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太田述正コラム#8883(2017.1.29)
<映画評論48:君の名は。(その3)>(2017.5.15公開)
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http://news.livedoor.com/article/detail/12598226/
(1月27日アクセス)に、最新の『君の名は。』評が載っていたので紹介しておく。
「映画監督の岩井俊二氏が「新海作品はマグリットの『ピレネーの城』に似ている。大胆不敵にして不朽の説得力。『君の名は。』はそんな彼の集大成だと言いたい。けど彼の『ピレネーの城』はもっともっと高みにあるような気もする」と絶賛。作詞家の秋元康氏も「心が震えた。風が木々を揺らすように、心の奥底がざわざわした。(中略)新海誠が描く世界は、“それでも”希望に満ちている」とコメントを寄せ<た。>・・・
スタジオジブリ・・・敏腕プロデューサー・鈴木敏夫氏・・・は「芝居をするキャラクター、セリフ、音楽がどれも背景を際立たせるように作ってある」「吸い込まれそうな高い秋の空が特に印象的でしたね」と『君の名は。』を絶賛している。」
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では、この映画は、どうして、東アジア以外では、さしたる興行成績を上げていなかったり、まだ公開されていないところが多いのでしょうか。(典拠省略)
それらが、最初の方で記したように、赤い糸伝説が普及している地域の外だから、というのが私の見解です。
ところが、困ったことに、前掲の赤い糸伝説の日本語ウィキペディアに、「運命の赤い糸」・・・<と同じ>言い伝え・・・<が>西洋で<も>「双子の炎」(twin flame, 運命で決められた二人のそれぞれの中で燃えている火)や「魂の伴侶」(soulmate, ソウルメイト)などの<ようにある>」という典拠なしの記述が出てきます。
しかし、この記述は間違いです。
まず、「双子の炎」については、比較的最近生まれた、新興宗教的妄想、といった類の代物であって、詳しく解説したり論駁したりする必要はありますまい。
(それでも関心がある、という向きは、例えば、
http://mytwinflamelove.com/what-is-a-twin-flame-2/
をご覧あれ。)
次に、「魂の伴侶」の方は、英語ウィキペディアがある
https://en.wikipedia.org/wiki/Soulmate ★
くらい、重要で、かつ、よく使われる言葉ではあります。
そのウィキペディアには、「魂の伴侶とは、<ある人が、>深い、或いは、自然な、親和力(affinity)、の感覚を覚える<ところの、他の>人物であって、これには、類似性、愛、ロマンス、慰安、親密(intimacy)、性欲(sexuality)、性行為(sexual activity)、霊性(spirituality)、或いは、適合(compatibility)と信頼(trust)、に係るもの(involve)がありうる。」とあります。
これを、赤い糸を部分集合とする、より大きな集合と見るべきか、それとも、別次元のものと見るべきか、は微妙なところですが、両者が別物であることは誰にも分かるはずです。
補足しましょう。
この、魂の伴侶、というのは、プラトンが(太田コラムの読者にとってはお馴染みの)『饗宴』の中に登場する言葉である、エロースの対象、が起源である旨、同じウィキペディアで指摘されています。
神々によって、元々は背中合わせに2つの頭とそれぞれ1組ずつの手足を持っていた人間が3種類・・男女の生殖器を1つずつ持った者、男の生殖器を2つ持った者、女の生殖器を2つ持った者・・いたのを、全員真っ二つにされた結果、人間は、もう一方の片割れ的な存在を求める気持ち、すなわちエロース、を抱くことになった、というのです。(★)
ここで銘記すべきは、
第一に、「このため人間は互いに失われた半身を求め、男らしい男は男を求め、女らしい女は女を求め、多くの中途半端な人間は互いに異性を求める<ことになった>」、というのですから、求める相手は、特定の相手ではないこと、
第二に、「エロース)とは欠乏と富裕から生まれ、その両方の性質を備えている。ゆえに不死のものではないが、神的な性質を備え、不死を欲求する。すなわち<エロース>は自身の存在を永遠なものにしようとする欲求である。これは自らに似たものに自らを刻印し、再生産することによって行われる。このような生産的な性質をもつ<エロース>には幾つかの段階があり、生物的な再生産から、他者への教育による再生産へと向かう。<エロース>は真によいものである知(ソピアー)に向かうものであるから、愛知者(ピロソポス)である。<エロース>が<求>めるべきもっとも美しいものは、永遠なる美のイデアであり、美のイデアを求めることが最も優れている。美の大海に出たものは、イデアを見、驚異に満たされる。これを求めることこそがもっとも高次の<エロース>である」、というのですから、「生物的な再生産」的営み・・男と男、女と女、の場合は営みのみで「再生産」されることはありえない・・の段階を最初から超越している形の求め合い方だってありうること、
です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%97%E5%AE%B4 (「」内)
他方、赤い糸の方は、男と女、しかも予め定められた特定の男と女、の求め合い、しか対象ではありませんし、それに加えて、必ず、「生物的な再生産」的営みを志向していること、を思い出してください。
両者は別物であることを納得していただけたことと思います。
