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太田述正コラム#8128(2016.1.1)
<二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その10)/私の現在の事情(続x70)>(2016.4.17公開)
「1963年5月、中国に残留した日本人女性の願いが届き、方正に日本人公墓<(注32)>が建設された。
(注32)「ハルピン市郊外の方正県に、日本人公墓が建立されているのをご存知でしょうか。1945年の敗戦のさなか、祖国を目指して逃げ惑った旧満洲の開拓団の人々は、難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々がこの方正の地で息絶えました。それから数年、累々たる白骨の山を見た残留婦人が骨を拾い集めました。そして力を貸した中国人たちが集めた遺骨はおよそ五千体ともいわれています。
その人たちを祀るお墓が「方正地区日本人公墓」です。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、<中共>政府は、<支那>人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれ、公墓が建立されたのです。多くの日本人開拓団員等が犠牲となった旧満洲で建立されている公墓はこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の挟撃に遭い、四百数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) 」
http://www.houmasa.com/Admission%20guidance.html
中国政府の温情だった。
日中友好ムードが高まった1980年代は慰霊に訪れる遺族や関係者が絶えなかった。
過去を振り返り、日中友好を願う象徴だった。」(184)
⇒さすがに二松も方正の話にも言及はしているけれど、わずかにこの数行にとどめ、その反面、上掲の注に出てくる麻山事件の話は詳細に記述しています。
これは、二松が、方正の話を詳細に記述すると、中共当局による公墓の設立についても詳述しなければならなくなるところ、それが、彼のこの本における、日本政府を非難する、というスタンスに微妙にそぐわないことに気付いているからだと私は思うのです。
注の方正友好交流の会は、「<日本人住民達も>日本軍国主義の犠牲者だとして・・・公墓<を>建立<してく>れた」と誤魔化していますが、「1962年、平和共存に関する中ソ論争。キューバ危機に際して、中華人民共和国はソ連を「冒険主義」「敗北主義」「大国主義」として非難。この頃、中ソ対立は西側にも公然のものとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E5%AF%BE%E7%AB%8B
という時代背景を踏まえれば、この公墓の設立が、もともと反ソ(反赤露)であった中共当局が、対赤露抑止のために入植し赤露の犠牲となった日本人満州開拓民達に敬意を表する形で反ソ姿勢を顕在化させたもの、と受け止めるべきことは明白でしょう。(太田)
(続く)
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--私の現在の事情(続x70)--
30日の夜、26日の東京オフ会の時に私が行った二つ目の話に関し、どうしてそんな単純なことに気付かなかったのか、というような新見解に到達し、ビンゴってなもんでしたね。
そのことも含め、改めて昨年の私の知的生産性の高さに・・自分で言うなとお叱りを受けそうですが・・目を見張るとともに充足感を覚えています。
昨日の大みそかには、いつものように早めに夕食をすませてから、自転車で出発し、大森駅前のダイソーで注連飾りを買ってから、ダイシン百貨店に赴きました。
あんまし割引になっていなかったおせちとお煮しめのほか、搗いて板状にした餅も初めて一枚(半額で)買ってきました。
更に、その向かいのコンビニでミニ鏡餅を買い、正月準備を一応整えられました。
帰宅後、紅白を見るべくタブレットを久しぶりに使おうとしたのですが、接続せず、私の広義のIT環境いまだ完璧ならず、と臍を噛み、やむなく隣室も暖房するとともにドアを開け放ち、TVの音が聞こえるようにしました。
なんだか隔靴掻痒の感があったことも預かってか、今年の紅白、去年のよりも面白くなかったですね。
途中で(冷凍の蕎麦を使った)年越しそばを食べ、24:00の15分前には、最寄りの太田神社・・太田道潅ゆかり、という触れ込みですが、まる私のために設立されたような神社です・・で行列に並び、無事、初もうでを行い、甘酒とつくね焼をごちそうになって帰ってきました。
何を祈ったかは、前々回、前回に引き続き、人間主義的な内容であった、という程度にしておきましょう。
人間主義の相手方は、前々回、前回と今回とでは異なっていますがね。
前々回、(それまではいつも1円と決めていたのですが、)初めて10円のお賽銭をあげたところ、珍しく願いがかなわなかったので、前回は1円に戻したのだけれど、何と、またもや願いがかなわず、今回は10円にしておきました。
今回のは、願いがかなったら大吉、半分かなったら中吉、かなわなかったら小吉、という面白い願いで、その結果が早くも1月中に出るので、その顛末を大変楽しみにしています。
今朝は、komuroさん提供の八海山原酒(清酒)をお屠蘇代わりにし、shihouenさん提供のあおさのり・・オフ会の時にも使わせてもらったが残っていた・・を入れたお雑煮とおせち/お煮しめで正月を祝い、現在は、AKJさん提供の英国ビールを飲みながらこのコラムを書いています。
(お餅は、一度板状の、つまりは搗きたてのものを食べてしまうと、もう、カットされてパックで売っているお餅は食べられなくなりますね。
昼も夜もお餅にしたのですが、例年と違って、全く飽きませんでした。)
この後、komuroさん提供のUSB−DACを使って音楽を聴く予定ですし、本日の、有料会員に係る出入りチェックはK.Kさん作成のソフトを活用して行いました。
まさに、熱心な読者の皆さんによって自分は生かされている、という気持ちに浸った元旦でした。
先ほどは、365日営業の最寄りのスーパーに行ってきたのですが、数の子と栗きんとん・・きんとんの方はおせちにもちょっぴり入っていたが今度のは結構な分量・・が半額で出ていたので買ってきました。
明日、数の子を食べ、栗きんとんを大量に頬張れば、一層正月らしくなりそうです。
