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太田述正コラム#8126(2015.12.31)
<二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その9)>(2016.4.16公開)
「ソ連参戦と満州問題の結末を知る現代のわれわれから見れば、なぜ戦争末期に満蒙開拓団を送出したのか、死に追いやるようなむごい行いをしたのかと、素朴な疑問が生じる。
しかし、当時の人たちの感覚からすれば、渡満は一つの選択肢だった。
満州には空襲もなければ、本土決戦の不安もなかった。
日ソ中立条約があり、無敵の関東軍がいる。
そんな安全神話を信じ切っていた。
戦争末期には、空襲で家屋を失った戦災者たちが、戦禍を逃れたい一心から満蒙開拓団として日本海を渡る例もあった。・・・
戦前は、満州と日本を陸続きのように捉える人も多かった。
大陸へ渡る連絡船があり、朝鮮半島を北上して満州を目指す鉄道があった。
満州は日本の生命線であると同時に、絶対に安全な疎開地だと受けとめられた。
団員の証言を見る限り、「自分たちは選ばれた者であって、棄民であるとは微塵も感じていなかった」との声が圧倒的に多い。
実際、満州から家族に宛てた手紙には、空襲の心配もなく、食料が豊富にあるという、明るい文面が目立つ。・・・
そして、もう一つ、見失ってはならない視点がある。
満州の入植地は、地方にとって海外の出先機関のような存在であり、いわば「飛び地」だった。
地方が築いてきた満州の「利権」をそう簡単には手放したくはない。
国だけがこだわってきた満州を、地方自治体もこだわるようになっていた。
だからこそ、本土空襲の最中であっても満蒙開拓団の送出を淡々と続けた。
1945年8月8日深夜、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。
新鋭の戦車や飛行機を誇る精鋭約157万以上の大軍が砂塵を巻き上げ、怒涛のごとく満州に押し寄せた。・・・
ソ連軍に対して、関東軍は明らかに劣勢だった。
精鋭の大半が南方戦線に割かれ、戦線の維持さえ危うい。
関東軍は敗戦間際まで、18歳から45歳まで、18歳までの在満日本人男子約25万人を現地招集し、なりふり構わず軍隊の体裁を保とうとした。
急ごしらえの兵士たちに武器さえ行き渡らず、木銃や竹槍で武装する部隊さえあった。
いわゆる、この「根こそぎ動員」が、のちのシベリア抑留へつながっていく。
その多くが満蒙開拓団の男性で占められ、戦後長きにわたって、軍人とは名ばかりの人たちが多大な犠牲を払った。
⇒ソ連が行ったシベリア抑留は明白な国際法違反であり、それについて、日本政府にいかなる責任もありません。
先ほど、二松はソ連の中立条約違反を咎めたというのに、首尾一貫しないこと夥しい、と言うべきでしょう。(太田)
関東軍は、表向き徹底抗戦を唱えつつ、8月10日頃には疎開のための専用列車を仕立て、関東軍や満鉄社員の家族を対象とした避難を始めている。
続いて11日、関東軍は官吏家族の避難を指示する一方で、「一般市民は準備に手間どり発車に間に合わぬので、輸送力の関係上集結の早い軍人軍属の家族から先に輸送した」(『満州国史』)という、もはや軍ではなかった。
弁明の余地なき日本史上最大の汚点ではないかと筆者は思う。・・・」(132、138、146〜147)
⇒不意打ちを喰らい、しかも、抵抗するにも避難するのにも資源が圧倒的に不足していた以上、抵抗を二の次にし、避難を優先し、避難にあたっては、鉄道沿線の都市や軍事拠点所在の非軍人たる日本人が優先されたのはやむを得なかった、と言うべきでしょう。
一体、二松はどうすべきだったと言うのでしょうか。
なお、関東軍は軍隊であって、本来、非軍人たる日本人を保護する責任はありません。
(外国人たる)日本人であれ、満人であれ、民間防衛(非軍人の有事における保護)の任にあるのは満州国政府であり、その中でも日本人の保護に関しては、同政府を実質的に牛耳っていた日本人官僚達の責任が、筋論としては問われるべきである、と私は思います。
この後、二松は、ソ連軍による、非軍人たる日本人に対する虐殺、強姦等を延々と描き、これについても、日本政府を非難していますが、これまた、ソ連による明々白々たる国際法違反行為であり、同じく国際法違反行為であるところの、原爆投下による広島、長崎の惨禍について、米国を非難せず日本政府を非難するのと同様の戦後日本人特有の倒錯である、と言うべきでしょう。
それにしても、中共当局の、この悲劇に対する姿勢・・あえて言えば、反ソ親日姿勢・・には瞠目させるものがあります。
下掲では、もっぱら、周恩来に言及がなされていますが、全て、毛沢東の指示ないし了解の下で周が行ったことであろう、というのが私の認識です。↓
「<中共>東北地区方正(ほうまさ)地区には、ソ連軍の満州進駐、日本の敗戦によって、満州の奥地から多くの開拓民が避難してきて、ここで数千人もの人が虐殺された。当時総理だった総理周恩来の指示によって、これらの犠牲者を弔うために<中共>方正県政府に指示し「方正地区日本人公墓」を作らせた。そして、あの文化大革命の時にこの「日本人公墓」も破壊されそうになったが、周恩来の「彼らも日本軍国主義の犠牲者であり、破壊してはならぬ」との指示と、地元住民の努力で破壊されずに済んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5
