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太田述正コラム#8350(2016.4.21)
<一財務官僚の先の大戦観(その11)>(2016.8.22公開)
「第二次上海事変で日本軍は大きな損害を出したが、中国軍の損害は致命的ともいえるものであった。・・・
180個師団のうち73個師団--しかも精鋭部隊の大部分--が壊滅し、空軍のほぼ全部、そして軍艦の大部分が失われた。
しかしながら、そのような大打撃を受けた蒋介石軍の能力は、その後の英米ソからの支援によって維持され対日持久戦の体制に入っていったのである。
⇒前出の1935年のコミンテルン大会の決定、すなわち、赤露の謀略、通りの進展になったわけですから、やはり、第二次上海事変は、せいぜい上海周辺の防御を固めたいという程度の蒋介石の意向に反して、赤露が日本軍への攻撃を画策し、それに成功した、と解すべきでしょうね。
私のまだ解けない疑問は2つあります。
第一は、蒋介石は、脅迫によるものだとして、第二次国共合作をご破算にできたのにどうしてそうしなかったのか、という疑問です。
西安事件を引き起こした二人の部下である張学良(1901〜2001年)と楊虎城(1893〜1949年)の責任を問うて、2人を監禁し、前者はその生涯にわたって監禁を続けさせ、後者は、しばらく後に惨殺させた、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AD%A6%E8%89%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E8%99%8E%E5%9F%8E
ほど西安事件を恨んでいたいうのに、また、精鋭部隊を含む180個師団を本来の中国共産党討伐に使用することができておれば、中国共産党壊滅に成功していたに違いないというのに・・。
第二は、中国共産党が西安事件と盧溝橋事件と第二次上海事件に、それぞれどの程度関与したのか、という疑問です。
後の方の2つについてはともかくとして、西安事件的なものは、中国共産党の実存的危機を回避するために、同党としても、喉から手が出るくらい起こしたかったでしょうからね。
私は、1935年に決定された、上述の赤露の謀略、とりわけ、その東アジアに係る部分については、毛沢東がスターリンに頼み込んで実現したものである可能性がある、と考えています。
このことを含め、改めて、次回の東京オフ会の時の「講演」で取り上げたいと思いますが、1935年から1937年にかけては、中国共産党と赤露の例外的な蜜月期間であった、と見たらどうか、ということです。(太田)
第二次上海事変以降の中国戦線は、蒋介石や毛沢東が基本的に日本軍との直接の戦闘を避ける持久戦略をとったことから、一部を除いては意外に落ち着いたものだった。
塩川正十郎元財務大臣によれば、「八路軍(パーロ)(共産党)と、新四軍<(注12)(コラム#5856、5858)>--これは毛沢東系とはちょっと違うやつ--と、重慶軍(国民党)と、日本軍とが四つ巴になっとった。ですから、私が巡察で回りますと、重慶軍から税金を取りに来るわけです。その後、すぐまたパーロからも税金取りが来る。どっちが先に取るかによって、取り分が違うんですね。日本軍はそんな税金は取ってませんから、わりと歓迎されましたよ。・・・」といったものであった(「心は慈悲で、倫理は武士道」『公研』2007年5月号)。・・・
(注12)皖南事変(かんなんじへん)=「蒋介石の考える国共合作とは、黄河以北では共産党が、長江以南では国民党がそれぞれ主導で抗日戦線を展開し、その緩衝地帯である長江以北・黄河以南は統一戦線を展開するというものであったものと思われる。・・・1940年10月19日、蒋介石は・・・共産党軍(新四軍・八路軍)に対して一ヶ月以内に黄河以北へ移動するよう・・・命令・・・した。これに対して同年11月9日中共中央は命令を拒否<した、>・・・1941年1月4日、[国民党員の]葉挺指揮下の新四軍9000名の部隊は安徽省南部茂林を移動中、国民党軍8万人に包囲され、7日間の戦闘の結果2000名が脱出に成功するが、2000人以上が戦死、4000人余が捕虜となった。軍長葉挺は[1946年・・・3月<まで>]身柄を拘束され<ることとなり>、副軍長[の共産党員]項英は<事変の最中に>部下の裏切りによって殺され<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%96%E5%8D%97%E4%BA%8B%E5%A4%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%9B%9B%E8%BB%8D ([]内)
⇒軍長の葉挺(1896〜1946年)は、中国国民党内の赤露直系の共産主義者であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E6%8C%BA
のに対し、副軍長の項英(1898〜1941年)は、れっきとした中国共産党員・・「長征が開始された1934年10月、項は共産党長征軍が国民革命軍による包囲を突破するための引き延ばし作戦実施のために後方に留まった」・・と見てよさそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E8%8B%B1
