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太田述正コラム#8759(2016.11.28)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その3)>(2017.3.14公開)
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[ナポレオン3世夫妻]
表記について、簡単にまとめておく。
●ナポレオン3世(シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoleon Bonaparte)。1808〜73年)は、「ナポレオン・ボナパルトの甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが、1848年革命で王政が消えると・・・同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選した。・・・<そして、>1851年に国民議会に対する・・・<いわゆる>ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター・・・を起こし、独裁権力を掌握。1852年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」となり、第二帝政を開始した。
1850年代は「権威帝政」と呼ばれる強圧支配を敷いたが、1860年代頃から「自由帝政」と呼ばれる議会を尊重した統治へと徐々に移行した。内政面ではパリ改造計画、近代金融の確立、鉄道網敷設などに尽くした。外交ではクリミア戦争によってウィーン体制を終焉させ、<欧州>各地の自由主義ナショナリズム運動を支援することでフランスの影響力を拡大を図った。またアフリカ・アジアにフランス植民地を拡大させた。
しかしメキシコ出兵の失敗で体制は動揺。1870年に勃発した普仏戦争でプロイセン軍の捕虜となり、それがきっかけで第二帝政は崩壊し、フランスは第三共和政へ移行した。・・・
ちなみに、彼は、教育は、家庭教師によるそれと、アウクスブルクでギムナジウムに通っただけであり、しかも、「ギムナジウムでの成績は並みだった。・・・
<同時代人の>カール・マルクスは・・・第二帝政を「ルンペン・プロレタリア体制」「超国境的な金融詐欺師の祭典」として批判し<ており、>[ビスマルクは<、早期>から・・・「彼の感傷的性格が過小評価されている分だけ、彼の知性は過大評価されている」、「彼を良く知る人から聞いた話から判断すると、彼は誰一人として予想もしないことをやりたがるという病的衝動があるようだ。そして、それを皇后が日々養い育てている」といった評価をして<おり、>普仏戦争直前の1870年3月には「ナポレオンは国内では次第に確信を失い、内政でありとあらゆる失策を犯した。その結果国民の不満が高まり、彼らの不満の矛先を逸らすためにますます戦争をせざるを得なくなっていった」と評している。]<また、>キッシンジャーはウィーン体制こそがフランスにとって対ドイツの最良の安全保障であるのにそれの破壊を目指したこと、国民世論を気にしすぎて近視眼的になったことが彼の外交が破綻した原因<である、としている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B33%E4%B8%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B33%E4%B8%96#.E3.83.93.E3.82.B9.E3.83.9E.E3.83.AB.E3.82.AF.E3.81.AB.E3.82.88.E3.82.8B.E8.A9.95.E4.BE.A1 ([]内)
●ウジェニー皇后(ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugenie de Montijo)。1826〜1920年)は、「スペイン・グラナダにおいて、テバ伯爵・モンティホ伯爵・アルガバ侯爵およびペニャルダ公爵の称号を持つスペイン貴族(Grandes de Espana)・・・(1785年〜1839年)と、スコットランド人の父とスペイン人の母の血を引く<母親>の間に生まれ・・・家族内ではフランス語を日常語として使<っていた。>・・・
父親譲りの勇敢さと彼女の美しさ<(注7)>の評判<から、>・・・各国の王侯貴族から求婚され<た>が、すべてを断り続け、」1848年に大統領に当選したばかりのルイ=ナポレオンと舞踏会で出会い、1853年に、その前年に皇帝になっていた彼と結婚した。
(注7)彼女のほぼ正面からの写真
https://en.wikipedia.org/wiki/Eug%C3%A9nie_de_Montijo#/media/File:Eug%C3%A9nie_de_Montijo._Daguerreotype.jpg
を見る限り、人によって好みが分かれる容貌だと思う。
[流産を経験後、1856年に難産の末、唯一の子供(男児)を授かったが、それ以降、皇帝とのセックスを拒み続け、皇帝は浮気を繰り返すことになる。]
