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太田述正コラム#8288(2016.3.21)
<神聖ローマ帝国史(その2)>(2016.7.22公開)
(3)ハプスブルク時代
「・・・1245年から1415年の間は、戴冠した皇帝が実在したのはわずか25年だけだった<(注5)>けれど、この本は、の帝国の歴史を、諸侯の小競り合いや地域的な諸残虐行為(bloodbaths)が、16世紀にハプスブルク家の人々がやってきて、彼らの王座を実際の王国とより緊密に統合することによって、この全ての事柄を規制し始めたことによって終焉を迎えたところの、「繰り返しが多く混沌的なサイクル」、へと矮小化する伝統的な見方にもまた抵抗する。
(注5)いわゆる、大空位時代(期間は1250年、1254年または1256年から1273年まで)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E4%BD%8D%E6%99%82%E4%BB%A3
はよく知られているところ、書評子も、もう少し、具体的な説明をして欲しかった。
但し、この大空位時代においても、ドイツ王は存在し続けたのであり、「選帝侯など有力諸侯が帝国の直轄領を蚕食し、帝国の権利の多くを奪った<ことで、>・・・国王権力が著しく衰退したこと、また王位が弱小諸侯もしくはドイツ国外の人物によって獲得され、ほとんど国王が不在と同じような状況に陥ったこと<を指している。>」(上掲)
なお、1257〜1272年の間、ドイツ王を形の上で務めたのは、「国外の」イギリス王族でジョン王(欠地王)の次男の、初代コーンウォール伯リチャード(Richard, 1st Earl of Cornwall。1209〜1272年)だった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Richard,_1st_Earl_of_Cornwall
一体どうしてそんな運びになったのかだが、彼が与えられたコーンウォール領が豊かであったことから、彼が当時の地理的意味での欧州有数の金持ちであったこと(上掲)・・選帝侯達の買収に有利!・・以外には分からなかった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sanchia_of_Provence (及び上掲)
なお、彼についての日本語ウィキペディアには、そのことについてデタラメが書かれている。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89_(%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BC%AF)
ハプスブルク家の人々達自身と彼らの欧州大陸諸統治者としての成功については、ウィルソンは、剽軽に、「彼らは、この帝国の他の重要(senior)諸家よりも徳があったわけではない」と喝破し、彼らが相対的に長く目立つ場所を占めたのは、「(長寿、多産、能力)といった、代々のかつ個々人の生物学的な意味で良い運(fortune)」、と、諸事情における単なるツキ(dumb luck)、とが組み合わさったからである、とする。<(注6)>・・・」(A)
(注6)前出のフリードリヒ(Frederick)3世(1415〜1493.ドイツ王:1440〜1493、皇帝:1452〜1493)は、「一見、凡庸な君主であったが、敵対者はことごとく都合良く死亡し、長生きと悪運の強さで、自発的には何もしないままハプスブルク家の繁栄の基礎を築き上げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
この書評子は言及していないが、フリードリヒ3世より前に、皇帝ではなく、ドイツ王ですらなかったけれど、ハプスブルク家のオーストリア公のルドルフ4世について振り返っておく必要がある。
「ハプスブルク家は・・・<ルクセンブルク家の皇帝>カール4世<が発出した、[1356年の]>・・・金印勅書が定める7人の選帝侯には含まれていなかった<ところ、>・・・1359年、<ハプスブルク家の>ルドルフ4世<(Rudolf IV。1339〜1365年。オーストリア公:1358〜65年)>は家臣に対して宣言した。「我はオーストリア公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、クライン公、並びに帝国狩猟長官、シュヴァーベン公、アルザス公、かつまたプファルツ大公である」と。
後ろの4つは明らかに官名詐称であった。しかも「大公」(Erzherzog)という称号はそれまで存在すらしなかった。・・・加えて、ハプスブルク家は7選帝侯を上回る特権、自領内で爵位を授け、封土を与える権利を有している、とも主張した。さらに、公爵が通常かぶる公爵帽に代えて大公冠を作った。
