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太田述正コラム#8543(2016.8.12)
<一財務官僚の先の大戦観(その66)>(2016.11.26公開)
「金利引き上げをめぐって高橋是清と渡りあった山本達雄蔵相は、大正元年に起きた「二個師団増設問題<(注142)>では上原勇作<(注143)>陸軍大臣と渡り合ってこれを退けている。
(注142)「陸軍が強硬に要求し第一次憲政擁護運動、大正政変の基因となった問題。平時25個師団の建設を決めた1907年(明治40)の帝国国防方針に沿いつつ、現有19個師団の陸軍は、10年の韓国併合後、ロシアへの備えなどを理由に朝鮮配備の2個師団増設を要求した。第二次桂太郎内閣は財政難を理由にそれを抑えたが、11年第二次西園寺公望内閣が成立し、中国に辛亥革命が起こると、流動化する情勢に即応するためにもとふたたび要求。その根底には海軍への対抗、陸軍の軍拡や大陸政略を妨げかねない政党勢力の増大への危機感があった。そこで陸軍はこの要求に固執し、12年(大正1)12月閣議が翌年度からの着手を拒否すると、上原勇作陸相を辞任させて後任を出さず同内閣を倒した。陸軍は寺内正毅を首班とする軍部内閣すら構想していたがならず、憲政擁護運動の高揚により増師も頓挫した。しかし以後も強く要求し続け、第二次大隈重信内閣下の15年に認められた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E5%80%8B%E5%B8%AB%E5%9B%A3%E5%A2%97%E8%A8%AD%E5%95%8F%E9%A1%8C-1192461
(注143)薩摩藩士の子として生まれ、在江戸の藩校造士館、大学南校2(?)年、陸軍幼年学校、陸士で学び、後、仏留4年半(フォンテンブロー砲工学校)。その後、陸軍大臣、教育総監、参謀総長等を歴任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%8B%87%E4%BD%9C
ちなみに、大学南校は、徳川幕府の洋学のメッカ、開成所を維新後改称した開成学校を、更に明治2(1870)年に改称したもの。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(1869%E5%B9%B4)#.E5.A4.A7.E5.AD.A6.E5.8D.97.E6.A0.A1
金本位制を守るために厳しい緊縮財政を断行しなければならない時に、陸軍費を例外にすることは出来ないというのが山本蔵相の考えであった。・・・
「高橋財政」で名高い高橋是清は、実は、財政家というよりは金融家であり、金融家という以前に実務家であった。」(248〜249)
⇒山本達雄蔵相は、大正2(1913)年度及びそれ以降の陸軍予算の大増額を拒んだために、陸軍によって内閣ごと辞任に追い込まれ、高橋是清蔵相は、昭和11(1936)年度及びそれ以降の陸軍予算の大増額を拒んだために、陸軍の一部跳ね上がり者によって(二・二六事件において)殺害されたわけですが、このように二人の運命が大きく異なったゆえんは、私見では次の通りです。
第一は、山本と時の陸軍大臣の上原との間で、前述の同志意識があったのに対し、高橋と時の陸軍大臣の川島義之とは同志意識など皆無だったろう、と想像されることです。
すなわち、山本は藩校と明治義塾、上原は藩校と大学南校(その後、幼年学校・陸士・ 仏フォンテンブロー砲工校)、と、それぞれ、軍事リテラシー教育を受け、学問を身に付けていた上、海外経験が豊富であった、という点で共通していることです。
それに対し、高橋は、父親が幕府の御用絵師、母親が、そのお手付きとなったところの、魚屋の娘であり、仙台藩の足軽の里子・養子となるも、藩校には行っていませんし、ヘボン塾(明治学院大学の一応前身)で英語を学んだだけで渡米し、米国では学校に行けないまま帰国しているので、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%9C%E3%83%B3%E5%A1%BE
学歴は無に等しく、松元ならずとも、「実務家」としか形容のしようのない人物であったのに対し、川島は、旧制中学を出て、陸士・陸大、というわけで、両者とも、学問を身に付けていないという点でこそ同じですが、高橋は軍事リテラシー教育が皆無、他方、川島は軍事リテラシー教育は十分、また、高橋は海外経験が豊富だが川島は朝鮮経験くらいしかない、とこれほど対蹠的な2人も珍しいのではないでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E7%BE%A9%E4%B9%8B
第二は、それぞれを取り巻く国際軍事情勢切迫度の違いです。
1912年時点では、日露協約下でロシアとはデタント時代ですし、第一次世界大戦の予兆など、米はもとより英欧においてすら殆どなかった上、辛亥革命がその前年にあったとはいえ、支那情勢の展望が日本にとって吉凶どちらに転ぶかはっきりしていなかったわけです。
それに対し、1935年時点では、支那情勢も(それと不可分の)対露情勢も、まさに、日本にとって凶へと加速度的に悪化しつつある状況でした。
第三は、第一で述べたことは非軍事官僚と軍事官僚一般の間にも程度の差こそあれあてはまるのであって、1936年には1912年に比べて、非軍事官僚や非軍事的バックグラウンドの政治家の軍事リテラシーが大幅に低下していたことです。