<皇后として、>フランス、ひいては欧州全体のファッションリーダーとなり、「「シック」という表現はウジェニーの宮廷や第二帝政を表現する言葉であったと言われる。」
その一方で、「慈善活動に力を入れており、公務の合間に・・・お忍びで慈善バザーや病院を<訪れ>ていた<ほか、>女性の社会活動にも影響があ<り、>・・・女性を初めて電報局で雇用<させたり、>[教育省に圧力をかけて女性に大学受験資格(バカロレア)を授与させたり、不成功に終わったが、ジョルジュ・サンドをアカデミー・フランセーズ<(注8)>会員にさせようとした。]。・・・
(注8)「フランスの国立学術団体。フランス学士院を構成する5つのアカデミーの一角を占め、その中でも最古のアカデミーである。・・・ルイ13世治下の1635年・・・正式に設立された。当初の役割はフランス語を規則的で誰にでも理解可能な言語に純化し、統一することであり、その目的を達成するために辞書と文法書の編纂を重要な任務としていた。・・・現代では、・・・新たな第2の役割が追加された。それはメセナ(学問芸術振興)であり、年間およそ60もの文学賞の授与から、美術界、学術界、文芸界、慈善事業団体、寡婦や障害者世帯に対する金銭的援助、そして奨学金の提供に至るまで様々な形で行われている。・・・会員<の>・・・定員<は>40人」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%BA
<但し、>カトリックで保守的<であったので、>・・・リベラル勢力と対立した。 ・・・
<また、>大変知性があったので、ナポレオン3世はよく重要な問題を彼女に相談していた。そして1859年、1865年および1870年の皇帝の留守の間、彼女は摂政として行動した。・・・
普仏戦争でフランスが敗れ、第二帝政が覆された後、皇后は夫とともに<英国>へと亡命し・・・た。<クリミア戦争で共に戦ったところの、英国>では王室や国民に歓迎され、丁重に扱われた。」
英国のファーンバラの修道院に、先に亡くなった、夫、息子、とともに眠る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%83%A7 (←掲載写真は余程うまく撮れたものだろう。)
https://en.wikipedia.org/wiki/Eug%C3%A9nie_de_Montijo ([]内)
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(続く)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その3)>(2017.3.14公開)
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[ナポレオン3世夫妻]
表記について、簡単にまとめておく。
●ナポレオン3世(シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoleon Bonaparte)。1808〜73年)は、「ナポレオン・ボナパルトの甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが、1848年革命で王政が消えると・・・同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選した。・・・<そして、>1851年に国民議会に対する・・・<いわゆる>ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター・・・を起こし、独裁権力を掌握。1852年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」となり、第二帝政を開始した。
1850年代は「権威帝政」と呼ばれる強圧支配を敷いたが、1860年代頃から「自由帝政」と呼ばれる議会を尊重した統治へと徐々に移行した。内政面ではパリ改造計画、近代金融の確立、鉄道網敷設などに尽くした。外交ではクリミア戦争によってウィーン体制を終焉させ、<欧州>各地の自由主義ナショナリズム運動を支援することでフランスの影響力を拡大を図った。またアフリカ・アジアにフランス植民地を拡大させた。
しかしメキシコ出兵の失敗で体制は動揺。1870年に勃発した普仏戦争でプロイセン軍の捕虜となり、それがきっかけで第二帝政は崩壊し、フランスは第三共和政へ移行した。・・・
ちなみに、彼は、教育は、家庭教師によるそれと、アウクスブルクでギムナジウムに通っただけであり、しかも、「ギムナジウムでの成績は並みだった。・・・
