2.7)
<米帝国主義の生誕(続)(その6)>(2017.5.24公開)
(3)トウェイン
「ローズベルトと帝国主義者達は、彼らの最大の仇敵がマーク・トウェインであることを発見した。
トウェインは、欧米諸国によるところの、非欧米世界を切り分ける全ての諸努力を非難した。
支那にいた欧州人や米国人に対して行われたところの義和団の乱(Boxer rebellion)について書いた中で、彼は、「私は支那人達に同情する。彼らは、笏を持った盗人達によってひどい扱いを受けて来たのであり、私は、外国人達全員が支那から追い出されて永久に戻って来れないようになることを希望している」、と宣言した。
⇒義和団/清国政府に対して北京城の内外双方において、列国軍の中心的役割を果たしたのは日本軍だったというのに、トウェインが、義和団の蹶起が「支那にいた欧州人や米国人に対して行われた」と言うのは、それがキリスト教布教活動への憤激から行われたものだったからであり、それが、単に異文化間紛争の域を超えた、民衆レベルにおける政治経済的抵抗運動の様相を呈した背景には、当時の欧米諸国の布教活動の問題性、醜悪性があったのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
トウェインは、長老派信徒でしたが、米国の米西戦争後の米比戦争(1899〜1913年)や欧米諸国の義和団の乱(1900年)、英国の第二次ボーア戦争(1899〜1902年)、ベルギーのコンゴ統治(国王私領時代:1885〜1908年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%9B%BD
における非違行動等を通じて、まず、組織宗派たるキリスト教諸派に対する懐疑の念を抱き始め、やがては、キリスト教、というか、一神教の神概念、そのものに対して懐疑の念を抱くに至るのです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Twain 前掲 (太田)
トウェインの風刺に関する天賦の才能が、反帝国主義的大義のために大量公刊されたところの、反帝国主義連盟によって小冊子として再版された、論争諸文において示された。
1901年の、ノースアメリカン・レヴュー(North American Review)誌掲載論考の中で、トウェインは、「フィリピン地方(Province)の旗を誂える(manage)のは簡単だ。我々の諸州がやるような特別なやつだ。すなわち、我々のいつもの旗を、単に、白い諸条を黒にし、星々を髑髏と2本の大腿骨でもって置き換えればいいのだ」、と。・・・」(B)
(3)ブライアン
「この本の最初の山場は、<米西戦争後の>パリ条約の米上院審議だ。
この条約に基づいて、<米国によって>占領された諸島は、スペインから米国の手へと渡った。
投票する上院議員達の3分の2以上によって批准されない限り、この条約は発効しない、ということもあり、<最初は>反帝国主義者達が優勢であるように見えた。
ところが、爆弾が炸裂した。
ブライアンが批准に賛成するに至ったのだ。
彼は、大統領選に再び立つ準備をしており、米西戦争は、米国の来るべき時代の象徴として民衆の喝采を勝ち取っていた<、という背景がある>。
ブライアンは、希望的観測に引きずられてもいた。
前スペイン諸所有地にとって、自分達自身の足で立つためには、まずは、米国によって補助輪を取り付けてやるのが最善の方法だと自分自身を納得させたのだ。
観察者達の間では、この偉大なる平民(Great Commoner)の変節(defection)によって、反帝国主義側は単に7票失っただけだ、から、15票も失った、まで意見が分かれているが、ある歴史学者が「ウィリアム・ジェニングス・ブライアン(William Jennings Bryan)<(注9)(コラム#4600、6066、7093)>氏という当惑させる(baffling)人物」、と呼んだ者のおかげで、この条約が、<上院で>2対1の勝利を得たことははっきりしているように見える。
(注9)1860〜1925年。イリノイ単科大学卒、シカゴの法科大学校卒。弁護士、ネブラスカ州選出の民主党下院議員、国務長官(ウィルソン大統領)。大統領選に民主党候補者として3度挑戦し、全て敗れる。1900年の二度目の大統領選の時に反帝国主義(と自由銀)を唱えたが、フィリピンに関し、彼が保護国化を、共和党の現職大統領のマッキンレーは併合した後の独立付与、という具合で、両者の差は殆どなかった。
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Jennings_Bryan
⇒そもそも、ブライアンが反帝国主義者だったと言えるかどうか、私には疑問です。
なお、彼は、「禁酒法の強い支持者であ<り、また、>ダーウィニズム反対運動に加わった」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3
ことからも分かるように、キリスト教原理主義者(長老派)であり、また、彼の所属した民主党は、当時、南部の白人達・・黒人達は事実上投票権を与えられていなかった・・が主要支持母体であり、彼は、ブッカー・ワシントンを1904年にホワイトハウスに招いたことで共和党のセオドア・ローズベルト大統領を攻撃したことに象徴される、ひどい人種主義者でした。
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Jennings_Bryan 前掲 (太田)
(続く)
<米帝国主義の生誕(続)(その6)>(2017.5.24公開)
