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太田述正コラム#8675(2016.10.17)
<またまた啓蒙主義について(その19)>(2017.1.31公開)
著者は、ディヴィッド・ヒュームについての愛情のこもった描写(portrait)でもって筆を擱く。
彼は、21世紀の哲学者達によって一般に好まれている役割モデルになっている、という御託宣なのだ。
ヒュームは、「自然主義者(naturalist)」なのであって、自身の重要性について、膨れ上がった感覚を持っているところの、動物達に比べてさほど上等ではない人間<なるものを>を紹介することに楽しみを見出していたように見える、と。
彼はまた、哲学的に言えば、「平和を乱す」羨むべき才能を持っていた。
しかし、彼の主要な業績は、自分自身について、決して過度に真面目には受け止めていなかったことだ。
彼は、たゆまぬ良いユーモアでもって高度なリスクを伴う哲学的諸動き(manoeuvres)を行ったけれど、自分がやっとのことで到達した理論的諸革新がばかげた些細な欠点だらけの代物群であることを認める用意が常にあった。
もしあなたが抽象的諸議論に戸惑っているなら、外出して、もう少し「通常の生活(common life)」に関わるべきであり、そうすれば、ちょっと経てば、あなたはゆったりとした気分になり、諸戸惑いが、全て「雲散霧消する」のを見守ることができることだろう、と。
<このように、>著者は、ヒュームの親切さを茶さじ一杯に入れられるだけの分量までつきつめてくれている(has got Hume’s geniality down to a T<(注22)>)。
(注22)「T」がミスプリでないとすれば、略語であり、http://ejje.weblio.jp/content/Tを見ると、略語として「T」を用いた場合、その筆頭の候補としてあげられているのが「teaspoon」であって、意味も通りそうなので、「teaspoon」の略語と解した。
<そして、>彼の読者達に馴合い的ウィンクをしながら、著者は、「あらゆる哲学者は、自分が厳格な論法(reasoning)でもってその諸結論に到達したと考えがちだ」、と語る。
17世紀においては、実に、「幾何学に恋に陥ることが、殆ど<哲学者達の>職業上の労働災害のように見える」、と。
例えば、デカルトだ。
彼は、「自身の類稀な理性の輝かしい光に対する信頼(faith)」で著名だが、「彼は、全ての諸解答を持ち合わせてはいなかったはずだ」、と。
<また、>ホッブスに関しては、彼は、先験的に(a priori)幾何学に目が眩んでいて、<それによって、>「ややもすれば浮かれてしまい(got rather carried away)」、その挙句、「彼の産物<たる諸著作>を潤色し過ぎて(over-egging his pudding)」しまった、と。
しかし、ライプニッツこそ、あなたが本当に見つめなければならない人物なのであって、それは、彼が、哀れなことに、「実のところ、自分自身の頭を神のそれと混同しがちだった」からだ、と。
<しかし、>暫く経つと、<著者による>この<啓蒙主義哲学者達への>痛快なイジリの連続が意地悪く思えてくる。
自分自身の諸力について謙虚であることは良いことなのだが、他者達を謙虚に<、より露骨に言えば貶めて(太田)、>描くことは時に卑劣となる。
こうして、著者は、彼らを、その理性と啓蒙主義に係る諸夢に心を奪われたところの、救い難い幻想家達として描写することで、彼の<本来意図しているところの、>偉大な哲学者達の擁護、を掘り崩してしまうかもしれない諸リスクを冒しているのだ。」(G)
⇒この書評子が、ヒュームのユーモアについてはどうやら評価しているらしいというのに、著者の皮肉については評価していないのは、皮肉もユーモア同様、イギリス人とは切っても切り離せない関係であって、かつ、ブラックユーモアのように、両者にまたがる領域があることからも分かるように、両者は大幅に重なり合っている(注23)だけに、この書評子の著者批判は、私には解せません。
(注23)「イギリス人のユーモアの特徴は、皮肉や社会風刺、戯評などを中心に作り出されます。そして真面目そうな人や物事を馬鹿にするのが好きな性格という事もあり、ブラックユーモアも多いです」
http://masterlanguage.net/culture/736.html
そもそも、皮肉は、ソクラテス的皮肉(Socratic irony)、という言葉があるように、哲学上の一重要手法でもあること
https://en.wikipedia.org/wiki/Irony
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%83%BC
を想起すれば、なおさらです。
ところで、皮肉という言葉は、もともと日本語にはなく、ironyの訳語として仏教用語を借用して作られたようですね。(上掲)
「京都の人の皮肉は、下手したら、言われた本人が、皮肉だと気が付かないこともありますが、イギリス人の皮肉も同じです。」
http://london.xxxx.jp/2016/05/04/life3/
というわけで、日本のかつての都には皮肉の名手が昔から多数いたと想像されることから、言葉がなかった、というのは不思議です。(太田)
3 終わりに
結局、バークリーが経験論者(アングロサクソン的哲学者)なのか合理論者(欧州的哲学者)なのか、また、彼の思想が仏教の唯識論の影響を受けたものなのかどうか、については、納得のいく結論に到達できませんでした。
しかし、ゴットリーブのおかげで、というか、ゴットリーブの新著をシリーズで取り上げたおかげで、派生的に様々なことを考えさせられたので、彼には大いに感謝したいですね。
(完)
