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太田述正コラム#8278(2016.3.16)
<20世紀欧州内戦(その7)>(2016.7.17公開)
(4)20世紀欧州内戦時代の特色
「トラヴェルソは、ナチ哲学者達、マルクス主義者達、及びリベラル達を呪文で呼び出す。
彼は、第一次世界大戦の大虐殺が、ブルジョワ・リベラリズム・・その1世紀前にフランス革命とアメリカ諸植民地の独立のための戦争中に生まれたところの、この二つの諸出来事前の数十年の間に懐胎された、まさにその政治哲学・・・の諸残滓を殺してしまったことによって、二極化が余りにも明白なものになってしまった、との主張(contention)を行う。
リベラルな政治国家によって維持されたところの、寛容のふりは、もともとは植民主義諸国だけに適用可であったのだけれど、その後、右翼の、但し、ファシズムと呼ばれた反動的現象によって攻撃を受けた。
ファシズムの意図と組織的アプローチは、二極化することだったし、今でもそうだ。
戦間期には、このアプローチが確立され、今度は、左翼の側からの同党の反応を引き起こした。・・・
これらの年々は、芸術と文化が美の伝統的な探究を止めて政治の諸道具になった年々だった、とトラヴェルソは記す。
換言すれば、文化は、国家のための、そしてまた、国家に反対するためのプロパガンダに堕してしまったのだ。
哲学的諸熟考が、空前の非人道的行為を正当化するために利用されたのだ。
知識人達は、戦争とそのご主人様達に仕える兵士達へと堕したのだ。
テクノロジーはそれまでのあらゆる概念を超えた規模での大量殺人を可能にした。
ファシズムとその専制的な暴虐性をテクノロジーに象徴される合理性の拒否と表示する歴史学者たちの諸試みにもかかわらず、トラヴェルソは、読者に対し、それはその合理性の予想された結果である、と告げる。・・・
ユニウス・パンフレット(Junius Pamphlet)<(注9)>として良く知られている小冊子に以下のことを書いた・・・のは・・・ルクセンブルク(Luxemburg)<(注10)>だった。
(注9)1915年2月〜4月の間に獄中で執筆され、1916年2月にチューリッヒで印刷され、ドイツ国内で非合法に配布された。
https://www.marxists.org/archive/luxemburg/1915/junius/
(注10)ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg。1871〜1919年)。「ポーランドに<ユダヤ人の両親の下に>生まれ・・・チューリッヒ大学<で学び、博士号を取得し、>・・・ドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。・・・ポーランド王国社会民主党の理論家であり、のちにドイツ社会民主党、ドイツ独立社会民主党(ドイツ社会民主党左派)に関わるようになった。機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊し、革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創設、1919年1月にはベルリンでドイツ革命に続いて1月蜂起を指導するが、国防軍の残党やフライコール(義勇軍、Freicorps)との衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。死後、多くのマルクス主義者や社会主義者のあいだでは、同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒトとともに、革命の象徴的存在とされている。・・・
プロレタリア独裁とは階級の独裁であって一党一派の独裁ではないと主張したローザは、革命後における民主的自由を擁護する立場を取った。・・・革命は自然発生的でなければならないと考えたのも、前衛党論批判の理由の一つであった。
獄中にいた1917年、レーニンを指導者とするボリシェヴィキによってソビエト政権が樹立された十月革命の報に接するや、レーニンの前衛党論を改めて論難し、実際の十月革命が自然発生的でないことや革命後の民主的自由が危ういことなどを指摘、ボリシェヴィキが新たな独裁を生むだろうと予言し獄中から警句を発した。具体的には、・・・「搾取者」(すなわち革命政府への反対者)にも選挙権を与えるべきであること、出版・結社・集会・言論の自由を保障するべきであることを批判した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF
⇒プロレタリア独裁について一言。
「エンゲルス<は、>、「社会主義革命の本来の形態は、無自覚な大衆の先頭にたった自覚した少数者が遂行する革命ではない。社会変革のために、大衆自身が参加し、彼ら自身が、何が問題になっているか、何のために彼らは肉体と生命を捧(ささ)げて行動するのかを、理解していなければならない。大衆が何をなすべきかを理解するためには、長い間の根気づよい仕事が必要である」(マルクス『フランスにおける階級闘争』への序文、1895年)」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%A1%86%E8%B7%AF%E7%B7%9A-91292 (下掲中の[]内も)