<ルドルフ4世の義父でもあった>カール4世がこれに対して証拠を提出するように言い渡すと、ルドルフ4世は5通の特許状と2通の手紙を提出したが、全て偽造だった。しかも、特許状はよくできた偽書だったが、<何と、>手紙の差出人はそれぞれ古代ローマのユリウス・カエサルおよび皇帝ネロとなっていた。・・・
結局、この時のルドルフ4世の詐称は<ルドルフ4世が若くして亡くなったこともあり、>うやむやにされたが、後にハプスブルク家出身の皇帝フリードリヒ3世の時代に、ルドルフ4世の偽造文書は「大特許状」として帝国法に組み込まれ、「大公」はハプスブルク家にだけ許される正式な称号となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%954%E4%B8%96_(%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%85%AC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%8D%B0%E5%8B%85%E6%9B%B8 ([]内)
⇒「1360年8月8日、ルドルフ4世は統治の要諦を自ら公文書で発表した。「公爵領のあらゆる名声と権力は、挙げて領民たちの揺るぎない幸福にかかっている」と。また、「君主は領民たちの暗闇を明るく照らし出す神に選ばれし光であり、この光は過誤と混乱を根絶し、領民に公正の道を指し示す」と・・・。」(上掲。但し、英・独ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_IV,_Duke_of_Austria
https://de.wikipedia.org/wiki/Rudolf_IV._(%C3%96sterreich)
には掲載されていない!)
これは、プロト欧州文明においては珍しい、人間主義的統治宣言です。
そこで、これが事実だとすれば、ひょっとして、ハプスブルク家は、アングロサクソン文明の影響を受けているのではないか、具体的には、血統的に、イギリス王家、就中、人間主義的君主として知られるアルフレッド大王に繋がっているのではないかと思い、少し調べてみたのですが、どうやらそうではなさそうです。(太田)
(続く)
<神聖ローマ帝国史(その2)>(2016.7.22公開)
(3)ハプスブルク時代
「・・・1245年から1415年の間は、戴冠した皇帝が実在したのはわずか25年だけだった<(注5)>けれど、この本は、の帝国の歴史を、諸侯の小競り合いや地域的な諸残虐行為(bloodbaths)が、16世紀にハプスブルク家の人々がやってきて、彼らの王座を実際の王国とより緊密に統合することによって、この全ての事柄を規制し始めたことによって終焉を迎えたところの、「繰り返しが多く混沌的なサイクル」、へと矮小化する伝統的な見方にもまた抵抗する。
(注5)いわゆる、大空位時代(期間は1250年、1254年または1256年から1273年まで)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E4%BD%8D%E6%99%82%E4%BB%A3
はよく知られているところ、書評子も、もう少し、具体的な説明をして欲しかった。
但し、この大空位時代においても、ドイツ王は存在し続けたのであり、「選帝侯など有力諸侯が帝国の直轄領を蚕食し、帝国の権利の多くを奪った<ことで、>・・・国王権力が著しく衰退したこと、また王位が弱小諸侯もしくはドイツ国外の人物によって獲得され、ほとんど国王が不在と同じような状況に陥ったこと<を指している。>」(上掲)
なお、1257〜1272年の間、ドイツ王を形の上で務めたのは、「国外の」イギリス王族でジョン王(欠地王)の次男の、初代コーンウォール伯リチャード(Richard, 1st Earl of Cornwall。1209〜1272年)だった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Richard,_1st_Earl_of_Cornwall
一体どうしてそんな運びになったのかだが、彼が与えられたコーンウォール領が豊かであったことから、彼が当時の地理的意味での欧州有数の金持ちであったこと(上掲)・・選帝侯達の買収に有利!・・以外には分からなかった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sanchia_of_Provence (及び上掲)