(3)トウェイン
「ローズベルトと帝国主義者達は、彼らの最大の仇敵がマーク・トウェインであることを発見した。
トウェインは、欧米諸国によるところの、非欧米世界を切り分ける全ての諸努力を非難した。
支那にいた欧州人や米国人に対して行われたところの義和団の乱(Boxer rebellion)について書いた中で、彼は、「私は支那人達に同情する。彼らは、笏を持った盗人達によってひどい扱いを受けて来たのであり、私は、外国人達全員が支那から追い出されて永久に戻って来れないようになることを希望している」、と宣言した。
⇒義和団/清国政府に対して北京城の内外双方において、列国軍の中心的役割を果たしたのは日本軍だったというのに、トウェインが、義和団の蹶起が「支那にいた欧州人や米国人に対して行われた」と言うのは、それがキリスト教布教活動への憤激から行われたものだったからであり、それが、単に異文化間紛争の域を超えた、民衆レベルにおける政治経済的抵抗運動の様相を呈した背景には、当時の欧米諸国の布教活動の問題性、醜悪性があったのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
トウェインは、長老派信徒でしたが、米国の米西戦争後の米比戦争(1899〜1913年)や欧米諸国の義和団の乱(1900年)、英国の第二次ボーア戦争(1899〜1902年)、ベルギーのコンゴ統治(国王私領時代:1885〜1908年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%9B%BD
における非違行動等を通じて、まず、組織宗派たるキリスト教諸派に対する懐疑の念を抱き始め、やがては、キリスト教、というか、一神教の神概念、そのものに対して懐疑の念を抱くに至るのです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Twain 前掲 (太田)
トウェインの風刺に関する天賦の才能が、反帝国主義的大義のために大量公刊されたところの、反帝国主義連盟によって小冊子として再版された、論争諸文において示された。
1901年の、ノースアメリカン・レヴュー(North American Review)誌掲載論考の中で、トウェインは、「フィリピン地方(Province)の旗を誂える(manage)のは簡単だ。我々の諸州がやるような特別なやつだ。すなわち、我々のいつもの旗を、単に、白い諸条を黒にし、星々を髑髏と2本の大腿骨でもって置き換えればいいのだ」、と。・・・」(B)
(3)ブライアン
「この本の最初の山場は、<米西戦争後の>パリ条約の米上院審議だ。
この条約に基づいて、<米国によって>占領された諸島は、スペインから米国の手へと渡った。
投票する上院議員達の3分の2以上によって批准されない限り、この条約は発効しない、ということもあり、<最初は>反帝国主義者達が優勢であるように見えた。
ところが、爆弾が炸裂した。
ブライアンが批准に賛成するに至ったのだ。
彼は、大統領選に再び立つ準備をしており、米西戦争は、米国の来るべき時代の象徴として民衆の喝采を勝ち取っていた<、という背景がある>。
ブライアンは、希望的観測に引きずられてもいた。
前スペイン諸所有地にとって、自分達自身の足で立つためには、まずは、米国によって補助輪を取り付けてやるのが最善の方法だと自分自身を納得させたのだ。
観察者達の間では、この偉大なる平民(Great Commoner)の変節(defection)によって、反帝国主義側は単に7票失っただけだ、から、15票も失った、まで意見が分かれているが、ある歴史学者が「ウィリアム・ジェニングス・ブライアン(William Jennings Bryan)<(注9)(コラム#4600、6066、7093)>氏という当惑させる(baffling)人物」、と呼んだ者のおかげで、この条約が、<上院で>2対1の勝利を得たことははっきりしているように見える。
(注9)1860〜1925年。イリノイ単科大学卒、シカゴの法科大学校卒。弁護士、ネブラスカ州選出の民主党下院議員、国務長官(ウィルソン大統領)。大統領選に民主党候補者として3度挑戦し、全て敗れる。1900年の二度目の大統領選の時に反帝国主義(と自由銀)を唱えたが、フィリピンに関し、彼が保護国化を、共和党の現職大統領のマッキンレーは併合した後の独立付与、という具合で、両者の差は殆どなかった。
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Jennings_Bryan
⇒そもそも、ブライアンが反帝国主義者だったと言えるかどうか、私には疑問です。
なお、彼は、「禁酒法の強い支持者であ<り、また、>ダーウィニズム反対運動に加わった」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3
ことからも分かるように、キリスト教原理主義者(長老派)であり、また、彼の所属した民主党は、当時、南部の白人達・・黒人達は事実上投票権を与えられていなかった・・が主要支持母体であり、彼は、ブッカー・ワシントンを1904年にホワイトハウスに招いたことで共和党のセオドア・ローズベルト大統領を攻撃したことに象徴される、ひどい人種主義者でした。
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Jennings_Bryan 前掲 (太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/