ごく簡単にこのことを間接的に裏付けてみましょう。
下掲の表の係数群から、
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%EF%BC%9B%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%9C%81%EF%BC%9B%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%9C%81%EF%BC%9B%E4%BA%88%E7%AE%97%EF%BC%9B%E6%8E%A8%E7%A7%BB&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP668JP668&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwj3zpWiw7vOAhWInJQKHZDWCgUQsAQIRA&biw=1611&bih=873#imgrc=zjF0J_jY-a66YM%3A
1906年(明治39年。日露戦争後の年であり平時)の海軍予算/陸軍予算=0.44
1912年(大正元年/明治45年。前出で平時)の海軍予算/陸軍予算=0.53
1935年(昭和10年。前出で平時)の海軍予算/陸軍予算=0.49
であることが分かります。
つまり、1906年から12年にかけては、(説明は省きますが、)正しくも海軍への配分を漸増させる政策がとられたのに対し、12年以降のいつかの時点からはメリハリのついた陸軍と海軍への予算配分を行う能力が失われ、今度は(やはり説明は省きますが、)陸軍への配分を漸増させる必要が客観的には出てきたいうのに、毎年度、ほぼ同額を陸海軍に機械的に配分するようになった、と想像されるのです。
この間、総予算中に占める(陸海軍合計の)軍事予算のシェアが、(18.37%⇒)32.61%⇒46.16%、と伸び続けていて、実質的な痛みを海軍に与えることなく、陸軍への予算の傾斜配分が可能であったにもかかわらず、です。
以上から、何が言いたいかというと、対話が成り立ったところの、山本と上原の間では、若干手荒な儀式は必要ではあったものの円満「離婚」ができたと思われるのに対し、対話が成り立たなかったところの、高橋と川島の間では、川島が激高することとなり、その激高が陸軍部内に伝わり、二・二六事件において、高橋が殺害されるに至ってしまったと思われる、ということです。
こういった悲劇を防ぐために、最低限、何が必要であったか、私見を後ほど申し上げるつもりです。(太田)
(続く)
<一財務官僚の先の大戦観(その66)>(2016.11.26公開)
「金利引き上げをめぐって高橋是清と渡りあった山本達雄蔵相は、大正元年に起きた「二個師団増設問題<(注142)>では上原勇作<(注143)>陸軍大臣と渡り合ってこれを退けている。
(注142)「陸軍が強硬に要求し第一次憲政擁護運動、大正政変の基因となった問題。平時25個師団の建設を決めた1907年(明治40)の帝国国防方針に沿いつつ、現有19個師団の陸軍は、10年の韓国併合後、ロシアへの備えなどを理由に朝鮮配備の2個師団増設を要求した。第二次桂太郎内閣は財政難を理由にそれを抑えたが、11年第二次西園寺公望内閣が成立し、中国に辛亥革命が起こると、流動化する情勢に即応するためにもとふたたび要求。その根底には海軍への対抗、陸軍の軍拡や大陸政略を妨げかねない政党勢力の増大への危機感があった。そこで陸軍はこの要求に固執し、12年(大正1)12月閣議が翌年度からの着手を拒否すると、上原勇作陸相を辞任させて後任を出さず同内閣を倒した。陸軍は寺内正毅を首班とする軍部内閣すら構想していたがならず、憲政擁護運動の高揚により増師も頓挫した。しかし以後も強く要求し続け、第二次大隈重信内閣下の15年に認められた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E5%80%8B%E5%B8%AB%E5%9B%A3%E5%A2%97%E8%A8%AD%E5%95%8F%E9%A1%8C-1192461
(注143)薩摩藩士の子として生まれ、在江戸の藩校造士館、大学南校2(?)年、陸軍幼年学校、陸士で学び、後、仏留4年半(フォンテンブロー砲工学校)。その後、陸軍大臣、教育総監、参謀総長等を歴任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%8B%87%E4%BD%9C
ちなみに、大学南校は、徳川幕府の洋学のメッカ、開成所を維新後改称した開成学校を、更に明治2(1870)年に改称したもの。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(1869%E5%B9%B4)#.E5.A4.A7.E5.AD.A6.E5.8D.97.E6.A0.A1
金本位制を守るために厳しい緊縮財政を断行しなければならない時に、陸軍費を例外にすることは出来ないというのが山本蔵相の考えであった。・・・
「高橋財政」で名高い高橋是清は、実は、財政家というよりは金融家であり、金融家という以前に実務家であった。」(248〜249)