なお、日本軍が税金を取らなかったとしても、汪兆銘政権等の親日「傀儡」政権(下出)は税金をとったはずですから、塩川爺の言っていることは聞き流した方がよさそうです。
松元としては、財務省関係者しか読まないような典拠をあえて用いて独自性を発揮したかった、ということなのでしょうが・・。(太田)
重慶に逃れた蒋介石政権に対して、日本軍は広大な中国大陸の農村部に点と線を確保し、傀儡の親日政権<(注13)>を樹立することによって対峙することになった。
(注13)1937年12月14日に北京に王克敏(1873〜1945(獄病死))とするを首班とする中華民国臨時政府、1938年3月28日に南京に梁鴻志(1882〜1946年(銃殺))を首班とする中華民国維新政府が樹立され、1940年3月30日、この両者を統一する形で、汪兆銘(1883〜1944年(病死))を首班とする中華民国政府が南京に樹立されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%85%8B%E6%95%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E9%B4%BB%E5%BF%97
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98
その日本軍に対して、中国共産党軍も昭和15年8月の百団大戦<(コラム#5892、6346)>を除いては散発的な遊撃戦を繰り返すのみであった。・・・
フランソワ・ジェレは、・・・中国では<ソ連や欧州各国に比べると少ない>220万人の兵士・・・が死亡したとしている(『地図で読む現代戦争事典)
ただし、徐州作戦<(コラム#6344)>では日本軍の進攻を防ぐために蒋介石軍が黄河を決壊させたことからの洪水による死者は数十万人に及び1000万人の農民が家を失った。
また、その後黄河の流れが変わったことによる飢饉などからの死者は300万人にも及んだとされている。
徐州作戦が行われた昭和13年<(1938年)>以降、華北の穀類収穫高(昭和11年比)は昭和14年に40パーセント減、昭和15年に30パーセント以上の減であった。
やはり先の戦争における中国民衆の犠牲者には膨大なものがあったのである。」(69〜72))
⇒松元に指摘されるまでもなく、日支戦争における、支那民衆の被害は、蒋介石政権の故意過失によって著しく増幅されたと言ってよいことと、いずれにせよ、軍民合わせての支那側の被害は、蒋介石政権側、後には中国共産党政権によって、著しく過大に喧伝されたこと、とを我々は銘記すべきでしょう。(太田)
(続く)
<一財務官僚の先の大戦観(その11)>(2016.8.22公開)
「第二次上海事変で日本軍は大きな損害を出したが、中国軍の損害は致命的ともいえるものであった。・・・
180個師団のうち73個師団--しかも精鋭部隊の大部分--が壊滅し、空軍のほぼ全部、そして軍艦の大部分が失われた。
しかしながら、そのような大打撃を受けた蒋介石軍の能力は、その後の英米ソからの支援によって維持され対日持久戦の体制に入っていったのである。
⇒前出の1935年のコミンテルン大会の決定、すなわち、赤露の謀略、通りの進展になったわけですから、やはり、第二次上海事変は、せいぜい上海周辺の防御を固めたいという程度の蒋介石の意向に反して、赤露が日本軍への攻撃を画策し、それに成功した、と解すべきでしょうね。
私のまだ解けない疑問は2つあります。
第一は、蒋介石は、脅迫によるものだとして、第二次国共合作をご破算にできたのにどうしてそうしなかったのか、という疑問です。
西安事件を引き起こした二人の部下である張学良(1901〜2001年)と楊虎城(1893〜1949年)の責任を問うて、2人を監禁し、前者はその生涯にわたって監禁を続けさせ、後者は、しばらく後に惨殺させた、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AD%A6%E8%89%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E8%99%8E%E5%9F%8E
ほど西安事件を恨んでいたいうのに、また、精鋭部隊を含む180個師団を本来の中国共産党討伐に使用することができておれば、中国共産党壊滅に成功していたに違いないというのに・・。
第二は、中国共産党が西安事件と盧溝橋事件と第二次上海事件に、それぞれどの程度関与したのか、という疑問です。
後の方の2つについてはともかくとして、西安事件的なものは、中国共産党の実存的危機を回避するために、同党としても、喉から手が出るくらい起こしたかったでしょうからね。
私は、1935年に決定された、上述の赤露の謀略、とりわけ、その東アジアに係る部分については、毛沢東がスターリンに頼み込んで実現したものである可能性がある、と考えています。
このことを含め、改めて、次回の東京オフ会の時の「講演」で取り上げたいと思いますが、1935年から1937年にかけては、中国共産党と赤露の例外的な蜜月期間であった、と見たらどうか、ということです。(太田)
第二次上海事変以降の中国戦線は、蒋介石や毛沢東が基本的に日本軍との直接の戦闘を避ける持久戦略をとったことから、一部を除いては意外に落ち着いたものだった。