(続く)
<映画評論48:君の名は。(その3)>(2017.5.15公開)
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http://news.livedoor.com/article/detail/12598226/
(1月27日アクセス)に、最新の『君の名は。』評が載っていたので紹介しておく。
「映画監督の岩井俊二氏が「新海作品はマグリットの『ピレネーの城』に似ている。大胆不敵にして不朽の説得力。『君の名は。』はそんな彼の集大成だと言いたい。けど彼の『ピレネーの城』はもっともっと高みにあるような気もする」と絶賛。作詞家の秋元康氏も「心が震えた。風が木々を揺らすように、心の奥底がざわざわした。(中略)新海誠が描く世界は、“それでも”希望に満ちている」とコメントを寄せ<た。>・・・
スタジオジブリ・・・敏腕プロデューサー・鈴木敏夫氏・・・は「芝居をするキャラクター、セリフ、音楽がどれも背景を際立たせるように作ってある」「吸い込まれそうな高い秋の空が特に印象的でしたね」と『君の名は。』を絶賛している。」
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では、この映画は、どうして、東アジア以外では、さしたる興行成績を上げていなかったり、まだ公開されていないところが多いのでしょうか。(典拠省略)
それらが、最初の方で記したように、赤い糸伝説が普及している地域の外だから、というのが私の見解です。
ところが、困ったことに、前掲の赤い糸伝説の日本語ウィキペディアに、「運命の赤い糸」・・・<と同じ>言い伝え・・・<が>西洋で<も>「双子の炎」(twin flame, 運命で決められた二人のそれぞれの中で燃えている火)や「魂の伴侶」(soulmate, ソウルメイト)などの<ようにある>」という典拠なしの記述が出てきます。
しかし、この記述は間違いです。
まず、「双子の炎」については、比較的最近生まれた、新興宗教的妄想、といった類の代物であって、詳しく解説したり論駁したりする必要はありますまい。
(それでも関心がある、という向きは、例えば、
http://mytwinflamelove.com/what-is-a-twin-flame-2/
をご覧あれ。)
次に、「魂の伴侶」の方は、英語ウィキペディアがある
https://en.wikipedia.org/wiki/Soulmate ★
くらい、重要で、かつ、よく使われる言葉ではあります。
そのウィキペディアには、「魂の伴侶とは、<ある人が、>深い、或いは、自然な、親和力(affinity)、の感覚を覚える<ところの、他の>人物であって、これには、類似性、愛、ロマンス、慰安、親密(intimacy)、性欲(sexuality)、性行為(sexual activity)、霊性(spirituality)、或いは、適合(compatibility)と信頼(trust)、に係るもの(involve)がありうる。」とあります。
これを、赤い糸を部分集合とする、より大きな集合と見るべきか、それとも、別次元のものと見るべきか、は微妙なところですが、両者が別物であることは誰にも分かるはずです。
補足しましょう。
この、魂の伴侶、というのは、プラトンが(太田コラムの読者にとってはお馴染みの)『饗宴』の中に登場する言葉である、エロースの対象、が起源である旨、同じウィキペディアで指摘されています。
神々によって、元々は背中合わせに2つの頭とそれぞれ1組ずつの手足を持っていた人間が3種類・・男女の生殖器を1つずつ持った者、男の生殖器を2つ持った者、女の生殖器を2つ持った者・・いたのを、全員真っ二つにされた結果、人間は、もう一方の片割れ的な存在を求める気持ち、すなわちエロース、を抱くことになった、というのです。(★)
ここで銘記すべきは、
第一に、「このため人間は互いに失われた半身を求め、男らしい男は男を求め、女らしい女は女を求め、多くの中途半端な人間は互いに異性を求める<ことになった>」、というのですから、求める相手は、特定の相手ではないこと、
第二に、「エロース)とは欠乏と富裕から生まれ、その両方の性質を備えている。ゆえに不死のものではないが、神的な性質を備え、不死を欲求する。すなわち<エロース>は自身の存在を永遠なものにしようとする欲求である。これは自らに似たものに自らを刻印し、再生産することによって行われる。このような生産的な性質をもつ<エロース>には幾つかの段階があり、生物的な再生産から、他者への教育による再生産へと向かう。<エロース>は真によいものである知(ソピアー)に向かうものであるから、愛知者(ピロソポス)である。<エロース>が<求>めるべきもっとも美しいものは、永遠なる美のイデアであり、美のイデアを求めることが最も優れている。美の大海に出たものは、イデアを見、驚異に満たされる。これを求めることこそがもっとも高次の<エロース>である」、というのですから、「生物的な再生産」的営み・・男と男、女と女、の場合は営みのみで「再生産」されることはありえない・・の段階を最初から超越している形の求め合い方だってありうること、
です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%97%E5%AE%B4 (「」内)
他方、赤い糸の方は、男と女、しかも予め定められた特定の男と女、の求め合い、しか対象ではありませんし、それに加えて、必ず、「生物的な再生産」的営みを志向していること、を思い出してください。
両者は別物であることを納得していただけたことと思います。
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/