としています。
この大衆路線の立場から、トロツキーは「・・・レーニンに対して・・・「[党が民衆にかわって問題を解決していく]代行主義<への>批判」を展開し・・・<、また、> [1940年代初期の延安解放区時代<以来、毛沢東率いる>・・・中国共産党<は、>・・・大衆路線<を標榜してきた>]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8B%AC%E8%A3%81
ところです。
以上を踏まえた、精査を経ずしての取りあえずの私の見解は、レーニンが現実のものとした前衛党たる共産党は、マルクスのプロレタリア独裁の考え方に忠実であるのに対し、(工業化以前のないし工業化過程にある、社会を背景とする(?))トロツキー、毛沢東や(工業社会を背景とする(?))ルクセンブルク、による前衛党たる共産党に対する批判は、どちらも(マルクスが1883年に亡くなった後の)エンゲルスの新たなプロレタリア独裁の考え方の承継者であるところ、(マルクスと)レーニンは現実的であったのに対し、(エンゲルスと)トロツキーや毛沢東やルクセンブルクは空想的であった、というものです。
(毛沢東は、大衆路線を「標榜」しただけだ、と私は思っていますが・・。)
というのは、前にも記したように、人間主義社会への回帰を目指す(自認人間主義者達たる)少数者によるところの、その大多数が非人間主義者達たる多数者の支配が、大衆路線で行えるはずがないのであって、自ずから、それが、前衛主義/代行主義によらざるをえないことなど、つい最近までの、人間主義に係る文系・理系科学の水準や社会状況からすれば、自明であったからです。
しかし、最近におけるかかる科学の進展や英米等における念的瞑想ブームの到来は、大衆路線によって人間主義社会に回帰する方法論が構築される可能性が出てきたことを予感させます。
(英米等における念的瞑想ブームは、偏頗な形でこそあれ、人間主義への強い関心ないしニーズが英米等に発生するに至っていることを示しています。)(太田)
「ブルジョワ社会はジレンマに直面している。
社会主義へ移行するか、それとも、野蛮主義へと回帰するか…我々は選択しなければならない。
古代ローマにおけるような、帝国主義の勝利と全文化の衰亡・・絶滅、荒廃、退歩、退屈な墓場か、それとも、社会主義の勝利か、を」、と。・・・」(D)
(続く)
<20世紀欧州内戦(その7)>(2016.7.17公開)
(4)20世紀欧州内戦時代の特色
「トラヴェルソは、ナチ哲学者達、マルクス主義者達、及びリベラル達を呪文で呼び出す。
彼は、第一次世界大戦の大虐殺が、ブルジョワ・リベラリズム・・その1世紀前にフランス革命とアメリカ諸植民地の独立のための戦争中に生まれたところの、この二つの諸出来事前の数十年の間に懐胎された、まさにその政治哲学・・・の諸残滓を殺してしまったことによって、二極化が余りにも明白なものになってしまった、との主張(contention)を行う。
リベラルな政治国家によって維持されたところの、寛容のふりは、もともとは植民主義諸国だけに適用可であったのだけれど、その後、右翼の、但し、ファシズムと呼ばれた反動的現象によって攻撃を受けた。
ファシズムの意図と組織的アプローチは、二極化することだったし、今でもそうだ。
戦間期には、このアプローチが確立され、今度は、左翼の側からの同党の反応を引き起こした。・・・
これらの年々は、芸術と文化が美の伝統的な探究を止めて政治の諸道具になった年々だった、とトラヴェルソは記す。
換言すれば、文化は、国家のための、そしてまた、国家に反対するためのプロパガンダに堕してしまったのだ。
哲学的諸熟考が、空前の非人道的行為を正当化するために利用されたのだ。
知識人達は、戦争とそのご主人様達に仕える兵士達へと堕したのだ。
テクノロジーはそれまでのあらゆる概念を超えた規模での大量殺人を可能にした。
ファシズムとその専制的な暴虐性をテクノロジーに象徴される合理性の拒否と表示する歴史学者たちの諸試みにもかかわらず、トラヴェルソは、読者に対し、それはその合理性の予想された結果である、と告げる。・・・
ユニウス・パンフレット(Junius Pamphlet)<(注9)>として良く知られている小冊子に以下のことを書いた・・・のは・・・ルクセンブルク(Luxemburg)<(注10)>だった。
(注9)1915年2月〜4月の間に獄中で執筆され、1916年2月にチューリッヒで印刷され、ドイツ国内で非合法に配布された。
https://www.marxists.org/archive/luxemburg/1915/junius/
