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太田述正コラム#8793(2016.12.15)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その10)>(2017.3.31公開)

 「10月17日・・・パリ市街の各道路の両側に設けられたガス灯<(注22)>と各家の点火口について以後、供給ガス量を半減することになった。・・・

 (注22)「照明としてのガス灯器具を最初に製作したのは、スコットランド人のウィリアム・マードックであり、[1792年にイギリスのコーンウォール地方の自宅にガス灯を設置している。]・・・
 [1820年にパリは世界で初めて市全域へのガス灯設置を始めた。]
 この当時のガス灯は一灯あたり、16燭光のものが標準的であったようである<が、この>魚尾灯を利用した裸火のガス灯は白熱マントルが・・・[1886年に]カール・ヴェルスバッハによって・・・発明された事により廃れる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%B9%E7%81%AF
https://en.wikipedia.org/wiki/Gas_lighting ([]内)

 <そもそも、>政府の命令により各家の灯りも十時半を限度にことごとく消している。」(131)

 「10月22日・・・内務大臣ガンベッタ<(注23)>は・・・さらに陸軍大臣・・・パリを除く全フランスに対し軍事動員、一般行政、軍補給について全権<を持つ(編集者)・・・も兼務せよとの命令を受けた。

 (注23)レオン・ガンベタ(Leon Gambetta。1838〜82年)。「弁護士<出身で>・・・共和主義者として活躍、1869年に国民議会に入る。1870年、普仏戦争でナポレオン3世がスダンに敗れると、共和国政府の樹立宣言に参加し、ルイ・ジュール・トロシュを首班とする臨時国防政府の内務大臣となる。プロイセン軍がパリを包囲する中、・・・気球・・・を使ってパリを脱出し、トゥールにあって5か月間、[国防相も兼務した]。1871年、・・・アドルフ・ティエールの政府が成立するとスペインへ亡命するが、穏健共和主義者の立場からパリ・コミューンを非難し、パリへ戻る。共和政継続か王政復活かを巡って政界が二つに割れる最中の1877年には、王党派のパトリス・ド・マクマオン大統領への抵抗運動を組織した。・・・1879年、ジュール・グレヴィー大統領が就任し、第三共和政が確立すると、1881年11月14日から1882年1月30日まで77日間だけ首相を務めた。1882年の大晦日に、ピストルの暴発によって死去した。自殺説もある。
 中江兆民が「東洋のルソー」と呼ばれるのに対して、馬場辰猪は「東洋のガンベタ」と呼ばれ、同時代には日本でも知られていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%82%BF
https://en.wikipedia.org/wiki/L%C3%A9on_Gambetta ([]内)

 この人物は当年36歳で、政府閣僚11名中の最年少である。
 そのため、この兼務という名誉は大変な重責である。」(135)

 「11月11日・・・このほど<パリ>市内に犬猫のと畜業者が現われ、その肉を売る店を開いた<(注24)>。・・・

 (注24)韓国人の教授が、フランス人だって犬肉を食べるとし、その典拠群の一つに正元のこの本(の原著)を上げているが、他の諸典拠をも併せ見るに、どうやら、普仏戦争の時が実質的には初めてのことで、爾後も例外的に犬肉を食する人や地域が生じた、という程度のことのようだ。
http://wolf.ok.ac.kr/~annyg/japan/j6.htm
 他方、普仏戦争以降、猫肉が食された形跡はないが、隣国スイスでは食べられているよう
http://eggmeg.blog.fc2.com/blog-entry-130.html
なだけに、不思議と言えば不思議だ。

 私がこのことを記すのは、パリ市内が窮迫状態に陥っていることをはっきりと知らせるためである。・・・
 <ところが、>11月27日・・・街のようすを見ると、今日は日曜日なので、散策する人が特に多い。
 また、屈強の男子らが綺麗な服を着て、妻の手を取り、ゆっくり散歩する者が幾千人いるかわからない。
 この連中は皆、今フランスがほとんど敵の掌中に堕ちようとして、危急存亡がすぐ近くに迫り、危ういことまさに朝露のようであることを知らないかのように見える。
 パリ市民は虚飾に集中し、言葉を巧みに操りながら、胸の内においては報国の真心はなく、常に国の政治を罵っているが、危急に臨んで国を顧みることはないように見える。
 その節操の薄さは私の同胞の目を驚かせる。
 思うに今、フランスの兵器や機関は精巧であり、実に良質で美しさを極めるといっても、政府に人材乏しく、民間に節義がなく、威力武力は衰え崩れ、強敵に当たっていくだけの確かな意識がない。
 ああ、国にすばらしい機器があるといっても、人材がいなければこれをどうすることもできない。」(159、162)

⇒一般論としては正元のフランス人、就中パリ市民についての指摘は正しいのでしょうが、彼が日曜日の光景を例として持ち出したのは、必ずしも適切ではなかったように思われます。
 キリスト教社会においては、一般に日曜日が安息日とされ、当日には、本来、一切の生産活動・営利活動を慎まなければならず、また、私的公的の争いも回避すべきである、とされているところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%81%AF%E6%97%A5
https://books.google.co.jp/books?id=4FvJD0De2aIC&pg=PA6&lpg=PA6&dq=Sabbath;armistice&source=bl&ots=1qxWj3xnxI&sig=lMhY-o28mDsDdyGdGcwWC3jdhJk&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiVoYez-PXQAhUMW7wKHSiZAf4Q6AEIJDAB#v=onepage&q=Sabbath%3Barmistice&f=false
検証することはできなかったのですが、普仏戦争当時は、まだ、日曜日には戦闘を極力回避する姿勢が普仏両国に存在し、だからこそ、文字通りパリ市民達は「安息」を享受できた可能性があるからです。(太田)

(続く)

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