<またまた啓蒙主義について(その19)>(2017.1.31公開)
著者は、ディヴィッド・ヒュームについての愛情のこもった描写(portrait)でもって筆を擱く。
彼は、21世紀の哲学者達によって一般に好まれている役割モデルになっている、という御託宣なのだ。
ヒュームは、「自然主義者(naturalist)」なのであって、自身の重要性について、膨れ上がった感覚を持っているところの、動物達に比べてさほど上等ではない人間<なるものを>を紹介することに楽しみを見出していたように見える、と。
彼はまた、哲学的に言えば、「平和を乱す」羨むべき才能を持っていた。
しかし、彼の主要な業績は、自分自身について、決して過度に真面目には受け止めていなかったことだ。
彼は、たゆまぬ良いユーモアでもって高度なリスクを伴う哲学的諸動き(manoeuvres)を行ったけれど、自分がやっとのことで到達した理論的諸革新がばかげた些細な欠点だらけの代物群であることを認める用意が常にあった。
もしあなたが抽象的諸議論に戸惑っているなら、外出して、もう少し「通常の生活(common life)」に関わるべきであり、そうすれば、ちょっと経てば、あなたはゆったりとした気分になり、諸戸惑いが、全て「雲散霧消する」のを見守ることができることだろう、と。
<このように、>著者は、ヒュームの親切さを茶さじ一杯に入れられるだけの分量までつきつめてくれている(has got Hume’s geniality down to a T<(注22)>)。
(注22)「T」がミスプリでないとすれば、略語であり、http://ejje.weblio.jp/content/Tを見ると、略語として「T」を用いた場合、その筆頭の候補としてあげられているのが「teaspoon」であって、意味も通りそうなので、「teaspoon」の略語と解した。
<そして、>彼の読者達に馴合い的ウィンクをしながら、著者は、「あらゆる哲学者は、自分が厳格な論法(reasoning)でもってその諸結論に到達したと考えがちだ」、と語る。
17世紀においては、実に、「幾何学に恋に陥ることが、殆ど<哲学者達の>職業上の労働災害のように見える」、と。
例えば、デカルトだ。
彼は、「自身の類稀な理性の輝かしい光に対する信頼(faith)」で著名だが、「彼は、全ての諸解答を持ち合わせてはいなかったはずだ」、と。
<また、>ホッブスに関しては、彼は、先験的に(a priori)幾何学に目が眩んでいて、<それによって、>「ややもすれば浮かれてしまい(got rather carried away)」、その挙句、「彼の産物<たる諸著作>を潤色し過ぎて(over-egging his pudding)」しまった、と。
しかし、ライプニッツこそ、あなたが本当に見つめなければならない人物なのであって、それは、彼が、哀れなことに、「実のところ、自分自身の頭を神のそれと混同しがちだった」からだ、と。
<しかし、>暫く経つと、<著者による>この<啓蒙主義哲学者達への>痛快なイジリの連続が意地悪く思えてくる。
自分自身の諸力について謙虚であることは良いことなのだが、他者達を謙虚に<、より露骨に言えば貶めて(太田)、>描くことは時に卑劣となる。
こうして、著者は、彼らを、その理性と啓蒙主義に係る諸夢に心を奪われたところの、救い難い幻想家達として描写することで、彼の<本来意図しているところの、>偉大な哲学者達の擁護、を掘り崩してしまうかもしれない諸リスクを冒しているのだ。」(G)
⇒この書評子が、ヒュームのユーモアについてはどうやら評価しているらしいというのに、著者の皮肉については評価していないのは、皮肉もユーモア同様、イギリス人とは切っても切り離せない関係であって、かつ、ブラックユーモアのように、両者にまたがる領域があることからも分かるように、両者は大幅に重なり合っている(注23)だけに、この書評子の著者批判は、私には解せません。
(注23)「イギリス人のユーモアの特徴は、皮肉や社会風刺、戯評などを中心に作り出されます。そして真面目そうな人や物事を馬鹿にするのが好きな性格という事もあり、ブラックユーモアも多いです」
http://masterlanguage.net/culture/736.html
そもそも、皮肉は、ソクラテス的皮肉(Socratic irony)、という言葉があるように、哲学上の一重要手法でもあること
https://en.wikipedia.org/wiki/Irony
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%83%BC
を想起すれば、なおさらです。
ところで、皮肉という言葉は、もともと日本語にはなく、ironyの訳語として仏教用語を借用して作られたようですね。(上掲)
「京都の人の皮肉は、下手したら、言われた本人が、皮肉だと気が付かないこともありますが、イギリス人の皮肉も同じです。」
http://london.xxxx.jp/2016/05/04/life3/
というわけで、日本のかつての都には皮肉の名手が昔から多数いたと想像されることから、言葉がなかった、というのは不思議です。(太田)
3 終わりに
結局、バークリーが経験論者(アングロサクソン的哲学者)なのか合理論者(欧州的哲学者)なのか、また、彼の思想が仏教の唯識論の影響を受けたものなのかどうか、については、納得のいく結論に到達できませんでした。
しかし、ゴットリーブのおかげで、というか、ゴットリーブの新著をシリーズで取り上げたおかげで、派生的に様々なことを考えさせられたので、彼には大いに感謝したいですね。
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
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