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太田述正コラム#8591(2016.9.5)
<スターリンの死とそれがもたらしたもの(その3)>(2016.12.20公開)

 (3)それがソ連圏内にもたらしたもの

 「著者は、<スターリンの死が諸粛清の再来を防いだと示唆しているけれど、彼が>そんな迫害を再度やらかそうとしていたことを裏付ける説得力ある証拠を提示してはいない。・・・
 スターリンの死の真の劇的な大団円は、彼の突然かつ予期せぬ逝去の諸帰結として何が起こらなかったのかに関わる。
 ソヴィエト体制は、スターリンの体制であって、彼と彼の個人崇拝を巡って回っていたにもかかわらず、崩壊しなかったのだ。・・・
 このような移行が可能であったのは、戦後、スターリンが、自分の塹壕ではなく、黒海に面する自分の邸宅群に引き籠り、自分の最も近しい同志達が国家運営の仕事を続けることを認めていたからだ。
 彼は、大きな諸決定を行う時に皆に誰が依然としてボスなのかを思い出させるためにのみ<クレムリンに>立ち現れたのだ。」(C)

 「<スターリンの死後、>まず動いたのは<、欧米諸国ではなく、>スターリンの後継者達の方だった。
 彼の死から何週間も経たないうちに、彼らは、強制労働収容所から100万人の刑事囚人達を解放するよう命じ、食糧<(注7)>と工業諸商品の小売諸価格をかなり引き下げた。

 (注7)「ソビエト連邦時代のロシアでは、ロシア料理の伝統は壊滅的な状態に陥ったと言われている。・・・
 ソビエト連邦の指導者たちは女性の家事労働からの解放を掲げ、家事労働を少なくする試みを打ち出した。炊事の時間の削減の一環として、家庭外で食事を摂るための大規模な共同食堂が多く建設された。・・・
 <彼ら>は、経済面、栄養面、衛生面において家庭の料理よりも優れていると主張し、公共の食堂を家庭の食卓に取って代わる地位に置こうとした。1920年代から1930年代までは労働者のための公共食堂では安価で質の高い料理と良質なサービスが提供されていたが、公共の食堂が増えるにつれて食堂で提供される料理の質と種類は落ちていき、キャベツのシチーやソバのカーシャといった初歩的な料理のみが出されるようになった。・・・
 都市部の住民は自家菜園の作物や、配給品のパンとコルホーズで収穫された作物の物々交換によって不足する食料を補った。コルホーズの収穫品は生産者である農民の元には届かず、農民たちは付属地で栽培したジャガイモによって飢えをしのいだ。
 食品の生産と流通の過程では中間搾取と横流しが横行し、消費者の元に届いたときには低質な食材しか残されていなかった。時には、砂糖や小麦粉といった基本的な食材が店頭から消える事態も起きた。物資の不足により、レストランではメニューに載せられている多くの料理の中で実際に提供できる料理はその中の幾つかだけ、という状況が継続した。
 品不足のために市民は商店で物を買うたびに行列に並ばなければならず、また購入できる商品の選択の幅は極めて狭かった。食品の価格は政府によって低く抑えられていたが、ロシア人は収入の大部分を食費に充てていた。また、食品には地域ごとに価格差が設定されていた。
 市民はめぼしいものがあればすぐ買えるように、アヴォーシカ(・・・「もしかしたら」の意)という網袋を持ち歩いていた。都市部に住むロシア人は、郊外のダーチャ(家屋付きの家庭菜園)で食糧の不足を補っていた。それでもモスクワやレニングラードといった大都市は物資に恵まれていた方であり、地方の都市は中央以上に物不足に苦しんでいた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6%E3%81%AE%E9%A3%9F%E4%BA%8B%E6%83%85

 [<そして、>数週間以内に、反ユダヤ・キャンペーンは中止され、・・・保安警察の諸権限(powers)は縮小され、より多くの消費諸財と公共住宅が約束され、文化的諸統制<(注8)>は緩和され、欧米に対して諸関係改善の交渉開始提案(overture)がなされた。]

 (注8)「ソビエトにおいてスターリンの独裁体制が固まるにつれ、1925年に彼が提唱した「形式においては民族的、内容においては社会主義的」という方針を元に全ての作品が評価されるようになった。美術でも音楽でも文学でも、労働者や農民大衆にもわかりやすく写実的筆致で、ロシアに古くからあった伝統的な画法や旋律、様式をもちいることが求められた。」いわゆる、社会主義リアリズムである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

 彼らは、また、スターリンによる、反国家的企てを行い、帝国主義者と「シオニスト」の陰謀を推進しつつあるとして、その大部分がユダヤ人である、少数のモスクワの医師達に対して行った邪悪な諸非難であったところの、いわゆる医師陰謀事件を公式に否認した。
 <ちなみに、医師達に対する>この諸嫌疑は、1953年1月に発表された<ものだった。>」(G)([]内はA)

 「<実際、>新しい指導者達が改革に着手した速度とエネルギーには息を飲ませるものがあった。
 既に、スターリンの葬儀の際、新しく国家元首となったマレンコフはデタントについて、そして、新しい保安のボスになった・・・ベリヤは、法治(legality)と憲法的諸保護)protections)について、語ったものだ。」(A)

 「スターリンの血に染まった保安の長であった・・・ベリヤは、彼が中立化した東西ドイツの統一を望んだとの・・・フルシチェフによる偽りの諸非難の後、逮捕され、処刑された。」(B)

 「ベリヤの逮捕は、彼が間違いなく諸粛清を再開したに違いない、そして、それはスターリンのよりも更にひどくなりかねない、との主張によって正当化された。」(F)

(続く)

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