塩川正十郎元財務大臣によれば、「八路軍(パーロ)(共産党)と、新四軍<(注12)(コラム#5856、5858)>--これは毛沢東系とはちょっと違うやつ--と、重慶軍(国民党)と、日本軍とが四つ巴になっとった。ですから、私が巡察で回りますと、重慶軍から税金を取りに来るわけです。その後、すぐまたパーロからも税金取りが来る。どっちが先に取るかによって、取り分が違うんですね。日本軍はそんな税金は取ってませんから、わりと歓迎されましたよ。・・・」といったものであった(「心は慈悲で、倫理は武士道」『公研』2007年5月号)。・・・
(注12)皖南事変(かんなんじへん)=「蒋介石の考える国共合作とは、黄河以北では共産党が、長江以南では国民党がそれぞれ主導で抗日戦線を展開し、その緩衝地帯である長江以北・黄河以南は統一戦線を展開するというものであったものと思われる。・・・1940年10月19日、蒋介石は・・・共産党軍(新四軍・八路軍)に対して一ヶ月以内に黄河以北へ移動するよう・・・命令・・・した。これに対して同年11月9日中共中央は命令を拒否<した、>・・・1941年1月4日、[国民党員の]葉挺指揮下の新四軍9000名の部隊は安徽省南部茂林を移動中、国民党軍8万人に包囲され、7日間の戦闘の結果2000名が脱出に成功するが、2000人以上が戦死、4000人余が捕虜となった。軍長葉挺は[1946年・・・3月<まで>]身柄を拘束され<ることとなり>、副軍長[の共産党員]項英は<事変の最中に>部下の裏切りによって殺され<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%96%E5%8D%97%E4%BA%8B%E5%A4%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%9B%9B%E8%BB%8D ([]内)
⇒軍長の葉挺(1896〜1946年)は、中国国民党内の赤露直系の共産主義者であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E6%8C%BA
のに対し、副軍長の項英(1898〜1941年)は、れっきとした中国共産党員・・「長征が開始された1934年10月、項は共産党長征軍が国民革命軍による包囲を突破するための引き延ばし作戦実施のために後方に留まった」・・と見てよさそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E8%8B%B1
なお、日本軍が税金を取らなかったとしても、汪兆銘政権等の親日「傀儡」政権(下出)は税金をとったはずですから、塩川爺の言っていることは聞き流した方がよさそうです。
松元としては、財務省関係者しか読まないような典拠をあえて用いて独自性を発揮したかった、ということなのでしょうが・・。(太田)
重慶に逃れた蒋介石政権に対して、日本軍は広大な中国大陸の農村部に点と線を確保し、傀儡の親日政権<(注13)>を樹立することによって対峙することになった。
(注13)1937年12月14日に北京に王克敏(1873〜1945(獄病死))とするを首班とする中華民国臨時政府、1938年3月28日に南京に梁鴻志(1882〜1946年(銃殺))を首班とする中華民国維新政府が樹立され、1940年3月30日、この両者を統一する形で、汪兆銘(1883〜1944年(病死))を首班とする中華民国政府が南京に樹立されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%85%8B%E6%95%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E9%B4%BB%E5%BF%97
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98
その日本軍に対して、中国共産党軍も昭和15年8月の百団大戦<(コラム#5892、6346)>を除いては散発的な遊撃戦を繰り返すのみであった。・・・
フランソワ・ジェレは、・・・中国では<ソ連や欧州各国に比べると少ない>220万人の兵士・・・が死亡したとしている(『地図で読む現代戦争事典)
ただし、徐州作戦<(コラム#6344)>では日本軍の進攻を防ぐために蒋介石軍が黄河を決壊させたことからの洪水による死者は数十万人に及び1000万人の農民が家を失った。
また、その後黄河の流れが変わったことによる飢饉などからの死者は300万人にも及んだとされている。
徐州作戦が行われた昭和13年<(1938年)>以降、華北の穀類収穫高(昭和11年比)は昭和14年に40パーセント減、昭和15年に30パーセント以上の減であった。
やはり先の戦争における中国民衆の犠牲者には膨大なものがあったのである。」(69〜72))
⇒松元に指摘されるまでもなく、日支戦争における、支那民衆の被害は、蒋介石政権の故意過失によって著しく増幅されたと言ってよいことと、いずれにせよ、軍民合わせての支那側の被害は、蒋介石政権側、後には中国共産党政権によって、著しく過大に喧伝されたこと、とを我々は銘記すべきでしょう。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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