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太田述正コラム#8352(2016.4.22)
<一財務官僚の先の大戦観(その12)>(2016.8.23公開)

 「第二次上海事変で装備の大半を失った蒋介石の継戦能力を支えたのが、主として四つあった蒋介石支援ルートであった。
 ちなみに、軍部が英米と戦わなければならないと考えるに至った大きな原因は、第二次上海事変以降の英米による蒋介石支援の本格化であった。(重光葵『昭和の動乱』)
 初期の主力は香港ルートで、香港に陸揚げされた物資が鉄道や珠江の水運を利用して中国内陸部に運ばれていた。
 同ルートは、昭和13年4月から5月にかけて行われた徐州作戦で遮断された。
 その後、同年12月に完成し、最後まで残った主力ルートがビルマ・ルートで、ビルマのラングーン(現在のヤンゴン)から鉄道とトラックで雲南省昆明まで運ぶ輸送路で、昭和16年12月に日本の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まると、米国による全面的な支援が行われた。
 同ルートは昭和17年の日本軍のビルマ侵攻によって遮断されたが、その後もインド東部からヒマラヤ山脈を越えての空輸が続けられた。それも遮断すべく行われたのがインパール作戦であった。
 三番目が仏印ルートで、昭和15年の日本軍の北部仏印進駐によって遮断された。
 四番目がソ連からのルートであったが、昭和16年6月の独ソ戦開始によって途絶えた。

⇒英米が完全にコミンテルン(赤露)の策謀に乗せられて、蒋介石容共ファシズム政権の対日戦に事実上参戦した結果、日本が、徐州作戦、北部仏印進駐、ビルマ侵攻作戦・・要するに太平洋戦争・・の実施を余儀なくされたことを、事実上松元は認めてしまっています。
 インパール作戦がヒマラヤ山脈を越えての空輸による援蒋ルート遮断ではなかったことは、既に記したところです。
 そもそも、「ヒマラヤ山脈を越えての空輸」は、空に特定のルートがあるわけではないので、「インド東部から」空輸できなければ、「インド西部から」空輸したらいいだけのことですからね。
 なお、「ソ連からのルート」が、日ソ中立条約が締結された・・1941年4月25日に効力発生・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
したところ、「第二条 締約国ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ」という規定
http://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js16-6.htm
が存在していたにもかかわらず、ソ連(赤露)は援蒋を止めず、独ソ戦勃発・・1941年6月22日・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E6%88%A6
の結果として事実上援蒋を止めたに過ぎないことを、松元が示唆していることも興味深いものがあります。(典拠が欲しいところですが・・。)
 また、重光葵<(コラム#763、4116、4276、4348、4350、4366、4376、4378、4390、4689、4699、4732、4740、4754、5004、5180、5188、5814、5817、7179、7819、7833、8207)>が、「軍部が英米と戦わなければならないと考えるに至った」と記している点には外務官僚のホンネが露呈しています。
 すなわち、彼は、「日本が」ではなく「軍部が」とすることによって、対英米戦争が、外務省も賛成して日本政府の意思として始められた事実を歪曲するとともに、「英米」と両国を一括りにすることによって、外務省が当時抱いていた英米一体観を当然視しつつ、陸軍が唱えた対英のみ開戦<(コラム#4506、4515、3433、4548、4616、4624、4689、4695、4749、4875、5030、5065、5438、5455、6296、7444、7645、7996)>論の存在の抹殺を試みているわけです。
 英米は一体では全くなかったのであって、対英のみ開戦をした場合、米国が日本に宣戦することはありえなかっただけでなく、そもそも、初期の香港、その後のビルマの両援蒋ルートが、それぞれ、最も主要なルートであって、そのどちらもが英領を経由したルートであったことから、英国の責任が最も大きく、陸軍の対英のみ開戦論には十分過ぎる根拠があったというのに・・。(太田)
 
 第二次上海事変に際して素早く軍事援助を本格化したのはソ連であった。
 そして、その素早い動きを可能にしたのが昭和11年12月の西安事件をきっかけとする国共合作であった。
 西安事件の頃、日本では広田内閣の軍拡路線に対して政友会の浜田国松が「腹切り問答」を展開して内閣を倒し、議会による軍部の牽制が行われていた。
 また、日中間では防共協定締結が論議されていた(松本重治「事変第二期に入る」『改造』昭和13年2月号)。

⇒このくだりの関連で、東京大学ドイツ・ヨーロッパ研究センターのサイトに掲載されている、2006年12月提出の修士論文(提出者名が書かれていない)のレジメの一部を紹介しておきます。↓

