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太田述正コラム#8392(2016.5.12)
<一財務官僚の先の大戦観(その23)>(2016.9.12公開)

 「ところが、対ソ戦を意識していた軍部は、満州投資に消極的な既存財閥を「企業資本家というものは非常に卑怯だ」として敵視し、日産コンツェルンなどの新興財閥と結んで日本単独の満蒙のブロック経済化を進めていった。<(注32)>

 (注32)「満州国の経済運営で巨大な南満州鉄道が影響力を持つことを嫌った関東軍の求めに応じ、・・・日産コンツェルンの総帥・鮎川義介が、満州全土の鉱業から各種製造まで一貫した計画の元に生産することを目的に、1937年にグループの持株会社である日本産業を満州に移転・改組させ・・・た。・・・<翌年、この>会社を母体に、これに満州国政府からの出資を加え、満州国政府の監督の下に、満州国内の重工業の総合的開発および確立を目的とした・・・満州重工業開発株式会社<が、>・・・満州重工業開発株式会社法の施行とともに設立された。・・・総株数は900万株。 うち満州国政府の持株は半分・・・一般持株は残り半分である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E9%87%8D%E5%B7%A5%E6%A5%AD%E9%96%8B%E7%99%BA

⇒要は、軍部(陸軍)というより、日本政府の方針として、半官半民で満州の重工業の振興が図られた、ということです。(太田)

 そのような満州を守るために関東軍が強行したしたのが華北分離工作<(注33)>で、それは中国での激しい反日運動と英国の反発を招くことになった。・・・

 (注33)(「塘沽協定(たんくーきょうてい)は、1933年(昭和8年)5月31日、河北省塘沽において日本軍と中国軍との間に締結された停戦協定である。これにより柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止された。塘沽停戦協定とも呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%98%E6%B2%BD%E5%8D%94%E5%AE%9A )
 「塘沽協定の停戦ラインでは、1934年冬から1935年1月にかけて中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は北支から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。
 1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で北支に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、北支における日本の経済権益の伸張、および親日的な傀儡政権の樹立、排日感情の抑制などが目標に掲げられた。・・・
 <これを受け、1935年に、>支那駐屯軍や関東軍は、それぞれ軍事力を背景に国民政府と2つの協定(6月10日の梅津・何応欽協定・6月27日の土肥原・秦徳純協定)を結び、河北省から国民党勢力と中国軍を、察哈爾省からも国民党勢力と第29軍をそれぞれ撤退させた。
 <この際、前出だが、改めて、下掲を念頭に入れておきたい。↓
 「1935年の北支は国民政府による搾取や重税から北支軍閥や市民の中で不満が高まると共に満州の急速な発展を目の当りにし、蒋介石の影響力は後退、・・・10月には国民党の増税に反発し農民が蒋政権に反発し自治要求を求め<た>事件が発生するなど河北省・山東省・山西省などで民衆の政治・経済的不満が高まり、自治運動が高まってきていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%80%E6%9D%B1%E9%98%B2%E5%85%B1%E8%87%AA%E6%B2%BB%E6%94%BF%E5%BA%9C >
 次いで、11月3日に中国が幣制改革を実行すると、日本軍は北支における国民政府の経済的支配力強化を恐れて、河北省・察哈爾省に親日的な傀儡政権を樹立しようとしたが国民政府の激しい抵抗にあい、また諸軍閥も日本軍の誘いに応じなかったため、当座の措置として塘沽協定による非武装地域を管轄する傀儡政権として冀東防共自治委員会(後の冀東防共自治政府)を11月25日に樹立した。これに対し、国民政府は日本軍の圧力をかわすため、12月18日に河北省・察哈爾省を管轄する冀察政務委員会を設置し、緩衝地帯を設定した。
 1936年1月13日、日本は「第一次北支処理要綱」を閣議決定したが、これは北支分離方針を国策として決定したものといえた。4月中旬には支那駐屯軍の増強を決定し、5月〜6月に北平・天津・豊台などに配置していった。これに対して国民政府は反対の意向を申し入れ、北平・天津などでは学生・市民による北支分離反対デモが起きる事態となった。中国人の抗日意識は大きく高まり、新たに日本軍が駐屯することになった豊台付近では、日中両軍による小競り合いがたびたび起こり、また中国各地で日本人襲撃事件が多発するようになった。
 日本は8月11日には「第二次北支処理要綱」を制定。北支五省に防共親日満地帯設定を企図したが、11月の綏遠事件において中国軍が日本軍(実質的には内蒙古軍)に勝利したことによって中国人の抗日意識はさらに大きなものとなり、さらに12月には西安事件が起こった。
 日本ではこれを受け、1937年4月16日の「第三次北支処理要綱」において、華北分離工作の放棄も検討されたが、確固とした政策とはならず、盧溝橋事件を契機に日中戦争に突入していくこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%8C%97%E5%88%86%E9%9B%A2%E5%B7%A5%E4%BD%9C

