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太田述正コラム#8887(2017.1.31)
<映画評論48:君の名は。(その5)>(2017.5.17公開)
その前に、どうして、(日本を除く)東アジア地域とは異なり、その他の地域では赤い糸伝説が生まれたり継受されたりしなかったかですが、きちんと論ずるには、地域差や時代差もこれあり、私の能力を超えるので、マクロ的かつ仮説的に申し上げれば、結婚というものは、個人と個人との間の私的な恋愛とは峻別されるところの、政治的、経済的、社会的、部族的、等の意義のある、家と家との結びつきの開始ないし維持ないし強化であって、本人達の意思が一定程度斟酌される場合があるとしても、基本的に家父長と家父長の交渉と合意によって決められるのが自然かつ合理的である、と考えられていたことに加え、例えばアブラハム系3宗教の場合で言えば、結婚に、濃淡はあるが聖職者ないし(イスラム教の場合)イスラム法学者が関与する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%BC
ことによって、そういう結婚が神の思し召しに合致している、と、人々が刷り込まれ続けたからでしょう。
そのような感覚は、例えば、アングロサクソン文明の(部分的)継受によって、家から個々人が「解放」された欧州文明の諸社会においても、人々の潜在意識下に残っていると思われます。
これらの社会の人々が、家など影も形もないところの、赤い糸伝説的セッティングに違和感を覚えても不思議ではない、と思いませんか?
彼らは、『君の名は。』に、その点で違和感を覚えてしまって、そこから先に進めないのではないか、と。
このように考えてくると、漢人文明が生んだ赤い糸伝説は、極端な家父長制、すなわち、纏足に象徴されている・・イスラム教社会における女児のクリトリス切除との比較は悩ましいが・・ひどい女性差別に苦しめられていた漢人女性達の夢が生み出したところの、宗教的規制が相対的に弱く家と家との結びつきとしての結婚が聖化されなかったその文明特有の伝説である、という説明が可能かもしれません。
以上を踏まえつつ、まず、イギリスについて考えてみましょう。
アラン・マクファーレーンの『結婚』という本の記述を、その本中の引用と共にご紹介したことがあります(コラム#88)が、イギリスが最初から個人主義社会であったことから、家族法の分野でも、遺留分なき完全な遺言の自由が認められていたことと同様、結婚に関しても、家父長だの両親だのの許可を得ることなく、男女が自分達自身だけの意思で自由に結婚することができたのであり、この自由意志が実は運命づけられていた、というケースだって珍しくなかったはずであり、『君の名は。』の赤い糸伝説的セッティングの部分は、イギリス人達にとっては、違和感など全くなかったはずです。
もっとも、さして面白くもなかったはずですが・・。
よって、イギリスの映画評論家達が『君の名は。』に高い評価を与えたのは、彼らが、自分達のアングロサクソン文明の至上性意識の下、他の諸文明にも、いい意味でのオリエンタリズム的関心を持とうと努めるところ、この映画の、前述した日本的セッティングが痛くお気に召した、ということだと想像されるのです。
残されたのは(本シリーズの冒頭部分では、場合によったら言及せずに済まそうと思ってあえて言及しなかった)アイルランドです。
そこで、ちょっと調べてみたところ、スコットランドは大陸法系(コラム#省略)なのに、何と、アイルランドはコモンロー系だったのですね。
https://en.wikipedia.org/wiki/Law_of_the_Republic_of_Ireland
そうだとすれば、家族法によって規律される結婚観だって、アイルランド人達はイギリス人達のそれと同じであっても不思議ではないところ、『君の名は。』に対するアイルランドの映画評論家達の評価がイギリスの映画評論家達の評価と似ていて当然だ、ということにもなります。
そんなことを言ったら、元イギリス植民地であったアジアやアフリカ諸国だってコモンロー法系を継受させられたのだから、同じことが言えるはずだが、結婚観はまちまちなので、おかしいではないか、という反論が予想されます。
しかし、イギリスは、家族法関係については、アジアやアフリカの諸植民地では、原則、地域的・宗教的慣習による自治を認めていた(典拠省略)のに対し、アイルランドでは、そういった慣習は根絶させられた、という違いがあります。
すなわち、かつては、アイルランドの「法は父権的かつ父系的社会を反映して<おり、>・・・夫は法的に妻を矯正するために殴ることが法的に認められいた<し、>・・・女性達は、概ね、彼女達の父親達や夫達に従属していて、裁判で証人として証言することも認められていなかった
https://en.wikipedia.org/wiki/Early_Irish_law
が、これら、伝統的なケルト法に基づく慣行は、クロムウェルによるアイルランドの再征服の後、ついに根絶されるに至った
https://en.wikipedia.org/wiki/Law_of_the_Republic_of_Ireland 前掲
のです。
結局、アイルランドは、こういった仕打ちや、19世紀の大飢饉を放置した、等のイギリスへの恨みが骨髄に達し、暴力を含む形で独立を果たし、欧州文明(プロト欧州文明?)復帰を目指しているものの、いまだに、アングロサクソン文明が押し付けた、精神的・制度的桎梏から自らを十分に解放しえていない、ということになりそうですね。
さて、ここまできて、日本で『君の名は。』が制作され、日本で大ヒットとなったのはそもそもどうしてなのか、を、改めて説明しなければならなくなっていることに気付かれたでしょうか。
このシリーズ、かなり長くなってしまったこともあり、これは、読者の皆さんへの宿題、ということにさせていただきましょうか。
(完)
<映画評論48:君の名は。(その5)>(2017.5.17公開)
その前に、どうして、(日本を除く)東アジア地域とは異なり、その他の地域では赤い糸伝説が生まれたり継受されたりしなかったかですが、きちんと論ずるには、地域差や時代差もこれあり、私の能力を超えるので、マクロ的かつ仮説的に申し上げれば、結婚というものは、個人と個人との間の私的な恋愛とは峻別されるところの、政治的、経済的、社会的、部族的、等の意義のある、家と家との結びつきの開始ないし維持ないし強化であって、本人達の意思が一定程度斟酌される場合があるとしても、基本的に家父長と家父長の交渉と合意によって決められるのが自然かつ合理的である、と考えられていたことに加え、例えばアブラハム系3宗教の場合で言えば、結婚に、濃淡はあるが聖職者ないし(イスラム教の場合)イスラム法学者が関与する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%BC
ことによって、そういう結婚が神の思し召しに合致している、と、人々が刷り込まれ続けたからでしょう。
そのような感覚は、例えば、アングロサクソン文明の(部分的)継受によって、家から個々人が「解放」された欧州文明の諸社会においても、人々の潜在意識下に残っていると思われます。
これらの社会の人々が、家など影も形もないところの、赤い糸伝説的セッティングに違和感を覚えても不思議ではない、と思いませんか?