 「第一期は1935年末から1938年前半で、東アジア政策では「広田三原則」を、対独伊関係では「防共」を特徴とする。1935年10月に決定された「広田三原則」は、「共同防共」を掲げることで中国や列国との関係修復を試みる「防共的国際協調主義」の象徴ともいえるもので、日独関係というよりも日中関係の文脈で形成されたもである。こうした政策が1935<〜>36年の外務省の特徴をなしていることはすでに指摘されてきたが、本研究によりトラウトマン駐華ドイツ大使(1937年10月<から>翌1月)、宇垣外相・石射東亜局長(38年5月<〜>9月)らによる対中和平工作においても「広田三原則」路線が継続していたこと、さらにこの頃進められた汪兆銘工作でも「日中防共協定」締結が試みられていたことが明らかになった。日独・日独伊防共協定締結、日中戦争勃発を経た後においてもなお、日中関係調整の際には依然として「防共」原則が維持されていた。
 第二期は1938年後半から1939年で、東アジア政策では「東亜新秩序」を、対独伊関係では「防共枢軸」を特徴とする。1938年後半から本格的に議論されるようになった防共協定強化問題は、実質的にはソ連のみならず英米仏をも対象とした軍事協定の成立を目指す議論であり、従来の「防共」原則だけでは説明のつかないものだった。こうしてこの頃から「防共」に代えて「防共枢軸」という言葉が用いられるようになる。一方、近衛の「東亜新秩序声明」が発表されたのは1938年11月のことだった。この声明は「防共」原則を内包し、「広田三原則」以来の対中防共外交を継承しているものの、その力点は「防共」よりも曖昧な「東亜新秩序建設」に置かれていた。このように、独伊との「防共枢軸」外交も、東アジアにおける「東亜新秩序」政策も、従来の「防共」原則の行き詰まりへの対応として策定されたものだった。
 第三期は1940年から1941年で、東アジア政策では「大東亜共栄圏」を、対独伊関係では「枢軸」を特徴としている。独ソ不可侵条約の締結によって「防共枢軸」外交の継続は不可能となったが、まもなく独伊との軍事同盟締結の動きは陸軍や外務省革新派を中心に再加速することとなった。その際に採用されたのが、ヴェルサイユ・ワシントン体制という「旧秩序」に代えて「新秩序」を建設するという「枢軸」イデオロギーだった。このイデオロギーは三国同盟条約にも明記され、松岡外相がそのおよそ2ヶ月前に言明した「大東亜共栄圏」構想を正当化する。しかし、アジアにおける諸権益を日本が排他的に獲得するために構想された「大東亜共栄圏」の排除対象は、英米はもとより独伊にも及んでいた。1942年初頭にリッベントロップが三国同盟へのタイ、中国汪兆銘政権、満州国の加入を打診すると、外務省はこれを拒否したが、その理由の一端にはドイツの「大東亜共栄圏」への野心に対する警戒があった。」
http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/j/education_ach_06_02.html
 次回の東京オフ会での「講演」で、この修士論文に改めて触れることにします。(太田)

 そのような状況の下、関東軍の東条英機参謀長が無頼漢や旧軍閥の兵士を集めた特別兵団を内蒙古軍と称して綏遠省に侵攻させて国民党軍に大敗を喫した綏遠事件<(1936年11月)(コラム#4008、4010、5569、8088、8115)>が発生した。

⇒対赤露防壁回廊の延伸に必死であった帝国陸軍の足を掬うような策動を行うことを躊躇しない、浜田らのような者が当時の日本の議会人の中にいたことに、改めて怒りを禁じ得ません。(太田)

 西安事件とは、その綏遠事件での勝利を喜んで綏遠防衛軍の督励に出向いた蒋介石が、その途上に立ち寄った西安で張学良に拉致されたものであった。」(72〜73)

⇒「1936年10月、国民政府行政院長(首相)蒋介石は、紅軍(中国共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じたが、共産党と接触していた張学良と楊虎城は共産党への攻撃を控えていた。このため、蒋介石は攻撃を督促するために12月4日には西安を訪れ・・・た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
のであって、「綏遠事件での勝利を喜んで綏遠防衛軍の督励に<も>出向<こうとし>た」可能性は否定しませんが、物事には軽重の順というものがあるのであって、綏遠事件云々だけに言及する松元の頭の構造が私には理解できません。
 そもそも、松元は、このくだりに何の典拠も付していません。(太田)

(続く)

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