なお、彼についての日本語ウィキペディアには、そのことについてデタラメが書かれている。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89_(%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BC%AF)
ハプスブルク家の人々達自身と彼らの欧州大陸諸統治者としての成功については、ウィルソンは、剽軽に、「彼らは、この帝国の他の重要(senior)諸家よりも徳があったわけではない」と喝破し、彼らが相対的に長く目立つ場所を占めたのは、「(長寿、多産、能力)といった、代々のかつ個々人の生物学的な意味で良い運(fortune)」、と、諸事情における単なるツキ(dumb luck)、とが組み合わさったからである、とする。<(注6)>・・・」(A)
(注6)前出のフリードリヒ(Frederick)3世(1415〜1493.ドイツ王:1440〜1493、皇帝:1452〜1493)は、「一見、凡庸な君主であったが、敵対者はことごとく都合良く死亡し、長生きと悪運の強さで、自発的には何もしないままハプスブルク家の繁栄の基礎を築き上げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
この書評子は言及していないが、フリードリヒ3世より前に、皇帝ではなく、ドイツ王ですらなかったけれど、ハプスブルク家のオーストリア公のルドルフ4世について振り返っておく必要がある。
「ハプスブルク家は・・・<ルクセンブルク家の皇帝>カール4世<が発出した、[1356年の]>・・・金印勅書が定める7人の選帝侯には含まれていなかった<ところ、>・・・1359年、<ハプスブルク家の>ルドルフ4世<(Rudolf IV。1339〜1365年。オーストリア公:1358〜65年)>は家臣に対して宣言した。「我はオーストリア公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、クライン公、並びに帝国狩猟長官、シュヴァーベン公、アルザス公、かつまたプファルツ大公である」と。
後ろの4つは明らかに官名詐称であった。しかも「大公」(Erzherzog)という称号はそれまで存在すらしなかった。・・・加えて、ハプスブルク家は7選帝侯を上回る特権、自領内で爵位を授け、封土を与える権利を有している、とも主張した。さらに、公爵が通常かぶる公爵帽に代えて大公冠を作った。
<ルドルフ4世の義父でもあった>カール4世がこれに対して証拠を提出するように言い渡すと、ルドルフ4世は5通の特許状と2通の手紙を提出したが、全て偽造だった。しかも、特許状はよくできた偽書だったが、<何と、>手紙の差出人はそれぞれ古代ローマのユリウス・カエサルおよび皇帝ネロとなっていた。・・・
結局、この時のルドルフ4世の詐称は<ルドルフ4世が若くして亡くなったこともあり、>うやむやにされたが、後にハプスブルク家出身の皇帝フリードリヒ3世の時代に、ルドルフ4世の偽造文書は「大特許状」として帝国法に組み込まれ、「大公」はハプスブルク家にだけ許される正式な称号となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%954%E4%B8%96_(%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%85%AC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%8D%B0%E5%8B%85%E6%9B%B8 ([]内)
⇒「1360年8月8日、ルドルフ4世は統治の要諦を自ら公文書で発表した。「公爵領のあらゆる名声と権力は、挙げて領民たちの揺るぎない幸福にかかっている」と。また、「君主は領民たちの暗闇を明るく照らし出す神に選ばれし光であり、この光は過誤と混乱を根絶し、領民に公正の道を指し示す」と・・・。」(上掲。但し、英・独ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_IV,_Duke_of_Austria
https://de.wikipedia.org/wiki/Rudolf_IV._(%C3%96sterreich)
には掲載されていない!)
これは、プロト欧州文明においては珍しい、人間主義的統治宣言です。
そこで、これが事実だとすれば、ひょっとして、ハプスブルク家は、アングロサクソン文明の影響を受けているのではないか、具体的には、血統的に、イギリス王家、就中、人間主義的君主として知られるアルフレッド大王に繋がっているのではないかと思い、少し調べてみたのですが、どうやらそうではなさそうです。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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