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太田述正コラム#8164(2016.1.19)
<ロマノフ王朝(その4)>(2016.5.5公開)

 英国とフランスとの50年間にわたる冷たい関係の後、アレクサンドル3世(Alexander III)<(注22)(コラム#1751、2506、4402、6690、7144)>と彼の息子のニコライ2世(Nicholas II)<(注23)(コラム#1893、2506、3557、4402、4600、5586、5638、5725、6130、6694、6738、6810、7079、7098、7177)>は、この欧米民主主義国群たる2国と同盟関係を取り結んだ。

 (注22)1845〜94年。皇帝:1881〜94年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB3%E4%B8%96
 皇后のマリア・フョードロヴナは、「英語は<英国>人看護婦と<英国>人牧師から習った。・・・<極めて仲が良かった>姉に<英国>王エドワード7世の妃アレクサンドラ、長兄にデンマーク国王フレゼリク8世、次兄にギリシャ国王ゲオルギオス1世<等>・・・がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%83%8A_(%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB3%E4%B8%96%E7%9A%87%E5%90%8E)
 (注23)1868〜1918年。皇帝:1894〜1917年。「ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世や<英>国王ジョージ5世は従兄にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A42%E4%B8%96

 その一方で、同じ時期に、彼らは、自分達自身の国の中では、狭い料簡のロシア・ナショナリズムを解き放った。
 ニコライは、自分自身を、欧州化した皇帝としてではなく、17世紀の大公として見て、民族的諸言語を排してロシア語を押し付けたが、それでも、アレクサンドラ(Alexandra)<(注24)>へのラブレター群は英語で書かれたし、テュートン系の王女達との何世紀にもわたる結婚のおかげで、その王朝はその頃には主としてドイツ系になっていた。

 (注24)アレクサンドラ・フョードロヴナ(1872〜1918年)。「ヘッセン大公ルートヴィヒ4世と<英国>のヴィクトリア女王の次女アリスの間の四女ヴィクトリア・アリックス(Victoria Alix)として生まれる。・・・母が35歳で死去した後、6歳から12歳まで祖母ヴィクトリア女王に育てられたため、ドイツ人というより「<英国>人」であった。1884年、サンクトペテルブルクで行われた姉エリーザベトとアレクサンドル3世の弟セルゲイ大公の結婚式で、皇太子だったニコライと出会い、付き合い、愛し合うようになった。・・・
 当時、<ロシア>皇后は正教徒に限定するという規定があった。アリックスは亡き母と同じくルーテル教会を信仰していた。悩むアリックスにヴィクトリア女王は「二人の結婚は英国王室、ロシア王室の双方の安全保障にもなる。正教とプロテスタントの教義の違いは、実際にはたいした問題ではない。何より二人は似合いのカップルなのだから」と諭し、結婚するよう勧めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%83%8A_(%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A42%E4%B8%96%E7%9A%87%E5%90%8E)

⇒英語のラブレター云々は、二人にとって英王室が近しい親戚であったことと、当時、既に、英語がフランス語に代わって世界の共通語になりつつあったことを反映しているのでしょうね。(太田)

 革命の後、スターリンは、マルクス主義国際主義を信奉していたにもかかわらず、その時にあたって、ロシアの道徳的優位性を証明した、トルストイ伯爵の1812年についての見解の宣伝を皮肉にも含んでいたところの、攻撃的排外主義的ナショナリズムを抱懐した。
 1991年の共産主義の失墜はこれを逆転させた。
 すなわち、米国の文化、ロンドンの奢侈品といった欧米の諸流儀(ways)の崇拝は、『戦争と平和』におけるフランスのあらゆるものの崇拝に匹敵する。
 そして、今や、過激な反動が再び訪れている。
 我々の関係は極寒状態であり、欧米の文化は蔑まれ、ロシアの至上性が高らかに唱えられている。
 すなわち、ニコライ1世そっくりの響きで、プーチンは、「ロシアの人々は独特の文明の核心だ」と言う。
 それでいて、…既視感に捉われてしまう(here we are)。
 つまり、我々は今なおトルストイを眺めているのであり、他方、彼らは今なおチェルシーFC<(注25)のオーナーになり、>ダウントン(Downton)<(注26)>に住むことを夢見ているのだ。」(D)

 (注25)「ロンドン西部チェルシー地域をホームタウンとする、イングランドプロサッカーリーグ(プレミアリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。…2003年7月、ロシアの大富豪 ロマン・アブラモヴィッチによ<って買収された。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%BCFC
 (注26)「ヨークシャーのダウントン村(モデルはオックスフォード州コッツウォルズにあるバンプトン村)にあるカントリー・ハウス「ダウントン・アビー」・・・の持ち主の・・・伯爵<家の人々を戦間期を背景に描く>・・・イギリスの<人気>テレビドラマシリーズ<が>・・・『ダウントン・アビー』(・・・Downton Abbey)<である。>・・・
 ダウントン・アビーの屋内シーン、および館を背景とした野外シーンはハンプシャーのハイクレア城で<、>・・・ダウントン村の屋外シーンは、オックスフォードシャーの[バムプトン]村で<、>撮影されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%BC
https://en.wikipedia.org/wiki/Downton_Abbey ([]。日本語ウィキペディア↑は間違っている!)
 ハイクレア城の写真。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%B3%E4%BC%AF%E7%88%B5#/media/File:Highclere_Castle_July_2012_(9).jpg
 バムプトン村の風景が載っている。↓
https://en.wikipedia.org/wiki/Bampton,_Oxfordshire

(続く)

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