(注10)ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg。1871〜1919年)。「ポーランドに<ユダヤ人の両親の下に>生まれ・・・チューリッヒ大学<で学び、博士号を取得し、>・・・ドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。・・・ポーランド王国社会民主党の理論家であり、のちにドイツ社会民主党、ドイツ独立社会民主党(ドイツ社会民主党左派)に関わるようになった。機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊し、革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創設、1919年1月にはベルリンでドイツ革命に続いて1月蜂起を指導するが、国防軍の残党やフライコール(義勇軍、Freicorps)との衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。死後、多くのマルクス主義者や社会主義者のあいだでは、同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒトとともに、革命の象徴的存在とされている。・・・
プロレタリア独裁とは階級の独裁であって一党一派の独裁ではないと主張したローザは、革命後における民主的自由を擁護する立場を取った。・・・革命は自然発生的でなければならないと考えたのも、前衛党論批判の理由の一つであった。
獄中にいた1917年、レーニンを指導者とするボリシェヴィキによってソビエト政権が樹立された十月革命の報に接するや、レーニンの前衛党論を改めて論難し、実際の十月革命が自然発生的でないことや革命後の民主的自由が危ういことなどを指摘、ボリシェヴィキが新たな独裁を生むだろうと予言し獄中から警句を発した。具体的には、・・・「搾取者」(すなわち革命政府への反対者)にも選挙権を与えるべきであること、出版・結社・集会・言論の自由を保障するべきであることを批判した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF
⇒プロレタリア独裁について一言。
「エンゲルス<は、>、「社会主義革命の本来の形態は、無自覚な大衆の先頭にたった自覚した少数者が遂行する革命ではない。社会変革のために、大衆自身が参加し、彼ら自身が、何が問題になっているか、何のために彼らは肉体と生命を捧(ささ)げて行動するのかを、理解していなければならない。大衆が何をなすべきかを理解するためには、長い間の根気づよい仕事が必要である」(マルクス『フランスにおける階級闘争』への序文、1895年)」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%A1%86%E8%B7%AF%E7%B7%9A-91292 (下掲中の[]内も)
としています。
この大衆路線の立場から、トロツキーは「・・・レーニンに対して・・・「[党が民衆にかわって問題を解決していく]代行主義<への>批判」を展開し・・・<、また、> [1940年代初期の延安解放区時代<以来、毛沢東率いる>・・・中国共産党<は、>・・・大衆路線<を標榜してきた>]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8B%AC%E8%A3%81
ところです。
以上を踏まえた、精査を経ずしての取りあえずの私の見解は、レーニンが現実のものとした前衛党たる共産党は、マルクスのプロレタリア独裁の考え方に忠実であるのに対し、(工業化以前のないし工業化過程にある、社会を背景とする(?))トロツキー、毛沢東や(工業社会を背景とする(?))ルクセンブルク、による前衛党たる共産党に対する批判は、どちらも(マルクスが1883年に亡くなった後の)エンゲルスの新たなプロレタリア独裁の考え方の承継者であるところ、(マルクスと)レーニンは現実的であったのに対し、(エンゲルスと)トロツキーや毛沢東やルクセンブルクは空想的であった、というものです。
(毛沢東は、大衆路線を「標榜」しただけだ、と私は思っていますが・・。)
というのは、前にも記したように、人間主義社会への回帰を目指す(自認人間主義者達たる)少数者によるところの、その大多数が非人間主義者達たる多数者の支配が、大衆路線で行えるはずがないのであって、自ずから、それが、前衛主義/代行主義によらざるをえないことなど、つい最近までの、人間主義に係る文系・理系科学の水準や社会状況からすれば、自明であったからです。
しかし、最近におけるかかる科学の進展や英米等における念的瞑想ブームの到来は、大衆路線によって人間主義社会に回帰する方法論が構築される可能性が出てきたことを予感させます。
(英米等における念的瞑想ブームは、偏頗な形でこそあれ、人間主義への強い関心ないしニーズが英米等に発生するに至っていることを示しています。)(太田)
「ブルジョワ社会はジレンマに直面している。
社会主義へ移行するか、それとも、野蛮主義へと回帰するか…我々は選択しなければならない。
古代ローマにおけるような、帝国主義の勝利と全文化の衰亡・・絶滅、荒廃、退歩、退屈な墓場か、それとも、社会主義の勝利か、を」、と。・・・」(D)
(続く)
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