⇒「華北分離工作」を「強行」ならぬ「推進」したのもまた、「関東軍」ならぬ日本政府でした。
 その目的は、全て、日本政府が「対ソ戦を意識していた」、より正しくは、対赤露抑止「を意識していた」からであって、そのことは、日本が設立した「冀東防共自治委員会」や「冀東防共自治委員会(後の冀東防共自治政府)」に、「防共」という言葉が入っているところからも明らかでしょう。(太田)

 そして開始されたのが、低率関税(査験料)の下での密貿易(冀東特殊貿易)<(注34)>であった。

 (注34)その背景は、「大阪毎日新聞」昭和13年(1938年)1月27日記事によれば、以下の通り。↓
 「支那国民政府はさきに関税自主権を獲得するや、自来逐次関税率を高め、僅か十年間に平均約七倍の高率に引上げた。
 殊に輸入税率の如き、表面上はわが製品を目的としてはいないが、その内容を見ると従量税と従価税とを巧に配合し、わが製品を主とする輸入貨物については殆ど禁止的関税を設定し、排日的関税政策を採った。
 このため昭和六年当時天津のみで七千五百万元に達していたわが北支輸出は、昭和十年には三千五百万元となり、半額以下に激減するの余儀なきに至った。
 かかる高関税の設定が直接北支民衆の生活に多大の脅威を与えたのに鑑み、同年成立した冀東防共自治政府は、民衆の生活を無視した従来の政策的関税引上に対処し、税率四分一の特殊低税率を設け、秦皇島、北戴河その他を陸揚地に指定したため、自来生活必需品の輸入はこの関門を通じて行われ、支那民衆の生活に多大の便益を与えたのみでなく、
冀東特殊貿易は俄に発展して年額一億元に達した。
 しかし冀東貿易は支那民衆の生活安定をはかるため設けたものとはいえ、変態的のものであるだけに、冀東地区以外への密輸出その他の問題を生じ、わが貿易業者に不測の損害を蒙らしめるなど<した。>」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-469.html

 それは日本製品が国民政府の定めた関税を免れて冀東地域から華北市場に流入することであり、それによって被害をこうむる華中の商工業者(特に蒋介石の存続基盤である浙江財閥)の反発を招いただけでなく、関税収入を国民政府への借款の担保としていた英国の強い反発をも招くものであった。」(93)

⇒マクロ的に言えば、支那において、日本政府の事実上の支配下にあった満州国地域、と、蒋介石政権「支配」地域、との間の治安面や経済面での格差が増大するにつれ、後者中の満州国隣接地域たる華北において、親日勢力が増大していき、蒋介石政権、及び、その背後にあった赤露は焦燥感を募らせ、両者は、それぞれ単独で、或いは「協力」して、デマやテロによる対日挑発をエスカレートさせていき、日本政府は、それらへの対応を余儀なくされた、ということでしょう。(太田)

(続く)

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