彼らは、『君の名は。』に、その点で違和感を覚えてしまって、そこから先に進めないのではないか、と。
このように考えてくると、漢人文明が生んだ赤い糸伝説は、極端な家父長制、すなわち、纏足に象徴されている・・イスラム教社会における女児のクリトリス切除との比較は悩ましいが・・ひどい女性差別に苦しめられていた漢人女性達の夢が生み出したところの、宗教的規制が相対的に弱く家と家との結びつきとしての結婚が聖化されなかったその文明特有の伝説である、という説明が可能かもしれません。
以上を踏まえつつ、まず、イギリスについて考えてみましょう。
アラン・マクファーレーンの『結婚』という本の記述を、その本中の引用と共にご紹介したことがあります(コラム#88)が、イギリスが最初から個人主義社会であったことから、家族法の分野でも、遺留分なき完全な遺言の自由が認められていたことと同様、結婚に関しても、家父長だの両親だのの許可を得ることなく、男女が自分達自身だけの意思で自由に結婚することができたのであり、この自由意志が実は運命づけられていた、というケースだって珍しくなかったはずであり、『君の名は。』の赤い糸伝説的セッティングの部分は、イギリス人達にとっては、違和感など全くなかったはずです。
もっとも、さして面白くもなかったはずですが・・。
よって、イギリスの映画評論家達が『君の名は。』に高い評価を与えたのは、彼らが、自分達のアングロサクソン文明の至上性意識の下、他の諸文明にも、いい意味でのオリエンタリズム的関心を持とうと努めるところ、この映画の、前述した日本的セッティングが痛くお気に召した、ということだと想像されるのです。
残されたのは(本シリーズの冒頭部分では、場合によったら言及せずに済まそうと思ってあえて言及しなかった)アイルランドです。
そこで、ちょっと調べてみたところ、スコットランドは大陸法系(コラム#省略)なのに、何と、アイルランドはコモンロー系だったのですね。
https://en.wikipedia.org/wiki/Law_of_the_Republic_of_Ireland
そうだとすれば、家族法によって規律される結婚観だって、アイルランド人達はイギリス人達のそれと同じであっても不思議ではないところ、『君の名は。』に対するアイルランドの映画評論家達の評価がイギリスの映画評論家達の評価と似ていて当然だ、ということにもなります。
そんなことを言ったら、元イギリス植民地であったアジアやアフリカ諸国だってコモンロー法系を継受させられたのだから、同じことが言えるはずだが、結婚観はまちまちなので、おかしいではないか、という反論が予想されます。
しかし、イギリスは、家族法関係については、アジアやアフリカの諸植民地では、原則、地域的・宗教的慣習による自治を認めていた(典拠省略)のに対し、アイルランドでは、そういった慣習は根絶させられた、という違いがあります。
すなわち、かつては、アイルランドの「法は父権的かつ父系的社会を反映して<おり、>・・・夫は法的に妻を矯正するために殴ることが法的に認められいた<し、>・・・女性達は、概ね、彼女達の父親達や夫達に従属していて、裁判で証人として証言することも認められていなかった
https://en.wikipedia.org/wiki/Early_Irish_law
が、これら、伝統的なケルト法に基づく慣行は、クロムウェルによるアイルランドの再征服の後、ついに根絶されるに至った
https://en.wikipedia.org/wiki/Law_of_the_Republic_of_Ireland 前掲
のです。
結局、アイルランドは、こういった仕打ちや、19世紀の大飢饉を放置した、等のイギリスへの恨みが骨髄に達し、暴力を含む形で独立を果たし、欧州文明(プロト欧州文明?)復帰を目指しているものの、いまだに、アングロサクソン文明が押し付けた、精神的・制度的桎梏から自らを十分に解放しえていない、ということになりそうですね。
さて、ここまできて、日本で『君の名は。』が制作され、日本で大ヒットとなったのはそもそもどうしてなのか、を、改めて説明しなければならなくなっていることに気付かれたでしょうか。
このシリーズ、かなり長くなってしまったこともあり、これは、読者の皆さんへの宿題、ということにさせていただきましょうか。
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/