⇒山本達雄蔵相は、大正2(1913)年度及びそれ以降の陸軍予算の大増額を拒んだために、陸軍によって内閣ごと辞任に追い込まれ、高橋是清蔵相は、昭和11(1936)年度及びそれ以降の陸軍予算の大増額を拒んだために、陸軍の一部跳ね上がり者によって(二・二六事件において)殺害されたわけですが、このように二人の運命が大きく異なったゆえんは、私見では次の通りです。
第一は、山本と時の陸軍大臣の上原との間で、前述の同志意識があったのに対し、高橋と時の陸軍大臣の川島義之とは同志意識など皆無だったろう、と想像されることです。
すなわち、山本は藩校と明治義塾、上原は藩校と大学南校(その後、幼年学校・陸士・ 仏フォンテンブロー砲工校)、と、それぞれ、軍事リテラシー教育を受け、学問を身に付けていた上、海外経験が豊富であった、という点で共通していることです。
それに対し、高橋は、父親が幕府の御用絵師、母親が、そのお手付きとなったところの、魚屋の娘であり、仙台藩の足軽の里子・養子となるも、藩校には行っていませんし、ヘボン塾(明治学院大学の一応前身)で英語を学んだだけで渡米し、米国では学校に行けないまま帰国しているので、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%9C%E3%83%B3%E5%A1%BE
学歴は無に等しく、松元ならずとも、「実務家」としか形容のしようのない人物であったのに対し、川島は、旧制中学を出て、陸士・陸大、というわけで、両者とも、学問を身に付けていないという点でこそ同じですが、高橋は軍事リテラシー教育が皆無、他方、川島は軍事リテラシー教育は十分、また、高橋は海外経験が豊富だが川島は朝鮮経験くらいしかない、とこれほど対蹠的な2人も珍しいのではないでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E7%BE%A9%E4%B9%8B
第二は、それぞれを取り巻く国際軍事情勢切迫度の違いです。
1912年時点では、日露協約下でロシアとはデタント時代ですし、第一次世界大戦の予兆など、米はもとより英欧においてすら殆どなかった上、辛亥革命がその前年にあったとはいえ、支那情勢の展望が日本にとって吉凶どちらに転ぶかはっきりしていなかったわけです。
それに対し、1935年時点では、支那情勢も(それと不可分の)対露情勢も、まさに、日本にとって凶へと加速度的に悪化しつつある状況でした。
第三は、第一で述べたことは非軍事官僚と軍事官僚一般の間にも程度の差こそあれあてはまるのであって、1936年には1912年に比べて、非軍事官僚や非軍事的バックグラウンドの政治家の軍事リテラシーが大幅に低下していたことです。
ごく簡単にこのことを間接的に裏付けてみましょう。
下掲の表の係数群から、
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%EF%BC%9B%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%9C%81%EF%BC%9B%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%9C%81%EF%BC%9B%E4%BA%88%E7%AE%97%EF%BC%9B%E6%8E%A8%E7%A7%BB&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP668JP668&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwj3zpWiw7vOAhWInJQKHZDWCgUQsAQIRA&biw=1611&bih=873#imgrc=zjF0J_jY-a66YM%3A
1906年(明治39年。日露戦争後の年であり平時)の海軍予算/陸軍予算=0.44
1912年(大正元年/明治45年。前出で平時)の海軍予算/陸軍予算=0.53
1935年(昭和10年。前出で平時)の海軍予算/陸軍予算=0.49
であることが分かります。
つまり、1906年から12年にかけては、(説明は省きますが、)正しくも海軍への配分を漸増させる政策がとられたのに対し、12年以降のいつかの時点からはメリハリのついた陸軍と海軍への予算配分を行う能力が失われ、今度は(やはり説明は省きますが、)陸軍への配分を漸増させる必要が客観的には出てきたいうのに、毎年度、ほぼ同額を陸海軍に機械的に配分するようになった、と想像されるのです。
この間、総予算中に占める(陸海軍合計の)軍事予算のシェアが、(18.37%⇒)32.61%⇒46.16%、と伸び続けていて、実質的な痛みを海軍に与えることなく、陸軍への予算の傾斜配分が可能であったにもかかわらず、です。
以上から、何が言いたいかというと、対話が成り立ったところの、山本と上原の間では、若干手荒な儀式は必要ではあったものの円満「離婚」ができたと思われるのに対し、対話が成り立たなかったところの、高橋と川島の間では、川島が激高することとなり、その激高が陸軍部内に伝わり、二・二六事件において、高橋が殺害されるに至ってしまったと思われる、ということです。
こういった悲劇を防ぐために、最低限、何が必要であったか、私見を後ほど申し上げるつもりです。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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