<同時代人の>カール・マルクスは・・・第二帝政を「ルンペン・プロレタリア体制」「超国境的な金融詐欺師の祭典」として批判し<ており、>[ビスマルクは<、早期>から・・・「彼の感傷的性格が過小評価されている分だけ、彼の知性は過大評価されている」、「彼を良く知る人から聞いた話から判断すると、彼は誰一人として予想もしないことをやりたがるという病的衝動があるようだ。そして、それを皇后が日々養い育てている」といった評価をして<おり、>普仏戦争直前の1870年3月には「ナポレオンは国内では次第に確信を失い、内政でありとあらゆる失策を犯した。その結果国民の不満が高まり、彼らの不満の矛先を逸らすためにますます戦争をせざるを得なくなっていった」と評している。]<また、>キッシンジャーはウィーン体制こそがフランスにとって対ドイツの最良の安全保障であるのにそれの破壊を目指したこと、国民世論を気にしすぎて近視眼的になったことが彼の外交が破綻した原因<である、としている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B33%E4%B8%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B33%E4%B8%96#.E3.83.93.E3.82.B9.E3.83.9E.E3.83.AB.E3.82.AF.E3.81.AB.E3.82.88.E3.82.8B.E8.A9.95.E4.BE.A1 ([]内)
●ウジェニー皇后(ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugenie de Montijo)。1826〜1920年)は、「スペイン・グラナダにおいて、テバ伯爵・モンティホ伯爵・アルガバ侯爵およびペニャルダ公爵の称号を持つスペイン貴族(Grandes de Espana)・・・(1785年〜1839年)と、スコットランド人の父とスペイン人の母の血を引く<母親>の間に生まれ・・・家族内ではフランス語を日常語として使<っていた。>・・・
父親譲りの勇敢さと彼女の美しさ<(注7)>の評判<から、>・・・各国の王侯貴族から求婚され<た>が、すべてを断り続け、」1848年に大統領に当選したばかりのルイ=ナポレオンと舞踏会で出会い、1853年に、その前年に皇帝になっていた彼と結婚した。
(注7)彼女のほぼ正面からの写真
https://en.wikipedia.org/wiki/Eug%C3%A9nie_de_Montijo#/media/File:Eug%C3%A9nie_de_Montijo._Daguerreotype.jpg
を見る限り、人によって好みが分かれる容貌だと思う。
[流産を経験後、1856年に難産の末、唯一の子供(男児)を授かったが、それ以降、皇帝とのセックスを拒み続け、皇帝は浮気を繰り返すことになる。]
<皇后として、>フランス、ひいては欧州全体のファッションリーダーとなり、「「シック」という表現はウジェニーの宮廷や第二帝政を表現する言葉であったと言われる。」
その一方で、「慈善活動に力を入れており、公務の合間に・・・お忍びで慈善バザーや病院を<訪れ>ていた<ほか、>女性の社会活動にも影響があ<り、>・・・女性を初めて電報局で雇用<させたり、>[教育省に圧力をかけて女性に大学受験資格(バカロレア)を授与させたり、不成功に終わったが、ジョルジュ・サンドをアカデミー・フランセーズ<(注8)>会員にさせようとした。]。・・・
(注8)「フランスの国立学術団体。フランス学士院を構成する5つのアカデミーの一角を占め、その中でも最古のアカデミーである。・・・ルイ13世治下の1635年・・・正式に設立された。当初の役割はフランス語を規則的で誰にでも理解可能な言語に純化し、統一することであり、その目的を達成するために辞書と文法書の編纂を重要な任務としていた。・・・現代では、・・・新たな第2の役割が追加された。それはメセナ(学問芸術振興)であり、年間およそ60もの文学賞の授与から、美術界、学術界、文芸界、慈善事業団体、寡婦や障害者世帯に対する金銭的援助、そして奨学金の提供に至るまで様々な形で行われている。・・・会員<の>・・・定員<は>40人」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%BA
<但し、>カトリックで保守的<であったので、>・・・リベラル勢力と対立した。 ・・・
<また、>大変知性があったので、ナポレオン3世はよく重要な問題を彼女に相談していた。そして1859年、1865年および1870年の皇帝の留守の間、彼女は摂政として行動した。・・・
普仏戦争でフランスが敗れ、第二帝政が覆された後、皇后は夫とともに<英国>へと亡命し・・・た。<クリミア戦争で共に戦ったところの、英国>では王室や国民に歓迎され、丁重に扱われた。」
英国のファーンバラの修道院に、先に亡くなった、夫、息子、とともに眠る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%83%A7 (←掲載写真は余程うまく撮れたものだろう。)
https://en.wikipedia.org/wiki/Eug%C3%A9nie_de_Montijo ([]内)
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(続く)
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