(続く)
<二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その9)>(2016.4.16公開)
「ソ連参戦と満州問題の結末を知る現代のわれわれから見れば、なぜ戦争末期に満蒙開拓団を送出したのか、死に追いやるようなむごい行いをしたのかと、素朴な疑問が生じる。
しかし、当時の人たちの感覚からすれば、渡満は一つの選択肢だった。
満州には空襲もなければ、本土決戦の不安もなかった。
日ソ中立条約があり、無敵の関東軍がいる。
そんな安全神話を信じ切っていた。
戦争末期には、空襲で家屋を失った戦災者たちが、戦禍を逃れたい一心から満蒙開拓団として日本海を渡る例もあった。・・・
戦前は、満州と日本を陸続きのように捉える人も多かった。
大陸へ渡る連絡船があり、朝鮮半島を北上して満州を目指す鉄道があった。
満州は日本の生命線であると同時に、絶対に安全な疎開地だと受けとめられた。
団員の証言を見る限り、「自分たちは選ばれた者であって、棄民であるとは微塵も感じていなかった」との声が圧倒的に多い。
実際、満州から家族に宛てた手紙には、空襲の心配もなく、食料が豊富にあるという、明るい文面が目立つ。・・・
そして、もう一つ、見失ってはならない視点がある。
満州の入植地は、地方にとって海外の出先機関のような存在であり、いわば「飛び地」だった。
地方が築いてきた満州の「利権」をそう簡単には手放したくはない。
国だけがこだわってきた満州を、地方自治体もこだわるようになっていた。
だからこそ、本土空襲の最中であっても満蒙開拓団の送出を淡々と続けた。
1945年8月8日深夜、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。
新鋭の戦車や飛行機を誇る精鋭約157万以上の大軍が砂塵を巻き上げ、怒涛のごとく満州に押し寄せた。・・・
ソ連軍に対して、関東軍は明らかに劣勢だった。
精鋭の大半が南方戦線に割かれ、戦線の維持さえ危うい。
関東軍は敗戦間際まで、18歳から45歳まで、18歳までの在満日本人男子約25万人を現地招集し、なりふり構わず軍隊の体裁を保とうとした。
急ごしらえの兵士たちに武器さえ行き渡らず、木銃や竹槍で武装する部隊さえあった。
いわゆる、この「根こそぎ動員」が、のちのシベリア抑留へつながっていく。
その多くが満蒙開拓団の男性で占められ、戦後長きにわたって、軍人とは名ばかりの人たちが多大な犠牲を払った。
⇒ソ連が行ったシベリア抑留は明白な国際法違反であり、それについて、日本政府にいかなる責任もありません。
先ほど、二松はソ連の中立条約違反を咎めたというのに、首尾一貫しないこと夥しい、と言うべきでしょう。(太田)
関東軍は、表向き徹底抗戦を唱えつつ、8月10日頃には疎開のための専用列車を仕立て、関東軍や満鉄社員の家族を対象とした避難を始めている。
続いて11日、関東軍は官吏家族の避難を指示する一方で、「一般市民は準備に手間どり発車に間に合わぬので、輸送力の関係上集結の早い軍人軍属の家族から先に輸送した」(『満州国史』)という、もはや軍ではなかった。
弁明の余地なき日本史上最大の汚点ではないかと筆者は思う。・・・」(132、138、146〜147)
⇒不意打ちを喰らい、しかも、抵抗するにも避難するのにも資源が圧倒的に不足していた以上、抵抗を二の次にし、避難を優先し、避難にあたっては、鉄道沿線の都市や軍事拠点所在の非軍人たる日本人が優先されたのはやむを得なかった、と言うべきでしょう。
一体、二松はどうすべきだったと言うのでしょうか。
なお、関東軍は軍隊であって、本来、非軍人たる日本人を保護する責任はありません。
(外国人たる)日本人であれ、満人であれ、民間防衛(非軍人の有事における保護)の任にあるのは満州国政府であり、その中でも日本人の保護に関しては、同政府を実質的に牛耳っていた日本人官僚達の責任が、筋論としては問われるべきである、と私は思います。
この後、二松は、ソ連軍による、非軍人たる日本人に対する虐殺、強姦等を延々と描き、これについても、日本政府を非難していますが、これまた、ソ連による明々白々たる国際法違反行為であり、同じく国際法違反行為であるところの、原爆投下による広島、長崎の惨禍について、米国を非難せず日本政府を非難するのと同様の戦後日本人特有の倒錯である、と言うべきでしょう。
それにしても、中共当局の、この悲劇に対する姿勢・・あえて言えば、反ソ親日姿勢・・には瞠目させるものがあります。
下掲では、もっぱら、周恩来に言及がなされていますが、全て、毛沢東の指示ないし了解の下で周が行ったことであろう、というのが私の認識です。↓
「<中共>東北地区方正(ほうまさ)地区には、ソ連軍の満州進駐、日本の敗戦によって、満州の奥地から多くの開拓民が避難してきて、ここで数千人もの人が虐殺された。当時総理だった総理周恩来の指示によって、これらの犠牲者を弔うために<中共>方正県政府に指示し「方正地区日本人公墓」を作らせた。そして、あの文化大革命の時にこの「日本人公墓」も破壊されそうになったが、周恩来の「彼らも日本軍国主義の犠牲者であり、破壊してはならぬ」との指示と、地元住民の努力で破壊されずに済んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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