<二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その10)/私の現在の事情(続x70)>(2016.4.17公開)
「1963年5月、中国に残留した日本人女性の願いが届き、方正に日本人公墓<(注32)>が建設された。
(注32)「ハルピン市郊外の方正県に、日本人公墓が建立されているのをご存知でしょうか。1945年の敗戦のさなか、祖国を目指して逃げ惑った旧満洲の開拓団の人々は、難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々がこの方正の地で息絶えました。それから数年、累々たる白骨の山を見た残留婦人が骨を拾い集めました。そして力を貸した中国人たちが集めた遺骨はおよそ五千体ともいわれています。
その人たちを祀るお墓が「方正地区日本人公墓」です。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、<中共>政府は、<支那>人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれ、公墓が建立されたのです。多くの日本人開拓団員等が犠牲となった旧満洲で建立されている公墓はこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の挟撃に遭い、四百数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) 」
http://www.houmasa.com/Admission%20guidance.html
中国政府の温情だった。
日中友好ムードが高まった1980年代は慰霊に訪れる遺族や関係者が絶えなかった。
過去を振り返り、日中友好を願う象徴だった。」(184)
⇒さすがに二松も方正の話にも言及はしているけれど、わずかにこの数行にとどめ、その反面、上掲の注に出てくる麻山事件の話は詳細に記述しています。
これは、二松が、方正の話を詳細に記述すると、中共当局による公墓の設立についても詳述しなければならなくなるところ、それが、彼のこの本における、日本政府を非難する、というスタンスに微妙にそぐわないことに気付いているからだと私は思うのです。
注の方正友好交流の会は、「<日本人住民達も>日本軍国主義の犠牲者だとして・・・公墓<を>建立<してく>れた」と誤魔化していますが、「1962年、平和共存に関する中ソ論争。キューバ危機に際して、中華人民共和国はソ連を「冒険主義」「敗北主義」「大国主義」として非難。この頃、中ソ対立は西側にも公然のものとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E5%AF%BE%E7%AB%8B
という時代背景を踏まえれば、この公墓の設立が、もともと反ソ(反赤露)であった中共当局が、対赤露抑止のために入植し赤露の犠牲となった日本人満州開拓民達に敬意を表する形で反ソ姿勢を顕在化させたもの、と受け止めるべきことは明白でしょう。(太田)
(続く)
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--私の現在の事情(続x70)--
30日の夜、26日の東京オフ会の時に私が行った二つ目の話に関し、どうしてそんな単純なことに気付かなかったのか、というような新見解に到達し、ビンゴってなもんでしたね。
そのことも含め、改めて昨年の私の知的生産性の高さに・・自分で言うなとお叱りを受けそうですが・・目を見張るとともに充足感を覚えています。
昨日の大みそかには、いつものように早めに夕食をすませてから、自転車で出発し、大森駅前のダイソーで注連飾りを買ってから、ダイシン百貨店に赴きました。
あんまし割引になっていなかったおせちとお煮しめのほか、搗いて板状にした餅も初めて一枚(半額で)買ってきました。
更に、その向かいのコンビニでミニ鏡餅を買い、正月準備を一応整えられました。
帰宅後、紅白を見るべくタブレットを久しぶりに使おうとしたのですが、接続せず、私の広義のIT環境いまだ完璧ならず、と臍を噛み、やむなく隣室も暖房するとともにドアを開け放ち、TVの音が聞こえるようにしました。
なんだか隔靴掻痒の感があったことも預かってか、今年の紅白、去年のよりも面白くなかったですね。
途中で(冷凍の蕎麦を使った)年越しそばを食べ、24:00の15分前には、最寄りの太田神社・・太田道潅ゆかり、という触れ込みですが、まる私のために設立されたような神社です・・で行列に並び、無事、初もうでを行い、甘酒とつくね焼をごちそうになって帰ってきました。
何を祈ったかは、前々回、前回に引き続き、人間主義的な内容であった、という程度にしておきましょう。
人間主義の相手方は、前々回、前回と今回とでは異なっていますがね。
前々回、(それまではいつも1円と決めていたのですが、)初めて10円のお賽銭をあげたところ、珍しく願いがかなわなかったので、前回は1円に戻したのだけれど、何と、またもや願いがかなわず、今回は10円にしておきました。
今回のは、願いがかなったら大吉、半分かなったら中吉、かなわなかったら小吉、という面白い願いで、その結果が早くも1月中に出るので、その顛末を大変楽しみにしています。
今朝は、komuroさん提供の八海山原酒(清酒)をお屠蘇代わりにし、shihouenさん提供のあおさのり・・オフ会の時にも使わせてもらったが残っていた・・を入れたお雑煮とおせち/お煮しめで正月を祝い、現在は、AKJさん提供の英国ビールを飲みながらこのコラムを書いています。
(お餅は、一度板状の、つまりは搗きたてのものを食べてしまうと、もう、カットされてパックで売っているお餅は食べられなくなりますね。
昼も夜もお餅にしたのですが、例年と違って、全く飽きませんでした。)
この後、komuroさん提供のUSB−DACを使って音楽を聴く予定ですし、本日の、有料会員に係る出入りチェックはK.Kさん作成のソフトを活用して行いました。
まさに、熱心な読者の皆さんによって自分は生かされている、という気持ちに浸った元旦でした。
先ほどは、365日営業の最寄りのスーパーに行ってきたのですが、数の子と栗きんとん・・きんとんの方はおせちにもちょっぴり入っていたが今度のは結構な分量・・が半額で出ていたので買ってきました。
明日、数の子を食べ、栗きんとんを大量に頬張れば、一層正月らしくなりそうです。
太田述正ブログは移転しました 。
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